Title 植民地期ジャワにおける農民の階層分化 : 20世紀 - HERMES-IR

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植民地期ジャワにおける農民の階層分化 : 20世紀前半の
若干の農村調査にみる
宮本, 謙介
一橋研究, 7(1): 111-131
1982-04-30
Departmental Bulletin Paper
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URL
http://hdl.handle.net/10086/6286
Right
Hitotsubashi University Repository
lll
〈研究ノート〉
植民地期ジャワにおける農民の階層分化
一20世紀前半の若干の農村調査にみる一
宮 本 謙 介
はじめに
ジャワにおけるオランダ植民地支配は,19世紀後半に至ると,それまでの
「強制栽培」制度(cultuurstelse1),すなわち賦役(労働地代)を中核とした
植民地収奪体制を漸次縮小し,プランテーション=「資本主義的農業経営」を
基軸とした植民地経営へと転換する。換言すれば,オランダ資本主義の発展と
ともに,その植民地領有においても国家主導型の収奪から民間企業の資本輸出
要請に対応した収奪へと変容をとげるのである(1)。
かかるプランテーション体制への移行とともに,ジャワ農村社会にも商品生
産の論理が深く浸透していく。賦役金納化=貨幣に基づく租税体系(地租,人
頭税)への本格的移行,小農経営に対する商品=貨幣経済の強制,その結果と
しての土地と労働力の商品化,これら一連の事態がジャワ農村社会をプランテ
ーション経営に適応した社会へと「分解」=再編成する。
小論では,当該期ジャワ農民の階層分化の検討を通して,農村における労働
力編成のあり方を捉え,筆者の当面の研究課題のひとつである,近代インドネ
シアの社会構成の特質把握を試みる予備的作業としたい。ただし,上記の課題
をジャワ全体について分析でぎるような史料は皆無に等しいという制約があ
る。とくにプランテーション期の農村実態調査は,管見のかぎり,時期的にも
地域的にもきわめて断片的にしか行われていない。そこで以下では,まず1で
当該期オランダの土地政策を概観し,次に20世紀前半の若干の農村調査を素材
として,皿で階層分化の歴史的傾向を,皿でプランテーション労働者の存在形
態を,それぞれ試論的に提示するという方法をとる。
112
一橋研究 第7巻第1号
モ
ヨ
県
ジ
ヤ
ク
ーフ
ス
ル
ア
県
サ
ン
,
,. ’“ 1,
ラ
ク
スルア ン
バタヴ1ア
一一 一 鳳
t f t一
プレアンゲル州
スカプミ県 プレアンゲル州
チアンジュール県
第1図 農村調査地域を示したジャワ略図
(1)19世紀段階におけるオランダ植民地支配の特質とジャワ社会の構造的変容につ
いては,拙稿「オランダ植民地支配とジャワ社会の再編成」『歴史学研究』,第
479号参照。
(2)従来のジャワ社会経済史研究においては,当該期の農民層分解について体系的
に分析したものはほとんどない。せいぜい大土地占有者の形成,貧農や土地なし
農民の増大を一般論として指摘するに留まってL・る。例えば,W. H. Wertheim,
Indonesian Society in Transition’ASocial Change, The Hague,1956.和
田久徳,森弘之,鈴木恒之著r東南アジア現代史1,総説・インドネシア』,山
川出版社,1977年。
1. オランダの土地政策と商品生産
オランダ植民地当局が,農民占有地の占有権強化政策をすすめる上で,その
主要な媒介環としたのが,各種賦役の金納化と貨幣による租税体制への本格的
移行であった。19世紀中葉までは,植民地当局の農民に対する公租公課の主要
形態は賦役(herendienst)であり,土木公共事業をはじめとして,輸出向農産
物の栽培・運搬から政庁官吏の護衛に至るまで,労働力の過酷な徴発が行われ
た。しかし;プランテーション体制への移行とともに,これら賦役も徐kに人
頭税として金納化され,1917年には全廃される(P。他方,在地首長層の収取す
る賦役(pantjendienst)も,弓長以上の上級首長層のそれは1880年代に植民地
当局が禁止し,以後は村落支配層の収取する賦役と村落賦役のみが存続してい
る。村落レベルの賦役についてオランダ植民地当局は統一的施策を示さなかっ
たが,しかしそれも第1表から判るように,20世紀初頭には各地方レベルで金
納化を進めていることが確認できる。かかる賦役金納化とともに,植民地当局
植民地期ジャワにおける農民の階層分化
1エ3
は,歳入の主要部分を金納土地税に依存していくことになる。例えば,1905年
度の租税収入でみると(第2表),地租が46%で,人頭税を含めると55%を占
めるに至っている。
第1表 村長賦役および村落賦役の地方別概要(1902−05年)
ー
ー
少
村長賦役の金納額(フローリン)
または賦役日数(年間)
村落賦役(年間日数)
村内警制繍網野
Bantam
f O.75−f 2.5
21−49日
4−12日
Batavia,
f 1−1.25
43−52
3一 7
Preanger
Cheribon
f O.15−3
15−60
5−36
f O.50−3 (8−12日)
15−48
1−39
Banjoemas
Pekalongan
f 1−2(9−22目)
49−73
4−17
f O. 33−2. 50 (6−17 H)
21−52
5−23
Se血arang
f O.50−3 (7−19日)
27−58
3−24
Kedoe
9 一30日
41−66
4−24
Rembang
5−20日
26−62
2−18
Madioen
8 一23日
24−52
3−16
Serabaja
f O.50−3(10−25目)
24−71
3−21
Kediri
13−32日
31−57
1−15
Pasoeroean
Boesoeki
9−30日
25−52’
3−29
4 一13日
20−29
2−12
Madoera
f O.5−2.50 (4−7日)
14−46
0一 7
出典:Onderzoele naar de Mindere Welvaart der lnlansche Bevolking oP/bva
en Madoera,1904−1914, IX De economie van de desa, blz.113・一114より
作成。
こうして,農民はより一層の貨幣需要に迫られることとなり,商品生産の拡
大を余儀無くされる。農民生産物の商品化率を知る資料が存在しないので,農
民経営における商品生産の展開度を正確に把握することはできないが,輸出農…
産物に占める小農生産の年度別比率をみても(第3表),19世紀末の数%から
20世紀に入ると常に10∼15%の水準を確保しており,世紀転換期に農民による
換金作物栽培の普及を推察させる。小農生産量の推移が判る茶栽培を例にとる
と,1900年の190トン(ジャワ全体の2.9%に過ぎず,他はすべてプランテーシ
ョン生産)が,1910年には2,325トン(15.4%),1920年7,615トン(18.0%),
193G年14,384トソ(23.6%)へと拡大しており(2),その他正確な数値は不明だ
114
が, タバコ,
一橋研究 第7巻第1号
カポック,ココナッツ,キャッサバ等の普及が知られている(3)。
第2表 1905年の租税収入(ジャワ)
穂
費
消
内
租税税野田野田野田
入牛頭業殺四四
地塩三物人営屠車回
123456789
1瀬(・…フ・一・・)1%
17, 665
46. 3
5, 200
13.8
4, 500
11.8
3, 700
9.7
3, 467
9. 1
1, 578
4.1
1, 100
2. 9
317
303
0. 8
0. 8
出典:第1表に同じ,blz,162.
