23巻4号 平成4年3月 ● 表 紙 の タ ンパ ク質 の3次 元 説 明 NMRス ペ ク トル 分子量 が 1万 以下 のタンパ ク質 については、 2次 元 NMR分 光法 によって、水溶液 に おける立体構造 を決定す ることが可 能 になって い る。 ところが、分子量 2万 程度 になる と、 シグ ナルの数 が 多 く、2次 元 NMR分 光法のみで は扱 い されなかった。最近、3次 ● 元 NMR分 光法 によって、 この問題 が解決 され つつ ある。表紙 の図 は、 ヒ トのがん遺 伝子 πsの 作 るタ ンパ ク質 (分 子量約 2万 )に ついて測定 した 3次 元 (lH-15N-lH) 核 オーバ ーハ ウザー効果分 光法 (NOESY― HMQC法 )の スペ ク トル (シ グナル強度 を等 高線表示 )で 、200近 い ア ミノ酸残基 か らの 1000以 上 もの ク ロス ピー クが 3次 元 空間 に分離 して観測 されている。 このスペ ク トルで は、 ペ プチ ド結合 な どの NH基 に ついて、第 1の 軸 でlHの 化学 シフ ト、第 2の 軸 でlHと 共有結合 している15Nの 化学 シフ ト、そ して、第 3軸 でその15Nと 共有結合 しているlHの 化学 シ フ トについて展開 してある。第 1軸 お よび第 3軸 のlH間 の相関 は、核オ ーバ ーハ ウザー効果 によるもの で、 クロス ピークの強度 か ら核間距離 を求 めることがで き、 タ ンパ ク質 の立体構造決定 が 可能 にな る。 なお、浪1定 に用 い たタ ンパ ク質 は、遺伝子 を大腸菌 に組 み込 み、15N の塩化 ア ンモ ニ ウムを与 えて培養 して大量発現 させ 、均一 に15N標 識 した もので あ る。 現在、 さらに第 4の 軸 として13cの 化学 シフ トにつ い て も展 開す る 4次 元 NMR分 光法 も実用 に移 されてお り、分子量 が 3万 を越 えるタ ンパ ク質 について も解析 が可能 にな る と期待 されて い る。 (研 究 ニ ュース参照 ) 横山 ● -3- 茂之 (生 物化学) 理 学部 を去 るにあたって 黒 田 晴 雄 (化 学教室 ) の学生 20名 と旧制度 の最後 の学生 (こ の諸君 は 3年 間化学科 です ごしたので,卒 業 はわれわれ よ り 1年 後 にな り,名 簿 の上で は新制第 2回 生 に分 類 されてい ます)11名 の計 31名 か ら構成 されて い ました。学生数が少な く,ま た,講 義室 や学生 実験室 と研究室が隣接 して い たので,学 部学生の 頃か らい ろい ろな研究 室 に頻 繁 に出入 りして,教 ● 官 や先輩 と接する機会 が多 く,今 とは違 って家族 的な雰囲気があ りました。戦災で家 を失ったまま 私 は 1949年 に新制東京大学 の第 1回 生 として 教室 に住み込んで い た人 の名残 もあ りました。わ 教養学部理科 1類 に入学 しました。当時の総長 は れわれが化 学科 を卒 業 した 1953年 は,世 の 中が 南原先生 で教養学部長 は矢内原先生で した。早 い 大変不景気な上 に新制 と旧制 の両方が一緒 に卒業 もので,そ れか らすで に 43年 の年月 が経過 した したので大変 な就職難 で,就 職試験 を落 ちる人が こ とにな ります。 1951年 に教養学部 か ら理 学部 続 出 しました。売 り手市場の最近の就職状況 とは 化学科 に進学 しましたが,そ の当時の化 学教室 の 隔世 の感があ ります。そのような事情 も影響 して 建物 は現在 の「 化学 旧館」 (大 正 5年 に建設 )と 同級生 にはアカデ ミックな コース を進 んだ人 の割 「新館 Jと 呼 ばれた部分 (こ の部分 は 7号 館 の建 合 が多 い ようです。 設 の際 に取 り壊 された)と か ら構成 されていまし 化学科 を卒業 して大学院化学系研究科化学専門 た。初 めて化学館 の正面玄 関 に入 った時 に感 じた 課程 に進学 し,物 理化学第二 講座 の赤松秀雄先生 風格 のある雰囲気 と化学教室特有の薬品の臭 い と の研 究室 に配属 にな りました。当時,化 学専門課 が今 で も強 く印象 に残 っています。臭覚 とい うも のは不思議 なもので,化 学科 の学生 として しば ら 程 で は,学 部 の成績 によって定員の半数 は無 試験 ● で残 りの半数 だけ入 学試験 を行 う方式 を とりまし く過 ごす うちに臭 い を全 く感 じな くなって しまい たので,大 学院 の入 試 を受 けないで進学 した こと ました。化学の建物 の玄 関 を入 ると脇 に用務員室 にな ります。新発足 の大 学院なので,+1度 が まだ があ り,講 義時間の区切 りや夕方 に用務員の方が 整 ってお らず全ての ことが試行錯誤 とい う感 じで 大 きな振鈴 を振 りなが ら廊下 を回つて時 を知 らせ した。研究室 に入 って赤松先生か ら頂 いた最初 の てい ました。正面階段 を上がった ところに図書室 研究 テ ーマ は「X線 小角散乱 カメラの製作」 で があ り,ま た,2階 に二つの講義室 が あ りました したが ,ず いぶ ん昔 に木村健 二郎先生が使 われた が,そ の一つ (現 在 の化学旧館 227号 室 )に は化 とい う高圧 トラ ンス を使 って X線 発生 のための 学科 の第 1回 か らの卒業記念写真 が並 べ て掲 げて 高圧電源 を整備 した り,終 戦 の際 に陸軍 の研究所 あ りました。 か ら廃物 として払 い下 げ られ た X線 発生装 置 の 当時の化学科 の学生定員 は 25∼ 27名 であつた 配電盤 を作 り直す ことな とが手始 めの作業 で,大 か と思いますが,わ れわれのクラスは例外 で新制 学 とい うところにはおそろし く古 い ものがあるも -4- のだ と感心 しました。「炭素 の高次構造 Jと い う た。 その少 し前 か ら有機結晶 の構造 。物性 の研究 表題 で学位論文 をまとめましたが,こ の研究 の過 と並 行 して X線 光電子分光法 の研究 を始 め てお 程 で,東 大病院内 に全学共同利用設備 として初 め りましたが,シ ン ク ロ トロン放射 を X線 光源 に て設置 された国産 の初期 の電子顕微鏡やわが国に 用 い たい と強 く思 って い たので,1972年 頃 か ら 初 めて輸入 され理学部鉱物学教室 に設置 されて全 当時工 学部 の教授 であった高良和武先生 (後 に放 国共 同利用 に供 された粉末 X線 自動 回折計 を利 射光実験施設の初代施設長 )に 協力 して「フォ ト 用 育せて頂 いて感激 した ことを記憶 して い ます。 ン・ フ ァク トリー計画」 の実現 に力 を注 ぐことに 旧制度 の学位論文 は印刷公表 された報文 の別刷 り な りました。高良先生や長 く高 エ ネル ギー物理学 を綴 じて出すのが慣習 になっていたようですが 研究所長 を努 め られた西川哲治先生 (紛 争当時 は 新制大学院 の博 士論文 はどのようにす るかが問題 理学部教授 )の 知遇 をえたのは大学紛争の際 であ にな りました。「適 当な形 を工夫 す るように」 と りますので,こ れ は大学紛争 の「よい アー フタ・ い う赤松先生 の ご指示 を受 け,丁 度 その頃 に英国 エ フェク ト」 の一 つ ということがで きましょう。 の大学 で学位 をとって帰国 された方の学位論文 を 放射光実験施設 の建設が 1978年 に始 まってか ら 拝見 して,そ の形式 を参考 にして学位論文 を作 り 6年 間 にわたって高 エ ネ ル ギー物理学研究所 の客 ました。 それが化学専攻 における学位論文 の形式 員部門 の教授 を併任 させて頂 き,ま た,理 学部分 に定着 しました。 光化学 セ ンターのビームライ ンを放射光実験施設 , 大 学 院 を終 わ って か らカ ナ ダ の 国立研 究 所 に建設 させて頂 いて,放 射光分光学の分野 の研究 (NRC)の 博 士研 究員 として 2年 間オ タ フで過 ごして帰国 し,1960年 秋 に理 学部 の助手 に採用 して頂 き,赤 松先生 の研究室 に戻 って,有 機電荷 を推進す る ことが 出来 ましたが, この ことに関連 してお世話 になった多 くの方に感謝 申 し上 げる次 第 です。 移動錯体 の結晶 の物性 や結晶構造 の研究 を始 めま した。助手 を 2年 ,講 師 を 5年 余 つ とめた 後 ● 1988年 春 か ら 3年 間 にわた って 東大 附属図書 館長 の職 を努 めましたが,附 属図書館 に専用電算 , 1968年 に助教授 に就任 しましたが,そ の頃か ら 機 が導入 され,全 国 の大学図書館 と学術情報 セ ン 例 の「大学紛争 Jが 始 まりました。当時評議員 を ター と結 ぶ学術情報 ネ ッ トワークを通 じてオ ンラ 努 めてお られた赤松先生のお手伝 い をして い る内 イ ンロ録共 同作成事業 を軌道 にのせ る作業 の中核 に,い ろい ろな経緯があって総長代行 の加藤 一郎 としての役割 を東大附属図書館 が果たせ るように 先生から「大学改革準備調査会」の委員長を抑せ す ることが重要 な課題であ りました。従来 の大学 つか りました。紛争中 は全 く研究 がで きる状況 で 図書館 には米国 の大学図書館 とい う良 いお手本 が はあ りませんで したので,半 年 ほ どの期間 は調 査 あ りましたが,高 度情報化社会 における大学図書 会の仕事 に没頭 しました。大学紛争 の中で学生達 館 のあるべ き姿 をめ ぐって は世界 中の大学 が暗 中 は連 帯意識 を強 くしたようですが,教 官 に とって 模 索 して い るのが 現状 で す。東 大 の 学 内 LAN も同様で,違 う教室や別 の学部 の先生達 とその時 (UTNET)が 実現 され ましたが,そ れ を通 じた ほど親 しくお付 き合 いがで きた ことはないよ うに 学術情報流通 システム をどのように整備 して行 く 思 い ます。 これ は「 よい面 Jで すが,他 方,東 京 かはこれか らの大 きな課題 だ と思います。附属図 大学 の雰囲気 や社会 的地位 は大学紛争 を境 に大 き 書館長 の職 にある期間,理 学部 における研究・ 教 く変化 し,そ の影響 は今 日にまで及んで い るよう 育 とは違 うい ろいろな問題 を勉強 させて頂 くこと に思います。 がで きました。 その代わ りに,理学部教授会 へ の 1971年 に教授 に昇任 して,赤 松 先生 の後 を受 けて物理化学第二講座 を担当する ことにな りまし -5- 出席頻度 が激減 したことは申 し訳 な く思 ってい ま す。 1975年 に 当時 の学部長 の植村泰 忠先生 の発案 学第 二 講座」 (池 田,鮫 島両先生 の時代 は「化学 で「理学部将来計画委員会」 が設 けられ,そ の委 第 一講座」)も 消滅す ることになるので し ょうが │1飛 行場跡地 へ のキャ 員長 を仰せつか りました。立り 大講座制 へ の改組 は理 学部 の歴史上 かつてない大 ンパ ス移転問題 が議論 されて い た頃で,本 郷 キャ きな変化で あ ります。 , ンパ スにお ける理学部の「成長 の限界」 を理学 部 1950年 代 か ら 60年 代 にか けて,学 生運動や大 1号 館の大幅な増改築 を当時の「本郷 キャ ンパス・ 学紛争の期間,化 学教室 と御殿下 グラウン ドの間 マス タープラン」 の枠 内で定量 した上で,理 学部 の道路 は連 日騒が しいデモの通 り道であ りました。 全体 の立川移転 の可能性 をも含 めて :「 理学院」 ヘ 御殿下記念館 も完成 して,私 の教授室 の窓か ら眺 の改組拡充 を提言 した報告 をまとめました。立川 めるこのあた りの光景か ら「大 学紛争 Jの 面影 が :移 転計画 がい ろい ろな事情 で消滅する とともに 全 く消 え去 ってい ます。 その景色 を眺めなが ら , , 「理学院構想」 は永年棚晒 しのまま埃 を被 って い 大学紛争の時代 に「大学の理念」 をめ ぐって熱 っ ました。 その当時われわれが持 ってい たフィロ ソ ぽ い議論 を闘 わ せ た こ とを思 いだ して い ます。 フ ィー とは大分違 う形で はあ りますが,大 学院の 「新制東京大学」 の第 1回 生 として入 学 し,「 新 「部局化」 がいよいよ実現 され る運 びになった こ 制大学院Jの 39年 の歴史 とともに歩 んで きた も とに深 い感慨 を抱 いてい ます。「大学院 の部局化」 のの一人 として,理 学部 の大 きな変革 ,い わ ば にともなって化学教室 も大講座制 に移行 し,池 田 「 旧新制大学院」が一つの幕 を閉 じる時点 で丁度 (1901-1923),鮫 (1923-1951),赤 松秀雄 先 生 (1951-1971) 退官す ることに不思議 なめ ぐりあわせ を感 じてい 菊苗先生 島実二郎先生 る次第 です。 そ して私 (1971-1992)と 続 いて きた「物理化 黒田晴雄先生 を送 る 田 隅 三 生 (化 学教室 ) 28)年 の新制学部 であるが,旧 制高校 と新制大学 の入試 をたて つづ 第 1回 卒業生 で,新 制大学院博 士課程 を修了 した けに突破 されたのであるか ら,黒 田先生が成績優 最初 のグループのお一人 で もある。 その黒 田先生 秀な学生であった ことを物語 つているといえよう。 の ご経歴 を拝 見 して いて,「 ア レ ッ」 と思 う こと 黒田さん とい う先輩がお られ ることを私 が 印象 にぶつか った。 それ は黒 田先生が満 21才 で学部 づ けられたのは,今 か ら 34年 前 の 1958(昭 和 33) を卒業 されて い ることである。旧制 で は飛び級 が 年 の初 め頃であった。当時,化 学教室 で は学部卒 あった ことはよ く知 られて い るが,純 粋 な新制卒 業予定者及 び大学院修了予定者 のために,卒 業式 業 生 と思われて い る黒田先生 も実 は飛び級 をして よ り少 し前 に予餞会 とい う催 しを行 ってお り,そ お られたのである。 旧制都立第 二 中学校四年修了 の世話役 は学部 3年 生が務 める習わ しになってい で 旧制私立武蔵高校 に入学 され,わ ずか 1年 間在 た。黒 田さんの学年が博± 3年 の とき,私 の学年 学 しただけで,1949(昭 和 24)年 に 17才 で東大 は学部 3年 で私達 3年 生 は予餞会 の準備 をす るう 教養学部理科 I類 に入学 されて い る。 これ は新 旧 ちに,博 士課程修了予定者の誰 かにス ピーチ を頼 制度 の切 り替 えに伴 う特別措置 によるもの との 由 もうとい うことになった。当時の化学教室 はまだ 黒 田晴雄先生 は 1953(昭 和 -6- ● 規模 が小 さ く,大 学院学生 と学部学 生 とは今 より て面 白かったので,私 は余計 な ことにまで手 を出 も親密で,お 互 いにある程度知 っていた。黒 田さ そ うとして「 そ こまで はしな くていいよJと 言わ ん と大学院同級 の下沢隆 さん (現 埼 玉大学理学部 れた記憶 が ある。今 で も毎年 5,6月 頃 に行わ れ 教授 )は とくに学部学生 の面倒 をよ く見 て くれて て い る学部 4年 生 に対す る研究室紹介 は,当 時 は いたので,私 達 はまず下沢 さんに 自羽 の矢 を立て 助手 か大学院上級生 が行 つてお り,赤 松研究室 の た。数人 で頼 み に行 った ところ,下 沢 さん曰 く 紹介 は黒田さんが された。歯切 れのよい分 か りや 「ボクは適任 じゃな い よ。 そうい う ことは赤松研 す い話 であつた。 そのせ いか どうか は定 かでない の黒 田か,島 村研 の櫻井 に頼 む とい い。彼等 はボ が,同 級生 26名 の うち 5名 が 赤松研 で卒業研究 クらのなかの学 の聖 だか ら。」 わ らなかった。 をしたが,私 自身 はそのなかにはカロ 「学 の聖Jと は耳慣 れない言 い方 であったが 私 は元々水 島研究室志望 であった。 , ピンとくるものがあった。 とい うのは,そ れ よ り olgttII[絶戦 ‡ 層 番 [資 易 l [唇支 皇 秀 凩 彙 て い て,黒 田 さんの炭 素 (カ ー ボ ンブ ラ ック)の でな く,他 の諸 々 の問題 について も,ご 自身 の意 見 を良 い タイ ミングをとらえて独特 の論理構成 で 展開 され る。内容的には常 に物事 の本筋 を押 えて X線 小 角 散 乱 に 関 す る研 究 発 表 が 印 象 に残 っ て い た か らて あ る。 OHPは もち ろん ス ライ ドす ら 話 をされ る。 これ は黒田先生 の特技 とい って もよ なか った時代 で あ るか ら,何 枚 もの模造 紙 にマ ジ ッ お られ るため,黒 田先生 はい ろい ろな任務 を経験 クイ ン キ (あ るい は まだ墨汁 で あ ったか も しれ な されたなかで,委 員長や座長等 を務 め られ る こと い)で 丁寧 に描 かれ た 図 ,表 ,式 を使 つて の発 表 が 多 か つた。学 内 で は,東 大紛争 の最 中 の 1969 で あ った。内容 を理解 で きたわ けで はなか ったが いであろう。 このよ うな特技 と風格 を兼ね備 えて (昭 和 , 44)年 1月 か ら 1年 間大学改革準備調査 なにか し ら迫力 のあ る話 ぶ り と学 者 らしい風格 は 会委員長 の重 責 を担われたが,こ の とき黒 田先生 印象深 い ものが あ った。 当時 は学部 男子学 生 はま はまだ 30才 台後半 の助教授 であった。理学部 に だ全 員学 生服 に身 を固 めて い たが ,大 学 院学生 と とって重 要 で あ ったの は,1975(昭 和 くに上 級生 は背 広姿 で あ り,風 体 か らして格段 の 月か ら 1年 間理学部将来計画委員会委員長 を務 め 差 が あ つた。 られ,1976(昭 和 50)年 4 51)年 3月 に「理 学部将来計 画委員会報告書 ,第 1部 (長 期 的な将来計画), 業績報 告会 の会 場 は化 学 旧館 南側 2階 西端 (化 ● 黒 田先生 は研究 に関す る話 の仕方が上 手 なだけ 学本館 に一番近 い ところ)に あった旧 200号 講義 第 2部 (当 面 の措置 につ いて)Jを とりまとめ ら 室で,そ の薄暗 く天丼の高 い古風 な造 り,演 壇 で れた ことで ある。 この報告書 は,そ れ よりもさら やや前 かがみに話 をしてお られ る新進気鋭 の黒 田 に 12年 前 の 1964(昭 和 39)年 3月 に小 谷正雄現 さん,次 々 と質問 を発 せ られ る先生方の後姿等 々 名誉教授 を委員長 とする理 学部将来計画委員会が が懐 か し く私 の脳裏 に浮 んで くるのである。東大 出 した報告書 とともに,1990(平 成 2)年 4月 に 紛争 よ り 10年 も前 の古 き良 き時代 であった。 ち 理学部が公表 した「理学総合大学院計画 (理 学院 なみに,前 記 の「島村研 の櫻井」 とは現東北大学 計画)」 の礎石 とな った。現在進行 中 の大 学院 重 理学部長櫻井英樹教授 のことである。 点化 は,こ れ らの長期 にわたる努力 の積 み重ねに 黒 田さんは,博 士課程 を修了 されてか ら半年間 よって可能 となった ことを忘れて はな らない。 ま 研究生 をされたのち,カ ナダの NRCに 2年 間留 た,黒 田先 生 は,1981(昭 和 56)年 4月 か ら 6 学 された。研究 生の ころ,学 部学生実験 の面倒 も 年間 にわたって分光化学 セ ンター長 として,同 セ 見 てお られ,私 は粉末 X線 回折 の実験 でお世話 ンターの高 エ ネル ギー物理学研 究所放 射光実験施 になった。新 しい 自記式回折計 を使 ったせ い もあっ 設 における研究活動 の展開 を推進 された。さらに -7- , 東京大学図書行政商議会委員長 (1986年 4月 ― を 利 用 し て の X線 分 光 す な わ ち EXAFS, 1988年 3月 )及 び 東京大学 附属 図書館長 (1988 XANESの 測定 とその理論解析 に進 んでいった。 年 4月 -1991年 3月 )と して東大 ばか りでな く また,こ れ らの手法 を表面解析 に応用す ることも 全国国立大学 を対象 とす る図書館行政 に貢献 され 行われた。黒田先生 が発展 に尽力 されたこれ らの た ことは私達 の記憶 に新 しい。 研究分野 で は,今 後 も世界 中で活発 な研 究が 展開 学外 においては,日 本学術会議会員 を 2期 されて ゆ くであ ろう。X線 分光 に関す る国 際会 (11, 12期 )務 め られ たほか,高 エ ネ ル ギ ー物理学研 議が黒田先生 を組織委員長 として今夏神戸 で開催 究所放射光実験施設 には設置計画の推進段階か ら の予定 と聞 く。 関係 され,放 射光 実験施設 委員会委員長 (1978 黒 田先生 は愛煙家 だが,左 党 とはいえない よう -1982年 3月 ),同 施 設 協 議 会 副 議 長 (1982年 4月 ―現在 ),高 エ ネル ギー物理学研 究 である。 しか し,研 究室 の コンパ のテー マ ソング 所運 営協議会副会長 (1990年 6月 ―現在 )と し に対 してかつて は厳 しかった ときもあったが ,最 て活躍 して こられた。 また,科 学技術庁 の大型放 近 はむ しろや さしい先生 だそうである。趣味 は室 射光施設計画 について も同施設整備連絡協議会座 内楽鑑賞 とドライブで, ドライブで は若 い者 そこ のけのス ピー ドを出 され るが,無 事故 。無違反 を 年 3月 長 として参画 された。 研究面 において黒田先生 は,大 学院学生時代 の は黒 田節で,皆 と肩 を組 んで歌 われ る。研究室員 誇 ってお られ る。凝 り性 で新 しい ものず きの面 を カーボンブラックの構造 に関す る研究 に始 ま り もってお られて,ワ ープロが世 の中 に現 れた とき 赤松研究室以来 のお家芸 となった有機電荷移動錯 い ち早 くご自分で打 ってお られた ことは周知 の と 体 の構造 と電子構造 の研究 を深 め られた。その過 ころである。 お好 きなテ レビ番組 は推理 ドラマ仕 程 で,二 つの方向へ の発展 があった。第一 の方向 立ての歴史物で,梅 原猛氏 の著作 な どにも興味 を は,有 機電荷移動錯体 の電子構造 を単結 晶 の反射 スペ ク トル の精密演l定 にもとづいて論 じるもので お持 ちである。小 さい頃 か ら発明家 か科学者志望 あ り,第 二 の方向 は,こ の問題 を内殻電子 を通 じ の こと。 , ● , てみるものであった。後者 は黒田先生 が教授 に就 任 されてか ら推進 された もので,測 定手段 として で,一 番食 い はぐれのなさそうな化学 を選 んだ と 黒 田先生の益 々の ご活躍 とご健康 を祈 る次第で ある。 まず X線 光電子分光 が とりあげ られ,次 に SOR ● -8- 研究 を始めた頃 高 橋 景 ― (動 物学教室 ) 表面 の微小な領域 に薬物 を作用 させて効果 を調 べ るとい うもので した。 この研究 は,今 か ら考 える と,大 発見 につなが る可能性 を秘 めて いたのです が,私 の力量不足か ら不発 に終わ りました。当時 の研究室 は,今 か らは想像 もで きない ほど物質的 に貧 しく,装 置 らしい ものを新 し く購入す ること な ど,殆 どあ りませんで した。ガラスのシャー ン (ペ トリ皿 )や フラス コさえ貴重品 で した。実験 用 の増幅器 や刺激装置 はもちろんの こと,ガ ラス 新制理学部 生物学科 を卒業 し,新 制最初 の大 学 ピペ ッ トや T字 管 ,試 験管 の ような もの までガ 院生 として,木 下治雄先生 の御指導 の下 に研究 を ラス細 工で 自作 す るのが当た り前 で,研 究室 の新 始 めたの は 1953年 ,21才 の時で した。現在 の基 入生 は,ガ ラス細 工や金工 の講習 を受 けるのが一 準 か らす ると 1年 早 いのですが,こ れ は戦後の学 種 の しきた りで した。金工 は 2号 館 に当時 あった 制改革 による過渡的 な現象で,旧 制高等学校 の在 共通 の金工室で,技 官 の方の指導 を受 けました。 学生 は 1年 修了 で大学 を受験す る ことになった こ ガラス細 工の指導 は専門のガラス職人 に依頼 した とによ ります。 その結果,旧 制 の 7年 制高等学校 こともあ りましたが,多 くの場合 は木下先生 が 自 く3 ら指導 して下 さった ものです。私が実験 に使 う こ 年間 の高等科 で一貫教育 を行 う)に 在学 して い た とがで きた唯一の既製品 らしい ものは,古 色蒼然 私 たち は,17才 の春 に大学入試 を受 ける羽 目 に とした水平顕微鏡 1台 で したが, これ とて生物用 なったわ けです。尋常科 の 4年 の終わ り近 くに の もので はな く,か つて簡便 な電流計 として用 い 担任 か ら「君たちは来年大学 を受験するのです よJ といわれた ときには,あ と 3年 高等学校 生活 をエ られ た ことの ある毛細管電気計 rometer,垂 直 に立 てた毛細 管中 で硫酸 に接 して ンジ ョイす るつ もりで したので本当 にびっ くりし い る水銀 のメニ スカスが電流 によって上下す るの ました。 この ようなわ けで,駒 場時代 か ら数 える を水平顕微鏡 で読 み とる)用 の もので,性 能的 に と 43年 間 も東京大学 に在籍 し,文 字通 り人生 の は虫メガネ と大 して変わ らない代物 で した。 この 大半 を ここで過 ごした ことにな ります。 ような ことは私 ばか りでな く,周 囲 もみな同様 で (中 学 にあたる 4年 間 の尋 常科 と,そ れ に続 , (capillary elect‐ 私 が木下先 生の講座 を志望 した理 由 は,細 胞 の した。私 と一 緒 に本下門下 となった Y君 (現 在 興奮現象 や運動性 の機構 を生物物理学的 に解明 し てい くことに魅力 を感 じてい たか らですが,い か 京大教授 )に 与 えられたテーマ は,繊 毛運動の力 学的研究 で したが,彼 は,そ のために使 うマ イク にも動物生理学 のプ リンス といった先生 の風貌 と ロマニ ピュレータ を板 バ ネ とネジを利用 して自作 お人柄 にひかれた ことも事実です。先生か ら初 め す ることか ら始 めなければな りませんで した。大 ていただいたテー マ は,カ エル の筋肉か ら 1個 の 抵 の ものはお金 さえ出せば手 に入 る現在 で は,こ 細胞 (単 一筋繊維 )を 生 きたまま取 り出し,そ の のような ことは馬鹿 げた苦労のように思われ るか -9- もしれ ませ ん。 しか し,当 時 は,そ れ を決 して 果 は 1960年 に 日本動物学会 の発行 す る欧文 誌 に 「苦労」 とは感 じませんで した。 む しろそれ は研 発表 しました。 その当時 は,外 国 のジャーナルに 究 の大切 な一部 であ り,楽 しい ことで もあ りまし 投稿 する とい うことは,私 たちの周囲で は殆 どな た。 そして実験装置 を手作 りで組 立 て,改 良 を加 かったのです。 しか し,幸 いに, この論文 はす ぐ えなが ら研究 を進 めた経験 は,そ の後 の私 の研究 に欧米 の研究者 に知 られ,1960年 の秋 か ら 2年 生活で大 きな力 となったよ うに思われ ます。