第六回 国宝 「蓮池水禽図」 ―宗達絵画の《時間》

〔連続講座「宗達を検証する」第六回資料〕 2013・11・16 於 Bunkamura・B1
第六回 国宝「蓮池水禽図」
― 宗達絵画の《時間》について―
講師=林 進
国宝「蓮池水禽図」
( 部分) 宗達筆 京都国立博物館
VI - 1
図 1 国宝「蓮池水禽図」 宗達筆 「伊年」朱文円印
一幅 紙本墨画 縦 116.5cm 横 50.3cm 京都国立博物館
VI - 2
【国宝「蓮池水禽図」は、宗達が若き頃に習得した水墨画技法から生まれた】
今日、国宝「蓮池水禽図」
(京都国立博物館)は現存する宗達水墨画として最初の作品であり、そ
の制作時期は元和初年ごろ、しかもすでに最高の表現に達する、というのが定説になっている(山
根有三「宗達と水墨画」
『宗達研究 二』1996 年)。山根氏は、その理由として「宗達が慶長十年代
の金銀泥下絵の色紙や和歌巻の制作過程において、水墨作品こそ描かなかったが、絶えず牧谿の
水墨画を意識していた」と述べる(前掲書)。この山根氏の考えは、宗達が京都の上層町衆の出身
の画家と見る考えに基づいている。とすれば、宗達は、どのようにして金銀泥下絵の確かなデッサ
ン力を身につけたのであろうか。デッサン力は、もって生まれた才能に加え、水墨画の基本技法の
習得によって初めて可能になる。また宗達筆「雲龍図屛風」の大画面構成、宗達筆「楊梅図屛風」
「舞
楽図屛風」
「風神雷神図屛風」の金箔押地、益田家本「宗達伊勢物語図色紙」の大和絵《つくり絵》
の表現法は、町衆出身の町絵師には直ぐには実行できない。宗達は、桃山時代の画家集団、つま
り狩野派の中で、あらゆる絵画技法を学び、その経験が多様な絵画制作に活かされたのである。
宗達がはじめ狩野永徳の弟子であったという説(『皇朝名画拾彙』)がある。桃山画壇の巨匠・狩
野永徳が天正十八年(1590)に四十八歳で没し、永徳の弟子の一部は狩野派を離れ、都で町絵師
として再スタートした。たとえば、絵草紙屋を営んだ狩野一雲(嵯峨本『伊勢物語』慶長十三年初刊
の挿絵を描いた)、四条通りで屛風絵所を開いた沼津乗昌がいる。宗達もその一人で、東山の六原
で絵屋「俵屋」を開き、扇面画を描き、料紙装飾を行ったと考えられる。宗達は、元和期以降、押
絵貼屛風のための扇面画や水墨画を描くことが多くなり、寛永七年(1630)に法橋を叙位され、は
からずも屏風絵や床壁貼付絵、襖絵、杉戸絵を描くことになった。寛永十年頃、
「養源院襖絵」
「白
鷺図」
「神農図」を最後として、俵屋の絵師たちに仕事を任せ、引退したと考えられる。国宝「蓮池
水禽図」は、法橋叙任の少し前の作であろう。
〔蓮の開花
̶ 時間の推移、蕾から花托まで ̶ 〕
蕾 開花一日目 開花二日目 開花三日目 開花四日目 花托
(雄蕊が開く)
VI - 3
【国宝「蓮池水禽図」の表現法(1)─ 胡粉下地の効果 ─ 】
国宝「蓮池水禽図」の本紙は、おそらく楮紙であろう。楮の繊維の一部が紙の表面に現れ、絵を
描くには良質の料紙とはいえない。その欠点を隠すために、紙の表面に薄く白色の《具引き》を施し
ている。
《具引き》とは、胡粉(板甫牡蠣の殻を数年間外で風雨にさらして風化させ、粉砕、水簸し
たのち乾燥してつくられる白色顔料)を膠液で練り合わせて溶き、これを刷毛で紙に引く手法であ
る。宗達以前、料紙に《具引き》を行った水墨画家に、室町時代の雪村周継がいる。
「呂洞賓図」
(図
4、大和文華館)、
「叭々鳥図」
(図 5、常盤山文庫)は、その好例である。
国宝「蓮池水禽図」は、水墨を用いて、白蓮の花が咲く蓮池に遊ぶ番(つがい)のカイツブリが
