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東 京 国 立 近 代 美 術 館 ニ ュース
あなたの肖像
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2 0 1 4 年 2 – 3 月号
工藤哲巳回顧展
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│
﹁ あ なたの肖 像
工藤哲巳回顧展﹂
会期 二〇一四年二月四日
会 場 美 術 館 企 画 展 ギ ャ ラ リ ー [ 一 階]
│三 月 三 十 日
工藤さんへ
復 活した﹁画壇﹂は 戦争突入以前と、構造的にはなんら 変りがないものでした。鋭 敏な
貴方が、これでは﹁自己の 存 在の 確証﹂の 求めようがないと 感じたのも 無理はありませ
﹁日本反芸術﹂が、まず何よりもそういう状況に対する﹁反︵ Anti
︶
﹂ないし﹁否
んでした。
︶
﹂となったのも当然だった。ただ貴方は、東京の﹁ネオ・ダダ﹂のすぐ傍に居ながら
︵ Non
グループには入らなかった事が象徴しているように、実作者だけれど批評的でした。貴
表現主義﹂﹁ポップ・アート﹂﹁オップ・アート﹂﹁ピカピカ・チカチカ芸術︵ テクノロジー・アー
│
遅れた追 悼
方は、自分の活動は結局は﹁批評活動﹂だ、と言ったこともありましたね。
﹁自己の存在の確証﹂を求めて、
早々と、とりあえず日本を離れてパリに行ったのも、
日本では遠望するしかないキリスト教社会に身を置いてみるという実験、いや失礼、捨
、 無沙汰しました。一九九〇年十一月十四日に東京谷中のお寺での通夜
工藤さん ご
でお訣れして以来です。あれからもう四半世紀近くも経ったのですね。今度の大きな巡
ト︶
﹂﹁ミニマリズム﹂﹁概念芸術﹂と、明治になって西欧美術を次々に﹁模倣・学習・追随・
千葉成夫
て身の闘いだったのでしょう。
工藤さん、貴方や東京の﹁ネオ・ダダ﹂の何人かがパリやニューヨークに居を移し
ただ
たために日本美術が弱体化した、かもしれません。いま振り返れば、そうも言いうるの
回展の皮切りの展示を大阪の国立国際美術館で見ました。もう貴方の話に接すること
日本化﹂していったのと変らない。まるで同じ映画のリメイク版を観ているみたいです。
再会
はできないけれど、沢山の作品が集められた会場を一巡すると、貴方の声が聞こえてく
またもや、海の彼方からやって来る﹁新しい美術﹂に呑み込まれてしまったのです。その
ではないでしょうか。それが証拠に、一九六〇年代の日本美術は﹁アンフォルメル﹂﹁抽象
るようでした。一九八一年 末から 幾つものシンポジウムを一緒にした[ 註 ]ので、そし
とき海の彼方に居た貴方は、この状況をどう見ていたのでしょうか。自身の捨て身の闘
館での﹁マルセル・デュシャン展﹂で四年ぶりに会いましたね!︶でしたから、いま思えば、八二
パリで、堀 浩 哉に 連れられて 貴 方を 訪ねたのが一九七七年。僕が貴 方に 会った 最 初
でした。貴方が日本への帰国のランディングを始めたのが一九八一年︵ 軽井沢の高輪美術
脱を非難しているのではありません。だって、これは﹁クレオパトラの鼻﹂という話です
来物の花盛りなんて許しはしなかったのではありませんか。いや工藤さん、僕は戦線離
、貴 方︵ がた︶の 不 在が、いや﹁日 本 反 芸 術﹂がもたらしたマイナス 面だったか
これが
もしれません。貴方︵ がた︶が日本にとどまっていたら、きっと、たぶん、もしかして、外
いで精一杯で、それどころではなかった? それはそうですね。
年のシンポジウムは貴方にとっては﹁ランディング﹂のための最初の地ならしの一環だっ
一時帰国
からね。
ウムでした。あの時、貴方があと十年も生きないなどとは思いも寄りませんでした。
がた︶が不 在の 間に 同じ 映 画のリメイク 版が 制 作されたことは
でも 工藤さん、貴 方︵
﹁クレオパトラの鼻﹂ではなく事実です。
﹁外来物の花盛りなんて許さない﹂という思想と
派﹂からです。しかし工藤さん、貴方は本当に敏感な人で、
﹁戦後﹂の捉え直しで思想的
不在
一九五〇 年 代 後 半に 活 動を 始めた 時、周 囲と 貴 方 自 身は 思 想と 精 神と 芸 術の 焼け
跡、空虚の 中にありました。政治と 社会の 体 制は﹁旧体制︵ アンシャン・レジーム︶
﹂と﹁ア
﹁もの派﹂ではなく、後に﹁ポスト
に揺れ動いていた一九六九年の日本に一時帰国して、
作品が本格的に現れるのは、やっと一九六〇年代最末期以降、
﹁もの派﹂と﹁ポストもの
﹂とを足して二で割ったものであり、いち早く
メリカによる占領体制︵ ないし植民地体制︶
貴方
3
いた筈です。その﹁熱﹂に煽られたかのような立て続けの、同じメンバーによるシンポジ
た。そんな 熱気のようなものを 堀浩哉さん、たにあらたさん、松浦寿夫君、みな 感じて
てきたのはあの一九八二年の貴方の話しぶりでした。
てそれ以降は貴方とそんなに頻繁に会うことはなかったので、今回の会場で僕に聞こえ
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もの派﹂を代表する一人となる堀浩哉︵ 当時は﹁美共闘﹂の闘いのさなかにいた︶たちに会っ
ているのですね。それから 工藤さん、パリの﹁五月 革 命﹂の 時に 貴 方が 学 生たちのデモ
の中に飛び込んでいたことについて、僕は亡き平賀敬さんから少し聞いています。貴方
は熱い人だった。平賀さんは貴方の翌年でしたか、同じ﹁国際青年美術家展﹂で賞をも
らってパリに行き十年あまり滞在しましたね。いや、この話はまたにしましょう。
│
僕 理 解はこうです
工藤 哲 巳は﹁日 本 反 芸 術﹂の 渦の 中で 異 和を 感じて
つまり の
いたが、それを未だ言葉にはできなかった。これが、彼の作品が﹁反芸術﹂というよりは
﹁批評的なもの﹂だった理由である。未自覚な分、
﹁反芸術﹂的だったが、同時に彼のアン
テナが深部を捉えていたことで、一九六〇年代最末期に表面化する状況をその﹁作品﹂
が孕んでいたのだ。
貴方を僕︵ たち︶の方に、ちょっと引き付け過ぎるでしょうか。でも、貴方の帰国への
﹁ランディング﹂の始まるのが、
﹁ポストもの派﹂がその作品を実現しはじめる一九八〇年
代初頭であることは、どうも偶然とは思えないのです。貴方は状況を読んでいたに違い
ありません。
日本
現れなかったということです。でも、走り出したものはもう止まらないから、そのまま先
ぎたのです。これは﹁フライング﹂ということではなく、敵の本体は少し後になってしか
、貴方の出発というより﹁日本反芸術﹂の出発は、日本の﹁戦後﹂が行き詰るよ
従って
りも、そして西洋近代美術の終焉よりも、数年ないし十年近く早かった。ちょっと早す
﹁脱皮﹂とは一種の、あるいは貴方流の﹁自己否定﹂です。そしてそこから始まるのが、自
﹁脱皮﹂を﹁オチンチン﹂に託したのは如何にも貴方らしい。
めてではないにしても、です。
﹁脱皮﹂と名づけたハプニングなどはこの時が初
﹁脱皮﹂というタイトルは象徴的ですね。
鋸 山の 岸 壁のレリーフ︽脱 皮の 記 念 碑︾︵ 一九六 九 年︶[ 図 ]以 降の 十 年 間、一九 七 ○
年代の作品は、僕にはこの﹁アジャスト﹂に相当する作品群であるように感じられます。
ばならなかったのだと思います。
﹁日本反芸術﹂が駆け抜けたあ
の方へ駆け抜けてゆくしかなかったわけです。主戦場は、
身と他者とに向けられた﹁貴方の肖像﹂という、いうならば﹁人間存在そのものの問い直
己否定︵ 自分自身の美術行為じたいを問い直して俎上に載せること︶
﹂と﹁人間存在そのもの
の問い直し﹂は、芸術表現や思想にとっては恒常的に必要なものとなりました。もはや
﹁精神﹂に安住の地はないのです。
﹁表現﹂とは永続的な﹁問いかけ﹂の中にあるものです
│
戻った日本で貴方は﹁主戦場﹂を理解した筈です。勿論、そうだからといって、すでに別
、貴方の一九七○年代の作品の中に放射能の主題があることに、僕は驚きます。
また
勿論、その四十年後の﹁二○一一年三月十一日﹂の大震災による福島原発のメルトダウ
からね、工藤さん。
ンを僕達は経験してしまったからです。大阪の展示会場でその作品群を見た時、僕はふ
生活のこともあったでしょう。帰国への﹁ランディング﹂まで 十年が必要だった、という
ことになります。一方でブレーキをかけ 始めながら、他方で、やがて日本で 制作するの
の方向に走ってきてしまっているのに簡単にコースを変えるわけにはいきません。当然、
﹁五 月 革 命﹂に 続いて 日 本でも﹁大 学 闘 争﹂が 起っている。それは 何を 意 味す
パリの
という 問いかけこそが、貴方の一時帰国の真の動機だったのだと思います。
るのか
とにやってきた。だから、貴方は一九六九年の一時帰国のあと、やがて、こう言ってよけ
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013
﹁自
し﹂の 作 品 群でした。少なくとも、貴 方が一時 帰 国した一九六○ 年 代 最 末 期 以降、
図 1 工藤哲巳《脱皮の記念碑》1969 年 鋸山(千葉県房総) 撮影:吉岡康弘
ればブレーキを踏んでゆくことになったのではないでしょうか?
