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コーパスに基づく
『元朝秘史』モンゴル語の漢字音訳における
特殊表記に関する考察
東京外国語大学 / 総合国際学研究科 / 博士課程
孟 達来
(MENG DALAI)
富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金 2008 年度研究助成論文
謝
辞
本論文の基礎であるコーパス構築から論文作成過程にあたり、指導教官の芝野耕司先生のご指導
とご支援を頂きました。本論文の内容を東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の「比較
言語論」合同ゼミにて発表したとき、稗田乃先生、澤田英夫先生ら諸先生方、および須藤秀樹さん
を始めとするゼミの仲間達には、有益なご批判と、数多くのコメントを頂きました。また、論文の
原稿作成に当たり、結城佐織さんには多くのご援助とご助言を頂きました。この場を借りて、感謝
の意を表したいです。
本論文は、富士ゼロックス小林節太郎記念基金の2008年度外国人留学生研究助成によるものであ
る。この研究にご支援をくださった小林節太郎記念基金に、心から厚くお礼申し上げます。
2009年11月
孟 達来
(MENG DALAI)
目
次
ページ
まえがき ................................................................................ 1
第1章: 漢字音訳における特殊表記方式の種類 ............................................... 2
第2章: 対象となる音が漢字の原音で精確に表記できない場合 ................................. 3
第1節: 「中」付き漢字による表記について ................................................ 3
第1項:「中」付き漢字によるqで始まる音の表記 ..................................... 3
第2項:「中」付き漢字によるh/kで始まる音の表記 .................................. 6
第3項:「中」付きゼロ声母漢字について ............................................ 8
第4項:「中」が無い漢字によるqで始まる音の表記 ................................... 9
第2節: 「舌」付き漢字によるrで始まる音の表記 ........................................... 9
第1項:「舌」付き漢字によるrで始まる音の表記...................................... 9
第2項:「舌」付き漢字によるlで始まる音の表記 ..................................... 10
第3項:「舌」が付かない漢字によるrで始まる音の表記 ............................... 11
第3章: 対象となる音節が漢字1字の音節構造で表し切れない場合 ............................ 12
第1節: 漢字一字による表記について .................................................... 13
第2節: 音節末子音-lの表記について ..................................................... 14
第1項:漢字韻尾-n→モンゴル語音節末子音-l ....................................... 14
第2項:「複合漢字」による「1モンゴル語音」の表記 ................................ 15
第3節: 音節末子音の特殊表記のまとめ .................................................. 16
あとがき ............................................................................... 18
註 ..................................................................................... 20
参考文献 ............................................................................... 22
付録[1]:四部叢刊本『元朝秘史』(第1頁) ............................................... 23
付録[2]:特殊漢字と組合せ漢字の対照表 ................................................... 23
付録[3]:「声母x-+(中)→頭子音h-/k-」の用例 ............................................. 24
付録[4]:「声母l-+(舌)→頭子音l-」の用例 ................................................ 25
まえがき
本研究では『元朝秘史』における特殊表記を扱う。『元朝秘史』の底本は、チンギス=ハーンの祖先
からオゴデイ=ハーンの時代までの歴史を物語った文献であり、一般に、13世紀においてモンゴル文
字で書かれたとされる。但し、底本が今に伝わらず、現存するのは、14世紀の後半に成立された「漢
字訳本」1)とよばれるものである。
『元朝秘史』の音訳漢字とモンゴル語音韻に関する従来の研究では、音訳における特殊表記の問題
が扱われてきた(服部四郎1946、越智サユリ2003など)。また、特殊表記に関連した研究として、栗林
均(2003)、更科慎一(2003)、中村雅之(2003)等による『元朝秘史』とほぼ同時代に成立したとさ
れる『華夷訳語』の研究がある。但し、本研究で扱うような『元朝秘史』のモンゴル語を中心とした
漢字音訳における特殊表記のみを個別に取り上げた研究は見られない。
本研究では、自作の『元朝秘史』のコーパスを使用する。本コーパスは、音訳漢字と、表記された
モンゴル語音との対応関係を含む漢字・ローマ字パラレルフルテキストコーパスである。コーパス作
成に当たって、基づいた版本は、
『元朝秘史』の諸版本)2)のうち、誤りが一番少ないとされる四部叢刊
本(12巻本)である。
本研究は、『元朝秘史』モンゴル語の漢字音訳における特殊表記について、コーパスを利用し、全巻
を通して体系的かつ統計的に特殊表記の規則を明らかにすることを目的とする。
― 1 ―
第1章: 漢字音訳における特殊表記方式の種類
漢字音訳とは、簡単にいえば、漢字音をもって、対象となる言語の音を表記することである。
まず、漢語の音節構造に関しては、漢語音韻学にIMVF/Tというように表される。そのうち、I(Initial)
は「声母」(頭子音)、M(Medial)は介音、V(Vowel)は主母音、F(Final)は「韻尾」(音節末子音)、
T(Tone)は「声調」である。
一方、漢語における漢字は、基本的に1漢字が1音節であり、且つ1漢字の音節は(C)V(C)といった構
造をもつ。音訳において一番理想的な方式は、漢字の音節構造の特徴を利用し、漢字1字の原音で、漢
字の(C)V(C)の音節構造に対音させる方法である。本稿では、漢字1字の原音で、漢字の(C)V(C)の音節
構造に対音させる方法を「通常表記方式」と称す。
だが、実際には漢語と音訳される語の全ての音が一対一に対応するわけではない。音訳される語に
は、漢字の原音では表しきれない音声が存在したり、漢字1字の(C)V(C)音節構造で表しきれない音節
が存在したりする。こうした場合、上述の「通常表記方式」では、対象となる音を精確に表記できな
い。そこで、より精確な音表記をするために、
「通常表記方式」以外の表記方式が求められる。本稿で
は、この「通常表記方式」以外の表記方式を「特殊表記方式」と称する。
『元朝秘史』のモンゴル語漢字音訳では、当時の音訳者による表記方式に関する訳注がなされてい
ない。一方で『元朝秘史』と同時代に編纂されたとされる『華夷訳語』(甲種本)3)は、音訳上『元朝秘
史』と極めて類似するものであるが、『華夷訳語』(甲種本)の「凡例」には、当時の漢字音で精確に表
しきれないモンゴル語音をどのように表記したか、つまり「特殊表記方式」についていくつか説明さ
れている4)。
『華夷訳語』の「凡例」は全6条であり、第1~3条は、発音補助記号として用いられた「中」「舌」「丁」
についての説明であり、第4~6条は、音節末子音l,q,t,k,bの表記に関する説明である。また、
『華夷訳語』
の「凡例」の全6条のうち、第3条(発音補助記号「丁」)以外の項目は、『元朝秘史』の漢字表記にも
用いられた手法である。『元朝秘史』と『華夷訳語』の音訳方法は類似点が多々あり、『華夷訳語』の
凡例は、『元朝秘史』においても参考にできるものである。
『元朝秘史』における特殊表記の用いられる理由について、まず、モンゴル語音と漢字との対応関
