Title Author(s) 「大名評判記」の基礎的研究 若尾, 小関, 小川, 佐藤, 政希; 野本, 禎司; 望月, 良親; 黒須, あずみ; 悠一郎; 小田, 真裕; 湯川, 真人; 田添, 郁多; 和也; 杉, 岳志; 矢森, 小映子; 新井, 麻衣子; 宏之; 綱川, 歩美; 鈴木, 愛; 加藤, 純子 Citation Issue Date Type 2006-03 Research Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/16639 Right Hitotsubashi University Repository ﹁大名評判記﹂諸本について はじめに 若尾政希 一七世紀半ばから一八世紀にかけて、﹃武家幽翠記﹄、﹃武家勧懲記﹄、 構成を順に記した。序の欄には、序があるものについてその名称を記 した。また各大名を論評した本文の他に、附録として﹁国郡部類﹂﹁教 法之巻﹂を収載している場合には、それぞれの欄に記入した。作者・ 書写者欄は、作者あるいは書写者についての情報があれば、ここに記 すために、欄を設けたが、現在のところ、書写者の名前が一人だけ判 明しているだけである。最後の旧所蔵者欄は、近世における所蔵先を 記した。 1 書名から まず、書名の欄を見てみよう。﹃武家諌忍記﹄が二二本、﹃武家勧懲 記﹄が同じく二二本で、この両書の数が抜きんでている。これとは別 に﹂でその経緯を述べたが、二〇〇五年度の講義の中で、私も講義中 も、そうした﹁群の﹁大名評判記﹂の一つであった。本書の﹁はじめ られていた。金井重氏の翻刻によりょく知られている﹃土芥冠雪記﹄ 名を姐上に載せて政の善し悪しから賢愚、はては色欲の程度まで縦横 に論評した﹁大名評判記﹂とでも総称できるような書物がいくつも作 は、いうまでもなく﹁大名評判記﹂では最も有名であるが、 本しか これは﹃武家諌懲記後正﹄の附録である。最後に挙げた﹃土芥憲盤質﹄ 家諌懲記附録﹄二本のうち一本が盛岡市中央公民館に現存しているが、 書は書名こそ似ているものの、私が確認したところ別本である。﹃武 懲記後正﹄は四本、﹃武家諌懲記後正﹄が一本挙がっている。この両 という名の書物もあるが、これも中味を確認できていない。次の﹃諌 に﹃武家諌懲記﹄という書名のものが︵﹃国書総目録﹄﹃古典籍総合目 に﹁﹁武家評判記﹂︵仮称︶の諸本の系統について﹂という短い報告を 現存していない。現存の確認できない旧浅野図書館本を入れても二本 ﹃土芥憲単記﹄、﹃諌懲記後宮﹄、﹃武家諌懲記後正﹄等といった、諸大 行った︵本稿の末尾に付したレジュメを参照︶。そこで本書でも、﹁大 のみであり、﹁大名評判記﹂のなかで最も広まつ、ていないものの一つ 録﹄によれば︶二本あるが、いまだ実物を確認していない。﹃帽章記﹄ にしよう。 名評判記﹂の諸本に関する、現時点までの調査結果を述べておくこと といえよう。 れた。調査の欄には、調査済みのものには○を付けた。写/刊の欄に 国書の欄には、﹃国書総目録﹄﹃古典籍総合目録﹄所載のものに○を入 ﹃武家諌三聖﹄の二二本︵現存が確認できるのは一九本︶のうちこ そして③﹁武家諌懲記後正叙﹂の三種がある。 次に序の欄を見て欲しい。①﹁武家諌忍記序﹂、②﹁武家勧懲記序﹂、 2.序から 次にあげたのは、二〇〇六年二月末日時点における﹁大名評判記﹂ 調査一覧表である。番号の百番台には﹃武家諌忍記﹄を、二百番台に は﹃武家勧懲記﹄を、三百番台には﹃武家諌懲記﹄というように、便 は、写本・刊本の別を記した。現存する﹁大名評判記﹂はすべて写本 れまで調査したのは一一本。内、七本に﹁武家諌忍記序﹂と題する序 宜上、書名ごとに番号を振った。所蔵者の欄には、現所蔵先を記した。 である。冊数の欄には何冊からなるのか、巻︵順序︶の欄には、その 一 F が付いている。他の四本には序がないが、そのうち一〇六、一=二、 が、成立年については、享保一一年︵一七二六︶七月下旬に書き上げ た後、享保一九年︵一七三四︶に加筆増補、さらに寛保二年︵一七四 二︶にも加筆改訂を加えたと述べている。 一一九には、﹁序﹂はないものの、それぞれの﹁目録﹂には﹁序井国 分一冊﹂いう記載がある。すなわち現存はしないが、もともとはあっ さて、この三つの序のうち、まず成立年がわかる②﹁武家勧懲記事﹂ をみてみよう。﹁序﹂の内容は︵若干の字句の異同はあるが︶﹃武家勧 たということがわかる︵残る番号一一八には﹁目録﹂も欠落︶。なお、 ﹁武家諌忍記序﹂には、筆者の名も年 記 も な い 。 蜷羅騨 蜷雛服 八惣屋野大 国配 家出小藩部園 家野浅藩島広 家野浅藩島広 家川徳藩戸水 家内山藩知高 家達伊藩台仙 家田直藩代松 家平松藩井福 家部南藩岡盛 家部南藩岡盛 家野浅藩島広 家野浅藩島広 懲記﹄の諸本により大きな違いはない。次にあげたのは、盛岡藩南部 本贈寄省内宮 ﹃武家勧懲記﹄の二二部︵現存が確認できるのは一八本︶のうち調 蜷鵜隔 蜷鰻離 家川徳藩戸水 家旧蔵﹃武家勧懲記﹄︵番号二〇一、盛岡市中央公民館蔵︶所収の﹁序﹂ 家部南藩岡盛 査済みは八本であり、そのうち四本に﹁序﹂がついている。ここにも 家軽津藩前弘 をである。 