平成ー6年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書

 平成16年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書
籠原裏古墳群
一熊谷都市計画事業籠原中央第一土地区画整理事業地内遺跡発掘調査報告書II一
2005
埼玉県熊谷市教育委員会
平成16年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書
かごはらうら こ ふんぐん
籠原裏古墳群
一熊谷都市計画事業籠原中央第一土地区画整理事業地内遺跡発掘調査報告書II一
2005
埼玉県熊谷市教育委員会
第1号墳(昭和61年度言周査・南から)
第1号墳(平成元年度調査・北東から)
第1号墳石室
第1号墳(平成元年度調査・南東から)
第1号墳石室 双脚足金具出土状況
序
私たちの郷土熊谷には、祖先が営々と築いてきた貴重な文化財が多数ありま
す。なかでも原始・古代の集落:跡や古墳群、中世の館中等の埋蔵文化財が、熊
谷市内に多く分布することが知られています。
こうした埋蔵文化財は、地域の歴史・文化を伝えるぽかりでなく、熊谷市の
発展やその過程を物語る証しであるとともに、私たちの子孫の繁栄の指標とも
なる先人の貴重な足跡であります。私たちは、こうした文化遺産を継承し、次
世代へと伝え、さらに豊かな熊谷市形成のための礎としていかなけれぼならな
いと考えております。
さて、熊谷市では市民が暮らしやすく、生活環境の豊かさを実感できる土地
利用を図ることを目的に土地区画整理事業を進めております。JR高崎線籠原駅
前北口に広がる籠原中央第一土地区画整理事業もその一つであります。事業地
内には事前の試掘調査により、古代の集落跡や古墳等が確認され、遺跡の重要
性を鑑みて、関係部局と保存に向けて協議を行ってまいりましたが、土地区画
整理事業上やむを得ず計画等の変更ができない街路築造工事に関しては、記録
保存の措置を講ずることとなりました。
本書は、昭和61年度から実施された計5回にわたる発掘調査の成果のうち、
古墳時代でも終末期に位置づけられる籠原裏古墳群について報告するものでご
ざいます。本古墳期中からは墳丘の形が八角形を呈する古墳が発見され、これ
は全国的にも類例の少ない大変貴重な資料といえます。また、近年深谷市で発
見された古代の役所跡と推測される幡羅遺跡や県内でも最古段階に創建された
寺院の1つである熊谷市西別府廃寺、さらには古墳時代後期から平安時代まで
長期間にわたって祭祀の行われた西別府祭祀遺跡などといった遺跡群の出現を
考える上でも、本古墳群の存在は非常に重要なものといえます。
本書が埋蔵文化財保護ならびに学術研究の基礎資料として、また埋蔵文化財
の普及・啓発の資料として広くご活用いただけれぼ幸いと存じます。
最後になりましたが、発掘調査及び報告書刊行に至るまで、文化財保護法の
趣旨を尊重され、ご理解ご協力を賜りました熊谷都市整備部都市計画課、土地
区画整理西部事務所、並びに地元関係者には厚くお礼申しあげます。
平成17年3月
熊谷市教育委員会
教育長飯塚誠一郎
言
例
1 本書は、埼玉県熊谷市大字新堀801番地他に所在する籠原裏古墳群(埼玉県遺跡番号59−051−i
∼9)の発掘調査報告書である。
2 本調査は、熊谷都市計画事業籠原中央第一土地区画整理事業に伴う事前記録保存のための発掘調査
34
であり、熊谷市教育委員会が実施した。
本事業の組織は、第1章3のとおりである。
発掘調査期間は、下記のとおりである。
昭和61年度(第1次調査):昭和61年8月1日∼昭和61年10月15日
昭和62年度(第2次調査):昭和62年11月12日∼昭和63年3月7日
昭和63年度(第3次調査):平成元年2月8日∼平成元年3月31EI
平成元年度(第4次調査):平成元年10月9日∼平成2年1月29日
平成4年度(第5次調査):平成4年差l月10日目平成5年1月7日
整理・報告書作成期間は、平成16年4月1日から平成ユ7年3月31日である。
5
発掘調査は、昭和61年度を寺社下博、昭和62・63年度を金子正之、平成元年度を金子、吉野 健、
平成4年度を金子、権田宣行がそれぞれ行った。
本書の執筆・編集は、松田 哲が行った。
6 発掘調査における写真撮影は各担当者が、遺物の写真撮影は松田が行った。
7出土晶の整理及び図版の作成は、稲葉真弓、岩瀬悦子、木村のぶ子、松尾伊津恵の協力を得て、松
田が行った。第ユ号墳出土の刀装具については、訪露芳之氏の御教示を得た。
8 本書にかかる資料は、熊谷市教育委員会が保管している。
9 本書の作成にあたり、下記の方々及び機関等からご教示、ご協力を賜った。記して感謝申し上げま
す。
青木克尚 新井 悟 小林 高 菅谷浩之 鈴木敏昭 瀧瀬芳之 竹野谷俊夫 利根川章彦
富田和夫 富田孝彦 鳥羽政之 村松 篤 若松良一
大里郡市町村文化財担当者会 埼玉県教育局生涯学習部文化財保護課
埼玉県立埋蔵文化財センター ㈲埼玉県埋蔵文化財調査事業団
凡
例
本書における挿図指示は、次のとおりである。
1 遺構挿図の縮尺は、次のとおりであるが、それ以外のものは個別に示した。
調査区全測図…1/800 古墳平面図…1/100・1/80
古墳断面図…1/80 石室・・4/60・1/40
2 遺構挿図中のスクリーントーン等は、次のとおりである。
髪勿一地山 灘難焼土 薩蓬一礫
3イ侵
遺構挿図中、断面に添えてある数値は標高を示している。
遺物挿図の縮尺は、原則として次のとおりであるが、それ以外のものは個別に示した。
土器…1/4 須恵器破片…1/6・1/8 鉄・銅製品…1/2
土製品…1/4 石器・石製品…1/2・1/4
遺物実測図の表現方法は、以下のとおりである。
5
縄文土器繊維 :i: i:i 土師器・陶器断面 :白抜き
須恵器緬 黒塗り 灰粕陶器断面 :匿璽麹
鉄・銅製品断面:吻 土師器内面艶処理灘灘
須恵器・灰粕陶器底部調整 回転糸切り α
回転ヘラ削り \
回転ヘラナデ ’、
RUワ﹂
遺物拓影図のうち、向かって左に外面、右に内面を示した。
遺物観察表の表現方法は、以下のとおりである。
法量の単位はcm、 gである。 Oが付されるものは推定値、現存値を表す。
胎土は、土器に含まれる鉱物等を以下の記号で示した。
A…白色粒子 B…黒色粒子 C…赤色粒子 D…褐色粒子 E…赤褐色粒子
F…白色針状物質 G…長石 H…石英 1…白雲母 」…黒雲母 K…角閃石
89
L…片岩 M…砂粒 N…礫 0…繊維
写真図版の遺物縮尺は、すべて任意である。
土層及び土器の色調は、『新版標準土色帖第14版』(小山正忠・竹原秀雄編著、農林水産省農林水産
1994)を参考
技術会議事務局監修、財団法人日本色彩研究所色標監修、日本色研事業株式会社発行
にした。
次
目
口 絵
言例次
幽幽目
序
1 発掘調査の概要……・…………・……・………1
1 調査の方法…………・・……・・
…・・… @ ・10
1 調査に至る経過…………・……・・…… ・・1
2 検出された遺構と遺物・…… …・・… @ ・io
2 発掘調査・報告書作成の経過……・…・…2
IV 遺構と遺物・………………・…・・
3 発掘調査、整理・報告書刊行の組織… 3
1古墳……………・…・…・・…
11 遺跡の立地と環境………………・…・…・……4
2 その他の時代の遺物…・……
111遺:跡の概要…………・……・……………… ・10
VI調査のまとめ…………・・……・
。・・・・・…
@ 15
一。・・。・。
・・・…
@ ・15
@ 45
・。・・・・…
@ 59
挿図目次
第3図 調査地点位置図 ・・11
第4図調査区全測図………・……・…・…… ・・13
第5図 第1号墳……・…………・…………・ ・17
第6図 第1号墳土層断面図 ・……・………・ ・19
第7図第1号:墳石室……………………… ・20
第8図 第1号墳石室 鉄・銅製品出土状況 ・21
第9図 第1号墳出土鉄・銅製品・土器…………21
第10図 第2号墳一…・…………・………………23
第11図 第2号墳断面図 ・……・…………・………25
第12図 第3号墳………・・………・………… ・26
第ユ3図 第3号:墳土層断面図 ……………… ・27
第14図 第3号墳石室……・…………・・…… ・28
第15図 第3号墳出土鉄製品・土器………………28
第16図 第4号墳………・………・………・… ・30
第17図 第4号墳石室・……・…………・…… ・31
第5号墳・石室・出土土器………………33
り りん りる リム リム りん リム リム リム リム ヨ ゑり りむ りご ヨ
第2図 周辺遺跡分布図 …………・…・…・…・…5
図図図図図図図図図図図図図図図図図
エ 第
第第第第第第第第第第第第第第第第
第1図 埼玉県の地形図 ・・………………・…・・…4
第6号墳……・…………・………・………34
第7号墳・石室・出土土器……・…・・……36
第8号墳……・…・……・……・………・…・38
第8号墳土層断面図 ………・・………・…39
第8号墳石室・………………・・…………40
第8号墳石室 鉄製晶・骨片出土状況…藪
第8号墳出土鉄製品・土器………………42
第9号墳……・………・…・………………44
第1号墳出土遺物〈1>縄文・平安時代…46
第1号墳出土遺物(2)平安時代…………47
第2号墳出土遺物(1)縄文・平安時代…48
第2号墳出土遺物(2)平安時代…………49
第2号墳出土遺物(3)平安時代…………50
第2号墳出土遺物(4)平安時代・中世…51
第3号墳出土遺物(1)平安時代…………54
第3号墳出土遺物(2>平安時代…………55
第35図
第4号墳出土遺物
縄文・平安時代・中世57
第36図
第7号墳出土遺物
平安時代・近世……57
第37図
第8号墳出土遺物
縄文・平安時代・中世57
第38図
第9号墳出土遺物
古墳時代前期………57
第39図 参考資料
東松山市西原1号墳・毛呂山町
西戸9号墳出土双脚足金具…60
第40図 参考資料
第10号墳・出土遺物…………61
挿表目次
第1表 周辺古墳群一覧表
・6
第2表
・7
周辺遺跡一覧表 ・
第12表
第2号墳出土遺物
(縄文・平安時代・中世)観察表 ・52
Q0
第13表
第3号墳出土遺物(平安時代)観察表 ・55
第4表 第1号墳出土土器観察表・………
・20
第14表
第4号墳出土遺物
第5表 第3号墳出土鉄製品観察表……・
・28
第6表 第3号墳出土土器観察表……・…
・28
第7表 第5号墳出土土器観察表…・……
・33
第8表 第7号墳出土土器観察表…・……
・37
第9表 第8号墳出土鉄製品観察表…・…
・43
第10表
第8号墳出土土器観察表……・…
…43
第11表
第1号墳出土遺物
第3表 第1号墳出土鉄・銅製品観察表・
(縄文・平安時代)観察表・
・・
(縄文・平安時代・中世)観察表 ・58
第15表
第7号墳出土遺物
(平安時代・近世)観察表………・・58
第16表
第8号墳出土遺物
(縄文・平安時代・中世)観察表 ・58
第17表
第9号墳出土遺物
(古墳時代前期)観察表・…・・… ・58
・47
図版目次
図版1 籠原中央第一土地区画整理事業地内全景(真上から)
第1号墳(平成4年度調査・北東から)
籠原中央第一土地区画整理事業地内全景(東から)
図版7 第1号墳石室(南から)
図版2 第1区(昭和61年度調査A区)全景(南西から)
第!号墳石室(西から)
第4区(昭和62年度調査B区)全景(真上から)
図版8 第1号墳 葺石崩落状況(昭和61年度調査)
図版3 第5区(昭和63年度調査A区)全景(真上から)
第1号墳 葺石崩落状況(平成元年度調査)
第5区(昭和63年度調査A区)全景(南西から)
第1号墳 葺石崩落状況(平成4年度調査)
図版4 第1区(平成元年度調査B区)全景(南西から)
第1号墳 南東側周堀(昭和61年度調査)
第6区(平成元年度調査A区)全景(西から)
第1号墳北東側周堀土層断面
遺 構
(平成4年度調査)
図版5 第1号墳(昭和61年度調査・南から)
第1号墳石室近景
第1号墳(平成元年度調査・北東から)
第1号墳石室(前庭部から)
図版6 第1号墳(平成元年度調査・南東から)
第1号墳石室 羨門部付近(東から)
図版9 第1号墳石室 玄門部付近(東から)
第4号墳石室 羨道部西側壁(礫床除去後)
第1号墳石室 玄門部付近(西から)
図版16第5号墳(北西から)
第1号墳石室(礫床除去後)
第6号墳(南東から)
第1号墳石室 玄室奥壁(礫床除去後)
図版17第7号墳(南東から)
第1号墳石室 玄室東側壁(礫床除去後)
第8号墳(南から)
第1号墳石室 玄室西側壁(礫床除去後)
図版18第8号墳石室(南から)
第1号墳石室 羨道部東側壁(礫床除去後)
第8号墳石室(東から)
第1号墳石室 羨道部西側壁(礫床除去後)
図版19第8号墳 北東側周堀(南東から)
図版/0第1号墳 前庭部東側葺石
第8号墳南西側周堀(南東から)
第1号墳 前庭部西側葺石
第8号墳石室 玄室西側壁(東から)
第1号墳石室 刀装具出土状況
第8号墳石室 羨道部西側壁(東から)
第1号墳石室 双脚足金具出土状況
第8号墳 前庭部西側葺石
第1号墳石室 鞘口・鞘尻金具出土状況
第8号墳石室玄室西側壁(南から)
第1号墳石室 鞘口金具出土状況
第8号墳石室 羨道部西側壁(南から)
第1号墳石室 鞘尻金具出土状況
第8号:墳 前庭部東側葺石
作業風景
図版2◎ 第8号墳石室 玄室西側壁(礫床除去後)
図版!1第2号墳(南から)
第8号墳石室 人骨出土状況
第2号墳(北から)
第8号墳石室 鉄鎌出土状況
図版!2第3号墳(南から)
第8号墳 周堀内土器出土状況
第3号墳石室(南から)
第9号墳:墳丘土層断面(北西から)
図版13第2号墳 主体部(南から)
第9号墳墳丘土層断面(北東から)
第2号墳 前庭部礫・遺物出土状況
第9号墳 北西側周堀
第3号墳石室(前庭部から)
第9号墳 東側周堀
第3号墳石室 玄室東側壁
遺 物
第3号:墳石室 羨道部西側壁
古墳時代
第3号墳 前庭部東側葺石
銅・鉄製品
第3号墳 前庭部西側葺石
図版21第1号墳 刀装具一括(第9図1∼6)
図版14第4号墳(南西から)
第1号墳 第9図1・2・3
第4号墳石室(南から)
図版22第1号墳 第9図4・5・6・7
図版15第4号墳石室 玄室奥壁
図版23第3号墳 第15図1
第4号墳石室 玄室西側壁
図版24第8号墳 第25図1・2・3・4・5・6・7・
第4号墳石室(礫床除去後)
8●9●10・11●12・13
第4号墳石室 玄室奥壁(礫床除去後)
須恵器・土師器
第4号墳石室 玄室東側壁(礫床除去後)
図版23第1号墳 第9図8
第4号墳石室 玄室西側壁(礫床除去後)
第5号墳第18図1
第4号墳石室 羨道部東側壁(礫床除去後)
第7号墳 第20図1・2
第8号墳第25図15表裏・16
第31図78・79・80・85・86・87・88・
縄文時代
90・9!
土器
図版29第3号墳 第33図31・32・33・34・35・36・37・38
図版25第2号墳第29図1
第34図39・40・4/・42・43・44・45・46
第4号墳第35図3
。47●48●49・50・51●52●53
石器(打製石斧・石鎌)
土製品(土錘〉
図版30第1号墳 第27図1・2
図版29第1号墳 第28図34・35・36
第8号墳第37図1・2
第3号墳 第34図60・61
平安時代
鉄製品(刀子・鉄斧・鉄釘)
須恵器・土師器・灰紬陶器
図版30第2号墳 第32図104・105・106・107
図版25第1号墳 第27図5・6・13・27
石製品(軽石・砥石)
第28図29・30・31・33
図版30第1号墳 第28図37
図版26第2号墳 第29図29・32・35
第8号墳 第37図3
第30図48・49・67・70
中・近世
第31図98●99
陶器
図版27第3号墳 第33図1・5・8墨書・13・26・30
図版27第7号墳 第36図2・3
第34図54
第8号:墳 第37図4・4内面
図版28第1号墳 第27図15・16・18・19・20・23・24・25
石製品(板碑?)