係の観点から、(1)表記の対象となる音が漢字の原音で精確に表記できない場合、(2)表記の対象とな
る音が漢語の音節構造の枠内で表しきれない場合、といった二通りに分けることができる。以下では、
特殊表記について上述の(1)、(2)の二通りの場合を考察する。
― 2 ―
第2章: 対象となる音が漢字の原音で精確に表記できない場合
元朝秘史』が音訳された当時の漢語には、モンゴル語の破裂音qと、ふるえ音rとに一致する子音が存
在しない。音訳では、モンゴル語の頭子音q-とr-の音声をより精確に表すため、一般に、声母がx-であ
る漢字の左側に小書きの「中」を付けて、モンゴル語の破裂音qを表し、声母がl-である漢字の左側に
小書きの「舌」を付けて、モンゴル語のふるえ音rを表すのである。但し、実際には、用いられる「中」
付き漢字と、
「舌」付き漢字が、頭子音q-と、頭子音r-だけの表記に限らず、それ以外の音の表記にも用
いられる場合がある。
以下では、「中」付き漢字による表記と、「舌」付き漢字による表記について検討する。
第1節: 「中」付き漢字による表記について
『元朝秘史』における小書きの「中」付き漢字と、小書きの「中」付き漢字で表記されるモンゴル
語音を集計した結果、表1.のようなデータが得られた。
表1.「(中)+声母x- / k‘- / k-」によって表記されるモンゴル語音
表記された音の種類
頻度
「中」付き漢字→qで始まる音
特殊表記の種類
漢字の種類
22
11
6572
「中」付き漢字→hで始まる音
3
4
33
「中」付き漢字→kで始まる音
1
1
51
「中」付き漢字→母音で始まる音
合
計
2
2
4
28
18
6660
第1項:「中」付き漢字によるqで始まる音の表記
表2.が示すように、全28種類の「中」付き漢字のうち、22種類がqで始まる音を表し、qで始まる
全音の98.68%を占める。このことから、「中」付き漢字が、頭子音q-の音を表すのが一般的であるこ
とが分かる。『元朝秘史』の音訳において、q-で始まるモンゴル語音を表す「中」付き漢字の内訳は
次の通り。
表2.「(中)+声母x- / k‘- /k- → 頭子音q-」の内訳
表記音 漢字
回数 漢字
qa
中合(xo)
3180
qai
中孩(xai)
qam
中含(xam)
61
qan
中罕(xan)
492
qang
中康(k‘aŋ)
11
qo
中豁(xuo)
915
qon
中管(kon)
1
qong
中晃(xuaŋ)
28
qu
中忽(xu)
qui
中灰(xui)
109
qun
中渾(xun)
200
281
1269
回数 漢字
回数 漢字
中帢(k‘ia)
1
中海(xai)
2
中干(kan)
1
中火(xuo)
1
中荒(xuaŋ)
1
中窟(k‘u)
3
中[窟+鳥]5)(k‘u)
3
中崑
(ku´n)
6
中鶤(ku´n)
1
― 3 ―
中坤(k‘u´n)
回数 漢字
1
中昆(ku´n)
回数
1
頭子音がq-である音を表す22種類の「中」付き漢字の声母は次の通り。
声母x-の漢字:中合(xo)、中孩(xai)、中海(xai)、中含(xam)、中罕(xan)、中豁(xuo)6)、中火(xuo)、
中晃(xuaŋ)、中荒(xuaŋ)、中忽(xu)、中灰(xui)、中渾(xun)
声母k‘-の漢字:中康(k‘aŋ)、中帢(k‘ia)7)、中[窟+鳥](k‘u)8)、中窟(k‘u)、中坤(k‘u´n)
声母k-の漢字:中干(kan)、中管(kon)、中鶤(ku´n)9)、中崑(ku´n)10)、中昆(ku´n)
モンゴル語のqで始まる音を表す22種類の「中」付き漢字は、漢字の声母の違いにより以下の①と
②の二つに分けられる。
①
声母がx-である漢字が12種類(54.55%)。
②
声母がk‘-又はk-である漢字が10種類(45.46%)。
上記①、②について少し見てみる。
(1) 声母がx-である漢字
表2.が示すように、頭子音q-を表す漢字において、比較的頻繁に用いられる「中合(xo)、中孩(xai)、
中含(xam)、中罕(xan)、中豁(xuo)、中晃(xuaŋ)、中忽(xu)、中灰(xui)、中渾(xun)」といった9種類
の漢字は、一般に用いられる漢字であると見ることができる。且つこれらの漢字全てがx-声母をもつ。
但し、「中海(xai)」「中火(xuo)」「中荒(xuaŋ)」という漢字に関しては、上に挙げた一般に用いら
れる9種類の漢字と同じく、x-声母をもつのであるが、しかし出現が明らかに少ない。これらの漢字
の使用状況は次の通りである。
「qai|du
①「中海(xai)→qai」は巻1において2回現れ、同じ人名の表記に用いられている。用例:
中海|都/傍訳:名」
。そこで、特定語に使われた漢字であると見ることができる。
②「中火(xuo)→qo」は、巻2において1回のみ現れ、
「かまど(竈)」を意味する語の表記に使われて
いる。用例:「qo|lu|m|ta
中火|爐|木|塔/傍訳:火盤」(2;9/6-10/6)。表記された語の意味に合わせ
るために、「火」という漢字を用いたと考えられる。
③「中荒(xuaŋ)→qong」は、巻1において1回だけ使われる。用例:「qong|Si|u|t
中荒|失|兀|惕/傍
訳:臭氣」(1;17/2-17/4)。つまり、「中荒」は特定語に用いられた漢字であると見ることができる。
(2) 声母がk‘-又はk-である漢字
①「中帢(k‘ia)→qa」に関して、qaの表記に一般には「中合」(3187回)が用いられるが、「帽子」を
意味するmaqalaiという語の表記に1回だけ「中帢」が用いられている。用例:「ma|qa|lai|tu 馬|中帢|
来|禿/帽児有的」(3;23/8-24/3)11)。服部四郎(1946)では、「中帢」を「中合」の誤字であるとし、
陳垣(1934)では、意味に関連する漢字であるとするが、本研究では、「中帢」を「中合」の異体字で
あると見なす。
②「中窟(k‘u)→qu」は、巻3において3回現れるが、全て「潜り込む」を意味するSirqu-という語幹
。よって、quの表記に一般に用い
の表記に使われる。用例:「Si|r|qu|su 石|児|中窟|速/傍訳:鑽入」
られる「中忽(xu)」(1269回)に対して、「中窟」はSirqu-という語幹のみに用いられた文字であると
見ることができる。
― 4 ―
「to|qu|ra|u|ni
③「中[窟+鳥](k‘u)→qu」は巻3において現れ、鳥類の名の表記にのみ使われる。用例:
脫|中[窟+鳥]|舌剌|兀-|泥/傍訳:[兹+鳥][老+鳥]-行」、「qu|la|du
中[窟+鳥]|剌|都/傍訳:鳥名」
。
「窟」という音符に「鳥」という意符を付けたのは、モンゴル語の単語にある「鳥」という意味を
音訳にも持たせたかったからであると考えられる。
④「中坤(k‘u´n)→kUn」という表記は1回だけ現れる。用例:「O|k|te|kUn 斡|克|帖|中坤/傍訳:可
與的每」(9;30/8-31/3)。kUnの表記には、小書きの「中」が付かない「坤(k‘u´n)」(134回)を用いる
のが一般的であり、「中坤(k‘u´n)→kUn」に関しては、漢字原音の観点からしても、表記されたモン
ゴル語音の観点からしても、小書きの「中」を付けるのは異例である。
⑤「中干(kan)→qan」は、巻9において1回だけ出現する。用例:「min|qan 敏|中干/傍訳:千」
(9;33/2-34/2)。minqanは延べ3回現れるが、1回だけ「中干」が用いられ、残りの2回は「min|qan 敏
|干/傍訳:千」(巻6)というように、小書きの「中」が付かない「干」が用いられている。よって、
「中干」は、やはり特定語に用いられた漢字であると見ることができる。
「qun
⑥「中鶤(ku´n)→kUn」(1)は「白鳥」を意味するqunという語の表記に用いられる。用例:
中
鶤/傍訳:天鵝」(3;18/2-19/6)。表記された語の意味に合わせるために、意符が「鳥」である漢字
を選択したと考えられる。
⑦「中崑(ku´n)→qun」は、「崖」を意味するqunという語の表記に使われる。用例:「qun-|nu
中崑
-|訥/傍訳:崖-的」。qunの「崖」といった意味に合わせるために、「山」という意符をもつ「崑」を
用いたと考えられる。
⑧「中昆(ku´n)→qun」は、巻1において1回現れるが、上の⑦にみた「中崑(ku´n)→qun」と同じ
く、qun「崖」という語の表記に用いられている。用例:「qun-|tu|r 昆-|途|児/傍訳:崖-行」
(1;16/7-16/10)。qun「崖」は延べ7回現れ、そのうち、6回には「中崑」が用いられ、1回だけ「中昆」
が用いられる。このことから、「中昆」は「中崑」の異体字であろうと考えられる。
「qang|qan
⑨「中康(k‘aŋ)」は、qangを表す一般用字として使われる。用例:
中康|中罕/傍訳:教
足了」。
⑩「中管(kon)→qon」という表記は、巻3において1回だけ現れる。用例:「qon|ji|ya|sun
中管|只|
牙|孫/傍訳:白腸」(3;45/5-46/1)。なお、
『元朝秘史』において、qonという音は延べ3回しか現れ
ず、「中管(kon)→qon」以外の2例には、小書きの「中」を伴わない「洹(kon)→qon」
、「歡(kon)→qon」
といった表記になっている。
上に見てきたように、モンゴル語の頭子音q-の表記において、一般に漢字のx-声母が用いられるが、
その一方で、モンゴル語の頭子音q-の表記に、k‘-声母又はk-声母も用いられることがある。3.2.1.