何 よ 間 にわたって,外 国へ行 った ときには,お かげで りも,一 見不可能 と思われ ることで も,そ の殆 ど 何人 もの人 と旧知 の仲 のように接す る ことがで き は創意工 夫 と努力 によって解決で きるのだとい う ました。中で も感激 したのは,比 較 生理学 の大家 実験生物学者 としての大 きな 自信 を得 ることがで である Prosser教 授 をイ リノイ大学 にお訪 ね した きました。講座 の中で は,私 は決 して手先 が器用 ときの ことで す。研究室 を訪問 してか ら,お 宅 に な方で はあ りませんで したが,後 にイギ リスで研 招 かれ夕食 を御馳走 になったので すが,食 後 ,た , 究生活 を送 った ときには,テ クニ シア ンに依頼す また ま話 が 私 の研 究 の ことに及 ぶ と,「 そ うだ れば 2週 間 はかか るような装置 も,私 が一 晩で 自 いい ものを見 せて あげましょう」 と言 って,私 を 作 して しまうので感心 された ものです。 もとをた 車 に乗 せ,夜 道 を ドライブして再 び研究室 に連れ だせば貧乏性 のなせ る業 ですか ら,あ まり自慢 に ていかれ ました。 そこで見 せていた だい たのは はな りませんが,研 究 の能率 が上が った ことは事 学部 の講 義 用によく整理 されたスライ ドで したが 実です。 その中 に私 の論文 か ら とった ものが数枚入 ってい カエル の単 一筋繊維の実験が うま くいか なかっ , , , たのです。まだ駆 け出 しの無名の研究者 にとって , たので,博 士課程 に進 んでか らは,ム ラサキイガ それ は本当 に光栄な ことのように思 えました。 ま イ とい う海産 の二枚貝の筋 肉を用 いて,い わゆる た,初 対面 の一介 の新人 に過 ぎない私 を,こ のよ 「 キャッチ収縮」 の研究 を始 めました。 これが うにして激励 して下 さる Prosser先 生 に,本 当 の 私 と三崎 の臨海実験所 との本格的なつ き合 い のは 国際的指導者 の姿 を見たように思 い ました。翌 日 じまりで,そ れか ら今 日まで,私 の研究 は殆 ど三 は,ロ ン ドン大学で行 ったウエ の神経系の研究 に 崎 で採集 された海産無脊椎動物 を材 料 として行 わ ついてセ ミナーをさせていただぃた のですが,紹 れて い ます。「 キャ ッチ収縮 Jと は,貝 殻 を閉 じ 介 して下 さった Prosser先 生 は,私 のキャッチ収 る筋肉な どが長時間 にわたって,エ ネル ギー を殆 縮 についての研究 に言及 し,特 に, このよ うな研 ど消費 せず に収縮 し続 ける,興 味深 い現象 で,そ 究 が,高 価 な装 置 を使わずに,シ ンプル な実験 に の機構 に関す る研究 は最近 かな り進 み ましたが よって行われた ことは学 ぶべ きです と強調 され ま , , 当時 は本質的な ことは何 もわかって い ませんで し した。学ぶべ きか どうか は別 として,本 当 にこの た。私 は,こ の現象 を神経制御 の面か ら調 べ れば 仕事 は道具 らしい もの といえば,古 い カイモグラ 何 か手掛 か りが得 られると考 えて実験 を進 めまし フ (煤 をつ けた ドラムが時計仕掛 けで定速 回転す た。その結果 ,こ の筋肉が 2種 類 の神経繊維 によっ る記録装 置 )だ けを使 って行 った もので した。夏 て支配 されていることが明 らかにな りました。一 の夜 ,三 崎 の実験所 の暗 い廊下 にしゃがんで灯油 つ は,収 縮 を起 こさせ る働 きをもつ ものですが のランプを使 って ドラムに煤 をつ けて い ると,園 , もう一 つ は収縮 を抑制す ることな く,弛 緩 だけを 勝磨先生 か ら「高橋君 ,お 盆 のようだねえ」 と声 引 き起 こす働 きをもつ もので,こ のよ うな働 きを をかけられた りしました。廊下のその場所が,風 持 つ神経 の存在 はそれ まで知 られて い ませ んで し が来 な くて ドラムに均等 に煤 をつ けるのに適 して た。 この研究で学位 をい ただ き い たのです。暑 いので開けておいた窓 か ら大 きな (そ れ以前 に博 士 課程 中退 で助手 に採用 されてい ました),研 究結 -10- ● 蛾が飛び込 んで きて,カ イモ グ ラ フにぶつか り , ● 折角 とつたばか りの記録 を消 して しまった こと も もす ると創意工夫の大切 さや楽 しさが見失われ が あ りました。当時すでに筋肉の収縮 の記録 にカイ ちにな るように思 うのは私 だけて しょうか。 モ グラフな どを使 うのは時代遅れで, トラ ンス デ 理学部 での 41年 間 には,大 学紛争 とい う大事 ューサやオシロス コープ を使わなければ,精 密 な 件 をはじめ として,い ろい ろな出来事 が あ りまし 実験 はで きな い と信 じて い る人が多かったのです た。全学的な ことで,私 にとって印象 に残 るのは , いう 林総長 の時代 に学寮委員会 の委 員長 を 2期 連続 し 外音 「 か らの力 に応 じてグ リッドが動 くようになっ てつ とめた ことと,平 野総長の時代 に広報委員長 た特殊 な真空管 を使 うのが流行 して い ました)。 をつ とめた ことな どです。 これ らは,普 段 は知 る しか し,私 の実験 の 目的 にはカイモ グラフで十分 ことので きない大学 のいろいろな側面 に触れる こ で した。 とがで きて,貴 重な経験 とな りました。 また,他 (筋 肉の収縮 を記録するには,RCA 5734と , 私 が研究 を始 めた 1950年 代 の様子 は,お よそ の学部 の多 くの先生方 と接する機会 がで きたこと このよ うな もので した。約 2年 間 の海外 での生活 も,こ のような仕事 をさせて いただい た ことのメ を終 えて帰国 した頃か ら,日 に見 えて 日本 は豊か リッ トで した。 しか し,何 といって も,思 い出 に にな り,研 究室 にもさまざまな設備 が入 るように 残 るのは,研 究生活 を通 して触れ合 う ことので き な りま した。 1962年 頃 には,そ れ まで高根 の花 た,恩 師,先 輩 ,友 人 ,学 生諸君の ことです。 こ だった高性能 のオ シロス コープや電 子顕微鏡 も自 れ らの方々 に,ま た,事 務官 の方々 をはじめ,直 由 に使 えるようになってい ました。 現在 で は,さ 接間接 にお世話 になったす べ ての方 に心か らお礼 らに多 くの高価 な実験装置 が,研 究室 の中 に所狭 申 し上 げます。 しと並ぶ ようになって い ますが,そ の中で,や や 高橋景―先生 の こ と 真行寺 千佳 子 (動 物学教室 ) 高橋景 一 先生 は,昭 和 28年 に新制大学 の最初 先生 の講義 はわか りやす く,難 しい内容 で も先生 の卒業生 として理 学部生物学科動物学課程 を御卒 の説明 を聴 くととて もよ く理解で きました。他 の 業 にな られ ました。大学院で は,木 下治雄先生 の 学科 に進学 した友人たちの中にも先生 の授業 のファ もとで,単 一 筋繊維 の研究 をされたのが研究者 と ンが 多数 お りました。 しての第 一 歩 だ った とうかが ってい ます。昭 和 先生 が ご担当 になる第一講座 に,大 学院 の学 生 35年 ∼ 37年 ,ロ ン ド として進学 しました とき,先 生 は講義がお上手 だ ン大学特別研究員 )と な られ,昭 和 43年 理学部 とい うだ けで はな く,研 究者・ 教育者 として のい 助教授 ,昭 和 48年 か らは教授 として動物生理学 くつ もの資質 をお持 ちなのだ ということに気 づ き の研 究 と教育 に御尽力下 さい ました。 また,昭 和 ました。 その一 つ は,わ か りやす い文章 をお書 き (併 任 )を になる ことです。文学的 とい うよりは論理的で美 31年 動物学教室助手 (昭 和 63年 か らは理学部 附属臨海 実験所長 しく,温 かみに満ち た文章 をお書 きにな ります。 務 めて い らっ しゃい ます。 私 は,駒 場 で行 われ た (2年 生第 4学 期 の)細 これは日本語 だけでな く,英 語 でお書 きになる文 胞生理学 の授業 で先生 の講義 を初 めて受 けました。 章 もや は りそうなのです。英語 に関 しては,先 生 -11- の実 力 は日本人 よ りも英米人 の間 で よ く知 られて た。例 えば,3で は,先 生 は棘皮動物 の神経 か ら い ます。 Natureな どに投稿 した論文 も,先 生 に 世界で最初 に活動電位 を記録 し,棘 皮動物 という 見 てい ただい た英語 は殆 ど全 く修 正 され ませんで した。細 胞 生 物 学 の権 威 で あ るハ ワイ 大 学 の 重要な動物門 の神経生理学 の基礎 を築 かれ ました。 また,ウ エ の棘 の基部か ら,硬 さの変わる結合組 Gibbons教 授 は,「 高橋先生 の英文 は,こ れ まで 織 に会 った 日本人 の中で最 もす ば らしく,特 に “a" 組織性緊張 は,棘 皮動物 に広 く見 られる重要な現 と“ the"の 使 い方 は,ほ ぼ完璧 ですJと おっしゃっ 象 で あ る こ とが 明 らか とな りま した。 1で は て い ました。先生 は,今 で も毎 日欠 か さず英語 の ATPの 電気泳動的投与 とい う手法 を細胞運動 の 勉強 をなさってい るとの こと。 そあ実力 を決 して 研究 に初 めて用 いて,鞭 毛の屈 曲が,鞭 毛の中の 自慢 なさらず,し か も文章 を書 く時 にはす らす ら 微小管同志の滑 り運動 によって生 じることを実験 とで はな く,精 根 を傾 けて とりくまれ る先生の後 的 に初 めて示 し,微 小管滑 り説 とい う重要な考 え ろ姿 に,私 達 ももっ と努力 しなければいけない と の確立 に貢献 され ました。研究室で は,先 生のア 反省 するばか りです。 イデ ィア と御指導 の下 に次 々 とすば らしい研究 が , (キ ャッチ結合組織 )を 発見 し,後 にこの結合 , 先生 の もう一 つの特徴 は,「 メカ好 きJで す。 生 まれ ました。例 えば,微 小ガラス針 のたわみを 生理学 の研 究室 には,さ まざまな器械 が添れて い 利用 して,微 小管の滑 り運動の際にダイニ ン分子 て故障 も絶 えませんが,故 障が助手 の手 にはおえ の出す力 (1分 子 あた り約 ない とわか ると「見 てあげまし ょうJと 言 って う研究 は,筋 肉を含めた細胞運動のメカノケ ミス , 緊急 の仕事 があって も (│)す lpN)を 測定す るとい トリーの研究の発展 を促 しました。 ぐに修理 に取 り掛 か って下 さい ます。修理 だけでな く,実 験装置 を これほ ど広 い範囲 の研究分野 をつ ぎつ ぎと開拓 作 る際 の工作 も大 変 お好 きで,几 帳面 に作図をな する ことは,普 通の ことではあ りません。先生 は さ り,材 料 をそろえて,周 囲 を汚す ことな く作 り 新 しい ものを好 み,現 状維持 を嫌 い ます。豊かな 上 げて しまわれ ます。 この ところ,雑 用 に追われ アイデ ィアをお持 ちになる先生 に とっては,何 十 工作 をなさる時間な どな く,先 生が楽 しそうに工 年 も同 じ研 究 を続 けるのは耐 えられないのか も知 作 されて い る御様子 を拝 見す る ことがで きな くて れ ません。生物界 には興味深 い現象 が無尽蔵 にあ とて も残念です。 しか し,先 生の工作好 きはご指 りますが,そ のほんの一部 にしか 出会 えないのは 導 を受 けた者 にも受 け継がれ,そ れが い くつ もの 実 に残念です。最近 になって,先 生が広 い分野 に 独創的な研究 に結び付 きました。 わたる研究 を手掛 けられたのは,単 に御 自身 の興 , 先 生 は, これ までに大 きく分 けて主に次の 4つ 味 のみ を追求 されたか らではない とい う ことがわ の分野の研究 を手掛 けて こられたように思 い ます。 か りました。先生 は,御 自分 の暖めて こられたア 1細 胞運動 (鞭 毛・ 繊毛運動 の機構 ,繊 毛運動 の 制御 機 構 ,微 小 管 滑 り運 動 の 機 構 ),2筋 収 縮 (平 滑筋 の収縮機構 ,平 滑筋収縮 の制御機構 ), 3.棘 皮動物生理学 (棘 皮動物神経生理学 ,結 合組 織性 緊張 の機構 ,多 孔体 の機構 ),4.宇 宙 。重力 イディアを弟子の研究 テー マ とし,弟 子がその分 野 で独 り立 ちで きることを見届 けると,次 の新 し い分野 へ と開拓 を始 め られ,新 たな研究テーマ を 考えられたので した。新 しい分野でテーマ を考 え , 指導 をす るのは並大抵 の苦労で はなかったに違 い 生物学 (原 生生物 の重 力刺激受容機構 )。 歴史的 あ りませんが,先 生 は,こ の努力 を長 年続 けられ には,2-3-1-4の ました。 その結果,上 記のそれぞれの分野で一流 1買 │ に始め られたのですが , どの研究 も現在 まで継続 して行われ ています。 い の仕事ので きる研究者が巣立 つことにな りました。 ずれの分野 において も,先 生 の御研究 はその分野 棘皮動物 の研究者 の間で は,先 生 は棘皮動物学者 の発展 に結び付 くパ イオ ニ ア的で重要な研究 で し として しか知 られて い ません し,細 胞生物学 の分 ―-12-― ● 野 で は,先 生 は鞭 毛・ 繊毛運 動 の権 威 と考 え られ にな ってか ら, この言葉 の持 つ 重 み を再認 識 し ま て い ます。 先生 は常 に控 え 目で,御 自身 の こ とを した。先 生 は,音 楽・ 演濠1・ オペ ラ・ 美術 ・・ ・ 語 る こ とが お好 きで な い ため,先 生 が この よ うな と広 い趣 味 をお持 ちです 。音楽 はクラ シ ック (特 広 い視 野 と経験 をお持 ちで あ る こ とを知 る人 は限 にバ ッハ を初 め とす る宗 教 音楽 )だ けでな く,ロ ッ られ て い ます。 クな ど もお聴 きにな る との こ とで す。 美術 は,古 先生 は,い くつ もの要職 に就 かれ て い ます。 私 典 か ら現 代 まで の広 い知識 をお持 ちですが ,中 で が 存 じ上 げ て い る だ けで も,日 本 学 術 会 議 第 15 も抽 象画 が お好 きな よ うです。 また,仕 事 に も関 期会 員 ,日 本比 較 生理 生化 学会会 長 ,日 本 宇宙 生 係 す るので趣 味 とはい えな いのか も知 れ ませ んが 物 科 学 会 副 会 長 , 日本 生 物 教 育 学 会 副 会 長 , パ ソコ ン Royal Society C) Philosophical Transactions: か なか った頃 か らの マ ックユ ーザ ー )と 自動車 が Biological Sceiences ヾ。」ournal of Experimen― (ま , だ東大 に マ ッキ ン トッシ ュが 2台 し お好 きです 。 tal Biologyな ど 5つ の 国際学術雑 誌 の編 集委 員 。 新 しい こ とを好 まれ ,現 状 維持 を嫌 われ る先生 これ だ けのお仕事 を こな され るの は とて も大変 な が研 究 室 で長 年続 け られ た ことが 2つ あ りました。 こ とか と思 い ます が ,先 生 は科学教育 の分 野 で も それ は,ロ ン ドン仕 込 み の「 午 後 の teaJと 「 掃 活躍 され て い ます。好奇 心 の旺盛 な先生 は,海 外 除」 です 。大 学 院 に入 ります と,講 座 の先輩 が か ら数 々 の教 育 関係 の書物 を取 り寄 せ て は研 究 を イギ リス流 お い しい紅 茶 の入 れ方 を指 導 して下 さ な さ り,イ ギ リスや アメ リカ との 国際協 力 に よる い ま した。 Teaの 時 間 に は,話 題 提 供 を しな け 科学教 育研 究 の メ ンバ ー として も活 躍 され てい ま れ ばな りませ ん。 これ は慣 れ る まで に時 間 が か か す。先 生 の科学教育 にお け る造詣 の深 さ は,文 部 りま したが ,後 にな って この時 の訓 練 が 外 国人 と 省 の学習 指導 要領 の作成委 員 として の活 動 や動 物 の交 流 の 際 に とて も役 立 ち ま した。「 掃 除 は,汚 学課 程 の学部 実習 の指 導 の在 り方 の 中 に も生 か さ れ た か らす るので な く汚 さな い た め にす るJと い れ て きま した。先生 は,常 に学 ぶ者 の立場 に立 っ う こ とを学 んだ の も大学 院 の時 です 。先生 は,研 た指導 を考 えて い らっ しゃい ます。先生 の講 義 が 究 のみ な らず さ まざ まな面 で 常 に教 育 的 で あ り わか りやす い の も このた めで し ょうか。先 生 の下 気 づか ない 間 に多 くの ことをご指 導下 さい ました。 で学 生 の指導 に あた る機会 を得 た ことは,私 に とっ , , 先 生 は, この数 年大変 ご多忙 で い らっ しゃ い ま した。 要職 の 方 は,こ の 3月 まで とい うわ けで は て貴 重 な経験 とな りま した。 先 生 は,「 研 究 の虫」 で はあ りませ ん。研 究 だ あ りませ んが ,ご 退 官後 は,少 しで もお時 間 が で けで は,人 間 的 に成長 で きな い,研 究 はで きれ ば きて さ らに新 しい分野 を拓 く研 究 をお始 め になれ 早朝 か ら夕方 まで に して,夜 や休 日は趣 味 や 他 の るよ うに とお 祈 り致 してお ります。 高橋 先生 ,本 勉 強 をす るよ うに, とい うのが大 学院 に入 った と 当 にあ りが とうござい ました。 いつ まで もお元 気 きに先生 に い た だ い たお言葉 で した。後 日,国 際 で ,こ れ か らも御 指 導 をお願 い致 します 。 交流 の場 で 多 くの第 一 級 の科 学者 と知 り合 うよ う -13- 三号館 に来 て,ま た去 るとき 酒 井 彦 ― (生 物化学教室 ) ば,1964年 頃 にカ リフォル ニ ア大学 バ ー ク レー 校 で起 っていた Free Speech Movementは おだ やかな もので したので,日 米間 で大学紛争 にこう も際立 った相違 をもた らした ものは何か,ず いぶ ん考 えさせ られた ものです。生物化学科 で は,大 学紛争 が見掛 け上収拾 に向か う頃 に,五 講座 のう ち四講座 の安藤 ,江 上 ,小 倉 ,高 宮の四先生 が同 │ 時 に定年退官 され るとい う困難 な事態があ り,更 に一 年 ほ ど揺 れ動 い てか ら研究教育上の定常状態 理 学部 三 号館 に助 教 授 として 赴 任 した の が が戻 って きました。教室主任 として幾 つかの決断 1967年 9月 16日 ですか ら,数 えてみ る と 24年 を迫 られ ましたが,た ま ころが しでひそかに鍛 え 程前 の ことにな ります。東京都立大学 ,カ リアォ ル ニ ア大学 ,コ ロンビア大学 の各研究室 ,さ らに た体 力 が物 を言 ったようにも思 って い ます。 昭和 6年 生 まれの私共 の大学院学生時代 は,ま は東大 に来 る直前 まで研究生 としてお世話 になっ だ日本国内で行われ る国際会議 が今 ほど多 くない ていた名古屋大学理学部分子生物学施設 も決 して 頃で した し,ま た,四 年 ,五 年以上 の留学経験 を きれ い とは言 えませんで したが,理 学部 三号館 も 積 むの も珍 しくはあ りませんで した。今 で は,基 相 当によごれていて,“ や はり仕事 をする場所だ" 礎科学 の各分野 で 日本 の レベルが著 し く高 ま り と感 じた ことを憶 えて い ます。当時 はそうい うも 国際的 に先導 して い る分野 が増 えて い るので,研 ので した。まだ,江 上不 二雄先生 ,小 倉安之先生 究室間の国際共同研究 も若手 の短期間の交流 で十 , , 高宮篤先 生が ご健在 の頃です。翌年 にはす ぐ三号 分 に事 た りる傾 向が強 まって い ます。 それ は,老 館 の運 営幹事 を押 しつ けられ,同 じ三号館 の住人 朽化 した大 学 の設備 を使 って,努 力 を積 み重ねて である地 球物理学教室 と天文 学教室 の幹事 の方 々 きた日本 の研究者集団 と,以 前 よ りは充実 されつ と知 り合 い,そ の年度 に始 まった三号館 の第四期 つ あるポス ドク制度 増築 工事 で苦労 を共 にしました。 その頃の三号館 制度 )に よる若手研究者 の育成 によるところが大 の前 はまだ広 々 として, ソフ トボー ル の出来 る きい と思 われ ます。 しか し,一 方で は,大 学院の “ 庭 "を 有 してお り,健 康管理 には優 れた環境 で 魅力の無 さが,有 能な人材 を逃 して い る ことも見 あったように思 い ます。 (日 本学術振興会特別研究員 逃 せ ません。 この問題 は米国 の一部 の研究分野 で 東大 に来 て間 もな く,今 で も記憶 に生々 しい大 はかな り深刻 な問題 とな りつつ あるように聞 いて 学紛争が起 り,激 しく巻 き込 まれました。振 り返 っ い ます。米国 の私共 の研究仲間 か ら,日 本 のポス てみると,大 学 における教育 と研究 はどうあるべ ドクが欲 しい 旨の依頼 が頻繁 にきているのは,日 きか自分な りに真剣に考えた時代 で した。本郷 キャ 本人 のポス ドクの レベル の高 さが評 価 されて い る ンパ スの中で行われた何回かの学生同士の衝突 一面 とともに,米 国 のポス ドクの人 口減 と研究能 , その間 に割 って入 る教 官団 の苦悩 と苦渋 に比 べ れ -14- 力 の レベル低下 を物語 ってい るように思われます。 │ 米国ITHを 二 ,三 年前 に退 官 されたP.G.Condriffe ります。明治生 まれの先生方 は,“ 昔 のウッズホー 博 士が一 昨年 の 11月 に来 日し,日 本 の研究室 と ル は家庭 的 で もっ とよかった"と 言われ ますが そこで行われて い る基礎研 究 の内容 についての調 現在で もラ フな月 艮装 の高名 な先生方 と学生 たちが 査 を行 ってい きました。 この二 ,三 年間 に国際的 カフェテ リアで議論 を楽 しんでいる光景 に出 くわ なポス ドクフェロシ ップは急増 して い ますが,米 します。分野 と年齢が異 な り,様 々な発想 の入 り 国のポス ドクが この制度 をあまり活用 して い ない 混 じる集団 は,理 学部 な らで はと思 い ます し,若 傾向があ ります。 これ は,米 国 のジャー ナ リス ト い学生 が分野 の異な った先生方 とも自由 に話合 い による日本 の研究機関の紹介 に比 べ て,日 本 のサ が もてる場 を大学が提供で きれば,そ れ以上の教 イエ ンスその ものの紹介 が少ない ことに一 因があ 育効果 はない と常 々思 ってい ます。その意 味 で も りそ うです。 その ような討論 の中で Condriffe博 理学部 の各学科 が一 つの建物 に集合す るのは重要 士 も,米 国 の人材 が企 業 に流れす ぎ,大 学院 に優 です。 , , 秀 な学 生が残 らない傾向を認 めて い ました。 日本 さて,こ れ までの研究課題 について一 言述 べ さ の理 系の大学院 で は,ま だ米国 ほ どではないに し ても,こ れか ら東京大学が大学院重点大学 として せて もらい ます。長 年,卵 細胞 を眺め,そ の細胞 分裂 のメカニ ズムに思 い を巡 らして来 ました。一 国内のみならず国際的 に若手研究者 の育成 を目指 見単純 そうにみえる現象 の中 に,生 物 の何十億年 すな らば,大 学院 をもっと魅力あるものに創 り変 にわたる進化 の道筋 が あ り, とて も二 ,三 十年 の えてゆ く必要が あ ります。 そのためには,国 際的 間 に総合的 に解決 で きる課題 で はあ りません。細 に最先端 の設備 と広 い建物 を備 え,そ れ を支 える 胞周期 が 回るための細胞 内 の連鎖反応 の中か ら取 事務機構 を整備充 実 させ るために人 員 を増 や し り上 げた ご く限 られた反応系について調 べ,そ れ 新たなプ ロジェク トに直 ちに対応出来 る柔軟性 を な りの成果が得 られた ことに満足 して い ます。 そ 付与す る必要があるので はな いで しょうか。第八 れ も,研 究室 の有能 な若手 の努力 によるところが 次定員削減 を更 に大学 に適用す るな ど, とんで も 大 で あ り,24年 間 その時々 に応 じて苦労 を とも ない話 です。 にした仲間に心か ら感謝 します。 , , もう一 つ,理 学部 が こうあ りたい と願 っている , ことが あ ります。米国の東海岸 マサチ ューセ ッツ 縁 の下 の支 え役 として頑張 ってお られ る事務部 の 州 のウッズホールにある海洋生物学研究所 には 方々,特 に一号館中央事務部 と三号館 の職員 の方々 , o夏 最後 に理 学部 の教授会 メンバ ーの方 々 を始め になると毎年大勢 の研究者が集 まり,そ のカフェ テ リアはあたか も研究上の社交場 を呈す る感があ に厚 くお礼申 し上 げ,理 学部 の一 層 の発展 と,大 学院重点化構想の早期実現 を切 に期待 します。 -15-― 酒井彦一先生 のご退官 によせて 室 伏 擦 (生 物化学科) 生物化学科が,酒 井先生 を新進気鋭 の助教授 と 別 の研究室 に電話 して少 し分 けて もらうとい う具 してお迎 え してか ら,早 24年 が過 ぎ,研 究者 と 合 で,後 になって考 えてみ ます と,こ れ は大変貴 して も教育者 として も脂の乗 り切 って い らっしゃ 重 な経験で した。 ここ十数年間 は酒井研 は大変裕 る今,東 京大学からお送りする年を迦えてしまっ 福 にな り,科 研費 を申請すればほぼ確実に当たる た ことは,大 変残念 な ことです。 とい う状況で,こ れ はもちろん酒井先生 の出 され 酒井先生が漂わせてい らっしゃる自由な気風 と , た多大 な業績 の結果 によるものですが,反 面 ,貧 酒井研 が行 って い る研究 の混 沌 とした魅力 に引か 乏であった頃に我 々学生 が得 た何物 かが,現 在 は れて,私 が卒研生 として酒井研究室 に入 ったのは 失われ て しまった ので はないか とい う思 いにか ら 1969年 で,途 中数年 間 のブ ラ ン クを除 くと,現 れ る こともあ ります。 在 に至 るまで,2o年 近 く酒井先生 の ご指導 を受 酒井研 の仕事 が活発 にな り,論文 が 数多 く発表 けて来 たことにな ります。私 が入室 した酒 井研 は され始 めたの は 1970年 代 に入 ってか らで,ち ょ 当時三 十代 の酒井先生 を初 め,助 手 の木村 一郎 さ うどこの時期 は世界 中で細胞生物学 が盛 んになっ ん (現・ 早稲 田大学教 授 ),技 官 の遠 藤幸子 さん て きた時期 ににあた ります。