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だから、コースというか方向性というか、それを切り換えるか、アジャストし直さなけれ
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ラ﹄を連想しました。その近未来の日本の凄惨な状況、僕達は既にそれとそれほど変ら
と、例えば村上龍が二○一○年に出した、百年後の日本を描いた近未来小説﹃歌うクジ
﹁立体的心電図﹂の方が遙かにいいと思います。
のも、何を指しているか判然としない。
いました。しかも貴方の﹁行為﹂は自己顕示欲やナルシシズムとは無縁でした。自己顕示
、工藤哲巳とは﹁行為﹂であった、のです。
﹁行為﹂だから身体に担われるし、そ
つまり
﹂から 成っていると、二元論としてではなく 貴方は考えて
の身体は﹁肉体﹂と﹁頭︵ 頭脳︶
ない状態に置かれてしまっているのです。工藤さん、貴方のアンテナはそこまで捉えて
いたのでしょうか?
じたいが目的ではなかったからです。貴方の﹁人間不信﹂は 誰よりも 自分自身に 向けら
﹁工藤 節﹂に 接した 時、
﹁ちょっと 違うのではないかな﹂というのが 僕の 最 初の 内
その
心の反応でした。言うまでもありませんが、貴方は﹁天皇制﹂を現実のそれではなくて日
﹁日本反芸術﹂全体を見渡してみても、貴方のような 作家は、どうやら、いないよう
す。
﹁人間存在﹂の研究、いや研究というような生易しいものではない闘いをやっていたので
元に戻りますが、一九八二年の﹁連続シンポジウム﹂で 貴 方が僕︵ たち︶に熱く 語った
﹁天皇制﹂の問題ということでした。
のは、
本人の精神の奥深くに依然として横たわるものとして提起している。それはよく判って
です。それは壮絶な﹁闘い﹂だったに違いありません。
﹁ art
﹂とは自分自身に対する不信、疑い、挑発のためのものでしたからね。
れていたし、
そこに貴方の特異さがありました。自分自身を対象にして、変容ないし消滅過程にある
﹁それじたい﹂を正面から美術表現の主題にもってくることに少し
いました。それでも、
﹁それは確かに日本人にとって半ば永遠の問題
の違和感を覚えたのです。でも続けて、
貴 方は一九八一年の 草 月 会 館での 個 展︵﹁帰 国 展﹂といってもいいでしょうね︶の 図 録で
﹁直感のみで全てを判断する事、その為に酒を使った﹂とも、
﹁武者修行を支えたのが唯
、
間
貴方が出してきた作品、つまり、なんというか、あちら側︵ 例
ただ それから もなく
えば 天 皇 制の 深 部︶とこちら 側︵ 例えば 僕 達の 現 実 生 活︶とを﹁糸﹂で 繋げてみせようとし
月の一年ほど前、年譜を見ると、貴方はアルコール依存症治療でパリ郊外の病院にひと
欠だったということでしょう。僕は、貴方が酒に溺れたとは思っていないのです。この草
﹁工藤さんらしいなあ﹂とも思ったのでした。
ではあるなあ﹂、
﹁糸﹂︵﹁意
た 作 品は、正直なところ、説明的すぎてあまり 感心できませんでした。ただ、
月あまり入院したのでした。そしてそれから五年ほどは酒を断っていましたね。ご一緒
一の友﹃酒﹄であった﹂とも書いていますが、言い換えるとこの壮絶な闘いには酒が不可
図﹂の 誤 植ではありません!︶は、良く 判った。感 覚 的に 納 得しましたね。
﹁糸﹂はよかっ
した数々のシンポジウムでは缶コーヒー、その後の酒席ではお茶を飲んでいる貴方の姿
﹁形式﹂という 視点からみても、ほとんどの 作家が、時とともに、年齢とともに、ある
が今でも眼に浮びます。
、
﹁繋がるもの﹂ですね。そして﹁糸﹂は、
た!
﹁糸﹂は両端に何もなくても﹁繫げるもの﹂
細い両端の先になんにも無いと、その先の空虚が際立ちますね。か細げな﹁糸﹂であって
﹁紐﹂でない︵ 使っているのが紐でも紐っぽくなかった︶のもよかった。しかしいま思えば、貴
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方にはこの主題を展開していく時間がもう残されてはいなかったのですね。
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立体的心電図
図 2 工藤哲巳《増殖性連鎖反応 -1》1959 年
青森県立美術館蔵
行為
工藤さん、ここまで書いてきて、あらためて展示会場に戻ってみます。展示の最初の
所にあるのは 平 面 作 品ですが、厚みがあって、それは 既に 絵 画ではありません[ 図 ]
。
﹁立 体 作 品﹂という
レーション﹂というぼやけた 名 称だと、何のことだか 判りませんね。
刻だったかというと、彫刻でもなかった。今 風の﹁ミックスト・メディアによるインスタ
して、五十五年の生涯の終わりまで、絵画に戻ることは終にありませんでした。では彫
とがありました。言い換えれば、自分の行為と記録こそが重要だということです。そう
﹁立体的心電図﹂だと言ったこ
品を、絵とか彫刻とか、芸術とか反芸術とかではなくて、
貴方は東京藝大在学中に、もう絵画から離れたのでしたね。そのころ貴方は、自分の作
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がなければ 新しい表 現など 生れるべくもないし、しかし﹁反 逆﹂には 否 応なく﹁その 先﹂
﹂
とというか、必然的なことです。何故って、まず﹁反逆︵ 即ち感覚的ないし言語的な自覚︶
も、です。そしてそういうことは、二〇世紀以降の 美術表現にとってはいわば当然のこ
ほかはないように思います。たとえそれが既存の﹁絵画・彫刻﹂への回帰ではない場合で
﹁絵画﹂か﹁彫刻﹂へと着地していったと言う
いは成熟とともに、あるいは衰弱とともに、
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013
﹁
﹃合掌白刃取り﹄から﹃悟り﹄
迄の軌跡﹂と書いていました。でも、あのあとの貴方の軌跡
﹁合掌白刃取り﹂に終始しました。また酒を飲み始めたからというばかりでは
は、結局、
ありません。それが貴方の生き方、在り方であり、貴方の作品の在り方だったからなの
だと思うのです。十三歳年下の美術評論家として、没後四半世紀近く経っていることも
あるし、作品解釈以前に、作家と作品との、そしてそれらと時代背景との、繋がりの糸
は明瞭に見えます。今日は、その﹁糸﹂が僕自身と、つまり現在と、どう 繋がっているか
﹁ご冥福をお祈りしま
の一端を述べ得ただけでした。もう四半世紀近く経っているので、
。 ︵ 美術評論家、中部大学教授︶
す﹂じゃないですね。静かに﹁合掌!﹂、でしょうか[ 註 ]
註
一九八一年十二月五日、東京、原美術館/一九八二年一月二十九日、東京、ウナック・サロン/六
月二十日、東京、板橋区立美術館/八月十六日、東京、銀座絵画館/九月一日、名古屋、たかぎギャ
葉の二人だった。ちなみに、工藤さんは一九八六年まで、夥しい数のシンポジウム、座談会、対談等を
ラリー等。パネリストは文中の五人。但し、原美術館では松浦君はおらず、名古屋では工藤さんと千
ここでの工藤さんの言葉や発言類は、今度の展覧会の図録から引用した。
こなしている。
をとるものです。でも工藤さん、貴方は最後までそういう 着地をしなかった。展覧会場
﹁その 先﹂とは、通常、いずれにしても﹁着地﹂のかたち
ち 構えているからです。そして、
も、多くの関心が寄せられている。それは、彼の回顧展が欧米で相次いで開催されたこ
後記
このたびの 工 藤 哲 巳回 顧 展は、国 内では 約二十 年ぶり、東 京では 初となる。近
年、国 内 外で日本の 戦 後 美 術を 検証する 機運が高まっている。そのなかで工藤 哲巳に
│
殖
│
新しいエコロジー︾等について 語りたいのですが⋮⋮。心残り
│
養
貴 方も、むろ
ん 心 残りのまま 生涯を 終えたのですね。さっき 挙げた 草 月での 展 覧 会について 貴 方は
の行為の諸相を皆さまに感じていただければ、望外の喜びである。︵美術課研究員
桝田倫広︶
﹁工藤哲巳とは﹃行為﹄であった﹂と定義している。展覧会の準備を進めな
文中、千葉氏は
がら、私もその思いを強く抱いた。記録写真や映像も豊富に盛り込んだ本展で、工藤哲巳
つつ、現在の地点まで手繰り寄せて論じて下さった。
を端緒に、工藤の創作活動の﹁糸﹂︵ 流れ︶を、当時の美術動向や社会背景に目配せをし
、七〇年代後半から工藤と交流し、八〇年代に彼が日本に活動の軸足
千葉成夫氏は
を 徐々に移していくなかで、シンポジウムなどで同席している。このような 個人的接触
おいて彼の知名度は、残念ながらそれほど高くないかもしれない。
とからもうかがえよう。しかし工藤がパリで長く 活動していたこともあってか、日本に
合 掌! 白 刃 取
しょう。
を一巡して、それがよく判りました。この特異さにはほとんど類例がないと言うべきで
﹁その 先︵ 即ち 自 覚を 通した 作 品の 実 現︶
﹂ということが 待
がある。その 先がやってくる。
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図 3 工藤哲巳《インポ 分布図 とその 飽和部分 に 於 ける 保護 ドームの 発生》
