J JI IC CA Aタ タン ンザ ザニ ニア ア事 事務 務所 所ニ ニュ ュー

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I N D E X
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09
9年
年2
2月
月号
号
1)今月の1枚: 「タンザニア オイルショック」
2)援助のツボ: インド系事業家の物語
★ 2月 イベント情報 ★
3)特集: What's Happened in January?
2/6 現地研修「教育行政管理能力強化研修」 終了式
2/12 村落給水プロジェクト 中間セミナー
4)次長の目:
「サメ林業プロジェクト」
5) カリブ・クワヘリ
(1)今月の 1 枚: 『タンザニア オイルショック?!』
昨年の世界の石油価格高騰と下落。タンザニアでも高騰は早
かったのですが、下落は一向に進みませんでした。
ガソリンの市場価格が下がらないことに業を煮やしたタンザニア
の電気・水道事業規制事業体(EWURA)が、正月明けに統制価
格を発表し、昨年は 2000 シリングに達しようとしていたリットル当り
のガソリンの値段が、一斉に、どのガソリンスタンドへ行っても
1233 シリングでの販売となりました。
大喜びした、その 2 日後。ダルエスサラーム市内のほとんどの
ガソリンスタンドからガソリンが消えてしまいました。交通を車に
頼っている市民は大騒動! ガソリンが手に入るスタンドでは、
写真のような大行列が発生しました。
消えた理由は、「値段が下がり、需要が大幅に上がったため、在庫が切れた」というのが石油輸入会社の説明でした。世間で
は、「統制価格の低さに、石油会社が販売ストライキをした」というのが、もっぱらのうわさです。
数日後、1200 代後半の値段で、ガソリンが市場に復活しました。さて、真実は・・・・?
(2)援助のツボ :「インド系事業家の物語」
(水野専門家)
産業貿易マーケティング省へ産業アドバイザー
「あなたの事業を支援するために政府にしてもらいたいことは何ですか」と、
として勤務している JICA 専門家の水野さん。こ
北部州のある事業経営者に聞きました。彼の会社は 600 人ほどを雇用する
の 2 月で、赴任より 1 年を迎えます。 タンザニ
北部州では大手の工場で、製品の質もセンスも良く、こういう企業を支援し
アで見た産業界の話をききました。
て輸出産業を育てたいと考えたからです。
しかし、暫し沈黙の後の彼の言葉はおおよそ想像もしないものでした。
「80 歳になる母が存命のうちに、(1967 年の)工場接収 1 を謝罪してもらいたい。」
この言葉にはずしっと来ました。同席していた産業省の若い役人は一瞬何を言われたか理解できないようでした。
1 国有化政策の一環として 1967 年に民間産業施設を接収したこと
JICA タンザニア事務所ニュース「パモジャ」2009 年2月号
経済は人が動かします。農民がなにを考えているか分からないでは農政にならな
いように、産業家が何を考えているか分からないでは産業政策は立てられません。
良きにつけ悪しきにつけ、インド系 2 商人・産業家がタンザニア経済の重要な部分を
占めていることは間違いなく、タンザニアの産業化のためには彼らの協力が必要で
す。公式の場ではこうした意見が出てくることはないのでしょうが、彼らの胸の内に
はこうした思いが鬱積していたんだと知りました。
インド系商人の多いダルエスサ
ラーム商店街
インド系の人たちはイギリスの植民地時代に植民地政府の手足としてやってきたと
いわれることがあります。確かにその時代にやってきた人も少なくありませんが、実
は植民地になるずっと前に移住してきた人も多いのです。回りのインド系の人に聞いてみてください。意外と正確に何代も前
のことを話してくれますよ。
ここにご紹介するお話はあるインド系財閥のご主人から伺った話です。この方に「ご先祖がタンザニアに来られたのはいつ頃
のことかご存じですか」と聞いてみました。すると即座に「1808 年に 6 代前の祖父がダウ船に乗ってザンジバルにやってきた
のが最初です」と明快な返事が返ってきました。
彼によると、その 6 代前の父祖はやがてダウ船を所有するまでになり、冬の季節風に乗ってザン
ジバルに陶器や綿布を運び、夏の季節風に乗ってインドにクローブ、象牙、犀の角を運んだ。と
ころが 1824 年にザンジバル沖でダウ船が座礁、全ての財産を失くして身ひとつで泳ぎ着いた彼