細胞生物 学 において , (現・ 助手 )お よび数人 の先輩大学院生 か ら成 る │ 重要 な位 置 を占 め る “ 細胞骨格 の構造 と機能 "の 大変若 々 しい研究室 で した。先生 は,学 生達 に 自 研究 で,酒 井先生 の研究 が この分野 の発展 に大 き 由 に研究 をや らせ る方針 を取 ってい らっしゃ り く寄与 し,そ の結果,ご 本人 が好 む と好 まざると かつ,ご 自分 も我 々学 生 と同等 に,実 に勤勉 に実 に関わ らず,こ の分野の “ボス"に な られ ました。 験 をなさって い らっしゃい ました。例 えば実験材 ただ し,酒 井先生 は政治的に行動す ることは極度 料 のウエ も我々 と一緒 に三 崎臨海実験所 な どに採 にお嫌 いで,完 全 に庶 民派であ り続 けられ ました。 りに行かれ,試 薬作 りや実験器具 の洗濯 も学生 と また,先 生 は,国 には出され ませんで したが,常 全 く同等 になさっていたのです。 しか し,自 由な に学生 の為 を思 って行動 してい らっしゃい ました。 雰 囲気 とは裏腹 に,酒 井研 の創世期 ,す なわち 60年 代終 わ りか ら,70年 代始 めにか けて,学 生 1960年 代後半 の仕事 の方 は,あ ま り順 調 でなかっ と教師 の対立が激化 し,安 田講堂籠城 の結果 ,し たように思 われ ます。酒井先生 も赴任 されてか ら ば らく臭 い飯 を食 べ ることになった学生 が生 物化 あま り月 日が経 ってお らず,研 究 設備 も不十分で 学科 にもい たわけですが,毎 週 のように拘留中 の あ り,ま た,学 生 も育 ってい なかった ことがその 学生 を訪ねて主要な論文の コ ピー を差入れて,い 理由ですが ,最 も主要な原 因 として,こ の時期 に わばマ ンツーマ ンのセ ミナー をやって下 さったの は,細 胞生物学 の方法論 が まだ確立 して い なかっ は,恐 らく酒井先生 ぐらい の ものだったろうと思 た ことが考 え られ ます。 さらに, この頃 はたいて い ます。 , いの研究室 で研究費 が不足 してお り,科 研費 もな 先生 は学問的な ことのみな らず,私 的な こ とに かなか 当た らず,学 生 の我 々 は,科 研費 とい うも 関 して も,一 貫 して学生 と対等 につ きあって来 ら のは “一 応 "申 請 を出 してお くものである と思っ れ ました。 最近 の学生 さんに とつて は,酒 井先生 てお りました。 この時代 の我 々 は,実 験 で必要な は “雲 の上 の人 "と い う風 に見 えるか も知れ ませ ものがあると,ま ず 自分 で作 つてみるか, どこか んが,ふ た昔前 の酒井研 は酒井先生 を含 めて,な ―-16-― ● にや ら全員が学生のような気分で過 ごしてお りま スポーツで,こ れに関 して は誰 に も絶対文句 を言 した。 現在 は酒井先生 はご自分 の教授室 をお持 ち わせない のがボー リングです。先生 はアメ リカ留 ですが,か つて は研 究室 の面積 が狭 く,我 々学生 学中,ボ ー リングの奥義 を極 め られ (最 高 270点 がたむろしている部屋 の片隅 に先生 の机 が あ り を出 された と聞 いてお ります),研 究室 や学科 内 先生 が机 に向かってい らっしゃるその近 くで徹夜 で開 かれ るボー リング大会では,文 字通 り向か う 明 けの学生が寝て い るとい う状況で した。詳 しく ところ敵な しです。お住 まいの近 くのボー リング 言 うと,昼 時 になる と皆 で弁当 を広 げるテーブル 場 にはロ ッカー まで借 りて,そ こにご自分 のボー の上 ,あ るいは部屋 の中 にず らりと並 べ て あ った ルその他 をキープ して あ るそうです。過去 二 ,三 ロ ッカーの上で寝 ていた とい うわけです。前者 の 十年 ,日 本 のボー リング人気 は大 きく変動 しまし 場合 は,朝 ,人 が入 って くる と起 きざるを得ない たが,酒 井先生 のボー リングに対す る態度 は終始 のに対 して,後 者 の場 合 ,転 げ落 ちる危険性 が多 一 貫 してお り,こ れ までの ところ,弟 子 の誰一人 少 はあ りましたが,い つ まで も寝 てい られ るとい として酒井先生 のス コアを越 える ことがで きませ う利点があ りました。これに限 らず,当 時 は,我 々 ん。 , 学生 は随分野蛮 な ことを行 ってお りまして,ア セ ボー リングの他 に,我 々が はるかに及 ばない こ トンが入 っていた “石油 かん"を 切 ってそれ を鍋 とに,酒 井先生 の希 に見 る “ 楽天性 "が あ ります。 にして研究室 の コンパ をやった こと もあ ります。 これ は研究 についてのデ ィスカ ッシ ョンにおいて そうい った,い かにも一 昔前の学生的な言動 に対 最 も顕著に現れてお り,我 々が どのようなネガティ して,酒 井先生 は結構面 白がってい らっしゃった ブデータを出 して も,決 してその結果 を否定 なさ ように思われ ます。最近 は学生の方 がある意味 で らず,そ の 中 にポジテ ィブな何かを見出 され よう 常識的 にな り,む しろ酒 井先生の方 が音 と変わ ら とな さるのです。先生 の こうした態度 によって ず,精 神的 に若 々 し くて い らっしゃるのではない データがなかなか 出ない仕事 をやって い る学生達 か とい う気 もい た します。 が どれほ ど救われ たか,計 り知れない ものがあ り 酒井先生 は,精 神的 のみな らず,肉 体的 に もは , ます。 つ らつ として い らつ しゃい ま して,教 職員 の ソフ 生物科学科 において二十数年間 の長 きにわたっ トボール大会には必ず参カロされ,し かもピッチャー て,親 身 になって多 くの学生の指導をなさ り,研 をや られ ると相手チームは殆 ど打 てない とい うほ 究において は,あ る時 は適 度 に我 々 を “ 放牧 "し どです。 もっ とも,相 手 チー ム は,「 球 が緩す ぎ またあるときは適 度 に手綱 を引締 め,我 々 を導 い て打 てない」 と負 け惜 しみを言 っていたようです が・…。 ひ ょっ とす ると,か つての大投手 ,ニ ー ク て くださった酒井先生 に心か らお礼 を申 し上 げま ロのナ ックルに匹敵す る魔球 を投 げてい られたの て,ご 研究 が新 たな展開を遂 げる ことを期待申 し か も知れ ません。 ソフ トボー ル と同 じ下手投 げの 上 げます。 │ -17- , す。 これか らも日本女子大の新 しい研究室 におい 感 玉 尾 孜 (地 球惑星物理学教室) 年代 の宇宙科学 の発展 に重 要な役割 を果た しまし た。 これ は大学院学生 にも平等 に情報交換・ 研究 発表 の機会 を 2ヶ 月毎 に与 えて くれ ました。我 々 は此の研究会 を通 して育 てられた と云 えましょう。 しか し,現 在 の標準 か らすれば当時の情報量 は限 られた もので,私 の大学院時代 はノ ンビ リした良 き時代だ った と思 い ます。学術雑誌 の数 も限 られ │ て い ました し,そ れ も大抵 は年 4回 発行 で したの で,物 理 。天文 はもちろん数学 の図書室 で応用数 1957年 10月 に旧 ソ連 の科学衛星 スプー トニ ク 1号 が打 ち上 げ られ た当時,私 は新制 2回 目の大 学 の雑誌 を観 る余裕 さえありました。ただしコピー 機 な どとい う便利 な ものはあ りませんで した。 学院博 士 課程 の学生 で した。翌 1958年 には米 ソ が殆 ん ど同時 に現在 はバ ンア レン帯 と称 されて い 辺 プラズマ環境 に関する知見 を飛躍的 に増加 させ る地球磁 場 に捕捉 された高 エ ネル ギー粒子 か ら成 ました。 1960年 代 は巨視的発見 の時代 で,地 球 る放射能帯 を発見 し,宇 宙時代 が始 まりました。 磁気圏の構造や太陽風 ,定 在衝撃波 の存在 が 明 ら 私 は 1959年 に東北大学 の地 球物理専攻 の博士課 か にな りました。 1970年 代 にな る と,粒 子 の空 程 を終 え,当 時 の理 学部長 の前 で 『 日本国憲法 を 間分布や エ ネル ギースペ ク トル,さ らに磁化 プラ 守 り云 々・・・ 』 の宣 誓 をし国家公務員 としての ズマ中 で理論的 に予測 される凡 てのプラズマ波動 助手 に採用 され,今 日迄宇宙空間物理学分野 での の存在 が衛星観測 で実証 され ました。80年 代 は 研究 を続 けて来 ま した。 その間,1969年 に宇宙 ボェイジ ャー探査 に代表 され る外惑星 が脚光 を浴 航空研究所 か ら当理 学部 に移 り,以 後 20有 余年 び,固 有磁場 をもつ惑星 は地球 と同 じ機構 で電波 の長 きにわた りお世話 になって しまい ました。 を放 出 し,オ ーロラ発光 も存在す ることが判 って 現在 の我 々は,人 工衛星 を利用 しての宇宙通信 飛翔体 による粒子や電磁場 の直接観測 は地球周 来 ました。 また地上 の室 内実験 で は実現困難 であ , 衛星 テ レビ放送 ,天 気予報 の雲の画像等 を当然の る無衝突衝撃波 としての地球前面の定在衝 撃波 の もの として受 け入れて い ます。此 の様 な最新 の科 構造 や,そ れによる粒子 の加速・ 散乱機構 を量的 学技術 を有効 に利用 して飛翔体 観測 は急速 に発展 に論 じ得 る観測 資料 が 蓄積 され てい ます。 1986 して来 ました。 1950年 代迄 の地上観測 の時代 は 年 3月 のハ レー彗星 の観測 大気光や磁場変動 ,電 波 による高度 300 km迄 の電 衛星 )で は,固 体部分 の大 きさ 10 kmの ハ レー 彗 離層探査 ,地 上 に到達す る宇宙線強度 の変動等 を 星が太陽風 中でその上 流 100万 血 迄影響 を及 ぼ し 通 して間接的 に地球周辺環境 ,特 にその太陽活動 定在衝撃波 を生 じてい ることは驚 きで した。此 の との関連研究 が重 点 目標 で した。 日本の場 合 ,天 様 な研究の著 しい発展 は,研 究成果 としての論文 文・ 地球物理・ 宇宙線物理・ 電波工学分野の研究 数 の増加 をもた らします。アメ リカ地球物理連合 者 を含 む学 際的 な電 離層研究連絡会 が 1950∼ 60 の学会誌 は 1990年 に 2万 2千 頁 を突破 しました。 , -18- (日 欧 ソで 5つ の科学 │ これ は,1頁 2段 組 で 400頁 の雑誌 が毎週発行 さ 果 が返 って来 る迄 に 2週 間 を要 しました。結果 と れて い ることにな ります。私が個人会員 として此 してプ ログラムにバ グが あ って も,2週 間前の こ の雑誌 の購読 を始 めた 1960年 は約 4千 頁 で,70 となので探す のに苦労 したのを覚 えてい ます。理 年 で 8千 頁 ,80年 で 1万 頁 と増加 して来 た訳 で 学部 に移 って直 ぐに手 に入れたのが シ ャープ製 の す。此の他 にもヨーロ ッパ 系の国際誌が幾 つか あ 卓上電子計算機 で 50万 円位 の値段 で した。大 き りますか ら,文 字通 り活字 と画像 の情報過多の時 さは現在 の卓 上 パ ソコン と同 じ程度 で,4則 演算 代 とな りました。過去 35年 間で我 々の分野で も の他 に平 方根 とメモ リーが 1つ と云 った性能 で し パ ラダイム と称 され るもの も蓄積 されて来 ました た。数 年後 に関数電卓 (ポ ー タブル)の 走 りとし か ら,他人 と議論す るには最低必要 な ものを理解 て ヒュー ン ッ トパ ッカー ドの ものを 500ド ル して 自分 の研究 を進 めることにな ります。若 い人 本 円で 15万 )で 買 い ましたが,殆 ん ど使用す る 達 に広 い視野 で,融 通性 のある研究 をと願 うの は ことな く机 の引 き出 しで眠 って しまい ました。 いささか手前勝手 か も知れ ません。 80年 代 か らはパ ソ コ ンが活用 され る世 の 中 とな , 電子計算機の著 しい発展 も宇宙科学 と同時期 で , (日 りました。私 も 84年 以来 ,ワ ープロ とお絵書 き 現在 もそれ は続 いて い ます。数値計算 と云 えば 用 に研究室 で愛用 して来 ました。3年 程前 にボー 学部学生 の頃 は手廻 しのタイガー計算機で した。 ナ ス と貯 金 を はた い て 自宅 用 に入 れ た ものが 大学院 に入 って電動計算機 に昇格 し,特 殊関数表 RAMが 4メ ガでハ ー ドデ ィス クが 40メ , ガです と併 用 して活用 しました。 IBMの 電子計算機 に が,現 在 で は同 じものを 1/3で 買 えるで しょう。 よる 7桁 の特殊関数表 を丸善経由で入手 したのは 数式処理 ソフ トを用 い ると,一 応超越関数 の数値 スプー トニ ク打ち上げの頃だったか も知れ ません。 計算 を実行 して更 にグラフの形で出力 して くれ る 60年 代 になって始 めて NECの 電子計算機がアッ の ですか ら,35年 前 の関数表 と首 引 きの頃 と比 セ ンブラーで使 える様 にな りましたが,入 力 は紙 較す ると驚 くばか りです。 , テー プで した。宇宙航研 に移 った 1965年 頃か ら 東大 の大型 セ ンターが利用可能 とな りましたが そろそろ予定 の頁 数 も消化 した様 ですので,最 後 にな りましたが理学部 の皆様方 に厚 く御礼 を申 , 最初 はユ ーザー メモ リーが 128Kで 最長 15分 で し上 げて筆 を欄かせて頂 きます。 したので磁気 テープに出力 してつな ぎました。結 玉尾 孜先生 の思 い 出 林 もう四半世糸 己も音の こととなって しまい ました。 (当 時,東 京大学宇宙航空研究所 の)玉 尾先生 の 幹 治 (地 球惑星物理学科) 今考 えれ ば,先 生 はその 2∼ 3年 前 に,プ ラ ズ マの詰 まった地球双 極子磁場空間 (つ まり磁気圏) 地球電磁気学特論 は難 しかった と言 うのが受講 し の固有振動 の問題 を公表 された後 で,例 えば特定 た多 くの感想 で した。理論 を目指 した学生 はかな の磁 力線 の振動 に伴 う回 りの応答 ,付 随す る電流 り深刻 に,ま た門前 の小僧群 は (筆 者 は以来現在 が電 離層 を含 め どう閉 じるかな どについては,理 に至 るまで)原 論文 の一つ ぐらい はと勉強 せ ざる 論・ 直観 が一体 になった常識 ンベル の問題 とみな を得 な くなった もので した。 されてい たので しょう。 しか し,そ の直観的理論 -19- 展開が学生 だけに難解 であったわ けで はなさそう その格差 は 40m2に (秘 書 と)二 人 (今 や望 むべ で,観 測 よ りの実証が国外か ら出始 めたのは 5年 くもないが)か ら,ほ ぼ同 じ広 さに,確 か, ミニ 後 ,関 連 した理論 の論文 が発表 され観測 も盛 んに コンのために仕切 られた一 区画 が 1/3,残 りに 5 なったの は 1970年 代 も半 ばを過 ぎてか らであ り 人 (教 授 ました。一 方 に,人 工衛星 による磁 気圏内 の直接 然一体 に共存す るという状況 で した。行動 を共 に 観涸lや 地上 よ りの観測手法が理論 モ デル との対比 され た秘書 (当 時 W)嬢 共 々,教 育 の場 に対 す がで きる レベル に達 した とい う情勢があった こと る並々ならない寛容,あ るい は楽観的な期待が あっ も確 かです。 その後 この種 の問題 は磁気 圏 の磁力 ての ことか と推察 します (同 じ頃大学院生 と教官 線共鳴 (地 磁気磁気脈動 と呼 ばれ る現 象)と して 一人 を含む 16名 が 40m2に 入 った事実 もあ り, と 観測 ,理 論 とも大流行 とな りました。玉尾論文 は もに語 り草 となっている)。 その超過 密 は間 もな この種 の問題 を電磁流体力学の 3次 元問題 として く 3号 館裏 に (必 要)悪 名高 い二 階建 プレハ ブ 2 厳密 に扱 ったパ イオニ ア的あるい はその時代 よ り 棟 を生む こととな り,そ の強力 な推進役 と機略 は 進みす ぎて いた仕事 として名声 を博 して い ます。 玉尾先生 に負 うところが大 きかった と聞 いてい ま その遅れてい た時代 ,死 の灰,安 保 ,ベ トナ ム 1,助 教授 2,秘 書 2)が 理論・ 実験混 す。 戦争 が言葉通 りの現実味 を持 つ中で,宇 宙科学 は 急発展の序章 を終 え,未 知 。開拓・ 共存・ 拡張 を 同大学院 を経 て まず地球電磁気学講座 の助手 とし 包み込み得 る分野 として時代 の期 待・ 使命 を担 い て過 ごされ,そ の時期 に,上 記 の地磁 気脈動 の発 つつ あ りました。 しか し,ア ポ ロが 月面 に至 るの 生機構 に関す る研究 をされ,そ の後 も文字 どお り はもう少 し先で,そ の技術 の戦略的可能性 を含め 理論家 としての道 を歩 まれ ました。 しか し,伺 う 価値観 を揺 るがせ る要素 も少 な くあ りませんで し ところによれば,創 始者の大先生の下 ,実 験 ,フ た。今 か ら見れ ば,社 会情勢 は若者 に とって大変 ィール ドワー クか ら経理学 まで を体験 された との 不幸 な時代であったわけですが,わ が 国のスペ ー ことで,実 験・ 観測 にも常 々深 い理解 と興味 をお スサ イエ ンス は本番 開幕前 の熱気 に沿れ,(米 国 持 ちで,観 測 の論文 にも良 く目を通 し,整 理 され の衛星 によ り)次 々に もた らされ る新 しい観測結 ていて,そ の適切 なご指摘 でセ ミナー,研 究会 を 果 と発見 ,そ れ を理解す るためのプラズマ物理 と コ ミュニ ティー全体 が勉強 に熱中 してい た と言 え いつ も盛 り上 げて来 られ ました。 その音 の,長 い 待 ち時間,何 10 kgも のバ ッテ リーの管理 とよ く ます。学生 も最新 のプラズマ物理 の教科書 などの 壊れ る測 定器 ,時 間を要す るデータ解析 な どの実 輪講 に加 えて もらい,流 行 であった微視的記述 を 体験 に基づ くご同情 が あったのか,実 験観測グルー 中心 としたプラズマ な どの勉強 をす る機会 に恵 ま プは研究室間 の予算運用の面で配慮 して頂 きまし れ ました。 その折 々,玉 尾先 生 は巨視的 (電 磁流 た。 , 先生 は東北大学理学部天文・ 地球物理学科か ら 体力的)記 述 よ り自ら明 らかにされ た 3次 元的扱 地磁気脈動 は当理学部 には縁 の深 い 自然現象 で いの重 要性 について いつ も指摘 されてい たような 75年 も前 に,寺 田寅彦先生 が 油壼 での観測 を も 気 が します。 その持論 には最近益 々磨 きがかかっ とになされた先駆 的仕事 (東 京帝国大学 。理科大 て きてお り,相 変わ らず ご不満のようです。 学紀要,1917)は この分野 ,特 に諸外国の研究者 , 旧地球物 理研 究施 設 に赴 任 され たの は,1969 には幻 の名論文 となっています。再 びその研究 が 年 の大学紛争 の渦中であった との ことで す (筆 者 盛 ん になったの は,30∼ 40年 ほ ど前 です。理論 は南極滞在 中)。 そんな時期 ,現 在 よ りも更 に劣 と観沢1が 噛み合 い始 めたのが,玉 尾先生 が 旧地球 悪であった住・ 研究環境 の中に飛び込んで行 くの 物理研究施設 で 仕事 を始 め られ た頃で,ほ んの には相 当に躊躇 されたので はないか と思います。 ―-20-― (も う)20年 ほ ど (も )前 の ことです。 その頃か ら先生 は地磁気脈動 を起 こす原因に も 張 って対応 され ました。 (お 金 のある)実 験 屋 の なるエ ネル ギーの高 いプ ラズマ の役割 あるい はそ 感覚 と感心 したものです。 その昔修練 された と言 の磁 気圏尾部 よ り地球近 くへ の輸送 に伴 う不安定 う,二 つ のパ チ ンコ,指 で はじく古典的な,あ る 問題 を中心 にスペ ースプラズマ グループの活 動 を い は筆者 も見た ことのない誘導式磁化測定装置の 発展 させ,同 時 にしっか りした理論家 を多数育成 どちらが 実験精神育成 に効果があったか興味のあ され ました。 そのご指導 は大変厳 しかったようで るところです。今 は,そ の仕上 の美 しいコンピュー す。外野の我 々には大変寛大で,例 えばプラズマ ターが 3次 元 の電磁場初期値・境界値 問題 を こな の中で は一本 の磁力線 にだけ電流 が流れ るような す 日を心待 ちにされて いるよ うです。 針金 モ デ ル は存 在 し得 な い よと 10年 がか りで根 気 で よ く納得 させ られ ました。 70年 代 半 ばに,ス そ して地球物理研究施設最後 の施設長 として , 解体・ 合併発足 に伴 う大仕事 を極 めて微妙 な問題 ペ ースプ ラズマ研究 の源流 を含 め緻密 に対応・ 処理 され地球惑星物理学科 と で もあ り,ご 自身の若 き日の研究 の出発点で もあっ しての本年度発足 に漕 ぎ付 けられ ました。 た,有 名な ス エ ーデ ンの H.Al"enの グループ及 され,室 内実験 を基礎 とした発展 した個性的な xx物 理 とい う分野 は凌うって も理論 xxと 言 う 呼 び名 は何か しっ くりしな い,地 球惑星物理 の分 野 で,理 論家 であった玉尾先生ですが,実 は自然 数理的 にす っきりしてアカデ ミックな各 々の学風 とのつなが りをしっか りと別 に確保 されてい まし が時 を得 て成果 を生 みつつ ある ことをご覧 にな り た。多摩川縁 にお住 まいの頃か ら病 みつ きになっ 感慨 とともにその後 の研究動向の確信 を得 られた た と聞 いて い ますバ ー ドウォチングで あ り,最 近 ので はないか と推察致 します。 はどこかでの山荘生活 を楽 しまれている との こと びイギ リスの J.Dungyの グループ を訪 問・ 滞在 , 後進 の育成 ,講 義 ,御 自分 の研究 ,内 外研究者 です。や がて,学 生 も学会 も待 ち望 んでいる “ 宇 との交流,そ して大 きな 自由度 とい う名の膨大 な 宙空間電磁気学 "が 脱稿 され る日も近い もの と拝 雑事 の処理の大敵 ,定 員肖J減 には, とて も高価 で 察致 します。 どうかいつ まで もお元気で。 あった Macを い ち早 く導入,Apple Talk を ―-21-― 思 い 出す ままに 宮 本 健 郎 (物 理学教 室 ) 物 理 学 教 室 の卒 業 生 30人 程 度 の 内 1/3ほ どが 民 間会 社 に就職 してお りま した。 当時 ,物 理学教 室 の小穴 純 先 生 は,極 限的 マ イ ク ロ複 写 を追 求 され てお りま した。写真乾板 の感光 材 の銀 を超微 粒 子 に し,非 常 に うす くす る必 要 が あ りま した。 その 感 度 が 低 くな るの を補 うた め,強 力 な単 色光 源 の 開発 が必要 で した。 また ,視 野 の広 い,し か も顕 ilヾ 饒 Si Ⅲ 昭和 30年 (1955年 )に 物理学教室 を卒 業 して はや 37年 にな ります。最初 , 日本光学 工 業 (現 在 ニ コン)に 7年 ,ロ チ ェス ター大学光学研究所 に 2年 ,名 古屋大学 プラズマ研究所 に約 15年 微 鏡 と同 じ くらいの分 解能 を もった縮 写 レ ンズ の そ して最後 の約 13年 間 を当物理学教室 でお世話 て お られ ま した。先生 の この研 究成 果 は後 にな っ にな りました。あ らためて過去 をふ りかえってみ て集 積 回路 ると色々な ことが思 いだされます。 大 き く貢 献 し高 い 評 価 を受 け ま した。 当 時 は , 0 開発 も必 要 で した。 日本光 学 にいて この光 学 レン ズ の開発 に参加 で きた の は楽 しい思 い 出 です 。 あ る とき,小 穴 先生 は「切 手大 の面積 に“チ ャタ レー 夫人 の恋人 "の 本 を全 ペ ー ジ複 写 した よ。 誰 も顕 微 鏡 で ,の ぞ い て読 む奴 はい な い か らねJと 笑 っ LSI製 造 過 程 で 必 須 の ス テ ッパ ー に , 昭和 24年 (1949年 )は 旧制東京高校 1年 か ら F Zernikeが 位 相 差 顕 微 鏡 の研 究 で ノーベ ル 賞 を 新制東大 一期生 に入 学 しましたが,そ の頃 は,す 受 賞 (1953年 )し た こ とで もわ か る よ うに光 学 べ てが激動 の時期で した。教養学部時代 は湯川教 レ ンズ の結像理論 が盛 んで した。 この分野 で 私 が 授 のノーベル賞受賞 (昭 和 24年 ),朝 鮮戦争 (昭 和 25∼ 28年 )の 勃発 ,レ ッ ド・ パ ー ジの始 ま り 行 った研 究 の一つが ,き っか け とな り,米 国 ロチ ェ 等 があ り,学 園紛争 が吹 きあれて い た頃で した。 矢内原忠雄教養学部長 が学期試験 ボイ コ ッ トの ピ 学 問 をす る こ とに面 白味 を感 じ始 め ま した。 また ケ ッ トをはる学生 を前 に して,大 学 の秩序 を守 る 生 き方 に影 響 を受 けて ,日 本社 会 の終身 雇 用制 の よう熱心 に説得 されてい た姿 を今で もはっきり思 呪縛 か らぬ けだ して い ま した。 ス ター大学光学研究所 に留学 す る ことがで き,段 々 当時 ,輝 い て 見 えた ア メ リカの研 究 者 の考 え方 や 昭和 39年 (1964年 )に ,全 国共 同利 用研 究 所 いだ します。 として創 立 され て 間 もな い名 古 屋大学 プ ラズ マ研 教養学部 か ら理学部物 理学教室 へ進学す るとき BSGが 始 ま り 病 いのた め 2年 ばか り休学 しましたが,ゆ っ くり 究 所 で ,新 しいプ ラズ マ 実験 計 画 本 を読む機会 をもつ ことがで き,ま た,よ り多 く プ ロ ジ ェ ク ト・ リー ダー の 内 田岱 二 郎助 教授 (当 の学友 ももつ ことがで きたので今か ら考 えるとそ 時 )が 新 しい所員 を何人 か ス カ ウ ト中で した。研 れほ ど悪い ことで もなかった と思 うようにな りま 究対 象 とな るプ ラズ マ が 高温 高密度化 して きて光 した。 学 的計 涸1が 必 要 になって い た こ とが幸 い した のか , も知 れ ませ んが ,ス タ ッ フの一 員 に加 えて頂 きま 学部卒業後 は,日 本光学工 業 に就職 しましたが , ―-22-― │ した。 プラズマ物理・ 核融合 の研究 は当時 として て 感 謝 い た し ます。 1983年 に逆 転磁 場 ピ ン チ は新 しい学問分野 であ り伏見康治先生 を所長 に仰 REPUTE-1計 画 を工学部原子力工 学科 の井上 ぎ,創 立間 もな い研究所 によ くみ られ る熱気 が 信幸教授 グループ と共同で提案 した とき,そ の実 , みな ぎってお りました。 1968年 には旧 ソ連 ,ク 現 に向けて当時理学部評議員 を してお られた有馬 ル チャ トフ研究所 ア リチモ ビ ッチが率 い る トカマ 朗人教授か らは多 くの御支援 を頂 きました。