家川徳藩戸水 筆者の名は見えないが、延宝三乙卯年︵一六七五︶の年記がある。本 家野浅藩島広 ②﹁序﹂︵﹃武家勧懲記﹄︶ 家平松藩原島 文でも、﹁尾張中納言源光友卿 卯五十二歳﹂と、延宝三年時点で 家田黒藩棚 夫惟異域本邦之治世者、聖主弘於道賢哲行之、而以所謂施教天下 家摺吉藩国岩 巻之法教 国配 庫文岡松 の年齢が記載されており、﹃武家勧懲記﹄は延宝三年のデータに基づ 家田池藩山岡 巻之法教 法國 贈寄氏橋大 自安平也。然皇朝到中興、国政従皇廷、従武家以来数性、令与奪 家田前藩沢金 巻之法教 離駐躰 分部國 医侍藩谷刈 いてその年のうちに作成されたとみることができよう。 家杉上藩沢米 書之法教 鞭脚画 法國 家宗藩馬対 錐執権柄、其冠者皆暴慢偏讐之悪行超過、故栄辱曽而不定、悉断 家杉上藩沢米 憩摺離 荊濁國 医侍藩谷刈 嗣、乱諄変易、是世人之所知顕然也。 写興勝嫌 巻之法教 法國 畏平日日 盛岡市中央公民館にただ一本現存している﹃武家諌懲記後正﹄は、 ﹁奥御蔵書﹂の印をもち盛岡藩南部家旧蔵書であるが、これには﹁武 校藩藩台仙 法教 興勝部坂 震清和皇尊喬大相国源君大将軍家康公、忽出東海之辺國、威風於 家田前藩寺聖大 雄灘蘇 離酔躰 類部郡國 家諌懲記粛正叙﹂が付されている。この﹁叙﹂にも作者の記載はない 者蔵旧 発崖目儲 巻之法教 類部郡国 法國 法 國 [ 島 丁 訓件序 序記忍諌家武 騰傲鰭油掴停購 諮○ 序記忍諌家武 階脚轍離腓鋤目 序記忍諫家武 巻弼.法国井序 序記忍諌家武 7 ○○ ○ 翻嶽武 記忍諌家武 館書図属附学大北東 塵○○○ 庫文堂賢養図県城宮 記忍諌家武 序記忍諌家武 巻昭法轍法國井序 駒㈲ 巻弼録目 6 記忍諌家武 ○ 記忍諌家武 館書図会国立国 記忍諌家武 3 記忍諌家武 部陵書庁内宮 己翫諌家武 巻21 親嗣 巻弼法徽録目 8 3 6 記忍諌家武 4 5 6 7 8 9 記忍諌家武 ⋮⋮ 館書図立市崎岡 記忍諌家武 記忍諌家武 序記忍諌家武 法轍巻弼序 序記忍諌家武 門D 法徽法個序 5 5 学大谷龍 記忍諌家武 家田池学大山岡 己酷諌家武 館古徴国岩 記忍諌家武 館土郷棚 記忍諌家武 巻覗分部國 鵜嗣 巻昭法徽法咽録目 8 庫文平松図立市原島 記忍諫家武 館料資史歴馬対 記忍諌家武 館書図野浅旧 記忍諌家武 6 記忍諌家武 庫文館考彰旧 !011 12 16 17 13 14 15 18 19 家軽津藩前弘旧 記忍諌家武 鋤泥鮭劇 継附産蒋騰倒凡 館書図会国立国 記懲勧家武 法轍巻38 記懲勧家武 1 部陵書庁内宮 記懲勧家武 館物博立国京東 記懲勧家武 9 記懲勧家武 野佐図附学大潟新 記懲勧家武 卯記避劇 巻囎国覗序 ○ 記懲勧家武 1 図舞鶴立市屋古名 記懲勧家武 みの仲魂政綱田池 1 写 10卜巻 2 巻囎法徽量数臨庖 励乙宝庭序 麗31器巻 の宝庭序 巻39風覗停録目 謄 抄 1 3 8 2 33 41 22 33 10 16 99 庫文館考彰旧 記懲勧家武 ○ 記懲勧家武 0○ 記懲勧家武 庫文出小町部園 ○ 記懲勧家武 記懲勧家武 庫文田栗 記懲勧家武 志言書学 記懲勧家武 館書図野浅旧 記懲勧家武 館書図野浅旧 記懲勧家武 庫文館考彰旧 記懲勧家武 家内山藩知高旧 0 ○ ○0 ○ 記懲諌家武 庫文左蓬 庫文山丸堂古温 記懲諌家武 剰14禄玩録目総 巻︽狛囲禄玩録纈 幻保境叙 巻囎徽録目 巻魂録目 臨 し な 存 現 瓜 る。 あい ーし とな 一現 巻存 が 書ー 之序 法ー 教、 ﹁が 巻あ 38 17 38 31 31 31 蜘 1643 ﹂る 社神荷稲徳祐 ○ ○ ○ 庫文達伊図県城宮 正後記懲諌 正後記懲諌 正後記懲諫 館物宝田壼 0○ ○ ○ ○ 正後記懲諌 館民公央中市岡盛 正後記懲諌家武 館民公央中市岡盛 録附記懲諌家武 館書図野浅旧 録附記懲諌家武 ○ 記離憲芥土 記齢憲芥土 館書図野浅旧 法冊 ※※ ユヨ ※目 2録 録は 目に に﹁ は序 井分 序国 ﹁井 ○ 國一 ○ ○○ ○ ○ ○ ○ 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 一と 記懲勧家武 ○○ ○○ 図附学大京中 之巻葦記抜懲中勧之家五武四 0○ ○ ○ ○ ○ ○ 記懲勧家武 部陵書庁内宮 ○○ ○ ○ 館民公央中市岡盛 記懲勧家武 記懲諌 51 52 53 54 55 56 39 45 46 47 48 49 50 21 22 23 28 30 31 323334 35 36 37 38 40 41 42 43 44 20 24 25 26 27 29 m皿鵬幽晒髄斯照㎜m皿囎 M肪鵬m照㎜㎜際m㎜蹴鵬脳踊㎜蜥鵬鵬鋤 皿 盟鵬胴肪珊”鵬”鋤謝糀鋤襯側棚麗鵬脳棚観m棚躍 記忍諌家武 ○ 0○ 0○ 00 0 ○0 ○0 ○ ○ ○ ○ ○ 0 ○ ○0 12 21 21 21 41 42 37 20 42 42 13 鱒 2121 21 19 難写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 写 劇噸巻 丁 一 査 調 者蔵所 訥 判 事 名 ﹁大 名書 号番 1 2 3 一 翫 不聞、︵中略︶愚案今時武威全盛、而諸将皆坐官禄、極栄耀。