退任教職員からのメッセージ

退任教職員からのメッセージ
確かな指導力をもつ教員の養成を
平成9年10月に二度目の赴任ということで、本学に籍を置くことになりました。前回と重ねると、31年半の長きになりま
す。東北大学工学部の坂を登り切ると車窓に映る大東岳の雄姿は、
時間を越えて優しく迎えてくれました。初冬から春
先にかけての雪をまとったたおやかな白き峰は、
言葉を奪うほどの存在感をもって迫ってくるのでした。
当初は不規則な勤務となりました。学習指導要領改訂の仕事を担当していたことから、
当座、
併任ということになり、
月、
火、
水曜日は文部省で仕事をし、
その夜の最終の新幹線で仙台に帰り、
木、
金曜日は大学の講義や学生等の指導
を行うという日々でした。
国語教育講座 教授
相澤 秀夫
(あいざわ ひでお)
その後も、
翌年4月からは文部省海外子女教育専門官を委嘱(併任)
され、
五大陸の日本人学校等にもかかわるこ
とになりました。
当時は、
「氷河期」
といわれ、
本学の教員採用数もごく少数でした。教員志望の学生からの要望で論作文の添削指
導や模擬授業の助言指導をしたことも、
夜遅くまで教室で繰り返し模擬授業をする学生の姿とともに懐かしく思いおこ
されます。
また、
大教室での、
百人を越える学生の一斉読の迫力や集中を切らさず学びひたる姿もよみがえります。
仕事柄、
全国の学校等に伺う機会が少なくありません。沖縄の石垣島でも北海道でも、
そして海外の日本人学校で
も、
卒業生が子どもの教育に真摯に向き合う姿を見てきました。本学が確かな指導力を育む教員養成大学として発展
されますことを期待しています。
おう じ ぼうぼう
ぼ けい
うち
往事茫茫 暮景の中
むかし給料が手渡しだったころ、会計に行ったら
「授業料はあっち」
と学生に間違えられた。
あれから36年。今や講
義が終わって階段を上ると息切れがして足がよれる。
はるばる来たものだ。学内で4回も引越しをした。
5号館から小野
四平教授の26合研を引継いで2号館3階へ。
2号館の耐震工事でグランドわきの松林の下のプレハブへ。工事が終
わって国際文化共研へ戻り、
生涯教育課程廃止で5号館へ。
そしていま最後の引越しが待っている。
それぞれの窓か
らの眺めがなつかしい。新緑の山々、
雪のキャンパス。
国語教育講座 教授
島森 哲男
(しまもり てつお)
専門は漢文学だが、多くの先生方とのお付き合いから、
また専門以外の授業や卒論指導の必要上、
さまざまなこと
に首を突っ込んできた。学生に混じってほかの先生方の授業を受けたり、
刺激を受け、
あるいは必要に迫られて読むは
ずのない本を読んだり、
突然アジア映画に凝ったり。宮教大ならではの広がりを楽しんだ。夏休み、
『 大漢和辞典』全13
巻を分担して運び、海辺の松林の家で合宿して、昼は漢籍を読み夜は酒を飲んだ。漢文を学ぶ学生たちはむかしか
ら今まで
(一癖ある)好漢才媛ばかりで、彼らに巡り合えたのは一生の幸せ。
あの松林も家も津波で流されて今はな
い。往事茫茫暮景中、
帰去故林独養真。
先輩の先生方から若い先生方まで、
お世話になりました。学生諸君、
雷を落としてばかりでごめん。共に奮闘した事
務のみなさん、
ありがとうございました。
みなさんの平安とますますの発展をお祈りします。再見。
微力ながら...