描かれている。
《具引き》の白い素地により、水墨の濃淡の深みが生まれ、外隈によって白蓮の花の
「白」が鮮やかに浮かび上る。
《具引き》を施す前に、料紙の表面に礬砂(明礬を膠水で溶く)で滲
み止めの処置、つまり和紙のコーティングの処置がなされている。そのことによって、水分の多い淡
墨がまだ乾かないうちに濃墨を注ぐと、水墨の斑(濃い滲み、薄い滲み)が生じる。いわゆる《たら
し込み》の現象がおこる。それが画面に効果的なアクセントを与える。
左側の白蓮の花弁のゆったりとした伸びやかな輪郭線、右側の花弁を二枚残して散った花の雄蕊
の強い濃墨線、カイツブリの羽毛の繊細な線など、多様な線描を使い分けており、非凡な才能と
鋭敏な感覚の持ち主の手になるものである。本図は、押絵貼屛風の一枚である可能性が高いが、初
めから掛幅のために描かれた水墨画であったかも知れない。画面左下隅に、
「伊年」朱文円印が捺
されている。
「伊年」とは、宗達の諱と考えられるが、この絵の印章は宗達自身が捺したものと推察
される。
童謡に、
「ひらいた ひらいた なんの花が ひらいた レンゲの花が ひらいた ひらいたと思っ
たら いつのまにか しぼんだ」とある。レンゲ(蓮の花)は早朝に咲き始め、午前中に閉じる。開花
して、わずか四日で散り始め、花托になる。
本図は、開花四日目の花の姿が描かれている。花托にハチスが顔を覗かせている。
図 2 「金銀泥蓮下絵百人一首和歌巻」
絵は宗達筆 和歌は角倉素庵染筆
図 3 「金銀泥四季花卉下絵古今集和歌巻」
絵は宗達筆 和歌は角倉素庵染筆
VI - 4
【国宝「蓮池水禽図」の表現法(2)─ 時間の推移 ─ 】
宗達は、金銀泥画や水墨画を描く際、ことに《時間の推移》の表現に心を配る画家である。宗達
の下で仕事をする俵屋の絵師たちと、その点が異なる。
宗達が慶長十年(1605)代前半に描いた「金銀泥蓮下絵百人一首和歌巻」
( 図 2)では、画巻形
式の特性を活かして、水面に浮かぶ蓮葉から始まり、蕾そして開花、散る花弁、残る花托、そして
敗荷で終わる「蓮の一生」を描く。また「金銀泥四季花卉下絵古今集和歌巻」
(図 3)では、四季を
代表する花卉・花木、すなわち冬の孟宗竹、春の梅樹、夏の躑躅、秋の蔦を描き、それぞれのモティー
フを画面空間で相互にダブらせ(金泥の「雲」と銀泥の「地」を《素やり霞》風に使う)、四季の移り
を表す。
国宝「蓮池水禽図」の見所は、蕾から花托まで僅か四日の短い「蓮の花の生命」のうち、開花四
日目と花托寸前の姿を描いている点である。画面左側の薄墨の形は、水に沈む敗荷である。宗達は
終わり行く生命の最期の輝きを表現する。その表現のあり方は、周易の「一陽来復」を表した雪村
の「枯芦に雪図」
(図 6)と同じである。
早朝、やわらかな陽の光が蓮池の水面を照らし始め、カイツブリの一日が始まる。番は、ゆっくり
と泳ぎ出す。本図は、
《蓮の花》と《カイツブリ》の生命のかたちを対照的に描いている。宗達の「白
鷺図」
( 図 12)における《枯芦》と《白鷺》、
「芦鴨図衝立」
( 図 13)における《枯芦》と《鴨》も、同じ
表現法である。
図 5 雪村筆「叭々鳥図」
常盤山文庫
図 4 雪村筆「呂洞賓図」 大和文華館 図 6 雪村筆「枯芦に雪図」
VI - 5
【宗達筆「槇檜図屛風」の主題】
図 7 「槇檜図屛風」六曲一隻 紙本金切箔地墨画淡彩 縦 95.0cm 横 222.0cm
石川県立美術館
図 8 部分
図 9 落款「法橋宗達」
「伊年」朱文円印
本図は、六曲一隻の小屛風である。画面左下隅に「法橋宗達」の落款、
