§45. situs の 論 理 ― ― 記 念 碑 的 な も の ( le monumental ) か ら 記 憶 を 絶 し た も の (l’immémorial)へ(『物質と記憶』第 4 章) ベルクソンの四大著作――『試論』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』 ――は、定型性(文学部系では三章構成、法学部系では二章構成)が求められる博士論文 (『試論』)を除けば、すべて四章構成である。そしてそれらの著作において、最終章となる第 四章というのはいつも、奇妙な(bizarre)ことではないとしても、特異な(singulier)ことが生じ る場である。ベルクソンはそこでいつも、最後の大胆な一歩を踏み出す。 『二源泉』はどうか。最終章は「結びの考察――機械的なものと神秘的なもの」 (Remarques finales. Mécanique et mystique)で、ベルクソンはこんな風に述べている。 この著作の目的は、道徳と宗教の起源を探究することだった。われわれはそこばくの結論 に達した。ここで満足してもよいのかもしれない。だが、われわれの結論の根底には、閉じた 社会と開かれた社会との根本的区別があった。〔……〕そこでこの本源の本能は、いったいど の程度にまで抑えられることができ、ないしはかわされうるものなのかをわれわれは問わね ばならぬ。そして、われわれに向かって当然提出されてこよう一つの問いに――幾らか考察 を付け加えて――答えねばならぬ。(DS 306-307) 結論のさらに「根底」へと掘り進めようとする姿勢がうかがえる。『創造的進化』第四章も同様 である。その冒頭で彼は、理論的錯覚の「原理」を「根底から」見据えようとする。 なお二つの理論的錯覚をそれだけで取り出して吟味する仕事が残されている。それはここ まで来る途中でよく出会った錯覚で、しかも今まではそれの原理(le principe)よりはむしろそ の諸帰結(les conséquences)が前面に出ていたのであった。本章では原理の方が対象とな るであろう。〔……〕われわれが不在から現前へ、空虚から充実へと進むのはわれわれの悟 性の根本的錯覚(illusion fondamentale)による。この誤謬から生まれる結論の一つを私は 前章で注意してもらったわけであった。さきにも仄めかしておいたとおり、この誤謬を後腐れ のないまでに克服するためにはそれと体当たりで取り組むほかない。われわれはこの誤謬を 剥き出しにして、それが否定や空虚や無について根底から(radicalement)誤った考えを含 んでいるところをしっかりと正面から見据えなければならない。(EC 275) さて、以上を踏まえたうえで、予告しておいたように、ベルクソンに戻り、『物質と記憶』第 4 章 の読解に取り掛かることにしよう。第四章冒頭で、ベルクソンはこう述べている。「厳密に言え ば、私たちはここまでにしておいてもいいのかもしれない。というのも、私たちがこの仕事を企 てたのは、精神生活における身体の役割を定義するためだからである」(IV, 317/200)。では、 ヴォルムスの言うように、「著作の当初の目的とは関係のない、一種の〈代補〉(supplément) のように」現れるこの最終章は、いったいいかなる役割を果たしているのであろうか?形態 1 (forme)から基底(fond)へと移行するように、ベルクソンは知覚から物質へと移行する。 monument(像・碑など記念建造物、記念碑的作品、途方もないもの)は、基本的に物質から なるもの、純粋な物質性を指すはずだが、語源的には monere すなわち思い出させるものに 由来する語である。厳密にこの意味で、つまり物質的なものを通じて想起させるという意味で、 私たちは『物質と記憶』第四章におけるこの知覚から物質への移行を monumental と呼ぶ。 というのも、『物質と記憶』第一章から第四章へのこの移行自体が、そのまま第二章・第三章 へと私たちを導いていくからである。そこでは、今度は、「記憶を絶したもの」(immémorial)と いう逆説的な表現で表される事態が問題となるであろう。なぜなら、この表現において問題と なっているのは、まさに記憶を助けないもの(in-memorialis)、記憶にないものと、しかしその ような形で記憶において存続し残存するものとの間で生じる事態だからである。immémorial は、まさにこの意味で、『物質と記憶』の中核をなす第二章・第三章の動きをうまく要約してく れる表現であるように思われる。 『物質と記憶』第四章に後続する「要約と結論」において、ベルクソンは、「この『純粋知覚』 の理論は次の二つの点で、緩和されると同時に補われなければならなかった」と認めてい る。 この純粋知覚というものは、実際、実在からそのまま切り取られた断片のようなもので、他 の物体の知覚に、自己の身体の知覚すなわち感情を交えることもなく、その現在の瞬間の直 観に別な諸瞬間の直観すなわちその想起を交えることもないような存在に属するであろう。 言い換えれば、われわれはまず研究の便宜のため、生きた身体を、あたかも空間内の数学 的な一点のように扱い、意識的知覚を時間内の数学的瞬間のように扱ってきたということだ。 身体にその延長(étendue)を、知覚にその持続を回復してやらねばならなかった。そうするこ とによってわれわれは、意識の中に二つの主体的要素、つまり情動性と記憶を再統合するこ とになるだろう。