是 震万境、劔光於耀山州、五畿七道静誼、而玉筆四夷八荒服恩徳、 諸民安起居唱万歳。是只 公傍武力之廣太田神園之明将、古往 一、群民安二起居一唱一一万歳一而巳。重事公界=武力廣太 誠 ノ ニ ル シ 神奇之明将一也。亮御平後奉レ尊︵二︶崇 男清和之田螺大相国謹選大将軍家康公、忽 出二東海之邊國 フルイ ヲ ニ ヲカヘヤカシ ニ シ イハツカウブクシ ヲ 震二威風於四海一、劔光耀 =外州一、四夷八荒服=其政徳 コヘニ エイ たちまち テ ニ 即先祖依粉骨之誇遊興奢修、而聯不知一家之往事、況哉於他家之 東最大権現宮一、天運獲二無窮一舟連代鎭一一座武陽之大城一、而 ト シ フ マンジ サゥコク シ ヲ ママ シ ル ヲ レ ノヨレリ ブリキコウタイニシテ 儀者、感得不耕之輩多、予以愚案、亀手甚一発雑文、彼是褒疑事 榮論罪二本國一、傳聞唐虞三代之教化、現當前歯レ信、罰レ 。 石以上の﹁衆将の噂﹂や﹁国郡地形の厚薄﹂など、私の考えていると 如二稲麻竹葦一。世一統之上者、父祖成功之由緒嫡庶之差別、或 政道、誰乎不レ仰レ之哉。然者報時参暇之衆直心平侯之群士、殆 ッ ノ カゥセキ スコブル シ サスガ ヲ エイヨウヲゴリラ テ ニ フ ニ レ令下期二安楽一言 = 難壁之遊興等上、曾怨言レ知一一一懸想往 事一、況哉於二三家之傳三一、聯不レ緋レ之輩而巳也。予卓見 シ ニ ホコル ロカ ノ ニ テ ラ ノ イン 亀手自己拙 一発二雑筆一、彼是褒既之事々恐催不レ少。錐レ シカ リト ママ ヲ トコウ ギ ス ノ 之輩、其祖先善行不レ知。又凶政暴徒之血塗レロ不レ出二口外 シ 々恐怖、見前聞之、便兎角為一贈爵覚悟旦写図器、不顧後見之嘲 公之徳政則如レ降雨之潤一、木耳理詰事人心悦一一天下畔豆和一、 ク ノ ルガ コト ノ ヲ ス カ セゥ テ ニ ノ ゴセツヲ リ 古往不レ聞二先前一。因一一畳音一極々諸侯大夫不レ違=期同一、交 笑、綴之、所謂湿土石已上衆将之噂、或國郡地形之厚薄等愚慮所 向之大概也。錐妄語間々糠聖賢之二面。然則可為勧善懲悪之端乎。 善行守信之輩者、錐二下賎庸夫︸、預二感賞授禄︵一︶。親レ賢遠 ラハ トモカセンヨウフト ル ジユロク ケンヲケ 又逆レ之悪行妊言忌将者、錐二高門貴族一再=國家碩敗之患 一。 ノ ハ ル ウレイヲ 一一 ニリ ニ フ ヲ テ ノヲ ス 故令唇題愚者也。干時延宝三五墨壷月日 倹シ一代二南北一骨窺=尊綻一、以二武城之教令一、為二自国 ノトハテ ノニシヲス 私郡之今一。或依=一分之緋一出=法制︻而順︵二︶家民︵一︶。若 ﹃武家勧懲記﹄執筆の目的について、この作者︵﹁愚﹂︶はいう。徳 川家康公の出現により﹁本邦﹂で治世が実現されたが、﹁諸将﹂︵ここ では大名をさす︶は栄耀を極めながらも、自家の往事︵すなわち歴史︶ レ妊、明察而上高レ仁礼一、下旨レ譲 レ畔。万代不易之 シテ シ ニカ ヲ ニ ユスルコトヲ クロヲ フエキ ころを、時に﹁聖賢の教誠﹂を引きつつ述べて、﹁勧善懲悪﹂の端緒 カ ンヤ ヲ レハ サンキン クン アタカモ たらんとした、と。ここで作者は自らの地位について一言も述べてい 門葉之次第、且其心意行跡之是非、頗如レ指二肺肝一好悪歴 ナリ アンズ ルニ カウセイニシテ シ ノテウロクニ ム 然許。愚按 當時武威高盛而諸将皆坐二高位重禄一極ニ を知らないし、ましてや他家の歴史を知らないものが多い。よって万 ない。しかし、私などが拙い文でもつて諸将を三三するのは恐れ多い 栄耀奢修一。幽門依二先祖粉骨之忠義﹁而勧賞二二子孫︸。君門 ノ ハ テキシヨ シヤベツ アルイハ ことだがと述べながらも、この作者は自らを、諸大名を勧善懲悪とい ヲンヤ ノニカル ヲラノミ テ トゥマチクイノ う観点からあげつらう位置にまで高め、その憎みから論評していると いえよう。 然 一 見レ彼聞レ是、而便兎角之儀為二其↓分之慰試一諾。 キシユキンカウノツタナキヲ シ ヲ カレコレポウボクノ ジ ヘ ケウグ こういつた意識は、一八世紀の第二四半期に書かれた③﹁武家諌懲 ノ ゥハサ ト 不レ顧二後見之嘲瞬一綴レ之、所謂是一万石已上配管、古今勤 アザケリヲ テ イハユル レ イセイ 記後正叙﹂にも引き継がれている。長文であるが、盛岡市中央公民館 に一本しか現存しないので、その全文を載せよう︵番号六〇一、﹃武 侯之噂井所領國郡地形之厚薄等愚慮所レ向之大概也。錐二妄語一 フ シテクヲ レハ レ暑二題之︵一︶。 伏恭是考二暦代一 メ ヲシカシヨリ ボクモ ハ 東照大権現治レ世爾四百余歳、聖主八世諸侯大夫郡下、或三世 シカルニ テ ニ リ ル カウガイ ハ ハシト 家諌懲記後正﹄︶。 間々擦一一聖賢之教誠一。然則可レ為二勧善懲悪之端一驚。故令 レ ハ メ ヲ ヲ テ ③﹁武家諌懲記後患叙﹂︵﹃武家諌前記後正﹄︶ コト ヲ ニ ラ 夫惟本邦異域之治世者、聖主弘二三道一心哲行レ之、而肝所レ謂 或 十世或六七世、枕泰山安置、大輝 二武光武威一、顕職執役 テゥクハシ カルガユヘニ テ ズ ラ クタチ シケイヲ ランシヤウ シタガツテ ニ コノカタ シテ ヲ トモ ケンヘイヲ ノシナ 従二武家一以来数姓、令=與奪一丁レ執二権柄一、其等皆暴 施レ教於天下一自安泰也。