「対青」朱文円印が捺さ
れている。画面中央に槇(イヌマキ)と檜の木立があり、右側やや奥に一本の樅の樹が立つ。叢林
の左右には、広い余白があり、地面は見えない。上部の画面際には黒い横筋の霞のようなもの、実
は黒雲が表され、雨を暗喩する。
『法華経』
「薬草喩品」に「かの大雲の、一切の卉木、叢林及び諸
の薬草に雨(ふ)るに、その種性に如って、具足して潤を蒙り、各、生長することを得る」とある。本
図の主題は、槇檜樅の叢林に降り注ぐ「慈雨」である。寛永九年(1632)から十年の作であろう。
VI - 6
【「槇檜図屛風」の背地である金の切箔は、降り注ぐ「慈雨」を表す】
本図は、一見、総金箔地に見えるが、そうではない。二ミリ大を基調にして、四ミリ、六ミリと大き
さの異なる金の切箔を画面全面に隈なく蒔き、画面中央に墨、藍、藍墨(墨に藍を混ぜる)の濃淡
を駆使して没骨描で、槇、檜、樅の立木を描く。
また、画面の上部には金銀の野毛と砂子を蒔き、その上に銀泥で、棚引く霞形(じつは雲)を描く。
このような霞と雲の表現技法は、宗達筆「耕作図屛風」
(図10)の雲と宗達筆「楊梅図屛風」
(図11)
の雲霞に見られる。寛永七年(1630)から八年に描かれた後水尾院依頼「楊梅図屛風」については、
第八回の講座で詳しく述べる。
本紙は、うすい茶色の色間似合紙で、その上に礬砂(明礬と膠水)、そして膠水を刷き、金の切
箔を蒔くが、わずかに茶色の地紙が見えるように、蒔き斑(隙間)をあえて残す。また切箔の微妙
な重なりは、画面に豊かで深みのある表情を生む。このことによって、金の切箔は単なる下地でな
く、絵画の重要なモティーフとなる。すなわち、金の切箔は、背地であるとともに、槇、檜、樅に降
り注ぐ「慈雨」を表しているのである。藍と藍墨で描かれた槇の葉は、切箔の雨にいっそうの潤い
を与える。
背地の金切箔が重なるところ、隙間ができたところの上に槇の葉を没骨の一筆で描くと、そこに
はおのずから墨や藍の複雑な濃淡が現れる。宗達のねらいである。活版印刷における印刷された文
字面に生じるマージナルゾーン(インキがはみ出た個所)のように、槇の葉の輪郭に沿って黒い鋭い
線が生じる。よって、はきりした美しい姿を形成することになる。また葉の内側には、墨、藍の滲み(た
らし込み)が生じる。
図 10 宗達筆「耕作図屛風」二曲一隻
紙本著色《雲》
図 11 宗達筆「楊梅図屛風」六曲一隻(部分)
紙本金地著色《雲霞》
VI - 7
【宗達筆「白鷺図」について】
︵ 印 ︶﹁ 楊 屋 ﹂︵ 印 ︶﹁ 宗 販 ﹂
︵ 前 ︶正 法 楊 屋 叟 書 焉
立看芦花許水辺
一生願不泥塵土
窺魚鰕便下青田
白鷺霏々雪満天
正法山妙心寺第百二十八世楊屋宗販賛
図 12 「白鷺図」紙本墨画
縦 101.1cm 横 45.1cm
落款「法橋宗達」
印章「対青」朱文円印
冬枯れの芦のある水辺に一羽の白鷺がたたずむ。土坡と鷺の体の周りを淡墨で掃き、白鷺の白を
浮き上がらせる。その清浄感の表出は、本紙の白泥を漉き込んだ間似合紙の白地の効果によるもの
である。水面の辺りは、薄墨を塗り、夜のとばりを表す。時間の推移と空間の奥行を感じさせる。左
を向き、側面を見せる白鷺は、画面に比して大きく力強く、伸びやかな簡潔な淡墨の線描で描かれ
ている。鷺の脚は、没骨描で描かれ、そこにわずかに《たらし込み》の濃墨の溜りが認められる。枯
芦の鋭くつよい線描は、
「芦鴨図」
(図 13)に共通する。本図は、冬枯れの水辺にたたずむ白鷺に自
らを重ねた自画像のような作品である。画中に賛があり、賛者は寛永八年(1631)に正法山妙心寺