(MM 262) 意識と身体内への情動性と記憶のこのような再挿入こそ、まさに第一章で純粋知覚が提示さ れた後、第二章・第三章でなされてきたことにほかならない。ところで、ベルクソンは第四章を、 二つの関係に要約されうる「一般的な結論」を述べることから始めている。まず問題になるの は、「選択の道具」としての身体と、身体の「位置」(place)としての知覚との間の関係(第一の 選択)であり、次いで、この身体と、「最終的な行動のために現在の状況を補完し照らし出す」 記憶との間の関係(第二の選択)である。第二の選択が第一のそれよりも「はるかに厳密なも のでない」理由はまた、ベルクソンがこの主題をこの第四章で展開する理由でもある。という のも、それこそ、人間存在に固有なものとしての記憶を構成するものであると同時に、精神生 活つまり人間の情動性に具体的な基盤を与える想像力を構成するものであるからである。 この〔記憶の行なう〕第二の選択は、〔知覚の行なう〕第一のそれよりもはるかに厳密でな 2 いが、それはわれわれの過去の経験が個人的な経験であって、もはや〔知覚におけるよう に〕共通のものではないから、われわれは常に、現在の同じ一つの状況に対して同様に適合 しうる多くの異なった想起を持っているからであり、さらにまた、自然は、知覚の場合にそうで あったように、われわれの表象群を限定するための確固たる規則を、〔記憶においては〕もは や持ちうることはないからである。したがってある一定の余白が、今回は〔記憶の場合には〕 空想(fantaisie)に必然的に残されている。動物たちはこれをほとんど利用しないが、それは 彼らが物質的な必要に囚われているからであって、逆に、人間精神は、身体が少しばかり開 いてみせる扉を、記憶の総体をもって絶えず押し続けるのである。その結果生じてくるのが、 幻想の戯れであり、想像力の作業であって――それはとりもなおさず、精神が自然に対して もつ自由である。(id.) 後で詳しく見るが、想像力には二つの面がある。図式論の中で機能する想像力と、知性に対 して自由な一致をもつ想像力である。ベルクソンがこの一節で語っているのは後者であって、 これについては第三章に関する読解の中で取り上げることにしよう。今私たちの対象となって いる第四章で語られるのは前者である。 「空間が空間化する」といったハイデガー的なトートロジーよりも、むしろイマージュは、私た ちの利害関心に基づいて整序され(s’ordonner)、空間は私の身体から出発して調整される (se coordonner)と私たちは先に述べておいた(§42)。別の言い方をすれば、場所(site)を状 況(situation)と混同すべきではない。site は大地(terre)と関係を持ち、それぞれの地理に応 じて付与される(se disposer)されるのに対して、situation は領土(terrain)と関係を持ち、政 治的・経済的・歴史的ないし社会的な土地の境界画定によって課される(s’imposer)。ベルク ソンにおける「situs の論理」は、メルロ=ポンティ的な「状況の論理」と区別されねばならない。 メルロ=ポンティ的な「知覚の状況」は、個人を取り巻く状況として置かれる(se situer)ものに 依存する、個人的なもの(individuel)である。ベルクソン的な「知覚の場所」は、非人称的 (impersonnel)ではなく、そこに置かれる(se placer)者の観点に応じて自らの在り方や外界 への印象を変えるという点で、主体的で匿名的(anonyme)のままである。この場所は自らに とって存在するだけでなく、あらゆる者にとって存在するが、あらゆる者にとって人称的=人 格的(personnel)に存在する。知覚の「場所」(le site)は、「私の身体」が「コンパス」ないし 「万華鏡」として周囲を取り巻く世界に対して取る距離に従って配置される(se disposer)。だ が、こう表現することが許されるなら、内面にまだ晒されてはいない。私たちの課題は、したが って、『物質と記憶』最終章にまで、situs の論理を追究していくこととなる。 §46. rythmesure(リズム計測) II. 持続のリズム 『試論』とそれを分析した私たちの第一部において、持続が継起的な相互浸透の様態をも ち、リズミカルな有機組織化(organisation rythmique)として姿を現すことが確認された。ベ ルクソンはこの直観を第二作『物質と記憶』において発展させることになる。そこで問題となる 3 のはもはや「私の意識」ではなく、「諸々の意識」であり、「諸存在」である。 実際、持続の唯一のリズムは存在しない。相異なる多くのリズムを想像することができる。 より緩慢なものであれ、より急速なものであれ、それらのリズムは、諸々の意識(consciences) の緊張あるいは弛緩の度合いを測り示しており(mesureraient)、それによって諸存在(êtres) の系列におけるそれら各々の場所(places)を固定するだろう。(MM, IV, 342/232) リズムの差異によって、様々な持続が区別される。人間的な意識の持続以外に、諸動物の、 さらには生物一般の諸持続があるのでなければならない。1922 年、アインシュタインの相対 性理論との対決を通じて持続の本性に関する最も深い探究が行なわれた『持続と同時性』に おいて、ベルクソンは次のようなテーゼを述べている。 