SURE: Shizuoka University REpository http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/ Title Author(s) Citation Issue Date URL Version 「交易の時代」の港市国家マラッカ : 空間軸と時間軸か ら考える 岩井, 淳 アジア研究. 6, p. 19-32 2011-03 http://dx.doi.org/10.14945/00006821 publisher Rights This document is downloaded at: 2015-02-16T13:22:33Z 「交易 の時代」 の港市国家 マ ラッカ 一一 空 間軸 と時 間軸 か ら考 え る一 ― 岩 井 淳 は じめ に 一 ― マ ラ ッ カ を 旅 して 2010年 12月 、私 は都市 マ ラ ッカ を初 めて旅 した。同行 は、社会学科人間学 (哲 学 芸 術論 ) の上利 博規氏 と歴 史学 (中 国近 現代史 )の 戸部健氏 だ っ た。 私 た ち三名 は、人文学部 アジア 研 究 セ ン ター の研 究テ ー マ 「海域 アジアの文献研 究 とフ ィー ル ド調 査 」 の一 環 として 、 12 月 18日 に成 田か らクアラル ン プ ール に入 り、 19日 は 同地 を調 査 したのち、20日 にマ ラ ッ カ ヘ移 動 した。 初 めて見 た マ ラ ッカの印象 は 、雑 多 な民族や宗教 、文化 が混在す る 「不思議 な町 」 とい うもの だ った。着 い てす ぐに船 に乗 り、マ ラ ッカ川 を海 に向か っ て 下 りなが ら、街 を概観 した 時 は、 あま り変 哲 の ない 南 国 の観 光地 の よ うに も思 えた。 しか し、町 の西北 にあるチ ャイ ナ タ ウンに移 り、歩 い て調 査 を開始す る と、多数 の宗教や文化 が 同居 してい る風 景 が パ ノラマ の よ うに開 け、新鮮 な驚 き とともに街 並 み に魅 了 され て いっ た。最初 に訪れ たの は、マ レー シア最古 の 中国寺院 、チ ェン・ アン・ テ ン寺 院 (青 雲亭 )だ つた。 そ の起源 は 17 世紀 に さか のば り、1646年 にわ ざわ ざ中国 か ら資材 を運 んで建 て られた。本 堂 の 中 に は線 香 の煙 が充満 し、 ひっ き りな しに参拝者 が訪れ、今 も篤 い信仰 の対象 とな って い るこ とが 理 解 で きた。そ こか ら数 10メ ー トル 歩 くと、カ ンポ ン・ ク リン・モ ス ク とい うイ ス ラー ム 寺院 が忽然 と姿 を現す。 この 寺 院 は、天 を衝 く自亜 の ミナ レ ッ トとともに、 三層 か らな る スマ トラ様式 の緑 の屋根 を もつ 美 しいモス クで知 られ 、1728年 に創 建 され た。そ の 隣 に移 動す る と、今度 は 日本 で は、 ほ とん どお 目にか か れ な い珍 しい 寺 院 に遭遇 す る。 ス リ・ ポ ヤ タ・ ヴィナヤガ・ ムー テ ィ寺院 とい うヒン ドゥー 寺 院 である。 この寺院 は 、1781年 に建 て られ た マ レー シア最古 の ヒン ドゥー 寺 院 で 、 マ レー シア に移 民 して きたイ ン ド系住 民 の た めに建 て られ た。 この よ うにわず か数 10メ ー トル の範囲 内に 中国寺院 とイ ス ラー ム寺院 と ヒン ドゥー 寺 院 が混在 してお り、そ の歴 史 も 17世 紀や 18世 紀 に さか の ぼ るこ とができる。宗教 と文 化 の 多様性 は 、当然、多様 な出身地 域 の移 民 が マ ラ ッカ にや つ てきた歴 史 を想起 させ る。 そ の思 い は 、午後 か ら町 の 中心 部 を歩 い て調査 す るなかで 、 い っそ う鮮 明にな つ て きた。町 の 中心 部 は支配 者 の歴 史 に彩 られ て い た。 マ ラ ッカの 中心地セ ン ト・ ポー ル の丘の 上 にそ び え立 つの は 、1521年 、ポル トガル 人 によっ て建 て られたセ ン ト・ ポール 教会 で ある。 日 本 にキ リス ト教 を伝 えた こ とで知 られ るフ ラ ンシス コ 0ザ ビエ ル が亡 くな った後 、 ここに 遺骨 が 9か 月間安置 され た こ ともあ り、ザ ビエル 像 が 教会 の 正 面 に立 って い る。 この教会 は 、1511年 にポル トガル 人 が マ ラ ッカ を 占領 し、香料 貿易 を独 占 しなが ら、カ トリ ック の 布 教 に着手 した こ とを物語 る。 しか し、ポル トガル の支配 は長続 き しなか った。 1641年 にはマ ラ ッカ の新 たな支配 者 と してオ ラ ンダ人 が登 場す る。 そ の 足跡 は、セ ン ト・ ポ ール 教会 か ら下 つた場所 にあ る現在 の マ ラ ッカの 中心 地 「オ ラ ン ダ広場」 に くっ き りと残 され て い た。 この代表格 が 、 オ ラ ン -19- ダ総 督 らが居住す るために、1650年 に建 設 され た ス タダイ ス であ る。 この建物は、東南 ア ジア最 古 の オ ラ ンダ建築で、現在 は歴 史博物館 とな らてい る。 ス タダイ ス がオ ラ ン ダ人 の 世俗 的 な支配 の場 とすれ ば、宗教 的な権威 を示 す のが、1753年 に建 て られた ム ラカ・ キ リ ス ト教会 であろ う。 当初 はオ ラ ンダ・ プ ロテ ス タ ン ト派 の教会 であつた この建物 は、現在 はイ ン グ ラ ン ド国教会 の もの とな ってい る。 ス タダイ ス とキ リス ト教会 は 、 ともにオ ラ ン ダ の町 で よく見か ける レンガ色 に彩 色 され 、 マ ラ ッカがオ ラ ンダ支配 下 で も繁栄 を続 けた 往 時 を偲 ばせ て くれ る。 だが 、そ のオ ラ ンダ支配 も永続 はせ ず 、マ ラ ッカは、1795年 、イ ギ リス東イ ン ド会社 に 占領 され る。そ の痕跡 は、ヴィク トリア 女 王 の即位 60周 年 を記念 して 、建造 され たオ ラ ン ダ広場 の 時計台や噴水 に刻 印 され て い る。イ ギ リスの支配 は、1942年 の 日本 占領 な どを聞 には さみ なが ら、1957年 のマ ラヤ連邦成 立 まで継続す る。マ ラ ッカ の 町 の 中心部 には、 こ の よ うに支配者 として ヨー ロ ッパ か らや って 来 たポル トガル 人、 オ ラ ンダ人、イ ギ リス人 の足跡 が色 濃 く残 され ていた。 