第2号墳 第30図72・73・74・75
図版30第2号墳 第32図108
1 発掘調査の概要
1 調査に至る経過
昭和61年7月8日付けで熊谷市土地区画整理西部事務所長より、籠原中央第一区画整理事業地内にお
ける埋蔵文化財の所在及び試掘に関する依頼書が提出された。熊谷市教育委員会では、事業地内には周
知の埋蔵文化財が所在する旨を回答し、遺跡の範囲確認調査を実施した。その結果、平安時代から中・
近世にかけての集落跡及び古墳時代末期の古墳群が分布することが確認された。この結果を踏まえ、熊
谷市教育委員会教育長から土地区画整理西部事務所長あてに次のように通知した。
区画整理事業地内には、埋蔵文化財包蔵地(籠三二遺跡、籠三二古墳群)が所在する。当該地は開発
計画予定地から除外し、現状保存することが望ましい。やむを得ず現状変更する場合には、文化財保護
法第57条の3の規定により文化庁長官へ埋蔵文化財発掘届けを提出し、記録保存のための発掘調査を実
施すること。なお、発掘調査を実施する場合には、事前に当教育委員会及び埼玉県教育委員会と協議す
ること。
その後、保存について協議を重ねたが工事計画の変更は不可能であると判断されたため、記録保存の
措置を講ずることとなった。文化財保護法第57条の3の規定に基づく埋蔵文化財発掘の通知は、熊谷市
長より以下の通り提出された。
昭和61年度 昭和61年7月17日付け熊二二発第628号
昭和62年度 昭和62年9月7日付け熊教乱発第748号
昭和63年度 平成元年2月10日付け二二二二第1291号
平成元年度 平成元年10月7日付け熊二二発第708号
平成4年度 平成4年10月12日付け熊教社発第653号
発掘調査は、昭和61・62・63・平成元・4年度の計5回実施された。文化財保護法第98条の2の規定
に基づく発掘調査に関わる熊谷市教育委員会からの通知及び文化庁からの通知は、以下のとおりである。
昭和61年度(第1次調査) 昭和61年7月17日付け61熊教社発第629号
昭和61年10月29日付け61三保二二2−3576号
昭和62年度(第2次調査) 昭和62年9月7日付け62三教社発第749号
昭和63年7月8EI付け63委保記第2−906号
昭和63年度(第3次調査) 平成元年2月10日付け63二二二二第1290号
平成元年3月27日付け元教文第3−319号
平成元年度(第4次調査) 平成元年10月7日付け元熊教社三二707号
平成2年5月21日付け元委保二二5−5647号
平成4年度(第5次調査) 平成4年10月12日付け4三教濫発第652号
平成5年4月16日付け4三保三二5−6900号
1
2 発掘調査・報告書作成の経過
(1)発掘調査
昭和61年度(第1次調査)
発掘調査は、昭和61年8月1日からユ0月15日まで行った。調査面積は、A・B区(第1・2区)あわせ
て2,694㎡である。8月初旬から重機による表土除去及び作業員による遺構確認作業を行い、古墳時代末
期の古墳や平安時代の遺構・遺物が検出された。8月中旬から9月中旬にかけて作業員による遺構の発
掘作業を行い、9月下旬から遺構図面を作成し、10月中旬に完掘写真の撮影を行った。
昭和62年度(第2次調査)
発掘調査は、昭和62年11月12日から昭和63年3月7日まで行った。調査面積は、A・B区(第3・4区)
あわせて1,100㎡である。11月中旬に重機による表土除去及び作業員による遺構確認作業を行い、古墳時
代末期の古墳や平安時代から中・近世までの遺構・遺物が検出された。12月初旬から2月上旬にかけて遺
構発掘作業を行い、2月中旬から遺構図面を作成し、3月初旬に完掘写真及び航空写真撮影を行った。
昭和63年度(第3次調査)
発掘調査は、平成元年2月8日から3月31日まで行った。調査面積はA区(第5区)、B区(第1区)
あわせて540㎡である。2月上旬に重機による表土除去及び作業員による遺構確認作業を行い、古墳時代
末期の古墳や平安時代から中・近世までの遺構・遺物が検出された。2月中旬から3月上旬にかけて遺構
発掘作業を行い、3月中旬から遺構図面を作成し、3月下旬に完掘写真及び航空写真撮影を行った。
平成元年度(第4次調査)
発掘調査は、平成元年10月9日から平成2年1月29日まで行った。調査面積は、A区(第6区)、 B区
(第1区)あわせて900㎡である。10月上旬に重機による表土除去及び作業員による遺構確認作業を行い、
古墳時代末期の古墳や平安時代から中世までの遺構・遺物が検出された。10月下旬から12月中旬にかけて
遺構発掘作業を行い、12月下旬から遺構図面を作成し、1月下旬に完掘写真及び航空写真撮影を行った。
平成4年度(第5次調査)
発掘調査は、平成4年11月10日から平成5年1月7日まで行った。調査面積は100㎡である。11月中旬
に重機による表土除去及び作業員による遺構確認作業を行い、古:墳時代末期の古墳や平安時代から中・近
世までの遺構・遺物が検出された。11月下旬から12月中旬にかけて遺構発掘作業を行い、12月下旬から
遺構平面図を作成し、1月初旬に三三写真撮影を行った。
② 整理・報告書作成
整理作業は、平成16年度4月から平成17年3月まで実施した。第1四半期は、遺物の洗浄・注記・接
合・復元作業等を行い、併行して遺構の図面整理を行った。第2四半期は、遺物の実測・トレース、遺
構のトレースを開始し、第3四半期には遺構・遺物の版組を作成した。第4四半期に入ると、遺物の写
真撮影を行い、終了したものから順次写真図版の割付け・編集作業、原稿執筆を行った。そして、印刷
業者選定の後、報告書の印欄に入り、校正を行い、3月末日に報告書を刊行した。
2
3 発掘調査、整理・報告書刊行の組織
主体者 熊谷市教育委員会
(1)発掘調査
昭和61年度(第1次調査)
平成元年度(第4次調査)
教育長 関根 幸夫
教育長
関根 幸夫
教育次長 岡田 詮
教育次長
島田 和男
社会教育課長 茂木 優
社会教育課長
高田 普通
社会教育課長補佐 高田 普通
社会教育課長補佐
岡田 伸洋
社会教育課振興係長 北 俊明
社会教育課文化財保護係長
金子 正之
主査 山川 建
主事
権田 宣行
主事 寺社下 博:
主事
吉野 健
主事 金子 正之
平成4年度(第5次調査)
主事 米澤ひろみ
教育長
関根 幸夫
昭和62年度(第2次調査)
教育次長
大久保道夫
教育長 関根 幸夫
社会教育課長
坂巻 篤
教育次長 岡田 詮
社会教育課長補佐
山田 晴夫
社会教育課長 茂木 優
社会教育課文化財保護係長
金子 正之
社会教育課長補佐 高田 普通
主事
権田 宣行
社会教育課振興係長 北 俊明
主事
吉野 健
主任 森田 博明
主任 平井加余子
(2)整理・報告書作成事業
主任 米澤ひろみ
平成16年度
主任 金子 正之
教育長
飯塚誠一郎
教育次長
増田 和己
昭和63年度(第3次調査)
社会教育課長
平井 隆
教育長 関根 幸夫
社会教育課担当副参事
岩本 克昌
教育次長 岡田 詮
社会教育課長補佐
並木 博雄
社会教育課長 高田 普通
社会教育課文化財保護係主幹兼係長
金子 正之
社会教育課長補佐 小林 武夫
主査
寺社下 博
社会教育課振興係長 北 俊明
主査
吉野 健
主査 森田 博明
主任
松田 哲
主任 米澤ひろみ
主事
松村 聡
主任 金子 正之
主事 権田 宣行
3
II 遺:跡の立地と環境
熊谷市は埼玉県北部に位置している。市の南側には荒川、北側には妻沼町を挟んで利根川がそれぞれ
西から南東方向に向って流れており、両河川が最も近接する地域にある。地形的には、市の西側に櫛引
台地、東側に妻沼低地が広がっているが、市の大半が妻沼低地上にある(第1図)。
櫛引台地は、洪積世に形成された荒摺扇状地の左岸一帯の総称で、寄居町の波久礼付近を川蝉として
東は熊谷市西部の三ヶ尻付近まで、北東方向へは熊谷市北西部の西別府付近にまで延びている。標高は
約36∼54mで、妻沼低地に向って緩やかに下っていく。また、三ヶ尻や西別府地区では、台地裾にかつ
て湧水地が多数あったという。
櫛引台地の東側には、沖積世に荒川の乱流により新たに形成された新荒川扇状地が広がっている。新
荒川扇状地は、熊谷市の南西に位置する川本町の菅沼付近を扇頂として妻沼低地へと広がっており、自
然堤防や後背湿地が発達している。また、三ヶ尻地区の荒川に面した櫛引台地南東端には、丘陵地であ
る観音山(標高81m、第3紀層の残丘)があり、台地上からの比高差は約25m、沖積地からの比高差は
約35mを測る。
今回報告する籠原裏古:墳群は、標高約37mの櫛引台地東端縁辺部の平坦面に立地している。熊谷市西
部の新堀地区に所在し、すぐ西側には深谷市が隣接する。古墳群はJR高崎線籠原駅前北側、国道17号線
との間約350mの問に広がっており、同所には平安時代から中・近世までの集落跡である三原裏遺跡(1)
も所在している。この辺り一帯は、関東造盆地運動による地盤の沈降及び河川の氾濫等の影響を受け、
ローム層までは厚い表土層に覆われており、現地表面から関東ローム層までは深い所で約18mを測る。
そのため、今回報告する籠原裏古墳群中には、墳丘までもが覆われていたものもみられ、残存状態は良
好であった。なお、籠原裏古墳群は現在までに10基が確認されているが、今回報告するのは1∼9号墳
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籠原頭古墳群 く畿
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秩父山地
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匿≡碧瓢丘陵 [===コ=台地
第1図 埼玉県の地形図
4
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深谷市
・新堀朝地
熊谷市〕/
川本町 江輌献\
大里町吹上町
細江礁趣α磁癒鞭続簸・雛㌻葦
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第2図 周辺遺跡分布図
であり、10号墳については既に報告済みである(籠原裏遺跡調査会2000)。
次に西原裏古墳群周辺の歴史的環境について概観する。
旧石器時代は、本古墳群と同所に所在する籠原裏遺跡から出土した黒耀石の尖頭器が唯一の事例であ
る。その他には、荒川右岸の江南台地上に立地する江南町西原遺跡(115)以外にみられない。
縄文時代は早期段階まで肖る。荒川右岸では多数遺跡がみられるが、本遺跡周辺では櫛引台地北端に
位置する深谷市東方城跡(89)において、早期の尖頭器が検出されているのみである。前期になると遺
跡数も次第に増えはじめ、台地のみならず低地上からも寺東遺跡(17)などの集落跡が確認されている。
中期は遺跡数が非常に多くなり、特に中期後半、加曽利E式期のものが多い。前期同様、台地及び低地
上からも集落跡が確認されているが、特に櫛引台地北東端及び台地下の妻沼低地自然堤防上に集中する。
隣接する深谷市でも集落跡が多数確認されているが、自然堤防上にあるものが多い。後期になると遺跡
数は減少するが、中期同様、櫛引台地北東端及び台地下の自然堤防上に立地する。深谷市内においても
台地縁辺部及び台地下の自然堤防上から遺跡が確認されている。晩期はさらに遺跡数が減少する。地図
中には示せなかったが、市内では近年、市東部の低地上に立地する諏訪木遺跡で集落跡が確認されたが、
その他にはみられない。深谷市では低地上にいくつかの遺跡が認められる。上敷免遺跡(63)では、晩
期でも終末の三線文土器片が多数検出されている。遺構からの検出ではなかったが、次代へのつながり
がみてとれる資料である。
弥生時代については、東日本初期弥生土器を語る上で非常に重要な資料が出土している。遺跡は、縄
文時代中期以降集落:が営まれている櫛引台地北東端部及び台地下の自然堤防上に集中している。
特筆すべき事項としては、自然堤防上に位置する横間栗遺跡(10)から前期末∼中期前半の再葬墓が
13基確認されたことが挙げられる。再葬墓一括資料は、1999年3月に埼玉県指定になっている。横間栗
遺跡の南東に位置する関下遺跡(11)では、弥生時代中期中頃の竪穴住居跡が確認され、南側に隣接す
る石田遺跡(12)からも同時期の遺構と遺物が検出されており、集落跡が広がっているのかもしれない。
また地図中には示せなかったが、市東部では東日本でも最古段階の環壕集落である池上遺跡やその墓域
とされる行田市小敷田遺跡などがある。深谷市では自然堤防上にいくつか遺跡がみられ、上敷免遺跡で
は横間栗遺跡と同時期の再葬墓が確認されている。また包含層からではあるが、県内では初の遠賀川式
土器の壷の胴部片も出土している。
中期後半以降は、市東部では北島遺跡、前中西遺跡などがみられるが、西部では確認例が少なく、深
谷市では明戸東遺跡(59>など後期の遺跡が自然堤防上においていくつか点在するだけである。
古墳時代になると、自然堤防上への進出がより活発化する。前期は本遺跡周辺では確認例がやや少な
第1表 周辺古墳群一覧表
Nα 遺跡 名
A
B
C
D
E
F
G
H
1
熊 谷 市
龍原町古墳群
在家古墳群
別府古墳群
奈良古墳群
玉井古墳群
原島古墳群
石原古墳群
広瀬古墳群
村圏古墳群
時 代
Nα
J
古墳末
古墳後
古墳後
古墳中期後∼末
古墳後
古墳後
古墳後
古墳末
古墳後
遺跡 名
時 代
三ケ尻古墳群
妻 沼 町
古墳後
K 上江袋古墳群
古墳後
深 谷 市
L 木の本古墳群
M
N
0
P
6
川 本 町
長在家古墳群
鹿島古墳群
清水山古墳群
上大塚古墳群
古墳後
古墳末
古墳後∼末
古墳後
古墳後
第2表 周辺遺跡一覧表
臨 遺 跡 名 時 代
1
2
3
4
5
6
7
8
9
!0
11
12
!3
!4
!5
!6
隻7
!8
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
5!
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
輪
熊 谷 市
縄文、古墳後、平安、中・近世
籠原裏遺跡
在家遺跡
古墳後、奈良・平安
溺三三丁蟹遺跡 奈良・平安
大竹遺跡
古墳後、奈良・平安
平安来∼中世
西別府館跡
西別府廃寺
古墳後、奈良・平安、中・近世
西方遺跡
奈良・平安、中・近世
西六府祭祀遺跡 、古墳後、奈良・平安、中・近世
F縄文中、古墳前・後、奈良・平安
根差遺跡
縄文後、弥生前・中、古墳前・中、奈良・平安、近世
横間栗遺跡
関下遺跡
縄文中、弥生中、古墳後
石田遺跡 縄文中・後、弥生中、古墳前
入川遺跡 縄文後、古墳前・後
深町遺跡
縄文中・後、古墳前・後、奈良・平安
埋鳥遺跡
縄文中、奈良・平安
別府城跡
平安、中世
寺東遺跡
縄文前∼後
別府氏館田
平安末∼中世
稲荷東遺跡
古墳後、奈良・平安
平安來∼中世
玉井陣屋跡
五反畑遺跡
中世
稲荷木上遺跡
古墳後
水押下遺跡
古墳後
下河原中遺跡
奈良・平安
新ヶ谷戸遺跡
古墳後、奈良・平安
奈良氏館跡
平安末∼中琶
土用ケ谷戸遺跡 古墳後、奈良・平安
古:豊前・後、奈良・平安
天神下遺跡
別府条里遺跡
奈良・平安
一本木煎遺跡
古墳蔚・後、奈良・平安、中・近世
中耕地遺跡
縄文中、古墳前・後、奈良・平安
西通遺跡
古墳後
東通遺跡
古墳後
横塚遺跡
古墳前、平安
本代遺糞
古墳後、近世
下河原上遺跡
近世
高根遺跡
縄文前、古墳後、平安、中・近世
不ニノ腰遺跡
奈良・平安
万吉西浦遺跡
縄文中、古墳、平安、近世
來遺跡
平安、中世
縄文前・中、古墳後、奈良・平安、中・近世
樋ノ上遺跡
中世
黒沢館跡
若松遺跡
中・近世
近世
庚申塚遺跡
中・近世、
松原遺跡
中世
社裏遺跡
中世
社裏北遺跡
中撹
社裏碁器跡
縄文前∼後、弥生中、古墳後、奈良・平:安、中世
三ヶ尻遺跡
森遺跡
古墳後
拾六間後遺跡
古墳後、奈良・平安、中世
妻 沼 町
弥藤吾親B遺跡 古墳前・中
飯塚北遺跡
弥生中、古墳後、奈良・平安
飯塚遺跡
弥生中、古墳後、奈良・平安
深 谷 市
前遺跡
古墳前、奈良・平安、中世
清水上遺跡
縄文晩、弥生中、古墳前・後、奈良・平安
原遺跡
縄文後・晩、古墳後
東川端遺跡
古墳前・後、奈良・平安
葦戸東遺跡
縄文中・後、弥生後、古墳後、奈良・平安
新田裏遺跡
古墳中、弥生後、奈良・平安、中世
新屋敷東遺跡
縄文中、古墳後、奈良・平安
本郷前東遺跡
縄文後、古墳後、奈良・平安
上敷免遺跡
64
Nα142遺跡
65
67
皿沼西遺跡
臨145遺跡
皿沼城跡
68
Nα180遺跡
69
72
深谷城跡
城西遺跡
八十市遺跡
伝幡羅難詰
73
Nα194遺跡
74
Nα195遺跡
75
醤α25◎遺跡
76
78
宮ヶ谷戸遺跡
根岸遺跡
常磐町東遺跡
79
Nα199遺跡
縄文中・後、古墳後、奈良・平安、中・近世
縄文前・中、古墳後
縄文中、古墳後、奈良・平安
80
81
漁198遺跡
庁幸和城跡
平安
中世
82
Nα200遺跡
83
Nα249遺跡
84
87
翫189遺跡
漁190遺跡
城下遺跡
杉町遺跡
88
Nα202遺跡
古墳後
奈良・平安
奈良・平安
古墳後、奈良・平安
縄文中・後、古墳後、平安、中・近世
縄文中、古墳後、奈良・平安
縄文中、古墳後、奈良・平安
縄文翠・後、中世
奈良・平安、中世
古墳後、奈良・平安
縄文中・後、古墳後、奈良・平安
古壌前
古墳後、奈良・平安
縄文後
縄文後
縄文中、古墳前・後、平安
縄文中・後、古墳後、奈良・平安
縄文中・後
縄文中
縄文中
66
70
7}
77
85
86
89
東方城跡
90
Nα203遺跡
91
幡羅遺跡
92
Nα204遺跡
93
9遜
臨205遺跡
酌88遺跡
95
Nα87遺跡
96
桜ケ丘組石遺跡
97
Nα208遺跡
98
漁93遺跡
99
Nα94遺跡
100
Nα207遺跡
10!
Nα206遺跡
102
103
104
105
106
107
108
109
110
慧1
112
113
114
115
!16
117
118
!19
120
121
122
123
124
125
7
遺 跡 名 蒔 代
縄文中、弥生中・後、古墳後、奈良・平安
63
江 南 町
宮前遺跡
宿遺跡
上前原遺跡
堀ノ内遺跡
中屋敷遺跡
宮下遺跡
東原遺跡
新屋敷遺跡
大林遺跡
権現坂埴輪窯跡
権現坂遺跡
北方遺跡
冨士山遺跡
西原遺跡
新田裏遺跡
姥ケ沢遺跡
姥ケ沢埴輪窯跡
川 本 町
大門遺跡
鹿島平方裏遺跡
山之越遺跡
舟山遺跡
竹ノ花遺跡
荷鞍ケ谷戸遺跡
諦光寺廃寺
古墳後、奈良・平安
古墳前、平安
古墳後、奈良・平安
中世
弥生中、古墳後、奈良・平安
古墳前、平安、中・近世
奈良・平安
縄文晩、古墳後、奈良・平安、中・近世
中世
古墳後
古墳後
奈良・平安
縄文中、弥生中・後、古墳後、奈良・平安、中・近世
古墳後、奈良・平安、中・近世
古墳後、奈良・平安、中・近世
縄文早∼後
古墳後、奈良・平安、中・近世
古墳後、奈良・平安、中・近世
縄文早、古墳後、奈良・平安、中・近世
縄文早∼中、中世
古墳後、奈良・平安、中・近世
古墳後、奈良・平安
古墳後
縄文前・中、古墳中・後
縄文早
縄文早∼後、弥生後、古墳前、奈良
縮石器、縄文前∼後、奈良・平安
古墳後、奈良・平安
縄文早∼後、弥生後、古墳前・後
古墳後
奈良・平安
古墳後、奈良・平安
縄文後
縄文早∼後、中世
縄文早・前、奈良・平安
縄文後
奈良・平安
いが、一本木前遺跡(30)では、90数軒という膨大な数の住居跡の他に4基の方形周溝墓等も確認され
ている。特筆すべき事項としては、2号方形周溝墓の主体部からヒスイ製の勾玉や緑色凝灰岩製の管玉、
人歯等が検出されたことが挙げられる。なお、住居跡群と周溝墓群には若干の時期差が存在し、集落跡
が古く、周溝掌骨が新しいことが判明している。深谷市では、東川端遺跡(58)をはじめとして自然堤
防上で集落跡、方形周溝墓等が確認されている。中期は、本遺跡周辺では5世紀末の古墳として市の指
定史跡になっている横塚山古墳(D:奈良古墳群)があるのみである。B種横刷毛の埴輪を持つ帆立貝
式前方後円墳であるが、後円部は一部欠損している。市町東部では、北島遺跡、中条遺跡、中条古墳群
周辺などで確認例がみられる。後期になると遺跡数が爆発的に増加する。集落跡は大規模になり、自然
堤防上にも多数営まれるようになる。そして、これらの集落跡は奈良・平安時代へと継続して営まれる
ものが多い。古墳は群として形成され、今回報告する籠原裏古墳群の他にも多数の古墳群が台地及び自
然堤防上に築造されている。荒川左岸の櫛引台地上には、学舎裏古墳群(A)、在家古墳群(B)、別府
古墳群(C)、三ヶ尻古:墳群(J)、川本町長在家古墳群(M)、自然堤防上には、玉井古墳群(E)、原
島古墳群(F)、広瀬古墳群(H)、石原古墳群(G)、妻沼町上江袋古墳群(K)、深谷市木の本古墳群
(L)などがあり、荒川右岸の台地上でも、埼玉県指定史跡である川本町鹿島古墳群(N)をはじめと
して多数の古墳群が築造されている。また、古墳群の他にも江南町権現坂埴輪窯跡(11D、蛯ヶ沢埴輪
窯跡(118)など埴輪の窯跡もみられるようになる。古墳群は概ね6世紀から7世紀ないし8世紀初頭に
かけて築造されたものであるが、籠原裏古墳群と同じく埴輪を待たない古墳時代末期の古墳群としては、
在家古墳群や玉井古墳群、広瀬古墳群などがある。
市内の古墳群で特筆すべきことは、今回報告する野原裏古墳群では、墳形が八角形を呈する古墳時代
末期の八角墳が検出されたことや、地図中には示せなかったが、市中央部にある肥塚古墳群では埋葬施
設に荒川水系の石材である河原石を使用した古墳と利根川水系の角閃石安山岩を使用した古墳が混在す
ること、また、広瀬古墳群(1)中の宮塚古墳は、上門下方墳という特異な形態をしていること(昭和
38年置国指定史跡)などが挙げられる。特に今回報告する籠原野古墳群は、後述する深谷市幡羅i遺跡(91)
や熊谷市西別府廃寺(6)、西別府祭祀遺跡(8)などといった郡衙及び郡衙と関連があると思われる遺
跡と時期的・地理的に近い関係にあり、注目に値する古墳群といえる。
律令体制の始まる奈良・平安時代は、本遺跡周辺一帯は武蔵国幡羅郡に属する。幡羅郡は上訴、下秦、
広沢、荏原、幡羅、那珂、三見、余部の八郷からなる中郡であり、熊谷市西部、深谷市東部、妻沼町等
を含む一帯が該当すると考えられている。深谷市幡羅i遺跡では、平成13年に郡衙の正倉と推定される大
型建物群が確認され、幡羅郡衙推定地として確認調査が開始されている。その結果、これまでに20野州
の大型正倉建物群や区画大溝などが確認されている。郡庁や館、厨などの施設は未確認であるが、熊谷
市西別府廃寺や西別府祭祀遺跡も含めてこの地域一帯は、当時の中心地だったことが徐々に明らかに
なってきている。
集落跡は前述のとおり、古墳時代後期以降引き続き営まれる遺跡が多く、かつ規模の大きいものが多
い。また本遺跡周辺の集落跡から出土する須恵器は、武蔵国四大窯跡の1つである寄居町末野窯跡産の
ものを多く含む傾向にあり、鳩山町南比企窯跡産を主体とする市内東部の遺跡とは様相が異なっている。
集落跡以外で注目すべき遺跡としては、前述の西別府廃寺と西別府祭祀遺跡がある。両遺跡は、櫛引
8
台地北東端の市内北西部西別府地区に所在する。西別府廃寺は、8世紀初頭に創建された県内でも古い
寺院跡であり、平成2・4年に行われた発掘調査では、瓦溜り状遺構、基壇跡、溝跡等が検出されてい
る。出土した瓦には9世紀後半まで下るものもみられ、寺院は平安時代まで存続していたと考えられて
いる。西別府祭祀遺跡は、西別府廃寺の北西部の台地縁辺部に位置し、湯殿神社裏の湧水堀にある。神
社裏の湧水部分からは、土師器、須恵器の他に馬形、櫛形、勾玉形、剣形、有線円板等の滑石製模造晶
が多数検出され、これらの遺物は水辺での祭祀に用いられたと考えられている。平成4年度におこなわ
れた発掘調査では、古墳時代末から平安時代でも末期に位置づけられる土器群が多数検出されており、
平安時代の終わり頃まで祭祀遺跡として存続していたものと思われる。
西別府廃寺及び西別府祭祀遺跡と深谷市幡羅遺跡は、時問的・空間的に密接な関係にあったことは明
白であり、今後実施される確認調査によって詳細がさらに判明してくるものと思われる。
平安時代末から中世にかけては、武蔵七党やその他在地武士団の館跡がみられるようになるが、その
実態は不明なものが多い。本遺跡の北東にある別府城跡(16)は、別府氏の居館で現在も土塁と空堀が
一部残っている。また、市内では南西部の三ヶ尻地区で中世の遺跡や遺構が比較的多く確認されている。
中でも黒沢館跡(42>は、発掘調査の結果、出隅を持ち全周する堀と土塁、虎口跡等が検出され、渡辺
垂山が記した文献『訪砥録(ほうへいろく)』所収の「黒沢屋敷」と発掘調査成果が一致するという大変
貴重な例である。また、周辺に所在する樋ノ上遺跡(41)、若松遺跡(43)、社裏遺跡(46)、社裏北遺跡
(47)、社裏南遺跡(48)からは、埋葬跡が多数検出されている。深谷市では、皿沼城跡(67)、深谷城
跡(69)、庁三和城跡(81)、東方城跡など城跡が多数確認されている。
近世については、櫛引台地北東縁辺部に立地する西方遺跡(7)から墓地群が確認されている。西方
遺跡をはじめとしていくつか例がみられるが、中世同様、不明な点が多いのが実状である。
9
III遺跡の概要
1 調査の方法
発掘調査は、昭和61年度から昭和62年度、昭和63年度、平成元年度、平成4年度の計5回実施された。