1961-62 年 ウォーカー・アート・センター蔵 撮影:吉岡康弘
保 護ドームの 発 生︾[ 図 ]
、
﹁放 射 能による 養 殖﹂連 作、
︽接 木の 花園 / 環 境 汚 染
3
﹁追悼﹂なのでそこまで 触れ
貴方の 個々の 作品に触れる 前に紙数が無くなりました。
︽インポ分布図とその飽和部分に於ける
なくてもいいのかもしれませんが、心残りです。
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﹁ ジョセ フ・ク ー デルカ 展 ﹂
会 期 二 〇 一 三 年 十 一 月 六 日 │二 〇 一 四 年 一 月 十 三 日
会場 美術館 企画展ギャラリー[一階]
一九六〇年代というと、後に共産主義政権に対し抵抗運動を指導するヴァーツラフ・
ハヴェルも 劇作家としてのデビューを果たした時代である。ハヴェルの代表作のほとん
どは最初プラハで上演されているから、おそらく 若きクーデルカも 見ていただろう。そ
の舞台を撮影していたかもしれない。いずれにしても後にビロード革命を成し遂げるに
﹁プラハの 春﹂を 撮 影しそれが匿 名で西側に発表されることに
いたる政治的指導者と、
のシリーズを通してだったが、そこには不条理演劇を撮影していた経験が強く作用して
遊動 する精 神の記 録
よって、亡命を 余儀なくされた写真家が、六〇年代の不条理劇の 劇場空間を 共有して
ジョセフ・クーデルカの展覧会を初めて見たのは、パリの国立写真センターだった。当
時セーヌ河 岸にあった 展 示 施 設﹁パレ・ド・トーキョー﹂だったが、広い全館を 使った 個
いたのではないかと思う。それは技術的な問題というよりは、対象との距離の問題にか
港千尋
いたことに、私はあらためて強い感慨を覚えた。
展覧会ではこの劇場のシリーズの反対側の壁に、
﹁ジプシー﹂のシリーズが掛けられて
﹁ジプシー﹂は 社会学やジャーナリズムの 枠組みを 超えた、主観的なドキュメンタ
いた。
展で、その迫力に圧倒された記憶がある。エントランスを飾った写真は、雪景色の庭園
﹁ジプシー﹂が高く 評価されているのは、ジプシーを 社会的な問題として
かわっている。
リーの古典と見なされているクーデルカの代表作である。その個性が確立されたのもこ
をうろつく犬を、まるで後をつけるように撮った一枚である。展覧会名は﹁亡命︵ エグザ
取り 上げるのではなく、これを﹁他者﹂として描くことに成功したからだろう。この﹁他
ラハと東京と離れた二都市で、六〇年代の演劇が果たした役割に期せずして気づかさ
散文詩が添えられるが、その猥雑さの中でこそ写真家の鋭い視角が鍛えられていた。プ
森山の最初の写真集となった﹃にっぽん劇場写真帖﹄はよく 知られるように
ちなみに
大衆演劇、芝居小屋、ストリップといったアングラな劇場空間から始まり、寺山修司の
者﹂への視線を得たのは、舞台ではなかったかと思うのである。
イルズ︶
﹂
。黒い犬の背中に誘われて、彷徨いつづける写真家の姿を追う写真展の、鮮烈
劇場
﹁ジョセフ・クーデルカ
﹂︵ 二〇一一年、東京都写真美術館︶に
な 導入だった。
プラハ 1968
つづく 大規模な 個展となった東京の回顧展の会場で蘇ったのは、この時に見た犬の姿
だった。
不条理
分身
れることになった。
亡命者
さてチェコスロヴァキアで 写 真 家として 活 動を 始めたクーデルカが、いわゆる﹁プラ
ハの 春﹂をきっかけに 故郷を 離れ、以後ヨーロッパ各地を 放浪したことは、よく 知られ
初期に撮影していた舞台写真についてである。それは雑誌用に撮
それはクーデルカが
影した写真で、それだけではクーデルカの強い個性を読み取ることは難しいものではあ
政治亡命申請中の 身である。常識的に 考えれば、彼にとって 国境はどんな 危険が 待ち
効である。ヨーロッパ域内を通行できる許可証がその代わりとなったのだが、なにしろ
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クーデルカは、森山大道と同じ年に生まれている。美術館では、森山の初期の代表作
コレクション﹂二階︶で展示されており、そのこ
となる﹁にっぽん劇場﹂が別会場︵﹁ MOMAT
と 自体が興味深いイベントでもあった。出自もバックグランドもまったく異なる二人の
作家だが、スナップショットとコントラストの強いモノクロームへのこだわりという点で
は共通している。現代写真史を代表する二人を続けて見ることになったことで、以前は
ている。一九七〇年にイギリスに 亡命し一九八七年フランス 国籍を 取 得するまでの 十
るが、彼が当時どんな芝居を見ていたかは分かる。チェーホフは当然としても、ジロドゥ
構えているかわからない、危険な場所だろう。ひとつ間違えば、祖国に残した家族に危
気にしていなかったことを考えるきっかけになった。
やベケットそしてイヨネスコの 名がキャプションにある。いわゆる不条理演劇の 最盛期
険が及ぶともかぎらない不安定な身分である。それなのになぜ、彼は旅を続けたのだろ
七年間、彼は亡命者としての身分を生きたのだった。ふつうの人が持つパスポートは無
をクーデルカはその舞台の上で共有していたことになる。
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うか。
﹂
、
問
対
答
。
、
﹁エグザイルズ のシリーズには その いに する えがある というよりも これら
の作品がすなわちひとつの答えとなっている。それは彼の厳しい精神が、そうさせたの
は、亡命者の分身であり、彼につきそう伴侶である。辺境を彷徨い続けることができた
のは、影という伴侶がいたからではなかっただろうか。
精神
カオス︶
﹂と題された大型サイズのプリントで 構成され
展覧会場の最終部分は﹁混沌︵
ている。パノラマカメラで撮影されたこのシリーズは一九九九年に発表され、それまでと
越境
たもっとも 重要な 人間像は、祖国で 抵抗する人間、そしてジプシーである。クーデルカ
ははっきりと異なるスタイルで写真界を驚かせたが、今回はそれ以降の新作も加えられ
だ。身ひとつで祖国を追われたクーデルカに残された道は、ひとつしかなかった。写真を
は、自分の記憶に焼き付いた人間像に従うことを、どこかで意識したのではないだろう
た充実した内容だった。発表当時聞かれた批評の中には、クーデルカは変わってしまっ
﹂ 含
写真をひとことで要約することは難しい。人間、風景、動
﹁
エグザイルズ に まれる
物とあらゆる要素が含まれており、モノクロームのトーンだけがそれらを統合している。
にパノラマ表現を 行った写真家はいなかったことも 事実で、いずれにしてもクーデルカ
いかという意見もあったように記憶している。そのいっぽうで、当時これほどストレート
撮り続けること以外に生き延びる道は、なかったのである。その時点で彼の記憶にあっ
か。
だが誰もがそこから、強い孤独感や疎外感を受け取るのは、写っているモノの中にクー
は風景写真に独自の表現を確立したのだった。
たのか、もはや人間は撮らないのか、とか、パノラマ画角に頼る一種の構成主義ではな
デルカの心の状態を感じてしまうからだろう。
メラで撮影されたものではなく、横長にトリミングされている風景作品である。その初期
つはその最初期に、パノラマサイズの作品が現れていることだ。ただしそれはパノラマカ
今回、はじめてこのシリーズを回顧展の中で眺めてみて、クーデルカその人にとっては
何ら変わるものではないことがわかる。少なくともそこにはいくつかの理由がある。ひと
物のこともある。実 体が 何なのか
画 面にはしばしば 影が 現れる。それは 壁に 落ちる 影のこともあれば、正 体 不 明
その
の 人 形 や、テレビ 画 面 に 映 る 人
はわからないモノの 影、あるいは
には、おそらく写真を志す 者が誰もするように、多くの実験を試みている。総じてグラ
画面は、ふつう一目では把握できない長さを持っている。撮影する者
パノラマという
は一目でシャッターを切るが、それを眺めるほうは、視線を移動していって初めて知覚
フィック的な実験を多く行っていたようだが、その中にパノラマが出てくるのである。
実 体から 取り 残されてしまったよ
うなモノが、微 妙なバランスで 画
面に 現 れるのである。それは、た
とえば 森 山 大 道やリー・フリード
できるような画面ということになる。言い換えれば、目に足が生えて画面上を移動して
ゆくのが、パノラマ写真なのだ。その 意味でも 遊動するクーデルカにとっては必然的な
展開ということができるだろう。
﹁境 界﹂が 撮 影 地に 現れる 点でも、そうである。内 戦 後のベイルートや 分
さまざまな
断されたパレスチナは、統 合され 域 内の 移 動が 自 由 化される 欧 州とは 真 逆に、域 内の
移動が不可能になってゆく土地である。その現実にクーデルカが、変わらぬ犬の視線を
もって執拗に挑むとき、わたしたちは彼の半生が、もうひとつの﹁抵抗﹂ではなかったか
と 思い当たる。祖国が解放されベケットもイヨネスコもハヴェルもいなくなったその 後
