筑後川総合開発と 完成後30年を経た筑後大堰 連 載 第3回 ちく ご おお ぜき ∼筑後川のめぐみに感謝して∼ 筑後川水道三企業団協議会顧問 恒 吉 徹 4−3 建設に当たっての問題解決 4−3−(2)事業実施計画認可直後、福岡県漁 ら、工事内容、取水量、一定の流量に達しない場合 連から異議。 「流下量問題」勃発 の不特定用水確保の三点について説明があった。 事業実施計画認可直後の昭和 52 年11月、福岡県 具体的には、川の栄養塩がせき止められないよう 有明海漁業協同組合連合会(以下「○○県漁連」)が に大堰(ゲート)を下開きの構造にする。ノリ期間 福岡県に対して事業実施計画の同意に抗議しました。 の冬場に流量が足りないときは上流の松原ダム・ 下 筌ダムから放流し、2,500 万 m3/s をこれに充て 通省)九州地方建設局技術管理官の帆足建八氏は、 るという内容だった。しかし、一般組合員が最も気 『佐賀県が同意したあとで福岡県漁連が県から話を にしているのは流量、振興資金の額、それに今後の 聞いていないと言い出された。あわてて漁連に駆 開発への不安ですよ』 (筆者要約)と漁業者側の懸 けつけたが、そのときは、いま建設省、水資源開発 念を述べています。 公団から話を聞く段階ではないと断られた。 』と話 ①この時点の大きな争点 しています(昭和 53 年 7 月 2 日読売新聞特集記事 昭和 53 年 2 月からは、福岡、佐賀両県漁連が合同 「合意の流れに 筑後川」 ・筆者要約) 。また、昭和 53 役員会で意見交換する体制となっていますが、この 年 7 月 23 日の同新聞同特集記事で当時福岡県漁連 時点の主要な争点は、 「筑後大堰流下量 45m3/s 以上」 会長の亀崎政雄氏(故人)は、 『福岡県が既に同意し を漁連が主張しているのに対して、建設省・水公団 ていることは寝耳に水だったので調べたら、公団 は、筑後大堰直下での 40m3/s 以上の流下量確保は、 に対して水産業に影響を与えないように配慮する 全く目処が立たず想定できないとして、 「流下量問題 なら開発してもよいと回答していることが分かっ は時間がかかるので本体工事と並行して検討する。 」 た。 』 (筆者要約)と話しています。 との主張を繰り返します。 生じたと考えられます。 ②昭和 53 年 3 月 31 日、筑後大堰本体工事契約 筑後大堰本体及び関連工事で直接影響を受ける漁 昭和 52 年 11 月 30 日以降、建設省、水公団、福 業組合(福岡県側 3 漁協、佐賀県側 1 漁協)との協議 岡県は事態解決のために、福岡、佐賀両県漁連に は順調に進み、また、取水の影響を受ける福岡、佐賀 対して連日精力的に協議を重ねることになりま 両県漁連傘下の下流内水面漁協も昭和 53 年 3 月半 す。昭和 53 年 2 月〜 54 年 4 月に行われている協 ばには、大部分が「着工同意」の意向を示しました。 議には、漁連の組合員が 100 名 150 名と出席され この状況の中で、理解が得られていない一部の組合 ており、膝詰めでの協議であったことを思い描か も説得は長くはかからないと判断した水公団は、昭 せます。 和 53 年 3 月 31 日、筑後大堰本体工事を契約します。 先の亀崎政雄氏(故人)は、読売新聞「合意の流 ● し も う け この時の状況について、当時建設省(現国土交 つまり、調整段階で、お互いの理解に食い違いが 10 れに 筑後川」の中で、 『建設省、水公団、福岡県か 水とともに 水がささえる豊かな社会 ③「53 福岡大渇水」で世論は「筑後大堰・福岡導水 を急げ」 福岡県漁連と同一歩調で臨むことが大切との姿勢か 同じ時期、福岡市を中心としていわゆる「53福岡大 ら、 「流下量問題が解決するまで筑後川からの流域外 渇水」が始まります。