また クの研究が画期 的成果 を出 し,1973年 の第 1次 当時の江上 信雄 理学部長 (平 成元年御逝去 )か ら 石油 シ ヨックもあってか,核 融合研究 が,日 のあ も,全 く御専門 か らは遠 い分野 に も拘わ らず研究 たる分野 にな り, このよ うな時期 にめ ぐり合 わせ の意義 をお認 め下 さ り,応 援 して頂 きました。今 た ことは大変 幸運 な ことで あ りました。 も感謝の気持で思 いか えしてお ります。異 なる学 , 1979年 の初 め,物 理学教室主任 の桑 原 五 郎 先 部 にまたが る共同研究 はむずか しい点 があること 生か らプラズマ物理の教授 ポス トのお話 しがあ り を言われてお りましたが,パ ー トナーの井上教授 ました。突然 で した し驚 き迷 い ました。 プラズマ とはプラズマ研 にいた頃一緒 に研究 して いた こと 研究所 でお こなっていた研究 へ の未練 や,学 部 の もあってお互 い に気 心が知れて いたこと,合 議制 環境 の中で研究 がで きるか どうか 自信 のなさのた によって計画 を進 めた こともあってか,全 体 とし めで した。 プラズマ研究所 の所長 をされてい た と て うま くい った と思 ってお ります。若干 の評価基 きは,絶 えず研究 の指導 や御鞭撻 を頂 いてい た伏 準 の違 いに よって,お 互 いに我慢す ることもあ り 見康治先生 はその頃学術会議議長 をしてお られ ま ましたで しょうが,共 同で進 めるメ リッ トも大 き したが,先 生 にご相談 した ところ,「 君 くらいの く, この実験計画 によって多 くの院生が学位論文 年令 になった ら後進 の指導 に当る役割 も考 えるよ を書 くことができました。研究室から巣立 っていっ うにJと 引導 をわたされ,決 心 しました。 よ く言 た研究者 がいろいろな ところで活躍 して い る姿 を われ ることとは思い ますが,学 部 の先生 は小企 業 みることがで きるのは学部 の先生 の特権 で しょう。 の社長兼小使 とい う感 じで予 算獲得 か ら,成 果 の もつと有能 であれば,プ ラズマ物理・ 核融合研究 PR,室 の掃除 まで 自分 でや らな くて はな りませ の研究基盤 をもっと改善 してお きたかつた と心残 ん。若 い ときか らこうい った面 で の修練 を積 んで りですが, これか らは大 学 の研究環境 もよ り良 く いたわけで はなかったので,苦 労や戸惑 い もあ り なるもの と期待 して い ます。 ましたが,遠 山助教授 ,長 山,篠 原助手 ,山 岸技 最後 にお世話 にな りました多 くの方 々に厚 く御 官等 の研究仲間や,多 くの若 い院生の協力により 礼 を申 し上 げます と共 に理学部 の益々の発展 と皆 なん とか きりぬけて こ られたように思われ,改 め 様 の御健勝 をお祈 り致 します。 , 宮本健郎先生を送るヽ 遠 宮本健郎先生 は昨年 11月 20日 にめでた く還暦 山 潤 志 (物 理学教室 ) 業 され,同 年株式会社 日本光学 に入社 され ました。 をお迎 えにな り,今 春 3月 をもって東京大学 を定 昭和 34年 か ら 36年 まで ロチ ェス ター大学光学研 年御退官 にな られ ます。 究所 に留学 され,同 大学 か ら Ph.D.の 学位 を授与 先生 は昭和 30年 東京大学理学部物理学科 を卒 され ました。更 に昭 和 38年 には東京大学 か ら工 ―-23-― 学博 士 の学位 を授与 され,昭 和 39年 に名古屋大 居振舞 い をみれば,だ れ もが納 得す ると思 い ます。 学 プ ラズ マ研究所助教授 にな られ ました。昭和 先生 の最終講義 の案内が三度 まわって きたのに気 47年 同教授 にな られ,昭 和 54年 東京大学理学部 付 かれた方 もあると思 い ます。最初 の案内 に「つ 教授 に就任 され ました。昭和 61か ら 62年 まで東 いては特 に 自分 にとって楽 しかった実験 につ いて 京大学大学院理学系研究科物理学専攻主任 ,平 成 裏話 を含 めて話 す つ もりである。Jと い う一節が 2年 か ら 3年 まで物理学教室主任 を務 め られ まし あ りました。 最終講義 で は英 国紳士 スタイル を止 た。 め られ るのかな と楽 しみに思ってい ましたが,山 今更申 し上 げるまで もな く,先 生 は我が 国 にお けるプラズマ物理学 。核融合 の理論及 び実験 の中 本先生 の文 が紛れ込 んでいただけで した。 い くつ 心 として指導的な研究 をされ,か つ また優れ た教 か先生 のお人柄 を示す例 を挙 げます と,研 究室 の テニ ス旅行 に もよ く参加 され,さ れ い な無理のな 育 をされて きました。即 ち,名 古屋大学 プラズマ い フ ォームで打 たれてい ました。 ロチ ェス ターで BSGの 実験 磨 か れたダ ンス姿 を拝見 した ことはあ りませんで に参加 され,そ の後同研究所 で初 めての トー,ラ ス したが,華 麗 だ と推察致 します。 お嬢 さんはバ イ 装置 ,ス テラ レー タ JIPP― Iを 建設 され ました。 オ リニ ス トですが,先 生御 自身 もクラシック音楽 さ ら に,ス テ ラ レ ー タ, トカ マ ク 兼 用 装 置 がお好 きです。 また先生 の居室 が実 によ く整頓 さ JIPPT― Ⅱの リー ダー として活躍 され,東 京大 れ,す っき りして い ることをご存知 の方 も多 い と 学理 学部物理学教 室 に移 られてか らは,工 学部原 思 い ます。多分物理学教室一 で しょう。見習 お う 子力工学科 と共同 で,逆 転磁場 ピンチプラズマ装 としましたが,持 ち前のセ ンス の悪 さで は如何 と 置 REPUTE-1を 建設 し研究 され ました。 この も出来ず,た だ時々 ミーテ ィ ングに使 わせて もら ようにステラ レー タ, トカマ ク,逆 転磁場 ピンチ うだけで した。 研究所 にお い て は,当 初 ミラー装置 と トーラス装置全般 にわた り,プ ラズマ閉 じ込 め 先生 の才能の一つに,脳 へ のインプ ッ トにすば の研究 に華 々 しい成果 を挙 げて こ られ ました。 ま らしいノイズフィルターを持 たれていることを挙 た,先 生の著書 には「核融合 のためのプラズマ物 げる ことが 出来 ます。 ミーテ ィ ングな どでのつ ま 理」「 プラズ マ 物理入門」 (共 に岩波 書店 ,MIT らな い俗事 はきれいさっぱ り忘れて しまわれ ます Press)な どが あ り,名 著 とな つて い ます。 さら が,大 事 な物理の公式 ,常 識 な どはしっか り頭 の に,先 生 は物理 に対す るあふれんばか りの情熱 を 中 にあ り,研 究室 セ ミナーで我 々が もた もた して もって講義 にあた られ,多 くの学生 を啓蒙 して こ い ます と,立 ち所 に黒板 にす らす らと書かれ議論 られ ました。 され ます。我 々 は物理 は覚 えてな く俗事 だけを覚 先生 は学内の要職 だけでな く,九 州大学応用力 えて い ますか ら,グ ループの運営で は時 々行 き違 学研究所客員教授 ,日 本原子力研究所核融合研究 いが生 じました。 プラズマ研究所時代 ,提 出す る 委員会委 員 ,電 子総合技術研究所核融合研究 委員 事務書類 (例 えば扶 養家族届の ような書類 )は 奥 会委員,日 本学術会議物理学研究連絡委員会委員 さんが研究所 の秘書 に電話 し,今 日 これ これの書 , プラズマ・ 核融合学会理事 ,科 学研究費核融合特 類 を持 たせ ましたか ら受 け取 って ください と言 っ 別研究評価委員会幹事 ,学 術振興会審査委員会委 てい た とい う話 も聞 いた ことが あ ります。 員等 ,我 が 国物理学界 の指導的な職 に就 かれ,長 複雑 な現象 か ら枝葉末節 を切 り落 とし,単 純明 期的視野 をもって個々の問題 に積極的 に取 り組 ま 快 に物事 の本質 を捉 らえ,物理法則 を求 めること れ,そ れぞれの組織 の発展 の基盤 を作 られ ました。 が物理学 と思いますか ら (異 論 はあるか もしれ ま 先生 のお人 柄 を一 言 で形容 す るな らば,「 英 国 んが,特 に noisyで 再現性 の悪 いプ ラズマ実験 で 紳士」 に異論 はないで しょう。先生 の月 反装 ,立 ち はこの ことが不可欠 です),先 生 は真 の物理学者 ―-24-― 0 │ と思います。 この特殊能力 が持 って生 まれた才能 によるのか, トレーニ ングによるものか は伺 うの れて い ました。 その結果 ,卒 業後 自分 か ら積極的 を忘れ ました。 て活躍 してい ます。 に仕事 をする学生が輩出 し,現 在各界で中堅 とし 先 生御 自身 は実験家 と称 されてい ますが,私 か これか らもプラズマ・ 核融合 の分野 で ご活躍 を らみる と理論家 に近 く,何 をしろとい う命令 を出 続 けられ ご指導 いただ くことをお願 い して筆 をお されずに大 学院学生 に 自由 に実験 させ,出 て きた きます。 実験 デー タを議論す るとい う研究 スタイル を取 ら 昔 とこれか らと 禾日 田 靖 (物 理学教室) 当時の南原総長 を吉田首相が「曲学阿世」 と罵 つ た 出来事 は象徴 的だった。「阿世」 とは権力者 に 阿 るとい うのが主な意味 だろうか ら,権 力者 が論 敵 を阿世 ときめつけるのは矛盾 だ と思 ったのを覚 えて い る。吉田首相 に とって阿世 とは世論 に阿ね ることだったのだ ろ う。 それだけ世論 の力 が強 く 表現 の 自由 は普遍的 だったのだ。現在 も表現の自 由は健在 で,権 力者 も世論 の動 向 に気 を使 ってい るのは事実である。 しか し何処 かが違 う。社会 に 先輩や同級生 が次 々 に定年 にな り,今 年 は自分 問題 が起 きた ときどう対処す るかの論議 は,可 能 の番 になった。 い ざなってみると取 り立てて い う な選択 肢 の範囲 をどうとるかで変わる。明 白な理 ほどの感慨 もない。急 いで採点 をしなければな ら 由な しに人 為的 に範囲を狭 め られた時 は,論 議 が ぬ答案 の山 もあ り,ふ だんな らや らぬ話や原稿 の 自由に活 滋 に行われ て い るように見 えて もそれ は 準備 もあって結構気忙 しい。 これ らの仕事 は無駄 見掛 けだけの ものだ。昨今 のように社会 が成熟 し な感慨 にふ ける暇 をな くす るように案出されたに て世論 を作 る術が確立 されて くると,知 らず知 ら 違 い ない。 ずのうちに狭 い範囲 の議論 だけさせ られて い る こ 昭和 24年 7月 に 17才 で東大 に入 った頃 は世 の 中 はまだ大変 だった。冬 になって も駒場 の教室 に とがある。 それが 自由社会での窒息感 の原因な の だ。 はス トーブがない。折 からの大雪 に靴 も靴下 もぐっ ところで あの明 るさは何時頃 まで あ ったのだろ しょり濡れたの に どうしようもな く震 えて い た。 うか。昭和 29年 に物理学科 を卒業 して教 育大 の 社会 で も大学で もス トはしょっち ゅうで落着かな 大学院 に入 った ころは,研 究室 に石炭 ス トープが い。 それで も人 々 は希望 をもち,そ の心 の中 は明 入 って冬 も仕合わせ になった。社会情勢 はまだ不 るかった。長 い戦争 か らの解放感が消 えてなかっ 安定 で,学 長 にな られた朝永先生 は「主な仕事 は たし,状 況 は今底 を入れてい ることを知 っていた。 デモでつか まった学生 の引 き取 りだよJと 嘆 いて 何 にもまして思った ことを言 える自由があった。 お られ た。 34年 に助手 になって本郷 に戻 ってぶ ―-25-― つか ったのが「安保 Jで ある。衝突が起 りそうだ がない」 と。私 は必ず しもこの意見 に賛成す るも か ら教官 も現場 に居 なければい けない ということ ので はない。昔 も自主性 のない学生 はい たし,今 にな り出か けたが,あ の大群衆で は何 もで きる筈 も元気な学生 は沢山 い る。 ただ今 の若 い人 は争 い が ない。国会前 をウロ ウロ してい る中 に中村誠太 を好 まない。話 をしていて も意見が対立 しない よ 郎先生 に出合 い,結 局二人 ともその晩座 り込む破 うに気 を使 つている。 これ は若 い世代 に共通 の特 目になった。女子学生 が亡 くなる二三 日前の こと 性 のようだ。 この特性 が,は じめか ら選択肢 の範 で あ る。 囲 を狭 めて論 議 を始 める風 潮 と結合す ると,雰 囲 37年 にフル ブライ トの旅費援助 を受 けてアメ 気 は明 る くな らぬ。 この事情 は若 い人 の間だけに とどまらない。最 進 めたケネディ政権 の姿勢 は印象的だった。 自由 近 の重 要 な問題 に脳死がある。科学技術 の進 歩 が な社会 が 目指す理想 の姿 を見 た思 いが す る。 しか 倫理観 を変革す るか どうか とい う大 きな問題 だ。 しそれ も長 くはな く,40年 に帰 国す る頃 にはベ い ろい ろな専門 の人がいる大学 の中か ら,い ろい トナムの影 がアメ リカを,そ して 日本 も覆 い始 め ろな意見 が 出 て活発 な議論がなされ るべ き問題 で ていた。間 もな く起 ったのが世界 中 のキャンパ ス あ る。現実 は政府 の一 調査会 と一 部 のマ ス コ ミに を吹 き荒 れた嵐である。今度 は大学 自体 の意味 を 任 され,大 学 で は議論 らしい議論 はなかった。東 問わ れて いたので一層深刻 だった。理学部 が封鎖 大 で は昨秋 「生 と死」 とい うテーマで公開講座が された夜三号館 か ら,脱 出 して来 た一号館 を眺め 開 かれたのは時宜 を得 た ことで あった。 しか し残 なが ら考 えた。大学 に もい ろい ろと問題 はある。 念 な ことにそこか ら論議が起 って調査会 に影響 を しか し良 い ところもある。 とくに研究活動 の 自由 与 えた とい う話 を聞か ぬ。 もはや選択肢 の範囲が さはか けが えのない もので,何 としても保 ちた い 十分狭 め られてお り,議 論 をす る価値 はない とい ものだ と。 うのが理 由であるとしたらおそろしいことで ある。 あれか ら 20年 以上が経 つ。世 間 も大学 も穏 や 戦争 か らの解放感 はとうの音 に消 えて い る。経 かである。大学 の研究教育環境 はあまり良 くな ら 済 の状況 は今 や天 丼 を打 っているとなると,人 々 ず,最 近 は頭脳 の棺桶 と云われてい るが とにか く の心 に明 るさを取 り戻すためには真 の 自由を復活 本来 の仕事 に没頭す ることがで きた ことは感謝 せ す ることだけが残 された道である。以上述 べ て き ねばな らぬ。 ところで最近気 になるのは,人 々の た ことは,基 礎科学の研究者 の社会 に もあてはま 心の中にあったあの明 るさである。 あれ は一体何 ることが多 い。我 が 国 の基礎科学 が振興 され る気 処 へ行 って しまったのか。人 は云 う。「共通 一 次 運 にあ ることは喜 ばしい。研究者 の一人一人があ を始 めてか ら学生気質が変 わつた。 自主性 と覇気 の明るい心をもって研究 に励 まれるよう祈 りたい。 ―-26-― ▲▼ リカヘ渡 った。 その豊かさ と公民権運動 を強力 に 0 和田 靖先生 を送る 鈴 増 雄 (物 理学教室 ) 和 田先生 は 1954年 に本学理学部物理学科 を卒 究科物理学専門課程主任 にな られ ました。 その と 業 された後 ,東 京教育大学大学院理学系研究科物 きに和 田先生の開発 された院試 の事務処理 ソフ ト 理学 専攻 に進 まれ,1959年 博 士課 程 を修 了 され は最近 まで非常 に役立 って きました。何 ヵ月 もか ると同時 に,本 学理学部物理学教室助手 にな られ けて大変苦労 して作 られた と伺 ってお ります。 こ て本郷 に戻 って こ られ ました。 それ以来 ,海 外 で のように和 田先生 は,何 事 も徹底 しておや りにな の研究 のための体職期間 を除 けば,現 在 に至 るま る性格 の方で,一 旦決 めた ら変更 を認 めず最後 ま で本学 で研究 と教育 に尽力 され て こられ ました。 でや り抜 くとい う強靭 な精神 の持 ち主で,い ろい 1962年 8月 か ら 3年 間 アメ リカで研究生活 を送 ろな機会 に私 な どはいつ も圧倒 されて きました。 られ,1965年 9月 に帰 国 され ました。丁度 ,私 講義 も几帳面 だった と学生 か ら伺 ってお ります。 が久保研 の博 士課程 に在学中 の ことで あ り,超 伝 ご研究 の面で も,強 結合超伝導 ,第 二種超伝導 でのアブ リコ ソフ構造 ,ポ リアセチ レンでの ソリ 導理論 をご専門 とす る若 い和 田先生が帰 国 され , IG 木 10月 に は講 師 とな られて,物 性理論分野 も賑 や トン,特 にシ ュ リー フ ァー との共著 で ある ソリ ト かになりました。私 もその当時,磁 気不純物 によっ ンのブラ ウ ン運動 の研 究な ど数 々の成果 をあげて て超伝導転移温度 が どう変化す るかを理論的 に計 こ られ ました。 算 していた こともあって,和 田先生の着任 は強 く 和 田先生が指導 された院生 の数 も 30人 以上 に 印象 に残 ってお ります。和 田先生 はセ ミナーでの のぼ り,ま た,研 究・ 教育行政 の面 で も,大 学設 質問が手厳 し く,少 しで も理論的に飛 躍 があると 置審議会専門委員や物性研究所協議会委員 として 追究の手 を緩 めず,院 生 をた じた じさせていまし 活躍 され ました。物理教室 の教 官会議 で も,最 近 た。私 もそうい う和 田先生 の厳 しい質問のおかげ は印象的 な発 言 が多 かった ように思 い ます。 4月 で随分 と勉強 になったよ うに記憶 してお ります。 か ら,そ うい う迫力 のあるご意 見 を伺 えな くなる その後 ,私 は久 保 先 生 の助手 にな り,同 じグ ル ー のは淋 しいよ うな気 も致 します。 毎年春 か ら秋 に少な くとも一 回 は,若 い院生 を プで引続 き和 田先生 と一緒 に過 ごさせて頂 きまし た。和 田先生 は 1967年 7月 に助教授 にな られ 伴 つて和 田先生 と私 は一緒 に尾瀬等 によ く出か け , 和田研 で は,海 老沢,高 山 の両氏 が院生 として活 ました。温泉 につかった後 で一緒 に飲 んだビール 躍 し始 めてい ました。翌年 の 2月 に私 の方が物性 の うまかった ことが懐 か し く思 いだ され ます。 研 に転 出 しましたので,一 時,縁 が遠 くな りまし ご退 官後 は,山 形で教育 と研究 を続 けられ る と たが,1973年 11月 に本郷 に戻 って以来現在 に至 の ことです。 あち らで は,温 泉のある大学の宿舎 るまでずっ といろい ろなお付 き合 い させて頂 いて に入 られ るそうで, うらや ましい限 りです。東大 お ります。 とはまた趣 の異なる新 しい生活 を大 い に楽 しまれ 和 田先 生 は,1979年 11月 に教 授 に な られ ます よう祈 ってお ります。 , 1983年 には理系委 員 ,翌 年 には大学院理学系研 ―-27-― す こ しユニー クな履歴書 増 田 彰 正 (化 学教室 ) 申 し出 た。 名古屋大学 の大学院で地球化学 を専攻する こと になったが,研 究意欲 は前 にもま して燃 えなかっ た。 しか し,次 の二つの仕事 をまとめてい る間だ けは非常 に燃 えた。その一つ は,希 土類元素 の存 在度比 の変化 と原子番号 との間 の規則性 に関す る もの。 もう一つ は,地 球 の原始時代 の鉛 の同位体 組成 の推定,で あつた。 これ は,共 に,紙 と鉛筆 ニー 蒻 と手回 し計算機 によるもので あ る。両研究 は,非 昭和 24年 7月 に新制東京大学 の学 生 として入 常 に優れ た仕事 であ る と今 も自負 で きるが,自 前 学 した。敗戦後 まだ 4年 目の当時,ひ もじい駒場 のデータによるもので はないた め,実 験 を重視す 寮 での生活 だった。進学志望学科で は大 いに迷 っ る伝 統 を持 つ化学 の世界 で は,大 学院生 の仕事 と たが,最 終的 に化学 にした。昭和 26年 4月 か ら しては別枠 本郷 での学生生活 が 始 まる。友人達 の多 くは化学 実験 を大 い に楽 しんで い たが,私 はな じめず (ノ ー・ カウン ト)と なった。 実験的実績 がない とい う点 で は競争力 に全 く欠 “実験下手 コンプ レ ックス"に 悩 んだ。 これ は け る私 を東京大学理学部化学教室 の助手 に採用 し て下 さつた斎藤信房先生 には感謝 し切れな い もの ひそかに不安 に思つてい た ことで あった。文学部 がある。5年 ぶ りに もどった東大 で は,気 体用 の 心理学科な どへ の転部・ 転科 も心 の中を よぎった 質量分析計 を使 って鉛 の同位体組成 を測定 した。 が,当 時の私 に とって は,ぜ い た く過 ぎる考 えで とにか く斎藤先生 には文字通 り迷惑のかけっ放 し あった。 で,何 のお返 しもして いない。汗顔 の至 りである。 , , 就職 が うま く行 かなかった 4年 次 の晩秋 の あ る 斎 藤研 究室 に四 年半世話 になってか ら,昭 和 日,南 英 一 先生 に呼 ばれた。先生 は,「 名古屋大 37年 東大 の原子 核研究所 の助手 となった。 ここ 学理 学部 に最近 ,地 球科学科 とい う新 しい構想 の で は,固 体用質量分析計 のイオ ン源 を自分で試作 学科 がで きたが,そ の学科 に地球 化学 の研 究室 が し, これを使 って,安 定同位体希釈法 による希 土 ある。地球化学 の講座 は,日 本 で は これが唯一で 類元素 の定量 に成功 した。 しか し,私 が属 して い ある。」 と,言 われ,私 に名古屋行 きを強 く勧 め た書6「 5は 共 同利用へのサ ービスが主な業務であ り られた。 しか し,私 は,地 球化学 にほ とん ど関心 私 の活動の大部分 は本来 の私 の業務 か らは全 く逸 がなかったので,数 日後 にその 旨を伝 えた。 (そ 脱 して い た。周囲 の人達 は暖 く親切 にして下 さつ の時 の南先生 の部屋 は,私 の現在 の部屋 くらい に たが,そ の限界 の到来 の 日の ことを考 え始 めて い 雑然 としていて,い ろい ろなものがあち こちにあっ た。 それ を回避 す る意 味 を こめて,昭 和 41年 て,ほ とん ど腰 を下す空間 もなかった。)そ の時 NASAの 研 究所 に暫 く行 くことにな る。原子核 , , , 南先生 が どの ような表情 をなさったか記憶 して い 研究所 で は,現 東大総長有馬朗人先生 ,現 理化学 くして,前 言 を撤 回 し,再 考 したい と 研究所理事長小田稔先 生 はじめ,原 子核物理学 や ないが,暫 -28- 宇宙線物理学 での鈴 々たる多 くの学者 と知 り合 う 7年 滞在 し,最 長記録 とな る。7年 目の秋 に雨上 機会 を得 た。 りの庭石 に足 を滑 らせ,頭 蓋骨 に細 い亀裂 が生 じ NASAの 研 究所 に は二 年半滞在 した。無論 この期間 は,私 に とって非常 に有意義 な,思 い出 , た。亀裂 の解消 には少 くとも 3年 はかか るとい う 医師の予言 は間違 って いなかつた。 昭和 56年 か ら東京大学理学部化学科 の教授 と 多 い ものであった。滞米中 に一つの事故 が起 った。 正確 に言 えば,そ れ は,ハ イ・ ウ ェイで起 った は な り,11年 在勤す ることにな り,不 倒距離 (?) ずの,し か し,起 らなかった自動車事故 の ことで の記録 を更新。 (し か し,5年 目 の変動 はここで ある。その責任 の大部分 は私 にあると判定 された も起 り,理 化学研究所主任 を兼任す ることになっ であろう。 あの状況下でその事故 を免 れ得 た可能 た。)赴 任当初 ,実 験室 の改造 な どに出費 を要 し 性 は 0.1パ ーセ ン ト以下 だつた と思 う。彼 が死 ぬ 相 当な赤字 を作 った。やがて実験装置 も拡充 され か,私 が死 ぬか,多 分 ,両 方 が死 ぬか,し かなかっ 充実 した研究生活 を学生諸君や ス タッフと共 に分 た。両方 の車 が衝突 して,メ チャメチャにつぶれ か つ ことがで きた。一 方 ,そ の間,緊 張 と不安 と た可台旨性が 断然高 く,さ もなければ,彼 の車 が横 重圧 に悩 んだ日々 もあった。私 は,国 外 に対 して 転 してメチ ャメチャになったに違 い ない。 この惨 鎖国政策 を取 ってい たが,開 国 に踏 み切 った途端 事 を免れ得 たのは,彼 の強運 と私 の強運 と,そ し に外国 か らの留学生や研究者が急増 した。 スペ ク て,彼 のアクロバ ッ ト的な運転技術 の なせ る業 と トル化学研究 セ ンターの設置 に至 るまでの苦労 も しか言 い様 が ない。思 いが けぬ時 にこの思 い出が , , 感慨深 い ものがある。 ふ と湧 いて来 る ことが ある。 あの瞬時の シー ンを 私 にとっては最長滞在期間 の 11年 間であった。 思 い出す と,今 生 きて い るだけで も有難 い と思わ な くて は・・ 。とい った気持 になるのである。 ア 大変 お世話 になった東大理学部 の多 くの方々に心 メ リカか ら帰国後一年 して,東 京理科大学 の応用 には在職 中大変 お世話 にな りました。 か らお礼 申 し上 げます。特 に理 学部事務部 の方々 化学科 の助教授 とな り,こ こに四年半お世話になっ 大学 に入学 してか ら今 までの人生 を振 り返 って た。国家公務員 の資格 が切れ ることは損 にな り得 見 ると,主 観的 には,綱渡 りの連続 だったように る ことは知 っていたが,流 れ に身 を任 せた。 ここ で初 めて学 生か ら “セ ンセ イ"と 言われ る身分 と 思われ ます。 (多 くの人 に とって,人 生 とはそ う なる。質量分析計か ら離れ ることになったため 友人 の励 ましと支 えがなかった ら何本 かの綱 を渡 仕事 の継続性 な どで は苦 労 があった。 り終 える こ とはで きなかった ことで しょう。綱 か , い うものなのか もしれ ません。)師 ,先 輩 ,知 人 , 神戸大学 に地球科学科 が新設 され,地 球化学講 ら完全 に落 ちかかった時 には,一 度 な らず,一 羽 座 の教授 となった。宝塚劇場 の近 くの,立 派 な洋 の鳥 が何処 か らか飛んで来て私の命運 を拾 い上 げ 館 を借 りる ことになる。私 は,意 図的 にで はない て くれたようにさえ思われ ます。誰 がその鳥 を遣 が,4年 半 か 5年 で 身分 が変 って来 たが,神 戸 に わ されたのか,私 は知 る由 もあ りません。 -29-― 増 田先生 を送 る 脇 田 宏 (地 殻化学実験施設) 増田先生 はたいへ ん豊 富 な経歴 をた どられた方 球化学的 システマ ティックスを提唱 された。 さら であ る。 ご出身 は北 国 の弘前市 で ある。昭和 28 に高精度質量分析計 による存在度 の精密測定 な ど 年 3月 ,東 京大学理学部化学科 を卒業を 同時 に 独創的な研究成果 も次々 と発表 され,周 辺領域 に , 大学院は名古屋大学の地球化学を選 ばれて,修 士 も大 きな衝撃 を与 えて い る。 