Title 「歴史の終焉」と環境問題 Author(s) 市川, 虎彦 - HERMES-IR

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「歴史の終焉」と環境問題
市川, 虎彦
一橋研究, 15(3): 65-79
1990-10-31
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/5968
Right
Hitotsubashi University Repository
65
r歴史の終焉」と環境問題
「歴史の終焉」と環境問題
市 川 虎 彦
rそれは安らかな世界です。…
そこには何もかもがあり,同時になにもかもない。
そういう世界をあんたは想像できますか?」
一村上春樹r世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」より』
1.退屈なる党派
ユ980年代の最後の年に,日系三世のアメリカ人が書いた論文が人々の話題を
さらった。すなわち,フランシス=フクヤマのr歴史は終わったのか」で
(1)
あ乱この論文の論旨は明快すぎるほど明快であ私自由一民主主義は,この
1世紀の問に,ファシズムと共産主義とから挑戦された。しかし,第2次世界
大戦の終わりとともに,イデオロギーとしてのファシズムはその影響力を失っ
た。そして,今や共産主義もファシズムと同様の運命をたどっている。自由一
民主主義に対抗できるイデオロギーが,まだあるとするならば,それは宗教と
ナショナリズムである。しかし,宗教がいまだに力を保持しているのはイスラ
ム圏に限られ,これが世界中に広がるとは考えられない。一方のナショナリズ
ムは,大部分が他の民族から独立したいという消極的なものであり,リベラリ
ズムと根本的に対立するものではない。これからは,芸術も哲学も存在しなく
なった長く退屈な脱歴史時代を,我々は生きていかねばならない。以上がフク
ヤマの論文の要旨である。これは,すでにさまざまな形で世間に流布した議論
なので,大方の人が先刻御承知のことであろう。
さて,この議論に対して日本でも多くの論者が言及を加えた。その多くは,
否定的な見解を示した。すなわち,歴史は終わりはしない,というのである。
例えば浅田影は,西欧と“イズムなき日本イズム’’との対立一つとっても,歴
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一橋研究 第15巻第3号
史は終わっていない。さらに重要なのは,第三世界の問題で,ここではまだ歴
史は始まっていないということさえある,と述べている(ただしフクヤマも,
まだ歴史の範躊に入っている国同士の対立や,歴史派国と脱歴史派国との対立
(2)
は依然起こりうると言っている)。こういう浅田も,「たしかに,イデオロギー
の闘いとしての歴史は終わってしまったかもしれないけれど」と留保をつけて
いることを,見逃してはなるまい。私が,このフクヤマの論文でなるほど全く
そのとおりだと思ったのは,自由一民主主義がファシズムや共産主義に勝利し
たという部分ではない。その最後の部分で触れられている脱歴史時代の陰欝な
未来像なのである。自由一民主主義に替わりうるイデオロギーは,もはやない。
我々の心をとらえるような思想も哲学もなく,ただただ退屈な日々を費消して
いくだけ,というのがフクヤマの描く我々の未来なのである。
私自身のこれまでを振り返ってみれば,戦争も革命もない,文字どおり退屈
な日々の残骸があるに過ぎない。そこには革命ゴッコすら存在しない。1956年
生れの泉庶人(私より6歳年上になる)が,この間の事情を次のように表現し
ている。r私たちの弱みは,戦争がなかった上に,全共闘運動すら間に合わな
かったという点です」「rいやあ,あの頃は大変でしたねえ…」とかrそうか,
彼らも苦労しているんだ…』と,しみじみ感慨にふけられるような要素は,ハッ
キシ言って,ひとっかけらもありません」,然り!。そして泉は,自らの世代
(3)
を「全共闘もない」という意味で“無共闘世代”と名づけている。このネーミ
ング・センス自体はあまり良いとは思えないが,私たちの世代の気分はよく言
い表わしている。まったくのところ,たとえ就職したにしても,女子大生を前
に「私の学生時代は…」とエバって聞かせるようなことは,なに一っ無いので
ある。
そして私たちのように,なんらの世代的な共有体験を持たない者にとって,
てっとり早く世代的連帯感を確認しあう方法として珍重されるのが,昔見た懐
かしのテレビ番組の思い出しっこなのである(コンパの席上で,rあっ,見た
見た,それ!」とやる,アレです。)。この場合,細かいところまできちんと押
えている入が,必然的にその場をリードすることにな乱どうでも良い墳末な
ことを記憶に蘇らせて,喜びを分かち合うのであ乱この時,私のような,高
校3年の時にようやく民放が3局になった(それもコンバーターというものを
設置してUH Fで見るのです)という電波とどかぬ山岳地帯出身者は,圧倒的
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不利をかこつことになる。とにかく,テレビによる疑似体験の方が,生の体験
