Title 子どもの権利と家族法についての一素描 Author(s - HERMES-IR

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子どもの権利と家族法についての一素描
許, 末恵
一橋論叢, 112(4): 650-664
1994-10-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/12289
Right
Hitotsubashi University Repository
子どもの権利と家族法についての一素描
︵3︶
末 恵
いうまでもなく、予どもや子ども期のもつ意味は、歴
ぱまで遡ることができるが、今日のような形で子どもの
広がりを見せている。子どもの権利の歴史は一九世紀半
の危機的状況への関心を反映してか、かつてないほどの
近年の子どもの権利に対する関心は、世界的な子ども
から物語るものであろう。■
たということは、子どもの権利の問題の重要性をおのず
際的な合意が比較的短期間のうちに条約として具体化し
らず、そうした違いをこえて、子どもの権利に関する国
は国や地域、民族や集団によっても異なる。にもかかわ
史的にも文化的社会的にも異なっており、子どもの地位
権利が論じられるようになったのは一九六〇年代終わり
しかし、別の側面からみれば、このような相違がある
する︶の成立︵一九八九年︶はやはり大きな意義をもつ。
童の権利に関する条約︵以下、子どもの権利条約と略称
の激しさを意味するのであろうが︶、その中で、国連児
︵ということは、それだけ、この間の子どもの権利侵害
局、権利条約の規範的要請があいまいとなり、画餅とな
どもの状況︵子どもの権利の侵害状況︶の違いから、結
もの権利の内容そのものの多義性と、それぞれの国の子
効性の点でやや不安を生ずるものとはいえまいか。字ど
︵2︶
︵1︶
から一九七〇年代にかけてといってよい。この二十数年
にもかかわらずに権利条約が成立したことに、条約の実
はじめに
許
間の子どもの権利論の展開には目をみはるものがあるが
第4号 平成6年(1994年)1O月号(48)
一橋論叢 第112巻
650
(49)子どもの権利と家族法についての一素描
る可能性もないわけではない。子どもの権利条約に関し
られるときの子ども︵o⋮α︶ということにもならない
条︶、未成年者︵邑;﹃︶イコール子どもの権利が論じ
為をなす能力を得るが、行為によっては成年年齢以外の
ては、国内の法令の単なる文言上の調整にとどまらない、
具体的な条約の実施の中で条約の精神を実現し.ていく必
︵4︶
要は、他の国際的な人権条約以上に大きいものがある。
︵5︶
本稿は、子どもの権利の問題,を家族法の文脈で考察し
年齢に達することでその能力を取得する場合のあること
やや異なった観点から総論的な検討を素描的に加えてみ
︵6︶
の有 益 な 検 討 が な さ れ て い る 。 そ れ に 対 し 、 本 稿 で は 、
民法が財産的取引行為を主に念頭に置いて成年年齢を満
︵7︶
はあらためて指摘するまでもない。また、歴史的には、
は私法上は親権から全面的に解放され、独立して法律行
ようである。確かに、成年に達することによって子ども
ようとするものだが、同様の観点からはすでにいくつか
たい。そのため、文献等の引用も不十分であることをお
って成年年齢が異なるのはいうまでもない。
二〇歳としたのとは別に、社会的には±二歳から十五歳
︵8︶
前後で一人前の資格を認められていたとされる。国によ
断りし て お く 。
日本での批准をめぐって議論が対立したのは、o⋮oの
は、﹁子ども﹂という概念である。子どもの権利条約の
子どもの権利の問題を論ずる際に見落とされがちなの
人と子どもを区別しているのかであり、また、子どもと
定的な意味があるわけではない。問題は、何をもって大
いているのであづて、特定の︵二〇歳という︶年齢に決
するとしても、それには多分に社会的文化的な要因が働
このように、例えば成年をもうて大人と子どもを区別
語を﹁児童﹂と訳すか、﹁子ども﹂と訳すかであり、そ
みなされることにどのような意味が付せられているかで
一一子ども
の背景にはそれぞれの子ども観も反映したようである。
まず考えられるのは、運動能力や言語能力、再生産能
あろう。
れるわけではない。
力等の発達である。しかし、この過程は段階的であり、
しかし、﹁子ども﹂と訳したからといって問題が解決さ
法律的な成年年齢は日本法では満二〇歳だが︵民法三
651
一橋論叢 第112巻 第4号平成6年(1994年)1O月号(50)
また、これらは身体的な成熟にすぎないので、実際には
次に、子どもについてどんな権利が問題となっている
一一一子どもの権利
のかをみてみよう。
これらの能力の発達により直ちに大人として扱われるこ
とにはならない。
間題となり得る。また、判断を要する行為は多様なので、
なる。理性は、子どもだけでなく、大人とされる者にも
利の語を使用していることにもあらわれているし、また、
わけでもない。それは、法律学以外の論者が子どもの権
具体的な内容について相互の了解のうえで使われている
﹁権利﹂の観点からのみ使用されているわけではないし、
子どもの権利という言葉は必ずしも厳密に定義されて
では、理性的判断を下せることが大人の基準なのだろ