での分析の結果、声母がk‘-又はk-である10種類の漢字の使い分けは、次の(1)から(5)の通りである。
①意味関連:中[窟+鳥](k‘u)、中鶤(ku´n)、中崑(ku´n)
②特定語用字:中窟(k‘u)、中干(kan)
③異体字:中帢(k‘ia)、中昆(ku´n)
④異例表記:中坤(k‘u´n)
⑤稀音表記:中康(k‘aŋ)、中管(kon)
― 5 ―
頭子音q-の表記において、
「中」付きx-声母漢字は一般用字として使われ、「音のみ」を表す。これ
「音」だけでなく、
「音以外の要素」も考
に対して、「中」付きk‘-/k-声母の漢字で表記されるものは、
慮した漢字表記であるといえる。このことから、「音以外の要素」が関与することにより、どの音訳
漢字を選択し、表記するのか、という音訳の方法に影響を与えていると見ることができる。
第2項:「中」付き漢字によるh/kで始まる音の表記
一方、小書き「中」付きの漢字すべてが、モンゴル語のqで始まる音を表すのではない。声母[x-+(中)]
という形で、モンゴル語の頭子音h-、又は頭子音k-を表すこともある(用例は付録[3]参照)。声母
[x-+(中)]の形で、モンゴル語の頭子音h-、又は頭子音k-を表す内訳は表3.の通りである。
表3.「声母[x-+(中)]→頭子音h-/k-」の頻度
対応項目
対音種類
回数
比率
声母[x-+(中)]:頭子音h-
4
33
全h-表記の3.50%
声母[x-+(中)]:頭子音k-
1
51
全k-表記の1.06%
5
84
小書き「中」付きx-声母漢字が、頭子音がh-又はk-である音の表記に全84回用いられ、それが、全
「中」付き漢字の全出現回数(6660回)の1.26%だけを占める。
次には、「(中)+声母x-→頭子音h-/k-」といった表記を、一般規則として現れる「(中)+声母x-→
頭子音q-」といった表記と比較してみる(次の表4.参照)
。
表4.「(中)+声母x-→頭子音q-,h-/k-」の内訳
表記音
q/h
q/k
漢字
表記音[1]
回数
表記音[2]
中合(xo)12)
回数
qa
3180
ha
18
中豁(xuo)
qo
915
ho
5
中忽(xu)
qu
1269
hu
5
中灰(xui)
qui
109
kUi
51
表記音[3]
hU
回数
5
以下では、「声母[x-+(中)]→頭子音h-/k-」の表記の用例を分析する。
(1)「(中)+声母x-→頭子音h-」
①「中忽→hu」に関して
「中忽→hu」がモンゴル語のhuya-「縛り付ける」という語の表記に用いられる(次の表5.参照)。
表5.huya-「縛りつける」における「中忽→hu」
転写
音訳
回数
hu|ya|ju
中忽|牙|周
2
但し、huya-「縛り付ける」という語幹の初頭音huの表記には、表6.のように「忽」が用いられる
のが一般的である。
― 6 ―
表6.huya-「縛りつける」の一般的表記
転写
音訳
傍訳
回数
hu|ya
忽|牙
拴
1
hu|ya|ju
忽|牙|周
拴着
5
hu|ya|q|sa|di
忽|牙|黑|撒|的
拴着的行
1
hu|ya|q|sa|t
忽|牙|黑|撒|惕
拴了的
1
②「中忽→hU」に関して
「忽→hU」の用例は次の通りである。
表7.hUlde-「駆ける」における「中忽→hU」
転写
音訳
傍訳
回数
hU|l|de|e|t
中忽|勒|荅|額|惕
趕了
1
hU|l|de|be
中忽|勒|迭|罷
趕了
1
hU|l|de|jU
中忽|勒|迭|周
趕着
2
しかし、hUlde-「駆ける」の一般的表記は、次の通りとなる。
表8.hUlde-「駆ける」の一般的表記
転写
音訳
傍訳
hU|l|de|e|t
忽|勒|迭|額|惕
追着,趕了,直趕
回数
5
hU|l|de|jU
忽|勒|迭|周
趕着,追着,逐着
17
hU|l|de|k|de|jU
忽|勒|迭|克|迭|周
被追着
1
hU|l|de|l|dU|jU
忽|勒迭|勒|都|周
相逐着
1
上の表7.と表8.の対照から分かるように、hUlde-「追い駆ける」といった語幹が、全28回現れ、
そのうち24回は「忽{勒}迭-」という形で現われ、残りの4回だけが「(中)忽{勒}迭」又は「(中)忽{勒}
荅」という形で現れる。
一方、hで始まる音の一般表記は、次の通りである。
「哈(xa)→ha」(回数:123)
「豁(xuo)→ho」(回数:61)
「忽(xu)→hu/hU」(回数:74/62)
そこで、漢字の原音で直接表すことができるh-の表記に、「中」付き漢字を使ったのは、表記上の
ゆれであると見ることができよう。
(2)「(中)+声母x-→ 頭子音k-」
「声母[x-+(中)]→頭子音k-」という表記として、一番多く現れる「中灰→kUi」の使用状況について
みる。
音訳漢字「中灰」はモンゴル語の頭子音q-の表記に使われるが、kで始まる音の表記に用いられる
ケースもある。
― 7 ―
「中灰 → 頭子音qui」の例:
a. 不|中灰 bU-|qui/有時(5;43/4-44/1)
b. 升|格|中灰 Sing-|ge-|qui/消化的(8;16/9-17/3)
c. 亦|咥|中灰 i-|de-|qui/喫的(12;12/3-12/8)
d. 格|赤|乞|列|中灰 ge-|ci-|ki-|le-|qui/踐踏(12;29/8-30/5)
e. 脫|舌列|中灰|突|舌児 tO-|re-|qui-|dU|r/生的時(9;5/6-6/6)
f. 客|額|勒|都|中灰|突|児 ke-|el-|dU-|qui-|tUr/共說時(2;19/4-19/8)
「中灰」は、一般に形容名詞接尾辞-quiの表記に用いられる。この形容名詞接尾辞-quiは男性語に
接続する接尾辞である。但し、「中灰→頭子音qui」の用例の場合、単語の母音がすべて女性母音であ
るのに、男性母音と共起する「中灰」
(qui)が使用されている。
モンゴル語の規則としては、一つの単語において、母音はすべて男性母音、あるいはすべて女性
母音でなければならない。女性母音の単語であるならば、男性母音と共起するはずの「中灰」(qui)
ではなくて、女性母音と共起する「恢」(kUi)が用いられるはずである。しかし、この女性母音と共
起するはずの「恢」(kUi)に関しても、男性母音の単語と共起する例外が見られる。
「恢→頭子音qui」の例:
a.
中忽|赤|兀|勒|恢
b.
中合|舌児|恢
qu-|ci-|ul-|kUi/繞了(3;17/9-18/2)
qa-|r-|kUi/出的(6;21/6-21/10)
c. 勺|乞|恢 jo-|ki-|kUi/宜的(7;9/9-10/2)
d. 牙|荅|恢 ya-|da-|kUi/不能的(7;28/10-30/1)
e.