にも、ひとときも休むことなく遊動し問い続ける、抵抗する精神の証である。
︵ 写真家、映像人類学者︶
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ランダーが 撮 る 自 分 自 身 の 影 と
は 異なる。鏡 像 的な 影でもなけれ
ば 思 弁へ 誘うような 影でもない。
言ってみれば、人 間から 切り 取ら
れて 浮 遊する、根 無し 草としての
影である。
心
理解す
亡命者の をほんとうに
ることは難しい。だがその影から、
亡命という 状態を想像することは
できる。おそらく 画 面に 現れる 影
ジョセフ・クーデルカ 「エグザイルズ」
より《ウェールズ、イギリス》1974 年
© Josef Koudelka / Magnum Photos
7 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Feb.-Mar. 2014 ]
│
﹁ 現 代 の プロダ ク ト デ ザイ ン
Ma de in Ja paを
n 生 む ﹂展
萩原修
会期 二〇一三年十一月一日 │二〇一四年一月十三日
会場 美術館 ギャラリー 4[ 二 階]
日 本のものづく り を 活かした
プロダクトデザイン
│
ングデザインセンター OZONE
﹂で、デザインに関する展覧会の企画をするようになった
からだ。十年間で、大小三〇〇以上の展覧会を担当する中で、千人以上のデザイナーと
出 会った。建 築、インテリア、プロダクト、グラフィックと 様々なジャンルのデザイナー
と、これからの暮らしにおけるデザインについて考え提案する日々だった。ちょうどバブ
ル経済もはじけ、大量生産、大量消費、大量廃棄が見直され、自分たちの足元を見つめ
直し、地に足のついた等身大のデザインが求められていた。
数人のプロダクトデザイナーが大企業を飛び出し独立し、マーケットに対してどうし
たら売れるかのデザインではなく、デザイナー自身の感覚として自分が使いたくなるモ
ノをデザインし提案するような動きがはじまった。それまで、大学を卒業した優秀な人
の多くは、企業のインハウスデザイナーとして仕事し、家電製品、自動車など日本の工
業デザインを世界に広める役割の一旦を担ってきた。それはそれで重要なことだったの
だが、右肩上がりの経済成長にかげりが見え時代が変わっていく中で、デザイナー自身
が本当にいいと思うものをデザインするために、独立したデザイナーとして活動するこ
とがひとつの選択肢として現実的になってきた。
高度経済成長前の一九六〇年代の日本のデザインが見直され、柳宗理がふたたび脚
光を 浴びたのもこの 時 期のことだ。建 築の 分 野では、三 十 代の 建 築 家が 注 目され、一
を生む﹂の会場には、日本全
Made in Japan
展覧会﹁現代のプロダクトデザイン
国の様々な産地の製品が並んでいる。それらからは、伝統的な技術や素材、丁寧につく
があり、日本におけるプロダクトデザインの 新しい潮流を 垣間みることができる。もち
﹁デザイナーズマン
般の人が建築家に住宅のデザインを依頼することがブームになった。
られた 手 仕 事の 雰囲気を 感じるとともに、精 緻なデザインならではの 実用的な 造形美
ろんそれらは、突然に生まれたわけではなく、時代の流れの中で様々な要因が重なって
ション﹂や﹁デザイン家電﹂といった 怪しげな 言葉が雑誌を 賑やかし、良くも 悪くも﹁デ
│〇四年
ザイン﹂という言葉が誤解も含め、多くの人に浸透していった。
社会の変化にあわせるように生まれてきた。
出品デザイナーである大治将典、小泉誠、城谷耕生、須藤玲子の四人は、それぞれに
仕事の中で、つくる現場を大事にして、時間をかけて産地やメーカーとの関係を再構築
二〇 〇 〇
日本各地には、ものづくりの 産地がたくさんある。それは、陶磁器、木工、漆、金属
加 工、繊 維、紙 製 品など、様 々な 素 材や 技 術が 集 積している 場 所である。江 戸 時 代か
産地
尚紀、山崎宏、山田佳一朗、吉田守 孝の六人は、一緒にプロジェクトを 立ち 上げ、協力
ら 続く 伝 統 的な 産 地もあれば、明 治 以 降、あるいは、戦 後に 生まれた 産 地もある。古
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することで、時 代の 変化に対 応しながら、素 晴らしい製品を 生み 出し 世に送り 出して
しながら、デザイナー自らリスクを 負ってものづくりに取り 組み、販売まで手がけるこ
くからの 産地は、時代の 変化に 対応しながら、自ら 変化することで 生き 延びてきたと
きた。また、センヌキデザインプロジェクトのメンバーである大治将典、小野里奈、増田
とで、依頼に頼らないデザインの方法を模索している。今後、彼等のような動きがます
ころもあれば、時 代の 変 化についていけずに、後 継 者がいないことから 衰 退していっ
ある。
な 機 械 化、合 理 化をして、その 価 値を 失わずに、差 別 化することで 続いてきた 産 地も
りは、大きく 変 化してきた。それでも、伝 統 的な 手 仕 事の 良さを 継 承しながら、必 要
ます増え、日本におけるものづくりのあり方が大きく変わり、日常的に使う良質な日用
│
一九九四 九九年
たところもある。明 治 以 降の 西 欧 化、近 代 化の 中で、機 械 化、量 産 化されたものづく
考
品が広まっていくことに期待したい。
暮
僕が多くのデザイナーと 接するようになったのは、一九九四年に新宿にできた﹁リビ
Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Feb.-Mar. 2014 ] │ 8
高度成長期やバブル経済期には、こうした伝統的な手仕事の延長線にある高額な商
品でも売れた時代があった。この時期にもデザイナーの多くが産地とのものづくりに取
﹁デザイナーがデ
り組むことになったが、デザイナーの作品づくりや話題性が先行して、
ザインすると売れない﹂とまで言われた時代もあった。
しがられているのかを実感した。
、日本のものづくりを活かしたデザインが海外に広まっていくのだ
これからますます
ろう。ことさらに日本らしさを 意識するのではない、伝統や 文化をきちんとふまえ、物
以降
二〇一〇年
まねではない、日本のデザインがさらに花開こうとしている。
生
、戦後から切り盛りしてきた経営者や職人から、世代が変わりはじ
産地のメーカーは
めている。三十代、四十代の若手の経営者も増えてきた。少し前まで、産地には、金儲
信頼関係
く、時間をかけて、いいものをつくっていきたいという欲求が高い。芸術品ではなく、暮
けが好きな経営者と頑固な職人がいるイメージがあったが、こうした若い世代は、デザ
時代を経て、二〇〇〇年以降、ふたたび、そうした産地に出向き活動するデ
こうした
ザイナーが増えてきた。彼らは、日本の伝統的な素材や技術に興味を持ち、何よりもつ
らしの中で使える道具として、適正な価格で流通させたいという気持ちがある。こうし
﹁技術を持ったものづくりが好きな職人﹂と﹁セン
インへの理解度が高い経営者も多く、
くる現場から発想するデザインを重視する傾向がみてとれる。一過性の取り組みではな
たスタンスのデザイナーが産地との関係を築くことで、産地のデザインは、静かに変化
スを持った暮らしを知るデザイナー﹂が話し合いながら、デザインと品質を大事にして、
かまできちんと考え、模索しながら進めていくことが大事になってきている。さらには、
つくるだけでなく、それをどうやって伝えていくのか、そして、どうやって売っていくの
また、メーカーからの依頼で、デザインするだけでなく、メーカーとデザイナーがパー
トナーのようなかたちでプロジェクトを立ち上げ、推進するケースも増えている。ものを
してきている。そして、これからも産地のメーカーとデザイナーによる様々な取り組みが
│
二〇〇四 一〇年
お互いを認め合って積極的にものづくりを進めている。
日本
続いていくことになるのだろう。
海外
│
を 退社した 後、国際交流基金が 主
二〇〇四 年にリビングデザインセンター OZONE
催し、パリ 日 本 文 化 会 館で 開 催された 展 覧 会﹁ WA 現 代 日 本のデザインと 調 和の
日本のデザインの特殊性みたいなものが実感をもってわかってきた。日本のプロダクト
があった。各地で日本のプロダクトを 並べてみて、来場者の反応を 直に感じることで、
の巡回に立ち 会うかたちで、フランス、ドイツ、ポーランド、韓国の四カ 所を回る 機会
る。産地にこだわらないものづくりが進んでいる反面、徹底的に産地にこだわることで
いる。伝統的な技術と最新の技術が融合することから、新しいものが生まれる予感がす
能性が潜んでいるようにみえる。インターネットの普及も流通のしくみを大きく変えて
時代の変化の中で、メーカーもデザイナーも社会全体の中でのものづくりやデザイン
の 役 割を 考え 直す 必要に 迫られている。既成のしくみを 越えたところに 何か新しい可
デザイナーが自らリスクをもって、製品をつくり販売することもある。
のデザインにおける創意工夫と、精緻できめ細かいつくり込みは、どの国にいっても驚