昭和 53 年 5 月20日から給水制 分水はしない。流下量問題の解決を図るため早急に 限が続き、6月1日からは5時間給水19時間断水とな 協議を開始すること。問題解決まで着工を延期する り、完全断水世帯 45,000 世帯など市民生活、産業活 こと」と筑後大堰本体工事の着工条件を整理していき 動に与える影響が深刻化しました。このため、全国か ます。 ら支援を得た給水車の出動、寺内ダムの試験湛水中 の貯留量の使用や、更に堆砂容量部分のデットウォー 4−3−(3)筑後大堰本体工事着工、水公団が ター(ダムの取水口より下に貯まっている水)の活用 漁連と現場で折衝、一時中止 などで急場をしのいでいました。 この間も、福岡県、佐賀県と建設省、水公団は寸 この状況を受け、福岡都市圏では、 「筑後大堰、福 断無く協議を続けています。 岡導水の建設を急げ」との世論が大きくなっていき ます。 この時期(昭和 54 年 2 月) 、建設省、水公団によ る福岡、佐賀両県漁連への説明は、松原ダム・下筌 ダム再開発事業の説明とともに、 「流下量問題は時 間がかかるので工事と並行して検討する。流下量 は着工後 2 年以内に決めたい」と、流下量決定時期 を明示して理解を求めますが、行政側の考えてい る流量と漁連側の主張は一致しませんでした。 ①筑後大堰本体工事着工の判断 筑後大堰本体工事着工当時の判断を、当時水公団 筑後川開発局調査設計課長の職にあった稲垣基夫氏 (故人)は昭和 59 年に行われた「筑後大堰の建設を振 り返って」の座談会で次のように語っています。 寺内ダムの昭和 53 年デッドウオーター取水準備 『そうしているうちにも昭和 53 年 5 月以来の福岡 ④昭和 53 年 8 月、福岡県が水公団に大堰本体工事 大渇水は続いており、世論としては筑後大堰の着工 着工を要請 が大きく取り上げられてきた。そこで流下量問題は 福岡県漁連内の一部組合で理解が進まない中、同 漁連会長は、 「一部の組合がなかなか同意しないが大 着工してから2年以内にまとめようということで、昭 和 54 年 4 月18日に着工したわけです。 』 堰の着工については、もう行政側で判断してくださ 着工直前の行政サイドの主な動きを列記しますと、 い」という内容の委任状を福岡県知事に提出、これ を踏まえて昭和 53 年 8 月、福岡県は水公団に筑後大 古賀市 糸島市 堰本体工事着工を要請しました。 川 良 々 多 御笠川 川 見 室 那珂川 く、佐賀県漁連も呼応 粕屋町 福岡市 志免町 春日市 福岡県漁連では、筑後大堰建設絶対反対を唱える 那珂川町 牛頸浄水場 筑紫野市 江川ダム 基山町 福岡導水 基山分水 基山浄水場 取水口 小郡市 川 満 宝 筑 後 川 寺内ダム 佐田 川 福岡導水管理室 福岡導水揚水機場 小石 原川 筑後大堰 久留米市 が解決しない限り、着工は認められない」との主張 福岡県漁連の動きを注視していましたが、あくまでも 太宰府市 天拝湖 ノリ期の不特定用水を確保すること及び流下量問題 一方、既に着工に理解を示していた佐賀県漁連は、 篠栗町 須恵町 山口調整池 を守る会」が発足したのを契機に、次第に漁連全体 でまとまっていきます。 宇美町 大野城市 組合は一部でしたが、同漁連内部に運動体「有明海 その後、福岡県漁連は、 「大堰の着工のためには、 宗像市 博 多 湾 ⑤福岡県漁連全体が「筑後大堰建設反対」へと動 が「絶対反対」へと傾いていきました。 福津市 新宮町 凡 例 福岡導水路 水道企業団の送水管 合所ダム 給水行政区域 配水池(水道企業団) 佐賀東部水道企業団 基山浄水場 福岡地区水道企業団 牛頸浄水場 大山ダム 福岡導水ルート図 連載 ● 11 4 月16日………福岡県は建設省に、 「事業の緊急性 開発局長もトラックの上に連れてこられ、トラック に鑑み早急に本体工事に着工された の上で話し合いが続いた。