然 吾朝到一一中興﹁而國政従二野公一 慢偏讐之悪逆超過、故 栄辱曽而不レ定事断二嗣系一、齪諄 サキノ ヲ ラ ツクンデ ニ アルイハ ハ ヲ ノ ニ ニカヘヤカシ ニ ケンシヨクシウエキ へんえきハンタ レ ク ル 変 易 繁 多、是能世人所レ知顯然也。 一 ↑ モウロウ カゾク ノ ハ 年初秋下旬成レ功。然 経二九ヶ年一、而諸家悉有二異変一。傍 レ許レ三二 心外 一、深秘 治一︸文庫一。干レ時享保十一丙午 書巻。不レ ︵二︶世肉詰一、以慰レ ︵二︶老眼︵一︶、都響 文章作意 漉レ實、正疑 密編輯 惣計九十九巻為全部、改 ト ツ グ ハ イ セ キ テ ン ︵二︶諌懲記後正[。且将軍外戚傳二十巻附録之、総計合百廿 記古老談話一、夏日長秋夜之徒然、漫 以一一賎同一夢心補之一。 令二傳來︵一︶、猶烏焉馬之翻齪不レ少。於レ脱型多年渉一一猟旧 之一。厭后寳永正徳年中再話レ之、憐察武家諌懲記一霞レ世錐レ 略記過謁多、未二見聞一不レ及二二口二一者、不レ顕レ此省二除 依二頼 往古堪忍記一、大試錐レ編輯之旧世家傳之演説、殊荒々 武家勧懲記一為二題号一、寛文延宝貫高流二布干世上一。是 此 愚昧暗将無二偏避︻書レ之、而以後來之為一一鑑戒︸。前人以ニ B﹃武家勧懲記﹄⋮⋮寛文・延宝年間︵一六六︸∼八一︶流布 A﹃往古堪忍記﹄︵あるいは往古の﹃堪忍記﹄︶ あろう。﹁僕﹂によれば、諸本は次に順に作成された。 確かであり、よって同時代人の述懐のひとつとして読むことは可能で 判記﹂が形成・展開した一七世紀後半を生きてきた人物であることは 享保一一年時点で自らの目を﹁老眼﹂と述べるこの作者が、﹁大名評 とは困難である︵厳密な史料批判を行う必要がある︶。しかしながら、 姓はおろか名前もわからない﹁僕﹂の語りをそのまま事実と見なすこ 事に語っていてくれる。ただし、言うまでもないことがであるが、素 このようにこの﹁叙﹂は、﹁大名評判記﹂の諸本の形成について見 七三四︶と寛保二年︵一七四二︶の二度にわたり加筆訂正した。 買せず﹂、﹁文庫﹂に秘匿したままであった。その後、享保一九年︵一 の夏から加筆補訂を始め九月下旬に完成。九九巻、名を﹃諌二三後正﹄ と改め、附録に﹁外戚伝二〇巻﹂をつけた。5.この書物は﹁世に売 ﹁、而盲撃之家族多レ之。於レ是其世其人之智徳善政、或悪行 而同十九年年新加筆而増二塁之一。急撃一九箇年一家至善数多。 コトヲ ノ フタヘビ ナンくトス ニ ヲ ヘ テ ヲ ルニ ヲ ク サ コトヲコンクハイニ ク シテ ム ニ ノ セズ ママ ニ ヲ ママ ニシテトリ ヲ ニウタカフニハ シテ メ ニ ノ トゼンミタリニテヲ ヲ ト エンハ ソ ゴ ニ セウリヤウシテ ヲ ソノヘチ ヒ ヒ ス カンテウ ト ク ニ クハヒヤウ シ タ ハ シヤウヨス シテハウコカンニンキニ ノ エンゼツ クハンテウ ヲ ス ス ニ コ レハ レ グマイアンセウ シルス ヲ テ ノ ト 故不レ得レ止 、寛保二筆海年回加筆而改レ之。然予算命向 C﹃武家諌懲記﹄⋮⋮宝永・正徳年間︵一七〇四∼一六︶補訂 D﹃諌懲記後正﹄﹃同附録﹄⋮⋮﹁僕﹂編集、享保一一年︵一七二 一見すると、この作者がすべてを書いたように見えるが、実は冒頭 ニ朝タ一幕後所レ秘之聞二文庫一片見レ囲者、可レ補二向來之違 ヲ 攣一会巳 は﹃土芥憲灘記﹄の存在を知らなかった可能性もある。それはともか ここに﹃土芥憲首記﹄について何の言及もないのが注目される。﹁僕﹂ 六︶成立、享保一九年︵ 七三四︶・寛保二年︵一七四二︶加筆訂正 ニ シウゴ ル キテ ヲ キ カウライノ の﹁夫惟本邦異域之治世者﹂から﹁故令レ暑一一題之﹂までの三一行分 くとして、これが先の﹁大名評判記﹂調査一覧表に挙がっている諸本 レ ハ の文章は、﹃武家勧懲記﹄の序を全文引用したものである。ここから、 附録﹄︶のどれに該当するか︵あるいはしないのか︶。まずD﹃諌懲記 ︵1﹃武家諌忍記﹄、■﹃武家勧懲記﹄、皿﹃武家諌懲記﹄、W﹃諫懲 とせんためにこの書物を編纂したことがわかる。さて、この﹁叙﹂で 興味深いのは、後半部分である。箇条書きに整理しておこう。1.寛 この作者が、﹃武家勧懲記﹄の作者の意識を継承して﹁後来の鑑戒﹂ 文・延宝年間に﹃武家勧懲記﹄という題号の書物が﹁世上に流布﹂し 記後正﹄、皿﹃武家諌懲記後昆附録﹄である。Dと同名のV﹃諫誤記 後正﹄﹃同附録﹄は、いうまでもなく、﹁僕﹂が編集した珊﹃武家諌懲 誤りを正し補訂したものである。3.その後、宝永・正徳年間に、﹃武 忍記﹄の可能性もあるが、ひとまず書名としておく︶に依拠してその いずれも首巻﹁総目録﹂の末尾に﹁元禄十四箕山年春撰焉﹂とあり、 ﹃諫懲記後正﹄について現存が確認される四本中、三本を閲覧したが、 後言﹄が存在しているのでややこしくなるが、これは別本である。V 記﹄、V﹃諌懲記後正﹄、W﹃武家諌参画後正﹄、皿﹃武家諌懲記後半 た。2.この﹃武家勧懲記﹄とは、﹃往古堪忍記﹄︵往古より伝わる﹃堪 家勧懲記﹄を再補訂した﹃武家諫懲記﹄が﹁世に普く﹂伝来した。4. 元禄一四年︵一七〇一︶に編集したという。そして実際に大名の年齢 は元禄一四年時点のものが記載されているのである。 ﹃武家諌古記﹄に、なお誤りが多いことに気づいた﹁僕﹂は、多年に わたり﹁旧記、古老︵の︶談話に渉猟﹂して、享保一一年︵一七二六︶ 一 ト 次に、書名から判断すると、B−H、C一皿が、それぞれ一致する。 