中合|中合|察|恢
qa-|qa-|ca-|kUi/離的(7;26/4-26/8)
このように、母音調和という点から見て、男性語に配置される「中灰」と、女性語に配置される「恢」
が例外に現れるのは、恐らく、「中灰」と「恢」の「中」と「忄」の表記が類似しているため、後人
が写す13)際に、混同したためであろうと考えられる。
第3項:「中」付きゼロ声母漢字について
声母がゼロである漢字に小書きの「中」を付けて、表9.と表10.のようにモンゴル語の母音u又はu
で始まる音節に当てているケースが見られる。
表9.「(中)+声母(ゼロ)→頭子音(セロ)」の用例
音
漢字
回数
u
中兀
2
ung
中翁
2
表10.「中兀」と「中翁」の用例
転写
音訳
傍訳
出典
a|u|jam_|bo|ro|u|lun
阿|兀|站_|孛|中羅|中兀-|侖
[ ]-的
1;1/9-2/2
a|u|la
阿|中兀|剌
山
7;34/3-34/9
ung|gi|ran
中翁|吉|中闌
人名
8;25/1-27/1
ung|Si{|q}|da|ju
中翁|失|{黑}|荅|周
被叫着
2;13/7-14/2
― 8 ―
表9.と表10.のケースにおける小書きの「中」に関しては、誤って付けられたのか、それとも意図
的に付けられたのか、今のところ不明である。
第4項:「中」が無い漢字によるqで始まる音の表記
モンゴル語のqで始まる音の表記には、小書きの「中」が無い漢字を用いるケースも存在する(表
11.を参照)。
表11.「小書きの(中)が無い漢字→qで始まる音」の内訳
音 漢字 回数 漢字 回数 漢字 回数
1 qa
哈
51 合
2 qai
孩
30 該
1
3 qan
罕
34 干
4
4 qam
含
豁
7 qon
洹
5
1
5 qang 康
6 qo
14 花
2 慷
1
83
1 歡
8 qong 晃
1
10
9 qu
忽
32 古
6
10 qui
恢
58 灰
1
11 qun
渾
10 坤
1
12 qul
渾勒
1
表11.が示すように、小書きの(中)が無い漢字で、qで始まる音を表すケースに関しては、21種類
の漢字で12種類の音が表記される。表11.のような表記は延べ347回現れ、頭子音q-の表記の延べ回数
(6919回)の5.02%を占める。
第2節: 「舌」付き漢字によるrで始まる音の表記
『元朝秘史』の全巻における小書きの「舌」付きの漢字と、それに表されるモンゴル語音の内訳は、
表12.の通りである。
表12.「(舌)+声母l-」によって表わされる音の種類
特殊表記の種類
漢字の種類
「舌」付き漢字→ 頭子音r「舌」付き漢字→
合
計
頭子音l-
表記された音の種類
全回数
47
29
5131
9
12
63
56
41
5194
第1項:「舌」付き漢字によるr で始まる音の表記
『元朝秘史』において、小書きの「舌」付きの漢字において、rで始まる音の表記には5131回(延
べ数)現われ、頭子音表記全「舌」付き漢字の98.79%を占める。残りの63回は頭子音l-に用いられ、
わずか1.21%を占めるのみである。頭子音r-の表記に用いられる「舌」付きの漢字の内訳は表13.の通
りである。
― 9 ―
表13.「(舌)+声母l-→頭子音r-」の内訳
音 漢字
回数 漢字
回数 漢字
舌[目+剌](la)
ra
舌剌(la)
rai
舌来(lai)
ral
舌闌勒(lan-lei)
5
舌闌(lan)
1
ram
舌藍(lam)
7
舌籃(lam)
1
ran
舌闌(lan)
81
rang
舌郎(laN)
3
re
舌列((liE))
rei
舌来(lai)
rel
舌連勒(liEn-lei)
5
rem
舌廉(liEm)
1
ren
舌漣(liEn)
36
reng
舌良(liaN)
3
ri
舌里(li)
riang
舌良(liaN)
ril
舌鄰勒(li´n-lei)
49
rim
舌林(li´n)
27
rin
舌鄰(li´n)
100
ring
舌零(li´N)
3
ro
舌羅(luo)
rO
舌劣(liuE)
ron
舌欒(lon)
ru
舌魯(lu)
366
舌路(lu)
1
rU
舌魯(lu)
118
舌[目+盧](lu)
1
rui
舌雷(luei)
run
舌侖(lu´n)
270
舌論(lu´n)
2
rUn
舌論(lu´n)
300
舌侖(lu´n)
182
rUng
舌籠(luN)
5
rul
舌侖勒(lu´n-lei)
1
rUl
舌侖勒(lu´n-lei)
3
862
17
回数 漢字
回数 漢字
舌列(liE)
5
舌[剌+齒](la)
1
舌劣(liuE)
1
舌離(li)
2
回数 漢字
回数
16
913
舌洌(liE)
15
舌剌(la)
3
舌連(liEn)
25
舌怜(liEn)
3
舌驪(li)
84
舌理(li)
2
1168
54
舌[羊+歷](li)
1
舌澧(li)
1
8
292
34
舌鄰(li´n)
6
舌驎(li´n)
11
舌[馬+羅](luo)
2
舌羅(luo)
8
舌騾(luo)
1
舌祿(lu)
1
舌輪(liu´n)
2
19
1
2
舌瀧(luN)
上の表13.における延べ47種類の漢字の声母はすべてl-である。つまり、声母がl-である漢字に小
書きの「舌」を付けて表すのは、モンゴル語のrで始まる音の表記のデフォルトであると言える。
第2項:「舌」付き漢字によるlで始まる音の表記
「舌」付きの漢字が、lで始まる音に当てられるケースが見られる。こうした表記の内訳は表14.の
通りである(用例は付録[4]を参照)
。
表14.「(舌)+声母l-→頭子音l-」の内訳
漢字
表記音[1]
回数
表記音[2]
1
舌剌(la)
ra
862
la
6
2
舌列(liE)
re
913
le
26
3
舌里(li)
ri
1168
li
6
4
舌鄰(lin)
rin
100
lin
1
5
舌零(li´N)
ring
3
ling
4
6
舌羅(luo)
ro/rO
292/8
lo/lO
1/1
7
舌捋(luo)
rO
8
舌魯(lu)
ru/rU
366/118
lu/lU
6/2
9
舌侖(lu´n)
run/rUn
270/300
lun/lUn
6/3
―
― 10 ―
lO
回数
1
表14.から分かるように、実際には、これらの漢字が、一般にrで始まる音の表記に用いられるので
ある。対音の種類からしても、出現比率からしても、漢字「(舌)+l-声母」→モンゴル語「頭子音l-」
は、異例なものであり、写し間違いであろうと考えられる。
第3項:「舌」が付かない漢字によるrで始まる音の表記
モンゴル語のrで始まる音の表記に「舌」が付かない漢字を用いるケースが存在する(表15.を参
照)。
表15.「(舌)無し声母l-→頭子音r-」の内訳
音
漢字
回数
音
漢字
回数
音
1
ra
剌
37
2
ra
[目+剌]
2
3
rai
来
1
4
ral
闌勒
1
13
ri
驪
24
22
5
ral
闌
3
14
ri
里
20
23
6
ram
藍
1
15
ri
理
4
24
7
ran
闌
3
16
rim
林
3
8
re
洌
2
17
rin
驎
1
9
re
列
37
18
rin
鄰
5
漢字
回数
10
rel
連勒
2
19
ro
羅
9
11
ren
連
2
20
rO
劣
3
12
ren
漣
5
