Title 国立国会図書館収蔵の「魚鱗冊」 - HERMES-IR

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国立国会図書館収蔵の「魚鱗冊」について
村松, 祐次
一橋大学研究年報. 経済学研究, 7: 247-325
1963-03-31
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/9382
Right
Hitotsubashi University Repository
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂につ いて
史料2、﹁長邑魚鱗冊﹂にっいて::
史料1、﹁元邑魚鱗冊﹂について⋮
開題−使用史料のリスト⋮⋮⋮⋮
⋮二七三
⋮一丞
⋮量O
⋮茜七
村 松 祐 次
史料3、﹁民国魚鱗冊﹂、およぴ史料4、﹁長元呉魚鱗冊﹂について:⋮:⋮⋮
について・⋮:二八九
目次
史料5、﹁呉県洞庭山魚鱗冊﹂、史料6、﹁鮎字圷魚鱗冊﹂、およぴ史料7、﹁剣字好魚鱗冊﹂
・:三〇五
この史料にあらわれた﹁魚鱗冊﹂の性質と、中国地主制の一二の側面−結語⋮・・⋮
以上
⋮≡七
史料8、﹁受字圷魚鱗冊﹂、およぴ史料9、﹁鴨城里内圷魚鱗冊﹂について⋮⋮・
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂
について 二四七
国立国会図書館収蔵未整理書の中に、 中国中部の農村地帯における徴税小作制度に関すると思われる、一群の手書
一 開 題
附註
七六五四三二一
一橋大学研究年報 経済学研究 7 . 二四八
本史料がある。ほとんど全部旧蔵書印によって、かつて東亜研究所の収蔵に係わるものであったことが知られ、従っ
て、大部分が、戦争中に日本へ舶載せられたものだと推察せられるが、従来これについて報告せられたことを聞かな
い。その一部を一通り通読して得た所見を書きとめて、将来研究の足がかりにしたい。
この作業の間国立国会図書館アジヤアフリカ資料室、および漢籍書庫の係りの方々、わけても大西寛、倉持徳一郎、
平和彦、吉田邦輔、建部喜代子の諸氏から、一方ならぬ御厚意をうけ、特に大西氏からは異字や草体字の読み方を、
何度も教えて頂いた。中山八郎氏からも、史料の所在および伝来について、重要な教示を受けた。例によって東洋文
庫近代史研究室の国岡妙子・杉野純子・伊藤文子、一橋大学経済学部の鶴淵文子・田代雅子の諸嬢には、何かと厄介
をかけた。記して厚く お 礼 を 申 上 る 。
先ず使用史料のリストを掲げておく。それは国会図書館収蔵中国農村関係文書の中、.こく限られた一部である。そ
れは現に、﹁魚鱗冊﹂という表題をもつものだけに限られる。国会図書館には外にも様々な中国農村関係文書史料が
収蔵されているが、その全体については別に、紹介を試みる機会をもちたい。
リストから直ぐ明らかになるように、それらは全て江南江蘇の、元和県・長洲県・呉県のものばかりである。時期
的には次の第一表の3を除き、成立年次を明記したものがない。ただ次表の史料番号−から5︵以下便宜上史料−から
5と呼ぶ、︶までが、比較的新らしく、同治位から後、民国四年︵一九一五年、史料3︶に至るものと思われる。次表の
6から9︵史料6乃至9︶は、これより成立が古いと思われるが、年代を確定しえない。しかしこの四点の成立が、少
︵1︶
くとも史料−15のグループのそれよりも、古いことは確かだと思う。
(9)(8)(7)(6)(5)(4)(3)(2)(1)表
国立国会図書館収蔵﹁魚鱗冊﹂リスト
﹁元邑魚鱗冊﹂、一帳二冊、縦三三二糎x横一三・五糎、二九丁+二九丁。︵東研・史・政書・邦計八四︶
﹁長邑魚鱗冊﹂、一枚一冊、縦三四二糎×横一九・六糎、一七丁。︵同右八三︶
﹁民国魚鱗冊﹂、一蚊一冊、縦三四・二糎x横二五・五糎、田形図一〇葉を仮綴す。︵同八五︶
﹁長元呉魚鱗冊﹂、一吸六冊、縦二五・○糎×横一五・八糎、計一一六丁を六冊に分綴す。︵同七三︶
﹁呉県洞庭山魚鱗冊﹂、一二較一二〇冊、縦二五・O糎x横二三・四糎︵同六六︶
長洲県﹁鮎魚字坪魚鱗冊﹂、一冊、史料ω、⑧と共に一枚、縦三二・五糎×横二二・七糎、近形総図共二八丁。
長洲県﹁剣字圷魚鱗冊﹂、一冊、縦三二・五糎×横二二・七糎、近形総図共二三丁。
長洲県廿四都二十九篇﹁受字圷魚鱗冊﹂、一冊、縦三二・六糎x横二八・八糎、計開表共一四丁。
﹁鴨城里内圷魚鱗冊﹂、一岐一冊、縦三〇・二糎×横一二・九糎、総図・計開共一五一丁。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二四九
けを、この小稿の目的にしたい。
付与する作業は、別の小稿で企てたい。差当っては史料の紹介と、そこから直接、具体的に読み取れる事実の指摘だ
書きとめておく。それらを利用して清代、民国の中国農民生活につき、さらに一層細かい分析や、より広い見通しを
これらのそれぞれを紹介して、個々の史料の体裁・内容・可利用性なぞにつき、取り敢えず朋らかにしえたことを
第
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二五〇
しかしそれにしても、これらの文書を通読する間に、同時か自分の念頭に浮んで、しばらく自分の脳裡を去来し、
結極それを中心にして、文書の読解を進めて行ったとも言える﹁問題﹂が、全く無かったわけではない。その一つは
﹁魚鱗冊﹂とここで呼ぶ史料の、当時中国の農村生活の中に果した役割である。誰によって、どんな目的のために、
﹁魚鱗冊﹂というものが、ここでは作られているのか。それと従来一般に受入れられている解釈との間に、相異があ
ヤ ヤ ヤ ヤ
るのかないのか、ということである。も一つは、そのようなものとしての﹁魚鱗冊﹂を通じて、中国近世のこの地方
の小作制度や、地主経営について、何が知られうるのか、それが従来自分なぞのもっていた知見に、つけ加える所が
あるのかないのか、である。元より魚鱗冊に関しては、従来仁井田陞博士を始めとする諸先学による研究が、大に行
われている。しかし今それらの全てに関説して、魚鱗冊についての考えを体系的に取りまとめる、などというには、
︵ 2 ︶
自分の見ている﹁魚鱗冊﹂の数が第一余りに少なすぎる。しばらくここにリストした数点だけについて、外形内容の
紹介と、限られた範囲の史料批判および内容の分析を行いたい。自分の知見の範囲は狭く、又自分の文書読解力も不
十分であるから、尚大方の指教によって、啓蒙せられる機会の与えられることを、心から願っておく。
二 史料 − 、 コ 兀 邑 魚 鱗 冊 ﹂ に つ い て
所で後に明らかにする所を先取りして言うと、これらの九点、合計一三四冊の史料には、いずれも﹁魚鱗冊﹂とい
う表題がつけられ、又本文記入の形式にも、ある共通点があって、その意味では一轄して取扱われて然るぺき理由が
あると思われるに拘らず、内容を細検すると、そこに全く性質を異にする二つの種類のものが、混在していることを
見逃しえない。
ヤ ヤ ヤ
一つは特定の地方の土地を、網羅的に記載し、恐らくは官府か沓吏かによって、徴税上の必要のために、官簿、又
は少くとも公的な文書として、作られたであろう﹁魚鱗冊﹂である。も一つは特定の地方の土地を、網羅的にではな
ヤ ヤ ヤ
く、選択的に記載し、恐らくいずれかの地主経営が、その所有地・受典地だけにつき、小作料徴収上の必要に応じて、
純粋に私文書として、作ったか、と思われる﹁魚鱗冊﹂である。従来﹁魚鱗冊﹂が史料として取上られる揚合には、
常に﹁宮簿﹂としての魚鱗冊だけが問題にせられて、その私文書的側面には注意が払われていないようである。
以下個々の史料について説明を加えながら、右のような二種類の併存している状況を明らかにしたいと思う。先ず
史料1の、元和県の﹁魚鱗冊﹂から、はじめることにしよう。
さてこの史料−は、唐紙二九丁づつを二冊に綴って、第一冊の内表紙に、直接︵つまり題籔をつけずに、︶﹁元邑魚
鱗冊、二冊全﹂と墨記している。旧東亜研究所の蔵書印がある。又第一TAには、上部に梅花形の朱印を押し、これ
ヤ ヤ ヤ
を中心に東・西・南・北と記し、その下に次の如き記載が見える︵写真一︶。
﹁ 計 開
二五一
元邑東北郷、 半・南・中十九都、上廿一都等字圷、 官則・斗則等田形図、 計四百四拾余畝 恒 沢 桟 冊 ﹂
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
一橋大学研究年報 経済学研究
7
写真1 「元邑魚鱗冊」第1T A
二五二
写真2 「元邑魚鱗冊」第1T B及び第2T A
元邑が江蘇省元和県を意味することは明らかである。作製年次の記載はない。清末のものであると思う。
言うまでもなくこの冒頭の記載は、この簿冊が元和県の半一九、南一九、中一九、上二一都等に存在する土地に関
し、又この簿冊の内容が﹁田形図﹂と呼ばれうるものであり、記載地の合計は四四〇余畝に上り、簿冊の作製保管が、
﹁恒沢桟﹂という地主租桟に関連することを意味するであろう。又その上部に梅花印を中心に東・西・南・北等と記
ヤ ヤ ヤ
したのは、この﹁田形図﹂の田形記載様式を例示したものにちがいなく、事実後続する本文の各丁表裏には、この位
置に地片の大体の形状と、その四週の歩尺数を記し、時に方位・地境の接続関係をも、附記しているのである。
念のため二冊の記事を通検すると、記入された土地は全て元和間の半・南・中一九都、上・下一二都に属している。
そしてこの本文は、それら諸都の各図にある地片を、概ね玩数を明らかにしながら、選択的に記載する。つまりそこ
ヤ ヤ ヤ
に見える土地の記載は、連続的であるべき畳数・近数が、飛び飛ぴになっていることによって、網羅的でないことを
示している。
そしてそのような特定の地片を、﹁安字号﹂・﹁聯字号﹂という、二つのグループに分け、そのそれぞれにつき、略々
都点回ごとに一まとめにして、各丁表裏に一地片づつ、各地片の位置︵都・且回・圷・近数︶、概形、大きさ︵畝数・
歩数・四囲の丈尺数︶、石数、佃戸名、その住所等を記している。
体裁を例示し、右に述べた所を具体的に明瞭ならしめるために、冒頭の部分︵一TBI四TA︶を抄録すると、次の
ごとくである︵写真二︶。
﹁︵一TB︶
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二五三
一橋大学研究年報 経済学研究 7
六十七歩
六十七歩
歩 佃戸顧鳳祥
村案蕩湾
六石九斗三升四合 四百〇七壇
安字号 中十九都十三昼月字圷田 六畝七分八厘四毫
︵二TB︶
安字号 中十九都月圷
上桟 可以不歩
現佃口HU
佃戸陸在華
村案 同上
一石九斗三升九合 四百六+二歩
一畝九分二厘六毫
実尺不窄
歩見 乙千五百八十一歩
+ 現佃 即 富 昌
三
一畝九分二厘六牽 失壇 四百六+二歩
安字号 中十九都十三量月圷
︵二TA︶
十 三 歩
乙千六百廿八歩
二五四
︵三TA︶
月圷
一石九斗二升五合
村案同上
佃戸陸在華
上桟可不歩
一畝八分一厘四毫
十歩
歩見乙千三百九十九歩
佃戸許桂卿
村案同上