新しい動きが加速しそうな 気もしている。
﹁ものづくり﹂と﹁まちづくり﹂が同時並行で
精神﹂のキュレーターのひとりとして、二〇〇〇年以降を中心とする日本のプロダクト
かれる。と 同時に、そのかたちは、どこか 日本らしさをまとっているらしく、小ささや
進み、あたらしいタイプの観光と融合することで、消費地に売りにいくのではなく、生
︵ デザインディレクター︶
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デザインを一六一点紹介する 機会を 得た。二〇〇八年以降数年にわたり、この 展覧会
かわいらしさ、削ぎ 落とした 形 状やシンプルな 構 造など、独 特にみえる 点を 指 摘され
産地に買いに来てもらう流れも再び起きはじめている。
なっていく道筋がようやく見えはじめている。
と、デザイナーが出会い融合することで、良質なものが広がり、もっと 暮らしが豊かに
これからも 日 本の 社 会をつくっていくのだと 信じたい。全 国 各 地のものづくりの 技 術
変化する社会の中で、日本のものづくりがどうなっていくのか。不安であ
混沌とした
りながら、楽しみでもある。結局は、人と人との信頼関係から生まれるデザインこそが、
ることで、日本ではあたり 前のことが、海外ではそうでないことを 思い知ると 同時に、
まだまだ、日 本の 現 代の 日 常 的なプロダクトが 海 外では、知られていないことを 知る
のだった。
時期、展覧会だけでなく、メーカーやデザイナーと一緒に、日本で企画・デザイン・
この
開発したプロダクトを海外の見本市で発表する機会もあり、ロシア、フランスに行くこ
とがあったが、ここでは、さらにリアルに現代の日本のプロダクトがどれだけ、世界に欲
9 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Feb.-Mar. 2014 ]
﹁セルフガイド﹂とはその 名の 示 すとお
り、それを 片 手に 展 覧 会を 見ることで 展
ついて検証するものとしたい。
における 鑑 賞プログラムの 成 果と 課 題に
図と、参加者の姿を省みることで、工芸館
種を 紹 介し、それらの 背 景にある 企 画 意
プログラムのうち、子どもを対象とした三
れた 所蔵作品展﹁ ボディ 3﹂にて実施した
十五日︵ 火︶から 九月一日︵ 日︶まで 開 催さ
提供してきた。本稿は、二〇一三年六月二
で 展 覧 会を 楽しめるようなプログラムを
二〇〇三年より 工芸館は 主に 夏休みの
時 期にあわせ、来 館 者が 自 分なりの 方 法
ローズアップやモノクロといった 情 報が選
致させた上で鑑賞に進んでいたようだ。ク
と 掲 載 作 品を 比 較し、画 像と 作 品とを一
らば、今 年は 画 像と 実 作 品、周 囲の 作 品
察するのがこれまでのアプローチとするな
行ったり 来たりしながら 作 品を 同 定、観
取された。一点における 部 分と 全 体 とを
文 様の 構 図や 配 置に 注目している 姿が 看
フォルムや人形のポーズ、着物に描かれた
品︶を 探すことで例 年に比べ、より 作品の
モノクロームで 供された 情 報の 持ち 主︵ 作
︵ =フルカラー︶でとらえる 大 量の 情 報から
奇 心を 掻き 立てるのが 目 的である。肉 眼
様に 情 報 量を 制 限することで 利 用 者の 好
の 全 体 図を 採 用してみた。部 分 写 真と 同
した写真を載せてきたが、今年はモノクロ
多くの場合、作品の一部をクローズアップ
グラムとして成長してきたと感じた。
されることも多々あり、相互作用的なプロ
我々自 身も 彼らの 切り 口に 驚かされ 刺 激
は今では夏の工芸館の風物詩のひとつだ。
より 再 構 築された 展 覧 会として、それら
を 問わず 見られ、さながら 子どもの 眼に
示同様に一枚一枚を 味わう 観 覧 者も 年 代
つくるボディ図鑑﹂と 称して 公開した。展
う、会 期 中 会 場エントランスで﹁みんなで
表すると 同 時に 他 者の 活 動も 見られるよ
励ますのが 目 的である。自 分の 成 果を 発
らの 鑑 賞 活 動に 客 観 性を 持たせることを
により、その作品を選んだ根拠を与え、自
すだけでなく、紹 介したい 理 由の 言 語 化
ケッチすることで 更なる 鑑 賞 / 観 察を 促
プットとして位置づけているが、作品をス
ルフガイドとセットで配布。鑑賞のアウト
たい作品を絵とコメントで表すもので、セ
動き続ける美術館を目指して
示 作 品 や 展 覧 会 に 対 す る 理 解 を 深 めた
択された写真は、会場では作品を探し、み
*配布対象 中学生以下︵ 先着二千名︶
教育普及
り、みどころを 見つけたりするリーフレッ
どころを 観 察するためのアイコンとなり、
図鑑︵
︶
トで、多くの 美 術 館で 作 成されている 極
使 用 後は 記 憶を 呼び 覚ます 鍵となる。こ
︵
めてポピュラーな鑑賞ツールだ。工芸館で
の度のモノクロ写真の導入を通じ、改めて
×
はここ数年、いくつかの作品を選び、写真
画像の適切な選択について考えることで、
︶
とみどころを示唆するコメントを併せて掲
掲 載 作 品のみどころと 写 真の 特 性とを 精
齊藤佳代
工 芸 館における 鑑 賞プ
これらふたつは
ログラムの 核 となる﹁タッチ & トーク﹂か
れ、工 芸 館ガイドスタッフ︵ ボランティアス
と 展 示 室での 鑑 賞との 二パートで 構 成さ
て 鑑 賞 できる﹁さわってみようコーナー﹂
﹁親 子でタッチ&
ら 派 生したものである。
タッフ︶との 対 話を 通じて 進められる。二
&
&
載し、それらをヒントに作品を探したり実
査する必要性など、セルフガイド制作をと
トーク﹂は 様々な、作品や 資料を 手にとっ
親子
作 品と 照らし 合わせる 行 為の 中で 鑑 賞を
らえ直す機会となった。
、参 加 者 が 皆に 紹 介 し
ワークシートは
深めてもらえることを 企 図して 制 作して
きた。当 館のこれまでのセルフガイドでは
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「こどもタッチ&トーク」さわった感想の共有。
「こどもタッチ&トーク」指差しながら発見を言語化。
Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Feb.-Mar. 2014 ] │ 10
いるグループを 分けて 案 内し、難 易 度や
〇〇七年以降は一般と 子どもの 参 加 者が
見れば疑いの余地はない。
実に 何かを 体 得していることはその 姿を
るが、彼らは 動き、話し、交わることで 確
は 固く 縮んで 拳を 圧 迫する。この 素 材の
状だった羊毛がみる間に面になり、やがて
石 鹸 水と 摩 擦を 加えると、ふんわりと 綿
抽選︶ 実施日 七月二十一、二十二日
* 対 象 小 学 四 年 生 │中 学 三 年 生︵ 各 回 十 二 名、
作品の成り立ちを体感することにある。
触れる。ばらばらな属性のグループがガイ
点に 誘われて 作 品の 思いがけない 魅 力に
に大人は驚かされ、気づかされ、そして視
ば 起こるのが 特 徴 的である。彼らの 発 言
どもが鑑賞のリーダーとなることがしばし
る種工芸的な理路を 体で感じる姿が見ら
作の蓄積によって紐が面になるという、あ
上 下させつつ 緯 紐を 右に 左にはわせる 動
を 紐 状の 素 材を 織ってつくった。経 紐を
レットなど 身 体の 部 位に 巻き 付けるもの
本 年は 自分の 身 体の 長さや 幅などをそ
のまま作品化する意味で、ベルトやブレス
を 理 解 することで、自 身のつくり 出した
分の 体 験を一旦 客 観 視し、素 材の 仕 組み
られない 構 造を 知るこの 過 程で 彼らは 自
がある。フェルト化に関する羊毛にしかみ
り 素 材のメカニズムについてのレクチャー
る程度素材に触れたタイミングで、講師よ
中に 縮 充を 進 行させた 参 加 者もいた。あ
中には 拳から 抜くのが 難しくなるほど 夢
そうでなくても少し別の角度からみられる
常の関係性や物事の成り立ちを壊したり、
関係性から飛び出したものでありたい。日
学校あるいは家庭などこれまで築いてきた
る。筆 者にとって 美 術 館における 学びは、
にこの 語に 対する 居 心 地の 悪さからであ
教育普及をカッコでくくったのは、個人的
活動の一端が伝わっただろうか。今ここで
さて、ここまで本年の取り組みについて
触れてきたが、工芸館における〝教育普及〟
情 報 量はもとより、参 加 者の 興 味や 理 解
ドスタッフによるナビゲーションを 通して
れたことは大きな収穫であった。
イメージを膨らませ、創作へとつなげるの
ような、日常の語彙では表すことの難しい
希 望する一般 来 館 者が 少なくないことか
長 することに 毎 年 驚 かされる。タッチ &
極めて 短い 時 間の 中で 子どもが 大きく 成
験ともなる 本プログラムへの 参 加を 通じ、
てきた。ともすれば 初めて 親と 離れる 体