すべての調査において、まず遺構確認面まで重機で掘削し、その後人力による手回り作業を行っていっ
た。そして、各調査区内に一辺5mのグリッド方式を用いて全体を網羅できる様にし、調査区北西隅を
A−1として南へA・B・C…、東へ1・2・3…とし、Aラインは西から東へA−1・A−2・A−3
…と呼称した。Bライン以南もAラインと同様に呼称し、グリッド設定を行った。
手回り作業終了後は、遺構ごとに実測、遺物の取り上げ、写真撮影等の作業を順次行っていった。な
お、実測作業を行うにあたってはグリッド交点に設定した杭を基準に水糸による1m間隔のメッシュを
張り、簡易遣り方による方法で行った。
2 検出された遺構と遺物
籠原裏古墳群は現在までに10基の古墳が確認されているが、第II章でも述べたとおり、10号墳につい
ては既に報告済みである(三原裏遺跡調査会2000)。よって、今回報告するのは1∼9号墳である。
古墳が検出された調査区は、第1・4∼6区である。昭和61年度調査(第1区)では3基(1∼3号
:墳)、62年度調査ではB区(第4区)から3基(4∼6号墳)、63年度調査ではA区(第5区)から2基
(7・8号:墳)が検出された。平成元年度調査ではA区(第6区)から1基(9号墳〉、B区(第1区)
から1基の計2基が検出されたが、後者は昭和61年度に調査した1号墳の北東部にあたり、平成4年度
調査で検出した1基も1号墳の北西部にあたる。よって、検出された古墳は全調査区を通して9基であ
る。
発掘調査は区画整理に伴う街路築造部分のみであるため、古墳の全形を検出したものはない。1∼3
号墳は主体部を含むほぼ全形が検出されたが、東西の周堀ないし墳丘の一部が調査区外にある。なお、
1号墳は前述のとおり、3回の発掘調査によってほぼ全形を検出することとなった。4・8号墳は主体
部及び墳丘の大半は検出されたが、4号墳は墳丘及び周堀の東側、8号墳は墳丘東側及び東西の周堀の
大半が調査区外にある。5・6号墳は周堀のみ検出された。5号墳は西側、6号墳は北側のみの検出で
ある。7号墳は主体部及び前庭部の東側と周堀南東部のみ検出された。9号墳は墳丘を表土掘削時に削
平してしまったため、検出できたのは周堀の北西部と東側の一部のみである。本古墳群は同所に所在す
る籠原裏遺跡の遺構に所々を切られており、特に7号墳は中・近世の遺構に激しく破壊されていた。
第II章でも述べたとおり、本古墳群はその立地環境から墳丘の残存するものがみられた。墳丘が検出
された古墳は、1∼4・8号墳である。墳丘はすべて頂部が削平されており、下段のみ検出された。低
いもので約0.5m、高いもので約1m残存していた。規模は1・8号墳が10m以上を測り、他の古墳に比
べてやや大きい。その他の古墳は8m前後であった。平面形態は円墳が主体となるが、!号墳のみ八角
形を呈する八角墳であった。1号墳は三二も含めて平面形態が八角形を呈するものの、やや丸味を帯び
る箇所がみられることから正八角形にはならない。八角墳は全国的にも類例の少ないものであり、貴重
な資料といえる。2号墳は残存する葺石から墳丘を復元すると多角形状を呈するが、規則性がみられな
10∼
==平成元年度調査区
睡=昭和62年度調査区 %=平成4年度調査区
の の の :・:・:÷:・:・:・:・=昭和61年度調査区
匿奪摘要=昭和63年度調査区 皿1[皿=平成誓年度調査区
(籠原裏遺跡調査会)
第3図 調査地点位置図
いため、円墳に範躊に入るものと思われる。
各古墳の外部施設には葺石と周堀がみられた。埴輪列はいずれの古墳からも検出されていない。
葺石は墳丘の残存する古墳から検出されたが、そのほとんどが崩落しており、原位置を保っていたも
のは少ない。葺石には河原石が使用され、大きさは主体部に使用されたものより一回り小さい。
周堀はすべての古墳において確認されたが、全周するものと所々で途切れるものの二者がみられた。
前者には1・4∼7・9号:墳、後者には2・3・8号:墳が該当し、概して大型の部類に入る古墳の周堀が
途切れる傾向にある。ただし、八角墳である1号墳は大型の部類:に入るが、周堀が途切れず全周してい
た。また、周堀の北側と南西部には八角形の稜角の延長線上に張り出し部を有していた。主体部門はい
ずれの古墳もすべて陸橋となっている。このうち、2・4号墳は他の古墳に比べて幅広であった。
主体部は、1・3・4・7・8号墳で検出された。それぞれ欠損箇所があるものの、7号墳以外はほ
ぼ全形を検出することができた。いずれも荒川中流域にみられる河原石を使用した胴張り型の横穴式石
室である。天井部は残存していない。4号墳のみ門門が縦長の緑泥片岩一枚で構築されていた。石室に
は掘り方を持つものと持たないものがみられた。前者には3・8号墳、後者には1・2・4・7・9号
墳が該当する。なお、2号墳は主体部を著しく破壊されており、根石が僅かに残るだけであったが、そ
の痕跡から他と同じく河原石による胴張り型の横穴式石室であったと思われる。また、9号墳も墳丘同
様、主体部を検出できなかったが、その痕跡から胴張り型の横穴式石室であったと思われる。
古墳に伴う遺物は、鉄・銅製晶(刀装具、鉄鐡、刀子、不明鉄製品など)や土器(須恵器、土師器)
などがあるが、検出数は少ない。また、人骨が検出された古墳は少なく、!・8号墳の石室から骨片が
僅かに検出されただけである。遺物の出土した古墳は、1・3・5・7・8号墳の5基であり、2・4・
6・9号墳からは古墳に伴う遺物は全く検出されなかった。
!町回では、大刀自体は検出されなかったが、刀装具(鉄製鴎目金具、鞘口金具、責金具、鞘尻金具、
銅製双脚足金具)が石室からまとまって検出された。その他にも墳丘から須恵器平野の口縁部片や先端
が片刃状を呈する不明鉄製品が出土した。3号墳では、石室から鉄脚、前庭部から内面に放射状暗文を
有する土師器圷が出土した。5号墳では周堀から土師器甕の底部が検出された。7号墳では周堀から須
恵器蓋、前庭部から須恵器壺の肩二丁が検出された。8号墳では石室から鉄鎌や三子、不明鉄製品など
の鉄製品がまとまって出土した。鉄鍛はすべて二身部と頸部の境に関が無く、関門被ないし棘箆被を持
つ有茎鎌である。三身部の形態は様々であった。また、南西側の周堀底面からは土師器圷、墳丘からは
須恵器長頸瓶の頸部片、前庭部からは須恵器甕の胴部片が検出された。
各古墳からは上記の古墳に伴う遺物の他にも、他の時代の遺物が多数検出された。これらは本古:墳群
と同所に所在する籠原裏遺跡からの流れ込みである。遺物の時代・時期は縄文時代前・中期、古墳時代
前期、平安時代、中・近世と幅広い。縄文時代前・中期の遺物は土器、石器(石鍛、打製石斧)、古墳時
代前期の遺物は土師器のみ、平安時代の遺物は須恵器、土師器、灰紬陶器、土製品(土羽)、鉄製品(刀
子、鉄叉、鉄釘)、石製品(軽石、砥石)、中・近世の遺物は陶磁器、板碑と思われる石製品などがある。
最も多く検出されたのは、籠原裏遺跡の主体となる平安時代の遺物である。平安時代の集落跡は、9世
紀後半から10世紀初頭に限定されることから、遺物も同段階のものであった。
一12一
屡
2 3 4 5 6 7 8 9
A
B
C
D
E
F
G
H
1
J
K
L
IO
l l
12 13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50
X_
璽”
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4号
第4区
1
(昭和62年度調査B区)
ノ
5号墳
(昭和63年度調査B区)
o
第1区 2号墳
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(平成元年度調査A区)
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(昭和61年度調査A区)
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(昭和62年度調査A区)
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AB
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平成11 年度調査区(籠原裏遺跡調査会)
第昇区
(昭和61年度調査B区)
第吊区
(昭和63年度調査A区)
8号墳
10号墳
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(平成元年度調査B区
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(平成4年度調査区)
一
第4図 調査区全測図
一13一
IV 遺構と遺物
1 古 墳
第1号墳
位置・状態
第1区C∼G−29∼33グリッドに位置する。現在、確認されている10基の古墳のうち最北端にあり、
南西約20mに2号墳、西側約40mに4号墳がある。
本墳は昭和61年度、平成元・4年度の計3回の発掘調査によってほぼ全形が検出された。主体部を含
むFライン以南を昭和61年度、E−31グリッドから北東部を平成元年度、 E−32グリッドから北西部を
平成4年度の調査によって検出した。周堀の北西部と南東部は調査区外にある。昭和61年度及び平成元
年度調査では、他の遺構との重複関係はみられなかったが、平成4年度調査で検出した北西部では、周
回及び墳丘を籠原裏遺跡の時期不明のピット群や後世の撹乱により一部破壊されていた。
墳丘・外部施設(第5・6図)
墳丘は現地表面下0.5∼0.7m程で確認された。墳頂部は既に削平を受けていたが、昭和61年度、平成
元・4年度のいずれの調査においても約0.8∼!mの高さで下段のみ検出された。葺石はそのほとんどが
周堀内及びテラス上に崩落していたが、墳丘東側や前庭部付近(A∼D)では原位置を保っており、残
存状態が良好であった。特に平成元年度の調査で検出した墳丘東側の葺石(A∼B)は残りが良く、約
60度の傾斜で八∼十段程積まれていた。残存する葺石から墳丘を復元すると、本墳は後述する周堀も含
めて平面形態が八角形を呈する八角墳であることが確認された。墳丘裾部における八角形の一辺は約5
mを測るが、前庭部付近をはじめやや丸みを帯びる箇所がみられたことから正八角形にはならないと思
われる。本四を八角墳と判断した根拠など詳細については、第V章で述べることとする。
墳丘の規模は対辺問で約12m、対角間で約13mを測る。墳丘盛土は主体部の構築にあわせて下から褐
色土、黒褐色土の順でほぼ全面に盛り、その上に黄色や褐色系の土を主体部から外側へ積み重ねていた。
ほとんどの層にローム粒や黒褐色粒などの混入物を含む。盛土は全体的にしまりがあまり良くない。
残存する葺石は八角形の辺に合わせて直線的かつ礫の長軸を辺に交差させる形で配置されていた。葺
石はすべて河原石であり、長軸3◎cm、短軸15騰、厚さ10c墾前後を測るものが多くみられた。また、八角
形の稜角に置かれた葺石は、他と比べて石材や大きさ、形などに違いはみられなかった。
周回は現地表面下L5m程で検出された。北西部と南東部は調査区外にある。周堀もその形状からみて
ほぼ八角形状に全周すると思われる。主体部を挟んだ稜角(C・D)の延長線上から掘り込まれており、
主体二二は陸橋となっている。周回を含む規模は対辺間で約20m、対角間で約22mを測る。一辺の長さ
は約8。4m、幅は2.5m前後、深さは0.7∼1回忌を測る。舟底ないし平底を呈するが、外側の立ち上がり
は緩やかで不明瞭な部分もあった。周堀南西部と北側には稜角(E・H)の延長線上に張り出し部がみ
られた。幅は南西部が6.8m、北側が4.5mを測る。後者の底面には長軸1.95m、短軸1.22rn、底面から
の深さ0.12mを測る土坑状の掘り込みも検出された。周堀内にはローム粒やロームブロックを含む黒褐
色土や暗褐色土が堆積し、その上に本古墳群及び籠原裏遺跡全体を覆う黄色土が堆積していた。この状
況は後述する古墳においても同様であった。墳丘及び周堀からも埴輪の検出はみられなかった。
一15一
主体部(第7図)
主体部は河原石を使用した胴張り型の横穴式石室である。天井部は既に崩落し、玄室奥壁から東側壁
は上部を欠くが、残存状態は比較的良好であった。石室の主軸はN−15一Wを示し、南側に開口する。
石室の規模は全長4.9m、玄室の長さは3.4m、幅は奥壁が0.8m、ほぼ中央の最大幅が!.9m、玄門部が
1mを測る。羨道部は長さ1.6m、羨門部の幅は0。8mを測る。羨道部と玄室の比率は、ほぼ1:2の割
合となる。平面形態は玄室が馬蹄形を呈し、四壁から弧を描きながらほぼ中央で最大幅となり、玄門部
に向かって直線的に狭まる。なお、玄室中央からやや北西寄りが本墳の中心となる。羨道部は玄門部か
ら羨門部に向かって直線的に狭まり、前面にはハの字に開く前庭部が広がる。二丁及び側壁は河原石に
よる小口積みであり、残りの良い羨道部及び玄門部付近では約0.75mの高さまで残存していた。根石は
ほぼ二段であったが、奥壁付近では三段の箇所もみられた。旧約20儘、厚さ5c搬程の円形ないし楕円形
の扁平なものが据えられており、根石の上には主に長軸35cm、短軸15cm、厚さ15cm前後を測るi葺石より
やや大きめの石が積み重ねられていた。ただし、玄門部及び羨門部にはさらに大きい河原石が根石段階
から配置されていた。羨門部及び玄門部の床面には、梱石として長軸30cm、短軸20cm、厚さ15Cln程の河
原石が長軸を南北に向けて据えられており、羨道部内には拳大、玄室内には拳大から人頭大のものを敷
いて床面としていた。閉塞施設は、羨道部に三石とほぼ同じ大きさの河原石を向きも三石にあわせて積
まれており、その間に拳大の河原石や小砂利が充填されていた。また、羨門部や玄門部付近では緑泥片
岩も若干検出されており、閉塞施設に使用されたと思われる。本墳の石室は掘り方を持たないが、石室
設置箇所は墳丘構築面より若干低くなっており、石室構築に際して整地されたと思われる。
出土遺物
本墳に伴う遺物は少なく、そのほとんどが石室から検出された。出土遺物は、鉄・銅製品(第9図1
∼7)、土器(8)がある。また、石室からは人骨片も僅かではあるが検出された。
鉄・銅製品(第9図1∼7)
1∼6は刀装具である。すべて石室玄室の西側礫床面より出土した(第8図)。本四からは大刀そのも
のは検出されていないが、これらの刀装具はその特微からみて三頭大刀に装着されていたと考えられる。
1∼3・5・6が鉄製、4のみ銅製である。1・2は鉄製鴎目金具。筒状を呈し、上端部が僅かに外反
する。ともに完形晶。!は上端部及び内面、2は上端部に継ぎ目が認められた。端部は鉄板を巻いてか
ら造り出したと考えられる。1の外面には木質が付着していた。3は鉄製鞘口金具・錨。偲表側を欠く。
鞘口金具の内面には一部木質が付着していた。4は銅製双脚足金具。完形晶。枠形櫓金に段を持ち、両
側が双脚より長く張り出している。5は鉄製責金具。半分を欠く。鞘口金具の残り具合から推定すると
侃裏側と考えられる。6は鉄製鞘尻金具。中央の挟りを僅かに欠く。内面には木質が付着していた。7
は不明鉄製品。AとBは接合関係になかったが、同一個体と思われる。幅広の板状を呈し、先端部は片
刃状になっている。本墳に伴うものではない可能性もある。墳丘から出土した。
土器(第9図8)
8は須恵器平瓶の口縁部片。産地は不明であるが、胎土は白っぽく、黒色粒を多量含む。外面下部に
はカキ目がみられ、内外面には自然粕が僅かに付着する。墳丘から出土した。
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平成4年度調査
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第7図 第1号墳石室
第3表 第1号墳出土鉄・銅製品観察表
出土位置
器 種
玄 室
鉄製鴎目金具
上端径13c澱、下端径1。Oc搬、鍍大摩0、95c搬、孔径075c鑓。重量16g。完形。外藪木質絹着。継ぎ蟹有。
2
玄 室
鉄製鵬目金具
上端径125cm、下端径1。05cm、最大厚11cm、孔径0.75cm。重量14g。完形。継ぎ目有。
3
玄 室
銅製双脚足金具
番号
法 量 ・ 登 量 ・ 残 存 状 態 ・ 備 考
三
最大高455cm、最大幅3.75cm。枠形櫓金:最大長37cm、最大幅14cm、最大高07cm、帯執引通孔:最大長1
T5cm、幅06cm前後、腹帯:長径4.1cm、短径19cm、幅cmO 5前後、最大厚0.2cm。重量L76募。完形。
鉄製鞘口金具
鞘口金具:長径355cm、短径G 7)cm、最大長375cm、最大厚0ユ5cm。半分欠。鋸:長径(3.!5)cIn、短径(1
@ ・鋸
R)cm、最大長155cm、最大厚015cm。大半欠。重量(09)g。
長径(35)cm、短径(19)cm、最大樒04cm、最大厚015cm。重量(128)g。半分欠。
4
玄 室
5
玄 室
鉄製責金具
6
玄 室
鉄製鞘尻金具
7
墳 丘
不明鉄製品
長径33cm、短径19cm、最大長(32)c皿。重量(212)g。一部欠。
A:最大長24cm、最大幅15cm、最大厚02cm。 B:最大長44cm、最大幅145cm、最大厚015cm。重:量A+
a=(98)9。
第4表 第1号墳出土土器観察表
番号
出土位置
器 種
口径
器高
8
墳 丘
須恵器 平瓶
(96)
(34)
底径
胎土
色 調
焼成
残存率
AB
灰色
A
ロ縁部20%
一20一
備 考
産地不明。内外面向然粕付着。
小 結
∂p
本墳は墳丘及び周堀の形態、
葺石の配列状況から、平面形態
が八角形を呈する八角墳である
鶴{コ灘驚二二遂
φ巨 鱒
己
ら正八角形にはならない。規模
3 は12m前後を測る。周堀は全周
3∠一丸
ドハ 励0
¢
費
会ノ
/5
3
し、北側と南西部には稜角の延
⑨ ◎ 長線上に張り出し部がみられ
2 た・主体部は河原石による胴張
1
り型の横穴式石室である。掘り
方はないが石室は墳丘構築面よ
り若干低く整地された面に造ら
れていた。玄室からは大刀は検
出されなかったが、刀装具がま
とまって出土した。
本四は刀装具や刀装具から想
○ 餐Gc揃
定される三頭大刀の存在、主体
0 2驚
尋 一1
部の形態などから7世紀後半頃
11
第8図 第1号墳石室
=60
鉄・銅製品出土状況
¢
ζ愈〕・
ノ
◎藤
◎壷
の築造と考えられる。
A
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3
1∼7・0−1噴、
第9図 第1号墳出土鉄・銅製品・土器
一21一一
8:0L_____』讐、
第2号墳
位置・状態
第1区J∼M−26∼29グリッドに位置する。1・3号墳のほぼ中間にあり、北東方向にある1号墳と
は約20m、南西方向にある3号墳とは約13mの距離にある。
本四もほぼ全形が検出されたが、周堀北西部と南東部は調査区外にある。周回北側及び西側から南西
部にかけては、籠原裏遺跡の時期不明のピット群に所々を切られている。
墳丘・外部施設(第10・11図)
墳丘は現地表面下0.4mで確認された。墳頂部は既に削平されていたが、墳丘は1m前後の高さで下段
のみ検出された。葺石は墳丘の周りから検出されたが、そのほとんどが崩落していた。原位置を保つ葺
石は墳丘北側及び東側、東西の前庭部付近でのみ若干検出され、礫の長軸を辺に交差させる形で直線的
に配置されていた。残存する葺石から墳丘を復元すると本墳は多角形状を呈しているが、1号墳のよう
に規則性がみられないことから円墳の範疇に入るものと思われる。2号墳についても詳細は第V章で詳
しく述べることとする。
墳丘の規模は径8m前後を測る。墳丘盛土は主に主体部付近に褐色土、その周囲に黒褐色土や暗褐色
土、黄褐色土などを積み重ねて構築されていた。ローム粒を含む層が多く、その他にも焼土、炭化物、
黒色粒などの混入物を含む層がみられた。盛土は全体的にしまりがあまり良くない。
葺石には河原石が使用され、大きさは長軸25cm、短軸15cm、厚さ10cm前後のものが多くみられた。
早堀は現地表面下1.4m程で検出された。北西部と南東部は調査区外にある。主体部の前後が陸橋に
なっており、主体階前の陸橋は9m程と幅広い。周堀の幅は3m前後を測るが、中段が最も膨らみ、陸
橋付近は1.5m程と狭くなる。深さは0.7∼1m程である。周堀内は凹凸が顕著であり、外側の立ち上が
りが不明瞭な部分もみられた。本墳も埴輪は検出されなかった。
主体部
主体部は損傷が著しく、玄室の根石や敷石が僅かに残るだけであった。また、前庭部から陸橋付近に
は、主体部に使用されたと思われる河原石や緑泥片岩が散っていた。規模など詳細は不明であるが、本
墳の主体部も1号墳と同じく河原石による胴張り型の横穴式石室であったと思われる。また、本墳の石
室も掘り方はみられなかった。
出土遺物
出土遺物は籠原裏遺跡から流れ込んだ他の時代のものであり、本四に伴う遺物は検出されなかった。
小 結
本管は本報告が出るまで1号墳とともに八角墳とされてきたが、残存する葺石はごく一部であり、1
号墳のように規則性はみられない。また、周堀や等高線からみても八角墳とするにはやや説得力が乏し
い。よって、本門は多角形状を呈してはいるが、円墳の範疇でとらえておくこととする。墳丘の規模は
径8m前後を測る。残存する葺石は直線的な配列となっていた。周堀は全周せず、主体部の前後が陸橋
となる。特に主体部前の陸橋は幅が広い。主体部は損傷が激しいが、河原石による胴張り型の横穴式石
室であったと思われる。掘り方はみられない。本墳に伴う遺物は出土しなかったが、埴輪を持たないこ
と、主体部の構造などから7世紀以降の築造と思われる。
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第3号墳
位置・状態
第1区0∼R−23∼26グリッドに位置し、現在確認されている本古墳群のほぼ中心にある。
本墳は主体部を含む大半が検出されたが、墳丘東側や周堀の東西が調査区外にある。周堀北側は大部
分を籠原裏遺跡の平安時代の1号住居跡に切られ、他にも所々を時期不明のピット群に切られている。
なお、籠原裏遺跡の報告(熊谷市教委2004)では、南西部にある土坑状の周堀を平安時代の土坑(4号
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第12図 第3号墳
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第3号墳
土層説明(AA’)
玉淡黄色土:火出灰少量盆む。
2褐灰色土:暗褐色土、獄一ムブロック少量含む。
3黒褐色土:ロームブロック少量含む。
4褐灰色土:暗褐色土、惚一ムブロック多量含む。
5黒色=ヒニロームブロック少量含む。
6黒褐色土:ロームブロック少量含む。
7褐灰色土:白色粒、ロ∼ムブロック多量含む。
8黒褐色土:ロームブロック多量含む。
第13図
9黒褐色土18層より明るい。
10黒色土1ロームブロック少量含む。
11暗褐色土:ロームブロック少量含む。
12黒褐色土:暗褐色土、褐色土を斑状に含む。
圭3黒色土:冷酷ムブ雛ック少量含む。
嫉褐灰色土
15褐灰色土:ローム粒少巌含む。
0 2m
第3号墳土層断面図
土坑)として報告したが、本墳に伴う周堀であったことが判明したため、ここで訂正する。
墳丘・外部施設(第12・13図)
本墳は径9.7m程の円墳である。墳丘は現地表面下0。4m程で確認された。墳頂部は既に削平されてい
たが、墳丘は約0.8mの高さで下段のみ検出された。墳丘盛土は、主体部の構築にあわせて主にロームブ
ロックを含む黒色系の土を積み重ねて構築されていた。盛土は全体的にしまりがあまり良くない。
葺石はハの字に開く前庭部でのみ確認された。前庭部以外では崩落したものも含めて全く検出されな
かったため、葺石が墳丘全体を覆っていたかは不明である。主に長軸40cm、短軸20cm、厚さ25cm前後を
測るやや大型の河原石が使用されており、本誌の主体部に使用されたものよりも大きいものであった。
葺石は礫の長軸を辺に交差させる形で配置されていた。
四型は現地表面下L3m程で検出された。北西部と南東部は調査区外にある。所々で途切れており、全
一27一
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第14図 第3号墳石室
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第15図
第3号墳出土鉄製品・土器
第5表第3号墳出土鉄製品観察表
番号
出土位置
門 種
1
羨道部
鉄 鎌
法量・重量・残存状態・備考
最大長(31)cm、最大幅(045)cm、最大厚(04)cm。重量(17)g。箆田部のみ。
第6表 第3号墳出土土器観察表
番号
出土位置
2
前庭部
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色 調
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残存率
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一28一
備 考
内薦放射状暗文有。
周しない。主体部前は東側が調査区外にあるが、やや幅広の陸橋になると思われる。周堀の幅は2。6∼4.