を凌駕してしまっているのが,私たちの世代なのだと言える。世代が共有する
ノスタルジーの対象は,テレビ番組をおいて他にないのである。ここに,前出
(4) (5)
の泉庶人や竹内義和,あるいはホイチョイ・プロダクションが人気を博す理由
があるのである。
もう一つ,小林信彦のとんねるずに関する議論を紹介しよう。彼は,rとん
ねるずの強みは,いまのN OWである<七0年代ノスタルジー>を先取り,と
いうより体現しているところにある。大阪の万博へ行った・行けなかったに始
まって,テレビ番組が唯一の共通体験であった世代(いまの二十代半ばまでの
人々)そのものが彼らなのだから,幼児体験を笑いで堀り下げれば,たちまち
共感を得られるという,かけがえのない武器を持っている。この根っ子の部分
を外して<とんねるず現象>は考えられないのである。(中略)はっきりいお
うか。とんねるずは,荒涼たる七〇年代の電波メディアが生み出した妖怪なの
であ乱逆にいえば,七〇年代は他になにも生み出せなかったのであり,だか
(6)
ら,とんねるずの時代はさらにつづくはずである。」と言う。ついでに言えば,
なにも生み出せなかったということに関しては,基本的に80年代も同様であろ
う。この卓抜なとんねるず論には,フクヤマの示す,芸術も哲学もなくなった
脱歴史時代という未来像が不思議に交錯するのである。全共闘以後の日本は,
その時点からもう,フクヤマの言う脱歴史時代をひたすら歩み始めたのかもし
れない。安定した退屈な時代は,何ものをも生み出しはしないのだろう。ハリー
=ライムが,ウィーンの観覧車で言ったことはその点,真理をついていたとも
言える。こういう時代において人間の関心は,墳末な事象,どうでもよいこと,
微細な差異,というようなところへ向かう。細部にこだわりぬくのである。オ
タクこそが,脱歴史時代の主流を占める人間像なのであ孔
以上のようなことから,フクヤマのr歴史の終焉」という議論は,とりわけ
私のような世代のものには,受け入れやすいものであった。なかには村上泰亮
のように,「保守」と「進歩」という二つの姿勢は,人間の意識構造そのもの
に根ざしているから,それに基づく思想の競争に終わりはないという論者も
(7〕
い乱さまざまな議論が存在しようが,ここで私は,フクヤマが検討すること
のなかったエコロジズムが,はたして自由一民主主義への挑戦者になれるのか
どうかという点を考えてみたいのである。例えばヨハン=ガルトゥングのよう
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一橋研究 第15巻第3号
に,保守政党は,第二、第三,第四の変化にそれぞれ対応するような三つの挑
戦を受けてきた,と言う論者もいる。第一の挑戦は自由主義政党によるもの,
第二の挑戦は社会主義政党によるもの,そして第三の挑戦が緑の政党によるも
(8)
の,とエコロジズムを歴史的に位置づけてい孔はたしてエコロジズムは,ガ
ルトゥングの言うように社会を基本的に変えてしまうような政治勢力となりう
るのだろうか。別の言い方をすれば,エコロジズムは歴史の終焉に待ったをか
けて,自由一民主主義を脅かすようなイデオロギーとなりうるのであろうか。
以下では,このような点を巡って論じていきたい。
2.未来の二つの顔
中世ヨーロッパにおいてペストが蔓延した時,人々の間に典型的な二つの行
動様式が現われたという。避けられぬ死を目前に,一つは刹那的な快楽に身を
まかし享楽的に生きるという方法。もう一つは,神の救いを求めて宗教的な生
活にのめりこんでいくという方法。このような両極端とも思える心的態度が,
(9)
当時,現われたことが指摘されている。藤原新也は,この中世ヨーロッパと現
代日本の世相との間一に類似するものを見る。まず第一に,どちらの時代も解決
不能の問題に見舞われて,根本的な閉塞状況に陥っている。そして第二に,今
の日本にも,中世ヨーロッパで見られた二つの心的態度と処世が現われてきて
(10)
いるとするのである。この藤原の指摘には,興味深いものがある。一つ,ここ
から考えを進めていってみよう。
藤原自身は,現代の解決不能な問題として,核の問題やエイズなどを挙げて
いる。しかし,核に関して言えば,冷戦構造の終焉でかってよりは問題の深安1」
さが減じてきている。エイズも,ペストほどの猛威はふるっておらず品行方正
にしていればなんとかしのげるような気がしないでもない。やはり,人々の意
識構造に深安1」な影響を与えつつあるのはなんだかんだ言っても環境問題ではな
いだろうか。核やエイズは,一面,他人事である。しかし環境問題は,自らの
生活様式に常に関わってくる問題であるだけに,その解決の難しさが人々の意
識の中に組み込まれてきているのではないだろうか。
私は,環境問題が,人々から世代的連続感を奪いつつあるような気がしてな
らない。世代的連続感とは,地球が永久に存在し,その中で人類はずっと生存
していき,その一員として自分の血を受け継ぐ子孫たちが生き続けていく,そ
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して自らは過去から未来へと永遠に連なっていく鎖の輪の一つを成している,
こういった暗黙の感覚の総体を指すものとして理解されたい。封建時代には,
