Title 『左利き』の旅路 : レスコフ・ノート Author(s) 岩浅 - HERMES-IR

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『左利き』の旅路 : レスコフ・ノート
岩浅, 武久
一橋論叢, 89(6): 799-818
1983-06-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/12936
Right
Hitotsubashi University Repository
(19)『左利き』の旅路
﹃左利き﹄の旅路
武 久
き︵トゥiラのやぷにらみの左利きと鋼鉄の蚤の物語︶﹄
言葉だが、これはニコライ・レスコフの短篤小説﹃左利
何かとくに手の込んだものを作り上げる﹂という意味の
言い回しがある。﹁精密な技術と能カと創意を発撞して
ロシヤ語に﹁蚤に蹄鉄をうつ﹂ということわざふうの
初から現在の栄光の座をかちえていたわけではなかった。
して広く認められている。しかし﹃左利き﹄は、発表当
ともに広まり、﹃左利き﹄はレスコフの代表作のひとつと
い回しだとされ、今ではこの表現は作家レスコフの名と
送り屈けた。ーという小説の筋から生れたのがこの言
きは特使とともにイギリスヘ派遣され、その鋼鉄の蚤を
ーレスコフ・ノートー
岩 浅
︵以下﹃左利き﹄と賂記︶をもとに生れた表現だとされ
しているおりに、イギリス人はネジを巻くとダンスを踊
軍をともなってヨーロヅバ諸国を巡り、イギリスに滞在
^1 ︺
、 、 、
ている。ロシヤ皇帝がドン・コサック隊長プラートフ将
蹄鉄をうつというさらに精巧な細工をほどこした。左利
、 、 、
ウーラの鉄砲鍛冶である左利きなど三人の職人はそれに
、 、
■
レスコフの生存中について言えぱ、﹃左利き﹄は、一八
?︶
八一年十月の週刊紙﹃ルーシ﹄に最初に発表されて以来、
^3︺
翌一八八二年には﹃オリョール報知﹄紙に掲載、そして
る鋼鉄製の蚤を作ってロシヤ皇帝に贈ったが、のちにト
、
一八八二年と一八九四年にはベテルブルグで単行本の.
799
o
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第八十九巻
一橋論叢
・ ?︶
﹃左利き﹄が出版され、レスコフの最初の著作集にも第
二巻︵一八八九年︶に﹃左利き﹄はおさめられている。
しかし﹃左利き﹄は批評界ではさほど大きな反響を呼ぱ
ず、晩年のレスコフの作品に関心をはらっていたレフ.
トルストイも、レスコフについての最初のモノグラフィ
^三
1を発表したヴォルインスキィも、﹃左利き﹄には言及
な見世物﹂としてのこの意欲的な舞台は批評界に賛否両
^窩︶
論を巻き起こした。モスクワでの上演経験を生かして、
一九二七年には、レニングラードのボリシ目イ.ドラマ
劇揚で、上演意図をさらに明確にした﹃蚤﹄︵モナーエ
フ演出︶の公演がおこなわれた。脚本と舞台装置は第ニ
モスクワ芸術座公演と同じくそれぞれザ、ミャーチンとク
とで手が加えられて内容を一新している。ザ、・・ヤーチン
ストーヂエフが担当したが、いずれもモスクワ公演のあ
役割を果たしたゴーリキイのレスコフ論においても、
は、レニングラードでの﹃蚤﹄の公演に際して発行され
していない。レスコフ文学の評価を高めるうえで大きな
^6︶
﹃左利き﹄については触れられてはいなかったのである。
た文築﹃蚤﹄のなかで﹁民衆演劇﹂の性椿を前面に押し
出し、この公演はロシヤの〃縁日。の行事となった﹁ナ
二〇世紀にはいって﹃左利き﹄は、革命直前の一九一
六年に出版されたあと、一九一八年、一九二六年という
ロードノエ・グリャーニエ﹂の見世物小屋と同様の性楮
^聖
をもつものだと述べている。さらにこの文集には文芸学
︵9︺
具合に出版されていったが、この小説が批評界の枠をこ
社会運動の人民主義とは別個の、古代歌謡、民話、ブィ
者工.イヘンバウムが﹁文学的人昆主義﹂の一文を寄せ、
ナロード一’チェストザオ
リーナ、宗教詩、ことわざ、民衆詩、年代記など、ジュ
がそのきっかけになっている。一九二五年には演出家兼
えて広く関心を築めるようになったのは、小説の舞台化
での第一スタジオの伝統となっていたリアリズムの殻を
俳優のヂーキイが新しい第ニモスクワ芸術座で、それま
コーフスキイ、プーシキン、ゴーゴリ、レールモントフ
義﹂という名称を与えている。エイヘンバウムは﹃左利
うち破るべく、﹃ハムレヅト﹄につぐ二番目の出し物と
して、レスコフの﹃左利き﹄を脚色した芝居﹃蚤﹄を上
9︶
演した。この脚本を担当したのが小説家のザミャーチン、
き﹄の作者レスコフを、とくにその流れを明瞭に受けつ
等の創作に生かされた民衆文挙の流れに﹁文挙的人民主
舞台装置の担当が画家のクストーヂェフであり、﹁愉快
800
(21)『左利き』の旅路
いだ作家として位置づけ、その小説形式と言語の独自性
を高く詳価している。﹃左利き﹄に対する一般的な関心
^u︺
と評価が高まったのは、おそらくこの一九二〇年代のふ
レスコフの﹃左利き﹄が最初に発表されたのは一八八
き﹄は、イプァーノヴォ、ペルミ、イルクーツク、ハリ
左利きと鋼鉄の蚤の物語︵職場伝説︶﹄となっていたほ
この初出時には小説の題名は﹃トゥiラのやぷにらみの
一年の﹃ルーシ﹄紙上︵49,50、肌号に連載︶であった。
コフ“オリ目ール、プスコフなど、各地の劇場で上演さ
か、小説への注釈として、現在の﹃左利き﹄には見られ
たつの﹃蚤﹄公演以後と言うぺきだろう。その後﹃左利
れ、現在モスクワでおそらくもっとも実験的な舞台を作
ないつぎの一文が付けられていた。
た﹃左利き﹄の数奇な運命を横目に見ながら、われわれ
にも達している。レスコフの小説にふさわしい、こうし
までに出版された﹃左利き﹄の総部数はおよそ八百万部
﹃左利き﹄の出版部数は急増して、一九一八年から現在
感覚がある。痛みと信頼、のどかな休日と透明な苦しみ、
^螂︶
生命カとわれらの寄るべなさが−⋮・﹂と述べている。
最高の出来と評し、﹁レスコフを通してロシヤの深層の
利き﹄が上演されている。アンニンスキイはこの演目を
の戦いでこちら側は勝利をおさめ、イギリスの職人た
職人とイギリスの職人との戦いが描かれているが、そ
職人たちの誇りをあらわしている。そこではわが国の
はもっぱら鉄砲鍛冶の伝説であり、わが国の鉄砲作り
ら生じたものだろう。いずれにせよ、鋼鉄の蚤の物語
にはわからない。だがおそらくそのいずれかの土地か
か、それともセストロレーツクなのかということは私
こで生れたのか、つまりトゥーヲのイジマで生れたの
