﹃もりのしげり﹄の使い方 ら諸系図にはわかる限り女性たちの名前も明記され﹁和子﹂﹁映子﹂ といった難読名にはルビの振られているのが親切な編纂方針である。 さらに本書には﹁一門宍戸系図﹂その他一門六家の系図のほかに、 ﹁ 永代家老須佐 益田系図﹂ ﹁永代家老宇 部福原系図 ﹂、も収録さ れ は 益田右衛門介 を、﹁福原 ﹂姓からは福 原越後を思 い出すことで あ 中村 彰彦 このよう な書きもの で自己紹介を するのは気 が引けるが、 私は歴 ろ う 。元 治元 年 ︵ 一 八六 四 ︶七 月 の﹁ 禁門 の 変﹂ ︵ 蛤御 門 の変 ︶に 作家 史小説や史 伝、歴史エ ッセイなどを 執筆してい るもの書きで ある。 も うひとりの家 老国司信濃 とともに出動 したかれら が、敗北の責 任 て いるのが興味 深い。幕末 史に関心のあ る向きなら ﹁益田﹂姓か ら 当然ある作 品を書きは じめるにあた っては種々 の史料を探し 求める をとって自刃したことは悲劇としてよく知られている。 についたのに対し、ひとり福原越後のみはすぐには主命に従わなかっ これら三人の うち益田右 衛門介と国司 信濃が従容 として切腹の 座 ことから出 発し、その 史料に描かれ たところの 正否を判断す る必要 に迫られる。 しかし、 歴史にまつ わる文章を書 くのに必要 なのは、実は 史料だ まず毛利輝元 の二男就隆 を初代とする ﹁徳山毛利 家系図﹂をひ ら る仕組みになっている。 けではない 。各種の史 料を幅ひろく 読み込んだ 人のまとめた 家系図、 た 。それはなぜ か、という 問題も本書に よって解明 することがで き 年表、職制 表、婚姻関 係一覧表、組 織一覧表と いった後世の 編纂物 をうまく使 いこなすこ とができれば 、テーマと する時代や人 物に対 われわれは ﹁天皇一覧 ﹂﹁鎌倉幕府 諸職表﹂﹁ 徳川将軍妻妾 一覧﹂ 本史総覧﹄ 六巻、補巻 三巻を刊行し たことであ った。これに よって 昭和 五十 八 年 ︵ 一九 八 三︶から 六 十一 年 ︵ 一 九八 六︶に かけ て﹃ 日 そのよう な意味にお いて私がうれ しかったの は、新人物往 来社が の 口惜しさが、 すぐには切 腹しないとい う最後の行 動となって表 現 争 責任を問われ て切腹に追 い込まれるこ となどあり 得なかった。 そ な れたのであり 、その場合 は永代家老で はなく支藩 の当主だから 戦 は 七男だから、 越後は宇部 福原家を相続 していなけ れば徳山藩主 に 原 相続﹂とある 。これが福 原越後。越後 は八代目広 鎮の六男、元 蕃 しげ く と、九代目元 蕃のすぐ上 の兄に元僴と いう人物が おり、﹁宇部 福 ﹁明治前期 要職一覧﹂ といった先人 たちの貴重 な成果を踏ま えつつ さ れた︱︱本書 は、使いよ うによっては このように 歴史の裏側を 差 してより容易に理解を深めることができる。 執筆ないし研究を進めることが可能になったからだ。 大正五 年 ︵一 九一 九︶の うちに 、旧 長州 藩毛利 家と その支 藩に つい 地 城宅表﹂など 貴重なリス トが満載され ているが、 私のもっとも 注 ほかにも﹁旧 長藩内学館 表﹂﹁旧長藩 内架橋及開 作表﹂﹁歴代 領 し示してくれる書物でもあるのだ。 ては﹃毛利 一族史総覧 ﹄と名づけて もよい好著 が出版されて いた。 目 したのは﹁旧 長藩職役一 覧表﹂のなか に﹁越荷方 ﹂が立項され 、 ところが 右の﹃日本 史総覧﹄の刊 行開始に先 立つこと六十 四年、 それが本書 ﹃もりのし げり﹄︱︱変 体仮名で表 記すれば﹃毛 里乃志 次のように解説されていることであった。 