こ うした研究 の成果 , 博 士課程 を修了 された。名古屋大学 には日本 で最 が認 め られて,昭 和 58年 には「 稀土類元素 の微 初 に地球科学科 が設置 され,先 生が卒業 された年 量精 密演1定 と宇宙・地球科学 へ の応用」 の題 目で に大学院 も開設 されたのである。 仁科賞 を受 賞 された。 昭和 33年 ,東 京大学理学部化学教室 に戻 られ 最近 で は,天 然放射性 の La 138の もつ半減期 , 無機化学研究室 の助手 を務 め られた。昭和 37年 を利用 した新 しい年代測定法 を実用化す るな ど には東京大学原子核研究所 に移 られ,7年 間 を原 世界 に大 きな反 響 を与 えてい る。稀 土類 のご研究 子核物理学者 の中 で過 され,御 自身で質量分析 の のほか,地 球環境 に密接 に関連 する砂漠化 の問題 装置 を組 み立 てなが ら地球化 学 の研究 を続 けてお にも関心 をもたれ,ご 自身 で何 回 も中国奥地の砂 られ た。昭和 41年 か ら 1年 間,米 国 に留学 され 漠 に出向かれている。 た。折 しも,宇 宙探査時代 の幕開 けで,留 学先 は ワ シ ン トン近 郊 NASAの 中心 的研 究機 関 Goddard Space Flight Centerで あった。 ; 先生 は本学 に在職中,学 部内 はもとよ り学内 の 各種委員会委員 を歴任 され,学 術行政 にも尽 くさ れた。お もな ものは理 学系研究科委員 ,化 学専門 昭和 44年 秋 には,東 京理科大学理学部化学科 課程主任 ,環 境安全 センター運営委員 ,留 学生教 に助教授 として迎 えられ,独 立 した研 究室 を構 え 育 セ ンター運営委員 などで,理 学部分光化学 セ ン られた。手狭 な研究室 には大勢 の学生 が浴れ,廊 ター長 の要職 も歴任 された。学外で も,科 学技術 下や階段 まで も実験室 にして,研 究 をすすめてお 会議専門委員,学 術審議会専門委員,国 立極地研 られた。 その頃,学 会で は自信 に満 ちた学生 さん 究所南極隕石研究委員会委員 ,科 学技術庁研究開 たちが理科大 の名 を とどろか して い た。 発局研究推進委員会委員 などの要職 を務 められた。 昭和 49年 に は,新 設 され た神戸大学理学部地 さらに,近 年 で は,理 化学研究所地球科学研究室 球科学教室 の地球化学講座担 当の教授 として赴 任 の主任研究員 も兼任 され,多 数 の研究者 を指導 さ された。7年 間 を関西 の地で過 ごされた後 ,昭 和 れてお られ る。 56年 ,再 び東京大 学 理 学部 に戻 られ,教 授 とし 先生 は日本地球化学会の会長 ,副 会長 ,学 術会 て地球化学 の研 究 や教 育 に尽 くされ,本 年 ご停年 議 の研連委員長 な どを務 め られ るな ど,学 会活動 を迎 えられ る。 も熱心 に続 けてお られ る。多年 ,日 本地球化学会 先生 の御研究 の内容 はご経歴 と同 じように非常 誌「Geochemical JOumal」 の編集長 として,世 界 に多彩 である。その 中心 は稀土類元素 の存在度で 的 に評価 のある雑誌 に育 てあげ られたの も先生の 宇宙や地球 の起源 ,進 化 に関す る地球化学的研究 ご努力 で ある。 , である。稀 土類元素 は化学的性質 のよ く似 た十数 これでは,超 多忙 となるのは当然 で,ご 帰宅 は 個 の元素 の総称 で,増 田先生 は世界で はじめて地 たいがい終電車 とい う ことで ある。先生 の研究室 ―-30- には中国 。韓国・ イラ ンな ど世界 の国々か ら先生 費特別推進研究 を 2度 も獲 得 された ことか らもわ を慕 う留学生が集 まってい る ことで も有名である。 か るように,信 念 と説得力 をもった方である。 先生 のお人柄 についてふれる余地がな くなった。 本年 4月 か らは電気通信大学で ご活躍なさる こ 優 しい奥様 とお嬢様方に囲 まれたご家庭 と伺 って とが決 まってい る。先 生 ,今 後 もお元 気 で研究 を い る。先生 も一見や さしそうで あ るが,科学研究 続 けて下 さい。 “ 半 日本人"か ら “ほぼ 日本人"ヘ ー東大での 21年 一 山 0 本 祐 靖 (物 理学教室 ) 来 られ た こ と もあ った。 そんな こ ともあってか 1965年 に Massachusetts大 学 (UMASS)へ 移 ったあ と,1967年 の夏 に家族 と一 時帰 国 を した 時 には,し ばらく西川先生 の客員 として 1号 館 に 部屋 を頂 き,大 学院の特別講 義 をした りした。 こ のような ことが きっかけとなったのか もしれない が,1968年 ごろに西川先生 か ら東大 に来 て泡箱 写真解析 の研究室 を作 らないか, とい うお誘 いが あった。当時 は日本 とアメ リカ との研究体制 には 0 1950年 4月 東大理 Iに 入学 したが,そ の年 の 格段 の差 があ り,陽 子 シンクロ トロン もなかった 8月 に一 年 の予定でアメ リカ,マ サチューセ ッツ ので,非 常 に躊躇 したが,自 分 自身 がアメ リカの チ ‖の Andoverに ある Phillips Academy高 校 に 国籍 をとるのか, とか色 々考 え,ま た西川先生 の 留学 した時 に,こ れが それか ら 20年 の滞米生活 熱意 に感動 して,恐 れおのの きなが ら東大 か らの につなが るとは夢 に も思って いなかった。 また, offerを お 受 け した。 1969年 12月 に着任 して, その後 中退 した東大 で 21年 も研究 ,教 育 に携 わ す ぐまた UMASSに 戻 り,そ ち らでの仕事 の片 るな ど,考 えた こと もなかった。 まった く人生 と をつ けて本格的 に東大 に来 たの は 1970年 の 8月 は面 白い ものだ。 末 であった。来 て驚 いたのは私 の居室 には電話以 1951年 に Phillips Academyを 卒業 し,Yale 外 は何 もなかったこと,研 究室 はごみだらけで色々 大学 に入 学 し,そ の まま大 学院 に残 り,PhDの な不用品が はい っていた ことで あ る。次 に驚 い た 学位 をとったのは 1959年 であった。多分 1958年 のが給料 だつた。当時の換算率で私 のアメ リカの に東大在学期間満期 とな り退学 したので はないか 月給 は約 72万 円,そ して私 の初任給 は 8万 円程 と∫ ユう。1959`手 か ら Br00khaven NatiOnal La‐ 度 だった と思 う。 しか しなん とかなるもので,住 boratoryに 6年 間勤務 したが,そ の時当時 ,東 む家 があった こともあって,家 内 と 2才 と 5才 の 大理学部物理学科教授 の西川哲治先生 (現 理 科大 子供 と 4人 が どうや ら生活出来 た。な にしろ日本 速器部門に 2年 間勤務 してお られ,知 学長)も カロ の ことは,特 に東大 の色 々な儀式 にはまった く無 り合 い になった。 また当時 11linOis大 学教授 だっ 知 な私 は “半 日本人 "で 理学部事務 の方 々や教室 た西 島和彦先生 (前 理学部長 )も 夏 に客員 として の皆 さんに大変 ご迷惑 をか けたようだ。 科研費 ―-31-― , 概算要求 な どとい う言葉 を聞 い た こともない私 に 1977年 に高 エ ネル ギー研 の 12GeVの 陽子 シン とってはす べ てが ミステ リーで あった。 ある事務 ク ロ トロンが 動 きだ し,lm泡 箱 を使 って実験 を と聞 かれた こともあ った。帰国旅費 の計算 のため 始 めた。大量 の写真 を見た り,映 って い る飛跡 の 測定 のために多 くの若 い女性 のアルバ イターが働 に,現 在 の事務長補佐 の川 口さんが地球儀 を持 っ いていて,な かなか華 やかな研究室だった。大学 て きて,我 々の住 んで い た町のあるあた りか ら東 院生 の二人 はアルバ イター と結婚 した し,も う一 京 まで紐で直線で つないで距離 を計 った りおか し 人 はアルバ イターの友達 と結婚 した。社交的 にも いや ら,涙 ぐましい努力 をして くださった。海外 生産性が あがって きた。 その後泡箱 の運転 が停止 出張が あま りな い ころ,私 はたびたびアメ リカに された こ ともあって,い わゆるカウ ンター実験 を 里帰 りをして,川 口さんの頭痛の種 を作 つたに違 始 めた。 また トリス タ ン実験 にも東大 グループの い ない。 メンバ ー として参加 した。最後 の実験 は陽子 シン 官 に “先生 はいっ た い どうゆ う経歴 の方 ですか" 私 の 日本語 もかな り怪 しかった らしく,球 面波 ク ロ トロン を使 つた高 エ ネ研 との共 同実験 で,5 を円面波 とい った り,山 本 の言語録 なるものが学 年半 かかって一 昨年 の 5月 にデータ収集 を終 え 生のなかに出回って い た,と い う伝説 もある。講 昨年末 に 2編 の論文 を発表 した。 QI , 義 の板書 のほ とん どは英語 だつた。3年 生 のゼ ミ 研究 ,教 育以外 に,他 の教官 か ら較 べ ればず っ ナー ル を英語でやった りして,な かなかアメ リカ と量が少 なか った とは思 うが,学 内外 の色々な委 との隣 のおが切れなか った。 ものの考 え方 も合理 員会 の委 員 をや らされた。 これが私 の “日本人 へ 主義 ,自 己主張 ,個 人主義的 な色 彩 が強 く,私 の の再生 "に 大変役立 った と思 う。全学の委員会 は 給料 があまりに低 いので,小 平学部長の所 に談判 東大 に来 るまで 日本 で働 い たこともなければ,大 にいった ら,故 吉野事務長 がびっ くりされたそう 学 での子弟関係 も経験 した ことのない私 にとって だが,小 平先生 は “アメ リカ人 はみなあんな もの は開眼的経験 であった。特 に委 員長 をした時 は だよ"と 事務長 に言われ た と,吉 野 さんがお しえ 学部長会議 で の報告 な ど,や や国会答弁的発言 も て くれた。 出来 るようになった。 そ して年月が過 ぎてい くに , , 研究室 の新設 は,な にしろごみすてか ら始 めた つれ,前 だった ら非常 に矛盾 を感 じたであろう こ のだか ら,最 初 は非常 にのろいペースで進 んだ。 とや,批 判的発言 をしたであろう ことが段 々少な しか し新 しい学問 で あ る こと,研 究 室の雰囲気 が くなってきた。また,一 見無益有害 の会議のメ リッ 自由で上下関係がほとんどなかったこともあって トも少 しは分 か るようになった。 しか し,最 も感 大変優秀 な大学院生 に多 く恵 まれ,段 々活気 をお 受性 の高 い時代 を過 ごしたアメ リカの影響 は骨髄 びて きた。泡箱写真 の解析装置 もす べ て 自分 たち に まで しみ こんでい るようで,今 だに奪盛 をか う で設計 し,ほ とん どの物 は手作 りであった。そ し I'm よ うな言 動 を時 々 して い る よ うで あ る。“ て着任後数年経 つて研究活動 力潮買調 に動 きだした。 quite comfortable both in Japan and the U S., 着任後 2年 目 ごろに科研 費 の Aに 当た り,1千 but at the same time I'In slightly uncomfortable 万以上 の研究費 が 12月 末 に入 り,そ れ を翌年 の in both"と い うのが私 の心境である。 , 東大 は私 が一番長 く勤 めた所 で,私 を良 い意味 2月 末迄 に使 え といわれ,大 変 な苦 労 をした こと 私 はお もっ てい る)“ ほ とん ど日本人 "に は忘れ られない。当時 の理学部事務 の片岡 さんの で 援助 がなければ切 り抜 けられなかったで あろう。 育 てて くれた所で もあるので,深 い愛着 の念 を持っ 事情 は大分改善 された とはいえ,研 究 ,教 育活動 て去 ってい ける ことを嬉 し く思 って い る。最後 に を妨 げる規則 ,書 類 ,雑 用の多 さをなん とか減 ら 私 を東大 に呼んで くださった西川先生 ,泡 箱写真 せない ものだ ろうか。 の解析 のためのアルバ イターの費用 の一部 を負担 ―-32-― (と (1 して我 々の研究活動 の向上 に寄与 して くださった 勇気 を与 えて くれ た学生 の皆 さん,特 に研 究室 の 当時中間子科学研究施設長,現 核研所長 の山崎敏 現 役 ,OB,OGの 光教授 ,教 室の皆 さん,裏 方 として私 を助 けて く たい。 , 皆 さ ん に深 く感 謝 の意 を表 し ださった事務官の皆 さん,そ して私 に常 に希望 と 山本祐靖先生 が提起 された問題 釜 θ 一 山本祐靖先生 は多 くの理学部 の先生方 と少 し 違 った経歴 をお持 ちであ り,先 生 ご自身 もその こ 常 好 (物 理学教室 ) 須賀 の料亭 のおかみ さんに語 り継 がれていると , とを誇 りに思 ってお られ ます。 そのご経験か ら先 ある名誉教授 か ら聞 きま した。 1931年 のお生 ま れで,学 習院 の初等科 。中等科 。高等科 と進 まれ 生 は,大 学教育 や運営 に関 して,貴 重な意見 を述 たあ と,1950年 に東大 の理 科 1類 に入 学 され て べ て こ られ,理 学部 に新風 を吹 き込 んで こられ ま い ます。 しか しその直後 にマサチ ューセ ッツ州 に した。 いろいろな機会 に伺 って きた先生 のご意 見 ある名門 プレップ・ スクール, Phillips Acade の中で,私 には,落 ち こぼれな い教育 お よび大 学 my Andover校 の 4学 年 に編入す るため東大 を休 の国際化 の二つが強 く印象 に残 って い ます。 学 されました。このプ レ ップ・ スクールはブ ッシュ 大統領 の母 校 で もあ り,先 生 も彼 と同 じエ リー ト 私 が 山本祐 靖先生 にお 目 に掛 か つた最初 は , じようなご経歴 をお持 ちだった,故 桜井純先生 と コースを辿 り,Yale大 学 に進 まれ ま した。 日本 人が経験する機会がほとんど無 いアメ リカのエ リー 相前後 して物 理学教室 でセ ミナーをされたように ト社会 を知 る数少な い方 であ られ るのは,こ のよ 覚 えて い ます。 そこで は,ゲ ルマ ンの Octet模 型 うな ご経歴 に基づ いてい ます。Yale大 学 で は物 1963年 頃 の ように記憶 して い ます。 同世代 で 同 (八 道説 )に 基 づ きロチ ェス ター大学 の大久保進 │ 江 理学 を専攻 され,suma cШ laude(成 績最優 先生 が 予 言 され て い たオ メガ・ マ イ ナ ス粒 子 秀 )で 卒業 され ました。 その後 ,同 じ Yaleの 大 )を 水素泡箱 で探索す る話 をされ ました。 「 マー チ ャンこん にちわJと 題 された当時のベ ス 学院 に進 まれたのですが,卒 業大学 の大学院 に入 トセラーに登 場す る Yale大 学学生 その ままのア うし添 えて置 きます。大学院 では原子核実験 を専 イ ビール ックの輝 きに,当 時 の物 理学教室の先生 方が野暮 った く霞 んで見 えた ことを思 い だします。 攻 され,1959年 6月 に PhDを 取得 されています。 その後ブル ックヘ ーブン国立研究所 に就職 され 当時 ,日 本 で も加速器 を建設 し素粒子実験 を始 め 主 として現所長である ようとの機運 が高 ま りつつ あ り,物 理 学教室 に西 プで,ア メリカの高 エネルギー物理学の重鎮 となっ 川哲治先生 (現 理科大学長 )と 故平川浩正 先 生が ている方々 と数 々の実験 をされ,成 果 をあげ られ 着任 されたばか りで した。山本先生 が西川先生 に ま した。 その中で一 番有名 なのが,先 ほ ど紹介 し 説得 され,東 大 に着任 されたのは 1969年 12月 で たオメガ・ マ イナ ス (Ω す。 先生 は海軍軍人 の名門家系 のお生 まれで,お 父 上 は知的でハ ンサムな青年将校 として,今 で も横 学 を許 され るのは, トツプの数名 であ る ことをも , N Samios博 士のグルー )発 見 です。 この実験 は,共 著者 が 30余 名 にお よび,大 きな加速器実 (Ω 験 のはしりとなった もので もあ りました。 ―-33-― 1965年 に はマ サ チ ューセ ッツ州立大学 に移 ら れ,ブ ル ックヘ ーブン国立研究所 のカロ 速器で撮影 く務 め られた り,留 学生教育 センターの設立や運 された泡箱写真 を解析 し素粒子 を研究す る こ とを 営 に携わ って こ られたの も,そ の一つに過 ぎませ 始 め られ ました。私 が 聞 いてい る範囲で は,こ こ ん。物理学教室 にあって は,常 に,落 ち こぼれが の研究環境が先生 の望 まれた もの と大 きく離 れて 生 じない ような講義 をすべ きであると強 く主張 さ いたた め,大 変苦労 されたようです。 その ころ西 れて こられ, ご自身 もその実践 に努 め られて きま 川哲治先生 と出会われ,帰 国 を勧 め られた と聞 い した。理科教育法などの講義 にも積極的 に取 り組 てい ます。「半分 だ まされて帰国 したが,今 で は んで こられ た ことに も,先 生のお考 えが よ く現れ │1先 生 にその ことを感謝 して い る」 とよ くおっ 西サ てい ます。 また国際化 に関 して思 い出す のは,着 しゃい ます。 任 されてか らしば らくの間,3年 生 のセ ミナー を ヽ 理学部物 理学教室 に来 られてか らは,皆 さんが すべ て英語でなさって いた ことです。 これが現在 ご存 じの通 りです。着任 当初 はマサチューセ ッツ まで続 かなかった ところに,東 大が国際的な大学 州立大学で始 め られた泡箱写真 の解析 を続行すべ になれない理 由の一つが あるように思 えます。博 く,新 型飛跡解析装置 を作 ることに全力 を注がれ 士論 文や修士論文の審査 な どで も丁寧 に英文 を添 ました。当時助手 であった川 回湊 さん とモ ワレ干 肖Jし てお られたのですが,最 近 は英文添肖」を期待 渉縞 を使 い高精度 でデ ィジタル化するアイディア されて困 ると嘆 かれてい ます。専任教官 の国際的 を実現すべ く,大 学院生 と一緒 に装置 を手作 りさ れて いた姿 を思 い だ します。 この開発 で 日本 の研 な公募 に関 して も,外 国 か ら着任 して も戸惑 う こ とな く教育 。研究 に活躍 で きる環境 を急 いでつ く 究費 が少な い こ と,熟 練技術者 の援助が得 られな るべ きだ と,主 張 されて きました。外国籍や外国 いこと,ま た旅費 な どを工面す るのす ら大 変 であ 育 ちの教 官や学生が い るだ けでな く,そ の人たち ることを痛感 されたようです。 この装置 が完成 し が十分活躍 で きるようになって始 めて国際化 した た頃には,あ れだけもてはや された泡箱 が次 々 と と言 えるとのお考 えは,い ま多 くの共感 を得 つつ 廃棄 される時代 になってい ました。先生 は,研 究 あ ります。 の効 率 だけを考 え,次 か ら次 へ と実験装置 を取 り 物理学科 の学生諸君 に聞 けば,や さしい先生 の 替 えてゆ くや りかたに,疑 間 を持 たれ始 めたので 一番 に山本先生 をあげるで し ょう。授業 について はないで しょうか。大学 は研究中心 でな く教育 を 行 けない学生 が,気 軽 に相談 で きた先生 だった と 申心 に考 えるべ きだ との先生 のご意見 を,よ く耳 想像 します。彼 らの悩 みに同情 され るため と思 い にしました。世界中のほ とん どの泡箱 が廃止 され ますが,私 な ども,ク ラスの上 半分 を見て講義 し るにお よび,高 エ ネ研で行われてい るカウンター てはダメで あると諭 された経験 が あ ります。 また 実験 に参加 され るようにな りました。 その際,陽 多 くの学生が,自 分の適性 を無視 して研究者 にな 子や重陽子 な どの反応 とK中 間子 の崩壊 を研究 りたが ることにも,疑 間 を感 じてお られたようで テー マ に選 ばれた背景 には, これ らの分野での先 す。就職担当の教 官 として も,根 気 よ く学生 の進 駆的な泡箱実験 が あったようにお見受 けしてい ま 路相談 に応 じてお られたのを思いだ します。物理 す。 1985年 頃 に は,日 本 も巨大 実験優先 の時 代 学教室 の実験担 当教官会議の議 長 として,学 生実 に入 ります。教育効果の高 い小 グループの実験 を 験 のテーマ選択や レポー ト採点 な どで も,学 生 へ 理想 とされて きた先生 であ りますが,国 内 の巨大 の教育効果 を重 視す る方 向で指導力 を発揮 されて 実験の最初 となった トリスタン計画 にも参加 され トパーズ 。グループて活躍 されるようにな ります。 きました。 また技 官 や事務官の方々の相談相手 と , して も人望が厚 く,物 理教室の試作室や材料室 , 山本祐靖先生 は,大 学運営 で も,教 育 と国際化 また事務室 な どの運営 にあたって も,職 員 と教官 を中心 に活躍 されて きました。国際交流委員 を長 または理学部事務 との間 で調整 の努力 を重ねて こ ―-34-― Q C られ ました。 1989年 4月 か ら今 日まで,理 学部 手 法 が 成功 したの も,こ の実験 が 最初 だ と思 い ま 附属素粒 子物 理 国際 セ ン ター 長 として,CERN での研究 が大 きな成果 をあげ る支 えになって こ ら SSCへ の貢献 な どを め ぐ り議 論 が 激化 す る今 こそ,教 え子 や後 輩 に建 設 的 な知 れた ことは,皆 様 のご存 じの通 りです。 恵 を授 けて い ただ けた ら と願 って い ます。 す。 超 巨大 加 速 器 最近 山本先生 は,ご 専門の研究 で巨大化が進む 健 康 維持 の ため始 め られ た大極 拳 で ,師 範 に ま のを嫌 われて,「 私 はよい時期 に辞 めて行 く」 と で な られ た と聞 い てい ます。 ご定 年後 は大 極拳 な 口癖のようにおっしゃい ます。しか し振 り返れば どを教 えなが ら,の んび リマ イペ ー スで暮 らした この巨大化 は先生が若 か りし ころ活躍 されたオメ い との ご希望 の よ うですが ,今 こそ先生 の貴 重 な ガ 。マ イナ ス ご経験 が一 層活 か され るべ き時 だ と思 い ます。 こ , 0 )の 実験 で第 一 歩 を記 した と 言 えるのです。最高のエ ネル ギーの加速器 で,で きる限 り多 くの事像 を記録 してお き,あ とで組織 祈 りつつ ,山 本祐 靖 先生 の 多岐 にわ た る ご指 導 に 的 に解析 する ことで少数 の「新事象」 を発見す る 感 謝 す る送 りの言葉 とさせ てい た だ きます。 (Ω れ か ら も健 康 に留意 され一 層 ご活躍 され る こ とを 理学部 な らざる思 い出 近 藤 雅 之 (天 文学教育研究 センター ) ピカの教室 が,さ すがに古 く汚れたな と思 うとこ ろまで見たけれ ど,つ いに図書室 と堀先生 の部屋 以外 あまりゆった りした ことが な く過 ぎた。理学 部 の縁 の うすさはか くの如 きものだが,東 大 との 縁 の うす さも似 たような ものである。病院 に行 っ た り,他 学部 の会 議室 を借 りに行 った りした とき は,学 外者 と同 じような気持 を味わ されて きた。 それではどこにいたか とい うと,ず っ と東京天 │ 文台 にい たのである。天文台 も東大だったのだか 最後 の 3,4年 を理学部 に在籍 させていただ き ら,東 大の思 い出 とい う ことにはなるのだろう。 思 い出 をとい う破 目 になったが ,正 直 の ところ理 安保 の騒然 たる年 に天文台 に入 り,折 か ら建設中 学部 の思 い出 とい う感 じは全然 ない。学部 の頃 も の岡山天体物理観測所へ 開所式 1号 館 に入 らな い訳 で はなか ったが講義 のほ とん 指導教官 の大沢清輝先生が,建 設 の リーダーだっ どは木造 の別館 で疎外 された風 だった し,午 后 は 都電 で麻布狸穴 の天文学教室 へ行 って しまう。大 たか らである。 日本最初 の大 きい望遠鏡で天体物 理の観演1が 出来 るとい うことで,こ れ はほん とに 学院 になってか らは麻布 と三鷹 の天文台 とい う訳 嬉 しい ことで あった。 ただ,扱 いつ けない新 しい で,実 に本郷 とは縁 の うす い生活であつた。教室 器械 ということで一刀三礼式 の丁寧 さを全員見守 っ が麻布 か ら現在地 に引越す ときも麻布 の荷物積 み てやる とい う形で,な かなか自由にさわ るように だけ手伝 って,ま だ新 しい東京タ ワーに来収 めに な らなかった。 それで も正式観測が始 まる前の試 なるだろうか らと登 った覚 えがある。新 しい ピカ 験期間 には厳冬快晴 の 2週 間 をひ とりで使 うとい , ―-35-― lヶ 月後 に移 つた。 う経験 もあった。ただ,解 析用の測定器 もなにも きた。国立天文台 になってか らどうい う形 になる ない とい う偏 った出発であった。岡山で は,全 国 とい う見通 しがあった訳 で はないが,結 果的 にそ に光学観測 の経験 を持 った人が増 えた こと,ま た う悪 くな い運用 だ った とは思 ってい る。 15等 位 全国の人が へ だてな くつ きあえる端緒 が 出来た こ までの分光測光 を住 み こんで や る人が いれば有用 とが今 に影響 を及 ぼ している。 なのだが, というのが今 の私 の印象 で ある。 木 曽の観測所 の始 まった とき何 か しないか と誘 天文台の光 学関係 の 3観 測所 をある程度深 い関 われて云々 とい う話 は前 に広報 に書 いたので省略 係 で歩 い て きたの は,私 しかいない。それぞれ に す る。木 曽 は天体分光 を主 としていた私 とは違 う 特徴 とい うか違 いが あ り,愛 着 もあ る。 30年 を 系統 の人が主 として作 ったのだが,そ れ らの人 た 観瀬1天 文学で過 して きた もの として 自分流 の理 想 ち も岡山は使 い に来て いた。 それで岡山の経験 型 を考 えて きた。観測天文学 といって も観測 はも , 批判 は有効 に生か されて観測所 の構想 ,運 用が さ ちろん手段 である。考 えた ことを確かめるのに観 れて きた。私 自身 は使 い に行 かなか ったが野辺山 演lす る。そのためには多分今 の計 算機程度 に 自由 で もその点 は同 じと思 える。 また岡山 と木 曽の間 に望遠鏡 が使 えない と駄 目である。そのためには に,70年 前後 の状 勢 の天文 学界 へ の影響 が大 き 1年 に何度 とかのプ ロポーザルで時間 を割 りあて い。直接科研費 の使 い方が変わったし,人 の交流 て もらう観測所 で は駄 目で,レ ジデン トが使 う器 の様子 も変わった。人 工衛星以来 の天文 学 の様変 械 が要 る。天文台 はお寺 と同 じ く山号の付 く施設 わ り全般 も深刻 な効果 になって きた訳で あ る。 であ る。