2mと一定しない。深さは最深部で0。8m程を測る。周堀内は凹凸が顕著であり、外側の立ち上がりは不
明瞭な部分がみられた。本墳も埴輪は検出されなかった。
主体部(第14図)
主体部は河原石を使用した胴張り型の横穴式石室である。残存状態が悪く、玄室奥壁付近や西側壁の
上部、羨道部東側壁、玄室・羨道部の礫床面など大半を欠く。天井部は既に崩落していた。石室の主軸
はN−1.一Eを示し、ほぼ南に開口する。石室の正確な規模は不明であるが、全長3.7m程、玄室の長さ
は2.4m程、幅はほぼ中央の最大幅がL3mとなる。羨道部は長さ1.3m程、幅は羨門部で0.65mとなり、
羨道部と玄室の比率は、ほぼ1:2の割合になる。平面形態は玄室が馬蹄形を呈し、ほぼ中央で最大幅
となる。羨道部は残存する西側壁では、ほぼ直線的であった。奥壁及び側壁は河原石による小口積みで
あり、残りの良い玄室東側壁では約1.1m、羨門部西側壁では約!mの高さまで残存していた。根石には
径20cm前後、厚さ5cm程の円形ないし楕円形の扁平な河原石が一・二段据えられており、根石の上には
主に長軸35cm、短軸20cm、厚さ!0cm前後のものが積み重ねられていた。ただし、玄門部及び羨門部には
さらに大きい河原石が根石段階から配置されていた。梱石は羨門部でのみ確認された。長軸30cm、短軸
20cm、厚さ20cm程の河原石が長軸を南北に向けて据えられていた。閉塞施設は、羨門部に二三とほぼ同
じ大きさの石を向きも長軸を南北にあわせて積み上げられており、その間に拳大の河原石や小砂利が充
墳されていた。なお、本墳の石室は掘り三内に構築されていた。掘り方は長軸4.2m、短軸2.58mの長方
形を呈し、墳丘構築面からの深さは0.16mを測る。
出土遺物
本墳に伴う遺物は、鉄製品(第15図1)、土器(2)のみである。鉄製品は1以外にもほぼ完形の鉄鍍
が前庭部から数本出土したが、発掘調査時に盗難にあったため、図示不可能であった。
鉄製品(第15図1)
1は有茎鎌の箆被部片。大半を欠くため、形態などは不明である。石室羨道部から出土した。
土器(第15図2)
2は土師器圷。口径は推定で13cmを測る。口縁部はやや外に開く。浅身で丸底である。口縁部には横
ナデ、体部外面には横位のヘラ削り、内面には放射状暗文が施されている。前庭部から検出された。
小 結
本墳は径9.7m程の円墳である。主体部は河原石による胴張り型の横穴式石室であり、掘り方内に構築
されていた。葺石は全体を覆っていたか不明である。周回は所々で途切れる。前庭部出土の土師器は7
世紀末∼8世紀初頭頃に位置づけられるものであり、埋葬後の儀礼に伴う可能性も考えられる。よって、
本墳は同段階ないしそれ以前に築造されたと思われる。
第4号墳
位置・状態
第4区F∼H−18∼20グリッドに位置する。南西方向にある5号墳とは、約6mと近い。
本墳は主体部を含む大半が検出されたが、周堀北西端や墳丘・周回の東側、主体部南側が調査区外に
一29一
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第4号墳
土層説明(AA’BB’CC’)
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2暗褐色土:ローム粒・ブロック多量含む。
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4暗黄褐色土:ロームブロック多量含む。
5黒褐色土:ロームブロック多量含む。
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7暗褐色土:ローム粒少量含む。
8黒褐色土:ローム粒少量含む。
9暗褐色土:ローム粒多量含む。
10暗褐色土:ローム粒、砂少量含む.
ll黒褐色土:ローム粒、暗褐色 ヒブロック少量含む。
12暗褐色土
13黒褐色土:ローム粒・ブロック多量含む。
M暗褐色上:ローム粒多量、ロームブロック少量含む。
15暗黄褐色土:ローム粒・ブロック多量含む。
16暗黄褐色ニヒ:ローム粒・ブロック多量含む。
し7黒褐色土:ローム粒多量含む。
t8黒褐色土1ローム粒・ブロック少量含む。
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第16図 第4号墳
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ある。周堀北西部や主体部西側では、籠原裏遺跡の中・近世の1号井戸跡や!号溝跡に切られ、周堀西
側及び墳丘北西部の上部では、直接的な切り合い関係はみられなかったが、中・近世の土坑(6∼9号
土坑)が本丁埋没後に構築されていた。なお、墳丘北東部は撹乱により削平されていた。
墳丘・外部施設(第16図)
本墳は径7.5m程の小円墳である。墳丘は現地表面下0.6m程で確認された。墳頂部は既に削平されて
いたが、墳丘は約0.7mの高さで下段のみ検出された。墳丘盛土は、旧地表面に暗褐色土を盛った後、主
体部の構築にあわせて暗褐色土や黒褐色土、黄褐色土を積み重ねていた。ほとんどの層にローム粒やロー
ムブロックを含んでいた。他の古墳同様、盛土は全体的にしまりがあまり良くない。
葺石は墳丘北西部で検出されたが、原位置を保っていない。また、前庭部でも検出されたが、残りが
悪く、大半が調査区外にある。葺石は河原石であり、大きさは拳大から人頭大のものまでみられた。
周堀は現地表面下1.3m程で検出された。北西部と南東部は調査区外にある。周堀の幅は2m前後、深
さは最深部で0.74mを測り、野台形状を呈する。また、北東部では幅が急激に狭くなる箇所もみられた。
幅は1.04mを測る。主体部前は東側が調査区外にあるが、幅広の陸橋になると思われる。本墳も埴輪は
墳丘及び門門からも検出されなかった。
主体部(第17図〉
主体部は河原石を使用した胴張り型の横穴式石室である。天井部は既に崩落し、玄室東西の側壁や羨
道部東側壁の上部を一部欠くが、比較的残存状態が良好であった。石室の主軸はN−11.一Wを示し、南
側に開口する。石室の規模は羨門部の梱石を欠くためはっきりしないが、全長3.3m程である。玄室の長
さは2.3m、幅は野冊が0.6m、ほぼ中央の最大幅が1.1m、玄門部が0.6mを測る。羨道部は長さが1m
程、幅は0。6m前後である。羨道部と玄室の比率は、ほぼ!:2の割合になる。平面形態は玄室が馬蹄形
を呈するが、胴の張りが弱い。羨道部はほぼ直線的であった。本墳の絶壁は他の古墳と異なり、縦長の
緑泥片岩一枚で構築されていた。大きさは長軸0.6m、短軸0.35m、厚さ7cm程である。側壁は河原石に
よる小小積みであり、残りの良い羨道部西側壁では約0.5m、玄室西側壁では約0.7mの高さまで残存し
ていた。根石には径10cm前後、厚さ5cm程の円形ないし楕円形の扁平な河原石が使用されており、奥壁
では一段、側壁では二・三段据えられていた。根石の上には主に長軸30騰、短軸15c灘、厚さ8c凱前後の
石が積まれていたが、玄門部及び羨門部にはさらに大きい河原石が根石段階から配置されていた。梱石
は、玄門部床面には側壁に使用されたものより一回り小さい河原石が据えられていたが、羨門部では検
出されなかった。玄室及び羨道部の床面には主に拳大の河原石が敷かれていたが、羨道部では羨門部の
三石を欠くため、礫が前庭部に散っていた。また、閉塞施設も前庭部付近を削平された影響からか明確
には認められなかった。本四の石室に掘り方はみられなかった。
出土遺物
出土遺物は籠原裏遺跡から流れ込んだ他の時代のものであり、弓弩に伴う遺物は検出されなかった。
小 結
本四は径7.5m程の小円:墳である。主体部は河原石による胴張り型の横穴式石室であるが、胴の張りが
弱い。また本古墳野中、唯一奥壁に緑泥片岩を使用していた。周堀は全周するが、主体部前の陸橋は幅
広い。出土遺物がないが、埴輪がないことと主体部の構造からみて7世紀後半以降の築造と思われる。
一32一一
第5号墳
位置・状態
第4区1∼K−17・18グリッドに位置する。北東方向にある4号墳とは約6mの距離にある。墳丘や
主体部を含む大半が調査区外にあり、検出できたのは周堀西側のみである。
墳丘・外部施設(第18図)
墳丘は検出できなかったが、円形に回る周堀の状況から径約7.5mの小円墳と推定される。
周堀は現地表面下1.2∼1.3mで検出された。周堀の幅は2m前後を測り、深さは最深部で0.3mと浅い。
周堀底面はやや凹凸がみられた。葺石及び埴輪は検出されなかった。
出土遺物
土器(第18図1)
1は土師器甕の底部。円柱状を呈する。胴部はやや膨らむ。周堀南西部から出土した。
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土層説明(AA’)
1灰褐色土:火山灰少量含む。
2淡黄色土:火山灰少量含む。
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ブロック多量含む。
7黒褐色土:黄褐色粒多量含む。
8黒色土:黄褐色粒少量含む。
9暗褐色土:黄褐色土微量含む。
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11暗褐色土:黄褐色土少量含む。
12黄褐色土二暗褐色土多量含む。
第18図 第5号墳・石室・出土土器
第7表 第5号墳出土土器観察表
番号
出土位置
器
1
周 堀
土師器
種
口径
甕
器高
(5.3〉
底径
胎土
色 調
焼成
残存率
8.8
ABEGHN
赤褐色
B
底部90%
一33一
備
考
小 結
本墳は周堀の状況から径7.5m程の小円墳と推定される。詳細については不明であるが、埴輪を持たな
いことから7世紀以降の築造と思われる。
第6号墳
位置・状態
第4区0・P−10∼12グリッドに位置する。北東方向にある5号墳とは約36m、東側にある3号墳と
は約52mの距離にある。5号墳同様、主体部を含む大半が調査区外にあり、検出されたのは周堀北側の
みである。なお、本墳のすぐ東側には籠原裏遺跡の16号土坑があり、坑内底面から本古墳群と同時期の
須恵器長頸瓶の頸部片が出土している。本墳と関連のある遺構と思われるが、詳細は不明である。
墳丘・外部施設(第19図)
墳丘は検出できなかったが、円形に回る周堀の状況から径約7mの小円墳と推定される。
周堀は現地表面下0.7∼1mで検出された。周堀の幅は1∼2.1m、深さは0.3∼0.4mを測る。周堀北
東部及び北西部では、ピット状の掘り込みがみられた。前者は長軸1.7m、短軸0.8m、底面からの深さ
は0.45m、後者は長軸0。52m、短軸0.3m、底面からの深さは0.20mを測る。調査区壁の土層断面では、
崩落した葺石と思われる礫が多数確認された。埴輪は検出されなかった。
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第6号墳
土層説明(AA’)
1灰褐色土:火山灰少量含む.
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ヒ:火山灰少量含む。
3黄褐色土
4褐色土:白色粒、ローム粒少量含む。
5暗褐色土:ローム粒多量含む、
6灰褐色土
7暗褐色土:礫、ローム粒少量含む。
8褐色土:粘上質。ローム粒少量含む。
9暗褐色土:ローム粒少量含む。
10褐色上:ローム粒微量含む。
11暗褐色土1礫多量、ローム粒少量含む.7層よ
り暗い。
12黄褐色土:3層より暗い。
13暗褐色土:ローム粒多量含む。U層より明るい。
14褐色土:黒色粒微量含む。
15黄褐色土
16黄色土1白色粒微量、黒色土斑状に含む。
睡650
旦
17暗褐色土:13層より暗い。
L8暗褐色土:砂質。ローム粒微量含む.
19褐色土:黒色粒微量含む。14層より明るい。
20暗褐色土:砂質。ローム粒少量含む。18層より
暗い。
21黄褐色土
22灰褐色土:白色粒微量含む。
23褐色土:ローム粒少量含む。4層より明るい.
第19図 第6号墳
一34
0 2m
ヒ==============≡ヨ1:80
出土遺物
本墳からは流れ込みの遺物も含めて何も検出されなかった。
小 結
本墳は周堀の状況から径7m程の小円墳と推定される。詳細については不明であり、出土遺物もない
が、埴輪を持たないことから7世紀以降の築造と思われる。
第7号墳
位置・状態
第5区Y・Z−7・8グリッドに位置する。南西方向にある8号墳とは約12mの距離にある。
検出されたのは、主体部羨道部付近、前庭部付近、周堀南東部であり、大半が調査区外にある。また、
前庭部付近及び周堀南東部は、籠原裏遺跡の中・近世の土坑群(31∼36号土坑)に著しく切られており、
主体部も上部の大半が破壊されていたことから、残存状態が非常に悪い。
墳丘・外部施設(第20図)
墳丘は大半が調査区外にある。また、検出された南東部も葺石の残る前庭部東側付近以外は削平され
ていた。正確な規模は不明であるが、主体部の位置や周堀の状況から径8m程の小円墳と推定される。
葺石はハの字に開く前庭部でのみ検出された。西側は調査区境で、東側は若干残存する墳丘とともに
検出されたが、後者については原位置を保っているものは少なく、ほとんど崩れた状態であった。葺石
が墳丘全体を覆っていたかは不明である。葺石には河原石が使用されており、長軸20cm、短軸10cm、厚
さ10cm前後のものが多くみられた。主体部の側壁に使用されたものより小さい。
周堀は現地表面下0.8m程で検出された。籠原裏遺跡の中・近世の土坑群に切られていたため、原形
をとどめていないが、主体部前は陸橋になると思われる。周堀の幅は0.55∼1.7mと一定でなく、深さは
最深部で0.25mと浅い。断面形は逆台形ないし舟底状を呈する。本墳も埴輪は検出されていない。
主体部(第20図)
検出されたのは羨道部付近のみであり、大半が調査区外にある。天井部は既に崩落しており、検出さ
れた東側壁も上部大半を欠く。その構造から河原石を使用した胴張り型の横穴式石室である。石室の主
軸はN−10.一Eを示すと思われ、南側に開ロする。羨道部の長さは1m程、羨門部の幅は0.5mを測る。
その他の規模は不明である。側壁は河原石による小口積みであり、残りの良い羨門部で約0.6mの高さま
で残存していた。根石は径20c鵬前後、厚さ5c墾程の円形ないし楕円形の扁平な河原石が玄門部付近では
一・二段、羨道部では三段据えられていた。根石の上には主に長軸20cm、短軸15cm、厚さ7cm前後のも
のが積まれていたが、玄門部及び羨門部にはさらに大きい河原石が配置されていた。梱石は明確でなく、
羨道部床面では長軸30cm、短軸20cm、厚さ15cm程の河原石が不規則な状態で検出された。本来は後述す
る8号墳のように長軸を南北に向けて据えられていたと思われるが、破壊されたことで崩れてしまった
可能性が高い。また、閉塞施設についても明確には認められなかった。なお、僅かに検出された玄室床
面では拳大の河原石が敷かれていたのが確認された。本墳の石室に掘り方はみられない。
出土遺物
出土遺物は、土器(第20図1・2)2点のみである。7世紀末∼8世紀初頭頃のものと思われる。と
一35一一
霧
︽
・・乙
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外
1 34号土坑
尋
睡
31号土坑
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調
31号土坑
籠原裏遺跡
35号土坑
査
32号土坑
第7号墳
区
土層説明(AA’>
1灰褐色土:火山灰少鍛奮む。
2暗褐色土:礫、ローム粒少量含む。
3暗褐色土:ローム粒少量奮む。
4暗褐色±:ローム粒少簸含む。しまり強。
5黒褐色土:ローム粒少簸愈む。
6暗褐色±ゴローム粒・ブ魏ック少量含む。
36号土坑
外
◎
33号土坑
0 2m
1:80
﹀ω刈.ωo
ω刈.ωO
8
懸
1〕≧
○一丁、4。
B37.30
B
1
重璽≒r∼
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0』____聖、
第2◎図 第7号墳・石室・出土土器
一36一
第8表 第7号墳出土土器観察表
備 考
番号
出土位置
器 種
口径
器高
底径
胎土
色 調
焼成
残存率
1
縄 堀
痩恵器 蓋
(14.2>
2.6
一
ABCH:JM
灰黄色
C
s◎%
産地不明。
2
前庭部
須恵器 壺
ABH
灰色
A
40%
産地不明。肩部刺突有。外面自然粕付着。
一
(2.8)
一
もに石室外からの検出であり、石室内からは何も検出されなかった。
土器(第20図1・2)
1・2は須恵器。ともに産地は不明である。1は蓋。つまみと内面にかえりを持つ。焼成が悪く、内
外面ともに灰黄色を呈する。周堀から検出された。2は壼の肩部片。肩部には6条1単位の刺突列が施
されている。また、外面には自然粕が付着している。前庭部から検出された。
小 結
本墳は主体部の位置や周堀の状況から径約8mの小円:墳と推定される。主体部は河原石による胴張り
型の横穴式石室である。掘り方はみられない。葺石は全体を覆っていたか不明である。周堀は他の小円
墳同様、全周すると思われる。出土した須恵器はともに石室外での検出であり、埋葬後の儀礼に伴う可
能性も考えられる。よって、本墳は7世紀末∼8世紀初頭頃ないしそれ以前に築造されたと思われる。
第8号墳
位置・状態
第5区AB∼AH−3∼6グリッドに位置する。本古墳群のうち南西端にあり、北東方向にある7号墳
とは約12m、東側にある10号墳とは約50mの距離にある。
本丁は主体部を含む墳丘西側大半及び周堀の北東部と南西部の一部が検出された。墳丘東側及び即興
の大半は調査区外にある。他の遺構との重複関係はみられない。
墳丘・外部施設(第21・22図)
本墳は径約13mの円墳である。現在確認されている古墳群中、最も大きい古墳である。墳丘は現地表
面下0、2∼0.3m程で確認された。墳頂部は既に削平されていたが、墳丘は約0.5mの高さで下段のみ検出
された。墳丘盛土は主に下から順に褐色土、黒褐色土、暗褐色土が積まれており、掘り方を有する主体
部の周囲にも墳丘の構築にあわせて黄褐色土や黒色土などが裏込め土として積み重ねられていた。盛土
は、ほとんどの層にローム粒やロームブロックを含んでおり、他の古墳と同じく全体的にしまりがあま
り良くない。また、墳丘北東部の調査区壁の土層断面では、土坑状の掘り込み(30層〉が確認されたが、
これは墳丘が崩れるのを防ぐためのいわゆる「掘りこみ遺構」の可能性がある。
葺石は墳丘西側及び北側の調査区境や前庭部付近から検出された。墳丘西側及び北側の葺石は、ほと
んど崩落しており、原位置を保っていない。ハの字状に開く前庭部付近の葺石は残りが良く、礫の長軸
を辺に交差させる形で積み重ねられていた。また、前庭部西側では墳丘上段の葺石もやや崩れた状態で
はあったが、若干検出された。上段の葺石は、下段の葺石から約1m離れた箇所をハの字に併走してい
た。検出された長さは!.6m程である。主体部羨道部でも玄門部に近い所につながると思われる。葺石は
すべて河原石であり、主に長軸25cm、短軸15cm、厚さ10cm前後を測るものが多くみられた。
周堀は現地表面下0。8∼1.2mで検出された。検出できたのは北東部と南西部の一部分だけであり、大
半が調査区外にある。周堀は全周せず、所々で途切れていた。主体部前は調査区外にあるが、南東部が
一37一
一、
コだ
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38
1=1。9
第21図 第8号墳
50
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15
笏
0 2m
一」1:80
第8号墳
土層説明(AA’13B’CC’DD’)
1灰褐色土:火由灰少量含む。
2灰褐色土:火山灰少量含む。しまり無。
3暗褐色土:火山灰、ローム粒少量含む。
4淡黄色土::シルト質。
5淡黄色土:粘土質。
6黒褐色圭:淡黄色粒・ブロック少量含む。
7灰褐色土:酸化鉄少量含む。粘土質。
8暗褐色土:黒色土少量含む。しまり無。
9黒褐色土:ローム粒・ブロック少量含む。
10砂 層
蕪灰褐色土;酸化鉄少量含む。
12黒褐色土1淡黄色粒多量含む。
13黒褐色土
14黒色土:ローム粒少量含む。
15黒褐色土:ローム粒・ブロック少量含む。
絡暗褐色土:隷一ム粒・ブロック少量含む。
17褐色土:黒色土少量含む。
18黒色土:焼土少量含む。
19暗褐色土:ローム粒・ブロック多量含む。
20暗褐色土:ローム粒少量含む。しまり無。
2更灰二色土:砂、礫多量含む。
22黄褐&土1淡黄色粒・ブロック少量含む。
23黄褐魚土:淡黄色粒多量含む。
24暗褐色土:淡黄色粒多量含む。
25黒褐色土:淡黄色粒・ブロック少量禽む。
26黄褐色土:ローム粒・ブロック少最禽む。
2?暗褐蝕土;ロームブロック少量含む,、
28暗褐色土1ローム粒少最含む。
29黄褐色土:ローム粒・ブロック多昆禽む。
30暗褐魚土:ローム粒少量含む。
31褐色土:ロームブロック多量含む,,
32暗褐魚±:黒色粒・ブロック、ローム粒
・ブロック少量含む。
33褐色土:黒色粒、ローム粒少量含む。
34黒褐色土1淡黄色粒少量含む。
35黒褐色土:ローム粒少貴含む。
篠2暗褐色土
43黒褐色土:褐色粒・ブロック少量含む。
44黄褐色土:黒色土少量含む.