第百二十八世住持になった楊屋宗販ある。
「 (前の異体字)正法楊屋叟」とあり、職を辞して間も
ない頃のものであろう。妙心寺住持の在任期間は通常、一、二年である。本図は、宗達最晩年の寛
永十年(1633)頃の作と推測される。
VI - 8
【宗達筆 重要文化財「芦鴨図衝立」の制作時期】
図 13 「芦鴨図衝立」二面一基 紙本墨画 (各)縦 144.5cm 横 168.0cm 醍醐寺
衝立の両面には、それぞれ下部に枯芦の原、上部に芦間を飛び立ち、右から左に飛翔する三羽の
鴨が描かれている。落款、印章はない。寺伝によると、もと醍醐寺無量寿院の床壁貼付絵であった
という。無量寿院は明治三十九年(1906)に焼失したが、それ以前に床壁貼付絵は雨漏りで損傷を
受け、たまたま壁から外されていたため、さいわい焼失を免れたという。のち、衝立に改装された。
もとの床壁貼付絵がどのような構図であったかは、写真が残っていないのでわからないが、図版で
示した構図(右側には鴨を横からの視点で描いた図)がより納まりがよいと思われる。
本図を宗達の筆と鑑識したのは、山根有三氏である(「宗達と醍醐寺」
『大和文華』26 号、1958
年)。画風からの判断。現在、宗達引退後の俵屋絵師の手になる「鴨図」
(落款「宗達法橋」
・印章「対
青軒」朱文円印、掛幅と押絵貼屛風)がたくさん残されており、本図の鴨と形態がよく似ているが、
いずれも出来映えは本図より劣る。
「芦雁図」は室町時代以来の水墨画の画題であるが、ここでは雁を鴨に替え、枯芦を描き、冬枯
れの季節感を表す。金銀泥で海波を渡る鶴の群れを描いた「鶴下絵和歌巻」
(京都国立博物館)に
共通する画面構成である。水墨の没骨描で簡潔に描く鴨の体の柔らかさ、温かさは、国宝「蓮池水
禽図」のカイツブリに共通する。その枯芦の筆致も、寛永十年(1633)頃作の「白鷺図」
(図 12)の
それに共通する。
無量寿院は、
『義演准后日記』の元和八年(1622)三月六日の条に「松橋(無量寿院)本坊田中に
建立」とあり、同四月十日の条に「上棟」とある。しかし醍醐寺の義演准后は、襖絵や床壁貼付絵
について何も触れていない。現在通説として、無量寿院の床壁 貼付絵「芦鴨図」は、元和八年
(1622)に描かれたとする。作風からすると、床壁貼付絵「芦鴨図」は寛永八年から十年に描かれた
作品とすべきである。
VI - 9
【宗達筆「白鷺図」について】
傳曰仁其哉帝之為君也神化
冝民爰立医道養人之大端大法
皆能裁成天地之所未備由是楽利
南賛
南 謹 書︵ 印 ︶
之休無思不眼其道統之流濬達
右軍裔
也遠耳歆哉善哉
王
図 14 「神農図」一幅 紙本墨画淡彩
縦 80.3cm 横 36.2cm
落款「法橋宗達」
印章「対青軒」朱文円印
賛は王 南(明からの帰化人)。
出光美術館
神農は、農業と製薬法を民に教えたという中国古代伝説上の帝王。頭に二つの瘤を持ち、草衣を
着て、薬草を噛む姿で描かれてきた。本図は、明の万暦二十一年(1593)刊『新刻歴代聖賢像賛』
の神農像を手本にして描かれたと考えられる。縦長の画面下部に神農の半身像を小さく描き、上部
に賛を予定して、空間を広くあける。腕や手、薬草の墨線は柔らかく伸びやかで、頭髪や衣に淡墨を
薄く刷き、唇に朱を差し、その霊威を表す。賛は、寛永十年(1633)に帰化した医師・王
南による
もの。宗達の知友、医師吉田快庵から制作を依頼されたものか。寛永十年(1633)頃の作であろう。
VI - 10
【宗達筆「雲龍図屛風」について】
↑落款「法橋宗達」、印章「対青」朱文円印
(右隻)
(左隻)
落款「法橋宗達」、印章「対青」朱文円印 ↑