家族 の便 宜で山を降 り,さ らには世界 に 私 は天文台 を離れて理学部 へ移 る前 3年 を堂平 , Q 公 開す るようになって,私 の夢 か らは遠隔かった。 観演l所 と関係 した。堂平 は岡山 にち ょっ とお くれ 実際,大 きい望遠鏡 を昔のように少人 数 で使 うの て始 まった観測所 だが,天 文台の一部 の使用 とい は難 しいか もしれない。 日本で は今 の ところ堂平 う形 に近 い まま多年過 して きて,か な り閉鎖的で がそれ に一番近 い と思 うのである。低分散分光測 あつた。 よその人 も頼 んで使 えな い ことはなかっ 光 (偏 光 )に 限 るので はあるが,そ うはつきり意 たが使 い よかつた とはいえな い。今 は完全 に共同 識 した ときは自分 にもう時間がなかった とい う こ 利用施設 として多色偏光測光計 が活用されて い る。 とである。 私 のいた時期 は実質 その過 渡期 たるべ く運用 して C 近藤雅之先生 を送 る 辻 近藤先生 は 1961年 に本学 の大学院博士課程 の 隆 (天 文学教育研究 センター) 目にかか る機会 があった こ とを懐か し く思 いだ し 修 了 を待 たず に当 時 の 東 京 天 文 台 に入 られ ます。 この岡山天体物理観測所 は口径 188セ ンチ 1960年 10月 に開所式 を迎 えたばか りの岡山天体 の反射望遠鏡 を持つ我 が国 で始 めての近代的 な天 物理観演1所 に出張 され,同 観測所創設期 の困難 な 体物理観演Jを 目的 とす る観測施設 であ り,当 時 は 時期 にその立ち上 げに参加 され ました。筆者 が大 東洋一 ,世 界的 にも 10指 に入 る大望遠鏡 でした。 学院 に入 ったのは丁度近藤先生 と入れ違 いにな り 近藤先生 はここで主 として分光観演l装 置 の立ち上 ましたが,岡 山観測所 に観浪1に 行 くとしばしばお げを担当され,我 が 国 で初 めて導入 された大型分 , ―-36-― 光器 に よる本格 的 な天 体 分 光学 の観 測 的基 盤 を整 学教育研究 セ ンター と国立天文台 とに改組 され ま 備 す る上 で重 要 な寄与 を され ま した。近 藤 先 生 ご したが,こ の際近藤先生 は理学部 に移 られ同 じく 自身 も これ ら分光 器 に よる観 測 を精 力 的 に進 め ら 理学部 の所 属 となった木 曽観測所 で前記紫外超過 れ,主 と して金 属線 星 │ (Am星 )と よばれ るあ る 天体探査の研究 をさ らに発展 させ ることにご尽力 種 の金 属線 スペ ク トルが 異常 を示 し当時 そ の原 因 され ました。実際,近 藤先生 はご定年 の直前 まで は謎 で あ った特 異星 の スペ ク トル を多数観 測 され ほ とん ど毎月の ように木 曽観 測所 に出か けられ ま した。 観測及 び今 までに得 られたデータの解析 を精力的 その後 ,近 藤先 生 は三 鷹 の 東京天 文 台 に戻 られ に進めてお られ ました。 さらにこのようにして発 て,こ れ らの Am星 の ス ペ ク トル の解 析 を進 め られ ま した。 特 に主 星 が Am星 で 伴 星 が 正 常 と (KUV)の 内特 に興 味 があると思われ る天体 につ いては,堂 平観測所 思 わ れ る星 か らな る連 星 系 を詳 し く研 究 し Am での測光観測や岡山天体物理観測所での分光観測 星 に特 有 の化 学組 成 の異常 は伴星 に は見 られ な い を行 い性質 を明 らかにする研 究 をすすめて こられ こ とを 明 らか に され ,さ らに これ ら Am星 の 統 ました。 見 され た木 曽紫外超過天体 計 的解 析 に も研 究 を広 げて いか れ ま した。 また, │ , 1月 24日 に行われた近藤先生 の最終講義 は “ 特 近藤 先生 は岡 山天体物 理観 測 所 で測 光観 瀬1に も手 異連星 KUV543-209"と 題 して行われ ましたが を広 げ,や は り Am星 の 詳 細 な放 射 ス ペ ク トル ここで話題 とされた天体 もこのよ うにして詳 しい 分布 を決定 す る研 究 を進 め られ ま した。我 が 国 の 追跡観測 の行われた天体 の一つです。近藤先生 は 気 象状 況 は分 光 観 瀬1は と もか くとして安 定 した空 この天体 の観測 を長期 にわた り行 い この天体が不 が必 要 な測光 観 測 に は必 ず し も適 した もので はあ 規則 な変光 を示す ことか らこれが激変星 と呼ばれ りませ んが ,近 藤先 生 は この よ うな困難 な観測 を る天体である ことを示 され ました。激変星 とは自 我 が 国 で行 う上 で 先駆 的 な役割 を果 たされ ました。 色矮星 と赤色矮星 とが連星系 をな し赤色矮星 か ら , さ らに,1974年 に や は り当 時 の 東 京 天 文 台 に 流出 したガスが 自色矮星 の まわ りに降着 円盤 を形 木 曽 シュ ミッ ト観測所 が完成 し,世 界第 4位 の シュ 成 してい る活動的な特異天体 と考 えられてい ます ミッ ト望遠 鏡 が 活動 を開始 しましたが ,近 藤 先生 が, このよ うな複雑 な物理構造 のためか,近 藤先 は ここで も紫外超 過 天体 を探 査 す るプ ロ ジ ェ ク ト 生 による 10年 以上 にわた る数 100夜 の観瀬1デ ー で大 きな成 果 をあ げ られ ま した。 6度 四方 の広 視 タを周期解析 にかけて も通常の連星 のようにはっ 野 を一度 に観 演1で きる シュ ミッ ト望 遠鏡 に よ り きりした周期 は現れず,非 常 に複雑 な光度 と色 の , (KUV)と 名 づ け られ た数 千 不規則 な変化 を示す と言 うことです。 さらに詳 し 個 の特 異天体 の デー タベ ー ス を完 成 され ま した。 く調 べ るにはスペ ク トルの観測 を行 う ことが必要 また,1984-88年 の期 間 ,近 藤 先 生 は東 京 天 文 ですが,こ の天体 は 14等 級以下 の暗 い天体 で 台・ 堂 平観測 所 の責任 者 として その運 営 の任 にあ 我 が国 の望遠鏡で はこのような観測 はかな り難 し た られ ま した。 こ こに は口径 90セ ンチ の反射 望 い ことを近藤先生 は大変嘆 いてお られ ました。実 遠鏡 が あ りますが ,近 藤先生 はここで上 記 シュ ミッ 際,近 藤先生 がその立ち上 げにご尽力 された岡山 ト探 査 に よ り発 見 され た特 異天体 が どの よ うな天 の我 が 国最大 の望遠鏡 はい まや東洋一で もな く世 体 で あ るか を突 き止 め るため に。 これ らの天体 の 界的 にみればご くあ りふれた小望遠鏡 になって し 測光観 測 を行 うための新 しい システム を確立 され , まい,そ れ を全国の研究者で共同利用 してい るた その後現在 まで継続 され てい る長期 観 測 プ ロ ジェ め一つのプ ロジェク ト当 りの観測時間 はきわめて ク トをお始 め にな りま した。 少ない とい う困難 な状況 になって しまい ました。 木 曽紫外 超 過 天 体 , 1988年 7月 に は東 京 天 文 台 が 本 理 学 部 の天 文 ―-37-― しか し,近 藤先生 はこのような状況 のなかで,ご 自分 で無数 の天体 のなかか ら未知 の天体 を発見 し うや く自分達で必要な観測 がで きる状態 になった その本質 を自ら究 めてい くとい う息の長 い研究 を とい う意味 でその基礎 を確立 した重 要な時期 にあ 続 けられ,多 くの成果 をあげ られ ました。 このよ た ります。 そして これ らの基礎 の上 に今やす でに うな ス タイル の研究 はだんだんや り難 くな って く 始 まった新 しい大型光学赤外線望遠鏡 の建設 をは る傾 向 にあ りますが,近 藤先生 が このよ うな姿勢 じめ として世界最高 レベル をめざす次 なる大 きな を貫かれた ことははなはだ敬服 に値す ることだ と 飛躍 の時 にあ ります。 まだまだご一緒 に仕事 をし 思 い ます。 ていただ けると思 ってい ましたが,ご 定年 を一つ この ように,近 藤先生 は 1960年 代 か らよ うや の 区切 りとして理 学部 を去 られ る事 は大変残念 な く整備が進 んだ岡山,堂 平 ,木 曽等義 が 国 の光学 ことです。大変 な読書家で もあ られ る近藤先生 は 赤外線天文学 の主要 な観測施 設 のすべ てに深 くか ご定年後 の自由な時間 を楽 しみにしてお られ るこ かわって こられ ました。思 えば近藤先生 が ご活躍 とと思 い ますが,今 までの貴重 なご経験 の蓄積 を になった この 30年 間 は,我 が 国の光学赤外線天 文学 において観測施設 がほ とん ど無の状態 か らよ ご ま す す 活 躍 下QI 『 『輯 賃 曾 lTI11季 ttζ 与 植物園の思 い出 鈴 木 実 (植 物園) に荒 れ放題 との実感 で した。 荒廃 した日本庭園 の復 旧 と周辺の維持管理 とい う ことで勤務 をはじめたが,復 旧資金や労力が特 別 あるわ けでな く,わ ずかな道具や資材 の購入 さ え満足 にいかない状態 のなかで,復 旧について真 剣 に思いなやんだ ものです。最初 に手 がけたのは , 日本庭 園内 の梅林 の復 旧計画 が あ り,昭 和 37年 か ら苗木 の収集 と育成 に とりかか りました。 ウメ の種子 まき,さ し― 木 ,接 ぎ木 といった繁殖 な ど , 植物園 に勤務する前 は,造 園会社 に技術者 とし そ の当時 に取得 してい た技術 と異 なる技術 の修得 て籍 を置 き,主 に民 間 の個人庭園の作庭 に従事 し が必要 にな り,一 時面食 った こともあったが,今 ていたが,ア メ リカ合衆国 ワシン トンにある日本 日の立派 に育 つた梅林 を見 るにつ け,当 時 の試行 大使館 に日本庭 園 の作庭 に 3ヶ 月間現地 に赴 き 錯誤 を繰 り返 して い た ことが なつか し く思われ ま 帰国 まもな く植物 園 に勤 めて 30年 が過 ぎて しま す。 また植物 の収集 に関係 した ことですが,園 内 った。 保有植物 の充実 と海外植物園関係機関 との植物種 , 私 が勤 め はじめた昭和 36年 9月 頃 の植物 園 の 子交換のため,野 外 へ種子採集 にでかける機会 に 庭園 は,歯 が抜 けたように立 木 が少な く,夏 草 が め ぐまれ,造 園樹木 と違 った一 面 をもつ野性 の樹 茫 々 と繁 っていた ことをい まで も折 りにふれよ く 木 を勉強 で きました。 その経験 は,今 日の仕事上 思 い だ します。太平洋戦争後 の復興 が間々な らず おおいに役立 った り,植 物 に対す る知 識欲 を高 め ―-38-― 01 るきっか けにな りました。 さらにそれによって た崩 され る こ と度 々 で ,完 成 の よ ろ こび を味 わ う その後研究植物 の収集 と保存 の業務 のなかで,ハ こ とが少 なか つたが ,石 組 みの裏側 を コ ン ク リー ギ属 ,裸 子植物 のマ ツ属 を担当 し,日 本庭園 との トで固 め る こ とに よって,や っ と見 た 目 に も変 わ 調和 をはか りなが らその植栽 と維持管理 に務 める りな く保 護 で きる よ うにな りま した。 しか しなが こともで きました。 ら,私 の管 理担 当地域 が 植物 園 の約 4分 の 1に 相 , 一 方 日本庭園の中心 をなす池泉 は,昭 和 30年 当す る大 面積 で あ りなが ら,人 員 削減 等 に よ る草 , 同 40年 に池 泉 の浚渫 護岸 を中心 とした改修 工 事 刈 雇 員 が 皆無 とな り,そ の しわ よせ を もろに被 る が行われ たが,そ の後 の補修 が十分 でないため に こ とにな り,当 所 の業務 内容 で あ った 日本庭 園 の 石組みの崩れ,乱 杭 の腐朽が進み,土 砂 の流失 に 復 旧 を見 ず して去 る こ とにな った こ とは,甚 だ残 ともなって入 園者 に とって も危険な個所 もで きる 念 に思 えて な りませ ん。 私 に とって 30年 の歳 月 始末 で した。 その都度池 の水の中 に入 って崩れ た は短 い もので したが ,今 日 まで無事 にや って これ , 0 'こ たの は,そ の 間 に出合 った 多 くの先生 方 ,職 員 の 発信 i:T傾 擬 :菫 ξし會 31F果 ,県 醤 1 先輩 の方 々の あたたか い御指導 が あ ったか ら と思 っ り陸地 に上げる時 の重 さは,そ の何倍 もの重 さを て い ます 。 定年 とい う節 目 を迎 え,心 か ら御 礼 を 感 じるもので,大 変 な苦労 を強 い られなが ら補修 申 し上 げ,理 学部 並 び に植 物 園 の皆様 方 の御健勝 を終 えた ことで した。 しか し,入 園者 によって ま と一 層 の御 発 展 をお祈 り致 します 。 鈴木 さん を送 る 加 鈴木 さん は 31年 の間植物 園 で植物 の育成栽培 1 藤 雅 啓 (植物園) ず か しい ことで ある。 にあたって こられた。鈴木 さんの担 当 は主 に日本 鈴木 さんは,池 の まわ りにマ ツ,ウ メ,ハ ギ 庭園 の維持管理 である。 日本庭園 は園内 の他 の区 ツツジの類 な どを調和 を保 ちなが ら配置 ,育 成管 域 と比 べ てだいぶ趣 がちが ってい る。植物園 は研 理す る ことに よって,そ の両立 をみごとにな しと 究植物園 として,世 界 とくに東 アジアの野生植 物 げられたのであった。 ウメ林 にか こまれた池 には を教育研究 のために収集,系 統保存す るのが重要 ハ ナショウブの い ろい ろな品種 が系統保存 され な任務 で,園 内の相 当部分 はそれ らの植 物 を元気 入園者に愛され ているのも両立 の端的な例 である。 よ く,効 率的 に育 てるために,つ まり植物本位 に 日本庭園 は一部 が徳川 5代 将軍綱吉 の幼時の居邸 管理 されている。 それに対 して,日 本庭園 の区域 であった 自山御殿 で あるな ど,江 戸時代 の代表的 , , はそのような性格 をもつだ けで はな く,庭 園 とし な庭 園 のひ とつ といわれ,鈴木 さんのお仕事 がい て憩いの場 で もある。例 えば,そ こに植 えられて い るハ ギ類 は研究 に用い られて い る一方で,日 本 かに重大であったか,い まさらなが ら感心す る次 第 である。鈴木 さんが退職 され る 4月 以降 も日本 庭園を形 づ くる要素で もあ り,の んび りとスケ ッ 庭園 を大切 に管理 して,鈴 木 さんにお小 言 をち ょ チをす る対象 にもなっているので ある。 この多様 うだ い した り,が っか りさせた りす る ことが ない 性 の確保 と庭園 の維持 を両立 させ ることは大 変 む ようにしたい。 ―-39-― 鈴木 さんは永年の仕事柄 か庭師の風格がある。 寒 い ものだか ら 1升 は入 る大 きなやかんに酒 を入 地下 足袋 が とて も似合 って い る。失われ つつ ある れて爛 をす る。 そのやかんで酒 をつ ぐのだが,一 個性 をとりもどそうとす るのが世 の中 の流れであ 番ぴ つた りとしたつ ぎ手が鈴木 さんであ り,つ い るが,一 芸 に秀でた鈴木 さんが去 られ ることは植 で もらった酒 もお い しかった。 そ うい えば,2,3年 前 マ ツの剪定 をして い る 物園 にとって も個性 の喪失 か もしれない。 自己主張の現代 にあって,鈴 木 さんは珍 しく控 最中,葉 か小枝 が眼 に突 きささ り角膜 か どこかが えめな方である。退職 を控 えた この 1年 間,研修 傷 つ く怪我 をされた ことが あ り,何 日も眼帯 をし な どいろいろ腕 を磨 いた り経験 をつむ機会 があっ て仕事 を続 けてお られたが,あ の怪我 はもうすっ たにもかか わ らず,自 分 は もうす ぐやめるか らと か り治 られたのだろうか。最後 に変な ことを思 い いって,後 輩 にその機会を譲 られてしまうのであっ 出 して しまったが,鈴 木 さん,長 い問あ りが とう た。鈴木 さんは素朴 とい うか純粋 とい うか飾 り気 ござい ました。 これか らもどうぞお元気 にお過 ご のない方 で もあ る。 「初午」 の屋 外 での宴会で は し下 さ り,季 節 には植物園 に足 をお運 び下 さい。 思 い出す ままに 前 川 深 雪 (地 質学教室 ) 図書室 には,昔 の暖房設備 の名残 りはあるもの の使用で きず,閲 覧室 と,司 書 の執務 す る事務室 に,冬 はガスス トープが あるだけ,夏 は扇風機 と い う時代で した。 で も,窓 ごしに,緑 のけや きの 影が涼 し く,四 季折 々 に心 を楽 しませて くれ まし た。 書庫 の面積 は約 150平 米 , この中 に明治 10年 , 教室設立以来の資料が詰め込 まれていたわけです。 本 に換算 して,ざ っ と三万冊 もあるか とい う資料 私 が地質 学教室図書室 に司書 として勤 め ま した が この小 さな書庫の天丼にまで積み上 げられ,年 々 頃 は,教 室 は理 学部 2号 館北側 1∼ 2階 に あ り す る出版 物 が,置 き場 な く,少 しで も空 いて 増力日 図書室 は 2号 館玄関 の真上 ,2階 にあ りました。 い る部分 に,整 理 も覚東 な く押 し込 め られてい ま 現在 ,教 室の保存書庫 となっている部分 です。昭 した。 , 和 9年 の建 築 とい う建物 は文字通 り古色蒼然 とし しか し,歴史 は古 く,貴 重 な蔵書 を持 つ,日 本 てお り,木 製 タイル張 りの床 ,廊 下 か ら見渡 せ る の地質学の,い わば代表的な,東 京大学地質学教 スペ イ ン風 の中庭や,ゆ るやかな階段 のたたず ま 室 を訪れ る世界 の学者 は多 く,そ の殆 んどの方々 い も何処 とな くゆった りとした,昔 の悌 を残 して が 図書室 を興味を持 って見学 に来 られるのですが 掃除 の行 き届 いた廊下 の床の上 に,鉢 植 えの植物 その方たち を案 内 して来 られ る先生方 が,「 ここ の葉影 が映 ってい るような,落 ち着 いた雰 囲気 を は書庫 とい うよ り,倉 庫 で して …。」 と苦 しい説 湛 えてい ました。 明 をしてお られた ことを,今 なつか しく思 い出す , , ―-40-― QI この 20年 余 の 図書室生活 の 中 で,私 が 楽 し く ことがで きます。 確 かに,ひ とくちに地 質学教室図書室 といって 感 じられたのは,こ の図書室 での小 さな仕事 の一 も,岩 石学 ,構 造地質学 ,鉱 床学,古 生物学 ,堆 つ一つが世界 に繋 が って い るとい う想 いで した。 積学 と,学 問 の範囲 はかな り広 く,そ れぞれの資 交換出版物 の受 け入れ,ま た紀要 の発送業務 に携 料 が, こんなに古 くか ら, こんなに多 く集 め られ わ りなが ら,あ るい は直接購入 して い る出版物 を ている図書室 は他 にないで しょう。 それだけに 回っての手紙 のや りとり,そ んな業務 を通 じて私 「スペース とお金 を,い っぱいい ただけた ら, ど は外国 の学会 や大学 との触れあい を感 じました。 んなにか立派 な専 門図書館 を作 ることがで きるの 今 一 つ,私 を 20年 間 この 図書室 に引 き留 めて , くれたの は,そ れ まで全 く門外漢 であつた私 が になあ。Jと 幾度思 ったかわか りません。 ● , 昭和 52年 に教室 は理学 部 5号 館 に移転 しまし 図書室 の資料 に触れ る ことによって,地 球科学 を た。教室 の移転 とともに図書室 も,多 量の古 い資 垣 間見 る ことがで きた ことです。地球環境 へ の興 料 を 2号 館 の旧図書室 の書庫 に残 したまま 5号 館 味 を,以 前 よ りはもっ と身近 に考 える ことがで き に移 りました。当時 ,移 転 を手伝 って くれた,カ るようになった とい う ことで しょうか。 ナダか ら来た院生 が,ほ こ りをかぶ った古い図書 退職 を前 にして図書室 の中 を眺める時,図 書や を書架 か ら下 ろしなが ら,「 あ―,面 白い ものが 地質図の一つ一つが,雑 誌 タイ トルの一つ一つが ある。楽 しい…」等 と上 手 な 日本語で,嬉 々 とし い とお しく思われ,そ の行 く末 まで もふ と考 えて て開 けなが ら作業 して いたのを楽 し く思 い出 しま しま う自分 に苦笑 を禁 じることがで きません。 この 20年 余 ,私 の生 活 の大部分 を 占 めて い た す。 ● 理学部 5号 館 は,人 も知 る丹下健 三 先生の設計 地質学教室図書室 の この職場 ,2号 館書庫内 のほ になる近代建築 で,同 じく本部庁舎 とともに竜 岡 こ りをかぶ った まま,今 は殆 ん ど開 かれ る ことも 門傍 にそそ り立 って い ます。 その 7階 西倶1の 一 隅 な くひっそ りと収納 されている 1800年 代 か らの に地質学図書室 は場 所 を占め,書 架 を組みました。 資料 たち,ま た,毎 日のように世界各国 か ら送 ら 以来 ,5号 館 と 2号 館 の 2つ の書庫 を持 ち,多 少 れて来 る出版物 の数 々 に心 の中で別れ を告 げなが の不便 をかみ しめなが らも新 しい図書室 での生活 ら,感 無量 の思 いで立 ち尽 くす昨今です。 に馴 染 んで しまい ました。蒲洒な近代建築 の外観 お世話 にな りました教室の皆様方,各 図書室 を に比 して,図 書室 の中 の設備 はなかなか充実 しな はじめ,理 学部 の皆々様方 ,私 の不束 な 20年 余 い まま 15年 とい う歳 月 が経 ち,そ れで も最近 は をお支 え下 さ り,あ りが とうござい ました。 ご健 若干 の OA機 器 な ども備 え られ,以 前 よ り仕事 康 とご活躍 を心 よ りお祈 り申 し上 げます。 もしやす くな りました。 ―-41-一 前川深雪 さん をお くる 鳥 平成 4年 3月 ,前 川深雪 さんは東京大学 を停年 海 光 弘 (地 質学教室) 苦労 も大変であつた事 と推察 され ます。 退官 され ます。前川 さん は昭和 46年 に理 学部地 地質学図書館 の文献 の整理 は実 は前川 さんよ り 質学教室 図書館 に着任 され,以 来 20'年 間 にわた 以前 は一般的な図書分類 の方法 を とってはいませ り地質学教室図書館 の業務 のエ キスパ ー トとして んで した。 これには もち ろん当時 の状況 に応 じた 働 いて こられ ました。 理由があったのですが,東 大内外 の一般 の利用が 地質学教室 には東京大学理学部創 設時 よ り教育 著 しく広が る中で,共 通 の分類基準 にしたがった 研究活動 を開始 した こともあって,き わめて多 く 整理利用方法 をとらざるを得ない状況 になって き の歴史 的な文献 や地 質図が保存 されて い ます。 ま た地質学 とい う分野が生物科学 と同 じように大変 た事 と,1977年 に図書館 が 引越 した こ ともあっ に多義 にわ たる学問分野なので,書 籍や学術誌 の 種類 も文科系 の分野か ら物理学 ,化 学 ,数 学 ,生 うや く再分類 と整理が行われたのです。現在 で は コン ピュー ターによる文献検索 も含 めて格段 に利 物科学 な どの基礎科学か ら土 木工 学 ,材 料 工学 用 し易 くなってい ますが,こ れ も一 重 に前川 さん , て,前 川 さん と谷 さんの多大 の尽力 で もって,よ 岩盤 工 学 ,金 属 工 学 ,な どの応用科学 に までおよ の御尽力 と感謝 してお ります。 んでい ます。 いわばユニバ ー シテ ィ図書館 の ミニ 前川 さんははつきりした意見 を述 べ る方です。 チ ュアとなってい ます。そこでの業務 は,し たがっ しか しその声 は大変 に優 しい響 きを持 ってい らっ て書籍や学術雑誌 の管理 とい うだけでな く,利 用 しゃる。高 くもな く低 くもな く,か つ優 しい もの する研究者 ,学 生が全 国各地 にわたっていて,ユ ー の言 い様 なので話 してい る とあま り気 が付 かない ザーヘ の対応 に も多大 の熟練 を要す るのです。 ほどで あ ります。 しか し今度の理学部図書館構想 地質学図書館 は,現 在理学部 2号 館 と 5号 館 に の時や予算 の都合上 あまり書籍 を購入 で きな い と 分散 してい ます。 2号 館 には古 い文献が多 く保存 きな どはその調子 で理 に合 った きついお しか りを されてい ます。 これ は 1977年 に 5号 館 がつ くら 受 ける。 これ はなかなか心地 よい もので した。 れて,地 質学教室 と鉱物学教室が 2号 館 か ら引 っ 前川 さん,退 官 された後 もお気が るに地質学教 越 した ときに膨大な書籍 と文献 を保管す るために 室 をお訪ね ください。心 よ りお待 ちい た した い と とられた方策であ りました。 このた めに両方 の図 思 い ます。ご健康 に御留意 されてお過 ごし下 さい 書館 の管理 と運 営 を任 されたので,引 越 し以後 の 長 い問大変 にあ りが とうござい ました。 , ―-42-― 0 《 新任教官紹介》 本 粘 郷 菌 諄 河 野 重 行 (植 物学教室 ) れば,魔 女や占 い師 が喜 んで使 った ろうに,そ れ もない。古今東西 ,粘菌 にまつわ る民 間伝承 は皆 無 なので あ る。 この風変わ りな茸が最初 に文献 に 現 れ るの は 16世 紀 も後半 のイタ リアにお いての ことで ある。 真正粘菌 は確かに奇妙な生 き物 である。動物的 ● な振 る舞 い と植物的な振 る舞 いがその一 生の中で 鼈 混在 して い る。胞子か ら発芽 した粘菌 は形 も振 る 舞 い もアメーバ で,周 りにい るバ クテ リアを食 べ 新任 の挨拶 を求め られて,偕 と困 って しまった。 て,2つ に分裂 して増 える。時 には鞭毛 を生や し 経歴 を語 るの も野暮 だ し,か といって,そ の筋 で 水中を泳 ぎ回つた りもす る。 この時期 には細胞核 浮 き名 を流すほ どには粋 で もない。芸 もないが の分裂 まで動物細胞 のようになって い る。 このア ここは仕事 の話 で もす るしかないか と思 った。 メーバ が交配 して変形体 を作 るのだが,そ の性 の 「学生 の頃,悪 戦苦闘 して初 めて論文 を書 いた のが 1977年 だか ら,真 正 粘菌 の ミ トコン ドリア 複雑 なことにまた驚 か され る。我 々が飼 ってい る の研究 を初 めて今年 で 15年 目になる。」 と書 き出 ある。さらに細か く分 ければそれ は 675に もなる。 して, また筆 が止 まって しまった。「 ミ トコン ド リア」 はいいに して も「真正粘菌」 はわか らない 粘菌 の性別 を人間に例 えると男,女 ,男 女 ,女 男 男女男,女 男女 。・ 。といった具合 にで もな るだ だ ろうと思 ったか らである。私 もこの仕事 を始 め ろうか,あ る席で「絶倫 Jと 言 ってひん しゅくを るまで粘菌 の ことは何 も知 らなかった し,中 学 や 買 って しまったが,い ずれにして も壮観 ではある。 , モ ジホ コ リとい う種 で は性別 (交 配型 )が 15も , │● 高校 で教わ つた記憶 もない。 