45黒色土:ロームブロック少量含む。
46暗褐色土:ローム粒少量含む。
解黄褐色土:黒色土、ローム続・ブロック
少量含む。
48黒褐色土:ローム粒・ブロック少量含む。
49黄褐色土:ローム粒・ブロック少量含む。
50暗褐色土:黒色土、ローム粒少量含む。
51黄褐色土;黒色土、ローム粒・ブロック
少量含む。
52暗褐色士::黒色土、ローム粒少量含む。
53褐色土:ローム粒少量含む。
54黒色土
誌褐 色 ±二:炭化物、灘一ム粒少量含む。
酪暗褐色土:魏一ム粒:少量含む。
37褐色土:ローム粒少憩含む。
38褐色土:ローム粒・ブロック黙黙澱む。
39褐色土:ロームブロック多量含む。
56黒色土:褐色土、ロームブロック多:量
含む。
57灰褐色土:黒色土、ローム粒少量含む。
40黒古儀土:下部に褐色土少量含む。
41黄褐色土1ローム粒・ブロック多量含む。
58褐色土:ロームブロック多量含む。
第22図 第8号墳土層断面図
一39一
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調査区外
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第23図 第8号墳石室
1
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麗笏
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9測
灘鑛
k
土坑状を呈していたことから、やや幅広の陸橋になると思われる。三二の幅は2.5∼4。3mと一定せず、
深さは最深部で0.8mを測る。各誌堀からは焼土が検出され、南東部の土坑状を呈する周堀からは、土師
器圷(16)が底面に据えられた状態で検出された。本墳も埴輪は検出されていない。
主体部(第23図)
主体部は河原石を使用した胴張り型の横穴式石室である。天井部は既に崩落し、玄室奥壁から羨道部
東側壁にかけて上部大半を欠くが、残存状態は比較的良好であった。石室の主軸はN−1.一Wを示し、
ほぼ南に開口する。石室の規模は全長4.4m、玄室の長さは3m、幅は奥壁が0.5m、ほぼ中央の最大幅
が1.7m、玄門部が0.9mを測る。羨道部は長さがし4m、幅は0.7m程である。羨道部と玄室の比率は、
ほぼ1:2の割合になる。平面形態は玄室が馬蹄形を呈し、ほぼ中央が最大幅となる。羨道部はほぼ直
線的であり、前面にはハの字に開く前庭部が広がる。なお、前庭部でも羨門部に近い所から焼土がまと
まって検出された。奥壁及び側壁は河原石による小口積みであり、残りの良い西側壁は約0.8mの高さま
で残存していた。根石には径10cm前後、厚さ5cm程の円形ないし楕円形の扁平な河原石が使用されてお
り、一・二段据えられていた。根石の上には主に長軸35cm、短軸15cm、厚さ10cm前後の石が積まれてい
たが、羨門部にはさらに大きい河原石が根石段階から配置されていた。梱石は羨門部と玄門部で大きさ
が異なる。羨門部では長軸40cm、短軸20cm、厚さ15cm程であったが、玄門部ではそれらより一回り小さ
南北に向けて敷かれており、玄 ◎4 ⑰
門部の三石との区別が明確で頓 駄、 ? 為
、
近の床面東側には側壁に使用さ
れたものとほぼ伺じ大きさの石
が敷かれていた。閉塞施設は、
羨道部に梱石とほぼ同じ大きさ
の河原石が向きも三石にあわせ
し
て積み上げられており、その間
鋤蘭
に二大の河原石や小砂利が二三ご_
9
h藍紙⑪ 蛤,
2
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原石が敷かれていたが、奥壁付
卿ωQ
い。玄室床面には主に二大の河
ヒ
されていた。 i
12
石室は掘り三内に構築されて}{皿
7.5m程を測り、長方形を呈する
と思われる・墳丘構築面からのO一__』1㌦ 骨片集中範囲=1璽コ 0一即、6。
深さは0.35mを測る。 第24図 第8号墳石室 鉄製品・骨片出土状況
一41一
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1∼13・。L_____塁1里、14∼16・OL___、_蝉4
第25図 第8号墳出土鉄製品・土器
出土遺物
出土遺物は、鉄製品(第25図1∼13)、土器(14∼16)がある。鉄鍬をはじめとする鉄製晶は、石室玄
室から、土器は石室外から検出された。玄室ほぼ中央では人骨片も僅かではあるが検出された。
一42一
第9表 第8号墳出土鉄製品観察表
法 量 ・ 重 量 ・ 残 存 状 態 ・ 備 考
番号
身上位置
器 種
1
玄 室
鉄 鎌
最大長(14.3)cm、最大幅0.6cm、最大厚0.5cm。重:量(13.3)g。弓形。鍛二部錆化顕著。
2
玄 室
鉄 鍍
最大長(10.75)cm、最大幅0.8cm、最大厚0.4cm。重量9.6g。茎部欠。
3
玄 蜜
鉄 鍼
最大長(5.9)cm、最大幅(].5)cn1、最大厚歯身幅0.3cm、掃込部0.4cm。重量(7.9)g。混晶∼箆被上部のみ。
4
玄 蜜
鉄 鎌
最大長(3.8)cm、最大幅(0.85)cm、最大厚0.5cm。重量(3.1)g。三身∼箆被上部のみ。
5
前庭部
鉄 鎌
最大長(5.65)cm、最大幅(0.7)c㎜、最大厚0.6cm。重量(3.5)g。箆被部のみ。
6
玄 室
鉄 錺i
最大長(3.0)cm、最大幅(0.5)cm、最大厚0。5cm。重量(2.0)g。箆被部のみ。
7
前庭部
鉄 鎌
最大長(3.4)cm、最大幅(0.55)cm、最大厚0.5cm。重量(3.3)g。箆被部のみ。
8
玄 室
鉄 錺i
最大長(3.7)cm、最大幅(0.5)cm、最大厚(0.5)cm。重量(3.9)g。箆被部のみ。
9
玄 室
鉄 鎌
!0
玄 室
鉄 鎌
最大長(2,6)cm、最大径0.45コ組。卸量(0.8)g。茎部のみ。
A:最大長(4.8)cm、最大幅(0.8)cm、簸大厚0.5cm。箆被部のみ。 B:最大長(4.6)cm、最大幅(0.7)cm、最大厚
i0.6)cm。箆被下∼茎上部のみ。 C:簸大長(3.35)cm、最大径(0.5)cm。茎部のみ。重量A一トB+C・(11.4)g。
11
玄 蜜
刀 子
最大長(7.2>c銭1、最大福(1.2)c懲、二大摩0.5c羅。重量(10。0)g。茎二三。
圭2
玄 室
刀 子
最大長(3.3)c醗、最大編(0.95)c搬、簸大摩0.3c狙。重量(2。7)g。切先のみ。
13
玄 室
不届鉄製晶
最大長(3。1)c通、最大幅1.35c搬、簸大玉0.55c難。重量(2.9>g。大半欠。環状。
第10表 第8号墳出土土器観察表
器高
底径
番号
出土位置
器 種
口径
14
墳 丘
須恵器長頸瓶
!5
前庭部
須恵器 甕
一
一
一
16
周 堀
土師器 圷
10.4
3.4
一
(3.7)
『
備 考
胎土
色 調
焼成
残存率
ABL
ABL
ABHIMJK
灰色
末野産。
灰色
A
A
頸部25%
胴部片
末野産。
榿色
B
完形
鉄製品(第25図1∼13)
1∼!0は鉄鎌。5・7は前庭部、それ以外は石室玄門部に近い西側礫床面から検出された(第24図)。
鍛身部の形態は様々であるが、頸部との境に関は無く、関箆被ないし棘箆被を持つ有茎鐡である。1は
唯一の完形品であるが、鎌三部の錆化が顕著であり、形状は不明である。茎部には弦が残存する。2は
端刃造片刃閉式。茎端部のみ欠く。3・4は三身部のみの検出である。3は両丸造腸挟柳葉式。4は片丸
二二丁丁。5∼8は箆凸部片。3・4とは接合関係になかったが、同一個体になる可能性がある。9は
箆三部及び茎部が3本合わさって検出された。Bの茎部には弦が残存する。10は茎部先端のみである。
1!・12は刀子。11は切先から中段まで、12は切先のみ検出された。13は不明鉄製品。環状を呈する。
土器(第25図14∼16)
14・15は須恵器。ともに末野産。14は長頸回の頸部片。墳丘から出土した。15は甕の胴部片。外面に
は叩き目、内面には微かに青海波文がみられた。前庭部から出土した。16は土師器圷。北武蔵型圷。完
形品。口縁部が僅かに内傾する。丸底。周年南東部底面から出土した。
小 結 ’
本藍は要約13mを測る。規模は本古墳丁丁、最大である。墳丁丁東部ではいわゆる「掘り込み遺構」
がみられた。主体部は河原石による胴張り型の横穴式石室であり、掘り室内に構築されていた。葺石は
墳丘全体を覆っていたと思われる。前庭部では上段の葺石も若干検出された。周堀は全周せず、所々で
途切れる。出土遺物や主体部の構造などから7世紀後半∼8世紀初頭頃の築造と思われる。
第9号墳
位置・状態
第6区O∼Q−40∼43グリッドに位置する。2号墳の東約60mにあり、本古墳群の東端に位置する。
検出できたのは周堀の北西部と東側のみである。墳丘は表土掘削時に削平してしまったために検出で
きなかったが、調査区壁での土層断面観察の結果、残存していたことが判明した。なお、周堀北西部は
一43一
査
調
外
区
︵こ︶
影轡
︵し一
P108
C
Rソ,
B
A
A’
査
調
外
区
0 2m
1:100
24 25
1
3
A36.oo
3
2
13
16
15
1
20
4
6
霊4
14
砧 18。
21 1g 臼 22
層5
14
17
5
7
笏
旦
836,00
C36.oo
α
第9号墳
土層説明(AA’)
1灰褐色土:火山灰少量含む。
2灰褐色土:火山灰、淡黄色ブロック少量含む。
3淡黄色±:
4暗褐色土1焼士、炭化物多量含む。
5褐色土:ローム粒少量含む。
6暗褐色土:ローム粒微量含む、
7黒褐色土:ローム粒少量含む。
8暗褐色土:ロームブロック多量含む。
9暗褐色土:ローム粒少量含む。
10暗褐色土:ローム粒・ブロック少量含む。
11暗褐色土:淡黄色ブロック含む。
12暗褐色土
13褐色土
14褐色土:火山灰、淡黄色粒少量含む。
15暗褐色土1ロームブロック少量含む。
16暗褐色土:ローム粒少量含む。
17黒褐色土:ローム粒微量含む。
18褐色土:淡黄色粒少量含む。
欝褐色土:火由仁、ローム粒:少量含む。
20暗褐色土:黒色粒、ローム粒:多量含む。
2主暗褐色土1ローム粒少量含む。
22褐色土1黒色粒、ロームブロック多量含む。
23褐色土:淡黄色粒:多量含む。
24暗褐色土
25暗褐色土:淡黄色ブロック少量含む。
26暗褐色土:ローム粒微量含む。
27暗褐色土:焼土微量含む。
0 2m
−1:80
第26図 第9号墳
籠原裏遺跡の平安時代の5号溝跡、:墳丘東側では時期不明のピット108に切られている。
墳丘・外部施設(第26図)
墳丘は現地表面下0.2∼0。3mに下段のみ残存していたことが確認された。墳頂部は既に削平されてい
たが、墳丘の高さは約◎.8mを測る。本墳は円形に回る周堀の状況から径約8mの小円墳と推定される。
一44一
墳丘盛土は、主に下から黒褐色土、暗褐色土、褐色土の順に積み重ねられており、ほとんどの層にロー
ム粒やロームブロックを含んでいた。盛土は全体的にしまりがあまり良くなかった。
葺石は崩落したものも含めて全く検出されなかったため、墳丘全体を覆っていたか不明である。
周堀は現地表面下1.3m程で検出された。北西部及び東側の一部のみ検出され、大半は調査区外にある。
周堀の幅はL8m前後を測り、深さは最深部で0.3mと浅い。底面にはやや凹凸がみられた。本墳も埴輪
は検出されなかった。
主体部
主体部も墳丘同様、削平してし豪つたために検出できなかったが、表土掘削段階や調査区壁の土層断
面で礫が全く検出されなかったことから、発掘調査以前に破壊されていた可能性が高い。規模など詳細
は不明であるが、調査牛舎の断面では床面に敷かれたと思われる河原石が若干検出された。本墳の主体
部も他の古墳と同じく河原石を使用した胴張り型の横穴式石室であったと思われる。また、断面では石
室構築箇所が墳丘構築面より若干窪んでいたのが確認された。平面的に掘り方として認められなかった
ことから、1号墳のように石室構築に際してやや低く整地したものと思われる。
出土遺物
三下に伴う遺物は検出されなかった。
小 結
本墳は墳丘を検出できなかったが、径約8mの小円墳と推定される。主体部も検出できなかったが、
他の古墳同様、河原石による胴張り型の横穴式石室であったと思われる。本墳に伴う遺物はないが、埴
輪がないことから7世紀以降の築造と思われる。
2 その他の時代の遺物
各古墳からは他時代の遺物が多数検出された。遺物は縄文時代前・中期、古墳時代前期、平安時代、
中・近世と幅広くみられ、これらはすべて同所に所在する籠原裏遺跡からの流れ込みである。遺跡の主
体となるのは平安時代の集落跡であることから、同時代の遺物が多く検出された。時期はすべて9世紀
後半∼10世紀初頭に限定される。なお、須恵器甕は破片での検出が多く、時代の判別が困難であったが、
その多くが平安時代の第二とともに出土したことや整形技法の特徴などから同時代のものと判断した。
第1号墳出土遺物(第27・28図)
本四からは縄文時代と平安時代の遺物が検出された。主に周堀からの検出が多い。
縄文時代(第27図1・2)
1・2は打製石斧。2・4号墳では縄文時代前期、下原裏遺跡では縄文時代前期から中期中葉にかけ
ての土器片が出土していることから、これらの石器も縄文時代前・中期いずれかのものと思われる。
平安時代(第27・28図3∼37)
須恵器(3∼26)は蓋、圷、高台付勢、高台付皿、鉢、甕がある。末野産がほとんどを占める。27は
灰粕陶器瓶類:の底部片。産地は不明である。底面中央に紬が付着している。土師器(28∼33)は杯、甕、
台付甕がある。甕の30・31は小型であり、台付の可能性がある。土錘は3点検出された。34が大型、35・
36は中型のものである。37は軽石。側面に孔が貫通しており、紐を通した孔と思われる。
一45一一
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第27図 第1号墳出土遺物(1)縄文・平安時代
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第28図 第1号墳出土遺物(2)
平安時代
第11表 第1号墳出土遺物(縄文・平安時代)観察花
番号
出土位置
器 種
1
周 堀
打製石斧
口径 器高 二二 胎土 色 調 焼成 残存率 備 考
最大長9.6cn1、最大幅5.5cm、最大厚2.2cm。重量120 g。中粒砂岩。俗形。
最大長10.9cm、最大幅6。7c磁、最大厚1,7cm。重:量140 g。粘板岩。完形。
石 室
打製石斧
周 堀
須恵器 蓋
周 堀
須恵器 杯
5
墳 丘
須恵器高台椀
14.7
6
周 堀
須恵器高台椀
15.3
7
周 堀
須恵器高台椀
(15.6)
8
周 堀
須恵器高台椀
9
周 堀
畦
2
3
(7.0)
ABDLN
6.o
A}{DLM
6.8
7.9
7./
8.2
5.8
(10.0)
(5.!)
7.2
須恵器高台椀
一 (2.4)
8.2
(16。6) 2.6
一 (2.2)
10
周 堀
須恵器高台椀
一 (2.0>
6.8
11
周 堀
須恵器高台椀
一 (3,9)
8.8
12
周 堀
須恵器高台椀
13
周 堀
14
15
灰黄褐色 B
にぶい黄鈍色
C
ABCDHLN
灰色
ABEL
黄灰色
ALN
ABHJLN
ADHLN
青灰色
A
A
A
A
黒褐色
50%
末野産。
80%
末野産。
20%
末野産。
60%
末野産。
高台部50%
末野産。
ADα{NL
灰色
ADGILMN
ABL
灰黄色
灰色
A
高台部25%
末野産。
灰色
B
60%
末野産。
BGHL
ABGNL
灰白色
A
灰色
B
頸部片
AB}{LN
灰色
頸部片
AFN
ACDFN
暗灰色
A
A
(2.7)
(7.8)
須恵器高台皿
2.9
7.6
贋「堀
須恵器 鉢
(21。8)
(5.8)
墳 丘
須恵器 甕
『
皿
一
16
墳 丘
須恵器 甕
一
一
一
17
石 室
須恵器 甕
一
}
一
18
墳 丘
須恵器 甕
一
一
一
19
墳 丘
須恵器 甕
一
一
一
20
墳 丘
須恵器 甕
一
一
一
2!
周 堀
須恵器 甕
一
一
22
石 室
須恵器 甕
一
23
墳 丘
須恵器 甕
一
一
一
24
墳 丘
須恵器 甕
一
}
一
25
周 堀
須恵器 甕
一
一
26
周 堀
須恵器 甕
一
一
一
27
墳 丘
灰紬晦器 瓶
一
(4.9)
9.o
28
周堀・墳丘
土師器 圷
(12.0)
3.2
(7.2)
29
周 堀
土師器 圷
(12.4)
3.3
(7.2)
30
周 堀
土師器 甕
11.2
(5.4)
31
周 堀
土師器 甕
(11.4)
(4.9)
32
周 堀
土師器 甕
一
33
周 堀
土師器台付甕
一
34
石 室
土 錘
最大長6.7cm、最大径1.9cm、孔径0.45cm。重量23,3霧。完形。
一
末野産。
B
B
C
にぶい黄掲色
(13.0)
}
20%
底部100% 末野産。
AGHNL
灰黄色
B
B
B
B
B
B
B
B
B
灰色
ABELMN
ABEHLMN
灰黄色
一
AB£LM聾
灰色
一
AB}{L
灰色
ABDHLN
ABKLMN
灰オリーブ色
ABELN
ABEHKMN
AND
BKM
灰黄色
灰黄色
灰黄色
高台部60%
末野産。
高台部80%
末野産。
口∼胴20% 末野産。
末野産。勘16と國一個体。
末野産。 嬉α15と隅一イ固体。
胴上部片
南比企産。
胴上部片
南比企産。
陰部片
末野産。Nα25・26と同一個体。
胴上部片
末野産。Nα24と同一個体。
編上部片
末野産。
胴下部片
末野産。翫23と岡一個体。
胴下部片
末野産。Nα22と圓一個体。
胴下部片
末野産。NQ20と周一個体。
胴下部片
末野産。NQ19・26と同一個体。
胴下部片
末野産。Nα19・25と同一個体。
灰黄褐色
A
にぶい鐙色
B
20%
BHIM
にぶい澄色
一
ABEIKM
明赤褐色
A
A
口∼胴70%
台付?
一
BGI王くM
榿色
C
口∼胴40%
台付?