夕方には佐賀県の副知事 い」と要請。 も来られ、トラックの上で漁連を説得された。 』 (筆者 4 月16・17日…・福岡、佐賀両県と建設省が、 「流下 量問題の解決は、着工後 2 年以内に 要約)と語っています。 また、当時水公団筑後川開発局長の副島健氏は、筑 行う」と合意。 後川開発局発足 30 周年記念シンポジウムで、 『 (夕刻 ・福岡、佐賀両県と水公団が、 「流下 になっても)流下量について 40㌧ 45㌧で話がつきま 量問題が解決するまで、福岡導水事 せんので、私の責任で「工事を中止します」と言った 業の導水は実施しない」と合意。 うえ、田中会長に一札を入れて解散してもらった。 』 4 月17日………福岡、佐賀両県と水公団が、 「福岡導 水事業の関係者より有明海振興資金 を拠出させる」と合意。 ②昭和 54 年 4 月 18 日早朝、本体工事に着手、そ して一時中止 着工前日の 4 月 17 日、福岡、佐賀両県漁連には、 (筆者要約)と語っています。 佐賀県漁連は「漁連史」で、当日のいきさつを「怒 りを爆発させた漁民」と題して次のように記してい ます。 『昭和 54 年 4 月18 日早朝、筑後川沿いに怒りの声 がこだました。水公団が漁民の反対を押し切り見切 それぞれの県を通じて「本体工事着手」の通知があり り着工したからである。最大の争点だった流下量問 ました。 題にやっと明るさが見えてきたときの見切り着工は、 「佐賀県有明海漁連史」 (以下「漁連史」)は、着工前 漁民の怒りに油を注ぎ全面対決という緊迫した状態 日のことを、 「事態は既に引き戻すことも、立ち止ま をもたらした。怒った漁民たちはクイを次々に引き ることも許されない状態で、漁業者の憤りが爆発し 抜き、公団側との間ににらみ合いが続いた。漁連会長 たわけである。 」と記しています。 から工事中止を求めた。公団側は「大臣命令がある以 当時水公団筑後大堰建設所長の西原恒雄氏(故人) 上、工事の中止は出来ない」と漁民側の要求を拒否、 は、 「筑後大堰の建設を振り返って」の座談会で、 『私 工事続行の姿勢を示した。漁民側は徹夜で現場に座 は朝 7 時には現場に行った。既に約 700 名の漁連の り込み、あくまで工事阻止の強い方針を打ち出した。 方たちが来ており、請負業者が打つ現場立ち入り禁 双方が鋭く対立する中で話し合いが進められ、夜に 止の杭を引き抜いていた。私が現場に着いたら佐賀 入って公団側が、 「混乱を避けるため本体工事を見合 県漁連の会長を先頭に「工事の責任者はだれだ」と問 わせ話し合いがつくまで工事を中止する」との誓約 われたので、 「私だ」と言ったら、そのままトラックの 書を漁連会長に手渡し、工事は中止、延期されること 荷台に引き上げられ(そこが一番安全だった) 、会長 になり騒ぎは解決した。紛争拡大は必至の情勢だっ から 「工事中止の命令をかけろ」 と何度も言われたが、 ただけに、工事中止で流血といった惨事を免れたこ 私は「工事をやれと命令されているから中止するわ とは幸いだった。 』 (筆者要約) 。 けにはいかない」と答え、押し問答が続いた。筑後川 4−3−(4)一時中止後 1 年 9 ヶ月も続く「流 下量問題」協議、そして決着 本体工事一時中止後も協議は間断なく続けられま した。昭和 54 年 8 月には、福岡、佐賀両県漁連が「大 堰直下地点でノリ期は、期間平均毎秒 55㌧、一日平 均毎秒 45㌧を最低とする。 」などの統一要求をまと め建設省との話し合いをもちますが、建設省は「再開 発事業で対応できるのは瀬ノ下地点で毎秒 40㌧が限 度」とし、協議は平行線が続きます。 