とは言え,当該段階における農民経営は,自給部分がなお規定的であり,村
落共同体が農民経営の再生産を基本的に制約していたことは疑いないが,金納
税支払い義務の拡大によって,少なくとも生産物の一定部分を規則的に貨幣に
門形(商品として生産)しなけれ
第3表 輸出額に占める小農生産の推移
(ジャワ,マドゥラ) ばならず,したがって,ジャワ七
一 . (単位100万フローリン) 村にも確実に商品生産の論理が浸
年次1プ・・テーシ・ンレ隈生産
1894
116 (94)
7(6)
1898
115 (96)
5(4)
透し,その社会構造の変容を不可
避としていたと考えられる。
賦役金納化と商品生産の拡大を
1902
123 (90)
13 (10)
1906
148 (90)
16 (10)
1910
187 (84)
35 (16)
1913
231 (85)
42 (15)
1917
339 (92)
31 ( 8)
1921
516 (89)
65 (11)
1924
675 (90)
77 (10)
1925−29
567 (85)
99 (15)
土地制度に即して言えば,土地処
出典:Chang・ing Econo〃ty in Indonesia,
分権が基本的には農民の手中に存
Vol. 1, pp. 38−39.
主要な媒介環として,農民占有地
における占有権強化が促進され,
徐々にではあるが土地商品化の客
観的条件が整備される。ジャワの
在する「個人的占有」地(indivi・
註1925−29年は5か年平均,括弧内は
%,統計上の制約からマドゥラを含
dueel grondbezit)が,強い共同
む。
体規制の下に売買,譲渡などの土
植民地期ジャウにおける農民の階層分化 エエ5
地処分を原則として認めない「共同的占有」地(geineen grondbezit)を凌駕し
ていくのである(4)。第4表は,当該期における耕地占有形態別の村落数の推移
第4表 耕地占有形態別村落数の推移(ジャワ)
年 次
「個人的占有」地
「共同的占有」地
のみの村落
のみの村落
両者の混在
する村落
1882
5, 605
13, 546
10, 081
1892
6, 240
11, 136
12, 337
1902
6, 711
7, 885
12, 395
1907
6, 889
7, 228
11, 656
11, 315
1912
7, 500
6, 043
1917
7, 526
4, 739
11, 112
1922
8, 016
3, 005
1e, 393
1927
7, 207
1, 673
9, 400
出典:1ndisch Verslag 1931, blz.235.
を示したものだが,これによっても「個人的占有」、地を耕地とする村落数の増
加と,全体としての共同体規制の弛緩は明瞭である。また政庁内に設置された
「福祉小委員会」(Kleine Welvaart Commissie)が1932年に実施した農民占
有地の形態別集計(第5表)では,土地売買を基準に耕地を分類しており,そ
の結果によれば,この段階ではすでに全体の76%が売却可能な土地となってい
る。:事実,『植民地報告』(Koloniaal Verslag)によると,1910年代∼1920年
代には,毎年全土地占有者の5∼7%が土地売買に関与していることを知りう
第5表 耕地占有形態別分布(1932年)
(単位1,000ha)
固 定 占 有 地
西部ジャワ
1, 853
中部ジャワ
1, 576
陣部ジャワ
ユ,814
合 計
5, 243
ρQ
OQ︾
0
0ρ7
;
売却可能黒黒舗売却不可
121
定期割替
62
職 田
合 計
35
1, 986
674
45
200
2, 571
155
251
106
2, 335
891
296
341
6, 892
出典:Indisch Verslag,1941, blz.262−263より作成。
116
一橋研究 第7巻第1号
るのである(5)。オランダ植民地当局は,外国人の土地利用をプランテーション
等の企業目的にのみ限定しており,したがってかかる土地売買は基本的には現
地人相互のものと解してよいだろう。
こうして,商品生産の拡大を媒介環とする土地商品化の進展が,農民の階層
分化を招く客観的条件を整えていったと考えられる。
(1) Wertheim, oP, cit., p.245.
