テ レ サ ・ テ ン

昼は鄧小平が支配し、
夜は鄧麗君が支配する
Teresa Teng
テレサ・テン
歌手
一九九五年五月八日没(四十二歳)、気管支喘息
八〇年代日本で人気を博し、台湾、香港、大陸中国、東南アジアと北
米の華人世界で広く愛された歌手、テレサ・テン(鄧麗君、ドゥン・リー
は一九九五年五月八日、タイ、チェンマイのホテルで亡くなった。
ジュン)
気管支喘息の発作、四十二歳だった。
その年の旧正月を台北で過ごして以来体調を崩していたテレサは、四
月初めに香港経由で静養先のチェンマイに向い、インペリアル・メイピ
ン・ホテル最上階のスゥイート・ルームに滞在した。
五月八日の午後四時頃だった。喘息の発作に苦しむあまり、部屋を飛
び出した彼女は廊下で倒れた。マネージャーが救急車を呼んだが、救急
搬送中に呼吸停止、心臓マッサージも功なく午後五時半に死亡宣告がな
2
テレサ・テン
された。
発作を起こしたとき、同宿のフランス人カメラマン、ステファン・プ
エルは外出中だった。搬送三十分後に戻り、病院に駆け付けたが間に合
わなかった。やがて押し寄せてきた記者たち
を、ほとんど暴力的に撃退しようとしたこの
十四歳下の青年がテレサの恋人だったのか、
たんに「従者」のような専属カメラマンだっ
たのかはわからない。
「リンゴ追分」で育った「愛國藝人」
テレサ・テンの父親は河北省大名県出身の
昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する
3
元国民党軍将校で、山東省出身の妻とともに国民党軍が共産党軍に敗北
した一九四九年、台湾に移った。中部の雲林県に住み、テレサはそこで
五三年に生まれた。鄧家の五人きょうだい中ただひとりの女の子、本名
は鄧麗筠であった。
日本統治時代以前から台湾に住む「本省人」に対し「外省人」と呼ば
れ た 彼 ら は、 北 京 語 の み を 話 し て 台 湾 語(福建語、客家語)
を 解 さ ず、 そ
の大陸的かつ高圧的なふるまいで本省人に嫌われた。侯孝賢の映画『悲
情城市』にえがかれた国民党による本省人に対する大弾圧「二・二八事
件」は一九四七年に起こり、多数の犠牲者を出した。
七歳の頃、当時台湾で流行していた美空ひばりの「リンゴ追分」を歌
ったテレサの歌のうまさは傑出していた。六六年、十三歳で台湾テレビ
4
テレサ・テン
の専属歌手となり、学校を辞めて歌手に専念したのは、外省人家庭の貧
しさゆえであった。六七年には台北の高級クラブで連夜歌って「天才少
女歌手」と注目された。六九年以降は、シンガポール、香港など華人社
会をめぐるツアーをしばしば行った。
七二年、日中国交回復に際し、日本は台湾と国交断絶した。しかし日
本航空が日本アジア航空を子会社として設立、空路は維持された。また
「交流協会」が事実上の大使館として機能した。
七三年、テレサは日本のポリドールレコードと契約、七四年、二十一
歳で日本デビューした。テレサ・テンの芸名はこのとき日本のスタッフ
または
jun
が つ け た。 一 方 台 湾 の 芸 名 は、 鄧 麗 君 の「 君 」 が 北 京 音 で jun
(ジュン)
、
、音と声調がおなじであったので、そう
yun
本 名 の「 筠 」 も
昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する
5
なった。そして「軍」も jun
で、やはり音・声調ともにかわらず、それ
ゆえ国民党軍将校の娘で兄が陸軍少将となったテレサは「軍の恋人」と
もいわれたのである。彼女がマザー・テレサに憧れていたからテレサと
(ドゥン)
だ が、 ウ ェ イ ド 式 表 記 の 方 を と っ て
deng
したのだとは都市伝説で、テレサはもともと彼女の洗礼名であった。鄧
はピンイン表記なら
(テン)
とした。
teng
七四年の、アイドル路線での日本第一作は売れなかった。しかし演歌
に転じた同年の「空港」はヒットして、当時は権威のあった日本レコー
ド大賞新人賞を得た。
七九年二月十四日、彼女はインドネシアのパスポートでインドネシア
6
テレサ・テン
国籍の「エリー・テン」として日本に入国しようとして入国管理局に摘
発され、一週間後、国外退去処分を受けた。台湾政府はテレサを台湾に
帰国させるよう強く求めたが、レコード会社の担当者舟木稔(のちトーラ
は、彼女をアメリカに行かせた。台湾に戻れば数年間は
スレコード社長)
歌手活動ができなくなると見通したからだった。
この「偽造旅券」事件はわかりにくい。テレサが香港から台北に帰っ
たのは七九年二月十三日、このときもインドネシア国籍の旅券を見せて
入国拒否された。香港へ一度戻り、翌十四日に羽田へ。入国の翌日、台
湾での入国拒否事件を知らされたインドネシア大使館からの通報で、十
七日に身柄を確保されたという。この旅券は「偽造」ではなくインドネ
シア政府が正式に発効したものだといわれるが、テレサ自身は旅券を香
昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する
7
港で買ったといった。中華人民共和国が正統と国際的に認識されていた
当時、孤立していた台湾の有名人は出入国の煩を避けるためにインドネ
シア旅券を持つことが普通であったという。
だが、入国するとき台湾の旅券と出し間違えたというエクスキューズ
はうなずけない。台湾で知らぬ者のいない有名人が、台北の空港で間違
えて外国旅券を出したという説明は、もっとよくわからない。
事件後のテレサはアメリカで大学の聴講生となり、むしろのんびり過
ごした。台湾への帰国は翌八〇年、台湾政府への協力を約してのことだ
という。これ以後の彼女は「愛國藝人」と呼ばれる。
中華世界の時の流れに身をまかせる
8
テレサ・テン
ホー・リー・ジュン・ツアイ・ライ
八〇年代、文革の暴風が去ったあとの大陸でテレサの歌声がひそかに
聞 か れ は じ め る。 こ と に 一 九 三 〇 年 代 の 流 行 歌「 何 日 君 再 来(いつ
」のカバーが好まれた。中国共産党は「黄色歌曲」
また君は帰る)
(低俗歌
謡)
として禁止したが、彼女の人気は浸透した。
「昼は国民党が支配し、
夜は共産党が支配する」という三〇年代の流行語をもじって、「昼は鄧
小平の言葉を聞き、夜は鄧麗君の歌を聞く」といわれた。
彼女が日本での仕事を再開したのは一九八四年である。舟木稔が社長
となったトーラスレコードと契約し、その年「つぐない」を発表すると、
百 五 十 万 枚 売 れ た。 八 五 年 に は「 愛 人 」 が や は り 百 五 十 万 枚、 八 六 年
「時の流れに身をまかせ」が二百万枚売れ、日本有線大賞、全日本有線
放送大賞と東西日本の有線放送の賞を八四年から三年連続でダブル受賞
昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する
9
し、八五年と八六年には紅白歌合戦に出場した。三曲とも荒木とよひさ
作詞、三木たかし作曲であった。
八五年、NHKで放送されたソロ・コンサートは彼女の最高のパフォ
ーマンスといわれる。八六年には大陸で彼女の歌が事実上解禁された。
同年、米誌「タイム」が「世界の代表的な七人の女性歌手」のひとりと
して特集を組んだが、この年以後、テレサの活動は急減する。喘息の発
作がしばしば起こるようになったからだが、二十年間の歌手活動そのも
のに疲労したせいではないか、とテレサの兄はいう。
ウォー・ダ・ジァー・ツァイ・シャン・ダ・ナー・イー・ビエン
一九八九年五月二十七日、香港で行われた中国民主化支援コンサートでテ
レサは、
「 我 的 家 在 山 的 那 一 辺(私の家は山のあのあたり)
」を歌った。
その八日後「六・四事件」が起こった。テレサが熱望し、一九九〇年に
10
テレサ・テン
予定されていた父母の故郷、大陸でのコンサートも中止となった。その
年のうちにテレサがパリに移住したのは、九七年に迫った香港の中国返
還を嫌ったからである。
イエ・ライ・シャン
パリで彼女は週四回、三時間ずつベルリッツに通ってフランス語を学
び、九二年に「 夜 来 香 」を録音・発売した以外は、静かな日常を過ご
した。歳下のカメラマン、ステファン・プエルと知り合ったのもこの時
期である。九四年十一月、仙台でNHKの番組のための公開録画を行っ
たが、明らかに体調不良のようすで声が出ていなかった。これが最後の
来日となった。
テレサ・テンの遺体は死の三日後の九五年五月十一日夜、チェンマイ
昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する
11
も
から台北に戻った。葬儀は五月二十八日であった。五十年は保つという
念入りな防腐加工を施された遺体は土葬された。それは蒋介石、蒋経国
と同じ扱いで、事実上の国葬であった。しかし、テレサの仕事を高く評
価しながら、葬儀を「外省人」
「国民党軍」の人生回想と感傷のための
儀式にすぎないと冷静に眺める「本省人」も少なくなかった。フランス
人カメラマンのその後は知られない。
台湾、香港をはじめ、東南アジア、北米の華人社会と大陸中国で愛さ
れて「全世界十三億熱愛的巨星」と呼ばれ、台湾海峡を越えた「両岸歌
后」でもあったテレサのレコード、テープ、ディスクは合計一億以上売
れたという。二〇〇九年、中国国務院が主宰するネット投票で、
「新中
国でもっとも影響力ある文化的人物」の第一位となった。
12
テレサ・テン
北京語、広東語を合わせ、中国語でリリースされた楽曲は千曲以上あ
る。一方、日本でのリリースは二百六十曲であった。だが彼女は美空ひ
ばりの歌を口ずさんで育った少女で、また日本でうまくなった歌手であ
った。「日本のスタイルや感性と伝統的な中国の唱法の融合が、とても
あたらしい印象を中国人に与えた」という香港人音楽プロデューサーの
評価は妥当なものであろう。すなわち現代の華人たちは、テレサによっ
て日本を発見したのである。
昼は鄧小平が支配し、夜は鄧麗君が支配する
13