安字号 中十九都十三骨月坪
上算 可以不歩
佃戸 毛阿二
村案 同上
一石四升二合 失坑 二百六十七歩
勤
又
︵三TB︶
五.+歩
ナ
﹁魚鱗冊﹂について
四
歩
八歩
国立国会図書館収蔵の
九+五歩
九+五歩ト
十歩
七畝八分七厘四毫
七石七斗六升四合
失塩 一千七百廿一
二五五
︵四TA︶
一橋大学研究年報 経済学研究
同六畝四分二厘三毫 窄 六分六厘一毫
二五六
れは従来﹁魚鱗冊﹂又は﹁魚鱗図冊﹂として紹介せられたものの、本文の土地台帳部分と、ある類似性を示す。但し
︵4︶
官簿としての﹁魚鱗図冊﹂に屡々見られる冒頭の﹁図﹂の部分は、ここには見出しえない。
﹁歩見﹂数を掲げるのである。二TA、三TAの如く、田形図を欠いている揚合がある。又二TAのごとく、全く駈
︵3︶
数を示さず、或は三TA、三TB、四TAのごとく、﹁失坑﹂と記入し、近数を挙げていない揚合がすくなくない。こ
地の形状と四囲の歩尺数と、四方の接続関係を記入し、下部に、佃戸・現佃戸の名、佃戸の﹁村案﹂︵住所︶、及び
︵っまり位置︶、面積・石数を記し、その下に、近数と歩︵積︶数とを示している。又それにつづいて上部には、土
右のごとく先ず各丁表・裏の冒頭に、字号と、都点回、圷名
三十八歩 十三歩
佃戸 王国祥
歩 歩
四 五 万良 即寛 二分四厘五毫
十
十
二 歩 歩見乙千一百〇七歩 ﹂
九
村集 同上
五十
四石二斗三升四合失塩放 三厘三毫、一千百四+六
又 月坪 四畝三分六厘七毫
7
所でこのいわゆる﹁魚鱗冊﹂は、誰によって、何のために作られたのであろうか。その一つの手がかりになると思
われるのが、冒頭の畝数・石数の関係、及び﹁歩数﹂と﹁歩見数﹂との関係である。先ず歩数、歩見数について見よ
︸つo
﹁歩﹂はここでは先ず冒頭に、畝数・石数と共に、﹁歩︵積︶数﹂の単位として現われる。第二に上方の田形図にお
ける、土地の四周の長さを計る長さの単位として、更に最期には﹁歩見⋮⋮歩﹂の.ことく記される﹁歩見数﹂の単位
として、三度くりかえして見出される。この揚合﹁歩﹂は中国田制の通例に従って、土地の四辺を計る長さの単位で
︵5︶
あると共に、その平方である面積の単位としても用いられていること、又第一の歩︵積︶数、第三の歩見数が、その
ような面積を示すものであることを、疑う余地は無い、と思う。
このことは例えば、田形図の四辺の﹁歩数﹂と、末尾の﹁歩見数﹂との、適合関係を検算して見ると、よく分る。
一TBの六・七八四畝の田を例に取ると、これを矩形と見て、二辺の歩尺数から算出した面積、
籍蛛×8蛛”一鴇一瀬母隣
は、この丁の冒頭の歩数、一、六二八歩とも、﹁歩見数﹂の一、五八一歩とも合わないが、しかし一、五四一歩と一、五八
一歩とは、数字の配置が大変似通っているから、これは一、五四一歩の誤記であるかも知れない。三TBの田形図は、
二つの不等辺四辺形を示しており、しかも二つの揚合とも、四辺の長さ、つまり歩尺数を記すのみで、角度と形状と
を示していないから、これだけでは検算の方法がない。しかしその次の四TAを見ると、この揚合には矩形のように
見え、又その辺から算出した面積、
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二五七
一橋大学研究年報 経済学研究・7 . , : 二五八
bo恥蛛×匂蛛ー嵩覧x℃隙”一レO刈億掛覧
は、簿上の﹁歩見乙千一百〇七歩﹂という記事に、ぴたりと合致する。他丁についても検算を試みた結果、自分はこ
の後の﹁歩見﹂数が、上方の田形図の、四周の歩尺数に基づいて算出された、面積を示すものであると推定したい。
所でそれならば何故、各丁の表裏はそれぞれの地片につき、﹁歩︵積︶数﹂と﹁歩見数﹂と、二度くりかえして歩数
を示すのであろうか。これについては自分は、末尾の歩見数が、前の歩数が設定せられてから後に、新に行なわれた
土地実測の結果を示すものであり、又上方の田形も同様に、この新なる実測によって計測せられえた結果を記録して、
ヤ ヤ
﹁歩児﹂数算定の基礎を明示したものであろう、と思う。そのことは﹁歩見﹂数の傍に屡々、﹁実尺不窄﹂︵一TB︶
ヤ
とか、﹁寛二分四厘五毫﹂︵四TA︶とかいう、面積を比較した結果と思われる附記が見出され、そのような歩見数の比
較がそれに対してなされうべき原面積歩数は、冒頭に記載されたそれ以外にはない、と思われるからである。
﹁歩見﹂が改めて土地を実測した結果の数字だと思われるも一つの理由としては、右に摘録した所だけでも、二T
A、Bや、三TAに、
﹁上桟可以不歩﹂
等と見えることが挙げられる。同様の記入は他にも、例えば一三TAに、佃戸除星堂につき、
﹁ 上 桟 戸 不 必 歩 ﹂
と見える。又一九TA、孤坪の佃戸播升章については、
﹁孤圷田可以不歩、因此佃本桟老佃戸、歴年遅飛限清完之戸﹂
︵6︶
なぞとも記されている。最後の一九TAの記事は、この佃戸は本︵租︶桟の老佃戸であって、年々最も早い﹁飛限﹂
の期限内に、﹁清完﹂︵小作料を、であろう、︶するものであるから、孤圷の田は﹁歩﹂せんでもよろしい、という意
味に読み取れる。同様に上の﹁上桟﹂言々も、佃戸自身が年々自から租桟に到って、小作料の支払をする習慣であり、
そのような佃戸の揚合には歩を須いずともよろしい、という意味に取って、よかろうと思われる。土地の新実測が常
に負担の加重を連想せしめた当時の通念に従って、﹁歩﹂を須いぬことが、一種の恩恵のように扱われているのだ、と
思う。
これど共に例えば八TBには、佃戸荘錦栄につき、
﹁該佃不在家未歩﹂
れなかったこと、行なわなくてもよかったことを記した丁には、例外なく歩見数と共に田形図の記載を欠いているこ
とあり、﹁歩﹂という操作が、現地で、佃戸の立会の下に行われたことを推察せしめる。そしてこれら﹁歩﹂の行なわ
ヤ ヤ ヤ
とも、上述の如き推定を支える根拠に、計えることが出来よう。
又右の各近については、面積は先ず歩と畝とに従って、二様に記載されている。歩と畝との関係を、算術的にたし
かめると、一TB、二TA、二TBについては、一畝目二三九・九九歩の割になっていて、これは一畝を二四〇歩とす
る通制に従ったものであることが分る。しかし、三TAについては、一畝が一五〇歩弱になって、二四〇歩に近くは
ならぬ。地域によって、畝の歩数に大きな差異があり、又歩の尺数にも異同があったことは、度々指摘されるが、同
︵7︶
一地域間にもこんな相異がありえたのであろうか。しばらく疑を存しておく。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二五九
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二六〇
所で以上述べて来た所からだけでも、この﹁魚鱗冊﹂が官簿なぞではなく、地主租桟によって作られ、小作農民に
出佃され、或は少くとも出佃せらるべき地片に関して作られたものであることが、推知せられうると思う。簿上に
﹁佃戸﹂・﹁原佃﹂戸のみを挙げて業戸名を記さず、地片が概ね小さく散在的であることも、これを傍証する。しかし
この点につきほとんど決定的なのは、各丁の冒頭に見える畝数と石数との関係であって、例えば上に摘録紹介した一
TBから四TAまでについて言えぱ、そこに見出される畝・石数の関係は六・七八四畝に対し六・九三四石、一・九二
六畝に対し一・九三九石、一・八一四畝に対しTO九二石、七・八七四畝に対し七・七六四石等、ほぼ一畝当り一石内外
の比率を示している。これはこの部分についてだけ、例外的にそうなのではなくて、念のため全二冊の畝数・石数を
集計して見ると、合計額は、
上冊につき、二四〇・八五五畝対二四八・〇六二石、
下冊につき、二一四・四〇八畝対二二四・二五七石、
合計して、四五五・二六三畝対四七二・五一九石
となり、畝当の石数は、上冊平均TO二九石、下冊同丁〇四五石、合計同TO三七石で、いずれも一石以上になる。
︵8︶ 、 、 、
自分がかつてこの同じ地方の、清末の地主の経営採算を計算した結果に照しても、これが小作料算定の基準石数であ
って、徴税と直接には無関係であることを、推察しうると思う。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
さて最期にも一つ、どうしてもふれなくてはならぬことがある。この簿冊は、冒頭に述べたような小冊子二冊の第
一冊の内表紙に、﹁元邑魚鱗冊、二冊全﹂と墨書している。そしてその上冊の第一丁には、これも前に摘録して示した
ように、この簿冊に記載さるべき土地の都畳、及ぴ畝数等を記している。この内表紙の表題が日本の古本屋の鼠記等
でなく、この簿冊が元来﹁魚鱗冊﹂と呼ばれていたものであるためには、︵そこにはすぐつづいて﹁二冊全﹂とあるの
であるから、︶この二冊に記入された土地の分布およぴ畝数の合計が、この上冊第一TAの記事と、不適合でないこと
が、検証されなくてはならぬ。都且回について不適合がないことは前に述べたが、畝数についてはどうか。この小冊子
二冊に載せた地片の総数は、計えて見ると一一三、その畝数の合計は、すぐ前に示した通り、四五五・二六三畝である。
それは四四〇畝台ではないが、これにきわめて近い。本文への追加記入の可能性を考えれば、この点についても、
﹁計四百四拾余畝﹂という第一丁の記事との間に不適合はない、といえよう。やはり当時の江南では、このような地
主租桟作製の簿冊をも、﹁魚鱗冊﹂と呼ぶことがあったのかと思う。そしてこれを作るためには、租桟は人を派し、
下郷して畝を履み、佃戸をも立会せて、土地の実測を行なうことがあったのである、と思う。
三 史料 2 、 ﹁ 長 邑 魚 鱗 冊 ﹂ に つ い て
これは縦二四・O糎、横一九・四糎の用紙一七丁を一冊に綴って、内表紙に直接﹁長邑魚鱗冊﹂と表題を墨書してい
る。前節二の﹁元邑呉鱗冊﹂にも見出された旧東亜研究所蔵書印と共に、この史料の内表紙には、﹁呉郡文献展覧会審
定孤本之一﹂と読める方印を捺している。総図も、集計表もなしに、冒頭から本分の土地台帳部分に入る。
用紙は各丁表裏をそれぞれ縦に二つに分け、その各々の区分に一地片づつ、つまり一丁四地片づつ記入するように、
藍格を刷りこんである。又それぞれの区分は、さらに上下二つに分けられ、上の区劃の中央には、方形の権が刷って
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二六一
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二六二
あって、その周囲に南至・東至・北至・西至とあり、田形図の記入に備えて居る。又下の区劃には、圷・堆・科則・
面積・業戸名・佃戸名等を書きこむ欄を作っている。全体として従来﹁魚鱗冊﹂といわれているものの、本文の土地
台帳部分と、様式的に、大変似ている。体裁と内容とを例示するため、第一TA、同TBを抄録すると、次のごとく
今丈見
共積歩
洪毒第+三亀鮮港
である。︵ゴチックにしたのが墨で書き入れた部分、他はあらかじめ刷りこんだ部分である。写真三参照。︶
尺三歩四廿
﹁︵一TA︶
長邑八都上三量