rお家」という言葉で象徴された,あの感覚である。この世代的連続感が,若
い世代を中心に蚕食されつつあるのではないだろうか。深刻化する環境問題
(また,これに関する情報量も格段に増えた)が,人々の心の奥深いところで,
地球も資源も人類も永久にあるわけではない,という意識をはぐくむ。こういっ
た感覚が,人のごく普通の世代的連続感を奪いつつある。それが,具体的にさ
まざまな現象となって現われているように思う。例えば,出生率の減少。これ
は,避妊技術の発達・家族計画の普及・女性の社会進出,といったことがもた
らしたものではある。しかし,根っこのところで世代的連続感が失われてしまっ
たことが影響してはいないだろうか。また,DINKSやシングルといった生活
様式が,今風の(あるいは現代の先端的な)風俗として肯定的に取り上げられ
るような状況も,これに関連していると思われる。生殖とか子孫とかというの
(つまりはr未来」への再生産)と全く無関係な,言ってみれば社会の異分子
がもてはやされているのだから。これは,社会の深層意識が転換しつつあるこ
(11)
との反映の一つと言ってよかろう。女性の社会進出も,この文脈から捉え直せ
るような気もする。ともあれ,環境問題は,現在において家族や女性といった
領域に,その相貌を変えて現出しているというのが,私の仮説である。
また,核家族化め進行と土地への定着を許さない高移動社会は,血縁と地縁
の絆から人々を切り離す。このような状況は世代的達続感の崩壊を促進させる
基礎的な要因となっている。そして,このことによって人々は自らの歴史的存
在意義を失い,一種のアノミー状態へ突入しつつあるかのように見える。世代
的連続感の崩壊とともに1章で論じた歴史。r/andイデオロギーの終焉状況は,
人問に歴史的存在意義を与えることを可能にさせている。
歴史的系譜から切り離された人問は,「この世」のみにしか生きる場はない。
未来の理想社会のためにあえて苦難の道を歩むのであるとか,宗教的な救済を
求めて禁欲的な生活を送るであるとか,という生き方は,多くの人にとってひ
どく馬鹿らしいものと感じられるようになる。こういった事態を,竹田青嗣は
「ポップの勝利」と表現している。竹田によれば,「ポップの勝利」とは,「人
間はいつ死んでしまうかもしれないから,生きているうちに現実のエロスを味
(12)
わい尽そうという態度」が人々の間に浸透した事態を指す。現世における欲望
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一橋研究第15巻第3号
の追求が肯定されるようになったわけであ乱そこで人々は,r彼岸の理想よ
りもこの世のエロスのほうに引きつけられる。まさしくそういう理由で,現在
ひとびとは,社会的な理想に対してなんらかの絶対感情を抱きにくくなってい
(ユ3)
るのである。」と竹田は論じる。この「社会的な理想に対する絶対感情の消滅」
とは,歴史の終焉を竹田流に表現したものだと言っても過言ではない。
ポップが勝利した豊かな社会においては,当然のことながら消費が爆発す乱
これは避けられない。世代的連続感を喪失させた人々による欲望の追求は,人々
の「ルイ15世化(自分のあとには大洪水がくるだろう)」を招来させる。ここ
にはある種のペシミズムが漂㍉が,それは豊かさと安定に支えられた「明る
いペシミズム」である。この章の一番最初で示した閉塞状況における典型的な
二つの処世法のうちの一方,享楽的な生き方は,以上のような経緯をたどって,
明るいペシミズムを漂わせたルイユ5世的人問の出現という形で,たしかに現代
日本に現われてきているように思える。そしてこのような状況の深化の指標は,
単なる消費の爆発という点ばかりでなく,人問の最も原始的で根源的な欲望で
ある「性」と「暴力」の問題がどう現われてくるか,ということになるであろ
う。深読みかもしれないが,そのような性と暴力の欲望の噴出は,徴候として
(14)
すでに我々の前に現われてきているような気がしてならない。
さて,欲望が全面肯定された社会において,エコロジズムはそれにどう対時
しているだろうか。これについてつらつら考えてみると,対時するどころか消
費社会とエコロジズムはしっかり共存共栄してしまっていたりする。無農薬野
菜・有機野菜が,一つのブランドとして機能してしまっていることは,早くか
ら指摘されてきた。これに,最近ではエコマーク商品が加わり,エコロジー特
集の雑誌が再生紙で作られ,地球儀が売れたりなんかしている。そして,きわ
めっけは今年(ユ990年)の流行色がエコロジーカラーだということである。あ
のライァル=ワトソンまでが,ビールのTV−CMに出演してしっかりシホン
シュギしてくれているのである。エコロジーというものが,完全にファッショ
ンになってしまっている状況が,ここにある。エコロジーは,資本主義社会を
彩る目新しいブランドあるいは手垢のついてない新鮮なイメージとして消費さ
れていこうとしているのである。そしてこういった状況は,多くの風俗ウォッ
(15)
チャーの格好の椰愉の対象となっており,彼(女)らを大いに喜ばせている。
こういった現象に対して,エコロジスト自身は大いに苛立っているように見え
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(工6)