﹁鋼鉄の蚤についての伝説の最初の兆しがいったいど
、 、 、
り上げているスペシフツェフ劇場でも、ザミャーチンの
はもうひとつの﹃左利き﹄の旅路をたどることができ
ちにすっかり恥をかかせてその鼻柱をくじいた。ここ
伝統を受けついで﹁グリャーニエ公演﹂と銘うった﹃左
る。 ■
ではまたクリ、ミヤの敗戦のある秘密の原因が明らかに
801
二
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第八十九巻
一橋論叢
されている。私はこの伝説を、トゥーラの出身でいま
だアレクサンドル一世帝の治世にセストラ河地方に移
で、﹁﹃蚤﹄はここでは文学者たちにさえとても注目され
ました﹂と書.いている。これが誰を指しているのかは明
^旭︶
上げられて論評されることはなかった。この小説が批評
らかではないが、﹃左利き﹄は初出時に新聞雑誌でとり
界で話題になったのは、翌一八八二年四月にスヴォーリ
り住んだ老人の鉄砲鍛冶から聞いた話により、セスト
ロレーツクでこれを書きとめた。語り手は二年前には
最初にあらわれた﹃左利き﹄の書評は、﹃新時代﹄紙
^∬︺
筆がおこな■われている。
年版では、表現をさらに豊かにするためのいくつかの加
ンがこの単行本を出版してからのことである。一八八二
まだカが満ちあふれ、記憶も確かだった。彼は熱心に
昔を恩い出し、ニコライ・バーヴロブィチ帝を大いに
敬い、︽旧い信仰︾に生きて聖なる書物を読み、カナ
^B︺
リヤを育てていた。人びとは敬意をもって彼に接して
版したスヴ才ーリンであり、この書評は﹃左利き﹄の広
の書評だった。﹃新時代﹄紙の発行人は﹃左利き﹄を出
告を兼ねたものなのだが、書評者は小説の前がきをその
いた。L
作者によるこの注釈は、一八八二年に出版された最初
ままに受取り、鋼鉄の蚤についての伝説が実在し、それ
を作者が利用したのだということを当然の前提として話
のレスコフ著作集第二巻では作者の手でこれが削除され、
その伝統が今日まで受けつがれている。しかしこの前が
を進めている。書評者は、ロシア人の技術がイギリス、人
の単行本では前がきとして残されていたが、一八八九年
き削除の背景にはいかなる事情があウたのか。それを明
の技術にまさっているというこの﹁伝説﹂の素晴らしさ
を指摘しつつ、その一方では作者レスコフの視点に光を
らかにするためには、もう一度小説が発表された一八八
○年代へと時をさかのぼらねぱならない。
して扱われ、最後には貧民病院の片すみで頭を割られて
スから帰国したあと、ロシヤでは取るに足らない存在.と
当て、トゥーラの天才的な職人である左利きが、イギリ
、 、 、
ーシ﹄紙上に連載されている最中のことだが、レスコフ
一八八一年十月二十六日といえぱ、﹃左利き﹄が﹃ル
は﹃ルーシ﹄の発行人アクサーコフにあてた手紙のなか
802
(23)『左利き』の旅路
死んでいくという結末は、つまりは左利きにとって異国
、 、 、
の方がよかったということになり、あまりにペシミズム
の色 が 濃 す ぎ は し な い か と の 危 倶 を 表 明 し て い る 。
﹁・⋮−﹃トゥーラの左利きと鋼鉄の蚤の物語﹄のなか
、 、 、
ったが、わがトゥーラ人たちはこれに蹄鉄をうち、そ
で純粋に民衆的なのは、﹁イギリス人は鋼鉄で蚤を作
れを送り返した﹂という冗談あるいはひと口語がすぺ
この書評から十日あとの六月八日には﹃声﹄紙が﹃左
利き﹄の書評を掲載した。書評者はレスコフの前がきを
い。したがって私は、誰かが彼について﹃以前に聞い
てであ.る。﹃蚤について﹄はそれ以上何も無く、物語
た﹄などということほ有り得ないと考える。なぜなら、
受けて、﹁これはトゥiラとセストロレーツクの鉄砲鍛
作品中の言葉が偽造語であると主張したほか、﹁イギリ
正直に言って、私はこの物語のすべてを去年の五月に
冶たちの古い伝説であり、それをわが国の労働者の言葉
ス製の蚤がわが国の職人の努カの縞果、跳ぴはねるのを
作り上げたのであり、左利きは私が考え出した人物な
﹃左利き﹄については、いかなる民間伝承の物語も無
やめた﹂などのエビソードが民間伝承だというのはきわ
のである。トゥーラ人たちが蹄鉄をうったイギリス製
全体の主人公であり、ロシヤの民衆の代弁者である
めて凝わしいと指摘し、﹁言葉は歪められ、凝りすぎて
の蚤について言えぱ、これはまったく伝説などではな
によって再話したものだ﹂と説明している。﹃声﹄紙は
おり、ロシヤ人は外国人に優っているという類いの話だ
^価︺
が、物語そのものは面白い﹂と述べている。
く、ちょうど﹁ドイツ人が考えだした﹂﹁ドイツの猿﹂
が︵いつも跳びはねて︶すわらずにいたが、モスクワ
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
レスコフはこれらの書評を読んだあと、六月十一日の
﹃新時代﹄紙に﹃ロシヤの左利きについて︵文学的釈明︶L
、 、 、 、 、 、
の伝説﹂であるかのように主張している点に注目し、つ
書評がいずれも、﹃左利き﹄の物語がまるで﹁酋い周知
そこでは、あらゆる精巧な外国製品を改良してしまう
この猿と蚤の話には、同じ理念、同じ調子があり、
という話のような、短い冗談あるいはひと口語である。
の毛皮商人がそれに尻尾をつけて、やっとすわった、
の一文を寄せている。レスコフは“﹃新時代﹄と﹃声﹄の
ぎのように書いた。
803
■
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自己の能力に対する穏やかな皮肉にくらぺて、自慢の
^〃︶
︵旭︶
述ぺている。
当時サルティコーフーーシチェドリーンや、ミハイロフス
利き﹄は同時代の雑誌の書評でどのように取り上げられ
レスコフ自身の﹁文学的釈明﹂が発表されたあと、﹃左
に合わせたレスコフの変り身の速さの結果として、これ
して、﹃左利き﹄の作風についても、時代の風潮に巧み
八八二年六月号︶はレスコフに対する反感をむき出しに
要素ははるかに少ない。⋮⋮﹂
たであろうか。首都ペテルブルグの雑誌に掲載された三
じは説明されているのだが、結論として述べられるのは、
をとらえている。物語の筋を追って、ひと通りのあらす
キイ等が編集を担当していた﹃祖国雑記﹄誌の書評︵一
つの例を見てみよう。まず最初は﹃事業﹄誌の書評︵一
﹁多分彼︵レスコフ︶は、まだリベラルなエデンの園を
八八二年六月号︶である。﹃事業﹄誌は、かつてビーサ
なダンスを踊るのが好きなのだ。このリベラリズムはと