1983年に赴任した宮城教育大学理科教育研究室はあこがれの職でした。
1968年に大学に入り理科教育研究を志
すようになった頃、
日本の理科教育界は活気にあふれ、
多くの若手研究者が新しい学問分野に夢を抱きました。
東京工
業大学・和光大学の田中實、
東京学芸大学の真船和夫、
宮城教育大学の高橋金三郎
(1945-1980年在職)
、
国立教
育研究所の板倉聖宣の研究に接して、
これからは、
「科学技術と基礎科学の研究」
と同じように「教育現場の研修・研
究と理科教育の基礎研究」が連携する時代がくるだろうと期待できたからです。
高橋の連載「理科教育はなぜだめか」
(『(教育科学)
理科教育』1980-1982年24回連載)
は衝撃でした。
高橋は、
授業を
「見」て教授学を提案したのですが、
理科教育講座 教授
永田 英治
(ながた えいじ)
授業者や他の人がまったく気づかない、
新しい提案を裏付ける
「証拠」
を授業の中に見つけるのです。
どうしたら高橋
のように「見る」
ことができるようになるか、
という問題は、
理科教育の学習・研究、
教員研修にとって切実な大問題です。
「授業を数多く見て技を磨く」
といった類いのことではありません。
同連載3回目で、
教育実習にむかった宮教大生への
指導に触れます。
教科書にある <アサガオの花汁をしぼり、
それに酢や灰汁をまぜて汁の色を変化させる> 教材は、
赤
や青い色に変化せずに失敗すると教えた。
純粋な酸やアルカリの溶液を用意して、
それに少しずつアサガオの汁を入れ
ろと。
しかし学生は、
教科書どおりに授業を進め、
せめてもの工夫に「すを入れたときと、
あくじるをいれたときでは色が違
う」
とまとめたというのです。
すでに一人前の教師なのです。
この3月に宮教大を退職しても、
私の教育研究は卒業できそ
うにありません。
上のようなまじめで勉強熱心な学生を変えるほどの研究・教育がまだ提出できていないからです。
あおばわかば
4
青葉山の思い出から
振り返ると様々な自然災害に遭遇した大学生活でした。1978年、
実験室にいて宮城県沖地震に遭遇しました。窓枠
がひし形に見えるように1号館が揺れ、実験機器を入れたラックが倒れるなどがあって恐怖を感じました。1980年12月
24日、
仙台市周辺はクリスマス豪雪と呼ばれる大雪に見舞われました。多くの電力鉄塔の先端が折れ曲がり、
イブの仙
台市内は大停電となりました。1986年8月、
仙台で200年に一度と言われるような大雨が降りました。仙台空港に停めて
おいた私の車は水没してしまい、
買い換える羽目になってしまいました。2011年3月11日、
東日本大震災に見舞われまし
た。宮城県沖地震の後、
必ず次の大地震があると警告されていたので、
それなりに対策をしていた積りでしたが、
何の
技術教育講座 教授
小野 元久
(おの もとひさ)
役にも立ちませんでした。
おもえば40年も前の本学のキャンパスは、
植樹された樹木も情けなく、
新築の校舎だけが目立つ景色でしたが、
キジ
の鳴き声が聞こえ、
自然の中にいることを実感していました。最近の大学周辺では木々が生い茂り、
ワンダラーな熊が
出没して熊注意報の発令が頻発しています。
これは自然がさらに豊かになったのではなく、
自然破壊の一つの現れで
はないかと思っています。
今さらですが、
自然の脅威の中では人間の力は非力であることを認識し、
安全で豊かな生活を送って行くためのす
べを真剣に考えなければいけないと気付かされました。
戦後20年。
昭和40年。
昭和90年。
宮城教育大学は1965年に創設された。昭和40年である。戦争に敗れて20年たった。教育には「もの」が残らない。
もっとも重要なのは教育の事実を創り出すことである。
そこから教育の研究も、
教員養成も成立する。
けれども、
戦後の
わずか20年のあいだに事実は作られていたのだろうか。唯一といっていいものが斎藤喜博の島小学校であった。
昭和
27年から38年の11年間だ。
つかの間の戦後をうめるのに十分な長さ。
それを待っていたかのように宮城教育大学が
生まれる。
そして運命のようにして昭和49年、
斎藤は宮城教育大学にやってくる。結果からいうと、
宮城教育大学は島
小の事実を取り込んでいる。
教育臨床研究センター 教授
本間 明信
(ほんま あきのぶ)
それから数えて40年、
大学ができて50年がたった。戦後20年に倍する以上の時がたって、
事実は創り出されたのだ
ろうか。事実の蓄積はすすんだのだろうか。
1976年からだから38年勤めたことになる。
この作業に参加したことは一生の幸福である。
その作業によって宮城教
育大学はリスペクトされ続けてきた。今後もされるだろう。
もう訪れることもないかもしれないそんな時間を宮城教育大学
で過ごせた運命には、
どんなに感謝しても足りない、
と今思っている。
ありがたし。
ありがたし。
気概をもって
震災直後の1月間ほどの記憶が曖昧です。
ただ、
今やることは何かを必死に考えて実行していたような気がします。
長い職業人生であまりなかった意気衝天のときが、
こんな場面であったことを悲しく感じています。
ただ、
教育復興支援
センターで活動する教職員や学生の皆さんの意欲ある姿が、
この4年間の教育復興の歩みの価値を示しており、
自身
の癒やしにもなっています。
宮教大に採用された40数年前、
教職員は若い人が多く、
たくさんの樹木も背が低く、
創立間もない大学で、
学生さん
も含め皆一体となって大学作りに熱中し、
「気概」
をもって仕事に、
勉学に、
余暇に取り組んでいたと記憶しています。
あ
学長室長/事務局次長
研究・連携推進課長
芳賀 茂
(はが しげる)
れから40年余り、
度重なる定員削減により、
少数精鋭で高齢化社会の最先端を自負し、
植林した「ケヤキ」や「とち」の
木は大木(老木?)
となり、
校舎も貫禄がつき、
様々なところで「繕え」、
「補え」
という悲鳴が聞こえています。
しかし、
学舎
を照らす40年前の西日と同じく、教職員の協働意識の強さなど良きものを沢山残してきている宮教大です。大学(教
育)
を取り巻く厳しい状況に、
「教育」に対する
「気概」
を忘れずにこれからも立ち向かっていただき、
子どもたちや地域
の方々から
「尊敬・信頼される教員」
を沢山育てていく大学であることを願っています。
最後に、
大学生活の大半を宮教大で過ごさせていただきました。
お世話になった沢山の方々に感謝申し上げます。
5 AOBA - WAKABA