それぞれについて異なった判断力を要求されることにな
子どもの権利の類型化について対立する陣営が同じ用語
うか。ここでは、理性という概念のあいまいさが間題と
る。同様の問題は、成熟や経験といった基準についても
︵9︶
権利﹂はいくつかの異なった観念を含む包括的な考えで
を使用していることにもあらわれていよう。﹁子どもの
指摘できる。大人と子どもを区別する明確な基準は、ど
あり、場合によっては﹁スローガン﹂でもあることを理
こにあるのだろうか。
また、子どもは、発達の可能態、未知の可能性、ある
もしれないが、なお子どもの権利の具体的保障の観点か
のカタログをもった以上、こうした側面は薄れているか
すでに子どもの権利条約という具体的な子どもの権利
解する必要がある。
いは未来の希望といったポジティヴなイメージをもつ一
おんなこ
方で、﹁女子ども﹂という範醸にもある中ことく、劣った
きだろう。子どもは弱さや非合理性といった属性を与え
らは、その具体的内容の考察は重要な示唆を与えるもの
︵10︶
者としての位置を与えられていることも指摘しておくべ
られ、しばしば依存を強制される︵期待される︶。大人
と思われる。
であっても、劣ったものとみなされる者、独立の人格を
無視される者も﹁子ども扱い﹂される。子どもにはネガ
ティヴなイメージをも伴うことを軽視すべきではない。
652
(51)子どもの権利と家族法についての一素描
1 子どもが権利をもつということの意味
保持者に可能にする。権利は権利保持者に尊敬と尊厳を
へつらいや懇願なしに自己のものを要求することを権利
権利をめぐっては法哲学上の活発な議論があるが、そ
可能にするのであり、慈悲や同情では権利の代わりにな
︵11︶
れについて詳細な検討をすることは到底筆者にはできな
分であり、国家がそれに介入することは市民社会におけ
人︵特に親︶が子どもの利益を考慮して保護をすれぱ十
くつかのヴァリエーションがあるが、典型的なのは、大
の権利否定論について考えてみよう。この考え方にはい
まず、子どもに権利を認める必要はないという子ども
意味について、簡単にみておきたい。
した﹁権利﹂概念のもつ情緒的作用は、新たな社会現象
社会統制及び法形成において重要な役割を演じる。こう
訴える一定の情緒的性格を帯びたことぱとなり、それが
において担ってきた実際上の作用の故に、人々の感性に
とき、その概念は、歴史的社会的に日常生活や裁判活動
下のように指摘される。﹁権利﹂という語が使用される
好美教授は、﹁権利﹂概念の現実的機能について、以
らない。
︵蝸︶
る個人の自由と尊厳を侵害するというものである。子ど
に対処すべき新たな法形成をする場合に、とりわけ有効
い。ここでは、子どもが﹁権利﹂をもつことの実際的な
もは能カを欠くものとみなされ、社会的プロセスヘの完
に機能する。権利とは、静態的には、法律や裁判所によ
それに対し、子どもに権利を認めることの意味は何か。
別の保護を与えられる。
利﹂的に構成して発言することにより、﹁権利﹂概念の
利益についてその法的保護を求める主観的欲求を﹁権
る人の自由な活動の範囲を意味するが、未認知の一定の
︵16︶
全な参加を否定され、親と国家のコントロール下におか
って認知され定着している法秩序によって認められてい
︵12︶
れる。しかし、権利を否定される代わりに、子どもは特
権利をいかに解するにせよ、権利の保持者は、一定の
もつ情緒的作用に受け取り手を反応させることができる
^13︶
事がらに対する請求を行うことについて法的に正統とみ
アメリカ合衆国において様々な差別撤廃運動が権利を
のである、と。
なされ、それは社会的にも承認される。そして、義務者
︵M︶
の義務違反に対しては一定の制裁が加えられる。権利は、
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一橋論叢 第112巻 第4号 平成6年(1994年)10月号 (52)
ぺきであるとの指摘もある。確かに、権利という場合に
︵珊︶
はその実現方法が法的にはまず問題となるので、そうし
こうした類型化は何人かの論者によってなされてい
た観点から子どもの権利として主張されるものをいくつ
るが、ここでは≦印巨の見解を中心にみてみたい。
旗頭として成功をおさめたこと、そして、子どもの権利
︵17︶
がこれらの運動の波及を受けて主張され始めたことも、
先進国であると発展途上国であるとを問わず、近年深
ω 幸凹巨は、重複のあるものの、四つのカテゴリーに
かのカテゴリーに分類してみることは有益であろう。
刻な状況を呈している子どもの貧困、剥奪、あるいは搾
子どもの権利を分類する。世界に対する一般化された請
﹁権利﹂のもつこうした機能を実証したものともいえよ
取の状況にてらすとき、権利否定論の依って立つ前提は
うo
もはや支持することはできない。では、子どもの権利論
療ケアヘのアクセス等︶、大人︵特に親︶による不十分
求権︵例えぱ、貧困や差別からの自申十分な健康や医
ステート・アクションに関して大人と同じ憲法上の保護
な監護︵虐待、放任、搾取等︶からの保護を受ける権利、
︵刎︶ ・ ︵η︶
なら、これらに有効に対処できるのだろうか。これに関
︵㎎︶
連して、子どもの権利の具体的保障の問題と関連して、
子どもの権利の類型化が間題となろう。
子どもの権利条約に規定された権利に関し、ユニセフ