尺三歩八壮
東
至士堺
十一
佃戸
業戸
全官則
西 包阿長
東 王長発
顧 瑞
四石五斗
四畝四分三厘一毛
四畝四分三厘一毫
坑九 至耳ヒ
西至 十四境
浜家楊至南
邑八都上三骨
共積歩
辰字携五+三彗野石
蓄南 鄭佐
業戸 項陳奇
全官則 四畝四分三厘七毫
今丈見
西至五十三娠
擶三十三歩五尺
十六歩三尺
十六歩三尺
尺一歩七尺五歩六廿
近十六至北
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
佃戸 王阿碧
角小坂被五十三垣
侵借、徐佃種
鵬張
糞毒
尺 五 歩六
東至五十六 五 十 九 駈
尺二歩五
三十四歩五尺
河官至南
三畝二分四厘
一畝一分九厘七毫
一畝六分四厘五毛
二石一斗
二六三
一橋大学研究年報 経済学研究
光孝第星土轡醤
共積歩
今丈見
全官則国十四畝隅厘三毫
金 臣
業戸 張卓甫
張寧遠
嚇業
二六四
、
︵一TB︶
一二
歩二十
西至三近
七ヤ七歩
=一
八
十
五
歩
尺
八歩+世一喜干娠
八歩﹃、、+毒辛歩
毫毫i
鷹執東面一半
隔置 一 二畝五分三毫
与佃戸 陸四福︻ 二石五斗五升
七三三
畝畝畝
七五五
毫分分
7
六
汁 計
歩
三
四 ﹃
歩 歩
東至 河
駈七至北
長邑八都四昼
七年十二月同陳詠翁査
明、東片形
廿四歩五十四歩
緬鯉
好果至南
土丘
歩八百一
至惹
十歩
西至官河
歩七百一
至 土丘七廿至北
毘字圷第廿六近土名
共積歩 住□
今丈見
全官則四畝一分三厘 折
業戸 呉 竜
園佃戸呉増喜誌六斗
窄
邑九都十一箇
f丘五什至南
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二六五
がいは、前の﹁元邑魚鱗冊﹂には、佃戸名・現佃戸名を挙げるだけで、業戸名にふれなかったのに、ここでは各地片
らるべきであったことを記録している。そしてこれについて挙げられている記事の内容は前とほぽ同じで、唯一のち
二人の業戸の名義下に分たれ、そのうち丁六四五畝が、王阿碧という佃戸に出由されて、二二石の小作料が収納せ
料収入が期待されたことを示す。又同都同骨、辰培・五三近の、官則田、四・四三七畝が、項陳奇、虹ぴに鄭佐という
顧瑞という業戸の名義下に、二片に分たれ、東片は王長発、西片は包阿長という佃戸に出由されて、四・五石の小作
なわち一TAを例に取れば、それは先ず長洲県、八都、上三骨、洪坪、一三近所在の、全官則田、四・四三一畝が、
と一定の枢の中に画かれ、形式的にははるかに完整な感じを与える。しかし記事の内容項目は、ほぼ同様である。す
前に﹁元邑魚鱗冊﹂の冒頭の数丁を抄録したものと対照して見ると、この方は特別の用紙を用い、田形図もきちん
東
嘉
橋大学研究年報 経済学研究
冨森獺
懸難,﹁、
灘.鱒灘.、繍
夷蜘
織
縫撒
写真3 「長邑魚鱗冊」内表紙裏及び第1T A
、.、
ノユノ
写真4 「民国魚鱗冊」第2丁のA
につきほとんど例外なく、佃戸名と共に業戸関係をも明記していること位である。
ここに見える﹁共積歩﹂・﹁今丈見﹂という項目は、前の﹁元邑魚鱗冊﹂に﹁歩︵積︶数﹂およぴ﹁歩見﹂数として
見えたものと、同内容、同性質だと思われる。ただ﹁元邑魚鱗冊﹂では各地片につき、ほとんど例外なく、歩︵積︶
数や、歩見関係の記事があり、冊子そのものがそのような﹁歩見﹂、つまり実測の結果を記録するために作られたか、
と思われるのに対して、この場合、﹁共積歩﹂・﹁今丈見﹂欄はほとんど空白で、実数を記していない︵ただし上部の田
形の四囲には、必らず歩尺数を記入している、︶ことが、注目せられる。
しかしそのような相異︵それが何によるのかは別にふれる、︶にも拘らず、前節二のコ兀邑魚鱗冊﹂と、この﹁長邑
魚鱗冊﹂とが、記載の項目や様式について、強い類同性をもつことは掩いがたい。しかもこの冊の用紙が、あらかじ
め藍格項目を印刷した、いわぱ﹁魚鱗冊﹂用の特別の用紙を用いることによって、同様の内容・形式の簿冊が、この
史料の成立した当時の江南では、かなり広くかつ頻繁に、作られたものであることを暗示しているのは、注目すぺき
だ、と思う。
この揚合にも、地片の記載は選択的であって、網羅的ではない。記載せられた土地は長洲県八都・九都の二都に集
中し、他都のものをふくまないが、しかしそれぞれの都についての図数・近数を見れば、数字が不連続で、ここに記
載された土地が散在的であったことを示している。
全冊のどこにも、地主名や租桟名らしいむのは見当らない。尤もこれは恐らく数冊あったものの一冊が、偶々残っ
たのではないかと思われる節もあるから、租桟名の記載のある分や、他都の分が失なわれているのかも知れない。し
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二六七
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二六八
かしいずれにせよ、ここには、復数の業戸・佃戸につき、単一の簿冊が作られている。この簿冊はそこに出て来る多
数の業戸の、いずれの一戸だけのために、でもなく、それらの全部に係わりながら、しかも独自の、統一簿冊作製の
︵9︶
動機をもつものが作製したのだ、と推定せざるをえない。
所でこの簿冊には、その作製者を示す記事が欠けているのであるから、そのような統一記簿の主体を模索する唯一
の方法は、帳簿そのものを熟読することによって、その作製動機を明らかにすることでなくてはならぬ。そしてそう
考えてこの簿冊を読み直すと、そこにはこの簿冊の作製者が、そのためにこの簿冊を作った動機が、税の徴収ではな
くて小作料の収納であること、従ってこの簿冊の作製者は、包撹地主か、地主租桟かであろうことを、示唆するもの
があると考えられる。
そのように考える一つの根拠は、この簿冊の全体を通じて、人名については佃戸名とならんで、必らずといってよ
いほど業戸名を掲げ、業戸別の畝数を示す反面、そこに見える﹁石数﹂の記事は、佃戸への出佃面積についてだけ、
又小作料としか考えられぬ高さにおいてのみ、現われる、ということである。すぐ前に抄録した、一TAを例に取ろ
︾つ〇
一等はじめの顧瑞の業田は、簿上の総面積も四・四三一畝、王長発およぴ包阿長への貸付面積も四・四三一畝で、そ
の間に隔差が全くない。これはこの洪坪・二一一近の、顧瑞名義の地片の全部が、二人の小作人の耕作に委ねられ、業
戸は自耕することなく、そこから四・五石の小作料︵それは小作料でなくてはならぬ、税ではありえぬ、︶の収納を、
期待していたことを意味する。しかし次の項陳奇、および鄭佐の業田についていうと、簿上の総面積は四・四三七畝、
その内項陳奇の名下にあるものが三・二四〇畝、鄭佐のそれが一二九七畝、合計して四・四三七畝になるが、この内
王阿碧に出由された面積は、一・六四五畝にすぎぬ。この一・六四五畝と、総面積四・四三七畝との差額はどうしたの
か。恐らく業戸が自耕したのだ、と思われる。佃戸名の下に一・六四五畝という面積とならんで、二二〇〇石という
石数が見えるが、これは勿論出由面積だけについての小作料額であろう。つまりこの揚合石数は、面積の内小作人に
出由せられたものだけについて記入せられて居り、この帳簿が地主の小作料徴収を目的として作られたものであるこ
とを、示唆するのである。
念のため全冊の残りの地片全部を検討したが、この帳簿に石数が記載してあるのは、全て、地片の一部又は全部が、
佃戸に出由され、その佃戸から小作料の収入が期待される揚合に、出由された面積につき、その小作料額と思われる
量について、ぼかりであって、佃戸に貸出されなかった面積については、石数の記事は一つも見えない。そしてこれ
は前述の通りこの簿冊が、やはり何よりも小作料を徴収するために、その小作料を収納する者によって、作られたこ
とを示すものだ、と思うのである。
この簿冊の記載する土地の図数・垢数が不連続で、記載が選択的だと見られること︵前述参照、︶も想起せらるべき
である。しかもこれが官簿なぞではなく、私の目的のために私文書として作られたものであることを示す、も一つの
証拠がある。それはこの簿冊の所々に、﹁宮冊﹂に関する記事が散見し、しかもそれが明瞭に、官冊とこの簿冊との、
相違と不適合とを認めていることである。一二の例を示そう。
この﹁魚鱗冊﹂の第二TAの前段には、次のような記載が見出される。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二六九
佃戸徐三毛器奪二厘一毛
官冊無形、有原免一斗五升
ヤ ヤ ヤ ヤ
業戸
則
今丈見
共積歩
遜鐘三+毘麩攻頭
一橋大学研究年報 経済学研究
長邑九都九且回
西至約三十五 駈
十八歩四尺
7
、
こ そ当然だ、と思う。
二七〇
の記事が、﹁共積歩﹂や﹁今丈見﹂についてのみならず、﹁則﹂や、﹁業戸﹂の欄を空白にしていることも、黒地なれぱ
料収納が期待せられること、その際〇二五〇石の﹁原免﹂が認められていることを、意味するものと思う。この項
の地片につき、﹁官冊﹂には何らの記載のないこと、しかもこの土地は佃戸徐三毛に出由されて、五・九〇〇石の小作
」
十三歩二尺
東至約三十三駈直港
田荒角抱至北
「
この本文の後段、および佃戸欄の傍に見られる附記は、明瞭に、九都・九骨・遜坪・三四近所在の、五・六一一二畝
昼
田策,王至南
又本冊一五TA、長洲県・九都・二四且回.金坪・四三近の官則田、二・六〇七畝については、同様に業戸名を空白
のままにし、上部欄外に、
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
・﹁廿四畳官冊無従請処、故将現歩弓口田形絵出﹂
︵−o︶ o
と附記している。この揚合には、同じく上部欄外に﹁浜底自東面起云々﹂とあるから、水浜の開墾黒地であると考え
られる。﹁官冊﹂に載せなくても、勿論小作関係は行われえたので、現にこの金坪四三垢については、空白の業戸欄
につづいて、
﹁ 執西片、東︵片︶呉升軒業
佃戸銭阿二熱建響合﹂
とあり、又その上部欄外にも、
﹁査脚賑、二石二斗五升五合、該算多額六斗二合﹂
とも見える。黒地二・六〇七畝が佃戸銭阿牛に出由されて、二・八五七石の小作料が収められつつあった、のである。
官冊に載せない土地の出佃関係に関して記述し、官冊に見えない土地の﹁現歩弓口田形ヲ将テ絵出﹂したこの簿冊が、
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二七一
一橋大学研究年報 経済学研究 7
官冊でありえないことは、きわめて明らかである。
邑九都九骨
西至三十.八駈
八歩玉尺
寅㎝7工一二十山ハ姫
九歩四尺
被毒第三+塁難橋聖堂頭
共積歩
今丈見
全官則六分崖六晶驕節羨
業戸
原開三十九近荒地、現同仁堂執業、今升入廿四近、
麓佃戸黄慶観調諺
駈三世至北
又本冊の三TAには次のような記事も見える。
「
二七二
五二〇石の小作料収納が期待されたものであることを知りうる。これも恐らく元来は黒地であったであろう。そして
の土地は、元来三九近の荒地の開墾によって成り、その東面、O・四七〇畝分だけが、佃戸黄慶観に出由されて、O.