る。しかし,このような状況を理解するには,「ポップの勝利」ということを
押えておかねばならない。そして,苛立つばかりで,何らの現状分析をもせず
に,企業や国家に対する批判を十年一日のごとく繰り返してきた大方のエコロ
ジストの態度こそ批判されねばなるまい。エコロジズムは,ポップの勝利や大
衆のエロス的欲望を否定できるのか。否定してなおかつ大衆の支持を得られる
ようなイデオロギーを提示できるのであろうか。ここに,エコロジズムが自由
一民主主義に挑戦できるかどうかの鍵がある。
たしかにポップが勝利する一方で,それと正反対の処世も生じてきている。
宗教に傾倒したり,コミューン生活を送ったり,という者たちの存在である。
彼らに共通する処世は,禁欲的な生活である。これは,誰もがすぐ了解できる
ように,第一の享楽的な生活態度と裏表の関係にある。最初に紹介した藤原新
也の言うとおり,どうやら二つの相反する処世と心的態度が現われてきている
ようである。そこで,もしその種の禁欲的な共同体が,世界中に全面開花すれ
ば,消費水準は大幅に低下し,とりあえず環境危機は去るかもしれない。しか
し,このような共同体の存在は,一定程度,人々の郷愁や反近代的心情に訴え
る部分をもっても,大衆のエロス的欲望を全面改造するにはとうてい至らない,
(17)
というのが実情である。
この先エコロジカルな危機が深刻の度を増していき,その時,最初の仮定の
ように人々が刹邦的・快楽的な生き方と宗教的・禁欲的な生き方とに二極分解
していくならば,中間階層に担われたようなエコロジズムは享楽的な生活の中
に雲散霧消してしまうだろう。そして,宗教的色彩に彩られた自閉的な禁欲的
共同体が,わずかばかり存続しっづけるということになるであろう。しかし現
在,このような環境の危機に対応する方法として,以上のような二つの行き方
とは全く異なる対応が現われてきている。それを次章で考察してみよう。
3.ささやかな叡知
フランシス=フクヤマは歴史の終焉と言い,泉庶人は無共闘世代と言い,竹
田青嗣は社会的な理想に対する絶対感情の消滅と言う。これらは言葉も表現の
仕方もすべて異なりはするが,そのすべてに通底するものがある。それはイデ
オロギーの終焉という事態である。現世での欲望を否定してもかまわないと,
人に思わせるようななにものをもなくなってしまった,ということなのである。
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そんな時代に,我々は生きている。ゆえに,そこではエロス的欲望の全面肯定
がなされる。今,現在がすべてなのである。一方で,個々人では解決不能と思
われるようなエコロジカルな危機が顕在化しはじめている。それは,歴史から
切り離されたルイユ5世的人間を生み,現世での欲望追求に拍車をかけさせるこ
とになる。そのことが,まずまずの環境悪化をもたらすという悪循環が形成さ
れんとしている。こうした危機に対応して現われてきたのが,エコロジズムで
あったはずである。だが,それさえも大衆の欲望の前に,ファッションとして
モードとして消費されようとしている。
ポップが勝利した世の中で,大衆の欲望を否定したり制限したりすることは
困難である。資本主義体制は,この際限のない大衆の欲望によって成立してい
るのである。たしかに企業が,頻繁に繰り返されるモデル・チェンジや新製品
の開発などによって,大衆の欲望を刺激し偏ってきたのは事実である。だがそ
の背景には,理想の社会というものが消えてしまい,そのかわりに真似てみた
いライフ・スタイルしか残されていない,という我々の側の状況があるのも,
また事実なのであ乱そうである以上,人々は自らのエロス的欲望を刺激され
るのを常に待ち受けているのである。何か面白いもの,何か新しいもの,何か
興奮させてくれるもの,そんなものをいつも欲しているのが大衆なのである。
こんな大衆におもね,人気取りをしながら政治を進めていかざるをえないの
が,今日の大衆民主主義である。大衆民主主義によるエコロジカルな危機の解
決は可能なのであるか。たしかに,美しい自然環境を守るとかいうような抽象
的な標語や,オゾン層の保護・熱帯林の保全のような誰も反対する余地のない
政策,さらには核燃施設の建設反対のような個別的な問題が,大衆に受け入れ
られることをある。それは,全く当然のことである。だが,経済成長の抑制や
生活水準の切り下げのような政策が受け入れられるのは絶望的に困難である。
これについて,例えば,r巨大工業体制を縮小して自然と調和する循環系のコ
ミューンをつくろうとする場合,(中略)現在の巨大工業体制の破綻が誰の目
にも明かとなり,このままではやっていけないと誰もが認識しなければ,実現
(18)
困難であろう」と佐藤準は言う。誰の目にも明らかになるまで待っていて大丈
夫なのかという疑問もないでもないが,これは揚足取りにな乱それよりも疑
義を呈したいのは,エコロジカルな危機が深化した時,r一種の革命的状況が
訪れ,権力の交替が」起こり,その革命権力が自然と調和したコミューンヘと
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民衆を導いていってくれる,などというようなことが生じるのかどうかという
