重荷を負う人は、人の重荷を負うことは出来ない。

東京ジャーミイ金曜日のホトバ
2015 年 2 月 20 日
重荷を負う人は、人の重荷を負うことは出来ない。
ムスリムの皆様。イスラームにおける責任感
とは、人それぞれ人生において自由を持っている
なりません。そして結果をよく考えながら行動す
べきです。
反面、その人が執った行動には責任が負わねばな
イスラームは、人それぞれの個性を育むこと
りません。クルアーンには、男でも女でも、集団
を目標にすると共に社会的交流と発展をも大切に
であっても行ったことについて責任を負わなばな
しています。さらに良いことや善行、そして正義
らないと述べられています。人が犯罪を犯せば、
において、社会的相互扶助や支え合いをないがし
その人が責任を負わねばなりません。従って重荷
ろにする利己主義を一切認めません。イスラーム
を負う人は、他の人の重荷を負うことは出来ず、
では、『自分のことだけ考え、他人の人のことに
他人に代わって罰を受けることも出来ません。1
関係がない』といった考え方や意見はありません。
そのような人が負う責
したがって他の人が被って
任感とは、生活のあらゆ
いる苦労や災難、そして社
る分野において はもちろ
会が直面した困難に対して
んのこと、宗教的な義務
無関心でいることは認めら
を果たす上でも同様です。
れないことです。なぜなら
誰であれ崇拝行為や善行
社会的な困難は、その原因
を行えば、その人だけ報
になった人や組織だけでは
奨を得ることができます。
なく、社会全体に大きな影
預言者や高名な人の 親戚
響を与える結果をもたらす
とか、同じ家系に属する
からです。このことに関し
と言っても、来世の救いには一切の保護が与えら
てクルアーンには『また試みの災厄に対して、あ
れることはありません。こうした理由から敬愛す
なたがたの身を守れ。それはあなたがたの中の不
る預言者(彼に平安あれ)は、私たちの母でもあ
義を行う者(だけ)に下るものではない。アッラ
るファーティマに対して、『娘よ、火から自分を
ーは懲罰に厳正であることを知れ』3 と述べられ
守れ、終末の日に貴女に対して私は、何もするこ
ています。この節で記されている不義という言葉
とは出来ません。』2と述べられています。
は、災難、困難、社会的混乱、不安という意味で
兄弟姉妹の皆様。責任が、個人的であるとい
す。
うことは、誰であっても自らの理性と知性を最も
誠実で責任感をあるムスリムになっていくに
よい方法で使い、きちんと振舞わねばならないと
は、個人的かつ社会的な任務を、共に生活してい
いうことです。他人に依存し、自らの責任を放棄
る社会と支え合いながら達成していきましょう。
することは正しい道ではありません。誰でも自ら
もう一つ忘れてはいけないことは、人としての責
したことを意識して選別したり、判断しなければ
務を放棄してはいけないということです。それは
社会の秩序を脅かす原因となるからです。
1
2
第 6 章 164 節; 第 2 章, 286 節; 第 29 章 12 節.
ムスリム, イマーン, 399.
3
第 8 章 25 節.
www.tokyocamii.org