O
これも業戸名の記載を欠き、しかも本文およぴ附記によって、この九都・九骨・被圷・三四近にある○.六二六畝
L
徽荒至南
当然に官冊に記載のなかったものを、新たに廿四堆に﹁升入﹂して、いずれは官冊にも記入せらるべきことを、この
附記は示す、と考えられる。
それらのいくつかの点を考え合せると、この揚合にもこのいわゆる﹁魚鱗冊﹂は、官簿ではなく私文書であり、し
かも上級地主か地主租桟かによって作られ、彼らがそれらの業戸から受典したり、投充をうけたり、或は包撹したり
した土地について、その小作料の収納に関して、作製されたものである、と考えてよいのではあるまいか。
ただこの揚合﹁歩積数﹂、﹁今丈見﹂数が、ほとんど空欄のままになっていることから見ても、史料−の元和県の揚
合のように、新らしい歩見測量の結果を記録した、ということではなく、単なる小作地台帳として作られた公算が大
きい、と見るぺきであろう。同時に、そう絶え間なく行われたとは思えない土地実測と無関係にでも、このように土
地台帳的な、いわゆる﹁魚鱗冊﹂を作ることが、普通だったのか、と思われる。前にもふれたようにこの簿冊が、特
別の用紙︵しかもそれは特定の租桟名等を版心にすりこんで居らず、出来合いの品として店で売られたものである可
能性が大きい、︶を用いていることも、勿論考え合せらるべきである。
四 史料3、﹁民国魚鱗冊﹂、および同4、﹁長元呉魚鱗冊﹂について
﹁民国魚鱗冊﹂と題記せられる史料3は、大版の西洋紙一〇葉を、縦三四・三糎、横二五・二糎の大きさに折りたた
み、これをこよりで仮綴し、そのほごれた所を糊ではり合せ、第一葉の上面に表題を墨書したものであって、完整な
冊子の形をなしてはいない。恐らくかつて一冊だったものの、乱丁ある部分であるか、或は元来これだけの、数葉の
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二七三
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二七四
昏のであった為に、冊子をなすに至らなかったものか、とも思われる。しかしこれらの田形図に記入せられた歩弓数、
都ム回数、坪・塩号、積歩数・畝数・出佃関係等の筆蹟は、たしかに全部同一人の手になると思われ、又現在第二葉
になっていぐもの︵乱丁があるのである、︶の表面には、別掲の.ことく三重円を十字で裁って、その矢印の四方向ご
とに東・西・南・北と記した図を上方に掲げ、その下に﹁毎魯班匠尺一弓縮短英尺一寸﹂と附記した﹁比較尺寸﹂
︵縮尺︶を掲げている︵写真四︶。そしてどうやらこの縮尺は、この田形図全部に共通するもののようである。
又この第二葉︵それは恐らく元来第一葉であったと思われる、︶の裏面には、﹁各類表記﹂として、田形図の色分け、
およぴ田形図に用いられた諸記号の説明があり、これを各葉の田形図に現に施されている色彩や、そこにおける記号
と比較すると、それらの田形図全部が、同一の時に、同一の方式によって、作製せられたものであることは疑えない。
さらに又同じ葉には、その左端に、
﹁乙卯年仲夏之作、鴻城趙恭丈絵、浦国朱傑会丈﹂
と記し、二人の名の下にそれぞれ﹁杏篠﹂、﹁石銘﹂と読める印を押しているから、造冊形式の不完整さに拘らず、.︺
こに残存している田形図が、この二人の協力によって、あるグループの土地を実測した結果を、或時、一まとめにし
て記録したものであることは明らかである︵写真五︶。元来互に無関係なばらばらな田形図を、恣に集成し、はり合せ
た、というだけのものではない。ただこれが元来の葉数の全部であるかどうかは、大に疑わしく、︵近形図も、計開
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂につい、マ、 二七五
写真5 「民国魚鱗冊」第2葉裏
写真6 「民国魚鱗冊」第3葉
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二七六
表もない、︶又これに﹁民国魚鱗冊﹂と題記したその題記が、何時何人の手になるものであるかにも、議論の余地が
ありうる、︵本文と異筆蹟で、書体がはなはだおさない、︶と思う。
上記のごとくこの一冊︵?︶には乙卯という作製年が示されているが、乙卯年を民国に求めると、民国四年︵一九
一五︶がこれに当る。そして色分・記号の区分を明記し、新らしい形の縮尺を用いたあたりも、民国以後のものにふ
さわしい様に感ずる。しかしこのことと、その直接の一結果として、田形図が本小稿の他の史料の揚合のように、本
文記事の上部の、一定の揚所におさまり切らず、しばしばそれが紙面のほとんど全体を横切るように画かれ、地片に
関する諸記載項目が、むしろその余白に記入された観があることとを除けば、記事の項目やその内容、田形図作製の
手続きや、その意味にも、上来紹介し来った他のいわゆる﹁魚鱗冊﹂と、共通な点が多く、ある点では、甚だ似てい
る、ともいえるのである。
そのことを示すためにも、冒頭︵現在の丁順に従っていうのである、︶の一葉と、右に述ぺたような﹁丈絵者﹂名や、
記号説明を載せる第二葉につづく、第三葉︵これが恐らく本来の第二葉と思われる、︶の記事を、次に抄出しておく。
﹁︵現在の第一葉︶
陞字坪三十三、四玩
甲号 三垢 佃戸 張寿観 住塘上
単 陸畝蹄厘伍毫 丙号折種壱畝陸分痒厘蝉毫
出由 蹄畝蝉分玖厘壱雍 丈積 壱千弐百陸拾伍弓玖分
額米 蹄石捌斗伍升弐合 合田 伍畝弐分柴厘伍毫 此田中下等
陞字圷第六近
乙号 佃戸 張寿観 住塘上
単騨分 由紙未見
丈積歩 弐百騨拾難弓 合足田 壱畝壱厘柴毫 此田河灘下下等
陞字圷三十三、四量 在甲号、折種壱畝陸分難厘騨毫
丙号 佃戸 張根泉 住塘上
丈積歩 難百陸弓参分 合足田 壱畝陸分玖厘参毫 此田中々等
丁号 陞字坪 三十三堆
単 壱畝陸分難厘蝉合 老荒
︵現在の第三葉︶
長境西十三都下十三回 席字坪第二十八近
佃戸 周念橋即春堂 住黄浩浬
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
二七七
一橋大学研 究 年 報 経 済 学 研 究 7
単母畝弐厘弐毫由魏畝壱分弐厘額米
現丈積歩 壱千壱個雛拾捌弓五分 合足田
蝉畝柴分捌厘伍毫 此田上上
躍石参斗弐升擦合
二七八
」
合には、これら玩数間の連続、不連続を論じ、これを次の﹁長元呉魚鱗冊﹂その他のような、官公冊と比較すること
ない。しかし同じ葉の中に、例えばこの第一葉の甲・乙・丙・丁の四号のような、数個の地片・駈数を載せている場
か、が明らかでないのであるから、葉にまたがって、図数・圷名・堆号の連続、不連続を論じて見ても、意味をなさ
この史料の揚合、乱丁のあることがほぐ確実で、落丁の可能性も大きく、元来どのような形の冊子をなしていたの
税のそれでないことを思わせる。
額米量を示している。この揚合にも﹁額米﹂は、一畝当り一石内外であることによって、小作料の算定基準であって、
一畝口二四〇歩の割合で換算したらしい畝数とを記している。同時にこの土地の出由関係や、佃戸名や、その住所や、
とによって、土地の位置.形状.大きさを明らかにし、又その四周から計算したらしい︵現︶﹁丈積﹂歩数と、これを
土地の都.図.圷.玩数を挙げることによって、又田形図に、四周の歩尺弓数と、四至の接続関係とを附載するこ
三葉につき、写真六を見よ︶。
そして両葉とも実測によったらしく、又一定の縮尺によったらしい田形図を、これらの記事と共に載せている︵第
撹
は、必要で有益だ、と思われる。
そしてそのような検討の結果は、この揚合にも土地の記載は、選択的であって網羅的でない、と言えると考える。
形式がはなはだ整わず、又特に田形図のあり方が、随分大きく異っているに拘らず、自分は上記のごとき諸点に基づ
き、このいわゆる﹁民国魚鱗冊﹂と、前節および前々節で取扱った、元和・長洲二県の、恐らくは清末の﹁魚鱗冊﹂
との間に、強い類同性があると考え、これを一轄して紹介する次第である。
さて次の史料4、﹁長元呉魚鱗冊﹂になると、上述した三種類とは、非常にちがった三つの特色をもっている。一つ
は、形式が大変ととのっている、ということである。も一つは、どうやらこの場合には小作料でなくて税の徴収に関
心をもって、作られた帳簿らしい、ということである。そして第三に、この揚合には土地の記載は網羅的であって、
坪数・近数が整然と、連続的に記入せられている、ということである。
.︺れは縦二五.○糎、横一五.八糎の用紙、計二六丁を六冊に線装し、その第一冊の内表紙に、﹁長元呉魚鱗冊、凋
林一蔵﹂と墨で題記している。そしてこれには冒頭に総図がついている。今まで述べた三点は元より、次にふれる
﹁呉県洞庭山魚鱗冊﹂にも欠けていた地片全体の布置を示す総図が、先ず冒頭についている。すなわち第一冊の内表
紙につづいて、﹁二十三都四且回総図﹂という地図を掲げ、これにこの昼の南端に位置する二圷、南貴字坪・北貴字坪の
﹁近形図﹂を添えている︵写真七参照︶。そしてその次を第一丁として、本文の土地台帳部分に入り、この二圷の各量
を、網羅的に、記載するのである︵写真八参照︶。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 、 ■ 二七九
橋大学研究年報 経済学研究
7
写真7 「長元呉魚鱗冊」の総図1B及び2A
灘灘灘灘
、一
雛鰍鰻難懸
麟難難
鐘
ミ
難灘繕、
羅 彗肇
き き
嚢毒 釜懸
毒㎜
蓑
蓑灘
八○
鷺 毒
写真8 「長元呉魚鱗冊」の総図2B及び第1T A
二八一
例により本文最初の丁を抄録して、体裁と内容とを例示しよう。あらかじめ項目・墨格を刷りこんだ特定の用紙を
用いているので、後から墨で書き加えた部分だけをゴチック活字で示す。
﹁︵一TA︶
畝分厘毫現
呉樹徳 畝五分 厘 毫 住
畝分厘毫住
催甲
佃戸呉松山
米 額租
銀
宇圷第壱翫
西至第洋浬港丘
⋮口月月ロ
完業 則
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
東至第戴垣
管
自
完業
至北
班九
蕩山地田
米銀
i丘浜第至南
坦九第至北
毫
住
佃戸
畝一一一分
厘
管
催甲
米銀
王天寿
自
完業
完業 則
米銀 蕩山地田
橋大学研究年報 経済学研究
字圷第弐垢
西至第壷近
県至第三垣
,口HHH目
妊浜第至南
7
畝
額 分
租畝
厘
分
毫
厘
現
毫
住
八
B︶
字坪第三玩
︸∩H目口U
西至第武近
南
至
第
浜
駈
東至第四近
i丘九’第至北
田
識畝 分厘毫
畝四分五厘
蕩
管業彰加寿
額租
毫住
畝分厘 毫住
艀
佃戸 呉大文
銀
完米
催甲’
自業
完繊
国立国会図書 館 収 蔵 の ﹁ 魚 鱗 冊 ﹂ に つ い て
現
(一
二八三
則雌 畝分厘毫現
田
一橋大学研究年報 経済学研究7
字坪第四駈
西至第三坦
東至第五班
到 佃戸李金官
ヒ 愚 籍
奎畝弐分厘毫住
業蕩
九 催甲
自業 畝 分 厘 毫 住
銀
完 米
込む欄 を 設 け て い る 。 用 紙 の 右 の 一 辺 に は 縦 に 、
二八四
近数︶を記し、その下部に科則・地目・畝数等土地の状況、業戸・佃戸関係、租額・税額、佃戸および催甲名を書き
げられる所に似た、墨格・項目を刷りこんだ用紙を用いている。用紙には上部に、田形図用の枢を設け、位置︵圷.