嘉事之七節詳ナリ。然レ共国司ノ制法郡主ノ政道ハ、季違多シト 六七五︶の年記をもつ﹁序﹂があり、本文中に記載される大名の年齢 廻シテ、其国其家之御作法等荒増聞及見及テ記之畢。凡我諸国二 同有青麻。所謂某永々浪人ニテ身上為稼事、便ヲ求テ国々所々俳 ニヤ。タトヘハ自ラ才ヲ以テ治臣下ノ制禦ヲ加ヘテ猶以順、道不 もこの年のものである。よって、寛文ではないが、延宝年間の作であ 至ル事始テ九州筑前福岡二暫ク滞留スル内二肥後熊本肥前刊記摩 順に確認すると、H﹃武家勧懲記﹄は、すでに見たように延宝三年︵一 り、BIHである可能性は高いといえよう。次に皿については、いま 記序﹂をここでみておこう。﹁序﹂の内容は︵若干の字句の異同はあ ところで、先の一覧表からわかるように、﹁堪﹂の字が違うが、1 ﹃武家諌忍記﹄という書物がある。この書物につけられた﹁武家諌言 とも題して出版され流布しているが、これは﹁大名評判記﹂ではない。 浅井二審の仮名草子に﹃堪忍記﹄なる書物があり、後年﹃貝原堪忍記﹄ A﹃往古堪忍記﹄については未詳である。﹃国書総目録﹄によれば、 はおかしい。﹁僕﹂の事実認識と誤りとい う べ き か 。 て、その補訂前の本である﹃武家諌懲記﹄が宝永・正徳年間であるの 朝﹂11神国意識を持っている。この意識がいかにして形成されたのか、 が挙げられていることから明らかなように、この作者は強烈な﹁我が 唐土や天竺とくらべても、日本は礼儀を守って豊饒な国であるとい ス。タ、聞傳テコノ書ニノセタレ戸倉分明︵後略︶︵傍線筆者︶ 不レ及レ見、依テ聞傳マ、也。又国主郡主之行跡モ及見ニハアラ 柄思出テ記之。然レ共国所ノ用ナキ桟戸不出、故老如此国所々ハ 概日本国中二不到ト云事ナシ。年月ヲ得ル事、四年三月也。其折 鹿児嶋二行。中国ヲ不備四国ヘメクリ、山陰道ヨリ北陸道越前加 賀二 ヶ実在テ、越後路馬宿、リ、出羽奥州或米澤南部或仙台二 コ レ ヨ リ 江 戸 タ 所 々 城 下 へ 至 ル。 門 扉 ヘ ル 。 其 折 ニマ 歳 男 ル 。 大 だ現物を確認する機会に恵まれず、判断を保留せねばならない。ただ るが︶、諸本により大きな違いはない。次に挙げたのは、加賀大聖寺 その歴史的意味を考察することは大事であるが、小稿では深入りしな 小国ナリトイヘトモ深黒ヨリ以来、聖主道ヒキテ、今二至マデ其 夫我話者東海中黒號日本、凡東西千里二不過、南北五百里不足、 起点に五〇年を数えると一六六五年︵寛文五︶となる。﹁五十年﹂が ているので、大坂夏の陣が起きた慶長二〇年︵元和一、一六一五︶を 家の御代となって五十年に及﹂ぶという表現から、その執筆時期を推 し量ることができる。﹁秀頼切腹﹂により当家の御代が始まったとし 言えることは、V﹃黒黒記後記﹄は元禄一四年の成立であった。よっ 藩旧蔵の﹃武家諌忍記﹄︵加賀市立図書館聖霊文庫蔵、番号一〇一︶ いでおこう。ここでまず注目したいのは、はじめの傍線部である。﹁当 シルシ明ナリ。是則宗廟天照太神一切之神祇之教誠神力威光ノカ 概数であったとしても、一六六〇年前後の執筆とみることできよう。 う。その理由として﹁宗廟天照太神一切之神祇鴬唇誠神力威光ノカ﹂ 所載の﹁武家諌忍記序﹂である︵以下、加賀大聖寺本と呼ぶ︶。 ニハ、唐土天竺之威徳モ及事アタワス、誠二営々ヲ守テ豊饒目出 実際に、加賀大聖寺本の中味を見ると、﹃武家勧懲記﹄以降の﹁大名 ①﹁武家諌忍記序﹂︵﹃武家諌叢記﹄︶ 度国ナリ。︵中略︶乙卯ノ年江府ヲ立憲ヒ大坂発向ヲハシテ、同 生没年や事績等の事実を踏まえながら、丹念に読んでいくと、執筆年 評判記﹂が各大名の年齢を﹁卯00歳﹂などと記載しているのに対し、 御代トナツテ及五十年、日々夜々武運繁栄、天下古今其例マレ也。 を推測することができる。たとえば、﹁水戸中納言源頼房卿﹂の項を 年五月七日秀頼切腹有。︵中略︶是ヨリシテ天下国家治大平之御 偏大権現ノ威徳廣太成十二也。然レハ其例ヲ定、大樹主守護トシ 設け、水戸藩初代頼房について論評し、それに続けて﹁同姓宰相源光 ﹃武家諌忍記﹄にはそのような記載はない。しかしながら、各大名の テ高家大家国主買主二至ルマテ、或東西入替或父子カワル々々二 国﹂を立項しているが、光国︵嵐気への改称は後年︶について、﹁家 世トナツテ政道宜ク人民安楽セリ。誠喜悦ノ眉ヲ開ク。凡當家ノ 参勤法儀イササカ違ヒナシ。国所々二下知ヲナス事、古式ノ式、 一 ト なわち在所が甲府に決まるのは︶、寛文元年閏八月九日であり、やは 所未定、本知拾五万石﹂とある。徳川珍重が甲府藩主になるのは︵す 九目︶であることから、加賀大聖寺本﹃武家諌忍記﹄のデータがこれ のは寛文元年︵一六六一︶七月二九目︵光国が家督を継ぐのは八月一 督タラサル口底ツテ国ノ政道ヲマカセス﹂と述べる。頼房が亡くなる である可能性も含め、今後の検討を待たねばならない。 みにすることはできない。なんらかの公的任務を隠蔽するための発言 ノ書ニノセタレ仁君分明﹂と、見ていないところは聞き伝えるままに この書物に載せたので﹁不分明﹂であるとさえ述べる。もちろん﹁武 家諌忍記序﹂の史料批判ができていない現段階では、この言明を鵜呑 依テ聞傳マ、也。又国主郡主之行跡モ及見ニハアラス。タ\善誘テコ になり﹁然レ共国所ノ用ナキニハ不出、故二叉自国所々揃踏レ及レ見、 より前であることがわかる。