同じように扱われる権利、及び独立に行動する権利の四
る。∼需昌彗による福祉の権利、保護の権利、大人と
ロール及び/又は指導から独立して行動する権利、であ
をもって同じように扱われる権利、そして、親のコント
は生存の権利、発達の権利、保護の権利、参加の権利の
︵23︶
2 子どもの権利の類型化
四つに分類し、石川稔教授はそれに自由の権利を加えた
的類型化は非常に困難であり、ユニセフの分類について、
く大人にも重要なものである。これらは、伝統的な権利
なものでもあるが、しかし、これらは、子どもだけでな
㈹ このうち第一のものは、子どもの権利の最も基本的
つの分類も、基本的にはこれと重複する。
︵㎜︶
子どもの権利に関する内在的分類というよりも、国家に
五つを基本的権利とされる。他方、子どもの権利の理論
よる子どもの権利保障の態様に基づく形式的分類という
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(53)子どもの権利と家族法についての一素描
る能力に欠き、大人の保護とケア、指導を要するという
第二のカテゴリーの権利は、子どもは自分の面倒をみ
あるという。
よりはむしろ子どもの保護の主張といったほうが適切で
ントというよりは、立法政策の問題であり、権利という
すなわち裁判所の決定により実現できるエンタイトルメ
に十分な合理性のないことは二でみた通りである。
る特別の保護の故に正当化されてきたが、これらの根拠
子どもの無能力や成熟性の欠如、あるいは子どもの受け
教育を課されてきた。こうした子どもの特別の処遇は、
き大人と同じ権利の享受を否定されてきた一方で、義務
動車の運転、飲酒、労働、デュープロセスの保謹等につ
㈹ 従来、子どもは、年齢を基準に、選挙権、婚姻、自
割を重視する。親がその役割を十分に果たせない場合に
合理的とし、大人と同じ権利を子どもに与えるという子
しかし、かといって、年齢に関するすべての差別を非
︵24︶
前提にたち、子の保護養育を委ねられた大人︵親︶の役
は、より高い水準のケアを保障するために、別の保護者
具体的で、立法的解決と同様に司法的解決も可能である。
いう。ただし、ここでの保護は第一の権利よりもずっと
もので、これも子の保護とみなしたほうが適切であると
きず、再検討しなければならないことを示すものとして
達も社会状況も変化した今日ではそのままの形で維持で
多くの年齢区分が歴史的偶然の結果であり、子どもの発
いかなる分割点︵o巨−o寓君−葦︶も窓意的であること、
ども解放論者の主張も行き過ぎであろう。彼らの主張は、
︵蝸︶
議論の中心は、子の養育における親と国家の適切な役割
重要である。その意味では、従来の年齢制限の緩和や撤
が用意される。これは子の自律や独立とは全く異なづた
であり、いかなるレヴェルの監護が子には必要か、それ
廃︵場合にようては厳格化も︶が必要になろうが、しか
意が必要である。
︵珊︶
ついているので︵刑事法の分野をみよ︶、この点にも注
あろう。また、権利の概念には責任の概念が密接に結び
︵η︶
し、子どもへの何らかの制限はなお多くの場合に健全で
はどのようにすれば最も良く提供され得るか、に置か
︵肪︶
れる。
子どもの自律や独立という意味での子どもの権利の主
張を最も進めたのは、したがって、第三と第四のカテゴ
リーの権利である。
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平成6年(1994隼)1O月号 (54)
第112巻第4号
一橋論叢
㈹ 最も困難で議論があるのが、おそらく最後のカテゴ
︵馳︶
のも、この領域である。
ある。子ども・親・国家の三者関係が複雑に・からみあう
︵釦︶
リーの権利であろう。親のコントロールや指導とは独立
法における子どもの権利が問題となるのも、主にこの領
権利が行使される場合には問題は特に複雑化する。家族
育など様々な領域で問題となるが、直接親に対してこの
か、第三に、国家は現実に親から判断の権能を奪うこと
過程のほうがその親よりも良い判断に達することになる
第二に、もしそうでない場合には、他の判断者又は判断
その子は十分にその判断を下すことができるかどうか、
親から判断の権威を排除すべきかどうかを判断する際
︵盟︶
には、次の五つの要因を考慮する必要がある。第一に、
して行動する子どもの権利は、少年司法や医療、学校教
︵”︶
域ということになろう。
ができるかどうか、第四に、家族自治と家族プライヴァ
従来、親は、虐待や放任等を理由として子に対するそ
シーにてらして、その判断を親から奪うコスト、第五に、
によづては、自律に対する子の利益にも等しい、あるい
の権利義務を剥奪されない限り、子に関する監護養育の
はそれに勝るかもしれないような親の利益があるかどう
その判断を子に与えないコスト、である。具体的な問題
間の画一化を排除し、社会における多元性を維持するた
かも考慮されなけれぱならないし、判断が子だけに付与
の権利性は、親を中心とする家族が子どもの画一化、人
めの機構として重視されている点から、説明される。そ
される場合には、親は子の行為について知らされるべき
権利義務を有していた。こうした親による子の監護養育
れに対し、このカテゴリーの権利は、虐待や放任がなく
かどうかも考慮されなければならないという。