(2) Changing Economy in lndonesia, Vol. 1,Indonesian’s Export Crops 1816
−1940, Martinus Nijhoff, The Hague, pp.82一一84.
(3) J. A. M. Coldwell, “lndonesian Export and Production from the Decline
of the Culture System to the First World War,” in C. D. Cowan (ed),
Economic DevetoPment of South East Asia, London, 1964, p.91.
(4) 「個人的占有」化は決して一挙に実現したのではなく,植民地政策自体が内包
する矛盾によって促進要因と阻止要因が複雑に絡みあいながら徐々に進展してい
つたものと老えられる。この点については前掲拙稿で検討しておいた。
(5) lndisch Verslag, 1931, blz.238,
II. 農民の階層分化
本節では,農民の階層分化を具体的に検討する素材として,東部ジャワのス
ラバや州。モジョクルト(Modjokerto)県とパスルアン州・クラサアン(Kra・
ksaan)県の農村調査をとりあげる(第1図参照)。利用する史料は,農業・賦
役問題担当の副監督官(de Adjunct Inspecteur,オランダ人内務宮僚)が,
1910年代後半から1920年代前半にかけて,中・東部ジャワの6県について作成
した農村調査報告書のうち,上記二面に関するものである(1)。ここで特に注目
すべき点は,モジョクルト県では耕地の大部分を「共同的占有」地が占めるの
に対して,クラサアン県では耕地のすべてが「個学的占有」であるというコン
トラストを成し,両県が土地占有形態の両極端を代表する典型的地方となって
いることである。したがって,ジャワ特有の土地占有のあり方に規定されて,
農民の階層分化が如何なる特質をもって進展するかという視角から検討すれ
ば,ジャワ全体の歴史的傾向を推し量る,ひとつの素材を提供することにもな
るだろう(2)。
最初にモジョクルト県についてであるが,同県の属するスラバや地方は,ジ
117
植民地期ジャワにおける農民の階層分化.
ヤワでも特に定期割替の伴う「共同的占有」地が根強く存続した地方として知
られている。1902年の『植民地報告』によれば,スラバや州では定期割替地が約
6割を占め,これは同時期のジャワ全体の定期割替地比率17%をはるかに上回
り,州別では第1位となる(3)。第6表は,『福祉減退調査』に基づいて1905年段
階におけるスラバや州6県の定期割替地占有者比率を示したものであるが,こ
れによればモジョクルト県では89.・1%が定期割替地占有者ということになる。
同県は4つの郡から成り,中でもモ爵ヨクルト郡とモジョサリ郡で割替の比率
が高く,1918年の調査段階では相即の全耕地約4万バウ(1バウ≒0.71ha)の
9割は1年毎の割替地と登記されている。
第6表 1905年スラバや州の定期割替地占有者比率
県
摩占有者数堕地占騰陣地日嗣比率
47, 766
21, 077
50. 4(%)
48, 205
46, 860
97. 2
Modjokerto
46, 026
41, 008
89. 1
Djombang
38, 922
21, 593
55. 5
Grise
56, 025
28, 977
51. 7
Lamongan
47, 985
24, 165
50. 4
284, 930
186, 680
十
Soerabaja
Sidoardjo
一言口
ジ・ワ全体i3,・・67・・8・i
644, 287
t
65. 5
21. 0
rafl : Onderzoek naar de Mindere Welvaart der lnlandsche Bevol−
king of》. Java en Madoevai 1904−1914, IX Bijlage 8,10より
作成。
ただし,実際に耕地の降乗が規則的に行われていたか否かは,史料的に必ず
しも判然としない。モジョクルト県の報告によれば, 「定期分捕」と登記され
ている耕地でも,実際には割替時に占有者数の増減を考慮した耕地境界線の修
正のみを実施するものもあるという(5)。したがって,調査報告の集計上は「定
期割替」地に含まれていても,厳密な意味で割替を実施していない土地もあっ
たと思われるので,当該地方は野道を含む,「共同体占有」地の比率がぎわめて
高いという程に解しておく方がよいだろうd
スラバや地方では,持分地の分配をうける権利を持った農民(=世帯主)を
II8
一橋研究 第7巻第1号
ゴゴール(gogO1)と呼んでおり,ゴゴ・一ルは「共同的占有」の持分地を占有し,
賦役と金納税(地租と入戸税)を負担する.正規の共同体成員で,村内の中核的
存在である。ちなみに,モジ’ヨクルト県平均のゴゴールの土地占有規模は,調
査時には0.8バウとなっている(e)。耕地の分配(各占有地の確定)は,年に一
度,村書記と全ゴゴールの立合いの下で行われ,割替を行う場合は,土地の選
択は輪番で優占権が与えられる。ゴゴールとして耕地の分配をうける権利は相
続(生前贈与)可能だが,一般に相続は男子のみに限られ,しかも長子単独相
続である(7)。したがって,既婚後もゴaf・一ルの資格を相続できない世帯主(次
男や三男)は,ゴゴールとしての資格を村落会議(村役入と成人男子のみに参
加権)に要求し,そこで認められると持分権の分配をうける。第7表は,各郡
毎のゴゴール数の増加状況を示したものだが,1903年から1918年までに県平均
で約12%の増加率となっている。
かかる土地占有の慣行は,農民にできるかぎり耕作機会を均等化し,階層分
化を阻止せんとする共同体機能の顕現であるが,にもかかわらず,農民層問に
第7表モジョクルト県のゴゴール数
郡 1・9・・剰・9・8年
)mit’okerto
もまた否定でぎない。構成
比は不明だが,未だゴゴー
9, 728
11
9, 471
10, 917
15
ル資格を得られず宅地のみ
16, 182
17, 629
9
7, 533
14
占有する層や,あるいは他
6, 590
8, 765
Modjokasri
Modjosari
Djaboeng
増加率(%)
一定の格差が存在すること
計 1・1…845・・8… 2
出典:Verslag van een dienstreis naar de af−
人の宅地内に家屋を構える
層も少なくない。さらに注
deeling Medioleerte, Weltevredeti, 1919,
目すべき点は,耕地におけ
blz. 2.