は、ザンジバル商人の元で一から出直した。これが我が父祖がこの地に根を下ろした最初だ。こ
の 19 世紀の半ばはちょうどヨーロッパ勢がアフリカに進出してきたころで(リビングストーンやス
ピークスの探検もこの時期)、やがて自分の会社を設立した父祖は幾つかの欧州企業の代理店
になった。当時ザンジバルの代理店といえば東アフリカ全体の代理店を意味し、やがてモンバサ
やマダガスカルに支店を持つようになった。一家の大きな転機は 1919 年にやってきた。第一次
様々な民族の商人た
ちが造り上げたザンジ
バルの町
対戦に戦勝した英国はタンガニーカのドイツ資産を没収しこれを競売に付したが、3 代前の父祖がこの時に広大なプランテー
ションを買い、その経営のためにタンガニーカ本土に居を移した。その後、独立、ウガンダ戦争、国有化、やがて自由化と大き
な波がいくつもあったのは知っての通りだ。
実のところ、この大波といかに闘い、いかに乗り切ったかはまたそれはそれで大変なストーリーがあるのですが紙面の関係
で割愛。遠い東洋からやってきた専門家(私)は、いくども財産を失くしてはまた立ち上がる一族のバイタリティーに敬服する
一方、わずかこの数年の高成長でモノを語る政治家・経済学者の視野の狭さを痛感しました。
広く全国におられる皆さんもこんな聞き語りを集めてみてはいかがでしょうか。「人に歴史あり」集約できればちょっとした歴史
絵巻になりますね。
(以上)
2 独立後その祖国がインドとパキスタンに分かれたことより公式にはアジア系と表現されます
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JICA タンザニア事務所ニュース「パモジャ」2009 年2月号
(3)特集:What’s Happened January?
JICA タンザニア活動の中で、1 月に起こった出来事・イベントを紹介します。
1 月 5 日:青年海外協力隊 18 年度 2 次隊帰国
1 月 6 日:PR グッズ作成
1 月 7 日:20 年度3次隊着任
1 月 5 日、2 年間タンザニア各地で活動してきた 18 年度 2
次隊の隊員 6 名が、任期を終了して帰国しました。
(写真は、帰国前の日本大使館への表敬)
入れ替わりに 20 年度3次隊の 11 名が到着しました。
(メッセージは最後のページに掲載)
新たな調整員も 3 名加わり、新年とともにフレッシュな出発
をした協力隊部門です。
JICA の広報グッズを作成しました。新ロゴマークが入っ
たエコバッグとペンです。JICA が支援している研修やセミ
ナーに参加する人たちに、JICA の新ロゴマークを知って
もらい、研修後も JICA 支援で学んだことを地元で生かし
て、発展のために頑張って欲しいという思いも込められ
ています。
タンザニアの人たちになかなか好評で、コットンバッグに
教材を入れ、ペンについた JICA マークを胸ポケットに目
1 月 9 日:広報セミナー開催
立たせて、研修に参加しています。
1 月 14 日~17 日:升本所長
南東部出張
政府関係者やマスコミを対象とした JICA の広報セミナーが
開催されました。
今年は帰国研修員同窓会との共催で、日本で研修を受けて
帰国した後、研修で得たことを活かしている活動や、JICA プ
ロジェクトの中で帰国研修員が活躍している様子などが紹
介されました。またタンザニアにおける JICA の活動全体の
説明、病院のサービスを向上させるために「5S」を取り入れ
ている活動などを紹介し、参加者に日本の支援を知ってもら
うことができました。後日のマスコミ報道によっても、広くタン
ザニアの人々に JICA の活動が伝わったと思います。
4 日間の日程で、ムトワラ、タンダヒンバ、マサシ、ンダンダ、ムタマの
各地を訪問。隊員活動、無償資金協力事業「マサシ-マンガッカ
間道路整備計画」を視察しました。各地で隊員の活動状況や生
活状況を見るとともに、マサシから西への道路状況を見るため、トゥ
ンドゥルまで走破。各地では、隊員さん、無償資金協力事業
のコンサルタント、業者さんと夕食をともにしながら意見交換
をしました。今回は初の南東部出張。次はどこの地域へ出
張となりますでしょうか。
(同行:坪池所員)
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JICA タンザニア事務所ニュース「パモジャ」2009 年2月号
1 月 30 日:州保健プロジェクト 研修講師選出