坪でなくてはならぬ。そして簿冊の各丁には、前述の史料2、﹁長邑魚鱗冊﹂の揚合に似、又従来魚鱗冊の例として挙
﹁南貴字坪﹂の記事にうつり、その第一堆からはじまって、第一八六堆に至る記載に接続するから、この坪は北貴字
」
第
炬
第一丁以下に坪名を欠いているけれども、これから後第二七四近まで、玩数の連続した諸地片の記載があった後、
土丘浜第至南
﹁四至中須絵田形、不拘方圓斜曲、管業下註明桟名、現字下註明荒熟﹂
とある。項目記入上の注意を述べたもので、上部の枢の中に田形を画くのだが、それは概形に止まって、﹁方円斜曲に
拘らざ﹂るべきこと、﹁管業﹂欄には地主租桟名を記入すべきこと、﹁現﹂字欄には田地の荒・熟を判別記入すぺきこ
と等を意味するものにちがいない。
事実田形図がはなはだ簡略で、四周の歩尺数をさえ明記せず、四至の接続関係を示した枢の中に、地片の大体の形
かと思われる四辺形を画くだけであることは、この史料につき注目せらるべき一点である。これはこの簿冊が、史料
1の元和のそれのように、実測によって成立した原本でなく、恐らく他の既成の台帳の記事を踏襲したものであり、
又この簿冊の作製者の、個々の地片に対する関心は、前述三史料の揚合ほど、直接的でも、切実でも、なかったこと
を示唆する、と言える で 委 ろ う 。
﹁管業﹂と﹁自業﹂との欄を併置して、そのそれぞれに畝数・住所・﹁完銀・米﹂量等を記入すぺき欄を設けてい
ることも、この冊の特色である。﹁管業﹂欄には、﹁桟名﹂︵もちろん租桟名である、︶を書け、と、一辺に註記してあ
ることを上述したが、この地主名につづいて、﹁額租﹂・﹁佃戸﹂・﹁催甲﹂等の諸欄が設けられ、それぞれの土地の小作
関係を、示すようになっている。そして墨で後から行われた記入は、﹁管業﹂欄に人名の見える揚合にだけ、︵つまり
土地が管業地であった揚合にだけ、︶佃戸の姓名を示している。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二八五
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二八六
前に抄録した所だけでなく、全六冊を通じて見て、﹁管業﹂とは明らかに、業田を自作せずに、小作に出して経営す
ることを意味し、﹁自業﹂とは自作によって直接に、土地を保有し経営すること、或は少くとも小作に出さぬこと、を
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
意味する。だから当然﹁自業﹂欄に記載のある揚合には、佃戸欄は空白のままになる。﹁管業﹂の欄にも、﹁自業﹂の
欄にも見える﹁完銀・米﹂欄の﹁完﹂字は、この揚合、税を払うことを意味するもので、小作料を、ではありえぬ。
定額小作料額を記入すべき﹁額租﹂の項目は、小作関係の存在を示す﹁管業﹂欄の後にだけ作られている。
尤もそのような諸欄、諸項目はあっても、通例実際に記入が見られるのは、管・自業欄のいずれかへの管業主.自
業主の姓名と畝数、管業地についての佃戸の姓名だけであって、地目・税額・小作料額.催甲名等については、ほと
んど全部空白のままである。
一般に前の選択的な台帳に比べると、手記せらるべき部分への現実の記入の少ないこと、記入の簡単なことが、史
料4の全六冊に共通の特色である。そしてそのことも、これらが、上記の三種の史料よりも上級の機関が、ある行政
︵徴税︶管轄地区の全地片について、時には半ば形式的に作製・保管したものであるか、あるいはそのさらにコピー
であろうという、自分の推定にふさわしい気がする。,
全六冊を通検してすぐ気がつくことのも一つは、﹁管業﹂地の頻度が大変高いことである。この点後に立かえって又
ふれる。マ萄自業﹂地の少からぬ部分が、﹁無主﹂地とされていることである。
例えば本冊の一九TA、北貴字圷・第七三近の條には、上に例示した如き﹁自業﹂の欄に、
﹁皐無主抜捌畝四分厘毫住 完綴
p ﹂
と記している。これはこの八・四一〇畝が攻地、つまり墓地で、自業、すなわち小作に出されない土地であること、し
かも﹁無主﹂地であったことを意味している。同様の記載は、他にも頻見する。すなわち例えば一九TBの七六近
業無主六分、﹂︶にも、二四TBの九六近︵﹁自業無主、攻、壱畝八分、﹂︶にも、二五TA、九八近︵﹁自業無主、
が見出される。
﹁︵南貴︶字坪 第壱百六十七塩
田
則雌 畝
蕩
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
分厘毫現
二八七
﹁管業﹂地なみに佃戸をもったものがあったのである。例えば本史料4の第六冊、二一一TBには、次のごとき記事
事実﹁自業﹂欄に﹁無主﹂と記入されたものの一部には、攻の帰属する家を明示し、又﹁自業﹂地でありながら、
その中の一部には、どの家の攻、誰の祀る墓であるかの明らかなものが、必らず混っていたにちがいない。
まり墓地であるにしても、それらの全てが、その後を祀るもののいない、いわゆる無縁の墓であった、とは思われぬ。
攻、四畝二分、﹂︶にも、見える。それは決して稀なケースではない。この﹁無主﹂というのは何であろうか。攻、つ
(「
一橋大学研究年報 経済学研究 7
管業 王召恩攻 壱畝 分
完
銀 額租
米
佃戸 故丁 沈士明
厘毫 住
自業無主 畝分厘 肇 現
銀
米
完
西至第一百五十三伍
東至第一百六十八駈
近六一六百第至北
二八八
又﹁管業﹂地の一部には、義荘に属するものがあって、これについては一方では佃戸の姓名を挙げると共に、第一
し
冊、北貴字坪・五一近の﹁陳氏義荘﹂とか、同第二冊、同圷・八三玩の﹁丁氏義荘﹂、同八四近の翁氏のそれなぞのよ
ならんで、﹁自業﹂地には宅地が多い。これも註記してある。
を無税としている、︶を指定するだけで、別段事実上無主の土地であることを意味するものではない。﹁無主﹂の攻地と
だからここの﹁無主﹂地は、税法上の取扱い︵参照、後出の史料8、﹁受字好魚鱗冊﹂冒頭の﹁計開﹂表は、﹁無主積荒﹂地
畝に、﹁銅作公攻﹂と註記してあるように、攻地の帰属を明瞭に示した例もあるのである。
一塩にも見える。﹁無主﹂地の多くは攻であるが、それにも第三冊の五四TA、北貴字培.二一四丘の、四.七〇〇
開墾されて、耕地化していたのであろう、と思う。無主地を﹁管業﹂した事例は、第四冊の七五TA、南貴字坪の二
これは王召恩家に属した無主の攻地一畝が、攻丁沈士明に出由された事例である。この揚合攻地の少くとも一部は、
」
坦二十五百一第至南
うに、義荘地であることを明示する揚合が少くない。これも税法上の取扱に、差異があったからである、と思う。
前にふれたように、ここに記載された土地を、﹁自業﹂地と﹁管業﹂地とに分けると、﹁管業﹂地の比重が著しく高
い。六冊全体について計算して見ると、全体の約三分の二は、小作人に貸出される管業地である。自業は攻地と宅地
とが主で、その他の土地のほとんど全部は、管業地だといってもよい状況である。そしてこのことが、恐らく税の徴
収に関連すると思われる本簿冊に、税の﹁完﹂額と共に、﹁額租﹂や佃戸名の項目の作られている、理由でないか、と
思う。︵都合があって、附表を省略せざるをえなかった。補う機会のあることを望んでいる。︶
五 史料5、﹁呉県洞庭山魚鱗冊﹂、史料6、﹁鮎魚字好魚鱗冊﹂、およぴ
史料7、﹁剣字好魚鱗冊﹂について
史料5の﹁呉県洞庭山魚鱗冊﹂は、縦二五・O糎、横二三・四糎の用紙を、一二〇冊に綴り分け、これに呉県二八
都二品二垢以下の土地を記載している。
二八九
内容の体裁は全一二〇冊にわたってほぼ同様であるから、これを例示するために冒頭︸、二丁の記事を摘出する。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂ について
計 柴値伍拾玖戸
先ず第一冊のはじめには、総図をつけずに、次のような集計表を掲げる。すなわち、
計開
「
三升二合一勺山
六升三合一勺地
蝉畝玖分伍厘弐竈
蝉拾蝉畝陸分柴厘弐毫
捌価緯拾陸畝難分柴厘捌毫
陸分壱厘陸瑠
壱個柴拾伍畝騨厘
窪米伍升騨合
建米弐斗四升捌合
定米参石捌斗蹄升陸合
楚米陸石卑斗捌升蹄合
建米壱升
建米伍石伍斗弐升参合
一橋大学研究 年 報経済学研究 7
一斗蕩
柴畝壱分玖厘騨毫
二斗蕩
一升五合山
一升五合蕩
共
壱千玖拾陸畝玖分伍厘弐毫
総
共
建米拾陸石壱斗陸升伍合
総
玖値柴拾陸畝参分玖毫 科見 楚米拾騨石捌斗五升
建米壱石参斗陸升
勉荒籠 共除地山壱備弐拾畝陸分蹄厘参毫
響共
のごとくである︵写真九︶。
二九〇
﹁徐去﹂せらるべき﹁勉荒・故絶・公信﹂等の地・山の面積と、その﹁塞米﹂数を挙げている。これを一表にして、
特定の管内の地・山・蕩につき、科則別に、畝数と、﹁塞米﹂数とを挙げ、これを﹁総共﹂欄に集計している。又
」
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
写真9 「呉県洞庭山魚鱗冊」計開実
九
写真10 「呉県洞庭山魚鱗冊」第1T A
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二九二
畝当実米量を算出して見ると、第二表の如くになる。畝当り﹁楚米﹂量は、科則斗数のほぼ二分の一を上下するもの
である。﹁総共﹂以下に計算誤りらしいものがあるから、正しい数字を割弧の中に掲げておく。
全体として余り大きくない数字が示されているが、これは元より一二〇冊全部についての集計ではない。第五冊の
はじめには、これと同形式の﹁計開﹂表が見出されるから、これは第四冊の終りまで、つまり、江蘇省呉県、二八
「実米」量の大きさ
1,096,952
16,165
0.0147
(1,078,952)
(” )
(O,0149)
総 共
(正 誤)
石
0.0315
0,616
0,010
O O162
846,478
6,484
0.0077
44,672
3,846
0.0861
4,952
0,248
0.0500
7,194
0,054
0.0075
6升3合1勺地
3升2合1勺山
1升5合山
175,040
畝
2斗蕩
1斗蕩
1升5合蕩
0.0112
内 拠 荒
120,643
統 共
976,309
14,805
0.0151
(正 誤)
(958,309)
( ” )
(0,0153)
1,360
畝当実米
実 米
面 積
地 目 科 則
石
5,523
共十一頃六十三畝七分二厘五毫 ﹂
﹁ 廿四都二十九骨受字圷、因総図遺失故書全図田地則蕩、
ヤ ヤ ち ヤ ヤ ヤ
九畳・﹁受字坪魚鱗冊﹂には、﹁計開﹂表の冒頭に、
を挙げたものがあり、又後に示す史料8の長洲県、二四都.二
−、﹁元邑魚鱗冊﹂のように、冒頭に総図を掲げないで、集計表
するものでないことは明らかである。他にも例えば前掲の史料
則・畝数・建米量を併記し、後には集計のための﹁総共﹂欄を
ヤ
設ける様式から見ても、税に関するものであって、小作料に関
これはこの﹁計開﹂表の畝数と石数との関係を見ても、又科
一、およぴ一二近所在の土地の集計である、と思う。
都二量の、一9二9三・四・五・六・七・八・九・一〇・一
第2表 史料5「洞庭山魚鱗冊」冒頭の
計開表から算出した科則別畝当
といっているから・総図が失なわれた時に・﹁計開﹂表を以てこれにかえることが・よく行なわれたのかも知知い。
業戸王義荘
計 蕩 壱畝伍分棄厘陸毫
係壱升五合則
応完実米
坐落政字坪
戸辮根
二九三
このような﹁計開﹂表につづいて、第一丁からの本文がはじまる。第一TA・Bの記事を示すと、次の通りである
湖太至北
︵写真 一 〇 ︶ o
西至 太 湖
束至 弐 地
浜至南
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
八
﹁︵一TA︶
号元第近一最一都+
東至徐鳳海
王議荘
応完実米
係 壱升五合則
計蕩壱畝玖厘陸毫
業戸 呉湾会地
7
戸辮根
坐落政字坪
応完実米
係壱升五合則
計 蕩 壱畝参分柴厘五毫
業戸 王義荘
戸辮根
坐落政字圷
地會至北
西至 許 風 祥
一橋大学研究年報 経済学研究
︵一TB︶
西至太湖
東 至園
石i
也
二九四
○
八
八
章漢亭春夏至南
地會至南
号弐第近一骨一都+
号参第近一島一都+