中心 部 だ けでな く、周辺部 まで 目を向 ける と、マ ラ ッカ の 繁栄 を底 辺 か ら支 えた マ レー 人や 中国人、 イ ン ド人 の姿 が浮 かび上 が る。 中で も忘れ てな らな いのが 、住 民 の 半分以上 を 占めるマ レー 人 の存在 であ る。 ポル トガル 人 が到 来す る前 にマ ラ ッカ繁栄 の基礎 を築 い た のが 、1400年 ころにマ レー 人 が建 国 した マ ラッカ王 国 であ った。 マ ラ ッカ王 国 は、15世 紀初頭 に 中国 の 明朝 の後 ろ盾 を得 なが ら安定 し、宗教 的に は イ ス ラー ム教 を取 り入れ、香料貿易 を独 占 した。交易 を中心 とした都 市国家 は、近年 「港 市国家」 と呼ばれ て い るが、港 市国家 マ ラ ッカ の歴史は、 マ ラ ッカ王 国 か ら始 ま っ た。 この よ うにマ ラ ッカは、500年 ほ どの歴史 の 中で、次 々 に支配 者 を変 えなが ら、多種 多 様 な人 々 を 引 きつ け、港市国家 として発展 してきた。 そ う した重層 的 な歴 史 が 、複合 的な 都 市空 間 を形成 してきた とも考 え られ る。以下では、マ ラ ッカ を旅 して強烈 に印象 に残 つ た 「雑 多 な民族や宗教、文化 が混 在す る不思 議 な町」 とい う謎 を解 くため、マ ラ ッカ の歴 史 を さか の ぼ り、 15-16世 紀 の港市国家 マ ラ ッカ の特 色 を解 明 して み た い。 この地 は、 な ぜ 、雑 多 な民族 を集 め、多様 な宗教 と文化 を同居 させて きた のか 、 そ の魅力 は、 どんな と ころに あ った のか。マ ラ ッカ の統治 は、どの よ うにな され 、ヨー ロ ッパ 人 の支配 に よつて 、 どの よ うに変容 したのか。 こ うした 問 い を意識 しなが ら、史料 と文 献 による考察 を行 う。 そ の 際、 二つの分析軸 を設 けた。イ ン ド洋 とシナ海 を結 び つ ける広範 な交易圏 とい う空間 軸 と、15世 紀 のマ ラ ッカ王 国以来 の港市国家 の歴 史 とい う時間軸 で ある。 この二 つ の軸 を 設定す る こ とに よつて 、空間 をか け め ぐ り、時間 をさかのぼ る 「も う一 つの旅」 に 出 かけ てみ よ う。 視点 と史料――海洋史観 と トメ・ ピレス『 東方諸国記』 本稿 で設 定 した空 間軸 は、海洋史観 とい う歴 史 の見方 と深 く関連 してい る。 そ の た め本 論 に入 る前 の予備 的作業 として 、海洋史観 とい う視点 が 、研 究史 上 、 どの よ うな形 で登 場 し、 どの よ うな意 味 をもつて い るか を確認 してお こ う。 あわせ て 、本稿 で 中心的史料 とし て用 い る トメ・ ピレス『 東方諸 国記』 につい て も解説 を加 えてお きた い。 海洋史観 は、 これまでの歴史学で支配的 であつた一国史観 に見 られ るタテの時系列 とい うよ りも、国境 を こえる ヨコの相互 交流 を重視す る見方である。そ の発端 は、16世 紀 の地 -20- 中海 を舞台 に、従来 の一 国史 では 見 えない歴 史 を、地理 的な時間、社会的な時間、個人的 な時間 とい う二つの 時間概念 を駆使 して描 き出 した フェル ナ ン・ ブ ローデ ル の『 フ ェ リペ ニ 世時代 の地 中海 と地 中海世界』 (1949年 )に 求 める こ とができる。 そ の後 、海洋 史観 は、 他 の海 を舞台 に した研 究 に も転用 され 、概念的 に も豊 かに な ってい く。地 中海 は古代 か ら 中世 にかけて重 要な意 味 をも つて い たが 、16世 紀以降 に ヨー ロ ッパ と異文化 が接角 虫す るな かで、世界史 とい う場 の主役 に躍 り出るの は 、大西洋 とイ ン ド洋 である。 海洋史観 は、 とりわ け大西洋 を舞 台に した研 究 にお い て顕著 な成果 を上げてきた。 この 見方 は、大西洋 を往 来 した ヒ ト、 モ ノ、情報 の流れ を追跡 し、 ヨー ロ ッパ か らアメ リカ と い う一 方 向 だけでな く、双方 向 での交流史研 究 が進 展 してい る。 大西洋 世界史 は、世界 シ ステ ム論 を主張 した I・ ウォー ラーステイ ン によって も採用 されたが、最近 は宗教 史や政 治史 に も広 が り、 17世 紀や 18世 紀 の大西洋横 断的 なアプ ロー チが成果 を上 げ てい る。 私 も、少 し前 に 出版 され た書物 1で 、 17世 紀 の大西洋 を行 き来 した 千年 王 国論 な どの宗教思 想 に着 目 して、 ピュー リタ ン革命 の 国際的背景 を検討 した。政治史 では、18世 紀 のア メ リ カ とフラ ンス とハ イチ を結ぶ 「大西洋革命論」な どが提起 されて い る 具体的 な研 究 と並 2。 んで 、海洋史観 の理 論 的な考察 も進み、また奴隷 貿易 な どを通 してア フ リカ大陸 も大西洋 世界 の海洋 史 に組み込 まれ て い る 3。 この地 域 の特色 として指摘 できるの は、ア メ リカ植 民 地が 、資本 主義的な経済 システ ム だ けでな く、 キ リス ト教 な どを受容 し、 そ の支配者 も、 ヨー ロ ッパ 人 か 現 地生 まれ の 自人 (ク リオ ー ジ ョ)が 務 め、言語 も、英語や フ ラ ンス語、 ス ペ イ ン語 、 ポル トガル 語 とい つた ヨー ロ ッパ 系言語 を採用 した こ とか ら分 か るよ うに、 ヨ ー ロ ッパ 的価 値観 を受 け入れ る こ とが多 かった こ とで ある。 他方 、海洋史観 は、イ ン ド洋 か らシナ海 域 を 中心 に した海域 アジア史 で も重要 な意 味 を もち、貴 重 な成果 をもた らして い る ゎ けて も東南 ア ジア史研究 にお い て 、海洋史観 は決 定的な意義 をもつ こ とにな っ た 東南 ア ジア地域 は、多 くの民族 が混在 し、相 互 に征服や 4。 5。 被征服 を繰 り返 して お り、特 定 の 民族 の系譜 をた どるこ とが困難 な場合 もあ り、従来 の一 国史観 が 、 必ず しも有効 な指針 とな らなか っ た。 しか し、国際的 な交流 に着 目 した場合、 1岩 井淳『 千年 王国 を夢み た革命』講談社選書、 1995年 。 2川 北稔編『 岩波講座世界歴史 17環 大西洋革命』岩波 書店、1997年 ;Do Armitage and S. Subrahmanyam(eds。 ),動 θИ″ ofReya」 υ″θ ″s力 α θ わ′ノOonιθ xち θ .176θ ザθイ α Basingstoke,2010.後 者 の論文集 は、大西洋革命論 を中心に し、 さらに南 アジア、東南 ア ジア、中国 の社会変動 を扱 ってい る。 3 Do Arrnitage and WI.J.Braddick(eds.),劉 bθ Jガ ″θ 力И施 ″ガθ Vo盤,fJθ θゼθθα Basingstoke,2002;Bernard Bailyn,∠ 肋 コ開θHisιovf(■口θ ォ′″ご00n"υ rs2 Cambridge,Mass.,2005肝 日田光弘・森丈夫『 ア トラ ンテ ィ`フ ク・ ヒス トリー』名古屋大学 出版会、2007年 〕 4日 本 で も、川勝平太『 文明 の海洋史観』中央叢書、1997年 や 自石隆 海 の帝国』中公新 『 書、2000年 におい て海洋史観 が提唱 された。川勝著 の タイ トル は、梅樟忠夫『 文明 の生態 史観』中公叢書、1967年 を意識 しての もので ある。ただ川勝著は、海洋史観 と言 い なが ら も、実際に対象 となるのはイギ リス と日本 であ り、海域 アジアには、 あま り論及 されず 、 大西洋世界 には、ま った く言及 されてい ない とい う問題点がある。 5東 南 アジア史 の研究動向については、池端雪浦 「東南 アジア史へ のアプ ロー チ」同編『変 わる東南 アジア史像 』山川出版社、1994年 ;桜 井 由男 雄 「東南 アジア史 の 四〇年」東南ア ジア学会監修『 東南ア ジア史研究 の展開』 山川出版社 、2009年 な どを参照。 . -21- 東南 ア ジア は、イ ン ド洋 とシナ海域 を結 び つ ける枢要 の地 として新 たな意味を帯 びて くる。 そ こで は 、古代以来、港市 国家 と呼 ばれ る都市国家 が 商業ネ ッ トワー クの結節点 とな って お り、 上座部仏教や ヒン ドゥー 教 、 イ ス ラーム教 といった宗教 が東南 アジアに流入す る窓 国の役割 も果 た して きた。 東南 アジアが 、世界史 的 に見 て も重要 な位置 を 占めるの は 、 とくに 15世 紀 か ら 17世 紀 の 「交易 の時代」 である。 この 時代 を 「交易 の時代」 と呼んで 、東南 アジアを海洋史観 か ら考察 した代表 的な研究 が 、 1988年 と 93年 に 出版 され たカ リフ ォル ニ ア大学 ロサ ンゼル ス校 のア ン ソニー・ リー ドの二巻本『 交易 の時代 の東南 ア ジア』で ある リー ドの研 究 は、 6。 ブ ロー デ ル の『 地中海 』 の影 響 を受 けてお り、彼 の 目的 は、東南 アジアを各 国 の集合体 で はな く、ひ とつの ま とま っ た世 界 と して描 くこ とにあ つ た。 日本 で も、 リー ドと同 じよ う な視 点 に立 つ研 究は存在 したが 、 リー ドはそれ を体系化 した と言 えよ う。本稿 で も、 リー ドの提言 に従 っ て 、「交易 の時代」 とい う時代概念 を用 い て 、 マ ラ ッカ の考察 を進 めた い。 これ らの研 究 か らもた らされ た東南 アジア像 は、要約す る と次 の よ うにな る。東南 ア ジ アは 、 ヨー ロ ッパ 勢力 が現 れ る前 に、す でに同質性 をもつ 地 域 として成 立 して い た。 リー ドの言葉 を借 りれ ば、東南 ア ジア は 「言語や文化 の面 で 多様性 に 富 んでい て も、天候や 自 然や 商業 の面 で 多 くの同一 の力 に従 わなけれ ばな らな か っ た の で 、非常 に類似 した 、 ひ と そ ろい の物質文化 を発展 させ て きた」 7の である。東南 ア ジア には 、 16世 紀 にな る と香辛 料や胡椒 を求 めて ヨー ロ ッパ 人 が 来航す るが 、 それ以前 に、 この地 域 は、多様 な民族や宗 教 をかか えなが ら、 ま とま っ て い た とい うこ とにな る。 ′ゴ )の 解 次 に 、本稿 で 中心的史料 として用 い る トメ・ ピレス『 東方諸 国記』 (3maケ ゴaf7 ι 説 に移 ろ う。 この書物 は、 ポル トガル 人 トメ・ ピレス に よつて 1514年 か ら 15年 ころにマ ラ ッカで 書 かれ た と推測 され る。筆者 の トメ・ ピレス は 1466年 こ ろに リス ボ ンで生 まれ 、 父 の仕事 を継 ぎ薬斉J師 とな り、 一 時 は国 王の王子 ア フォ ン ソの薬斉J師 を務 めて い た。 しか し、1491年 に王子が亡 くなる と、彼 もそ の職 か ら離れ る。 この後 、彼 はイ ン ド在住 の商館 員 に任 ぜ られ 、1511年 4月 に リス ボ ン を出発 し、同年 9月 にイ ン ドのカナ ノー ル に到 着す る。 奇 し くも、 この年 の 7月 、 ポル トガル 人 の総督 アル ブケル ケ がマ ラ ッカを 占領 したの は注 目に値す る。 アル ブケル ケは、攻略 したばか りの マ ラ ッカ の重要性 を十 分認識 してお り、 この地 を治 めるためイ ン ドか ら ピレス を呼び寄せ る こ とを決 めた。 ピレス は 、1512年 にマ ラ ッカに赴 き、「商館 の書記兼会計掛 お よび香料 の管 理人 の職 」に就 き、ポル トガル 領 とな つたばか りのマ ラッカで活躍 した こ とが知 られ る。彼 は 、 マ ラ ッカ を拠点 として ジ ャ ワや スマ トラの各地 を訪れ るこ ともあ り、香料 を入手す る仕事 な どに携 わ った これ らの経 験 は 、 ピレス が『 東方諸 国記』 (正 式題名 「紅海 か らシナ 人 まで を取 り扱 う 8。 スマ・ オ リエ ンタル 」)を 執筆す るのに大 い に役 立 った と思 われ る。そ の後 、彼 は中国 と正 式 の 国交 を開 くた めの使節 とな り、1517年 に広州 経 由で北京 に赴 い たが 、結局、国交 を開 6 Anthony Reid,6,コ 励θ as`И ttb力 2″ [θ ∠F,(プ 伽 ″ette,fイ Jθ ザ a2vols。 ,New Haven,1988/93〔 平野秀秋・ 田中優子訳『大航海時代 の東南 アジア“ 』 I・ Ⅱ、法政大学出 版 局、1997/20021「 〕 7同 上書、 I、 x市 Ⅲ w頁 。 8生 田滋 「解説」、生田滋 ほか訳注、 トメ・ ピレス著『 東方諸国記』岩波書店、 1966年 、 . 17‐ 23]ミ 。 -22- くこ とはで きず 、帰途 、広州で投獄 され た。 