受け 入れるものとして 早くから 好 評を 得
一方、二〇〇三年より 行っている﹁こど
もタッチ&トーク﹂は未就学児を積極的に
で 身 体の 構 造をとらえ 直す 活 動になるこ
毛を使ってボディのかたちを転写すること
ら 何 が 出 来 るかを 考 えた。その 結 果、羊
という 切り 口で 参 加 者に 還 元するとした
キスタイル作家としての氏の活動をボディ
年はアーティストの川井由夏氏を迎え、テ
年から 中 学 生を 対 象に 実 施している。今
毎年作家を講師に招き本格的な制作体
験を提供するワークショップを小学校高学
者に 触 れ、作 者の 思いに 触 れ、改 めて 自
び覚ませられればと思う。作品に触れ、他
内に眠っていたかもしれないセンサーを 呼
変容に対して方々から驚きの声が上がり、
鑑 賞が 深まる 様は、対 話を 通じたトーク
* 親 子 でタッチ& トーク
水・土曜日午後二時 │
だ。このように 本 格 的な 制 作 体 験を 提 供
仕 掛けのようなものではないだろうか。工
に沿うガイドを目指している。ここでは子
プログラムの醍醐味であるが、近年ではあ
*こどもタッチ&トーク
対象 三歳 │小学三年
生
実施日 八月四、五、二十五、二十六日
することの意味は、あくまでも素材の特性
芸館ではこうした活動を、何よりもまず工
トークに工作を加えたこれは、鑑賞︵ みる、
とを本年の目的とした。当日はウォーミン
×
話す、さわる︶と、つくる行為とが相互に働
グアップとして 素 材に 親しむための 活 動
だろうか。
実 施 日 会 期 中の
らも、より多様な着眼点に基づいたグルー
を身体全体で知り、講師とのコミュニケー
芸/工芸館を楽しむためのツールとして設
えて﹁親 子でタッチ &トーク﹂への 参 加を
プ 鑑 賞への 期 待が 確 認できるのではない
ションを 通じて 素 材や 技 法に 関する 論 理
定してきたが、それらの介入により作品を
きあうよう工芸館とガイドスタッフとの協
からスタート。拳にまきつけた羊毛をフェ
的な 裏 付けを 得、両 者を 結び 付けること
働によって 内 容 が 練 り 上げられる。企 画
ルト化させるのだが、ウールを絡み付かせ
ら目指していきたい。 ︵ 工芸課研究補佐員︶
傾けながら、工芸館自体が変化し続けなが
できるシステム 形 成を 来 館 者の 声に 耳を
あらゆる 感 覚を 覚 醒する 工 芸だからこそ
識、感性と呼応しあい、触感を始めとした
れていたらと願う。日常における体験や知
分に 戻った 時に 自 分の 中の 何かが更 新さ
鑑 賞する 行 為の 解 体が 促され、鑑 賞 者の
者の 意 図がストレートに 伝わるか 否かは
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で自分なりの作品をつくること、即ち工芸
参 加 者の 年 齢からして 難しいことではあ
ワークショップ ボディ×ファイバー。
2 人 1 組となり、羊毛のメカニズムを体感。
11 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Feb.-Mar. 2014 ]
新 し い コ レ ク ショ ン
︾
Harmless Ki tty
奈
良 が ドイツ の ケルン に アトリエ
しています。ただ、着ぐるみやおまるとい
まなざしをより 際 立たせることにも 成 功
れば、おまるに座っているのに何も 脱いで
、
、
着
いや ひょっとしたら これは ぐるみな
どではないのかもしれません。そう思って見
少なくとも、大人にとっては。
うのがいささか非日常的ではありますが。
を 構 えていた 頃 の 作 品 です。猫
の 着ぐるみを 着た│ と、とりあえずは
│ 子どもが、おまるに
言っておきます
座ってこちらを見ています。いや、視線は
ちょっとだけ上の方向にずれているようで
しょうか。
ないことの 合 点がいきます︵ もちろん、ただ
かれているのは、人間の子どもでもなけれ
り、想 像 力をたくましくすれば、ここに描
は﹁悪 意や 罪
Harmless
のない﹂とか﹁いたいけな﹂を意味し、 Kitty
の 方は﹁子 猫ちゃん﹂を 意 味します。この
ば動物でもない、あるいは人間の子どもで
座っているだけという可能性もあります︶
。つま
作 品の 裏 面には 奈 良 自 身による書き 込み
もあり動物でもある、そんな特別な存在な
タイトルのうち
があって、そこからタイトルが﹁ Harmless
、
存在を現実の
どちらにしても そうした
世の中に見ることはできません。多分でき
のではないかと考えることもできるのです。
﹂
﹁ Don’ t mind Kitty Boy
﹂
Kitty Boy
﹂と変わっていったことが
﹁
Harmless
Kitty
﹂がなくなって
わかります。最終的に﹁ Boy
ンスの問題じゃないかな。髪型でいろんな
﹁それはたぶん、バラ
こう 話 しています。
登場するのですが、そのことについて彼は
実は、この頃の奈良の作品には、おかっ
ぱ頭でスカートをはいた子どもがしばしば
ように。実際、八〇年代の奈良は、天使的
て、天 使や 菩 薩といった 存 在が 生まれた
重 要 なことであり 続 けてきました。かつ
を 考えることは、人間が 生きていく 際に、
はできます。もっと 言えば、そうした 存 在
いるのがポイントです。
ヴァリエーションができるじゃない。でも、
なモチーフを描いています。
ません。でも、そうした存在を考えること
僕はこれを 女の 子だと 思って 描いてるわ
︵ 美術課主任研究員
保坂健二朗︶
で、どうぞお見逃しなく。
︽麗 子 五 歳 之 像︾
︵一九一八︶と 並べますの
日 本 近 代 美 術 史 上の 代 表 作、岸 田 劉 生の
蔵を 祝って、 Harmless
な 子どもを 描いた
﹁ MOMAT
この作品は四月六日まで、
コ
けじゃない。中 性だと 思って 描いている。
レクション﹂展に展示されます。しかも、収
というか、子どもと 思って 描いてる﹂︵﹃美
術手帖﹄
一九九八年四月号、一三一頁︶
。
作 品では、着 ぐるみのおかげで 髪
この
型を描く必要性がなくなっています。つま
り、中 性 的な 存 在であることを 強 調する
ことができているのです。しかも、同時に、
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奈 良 美智
︽
奈良美智(1959 - )
《 Harmless Kitty 》
1994 年
アクリリック・綿布
150.0 × 140.0cm
平成 25 年度購入
─
© NARA Yoshitomo
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新 し い コ レ ク ショ ン
れ 幕 末に 至りますが、明 治の 政 変 後は一
ちょう し つ り っ か し き ひ ら しょく
作︽彫 漆 六 華 式 平 卓︾は、六 弁 の
時中断を 余儀なくされます。二十代の兄、
ようやく厚さ三ミリになると言われ、こう
装 飾されています。通 常 漆は 百 回 塗って
模 様を 彫り 込んでいく 彫 漆という 技 法で
何 千 回と 塗り 重ね 厚い 層にして、そこに
重 厚 感に 溢れた 作 品です。全 体は、漆を
れは 二十 代がまさに 五 百 年におよぶ 先 祖
した部分に多くを負っているとすれば、そ
本 作の 重 厚さが、唐 物 趣 味を 如 実に 反 映
かけて数々の充実した作品を残しました。
十代は、兄の意志を継ぎ、大正から昭和に
十 九 代 楊 成が 家 業を 再 興するも 夭 折。二
しょく
花びら 形をした 天 板を 持つ 卓で、
して 塗り 重ねられた 漆はずっしりと 重く
伝来の技を正統に受け継いでいる証です。
本
なります。本作も例外ではなく、一番下に
こ う か りょくよ う
黒漆を 基調として 異なる 色の 漆の 層を
朱色、次に黒、朱、黒、黄、黒、朱、緑、朱、
くろ きん し
彫りの 断面に見せる﹁黒金糸﹂と 呼ばれる
、素 材
黒と 異なる 色の 層を 重ね︵ 全 十 層︶
手法に、
﹁紅花 緑 葉﹂︵ 花の部分を朱漆、葉の
、
物 理 的 な 要 因 以 外に
しかし こうした
も、この 重厚感には理由がありそうです。
など、伝統技法を自在に使いこなしている
を併用して、モチーフを巧みに色分けする
の重みが見た目に結びついています。
天板中央の丸い縁取りの中に黒漆で表さ
様子が本作からもうかがわれます。
部分を緑漆になるよう彫り表した彫彩漆技法︶
れているのは、向かい合う双龍。そのまわ
りには、獅 子や 孔 雀といった 六 種の 鳥 獣
まれてきたモチーフです。とりわけ茶の湯
いずれも 美 術 工芸の 長い 歴 史のなかで 好
のついた唐草文で埋め尽くされています。
いを 際 立たせるため、二 十 代 が 特にこだ
ルは、中 国 伝 来の 堆 朱、堆 黒 作 品との 違
モチーフをシャープに浮き出させるスタイ
います。刀を漆面に垂直に深く彫り込み、
一方で、二十 代は 渡 来 品の 写し 物を 嫌
