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Søren Overgaard 連続講演会(2015 年 3 月 28 & 30 日)
What is Phenomenology: On metaphilosophy, perception, and other minds.
講演要旨
Lecture 1:現象学とは何か (What is Phenomenology?) 一人称的観点から生きられたままの経験の記述に中心的な役割を与えるアプローチは、現
象学的なアプローチである。それゆえ、哲学だけでなく、精神医学、心理学、社会学など、
さまざまな研究分野に現象学的アプローチがあるのは不思議ではない。しかし、この講演
、、、
では哲学的現象学に焦点を当てる。とくに、フッサールの「エポケー」という方法論的な
概念に注目する。エポケーについては、これまでも現在でも広く誤解がなされている。分
析哲学の伝統に属する哲学者(e.g. Burge 2010)だけでなく、現象学者(e.g. Alweiss 2013)も
また、エポケーは私たちの経験からその経験に内在する一定の想定をどうにかして「浄化」
するはずだ、と想定する。私は、これがエポケーの意義ではありえないことを主張する。
また、フッサールの研究の鍵となる部分の読解に基づいて、エポケーについての積極的な
解釈も提示したい。エポケーの本当の意義を把握することは現象学が何であるかをより明
確に理解するのに役立つだろう。 参考文献 Alweiss, L. (2013). ‘Beyond Existence and Non-­‐‑Existence’. International Journal of Philosophical Studies 21: 448-­‐‑469. Burge, T. (2010). Origins of Objectivity. Oxford: Clarendon Press. 主催:科研費補助金研究「知のエコロジカル・ターン:人間的環境回復のための生態学的現象学」(基盤
(A)研究課題番号 24242001、研究代表者:河野哲也) Lecture 2:本当の幻覚 (Real Hallucinations) 哲学者は、幻覚について書くとき、ほとんどの場合、本物の真正な知覚と主観的には区別
不可能な経験を念頭に置いている。つまり、それを経験したり、それについて反省したり
するだけでは、本物の真正な知覚との区別がつかないような経験である。だが、実際のと
ころ、現実の幻覚の多くは本物の知覚と主観的に区別可能なようである。とはいえ、何ら
かの重要な意味で知覚に似ているのでなければ、ある経験を幻覚と認めることはできない
ことも明らかに思われる。ある著者の言葉を借りるならば、幻覚には「真正な知覚と似て
いるために十分な現実感覚」(David 2004: 110)がなければならない。この講演で問いたいの
は「現実感覚」についての正しい説明はどのようなものでなければならないだろうか、と
いう問題である。哲学者たちは「完璧な」幻覚に集中してきたため、概して、この問題に
あまり注目してこなかった。重要な例外はファーカス(Farkas 2013)である。私は、ファーカ
スの理論に基づきながら、それに修正を加えた理論を提案したい。ファーカスの提案には
二つの解釈を行うことができる。一つの解釈にしたがうと、ファーカスの提案するものは、
真正な知覚に類似した現実感覚にとって必要でも十分でもないことになる。もう一つの解
釈にしたがうと、ファーカスの指摘するものは、必要ではあるが十分ではない要素である
ことになる。ファーカスの理論からは、私が「revelatory non-­‐‑neutrality」と呼ぶ要素が抜
け落ちているように思われる。 参考文献 David, A. A. (2004). The cognitive neuropsychiatry of verbal hallucinations: An overview. Cognitive Neuropsychiatry 9: 107-­‐‑123. Farkas, K. (2013). A sense of reality. In F. Macpherson & D. Platchias (eds.), Hallucination: Philosophy and psychology. Cambridge, MA: MIT Press, pp. 399-­‐‑415. 主催:科研費補助金研究「知のエコロジカル・ターン:人間的環境回復のための生態学的現象学」(基盤
(A)研究課題番号 24242001、研究代表者:河野哲也) Lecture 3: 知覚と他者の心 (Perception and Other Minds) 他者の心についての知覚説によると、私たちは「ときに他の人々の心的生活の諸側面を見
て、それによって、それについての非推論的知識をえる」(McNeil 2012b, 573)ことができる。
しかし、知覚説が妥当であるためには心的状態について(そして、視知覚について)どの
ように考える必要があるかという点については、この理論を擁護する論者のあいだでも意
見が分かれている。ドレツキ(Dretske 1973)は、他者の心的状態がそれ自体として知覚可能
でなくても、それについての知覚的で非推論的な知識をえることはできる、と主張する。
しかし、最近の一連の論文において、W・マクニール(McNeil 2012a, 2012b) は、他者の心
的状態は知覚可能でないとすると、それについては推論的知識しかえられないはずだと主
張している。この講演では、マクニールの議論を要約したのちに、メルロ=ポンティ
(Merleau-­‐‑Ponty 2012)にインスピレーションをえた見方を素描する。一部の心的状態(とく
に情動)は身体的なので知覚可能である、という見方である。この見方を素描したのち、
マクニール(McNeil 2012b)による反論への応答をおこなう。 参考文献 Dretske, F. (1973). Perception and other minds. Noûs 7: 34-­‐‑44 McNeill, W. E. S. (2012a).On Seeing that Someone Is Angry, European Journal of Philosophy 20: 575–597. McNeill. W. E. S. (2012b). Embodiment and the perceptual hypothesis. The Philosophical Quarterly 62: 569–591. Merleau-­‐‑Ponty, M. (2012). Phenomenology of Perception, trans. D. Landes. London: Routledge. 主催:科研費補助金研究「知のエコロジカル・ターン:人間的環境回復のための生態学的現象学」(基盤
(A)研究課題番号 24242001、研究代表者:河野哲也)