そ の後 の足跡 は定かではないが 、1524年 に死 去 した よ うであ る 『 東方諸国記』は、 16世 紀初頭 とい う時点 でポル トガル 人 に分 か って い るア ジア世界 を体系的 に記述 した もので 、「エ ジプ トか らカ ンバ ヤ 〔 イ ン ド西部 の グ ジ ャ ラー ト地方〕 まで の諸 国」「デ カ ンか らセ イ ロンまで の諸国」「ベ ンガル か らイ ン ドシナま 9。 で の諸 国」「シナか らボル ネ オ にい た る諸 国」「スマ トラか ら香料諸 島ま での諸 島」「マ ラ ッ カ」 とい う全 六 部構成 を とって い る。この書物 は、「ポル トガル 人 の手 にな る最初 の綜合的 なア ジア に 関す る記述 」10と い う評価 を得 てい るが 、記 述 の正確 さとい う点 か ら見た とき、 特筆す べ きはマ ラ ッカ王 国 に関す る箇所 であろ う。 ピレス は、直前 まで存在 した マ ラ ッカ 王 国 の統治や商業 につい て詳細 に記 してお り、「 『 東方諸 国記』 が ,ポ ル トガル 人 の新支配 者 の ための参考書 として役 立 ち得 るよ うなマ ラ ッカ史 の権威 ある記述 とな る こ とを 目指 し た 」llと 考 え られ る。 そ の意味 で『東方諸国記』 は、15世 紀 か ら 16世 紀初頭 の マ ラ ッカ王 国 を知 るた めに不可欠 の史料 であ り、そ の後 の史料が乏 しい こ とを考慮す る と、「交易 の時 代」 のマ ラ ッカの 実態 を伝 える第 一 級 の史料 と言 えるだろ う。 2 空 間 軸 か ら見 た マ ラ ッカ ー ー 「交 易 の 時 代 」 の 拠 点 都 市 東南 アジア を 中心 に した海域 アジアには、 15世 紀 末以降 にポル トガル 人、 オ ラ ンダ人 、 イ ギ リス人 な どが相 次 い で来航 した。 しか し、 ヨー ロ ッパ の影響 は点 に限 られ 、面 に広が る こ とはなか っ た と言 える。 当初、 ヨー ロ ッパ 人 は、海域 ア ジアの港市国家 を拠 点 にす る が 、現地 の支配者 の 協力 を仰 ぐこ とが不可欠 で あ った。 ここで想起 され るの は、16世 紀 に 日本 に伝来 した鉄砲や キ リス ト教 は、 いずれ も東南 ア ジアや 中国 の港市 を経 由 して 、 もた らされた こ とで あ る。例 えば、1542年 に種子 島 に到 来 した鉄砲 は、西洋 式 の船 に乗 つたポ ル トガル 人 が 日本 人 に直接伝 えた と思われが ちだが 、 それ は間違 って い る。実 は、 ポル ト ガル 人 は、 タイ のアユ タヤか ら中国式 のジ ャ ン クに乗 せ て もらい 、密貿易 に参入 しよ うと したが 、嵐 に遭 っ てたまたま種子 島に漂着 した。 1549年 に鹿 児 島 に到 着 した フ ラ ンシス コ・ ザ ビエ ル も、直接 ヨー ロ ッパ か ら来た の ではな く、イ ン ドの ゴア を基地 にイ ン ド布 教 をお こな つ た後 、 マ ラ ッカで鹿児 島 の人 ア ンジ ロー と出合 い 、 中国人 のジ ャ ン ク船 に乗せ て も らつ て 、 キ リス ト教 を伝 えた。 この よ うに ヨー ロ ッパ と日本 の 間 には 、東南 アジアや 中国 が介在 して い た こ とを忘れ てはな らない。海域 ア ジア は 、西洋史 とア ジア 史 と日本史 を結び つ ける、言葉 を換 えれ ば ヨー ロ ッパ研 究 とア ジア研 究 と日本研 究 を橋渡 しす る格 好 の領域 と言 うこ とができ る2。 話 を元 に戻 そ う。東南 アジア な どの港市支配者 は 、仏教やイ ス ラー ム教 を奉 じるこ とが 多 く、それ らを周辺 地域 に伝 えた。 大西洋世 界 とは異 な り、海域 アジアでは 、 ョー ロ ッパ 人 が 直接支配者 とな るこ とが少 な く、在地勢力が長続 き し、影響力 を保 つた。言語 の 面 で も、 ヨー ロ ッパ 系 の言語 がす ぐに普及す る こ とはな く、現地 の言葉 が存続 した。 19世 紀以 9生 田滋 「解 説 」、 同 上 書 、 18Ⅲ 21頁 。 10生 田滋 ほか 「あ とが き」、 同上書 、 611頁 。 1l B.ⅥL Andaya and L.Y Andaya,И Hisじo7θ ■腸場laysia′ Second Edition,Basiュ 2001,p.34. 12桃 木至朗編『 海域 アジア史研究入門』岩波書店、2008年 などを参照。 -23- gstOke, 降、 ヨー ロ ッパ 勢力 が植 民地 を広 げる中で も、港市支配者や 首長 といつた在地支配者 が 大 きな役割 を発揮 した。海域 アジアでは、16世 紀以降 の グ ロー バ ル 化 の流れ に対 して港 市国 家 の よ うな ミニ・ シ ス テ ムが 、 あ る程度 まで存続 した。 そ こ に大西洋 世界 と海域 アジア の 顕著 な違 いが あ る と考 え られ る。 ここまで枠組み に関 わ る理論 的 な話 を続 けてきたが 、以 下 では東南 アジア を中心 に海域 ア ジアの実態 を具体的 に提示 し、結節 点 とな つたマ ラ ッカ の特色 を明 らか に してい きた い 13。 図 1「 交易 の時代 の 交易 圏」 を参照 す る と、東南 アジアは 、 イ ン ド洋交易圏、 ジ ャ ワ海 交易圏、 シナ海 交易 圏 とい う三 つ の 交易ル ー トの 中心部分 に位 置 して い る ことが分 か る。 この うち、 イ ン ド洋交易 圏は東 ア フ リカ か らアラ ビア海 、ベ ンガル 湾、マ ラッカ海峡 まで の海域 で 、 さらにア ラ ビア海 交易圏 とベ ンガル 湾交易圏 に 区分 で きる。 ここはアラ ビア語 を話 すイ ス ラー ム商人 の活動 によって支 え られ てお り、ダ ウ船 と呼 ばれ る三角帆 をもつ 外 洋船 が往 来 して い た。 次 に ジ ャ ワ海 交易圏 は、 マ ラ ッカか ら東 イ ン ドネ シアにいた る ジ ャ ワ海 と、 そ の北 のシ ャ ム湾 (タ イ ラ ン ド湾)を 中心 とした海 域 で 、 ブ ラ ウ船 と呼ばれ るマ レ ー 人 の船 に よつ て特徴 づ け られ る。 シナ 海 交易圏 は、イ ン ドネ シアか ら台湾 、琉 球 をへ て 日本 に至 る海域 で、 さらに南 シナ 海 交易圏 と東 シナ海 交易 圏に分 け られ る。 ここでは 中国人 の 商人 と角型 の帆 をもつ ジ ャ ン ク船 が往 来 して い たが 、明朝 が海禁政策 を強 めると、多数 の 中国商人 の活動 は非合法 とな り、密貿易 が横行す る こ とにな る。