「いつの日か、 雲の彼方でお会いしましょう」 城 達也 Tasuya Jo ディスクジョッキー、声優、俳優 一九九五年二月二十五日没(六十三歳)、食道がんの肝臓転移 ラジオ深夜番組「ジェットストリーム」は一九六七年七月三日、東海 大学の実験局、FM東海の試験放送として始まり、七〇年四月二十六日 にFM東京の本放送となった。月曜日から金曜日まで深夜0時から一時 間の帯番組で、イージーリスニング・ミュージックの合間に語りが入る。 語り手をディスクジョッキーではなく「パイロット」と呼んだのは日本 航空の提供番組で、スタジオを旅客機のコックピットに擬したからであ る。「パイロット」は本放送以前から九四年十二月末まで城達也がつと めた。 「ジェットストリーム」は、ほとんど主題音楽のような「ミスター・ ロンリー」で始まり、そこに城達也のナレーションがかぶった。 2 城 達也 「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休めるとき、はるか 雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げてい ます」 城達也が読むテキストは一九六〇年代末から七〇年代にかけて、日本 の 若 い 世 代 の 強 烈 な「 旅 情 」 を 誘 っ た。 「夜間飛 行」という言葉が、 サンテグジュ ペリの小説や香水の銘柄から離れたリアリ ティを感じさせた。 城達也の声はつづける。 「満天の星をいただく果てしない光の海 しじま を、豊かに流れゆく風に心をひらけば、き らめく星座の物語も聞こえてくる夜の静寂 「いつの日か、雲の彼方でお会いしましょう」 3 まぶた じょうぜつ の、なんと饒舌なことでしょうか。光と影の境に消えていった遥かな地 平線も瞼に浮んでまいります」 テキストを書いたのは試験放送時代から放送作家の堀内茂男だが、彼 は外国へ行ったことがなかった。みな想像だけで書いた。聞いた私は、 外国はおろか飛行機に乗ったことさえなかった。 「外国」という「物語」 若い世代で飛行機に乗ったことのあるものは当時、少数派だった。ま して国際線となると。 「 ジ ェ ッ ト ス ト リ ー ム 」 がF M 東 京 の 本放 送と な る ひ と 月 前 の 七 〇 年 三 月 三 十 一 日、 「 赤 軍 派 」 の 青 年 九 人 が 日 本 航 空 の 国 内 線 旅 客 機「 よ 4 城 達也 ど」号をハイジャックして平壌に「亡命」した。 実はその四日前がハイジャック本来の決行日であった。しかしチケッ トさえあれば大丈夫とチェックイン手続きを怠り、ボーディングパスを 手にしなかった一部メンバーが搭乗できなかったため、急遽中止した。 福岡まで行った者たちは、もう日本円はいらないと前夜の食事とタクシ ーの運転手へのチップで無一文になっていたので、九州大学でカンパを つのって帰京した。三月三十一日は再実行の試みだったが、すでに何人 か欠落していた。 彼らは最初キューバに行くつもりだった。しかし遠すぎるからと北朝 鮮にかえた。だが彼らの手元にある北朝鮮の資料といえば教科書地図帳 だけだった。ハイジャック事件に対応した政府・警察も似たようなもの 「いつの日か、雲の彼方でお会いしましょう」 5 だった。 日本人の興味の対象外の謎の国にすぎなかった北朝鮮で戦闘訓練を受 けて帰国し、日本で武力革命を実行するというのが彼らのもくろみであ ったが、飛行機の乗り方にしろ彼らはまったく不用意だった。 「よど」 号の犯人の青年たちは悪人ではなかった。むしろ善人だった。しかしそ の善人のうかつさのために後半生を棒に振った。 「 ジ ェ ッ ト ス ト リ ー ム 」 で は 音 楽 の 合 間 に、 旅 心 を 誘 う「 小 さ な 物 語」をはさんだ。そのテキストも堀内茂男が書き、城達也が読んだ。 堀内茂男のセンスで再現を試みると、たとえばこんなふうになる。 「……パリ北駅近く、ギヨーム・アポリネール通りに面した老夫婦が 6 城 達也 しゃ 営む小ぶりなホテル、サン・スーシ。その三階の角部屋に長逗留してい る、わけありらしい若い女。窓辺の紗のカーテン越しに見える彼女の影 が、なぜだか宵の口から動かない」 「……南フランス、アルルの街の舗道を夕立が通り過ぎ、真夏の太陽 のほてりをさます。客が退けたカフェテラスのひさしの下、中年ギャル ソンがひとり、柱にもたれて板張りの床に咲く雨の花を所在なさげに眺 めている」 夜間飛行のイメージにしろ、ヨーロッパの街区のスケッチにしろ、堀 内茂男は想像だけで書き、外国を知らないリスナーが聞いた。一九七〇 年代に欧州貧乏旅行に出かけた青年たちの何割かは「ジェットストリー ム」の幻を見に行ったのだろうと私は思う。 「いつの日か、雲の彼方でお会いしましょう」 7 六〇年代前半、 「恋のバカンス」 「ウナ・セラ・ディ・東京」 (ザ・ピー ナッツ) などで日本の歌謡曲シーンを転換したモダニズム作詞家岩谷時 子も、外国を舞台とした詞を多く書いた。しかし彼女は外国旅行が嫌い だった。たしか九十七年の生涯でハワイに一度行っただけのはずだ。現 地を体験していないからこそ「リアル」というパラドクスが、ここにあ る。 一方、岩谷時子の盟友というべき越路吹雪は、世界中を旅した。そし て、世界中のどこでも現地の男たちにモテた。リオデジャネイロで越路 吹 雪 を 口 説 い た 伊 達 男 は「 夜 明 け の コ ー ヒ ー を い っ し ょ に 飲み ま せ ん か」と誘った。そんな挿話をもとに岩谷時子は「恋の季節」 (ピンキーと キラーズ) の詞を書いた。 8 城 達也 「戦後という時代」終る 早大仏文科を出た城達也は、最初俳優を志した。しかし声の聞きよさ から声優に転向、グレゴリー・ペックなどの吹き替えを担当した。しか し「ジェットストリーム」の「パイロット」として定着したのちは、俳 優・声優の仕事をむしろ避けた。 と 一九九四年一月、食道がんが見つかった。即刻入院を勧められたが、 入院中の放送分を気にした城達也はナレーションの録りだめに固執した。 通常は一週間に五本録音するのだが、このときは十五本ずつ録音して、 十分なストックをつくってから入院した。 退院は九四年六月。ストックが切れかけていたので、すぐ仕事に復帰 「いつの日か、雲の彼方でお会いしましょう」 9 した。しかし二ヵ月後、肝臓への転移がみとめられた。 最後の放送は九四年十二月三十日、 「ジェットストリーム」第七三八 七回、「パイロット」の最後の言葉は、 「いつの日か、雲の彼方でお会い しましょう」であった。 城達也が亡くなったのは九五年二月二十五日、阪神大震災とオウムに よるサリン事件をきっかけに日本社会が変質しようとする、まさにその 渦中であった。享年六十三。 「ジェットストリーム」における城達也の 声の終焉とともに、ヨーロッパから「憧れ」という要素がはがれ落ち、 「戦後」という時代も完全に終ったのである。 10 城 達也
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