て、就寝や入浴の時間、あるいは何を食べるかといった
この観点からは、例えぱ親もとで暮らす子どもについ
︵ ヨ o ︶
のコントロールから独立して行為する権利を子に認める
ても、子の独立︵成年到達又は未成年者解放︶前に、親
ものである。ただし、この権利は、独立して行為する権
ことについて子どもに決める権利がある、つまり、裁判
所にそれらの権利の実現を求めることができるというの
利を子に付与するという形をとることもあれば、子が裁
あるいは、親の決定を争うという形で行使されることも
判所その他の機関に対して自己の行為の認可を求めるか、
656
(55)子どもの権利と家族法についての一素描
は非現実的であり、その意味では、家族ユニツトのメン
ノーとしての子どもには完全な自律はないともいえる。
一、 ︵蜘︶
また、乳幼児についてはこうした判断はあまり問題にな
らないだろうし、年長になれぱ、これらの事がらについ
て自分で判断する範囲は実際には広くなる。
問題になるのは、一定の医療処置を受けること、麻薬
を与えつつ、それについて親に知らせるというやり方で
は、結局、子にその権利行使を薦踏させる方向に働くこ
とがある。
︵肪︶
これに関し、子どもに判断権を付与するためには、そ
の判断を下すに足る能カがあるかどうかを検討する必要
があるという主張については、すでに反論がなされて
いる。能力に基づく大人と子どもの区別は合理的な決定
︵蝸︶
、 ︵37︶
やアルコ.ールの摂取、中絶や避妊の処置、精神病院への
任意入院、学校や宗教の選択等一定のタイプの判断︵主
起すべきであろう。また、子どもがもっと責任を与えら
れない。
れるようになれぱ、健全な決定を下す能力も増す・かもし
ではなく 政治的ないし道徳的選択であるとの指摘も想
たる判断︵昌&O﹃宗Oζ昌・昌笑まσq︶︶について、それ
を、親ではなく、子ども︵実際には年長の子どもや青年
︵邑〇一g8葦︶︶に完全に委ねるか、それとも、親以外の
逆に、こうした判断をすることが子に害を及ぼすこと
もあり得る。これには、判断の結果が子に害を及ぽすこ
者︵裁判所や別の機関︶に最終的に委ねるか、である。
もちろん、これらの判断につき、親と子で意見が一致
ともあれぱ、判断の過程そのもの、自分で判断すること
り多くの権利を与えることは家族システムを破壊すると
判断を下すことができるとしても、家族の文脈で子によ
さらに、たとえ子どもが自己を重大に害することなく
カウンセラー等︶の役割は軽視できない。
どもの判断にかかわる援助者たる大人︵法律家、医師、
そのものが子に害を及ぼすこともある。この点から、子
︵38︶
する場合や親が子の利益を実現するような方法で判断を
下す場合には、問題はない。この場合、親は子の利益の
代理人とみなすことができる。問題は、親が子の利益を
代理していない場合である。親は、自分の手に負えない
子どもを精神病院に入院させたり、それが子どもの利益
に反すると知っていながら、娘の中絶を拒否することが
あり得よう。また、これらの判断について、子に決定権
657
橋論叢 第112巻 第4号 平成6年(1994年)1O月号 (56)
いう有力な反対論がある。子への自律の付与は家族の調
和を失わせ、家族自治を破壌する可能性があるというの
である。これは、子どもの権利が子どもをめぐる関係を
破壊するといういわゆる共同体破壊論に基づく子どもの
権利への反対と位置付けることができよう。奉與巨は、
︵39︶
家族紛争について常に裁判所が介入することになればこ
の危慎も当てはまるが、究極の判断の権威が子にあるの
なら、外部の介入は不要であり、家族のプライヴァシー
は残るので、問題はないともいう。
では、判断の権威が、子どもでなく、裁判所や児童発
達の専門家に委ねられるという場合はどうか。これに対
しては、専門家の判断といっても﹁子の最良の利益﹂を
客観的合理的に判断する科学的方法はなく、判断者の価
値判断の問題や専門性の問題が生ずることや、裁判所や
︵40︶
専門家の関わりは一時的にすぎないが、親は、子どもが
家族の一部である以上、子に継続的に援助や指導、支援
を与える主たる責任を負い続けるといった反論が可能で
あるが、それ以上に重要なのは、この選択肢のもつ社会
的含意である。裁判所や専門家が究極の判断者になると
いうことは、親が自律的に行為できないと社会が認める
ことであり、親は子に関する役割の引受けを薦購するよ
うになるかもしれない。それは、社会にとっても子にと
っても有害である。家族を促すためには、親が伝統的な
役割を引き受け、その役割を果たすことについて自信を
もたなくてはならない。確かに、今日のように子どもの
を下すことができなくなっているためでもあり、外部の
権利が問題となるのは、親が子どもの利益において判断
専門家による親の判断の見直しが必要な場合も少なくな
いが、かといって、伝統的な親の役割を廃棄することに
︵仙︶
は慎重な考慮が必要であろう。
。3 権利か、エンタイトルメントか
︵〃︶
ところで、カナダ、オンタリオ州の児董サーヴィスに
関する諮間委員会は、その報告書において、子どもの権
︵g葦一Φ昌①葦︶概念を採用している。これらのエンタイ
利に対抗するものとして子どものエンタイトルメント
トルメントには、能力のある親その他の監護者による一
貫した愛情ある監護、家族や社会の暴力.危害.虐待.