A
編∼底10%
B
台部10◎%
(7。9>
(4.o>
ABE∫K
鐙色
(3.5>
8.7
ABDH∫K:M
赤褐色
底部100% 底部内面中央に融付着。
25%
35
周 堀
土 錘
最大長4.8cm、最大径1.45cm、孔径0.25cm。重量8,2g。完形。
36
周 堀
土 錘
最大長(3.8)cm、最大径(1.1)cm、孔径(0.55)cm。璽量(3.0)g。半分欠。
37
周 堀
軽 石
最大径6.2c搬、最大厚3.4cm。重量64.8g。完形。孔有。
第2号墳出土遺物(第29∼32図)
本墳からは縄文時代、平安時代、中世の遺物が検出された。平安時代の遺物は、前庭部及びその周辺
からの検出が多い。
一47
欝
麟
諌簸辞
智イド
籍
・ノ菌掌
甑・∼薮
レリい
2
3
懸麟
4
皇
〃
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二三
8
9
拶
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響
7
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19
窟
講
21
22
諭
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論
18
柑蝉↓Fへ’㌧帝
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3
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14
13
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17
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11
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32
第29図
◎
第2号墳出土遺物(1)
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46
45
縄文・平安時代
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一
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第30図 第2号墳出土遺物(2)平安時代
一49一
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第31図 第2号墳出土遺物③ 平安時代
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78∼81・85∼87・90・91・一lm、
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綱弓◎6・壌◎7・○L____嘉望、2葉◎5.等08,0L___」讐4
第32図 第2号墳出土遺物(4)平安時代・中世
縄文時代(第29図1∼25)
縄文時代前期前葉・黒浜式土器の平帯。すべて同一個体であるが、2∼25は1と接合関係にない。胎
土には繊維が含まれている。7のみ墳丘から出土し、その他は周堀北東部から出土した。
平安時代(第29∼32図26∼107)
須恵器(26∼91)は蓋、圷、高台付椀、皿、高台付皿、瓶類、壼、甕がある。末野産を主体に南比企
産も若干みられた。土師器(92∼103)は圷、甕、台付甕がある。甕の96は小型であり、台付の可能性が
ある。鉄製品は刀子(104)、鉄弓(105)、鉄釘(106・107)がある。いずれも残りが良い。出土位置な
どから平安時代としたが、刀子は本隊に伴う可能性もある。
中世(第32図108)
緑泥片岩製であり、周縁が丁寧に加工されている。板碑の破片であろうか。墳丘から出土した。
一51一
第12表 第2号墳出土遺物(縄文・平安時代・中世)観察表
器高
底径
番号
出土位置
器 種
口径
1
周 堀
縄文土器鳥栖
一
2
周 堀
縄文土器深鉢
一
…h
一
3
周 堀
縄文土器深鉢
一
…
一
4
周 堀
縄文土器深鉢
一
一
5
周 堀
縄文土器深鉢
一
一
6
周 堀
縄文土器深鉢
一
一
7
墳 丘
縄文土器鳥栖
一
一
8
周 堀
縄文土器鳥栖
一
一
9
周 堀
縄文土器黒穂
}
…
一
10
周 堀
縄文土器深鉢
『
…
一
11
周 堀
縄文土器深鉢
…
一
12
周 堀
縄文土器深鉢
一
㎜
}
13
周 堀
縄文土器深鉢
一
㎜
圭4
周 堀
縄文土器深鉢 一
}
一
15
周 堀
縄文土器深鉢
一
}
16
周 堀
縄文土器深鉢
一
}
一
17
周 堀
縄文土器深藍
一
一
一
18
周 堀
縄文土器深鉢
一
一圃
一
19
周 堀
縄文土器深鉢
一
…
一
20
周 堀
縄文土器深鉢
㎜
一
21
周 堀
縄文土器深鉢
一
一
22
周 堀
縄文土器深鉢
一
一
23
周 堀
縄文土器深鉢
一
一
24
周 堀
縄文土器深鉢
一
一
25
周 堀
縄文土器深鉢
一
26
石 室
須恵器 蓋
}
27
墳 丘
須恵器 蓋
(14.6)
3.0
28
周 堀
須恵器 蓋
(15.3)
(2.3)
29
前庭部
須恵器 圷
(12.6)
3.0
6.0
30
煎庭部
須恵器 圷
(12.4>
3.9
5.9
31
墳 丘
須恵器 杯
(13.0)
3.7
5.8
32
周 堀
須恵器 圷
12.7
3.9
5.6
33
周 堀
須恵器 圷
(13.4)
4.05
6.6
34
周 堀
須恵器 圷
(13.2)
3.9
(7。6)
35
前庭部
須恵器 圷
(12.3)
3.7
5.5
36
周 堀
須恵器 圷
(12.4)
(3.3)
37
前庭部
須恵器 圷
一
38
前庭部
須恵器 圷
一
39
前庭部
須恵器 圷
一
40
前庭部
須恵器 圷
一
41
前庭部
須恵器 圷
一
42
前庭部
須恵器 圷
一
43
前庭部・墳丘
須恵器 圷
一
44
前庭部
須恵器 圷
一
45
墳 丘
須恵器 圷
一
46
周 堀
須恵器 圷
}
47
周 堀
須恵器 」不
}
48
前庭部
須恵器高台椀
49
前庭部
50
(1!.6)
…
(1.5)
一
一
一
(5.4)
一
一
(2。5)
(6.6)
(!。8)
(6.6)
(!.7>
(5.2>
(2.0)
(5.6)
(1.7)
5.9
(2.2)
6.4
(1.2)
(6.8)
(L2)
(5.6)
(0.7)
(5.8)
(Lo)
(7,2)
(o.9)
(6.0>
(13.8)
5.25
6.9
須恵器高台椀
(15.4)
6.4
7.3
前庭部
須恵器高台椀
(14.6)
5.7
(8.7)
51
墳 丘
須恵器高台椀
(14.4)
(4,、9)
52
周 堀
須恵器高台椀
(14,3)
(5.3)
53
前庭部
須恵器高台椀
一
54
繭三部
須恵器高台椀
一
55
蔚三部
須恵器高台椀
一
56
前庭部
須恵器高台椀
一
57
墳 丘
須恵器高台椀
『
58
墳 丘
須恵器高台椀
『
59
周 堀
須恵器高台椀
一
色 調
焼成
残存率
にぶい鐙色
40%
ABEGHIKO
ABDKJO
ABCEJKNO
にぶい黄三色
ABKO
にぶい榿色
ABCEHIJKO
にぶい榿色
ABEGHJKO
ABEHJKO
にぶい黄榿色
ABCEIJO
にぶい榿色
ABDEHI(O
ABEGH:JKO
にぶい黄鐙色
AB£JK揖0
にぶい黄鐙色
ABEJKO
ABEGJKO
ABEHJKO
にぶい暮色
ABDGHN
ABGNL
灰黄色
灰色
ABEIKM
ABGL
にぶい黄色
A
口縁部15%
黄灰色
B
50%
末野産。
ABHJK:M
にぶい褐色
A
40%
末野産?酸化焔焼成。
ABDGHL
ABFGN
BDGHKL
ABDHL
黄灰色
B
50%
坐臥産。
にぶい赤褐色
A
60%
南比企産。
外黒褐内:黄褐
C
B
B
B
B
B
C
45%
坐臥産。酸化焔焼成。
20%
末野産。
60%
産地不明。
にぶい黄褐色
にぶい榿色
ABCER∫KNO
にぶい榿色
ABE鐵JKO
ABDHIKO
にぶい黄鐙色
ABEHIKMO
ABEGHKNO
にぶい褐色
にぶい直配色
ABEHIKO
にぶい黄三色
ABEIJKO
にぶい黄三色
ABEKMO
にぶい黄機色
ABCEm∫KO
ABΣHKO
にぶい黄鐙色
ABKM
にぶい褐色
にぶい鐙色
にぶい機色
にぶい榿色
にぶい喜色
榿色
灰色
灰白色
AGL
ABHILN
ADL
ABEGL
ABHL
ABGL
ABGHL
灰白色
ABDHJKLMN
灰オリーブ色
ABDHLM
ABFHM
灰色
暗灰色
黄灰色
灰白色
灰色
灰色
褐灰色
にぶい黄榿色
褐灰色
ABHLN
ABDGHL
灰色
ABJL
BDGHI
褐灰色
にぶい褐色
一
ABDHILM
黄灰色
7.8
ABHL
黄灰色
灰白色
灰色
(3、2>
7.2
AB£GLHM
黒色
〈婆.2)
(8.2)
AB}iLN
灰色
(1.7)
(7。0)
ABIL
灰色
ABHILM
ABHJLM
ABCHL
灰オリーブ色
(2。9)
(8.6)
(1.9)
5.8
(2.8)
(7.2)
備 考
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
B
C
B
ADEFI
ABGI
一
(2.8)
胎土
ABEGHIKMO
一52
灰色
灰色
A
A
B
C
C
C
B
B
B
A
A
B
B
B
B
A
A
C
B
B
縄文前期。Nα2∼25同一個体。
口縁部片
口縁部片
口縁部片
口縁部片
鯛部片
胴部片
胴部片
胴部片
胴部片
胴部片
胴部片
編部片
胴部片
胴部片
胴部片
胴部片
胴部片
胴部片
胴部片
鯛部片
端部替
胴部片
胴部片
胴部片
つまみのみ
25%
口縁部20%
末野産?
末野産。歪み有。
末野産?
末野産。
底部45%
末野産。
底部2S%
末野産。
底部25%
末野産。
底部25%
末野産。
底部100% 末野産。
底部100% 末野産。
底部40%
末野産。
底部40%
末野産。
底部40%
南比企産。酸化焔焼成。
底部30%
南比企産。
底部45%
末野産。
50%
末野産。
45%
末野産。
20%
末野産。
口縁部!5%
末野産?
口縁部/5%
末野産。
高台部45%
末野産。
高台部40%
末野産。 、
高台部25%
末野産。
高台部30%
末野産。
高台部45%
末野産。
高台部80%
末野産。
高台部20%
末野産。
口径
出土位置
器 種
6◎
周 堀
須恵器高台椀
一
61
墳 丘
須恵器高台椀
}
62
周 堀
須恵器高台椀
}
63
周 堀
須恵盟高台椀
一
64
前庭部
須恵器 皿
一
65
周 堀
須恵器 皿
66
周 堀
須恵器高台皿
67
墳 丘
須恵器 瓶類
68
墳丘嚇面部
須恵器 壷
69
周 堀
須恵器 壺
一
70
前庭部
須葱器 甕
一
71
周 堀
須恵器 甕
一
72
周 堀
須恵器 甕
73
周 堀
74
番号
一
(13。4)
一
(18.4>
器高
底径
(2.6>
7.8
(2,6)
8.2
(2.6)
(82)
(3.5)
(82)
(1.3)
7.4
(1。5)
7.3
2.8
6.6
(5.6>
10.3
(16.7>
(5.5)
(28.3)
…
(i1.0)
而闇
(6.3)
(/3.4)
一
一
}
須恵器 甕
一
一
㎜
石 室
須恵器 甕
一
一
75
石 室
須電器 甕
一
}
∼
76
前庭部
須藁菰 甕
}
一
}
77
前庭部
須恵器 甕
}
一
一國
78
周 堀
須恵器 甕
一
一
…
79
墳丘・前庭部
須恵器 甕
一
一
…
80
周 堀
須恵器 甕
一
一
…
81
周 堀
須恵器 甕
一
一
82
周 堀
須恵器 甕
一
一
83
石室嚇庭部
須恵器 甕
一
一
…
84
前庭部
須恵器 甕
85
前庭部
須懲需 甕
86
前庭部
須恵器 甕
87
墳 丘
須恵器 甕
一一
一一
一一
…
88
周 堀
89
周 堀
90
へ
㎜
備 考
色 調
焼成
ABDGHLM:
灰色
ABDHL
黄灰色
ABEGHIJLM
ABL
灰色
B
C
B
灰色
A
高台部50%
二野産。
ABGHKL
ABGHLM
ABGL
灰黄色
底部30%
宋野産。
黄灰色
B
B
底部40%
来野産。
褐灰色
A
40%
三野産。
ABG琶KL
黄灰色
底部6G%
末野産。
口∼嗣20%
末野産。
底部10%
来野産。
胎土
残存率
高台部30%
末野産。
高台部80%
末野産。
高台部20%
末野産。
ABGBIL
灰色
ABHL
灰色
B
B
B
AL
ABGHIJLM
灰色
A
頸∼胴40%
宋野産。
黄灰色
C
底部10%
鴬野産。底部手持ちヘラ削り。
灰色
A
A
A
口縁部片
南比企産。歪み有。Nα74と同一個体。
ABFN
ABGLN
ABFN
灰オリーブ色
ABDG}{L
褐灰色
B
頸部片
宋野田。
AFH
ABF
ABFN
ABFN
ABGHL
ABFH
ABHL
ABHL
AB
ABHL
ABDFN
暗灰色
A
A
A
A
A
A
頸部片
晦沈企産。臨77と同一十体。
頸部片
南比企産。Nα76と同一個体。
ABHILN
灰色
ABFN
ABFN
ABFN
灰色
ABDEGHIJK
黄灰色
BCN蟹
鐙色
BG田K
ABHIJKM
BEGN
ABHIJKMN
ABIJKM
にぶい赤褐色
ABCGHKM
明赤褐色
灰色
暗灰色
口縁部片
末野産。内外面自然粕付着。
頸部片
南比企産。Nα72と同一個体。
頸部片
南比企産。内外面自然光付着。
肩部片
南比企産。外面自然光付着。
客部片
宋野田。
肩部立
爾比企産。外面自然光付着。
肩意訳
来野産。
綱下部片
末野産。
鯛下部片
末野慶。内面自然粘付着。
A
A
A
胴下部片
宋野田。
胴下部片
南比企産。
胴下部片
六野産。
南比企産。
胴下部片
南比企産。
胴下部片
南比企産。
胴下部片
密送産。
口縁部20%
内露放射状暗文有。
にぶい燈色
B
B
B
B
B
B
B
B
胴下部片
明赤褐色
A
口∼胴25%
寸志外:灰褐
B
B
B
B
B
底部40%
灰色
暗灰色
灰色
灰色
黄灰色
黄灰色
灰色
灰色
灰色
B
B
B
一
一
㎜
須恵器 甕
一
一
㎜閲F
須恵器 甕
一
一
周 堀
須恵器 甕
一
一
}
91
周 堀
須恵器 甕
一
∼
92
蔚庭部
土師器 圷
α3,0>
(3.◎〉
93
前庭部
土師器 圷
(13.6>
(3.◎〉
94
墳 丘
土師器 圷
(11.2)
(3.2)
(7,2)
95
墳 丘
土師器圷
(10.9)
(3.3)
(6.4)
96
墳 丘
土師器 甕
(12.5)
(4,5)
97
周 堀
土師器 甕
一
98
前庭部
土師器台付甕
一
99
周 堀
土師器台付甕
一
iloo
周 堀
土師器台付甕
一
101
前庭部
土師器台付甕
一
102
前庭部
土師器台付甕
一
103
周 堀
土師器台付甕
一
104
周 堀
刀 子
最大長12.3cm、簸大幅1.4cm、最大厚0.55cm。露量18.Og。十二。
!05
墳 丘
鉄 斧
最大長10.45cm、最大幅4.4c瓶、最大厚2.2cm。重量(220)g。芯部完存、外側大半欠。
106
周 堀
鉄 釘
最大長5.9cm、最大幅1,1cm、最大厚0.7cm。重曇7,5g。完形。
107
周 堀
鉄 釘
最大長6.6cm、最大幡1.15c瑚、最大厚1.2cm。露量(7.0)g。一部欠。
1◎8
墳 丘
板 碑?
…
一
蝉一
灰色
灰色
明赤物色
(2.4)
(3.7)
(!1.4)
10.2
(4.9)
10.9
BDGHIKMN
明赤褐色
…
ABC1{1∫KM:
明赤褐色
ABCGHIJKM
ABEG田JKM
ACGHIJKM
にぶい機色
(2.9)
(2.1)
(1.9)
(1.6)
…
褐灰色
明赤褐色
A
A
口縁部15%
20%
15%
台付?
胴∼台40%
台部80%
接合部1§0%
接合部100%
接合部100%
接合部100%
最大長(24.0)c撚、鍛大幅(14.5)c雛、最大厚4.7c磁。重量(2,070>g。緑泥片岩。大半欠。
第3号墳出土遺物(第33・34図)
本墳からは平安時代の遺物のみ検出された。これらは周辺にある住居跡からの流れ込みと思われる。
平安時代(第33・34図1∼61)
須恵器(1∼53>は蓋、圷、高台付椀、皿、鉢、瓶類、甕がある。末野産と南比企産があるが、前者
が多い。54は盲嚢陶器高台付皿。東濃産。無品である。土師器(55∼59)は圷、甕がある。甕の57は小
型であり、台付の可能性がある。、土蛙は2点検出された。60が中型、61が小型のものである。
一53一
/ や ヴ/
//
\\
す
2
3
わ
1
◎4
\ノ
わ
\
◎5
嫉6
◎9
わ ⇔11
◎10
⇔8
◎12
………
こ
φ
わ
◎
二 =
皿
16
わ
◎
13
15
d14
障二=』ノ
ρ ◎ 19
賦
ρ
◎ 17
18
わ
マ
◎ 22
ρ
わ
◎23
◎24
◎27
◎28
『
φ25
20
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一
◎26
一一
一
一
一 …
一
29
一
……一
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㌦ り〆
『一
鯉寧漕
32
無藤
@ f覇¥〆 ご
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一
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30
リド ヨ
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二!も豊齢鍵
f 西 残’綬
,
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」
唱,
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旧
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36
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31 ’)
㌔父
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野
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\ 鞭で菰毎鐙\
{瞬離:前}
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38蔓縄ゑ
壌一3◎・OL___」蛾3葉・32・35・37・38・○一1餓,33・34・36・OL___』1・8
第33図 第3号墳出土遺物(1)平安時代
一54
もし
㌔きノ
十二
たニサ も
十二欝
、駆︵妊﹂
江論
鉱鷺“
0
曳 54
53
墨響
耐
一う
出窯
b d 55
一《5、
噛一
⑤
◎
蘂二二(
61
60
\立L/ \心⊥ノ
57
58 59
20c醗
0
4◎雛4葉 量43∼45鷺47腫48瞳5◎∼52
39・42・46・49・53,0−1盤、
54∼61・OL____」lm、
第34図 第3号墳出土遺物(2)平安時代
第13表 第3号墳出土遺物(平安時代)観察表
色 調
焼成
残存率
ABHL
灰色
B
B
B
C
B
B
B
B
B
B
B
B
B
75%
末野産。
天井部30%
末野産。
天井離。%
末野産。
出土位置
器 種
口径
器高
底径
1
周 堀
須恵器 蓋
一
(20)
一
21周堀
3
須恵器 蓋
一
(17>
51
ABG王{IL
灰色
周 堀
須恵器 蓋
一
(2.0)
(55>
4
周 堀
須恵器 圷
(135)
5
周 堀
須恵器 圷
(129)
60
60
6
周 堀
須恵器 圷
(137)
7
周 堀
須恵器 圷
(136)
42
36
48
33
ABGL
ABEGHIMN
灰色
8
前庭部
須恵器 杯
一
灰色
ABEGH
にぶい褐色
(66)
ABDHJL
灰色
G5)
(62>
ABG}{IL
灰色
9
前庭部
須恵器 杯
一
(28)
(69>
墳 丘
須恵器 圷
一
(09)
(72)
11
墳 丘
須恵器 圷
一
(09)
64
12
周 堀
須恵器 圷
一
(30)
13
墳 丘
須恵器高台椀
62
(147)
AGmL
にぶい黄褐色
(62)
10
備 考
胎土
番号
ABC猛L
灰色
ABDGHIL
ABDHIL
灰オリーブ色
(52)
ABHL
灰色
69
ABGHIL
灰色
一55
灰白色
60%
末野産?酸化焔焼成。
70%
末野産。
40%
末野産?酸化焔焼成。
20%
\嘱ノ
言q栖 ’
浜顧、;ン
療の.痘
か のゴけ のエゆイ
μぐ㌦
/
、㌔し
\
奥素“ −
﹄タ︸ ’
メ“㌔詳搾
澄筑・
,ノん:・、=
ズド なゆ
湧攣魯ン
\、
溢避、
齋.機戸
琢
駆,
−淋,5
蝉
やまヘ リ いよ
・・
\、認ガ
い凶塾・
、ぜ民、窄葦.へ∼’\
“蛮∼ 、塁 き 一且・ウ
ズ、
、魔鴫ル磐
.・口占
壽拶し\
し㌧
し・ 、
45
置
﹄
置
4
/5
㌃r芝 こ
糧
〃6
4 。 冨
・婆ご’、 、
2
巴量11顯4
ト\紗∼
/冷︽’, 訴
じ ぢノ
バ
メ サじ ノにま
ほ んエみ
\・毒¥ ㌦・
に ハヨ \熊﹀∼・
\ツ
ヘモ と
39 蝋 腕
・学ち=叢
歪︾ D
、 ㌣ 炉 、
’熟 ご鉋、“.Σ
。糠暇
越ご、㌦㌫㍗・側︵
ノ
㌦ サ ㌦
/
触離薫ノ
、41
灘
く昌
末野産。
底部30%
末野産。底部内爾墨書有。
底部30%
末野産。
底部25%
末野産。
底部100%
末野産。
底部25%
末野産。
40%
末野産。
番轡
出土位置
器 種
口径
器高
ユ4
墳 丘
(15.4)
(5.9)
15
前庭部
須恵器高台椀
須恵器高台椀
!6
前庭部
須恵器高台椀
}
17
前庭部
須恵器高台椀
18
前庭部
須恵器高台椀
一
一
!9
前庭部
須恵器高台椀
一
20
周 堀
須恵器高台椀
一
2!
周 堀
須恵器高台椀
一
22
周 堀
須恵器高台椀
『
23
周 堀
須恵器高台椀
一
底径
胎土
色 調
焼成
残存率
ABEHIML
ABEHIM
明赤褐色
40%
ABH:IL
灰色
ADGHIKL
ABHILM
ABHIL
にぶい褐色
(2.5)
6.8
ABCDHKLM
灰黄色
B
C
B
C
C
B
C
C
〈2.7)
(6.8)
ABH}£L
灰色
(3.15)
8.5
明赤褐色
(2。6)
ABD鐵M
(8.2)
AB妥{至∫KLM
灰色
(L6>
7.8
ABGH:1乙
灰色
…
(3.5)
(7.6)
(3.1)
7.6
(2.0)
(7.1)
(2.5)
(6.9)
褐灰色
灰黄色
(L9)
■ (4.7)
(6.4)
AI3CDHIM
浅黄色
灰色
高台部100%
来野産。
末野産。
末野産。
(15.6)
2.4
6.8
ABCGHIL
灰色
須恵器 皿
(14.6)
2.9
(6.4)
AI3EGHIJK
にぶい黄機色
28
周 堀
前庭部
須恵器 皿
(14,4)
2.7
(6.6)
須恵器 鉢
(28.2)
(5.8)
30
前庭部
須恵器 毛類
一
ADGHIJL
ABHIL
ABHIL
にぶい黄褐色
29
灰黄色
31
前庭部
須恵器 甕
132
33
墳 丘
前庭部
34
前庭部
35
前庭部
36
灰白色
末野産。
末野産?