明朝 は、15世 紀初 めに 3500隻 の船舟白を擁 してい たが 、 永楽帝 の没後 しば らく し、膨 張策 を放棄 してか らは、 1440年 まで に、 そ の数 を半減 させ 、 H。 1500年 には三本 マス ト以 上 の船 を建造 した者 は死罪 に処せ られ る こ ととな った 交易 品は時代 によつ て異 な るが 、15世 紀 か ら 17世 紀 の「交易 の 時代」につい て見 る と、 東南 ア ジアか らの輸 出品は胡椒 、 シナ モ ン、 ナツメグな ど香 辛料や熱 帯産品、金 ・ 銀 ・ 銅 な どの貴金 属、輸入 品 はイ ン ドの綿製 品 、 中国 の生 糸 、絹織 物 、陶磁器 、銅銭、 日本 の金 銀 な どで ある。東南 ア ジア は、圧倒 的 に輸 出超過 の状態 にあ り、 ヨー ロ ッパ は銃 ・ 火薬 な どを除 い て 、東南 アジアが欲す る重要 な商 品 をほ とん どもつ て い なか った。 そ の意 味 で 、 ヨー ロ ッパ 人 に とつ て 、東南 アジアは必 要な物資 をもた らす 「羨 望 の地」であ つた。 これ らの貴重 な商 品 が 、 16世 紀 にな るとマ ラ ッカ に集 中す るよ うになる。 そ の理 由は、 マ ラ ッカ の立地上 の メ リッ トに求 める ことがで き よ う。 トメ・ ピ レス『 東方諸 国記』 は 、 この点 を雄弁 に語 つてい る (以 下、引用 の際 には、375-376頁 の よ うに記 して、邦訳書 のペ ー ジを示 した。 ただ 、史料 として原意 を忠実 に伝 える必要 が ある場合 な どに、邦訳書 の訳 文 を一 部 改変 した箇所 が ある)。 マ ラ ッカ の よ うな盛 んな寄港地 は知 られ ていない し、 また これ ほ ど立派 で珍重 され る 商品 を取 引す る場所 も知 られ てい な い。 ここには東方 全 体 か ら来 た高価 な品物 が 見 られ 、 西方全体 か ら来た高価 な品物 が売 られて い る。 マ ラ ッカ のい ろい ろな事柄 は非常 に重要 で 、非常 に有利 で 、非常 に名 誉 な ものである こ とは疑間 の余 地 がない。 この国 は 、 そ の 13以 下 の記 述 では、大木 昌 「東南 アジア と 「交易 の 時代」」 『 岩波講座 世界歴史 15商 人 と 「 アジアの港市 1999年 ;鈴 之 国家 」 木恒 東南 『 岩波講座世界歴 史 13東 市場』岩波書店 、 アジア・ 東南 アジア伝統社会 の形成』岩波書店 (1998年 を参 照。 14石 井米雄 「総説」 『 岩波講座東南 ア ジア史 3東 南 アジア近 世 の成 立 』岩波書店、2001 年 、 5頁 。 -24- が 良 い 〕た め、衰 えるよ うな ことは決 してな く、常 に大き くな っ て行 くので ある。 位置 〔 マ ラ ッカ は、季節風 の吹 き終 る所 にあるの で 、 望む もの は何で も、時 には必 要以 上 に多 く手 に入 る (375-376頁 )。 マ ラ ッカは 商 品 の た めに作 られ た都市 で 、世界 中の どの都市 よ りもす ぐれ てい る。 そ して一 つ の季節風 の吹 き終わ る所 であ り、 また別 の季節 風 が 吹 き始 める と こ ろで ある。 マ ラ ッカ は、 〔 世界 に〕 取 り囲まれ てその 中央 に位 置 し、千 レグ ワ も隔 た つ た二つ の 国 の間 の取 引 と商業 とは両側 か らマ ラ ッカ にや って こなけれ ば成 立 しな い (493-494頁 )。 ピレスの説 明 は 、 マ ラ ッカのメ リッ トを端 的 に物語 つてい る。 マ ラ ッカ 興 隆 の基礎 は 、 中継貿易 にあ り、 そ の力 は、マ ラ ッカ海峡 の ほぼ 中央 にあ る とい う立地上 の優位 さか ら来 て いた。 マ ラ ッカが発 達す る前までは、 イ ン ド洋 交易 圏 とシナ海 交易 圏 を結 ぶ 船 は、東 西 両 モ ンスー ンの風待 ちを しなが ら、 目的地 を往復す るのに約 2年 を要 した と言 われ る。 と ころが 、 マ ラ ッカが 開港 され る と、例 えば 、 中国方面 か らのジ ャ ン クは 、東北 モ ンスー ン の終期 に この地 を訪れ 、商品 を在 地 の商人 に売 り渡 した後、西方 の物 資 を積 んで 、南 西 モ ンスー ンの始期 に帰 国すれ ば よ くな った。西 方 の 商人 は、 そ の逆 のパ ター ンで ある。東 西 の物資 は、それ ぞれ約 半年 間、マ ラ ッカで寝 か された後、東西 の商人 に売 り渡 され たが 、 各商人 に とって 、 これ まで よ りも約 半年 間、時間 の節約 が達成 された。 マ ラ ッカで の東西 物資 の交換 が 、時間 の節約 をもた らし、 どれ ほ ど各 商人 の利便性 を増 したか は 、計 り知れ ない。 同時 に、 出入 りす る貨物 に課 せ られ た 関税や 半年間 の物資預 か りが 、 マ ラ ッカ王 国 の利益 とな って 、 もた らされた。東 西流通 の分業 が 、 マ ラ ッカを介 して効果 的 に機能 した ので ある15。 実際、 『 東 方諸 国記 』 は 、 マ ラ ッカ に 引 き寄せ られ た人 々 が 、 いか に多様 で あ っ たかを 例示 して い る。 ピレス は 、 マ ラ ッカで取 引 した人 々 と彼 らの 出身地域 を、次 の よ うに列 挙 した。 カイ ロ、 メ ッカ 、 アデ ンのイ ス ラー ム教徒 、 ア ビシア人 、 キル ワ、 メ リンデ ィ、 オル ムズの人 々 、ペ ル シア 人 、ルー ム人、 トル コ人 、 トル クマ ン人、 アル メニ ア人 の キ リス ト教徒 、 グザ ラテ 人。 シ ャウル 、 ダブル 、 ゴア 、 ダケ ン王 国 の人 々。 マ ラバ ル 人 、 ケ リ ン人。 オ リシ ャ、 セ イ ラ ン、ベ ンガ ラ、 ア ラカ ンの商人、ペ グー 人 、 シア ン人、ケダ の 人 々 、 マ ラ ヨ人。 パハ ンの人 々 、 パ タニ人 、 カ ンボジ ャ人、 シ ャ ンパ 人、 カ ウシ・ シナ 人、 シナ の人 々 、 レオケ人。 ブル ネイ人 、ル ソン人 …… (455頁 )。 ここに見 られ るの は 、西 では、 ア フ リカ か らア ラ ビア 半島、ペ ル シア 、 イ ン ド西部 の グ ジ ャラー ト地方 、イ ン ド南部 の ゴアや セ イ ロ ン を経 て 、マ ラ ッカ に至 っ た 人 々 であ り、東 では、中国 か ら東 南 ア ジアの大陸部や諸 島部 を経 て 、 マ ラ ッカ に至 っ た人 々 で ある。 