点である。私1寺2章で考えたことから,そのようなことは起こりえようもない
と思ってい孔エコロジカルな危機がどうしようもないほど深まった時,そこ
には性と暴力(それにドラッグを加えてもいいかもしれない)に彩られたバイ
オレンスジャック的世界が現出する可能性が高いのである。
そうなってはならぬと,大衆とは全く別のところからエコロジカルな危機へ
対応しようという動きが出てきている。その一つが,奥村暗一の報告する多国
(工9)
籍企業のr企業環境主義Corporate Environmenta1{sm」の登場である。その
中身は,フロン代替品の開発・生産に代表されるように,環境問題を新たなビ
ジネス・チャンスに利用しようというのが一つ。さらにもう一つは,環境問題
に理解を示すことによって,企業の世界的イメージを高め企業戦略を有利に導
くこと。以上のような点が,企業環境主義の内容として指摘されている。さら
に付け加えれば,太田竜は,「地球の日(アースデイ)1990」がアメリカの巨
(20)
大財閥であるロックフェラーによって操作されたものであったと断じてい乱
太田に言わせると,ロックフェラー首脳部に代表されるアメリカの権力中枢が
地球生態系の危機をもっともよく認識しているのだということになる。そこか
ら彼らが策定した戦略は,体制はエコロジー的に改革されて,しかも「資本主
義,自由主義,民主主義体制という名のもとでの,金権独裁制度は保存されな
ければならない」というものである。そこで「アースデイ」のようなイベント
を利用して大手環境保護団体を取り込み,大衆を組織していこうとしているの
であると,太田は結論を下している’のである。事の真偽はわからないが,少な
くとも太田のような見方が出てくるほどには,多国籍企業の環境問題への関心
が深まってきているのだ,ということになりはしないだろうか。
この企業環境主義に連動して,先進各国の為政者レベルでも,環境問題に対
する関心が深まりつっあるように見受けられる。特にオゾン層の破壊の問題や
地球温暖化問題のように,一国ではどうにもならない問題について,国際的な
(21〕
討議が始められている。現段階においては,先進資本主義諸国内部でも,まだ
足並みが揃っているとし.・うには程遠い状態である。しかし,いずれ協調体制が
確立されて;大衆民主主義による機能不全によって国内的には対処不能な問題
に影響力を行使していくことになると思う。これは,近年の日本の政治手法が
一つのモデルを提供してくれる。各種の利害団体の圧力の前に解決不能に陥っ
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た問題を,「外圧」を利用して解決への糸口を付けていくというやり方である。
これからの地球環境問題を国内的に見れば,いやいや外から(国家を超える権
威によって)規制の網がかぶせられていくという感じになると思う。
ただし,間違えてはならないのは,この過程が大方のエコロジストがrエコ・
ファシズム」と呼んで非難するような抑圧的で権威的なものにはならないだろ
うということである。むしろソフトで説得的なものになるであろう。そこでは
r科学的データ」が最大限に活用され,わかりやすい視覚的なコンピュータ・一
シミュレーションが大きな威力を発揮しよう。むろん「科学的データ」なるも
のは,彼らの都合の良いようにいかようにも改憲可能であることを言い添えて
おかねばならない。ここで以前私が,論文の中で主張したテーゼを再度繰り返
しておく必要がある。今日,社会問題を巡る闘争は次第に<情報戦>へと,そ
の形態を変えつつあるのである,社会運動側が,上から推進されてこられる環
境政策に対して対抗するには,イメージ戦略を含めた情報戦で勝利せねばなら
ないのである。これは,単に国内的な問題に限るわけでぽない。国際政治の舞
台でも同様の傾向が進む可能性がある。なぜならば,環境間題等で他国に対し
てより説得的な議論を展開するには,質≒量を兼ね備えた<情報>が必要だか
らである。いくら軍備があってもしかたないのである。脱歴史時代において,
国際政治の場で威力を発揮するのは,次第に軍備から情報へと移っていくよう
な気がする。そしてこの時,当然のこととして,情報を持たぬ国(というのは
当然第3世界諸国に多くなるだろう)の相対的な(あるいは絶対的な)発言力
の低下という現象が起こりはしないだろうか。これらもまた,私の仮説である。
現在まで,我々は核兵器を(広島・長崎を除いて)実戦で使用するようなこ
とはしなかった。その程度のささやかな叡知は持っていたわけである。そして
今度は,環境問題に関してもテクノクラート連の叡知による対応が開始されつ
つある。しかしこのようなテクノクラートによる制度的・技術的な環境問題へ
の対応は,イデオロギーとしてのエコロジズムに何の魅力ももたらさない。環
境問題を制御していくテクノクラートとその枠の中で退屈な毎日を送る大衆と
いう図式にしかならないのである。結局,歴史は終焉してしまうのである。そ
して,こういう歴史の終焉は,「南北」の固定化や現体制の維持へと機能して
いくことになるであろう。第3世界諸国は,「気象観測衛星の輌」の下に置か
れることになる。
「歴史の終焉」と環境問題
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4.危険なヴィジョン