その後の昭和 54 年 11 月、福岡、佐賀両県と両県 漁連との間で、四者統一案「ノリ期の維持流量は、大 工事現場に座り込み抗議する漁民 (出典:『漁連史』(佐賀県有明海漁業協同組合連合会)) 12 ● 水とともに 水がささえる豊かな社会 堰直下地点で毎秒 40㌧。ノリ期の制限流量は、大堰 直下地点で毎秒 45㌧、例外として域内利水に限り毎 続けられます。 秒 40㌧を認める」等が合意され、建設省・水公団と 昭和 55 年 7 月になり、福岡県、佐賀県から選出さ の協議が続けられます。この四者統一案は、福岡都市 れている代議士が協議に入って頂くことにもなり、 圏への流域外取水の制限流量を毎秒 45㌧として、流 ノリ期大堰直下流量は「日平均毎秒 40㌧」で合意し 域内取水と差をつけるものでした。 ました。 四者統一案は、北部九州水資源開発協議会(略称: そして、この年の 12 月 24 日、両県選出代議士を 北水協)でも議論されましたが、流域外導水を計画し 立会人として、建設省九州地方建設局長、水公団筑後 ていた水源県の大分、熊本両県が難色を示し、建設省 川開発局長、福岡県知事、佐賀県知事、福岡県有明海 も「流域内と流域外に差をつけた河川管理は難しい」 漁連会長、佐賀県有明海漁連会長が押印した「筑後大 として合意には至らず、話し合いは平行線となり、双 堰建設事業に関する基本協定書」が締結され、ここに 方に行き詰まり感が出てきます。 「流下量問題」は決着をみました。 一方、福岡、佐賀両県漁連側からは、流下量問題と 漁業振興策の同時解決が求められていました。 両県漁連側、行政側関係者は、話し合いが行き詰 基本協定書は、付属協定書や確認書などが子細 に「約束」され、筑後川の水資源開発と水運用の基本 ルールがここに合意されました。 まる中、打開の努力を惜しまず、連日のように協議が 「筑後大堰建設事業に関する基本協定書」 筑後川の水資源開発に当たっては、流域優先、水源地域への配慮、既得水利の尊重及び水産業特にノリ漁業へ の配慮を基本として行うが、筑後大堰建設事業の着工に当たり、下記事項を確認し、相互に責任を持って事業の 円滑な推進を図るものとする。 記 1 ノリ期における新規利水の貯留及び取水は、筑後大堰直下地点流量が毎秒 40㌧以下のときは行わないものと する。 2 ノリ期における操作運用による流量は、瀬ノ下地点月平均毎秒 45㌧とする。 ただし、既に水資源開発基本計画(昭和 49 年 7 月 30 日総理府告示)に計上されている毎秒 4㌧の取水は、こ れに含まれる。 3 松原・下筌ダム再開発事業によって得られる容量 2,500 万㌧の水量は、大堰直下の流量が毎秒 40㌧以下になっ た場合の補充に充当するものとし、その操作運用は、この水量を最も効果的に使用するものとする。 また、今後更に不特定用量を確保するよう努める。 4 松原・下筌ダム再開発事業と筑後大堰建設事業は、同時に竣工するものとする。 (以下、略) そして筑後大堰建設工事は、協定締結の翌日、 工事中止から 1 年 9 ヶ月後の昭和 55 年 12 月 25 つちおと 日、再び槌音高くスタートしました。 筑後大堰は、河川内工事に伴う多くの難題を解決 しながら完成し、昭和 60 年 3 月 30 日に施設管理規 程が認可され、4 月 1 日から管理が開始されます。 ま た、筑 後 大 堰 直 下 流 量 確 保 を 担 保 す る、建 設省の松原・下筌ダム再開発事業は、昭和 58 年 10 月 6 日から運用が開始され、水公団事業の福 岡導水の取水が昭和 58 年 11 月 2 日から開始さ れました。 基本協定書の調印式 向って左側佐賀県代表、右側福岡県代表、あいさつする亀井福岡県知事 (次号に続く) 連載 ● 13
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