21
ru
魯
32
rU
魯
11
rUn
侖
3
rUn
論
12
25
rUng
籠
2
26
run
侖
6
合計:230
「小書きの「舌」が無い声母l-→頭子音r-」といった表記において、用いられる23種類の漢字で、
18種類の音が表記され、出現延べ回数が230回である。それが、全巻におけるr-で始まる全音(5361
回)の表記の4.29%を占める。
― 11 ―
第3章: 対象となる音節が漢字1字の音節構造で表し切れない場合
第1章に指摘したように、漢語の音節構造は(C)V(C)であると見ることができる。一方、音訳当時
のモンゴル語も(C)V(C)という音節構造をもつ。よって、モンゴル語の音を漢字音の(C)V(C)に沿っ
て対音させるのは、通常の表記方式となる。特に、モンゴル語の音節末子音の表記の場合、漢字音
の韻尾(末子音)で対音させるのが、一番望ましい方式となるのであろう(表16.参照)。
14
表16.「漢字韻尾-n,-m,-ŋ→モンゴル語音節末子音-n,-m,-ng」の例14)
ローマ字転写
漢字音訳
傍訳
出典
1
qo-|rin
中
二十
6;24/4-25/4
2
ja-|rim
札| 林
一半
12;39/10-40/7
快活
1;39/1-39/6
3
舌
豁| 鄰
舌
中
ji|r-|qa-|lang
只|児| 合|郎
『元朝秘史』において、漢字韻尾で表記されたモンゴル語の音節末子音-n,-m,-ngの出現回数と比率
(%)は次の表17.の通りである。
表17.音節末子音-n,-m,-ngの出現回数と比率
音節末子音
頻度(比率)
n
8874(99.64%)
m
287(89.41%)
ng
1222(100%)
但し、音訳に用いられたとされる当時の北方漢語には、音節末子音(韻尾)は-n,-m,-ŋしかない。
当時の北方漢語に対して、当時のモンゴル語の音節末子音には、-n,-m,-ng以外に、-b,-q,-k,-t,-s,-S,-c,-r,-l
といった種類があるため、漢字の韻尾では表しきれない。よってこれらのモンゴル語の末子音を何
らかの手法で漢字を用いて表記する必要がある。こうした状況に応じるために、音節末子音の特殊
表記の方式が考案されたと言えよう。
『元朝秘史』における音節末子音の「通常表記」と「特殊表記」を、漢語とモンゴル語の音節構
造の対応関係に沿って示せば、次の表18.の通りとなる。
表18.漢語とモンゴル語の音節対応関係と音節末子音表記
通常表記
漢字
声母
VC
CVC
韻母
韻頭
(V)
韻腹
韻尾
V
C
VC1
V
C1
VC2
V
モンゴル語
C
特殊表記
CVC1
C
V
CVC2
C
V
(※C1=n,m,ng;C2=q,k,b,n,m,t,s,S,c,r,l)
― 12 ―
声母
C
韻母
韻頭
韻腹
韻尾
(V)
V
C
C2
V
C2
V
C1
『元朝秘史』のモンゴル語において、-b,-q,-k,-t,-s,-S,-c,-r,-l,-n,-m,-ngの12種類の音節末子音が現れる15)。
これらの音節末子音の調音は次の通りである(表19.参照)
。
表19.モンゴル語音節末子音の調音
両唇
歯茎
破裂音
b
t
鼻音
m
n
ふるえ音
r
摩擦音
s
側面接近音
l
後部歯茎
硬口蓋
軟口蓋
口蓋垂
c
k
q
ng
S
第1節: 漢字一字による表記について
『元朝秘史』において、音節末子音-n,-m,-ngは、一般に漢字の韻尾によって表される。但し、-n,-m,-ng
以外の音節末子音の表記には特殊表記が用いられる。特殊表記において、最も広く用いられたのは、
「音節末子音に声母が一致する漢字をもって表す」といった表記方式である(表20.参照)
。
表20.「漢字一字→モンゴル語音節末子音」の例
ローマ字転写
漢字音訳
傍訳
出典
1
U -|dU|r
兀|都|児
日
1;3/7-3/10
2
j a|r-|li|q
札| 児|里|黑
聖旨
4;43/1-43/10
3
ke|b-|te-|U|l
客|卜|帖|兀|勒
宿衛
9;47/7-48/2
16)
舌
17)
「漢字一字による表記」は、漢字の声母が表記対象の言語(本稿の場合はモンゴル語)の音節末
子音に一致する(又は近似する)漢字を用いる方法である。よって、この方式を「漢字声母による
音節末子音の表記」ともいう。この「漢字声母による表記」においては、用いられる漢字を普通の
サイズで書く場合(表20-1を参照)と、小さく書く場合(表20-2,3を参照)といった二通りがある。
「漢字一字による表記」の集計データを表21.にまとめる。
表21.漢字一字による音節末子音表記の内訳
末子音
表記漢字
q
k
t
黑
克
惕
勒
l
泐
氻
b
m
n
S
S
c
卜
木
你
思、思
18)
失
室
赤
舌
児、 児
r
峏
洏
合計
― 13 ―
出現回数
1169
844
1902
2700
11
1
545
34
32
839
1
1
5
4835
27
6
12952
上の表21.が示すように、漢字一字で表記される11種類音節末子音のうち、-q,-k,-t,-b,-m,-n,-s,-cの表
記には1種類の漢字が用いられ、-Sの表記には、2種類の漢字が用いられ、-lの表記には、3種類の漢
字が用いられている。つまり、モンゴル語の一つの音節末子音の表記に、複数の漢字が用いられる
場合がある19)。1つの音節末子音の表記に異なる漢字を用いた理由は、音表記のみでなく、表記され
る語の意味も考慮して、音訳漢字を選択していたことに関係する20)。
なお、音節末子音rを表す「児」と「舌児」に関して、先行研究では、「児」は第1,2巻に集中し、
「舌児」はそれ以降の巻に集中することが指摘されてきた。本研究による「児」と「舌児」の分布デー
タは、次の通りである(表22.参照)
。
表22.音節末子音rの表記に用いられる「児」と「舌児」の分布
漢字
音
児
舌
児
r
全回数
巻1
巻2
巻3
巻4
巻5
巻6
巻7
巻8
巻9
巻10
巻11
巻12
1074
363
471
11
29
12
12
11
10
77
27
43
8
3761
0
7
397
306
380
400
308
417
312
346
390
498
『元朝秘史』において、第1,2巻と、それ以降の巻は、音訳用字の点で異なる点が認められる21)。
「児」と「舌児」の分布も、こうした状況に並行するものである。
第2節: 音節末子音-lの表記について
音節末子音-lの表記のデフォルトは、声母がl-である漢字を小書きにして表すことであり、用いる
漢字は「勒」
「泐」「氻」3つのみである。そのうち、
「勒」が圧倒的に多く用いられ、
「泐」「氻」が稀に
使われる(表23.を参照)。
表23.声母がl-である漢字(小書き)→モンゴル語音節末子音-l
漢字
表記音
勒
泐
l
回数
比率
2700
99.56
11
0.41
1
0.03
2712
100
氻
合計
但し、音節末子音-lの表記には、表23.の方法以外にも2種類の方法が存在する。一つは、漢字の韻
尾-nで表記する方法であり、もう一つは、漢字の韻尾 -nと漢字(小書き)の声母l-の結合で表す方法
である。
第1項:漢字韻尾-n→モンゴル語音節末子音-l
『元朝秘史』における「漢字韻尾-n→モンゴル語音節末子音-l」の表記の方式の用例をみる(表24.