ここまでの議論で,次のような疑問が出るかもしれない。この世の中には,
環境問題に対して技術的な解決を譲ろうとするテクノクラートと,エコロジー
をファッションとして消費してしまう欲望を解放させた愚昧な大衆ばかりがい
るわけでもあるまい。また,エコ・テクノクラシーによる地球規模の環境制御
か,あるいは環境危機の前でのバイオレンスジャック的世界の現出(と宗教的
コミューンの散在)声・,という未来図にも承服し難い。市民の中から自発的に
生まれてきているエコロジー運動の可能性について論じるべきではないか。こ
のような批判である。
しかし現在までのところ,エコロジー運動は単一争点運動としてある時,もっ
とも力を示すことができる,という状態にある。未来を託すイデオロギーとし
てはあまりに貧弱であり,それゆえかいたずらに大衆の情緒面・感情面への刺
(n)
激に頼っているようなところがある。では,エコロジズムのどこが問題なので
あろうか。
私は,大衆民主主義が環境危機を救う可能性はほとんどありえないと述べた。
エコロジストも,大衆民主主義をよしとはしておらないであろう。彼らの多く
は,「共生社会」「小地域共同体」「コミューン」と呼び名は異なれど,現代国
家よりもずっと小さな単位での自治を志向している。そしてこの共生社会φ背
後に理念として控えているのは,直接民主主義・参加民主主義・多元主義・底
辺民主主義・自主管理・住民自治等々。それにしても,何という空虚なお題目
の羅列であろうか。だいたい,共生社会とは居心地の良い社会なのだろうか。
参加民主主義は,人々に本当に望まれているのだろうか。堀川哲は,r誰でも
が政治に参加しなければならない社会というのは,お一そろしくシンドイ社会で
あるに違いない。わたしはもっと気楽に過ごしたいのだ。不特定多数の他者と
の関係においては,イギリス人が語ったように,すきま風が通るくらいの距離
(23)
を保てるような関係こそが理想的である。」 と言っているが,もっともではな
いか。少しばかり想像力を働かせる必要がある。選挙の投票すらさぼりがちな
連中が,参加や自治を望むだろうか。大学自治における学生大会,寮自治にと
もなう寮生大会,できればさぼりたいものではないか。参加民主主義による共
生社会などという代物は,多くの人々にとって,煩わしく七面倒臭く欝陶しい
ものである。空虚なお題目といったのは,この点を指してのことである。私が,
76
一橋研究 第15巻第3号
直接民主制で唯一,居住しても良いかなと思うのは,関瞳野がrプラトンと資
(24)
本主義」で描き出すところの劇場権力が支配するアテナイのような政体である
(ここでなら美男喜劇俳優として居場所がありそうだ)。
自治に参加するのを面倒に思う人間の方がおかしいのであろうか。また,こ
れと関連させて,エロス的欲望を最大限に肯定させた人間はおかしいのであろ
うか。変革主体として形成され直されねばならないのだろうか。ここで再び堀
川哲に登場ねがう。彼は、「人間はr全面的に」発達しなければならないもの
だとすれば,市民的公共性の世界のなかで,公共的な問題についてのコミュニ
ケーソヨンに参加しなけれはならないものだとすれは,あるいは, へ一ゲ
ルの言うように一人間はr陶冶』(Bi1du㎎)されなければならないものだと
すれば,つまりは要するに,自由な主体へと高まらなければならないものだと
すれば,こういうr解放的な』社会は,その気のない人問にとっては,苦痛以
(25)
外のなにものでもない」と言㌔これまた,然仇エコロジストは,ゴルフを
する人問をどうするのか,クーラーを使用する人問をどうするのか,自動車に
乗る人問をどうするのか,牛肉を食べる人間をどうするのか,アダルトビデオ
を見る人間をどうするのか,ファミコンで遊ぶ人間をどうするのか,・ワープロ
を使用する人問をどうするのか。エコロジストは,これらの問いを填末なこと
と笑わない方が良い。例示したものは,悪辣な資本家が陰謀と謀略をめぐらし
て人々に売りつけたものではないからである。大衆が自ら,それらのものを欲
したのである。関暖野が,r家が社会全体の消費と需要に関して究極的な決定
権をもった場合には,家庭経済の需要には明確な限界があるために,財貨とサー
(26)
ビスとエネルギーの需要は大幅に収縮しよう」と言うのは,あまりにも奇麗事
寺ぎるような気がする。まずは,人問の欲望には限りがないと見ておいた方が
良かろう。そこで欲望を解放している人間はラーゲリ送り,ということになら
ないことだけは希望しておこう。エコロジストがめざす社会が,クメール・ルー
ジュの禁欲的な虐殺共産主義の世界と似たり寄ったり,などということであれ
ば,冗談好きな私も笑えない冗談である。
要するに,最も現実的な道はエコ・テクノクラシーのヴィジョンに,社会運
動セクターが単一争点ごとに牽制・抑制を加えていくという道であろう。しか
し,これは「南北」の問題を筆頭に非常に現状維持的に働く。そして,イデオ
ロギーとしてのエコロジズムを魅力ないものとする。かといって大衆民主主義
「歴史の終焉」と環境問題
77
に対して参加民主主義を対置してみても空虚な美辞麗句の域をでない。だから
といって,主体形成をはかろうとすれば強制収容所(それとも共生収容所か?)