どれ ほ ど民族的・ 宗教的 に多様 な人 々 が 、東 西交 易 の ために、 マ ラ ッカに集 つたかが理 解 でき るので ある。 15石 井米雄・桜井由IFJ雄 『 東南アジア世界 の形成』講談社、1985年 、 186‐ 187頁 。 -25- 3 時 間 軸 か ら 見 た マ ラ ッ カ ー ー 港 市 国 家 の 特 色 と変 遷 こ う した東西交易 で結節 点 の役割 を果 た したのが 、 港市国家 で ある。「港市国家」 の概 念 は 、 日本 では 15世 紀 の初 めに成 立 した マ ラ ッカ (ム ラカ)王 国 を例 として、 1982年 に和 国久徳 に よ つて提唱 され た “。 和 田の論 文 は、 マ ラ ッカ の研 究 自体 が乏 しい 中、史料 に即 して堅実 な分析 を行 つ た代表 的 な先行研究である。彼 は、海 上 交通 の要衝 たる地点 に海港 がで き、 そ の港 の貿易 を中心 に商業都市 が発展 し、 さらに周 辺地 域 を含 んで都 市国家 が形 成 され た と論 じた。 これ とは別 に 、1990年 に論文集『 東南 ア ジアの港市 と政体』 を編集 し たカテ ィ リタ ン ビ=ウ ェル ズ は 、 農 業社会 と商業社 会 を媒介す るもの として港市国家 を位 置 r。 づ け、東 南 アジアでは紀元前 か ら 19世 紀 まで、それ が通時的 に存在 した こ とを強調 した 確 か に 、 カテ ィ リタ ン ビ=ウ ェル ズ が言 うよ うに 、港市国家 は、 1世 紀 か ら 7世 紀 まで 存続 した メ コン川下流 の オケオや 7-11世 紀 に栄 えた スマ トラ島 のパ レンバ ンな ど、古 く か ら存在 した。 しか し、それ は、 15-17世 紀 の 「交易 の時代」に圧倒的 に重要な役割 を果 た した こ とを銘記す べ で ある。この 時代 の港市 国家 としては 、大陸部 のペ グー 、ア■ タヤ 、 マ レー 半 島 のパ タニ、 マ ラ ッカ (ム ラカ)、 ジ ヨホール 、 スマ トラ島 のア チ ェ、 ジ ャ ワ島 の バ ンテ ン、 ドゥマ ック、 ス ラ ウェ シ 島 のマ カ ッサル な どが知 られ る (図 2「 15-17世 紀 の 島嶼部 にお ける主な港市・政治 的 中心 」を参照)。 また ヨー ロ ッパ 人 が来航 して 、早 くか ら 拠点 とした港市国家 は、バ タ ヴィアや マニ ラな どであ った。 『東 方諸 国記』 は 、 そ の 中で もマ ラ ッカは 、前 述 した よ うに 15世 紀 に急速 に興 隆 した。 1400年 ころ と推定 され るマ ラ ッカ建 国 を、パ レンバ ン出身 の貴族 パ ラ ミス ラ と彼 に従 う 30 名 の漁民 を主体 として 、以下 の よ うに説 明す る。 港市 国家 マ ラ ッカの誕 生が 、漁業 を生業 とす る 「海 の民」 と深 くかかわつて い る こ とを伝 える興味深 い個所 で ある (図 3を 参照 )。 パ ラ ミス ラがパ リンバ ン 〔 現在 のパ レンバ ン〕 に住 んで い た期 間 には、彼 らは漁業 に 現在 の シンガポール 〕 に行 つてか らは、海峡 の近 くにあ るカ リァ 従事 し、 シンガプ ラ 〔 ン島 に住 んでい た。 そ してパ ラ ミス ラが ムアル に赴 くと、 この 30名 もや つて 来 て 、今 日マ ラ ッカ と呼ばれて い る場所 に住 んで い た。 ム アル か らマ ラ ッカ の 町までは 、約 5レ グア の 距離 である (385頁 )。 マ ラ ッカは、建 国 して 間 もな く、シ ャムの支配 を受 けて い たが 、1405年 に始ま る鄭 和 の 大艦 隊 が東南 アジアに派遣 され る と明 の朝貢 国 とな り、1450年 こ ろにはイ ス ラー ム教 を受 け入れ 、 自立化す る。 マ ラ ッカは 、 イ ン ド洋交易圏、 ジ ャ ワ海交易圏、 シナ海交易 圏 の結 節 点 に位 置す るとい う有利 な 立 地 を生 か し、港 市国家 として飛躍 的 に発展 し、多種 多様 な 人 々 を集 めた。注 目す べ きは、対外 的 に 開 かれたマ ラ ッカ の特色 を反 映 して 、 この 地 には 「シ ャバ ンダール 」 と呼ばれ る 4人 の港務長官 が置 かれた こ とで ある。「シ ャバ ン ダール 」 には 、居 留外 国人 が就 く こ とにな っていた。 『 東方諸 国記』は 、この役 人 につい て信頼 で き る記述 を残 してい る。 マ ラ ッカには、 4人 のシ ャバ ンダール が い る。彼 らは、市 の役 人 で 、 それぞれ の管 轄 16和 田久徳 「東南 ア ジア の都 市 と商業」 『 中世史講座 3中 世 の都 市』学 生社 、 1982年 。 17J.Kathirithamby¨ Wells and J.Villers(eds。 ),劉 り θ■,″ 滋θ′s′ ∠sla″ PoFt′ コごD義 , Singapolle,1990。 -26- に従 つて ジ ュ ン コ 〔と呼ばれた船〕 の船長 を応接す る人 々 であ る。彼 らは船長 をベ ン ダ ラに紹介 し、彼 らに倉庫 を割 当 て 、商 品 を受 け取 り、 も し彼 らが手紙 を も つて いれ ば、 彼 らを宿 泊 させ 、象 に命令 を与 える。 グザ ラテ人 のシ ャバ ンダール は 、他 の誰 よ りも重 要 で あ る。 またブヌア・ キ リン、ベ ンガ ラ、 ペ グー 、パ セーの シ ャバ ンダール 、 ジ ャオ ア 、 マル コ、 バ ンダ ン、パ リンバ ン、 タ ンジ ョンプ ラ、 ブル ネイ 、ル ソンの シ ャバ ンダ ー ル 、 シナ 、 レオケ 、 シ ャ ンシェオ 、 シ ャ ンパ のシ ャバ ンダール がい る。 人 々 は、 マ ラ シ ャバ ンダー ッカ に来 た時 には、 それぞれ の 国籍 によ つて 商 品あるい は贈物 を持 つて 〔 ル の所 に〕 出頭す る (448頁 )。 上 記 の 引用 か ら分 か るよ うに、「シ ャバ ン ダール 」 とい う名 の港務長 官 は、それ ぞれ 、 ① イ ン ド西部 の グジ ャラー ト地方 、 ② イ ン ド西岸 の マ ラバル やイ ン ド東部 の コ ロマ ンデル 、 ベ ンガル な どの 地域 、③東南 アジア の 島嶼部 、④ 中国や琉 球 といった東 アジア地域 を担 当 した。 この うち① と② はイ ン ド洋 交易圏 に、③ は ジ ャ ワ海交易圏 に、④ は シナ 海交易圏 に 対応す る こ とにな る。 