八
業戸 孔余慶
計 蕩 壱畝捌厘陸毫
係壱升五合則
応完実米
坐落政字圷
戸辮根
」
西至王義荘
東至王義荘
慶余孔祥鳳許至南
湖太至北
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 二九五
二〇冊全体を通じ、骨数・近数・号数は、整然と連続している。又用紙の版心には、
反面から言うと、これは前述したように、かなり広い範囲にわたって、土地を網羅的に記載するものであって、一
ては、何らの関心をも全く反映させていない、ということが出来るであろう。
ている。っまりこの帳簿はきわめて明白に、徴税についての関心、徴税についてだけの関心を示し、小作関係にっい
ヤ ヤ
って、上部の枢の中には、丈尺は元より、田形そのものさえ記入して居らず、小作関係については、項目が全く欠け
実際に記入が見られるのは、位置︵都・畳・坪・近・号︶と、業戸名、地目、面積、および四至の接続関係だけであ
業戸.辮根戸の姓名、地目︵田・地・山・蕩︶、現状︵荒・熟︶、科則、税量等を記入するようになっている。しかし
用紙にあらかじめ刷りこまれた項目は、土地の位置︵都・骨・坪・境・畳数︶、形状︵田形図︶、四至の接続関係、
号蝉第坦一局一都十
一橋大学研究年報 経済学研究
﹁ 東洞庭山後魚鱗冊 ﹂
ものではない。
二九六
に基いたらしい具体性がうかがわれ、そこでの土地の記載は、右の﹁東洞庭山後魚鱗冊﹂におけるように、形式的な
っと大きい。版心に﹁康熈拾伍年奉旨丈量魚鱗清︵信︶冊﹂と刷りこんであるばかりでなく、記事にもたしかに実測
史料6乃至9の揚合には、一般に用紙の版はずっと大きめで、紙の縦・横、藍格の寸法・字体が、前述の五点よりず
せられていて、これに比べると、そこには成立年代の先後によると思われる、かなりはっきりした相違が見出される。
︵11︶
には、康熈一五年奉旨丈量の結果であることを版心に明記した、これより古いと思われる史料6・7・8。9が収蔵
にはなはだ似た所があるように感ぜられる。少くともそれは清代中葉以前のものではない。たまたま国立国会図書館
年次を記入したものはないが、同治・光緒以後に成立したことの知られる他の地方史料と比較して見て、紙質や様式
さて以上取り上げた五点の史料は、いづれも、清末以後のものと思われる。史料3の﹁民国魚鱗冊﹂以外、簿冊に
の直接用役関係に関する記事が、いよいよ簡略になってゆく傾向があることに、注目せざるをえない。
る。前節までにふれた数点の史料と対照すると、次第に形式が完整さを加えるのに反比例して、個々の土地や、土地
とあって、題記ばかりでなく、この版心の記載によっても、この簿冊を﹁魚鱗冊﹂とよぶことが、正当づけられてい
7
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
灘鱒麟…譲撒欝灘灘
癩灘議鵡藤撫
1軸
鰍鶴羅鵜蕊藤
慧
⋮ー鱗脚難﹄
総搬灘鰹韓鶴欝轟
響舞鍵挫郵1勢謎1讐
葦轡警賛警塾蔓蘇
謹
,
導構麟藤熱
鳶
織,、、鞭灘1P
写真11 「鮎魚字牙魚鱗冊」近形図
九七
一橋大学研究年報 経済学研究 7 二九八
個々の史料についての紹介を試みよう。先ず史料6の﹁鮎魚字坪魚鱗冊﹂、史料7の﹁剣字坪魚鱗冊﹂は、共に長洲
県のもので、同版同大︵紙質も似ている︶の用紙の上に、非常によく似た記入形式を示して居り、元来一セソトだっ
たものの二冊が、たまたま残ったのではないかと思われる。版心に﹁抄録長洲県康熈拾五年云凌﹂とあって、県名を
後から手で書きこむようになっているから、この魚鱗冊用紙は特にこの県だけのために作られたものではない。
共に縦三二・五糎、横二二・七糎の用紙を、鮎魚字坪の方は二七丁、剣字圷の方は二二丁、それぞれ一冊に綴じて、
その冒頭にいずれも同形式の近形総図をつけている︵写真一一参照︶。
記載地の範囲は前者が、長洲県鮎魚字圷の一近から一一一近まで、後者が同県西剣字培の一塩から三一近、東剣字
圷の一垢から五四近までを、ふくむようになっている。鮎魚字坪の方は﹁鮎魚字圷魚鱗冊﹂と題記した、元来の表紙
らしいものを残して居るが、剣字圷の方には題記を欠いていて、後にふれる史料8の受字圷の魚鱗冊︵これにも表題
はない、︶と共に、三冊を一峡に納め、この峡に文求堂らしい﹁慶﹂字印のある題籏をつけて、﹁長洲県康熈十五年魚
鱗冊﹂と記している。仮に史料7を﹁剣字坪魚鱗冊﹂、史料8を﹁受字坪魚鱗冊﹂と呼ぶことにする。
さて史料6・7にもどると、両冊とも版心に、
﹁ 抄録長洲県康熈拾伍年分奉旨丈量魚鱗清冊 ﹂
と刷りこんだ用紙の、各丁表裏をそれぞれ二つに分け、そのそれぞれに一垢ずつの田地を記載している。上部には田
地の概形、丈尺、土名、四至の接続関係等を記し、 その下にその地片の位置︵坪名・堂数︶、圷甲姓名、積歩数・科
沈君徳
二九九
則・面積・平米数等の欄を設け、その後に﹁業戸﹂ 欄が二つ、重復して作られている。史料6の一TA・一TBを抄
共積歩 玖百騨歩伍分
鮎魚字圷第壱近 坪甲
録して、体裁を例示しておく︵写真一二参照︶。
﹁︵一TA︶
西至本戸
官則田 参畝架分陸厘玖毫
平米
今業戸顧順陽 田係高区 佃戸
田
又同量業戸
国立国会図 書 館 収 蔵 の ﹁ 魚 鱗 冊 ﹂ に つ い て
東至宝浦餅界
灘簾
土
北
至
本
戸
港花桃至南
角南名土
戸本至北
又同近業戸
田
今業戸顧順陽 田係高区 佃戸
平米
官則田参畝陸分壱厘毫
共積歩 捌百陸拾陸歩参分
鮎
魚
字
坪
第
弐
量
圷甲
一橋大学研究年報 経済学研究 7
西至 本 戸
︵一TB︶
藁
西至陳玉培
歩改拾
疹
一へ
拾
柔
東至本戸
尺参歩イ五拾
尺
戸本至北
又同近業戸
田
今業戸顧順陽 田係高区 佃戸
平米
官則田 弐畝玖分楽厘壱雍
共積歩 棄百壱拾参歩
鮎魚字圷第参近 圷甲
︵版心︶鮒 県康熈拾伍年分奉旨丈量魚鱗清冊
東至本戸
港花桃至南
港花桃至南
沈君徳
沈君徳
三〇〇
西至本戸
鮎魚字圷第騨近 圷甲
共積歩伍百玖拾巣歩巣分
官則田弐畝蝉分玖厘 毫
平米
今業戸陳玉培 田係高区 佃戸
田
又同堆業戸
沈 戌
墨を用いての記入の様式も同様である。ただ史料6の揚合、﹁圷甲﹂、﹁平米﹂欄に全く記入がなく、又﹁佃戸﹂姓名の
史料7の﹁剣字圷魚鱗冊﹂は、寸法体裁ともに、史料6と全く同大・同形式で、用紙は同版でないかと思われる。
戸であって、したがって二つの欄の両方に、姓名・面積の記入の見える揚合がある。
他は貸出さぬ揚合を記入するための区別のようである。稀に、同近の田地が二人の異った業主に分たれ、一方が管業
に掲げた史料4、﹁長元呉魚鱗冊﹂の﹁管業﹂と﹁自業﹂の区別のように、一方は業戸が土地を佃戸に貸出す揚合、
は﹁又同垢業戸口HU﹂と、業戸名だけを記すようになっている。後段の記事をも参照して考えると、これは丁度前
二つの業戸欄の中の一つには、﹁今業戸日係□佃戸□田﹂と業.佃戸名を併記するようになっており、他
東至顧敬陽
角南名土
戸本至北
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 三〇一
」
港花桃至南
橋大学研究年報 経済学研究
7
写真12 「鮎魚字圷魚鱗冊」第1T A
O
写真13 「受字軒魚鱗冊」冒頭「計開」表
欄も、最初の六丁ばかり、つまり一玩から一一一近まである垢数の内、はじめの二五近まで姓名を記入して・その後
記入を欠いている、︵これは必らずしも小作地・小作関係そのものの欠除を意味するものではあるまい、︶のに対して、
史料7のそれらの欄には、それぞれの姓名や実数が、全部記入されている。それらを使って、当時の村落内部の状態
を探るア︼とが出来ると思うが、しばらく後続する小稿の課題とする。但し歩数と畝数との関係だけを、史料7の前半、
西剣字圷の合計数について見ると、四三、三三〇・四歩が二〇四・七七四畝、つまり一畝は一二〇・一五歩である。この
揚合にも、一畝を二四〇歩とする通制からは、外れている。又﹁平米﹂数と畝数との関係を、同じ地域の合計数につ
いて見ると、総面積二〇四.七七四畝の平米が六八・四一六四石である。畝当○・三三四一石ほどになる。すぐ次の史
料8、受字圷の揚合と対照せられたい。
所でこの二冊の史料については、書きとめておくべきことがも一つある。それは史料のご一丁と一三丁の間に、一
枚の紙片がはさんであって、これに、次のごとき記載が見えることである。紙片は縦二四・三糎、横一七・五糎ほど
三〇三
で、元来簿冊︵恐らくここにいわゆる﹁魚鱗冊﹂と同様なそれ︶の一丁だったもののように見うけられる︵後出写真
一八を見よ︶。
国立国会図 書 館 収 蔵 の ﹁ 魚 鱗 冊 ﹂ に つ い て
長邑四十八都下二十薔
「
彩君謝至北
河至北
一橋大学研究年報 経済学研究
甲家田名土
西至王仲卿
八拾四歩参尺
只
東至呉祈寧
七拾匹歩
西至李西有
浜家陸名土
官則田
共積歩
恐字坪
陸畝伍分四厘九毫
壱千伍百七拾壱歩八分
弐百拾伍境
五百六拾七近
壱千四百六拾参歩四分
陸畝玖厘八毫
三〇四
がはさまっていたことだけを指摘しておいて、尚残っている二点の﹁魚鱗冊﹂の紹介を、完えなくてはならぬ。
か、或はその抜抄だと見ることが出来よう。これについては後に又立かえって述べる。ここでは先ずそのような紙片
」
拾参歩四尺
拾参歩四尺
歩拾試
形式と内容から推して、これは史料−の﹁元邑﹂冊や、2の﹁長邑﹂冊に近い性質をもつ、﹁魚鱗冊﹂の断簡である
東至色瑞野
田歩圷
九塩
⑲渉
7
官共恐
則積字
寧祈呉至南
忠萢至南
史料8、︵長洲県︶﹁受字好魚鱗冊﹂、
﹁鴨城里内巧魚鱗冊﹂について
および史料9、︵呉県︶
に一枚に納められている。内容の坪名に基づいて、ここでは、﹁受字坪魚鱗冊﹂と呼んでおく。
冒頭には総図・垢形図を存せず、これに代えて次の如き計開表を載せている︵写真一三︶。
二斗則田 四畝六分八厘四毫
二斗八升則地 廿 九 畝 二 毫
官田 十頃九畝七分二厘
平米九斗三升六合八勺
平米八石一斗二升六勺
平米三値七十八石六斗四升五合
四升一合則蕩 十四畝三分一厘三毫
荒平米八升二合五勺
平米五斗八升六合八勺
一斗三升一合五抄則地 九十七畝八分七厘九毫 平米十二石八斗二升七合一勺
三升七合五勺荒田 二分二厘
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
三〇五
をふくむ。縦三二.五糎、横二八.九糎の大版の用紙一三丁を一冊に綴じている。内表紙に題記なく、史料6、8と共
史料8の﹁受字培魚鱗冊﹂は、長洲県二四都二九量、土名鶏籠敏・媛撹橋・朱家浜・馬路・周家角等にわたる記事
山
ノ、
廿四都二十九量 受字坪、因総図遺失故、 書全図田
、 共十一頃六十三畝七分二厘五毛
地
則
蕩 「
一橋大学研究年報
経済学研究 7
石
10,09.720
378.6450 0.375
2斗8升則
29。002
8.1206
0.280
2斗則
4.684
0.9368
0.200
1斗3升1合5抄則地
9尋.879
12.827工
0.135
4升1合則蕩
14・,313
0.5868
0.041
3升7升5勺荒田
1斗3升1合5勺荒地
0.210
0.0825
0.392
7.805
1.0228
0.131
公佑義塚地
無主積荒地
5.132
0
0
43.247
0
0
貝lj
科
官 田
荒平米一石二升二合八勺
三〇六
と二位の相違がある。実米と平米については、尚文献史料の調査を継続
これを前に﹁楚米﹂について行った計算と比べると、そこにほとんど一
斗八升則・二斗則・四升一合則・一斗三升一合五勺則等を見よ、︶も少くない。
石数に、きわめて近い揚合が多い。ぴったり合致する揚合︵第三表の二
の第三表のようになる。畝当の﹁平米﹂量は、それぞれの地目の﹁科則﹂
この集計表から、各科則、地目別の、畝当平米量を算出して見ると、上
と言う石数が、科則面積別に、示されていた。これと比較するために、
ヤ ヤ
面積と、﹁平米﹂量を挙げている。前に史料5にも、これと似通った﹁計
ヤ ヤ
開表﹂がつけられている事を紹介したが、そこでは畝数と共に﹁建米﹂
ておく、と言う意味の記載の見えることが注目せられる。科則地目別に、
集計表のはじめに、総図が遺失したから、全図の田地則蕩を書き上げ
L
一斗三升一合五抄荒地 七畝八分五毫