が待っている。エコロジズムが,自由一民主主義に対抗する余地はないのであ
ろうか。
私は,エコ1]ジズムにイデオロギrとしての生命を吹き込むものにナショナ
リズムを措定してみたい。エコロジズムはほうっておくと,技術的な問題に次々
と微分化されていってしまうか,大衆の欲望と遊離した倫理的・道徳的な空想
論になってしまう。脱歴史時代には,ナショナルな情念との結合だけが,自由
一民主主義への挑戦を可能ならしめる。それは,以下の三つの理由による。ま
ず第一に,生態的に,自給自足可能で,しかも人間関係その他において風通し
の良い社会というと,国民国家の枠をおいて考えられないからである。これよ
り大きくなれば,自給自足の意味が空洞化するし,小さければ欝陶しい社会に
なる。しかも,今ある国民社会を分割するのは不可能である。むしろ,現存す
る民族共同体をエコロジカルな共同社会の母体にすべきである㌔その時,r鎮
(27)
国」について考え直すことが重要になろう。これによって,地球規模の環境制
御体制から訣別することが可能になる。
第二に,変革の原動力となるような潜在的な心的エネルギーは,ナショナリ
ズムのうちにしかないと考えるからである。第ユ次大戦の時より,「民族」は
r階級」よりも,人々を引きつけてきた。今日,社会主義思想の崩壊した後に
噴出しているのは,無理に押えつけられていたナショナリズムの奔流である。
歴史が終焉し,図書館で古い夢を読むような静譜で退屈な社会において,人を
掻き立てるものは一部の宗教を除けば,ナショナルなものへの想いしかないの
である。
第三に,環境危機の前に歴史的な系譜から切断されてしまった人々を,再び
歴史の系譜に位置づけ直してやることができるのが,ナショナリズムだからで
ある。いまさら「家」のイデオロギーに頼るわけにはいかない我々は,民族ρ
(28)
文化的伝統を核に自らを歴史的な存在として認識していくほかはあるまい。そ
うすることによって世代的連続感の回復をはかるのである。そして,また我々
の素朴なr美しき山河を守る」r郷土を後の世代に伝える」という気持は,無
理なくエコロジズムと結合できるのである。ことさらに,主体の形成を唱導す
る必要もない。倫理的である必要もない。これと比べると,「赤」と「緑」の
78
一橋研究第15巻第3号
対話の迂遠さが,よけいに際立つ。
最後に,エコ・テクノクラシーでもなく参加民主主義の共生社会でもない,
ナショナリストが目指す未来像に,真智英さんの言う「鼓腹撃壌」を持ってこ
よ㌔これは不思議とrエアコンつきの東ローマ帝国」に通ずるところがあ乱
人々が気楽に生きられるのは,こんなところである㌔しかし,これさえ退屈
さを引き受けねばならないのだが。
(1) Francis Fukuyama,“The End of History ?,” 珊εNα士{oπα正
〃ere8‘,1989.(邦訳「歴史は終わったのか?」,『月刊Asahi』!989年12月号)
(2)浅田影「資本主義の『勝利宣言』はまだ早い」『S A P I O』ユ989年工2月工4
日号.他にも,村上泰亮r世紀末の保守と革新」r中央公論』1990年1月号,
永井陽之助・江藤津「r歴史の終り』に見えるもの」r文褻春秋』1990年1月号,
柄谷行人「歴史の終焉について」r季刊思潮』No.8.!990回rr歴史の完結』
とその脱構築」r状況」1990年7月号,佐々木毅「二ρ世紀的政治システムの
融解」r世界』19901月号,船橋洋一r冷戦時代が懐かしい」r朝日新聞』1989
年10月18日付。
(3)泉庶人r週刊本24無共闘世代』朝日出版社,ユ985,p.8∼ユO.