こしにがた 希里﹄ である ︵ 非売品 、昭和 七年増 補訂正 版刊 行。同 四十四 年、 赤間 ﹁赤間関ニ之 ヲ置キ他国 商品ノ貨物ヲ 抵当トシ本 勘及ヒ撫育金 貸 付 ヲ取扱シカ慶 応元年十月 八日其権限ヲ 拡張シ営利 ヲ専ラトシ藩 外 関書房より復刻。︶ 編者時山 弥八氏は﹁ 毛利家編輯所 ニ在勤﹂し た人で勤務の ﹁余暇 慶応二年とい えば一月二 十一日に薩長 同盟の密約 が成立、六月 に 通 商 事 務 ヲ 担 当 セ シ メ ︵ 略 ︶慶 応 二 年 三 月 頃 唐 反 物 類 を 越 荷 方 捌 編纂物であ ることが知 れるのだが、 毛利一族の 発展の歴史を ﹃もり は 第二次長州戦 争︵四境戦 争︶がはじま る時期であ る。長州藩毛 利 ヲ以テ見聞 ニ随ヒ﹂こ の労作をまと めたのだと ﹁緒言﹂にあ り、毛 のしげり﹄ という優美 なことばで表 現したとこ ろに早くも編 者のセ 家 は本庁と越荷 方にふたつ の金庫を持っ ていたので 開戦イコール 藩 ︵ 専売︶トシテ其運 上金 ︵税金︶ヲ取立テ ︵此 税金ハ軍 艦買入費ニ 充 ンスの良さ が感じ取れ よう。﹁目録 ﹂と題され た目次には、 いくつ 財 政の急激な悪 化となる事 態には陥るこ となく戦争 準備をはじめ る 利家に代々 伝えられて きた史料類を 存分に駆使 することの出 来た実 かピックア ップすると 以下のような 項目が並ん でいる。﹁毛 利家系 こ とが可能であ った。右の 記述からは諸 藩では考え られないこの よ 当ス︶⋮⋮﹂ 図﹂﹁長府 毛利家系図 ﹂﹁徳山毛利 家系図﹂﹁ 吉川家系図﹂ ﹁小早 うな経済的基盤を読み取ることもでき、私はまことに感に堪えなかっ 情の一端を うかがうこ とができる。 それだけで も充分に信頼 できる 川家系図﹂﹁清末毛利家系図﹂⋮⋮。 ちなみに本書 所収﹁毛利 氏史要年表﹂ もよくでき ていて、ここ に た。 は釈迦に説 法の類とな ってしまうが 、戦国の名 将にして西国 筋最大 は 毛利家にとっ て重要であ った歴史上の 出来事が百 三十八ページ に 毛利家の 戦国時代か ら幕末維新に 至る動向を 学んだ方々に 対して の大名とな った毛利元 就には、世子 隆元のほか に吉川元春、 小早川 わたって記述されている。 りょうせん これだけで優に新書にして一冊分以上の情報が得られるといえば、 隆 景の 二 子 が い た 。 これ が い わ ゆ る ﹁ 毛 利 の 両 川 ﹂だ か ら こ そ 、 ﹁毛利家系 図﹂には﹁ 吉川家系図﹂ と﹁小早川 家系図﹂を添 えるこ 族 ︵支 藩︶と していた 。そこ から毛 利一族 の歴史 を俯瞰 するに は、 の徳山藩毛 利家、長門 の長府藩毛利 家、おなじ く清末藩毛利 家を支 さら にいえば 長州藩 ︵萩藩 ︶毛利 家を宗 家とす るこの 一族は 周防 再 復刻に踏み切 ったことに より、旧長州 藩毛利家の 歴史はより読 み り 美麗かつ堅牢 な造りで知 られたマツノ 書店がこの 貴重な編纂物 の の は同五十年に 再刊された ようである。 それから三 十五年、原本 よ 本書の赤間関 書房版奥付 によると、昭 和四十四年 に復刻された も 本書がいかに充実しているかおわかりいただけるであろう。 これら支族 の系譜を把 握しておく必 要も生じる のだ。一般に 当主の 解きやすいものになること疑いなしである。 とが不可欠なのである。 娘たちの名 前は﹁だれ それの女﹂と しか書かれ ないものだが 、これ
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