搾取等からの自申子どもに関連する個人やグループの
支援、必要な健康管理と治療・十分な栄養と住宅、教育
658
(57)子どもの権利と家族法についての一素描
の機会、自己の文化・宗教・言語に参加する機会、コミ
の指摘は、限られた資源の中での保護と自律の調整とい
︵の権利︶を脅かすことになってしまったとも読めるこ
う間題をも提起していよう。︵エンタイトルメントは、
ニニアィ及び社会全体への参加を含み、かつ、これらの
エンタイトルメントを社会により手続的権利としてだけ
本来、両者を含むものである。︶子どもの権利の実現に
は十分な資源の配分が必要だが、それがなお不十分なこ
でなく、実体的権利としても保護されることを要求する。
エンタイトルメント概念が採用されたのは、権利概念
︵蝸︶
とも、子どもの権利の実現を困難にする要因のひとつで
双方を含み、かつ、これらの権利の支援を確保するため
エンタイトルメント概念は、実体的権利と手続的権利の
−ズが十分に考慮されなくなづてしまったからである。
満たすために共同すべき人々を分断してしまい、子の二
国家が直接子どもの保護・教育にのりだすことを意味す
てきた。しかし、親の権威の低落と家族自治の崩壊は、
親の自律的権威と家族自治のもとで保護され、教育され
は親︶に法的にも日常生活上も依存してきた。子どもは、
子どもは従来、その監護を委ねられた大人︵たいてい
ある。
の集合的な社会的責任を示すものであって、子どもとそ
る。子どもの権利の主張は、親の権威の伝統の一貫した
四 むすぴにかえて
により児童サーヴィスが当事者対立的な様相を帯び、衣
食住や健康な発達というた基本的二ーズに対する個人の
実体的権利の保障よりも、デュープロセスのような手続
の家族を支援するための新たなパートナーシップに向け
後退の過程︵その反面での保護・教育に対する﹁法の支
的権利が重視されたために、かえって子どもの二ーズを
た概念でもある。
配﹂の一貫した進出の過程︶であり、﹁個人の自由の伝
ェルでの握言ではあるものの、子どもの権利に対する重
の不可逆的な流れであり、子どもは、直接に当事者とし
し、﹁文字通りの個人主義を実現していく傾向﹂の一つ
統﹂の理念が﹁親の権威の伝統﹂と衝突してこれを分解
これは、子どもと家族に対する支援サーヴィスのレヴ
大な問題提起とみることができる。自律や独立という意
味での子どもの権利の進展が逆に子どもの保護や福祉
659
平成6年(1994年)10月号 (58)
︵仙︶
て法・国家機構と対時する。
ここでは再び子どもをめぐる共同体と子どもの権利が
問題となる。いわゆる共同体破壊論に基づく子どもの権
利への反対とそれに対する≦g奏の反論が示すのは、
関係を分断するような形での従来の権利の理解に対する
重大な問題提起であり、子どもの権利の主張は、自律を
も課題は多い。今後も検討を続けていきたい。
権利の具体的な検討にまで至らなかったが、それ以前に
描にとどまってしまい、肝心の家族法における子どもの
ものでもある。本稿は、非常に粗雑なまとまりのない素
までの共通の認識︵とされていたもの︶の見直しを迫る
具体的な検討を要するとともに、根本的な諸概念やこれ
野を横断するテーマでもある。それぞれの分野での個別
アプローチを要する難問であるとともに、法律学の各分
子どもの権利の問題は、法律学にとどまらない学際的
ろう。
具体的な人間を把握しようとする試みといってもよいだ
も、能力/無能力というた二分法的思考への懐疑であり、
となり得るものである。それはまた、従来の大人/子ど
︵価︶
保護しつつ関係を促すという新たな権利概念の手がかり
第112巻第4号
一橋論叢
︵1︶ −≦−U−>.勺﹃oo胃−団P ..↓=o OoコooO↓ Oh Oす二〇﹃①コ、ω
雪oq;ω.、一=−o墨︸俸向.蟹毫8&.一ぎミ§s⑫9eミさ吻−
ぎ耐さ﹃Oミミミ曽︵εo。ω︶一M−L①。これは、いわゆる児童救
済運動の時期にあたっており、ここでの子どもの権利は主