しか し,今 や,巻 で さらに奇妙 なのはその結果である。交配で生 じた 最 も トレンデ ィーなのは粘菌 なのだ。昨年 は粘菌 変形体 は決 して細胞分裂 せ ず,細胞核 のみが今度 の分類学者 で もあった南方熊楠 の没 後 50年 で 空前の熊楠 ブームにな り,デ パ ー トで は粘菌 の培 は植物型 の分裂 を繰 り返す。 このため,変 形体 は 多核 にな り,つ い には仕切 のない巨大 な細胞質の 養 セ ッ トを売 り出 し,結 構 な売れ筋 になって い る 塊 になる。野外 では時 には数 メー トルほどの大 き そうである。分子生物学の花形 といわれ る酵母菌 さになる こと もあるが,そ れで も変形体 は単細胞 や ショウジョウバエ でさえもさすが にデパ ー トで とい う ことになる。色 はモジホコ リは鮮 やかな黄 は売 られてい ないので,こ れ は これ で粘菌 に とっ 色 であるが,他 に赤や自あるい は青な どの種 があ ては名誉 な話で はある。 もともと粘菌 は人々に馴 る。暗 い森陰 で この ような巨大細胞 がその体 内 の 染 みのある生 き物 で はない。茸 に似 た風変わ りな 原形質 を音 もな く流動 させ移動す る様 は異様 で も 子実体 を作 るが,粘 菌 を茸のように食用にした り あ る。 こん な光景 は C級 ホ ラー 映画 の なかで何 不老長寿の薬 や信仰 の対象 として崇 めた とい う話 度 も見たような気がす る。怪物 はまず家畜 を,そ は間 いた ことが ない。 せめて茸の ように毒 で もあ して次 ぎに人間 を襲 うのが定番 になっているが , , ―-43-― , 我 々が飼 って い る変形体 はオー トミール を主食 と た もので あ った。 ア ル トマ ン先生 に義 理堅 す るわ する菜食主義者で もある。しか し,こ の変形体 が けで はないが ,私 は ミ トコン ドリアが 「細 胞 内 の , ひ とたび適切 な光条件下 に曝 され ると,一 晩で茸 に似た小 さ くて時 には優 雅 で もある子実体 になる。 細胞」であると今 だに思 えてな らない。最近 で は ミ トコ ン ドリアには「性」 もあるのだ と思 い始 め この変幻 自在 こそ明治の魁人南方熊楠 を引 き付 け てい る。 , て止 まなかった ものか もしれない。 さて,本 郷粘菌諄で あ る。三 四郎池のほ とりで 見 たことのない者 に変形体 を説明す るのはなか 数種類 の粘菌 を見 かけた ことはあ るが,そ こに粘 なか難 しい。な にしろそれ は「変形体」なので形 菌の化 け物が現れた という話 はまだ聞 いていない。 を成 して い ない。 一番 いい の は件 の粘菌培養 セ ッ それ に,「 柳斎志異」風 の美人 粘菌幽霊 が夜 な夜 トをデパ ー トで買 って くる ことなのだが,強 いて な研究室 を訪れ る とい う話 も,「 粘菌燈籠」 を持 言 えば,ゼ リーを作 っていて果汁 を入れ過 ぎた う たせた「お露」風粘菌幽霊 に学生 が精 を抜 かれて えに床 にこぼ して しまった と思 えばいい。 その ド しまった とい う話 も聞かれない。本郷粘菌諄 はま ロ ドログチ ャグチャが変形体である。 その時のゼ だないのである。本郷で はないが,研 究者の間で リー は必 ず果汁入 りでなければな らない。変形体 流布 して い る有名 な粘菌研究諄がある。 一つ は熊 は薄 い細胞膜 で囲 まれた原形質の塊であ り,そ の 中 には細胞核 や ミ トコン ドリアをはじめ様 々なガヽ 楠 の もので,彼 が神社合祀反対運動 で 18日 間投 獄 され,獄 内で深紅 のムラサキホ コ リを発見 した 胞や色素顆粒 ,果 て はオー トミールの残骸 まで も 話 であ り, もう一つ は,日 米開戦 の最中 の米国 で が詰 め込 まれてい るので,完 全 には透 明で はない 実験道具の何一つ ない中で粘菌 の原形 質流動の研 か らで あ る。低倍 の頭微 鏡で観 察 す ると,こ れ ら 究 を続 け,粘 菌の原形質糸のね じれ現象 を解析 し の内容物 が血 流のように激 しく流れ ているのが わ た神谷宣郎先生 の話 で ある。 これ を私 はずっ と日 か り,「 ア ッ,生 きてる」 と思 ゎず 口に出て しまう 本人収容所 での出来事 と思 っていたが,後 で神谷 ほ どである。少 し高倍の顕微鏡 な ら, ミ トコン ド 先生 か らハバ フォー ド大学 での ことだ と聞 か され リア も識別 で きる。 それ は分裂・ 増殖 し,形 を変 た。 いずれにして も,そ こに共通す るの は二人が え,運 動 し,あ たか も原形質 とい う培地 中 で培養 逆境 にあって も知的好奇心 を常 に燃や し続 けて い されてい る小 細胞 ,「 細胞 内の細胞 Jと い った観 たとい う ことで あ り,逆 にいえば粘菌 は逆境 に強 が ある。 19世 紀末 に粘菌 の ミ トコ ン ドリア を初 い とい うことで もある。「知性 の棺桶 ,国 立大学 」 めて詳細 に観察 した ドイツの偉大 な組織学者 アル とはある週刊誌 の有名 な コピーで ある。監獄 ,収 トマ ン も同様 の感慨 を持 ったよ うである。 それか ら 100年 ,20世 紀 も後半 にな る と,そ の ような 容所 と続 けば次 は棺桶で,そ の条件 は揃 っている。 本郷 の地で新 しい粘菌研究諄 が作 られて もおか し 感慨 は多 くの研究者の胸か らは霧散 してしまった。 くない。研究諄 が流布す るためには,そ の話のお ミトコン ドリアはたいした遺伝子 を持 ってお らず もしろさ以上 に,そ こで なされた研究 が優れ てい 細胞核 の居候 に過 ぎない ことがばれて しまったか なければな らない。 そして,そ れが さらに多 くの らであ る。 しか し,「 三 つ子 の魂百 までJで,私 人 々 に語 り継がれ るためには,「 ニ ュー トンの リ にはあの「 ア ッ,生 きてるJと い う感激が忘れ ら ンゴの木」 に見 られ るように,そ の発見 が より大 れな い。 それ に,15年 前 に悪 戦苦闘 した最初 の きな真理 を含む ものでなければな らない。我 々の 論文 は,ア ル トマ ンの染色法 を現代風 にア レンジ 作 る本郷粘菌諄 は研究者 ばか りでな く多 くの人々 し, ミトコン ドリアの分裂周期 の存在 を決定付 け に も語 り継 がれ るようになるだ ろうか ? , ―-44-― 0 研究所 か ら学部 への トレー ド 藤 川 和 男 (物 理学教室) いな質問 をしては出席者 のひん じゅ くを買ってい る毎 日である。 他方,学 部 の学生 の演 習 を担 当した経験 からは , 非常 に基礎的な知識 を確実 に理解 して教 えるとい う当然の ことが 自分 にはうま くで きて い ない こと が半Jワロし, 学 /L諸 君 0こ │ま 分 か らな い ようI使 り糸 善う のに苦労 している。論文 を書 くとい うの は,あ る ● 意味 ではあまり細 かな ことは気 にせずに,専 門家 の コ ミュニ ティに通用す る程度の説明 で話 がすむ (1● 1991年 9月 16日 付 で物理教室 へ着任 い た しまし ことが多 い。 これに比 して,学 部 レベル の教育 と たが,思 えば,1967年 の 7月 大学院博 士 課程 一 い うのは,い わば風雪 に耐 えて きた物理学 の最 も 年 の時 Fulbright travel grantを もらってアメ 基礎的な事柄 をカバ ーす る ことで あ り,こ れ らは リカ ヘ渡 って以 来 24年 ぶ りとい う ことになる。 何 とな くわかったつ もりで いて も,い ざ教 える と もっ とも,そ の間東大原子核研究所 に 10年 近 く なるとかな り大変 な ことが 多 い。私 の短期間 の経 勤務 し物理教室 で は大 学院 の講義 をした こともあ 験 に基づ いて言 えば,案 外 この基礎的な知識 を常 り,完 全 に無関係 とい うわ けではなかったが,学 に確認す るとい うあた りに,忙 しい忙 しい と言 い 部 の教育 を含 む理学部 での勤務 は,初 めて の経験 なが らも,学 部の先生方 が研究 に立 派 な業績 をあ であ る。 日本で は上記 の核研 ,広 島大学理論物理 げてお られ る理由があるのか も知れない。私 のか 学研究所及 び統合後 の京都大学基礎物理学研究所 つての研究所仲間の一人が,研 究所 はいい人 を集 と,研 究所 ばか りを渡 り歩 いたことになる。一部 めて い るといって も,そ れ は学部 でよい業績 をあ の先輩 か らは「天国のような」研究所 か ら条件 の げた人 を集 めてい るにす ぎない とい う意味 の こと 悪 い学部 へ どうして移 るのか,“ 大学 は大変 だよ" を言 った ことが あ ったが,真 実のある側面 を言 い と言われ た こともあ り,こ の半年間 はかな り緊張 当ててい るようにも思われる。研究所 の先生方 も した 日々で あった。 そ もそ も,50才 近 くになっ このあた りの ことはよく心得てお られ るか らこそ て転勤 して理 学部 へ移 ることのメ リッ ト (雇 う倶1 研究所 での大学院教育 の充実 を目ざしてお られ る はもちろんの こと,本 人 にとって も)は 一体何 な のであろう。 , , ともか く,研 究所 か ら学部 ヘ トレー ドされて き のか, この ことをあま り深 く考 えずに本郷 へ来 て たわ けであるが,野 球 の選手 で も トレー ドされ る しまったことのツケ とも言 える。 物理教室 の教官会議 に出席 して感 じた ことは と一 時的 に打率 が上が った りする こともあ る。 こ 小 さな研究所 の気楽 な雰囲気 に比 して,言 葉使 い れか らの 10年 あ ま り,物 理教室 の教育 と研究 に 等 に,お 互 い を立 てるとい うか紳士の集 まりとい 少 しで も役 に立てるよ う努力 したい と思 ってお り う感 じを強 く受 けた。 これ は長 い間 の伝統 のなせ ますので,よ ろし くご指導の程 をお願 いい たしま る業 と思われ るが,初 心者 にはどこで どうい う具 す。 , 合 に物事 が決 まってい くのかが よ く見 えず,場 違 ―-45-― 理 学部研究 ニ ュース 聰 トロンプ ロジェク ト国際 シ ンポジウム開催 昨 (glycobiology)の 発展 に大 きな寄与 をす ることが 年 の 11月 26日 と27日 の両 日,第 8回 の トロン 期待 されている。第 二 の発見 は糖 タ ンパ ク質 か ら プ ロジェク ト国際 シンポジウムが,社 団法人 トロ アスパラギン結合型糖鎖を除去する反応 ¨ ン協会 の主催 江EEE Computer SOcietyの ―Asn(糖 鎖 )― [・ co‐ "。 →¨・―Asp一 "・ 十糖鎖 ]を 触 TEPIAホ ールにお いて開催 された。 トロンプ ロ ジェク` 卜は,情 報科 媒す る酵素 の存在 を動物細胞 中 に初 めて見出 した 学科坂村研究室 を中心 に進 め られて い る,分 散 リ (1991)]。 タ ンパ ク質 の 翻 訳 後 修 飾 と し て の アル タイム アーキテクチャに基づ くコン ピュー タ N― glycOsylajonは よ く知 られて い るが、再修飾 operadonの 元で,外 苑前 の ことである[」 Blol.Chem 266,22110-22114 の体系を構築するための研究プロジェク トである。 シンポジウムに は,海 外 か らの参加 者 を含 めて i≦ 亀 閾 槽 y℃ 1凛 理 観 「 像 EO 約 300人 の参加者 が集 まった。6つ のセ ッシ ョン 発現 され てい る ことは,N― glycosylation/de― で合計 20件 の論文 が 発表 され, トロンプ ロ ジェ N― glycosylationシ ス テ ムが タ ンパ ク質 の細 胞 ク トに関わ る最新 の研究 成果 が報告 され,活 発 な 内変位・ 機能構造 の形成・ 機能制御 などに重要 に 議論 が交わ された。 シンポジウム のプ ロ シーデ ィ 関わって い る ことを示唆するものである。 これ ら ングスは,IEEE ComputeF SOCiety Press か ら 2つ の発見 には中国 か らの留学生子松 (Yu song; 出版 されてい る。 Dl)さ ん と瀬古玲君 (D2)が それぞれ主 要 な役割 この前週 の 21日 と22日 には,併 設 の展示会で ある TRONSHOW'91 とプ ロジェク トに関す る を果 た した。 井上康男,12月 (生 物化学 ) チ ュー トリアルが,ラ フ ォー レ ミュージアム赤坂 において開催 され,多 数 の来場 があった。 蒻不安定系におけるソ リ トンと新 しい非線形発展 なお,次 回 の シ ンポジ ウム は,今 年 の 12月 1 健 ,11月 (情 報 非線形効果 と分散効果の釣 り合 いに よっ て安定 なパル ス状 の波動 日か ら4日 に開催 され る予定である。 坂村 方程式 (ソ リ トン)が 伝播す る ことはよ く知 られて い る。私達 のグループ は,ソ ) リトンが存在す る他 の機構 として,不 安定性 と非 蒻糖鎖生物 学 における最近 の 2つ の発見 我々 は 線形性 の競合 を提唱 して きた。単色光 の振 幅変調 先 に糖 タ ンパ ク質分子中に シアル酸 に代わ る新 し を例 にとる と,従 来か ら研究 されてきた非線形 シュ :KDN)の レデ ィ ンガー方程式の代 りに,時 間 tと 空 間 χと 存在 を見出した[」 .Bi01.Chem.261,11550-11557 が入れ換 った非線形発展方程式 が得 られる。 この 複 合糖質 に基 本 的 に新規 な単糖残 基が 方程式 を,「 不安定非線形 シュレデ ィ ンガー 方程 見出 され るの は 50年 に一 度有 るか無 いか の出来 式」 (以 下 ,UNLS方 程式 と略す)と 命名 した。 事 である [Blomembrane llllsitllte(シ ア トル) 既 に,電 子 ビ ー ム・ プ ラ ズ マ 系 に お い て の箱守 仙 一 郎教 授 の 言 ]。 表記 の第 一 の発見 は UNLS方 程式 が予言 す るソ リ トンが 存在 す る こ KDNを 含 むス フ ィ ンゴ糖脂質 (KDN― ガ ング リオ シ ド)の 存 在 を見 出 した こ とで あ る とが験証 されてい る。線形成長率が波数 とともに 上 限 な く増大す る,と い う意味 で UNLS方 程式 Blol.Chem 266,21929-21935(1991)].KDN― の初期 値問題 は,「 不適切 複 合 糖 質 は 今 後 広 く活 用 さ れ 糖 鎖 生 物 学 てい る。 この問題 を解決するには,物 理系 に戻 り い単糖残基 (デ ア ミノノイラ ミン酸 (1986)]。 [」 , . ―-46-― (ill― posed)Jと なっ 0 次 のオーダーで最 も発散す る項 を選 び出せばよい のア ミノ酸残基 の N末 端側 に も C末 端側 に も ことを明 らかにした。数値計算 を可能 にす る とと シグナル伝達 に必須 な残基が数多 く存在する こと もに, こうして導びかれた新 しい非線形発展方程 を明 らか に した。他方,GTP結 合型 で は,タ ー 式 は,ソ リ トン現象 とカオス現象の関係 を議論す ゲ ッ トと相 互作用す る残基 と GTPの 加水分解 に る上 で重要な役割 を果 たす と期待 され る。 関与す る残基 の多 くについて,複 数 の コンホメー 以上 は,科研費国際学術交流の一環 として,米 ションをとる多形性 が見 いだされ,Rasタ ンパ ク 国 コロラ ド大学 M.J.Ab10witz,H.Segur両 教授 質 の多機能性 との関連 が示 唆 された。 さらに,特 との共同研究 による成果 であ り,論文 として報告 定 の コンホメーシヨンに固定 され,こ れ と対応 し された (ll171.Wadati et al.」 .Phys.SOc Jpn v01.61, No4,1992)。 和達三樹 ,2月 (物 理 . , て多機能性 を失 った複数 の変異体 を得 ることがで きたので,こ れ らを用 いて,Rasタ ンパ ク質 の機 ) 造 T蒐恣 に 言 翼 駆 項3譴憬 免[喜 1期層 ルベ ン分 子 H(ln― ス ピン種 (S― 能 と高次構造 との対応 を明 らかに したい と考 えて いる。武藤 伊藤 C6H4C:)nC6H5で ,記 録 的 な 高 n=4,5)を 実現 して きたが 裕 ,吉 垣純子 ,小 出 寛 ,山 崎和彦 , 隆,自 水美香子 ,小 野塚昭,小 塩 尚代 ,外 山洋一 ,横 山茂之,2月 (生 物化学 ) , 最近擬 2次 元の拡が りをもつ高 ス ピン分子 1,3, 聰ホルモ ンとペプチダーゼ 5-lH(m― C6H4Cう n/3〕 3C6H3の 合成に成功 し 磁化 ホルモ ン自体 あるい はホルモ ン受容体 の研究,ま 率 の測 定 か ら,n=6,9で はそれ ぞれ基 底十 三 たホルモンによって誘導される第ニ メッセンジャー 重項および十九重項 で ある ことを確認す ることが の研 究 な どが非常 に進歩 している領域 で ある。 と で きた。分子間 には,弱 い反強磁性的相互作用 が ころが女性 ホルモ ンな どのように標準器官 に顕著 認 め られた。極低温 で対応す るヘ キサおよびノナ な形態変化 を誘導す るホルモンの場合 ,そ こには ジアゾ化合物 の光分解 により合成す るが,生 成す 多 くの酵素類が介在 してい る。しか し残念 なが ら るスピンの量お よび多重度 に顕著 な紫外線 の波長 それ ら酵素系 について は解析す るのに好 都合な実 効果,温 度効果な どが認 め られた。 この反応 は段 験系が少ない ため,そ れほ ど盛 んに研究 されてい 階的 に進行 して い るようであ り,反 応機構 に関 し るわけで はない。最近 ,生 化学教室 の高橋孝行講 て興味ある課題が含 まれて い る。 この成果の一部 師 か ら,ペ プチ ド鎖 のプ ロ リンーXを 特異的 に 10は ,J Am.Chem So0 114巻 4号 1484頁 (1992 年)に 公表 された。 , , 切断す るプ ロ リルエ ン ドペ プチ ダーゼ活性 がブ タ の卵巣 で非常 に高 い ことが半」 明 したので,こ の酵 さらに大 きな拡が りをもつ “ Starburst"型 構造 を実現す る合成法 の開発 が進 んでいる。 岩村 内分泌 の分野 で は 素活性 を生殖輸管系 で調 べ てみないか という共同 研究 のお話 があった。我 々 として も興味 あるテー 秀 ,2月 (化 学 ) マ と考 えマ ウスを材料 とし,二 種 の酵素 について 卵巣 と子宮で調 べ ることにした。 その結果,プ ロ 聰 ヒ トの が ん遺 伝 子産物 Rasの 動 的機能構造 リルエ ン ドペ プチダーゼ の活性 は女性 ホルモ ンと Rasタ ンパ ク質 は 1分 子 の GDPま た は GTPを 黄体 ホルモ ンに よ り上 昇 し,ジ ペ プチジルペ プチ 結合 してい るが,GTP結 合型 のみが,細 胞 の増 ダーゼの活性 は女性 ホルモ ンに よ り抑 えられ る こ 殖 や分化 に関 わる細胞 内 シグナル伝達活性 を発現 とを見 いだ した。特 にこれ ら両酵素 とも分娩の際 す ると考 えられている。私たちは,位 置特異的変 子宮筋層 の収縮 に関係す ると考 えられ るペ プチ ド 異法 お よび 高次構造 の NMR解 析 に よ り,従 来 ホルモ ンを切 断す ることが知 られて い るので,子 「 エ フェクター領域 」 と呼ばれて きた 32-40番 宮機能 と密接 に関係 していることが推察 される。 ―-47-― , 今後 ,酵 素 の子 宮内分布 な どを調 べ ることで,そ 380-381),キ ャリアー の生理作用 を明 らかにす るつ もりである。守 見 だ した。多様 な民族・ 文化 の交錯す るイン ド亜 隆 (」 .AIDS,in pre∬ )を 夫,大 田 尚志 ,(動 物 )高 橋 孝行 (生 物 化 学)2 大陸ゆえ,さ らに 1992年 2月 に 月 アの調査 をお こな い,HTLVキ ャ リアーか らウ lヶ 月間南 アジ イルスゲノムを分離 しその系統関係 を明 らかにす 晰酵母変異 を相補で きる高等生物遺伝子 ることによって,民 族 の移動・ 交流,生 活様式の ヒ トや マ ウスの cDNAラ イブラ リーか ら酵母遺伝子 と 変化等 を考 えようとい うものである。 石田貴文 相同な遺伝子 が単離 され,酵 母変異 を相補 で きる 2月 , (人 類 ) 例が相次 いでい る。最近 ,我 々 は高等植物 イネの cdc2キ ナーゼ を 2種 類単離 し,そ の うちの一 つ 蒻第四紀 にお ける 日本 海海洋環境変化 は出芽酵母 の cdc2を コー ドす る cdc28温 度感 受 夏 の 国際深海堀 削計画 性変異を相補す る ことが で きた (HashimOtoら 取 された深海堆積物 は,日 本海成立以来 の海洋環 Mol.Gen.Gen,in press,1992)。 , 1989年 (ODP)日 本海航海 で採 ゲノムサイズの 境 の変動 を記録 して い る。特 に,250万 年前 か ら 小 さい酵母 で は,一 種類 の cdc28キ ナーゼが Gl 現在 までの堆積物 には,明 色 と暗色の リズ ミカル 期 と G2期 ,そ れぞれに特異的 に発現す るサイク な縞模様 が発達 し,日 本海 の海洋環境が数千年か リンと複合体 を作 り,そ れぞれの時期 に特有 な標 ら数万 年 の周期 で大 き く変動 した ことを示 して い 的タ ンパ クを リン酸 化す ると考 えられて い る。 し る。 その変動 の機構 を調 べ るため,過 去 75万 年 か し,標 的タ ンパ クについて は,ほ とん ど判 って 間 の堆 積物 を詳 し く分析 した。 その結果 ,過 去 い な い。高等生物 の場合 ,複 数 の cdc2類 似 タ ン 75万 年 間の 日本海 の海洋環境 は,汎 世界 的氷河 パ クと,種 々のサ イクリンが存在 し,そ の組 み合 性海水準変動の影響 を強 く受 け,究 極的 には ミラ わせ を考 えただけで も,複 雑 さをうかがい知 るこ ンコビッチサイクル (地 球軌道要素の周期的変化 ) とがで きる。様 々な分子遺伝学的実験系 の組 める に支配 されていた ことが わかった。即 ち,現 在の 酵母 を利用 し,高 等生物 の理解 へ の足 がか りとし よ うな間氷期 の高海水準期 には対馬暖流の流入 に て い る現状 をみるにつけ,今,必 要 なのは,酵母 より日本海 内表層水 の塩分濃度が上昇 して深 層水 遺伝子の機能 を くわしく解明す ることと思われる。 が形成 され たため,深 層水 は非常 に酸化的になっ 菊池淑子 ,2月 (植 物 ) た。 また湧昇が活発であったため,表 層 の生物生 産性 は比較的高かった。一 方,氷 期 の低海水準期 1980年 代 に ヒ トの レ トロ ウ イル スが 発見 された。 ヒ トの Tリ ンパ 球 を自然 淡水 の流入 によ り表層水の塩分濃度が低下 して密 宿主 とす る HTLVで ある。 この ウイ ルス は,主 度成層 が強化 され,深 層水 の形成 は停止 した。 そ に母茅し ,ま た性行為 によって感染す るため,遺 伝 の結果 ,深 層水 は硫化水 素 が発生 するほどに還元 す るようにさえ見 える一 方,生 活様式 によって感 的 とな った。 また,湧 昇 が不活発 であったため 染率 は変化す る。 その分布 は人種・ 民族 に特異的 表層 にお ける生物生産 性 は低 かった。多田隆治 パ タ ンを示 し, 日本 ,ア フ リカ,カ リブ沿岸 を常 2月 (地 質 ) には,対 馬暖流 の流入 はやみ,周 囲 の陸地 か らの 蝙疾病 の民 族疫学 , , 在地 とすると言われ ていた。 この ウイルスの世界 分布地図 を描 く目的で,過 去 10年 疫学調査 をお こな って きた。近年,北 ・ 中 。南 イ ン ドで 3000 レ南極産 ユー クライ ト隕石中 にジルコンの結晶 を 人近 くの検 索 をした ところ,1991年 南 イ ン ドで 隕石 Y-791438に お ける微少領域 の組織 を分 析 ウ イ ル ス 陽 性 自血 病 患 者 (Lancet,1991,338: 走査電子顕微鏡 ,電 子 プ ロー ブ X線 分析装置 に 発見 ―-48-― 南極や まと山脈で発見 されたユ ー クライ ト ● の よつて検討 した。その結果 Y-791438は 普通 ユ ー クライ ト的組織 と集積岩 ユー クライ ト的組織 を合 視野 にいれて い るが,真 理の追求 とい う目的意識 わせ持 っている,い ままでにない特徴 を有す る隕 は共通 であ り,諸 学 の基礎 としての理学 の一端 を 石 であることが解 った。 また最 も特記 すべ きこと 担 って い る。川 口太郎 ,1月 (地 理) 地理学 は自然現象か ら人文現象 まで幅広 い分野 を は,ユ ークライ トで は例 のない大型 のジル コンの 結晶が発見 された ことで ある。 このジル コンはマ 晰渓流沿 い植物 の進化 と適応 グマ の分化過程 の最終残液 が 固結 した付近 に存在 分 の生育環境 に適 応 しつつ進化す る。漢流沿 い植 し大 きさは 30μ m mに およぶ。 このジル コンの年 植物 はそれぞれ 自 物 は,降 雨後 の高水位 と晴天時 の低水位 の間 の , 代 力ST,R.Ireland(The Atlstralian National 定期的 に増水 した濁流 中 に水没す る河川 の川床 。 University)に よって 453(2)億 年 と決定 された。 堤 にのみ生育 し,ふ つ うの陸上 には存在 しない。 ユークライ ト中のジルコンの年代 が決定 されたの したがって,周 期的 に流水圧 を受 けるとい う単純 は初 めてである。 この ような Y-791438隕 石 の な淘汰圧 をもつ特殊環境 に適 応 している。 この よ 特殊性 はユ ー クライ ト母天体 における物質進化 プ うな環境 は湿潤熱帯 で最 もよ く発達 しているので ロセ スの解明 の足掛 りとな ろう。 なお, この研究 筆者 らは 1989年 か らボルネオで現地調査 を,国 は 1989年 ,1992年 の Lunar and Planetary Sci‐ 内で も関連 の研 究 を行 っている。従来 ,ボ ル ネオ ence Conferenceで 発表 された。佐伯和人 ,田 賀 には 12種 の漢流沿 いシダ植物が分 布 す ることが 井篤平 ,武 田 わかってい たが,今 回の調査 によって 1つ の川 を 弘,2月 (鉱物 ) , 半 日調査 しただけで も 13種 が発見 され るな ど , 近年,生 活 の豊か さ 実際 は数倍 の種 が存在するほど多様 であることが とか生 活 の質 に関す る議論が盛 んで あ るが,実 の 確 か められた。 また,漢 流沿 い植物 は近縁 の陸生 ところ人 はどのように暮 らしてい るのか とい った 種 に比 べ て,葉 の生長期 が短 く,葉 細胞数 が少 な 素朴 な疑間 に対 しては,わ か っているよ うでわか く,細 胞 の伸長 の程度 も低 い,そ の結果漢流沿 い らな い ところが多 い。