参照)
。
― 14 ―
表24.「漢字韻尾-n→モンゴル語音節末子音-l」の例
ローマ字転写
漢字音訳
傍訳
出典
qa|r-|bu-|lal-|du-|su
合|児|不|闌|都|速
厮射
2;32/3-32/5
neng-|ji-|lel-|dU-|be
能|知|連|都|罷
相搜尋了
2;24/5-24/6
ci-|ul-|ju
赤|温|周
聚着
2;20/3-20/8
「漢字-n(韻尾)→モンゴル語-l(末子音)」の表記の方式に関して、『元朝秘史』では、7種類の
漢字で9種類のモンゴル語音が表記されている(表25.参照)。
表25.「漢字韻尾-n→モンゴル語末子音-l」の集計
漢字
対音
回数
川
cOl22)
1
lal
1
闌
連
ral
2
lel
2
完
ol
1
舌闌
ral
1
舌鄰
ril
6
屯
tUl
1
温
Ul
5
ul
10
合計
30
漢字の韻尾-nでモンゴル語の音節末子音-lを表すやり方は、『元朝秘史』以前の漢字音訳の資料に
も見られる。例えば、元代に成立した漢語・モンゴル語対訳語彙集『至元訳語』には、漢字韻尾-n
でモンゴル語音節末子音-lを表している23)。また、他の複数言語の『華夷訳語』にもこのようなケー
スが見られる(更科慎一2003参照)。この方式は、漢字による末子音-l表記が伝統な音訳方法であっ
たといえる。漢字韻尾-nでモンゴル語音節末子音-lを表す方式に比べて、『至元訳語』よりも文献と
して新しい『元朝秘史』に使われた「声母がl-である漢字を小書きにして、モンゴル語音節末子音-l
を表す」といった方式は、改新されたものであるといえよう。
第2項:「複合漢字」による「1モンゴル語音」の表記
「漢字-n(韻尾)+漢字(小書き)l-(声母)→モンゴル語-l」の表記方式の例を表26.に示す。
表26.「複合漢字→モンゴル語音節末子音-l」の例
ローマ字転写
漢字音訳
傍訳
出典
Si-|ca-|bal-|ja-|ju
拭|察|班勒|札|周
爬着
1;13/1-13/7
a-|yil
阿|因勒
營
2;21/8-22/4
hau-|ul-|ju
好|温勒|周
奔着
1;34/4-34/8
― 15 ―
「漢字-n(韻尾)+漢字(小書き)-l(声母)→モンゴル語音節末子音-l」の表記方式に関して、『元
朝秘史』では、29種類の組み合わせで、33種類のモンゴル語音が表される。モンゴル語音節末子音-l
は、漢字を組み合わせて表記されている(表27.を参照)。表27.のような二つの漢字(発音記号であ
る小書きの「中」「舌」は除外)を組み合わせて表記された漢字を「複合漢字」と称する。
表27.「複合漢字→末子音が-1である音節」の集計
漢字
音 回数
漢字
音
回数
班勒
bal
1
闌勒
ral
1
奔勒
bul
5
舌連
勒
rel
5
川勒
cOl
3
連勒
rel
2
真勒
jil
2
舌鄰
勒
ril
49
勤勒
kil
4
rul
1
坤勒
kUl
2
rUl
3
闌|勒
lal
3
申勒
Sil
5
連勒
lel
2
旋勒
sOl
1
侖勒
lul
4
散勒
sal
1
mul
1
孫勒
sul
1
mUl
1
團勒
tOl
2
nil
1
屯勒
tUl
1
ol
1
ul
22
門勒
紉勒
完勒
中渾
勒
渾勒
舌闌
勒
Ol
7
qul
4
qul
1
ral
5
舌侖
勒
温勒
Ul
11
因勒
yil
4
寅勒
yil
1
合計:157
「温」と「温勒」が第1
表27.のうち、
「温」と「温勒」が現れる巻には表28. のような偏りがある。
~2巻に集中することは、注目に値する。
表28.音節末子音-lの表記に関わる「温」と「温勒」の分布状況
漢字
音
全回数
巻1
巻2
巻3
巻4
巻5
巻6
巻7
巻8
巻9
巻10
巻11
巻12
温
ul
10
3
7
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
温
Ul
5
2
3
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
温勒
ul
22
11
11
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
温勒
Ul
11
5
5
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
『元朝秘史』の第1~2巻と、それ以降の巻の間で、音訳用字が異なる点について既に言及したが、
ここで、音節末子音の「温」と「温勒」の出現も、それに並行していることを指摘しておきたい。
第3節: 音節末子音の特殊表記のまとめ
上に見たように、『元朝秘史』におけるモンゴル語音節末子音の漢字表記には、①漢字の韻尾によ
る表記、②漢字一字による表記、③複合漢字による表記、といった三つの方式が認められる。一般
― 16 ―
的には、上述の三つの表記方式のうち、①又は②が用いられるが、音節末子音lの場合、三つの方式
が用いられる。なお、モンゴル語の音節末子音の表記に用いられた三つの方式の出現回数と比率を、
次の表29.にまとめる。
24
表29.音節末子音の表記方式と出現回数・比率24)
音節末子音
全回数
漢字の韻尾による表記 漢字一字による表記
複合漢字による表記
b
545
0
545(100)
0
q
1169
0
1169(100)
0
k
844
0
844(100)
0
t
1902
0
1902(100)
0
s
839
0
839(100)
0
S
2
0
2(100)
0
c
5
0
5(100)
0
0
4868(100)
0
0
0
r
4868
ng
1222
1222(100)
n
8906
8874(99.64)
32 (0.36)
m
321
287(89.41)
34(10.59)
l
2899
30(1.03)
2712(93.55)
157(5.42)
合計
23522
10413(44.27)
12952(55.06)
157(0.67)
0
0
( )内は%
表29.のデータから、次の点が提示できよう。
モンゴル語の12種類の音節末子音を表す三つの方式において、出現率が一番高いのは「漢字一字
による表記」(55.06%)であり、その次は「漢字の韻尾による表記」(44.27%)である。出現率が最
も低いのは「複合漢字による表記」(0.67%)である。一方、表記される音節末子音の種類から見れ
ば、「漢字一字による表記」は-b,-q,-k,-t,-s,-S,-c,-r,-lの9種類であり、種類数が一番多い。「漢字の韻尾
による表記」は-n,-m,-ng,-lの4種類である。「複合漢字による表記」は、末子音-lのみである。
更に、モンゴル語の12種類音節末子音を、表記に用いられる三つの方式との対応関係から、次の4
つのグループに分けてみることができる。
(1)音節末子音-b,-q,-k,-t,-s,-S,-c,-rは、漢字一字による表記方式のみである。
(2)音節末子音-ngは、漢字の韻尾による表記方式のみである。
(3)音節末子音-n,-mは、漢字の韻尾によって表記される以外に、漢字一字でも表されるケースが
ある。
(4)音節末子音-lの表記に、三つの表記方式すべてが用いられるが、「漢字一字による表記」の出
現率は93.55%で、圧倒的に高い。「漢字の韻尾による表記」は1.03%で、出現率が非常に限られてい
る。これに比べて、
「複合漢字による表記」は5.42%である。
― 17 ―
あとがき
『元朝秘史』モンゴル語の漢字音訳では、581種類の漢字によって、376種類のモンゴル語音が表
されている。全巻に亘って、漢字一字又は複合漢字によって表された音が97761音(延べ数)である。
全97761音のうち、24993音が特殊表記方式によって表されており、特殊表記方式は全体の25.57%を
占めている。
『元朝秘史』の漢字音訳における特殊表記の規則を、次のように示すことができよう。
(1)頭子音が、破裂音q-とふるえ音r-の場合、q-とr-に一致する子音が音訳当時の漢語に存在しな
いため、その表記には、一般に次の①、②の二つの方式が用いられる。