︵2︶ アメリカ合衆国におけるゴールト事件判決︵一九六七
として児童の救済を意味した。
年︶が有名であるが、同時期に欧米各国で親子法に関する
法改正の始まったことも重要である。樋口範雄﹁﹃子ども
二︶のほか、特集・子どもの権利︵ジュリスト五四〇号、
の権利﹄思潮の展開﹂講座現代家族法三、五一頁︵一九九
一九七三︶、特集・各国親子法の最近の発展︵ジュリスト
その他参照。
六〇二、六〇四、六〇七号、一九七六︶に所収の各論文、
︵3︶ ここでは、アリエス﹃︿子供﹀の誕生﹄︵杉山光信・杉
︵4︶ 横田洋三﹁子どもの権利条約の国内実施﹂自由と正義
山恵美子訳、一九八O︶だけをあげておく。
四二巻二号六頁︵一九九一︶。なお、世取山洋介﹁子ども
七四号六頁︵一九九四︶参照。
の権利条約がわが国に与えるインパクト﹂法学セミナー四
︵5︶ 家族法とは何かという問題があるが、本稿では主とし
野の法は近年保護ないし福祉的色彩を強めているが︶。な
て家族に関する私法的規制を念頭に置く︵もっともこの分
七頁以下︵一九八七︶参照。
お、利谷信嚢﹁現代家族法の全体像﹂﹃家族と国家﹄一一
︵6︶ 子どもの権利条約以前に子どもの権利から論じたもの
660
(59)子どもの権利と家族法についての一素描
として、石川稔﹁親権法の問題点と課題﹂ケース研究二〇
一号二頁︵一九八四︶、同﹁家族法の中の子ども 子ど
どもの人権﹄一四二頁︵一九八六︶、同﹁親子法における
ものための家族法とは﹂ジュリスト増刊総合特集四三﹃子
血縁と養育−親子法の課題﹂ジュリスト八七五号七八頁
︵一九八七︶等。権利条約に関連するものとして、条約に
︵9︶ ︸.ωoす﹃饅oq一、↓すoO巨巨ヨ婁o冨−OHo彗..一§ミ富8ぎド
︵10︶ シュラミス・ファイアストーン﹃性の弁証法﹂九〇頁
くO−.竃︵冨ミ︶一冨↓しざ萬.
以下︵林弘子訳、一九八○︶。ただし、筆者は彼女の主張
︵11︶ 子どもが権利をもつということは否定できないが、子
に全面的に同意しているわけではない。
い ・つ ︵之. ]≦団oOo﹃目己o斥...O巨二旦﹃①目.ω 宛−oq=一ω一 > ↓o伽7
0剋ωo叶OH↓すoOユoωO↓宛−胴才片..一卜軸寒−肉蒔ぎ−昌曽﹄吻ogS−b砧−
どもの権利を権利論一般と調和させることは困難であると
二︶、家永登﹁家族法における子どもの権利﹂法律時報六
§S§ξ二寒︵冨O.M︶︶。この試みは、ミ.>寿彗俸=。−団甲
関する著書の中でふれられるほかにも、中川高男﹁家族の
五巻一二号六一頁︵一九九三︶等。なお、条約の制定過程
論稿参照。うち、司9き弩缶qの論稿については、米沢広一
o=oヰ①&、一ミぎ竃oミミ∼︵畠o.o︶︵特に第三部以降の諸
中の児童の権利﹂法律のひろば四五巻六号一八頁︵一九九
からその規範的意味を明らかにしたうえで、条約からみた
﹃子ども・家族・憲法﹄二一五頁以下︵一九九二︶に紹介
日本法の問題点を指摘する石川稔﹁親子法の課題 子ど
もの権利条約からみた課題を中心として﹂講座現代家族法
ミ§轟眈ミoミミさ曽︵−畠ω︶一−.黒冨壷胃一..↓ま向ヨ宰甲
がある。︶一⋮一U1>.句H霊昌op↓ぎお耐ミ︸sミ、き雨
①自o①O︷Oす=α﹃o目.ωカーOq=房、一〇さミさS§富−ミト餐−ω“ミー
三、三頁︵一九九二︶、同﹁子どもの権利条約における児
﹁児童の権利条約と家族法﹂戸籍時報四二三号二頁︵一九
童の意見表明権﹂別冊発達=一、四八頁︵一九九二︶、同
きεく〇一.①︵−竃①︶二2一甲≧g昌ミs−−&1一〇ミー巨ミs一
完清ミ吻§“§“卜s§︵竃竃︶等でもなされている。
九三︶は重要である。
︵12︶ −Oo巨99P>.写害匝俸>.−.ωo−邑戸bさミ§軸
︵7︶ いわゆる形成的身分行為については原則として意恩能
きg§膏§募gき岨9§︵冨お︶がこの立場の代表とさ
れる。
力があれぱ単独でできるものとされるほか、民法は明文で
︵七九一条、七九七条、九六一条︶。公法上の行為では、満
一五歳になれぱ氏の変更や養子縁組、壇言の作成を認める