畝当平米
石
五畝一分三厘二毛
平 米
剛除額外公佑義塚 地
面 積
頃畝
四十三畝二分四厘七毫
一畝当平米
無主積荒地
第3表 「受字坪魚鱗冊」に見える科則別の
いる。体裁はすぐ次に例示する通り、田形︵四囲の丈尺︶、接続関係、位置︵坪、量、土名︶、科則・面積︵歩数・畝
この集計表に、長洲県二四都二九昼受字坪の二二五駈から、同五一二堆にわたる地片の記載を示す本文がつづいて
接には関係しないことも、明らかだ、と言わなくてはならない。
したい。しかしいずれにせよ、この揚合にも、﹁平米﹂が租税額の算出の基礎になるべき数字で、小作料の徴収と、直
》
受字圷第弐百念伍堆 圷甲
共積歩 蝉百捌拾捌歩鍵分
官則田 弐畝参厘五毫
今業戸 李茂春田 係
三〇七
数︶、坪甲・業戸・佃戸・同駈業戸等の姓名、荒・熟等を記入するようになった藍格に、墨で記入がなされている︵写
真一四︶。
﹁︵一TA︶
西至
拾参蒲蓼摩 銘
佃戸 田
又同塩業戸
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
東至沈愛渓
麟翔羅
至
土
北
徒克凌至南
− 官則田 弐畝捌分捌厘捌毫
共積歩 陸百玖拾参歩弐分
受字坪第弐百念陸玩 坪甲
一橋大学研究年報 経済学研究 7
西至本 戸
参参拾律歩 土
議口鰯
参拾陸歩参尺
荒 今業戸 李茂春田 係
佃戸 田
又同塩業戸
三〇八
思われる、網羅的な﹁魚鱗冊﹂が、ほとんど例外なく、一近とか、一堤元号とかから記載をはじめて、坪名.近.号
すぐ右にもふれたように、本文の現存第一TAは、二二五翫から記載をはじめている。ア一れは他の、税に関すると
東至凌克従
名
欠き、二四五境と記している。しかし、これは唯一の事例であって、又この丁のすぐ次から起る近数の欠除が、二四
能性が、きわめて大きい。ただ一つの例外は、二四三近、二四四近の記載の存すべき現存第三TBに、二四四近を
載されている、その丁の変りめに於て起っていて、丁附がないので断言は出来ぬが、欠失が落丁に因るものである可
二近等を載せる丁が、欠けていることを見出すのである。ただ以上全ての揚合を通じ、欠失は各丁表裏に四近づつ記
後段にも頻りに現われ、二三三近から二四〇近、二五三坂から三二四玩、三三七堤から三八八坂、三九七駈から四〇
数に整然たる連続性を示すのに対して、対照的に、特異である。又この冊の内容を通検すると、同じような不連続は、
」
む
至
取
南
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
写真14 「受字圷魚鱗冊」現存第1T A
毒
懸一1慧
簸諦 轡勲鰍糖継辮熱織麟鱗
叢懇 一鱒講麟鞭雛嚇難縄
騰灘噺欝鱒燐鰯簿欝噺織蘇灘騨駄
講 糠欝灘轟難購辮難灘鞍懸灘鋤
、醗灘轍驚響翻犠欝隷鱗撫、
〇九
轍、懸籔驚燕灘購
.、、.蝋_ン、_..ン、、.温..、.,_漁亡購麟灘糠鋤磁,‘“.、_拓...鼎撫螂磁蕊γ’)”__w、_、,、、_一._
写真15 「鴨城里内圷魚鱗冊」の計開表
一橋大学研究年報 経済学研究 7 三一〇
八駈に及ぶものであることを考え合せると、誤記でありうると思う。全冊を通じ、きちんと一丁四地片の記入が見ら
れることから言えば、欠落している最初の丁には、二四五∼二四八垣についての記事が、見出さるべきだからである。
自分はこれらの点から﹁受字坪魚鱗冊﹂は、元来は首尾一貫した連続的なものだったのが、丁数の脱落によって、現
在の形になったものだと、考えねばなるまいかと思う。
最後にもう一点、史料9の﹁鴨城里内圷魚鱗冊﹂が残っている。縦三〇・二糎、横二丁九糎の用紙、一五五丁を一
冊に綴じて、これに江蘇省呉県、内字圷の一近から六六〇近に至る土地を、略た網羅的に載せている。九匠から一二
量、一九三坂から一九六駈、三七〇垢から三七四坂等の間に、欠失が見出されるが、いずれも本来一丁に記載せらる
べき、四近づつの欠除で、しかも一部の丁の揚合には、その丁を破り去った明白な形跡があり、これが元来は、境数
の連続した、完整な簿冊だったことは、ほぽ疑がない、と思う。枚の背に、﹁江蘇省呉県現姫激鴨城里魚鱗清冊﹂と題
記しているが、これは﹁慶﹂字印のある題籏と共に、後からのものと思う。ただし簿冊の冊底に、
﹁内圷、恒福﹂
と墨書し、又その冊背に、
﹁ 上廿五都十一骨 ﹂
と記しているのは、決して後人の追記ではないようで、これが元来かなり冊数の多い、一セットの一部だったのでな
いかとの推測を、可能にする。
冒頭には次のような集計表を掲げている。上部が欠けているが、分明な文字だけを抄録する︵写真一五︶。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
欠︺毫 平米壱斗伍升捌合
欠︺平米参斗玖合参勺
欠︺陸毫 平米捌石玖斗壱升弐合陸勺
欠︺陸厘参毫 平米蹄石蜂升玖合陸勺
欠︺分参厘蹄毫 平米参石柴斗弐勺
平米 伍百参拾館石陸斗陸升捌合陸勺
欠︺壱拾蜂頃弐拾伍畝柴分捌厘参毫
平米 伍百柴拾石弐斗参合壱勺
欠︺︵田︶地山蕩浜濃共壱拾伍頃玖拾柴畝壱分弐厘捌毫
平米 壱拾陸石陸斗陸升伍合捌勺
欠︺願︻外禄根田蕩蝉拾騨畝肇分躍厘弐毫
平米 伍百伍拾参石伍斗参升柴合参勺
カ
欠︺今清□見全書額内田地山蕩演浜共壱拾五頃伍拾弐畝陸分捌厘陸毫
欠失︵内︶︺字圷 計陸百陸拾弐垢
「
三一
第4表 「鴨城里魚鱗冊」の集計表に見える
畝当平米量
一橋大学研究年報 経済学研究 7
欠︺毫 平米難升柴合難勺
0.3746
570.2031
0.3570
額外禄粗田蕩
合 計
0,3565
三﹄二
又前述の﹁受字坪﹂・﹁剣字坪﹂のそれと全く同じ項目を備えた藍格をすりこんだ用紙に、
そしてその次の丁から、版心に﹁抄録□県康熈拾伍年分奉 旨丈量魚鱗冊﹂と記し、
せるのである︵写真一六︶。
中央に右上、つまり西南角の第一翫からはじまって、東へ近数が増加してゆく塩形図を載
浜﹂、﹁北至□塘港﹂とあり、︵上部つまり﹁南至﹂を載せた部分は、欠損している、︶その
これにつづいて一丁の表裏にわたって、総図を載せている。﹁西至金浬河﹂、﹁東至鴨城
あろう。
﹁計陸百陸拾弐玩﹂とあるから、六六一玩以下を載せた、最後の一丁も脱落しているので
の﹁楚米﹂数であるとすれば、それはやはり一斗数升のものである。この集計表の冒頭に、
五升以上である。しかし前に示した計算によって、これのほぼ二分の一が、これらの土地
ごとくである。この簿冊の畝当平米量、特に﹁額外禄,根田蕩﹂のそれはかなり高く、三斗
地目・畝数・石数の分明な冒頭の三項目について、畝当平米数を計算すると、第4表の
﹂
欠︺分壱厘
16.6658
44.442
15397ユ28
石
額内田地山蕩櫻浜
15,52.686
畝当平米
石
553.5373
頃畝
平米石数
積
面 目
地
国
立
ム
爾 灘
欝鶏欝捧轡
蝋・滑巫
灘
について
、潟鱒渉欝猿
写真16 「鴨城里内圷魚鱗冊」玩形図
一橋大学研究年報 経済学研究 7 三一四
各丁表裏それぞれ二近づつ、田形︵概形・丈尺︶、四至、位置︵坪・量︶、科則・地目、歩数・畝数、平米数、圷甲・
業戸.同近業戸。佃戸の姓名等を、書きこむようになっている。体裁を例示するために、第一丁の表裏を抄録する。
撤姫旗名土
港至北
又同境業戸
田
佃戸
今業戸公佑義塚地 田係
平米
則地壱畝 分捌厘柔毫
共積歩弐百陸拾歩玖分
内字圷第壱近 圷甲朱良美
少し大版であることを除けば、様式は、受字坪・剣字坪の揚合と、全く同じである︵一TBにつき写真一七を見よ︶。
﹁︵一TA︶
西至 河
河至南
︵悠誘
名土
地荒嫡至北
国立国会図書館収蔵の
︵一TB︶
疹
字坪第弐近圷甲
共積歩壱百拾陸歩
参斗柔升伍合荒則田
平米
今業戸趙碧山 田係荒
佃戸
田
又同近業戸
﹁魚鱗冊﹂について
畝蝉分捌厘参毫
共積歩参百騨拾歩参分
内字坪第参近坪甲
県康熈拾伍年奉 旨丈量魚鱗清冊
1願葦
西至分佑
歩捌一
圃国李
河 至 南
三一五
平米
今業戸李順宣
佃戸
田
又同近業戸
田
佃戸
今業戸李容 田係熟
平米
参斗梁升伍合則田壱畝玖分藁厘玖毫
共積歩騨百 拾躍歩玖分
字坪第蝉丘坪甲
田係熟
参斗参升伍合則田壱畝蝉分壱厘捌毫
一橋大学研究年報 経済学研究 7
欠 失
戴槍歩
鎌蒸
東至施天章
西至趙碧山
欝﹄警
東至李容
又同近業戸
三一六
」
伍拾歩伍尺
容
記入方法も、前の受字坪や剣字軒の揚合と全く同様だから、特につけ加えなくてはならぬ説明はない。この三点は
︵U︶
いずれも、恐らく康熈一五年の実測に基づいて、その後の比較的古い時代に、徴税の目的に供するために、それぞれ
の培における全地片につき、網羅的に、作られたものである。恐らくは冊数の多い、もっと大きなセソトの一部だけ
︵12︶
が残存したもので、セットの全体は、洲県の衙門か、櫃書の手にまとめて保存せられたのでないかと推察せられる。
七 この史料にあらわれた﹁魚鱗冊﹂の性質と、中国地主制の
一 二 の 側 面 − 結 語
さて国立国会図書館収蔵の、いわゆる﹁魚鱗冊﹂は、以上のごときものである。始めに指摘した通り、そこには明
瞭に区別せらるべき二つの型が混在する。一つは簿冊形式が完整であって、例外なく予かじめ項目や藍格をすりこん
だ特殊の用紙を用い、特定の徴税区域の土地全部を、網羅的に記載しようとするものである。冊首に、各近の位置形
ヤ ヤ ヤ
状を示す総図や、科則地目別の﹁平米﹂、又は﹁楚米﹂数の一覧・集計表を、掲げることが多い。簿冊作製の動機は、
税の徴収にある、と思われる。他の一つは簿冊形式が比較的に簡略であって、予かじめ用意された特殊の用紙を用い
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 三一七
るべき地片の垣数等に、中断と飛躍とが見出されるのである。そこに記入された畝数と、﹁額米﹂石数との関係を見る
単に特定の近、又は号を載せた丁が、丁の単位で欠除しているだけではなく、同一の丁上において、元来一貫的であ
ない揚合も多く、又土地の記載は選択的であって、簿上に見える畳数・量数・号数には連続性が見られない。それも
ヤ ヤ ヤ
ヤ
橋大学研究年報 経済学研究
写真17 「鴨城里魚鱗冊」第1T B
八
写真18 史料7にはさんであった断簡
と、税であるにしては余りにも高く、小作料算定の基準であるにちがいないと感ぜられる。つまり、この後者の型の
ヤ ヤ ヤ
簿冊は、ア︶れを作った動機が税の徴収ではなく、小作料の収納であった、と思われる。作製者として、地主租桟名ら
しいものを挙げた事例が、一例だけではあるが、存する。前者が公的な性質を明瞭に示すのに対して、後者は中国地
主制の発展に附随して成立した、私文書であると見ることが出来よう。
元より体裁や用紙やの形式的な完整さから言えば、後者は前者に及ばない。しかし清末のものと思われる東亜研究
所旧蔽の数点について言うと、形式のととのった徴税用の魚鱗冊よりも、簡略に見える収租用の﹁魚鱗冊﹂の方が、
かえって土地の﹁丈見﹂︵実測︶に基づいたり、そうでなくても、個々の地片に対する、より強い地主の関心を反映し
たりして、末端の事情をより細かに、より委しく、示すものであるように思われる。特に当面中国近世の地主制に関
ヤ ヤ ヤ
する私文書を、通検.展望しようとしている自分にとっては、従来注目せられたことのないこの地主簿冊の一形式は、
はなはだ興味深く感ぜられたのである。
所で形式の整った徴税用の﹁魚鱗冊﹂には、版心に﹁魚鱗冊﹂・﹁魚鱗清冊﹂・﹁魚鱗信冊﹂などとすりこんだ用紙を
用いたものが多く、又従来魚鱗冊の研究に利用された史料の写真その他と対比して見ても、それを﹁魚鱗冊﹂として
扱う.︸とには、ほとんど間題がない、と思われる。所が収租用の、租桟の﹁魚鱗冊﹂︵とここでいうもの︶には、大き
さも紙質もまちまちな用紙を綴って、通例その内表紙に、﹁魚鱗冊﹂という題記を示すに止まるものが多い。文書史料
については常に、一般に、後人の鼠記を警戒しなければならぬ、という常識に従がえば、これを﹁魚鱗冊﹂︵或は少く
ともその一変種、︶として取扱うためには、やはり先ずその可否を問題にしなくてはならぬ。ことにそれらのほとん
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 三一九
.’