い、創 作 性を 重 視したことでも 知られて
の 世 界では、和 物に 対する 唐 物の 重 厚 感
わった点でした。彫技を明治の彫刻家・石
が 同じく一対で 表され、背 景は 葡 萄の 実
を演出するものとして用いられます。
れました。初代楊成は、室町時代、中国か
二十 代 堆 朱 楊 成︵ 一八八〇 │一九
作 者の
五二︶は、代々彫漆を 家業とする家に生ま
存 続と 創 作の 狭 間で 制 作にあたった 二十
神にのっとって制作を進めました。家業の
に 取り 込もうとするなど、近 代の 創 作 精
川 光 明に 学んだ 二十 代は、写 実 性を 作 品
ら 渡来した堆朱彫を 模倣制作しその出来
代 堆 朱 楊 成の 気 迫が、この 作 品に一層の
つい しゅ よう ぜい
が素 晴らしかったことから、賞 賛され、我
重みを与えているようです。
︵ 工芸課主任研究員
北村仁美︶
が 国における 堆 朱 彫の 元 祖となったとい
われています。その 技は 連 綿と 受け 継が
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︽ 彫 漆六華 式 平 卓 ︾
《彫漆六華式平卓》
二十代堆朱楊成(1880 - 1952)
1915 年
漆
平成 24 年度購入
高さ 11.5, 径 37.6cm
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小宮康助︽清雅地 江戸小紋着物 極鮫︾について
して区別したのである。小宮は、様々な小
技法や 模様を 受け 継ぐものを 江戸小紋と
た 小 紋 染の 仕 事の 中で、江 戸 時 代からの
法が 多 様 化し、意 味や 解 釈が 広がってい
定 する 際、命 名され 誕 生した。文 様 や 技
に 重 要 無 形 文 化 財 保 持 者︵ 人 間 国 宝︶に 認
一八
江戸小紋という 名称は、小宮康助︵
八 二 │ 一九 六 一︶を 一 九 五 五︵ 昭 和 三 十︶年
りを施すことが求められ、型付師において
には、染め 上がりをも 想 定した 精 緻な 彫
付けが 難しい 仕 事とされている。型 彫 師
熟 練した 技が 必 要だが、特に 型 彫りと 型
構 築されている。どの工程にも 勘や 経験、
染めなど、多くの 職 人 技 術の 集 積により
上から 篦 で 生 地に 塗 布 していく 型 付 け、
防 染と 着 色のための 糊 作り、糊を 型 紙の
様を 彫る 型 彫り、そして 染めの 工 程では
強 度をもたらすための 渋 加 工、微 細な 文
れは 型 紙を 作るための 紙 漉きや、型 紙に
召十︶
、紀州徳川家︵ 極鮫︶
、加賀前田家︵ 菊
﹁定め 小 紋﹂には、徳 川 家︵ 御
とを 禁じた。
紋﹂と 称して 他 家でその 柄 を 使 用するこ
小紋柄を占有し、
﹁留め柄﹂または﹁定め小
て 大名らは 独 自に技巧を 凝らした 特 定の
新しい柄がつぎつぎに生み出された。やが
めさせ、そのニーズにあわせるかのように
る 衣 服への 気 遣いから 好みの 小 紋 柄を 染
礼 服としての 裃に 小 紋を 着 用した 江戸
時 代の 諸 大 名たちは、他 藩の 大 名に 対す
時代にかけてのことであった。
の 分 野で 改 良 進 歩が 行われた 明 治、大 正
災や戦争などの動乱、人々の生活スタイル
くなることは無い﹂と考え、後に関東大震
﹁最も 手間のかかるものをすれば 仕 事がな
を手がける職人が減少していた中、小宮は
裃が 廃 止され、中 形が 全 盛の 時 代で 小 紋
けを 学んだ。明 治 維 新 後の 服 装の 改 正で
後に中 形よりも 技 術を 要する小 紋の 型付
かた地に用いられる中形の型付けを学び、
職人が揃っていたという。初めは、主にゆ
師の間で名人として知られ、他にも優れた
屋に 弟 子 入り 奉 公をし、染 織の 世 界に 足
で浅草象 潟町の 若松屋という 小紋の型付
内藤裕子
紋の中から江戸時代に武家の間で流行し
は 微 塵の 狂いもなく 生 地に 型を 配 置し、
菱︶などがある。江戸 末 期から 明 治にかけ
の 変 化により 幾 度となくその 継 続が 難し
作品研究
発 展した 裃の 小 紋 柄に 着 目し、合 成 染 料
そして型をずらさないよう、且つ染め際が
ては、特に 細かい 小 紋が 流 行し 職 人の 間
い状況に陥った中でも、ひたすらに小紋の
きさ かた
による 色 糊 を 用いて 地 色 を 染 める﹁しご
ぼやけないように 糊を 置く 技 量が 求めら
﹁定め 小
でその 技が 競われていたという。
仕事に向き合っていった。二十一歳で年季
こう すけ
き﹂の技法を実用化して、極めて精緻で風
れる。型がいい加減であれば、それは後に
紋﹂は家紋の結晶を意味し、大名たちはそ
奉 公が 終わると、小 紋の 研 究のために 東
き
きり
ろく たに
びし
きく
てけ べら
を 踏み 入れた。当 主の 浅 野 茂 十 郎は 型 付
格ある 作 品を 生み 出していった。
︽清 雅地
何十反の染め傷となってしまい、また、ど
こに 品 格と 精 緻さを 求めた。職 人 達もそ
京および 近 県の 小 紋 屋へ修 行に 出る。当
へら
江戸 小 紋 着 物 極 鮫︾[ 図 ]は、同じく一
んなに 優れた 型であっても 型 付けの 技 術
の﹁定め小紋﹂を手がける栄誉を獲得しよ
時はよい技術を持ってさえいればどこでも
かみしも
九五五年に重要無形文化財﹁伊勢型紙 錐
が 伴わなければ 柄の 狂いや 染めむらを 起
うと技術の競い合いが行われ、その結果、
仕事ができるという渡職人のシステムがあ
お
彫﹂保 持 者の 認 定を 受けた 型 彫 師の 六 谷
こし、型の 良 さを 発 揮 することはできな
技 の 極 地 と も 言 える 柄 が 生 み 出 されて
り、型 付 師は 自 分の 竹 篦を 持 参して 各 板
品である[ 註 ]
。
ごく ざめ
紀久男︵ 一九〇七│七三︶と小宮が、その認
い。小 紋の 仕 事において 型 彫 師と 型 付 師
いったであろうことは想像に難くない。明
場をまわって 修 行をし、小 紋 屋は 宿 泊 場
めし じゅう
定を 機に 最も 難しい 柄のひとつとされる
は 特に 密 接な 関 係にあり、相 互する 技の
治 以 降、廃 藩とともにこうした 定めは 消
所や食事を与えて職人を迎え入れていた。
じ
﹁極 鮫﹂にあらためて 挑み、約 五 十 年ぶり
緊 張によって 巧 緻な 技 術が 生まれ、精 緻
え、一般の 着 物の 柄にも 自 由に 取り 入れ
その仕事ぶりは一目置かれ、難しい型付け
せい が
に 完 成した 型 紙を 用いてつくり 上げた 作
極まる 作 品がつくり 出されているのであ
られるようになった。
の 仕 事が入ると 小 宮に 注 文が来るように
ごく ざめ
*
る。そしてその仕事が精巧化し、技術的に
*
なり、その後一九〇七︵ 明治四十︶年に独立
ぼり
、和 紙を 柿 渋で 加 工した 型
江 戸 小 紋は
地 紙 に 文 様 を 彫 り 抜 いた﹁型 紙﹂を 用 い
大きな 進 展を 見せたのは、小 紋が 盛んに
明治二十七︶
年、小宮は十三歳
一八九四︵
お
て、細かく 精 緻な 文 様を 単 色で 表 現する
用いられるようになった江戸時代と、染織
1
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く
型 染の 技 法を 用いた 染めものである。そ
1
Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Feb.-Mar. 2014 ] │ 14
の研究を本格的に手がけていく。その狙い
料を用いて、奉公中からはじめていた染色
年 代から 東 京にも 普 及しはじめた 合 成 染
としていた。そして、独立を機に明治三十
いた精緻な極柄の小紋と長板中形を専業
から 型 紙を 取り 寄せ、小 宮が 得 意として
して 浅 草で 開 業し、当 初は 京 都の 型 彫 屋
紙は 消 耗 品であり、新たに 製 作していく
使えなくなるものもあるという。つまり 型
あれば 百 反 分、特 別なものでは 十 反 分で
みが出てくるもので、型の寿命はよい型で
いえ、元 来は 紙であるため 使 用に 伴う 傷
や 糊を 落とす。柿 渋で 補 強してあるとは
乾かないうちに 何 回となく 水 洗いし 染 料
ると、保 存のために 型 付けで 用いた 糊が
必 要がある。型 彫りの 仕 事が 途 絶えれば
型ができず染めもできなくなり、また彫り
の 技 術が 低 下すれば、染めものの 質も 低
下する。小 宮は 収 集した 型 紙の 優 品を 手
本に 新たな 製 作を 定 期 的に 依 頼すること
で、型 紙の 仕 事そして 技 術の 廃 絶を 防い
だのである。小宮自身、関東大震災での火
災で 型 紙を 失い、新たに 蒐 集するため一
年ほどかけて 地 方を 巡ったが、型 彫 師は
色糊を 塗布して地色を 染める﹁しごき﹂の
型付け 後の生地の上に合成染料を混ぜた
めていたが、この 写し 糊にヒントを 得て、