1 月 22 日~24 日:
国家会計監視委員会(地方政府、政府機関)の会合開催
「国のお金がうまく使われているか」を監視する国会委員会が主
催して地方政府と政府機関の効率性に関する会議が 1 月 22 日
~24 日に開催されました。地方政府の部では国会議員が地方
自治体を訪問してお金の使い方や管理を確認し、この会合で議
3月開催予定の研修「戦略的な思考と計画づくり」の講師
論をして改善案が提案されました。
を選ぶため、候補者によるプレゼンテーション会を開催し
タンザニアでは地方分権化が進んでおり、地方自治体が動かす
ました。研修テーマへの理解や得意とする教授法など、1
お金も増えてきています。これらは国会で監視すべきですが、今
0分間のプレゼンから見えることは沢山あります。
まではあまり機能していませんでした。今回、日本を含むドナー
同日には、前回研修「リーダーシップとマネジメント」の報
が活動資金をバスケットファンドから支援することによって、この
告会も開催しました。当初、所属長向けの報告会を想定し
ような活動や会合が実現しました。今後、監視委員会を通じて、
ていましたが、局内会議で声を掛けたところ、20名近い保
行政サービスが改善されていくことと思います。
健省スタッフが参加してくれました。「関心のある人は、探
すものではなく、作り出すもの」と実感した瞬間でした。
州保健行政システム強化プロジェクト(RRHM) 杉原まゆみ
(3)次長の目 :「サメ林業プロジェクト」
(長谷川次長)
昨年12月より、過去に JICA が協力を行った複数のプロジェクトサイトを訪問する機会を得ました。 総務を担当していると、
なかなか実施中案件の現場を訪問する機会が少ないこともあり、タンザニアでの JICA 協力の過去、現在に触れる貴重な経
験でした。モロゴロ州とキリマンジャロ州と地域は限定されていましたが、終了間もない案件から、終了後 10 年以上経過した
案件などもあり、現在実施中の事業を見ている範囲での想像を超える、幅広い分野で JICA が協力を実施してきたことを、改
めて実感することができました。
いくつかのプロジェクトサイトを訪問した結果、協力が終わってから何年経過しているかに関わらず、共通で感じたことがあり
ます。それは、「どのプロジェクトでも、予算の制約など厳しい条件の中で、タンザニア側関係者の方々により地道に活動が継
続されている」ことです。とりわけ、キリマンジャロ州サメ県で実施された「キリマンジャロ州村落林業プロジェクト」のサイト訪
問は、その中でもとりわけ印象深いものがありました。
このプロジェクトでは、1991 年から 2000 年の 9 年間にわたり、キリマンジャロ州の中で
も降水量が少なく植林が困難な環境にあるサメ県を拠点として、地元の人々の参加に
より植林が継続されることを目指して協力が実施されました。 地元が求める木の種
類や用途の調査、植林に必要な苗木生産・植林技術の開発、それら技術を地元の
人々が習得し、実際にそれらの活動が継続的に実施されるようにするための指導など
を実施しました。
県森林事務所と地元住民が協力して苗
木を生産しています
4
JICA タンザニア事務所ニュース「パモジャ」2009 年2月号
サメ県の地形は、東側が山地で西側が広大な平地が広がっています。山地は比較的降水量が多くかなりの森林が保全され
ていますが、プロジェクトが開始される前のサメ県周辺の平地の状況は、サイザルのプランテーションが放棄されて荒地同然
であったようです。そのプランテーションは、遠く植民地時代にさかのぼるほどの歴史あるものであったようですが、サイザル
の相場の低迷によってプランテーションが放棄された後、以前のような林は回復せず、わずかながら残った林も、薪炭材や家
畜の飼料として使用された結果、地域の環境は劣化するばかりであったようです。
このような状況下での JICA プロジェクトの実施は、地域にとっても大きなインパクトがありまし
た。5 名前後の長期専門家がサメ県を中心に活動を行い、ほとんどの地域の人々は JICA の
名前と活動内容を知っていた、という話を地元の方から聞きました。 専門家の活動が大きな
インパクトを持てば持つほど、「専門家が引き上げた後に引き続き活動を継続するのが困難」
と思っていましたが、このプロジェクトに関しては、地方分権の流れをつかみサメ県森林事務
所に活動の多くを移管したことが、活動が継続されている要因であったように感じました。
村の「植林の先生」。
先生自身が植えた林で。