外的事物が、それ自身は持続しないのに、われわれに働きかけるかぎりわれわれの持続 の中に現れ、かくてわれわれの意識的生の流れに拍子を刻んだり標尺を立てたりするという これらの事物が持っている特性に由来しているのかもしれない。この周囲が「持続する」と仮 定すると、われわれが周囲を変化させるときわれわれが同一の持続を見出すことを厳密に 証明するものは何もない。種々のリズムをもった持続と言いたいのだが、様々の持続が共存 しうるであろう。われわれはかつて種々の生物に関してこの種の仮説を立てた。われわれは、 動物界を通して順次並べられた、意識の種々の段階をあらわす高低の緊張の度合いをもっ た持続を区別した。(Durée et simultanéité, III, in Mélanges, PUF, 1972, 99-100) エ ラ ン ・ ヴ ィ タ ル 持続のリズムは、生物の「生命の拍動」(pulsation de vie)のつまり生のはずみの様々な度 合いを測る。このはずみの力=帝国(empire)はどこまで広がるのだろうか。宇宙の果てまで、 とベルクソンは答えることになるだろう。 さて、緊張の差異化として、リズムは持続の本質を明らかにする。この概念創造が同時に また、計測に関する未聞の意味の創出でもあることに、ベルクソンは意識的であるように思わ れる。 われわれの表象の中で思い描かれた感性的諸性質と、計算可能な変化として扱われた同 じ諸性質とのあいだには、持続のリズムの差異、内的緊張の差異しか存在しない。このよう にわれわれは、伸張〔外的緊張〕(extension)の観念によって、非延長と延長との対立を解消 しようと努めたように、今度は緊張(tension)の観念によって、質と量との対立を解消しようと 努めた。伸張〔外的緊張〕と緊張は、多様ではあるが、あくまで常に決まった諸段階を許容す る。(Résumé et conclusion, 376/278-279) 4 かくして、緊張と伸張〔外的緊張〕という差動装置(différentiel)的な対概念とともに、ベルクソ ンは「計測」の観念を再導入している。だが、ここで問題となっているのはもはや、量的計測で ないのは当然として、質的計測でさえもなく、質と量、数的なものと数的でないものの区別が そこに由来する基礎そのものを構成するような、差動的な計測なのである。この基礎の上で 捉えられると、質的多様性は必ずしも数的でないわけではなく、「潜在的に数的」 (virtuellement numérique)であり、「潜勢態における数」(nombre en puissance)であるこ とが明らかになる。量的な多様性である無機的なものに関して言えば、それもまた、自分なり のリズムを持っている。 私は、無機的世界というものは、見えるかつ予見される様々な変化に帰する無限に速い繰り 返し、もしくは繰り返しのようなものの系列だと言いたい。〔……〕あの繰り返しは、意識的な 存在の生命にリズムを与えて(rythment)、その持続を測っている(mesurent)。(PM, III, 1332/101) 持続のリズムの領野が、こうして緊張的差異化のプロセスによって、最終的には宇宙全体ま で広がるものであることを確認してきた。それはつまり、もし持続に関する理解を深めたいと 思えば、多様性の問い、分割可能性の問い、一言で言えば数の問いを取り上げねばならな いということである。持続ないし質的多様性の本性について考えることは、必然的に数の本質 について考えることへと私たちを導いていく。計測可能なものや数的なものを是が非でも否定 ラディカル することが重要なのではなく、それらの概念の根底的な批判を敢行することで、それらをその 基盤そのものの上で捉えなおそうと努めることが重要なのである。そしてこれこそ、緊張/伸 張〔外的緊張〕という概念対が狙っているところにほかならない。 ところで、一切の具体的な知覚は、どれほど短時間のものと想定されようと、すでにして、相 継ぐ無数の「純粋知覚」の記憶による綜合(synthèse)であるとすれば、感覚的諸性質の異質 性は、われわれの記憶におけるそれらの収縮に由来し、客観的な諸変化の相対的な等質性 は、それら本来の弛緩に由来すると考えてはならないだろうか。その場合、量と質との隔たり は、緊張(tension)なるものの考察によって小さくされうるのではないだろうか。延長と非延長 との隔たりが、伸張〔外的緊張〕(extension)なるものの考察によって小さくされたように。 (MM, IV, 319/203) したがって、ここ、『物質と記憶』最終章においてもまた、カントとの対決が企てられていること は見紛いようもない。 われわれの内的生が無際限で空虚な時間から切り離されてふたたび純粋持続と化すことが 5 できるのと同様に、拡張への傾向を伴う雑然たる集塊は、それが当てはめられる等質な空間 ――それを介してわれわれは集塊を細分化するとされている――の手前、カントが語ったあ の「現象の多様性」の中で捉えられるのかどうかを知ること、これが問題である。(MM, IV, 323/208) ここでさらに強調しておくべきは、ベルクソンがこの対決を乗り越えるべく、カントのそれとは異 なる、もう一つの図式論(schématisme)を創出しようとしていたかのようにすべてが進行して いくということである。「そもそも、空間は結局のところ、無際限な分割可能性の図式にすぎな いのだ」(MM, IV, 341/232)。(続く) 6
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