追放されていなかった頃を恩いだして、時にはリベラル
レフの論文﹁ロシヤ文学諸庭園の散歩﹂︵一八六五︶を
掲載してレスコフの長篇﹃行きづまり﹄を酷評した雑誌
も、一八八二年七月号に﹃左利き﹄の書評を掲載してい
スタシュレーヴィチの発行する﹃ヨーロヅバ報知﹄誌
これを片づけている。
^19︶
くに不快である﹂ということであり、結局は軽い皮肉で
﹃ロシヤの言葉﹄の廃刊のあ七、事実上これを継続する
形で発行された雑誌だが、﹃左利き﹄に関してはどちら
かつてのレスコフ︵当時の筆名はステブニツキイ︶の文
る。これは書評というよりは新刊紹介といった感じの、
かと言えぱ好意的に扱っている。﹃事業﹄誌の書評は、
の態度を離れて語り手の立場に尊念しているところに作
学を引き合いに出しながら、レスコフがそうした説教者
コフの役割は、﹁すぐれた速記者﹂に限定して考えられ
シヤ民話の寓意の二重性を見出し、﹁この物語は、西欧
コフによる再話と見たうえで、﹃左利き﹄のなかに、ロ
裏表紙に印刷された小さな記事だが、﹃左利き﹄をレス
ている。書評者はそのうえでいくつかの不自然な一言葉を
文明を必要としないわが民族の超自然的な能力というア
品の成功の一因を見ているが、﹃左利き﹄におけるレス
指摘し、それらは作者による虚構が感じられる弱点だと
804
(25)『左利き』の旅路
一方では、この理論そのものへの意地悪く的確な菰刺を
クサーコフ理論を支持する使命をもつようでありながら、
う主張に関して言えぱ、その後もつよくこだわり続けた
が、﹃左利き﹄が何の伝説にもとづくものでもないとい
ようだ。レスコフは﹁文単的釈明﹂のあと、一八八五年
^20︶
内に含んでいる﹂と 縞 論 づ け て い る 。
でこの主張を繰り返したほか、一八八九年の﹃新時代﹄
^22︶
の﹃処女地﹄誌に発表された﹃いにしえの精神病者たち﹄
﹁作品のなかに数多くある不自然塗言葉づかいをレスコ
以上三つの書評を見ると、﹁無署名で書かれている﹂、
フの失敗と見なしている﹂、﹁小説の前がきを文字通りに
紙に掲載された﹃ヘロデの牢獄について︵編集部への手
憂︺
紙︶﹄でもそのことに触れている。そしてレスコフは、
理解して、作品をレスコフによる伝説の再話と考えた﹂
一八八九年のスヴォーリン版レスコフ著作集第二巻に
﹃左利き﹄を収録するにあたって、さまざまの誤解を生
という点で三者が共通していることがわかる。これら三
つの書評のほか、キエ.フで発行されていた﹃基盤﹄誌も、
る間題は、作者の﹁文学的釈明﹂と前がきの削除で解決
んだ前がきをついに削除した。しかし﹃左利き﹄をめぐ
したわけではなかった。同時代の新聞雑謎の書評と、そ
一八八二年七月号に﹃左利き﹄の書評を掲載している。
を読んでおり、前がきに書かれたような伝説が存在しな
れらに対する作者の反応のあと、﹃左利き﹄の旅は作者
﹃基盤﹄の書評者は、すでにレスコフの﹁文学的釈明﹂
いことを語りつつ、小説のあらすじを説明したうえで、
の死後に持ちこされ、新たな展開を見せるのである。
、 、 、
左利きに加えられた残酷な仕打ちを描写するレスコフの
筆にはある種のシニズムがあり、読後にいやな印象が残
しては、先の三つの書評と同様に否定的であり、それが
らく残り続けていた。レスコフが世を去った一八九五年
﹃左利き﹄の前がきの影響は、レスコフの死後もしぱ
ると述べている。また作品中の言葉の不自然な要素に対
愚かで低俗であることを主張している。
^21︶ 一
レスコフが﹃左利き﹄に対するこれらの書評をどう受
にシュリャープキンは﹁レスコフ伝に寄せて﹂という論
^警
文を書き、作家の生涯を振り返っている。シュリャープ
止めたのか、そのひとつひとつをたどることはできない
805
三
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ードにも触れて、﹁﹃トゥーラの左利きについての物語﹄
のか、という方向で推理を進め、十八世紀のトゥーラ武
ンドンにつ.いての比較的正確な憎報をどこから入手した
説の作者たちが本来知っているはずのない、たとえぱロ
は、N・S・︵レスコフ︶が一八七八年の夏を過,こした
器工場の歴史のひとコマに光を当てている。ズイビンの
キンはそのなかで、﹃左利き﹄が書かれたときのエピソ
セストロレーツクの武器工場の一労働者の話からとられ
見出した事実は以下のとうりである。
泰︶
た﹂と書いている。しかしこれは、作家の息子アンドレ
一七八五年のこと、アレクセイ・スルニーンとアンド
イギリスの武器製造技術を学ぶため、皇帝政府の命によ
レイ.レオンチエフというトゥーラの二人の鉄砲鍛冶が、
ィ・レスコフの聾言と照らし合わせてみても事実ではな
それから十年後の一九〇五年にトゥーラ武器工場のズ
りイギリスヘ派遣された。二人は異境での幾多の困難に
い。
イビン大佐が﹁トゥーラのやぷにらみの左利きと鋼鉄の
耐え、一七八七年に、バーミンガムとシェフィールドを
衆の機知によるものである以上に、さまざまの言葉づか
その価値をいくぶん滅じている。伝説のこの側面は、民
言葉や多くの個所にふりまかれた安っぽい語呂合わせは、
然套言葉づかいについては﹁残念ながら、伝説の凝った
フォークロアの記録と見なしている。小説のなかの不自
公使のヴォロンッォーフ伯爵は兄にあてた手紙︵一七九
援助を惜しまなかったという。ロンドン駐在ロシヤ全権
親方はスルニーンに対しては何ごとも隠さず、あらゆる
礼儀正しい態度により、ノツク親方似友憎をかちえた。
めに成果をあげるべく懸命に努カし、その善良で正直で
て異国で行方不明になったが、スルニーンはロシヤのた
ふしだらな生活に身をゆだねて親方のもとを去り、やが
^26︶
、 、 、
ビンはレスコフの﹁文学的釈明﹂を読んでいない様子で、
蚤についての伝説の起源﹂という論文を発表した。ズイ
訪れたあとロンドンヘ向かった。レオンチエフはその後
いを好んだレスコフ自身によるものである可能性が大き
〇年七月九日付︶のなかでスルニーンについて﹁⋮−彼
小説の前がきをそのままに受取って、レスコフの小説を
い﹂と述べて、これをあくまで伝説のテキストヘのレス
を失う危険性は大いにあります。彼はここで結婚し、こ
^η︶
コフの介入と見ているのである。そこでズイビンは、伝
806
(27) 『左利き』の旅路
の国に定住するかも知れません。ここでは彼の持つ能カ
の故に、英貨二百ポンド以上の年俸を支払うかも知れま
せん⋮−Lと述べている。しかしヴォロンツォーフの心
配は杷憂に終り、スルニiンは一七九二年に無事故郷の
トゥーラに帰って、その後﹁鉄砲関係全事業監督官﹂に