実際に植林を続けている村では、「植林の先生」と言われる老人が先頭を切って活動を行って
いる様子を目の当たりにして、本当に感動しました。
JICA の協力は期間を限って実施する枠組みになっており、その評価に当たっては「自立発展性」という観点で、プロジェクト終
了後において受入国側政府によって自立的に事業が継続されることが前提となっていますが、それぞれが知恵を絞り、自立
発展する仕組みが作られてきたことを実感した出張でした。
(以上)
(5)カ リ ブ ・ ク ワ ヘ リ : ~ようこそタンザニアへ! ~
お元気で!さよなら~
~!!ようこそ!!~
Hamjambo! はじめまして。私の要請内容はドドマ都市周辺のグリーンベル
1 月 7 日、協力隊員 20 年度 3 次隊 11
名が到着しました。
大学で林学を学んだ後、植物関係の会社
トに植える苗木を作ることと、周辺の村で植林指導にあたることです。
先週ドドマに任地訪問行ってきました。乾燥していると聞いていたのですが、
で3年働き、今回協力隊に参加したという
雨季で雨が降りそれほど乾燥もせず、涼しくすごし易かったです。でも町か
樋渡ますみさんより、代表して挨拶です。ドド
ら離れると木が少なく、乾燥地帯の緑化がしたかった私にとってやりがいの
マに植林として派遣されます。
ある場所だと感じました。
個人的な感想ですがこっちにきて驚いたことをあげてみました。
チナ、チナ言われること→無視
日本車が多く、車の運転が荒いこと
→ダラダラに乗りたくない
タンザニア人の求愛がすごいこと
→スパッと断る言葉が知りたい
声賭けが多いこと→正直うるさい
人が陽気でフレンドリーなこと→親切な人もいる
カンガ、キテンゲがきれいなこと→買い物が止まらない
ビールがおいしいこと→今はキリマンジャロ飲んでます
アザムアイスがおいしいこと
→ミルクバーにはまってる人が多いです
お米がおいしいこと→食堂にワリがないことが多く残念
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JICA タンザニア事務所ニュース「パモジャ」2009 年2月号
これから2年間いろいろなことを感じ、多くの人にお世話になる
と思います。先輩方やスタッフの方々にご迷惑をおかけするこ
リレーエッセイ
~Rafiki yangu 私の友だち in Tanzania~
とも多々あると思いますが、助言を仰ぎながら、自分なりに楽
(19-2 次隊 片野亮太郎さん)
しく 2 年間を乗り切っていきたいです。
一番の売れ筋は常温コーラ、
20 年度 3 次隊一同よろしくお願いします。
そんな小さなお店の店主がシデです。
彼は遠ぉ~くを通る私を見つけては、必ず声をかけ
~ ! さよ う な ら! お 元 気 で ! ~
て呼びつけます。そしてタンザニアの生活や慣習、
2 年間ムトワラでフィールド調整員として公私にわたって
スワヒリ語についてとても熱く語ってくれます。
南東部の協力隊員の活動を見てきました。 累計 7 年
しかしながら商品の値引きやおまけなどの金銭が
間のタンザニア生活でした。 佐藤由理さんです。
らみの要求には一切応じてくれません。
タンザニア在任中は、公私ともに大変お世話になりました。
お金は出せないけど技術供与は惜しまない、そんな
いつものムトワラ帰りのようにあわただしく事務所を出発し、ダ
協力隊根性を持ち合わせたタンザニア人なのです。
ル空港では搭乗口の女性に「ムトワラに帰るんじゃないの」と
言われ、トランジットのドバイでは、飛行機が早く飛ぶのではな
いかという「ありえない」不安に駆られ。
今日本にいても、正直、まだ帰国したという実感がありません。
また何かの形で、皆様とお目にかかることもあるかと思います。
皆様のますますのご発展とご健康を心より祈念いたしておりま
す。本当にありがとうございました。
次回は、タンザニアに慣れ親しみ、心も体もタンザニア
人のママとなりつつある19-2の前塚さんです。
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パモジャ(Pamoja)とはスワヒリ語で「一緒に(together)」という意味です。
皆様からのご意見や写真、Goodな情報の提供をぜひお願いいたします!
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[email protected]
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