る占有権の移動が,一部上
層農民による短期間(割替地では1年契約)の賃貸借(0.2バウで1フローリ
ン程度)となって現われており,これが農民層間の経営規模格差を生みだす要
因・となっていることである。モジョクルト県の県知事(Assistent Resident,
オランダ人内務官僚で州副知事)hミ191S年に行った調査によれば,同県で持分
地の一部または全部を貸与したゴゴール数とその比率は第8表の如くになる。
耕地を貸与したゴゴールの比率は,真平筆述乞2%にも達している。特にモジョ
l19
植民地期ジャワにおける農民の階層分化
クルー
g郡でその比率が高く,既記のスコ(Soeko)副郡では50%を越えていると
いう(8)。ただし,かかる土地貸借は,すべてが農民相互の貸借ではなく,甘蕪
プランテーションへの賃貸もその一部に含まれているはずであるが,史料には
明記されておらず,農民相互の土地貸借と区別できない(9)。そこで,個別事例
として,甘藤プランテーションの進出していない同県内カウェドクソ村(desa
Kaweden)の場合を見てみると,同村ではゴゴール農民39人のうち,持分地全
部を貸与している者6人,その一部を貸与している者9人,自作する者24人と
いう内訳になっている{10)。すなわち,持分地貸与者が全体の38%を占めてい
るのである。この村の例からも判るように,農民相互間の土地貸借もかなり頻
繁化していたであろうと推察されるのである。
第8表 モジョクルト県の土地貸与(1918年)
Modjokerto
Modjokasri
Modjosari
Djaboeng
1ガー磁腰甥与し引%
9, 728
2, 955
1,693
17, 629
4, 217
7, 533
1, 369
45, 807
10, 234
十
10, 917
嘗μ
0ρ
0﹂
47
3
1
2
1
郡
22
出典:第7表に同じ。blz.4.
史料には,経営規模別の階層構成や土地貸借関係が明示されていないので,
経営の集中度について明確な判断は下せないが;」「土地の借入者は富裕な農民
である」「しばしば村長が土地を借入する」「資力のある住民が土地を借入し,
経営する(11)」といった表現が散見されることからして,上層農民の経営規模の
拡大が,生産条件の劣悪な農民層からの土地貸借を通じて一定程度進展してい
るものと考えてよいだろう。とすれば,「共同的占有」地が広範に存在する当該
地方でも,土地占有農民の階層分化が,一部上層農民の土地借入という形態を
とって現われているものと理解でぎる。かかる耕地の賃貸借は,調査時(1918
年)では,契約期間が短く,しかもゴゴール1人あたりから借入する土地は,
0.2バウから高々1バウ程度であるから,複数のゴヨールから借入したとして
も,それほど大規模な経営になるとは考えられない。しかし,土地に対する共
120
一橋研究 第7巻第1号
同体規制の弛緩が進めば,経営が大規模化し,さらには占有権の移動を伴った
階層分化を招く可能性も内包している。:事実,スラバや州の北部(グリッセ県
やラモソガン県)では,当該期に持分地の終身固定化,あるいは割替期間の長
期化が進んでいるという(12)。
また,土地に対する共同体規制の弛緩を促進する契機として,村落の共同体
機能の弱体化が指摘できる。特に注目すべきは,村落賦役の形骸化である。
1918年段階では,植民地当局や上級首長層が収取する賦役は全廃され,村長の
収取する賦役も金納化しているので,ゴゴールの負担する賦役は村落賦役のみ
であるが,これも形骸化して貨幣で処理している。すなわち,ゴゴールが村内
の特定の階層(主に土地なし層)に村落賦役を肩がわりさせ,彼らに一定の報
酬を支払うという,いわば村落賦役の代行制の普及である。その他,共同体機
能の弱体化を示す事例としては,相互扶助慣行の衰退があり,特に収穫労働慣
行(多数の婦女子が参加し,収穫物の分配をうける)が衰退し,賃労働の雇傭
が進展していることは注目されるq3)。
これらの事実は,農村におけるより一層の貨幣経済化を不可避としており,
商品生産の拡大を促さざるを得ない。そして,共同体規制の弛緩が耕地にも及
ぶと,借地契約の長期化と大規模化,さらに土地商品化に基づいて,占有権の
移動を伴った階層分化へと進む可能性を孕んでいると言えよう。
次にクラサアン県であるが,同県では少なくとも20世紀初頭以降,耕地はす
べて「個人的占有」であって(14),土地売買による占有権の移動が恒常的とな
り,1900年代∼1910年代に急激な占有規模の分化をもたらしている点に特徴が
ある。しかも,ここでは土地売買が村内のみに限らず,村落を越えて頻繁化し
ており,それを可能にしている要因のひとつとして,植民地当局や首長層の収
取する賦役の金納化とともに,前述した村落賦役の代行制の普及が重要であ
る(11i)。なぜなら,共同体としては,賦役負担者数の減少防止を理由に村外へ
の土地売却を規制する必要がなくなるからである。このことは,前述のモジョ
クルト県においても,村落賦役の代行制が普及しているがゆえに, 「個人的占
有」化が進めば,村落を越えた土地集積の条件が存在しているとも言えよう。
そこで,占有規模に基づく階層構成について見てみると,まず第9表は,
121
植民地期ジャワにおける農民の階層分化、
1912年に県監督官(Controleur)が北東部5副郡の耕地の占有規模別集計を行
ったものである。これによれば,どの副郡でも1一一5バウ層が過半を占めてお
り,こめ層がほぼ標準的農家とみてよいだろう。上層農民の土地集積について
第9表 クラサアン県北東郡5副郡の耕地規模別
占有者構成(%)
Besoek
Paiton
Matikan
0
23
240
34
94
U
Kraksaan
Djaboeng
ρOrO、PD5にり
7 r O1
Q1
ゾ04
33902
郡1バウ以下1・一…ウ…ウ以上
副
出典:Uittreksel uit het Verslag・over een dienstreis naar
de Ofdeeling P/o加linggo en Kraksaan, blz.2.