筆者 らのグループ は,こ う 植物 に特有 の,水 流抵抗 の小 さい流線形 の,幅 が した疑 間 に答 えるため,活 動 日誌法 とい う手法 を 狭 い葉 がつ くられることになる。 これか ら,漢 流 用 いて 日常生活の詳細記録 を全国各地で採集 して 沿 い植物 の狭葉 は生長期 の短縮 を伴 な う異時性進 きたが,日 常生活 の行動圏 に関 し,以 下 のような 化 によって生 じた と推定 され,そ の特殊化 のため リップ)距 離 を確 に葉面積や葉肉の細胞間隔が小 さくなって,か えっ は社会理学 としての地理 学 OD 知見 を得 た。個 々人 の外出 (ト 率密度関数 に当 て はめると,自 宅 か ら約 5∼ 7 1cmの て光合成能 が低下 し,ふ つ うの陸上で は競 争 に勝 0.5 1on, 2地 点 で遷 移 点 がみ られ,日 常生活 の 行動圏 は大 きく3圏 に分離 で きる。 つ まり徒歩 を 中心 とした I圏 ,自 家用車 の利用 が主たるⅡ圏 てな くなって い る一 因 になっているのだろう。 加藤雅啓 ,1月 (植物園) , そして公共交通 によるⅢ 圏 であ る。 このよ うな圏 錮プ ロープ反応で触媒の反応サイ ト構造 を探 る 区分 には大都市部 も農村部 もそれほど大 きな違 い 固体表面や有機金属錯体で起 こる様 々な触媒反応 はな く,い わば今 日のわが国で は普遍的 な もの と の活性や選択性 を支配す る因子 を解明 し,そ れ ら い って もよい。 こ うした圏区分 は,我 々の 日常感 を自由に コン トロールす るためには,反 応サイ ト 覚 にも合致す るが,デ ー タの解析 に基づいて数量 の構造 を探 る ことが不可欠である。近年,種 々の 的 に示 した研究 は他 に例 をみず,都 市計画 な どの 分光法 の 目ざ ましい発展 は,そ の原子 スケールで 分野 でそれぞれの圏域 の特性 に応 じた施設配置 を の議論 を可能 にしているが,実 際 の触媒反応 が分 検討す る際の理論 的 な背景 を提供す るものである。 光法 で観演1さ れたサイ ト上で常 に進行 してい る と ―-49-― は限 らない。 この点 を明 確 にす るた め に は,種 々 Fabry― Perot lmager fOr Near一 InfraFed Ast‐ の分 光法 を駆使 す る と同時 に,適 切 なプ ロー ブ分 rop"ics at CRL l.5m TelescOpe)が ほぼ完成 子 の反 応 サ イ トで の振 る舞 い を トレー サ ー法 で モ し,1992年 1月 よ り本 観 瀬1を 行 っ て い る。 これ ニ タ ー す る こ とが重 要 で あ る。我 々 はプ ロ ピレン は通 信 総 合 研 究 所 (小 金 井 )15m望 遠 鏡 に装 着 ブテ ンや メチル ア ミンな どをプ ロー ブ分子 とし, され て お り,銀 河 系 内拡 散 天 体 重水 素 を トレー サ ー として 反応 サ イ ト上 で 同位 体 形 成領域 ,反 射星 雲 ,惑 星状 星 雲 ,超 新星残 骸 な 交換 反 応 を行 わ せ プ ロー ブ分 子 中 の D化 の位 置 ど)の 物 理・ 空 間構 造 ,さ らに系 外銀 河 で の星 形 をマ イ ク ロ波分光 法 で決定 す る こ とに よ り,真 の 成 (質 量 関数 ,ヒ ス トリー )や 星 間物 質 の化 学進 反応 サ イ ト構 造 を探 る研 究 を行 って い る。 化 な どを研 究 す るため の 2次 元 分光 シス テ ムで あ , 例 えば 2種 類 の反応サイ トにおけるプ ロー ブ分 子 の挙動 (反 応中間体 の構造 )が 異なる場合 , こ (HⅡ 領 域 ,星 る。 1月 の観 測 で は,オ リオ ン大 星 雲 ,超 新 星 残 触媒 で どち らが主反応 サイ トかを識別出来 るはず M82な ど で H2,H輝 線 の 2次 元像 が 得 られ たが ,一 例 と して ,オ リオ ン星 形 成領 域 で の H2輝 線 の デー タ である。合金触媒 のバル ク組成 と表面組成が著 し を示 す。 これ は原 始星 か らの分 子 流 が 周 囲 のガ ス く異なる ことはよ く知 られて い るが,最 新 の表面 に激 し くぶ つか り衝撃 波 を形 成 して い る場 所 で , 分光法 を駆使 して も,表 面第 一 層の構造 と反応性 フ ィラメ ン ト状 の微細 構 造 も鮮 明 に写 し出 され て を決 めることは容易で はない。我 々 は VIII― IB い る。 田中培生 ,2月 (天 文研 ) の方法 を適用すれば,そ れ らを組 み合わせた複合 骸 IC443,そ して ス ター バ ー ス ト銀 河 族合金触媒 に対 しプ ロー ブ反応法 を適用 し,従 来 の定説 とは異 な り,VIⅡ 族金属 で修飾 された IB 族金属が主反応サイ トになってい ることを明 らか にした。又 ,金 属原子 が 数個集 まってで きる金 属 クラス ター錯体 は,金 属表面 との構造上 の類似性 か らその反応性 に興 味 が 持 たれて きた。我 々 は Rhや Ruの カル ボ ニ ル クラス タ ー 錯体 とRh, Ru金 属表面 についてプ ロー ブ反応法 を適用 し両 者が異な った反応挙動を示す ことを明 らかにした。 今後 ,表 面構造 のよ く規定 された単結晶 や有機金 属錯体 で配位子 を系 統的 に変化 させた系で この方 法 を検討す ることによ り,触 媒作用 の本質 に迫 る 知見 の得 られ ることが期待 され る。内藤周式 ,2 月 (ス ペ ク トル化学 ) や近赤外 スペ ク トル イメージが明 らかにする銀河 スケ ールでの星形成 宇宙 を形 成 してい る多数 の 銀河の主要構成要素 は恒星である。銀河の形成及 び成長・ 進化 を理解す るためには銀河 スケールで の星形成及びその銀河構造 に与 える影響 を解明す る必要が ある。私達が 1990年 よ り開発 を進 めて い た近 赤外 イメー ジグ・ フ ァプ リペ ロ (FINAC; ―-50- Orion KL分 子 雲 H21 ° S(1)(2.122μ m) 0 《 学部消息》 教 授 2月 12月 18日 (水 )定 例教授会 19日 (水 )定 例教授会 理学部 4号 館 (1320号 室 ) 理学部 4号 館 (132o号 室 ) 議 題 議 題 ② 奨学寄付金の受入れについて (1)人 (21 奨学寄付金の受入れについて 13)物 品寄附の受入れ について (3 物品寄附の受入れ につ いて (D 人事異動等報告 事異動等報告 に)学 士入学 について )教 務委員会報告 (9 東京大学理学部規則「別表」の一 部改正 について “ ● メ モ 会 (D )人 事委員会報告 教務委員会報告 (0 人事委員会報告 (7)企 画委員会報告 “ (7)会 計委員会報告 181 理学院計画委員会報告 0 0 (9)理 学院計画委員会報告 その他 企画委員会報告 00 評議員の選出 について 1月 16日 (本 )定 例 教授 会 理 学部化 学本 館 講 堂 [〕 臨海実験所長 の選 出 につ いて l121 素粒子物理国際 セ ンター長の選出 について 地殻化学実験施設長 の選出について 議 題 l131 (1)人 事異動等報告 〔り 企画委員会委 員 の選出について (2)奨 学寄付金 の受入れ について 09 0)人 事委員会報告 に)企 画委員会報告 6)理 学院計画委員会報告 人事委員会委員及び会計委員会委員の半数改選 に つ いて 00 その他 (0 理学部長候補者 の選出につ いて に)そ の他 人 事 動 異 報 告 (講 師以上 ) 所 属 天 文 研 官 職 助教授 名 氏 小 杉 健 郎 発令 年月 日 4.1.1 異動内容 昇 任 備 考 国立天文 台教授 ヘ (助 手 ) 所 地 属 質 官 職 助 手 氏 名 藤 本 転 直 樹 〃 行 泰 〃 泰 〃 地球惑星 中 島‐健 植 物 〃 佐 藤 天 文 研 〃 小 林 物 〃 松 尾 異動内容 312.15 4 1 1 光一郎 〃 理 発令年月 日 介 考 任 工業技術院地質調査所通産技官ヘ 配 置 換 気候 システム研究 センター助手ヘ 昇 東京学芸大学助教授 ヘ 任 〃 採 51- 備 国立天文台助教授 ヘ 用 矯 機 が 大 節 手 び :地 文 震時型皇 化 物 ″ ‐ 管 動 動 紳 〃 議 子 名. . 薔 広 動 1層 発今年月目 鉤 総 畢 備 著 備 考 用 41,ユ /7 ″ 瀬 晨 12131 直・合 氏 井 洲 備則 1揃 ノ 讐 和 守 字 名・ l 案 像 瞭 ・ 山一 居 本 書 氏諄 土 升 寺 所 属 天 文 顔 愧 日 訊‐‐ 鳳 ユ 蒻 採 財 1工 学部上未工華粋ぺ 鶴置換 用 外国人審員研究具報告 i 所‐属 ‐ 蜀 惰欄鵡躊 I嵐 罪 醸 壺 国 嚢 民‐ 名 フランス ]埋鐘 ELI軸地 m間 融l 魂 軍烈朧ンジ疏 U澳側 平 蛎 ト 機 著 アッ 1卦 住彙爾竣優 幸薔:蜘 輻 輝 鍵 物椰 /」l・ 翻鑢灘 ロシア表 林 輩 暴,熙 教 撰 L 1画 噸遅副皿酬 ‐ 棚 勁 I蝉麹 IQttN鰤 赫 碁撫国 礫 山 影 動数鐘 理シア共 4‐ Ψ 1蘇嚢璽Dl喝 襲ユ 幸墨 埋 81舞 蝠 踵 室 鐵 象 副 瑯‐ 週 舞鋼蹴鑢簾経 1幅 .イ ラン ミ 守T 平 1蝿1踏 ∼ ― nirsb。 v総務 暁 繭 平 蝸聾 酸 イ ン ド 蟄 1睡 :蝋 ク リー聰 M山 繭 範 1呻 lh曲 1晰 KuntaF `平 凛 魃 1嗜 繭 節勁 化 学 科 増 副 歓 響 平 4息 評 隋 著 番 却 繭 紳 ボデプ耀輩鐵隣銃 平 時 : 平 &理 楼 平些 識 イン トi鶉 lil] ま 雲 :′tiギ :≡ 平 3410-平 ]5媚 教撰会 平 4蠍 劉 報賀済の曇長 : 鰹最新動闘 34. 10-無 襲 で ア暴されたもの 輝 幽 醐 l讀 嘔 Gu 李 澤 濃 脚 襲 動 趙鼈麟赫 平 ■11切■ 靡 ―‐ 憂― . 平醸 劉 海 外 渡 航 者 (6月 以 上 ) 所 属 官 職 氏 素粒子 助 塚 手 渡 航 先 名 本 俊 夫 期 間 目 的 ス イ ス 4.14∼ レプ トンを含む過程 のデー タ解析及 びオンラ フランス 4.7.5 イ ンプログラムの整備 と国際協同実験電子・ 陽電子衝突実験 のため 素粒子 助 手 俊 森 則 ス イ ス 4226∼ フランス 4.929 国際協同実験電子・ 陽電子衝突実験 のため 博士 (理 学)学 位授与者 平成 3年 11月 25日 付学位授与者 (2名 専 攻 氏 論 名 題 文 ) 目 論文博 士 上 田 正 仁 微小 トンネル接合 の理論的研究 論文博士 天 辰 禎 晃 電子的 に励起 された分子 の構造及 びダイナ ミックス に関す る理論的研究 平成 3年 12月 19日 付学位授与者 (5名 専 攻 論文博 士 氏 名 海老 原 円 論 題 ‐ 文 ) 目 法線束 が豊 富 であ るように トー リック曲面 を含 む 3次 元代 数多様体 の単有理性 につ いて 論文博 士 大 原 淳 結 び 目のエ ネルギー汎函数 の族 論 文博 士 坂 田 将 火 山岩 を貯 留岩 とす る石油・ 天然 ガ ス鉱床 の炭化水素 の起源 に関す る地球化学 論文博士 関 根 理 香 駿冊霧表面 の電子状態及 び金属錯体 との化学反応性 論文博 士 斎 祐見子 合成 プ ロ テアーゼ阻害剤 によるラ ッ ト副 腎褐色細胞 腫 由来株細胞 藤 PC12細 胞 の 神経細胞 へ の分化誘 導 お よび その機構 に関す る研究 平成 4年 1月 27日 付学位授与者 (9名 専 攻 氏 論 名 文 題 ) 目 フェム ト秒 レーザー分光法によるバ ナジルフタ ロシアニ ンの励起状態動力学の 物 理 学 寺 書 享 論文博士 論文博士 矢 嶋 徹 安 田 一 郎 三陸沖暖水塊 の変遷過程 に関する研究 論文博士 其 鉄隕石 と輝水鉛鉱中のモリブデン同位体存在比 の精密測定 とそのための基礎的 研究 魯 不安定系における非線形局在 モー ドの巌密解 研究 ―-53-― 暮 茨 蝙 辱 ・日 嵩 名 論 文 麺 ョ 群 厭鑢凛予炉と吹 ゆオンロ鐵藤り隋 的研究 離贅博士 撤 1嶋 曜 表 セリウム同炒各隧 鋳の1開 発と,そ の地球化学鼈 ‐ 絋 疇 詢 奥 艦膳行:鹸 甑鑽嚇 液‐佃班町 ―π ぽ厖 C耶暉晰∩Ⅲl■薔 動 ‐ 論文博士 大 Лl和 鋳 警櫛 ビ多ギ軸 ょり成長した颯 Znse覇 :雛 噴 馨のフォトルミネッセ シス黎 ど幼 工関する.は ― ― n 論文議■ 業 後 ビスマス1黍 醸牝物警導体ゆ轟緑導機構ど電子構造 鴨 酔 讐 2月 20日伴 郡 暇 犠 導:政 鶴 名 ‐ 物 理 学 1飲 木 真 八 論 1雌 躙 絣 畿 趾 ‐ 靱 文 iuT橿おける1圏子,ミ ュー2る ‐ 14名 ) 権 目 り調 オン鰤騨を用いたタゥ鰤 子輔 幼 躙 囀 卜資―同籠な 4¨ ホ 欅 2mと っいて 「 ,お 隆 に lる 鰤 曹輔纏燿謙 曇若寺 需 ウ到 篭機 靭 時硼犯躊 聾理鈴畷懇驀に関する続究 佐 胸 寡 田 │‐ ―‐ 誡― 理学部長 と理職 との交渉 12月 16日 ,1月 20日 に,理 学部長 と理 学部職員 組合 2 定 員外職 員 の定 員化 につ いて 12月 の交 渉 で理 職 は,一 人 の該 当者 につ いて本 部 (理 職 )と の定例 の学 部 長 交渉 が行 わ れ た。その主 な と折衝 す る よ うに要 求 した。また,1月 の交 渉 で理 職 内容 は以下 の通 りで あ る。 は,こ の一人 に関 す る定員化 の要望書 を,学 部長名 で 1.職 員 の 昇 格 ・ 昇 級 等 の 待 遇 改 善 に つ い て 本部 に提 出す るように要請 した。 学部長 は,要 望書 を 1)事 務職員 提 出す るつ も りで あ る と述 べ た。 12月 ,1月 の交渉 で 12月 の交 渉 で,理 職 は来 年 度 の事 務 職 員 の昇格 に 理職 は, もう一人 の該 当者 に関す る現況 を質 問 した。 関す る本部 か らの事務長 ヒア リングの経過 を質 問 した。 学部長 は,当 該教室 の準備 が整 うの を待 ってい る段 階 事務長 は,先 に理 職 か ら出 され た昇格 要望書 の件 につ で あ り,条 件 が整 つた段 階 で定員化 へ の行動 を とる と いて,し っか りと本部 に要請 した と答 えた。理職 は 答 えた。 , 理科学研究科 の職員人事 について尋 ね た。事務 長 は o数 , 12月 末 お よび それ以 降 の予 算 の内示 に よ り,事 務 機 3.行 構 が 明 らか にな る と述 べ た。 ,1月 の交 渉 で理 職 は,懸 案 とな って い る行 (二 )か ら行 (一 )へ の振 替 について再度 要請 を行 っ た。 事務長 は,今 の ところ進展 はな く,振 替 の理 由づ けが難 しいが ,引 続 き努力 す る と回答 した。 (二 )か ら行 (― )へ の 振 替 に つ い て 12月 1月 の交渉 で は,事 務 長 か ら数理 科学研究科 に は新 たな定員 が つか ず,推 卜 長等 の ポス トも増 えなか った と 説明 が あつた。理職 は,ポ ス トが増 えな い以上 ,昇 格 が遅 れ て い る数 学職 員 の事 務 主任 発令 お よび 5級 発 4.数 理 科 学 研 究 科 設 立 に 関 わ る問 題 に つ い て 令 は理学部在籍 中 に行 うべ きで あ る と主 張 した。 12月 の 交渉 で理 職 は,施 設 系職 員 の 4級 昇格 が遅 12月 の交 渉 で理 職 は,11月 末 の数 理科学研 究科 設 れて い る理 由 を質問 した。事務 長 は今度 の 4月 をめ ど 立準備会 の経緯 を尋 ねた。学部 長 は,研 究科 として独 に昇格 を考 えて い る と回答 した。理職 はさ らに,複 数 自の事務組織 を持 つ ように要望 した と答 えた。 さ らに の事務 主任 の 5級 昇級 が遅 れて い る こ とを指 摘 し, こ 学部長 は,7項 目か らな る要望書 を教養学部 の名 で本 れ を早急 に実現 す るよ うに要請 した。 部 に提 出 した こ と と,12月 末 の内示 が 出 た段 階 で設 2)技 術職 員 立準備 委員会 を設置 し,そ の 中 に設立準備室 をお いて 11月 の交渉 で理 職 は,天 文 学 教育研 究 セ ン ター の 事務機構 等 の検 討 を行 う ことを述 べ た。理 職 は,設 立 職員 の 4級 昇格 が遅 れてい る事 情 を質 した。事務長 は 準備室 に現在 の数学科 の職 員 が参加 す る よ うに要請 し 事態 はほぼ判 明 してお り,本 部 とも連 絡 を とつて来年 た。 学部長 は,考 慮 す る と回答 した。 , 度 の昇格 に向 けて努 力 して い る と回答 した。 また,理 1月 の交渉 で は,事 務長 か ら,数 理科学研究 科 の事 職 は空 きポス トになって い た技術長 の発 令 の有無 を尋 務組織 が教養学部事 務 に組 み込 まれ るこ とと,当 初 の ねた。事務長 は 11月 16日 付 けで遡及発令 した と答 え 職 員数 は学 内措置 に よ る 1人 を新 た に加 えた 11人 で た。 あ る ことが説 明 され た。 さ らに事務長 は,将 来事務 が 12月 の交渉 で理 職 は,技 術 主任 の欠員 の理 由 を質 独立 す る ことを 目指 して数理 科学研 究科事務掛 を要求 問 した。事務 長 は,配 置 の理 由づ けが十分 にで きて い す る と述 べ た。理職 は,設 立準 備室 へ の数学職 員 の加 な いため,ま だ補充 して い な い と答 えた。理職 は,過 入 を再度要望 した。事務長 は,最 低 1名 は参加 して も 去 に本部側 か ら「理 由づ けは不要 Jと の発言 が あった らう必要 が あ る と回答 した。 12月 ことを指摘 した。学部長 は,形 式 的 に理 由づ けの書類 ,1月 の交渉 で理職 は,現 在 の数 学科 の技官 が , が 要求 され る と述 べ た。 12,1月 の交渉 で理 職 は,数 数理科学研究科移行後 も技官 として処遇 され るように 学職員 の 6級 昇格 を強 く要望 した。事務長 は,引 続 き 要望 した。事務長 は,技 官 はその ままで移 る ことになっ 努力 す る と答 えた。 て い るが 4名 で は技術 系組織 が作 れ な い ので ポス トの ―-55-― 用意 が難 しい と述 べ た。 員 になったが,事 務職 員 の定 員増 は認 め られ なか った と述 べ た。理職 は,定 員 がつか ない状 況 で広域理学 の 5.第 8次 定 員 削 減 につ い て 事務 を行 う こ とが 可能 か を質 問 した。学部長 は,広 域 12月 の交 渉 で理 職 は,改 革 問題 等 に よる業務 増 を 理学専担 の事務 が 不可欠 で あ り,そ のための組織編成 根拠 に,理 学部 の定 削の緩和 を文 部省等 に働 きか ける を現在検討 してい る と答 えた。 理職 は,広 域理学 の事 よ うに要望 した。学部長 は,折 をみて定 削 に反対 す る 務 事項 も既存 の教室事務 を経 由す るので はないか と尋 が ,理 学部 を特別 に緩和 せ よ とい う主張 は困難 だ と述 ね た。学部長 は,そ の可能性 もあ る と答 えた。理 職 は べ た。 1月 の交 渉 で理 職 は,理 学部 に対 す る定 削 の年 増 員 がつか な い状 況 で,計 画書 の規模 で改革 を実行可 毎 の割 当 を尋 ね た。事務 長 は,職 員 Q削 減 数 は平成 4 能 か を質 問 した。学部長 は,計 画書 に変更 を加 えるか , 年度 ∼ 8年 度 の各 年度毎 に 3,4,3,3,3で あ り,助 について,現 在 ア ンケー トを行 ってい るが ,当 面 は臨 手 について は 5年 度 に 1,6年 度 に 1で あ る と答 えた。 時職 員 を雇 って対処 す る と答 えた。 また,学 部長 は 理職 は, この割 当 は非常 に厳 しい ものなので,運 用面 文部省 は広域理 学 大講座 を評価 して い るので ,実 績 を で定 削 を少 しで もかわす ように要求 した。 あげて事務組織 を要求 し,将 来 は広域理学院 を 目指 し , たい と述 べ た。理 職 は,事 務部長制 へ の移行 の有無 に 6.改 革 問 題 に つ い て 0 ついて尋ねた。学部長 は,今 回の内示で は実 現 しなか っ 12月 の交渉 で理 職 は,大 学 院 重 点化 と柏 キ ャ ンパ たが,来 年度 は強 く要求 す る と答 えた。 ス との 関連 を質 問 した。 学 部 長 は,広 域 理学 大講 座 10グ ルー プの うち,7つ を将来 的 に柏 へ移 す ことが可 7.新 一 号 館 問 題 育旨だ と答 えた。 。その 他 に つ い て 12月 の交 渉 で理 職 は,一 号館 建 て替 えの中 の物 理 1月 の交 渉 で理 職 は,大 学 院重 点化 に関 す る 12月 と中央事務 の設 置場所 を質 問 した。学部長 は,建 物 ワー 末 の 内示 の 内容 を尋 ね た。学部長 は,7専 攻 (化 学・ 生化・ 動物・ 植物 。人類・ 地質・ 鉱物 )の 部局化 お よ それ を参 考 に決 め る と答 えた。理職 は,新 一 号館 図書 び教 官 ポス トのアップシフ ト・ 広域理学大講座 の発足・ 室 に関す るこれ までの議論 で は,長 期展望が見 えず 予算 の増額 等 が 認 め られ る予定 で ある と答 えた。 さ ら 広 く意見 を収 集 していない等の問題がある と主 張 した。 に学部長 は,大 学 院 の学生定員 が増 え る こと と,TA 学部 長 は,意 見 の収 集 につ い て配慮 す る と述 べ た。理 制 度 が法制化 され た ことを述 べ た。理職 は,予 算 の増 職 は,新 一 号館 の建物管理 につ いて尋 ね た,事 務長 は 分 の配分 方法 を質 問 した。 学部長 は,増 分 は理 学部全 現在 の施 設掛 で は対応 で きないた め,外 注 にな ろう と キ ング・ グルー プが部屋 の利 用状 況 を調査 してお り , , , 体 で な らして使 うが,広 域理学大講座 に は重 点的 に配 分 したい と答 えた。理職 は,広 域理学大講座 の具体 的 言畠 去≧層 言 』≧ 僚 ][!権 漁 季う言 場言』言墓菫τ ● 内容 を尋 ね た。 学部長 は,4月 もし くは夏頃 まで に 5 た。また,新 一 号館 に体育施設・ 休憩室 。シ ャワー室・ 研究 グル ー プが発足 す る こと,グ ルー プ はお よそ 5∼ 更衣 室 を設 置 す るよ うに要望書 を提 出 した。 1月 の交 7年 の時限付 きで あ る こ と,お よび 1グ ループ は専任 渉 で理 職 は,理 職 の部屋 に FAXと 直通 回線 を入 れ る 教官 2名 ・ 協力教 官若干名 。博 士課 程 学生 2名 ・ 修 士 よ うに要望 した。学部長 は,来 年度 4月 か らな ら可能 課程学生 5名 か ら構成 され る こ とを述 べ た。 さ らに学 で あ ろう と答 えた。 部長 は,中 間子科学研究 セ ンター に技術職員 が一 名増 -56-― 編 集 簑 翻 繭か│ら 1仰 櫻園りとともに、平醸3年鐸理学部広報馨14暮 藩避届.し 藪しま繁 3胞だ ヽこと きれる1魯懃 動する方をから四魃 今回 11熊 暇襲 :が 出来覇した。年度売鑢 忙し した憾腎有難,ご ざいま臨 黎 '中 御糧暫の諸発生鍮ら、理学部の今餞の教育と研究につ憔て│の書曹ある割言葉の 数々を喚た│だ 議ましたが、情転 躍襲儡測 発彙囃 あた,身●引きJ縮 まる.思 い L・ が機Lま す。 この号をもち│ま │し て鋏 も醜 とな助象│す著 一年間:詢階しい中を提く欄岬積下さい灘し韻 真 編集 。霧行1に 御懲カ いわ層ぎ灘した事続部の方々で厚く倒吼叢 囃 .ま 九 ‐ m : 1内 倉 見 松寺 十践 機 隆 好 新 欄 蕃 ・ 譲嚢 議 山 一 本一 1纏 式 鰊 ペ タトル) 1吻 置 性 動 化 寧) 爛 │ 良枷 卸 .黎 表慟 勧 4動 暉 縄胸 動 痴 伸螺 聰 同 脚 蠅 Ⅲ 。 ・・ ・ ・ ・‐ ・・・ ・“ ・ ・ ・"・・… ・ ・ ・ ・ ・│:彗餞辞珂蠅熙蹄彗場合経ヒ 鉤 “ “ J・ 撫 日 ‐ ‐ ・ ・ ・…‐ ・レ ・……“…・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・“ ・“ ・ 3 …`・ …“ …………・・ 紙:の 調萌"Mu……・ ● ● ● Ⅲ I型 │■ Ⅲザ● 輩IⅢ ⅢⅢ ・ ・ ● 1薇 去うにあたつて‐・・ 'Ⅲ … ゛ …黒日 暗艦Ⅲ 4 ⅢⅢ ● │"=■ Ⅲ ■ Ⅲ Ⅲ Ⅲ Ⅲ ││■ ■ ■ ● ■ ■ │■ ■ IⅢ 黒田晴雄先生を選る… 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ゝ ・ⅢⅢⅢ● 理学部ならぎる融 ‐ ・ ・ い“…・ 鱗 ‐ ・ ・t,… …゛ ・● ・ ……“触"… …‐ ……・ 逝麟離之発生を選る…"・ ‐ 難 隆w 椰 Ⅲ Ⅲ 疵……Ⅲ Ⅲ ・ ・"‐ …Ⅲ ・“…“……・ … "… …Ⅲ …・嚇 罐物1国 の1思 い計・Ⅲ 賓 Ⅲ田 わ Ⅲ ¬ こ 釧 ヽ ・・ Ⅲ・ 工い ¬ ・・ ・ ・・ ・ ・ ・ば ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・八 ・ ・ ・…・ ・ ・ヽ ・ ・ ・・ ・ ・“ ・。 ●勘繭藤 雅節輩・ 39 レベきスメ曇穂姜 る・ “ “ 鴫 ● ● ● ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Ⅲ ⅢⅢ Ⅲ世● ■● ¨ ―・ ・ ・“"・ "箭 川i m・・= 鋤 ・ …・ 慮い出すままに,… ⅢⅢ ・ … ● Ⅲ Ⅲ Ⅲ● Ⅲ Ⅲ ¨■ ⅢⅢ Ⅲ ■ Ⅲ Ⅲ鳥鍮 光素Ⅲ 慇 ・"・ …ⅢⅢ●● ・ 前川I潔 彗されを,続 くる "… … 1表 "● =■ `FⅢ ,″ ,・ ilil "・ /`・ =“ 0・ IⅢ .:Ⅲ r・ P・ ,・ .4´ %・ 4・ `“ │,・ =・ `‐ 7● │● │?● `・ ^ 110 │■ 10「 ,・ `'嘔 IⅢ I議 =Ⅲ IIⅢ 鰊 紹介》 I ¨ ・ ● ■・ ¨││● ・ Ⅲ‐ ● ●● IT躙 動 ・・ 43 ・・ ・ ・・ ・ⅢⅢ ・4■ ・ ・ ・ ・ 'お Ⅲ 。…‐ ・……,…・ … ・…・ ……│:翻 │1 和男… 45 夕節静へ0ト レード… ‐ ‐ 鰊 ,… Ⅲ .― ・ ・ ・ ・"・ 嬌 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・¨"・・"・・ ・ 1蜃嚢 ・ ・ ・… ・ …… ・ ・ ・・・¨…・ ・ ・ ξ 輝鋼野鍵■ュ ス》・ ‐ ‐ ¨ ....“・ Ⅲ 乱 ` ・ ・‐ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・“二・…Ⅲ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・“配 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・。 ・ ・"・・ ・…・ 《 椰 鱚D・・ 蜀 鶉 .・ t・ │・ :Ⅲ I・ ,・ ,・ │・ I・ ││■ 3・ │・ =・ t・ 1・ l・
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