(4)竹内義和の著作は多いが,主なのを挙げれば,r大映テレビの研究』(大阪書
籍),r清純少女歌手の研究』(青心社),r制服少女の逆襲』(青心社),rおねえ
さんトキメキBOOK』(創救出版),『なんたってウルトラマン』(ケイブンシ」ヤ),
等がある。そのどれもが吹き出してしまうほど面白い。
(5)名著rOTV』(ダイヤモンド社)が,ある。思わず吹き出してしまうほど
面白い。
(6)小林信彦r時代観察者の冒険』新潮社,1987,p.101∼102.
(7)村上泰亮,前掲論文.
(8)Johan Ga1tung,“The Green Move血ent:A Socio−Histrica玉Explo一
「ation,”∫π加rηα幻0〃α工80c{0エ08ツ,voLユ,no.王,ユ986.pp.80−81.
(9)村上陽一郎rペスト大流行』岩波新書,!983,p.147∼!48.木間瀬精三r死
の舞踏』中公新書,p.12..参照。
(1O)藤原新也r享楽の処世・求心の処世」(同r幻世』講談社文庫,1990.所収)
(!1)私と似たような観点からシングルを論じた論考に短いけれども,川本三郎rシ
ングルーセリバシイの優雅な生活」(同r‘80年代 都市のキーワード』T B
Sブリタニカ,ユ986,所収)がある。
(12)竹田青嗣rニューミュージックの美神たち』飛鳥新社,1989,p,222.
(!3)同上,p.223. 竹田の言うエロスとは,次のような要素をもつものとして規
足されている。曰く,r新しいこと。便利なこと。面白いこと。心地よいこと。」
(14)私の論旨とは多少ズレる部分もあるが,山崎哲r狐絶するエロス」r現代詩
手帖』1989年7月号,参照。
「歴史の終焉」と環境問題
(15)
79
私の目に触れた限りで,中野翠r時評’90複雑な気持ち」r朝日新聞』1990
年5月19日付,山崎浩一「時評’90人類の美意識は正しいか」r朝日新聞社』
1990年6月2日付,岡崎京子「最新モード“エコロ”とコウモリ女のわたし」
r朝日ジャーナル』1990年6月29日号,泉庶人「ナウのしくみ286常識か非
常識かの問題が商業主義にすり替えられた“地球環境保護”」r週刊文春』ユ990
年7月5日号,などがある。
(16)
例えば,天笠啓祐r誰が地球環境を破壊しているのか」r社会運動」124.1990.
(17)
「共同体」なるものに関しては,10年以上も前に盛んに論じられた。その中
の冒頭部分などに,それは典型的に現われている。
で一つ,印象に残った渡辺京二の言葉を,以下に引用しておこう。r私は小共
同体づくりが新左翼的挫折者のうちに一時流行したことを知っている。私はそ
ういうものを一貫して個人的な好みの問題とみなして来た。現代の社会構造や
風潮が気に入らないのはその当人のどうしようもない好みであって,そういう
好みを共有したものだちが㌧自分たちだけで小共同体をつくろうとするのはそ
れこそ当人たちの勝手である。ここにはどういう思想的問題も存在する余地は
ない。むろんそのことにとほうもない意味をつけるものはいる。」(渡辺京二「説
教師の思想を排す」r日本読書新聞』!976年3月1日号)
(ユ8)
佐藤進r新しい社会主義をめざして』三一書房,工979,p.209.
(19)
奥村浩一r環境保護へ歩み出す多国籍企業」rエコノミスト』1990年5月8日号
(20)
太田竜「r地球の日』を演出したロックフェラー帝国の遠大な野望」r噂の真
(21)
詳細については,米本昌平r環境問題は国家主権を超える」r中央公論』1989
年6月号,米本昌平「地球環境問題が世界を変える」r中央公論』1990年.2月
号,淡路剛久・松原望・米本昌平r地球環境 なにが問題か」r法学セミナー』
1990年2月号,参照。
(22)
村上泰亮が前掲論文で,「心情的理想主義」について述べている箇所,参照。
(23)
堀川哲「社会主義とr支配の言語』」r季刊クライシス』第32号,1987,p.37.
(24)
関暖野『プラトンと資本主義』北斗出版,1982,参照。
(25)
堀川哲r文明の現象学』批評社,1987,p.134.
(26)
関暖野「イエ本位性社会は可能か」r社会運動』71.1986,p.ユ1.
(27)
鎖国については,梅樟忠夫・京極純一「日本これまで日本これから」r中央
相」1990年7月号
公論』1985年2月号,真智英r封建主義,その論理と情熱』情報センター出版
局,1981,p.177∼178,参照。呉はその著書の中で,大崎正治の名を挙げてい
るが,大崎正治『「鎖国」の経済学』J I CC出版局,1981.はエコロジーに
関する議論は行なっ・ているが,直接,鎖国について論じている部分はほとんど
ない。
(28)
日本民族なるものが成立したためしはないという関暖野の傾聴に価する意見
もある(同「<民族>の形成に向かうために」『世界』1990年8月号)。文化的
伝統なるものが何かという問題もある。それについて論じる準備はないので,
今後の課題ということにさせていただく。
(筆者の住所 小平市回田町工56熊野荘)