は,肥料では1905年の『福祉減退調査』との比較で,各平門の10−25バウ層と
25バウ以上層の占有者数の推移が示されており・、これを第10表に掲げた。調査
報告によると,1905年には35バウを占有する農家が最上層であったのに,当該
期(1918年)に嫁「100バウ以上を占有する者が数人いる(16)」という。
一方,零細土地占有者の推移は不明だが,同県では「耕地の開墾はほとんど
行われていないq7)」ことからして,一部上層農民の土地集積とともに,大多数
の下降は必至であろう。この地方では,土地を喪失した者は,トゥルー(teloe)
という小作契約で元の占有地を小作する,いわゆる直小作農となる場合が多
いq8)。 トゥルーとは,地主が収穫の3分の2,小作人が3分の1を取得する
第10表 クラサアン県の大土地占有者数
郡
・9・5剣・9・8年
十
二=ロ
142
出典:第9表に同じ。blz.3.
257
5
5
7ウ
1一=り1
Gending
Gading
・9・5年119・8年
9
4己6
89
U 8
Paiton
25バウ以上
0ρ
00
4ハ9
0
6
Kraksaan
10−25バゥ
25
122
一橋研究 第7巻第1号
刈分小作制である。
土地商品化の前提となる商品生産=貨幣経済の進展度については史料的制約
から触れないが,以上みたように,戸別的な占有権の確立,各種賦役の金納化
等を誘因として,クラサアン県では土地商晶化に基づく占有規模の分化が急速
に進展していることを窺わせている。そして,同県では農民の階層分化の進展
とともに,地主制の展開すら推察させるのであるが,しかし利用した史料では
経営規模に基づく自小作別の構成や小作地率等が全く判らないために,農民層
分解の実相を捉えることができない。
そこで次に,西部ジャワのプレアンゲル地方の事例をとりあげて,地主制の
展開についてのみ補足的に見ておこう。ただし,利用する史料(19)が目本軍占領
期(1942−1945年)の農村調査であるために,植民地末期の状態しか掴めず,
同地方の地主制の形成過程,あるいは大不況と地主制の関連といった論点は留
保するしかない。したがって,すくなくとも19世紀段階から耕地のすべてが
「個人的占有」地となっているプレアンゲル地方の事例は,土地商品化の客観
的条件を備えた地方のひとつの典型を示すにすぎない。
調査は,1942年から1943年にかけて,スカブミ(Soekaboemi)県とチァシジ
ュール(Tjiandjoer)県の全域について,小作慣行の実態把握を主目的として
第11表 自小作別構成および小作地率(1942年)
一回数 所有地
自作農
自小作農
(戸数×1000)替襯諮(要、。蕊)1替襯墓
(×1000)1(1000ha)
(×1000)1(1eooha)
スカブミ県
9 副 郡
12. 5
6, 885. 0
小作農
戸数耕作面積
酢糖
地 主
31.9 i12,457. Oi
12. 3
5, 663. 2
8. 7
4, 088. 1
(13. 3)
(18. 6)
(18. 8)
(24. 8)
34. 1
(19, 1)
(31. 3)
(48. 8) i (56. 6)
チル「
ア県 11,3
10, 198. 1
19. 3
12, 603. 4
23. 9
10, 976. 9i
19. 4
10. 227. 1
(30. 2)
(12. 6)
(37. 3)
(32. 3)
(32.5)
(26. 2)
(30. 3)
嚢・・
(15. 2)
ユ副
46. 5
」郡
出典:r西部ジャワにおける小作制度』pp.34−37より作成。
註括弧内はパーセント,面積比は地主所有地をすべて貸付地として算出,集計
では山岳地域を除く平野部のみ。
植民地期ジャワにおける農民の階層分化.