また﹁左馬守源五重卿﹂の項では、﹁在 り寛文元年以前であるといえよう。さらに、﹁右馬守源綱吉卿﹂徳川 ところで執筆動機については、﹁序﹂では﹁国司ノ制法郡主ノ政道 ハ、門違多シ﹂、国々所々において﹁制法﹂﹁政道﹂の違いが大きいか 綱吉について、﹁綱吉今年十四歳、御行跡生得悠寛ト柔和二三ナリ﹂ と、今年綱吉が一四歳だという。綱吉の生年は正保三年︵一六四六︶ であるから、少なくとも綱吉の項は万治二年︵一六五九︶のデータに の意味があり、﹃武家諌忍記﹄執筆時点に浪人であったかどうかはわ ②永年にわたって。ながながと﹂︵﹃日本国語大辞典第二版﹄︶の二つ いる。なんと浪人だという。﹁永々﹂には、﹁①いつまでも。永久に、 作者が﹁某永々浪人にて﹂云々と、みずからについて語ってくれて ﹁武家諌忍記序﹂に話を戻そう。もう一ヶ所の傍線を見て欲しい。 は高いといえよう。 本﹃武家諌忍記﹄は、万治二年頃のデータをもとに作成された可能性 時期については慎重に確定していかなければならないが、加賀大聖寺 マ々ノ下知ヲナスモ己力利欲ノ業ノミニシテ世ノタメ人ノタメナ 邪二不慣ナル事多キ中ナレハ、司トシテ其実ヲシラサル故二、タ 終公開主将ヲ恨ミ嘲、国家ヲ二身ヲ亡ノ本タルヘシ。錐二世ニハ 礼ヲウシナヒ、父子ノ孝モ夫婦兄弟朋友ノ愛モ信モ徳モクラミテ、 ルトキンハ、必其下二有者背、邪曲不詳ニシテ侍民トモニ君臣ノ 二道ヲ正シ忠ヲツクサン忍歩出来ヘシ。若又司タラン人ノ不行ナ 愚評日、凡主将ノ行監カミトモ可成、夫一国一郡ノ司書ラン者ハ 自ヲ正シテ政道ナストキンハ、タトへ曲レル者アリトモ終回愚直 の項の﹁愚評﹂に次のようにいう︵加賀大聖寺本より︶。 ら、見聞したことを著したと述べるに止まる。﹃武家勧懲記﹄のよう な諸大名の政治を正そうという意識をここに読み取ることはできな からない。それはともかく、﹁稼ぎ事﹂︵仕事の中味は未詳であるが︶ ラン道トモ端トモ可成品一ツモナシ 基づいて書かれたことになろう。﹃武家諌忍記﹄については、︵後に述 をしながら便を求めて国々所々を俳廻して、その国その家の作法等を 国郡の司たらん者は、自らを正して政道をなすべきだ、﹁世のため い。しかし、本文をみると、第一巻の最初の﹁尾張大納言源義直卿﹂ あらまし見聞し記したのだという。九州福岡から出羽・奥州まで日本 人のために﹂政治を行うべきだという、強い主張をここに読み取るこ べるように︶なお諸本の系統を検討する作業が残っており、その成立 国中を四年三ヶ月かげて廻ったともいう。﹃武家諌忍野﹄の大名家や とができるのである。 それがし 領内統治に関するデータは、一見したところでは︵詳細な検討は今後 行っていかねばならないが︶、補訂されながらも﹃武家勧懲記﹄や﹃土 冒頭に掲げた﹁大名評判記﹂調査一覧表をもう一度御覧いただきた 3.教法之巻・国郡部類について るとは驚きであり、にわかに信じがたい。﹁大概日本国中二不到ト云 い。本文の他に、﹁国郡部類﹂、あるいは﹁教法之巻﹂を付けているも の公的な機関の調査によるものではなく、一介の﹁浪人﹂の見聞によ 芥旧離記﹄に引き継がれていくようである。その元のデータが、幕府 事ナシ﹂と自信満々に言ったか思えば、そのすぐ後には一転して気弱 卜 郡分類玉具ナル﹂︵刈谷市立図書館村上文庫、以後刈谷村上本と呼 る。﹃武家諌忍記﹄の本文にも﹁国部文面日﹂︵加賀大聖寺本 、﹁国 城国はどうかというように、それぞれの国について記載したものであ 河田畠生物之品々善悪城付﹂︵加賀大聖寺本より引用︶について、山 郡部類﹂を付けているのが九本ある。これは﹁日本国中高空方角山平 家諌忍記﹄一一本のうち、﹁国法﹂﹁国部分﹂等と表記は違うが、﹁国 のについて、それぞれの欄にその旨を記した。現物を確認できた﹃武 ろうか、等といった、大き謎を我々は突きつけられているのである。 別が生じたのはなぜだろうか。いったいどちらが先に作られたのであ 本だと言えるのである。同じ﹁序﹂を持ちながらも、通行本と異本の 寺本以外の本を通行本と呼ぶとすれば、加賀大聖寺本はまったくの異 懲記﹄に受け継がれるのは、加賀大聖寺本以外の本である。加賀大聖 の関係を述べれば︵これも綿密な比較検討が必要であるが︶、﹃武家勧 と別の書物といっていいほどである。そして後継の﹃武家勧懲記﹄と のである。詳細な検討は別に行わねばならないが、この箇所だけ見る ママ ママ ぶ︶等と、この書物に言及しているので、﹃武家諌忍記﹄に附属する れが嗜むべきことを説いたものである。たとえば、主将の嗜みとして ﹁転落土民百姓ヲ第一可憐事﹂﹁人主タルハ賢者良臣ノ用テ能平ヲ可 民共嗜ノ事﹂にわかれ、主将︵あるいは﹁人主﹂︶、臣下、四民それぞ 八本に付けられている。これは、﹁主将嗜之事﹂・﹁臣下嗜望事﹂・﹁四 他方、﹁教法之巻﹂は現物を確認した﹃武家諌下記﹄一一本のうち のそれを継承したものと推定できる。 テ若年トハ云再読シ﹂云々と論評している。綱重は正保元年︵一六四 村上本では、綱重について﹁愚評当日﹂として、﹁然ルヲ十五歳ヲ越 り、この記載は加賀大聖寺本とほぼ同じである。綱重が甲府藩主にな う。﹁左馬最上綱重卿﹂の項では、﹁御在城未定、本知十五万石﹂とあ れたと推定した。