胴∼底40%
須恵器 皿
高台部60%
高台部30%
宋野臨
前庭部
一
一
宋野産。酸化焔焼成。
宋野産。
末野産?酸化焔焼成。
周 堀
須恵器高台椀
須恵器高台椀
高台部60%
高台部25%
高台部3眺
26
周 堀
周 堀
末野鷹。
末野産。
A
27
2娃
高台部20%
高台部90%
高台部30%
B
C
B
B
C
C
C
B
25
備 考
末野産。酸化焔焼成。
高台部30%
末野産?酸化焔焼成。
高台部45%
末野産。
70%
末野産。
25%
末野産?酸化焔焼成。
45%
末野産。
口縁部10%
末野産。
(10,7)
(10.7)
一
}
一
ABL
灰色
A
頸部片
須恵器 甕
一
『
一
ABHIL
灰黄褐色
B
頸部片
末野産,,
須恵器 甕
一
一
一
末野産。
一
一
灰色
肩部片
南比企産。
須恵器 甕
一
一
…
ABDHIL
A
A
肩部片
一
ABEHL
ABDFN
灰色
須恵器 甕
灰色
B
肩部立
末野藤。Nα36・38と同一個体。
前庭部
須恵器 甕
一
一
…
ABCIL
灰色
肩部立
末野産。Nα35・38と同一個体。
37
墳 丘
須恵器 甕
一
一
}
ABML
A
灰色
肩部片
来野産。
38
墳 丘
須恵器 甕
一
一
}
ABHIL
灰色
B
B
肩部片
来野産。醤α35。36と同一個体。
39
葭三部
須恵器 甕
一
一
}
AB}{L
青灰色
騙上部片
40
前庭部
須恵器 甕
一
一
}
黄灰色
南比:量産。
蔚園部
須恵器 甕
一
一
一
B
B
胴上部片
41
ABFH
ABF
A
飼上部片
南比企産。
A
A
A
綱上部片
南比企産。
灰色
荏2
墳 丘
須恵器 甕
一
…
AB£FIN
灰色
43
前庭部
須恵器 甕
一
一
}
ABG}{KL
灰色
44
前庭部
須恵器 甕
一
一
一
ABDHIL
灰色
45
墳 丘
須恵器 甕
一
一
…
46
墳 丘
須恵器 甕
一
一
一
47
墳 丘
須恵器 甕
一
一
一
48
墳 丘
須恵器 甕
一
一
…
49
墳丘・周回
須恵器 甕
一
一
一
50
墳丘・周回
須恵器 甕
一
一
…
51
周 堀
須恵器 甕
皿
一
㎜
52
周 堀
須恵器 甕
一
一
…
53
前庭部
須恵器 瓶類
皿
一
}
54
前庭部
灰塗 高台皿
(17.0)
4.85
7.2
55
墳 丘
土師器 圷
〈12.1)
3.95
5.6
56
前庭部
土師器 甕
(2◎,9>
(6.2>
57
周 堀
土師器 甕
(12.0>
58
前庭部
土師器 甕
㎜
土師器 甕
一
(4.5>
聞一
ABFGH
灰黄色
ABEHIL
灰色
ABCGL
灰色
ABCGHIJ
ABHIL
内:褐外:灰
黄灰色
C
B
C
B
B
ABFHN
灰色
A
ABFHI
ABEFGI
黄灰色
胴下部片
末野産。
胴下部片
来野産。
胴下部片
南比企産。
胴下部片
豊野産。
胴下部片
豊野産。
胴下部片
宋野望?
胴下部片
末野産。
胴下部片
南比企慶。
胴下部片
南比企産。外面自然紬付着。
灰色
B
B
胴下部片
南比企産。
ABL
灰色
胴部片
ABN
ABCGHIM
A
灰白色
40%
東濃産?無産。
内:回外:赤褐
35%
内藤ミガキ、黒色処理。
ABCG}珊KM
明赤褐色
B
B
B
B
B
B
A3£GmKN
にぶい赤褐色
(2.4)
(3.8>
B£α∫K
明赤褐色
(}.7)
(5.2)
ABCGH耳K:N
榿色
一
末野塵。
59
前庭部
60
周 堀
土 錘 1 最大長4.4c狙、最大径L3cm、孔径0.4cm。重量6.8g。完形。
6!
周 :堀
土 錘 最:大長3.3c欺最大径0.85cm、孔径0.3cm。重量2.1g。完形。
末野産。内外二二付着。
口∼編20%
口∼飼10%
台付?
底部25%
底部25%
第4号墳出土遺物(第35図)
本墳からは縄文時代、平安時代、中世の遺物が検出された。遺物は土器のみである。
縄文時代(第35図1∼3)
縄文時代前期の深重。接合関係はないが、すべて同一個体である。胎土に繊維を含まない。周堀出土。
平安時代(第35図4・5)
ともに須恵器である。4は圷、5は高台黒椀。末野産。墳丘から出土した。
中世(第35図6)
鉢のロ縁部片。常滑産である。紬はない。墳丘から出土した。
一56一
3 ρ
1 2
0 10cm
第35図 第4号墳出土遺物
1:4
縄文・平安時代・中世
2 ◎ノ、
0 10cm
1
第36図 第7号墳出土遺物 平安時代・近世
1
2
自6一
鉦
一!
〆
一遡
[フ
二
4
3
10
mイ
暉 ,
1
QL_____急r・、22・0−c碧、3
C
q
第37図 第8号墳出土遺物 縄文・平安時代・中世
遮しごク、
3
4 .0 10cm
・一114
瞬《,
0 10cm
第38図 第9号墳出土遺物 古墳時代前期
一57一
蓬:4
第14表 第4号墳出土遺物(縄文・平安時代・中世)観察表
番号
出土位置
器 種
口径
器高
底径
野土
色 調
焼成
残存率
1
周 堀
縄文土器深鉢
一
…
一
ABEJKM
燈色
胴部片
2
周 堀
縄文土器深鉢
一
3
周 堀
縄文土器深濠
一
高台部憩%
末野産。
口縁部片
常滑産。
4
墳 丘
須恵器 圷
5
墳 丘
須恵器高台椀
一
6
墳 丘
晦器 鉢
一
(12.0)
…
}
ABIJKMN
明赤褐色
(2.8)
(5.4)
ABDGHIJKMN
榿色
3.7
5.6
ABGHIL
灰色
(2ほ)
(6.7>
AB茎∫L
灰色
B
B
B
B
B
}
一
灰白色
A
備 考
縄文前期。Nα2・3と岡…個体。
胴部片
縄文前期。Nα1・3と同一個体。
底部45%
縄文前期。NQ 1・2と同一個体。
45%
末野産。
第15表 第7号墳出土遺物(平安時代・近世)観察表
番号
出土位置
器 種
口径
1
前庭部
須恵器 瓶類
一
2
周 堀
陶器 緑粕皿
3
前庭部
陶器天目茶碗
(11.8)
器高
(7.8)
(2.1)
一
底径
胎土
色 調
焼成
残存率
一
ABC
灰白色
胴下部60%
末野産。
一
一
灰オリーブ色
A
A
口縁部20%
瀬戸美濃産。内外面灰紬。
一
一
黒色
B
体部片
瀬戸美濃産。内外面鉄粕。
備 考
第16表 第8号墳出土遺物(縄文・平安時代・中世〉観察表
番号
出土位置
器 種
17
石 室
石 鑑
口径 器高 底径 胎土 色 調 焼成 残存率 備 考
最大長(3.5)c魚、最大幅2.05c組、最大厚0.4c顯。重量(2.7)g。チャート。切先、基部欠。
!8
石 室
打製石斧
19
前庭部
砥 石
最大長9.Ocm、最大幅5.3cm、最大厚3.9cm。重量210g。凝灰岩。ほぼ完形。五面使用。
20
墳 丘
青磁 椀
一 (2.9) 一 一 オリーブ灰色 A 底部15% 龍泉窯系。
最大長(9.65)cm、最大幅5。8cm、最大厚!.8cm。重量(1!0)g。中粒砂岩。上部欠。
第17表 第9号墳出土遺物(古墳時代前期)観察表
番号
出土位竃
器 種
口径
1
周 堀
土師器 壷
}
2
周 堀
土師器 甕
『
器蕎
底径
(3.2)
(9,5)
色 調
焼成
残存率
にぶい黄鐙色
B
B
底部30%
押土
BE∫K
一 BHIJK
淡黄色
口縁部緯
備 考
S字甕。
第7号墳出土遺物(第36図)
本門からは平安時代、近世の遺物が検出された。近世の遺物は周辺の土坑からの流れ込みと思われる。
平安時代(第36図1)
須恵器瓶i類の胴下半部である。高台部を欠く。前庭部から出土した。
近世(第36図2・3)
陶器。瀬戸美濃産。2は緑粕皿。周溝から出土した。3は天目茶碗。前庭部から出土した。
第8号墳出土遺物(第37図)
本山からは縄文時代、平安時代、中世の遺物が検出された。
縄文時代(第37図1・2)
1は石鎌、2は打製石斧である。1は切先と基部、2は上部を欠く。これらの石器も1号墳出土の石
器と同じく縄文時代前・中期いずれかの時期のものと思われる。ともに石室覆土から検出された。
平安時代(第37図3)
砥石。ほぼ七子晶。五面使用している。凝灰岩製。前庭部から出土した。
中世(第37図4)
青磁椀の底部片。内外面に紬が施され、内面には文様が描かれている。龍泉窯系。墳丘から出土した。
第9号墳出土遺物(第38図〉
本墳からは古墳時代前期の土師器が検出された。ともに破片での検出である。
古墳時代前期(第38図1・2)
1は壷の底部片、2はS磁北の口縁部片である。ともに周堀から出土した。
一58一
V 調査のまとめ
ここでは出土遺物や主体部について第IV章では説明し切れなかったことについて補足し、帰属時期の
裏づけを行った上で改めて各古墳(既に報告済みである10号墳も含めて)の築造時期について述べてみ
たい。出土遺物や主体部の帰属時期については、既に各研究者によって編年が提示されていることから、
これらを参考にしてみていくことにする。また、1号墳はその平面形態から八角形を呈する八角墳と判
断したが、ここでその根拠を提示し、どのような特徴:を有するのかについて述べるとともに、1号墳と
同じくこれまで八角墳とされてきた2・!0号墳についても新たな見解を述べておく。そして最後に古墳
群の被葬者像についても近年明らかになってきた周辺遺跡との関係を交えて述べてみたい。
出土遺物について
伴う遺物が検出された古墳は、1・3・5・7・8号墳の5基である。検出数は少ないが、各古墳か
ら出土した遺物のうち、指標となるものを取り上げてみていくこととする。
1号墳出土遺物で指標となるのは、刀装具の双脚足金具(第9図4)である。双脚足金具とは、大刀
を横向きに侃用するため鞘に二個一対で装着される刀装具のことであり、県内では東松山市西原古墳群
1号墳や毛呂山町西戸古墳群9号墳に出土例(第39図〉がある。以下、まず各古墳群及び古墳と出土し
た双脚足金具について説明し、二例と比較した上で川原裏1号墳出土例の時期決定を行いたい。
東松山市西原古墳群は、都幾川左岸の標高約60mを測る菅谷台地東端部に立地しており、現在までに
4基の円墳が確認されている(金井塚他1976)。双脚足金具の出土した1号墳は、径8∼13mの葺石を有
する不整円墳である。主体部は河原石と緑泥片岩を使用した胴張り型の横穴式石室であり、石室からは
方頭大刀や銅椀、鉄鍛、刀子などが出土している。
西原1号墳出土の双脚足金具は、全長103.6cmを測る三頭大刀に装着された状態で検出されており、一
ノ足及びニノ足とも残存する(第39図1)。ともに銅製で、四角錘台状の枠工罰金に棟側が丸く張り出す
腹帯を鋳付けすることで段が造り出されており、腹帯の断面形は幅の狭い環状を呈する。一ノ足は最大
高4.8cm、枠形櫓金の最大長2.7cm、最大幅1.3cm、最大高0.6cm、帯執四通孔の最大長ユcm、幅0.5cm、腹
帯は長径4.5縢、短径2.2c懲、幅0.3cm、厚さ0.2cmを測る。ニノ足は最大高4.5cm、下形櫓金の最大長2.8
c搬、最大幅L4c膿、最大高0.6cm、帯執引通孔の最大長1.2徽、幅0.7cm、腹帯は長径4。1c組、短径2.2cm、
幅0。3cm、厚さ0.2cmを測り、一ノ足、ニノ足ともにほぼ同じ大きさである。
毛呂山町西戸古墳群は、越辺川左岸の標高約48mを測る河岸段丘上に立地しており、円墳を主体とし
て現在までに14基の古墳が確認されている(毛呂山町教委1987・1998)。双脚足金具の出土した西戸9号
墳は既に消滅しており、墳形及び規模など詳細については不明であるが、土地所有者が開墾時に石室ら
しき遺構から出土した遺物を採集していた。遺物には刀装具、鉄鎌、刀子などがあり、これらの遺物に
ついては、大谷徹氏によって資料紹介がなされている(大谷1989)。
西戸9号墳出土の双脚足金具は、鞘口金具と接合した状態であり、一ノ足のみの検出である。銅製で、
枠形櫓金に段を持ち、双脚より張り出した櫓金に棟側の幅を広げた腹帯が鋳付けされている。腹帯の断
面形は幅広の板状を呈する。最大高4.5幡、枠形櫓金の最大長2、7c墾、最大幅1.2縢、最大高0.5c搬、帯執
引通孔の最大長LOcm、幅0.4cm、腹帯は長径4.1c鵬、短径1.8c灘、幅0.5c搬、厚さ0.2c搬を測る。
一59
双脚足金具については、穴沢味光・馬目順一氏らによる研究がある(穴沢・馬目1979)。両氏によって
設定された編年によると、双脚足金具は門形割金に段を持ち、平金が双脚より張り出す形態から枠形櫓
金が張り出さず、四角錘台状を呈するものへと変化するとされている。そして、両氏は設定した編年に
基づいて西原1号墳例を7世紀第3四半期に位置づけている。西戸9号明旦については、大谷氏によっ
て西原1号墳例と比較され、穴沢・馬目両氏の編年に基づいて同じく7世紀第3四半期に位置づけられ
ており、出土した鉄鎌とも年代的に矛盾しないことが付け加えられている(大谷1989)。
ここで籠原裏1号墳出土例をみてみる。本例は一ノ足かニノ足かは不明であるが、1点のみの検出で
ある。枠仁熊金に段を持ち、櫓金が双脚より張り出す形態であることから、上記二例と同じである。し
かし、腹帯の棟側が丸く張り出す造りになっている点では西原1号墳例に、腹帯がやや幅広の板状を呈
する点では西戸9号墳例にそれぞれ類似しており、籠原裏1号墳例は両者をあわせた様相を呈している。
また、高さはほとんど変わりないが、枠形櫓金の長さは3.7cmと二例に比べて1cmも大きく、またそれに
伴って双脚間の幅も若干広くなっており、やや異なった特徴を有している。
以上の点からみると、枠形櫓金の長さに違いがあるが、形態的には二例の持つ要素をあわせ持ってお
り、籠原裏1号墳例も7世紀第3四半期に位置づけて良いと考えられる。1号墳では墳丘から須恵器平
瓶の口縁部片が検出されているが、口縁端部の造りからみてTK46型式並行以降と思われ、双脚足金具と
も時期的に矛盾しない。よって、1号墳出土遺物は7世紀第3四半期頃のものと考えられる。
3号墳出土遺物には、鉄鎌(第15図1)と土師器圷(2)があるが、鉄鎌は箆被部のみの検出であり、
有茎鍛であること以外は不明である。前庭部から検出された土師器圷は在地産学文圷であり、「北島一刀」
と呼ばれるものである佃野1991b>。口径は推定で13cmを測り、ロ縁端部が僅かに外反する。体部は緩
やかに内湾し、内面には放射雪暗文が施されている。底部は欠いているがやや平底に近い形になると思
に〕 旺コ嫡 鱒 ¢つ
飢 O、 1
0 20cm
¢ 纏一
⊆肇1
a
2
1 東松山市西原1号墳出土例(金井塚他 1976)
2 毛呂山町西戸9号墳出土例(田中・大谷 1989)
3 熊谷市籠三門1号墳出土墨
0 10cm
第39図 参考資料
東松山市西原1号墳・毛呂山町西戸9号墳出土双脚足金具
一6◎一
3
われる。在地暗文土器について詳細な分析を行った田中広明氏の分類(田中1991b)ではII∼III期に該
当することから7世紀末∼8世紀初頭のものと思われる。
5号墳出土遺物は、周堀出土の土師器甕(第18図1)1点のみである。底部付近のみの検出であるた
め時期決定に苦しむ。胴部が膨らみ、底部が円柱状を呈する点からみると、やや古い様相を呈するよう
に思われるが、具体的な時期については明確にできない。
7号墳出土遺物には、周堀出土の須恵器蓋(第20図1)と前庭部出土の壷の肩部片(2)がある。蓋
は宝珠つまみを持ち、内面にかえりを持つ。2は破片での検出であるが、長頸壷の肩部片と思われる。
産地は不明であるが、ともに7世紀末∼8世紀初頭に位置づけられる。
8号墳出土遺物では、鉄鎌(第25図1∼10)と土師器圷(16)がある。鉄鍍は玄室西側床面から検出
された。原位置を保っていないもののまとまって検出されたことから一括性があると思われる。完形晶
はほとんどないがすべて有茎鍛であり、鍛三部と頸部の境に関が無く、関箆被ないし棘箆被を持つ。
県内の古墳出土の鉄鍛については、田中正夫・瀧瀬芳之氏らによって設定された時期区分があり、1
期∼V期に分けられている(田中・二瀬他1984)。その時期区分に沿ってみてみると、8号墳出土鉄鍛は
残存する鎌下部によるセット関係からV期(7世紀中頃から後半〉に該当すると思われる。3はその形
態から柳葉式としたが、他の鉄鎌との一括性を重視するならば長三角形式の範疇で捉えた方がいいかも
φ 撫
④
4cm、器高3.4cmを測る完形品で、口縁部が僅かに内
”
しれない。三門から検出された土師器圷は、口径10. ・・一・・… 幽欄。。 、..、欄 幽.、4,6g。
賦
傾し、丸写を呈する北武蔵型圷である。荒川左岸の
「\
\\
Y篇一19,露15
旧
両者が共伴する可能性もあることから、両者を含め
⑳》w騨
1σ,p /レ
蹟壽 蒙lll
て7世紀後半∼8世紀初頭と幅を持たせておく。
既に報告済みの10号墳では、墳丘上から土師器の
◇・醗1
熟[扁
期(7世紀末∼8世紀初頭)に該当する。
8号墳出土遺物は若干時期差が見うけられるが、
︸\
た坂野和信氏の分類(坂野1998)によると、16はD
掘
禺
__
Y2一粟9,2驚o
険
中流域における7世紀後半の土器群について考察し
驚1
漏亀瞑m ズ
Y霜一峯9,210
罫糾・i。
在地産暗文椀(第40図1)と有段口縁圷(2)が検
賦 掴 溝
出されている(籠原裏遺跡調査会2000)。1は口縁部
④
q島’
が内湾し、端部は僅かに外反する。丸底であり、内
Y犀一19,205
面には放射状暗文が施されている。2は底部を欠く
がその弓形からやや深身になると思われる。口縁部
獣
は外反しながら立ち上がり、段は一段のみ有する。
1は田中氏の在地産暗文1∼II期(田中1991b)、2
0
4m
o
は坂野氏のB期新段階∼C期(坂野1998)、また有段
口二二について詳細な分析を行った田中広明氏の分
2
類では第IV期(田中1991 a)に該当することから、
10号墳出土遺物は7世紀後半のものと考えられる。
一61一一
0 10cm
第40図 参考資料
第10号墳・出土遺物
⑩m
以上、古墳に伴う遺物は7世紀第3四半期から7世紀末∼8世紀初頭までのものが検出されている。
主体部について
主体部が明確に検出された古墳は、1・3・4・7・8号墳である。すべて荒川中流域にみられる河
原石を使用した胴張り型の横穴式石室である。破壊などによって検出できなかった2・9号墳もその痕
跡からみて同じく河原石を使用した胴張り型の横穴式石室であったと思われる。
荒川中流域左岸に所在する花園町小前田古墳群では、健胃芳之介によって横穴式石室の分類が示され
ている(瀧瀬1986)。氏は横穴式石室をその平面形態から無尽式、両袖式、胴張A式、胴張B式の4つに
分類している。そして、埴輪の有無から無袖判・両袖式→胴張A式→胴張B式という年代差を想定し、
これに出土遺物の時期を加味して小前田古墳群の変遷を提示している。氏は埴輪を持たない古墳で奥壁
の幅が狭く、玄室の側壁に顕著な胴張りを有するものを胴張:B式としており、出土遺物の時期とあわせ
て胴張B式の石室を持つ古墳に7世紀前半の年代を与えている。本原裏古墳群で検出された横穴式石室
は、氏の胴張B式に大別されるものの本郷の幅がさらに狭くなり、玄室の平面形態が馬蹄形状となる点
で新しい様相を呈すると思われる。奥壁が狭く、玄室の平面形態が馬蹄形状を呈する石室は、荒川右岸
に所在する川本町鹿島古墳群や籠原裏古墳群の南西約2kmに位置する熊谷市三ヶ尻古墳群などに類例が
ある。鹿島古墳群では8・16・19・25号墳、三ヶ尻古墳群では三ヶ尻林1号墳が該当し、三ヶ尻林1号
墳を調査した小久保徹氏は、鹿島古墳群との比較から7世紀後半という年代を与えている(小久保1983)。
また、荒川中流域にある古墳群の横穴式石室について考察した塩野里馬は、鹿島古墳群8・19号墳を7
世紀後半、16・25号:墳及び三ヶ尻鰭1号墳を8世紀初頭に位置づけている(塩野1991)。
以上のことからみると、籠原裏古墳群で検出された横穴式石室は上限が7世紀後半、下限は8世紀初
頭となる。横穴式石室の平面形態だけでは具体的な時期を把握することは困難であるが、玄室の平面形
態が馬蹄形状を呈する石室は、7世紀後半から8世紀初頭にかけてのものとする。なお、4号墳は唯一
奥壁が緑泥片岩一枚で構築され、胴の張りが他に比べて若干弱いが、この形態は鹿島古墳群においても
存在し、終末期まで残ることから他と時期差はないと思われる。
築造時期について
上記の出土遺物と主体部の時期を組み合わせると、以下のとおりとなる。
1号墳は双脚足金具が7世紀第3四半期頃のものであり、墳丘出土の須恵器平瓶も双脚足金具とほぼ
同時期のものであることから、主体部の時期も加味して7世紀後半頃の築造と考えられる。1号墳から
は大刀自体は検出されていないが、双脚足金具を含む刀装具の存在から7世紀中頃以降に盛行する到頭
大刀が副葬されていたことが想定され、このことも築造時期の裏づけになると思われる。
3・7号墳は出土土器が7世紀末∼8世紀初頭に位置づけられるが、野葬ないし埋葬後の儀礼に伴う
可能性も考えられる。そして主体部の時期は7世紀後半以降と思われることから、築造時期は7世紀末
∼8世紀初頭段階かそれ以前の7世紀後半を遡らない段階の築造としか言えない。
5号墳は出土した土師器甕が底部付近のみであり、また古墳自体がほとんど調査区外にあるため時期
の特定は困難である。築造時期は埴輪がないことを重視して7世紀以降とする。
8号墳は出土遺物を7世紀後半∼8世紀初頭頃とやや幅をみており、主体部は7世紀後半以降と思わ
れることから、築造時期を7世紀後半∼8世紀初頭としておきたい。
一62∼
10号墳は調査が墳丘北東部のみであり、検出された土器は7世紀後半に位置づけられる。主体部は未
調査であるが、試掘調査で前庭部付近のみプランが確認されており、他と同じく河原石による胴張型の
横穴式石室である。よって、現時点では築造時期を7世紀後半頃とする。
遺物の出土しなかった2・4・6・9号墳については、埴輪がないことや主体部の構造などから判断
せざるをえない。2・9号墳は主体部が胴張型の横穴式石室であったが、玄室の平面形態が馬蹄形状を
呈するものか不明であるため7世紀以降の築造としか言えない。また、6号墳は東側にある16号土坑か
ら7世紀末∼8世紀初頭頃の須恵器長門瓶が検出されており、何らかの関係があるとは思われるが詳細
は不明であるため、同じく7世紀以降の築造としか言えない。4号墳は伴う遺物はないが、主体部が馬
蹄形状を呈する胴張型の横穴式石室であることから7世紀後半以降の築造と思われる。
籠掌裏古墳群のうち、時期が判別された古墳は7世紀後半から8世紀初頭までの短い期間に収まる。
しかし、出土遺物の僅少さや皆無であること、また出土遺物は羽指ないし埋葬後の儀礼などに伴う可能