任ぜられ、その豊宮な知識と経験を生かして、トゥーラ
の武器製造業の改善に尽カした。ズイビンは、このスル
ニーンがトゥーラの住人たちに伝説の要素となるイギリ
スの話を伝えたのであり、左利きという人物は、愛国者
、 、 、
のスルニーンと遊び人のレオンチエフの縞合から作りだ
された人物だという仮説をたてている。
. 泰︶
ウィクトル・シクロフスキイは、おそらくこのズイビ
ンの説をふまえて、一九四七年の﹃灯﹄誌でふたたぴこ
の﹁職場伝説﹂を取り上げている。シクロフスキイは、
^29︺
ズイビンとちがってすでにレスコフによる﹃左利き﹄の
てたずね回っていたLことを確認する。﹁レスコフが何
らかのフォークロァ的基盤あるいは何かの暉を知ってい
たことはきわめて明白だ﹂と述べて、スルニーンをめぐ
^29︺
る資料を再検討するのである。スルニーンとレオンチエ
︵30︶
フの渡英に関してはズイビン説を繰り返しているが、シ
クロフスキイはここで、スルニiンが単に銃器製造技術
の習得につとめただけではなく、外交的役割をも果たし
たことを指摘している。工カテリーナニ世の治世にロシ
ヤが黒海へ進出したとき、一部のイギリス人がこれに敵
対的な態度を取った。一七九一年に事態は極度に悪化し、
戦争勃発の危険が生じたが、そのときヴォロンツォーフ
駐英ロシヤ公使は、スルニーンに託して急送公文書を本
国へ送ったというのである。その急送公文書の最後には
スルニーンにふれてつぎのように書かれていた。﹁⋮:
ゥーラーの銃器職人スルニーン氏を通じてお送りします。
この書簡を品行方正にしてきわめて熱練の人物であるト
この人物はあらゆる褒賞に値します。氏は、当地ロンド
前がきの削除とその﹁文学的釈明﹂を承知しており、作
家の息子アンドレイがレスコフ選築︵一九四五︶に書い
ンにて年間二百ギニー余りもの稼ぎが可能であるにもか
フスキイの検討した資料には、祖国戦争︵露仏戦争︶の
かわらず、帰国を望んでいるのです−・−﹂さらにシクロ
^3ユ︺
た﹁注﹂を読んでいるのだが、そのうえで、アンドレイ
の解説を検討し、﹁レスコフは一八八一年五月に伝説を
書いたのだが、その三年前には幾人かの人に伝説につい
807
第六号 (28)
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実在した人物が影をおとしていると述べ、ズイビン説を
は、レスコフの知りえたさまざまの話を通じて、かつて
れたものであることを認めたうえで、左利きの人物像に
シュールコフは、この小説がレスコフ自身によって作ら
四八︶に書いた巻頭論文をあげておかねぱならない。ア
ウーラのやぷにらみの左利きと鋼鉄の蚤の物語﹄︵一九
シュールコフが、トゥーラで出版されたレスコフの﹃ト
ズイビンの論文との関係では、もうひとつ、歴史家ア
けたことが書かれていた。
る︶プラートフ将軍がイギリスを訪れて熱烈な歓迎をう
間伝承であることを示す証拠と見なすぺきではなく、作
﹃左利き﹄がレスコフによって書きとめられた本物の民
イの回想によって再現しながら、﹃左利き﹄の前がきは、
注のなかで、レスコフの﹁文学的釈明﹂を息子アンドレ
バウムは、一九三一年のアカデミヤ版レスコフ選集への
たことは、ここで確認しておかねばならない。エイヘン
して初めて積極的に評価したのがエイヘンバウムであっ
﹁不自然なロシヤ語﹂を、レスコフに特有の小説言語と
ぺての書評者が﹃左利き﹄の欠点として指摘していた
だ﹃左利き﹄との関連で言えぱ、レスコフと同時代のす
問題を含めて、稿を改めて検討しなけれぱならない。た
エイヘンパウムについては、文挙ジャンルや小説言語の
説得カのあるものとして詳しく紹介した。アシュール。コ
品の言語的特色の理由説明と見るべきであると主張して
勝利のあと、一八一四年に、︵レスコフの小説に登場す
フはさらに、レスコフが小説に描いたミニチュァ細工が
いる。レスコフが作中で用いた滑稽塗言葉の多くはいわ
、 、 、
、 、 、
^32︺
トゥーラの伝統として存在していることを語り、一八一
ゆる﹁氏衆語源﹂によるものであり、それに加えて﹁誤
レスコフの﹃左利き﹄の題材が論じられるとき、ズイ
った外国語﹂や﹁合成語﹂など、ありとあらゆる滑稽な
^彗
言語表現がここで用いられていると言うのである。
〇年のドルゴルーキイ伯爵の回想に書かれた、二丁で重
さ十三グラムの拳銃の話、一八三七年のトゥーラの展示
ムか拳銃ρ話を伝えている。
会に鉄砲鍛冶のメドヴユーヂェフが出品した八.五グラ
轟︺
一九二〇年代に﹃左利き﹄の舞台化と並んでレスコフ
の小説を論じ、きわめて示唆的なレスコフ論を展開した
808
(29)『左利き』の旅路
両者の個々のエビソードの類似性は、むしろそのつなが
ながりについては、たしかにこれを否定する根拠はなく、
ルニーンという歴史上の人物とレスコ7の左利きとのつ
説として影響を与え続けてきた。トゥーラの鉄砲鍛冶ス
ピンの論文はおよそ半世紀にわたって、もっとも有カな
藷説を追って進まねぱならない。
能性を留保しつつ、さらに﹃左利き﹄の題材についての
もに、レスコフの物語の一要索としてのズイビン説の可
われわれとしては、リトブィーンやブーフシュタブとと
んでしまうこと、などの相違点を見出すことができる。
しかもロシヤではその思いが無視されて孤独のうちに死
、 、 、
りの可能性を暗示している。しかしズイビンの主張する
フォークロァの語り手︵ストロレーツクの年老いた鉄砲
見られる﹁物語の語り手の役割を担ったひとりの登場人
正確に指摘しているように、レスコフの小説にしぱしぱ
手﹂というのは、リトヴィーン女史やブーフシュタブが
できない。﹃左利き﹄の前がきに書かれた﹁伝説の語り
にするものではない.が、ズイビン説の乎がかりからみて
再話と見る短絡した解釈は﹃左利き﹄の創作史を明らか
んでいる。﹃左利き﹄をレスコフによるフォークロァの
者自身も、小説の中でこれを﹁職人たちの叙事詩﹂と呼
んどすぺての批評家、研究者によって語られており、作
フォークロァの関係については、作品の発表時よりほと
これまでに見て来たように、レスコフの﹃左利き﹄と
物﹂なのだ。またズイピン説とレスコフの﹃左利き﹄を
も、レスコフの創作σ背景にフォークロアか何かがあっ
鍛冶︶の実在については、そのままこれを認めることは
比較すると、第一に、スルニーンが武器製造技術を挙ぷ
て、それが﹃左利き﹄の題材や人物の生れる土壌になっ
、 、 、
^班︶
ためにイギリスヘ派遣されたのに対して、左利きは鋼鉄
たという可能性は十分に残されている。