>目巴苫赤..一qぎ§葛︸ミミoミさ§ぎb§︸屹卜s§お§膏§
︵m︶ ζ.ω1峯回−︷’..Oす=α﹃①■.閉刃−Oqす訂一>向H與自一〇≦OH斥↓OH
一号︶ほか、満二五歳ないし三〇歳で議員等の被選挙権を
一八歳で普通免許等が取得できる︵道路交通法八八条一項
されていたかどうかは問題であろう。
さ一﹂M︵;畠︶し箪M墨もづとも、実際に子どもが保護
︵8︶新版注釈民法ω、二四九頁[高梨公之]︵一九八九︶。
取得する︵公職選挙法一〇条︶のが顕著な例である。
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平成6年(1994年)10月号 (60)
第112巻第4号
一橋論叢
かを正しく評価する情報や能力に欠けているために、子が
討する。ただし、子どもはしばしば何が自分にとって最良
成熟したときに振り返ウてみて必要としたかもしれない主
︵14︶ 田中成明﹃現代法理論﹄二一二頁以下︵一九八四︶。
張︵回顧的主張︶を考慮しなけれぱならないし、自律利益
︵脆︶ −≦1 −︺. >. ︸﹃①9自団P 、↓すo −−自己冨 OH Oゴ=旦﹃o目、血
轟︷塞ミoミミ§ミげ完暗ミ︸︵一㊤竃︶一墨−賢
ゴリーに入るわけではない。最も重要な例外として、
︵22︶ ただし、すぺての子どもの権利の主張がこれらのカテ
族法﹄一三八頁以下︵一九九一︶に紹介がある。
竃﹃のこうした考え方については、島津一郎﹃転換期の家
場合には自律利益が下位に位置付けられるという。思訂−−
は基本利益や発達利益と抵触することがあり得るが、その
雪oqミω..一ζ.貝>‘︸H窒目凹目俸﹁<毘H昌彗&−一§“ミs㌣
︵16︶ 好美清光﹁﹃権利﹄概念の現代における有用性につい
九七六︶。
て検討せよ。﹂奥田昌道他編﹃民法学一﹂九−一一頁︵一
︵17︶ 樋口・前掲論文五四−五五頁。
例えぱアメリカ合衆国の状況につき、樋口範雄﹁子どもの
︵蝸︶ 世界的にはユニセフ﹃世界子供白書﹄で概観できるが、
ミ巴oは、監護権手続における子の役割をあげる︵奉饅頁
︵23︶ 写塁昌彗一8.oミ︵冒8=︶ら戸き﹃﹃1
sloきolM00Nらo冨−畠︶。
権利条約とアメリカ合衆国﹂法学セミナー四五七号一〇頁
︵一九九三︶、分析対象にやや偏りがあるが上坂昇﹃アメリ
︵24︶ ミ巴早o﹀o芦P墨F
カの貧困と不平等﹄︵一九九三︶、貧困の女性化という観点
︵25︶ ミo、寓卜、なお、これを﹁保護の権利﹂としても同様
︵冨違︶[﹃子ども その権利と責任﹄︵原忠男訳、一九七
︵26︶ 代表的なのは、﹄o;=〇一戸象S忘㌧ざ曽9︷ミぎ&
な観念である︵享塞ヨ彗一§ミ︵昌冨=︶ら■牽︶。
であり、権利としての保護は非常にバターナリスティック
から分析するものとして杉本貴代栄﹃社会福祉とフェミニ
︵19︶ 石川稔・前掲論文﹁親子法の課題﹂七頁及ぴ四八頁注
ズム﹄︵一九九三︶等がある。
七。
題﹂法律時報六一巻二二号二七−二八頁︵一九八九︶。
︵20︶ 世取山洋介﹁子どもの権利に関する条約案の法的課
七︶]一2争胃α向胃ω昌一§﹃きユ誓サ︵冨套︶である。
−︶・pωω・子ども解放論は、子どもの権利の名の下に、大
︵27︶ ミ巴PS.9戸oPN雪−畠〇一句﹃8ヨ彗もやoき︵;訂
︵21︶ 例えば、忌訂壷彗一8.o芦oP;o声は、個人又は
利益をもつことを社会的に承認することが権利の概念化の
あるクラスの個人が、他者の利益とは分離される、一定の
険性が高い。なお、佐藤幸司﹁未成年者と基本的人権﹂法
人による子どもの搾取を正当化する口実として使われる危
学教室;⋮号三九頁︵一九九一︶参照。
大前提であり、権利はそうした利益を保護するものと位置
益及び自律利益に分類し、それぞれについての権利性を検
付けたうえで、子どもの主張する利益を基本利益、発達利
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(61)子どもの権利と家族法についての一索描
︵28︶ ミ団頁§.oきo戸N8ーミo.