性もあるため、各古墳の具体的な前後関係を把握することは難しい。ただ7世紀後半頃の築造とした!・
10号墳は、古墳群の中でもやや先行するものとみて間違いないと思われる。周辺には7世紀後半以前の
古墳が存在する可能性もあるが、現時点では7世紀後半以降のものが多く、追葬及び埋葬後の儀礼など
が行われた可能性も含めて古墳群は8世紀初頭まで機能していたと考えられる。
四四裏古墳群1・2・10号墳について
まず1号墳について。1号墳はその平面形態から八角墳と判断したが、ここでその根拠を提示し、八
角墳としてどういつだ特徴を持つかについて述べる。なお、八角墳はその呼称も様々であり、「八角墳」
の他に「八角形墳」という用語も多くみられる。ともに同じ古墳を指す用語であるが、紙数の都合もあ
り、定義については触れられない。本報告では「八角墳」を使用することをお断りしておく。
八角墳に限らず多角形状を呈する古墳であることを示す基準として第一に挙げられるのは、葺石の配
列状況である。1号墳では前庭部付近や墳丘東側で検出された葺石(A∼D:第5図参照)が直線的な
配列状況を示している。葺石は所々を欠くが、一辺約5mで直線的に配置されており、八角形の辺に沿っ
て巡っている。そして残存する葺石に伴って等高線も八角形状を呈しており、墳丘も警部をみると北東
辺がやや膨らんでいるが、他は葺石と同じく一辺約5mの八角形状を呈している。周堀も幅約2.5mでや
やいびつではあるが八角形状に巡っており、主体部を挟んだ稜角(C・D)の延長線上から掘り込まれ
ている。また周堀北辺と南西辺の稜角(E・H)の延長線上には張り出し部が設けられており、ちょう
ど稜角の位置にあるのはなんらかの意味を持つものと想定される。
以上のことをまとめると下記のとおりとなる。
①残存する葺石は約5m単位で直線的な配列になっており、八角形の辺に沿って巡っている。
②等高線も葺石の残存箇所では直線的であり、八角形状を呈する。
③墳丘裾部のラインが八角形状を呈する。
④周堀は主体部を挟んだ稜角の延長線上から掘り込まれており、八角形状に巡る。また、北辺と南西
辺の稜角の延長線上には張り出し部が設けられている。
1号墳は全国各地の八角墳とされる古墳と違い、いわゆる「外護列石」が存在しない点、また稜角に
大きい石を配置しない点などから八角墳とするにはやや不安な面もあるが、平面形態を主とした上記4
一63一
点を根拠に八角墳とみなすこととして、次に1号墳の八角墳としての特徴について述べる。
地方の八角墳は近年における検出例の増加に伴い、正八角形を呈する畿内の八角墳とは様相が異なる
ことが指摘されている。脇坂光彦氏は地方の八角墳の特徴として、正八角形を呈するものがないことや
墳丘が小規模であることなどを挙げている(脇坂1992)。また、小林利晴氏は東京都多摩市稲荷塚古墳の
調査結果から畿内と地方の八角墳について比較検討し、地方の八角墳は施工誤差により正八角形にはな
らないこと、畿内の八角墳は墳丘が強固な版築技法による築造であるのに対して地方の八角墳は版築技
法を用いないことを述べている(小林1996)。地方の八角墳でも群馬県吉岡町三津屋古墳は、唯一正八角
形を呈するものであり、その整然とした状況から多くの場合例外として扱われているが、三津屋古墳も
含めるならぼ両氏の指摘は必ずしも的確であるとはいえない。ただ三津屋古墳以外の八角墳においては
通有の特徴であることは確かであり、1号墳にも当てはまる事項といえる。
1号墳は石室開口部を南辺中央に据えた八角形を呈する。残存する葺石から内角をみるとAは138.、B
は134.、Cは145.、 Dは1380を示す。また参考に葺石の崩落した墳日動部ではEが140Q、 Fは136.、 Gは134◎、
Hは142.を示す。通常正八角形ならば内角はユ35Qとなるが、!号墳では135Q前後を示すものの均一ではな
いことから正八角形にはならない。そして、墳丘は本古墳群では大きい部類に入るが大規模とは言えず、
築造方法も版築による築造ではなく周辺にある円墳と変わらない。また梅澤重昭氏は、三津屋古墳及び
稲荷塚古墳を例に八角墳は墳丘に八角形プランを採用しながらも石室構造は地域の伝統を踏まえている
(梅澤1997)とするが、このことも1号墳に該当する事項といえる。
東日本の八角墳とされる古墳については、尺度(唐尺:30.3c墾、高麗尺:35.6cゆや対比率を用いた
築造企画が想定されている。三津屋古墳は周堀、墳丘第一段、第二段の八角形の一辺が唐尺で40、30、
20となり、八角形一辺を基にした築造企画であった可能性が指摘されている(瀧野1997)。また、稲荷塚
古墳では高麗尺で石室全長が20尺、:墳丘2段目対角間が60尺、周堀対角間が100尺を測ることから1:
3:5の比率で築造されたことが述べられている(桐生1997)。しかし、その一方で山梨県一ノ宮町経塚
古墳では、計測地をいずれの尺度で換算しても納得できる数値を算出することができない(吉岡1997)
とされており、尺度や対比率を用いた企画性が八角墳すべてにみられるとは限らないようである。
1号墳については、石室全長と墳丘の八角形一辺が約5m(唐尺では約16尺、高麗尺では約14尺)を
測り、ほぼ同一となることから石室全長を基に墳丘を築造した企画であったことが予測される。しかし、
墳丘一辺と周堀一辺(約8.5m、唐尺:約28尺、高麗尺:約24尺)は比例せず、また墳丘対角問(約13m、
唐尺:約43尺、高麗尺:約37尺)及び対辺間(約12m、唐尺:約40尺、高麗尺:約34尺)と周堀を含め
た対角間(約22m、唐尺:約73尺、高麗尺:約57尺)及び対辺問(約20.5m、唐尺:約68尺、高麗尺:
約58尺)に稲荷塚古墳のような対比率を求めることはできない。1号墳は墳丘については企画性を持っ
た築造と言えるが、周堀は墳丘との対比率などをあまり重視せずに掘られたと思われ、稜角E・Hの延
長線上にある張り出し部は、その産物と考えることもできるのではないだろうか。
地方の八角墳は通有の特徴を有するものの築造企画や構造など細部においてはそれぞれ異なる特徴を
有している。1号墳も地方の八角墳として通有の特徴を持ちながらも、築造企画では前述のとおり嘉例
とやや異なる。また構造の面でも不安材料として挙げた外界列石がない点、稜角に大きい石を配置しな
い点などは他例と異なる特徴とみても良いのではないだろうか。八角墳自体の類例が少ないため確証は
一64一
得られないが、1号墳については上記の特徴を有する八角墳として想定しておきたい。
次に2号墳について。2号墳は1号墳とともに発掘調査時から八角墳とされてきた。しかし、整理調
査の結果、2号墳を八角墳とするには難があると判断した。確かに残存する葺石から平面形態を復元す
ると多角形状を呈しているが、その角度はllO∼i57.とまちまちであり、1号墳のような規則性はみられ
ない。また周堀も幅、形状がいびつであり、八角形として捉えることはできない。2号墳の葺石の直線
的な配列は、むしろ築造段階で生じた作業単位によるものと考えられるのではないだろうか。2号墳は
多角形状を呈するものの規則性がみられないことから、円墳の範疇で捉えることにしたい。
10号墳(第40図)は、墳丘北東部1/4程のみ調査された。葺石はほとんど崩落していたが、東側葺石
の根石付近のみ原位置にあり、直線的な配列であった。稜角は推定で137.を示す。また葺石に伴って等高
線も直線的であり、八角形の辺に沿った形状をしている。前庭部付近の葺石も上面一部のみの確認であ
るが138.の角度で八角形の辺に合致している。!0号墳の八角形を想定すると一辺は1号墳と同じく約5
mとなる。ただ石室全長が不明なため企画性については定かではない。また1号墳同様、外野列石がな
く、稜角に大きい石を配置した様子もみられない。10号墳は八角墳とするのに適当な要素を持っている
が全体を調査したわけではないため、現時点ではその可能性が高いという見解に留めておきたい。
以上、1・10号墳については八角墳ないしその可能性があるものと判断した。地方の八角墳は単独で
存在するものが多くみられるが、1・10号墳は円墳を主体とする古墳門中に存在するという点で他例と
異なる事例といえる。ただし、両墳は円墳より時期的にやや先行する点は注意しておくべきであろう。
八角墳はその存在について批判もあるが、三津屋古墳のように明らかに八角墳と認められるものが地
方にあるのも事実である。1・10号墳は外護列石がないこと、稜角に大きい石を配置しないことから八
角墳とするにはやや不安な面もあるが、これらを特徴とみるかあるいはもっと根本的な理由として八角
墳でないことを示すのか意見の分かれる所であろう。ただ、両墳は平面的に八角形状を呈し、地方の八
角墳としての特徴も持っている。また本古墳群周辺は渡来系と目される幡羅郡に属するが、群馬県内で
も八角墳(可能性のあるものも含)が多くみられる野毛地域は、渡来系氏族の地域とされている。こう
した点からも両墳を八角墳として認めることのできる一因になるのではないだろうか。
被葬者像について
籠原裏古:墳群は、出土遺物と主体部の検討から主に7世紀後半から8世紀初頭頃までの古墳群と考え
られ、現時点では長期間にわたって継続して築造される古墳群ではない。北武蔵における古墳時代後・
終末期の古墳の様相について論じた杉崎茂樹氏は、6世紀前後から7世紀代まで築造された古墳群を
「500年前後型」、7世紀前後から全般にわたって築造されたものを「600年前後型」と分類した(杉崎1993)
が、籠原潜古墳群は後者に該当するものの現時点では後者でも後半に限定される。
7世紀後半という時期は、本古墳群の北西約2kmに所在する古代幡羅郡衙の推定地である深谷市幡羅
遺跡や8世紀初頭頃の創建とされる西別府廃寺、7世紀後半から平安時代末までの長期間にわたって祭
祀の行われた西別府祭祀遺跡などの郡衙及び関連遺跡が出現する時期である。西別府廃寺は創建時期が
本古墳群の最終段階にあたるが、幡羅遺跡や西別府祭祀遺跡とはまさに同時期に出現ないし並存してい
たこととなり、これらの遺跡群との密接な関係が想定される。そして、このことは被葬者の問題に直結
すると思われ、特に1号墳の存在は大きな意味を持つと思われる。
一65一
1号墳は八角墳という特異な平面形態であり、双脚足金具を含む刀装具の存在から方頭大刀が副葬さ
れていたことが想定される。方頭大刀は有力な終末期古墳に副葬されるものであったと考えられており、
西戸9号墳出土遺物について論じた大谷氏は、双脚足金具を含む刀装具の存在から西戸9号墳に方頭大
刀が副葬されていた可能性を指摘し、さらに近隣に所在する7世紀末の建立とされる鳩山町小用廃寺と
結びつけて被葬者が小用廃寺を造営し得る有力者氏族であった可能性を示唆している(大谷1989)。
籠原裏古墳群は郡衙及び寺院、祭祀遺跡などが密集する地域に近接していることから、被葬者はこれ
らの造営に係わった有力者氏族であった可能性が考えられる。そして、その内容からみて1号墳被葬者
を頂点とし、また渡来系氏族的要素を備えていたとも考えられるのではないだろうか。
以上、紙数の都合もあり駈足で述べた。不足な面があることは否めないが、終末期古墳あるいは八角
墳の資料として今後活用していただけたら幸いである。
引用・参考文献
紙数の都合により報告書は、必要と思われるもののみ掲載した。
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一66一
図版1
ザ態 、 ^、、、 、 ﹁一r ﹁F黛
戦鞭睡 懸懸謎轟艦
螂
饗郷
声滋’ 『
籠原中央第一±地区画整理事業地内全景(真上から)
籠原中央第一土地区画整理事業地内全景(東から)
図版2
蔓1
︵面穀旧匪︶暇酬︵凶く細鴨囲世る屡阻︶凶胃罧
瀦鞠
一仁
響
馨
膨勧
︵0灸引凪︶暇釧︵凶oコ細罵醤措ぺ⑩黒阻︶凶寸罧
図版3
1騰
撃
ξ『『、1
ぼ滋
砿重、・
.O/輩、
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己
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縛態.
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齢
第5区(昭和63年度調査A区)全景(真上から)
叢姫覇簿旙
潅壽3塞毎遜郵
瓢蟻総受窺
第5琶(昭不063年度調査A区)全景(南西から)
図版4
ボ
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噸 鯉麟.−
劉湘難、粥
欝・煮 一 霧 ︸ . 働 f 穿
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ハノ
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鞠沸.、
』繕。.羅、
鰐
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第1区(平成元年度調査B区)全景(南西から)
重強
1 嚢
養
1
蝿魁議隔
麓翻露臨.
f彗
¥
第6区(平成元年度調査A区)全景(西から)
図版5
第1号墳(昭和61年度調査・南から)
第1号墳(平成元年度調査・北東から)
図版6
第1号墳(平成元年度言周査・南東から)
第1号墳(平成4年度調査・北東から)
図版7
第1号墳石室(南から)
vグ
訓轟
第1号墳石室(西から)
図版8
第1号墳葺石崩落状況(昭和61年度調査)
第1号墳 葺石崩落状況(平成元年度調査)
第1号墳 葺石崩落状況(平成4年度調査)
第1号墳 南東側周堀(昭和61年度調査)
第1号墳 北東側周堀土層断面(平成4年度調査)
第1号墳石室近景
第1号墳石室(前庭部から)
第1号墳石室羨門部付近(東から)
図版9
第1号墳石室 玄門部付近(東から)
第1号墳石室 玄室東側壁(礫床除去後)
第1号墳石室 玄門部付近(西から)
第1号墳石室 玄室西側壁(礫床除去後)
第1号墳石室(礫床除去後)
第1号墳石室 羨道部東側壁(礫床除去後)
郵『’
第1号墳 玄室奥壁(礫床除去後)
驚
第1号墳石室 羨道部西側壁(礫床除去後)
図版10
鷺
第1号墳 前庭部東側葺石
第1号墳石室 鞘口・鞘尻金具出土状況
獅蓋r置潔認
第1号墳 前庭部西側葺石
第1号墳石室 刀装具出土状況
麟
第1号墳石室 双脚足金具出土状況
第1号墳石室鞘口金具出土状況
第1号墳石室 鞘尻金具出±状況
作業風景
図版11
第2号墳(南から)
・噸・ぜ穿,
無野
竿
塾
第2号墳(北から)
図版12
騒 .
嚢、
.翻
第3号墳(南から)
第3号墳石室(南から)
図版13
第3号墳石室 玄室東側壁
.鯛『
第2号墳 主体部(南から)
第3号墳石室 羨道部西側壁
第2号墳 前庭部礫・遺物出土状況
第3号墳 前庭部東側葺石
第3号墳石室(前庭部から)
第3号墳 前庭部西側葺石
図版14
毎幽
>β
第4号墳(南西から)
第4号墳石室(南から)
図版15
第4号墳石室 玄室奥壁
第4号墳石室 玄室西側壁
第4号墳(礫床除去後)
第4号墳石室 玄室奥壁(礫床除去後)
第4号墳石室 玄室東側壁(礫床除去後)
鷺。
、二登考
第4号墳石室
玄室西側壁(礫床除去後)
第4号墳石室 羨道部東側壁(礫床除去後)
第4号墳石室 羨道部西側壁(礫床除去後)
図版16
齢
第5号墳(北西から)
、々
メ ・,
﹁〆
、.ぐ婬
ー急
・∴壌繭擁飛M、㌧
葎∵きレ溝、﹄
第6号墳(南東から)
慧 ︵
パ蕊
蕊甲
、、野4ぎ .
図版17
ぞ﹁
講
第7号墳(南東から)
謎凝
、窮
第8号墳(南から)
図版18
驚
難叢驚
,二罫・
、灘難
、議藩欝
・蒙縫慧
盤
壁耐
第8号墳石室(南から)
驚蝦㌧餅
類鷺2
霧
、、N
灘媛
滋’ヂ
恥。篠、卿一窪い
,ち,
第8号墳石室(東から)
図版19
第8号墳 北東側周堀(南東から)
第8号墳 南西側周堀(南東から)
第8号墳石室
﹃轟
《
第8号墳 前庭部西側葺石
第8号墳石室 玄室西側壁(南から)
㌧一・諭款:
玄室西側壁(東から)
第8号墳石室 羨道部西側壁(東から)
第8号墳石室 羨道部西側壁(南から)
第8号墳 前庭部東側葺石
図版20
縣蓼鷲翻難爆
第8号墳 玄室西側壁(礫床除去後)
第9号墳 墳丘土層断面(北西から)
第8号墳石室 人骨出±状況
第9号墳 墳丘土層断面(北東から)
第8号墳石室 鉄鎌出±状況
第8号墳 周堀内±器出土状況
第9号墳 北西側周堀
第9号墳 東側周堀
図版21
第1号墳刀装具一括(第9図1∼6)
第1号墳第9図1・2
第1号墳第9図3
図版22
第1号墳第9図4
第1号墳第9図5
第1号墳第9図7
第1号墳第9図6
図版23
第7号墳 第20図2
第1号墳第9図8
第3号墳 第15図1
第8号墳 第25図15表
第5号墳 第18図1
第8号墳 第25図15裏
灘難響雛羅雛
第7号墳 第20図1
鱗…無聯霧懸懸羅
第8号墳 第25図16
図版24
第8号墳 第25図1∼8
第8号墳第25図9∼13
図版25
第1号墳第27図27
第4号墳 第35図3
第1号墳第28図29
第1号墳第27図5
第1号墳第28図30
第1号墳第27図6
第1号墳第28図31
第1号墳 第27図13
第1号墳 第28図33
へ\
第28号墳 第29図1
図版26
第2号墳第29図29
第2号墳
第30図67
おノ
繕掌
第2号墳 第29図32
第2号墳 第29図35
第2号墳 第30図70
第2号墳 第30図48
第2号墳 第31図98
第2号墳 第30図49
第2号墳 第31図99
図版27
『聴欄耀曝暴
陰
第3号墳
第3号墳 第33図1
第33図30
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一∼}。
第3号墳 第33図5
第3号墳 第33図8墨書
第3号墳 第34図54
第7号墳 第36図2 3
第3号墳 第33図13
第8号墳 第37図4内面
第3号墳 第33図26
第8号墳 第37図4
図版28
第1号墳第27図15・16・
18∼20・
23∼25
第2号墳第30図72∼75・
第31図78∼80
第2号墳 第31図85∼88・
90・91
図版29
第3号墳 第33図31∼38
第3号墳 第34図39∼53
第1号墳第28図34∼36
第3号墳 第34図60・61
図版30
第2号墳 第32図104・105
第2号墳第32図106・107
撫
第1号墳第27図1・2
第8号墳 第37図2
第1号墳第28図37
第8号墳 第37図3
第8号墳 第37図1
第2号墳 第32図108
報 告 書 抄 録
ふりがな
かごはらうらこふんぐん
書 名
籠原裏古墳群
副 書 名
平成16年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書
巻 次
㎜
シリーズ名
㎜
シリーズ番号
一
編著者名
松田哲
編集機関
埼玉県熊谷市教育委員会
所 在 地
〒360−8601熊谷市宮町2−47−!TELO48−524−1111
発行年月日
西暦2005(平成!7)年3月31日
引
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ふりがな
梶@ 在 地
コード
北緯
醐村轡翻
(oξ”)
東経
翻査期間綱査面積 調査原因
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ふりがな
1986080!
くまがやしおおあざにいぼり ほか
F谷市大字新堀801他
@∼
P9861015
198711!2
くまがやしおおあざにいぼり ほか
F谷市大字新堀355−2他
かごはらうらこふんぐん
熬燉?テ墳群
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I9880307
くまがやしおおあざにいぼり ほか
F谷市大字新堀787−2他
2,694
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96
36。
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Q01
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1,100
19890208
区画整理
540
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P989033!
X路築造
@工事
1989!009
900
撃堰I9900i29⋮
くまがやしおおあざにいぼり ほか
F谷市大字新堀3534他
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1993!!10
くまがやしおおあざにいぼり ほか
F谷市大字新堀803−5他
所収遺跡名
種別
主な時代
@∼
I9940107
主な遺構
主な遺物
縄文土器・石器}㎜幣””階響騨一一一一一一一一 一一一一一
縄文時代前・中期一一}一一一一皿}}㎜}一一一一一一國一皿附………
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特記事項
1号墳は平面形態が八角形を
謔キる八角墳であり、主体部
テ墳 9基 {恵器・土師器 ゥらは刀装具が出土した。
S製品・銅製品闇鼎騰楠”滞}哨一一一一一一一一 一一一一一
籠原裏古墳群
古墳跡
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@ 平安時代
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{恵器・土師器
D紬陶器
y製品・鉄製品
ホ製品一㎜㎜牌糟早騨”一一一一一一 一 一一一一 Q___一一一一P一一一一一一一…}}尉”牌…朧
@ 中・近世
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陶磁器・石製品
平成16年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書
一熊谷都市計画事業籠原中央第一・土地区画整理事業地内遺跡発掘調査報告書II一
籠原裏古墳群
平成17年3月31日発行
発行/埼玉県熊谷市教育委員会
印刷/朝日印刷工業株式会社
論
さくらのまち“熊谷”