た時期に設定したのは偶然ではないと述ぺ、﹃左利き﹄
コフが﹃左利き﹄の舞台を一八二一年の祖国戦争が終っ
がりに新たなメスを入れている。リトヴィーンは、レス
^舶︺
リトヴィーンは、﹃左利き﹄とフォークロアとのつな
の蚤をたずさえて、言わぱ賓客としてイギリスを訪問し
、 、 、 、 、
たこと、第二に、スルニーンがヴォロンツォーフ公使の
委託によって急送公文書をロシヤに届けるという外交的
、 、 、
使命を果たしたのに対して、左利きは誰の委託にもよら
ず、ただロシヤを愛する気持から﹁秘密﹂を持ち帰り、
809
のなかのプラートフ将軍の描き方がフォークロァとのつ
^η︺
の民話や伝説を知っていたことは、彼の同時代人によっ
詩のかたちで広く伝えられており、そうしたフォークロ
ばセミ目ーノフ連隊の兵士の歌のように、数かずの歌や
敗退させたロシヤ軍兵士やコサック兵の思いは、たとえ
過.こしたオリョール地方でも採集されており、レスコフ
箪や祖国戦争に関する伝説や歌謡は、レスコフが幼時を
説を知っていた可能性はつよい。またこのプラートフ将
広範な地域に広まっていた祖国戦争にまつわる歌謡や伝
けでなくモスクワ郊外、北方、ウラル、ウクライナなど
ても証言されており、そのレスコフが、 コサック地方だ
^仰︺
アのほとんどがドン・コサック隊長プラートフの戦いぷ
の知人で彼が回想を残したオリョール出身のヤクーシキ
ながりを予想させると言う。祖国戦争でナポレオン軍を
りを称えている。民衆詩や歌謡のなかでプラートフ将軍
てトルコ製の剣を贈ろうとする場面がある。プラートフ
の物語のなかに、イギリス国王がプラートフ将軍に対し
る。たとえぱ一八二一年の祖国戦争についてのコサック
き﹄のなかのプラートフ将軍の役割と重なり合うのであ
る。こうしたことから判断して、レスコフがこのフォー
︵雀
クロァを知らなかったと考えることは困難である。
歴史歌謡集﹄第十分冊︵一八七二︶にもおさめられてい
五年に増補再刊︶、キレーエフスキイの﹃ブィリーナ.
ンが編んだ﹃ロシヤ民謡集﹄︵一八六〇。その後一八六
^鎚︶
はそれに対して、﹁いや、英国国王陛下、陛下の剣がい
リトヴィーンは、プラートフ将軍についてのフォーク
ロアのほか、、レスコフが左利きのイギリス滞在の描写に
用いたであろう資料として、ドン・コサック兵のゼムレ
葛︶
ヌーヒンが語ったロンドン滞在の話を提出している。こ
ちには私たちの武器職人がおり、彼らはお国の職人より
贈物をもってしても、﹁母なるロシヤ﹂のみに仕えてき
れは、ぜムレヌーヒンがドン・コサヅク隊長プラートフ
したものとして雑誌に発表されている。ナポレオン軍に
^糾︶
将軍に語った話を、当直申佐クラスノクーツキイが記録
たプラートフの心を買うことはできない。こうした描写
レスコフがフォークロアの専門家も知らないほどの多く
はたしかに﹃左利き﹄のモチーフとつながり合っている。
^39︺
も腕利きです﹂と答え、イギリス国王はいかなる金銀や
、 、 、
かに立派でありましょうとも、私には要りませぬ。私た
^41︺
第八十九巻
は勇敢な愛国者として登場しており、その役割は﹃左利
第六号 (30)
橘論叢
810
(31) 『左利き』の旅路
対するロシヤ軍の勝利に際してロンドンヘ派遣されたド
ン.コサヅクの兵卒ゼムレヌーヒンは当時六〇歳だが、
その話は、船がロンドンに着いたその日からゼムレヌー
ートフ将軍は彼を皇帝アレクサンドル一世とプロシア国
王に引き合わせ、さらに多額の褒賞を与えた。
^45︶
リトヴィーンは、それらの資料を総合して、レスコフ
の﹃左利き﹄の題材と主人公たちは独特の﹁文学的合金﹂
であり、そこには、すぐれた職人についての言い伝え、
ヒンが受けた熱狂的な歓迎ぷりを詳しく伝えている。劇
場へ行くと観客が総立ちになってロシヤ皇帝とゼムレヌ
鋼鉄の蚤についてのひと口話、ナポレオン軍との戦いの
時期についての回想など、さまざまの要索が含まれてい
ーヒンとプラートフ将軍の名を呼び、万歳を叫んだこと。
貴族たちがこぞって彼を自宅に招待したこと。国王の招
こには左利きに似た一面が感じられる。さらに、イギリ
がらのやりかたで敵をやっつけるのだと述べており、そ
場での技術について語りつつ、自分は無学なので生れな
どが生気ある言葉で語られている。ゼムレヌーヒンは戦
数千人の見物人の前で乗馬技術を披露したこと。ーな
以上の共通項は見当たらない。レスコフがこの物語をど
てロンドンを訪れ、どちらも似た反応を示した﹂という
には﹁プラートフ将軍に関わりのある一庶民が賓客とし
であるとはいえ、両者の話の骨組みを比較すれぱ、そこ
ど、﹃左利き﹄との類似性はたしかに興味深く、示唆的
うに思われるのだが、たとえぱゼムレヌーヒンの物語な
ると緒論づけている。穏当なこの縞論には問題はなさそ
^価︺
ス人たちが、ゼムレヌーヒンが六〇歳の老人でなく家族
のようにして知ったかという伝達経路についても、かな
待宴に招かれ、国会では議員たちの出迎えを受けたこと。
持ちでなかったら、イギリス人の妻をめとらせてイギリ
らずしも納得のいく説明はなされていない。そうした問
、 、 、
スに定住させるところだったという話、ゼムレムーヒン
魑点を残しつつ、﹃左利き﹄をめぐる問題はブーフシュ
タブに受けつがれるのである。
^〃︶
が何としてもロシヤの地で死にたいと望んだという話も、
、 、 、
左利きの描写によく似ている。ゼムレヌーヒンは、帰国
後ただちにドン・コサヅク隊長プラートフ将軍のもとへ
出頭した。彼はイギリス製の銃をたずさえており、プラ
811
第六号 (32)
第八十九巻
一橘論叢
ブーフシュタブは、このひと口語がはたしてこのままの
^49︶
形で実在したのかという凝問を投げかけている。もしも
としてのみ理解できるのであり、背最の小噺無くしてこ
これが実在したのであれぱ、小説の筋から言って、この
れが形成されることはない。トゥーラ地方には、古くか
^50︶
ら﹁蚤を鎖にしぱりっけた﹂ということわざがあり、前
ブーフシュタブは、論文のなかで諸説を検討したあと、
大金で買い“その場に居合わせたトゥーラ武器工場の職
掲のズイビン論文にも﹁トゥーラ人は蚤に蹄鉄をうち、
ひと口話が﹃左利き﹄の基本構造のほぼ全体にかかわっ
工にそれを見せた。職工はビストルを手に取って撃鉄を
^侶︶
はずし、ネジの下にある自分の名を見せた・⋮:﹂という
鎖につけた﹂ということわざがエビグラフに使われてい
﹃左利き﹄に用いられたひとつの小噺を紹介している。
内容の小噺である。レスコフはこの小噺をロンドンでの
た。だがことわざから見る隈り、蚤はあくまで生き物な