エ23
行われている。まず,両県の自小作別の階層構成と小作地率を平野部について
集計したのが第11表である。両県ともに地主制の展開は明瞭であるが,調査が
副郡単位で行われたために,地主占有地や小作農経営地が当該副郡内居住者の
ものに限られ,実際よりも過小評価される結果となっている。また,地主貸付
地に比して小作地率が高くなっているのは,集計地域の近隣都市に居住する不
在地主の土地占有によるものであり(20》,この点では寄生地主制の進展すら想
起させる。在村地主も数か村にわたって土地を集積することが一般化している
ので,その具体例を第12表に示しておいた。チアンジュール県ジャンプディパ
村在住の地主Aは,占有地が50haに達する,当該地方では最大級の地主であ
り,貸付地の8か村の各々に差配人をおいている。他方,スカブミ県チマヒ村
在住の地主Bは,占有地が約10haで,その一部は自作しており,ほぼ中程度
の地主に属している。また,小作慣行に関する報告部分はきわめて多岐にわた
り,別個に検討すべぎ内容も多いのでここでは省略するが,小作料は定額,刈
分けを問わず,生産量の50∼70%に達する高率小作料である。
︷
付
第12表地主例
貸
地
小作人 小作制
水田 47.2ha
地主A
(村内 2.1ha,村外
45.2ha−8か村)
畑地 2.2ha
(村内 0.7ha,村外
24人
セ ワ
(定額)
1.5 ha−4か村)
水田 8.6ha
t・
n生 B
(村内 3.8ha,村外 5.O ha−8か村)
畑地 1.7ha
11人
セ ワ
(村内 1,7ha)
出典:第11表に同じ。pp.16−17より作成。
もちろん,プレアンゲル地方の事例をもって,ジャワ全体に地主制の展開を
想定することは早計であろう。しかし,第13表に示したように,ジャワ全体で
25バウ(17.8ha)以上の土地占有者数が,1905年の1,194人から1925年には3,337
人へと約2。8倍に増加しており,全般的にみても上層農民の土地集積は顕著で
ある。
124
一橋研究 第7巻第1号
したがって,以上の検討から,プランテーション期のジャワ農村社会では,
農民の階層分化とその一部には地主制すら内包するような構造的変容をとげて
いたものと老えられる(21)。早く一部の大土地占有者の形成とともに,他極に
蓄積される圧倒的多数の零細農は,農村に潜在的過剰人口として滞留する。彼
.第13表 25バウ以上の土地占有者数(ジャワ)
州
1
1905年
1925年
増 減
Bantam
5
157
十152
Batavia
7
556
376
十369
1, 226
十670
18
268
十250
Preanger
Cheribon
Banjoemas
Pekalongan
Kedoe
28
207
十179
212
106
−106
20
80
十 60
E emarang
95
250
十155
Rembang
23
43
十 20
Madioen
45
78
十 33
Kediri
Soerbaja
Pasoeroean
Besoeki
計
25
107
十 82
104
79
一 25
38
137
十 99
18
223
十205
1, 194
3, 337
十2, 143
出典:Scheltema, Deelbouw in Nederlandsch−lndii’, Wage.
ningen, 1931, blz. 275.
らは,各種の家計補充的副業や農外収入の道を求めざるを得ないが,かかる状
況下で農村の過剰労働力を効率的に利用したのがプランテーションであった。
そこで次節では,ジャワ農村における労働力編成の一断面をプランテーション
労働者の存在形態に焦点をあてて捉えてみよう。
( 1) Verslag van een dienstreis naar de afdeeling Modfokerto, Weltevreden,
April 1919. De desa in het gewest Soerabaia, Weltevreden, November 1923.
Uittrehsel uit het Verslag over een dienstreis naar de afdeeling Probolinggo
en Kralesaan (door de Adjunct−lnspecteur voor de agrarischen zaken en
verplicht diensten).
(2) 筆者は,かつて中部ジャワの農村を検討した際に,村長・村役人がその俸給田
植民地期ジャワにおける農民の階層分化
125
として所持する大規模な職田の経営形態に注目し,地主制形成の基本線として村
落支配層の地主化のコースを重視した。ところが,小論で利用した史料では職田
に関する記述が全くなく,残念ながら本文でこの点について言及することがでぎ
ない。職田制が普及している地域(特に中部ジャワおよび東部ジャワの一部)で
は,上層農民の土地集積を職田制との関連で追求することも重要であろうと考え
ている。拙稿「中部ジャワにおける地主制の形成と甘薦プランテーション」r一
橋論叢』,第81巻第5号,参照。
(3) Koloniaal Verslag, 1904, Bijlage M.
同地方で,何故定期割替地比率が高いのかという点については,史料的には不
明であるが,農民の米作と輪作で栽培する甘藤プランテーションが,耕地の割替
を温存したことは周知の所である。ただし,甘簾栽培がほとんど行われなかった
グリッセやラモンガンでも,割替地が広く見られることから,要因をそれのみに
帰すことはできないだろう。
(4) Verslag van een dienstreis naar de afdeeling Modjokerto, oP. cit., blz.
22, 28.
(5) lbid. blz. 27.
(6) lbid. blz. 28.
(7) lbid. blz. 26.
(8) lbid. blz. 5.
(9)甘簾プランテーションの経営形態および土地貸与農民の貧困化については,植
村泰夫「糖業プランテーションとジャワ農村社会」r史林』,第61巻第3号,参照。
(10) Verslag van een dienstreis naar de afdeeling Modl’okerto, oP. cit., blz. 9.
(11) lbid., blz. 10.
(12) De desa in het gewest Soerabafo, oP. cit., blz.4.
(13) lbid., blz. 9−10.
(14) Onderzoele naar de Mindere VVelvaart der lnlandisch Bevolking oP Java
en Madoera, 1904−1914, Batavia, IX, Bijlage 8.
(15) 村長賦役の金納額は,県平均で賦役義務者1人あたり約3.4フローリン(1916
年)であり,村落賦役では,例えば夜警賦役の代行が一晩で0,1∼0.25フローリ
ンとなっている。Uittrelesel uit het Verslag over een dienstreis naar de af−
deeling Probolinggo en Kraksaan, oP. cit., blz. 20, 24.
(16) lbid., blz. 4.
(17) lbid., blz. 1.
(18) lbid., blz. 4.
(19) 『西部ジャワの小作制度』アジア経済研究所所蔵,岸幸一資料集,マイクロフ
ィルムNO. K 31.
(20) 同上,p.15.