図 15 「雲龍図屛風」六曲一双 紙本墨画淡彩 (各)縦 150.6cm 横 353.6cm
米国・フリーア美術館(明治三十八年・1905 年にチャールス・フリーアが蒐集した)
現存唯一、宗達筆の水墨画・本間屛風である。左隻と右隻を横に並べると、波濤の渦巻く間を黒雲
に乗じて二匹の龍が相対峙する画面構成となる。この場合、両隻の落款「法橋宗達」と印章「対青」
朱文円印は中央に集まる。龍の尾の形と位置より、右隻は空から降下して水に入る龍、左隻は水より
出現して空に昇る龍と見ることができる。龍の二つの様態を表す。黒雲と龍は、
「雨」を暗喩する。水墨
のたらし込みの技法で豊かな黒色を滲ませた黒雲の間に、本紙の間似合紙の白地を活かし、白い巨
龍の姿を浮き出させる手法、長く重ね引きした曲線の波濤の描写、吹き墨と僅かな朱彩など、すでに
宗達が室町水墨画の技法、桃山時代の大画面構成を習得していたことをうかがわせる。宗達が狩野
永徳の弟子であったという説(『皇朝名画拾彙』)が注目される。
VI - 11
述 、山 科 道 安 筆 記﹃ 槐 記 ﹄
を描くほど本草学に造詣が深く、灯籠絵のような写実的でない絵を高く評価しなかった。
近衞家
[ 享 保 十 一 年︵ 一 七 二 六 ︶丙 午 二 月 十 一 日 ]
○ 十 一 日 、藤 一 葉 へ 御 成 、深 諦 院 殿 、拙 、
正午御成
︵ 略 ︶
は「花木真写」
(陽明文庫)
な水墨画は、宗達引退後、俵屋の絵師が描いた絵の特徴である。家
二階、
掛 物 、宗 達 ノ 十 徳
[ 享 保 十 一 年︵ 一 七 二 六 ︶丙 午 五 月 朔 日 ]
VI - 12
○ 五 月 朔 日 、雨 天 、進 藤 一 葉 へ 、御 成 、深 諦 院 殿 、拙 、
午 半 、表 ノ 三 畳 タ イ メ 、
︵ 略 ︶
茶後二階、
掛 物 、宗 達 墨 繪 ノ 寒 山 、
[ 享 保 十 四 年︵ 一 七 二 九 ︶己 酉 四 月 十 三 日 ]
○ 十 三 日 、左 馬 頭 宅 へ 御 成 、内 府 様 御 同 伴 、拙 、
奥 ノ 圍 居 、書 院 ノ 椽 待 合 、椽 ニ ガ マ ム シ ロ 、畳 ノ 上 御 烟 草 盆 木 地 二 ツ 、
椽ニ御刀掛、
掛 物 、宗 達 墨 繪 、ナ デ シ コ ニ 杜 鵑 、
︵ 略 ︶
○ 宗 達 ガ 畫 ハ 影 坊 子 ヲ ウ ツ シ 得 タ ル モ ノ ナ リ ト 云 、尤 モ ノ
コトナリト仰セラル、
は「撫子杜鵑図」
(図 16)のような没骨法(輪郭線を用いない描法)で速筆簡略に描いた墨
る。家
は「宗達ガ画ハ影法子ヲウツシ得タルモノナリト云、尤ノコトナリト仰セラル」とあ
それを見た家
と共に近衛家の諸太夫である左馬頭(進藤一葉)宅へ御成した際
が鷹司房
十三日の条に、家
述・山科道庵筆記『槐記』】
【俵屋宗達の文献史料 近衛家
図 16 「撫子杜鵑図」紙本墨画
縦 66.5cm 横 33.3cm
落款「宗達法橋」、印章「対青軒」朱文円印
※宗達引退後の俵屋絵師の筆になるもの。
江戸中期の公家、近衛家 (1667∼1736)の言動を記した『槐記』の享保十四年(1729)四月
に、
「奥ノ圍居、書院ノ椽待合」に掛けられていた掛幅として「宗達墨絵、ナデシコニ杜鵑」とあり、
絵を見て、
「影坊子を写しとったもの」という誰かの批評に対して同意したのである。このような平板
講座時に使用したパワーポイントのサムネイル画像です。参考までにご覧ください。
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