ていることになる。しかしこのひと口話は、小噺の要約
エビソードに使っている。もちろんこれは小説のなかの
のであって、レスコフがひと口話で語る﹁鋼鉄の蚤﹂で
ているかを考察する。レスコフは﹁文挙的釈明﹂のなか
フの﹁文学的釈明﹂にたちかえり、そこで何が述ぺられ
作の小説に合わせて作ったものではないかと推理してい
をうった﹂ということわざをもとに、レスコフ自身が自
は、おそらく実在したであろう﹁トゥーラ人は蚤に蹄鉄
とわざなども検討したうえで、レスコフの言うひと口話
はない。ブーフシュタブは、さらに﹁猿﹂についてのこ
^肌︺
で、﹃左利き﹄とフォークロァの関係を全面的に否定し
人たちはこれに蹄鉄をうち、それを送り返した﹂という
き、その真偽を正確につきとめることはほとんど不可能
が民衆静の大家であるレスコフによって語られていると
る。小さなひと口話を対象にして、しかもこのひと口話
壼︶
ひと口話から出発していることを述ぺているのである。
想が﹁イギリス人は鋼鉄で蚤を作ったが、わがトゥーラ
ているわけではなく、むしろその逆で、﹃左利き﹄の構
っぎにブーフシュタブは、﹃左利き﹄をめぐるレスコ
ではない。
一エビソードに過ぎず、﹃左利き﹄全体にかかわるもの
要約すれぱ、﹁:⋮・ある貴人がイギリス製のピストルを
五
812
(33)『左利き』の旅路
これは﹁B・B・﹂のイニシャルで一八三四年の﹃北方
発見し、その扱いをブーフシュタブに委ねたのである。1
究のために音の新聞を調べていて、このフェリェトンを
けたのはサヴィノフという芸術学者だが、彼は自分の研
つぎのようなフェリェトンを紹介している。これを見つ
が、その調査の過程で﹁偶然﹂に出会ったものとして、
っっ、さらに﹃左利き﹄の題材をもとめて調査を続けた
だと考え、ズイビンやリトヴィーンの説の可能性を認め
き﹄の基盤としてことわざ以外にもまだ何かがあったの
ブーフシュタブは、ひと口話を検討したあと、﹃左利
ブの推理は有効だ主言えよう。
に近いが、ことわざの機能を考えるとき、ブーフシュタ
イギリス人はこれに大金を出す用意があるという。こ
ろんこんな錠前は不要なものだが、稀有な出来栄えで、
ず、ただ両手と普通の工具でこれを作ったのだ。もち
展示会に出品されたが、ユニーツィンは、機械を使わ
使って錠前をあけてみせた。この錠前は一八⋮二年の
放された。男はそのごつごつした手でちっちゃな鍵を
えないほどの小さな錠前がいくつも見つかり、男は釈
官が男の自宅を捜索したところ、拡大鏡を使わねぱ見
紳士はその無礼さを怒り、男を響察につき出した。警
ニーツィンは、紳士を自宅へ連れて行こうとしたが、
この男は気違いではないかと疑う紳士に腹をたてたユ
ど小さな、鍵つき錠前を作ることができると自慢した。
ゾロトニク︵約四・二六グラム︶という軽さの、蚤ほ
れは自然から学んだこの職人のすぐれた能カを証明す
、 、
の蜜蜂﹄紙第七十八号に書かれたフェリエトンであり、
要約すれぱつぎのような内容である。
法を犯した様子もない。これはイリヤ・ユニーツィン
の男が連れられてきた。酒を飲んでいる様子もなく、
る。しかし一八三四年という半世紀近く前の新聞に掲載
﹃左利き﹄に通じる要素を持っていることは明らかであ
これが、錠前と蚤のちがいはあっても、レスコフの
︵“︺
るもので、注目に値する。
という男で、ある日路上でひとりの紳士が彼に会ウた。
されたフェリエトンをなぜレスコフが知っていたと考え
一年ほど前にモスクワ警察の留置所に背の高い赤ひげ
ユニーツィンは紳士に対して、自分は、一四〇個で一
813
第六号 (34)
第八十九巻
一橋論叢
られるのか。ここでブーフシュタプは、フ呈リェトンの
﹁B・B・﹂が、オリ目ール生れの作家ウラジーミル・ペ
界﹄紙発行人コマローフの家でブルナーシェフに出会っ
ており、ブルナーシェフの死の直後にレスコフは、彼の
などのうち、とくに珍しい、叩きあげの名人を追うこと
で、彼が一八三四年当時にロシヤの職工、紬工師、商人
回にわたって回想記を連載しており、その回想記のなか
ブルナーシェフは、一八七二年の﹃ロシア報知﹄誌に八
ブーフシュタブの探求心が呼び寄せた偶然と圭言えるも
ンとの出会いを﹁偶然﹂と呼んでいるが、しかし二れは
そらく確実だろう。ブーフシニタブは、このフェリェト
利き﹄とブルナーシェフのフェリェトンのつながりはお
﹃歴史報知﹄誌に﹁ロシヤ最初のボヘミアン﹂という論
^脆︺
文を書き、ブルナーシェフの生涯をたどっている。﹃左
手もとに残されたブルナーシェフ自身の回想をもとに、
に夢申だったこと、そして生粋のロシヤ育ちのさまざま
ので、レスコフの﹃左利き﹄の背景にさらにひとつの要
トローヴィチ・ブルナーシェフ︵一八二一−一八八八︶
鼻︶
のペンネームのひとつであったことをつきとめている。
な職人たちについての一連の記事を﹃北方の蜜蜂﹄紙に
素がつけ加えられたのである。 、
レスコフとブルナーシェフの関係はそれだけにとどまら
の﹃北方の蜜蜂﹄紙を調べ直した可能性はきわめて高い。
が、ブルナーシ呈フの回想を手がかりにして、半世紀前
隠れた名人たちにつねに関心を抱き続けてきたレスコフ
掲載になっている。こうした事実から見ても、ロシヤの
は、ブルナーシェフの回想記と﹃僧院の人ぴと﹄は同時
ており、一八七二年の五月号、六月号、七月号について
この﹃ロシヤ報知﹄誌に長篇﹃僧院の人ぴと﹄を連載し
テリーじみた話だが、著作集版︵一八八九︶で作者によ
扱うかという問魑が今なお残されている。いささか、ミス
いるのだが、それ以外にも﹃左利き﹄のテキストをどう
うに﹃左利き﹄の題材をめぐる探求はなおも続けられて
人蔵書にもあるアファナーシエフの﹃ロシヤ伝説集﹄を
︵㎝︺
﹃左利き﹄の題材のひとつとして説明している。このよ
を書き、もう一度この問題を検討し直し、レスコフの個
﹃左利き﹄の民衆詩的源泉の間題によせて﹂という論文
ブーフシニタブのあとにもクヂュロフが﹁レスコフの
一 ︵砧︺
載せたことを書いている。しかもレスコフは同じ時期に
ない。レスコフは︵おそらく一八七八年に︶﹃ロシヤ世
814
(35)『左利き』の旅路
って削除された﹃左利き﹄の前がきが、じつはレスコフ
の死の前年に刊行されたスタシュレーヴィチ版の単行本
﹃トゥiラのやぷにらみの左利きと鋼鉄の蚤の話﹄︵一八
、 、 、
九四︶では、ふたたぴテキストに復活しているのである。
これを作者レスコフによる前がきの復活と判断するのは、
︵躯︶
︵3︶9.望9彗︷喜⋮9彗酢So墨買⋮畠完畠O君o−
宙o宍o﹃o宍勺国曽.Oio戸Hoooガo↓PH0りー−ご.