126
一橋研究 第7巻第1号
(21)本文では,史料に示された範囲で,ジャワ農民の階層分化をできるだけ実態的
に捉えてみたが,かかる階層分化の論理を試論的に提示しておくとすれば,およ
そ以下のように言うことができるだろう。
すなわち,未だ自給部分が規定的意義をもつ小農経営においても,金納租税の
比重の増大や土地商品化の進展と相互媒介的に,恒常的な商品生産がその再生産
に対して一定の規定性をもつに至った段階では,農民的商品市場で相対する個別
経営の生産条件の優劣が経営内容を大ぎく制約する。劣悪な生産条件にある農民
は,貨幣経済の社会的強制に対して自給部分に依存した窮迫販売によって没落を
阻止せんとするであろうし,他方,優良な生産条件にある農民も,植民地当局に
よる輸出向農産物の価格操作と流通過程における華僑資本の収奪によって,剰余
の蓄積は容易ではない。現地人自身による前期的資本の蓄積が脆弱であるため,
大規模な土地の集積・集中がみられず,これが寄生地主制の広範な成立を阻む要
因となる。したがって,階層分化は本来的に緩慢たらざるを得ない。しかし,か
かる制約にもかかわらず,没落しつつある農民層は,持続的に経営することが困
難となれば土地を手放す以外にはない。一方,上向せんとする農民層は,剰余蓄
積の様々な障害を越えて利潤を獲得しえれば,経営ないし所有の拡大を志向する
であろう。
かかる論理の検証には,農家経営の内容にまで立ち入った分析が必要となる
が,小論では史料的制約から果せないので,他日を期したい。
III. プランテーション労働者の存在形態
ジャワのプランテーションは,19世紀後半の「強制栽培」制度廃止後,一部
は同制度下の請負企業が栽培を引き継ぐとともに,新たに進出した企業が加わ
って急速に拡大し,19世紀末には甘庶などの主要作物栽培で企業間シンジケー
トが形成されて独占的性格を有するに至っている。
本節で利用する史料は,1938年に植民地政庁の中央統計局内に設置された
「苦力家計委員会」(Coolie Budget Commission)が,1939年から1940年に
かけてジャワのプランテーション労働者と農民の生活実態について行った調査
の報告書である(1)。20のプランテーションを抽出して,その労働者および近郊
農村の専業農家について,家計収支,土地占有,栄養状態などについて調査し
ている。調査時は,恐慌期の経済的混乱から回復して,オランダにとってはほ
ぼ安定したプランテーション経営が行なえた時期であり,当時の全プランテー
ション用地約98万haは,ジャワの全耕地約898万haの10.9%にあたる(2)。第14
127
植民地期ジャワにおける農民の階層分化、
表に,主要作物別に1939年段階のプランテーションと調査対象の内訳を示レて
おいた。20の抽出プランテーションでは,常雇,臨時雇を含めて1945世帯の家
族が労働に従事している。
第14表 主要農産物のプランテーシ:ンと抽出調査数(ジャワ,1939年)
1
4
丞4
291
日
剰・±ゴ・レバ・1甘劇チ=・1計
プランテーション数
299
294
611
作付面積(IOOO ha)
105
86
235
生産量(1000トン)
52
51
71
抽出調査プラン
3
3
6
2
抽出調査世帯数
182
153
563
206
テーション数
47
1, 394
4
2
20
540
301
1, 945
102
96
1, 576
出典:Living Condition(ゾPlantation waorleers and Peasants o”ノbva in 1937−
1940,pp。6−7より作成。
周知のように,プランテーションでは,各農産物の育成条件等から耕地の利
用に偏差が大ぎい。例えば,茶,コーヒー,ゴム等の栽培では,高地(海抜
400∼1,700m程度)の開墾地まで利用できるのに対して,済世栽培では主に平
野部の水田を利用する。かかる差異は労働力の雇用形態をも規定し,前者の場
含はプランテーションが孤立した高地に設置されることが多く,そのため中核
となる労働力は家族ぐるみでプランテーショノ内の居住区(ka坦PQ算g)に確保
しており,出稼ぎ労働者の利用は副次的である。他方,後者は近隣農村からの
日給制による季節的賃労働者が主要形態を成し,常雇はt・‘部に見られるのみで
ある。
調査世帯1945のうちでは,987世帯(51%)がプランテーション外に居住す
る労働者であり,その大部分は農業にも従事する出稼ぎ労働者である。これら
プランテーション外居住世帯の土地占有調査を集計したのが第15表で,同表に
よると全体の7割前後が土地占有者ということになる。ただし,この調査では
小作農は含まれていないので,実際の農業従事者はこれより高い比率を示すも
のと思われる。また,その土地占有規模を,同時に調査したプランテーション
近郊の専業農家390世帯の平均占有規模と比較するとき,彼らの土地占有規模
128
一橋研究 第7巻第1号
が如何に零細であるかは明瞭であろう。このように,半プUレタリアとも呼ぶ
べぎこれら農民層は,土地占有規模からすれば農村階層構成の下層に位置し,
プランテーションへの労働力供給源として堆積する零細自作あるいは小作農で
第15表 プランテーション外居住労働者と専業農家の土地占有
一
世帯数
一世帯平均占有規模(ha) 土 地
土地占有世帯
畑帥開園「郡轡
−
g7
Qり
ゾQ8
(%)
農園労働者
696
495
71
O. 13
O. 09
O. 08 i O. 30
加工労働者
147
97
66
0. 15
e. 04
0. 09 1 O. 28
監督・熟練工
144
103
72
0. 17
0. 02
0. 09 1 O. 28
専業農家
390
390
100
O. 63
O. 54
O.24 1 1.41 1 91
出典:第14表に同じ。pp.39−42より作成。
あったと考えられる。また,専業農家との比較で彼らの平均収入の内訳を第16