①漢字「小書き(中)+ x-/k‘-/k-声母」→ モンゴル語「頭子音q-」
②漢字「小書き(舌)+ l-声母」→ モンゴル語「頭子音r-」
漢字の声母とモンゴル語の頭子音の対音の観点からすれば、①に関しては、漢語には存在しない
口蓋垂音q-の場合、一般に「声母[x-+(中)]→頭子音q-」(頻度:6539/94.58%)となる。しかし同じモ
ンゴル語の頭子音q-の表記において、「声母[k‘-+( 中 )]→頭子音q-」(頻度:19/0.27%)と、「声母
[k-+(中)]→頭子音q-」(頻度:10/0.14%)といった対音も現われる。すなわち、モンゴル語の口蓋垂
音q-の表記には、声母x-と声母k‘-とk-が用いられるが、声母x-が用いられることが圧倒的に多く、声
母k‘-とk-が用いられるのは稀である。音訳において声母がk‘-又はk-である漢字を使用する際には、
音以外の要素を考慮している。
なお、モンゴル語の口蓋垂音q-の表記には、「声母x-→頭子音q-」(頻度:273/3.95%)、「声母k‘→頭子音q-」(頻度:62/0.90%)、「声母k-→頭子音q-」(頻度:11/0.16%)という対音も存在する。
これら3つの対音のうち、
「声母x-→頭子音q-」が比較的多く現れるが、
「頭子音q-の表記に声母x-が優
勢的に用いられる」といった状況に一致するものである。
②に関しては、「声母[l-+(舌)]-→頭子音r-」が、延べ4419回現れ、ふるえ音全体の98.68%を占める。
よって、モンゴル語「頭子音r-」においては、
「声母[l-+(舌)]-→頭子音r-」という表記方式が一般的で
ある。
但し、上の①と②に関して、次のような例外③、④が存在する。
③漢字「小書き(中)+ x-声母」→ モンゴル語「頭子音h-/k-」
④漢字「小書き(舌)+ l-声母」→ モンゴル語「頭子音l-」
③に関しては、表記対象音が口蓋垂音q-ではないのに、発音補助記号「中」を伴うことである。そ
の使用状況は、「声母[x-+(中)]→頭子音h-」(頻度:33/3.50%)である。
③、④の例外表記が、上の①、②で示した「一般規則」に違反する一方、
「声母x-→頭子音h-」/
「声母k‘→頭子音k-」及び「声母l-→頭子音l-」」といったデフォルト表記にも抵触するため、この例
― 18 ―
外表記③、④に関しては、表記上のゆれのためであると言えよう。
④に関しては、「声母l-→頭子音r-」(頻度:59/1.32%)と、「声母l-/[l-+(舌)]→頭子音l-」(頻度:
227/4.29%)といった例外表記が存在する。
先行研究において、「声母l-→頭子音r-」の場合は、小書きの「舌」を抜けたとし、「声母l-/[l-+(舌)]
→頭子音l-」の場合は、小書きの「舌」が誤って追加されたとされる。一般には、脱落の方が発生し
やすく、追加の方が生じにくいと考えられる。但し、実際には、「脱落:1.32%」の確率より、「追
加:4.29%」の確率が上回っている。そのため、「声母l-/[l-+(舌)]→頭子音l-」に関しては、単なる
「追加である」と判断するには問題があり、それには、音訳者が「側面接近音l」を「ふるえ音r」と
して混同した可能性が考えられる。
(2)モンゴル語の音節末子音が、漢語の韻尾にて表示できる場合、一般に「通常方式」で表記す
る。但し、モンゴル語の音節末子音の種類が漢字一字で表記できるものより多いため、-n,-m,-Nしか
持たない漢語の韻尾では表しきれない。そこで、音節を分解して表記するといった方式が考案され
る。音節末子音の「通常表記方式」と「特殊表記方式」の関係を、漢語、モンゴル語の両言語の音
節構造の観点から示せば、次の⑤、⑥の通りである。
⑤モンゴル語「(C)VC1」← 漢語「(C)VC1」
⑥モンゴル語「(C)VC2」← 漢語「(C)V + C2V」
(※C1=n,m,ng;C2=-b,-q,-k,-t,-s,-S,-c,-r,-l)
一方、音節末子音-lの表記はユニックであり、次の⑦、⑧、⑨のような三つの方式が用いられる。
⑦「漢字-n(韻尾)→モンゴル語-l(末子音)
」:「-n→-l」
(伝統方式)
⑧「漢字(小書き)l-(声母)→モンゴル語-l(末子音)」
:「l-→-l」(改新方式)
⑨「漢字-n(韻尾)+漢字(小書き)l-(声母)→モンゴル語-l」:「-nl-→-l」(伝統+改新)
⑦から⑨に示したように、音節末子音-lの表記において、「伝統方式」と「改新方式」、「伝統方式
と改新方式の組み合わせ」があるが、『元朝秘史』では「改新方式」が、優勢に用いられている。
― 19 ―
註
1) 『元朝秘史』の原典は、①モンゴル語を漢字音で表記した「音訳」
、②音訳の右側に漢語をもって
施した「傍訳」、③各節末における該当節の意味を漢語で訳した「総訳」、といった三つの項目から
なる(付録参照)。
2) 現存する『元朝秘史』の版本は、
「12巻本」と「15巻本」という二つの系統に分けられる。「12巻本」
には「顧広圻本」と「葉徳輝本」という二種がある。
「顧広圻本」は、『四部叢刊』に収録されてい
るため、「四部叢刊本」とも称される。
「15巻本」は、『永楽大典』に収録された版本である。この
版本には、銭大昕が書いた「跋」があるため、
「銭大昕本」とも称される。
3) 『華夷訳語』(甲種本)は、1382年(洪武15年)に明朝の翰林院侍講の火源潔、同編修馬沙亦黒らによっ
て編纂された漢語とモンゴル語の対訳語彙・文例集である。本稿では、栗林均(2003)において刊
行された甲種本『華夷訳語』(『涵芬樓祕笈』第四集)を参照する。
4) 『華夷訳語』
(甲種本)の「凡例」には次の項目がある。
一。字傍小注中字者。乃喉內音也。如中合中忽之類。
一。字傍小注舌字者。乃舌頭音也。必彈舌讀之。如舌児舌里舌剌舌魯舌侖之類。
一。字傍小注丁字者。乃頂舌音也。以舌尖頂上齶鄂音讀之。如丁溫丁兀丁豁丁斡之類。
一。字下小注勒字者。亦與頂舌同。如冰呼莫勒孫之類。
一。字下小注黑字惕字克字者。皆急讀帶過音也。不用讀出。
一。字下小注卜字必字者。皆急讀合口音也。亦不用讀出。
5) 音訳において現れる一部の特殊文字を、コンピュータ処理の便宜上、漢字の組み合わせで示す。こ
うした漢字の組み合わせと原典の字形との対応について、付録[2]を参照。
6) 「豁」は『中原音韻』に現れないが、『中州音韻』には「歌戈韻」とされ、『蒙古字韻』には「歌韻
曉匣合母」とされているので、原音をxuoと推定する。
7) 「帢」は『中原音韻』に存在しないが、
『蒙古字韻』には「麻韻溪母」と記されている。「帢」の原
音をk‘iaと推定する。
8) 「[窟+鳥]」は意味表示のために造られた形声字であり、「窟」が音符、
「鳥」が意符である。よっ
て、原音の推定は音符の「窟」に従う。
9) 「鶤」は『中原音韻』に現れず、
『蒙古字韻』には「真韻見母」と記してあるため、原音をku´nと
推定する。
10) 「崑」は『中原音韻』に存在せず、『蒙古字韻』には「真韻見母」と記録しているので、原音をku´n
と推定する。
11) なお、maqalaiという語が全9回現れるが、1回だけは「中帢」が用いられており、それ以外の8回は
「中合」が用いられている。
12) 『元朝秘史』における音訳漢字の原音の推定については、杨耐思(1981)に基づいているが、服部
四郎(1946)も参照にしている。
13) 『元朝秘史』の漢字音訳本は明朝時代に音訳されたものであるが、原本は未だに発見されていない。
現在に伝わっている版本は清朝時代に写したものである。
― 20 ―
14) 表17.のローマ字転写において、ハイフン「-」は、モンゴル語の音節の区切りを表す。ローマ字転
写と漢字音訳において、縦棒「|」は、漢字に表されるモンゴル語音の区切りを示す。音訳漢字の
左上の「中」
「舌」といった小書き漢字は、発音補助記号として用いられたものである。出典の数字
は『元朝秘史』の「巻;丁/行」を表す。
15) 服部四郎(1946)では、『元朝秘史』における漢語からの借用語「太子」の「子」といった漢字の
音をdzと推定している。服部氏の推定に従えば、モンゴル語の音節構造からして、このdzが音節末