︵4︶ 拙稿﹁レスコフ文献考﹂︵コ言語文化﹄十八巻、一九八
︵5︶ >一団o自﹃曇G︷宝芦=.O.自oo−^o団.O=α1−Hooooo.
一︶を参照。
︵6︶芦﹁暑実葦工.ρ幕員o団.−団彗∴き﹁o惇彗評
oo昌.8声舳ωol⋮;竃!↓ーミー;二岩3一〇︷1N轟1
^的︶
^ 6 0 ︶
ブーフシュタブの調査結果から見ても、レスコフの晩年
N宝.但し初出はベルリン版レスコフ選集︵一九二三︶。﹃世
︵7︶O童1β閉.ρ8毒⋮彗ξ︹雰畠負婁ξ岩毒oH−
邦訳がある。
界文学大系30﹄︵筑摩書房、一九六九︶に福岡星児氏による
の発言から見ても難しいかも知れない。しかし﹃左利
き﹄の前がきが削除された経緯をすでに知っているわれ
われとしては、前がきの削除を作者の最終意志として受
毘==匡鐵富彗o回↓o勺o酢=︹o団oo重仙==os﹃ 団宍=二
きo員富唄暮×︸ト9寄︹畠艘︷亭養↓塞岩u曽君芦き一H0豊一
け入れ、それで問題を解決済みとしてしまってよいので
あろうか。それよりも、作者の本来の構想を考えて前が
〇↓p−α1α午
莞o富ρ1︸一︷=一一団﹄o宍画一筥o−畠ーご一
︵11︶ 軍ω芽而=αξ窒−自①臭冨匡自=完勺胃着彗価量君≧冒−
︵oα毛⋮宍S胃9︶‘自.一H竃“︹︷1ω1旨.
︵10︶ 両胃.ω婁彗⋮−=岩Oト亭一錺↓竃老.1ω彗.一団昌o養
一九八三・一・一︶にその記述がある。
明氏﹁ネヴァ川氷上のグリャーニェ﹂︵﹃出版ダイジェスト﹄
氏﹁モスクワの縁目﹂︵﹃なろうど﹄ユ、一九七九︶、坂内徳
︵9︶ ﹁ナロードノエ・グリャーニエ﹂については中村喜和
0Hp−︷α−H阜N1
︵8︶芦>⋮⋮戻暮.幕員富員8o蓋i雪﹃ρきし§一
きを復活させ、これを小説のコンテキストのなかで読み
とる方をこそ選択すべきではないだろうか。こうした問
ある。
題を孕みつつ、﹃左利き﹄の旅はまだ終っていないので
︵1︶ 軍コ.号雪畳匡雷一δ.甲コ君曽勺冨Iik8彗①冒o−
〇↓pH㎞ω.
自o団圭月匡一目o﹃o呂o尻国呂一︷勺﹃冒彗匡①睾弓団美G圭声きJ岩s一
かの版の注で﹃ルーシ︵勺kε︶﹄を薙誌と書かれているが、
︵2︶ 国立文芸出版所版レスコフ著作築第七巻ほか、いくつ
これは新聞である。のちに月二回発行になった。
815
第六号 (36)
第八■ト九巻
一橘論叢
︵12︶芦>⋮⋮戻鼻寿臭o男宍鳥o養潟亭9SPH秦
∼︹臭竃昌岩⋮p崖員着長sp婁1。。H㎞.
︵24︶=−>.昌;臭⋮﹄α彗︷喜⋮工一ρ寿臭畠凹一1
N︷NlM卓ω.
︵16︶ ﹃新時代﹄と﹃声﹄の書評については、全十一巻レスコ
すぺて金十一巻レスコフ著作集第七巻の注のほか、アシュ
但しこの論文は未見であり、ズイビン論文に関する個所は、
O−︺k美oヰ=﹃尋 ︹αoo=宝戸 乞o仰O↓トo自“0HPHl㎞oo.
鳥這﹃;ξ亭具暑竃︹昌当竃罵=︹畠亭彗齪9冥ρ
︵26︶ρ>.ω邑姜−ξ昌臭妻ト而≡而o蔓蓋音呈﹃竪完・
︵%︶↓婁義一昌勺.昌H.
︵13︶Oo号︹呈≡1ρ幕臭o墨宙旨−皇8墨メ↓・N・
︵14︶ ooαpoo‘一=一〇.自oo害o宙o.団H一1↓=↓o≡画戸 ↓一−戸
芦し旧員昌pおp
︹↓勺■ N血oo.
︵∬︶oo号8声=.ρ寿冥o塞回↑τ畠・o⋮買一↓・﹀
フ著作集第七巻の注およぴブーフシュタブの著書︵後述︶
︵27︶ワ迫.団凄E畠α1書完喀ξ勺冨9焉臭需召o畠£o墨・
ールコフ、プーフシュタブ︵後述︶の引用による。
o↓呵.阜ooo1阜旧o.
による。
⋮饅−芦し湯♪︹︷.NN.
︵〃︶ 工.O−当8尻o甲Oo︸R宍o雪自何回E①︵昌匡完i胃︸勺=oo
︵28︶ ここで﹁おそらく﹂と書いたのは、シク回フスキイが
oα室畠畠罵︶. 団彗:oo昌.8手=o−寿冥畠p↓.
P昌pNS1§o.
論文でズイピンに言及していないからである。
ω竃畠竃書宕o呈ω員婁=↓震⋮尭戻婁o⋮oE畠姜.き.一
Hooミ.及ぴ﹁団竃⋮①自﹃.O目雪9==⑭↓k自﹃︹宍o;oi︸美o緕=o﹃o
︵30︶ コーO団宙宝︸亭==.両美o員而==匡oω国目=o丙呂宙自o=■o=olOコα’
9畠賀し碧“き長宝鼻昌pHα.