そこでここでは通行本の一つ刈谷村上本を見てみよ の本文を引いて、万治二年︵一六五九︶頃のデータに基づいて執筆さ なお、﹃武家諌品番﹄の成立時期について、先ほどは加賀大聖寺本 請事﹂等、九ヵ条にわたり論述している。これはあるべき政治を行う 四︶生まれであるから、数えの一五歳になるのは万治元年、一五歳を 今後、この謎解きに挑まなければならない。 ための要諦を著者がまとめたものということができ、その思想的背景 越えるのは万治二年以降であるから、データ的には通行本も異本と同 じ頃のデータを用いているといえよう。 ものであることがわかる。﹃武家勧懲記﹄にも、﹁配国之巻﹂﹁国郡数 を今後明らかにしていく必要があろう。なお、まだ二本しか確認でき 量巻﹂等とと称してこの巻を有するものが三本あり、﹃武家諫忍記﹄ ていない︵現物をみた八本のうち︶が、﹃武家勧懲記﹄にも﹁附属教 また通行本として一括りにした諸本のなかにも、加賀大聖寺本ほど るのは、寛文元年閏八月九日であり、これ以前であるといえる。刈谷 法 之 巻 ﹂ と してこれを付けたものがある 。 の異本ではないものの、部分的に異なった文章を混入させたものもあ る。管見によれば、たとえば、番号一一六岩国徴古館蔵﹃武家諫年記﹄ と、序や附録の二巻は土ハ通するにも関わらず、加賀大聖寺本とそれ以 以上のように、﹃武家諌忍記﹄は、現段階では、現存する最も古い ﹁大名評判記﹂である。ところが、﹃武家諌忍記﹄の本文を吟味する る。﹃武家勧懲記﹄諸本について同様の検討が必要である。あわせて には異文を有するもの︵たとえば二〇一盛岡市中央公民館蔵本︶があ ついでにここで﹃武家勧懲記﹄について指摘しておくと、諸本のなか 4,﹃武家諌忍記﹄諸本研究 はそのような本である。未見のものも含めて、本文をさらに詳細に検 外の本とは大きく異なる。本文のうち、大名のデータについてはまだ 今後の課題としたい。 討していくと、﹃武家諌忍記﹄諸本の系統が明らかになるであろう。 共通する部分があるが、大名を評価した箇所︵加賀大聖寺本では﹁愚 評日﹂、それ以外の本では﹁愚評義日﹂︶の内容がかなり異なっている 一 薮 愚評義日、主将道有トキンハ自然ト権威備リ、遠近恐怖スルト カヤ。スヘテ世ノ事業、上一人ノ好ムトコロニ依テ、下万民是 レハ 大樹之御連枝トシテ官禄共二貴、尤モ尊崇シタテマツル ヲナセリ。然レハ君トシテハ好悪ナキヲ吉トス。伏テヲモンミ 事、巡礼不大形、サアレハ又御一分ノ徳行計ニモ非ス、権威有 5.﹁大名評判記﹂の基礎的研究 もともとは、素性のわからない﹃土芥冠離記﹄の謎を解き明かし︵す 事勿論也︵下略︶ 熟読するまでもない。一見するだけで、﹃土芥冠離記﹄の綱豊評は、 したいという目的で始めた研究プロジェクトであった︵本書の﹁はじ めに﹂、及び﹃﹃土芥冠年記﹄の基礎的研究﹄参照︶。しかし一七世紀 先行の﹃武家勧懲記﹄の二重評を引き写していることがわかる。子は なわち、十分な史料批判を行って︶、﹃土芥冠雛記﹄を史料として利用 後半から一八世紀にかけて﹃武家諌忍記﹄﹃武家勧懲記﹄等々の﹁大 ら、﹃武家勧懲記﹄﹁甲府宰相源綱重卿﹂の項を見ると次のような記述 芥冠離記﹄の作者によるものとみるのがふつうであろう。しかしなが 六︿一六七八﹀︶を載せている。よって右に引いた綱豊への論評は、﹃土 勧懲記﹄も、綱豊ではなく、父の徳川綱重︵正保元︿一六四四﹀∼延宝 ﹃土芥冠儲記﹄に先行する﹁大名評判記﹂は、﹃武家諌忍記﹄﹃武家 行 ナ キトテモ世尊敬シ奉事勿論也 ︵ 下 略 ︶ 君ハ 大樹公之御甥トシテ官禄共二選ケレバ、讐自分之御徳 スルトカヤ。既二世之事業ハ、上︸人之好所二依テ、下万民是 ヨシ ヲ成り。然バ君トシテハ好悪ナキヲ吉トス。伏テヲモン見二世 謳歌評説二君、凡主将道アルトキハ自然ト権威備リ、遠近恐怖 之 沙 汰 ナシ、少々御短慮ナル故二︵ 下 略 ︶ 綱豊卿ハ自然ト権威備リ有二剛勇一聡明叡智之御器量ト云、文武 芥子離記﹄では次のようにいう。 ﹁甲府宰相論外卿﹂徳川綱豊︵のち、六代将軍家宣︶について、﹃土 実例を挙げよう。 しまった。 名支配のありようを見ようとする研究は、もはや立ちゆかなくなって 家勧懲記﹄の綱吉評を、﹃早撃記後正﹄の作者はそのまま利用してい 両者を比べると、傍線部が異なるだけでほとんど同文である。﹃武 行跡柔ヲ本トシタマフ故、国家送人タリト称美シタテマツル所也 行不等シテ、柔弱ナルハ何ノ益カアラン。評二不及。今綱吉卿御 ︵中略︶台船其県民恩恵ニヒカレテ忠功ヲ尽サントス。亦心意所 ヤワラカニシテ久シクタモチ、歯バカタケレトモ必カタルコト有。 愚評義日、上将之行跡ハ柔和ヲ用二、窓越剛二勝ツノ謂レハ、舌 項の﹁音量義﹂である。 次にあげたのは、﹃武家勧懲記﹄の﹁舘林宰相源綱吉卿﹂、徳川綱吉の 黒黒評とは異なる。では﹃諌下記後正﹄の作者の評価と見て良いのか。 少し長いので中略せぜるをえなかったが、これは﹃土芥憲雛記﹄の ナク、政道宜シトナレハ良将トスルナルヘシ 意所行不宜ニシテ、柔弱成奈何ノ筆力有ン。今綱具卿御行四悪義 リ。︵中略︶況や其家民恩恵ニヒカレテ忠功ヲ尽サントス。亦心 ラカ成共、久シクタモチ歯バカタシト錐ドモ、必スカクルコトア 愚三日、︵中略︶其謂レハ柔ハ剛二勝ツト本文アリ、誠二舌ヤハ 京大学史料編纂所蔵本より引用︶。 