植物染料を用いて生地の地色を刷毛で染
を開発する。小宮が型付けを始めた頃は、
を 同 時に 染めることを 可 能とした 写し 糊
に 普 及し、京 都の 広 瀬 治 助は 文 様と 地 色
染め 出すことができたためすぐさま 全 国
いう。合 成 染 料は 植 物 染 料に 比べ簡 便に
となり、いままでにない色彩の小紋が生み
によって 自 由な 色を 表 現することが 可 能
﹁しごき﹂
れた淡い色調のものであったが、
の 染めは、藍や 茶、グレーなど、ごく 限ら
と技が必要とされる。そして、植物染料で
と 染 まらない。型 付け 同 様、細 心の 注 意
でしまい、反対に薄ければ、柄がはっきり
ぎると 余分な 染料や 水分が柄に染み込ん
塗らないと 染むらが 起こり、厚く 塗りす
糊を傷めないよう、平坦に、均一に色糊を
い 集め、後 々の 役に 立つようにと 保 存し
口 癖にし、古い 型 紙を 金 銭 惜しまずに 買
﹁型さえ残せば、小紋は誰かがやる﹂を
た。
復元に力を注ぎ、生涯のライフワークとし
改 革とともに、小 宮は 自 身の
こうした
仕事と不可分の関係にある型紙の 保存と
ジへといざなったのである。
組み 合わせて 小 紋の 仕 事を 新しいステー
糊、そして 新しい 合 成 染 料という 材 料を
小 紋をつくり 出し、古くからある 型 紙と
にして 時 代の 流れに 即した 新しい 感 覚の
彫の 六 谷 紀 久 男らに 型 紙 製 作を 依 頼し、
、錐
宮は縞彫で知られた児玉清︵ 人間国宝︶
あることを見出したのであろう。以後、小
肌で 感じ、技を 守り 伝える一つの 方 法で
の中で型彫師の減少と質の低下の状況を
の 合理化が進められる 社会や 経済の 変化
は 目 先の 仕 事を 行うために 必 要だったで
をしている。型紙を蒐集することは、まず
も 戦災などで 幾 度となく 型紙を 失う 経 験
入手までには苦労があったという。その後
伊 勢と 京 都に 数 人 残るだけとなっており
技 法を 取り 入れることに 成 功し、型 付け
出されていった。合成染料の実用化という
た。型 紙は、生 地一反 分の 柄を 染め 終わ
ぼり
しまぼり
きり
ことへの 危 機 感と、技 術の 機 械 化や 技 法
あろうが、過 去の 優れた 型 紙が 失われる
から 地 染めまでを 自ら一貫して 行うこと
小 宮が 成し 得た 改 革は、確かな 技 術を 基
色になれた 眼には 大 変な 魅 力であったと
やかな 美しさは、従 来の 渋い 植 物 染 料の
に輸入され、かつて見たこともないその鮮
合 成 染 料がもたらされた 明 治 初
日 本に
期 には、まず 紅、赤、紫 色 の 染 料 が 京 都
*
。
いという思いからであった[ 註 ]
改 革して両 者を 兼ねた 染 物 屋を 確 立した
かった小宮の、型付けと染めの分業体制を
改 良と、型 付けの 仕 事だけに 飽き 足らな
は、褪色しやすい植物染料にかわる染めの
図 1 小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極鮫》部分 1958 年
絹、型染 156.0 × 124.0cm 東京国立近代美術館蔵
﹁しごき﹂は、型付けした
が可能となった。
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、錐 彫の 中でも 精 緻な 鮫
六 谷 紀 久 男は
小 紋や 通し 小 紋の 研 究を 行い、その 名 手
*
割 付 文 様に 見えながらわずかな 揺らぎが
とすと、完 全に 計 算し 尽くされた 精 緻な
着 物 地に染め上げられた 極 鮫に視 線を 落
を 転写して原型にすることが多いという。
されており、彫りを行う際には過去の型紙
計算になる。気の遠くなるような仕事に錐
り、一枚の型紙には六万以上もの点を彫る
のサイズの 中に 九 百 近い 点が 施されてお
細かいとされる﹁極 鮫﹂の 文 様には一寸 角
鮫紋は、一見単純な模様に見えるが、最も
を感じるのである。 ︵ 工芸課客員研究員︶
をつくり、時代の変化に挑もうとする姿勢
改革からは、新しい時代にふさわしいもの
ものである。小宮が成し得た小紋の仕事の
承するだけでも 大 変な 修 行を 必 要とする
小紋の仕事は、質を落とさずにその技を継
技の共同構築に努めていった。
と知られていた。錐彫は、ごく薄い鋼を半
一本で挑むことは、技術力はもちろんのこ
註
制作:美術出版社
発行:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館
〒 10 2 -8 3 2 2 東京都千代田区北の丸公園 3-1 電話 0 3
( 3 214 )2 5 61
表紙:工藤哲巳 ハプニング「インポ 哲学」ブーローニュ 映画撮影所( パリ)
1963 年 2 月 撮影:工藤弘子 ©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013
小宮康助﹁江戸小紋と共に﹂﹃日本工藝﹄
第十
館、一九九四年一月十五日。
くりかえすパターン﹂東 京 国 立 近 代 美 術 館 工 芸
小宮康孝ギャラリートーク﹁現代の型染
1
2
次号予告 2014年 4- 5月号 4月1日刊行予定
605
2014 年 2 月 1 日発行(隔月 1 日発行) 現代の眼 604 号
編集:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館/美術出版社
八号、芸艸堂、一九五七年五月。
Rev iew
[ 図 ]は一見すると 無 地に 限りなく 近い
│
見られ、しかしそれが乱れにはなっておら
間が理解されにくく、型彫師らは敬遠して
円形に曲げた針のように細い錐により、微
様のようである。父・康助の伝統を継承し
いた。小宮康助は、手がける職人がいなく
と、持 久 力、集 中 力、そしてそれを 支える
て一九七八︵ 昭和五十三︶年人間国宝となっ
なっていた﹁極 鮫﹂の 型 紙の 製 作を、戦 前
ず 全 体を 不 思 議な 秩 序に 導いている。そ
様 化し 点を 並べて円 弧 形に重ねて 構 成し
﹁昔の人が
た小宮康孝は﹁極鮫﹂について、
戦後、六谷に幾度となく依頼していたが完
細な 点の 並びで 文 様をあらわす 伊 勢 型 紙
、斜めにはしる 点からなる﹁行 儀﹂
、
た﹁鮫﹂
なぜこんな細かい柄を精魂込めてやるのか
成には至らず、人間国宝の認定をきっかけ
精神力が必要とされる。こうした鮫小紋の
縦 横 均 等に 並ぶ 点からなる﹁通し﹂は、格
理解できなかったが、型彫師は眼にも気持
に、あらためて依頼をした。小紋の神髄は
れは無限に広がる水のようにも、増殖する
調の 高い 柄 として﹁小 紋 三 役﹂と 言われ、
ちにもさわらない無を求めて、こんな小紋
細かさに挑むことであるとした小宮は、難
の 彫りの 中でも 古くからある 技 法のひと
最も 密 度があり 細かいものは﹁極﹂と 呼ば
が生まれたのではないか。自分で染めた極
しい染めに生涯情熱を傾けたが、江戸小紋
仕 事は 身を 削るような 苦 労の 割にその 手
﹁極鮫﹂[ 図 ]﹁極行儀﹂[ 図 ]﹁極通し﹂
れ、
鮫の粒を眼で追っていると、非常に美しい
の 極 地のひとつとも 言える﹁極 鮫﹂に 向き
生命体のようにも見え、もっと有機的な文
が、近づいてみると粒の一つ一つが乱れ無
無 限の 宇 宙を 表 現する 小 紋ができあがる
合うことで、自身の仕事の到達点を形にし
お 詫 びと 訂正:本誌 603 号、8 頁、図 1 の 内容 に 一部誤 りがございました 。
「 1801 年 の 」→「 1881 年 の 」 訂正 してお 詫 びいたします 。
つである。錐彫による柄の中で、鮫皮を文
く整然とし、ただ細かいだけではない繊細
のだと感じた﹂[ 註 ]という。
後世にしめそうとしたのではないだろうか。
図 4 小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極通し》部分
1958 年 東京国立近代美術館蔵
点 連続性をもとにしている
あくまでも の
図 3 小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極行儀》部分
1958 年 東京国立近代美術館蔵
3
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さと 精 美な 味わいがある。その 中でも﹁極
図 2 図 1 小宮康助《清雅地江戸小紋着物 極鮫》部分
2
鮫﹂は、図柄の割り出しの方法は不可解と
工藤哲巳回顧 展/ 泥とジェリー
─
あなたの肖像
マルセル・ブロータースから始める/ 所 蔵 作 品 展 花
─
映画をめぐる美 術
1
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東京国立近代美術館賛助会員(MOMAT メンバーズ)
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