︵29︶ 匝−E丙自o呂宍宝芦oαo■=o団月何xo団o鐵自雪⑭=ト⑭一1
︵18︶ま窒=姜;. 貝99崖。。“芸9Sp§1
,8p
︵19︶ 工o宙匡o尻=宝﹁=l O↓o’o︹↓団o==匡①墨目宝o宍畠一Hoooo“
嵩 瓜−︹↓勺.∼ωNlN伽o.
︵20︶望α蔓o曼嘗毒臭蔓畠o↓冥・ 思昌⋮宍爵勺昌F
冨。。“蕃N一竃崔彗o3婁戻凹.
o﹃o罵5蕃Hρ室鼻岩貞o宅.−α.
︵飢︶ 軍E宍自o回o戻;評oαoト=oヰ月oxo国o註自o篶雪トo.
︵32︶ シクロフスキイはこれらの題材を用いて一九五〇年に
−o0Nひ一
oo■=’O.自伺︹尻O団P↓1“︹↓o.︷企ooI卓岨−一
一篇の小説︵、6童竃篶勺賢胃岩⋮亭豪−N↑占1−oo嵩.、︶を
︵21︶=冨毒彗匡;. <昌畠一畠。。N一きN二掌Sよ−・
︵23︶ =IO.自9尻o甲Oα=℃oト団o錺 ↓o雪==月⑭ーコ呂︹﹃;o宙
︵22︶工.ρ寿臭昌−9毫彗≡・弓昌妻o冨⋮1 0o号
、oト団宍月=δ OOαi ︹o’ー工.O・きoO︷O宙♪ ↓・ H戸 o↓?
816
(37)『左利き』の旅路
婁勇δ婁窒o害ξコ⋮oξ§蔓⋮婁烏毫写室
コO誉O責畠=実量否胃=冥k⋮︷⋮. ∼︹臭葦匝9H−
書いている。
︵33︶軍>ξ嗅畠−寄∼昌H雪畠竃S胃;︵α蟹雷ω回彗彗︶.
⋮5崖ぷ⋮−=コ︷雪而畠畠雪o美署畠萬.、∼o臭富
また、本稿で取り上げられなかった一九二〇年代のヴィ
筥o.N3IN讐’
宕O。♪SPSlH昌。この論文の初出はi宗賃竃蔓篶寝1
宰o秦し胃︷胃着o寄崔而o窒二胃富£畠彗⋮.芦一
︵〃︶団﹄−身昌冨α.Oα⋮。’⋮嚢・幕昌㌻寿戻畠国.
︵伯︶④−O.;畠⋮一SOL塞’
︵帖︶ ﹃ロシヤの昔︵ルースカヤ・スタリナー︶﹄誌版による
筥岩彗畠。、し8仰き画員SpN嵩−曽N.
=.ρ寿賃冨lO嚢o↓さ︸戻畠彗8童寿≡o;
o§亭雪鐵2婁①・身富一H婆一ξ・ω1鼻
ノグラードフによる﹃左利き﹄の﹁語り﹂の研究も、稿を
︵㌻工.O﹄蓑冨﹄喜⋮・實。姜嚢彗.室.1き岩ωポ
︵鮎︶ 本稿の注︵36︶および︵〃︶を参照。
あらためて検討されねぱならない。
︵“︶ ↓団重美9o↓甲ooα.ブーフシュタブは、プロヅクガウ
︵50︶↓姜姜一s勺﹄ω.
︵49︶↓姜秦一8〇二Nl
︵48︶↓姜秦一筥勺二9
筆訂正がある。
H毛戸註ゴー8ナ8Pおー塞.だが、薪版では多少の加
︵%︶ω.ρ暮畠⋮19亭雪o写毒書昌圭奏雪.、O竃竃o
々亭冥婁匿o婁自畠目耐宝os竃;島9o常、、;ρ
寿臭o墨. ∼套婁号昌実自op曇p↓.戸;勺.曇1
︵η︶↓姜養二↓OL鼻
ご占一
スーーエフロン百科辞典やパヴロフスキイの著書︵団.団■
︵39︶↓婁美9SP畠o.
︵38︶↓婁萎一筥勺﹂轟1ご9
畠何⋮o吋曽完ミ潟=団・岩o崔o緕重kもoo畠.戸曇o.︶
;昌畠臭葦コ婁彗昌O;毒員毒;畠呈=着O美撃
を援周して、アトラクシ目ンとしての蚤のダンスや蚤の劇
︵40︶β与−奉靹岩↓﹄胃︷胃k写匡薫睾彗二〇1彗£畠−
↓.“奇.烏君竃一8p岩.
春零s畠o貫g↓墨昌畠由=員g宍さ;巻匡しoご一
︵42︶↓姜美ρ昌Pごω.
︵弘︶↓蔓嚢一s勺.ま−oN.
が掲載されている。
︵鴉︶ ↓彗美ρ昌P竃−買。ブーフシュタプの著書には全文
︵兜︶靹﹄.靹凄≡畠9S、﹂ひ‘
場があったことを指摘している。
︵43︶↓姜秦一S勺L竃IH実1
︵41︶①.01⋮畠⋮一8Pご−.
︵μ︶i§§嚢婁>蓑o畠ξ団ω窒亮︷⋮冨・温号k
817
第六号 (38)
第八十九巻
一橋論叢
︵∬︶ ①−コ.団毛竃E雷−寄昌o⋮毒⋮量oα当轟ε婁宝ω
重O竪畠S=O緕=昌k美&=O罫トω胃彗=δO⋮HOO宝−−OOωO・
1i毛臭蔓需o皇奏一畠一N一蕃夕昌℃・お・
︵“︶ =.o.当oo弄o宙−コoi回o=o月 αo﹁①⋮匡 団 、ooo匡戸1
=3oo雪焉實宮酢需︹⋮臭一Hooooo〇一苔p㎞宝1㎞寒・
但しリトヴィーンやプーフシュタプの説を否定するクヂ
ュロフの見解は余りにも二固的で説得力はない。
︵59︶ Ooαマ︹o’1=.O.当而︹居o団P↓・“︹↓P阜旧o・
︵㎎︶ 芦>=⋮=臭=芦﹄実畠臭冨o美何潟亭ρ︹宅・H含・
︵60︶ 本稿の注︵22︶および︵23︶を参照。
付記 ﹃左利き﹄の邦訳は、清水邦生氏訳﹃名工左きき﹄
︵講談社 少年少女世界文学全集31、一九六〇︶と安藤
︵〃︶ >.只宍kトδo畠.ス呂暑o2o=署g雪.=8⋮亮戻妻
胃↓冥買.、幕田目宝、.=.o.毒冥o墨.1団昌oo呈胃;o⋮
厚氏訳﹃左利き﹄︵﹃NABAE﹄5、 一九八一︶のふた
︵一橋大挙講師︶
つがある。
=篶oo⋮皇↓︷胃篭匡一匝﹃ヨー♪二雪劃⋮臭一Hまo。一sp
H0NlH]lN.
818