御連枝﹂を﹁大樹公之御器﹂と書き換えるなど、手が込んでいる。 もう一例。次にあげたのは、﹃号音記後上﹄の綱豊評である︵東 父に似るではすまされない問題がここにはあるように思う。﹁大樹の にぶつかる︵刈谷市立図書館村上文庫蔵 本 よ り ︶ 。 るのである。 名評判記﹂が作成されていたことが明らかとなった今、これまでのよ うに﹃土芥剥離記﹄の記述を引いて、個別の大名を論じたり、近世大 綱重卿ハ自然ト権威備リ、剛勇有テ物毎好悪ノ意地ナク、行跡悠 このように、﹁大名評判記﹂諸本において、先行するものの引用・ ニ ル 然 ト シ テ、聡明叡智ノ御器粘土リ︵ 下 略 ︶ 一 餅 ている すなわち一枚岩である一と想定してかかるべきではない 総称したのであるが、それぞれの本の作者が土ハ通の思想的基盤に載っ いて、はじめて明るみにされるであろう︵ひとまず﹁大名評判記﹂と の作品に託した主張、政治思想も、﹁大名評判記﹂諸本の関係性にお 記﹄が、また﹃土芥冠齢記﹄がどのような位置を占めているのか、は じめて見えてくるといえよう。それぞれの﹁大名評判記﹂の作者がそ 礎的研究を行って、﹁大名評判記﹂諸本の関係性を洗い出すことであ ろう。その上で、﹁大名評判記﹂全体のなかで、たとえば﹃武家諌忍 がまずすべきことは、このような引用・抜粋の典拠を明らかにする基 抜粋が多用されている。こうした状況を目の当たりにするとき、我々 ない。しかも﹁武家諌忍記序﹂によれば、そのような語りだしが、幕 られ、少なからぬ大名に出回っていたことの意味は、問われねばなら 頃、あるべき領主像・政治像を鮮明に打ち出した﹁大名評判記﹂が作 1﹂、﹃一橋大学研究年報社会学研究﹄三九、二〇〇一︶。まさに同じ 二、拙稿﹁﹃東照宮御遺訓﹄の形成一﹃御遺訓﹄の思想史的研究序説 道書が作られた時代であった︵拙稿﹁﹃本記録﹄の形成−近世政道書 の思想史的研究1﹂、﹃一橋大学研究年報社会学研究﹄四〇、二〇〇 てくる。一七世紀の半ばは、﹃本寺録﹄、﹃東照宮御遺訓﹄といった政 行ったとすれば、﹁大名評判記﹂は藩政に影響を与えた可能性すら出 興味深い。もし、それぞれの大名がその論評・批評を意識して政治を 書物を、なぜ所蔵していたのか、その書物をどう読んだのか。非常に って、﹁大名評判記﹂の思想史的研究を深めていきたいと思う。 れていることにも興味が惹かれる。いくつも謎を↓つひとつ解いてい 府の中枢からではなく、﹁浪人﹂と自称する人物により行われたとさ と、私は考えている︶。 むすびにかえて 最後に、一覧表の旧蔵者の欄を御覧いただきたい。注目すべきこと 二〇〇五年八月には長崎県対馬の対馬歴史民俗資料館で、﹃国書総目 期文芸﹄六∼八、一九八九∼九一︶。残念ながら本稿に組み込むこと 在を知った︵深沢秋男﹁如儲子の﹃堪忍記﹄︵1︶∼︵3︶﹂﹃近世初 ︻付記︼本稿脱稿後、浅井輪重﹃堪忍記﹄とは異なる﹃堪忍記﹄の存 録﹄﹃古典籍総合目録﹄に未収載の﹃武家諌忍記﹄︵番号一一九︶を見 ができなかった。次稿を期したい。 に、﹁大名評判記﹂の大多数が旧大名家の蔵書の中から出てきている。 出すことができた。また弘前市立図書館蔵の享保一五年︵一七三〇︶ 八月の年記をもつ﹃御国御書物目録﹄には、﹁一、武家諫忍記 二 十一冊 書本﹂とあり、現存を確認できないが、弘前藩津軽家もかつ ては﹃武家諌忍記﹄を持っていた。同様に土佐山内家宝物資料館蔵﹃三 道旦ハ根居﹄によれば、高知藩山内家も﹃武家勧懲記﹄︵二二冊︶を所 蔵していた︵資料紹介﹃三道具根居﹄︵上︶、同資料館﹃研究紀要﹄一、 二〇〇二︶。﹁︵明治︶四五年五月三目東京送り﹂と記入されており、 明治まで確かに存在していたが、現存を確認できない。このようなも のも便宜上、一覧表には加えておいた︵番号一二二、二二二︶。いっ たいどの程度の大名家が﹁大名評判記﹂を持っていたか、今後の調査 を待たねばならないが、わかっているだげでもいくつもの大名家が所 蔵していた。自ら︵あるいは自分の父祖︶の政治や行動等を批評した 傷 4 π 瓠 讐︶纏 疏琳 微 三 齢 罷 る え 考 を 置 位 的 歴 史 の 聞 三 ゴ ロ 2譜 三 窮蘇 三 土 岬 指 の 在 ω 洲 コ 君 藤 佐 存 の 本 つ 諸 も を 名 り a 旧 回 卜 訥 調 教船 留髄 4査デ新 皿調のう 一を悪い 縫㈲翻鰍 の・q関 一文 庫宝 3と の 三 文上延﹄ 閣す ホは 記 ・ 識 内 館タ罎 土 ま 擁必 う文 公臣 市. た﹃ 融行立浴つと あ謹個御椥麟 司検司司がの ・摘・ ・っ↓ い寓 蘭 館 民 ←公 本広 つ 二 十 作 を 露 難 麹 厄 難 伝ら O 謡 @徽 @醗 し市 新岡 も盛 最一 わ 本 謝 ち な 正 け 後 記 懲 三諌 一 ↓正 武力, 期 ↓ 記 懲 勧 家 武 ↓ 記後 旧記 諌懲 家産 武一 確諌書記是無主 。よ 武 が家蔵年、、齪うに一 存武御・・多にいれ記 現﹃奥名上一れとこ忍 ・●﹁署世易こた↓堪 乱 凱 謝乱 三越洲 と勧隠 隠妬鴛 が轍御 巻。 憐れ して 言え 之らとが 法専一﹄ 教を録記 、姓附懲 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