この うち、①や② の よ うに西方 か ら来 る商人 と④ の よ うに東方 か ら 来 る商人 の待遇 には、顕著 な違 いが あつた。 『 東 方諸国記 』は、西方 と東方 の 商人 に課せ ら れた税 金 な どの相違 につい て 、次 の よ うに述 べ て い る。 の税 金〕 彼 らは 「西方 の人」 と呼ばれ る。彼 らは誰 で あ って も、マ ラ ッカで百 分 の六 〔 を支払 う。 マ ラ ヨ人や そ の他 の商人 は、 こ う した仲間 を作 らないで 、妻 を連れて マ ラ ッ カに定住す るた めにや って来 る。彼 らは 、 百分 の三 を支払 つてい た。 そ して 、 この外 国 人 に対す る百分 の六 、 土地 の人 に対す る百分 の三 の王 国 の税 金 の他 に 、彼 らは国 王 、ベ マ ラ ッカの高官〕、 トムン ゴ 〔 マ ラ ッカ の市長〕、それぞれ の民族 の 〔 ン ダラ 〔 所属す る〕 シ ャバ ン ダー ル に贈物 をす る (462頁 )。 この 時代 、東南 アジアの諸港 にお ける関税 は 、通常 12%ほ どだ っ たが 、マ ラッカは、ベ ンガル 湾 よ りも西 か ら来 た商人 には 、積 み荷 に 6%の 関税 を課 し、若干 の貢物 を要求 した の で ある。 それ だ けで も良い 条件 であ っ たが 、 さ らに 中国や琉球 な ど東方 か ら来 る商人 に は、破格 の好条件 が提示 され た。 東方 の諸 国 は 商 品 の税金 を支払わず 、 ただ 国 王 と顕官 に対 して贈物 をす るだけであ る。 す なわ ち、それ はパハ ン とシナに至 るまで の あ らゆ る場所 、 ジ ャオア 、バ ンダ ン、 マル コの 島 々 、パ リンバ ンお よび ソモ トラ島 の あ らゆ る場所 で ある。贈物 は妥 当な額 で 、税 金 の よ うな もので ある。 〔これ らの〕評価 をす る徴税官 が い た。 これ は一 般 に習慣 とな って い て 、 シナ か らの贈物 は他 の どの地方 の それ よ りも立派 で あ っ た。 そ して これ らの 贈物 は極 めて 多額 に達 した。 これ は贈物 を支払 う航海者 の数 が 多 か っ たか らである (464 頁)。 ここに記 され た 「贈物」 が 「税 金 の よ うな もの で ある」 こ とを考慮す る と、全 くの免税 とは言 えな い か も しれ な い が 、関税 を免 除 され た 東方 の商人 が 、破格 の好条件 で迎 え られ た こ とは確 かで あ る。 なぜ 、西方 の商人 と東方 の 商人 は、異 な っ た 条件 で処遇 され た の で あろ うか 。 そ の理 由 としては 、東南 アジア とほぼ同緯度 に位 置す るイ ン ド洋 交易 圏 か ら来 る西方 の 商人 が 、 マ ラ ッカに とつ て 、 さほ ど珍 しくな い 商 品 をもた らす の に対 して 、 シナ -27- 海交易 圏 か ら来 る東方 の商人 が 、温帯地域 である中国 。日本 か ら極 めて貴重 な商品 を もた らす傾 向にあ つ た こ とが考 え られ るB。 しか し、 いずれ に して も、 マ ラ ッカ が 「自由貿易 港」 と呼 べ るよ うな好 条件 を、 西方 の商人 に も東方 の商人 に も示 した ことに間違 い はない だ ろ う。 マ ラ ッカ は、 この よ うに外来 の 商人 に好条件 を示 し、時 には外 国人 を港務長官 として採 用す るな ど、統治面 で も彼 らを活用 した。 しか し、 そ の支配 の頂点 には、絶対 的 な権 限 を 持 つ 国 王がいた こ とを忘れ てはな らない。 どのマ ンダ リも、国王 に謁 見 に行 く時 には 、十歩以 上彼 に近 づ くこ とはできない 。彼 らは両手 を頭 上 に三回上 げ、 さらに床 に接吻 し、話 した い と思 うこ とを第 二者 を通 じて 彼 に話す。退 出 に際 して も、 また この よ うにす る。彼 らは 王が 姿 を見せ る 日を知 つ て い る。彼 らは王 子 に対 して も、 また同 じよ うにす る。人 々 は 、 王 とその所持品 に対 しては 最 大 の敬 意 を払 う。普 通 の人 々 が王の邸 宅のす ぐ近 くを通 り過 ぎる時 には、彼 らはそれ に向か つ て敬 礼す る (453-454頁 )。 この よ うに国王 は、絶対 的な権 限 をもってい た。 また 「商人 が 直系 の相続者 を持 た ず に 死ぬ と、 王 はそ の財産 を没収す る」 (452頁 )こ とにな ってお り、富 は国 王の も とに集 中 さ れ る仕組 み にな つてい た。マ ラ ッカは 1450年 ころにイ ス ラー ム教 に改宗 したが 、国 王 は「ス ル タ ン」 の称号 をもち 、イ ス ラー ム教 を広 め、東南 アジア の各地 をイ ス ラーム化す るのに も貢献 した。 国 王の周辺 には 、 主要 官職 を世襲的 に独 占す る貴族 が存在 していた。 主要 官 職 は文官 と武官 に分 かれ ていたが 、彼 らが商業活動 に乗 り出す こ とはほ とん どなか つ た。 要す るに港市 国家 マ ラ ッカには 、 主 として 国 内 と外来 の商人 たちが営む商業 と、国 王 と 貴族 た ちが担 う政治 とい う二つ の領域 があ り、 そ の 両者 が住 み分 ける構造 にな っ て い たの である。この傾 向 は、東南 ア ジアの他 の港市国家 に も見 る こ とができる。政治的支配者 は、 臣下 が 商人 とな つて 直接交易す る ことを恐れ 、法 的 にそれ がで きない よ うに縛 りをか ける ことが あ つ た。代 わ りに商業活動 で活躍 したのは、 ア ラブ 人、イ ン ド人、 中国人 、 トル コ 19。 人、 ヨー ロ ッパ 人 とい つた外 国人 たちであ つ た こ う して 16世 紀 に東西 の交易ネ ッ トワー クは、 マ ラ ッカヘ ー極化 した。 しか し、 そ の 繁栄 は、 ポル トガル による 1511年 の軍事 占領 に よつて 変化 し、多極化 の時代 へ 向 か つ た。 マ ラ ッカは 、 さらに 1641年 、 ポル トガル に代 わ つてオ ラ ン ダ の支配 を受 ける こ とにな る。 新 しい拠 点 として、パ タニ 、 ジ ョホール 、マ カ ッサル 、 アチ ェ、バ ンテ ンな どの港 市 国家 が 台頭 し、そ の他 にペ グー 、 ア ユ タヤ 、バ タ ヴィア 、マニ ラな どが成長す る。 1819年 、イ ギ リス人 トマス・ ラ ッフル ズ によ って建 設 された シンガポ ール も、港市国家 の形態 を とっ た こ とを付 記 してお きた い。 