表に示したが,農園労働者ほど農業への依存率が高く,加工労働,熟練労働へ
と進むにしたがって農業からの遊離が顕著となり,これに対応して賃金格差も
形成されている(第17表参照)。かかる労働者は,たとえ不熟練労働でも,プ
ランテーション労働に従事すれば,平均的専業農家に匹敵するか,あるいはそ
れ以上の収入を得ることも出来るのだが,しかし実際に雇用される労働者は,
農村における圧倒的多数の零細農の極く一部分にしかすぎない。逆に言えば,
プランテーション経営は,農村における潜在的過剰人口の形成,家計補充的出
稼ぎ労働を余儀なくされる大量の貧農層の存在を前提として,その低賃金水準
を維持しえたと言えよう。
しかも重視すべきは,多くのプランテーションで労働者雇用に請負制を採用
していることである㈹。請負制の下では,プランテーションは請負人(現地人)
に労働者の調達から労働の指揮・監督まで任せ,賃金も請負人に一括前払いし
ており,プランテーション企業主が労働者と直接に契約を結ぶことはない。請
負人の恣意によって労働者の採用や賃金の割り当てが左右されるのであり,そ
のため労働条件は不安定で劣悪となり,しかも人身隷属的性格が強くなること
植民地期ジャワにおける農民の階層分イピ 129
は想像に難くない。請負人が在地の有力者(村落支配層や大土地占有者等)と
結びついて労働力を調達すれば,在地の支配二隷属関係がプランテーションに
持ち込まれることにもなるだろう。請負制が採用されていない場合でも,賃金
の前貸制が一般化しているので,多かれ少なかれ人身拘束的な面を含んでい
ヨ
ン帯
シ世
ギ
テ︷
ン居
ラ
プ内
ヨ
ン帯
シ世
ティ
ン居
打々三三働署壮士 勇士響鰐働署縢士
ヨ ※
7
304
640
1, 572
808 1 1,117
1, 849
525
147
112
134
52 1 32
257
52
19
16
53
1 1 3
1
31
93
20i 6
197
881 1 1,158
2, 334
0
7
9曾 匿U
シ業下寺
の
ン賃
ラ労
ブン農商そ
La3瓜一臥
テ 「
ラ
ブ外﹂
専業農家1
ギ
第16表 世帯平均収入の内訳(月額) (単位:セント)
76
合
’
677
計
829
1, 798
28
13
8
︶
%7
︵7
523
農業依存率(2’5)
出典:第14表に同じ。p,47より作成。
註 ※現物収入の貨幣換算を含む。
第17表 成人男子の平均日給と労働時間
プランテーション外居住世帯
プランテーション内居住世帯
農劇力n工陣・鰭
農 園 加 工 監督・熟練
日 給(セント)
13
24
53
労 働 時 間
7.6
11. 5
10. 7
20
8. 6
30
54
10. 0
10. 8
出典:第14表に同じ。pp.64−68より作成。
る。したがって,プランテーション経営における資本二賃労働関係には,常に
前近代的な身分的隷属関係が持ち込まれ,そのことがむしろ経営の安定と搾取
の強化を容易にしていたと老えられる。
こうして,’ジャワのプランテーション労働者約96万人(4)(1930年一季節労働
者を含む)は,全農業人口約943万人目階層分化のただ中から析出されるので
エ30
一橋研究第7巻第1号
ある。ジャワ農村の労働力編成の一断面をプランテーションへの労働力析出と
いう点から捉えるならば,農民一出稼ぎ型プランテーション労働者(半プロ
レタリア)一常雇プランテーション労働者(農村プロレタ1)ア)という構成
が浮かび上がってくる。しかも,かかる労働力編成は,農村の前近代的諸関係
を揚棄することなく,むしろプランテーション期に適合的な農村への再編成に
よって構造的に再生産されたと言うべきであろう。
(1) Living Condition of Plantation Worhers and Peasants on lava in 1939−
1940, Final Report of Coolie Budget Commission, 1941.
(2) Changing Econotny in lndonesia, oP. cit., Vol. 1, p.25.
(3) Living Condition・一・一・・, oP, cit., p.45.
(4) lndisch Verslag, 1931, blz. 178.
おわりに
小論では,ジャワ近代における農村の階層構成について,農民とプランテー
ション労働者の存在形態を中心に検討したが,利用した史料が地域的,時期的
に断片的なものだったので,論証不足の点もあり,未だ全体像を描くに至って
いない。今後,新たな史料の検討をふまえて論を補っていぎたいと考えてい
る。
また,人口の約7割が集中するジャワは確かに分析対象として重要である
が,しかしジャワのみでインドネシア近代の農村構造の特質把握を代表させる
ことは到底できない。例えば,東部スマトラの農村は,19世紀末以降,一大プ
ランテーション地帯(主にタバコとゴム栽培)へと変貌をとげた地域で,・オラ
ンダ植民地支配の特質を考える上で重要であるが,プランテーションの在来社
会の捉え方と労働力の調達方法は,ジャワとはかなり異質である。そこでは,
19世紀末に立法化された悪名高いクーリー条例=「懲罰規定」(penal sanction)
によって,経営主は裁朝権や警察力まで手中におさめ,労働者(その主要部分
は寸レイ半島経由の中国人労働者とジャワからの移入労働者)はかかる経済外
強制によって農園に緊縛せしめられた。詳しくは別稿にて発表する予定である
が,この東部スマトラの例が示すように,プランテーション期の農村構造とい
・,ても各地城においてぎわめて多様であり,それぞれの特殊性をふまえて全体
植民地期ジャワにおける農民の階層分化 131
像を構築することがどうしても必要となる。小論は,その予備的考察のひとつ
にすぎない。
(筆者の住所:小金井市本町6−9−18−103)