牛久高校 学びのたより 第157号 2015.03.05(木) 土浦八景 地歴公民科 松井泰寿 八景とは、ある地域における八つの優れた風景を選び、評価する様式で、中国の北宋で選 ばれた瀟湘八景がモデルとなりました。瀟湘(しょうしょう)とは中国の湖南省を流れる二つ の河、瀟水(しょうすい)と湘水(しょうすい)に基づく地名で、これらが合流して洞庭湖とい う大きな湖にそそぐ地域をこう呼んでいます。この瀟湘の地は、中国有数の景勝地として名 高く、古くからさまざまな神話や伝説が育まれ、数多くの詩人や画家たちが訪れてきました。 そうした画家の一人であった宋廸(そうてき 11世紀後半頃~没年不詳)が描いた瀟湘八景図 が瀟湘八景のはじまりと言われています。宋廸の八景図は現存していませんが、彼が描いた 景観(けいかん 景色)は次のようなものでした。 「瀟湘夜雨しょうしょうやう」:瀟湘の上に、しとしと降る夜の雨の風景 「平沙落雁へいさらくがん」 :秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景 「烟寺晩鐘えんじばんしょう」:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞きながら夜を迎えるさま 「山市晴嵐さんしせいらん」 :山里のにぎわい 「江天暮雪こうてんぼせつ」 :日暮れの河の上に雪が降りしきるさま 「漁村夕照ぎょそんせきしょう」:夕焼けに染まるのどかな漁村の光景 「洞庭秋月どうていしゅうげつ」:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月 「遠浦帰帆えんぽきはん」 :帆かけ舟が夕暮れどきに遠方より戻ってくる風景 一般に名所を描く場合には、その中心となる山水や寺社といった特定の場所や建築物を表 すことが多いのですが、宋廸は四季や晴雨などの気象、昼や夜などの時刻の違いを強く意識 して選んでいます。どこにでも見られる風景ですが、いずれも心にしみ入る風情あるものば かりで、宋廸は瀟湘地方の豊かな自然を表すことを意図したようです。この瀟湘八景の影響 を受けて、台湾、朝鮮、日本など東アジア各地でも「夜雨」「落雁」「晩鐘」「晴嵐」「暮 雪」「夕照」「秋月」「帰帆」をテーマにした八景が選定されてきました。 日本へも鎌倉時代から室町時代にかけて牧谿や玉澗などの瀟湘八景図がもたらされ、日本 絵画に大きな影響を与えました。狩野派などにより「瀟湘八景」が好んで描かれたほか、自 国の風景にも関心が高まり、瀟湘八景の内容を踏まえて日本各地でも八景が選定されてきま した。一番有名なのが16世紀に定められた「近江八景」で、「唐崎夜雨(唐崎神社)」・ 「堅田落雁(浮御堂)」・「三井晩鐘(三井寺=園城寺)」・「粟津晴嵐(粟津原)」・ 「比良暮雪(比良山系)」・「瀬田夕照(瀬田の唐橋)」・「石山秋月(石山寺)」・「矢 橋帰帆(矢橋)」の八景が選ばれています。江戸後期の浮世絵師歌川広重によって描かれた 錦絵による名所絵(浮世絵風景画)「近江八景」は、彼の代表作の一つであり、かつ、近江 八景の代表作となっています。名所絵揃物の大作である「東海道五十三次」が成功を収めた 後を受けて、1834(天保5)年頃、版元保永堂によって刊行されています。この近江八景が 手本となって、18世紀から19世紀にかけて日本各地で「八景」が選ばれていきました。 「土浦八景」も江戸時代に「瀟湘八景」や「近江八景」をもとに選ばれていますが、1857 (安政4)年、内田野帆(1781~1855)の3回忌に門人たちによって編纂された追善句集 「草久さ集」には「土浦八景」と野帆の詠んだ「土浦八景」の句が掲載されています。 「鷲宮夜雨」 寝こころや神楽のあとの雨の音(東崎町鷲宮神社) 「下田落雁」 雁落る音に雁たつ下田かな (下田町、土浦一中以北および以西の地域、当時は田圃や湿地帯でした) 「神龍寺晩鐘」寒き夜のひとちからなり鐘の音(文京町 神龍寺) 「桜橋晴嵐」 魚さばく声から晴てきりの朝 (中央 保立食堂前、水戸街道の橋、名前がバス停名として残っています) 「北門暮雪」 降暮し雪やともかく関の前(城北町 常陽病院付近に北門がありました) 「銭亀夕照」 ゆふたちや日の暮直す橋の反(大町 桜川、水戸街道の橋である銭亀橋) 「霞浦秋月」 是とても春は霞むか浦の月(霞ヶ浦) 「川口帰帆」 帰る帆に向かふて出すや涼み舟(川口町、現在のモール505付近の川口河岸) いずれも切れ味のよい作風で当時の土浦の風物を詠み、幾つかある「土浦八景」の句(地 理学者の沼尻墨遷や神龍寺の大寅和尚なども土浦八景の句を詠んでいます)の中でも、出色 のもので、野帆の代表作となっています。 ※国立環境研究所の調査によれば、2006.4.1現在、日本全国で1101の八景が見いだされ、茨 城県の八景は81カ所にのぼっています(群馬県に次いで全国2位)
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