子音に当たる。但し、Ligeti(1971)では、「子」をsiと転写している。本研究に用いるコーパスの
ローマ字転写はLigeti(1971)に基づくため、
「太子」の「子」は音節末子音の表記漢字として扱わ
れない。
16) 母音Uは前舌・円唇母音であり、後舌・円唇母音のuに対立する。
17) 子音jは、硬口蓋破裂音である。
18) 音節末子音sの表記に用いられる「思」といった漢字には、普通のサイズで書く場合(大字)と、
小さく書く場合(小字)の二種類ある。
19) ここで、大字/小字の区別や、発音補助記号あり/なしの区別を種類分けの対象にしない。「思、
思」と、「児、舌児」を、それぞれ同じ種類として扱う。
20) 「末子音-Sを表す「失、室」のうち、「室」は、「小屋」を表すqoSという語の意味に合わせて用いた
ものであり、末子音-lを表す「勒、泐、氻」のうち、さんずい偏の「泐、氻」は、川の名を表す語の
みに用いられたものであり、末子音-rを表す「児、峏、洏」のうち、山偏の「峏」は、山や地名を表
す語のみに用いられ、さんずい偏の「洏」は、川の名を表す語のみに用いられる。これらの漢字に
関して、陳垣(1934)では、モンゴル語の意味に合わせて選択したものであると見なされる。服部四
郎(1946:117-127)の「全音訳漢字とその使用頻度」にも、これらの漢字には、意味に関連した
漢字のマークが付けられている。
21) 小澤重男(1994:220)では、第1、第2巻とそれ以降の巻は、成立された時期が異なるとされる。
22) 母音Oは前舌・円唇母音であり、後舌・円唇母音のoに対立する。
23) 『至元訳語』において、モンゴル語の音節末子音-lを、漢字の韻尾-nで表すが、漢字の韻尾-Nで表
す例も見られる。
24) 表29.における音節末子音の配列順序は、便宜上分布関係の内訳を視覚上分かりやすくするためで
ある。
― 21 ―
参考文献
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更科慎一2003「所謂甲種本華夷訳語の漢字音訳手法の一端」
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杨耐思1981『中原音韵音系』北京:中国社会科学出版社。
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研究班訳)早稲田大学中国古籍文化研究所。
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― 22 ―
付録[1]:四部叢刊本『元朝秘史』(第1頁)
付録[1]:四部叢刊本『元朝秘史』(第1頁)
(栗林均・确精扎布2001より)
付録[2]:特殊漢字と組合せ漢字の対照表
付録[2]:特殊漢字と組合せ漢字の対照表
原典字形
代用組み合せ文字
モンゴル語音
(中)[窟+鳥]
qu
(舌)[目+剌]
ra
[目+剌]
la
(舌)[剌+齒]
ra
(舌)[羊+歷]
ri
(舌)[馬+羅]
ro
(舌)[目+盧]
rU
― 23 ―
付録[3]:「声母x-+(中)→頭子音h-/k-」の用例
付録[3]:「声母[x-+(中)→頭子音h-/k-]の用例
モンゴル語
漢字音訳
ha|r|ban
中合|舌児|班
回数
ha|r|ba|dun
中合|舌児|巴|敦
2
ha|u|l|da|a
中合|兀|勒|荅|阿
1
ha|r|tai
中合|舌児|台
1
ha|r|qa|sun
中合|舌児|中合|孫
1
ha|r|ba|lan
中合|舌児|巴|闌
1
ha|u|l|ju
中合|兀|勒|周
1
ha|r|ba|nu
中合|舌児|巴|訥
1
ha|r|tu
中合|舌児|禿
1
ha|ra|nu
中合|舌剌|訥
1
ha|r|ban
中合|児|班
1
ha|ra
中合|舌剌
1
ha|t|qun
中合|惕|渾
1
ho|r|cin
中豁|舌児|臣
2
ho|q|to|l|ju
中豁|黑|脫|勒|周
2
ho|r|ci|ju
中豁|舌児|赤|周
1
hu|ya|ju
中忽|牙|周
2
hu|tan
中忽|壇
1
hu|bi|s
中忽|必|思
1
hu|ra|qa|la|ju
中忽|剌|中合|剌|周
1
hU|l|de|jU
中忽|勒|迭|周
2
hU|l|de|e|t
中忽|勒|荅|額|惕
1
hU|l|de|be
中忽|勒|迭|罷
1
hU|k|de|re|jU
中忽|克|迭|舌列|周
bU|kUi
不|中灰
neU|U|kUi
耨|兀|中灰
3
tO|re|kUi
脫|舌列|中灰
2
kU|r|kUi
古|舌児|中灰
2
Sing|ge|kUi
升|格|中灰
2
ke|e|kUi
客|額|中灰
2
U|kU|l|dU|kUi
兀|窟|勒|都|中灰
1
i|re|k|de|kUi
亦|舌列|克|迭|中灰
1
i|de|kUi
亦|咥|中灰
1
U|kU|kUi
兀|窟|中灰
1
ge|ci|ki|le|kUi
格|赤|乞|列|中灰
1
Un|ji|kUi
温|只|中灰
1
tU|sU|r|kUi
禿|速|舌児|中灰
1
de|bU|l|kUi
迭|不|勒|中灰
1
kU|r|kUi
古|児|中灰
1
O|k|kUi
斡|克|中灰
1
nO|kO|ce|kUi
那|可|扯|中灰
1
O|s|kUi
斡|思|中灰
1
ye|U|t|ke|l|dU|kUi
也|兀|惕|客|勒|都|中灰
1
ke|e|l|dU|kUi
客|額|勒|都|中灰
1
5
1
26
― 24 ―
付録[4]:「声母l-+(舌)→頭子音l-」の用例
付録[4]:「(舌)+声母l- →頭子音l-」の用例
モンゴル語
漢字音訳
qu|qu|la|ju
中忽|中忽|舌剌|周
tu|la
禿|舌剌
1
sa|ra|u|la
撒|舌剌|兀|舌剌
1
a|r|bi|la|ju
阿|舌児|必|舌剌|周
1
mo|ri|la|tu|qai
秣|舌驪|舌剌|禿|中孩
1
mo|ri|la|ju|ui
秣|舌驪|舌剌|主|為
1
i|le|e|sU
亦|舌列|額|速
1
O|ge|le
斡|格|舌列
2
i|le|jU|Ui
亦|舌列|主|為
2
i|le|rUn
亦|舌列|舌侖
8
i|le|jU
亦|舌列|周
3
ke|b|te|U|le
客|卜|帖|兀|舌列
2
i|le|k|sen
亦|舌列|克|先
1
i|le|t|kUn
亦|舌列|惕|坤
1
i|le
亦|舌列
5
e|re|U|le|jU
額|舌列|兀|舌列|周
1
qa|li|un
中合|舌里|温
1
ja|r|li|q
札|舌児|舌里|黑
1
ho|k|to|li|a|t
豁|克|脫|舌里|阿|惕
1
dU|li
都|舌里
1
ke|re|U|li
客|舌列|兀|舌里
1
ja|li|ra|ba
札|舌里|舌剌|罷
1
sa|a|lin|cin
撒|阿|舌鄰|臣
1
ki|ling|la|ju
乞|舌零|剌|周
2
ki|ling|la|a|su
乞|舌零|剌|阿|速
1
ki|ling
乞|舌零
1
do|lo|an
朶|舌羅|安
1
O|lO|s|cU
斡|舌羅|思|抽
1
bO|lO|k
孛|舌捋|克
1
o|ro|u|lu|run
斡|舌羅|兀|舌魯|舌侖
2
u|lu|s
兀|舌魯|思
1
bo|lu|run
孛|舌魯|舌侖
1
qu|ra|u|lu|a|su
中忽|舌剌|兀|舌魯|阿|速
1
sa|ki|u|lu|a|su
撒|乞|兀|舌魯|阿|速
1
i|re|U|lU|e|t
亦|舌列|兀|舌魯|額|惕
1
ge|mU|ri|U|lU|e|sU
格|木|里|兀|舌魯|額|速
1
e|e|re|U|lUn
額|額|舌列|兀|舌侖
1
ke|b|te|U|lUn
客|卜|帖|兀|舌侖
2
a|ra|lun
阿|舌剌|舌侖
1
bo|lun
孛|舌侖
5
― 25 ―
回数
1
コーパスに基づく『元朝秘史』モンゴル語の漢字音訳における特殊表記に関する考察
2010年5月
第1版第1刷発行
非売品
編集・発行 : 富士ゼロックス小林節太郎記念基金
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