立つ親への通知義務﹂判例タイムズ四七六号二三頁︵一九
︵35︶ 例えぱ、松井茂記﹁未成年者の堕胎の権利と堕胎に先
八二︶。
︵29︶ 子どもの権利条約を特に親権法に関連して論ずるもの
頁以下等。
︵36︶米沢・前掲書二二頁以下、樋口・前掲注2論文七一
として、鈴木隆史﹁家族法からみた子どもの権利条約﹂立
正大学法学部創立十周年記念論集﹃現代の法と政治﹄二九
にとウても苦痛に満ちていることが多いが。
二二八参照。もっとも、自分で判断することは、実は大人
告A︵人文社会科学編︶第一七号︵一九九三︶、八七頁注
九八九年児童法についての一考察﹂神奈川工科大学研究報
に認めなかったのも、この考慮からである。拙稿﹁英国一
︵38︶ 英国一九八九年児童法が子どもの選択権をストレート
§ミミo§§びト昌εさs§鼻く〇一.㊤︵おo。①︶しk−蜆1
︵37︶ H≦﹂≦﹂コoξ一、刃川oqす房︷o﹃↓す①Z①嵩一〇〇目o﹃與巨o目、一き下
五頁︵一九九二︶、同﹁子どもの権利条約における﹃意見
法学六九巻四号二二一頁︵一九九四︶。親権法以外の分野
表明権﹄︵総論︶1親権体系への受容についてー﹂早稲田
でも子どもの権利・からの見直しの必要なことはいうまでも
ない。前掲注6の諸論稿参照。
︵30︶ 樋□・前掲注2論文五七頁。
︵31︶ 峯凹頁oサo芦Pミー1
︵32︶ この三者の関係につき、米沢・前掲書二四九頁以下は、
注2論文六七頁以下に紹介されている。
︵39︶ これに対する≦;ξの反論については、樋口・前掲
親と国家が対時する型、子どもと国家が対時する型、及び
国家の関与の下で子どもと親が対時する型に一応大別した
し、新たな判断基準を提唱したのが−ooδω曇目ミミ。
︵40︶ こうした閤題を避けるために子の利益の内容を明確化
うえで、それぞれで子どもの自立の最大化、親の養教育権
うに働くかにつき検討する。この三者関係は、どの類型の
祉を超えて﹄︵中沢たえ子訳、一九九〇︶]であるが、こう
黒さミき雨津段ぎ膏ミ貧㎞gき雨oミミ︵ε畠︶[﹃子の福
の保護、及び国家による子どもの保護という要請がどのよ
子どもの権利についても問題となり得るし、子どもの権利
した試みは今日では軽視されているように恩われる。
条約においてこの三者関係をどう理解するかは重要な論点
の一つである。
親によるこうした役割遂行を困難にしているかもしれない。
︵刎︶ 峯印頁§o芦oo、曽①﹃﹁近年の家族構造の変化も、
ω雨雨s汀P−.向o斥9凹凹﹃一..>H①勺與﹃①目房ζo﹃與=︸Oσ=o日①o↓o
︵33︶ ミ竺P9.o芦Pミー.
象徴的意味があり得るし、それが家族のカ関係を変える・か
︵34︶ミもちろん、こうした権利を子に付与することには
§夢きF=︵−8−︶一塞o−
○與﹃o︸O﹃一=9﹃Oす=O﹃oコ∼、.一〇さミさ篶§s−ミト§−ω“S−
雪︶。
もしれないが、そこまでする意味があるだろヶか︵目o箒
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平成6年(1994年)1O月号 (62)
第112巻第4号
一橋論叢
§9§ミミげωミミs︵冨岨o︶︵特に第三章以下参照︶。な
八八四号一六九−一七〇頁︵一九八七︶︵カッコ等は原文
︵44︶森田明﹁青少年の人権とパターナリズム﹂ジュリスト
︵一九九四年七月七日︶
一頁︵一九九三︶参照。
ける人間像の予備的考察︵四︶﹂産大法学二六巻三・四号
︵45︶ ≦昌きo,o芦oP旨Rなお、高井裕之﹁憲法にお
のまま︶。
︵42︶ Oミミ§s§;、完魯oミ呉き雨㌧、S竃QOo§§ミ§
四九頁以下︵一九九四︶参照。
お、高橋重宏﹃ウェルフェアからウェルピーイングヘ﹄一
︵43︶ 日本でも、いわゆる少子化の進行にともない、子育て
︵神奈川工科大学助教授︶
支援の名のもとに様々な政策がとられているが︵例えぱ
﹃厚生白書︵平成五年版︶﹄等参照︶、他方、なお不十分な
制度等、子どもとその家族に対する支援を行うことに対し
保育制度、要養護児童対策、ひとり親家庭対策、育児休業
ての資源の配分は決して十分とはいえまい。なお、∼雷−
冒曽一§ミ︵;冨冨︶一暑、竈声は、資源配分の問題を
含め、子どもの権利条約の実施に関連する諸問題を指摘す
る。
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