お わ り に一 一 ま とめ とマ ラ ッ カ の 行 方 以上、予備的作業として海洋史観が登場 した文脈を探り、中心的史料 として用いた『東 18大 木 昌・ 前掲論文、 111‐ 112頁 。 19同 上 論 文、 117頁 。 -28- 方諸国記』 につ い て解説 を加 えた上で 、イ ン ド洋 とシナ海 を結 び つ ける広 範 な交 易圏 とい う空 間軸 と、15世 紀 のマ ラッカ王 国以来 の港 市国家 の歴史 とい う時間軸 を設定 し、歴史 を さかのば り、 1516世 紀 の港市 国家 マ ラ ッカ の特色 を解 明 して きた。 そ の結果 、明 らかに な った のは次 の よ うな こ とで ある。 マ ラ ッカは 、立 地上 の優位 さもあつ て 、15世 紀 にイ ン ド洋交易 圏 とシナ海 交易 圏 を結 ぶ 交易 の拠 J点 都 市 として興隆 した。 トメ・ ピレスが記述 した よ うに、15世 紀以来、マ ラッカ には、西 か らも東 か らも多様 な宗 教や 文 化 を もつ 多 くの民族 が 引 き寄せ られた ので ある。 マ ラ ッカ王 国 は 、そ の起源 を 1400年 ころに もち、「海 の民」 の力 を借 りて建 国 され た。 こ の王 国 は、 中国明朝 の後 ろ盾 を得 、イ ス ラー ム教 を取 り入れ る こ とに よっ て 、対外 的 に安 定 し、港 市国家 として発展 した。 マ ラ ッカ王 国 は 、政治面 で 、絶対的 な権 限を もつ 国王や 世襲 で有力官職 を独 占す る貴族 が存在 した一 方 、商業面 では、交易 が外来商人 に幅広 く開 放 され る とい う二 元的構造 を とって い た。 とくに 4人 の港務長官 は在 留外 国人 か ら任命 さ れ 、関税 が他 の港市 国家 と比 べ て低 く設 定 され るな ど、外来商人 には好条件 が示 され 、交 易 の拠 点 として発達す るのにふ さわ しい 政策 が 実施 された。 しか し、 マ ラ ッカ王 国 には 、 ある欠点が存在 していた。 それ は、政治 と商業 が相対的 に 独 立 して 営 まれ たた め、外来商人 の 中 にはマ ラ ッカ 国王や 王 国 に忠誠 心 をもたない者 が存 在 して お り、交易 の発展 とともに、そ う した 人 々 が増 加 した こ とで ある。 トメ・ ピ レス は、 『 東方諸 国記』 の末尾 で 「ポル トガル人 に よる 占領」 を説 明 し、 この欠点 が マ ラ ッカ王 国 の決定的敗 因 にな っ た と論 じてい る。 アル ブ ケル ケ〕 は、紀 総 司令官 に して イ ンデ ィア総督 のア フ ォ ン ソ・ ダル ボケル ケ 〔 元 1511年 7月 の は じめに、大小 16隻 の艦 隊 を率 い て到 着 した。1600人 前後 の戦 士が そ れ に乗 つ てや つ て来た。そ の時、 マ ラ ッカでは 10万 人 の兵 士 を コア ラ・ ペ ナ ジか ら内 の各 地〕 と、マ ラ ッカ 市 の境界 の カサ ン 〔 まで の地 域〕 か ら集 めて い た とい 陸部 まで 〔 うこ とで あ る。 ……一方人 々 は、 マ ラ ッカ王の意 志 に従 わなか っ た。 これ は取 引 の行 な われ る土地 で は 、人 々 は異 な った 国 の 出身 で あ り、 これ らの人 々 は他 国民 を交 えてい な い 土地 の人 々 の よ うには、国 王に対 して 愛情 を持 つ ことがで きな いか らで ある。 このこ とは一 般 に見 られ 、 マ ンダ リたちは、で きる限 り戦 った ので あるが 、 この た めに、 マ ラ ッカ国 王 は 〔 人 々 か ら〕好意 をもたれ る こ とがなか った (473-474頁 )。 もちろん、 ピレス による記述 は、 占領 したポル トガル 人側 の もので あ り、割 り引いて考 「10万 人」と言 われ るマ ラッカ王 国側 の兵 士 に、わず か「1600 えな けれ ばな らな い。しか し、 人前後」 のポル トガル 戦 士 が勝利 したのだ か ら、従来指摘 され て きた軍事的な装備 の優劣 以外 に も、マ ラ ッカ側 にあ つた求心力不足 とい う点 は考慮す るに値す る。マ ラ ッカ王 国 は、 内的 な要 因 もあ っ て崩壊 した と考 え られ る。 だが 、 マ レー 人 の王 国 に代 わ るポル トガル 人 の支配 は、以前 の よ うに機 能 しなか つた。 ポル トガル は 、 マ ラ ッカ王 国 の遺産 を継 承 して 、 ヨー ロ ッパ 向 け香幸料取 引 の独 占体制 を 構築 しよ う としたが 、 マ レー 人はも とよ り、イ ス ラー ム系 の グ ジ ャラー ト商人 な どの協力 を得 る こ とがで きなか った。 それ ば か りか 、 マ ラ ッカ 王家 の血 統 を引 くマ レー 半島先端 の ジ ョホール が 、海 上 民 の力 を背景 に して 、 ポル トガル 領 マ ラ ッカ の対抗勢力 として興隆す るな ど、複数 の拠 点 が競 い合 う多極化 の時代 とな るの である。 -29- 1511年 に始 ま っ たポル トガル 人 によるマ ラッカ支配 は、 1641年 、オラ ンダ人 の 支配 に とっ て代 わ られ た。 こ う した 支配者 の変化 に よつて 、港市国家 マ ラ ッカの政治 と商業 は、 どの よ うに変化 したので あろ うか。 この 点につい ては次 の課題 として残 してお き、今後 も 港市国家マ ラッカの行方を見つ めてい きたい。 -30- (2011年 2月 17日 ) ノ ︲t ヽ鷲 ゅ ア 属海 、 氏 ガ ル 勇 異 湾 │:L〕 インド 洋交易圏 Oシ ナ海交易圏 (I)ジ ャワ海交易圏 図1交 易の時代 の交易圏 出典)大 木昌 「東南アジアと 「交易 の時代」」 『岩波講座世界歴史 15 商人 と市場』岩波書店、1999年 、 108頁 。 壕象Lメ ・ タ 図 215-17世 紀 の島嶼部における主な港市・政治的中心 出典)鈴 木恒之 「東南 アジアの港市国家」 『 岩波講座世界歴史 13 東 アジア・ 東南 アジア伝統社会 の形成』岩波書店、1998年 、197頁 。 -31- イ ン ド 洋 % ぶHメQヽ ヽ. カ ンパ ル 醤 きド 00 │ 1霊 よる建回者渡来の経路 昌 3 典 図 出 15世 紀 のマ ラッカ王国 鶴見良行『 マ ラッカ物語』時事通信社、1981年 、114頁 。 -32-
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