61号(06月27日発行)

札幌月寒高等学校 2学年通信
第61号
平成26年 6月27日発行
文責:6組副担任 原田牧夫
予
定
月日
6/30
7/1
7/2
7/3
7/4
曜 1校時
月
火
水
木
金
2校時
平
平
平
平
平
3校時
常
常
常
常
常
4校時
授
授
授
授
授
5校時
6校時
7校時
備
考
業
業
業
業
業
LHR
連絡事項
学校祭準備の時期です。生活のけじめ・貴重品管理・健康管理・交通安全等の自己管理を確実に。
今回は数学で書きます。(裏面まであるぞ!人間、我慢が大切だ。)
モノの集まりを「集合」と言いましたね。集合というのはおそらく数学のなかで一番シンプル
な概念でしょう。たかがモノの集まり、と思うかもしれませんが、数学には「集合論」という「モ
ノの集まり」だけを専門に扱う分野があります。この分野はシンプルなだけに深く、数学の他の
ほとんどすべての分野の基礎となっています。たとえば自然数の定義すら、集合論の土台の上に
つくられているのです。
高校で扱う集合は、ほとんどが要素の個数が有限個の、いわゆる有限集合ですが、実数全体の
集合のように要素の個数が有限でない無限集合もあります。実は無限集合の要素の個数の無限個
の度合いにはいろいろなレベルがあります。たとえば自然数全体の個数と実数全体の個数は、ど
ちらも無限ですが、実数全体の個数のほうが「大きな無限」なのです。でも今回はその話ではな
く、もっともっと大きな話です。
以下の話に出てくるRも無限な集まりですが、Rの無限の度合いは、実数全体の個数の無限よ
りも、はるかに大きいものです。
19世紀末から20世紀の初めにかけて、数学の土台である集合論の分野の根底にいくつかの
矛盾が発見されました。数学では体系に1つでも矛盾が入り込むと、論理が崩壊してしまいます。
発見された矛盾は、いずれも本質的には同じものでしたが、そのなかで最も簡潔なものが、バー
トランド・ラッセルが数理論理学者仲間のフレーゲへの書簡に記したとされる「ラッセルの逆理」
です。これがどのような矛盾なのか紹介しましょう。
まずは少々復習です。
「モノ a が集合Aの要素(つまりメンバー)である」ということを a ∈ A で表します。
「モノ a が集合Aの要素(つまりメンバー)ではない」というのは、a * A で表します。
注意:フォントの都合上、この紙面では「要素ではない」は、記号「*」を使用します。
ところで、「自分自身を要素とする集合」というのは存在するのでしょうか?
たとえば a ∈{a,b,c} ですが、{a,b,c}∈{a,b,c} ではありませんよね。「自分自身を要素とす
る集合」の例はなかなか思いつきません。あるのかどうかもわかりません。むしろ「自分自身を
要素としない集合」のほうが普通のような気がします。
ラッセルは、そんな普通の集合を全部集めた集合を考えました。これをRとしましょう。
R={A|A は集合であり A * A}.
Rは「自分自身を要素としない集合」の集まりです。
どんな集合 A に対しても A ∈R または A *R のどちらかが成り立つはずです。
R自身に対しても、R∈R または R*R のどちらかが成り立つはずです。
でもここに矛盾が発生するのです。
R∈R の場合、Rは集合Rのメンバー規定である「A * A」を満たすはずで、つまりR*R
のはずですが、これはR∈Rと矛盾します。
R*R の場合、Rは集合Rのメンバー規定である「A * A」を満たさないはずで、つまり
R∈Rのはずですが、これはR*Rと矛盾します。
結局いずれにしても矛盾が生じる。これが「ラッセルの逆理」です。[なお高校の数学で扱う
集合は基礎レベル限定なので、こんな矛盾とは無縁です、ご安心を。]
この危機の後、「集合論」は生まれ変わることになりました。「ラッセルの逆理」を、現代数学
はどのように解釈し、乗り越えようとしてきたのか?歴史的な諸事情を簡単にまとめると、次の
通りです。
Rは「普通の集合を全部集めた集合」ですから、とても多くのメンバーからできています。つ
まり集合としてのサイズが途方もなく巨大なのです。この「途方もなく巨大なもの」が、R∈R
なのかR*R(つまりR∈R)なのか、という議論は、言うなれば、途方もなく巨大なRをつま
みあげて、「これって自分自身の要素になるのかな」と右往左往して考え込むようなものです。
「ラッセルの逆理」は「途方もなく巨大なものは、つまみあげる(つまり何かの集まりの要素と
して扱う)ことすらできないのだ」と言っているのです。数式上では、巨大過ぎる集まりは、
R∈ A のように何かの集まり A の要素などというちっぽけな存在として登場させてはいけない
ぞ、ということなのです。
今日では、このような「途方もなく巨大な集まり」は「集合」としては認められていません。
もっとサイズの大きい「固有クラス」と呼ばれる特殊なものとして、取扱に制限が与えられます。
実際には、個々の「集まり」が、集合になっているのか、それとも固有クラスなのかというの
は、なかなか判定しにくい。そこで、現代集合論では、いくつかのルールを設定することとなり
ました。まず大元になる集合の存在をルールとして与えます。そしてそれをもとにして新たな集
合を作るいくつかのルールも設定するのです。それらのルールーに従って作られる集まりは必ず
集合になるぞ、というわけです。それ以外の、ルール無視で勝手に作った「集まり」については、
集合である保証は無く、固有クラスかもしれず取扱注意物だ、ということです。
このようにルール(正式には公理という)からスタートする集合論を「公理的集合論」といい
ます。現代数学の集合論には、いくつかの公理的集合論があり、そのうち主流のものがツェルメ
ロとフレンケルによる「ツェルメロ=フレンケル公理系(ZF公理系)集合論」です。
でも主流だから正しいとは限らない。ZF公理系が矛盾なく、つじつまの合うものなのかどう
かは、実はまだ解明されてはいません。現代数学はZF公理系が整合性をもったものであるとい
う仮定の上に成り立っているのです。
ところがたいていの数学の議論においては、この成立不明のZF公理系に、さらに少し公理を
加えて使っているのが現状です。そのような事態を受けて、「ZF公理系に新たな公理を加えた
場合と、加えない場合とで、どちらが「手堅い」設定といえるのか」等の研究もなされてきてい
ます。
無責任に完全無欠だと嘘を言い張るよりも、潔く不完全さを認め、それをしっかり共有認識と
し、諦めずに克服しようとする。数学は人類の誠実さの結晶です。