一橋大学研究年報 経済学研究・7 三二〇
ど全部は、図書館に入るまでに内外の書嬉の手を経ている、と思われる。又事実ここで取扱った史料の一部には、臼
本の書騨が作ったのでないかと思われる題籔を、︵株上にではあるが、︶附けたものがある。そして内表紙の表記が後
入れで な い と い う 証 拠 は 、 別 段 何 も な い の で あ る 。
しかし同時に前節までに、史料の体裁や、記入の内容を出来るだけくわしく紹介することによって、少くとも次の
ように言う根拠だけは明示しえたと思う。すなわちここにいわゆる後者の型の﹁魚鱗冊﹂、つまり地主租桟が作り、保
蔵したと思われる、小作料収納のための簿冊は、従来﹁魚鱗冊﹂として承認せられ来った、徴税関係の官簿と、記載
項目その他につき、かなり強い類似性を示す、ということである。そこにはやはり形式的にも、内容的︵勿論一方は
税、他方は租に関する、という根本的な相異はあるが、︶にも、ある脈賂の通い合うものが感ぜられる。従って題記が、
日本で、後から記入されたものなぞではなく、やはり当時の中国で、このようなものをもふくめて、﹁魚鱗冊﹂と呼ん
でいた、としても、それはそれほど不自然でもなく、無理でもない、と感ぜられるのである。
又﹁魚鱗冊﹂と呼ぴうるにせよ、呼びえないにせよ、そのような簿冊が作製され、伝承され、現存する、という事
実には変りがない。そして又少くとも清末江南の地主制の中に、康熈・雍正時代に国家が税を徴収するために作った
﹁魚鱗冊﹂と通称される簿冊に似た、管業地の台帳を作り、しばしば土地を丈見したり、踏査したりして、その田形
や、土質や、荒熟や、四囲の丈尺や、地境の接続関係を、図・坪や、畝数や、額米数、佃戸名等と共に、記録するも
のがあったことには、疑問の余地がない。簿冊の一部が、そのための特殊の用紙を使っていることから見れば、それ
がかなり広く行なわれた慣行であったことさえも、明らかなのである。
それは又同時に、そのような簿冊の存在そのものによって、城鎮化して、多分は市内に租桟・賑房を設立維持した
であろう当時のこの地帯の地主が、単純にレントナi化してしまわずに、強力な経営関心と、事実上の支配権とを、
その管業地の上にもちつづけたことをも、示すというぺきであろう。租桟の管業地経営の実態については、なお明ら
かにせられなくてはならぬことが多いが、少くとも江南では、彼らは決して、土地の経営から完全に浮き上って、土
︵13︶
地経営から遊離した存在になぞ、なりはしなかったのである。絶えず管業地の実態を把握しつつ、強力な管理組織を
運用することによってはじめて、小作料の収納をも確保しえたのだ、と見ることが出来よう。
さて、これだけのことは、上来紹介したような簿冊が残存することだけによっても、言うことが出来ると思う。し
かし他に、これらの簿冊の史料としての利用性が、見出されぬであろうか。
土地の記載が網羅的であって、しかも、管業地と自業地等を区別しているような、官製の﹁魚鱗冊﹂の場合には、
何よりも土地経営の内部構成を知る材料として役立つはずである。例えばそこに記載せられた土地の全面積の中で、
特定の経営形態が占める比重は、どのようなものであったか、を知るぺき史料として利用せられうるであろう。上来
個々の史料を紹介する間に算出した所によれば、この揚合には管業地の比重が著しく高いこと、﹁攻地﹂、又は﹁宅地﹂
以外の自業地は、はなはだ少いことが注目せられた。元よりこの種の﹁魚鱗冊﹂は、他にも少からず収蔵せられてい
るのであるから、この点についてはなお出来るだけ観察の範囲を拡げて、限界の反省を伴なった統計的処理を加える
必要がある。官簿﹁魚鱗冊﹂所載の土地全体に占める、管業地の比重は、一体清代江南の農地経営において、地主小
作人制がどれほど主要な、又どれほど代表的な土地利用形態であったかをたしかめるためにも、重要なことは言うを
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 三二一.
一橋大学研究年報 経済学研究 7 、 三二二
またない。それが後に民国に入って盛に行われた諸調査の結果と、どのような関連や、対比を示すか、これもいずれ
稿を改めてふれて見たい、一つの課題である。
又総図を備え、近ごとに管業戸や佃戸を明記した官側魚鱗冊からは、特定の地主の名義地や、特定の佃戸の耕作地
の、分布図を作製することが出来るであろう。これも他の事例との比較において、いずれ試みたい、と思っている。
最後に、上に記した合計九点の史料を通観すると、この小稿でその存在を特に強調しようとした、いわゆる私文書
的な﹁魚鱗冊﹂は、いずれも右に自分が清末のものと考えた、比較的成立年次の新らしいグループにばかり属してい
る。これはこの様な形の簿冊を作ることが、比較的新らしい慣行であり、地主租桟の発展に伴なって、清末になって
始めて、見られるに至った新状況であることを、示すものであろうか。この問に対して明確な答を出す十分な根拠は、
ここには見出すことが出来なかった。ただこの点につき注目されるのは、前節五の末尾で指摘した通り、版心に﹁康
熈拾伍年奉旨丈量魚鱗清冊﹂と記し、比較的に古い成立のものだ、と思われる史料7、﹁剣字圷魚鱗冊﹂の丁間に、一
枚の紙片がはさまれていて、それがここにいわゆる私文書的な魚鱗冊の断簡のように見えることが、これである︵写
真一八、本小稿三〇三、三〇四頁参照︶。
ある史料に一枚の紙片がはさまれていた、というだけでは、元よりはさんだ史料とはさまれた紙片との、成立や性
︵M︶
質についてのいかなる共通性をも、最終的には立証しえない、と思われる。しかし他の揚合における、租桟の掌櫃や
催甲の行動に照して見て、それが同時代の、この魚鱗冊の作製者か保管者によって作られ、業務上の関心に基いて、
そこにはさまれたものである一縷の可能性も、やはり存在することを認めなくてはならぬ。﹁魚鱗冊﹂的な内容をも
つ簿冊に、上述したような二つの型の併存する事態は、案外古くからあったのかも知れぬ。勿論断定的なことを言う
べきはっきりした根拠はないけれども、その可能性がないわけではない。又本小稿三〇三頁に掲げた断簡は、大にそ
の可能性の存在を思わせる、とだけは、言ってよいのであるまいか。︵一九六二・一丁三〇、脱稿、一九六三・一二八、
加筆。︶
︵1︶ 本小稿後段二九六頁、二九八頁を参照せよ。
︵2︶ 東方学報、東京、第六冊、昭和一一年二月所収、仁井田陞﹁支那の土地台帳﹃魚鱗図冊﹄の史的研究﹂、およぴこれを更に
改訂せられた仁井田陞﹁中国法制史研究−土地法・取引法﹂︵一九六〇年三月、東大東洋文化研究所刊︶、第九章﹁清代民地の
土地台帳﹃魚鱗図冊﹄とその沿革﹂︵二七七−三一二頁︶を見よ。魚鱗冊に関する従来の研究についての仁井田博士の紹介及
ぴ評価は、同書二七八−二八三頁に見出される。この労作、特にその第六節﹁清代の魚鱗図冊﹂から、筆者は多くの有益な啓
︵3︶ ことによるとここにいわゆる﹁失塩﹂は、次節三の史料2、﹁長邑魚鱗冊﹂に見える、﹁官冊無形﹂、﹁官冊無従請処﹂等の
示をえた。
︵4︶ 前掲仁井田陞﹁清代民地の土地台帳﹃魚鱗図冊﹄とその沿革﹂、二七七頁、三二一−三一四頁、同図版第六、挿図第二、第
記載と同じく、それらの地片が官簿から脱漏した黒地畝であることを、示すものであるかも知れない。
三、第四を見よ。
︵5︶ 天野元之助﹁中国畝制考﹂︵山口大学﹁東亜経済研究﹂、復刊第三集、昭和三三年、一二月、一頁︶は、﹁制度史の側面から
見れば、一畝”一〇〇︵方︶歩から二四〇︵方︶歩への改制と、一歩11六尺から五尺への改制﹂とがあっただけだが、﹁尺の変
化がめまぐるし﹂かったのだという。ここでも﹁歩﹂は長さと共に面積を意味している。なお呉承洛・程理溶﹁中国度量衡史﹂
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について 三二三
一橋大学研究年報 経済学研究 7 、 三二四
︵一九五七年、上海︶、六一頁、一一四﹂﹂一九頁参照。
︵6︶ 小作料納付期限につき、天野元之助﹁支那農業経済論、上﹂︵昭和一五年、改造社︶三一九頁、三二三頁等は、﹁頭限、二
限、三限﹂を挙げるのみであるが、清末の江甫に﹁飛限﹂が開倉後最も早い納付期限であηたこ匙につき、拙稿﹁二十世紀初
頭における蘇州附近の一地主租桟とその小作制度−江蘇省呉江費氏恭寿桟関係租籍便査冊の研究﹂︵東洋文庫﹁近代中国研
究﹂第五輯︶、及ぴ同じく拙稿﹁清末江南地主制における小作料の催追について﹂︵一橋大学年報、﹁社会学研究﹂5、一九六
三年所載︶参照。
︵7︶ 註︵5︶を見よ。又ρ︽①亭昌o昌o毎刈㊤昌αq”の9qδω首Ω一ぎΦ器ぎω江9けδ昌巴匡馨日ど一8どOp目ぼ匡oq9ピ霧欝やoo卜∂
を参照せよ。
︵8︶ 拙稿﹁清末蘇州附近の一租桟における地主所有地の徴税・小作関係−江蘇省呉県凋林一桟地丁漕糧関係簿冊について﹂、
︵一橋大学﹁経済学研究﹂6、一九六〇年所載︶、特にその三〇七−三一八頁参照。そ.︺では同一地片群についての平均におい
て、呉県では一畝当り小作料マ〇七一石、税〇二三三九石、長洲県では小作料丁〇二六六石、税○.〇九九四石であった。
︵9︶ 同右拙稿の一五九頁を見よ。
︵10︶ ﹁官冊無従請処﹂は、はっきりしないけれども、﹁官冊不見﹂と前に見えたのと同じ事態を、へり下って言っただけでない
か、と思ヶ。
︵11︶ 東洋文化研究所収蔵の﹁魚鱗冊﹂につき、仁井田博士は﹁研究所の魚鱗冊中康燕十五年︵一ひま︶の年号あるものは、一応
当時のものと考えられる﹂、と言い、又他の史料と都骨その他を対照して、﹁清代でもそう新らしい時代のものでない﹂ことを
認められる︵上掲、三一七頁︶。康照一五年分の魚鱗冊につき、同書三一〇頁参照。
︵12︶ 仁井田陞前掲書、三一八−三二〇頁は、北方︵山西解州︶について、ではあるが、﹁魚鱗冊﹂の作製、保管に関するくわ
しい史料を紹介している。
︵餌︶ 自分が僅かぱかりの期間、江南の文書史料を調査した間の経験だけから言っても、特に帳簿類に、その租桟や、その年次
附近の一地主租桟とその小作制度﹂参照。
︵13︶ 小作料の徴収は、そう容易に順調なものにはならなかったらしく、この点にっき、前掲拙稿﹁二十世紀初頭における蘇州
r
三二五
やに、関係した文書、書きぬき、覚え書の類のはさんであった事例がきわめて多い。この点につき特に前掲拙稿﹁清末江南地
主制における小作料の催追について﹂を参照せられたい。
国立国会図書館収蔵の﹁魚鱗冊﹂について
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4
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