文学つれづれ 126 川端文学と剣術(14) 赤羽根龍夫

山 内 静 夫
桜も開花している筈だ。
稿が載る頃は間違いなく
りにくかったが、この原
り満開の桜を満喫出来る
く育って、今年はゆっく
二階と同じ高さまで大き
たのに、今ではわが家の
月、待ち遠しい。
く、 好 き だ。 あ と 一 ケ
と も 可 憐 で、 い と お し
かに舞うようなさまが何
後、世話人もいなく
例祭での子供神輿巡行な
ど地域の子供達が楽しめ
︵
人。
︶がシェフの相澤英
現在、会員は
る催しを行う会として
祭当日、神職から子供
たちに御稲荷さんの話が
足。2013年には同会
葉で作ったお守りが参列
あり、境内のタブの木の
者に配られた。
さくら貝が育つ海に
神社が清掃呼びかけ
にあった祠が落雷で半焼
小さな境内にある同稲
荷社は、元々、松の根本
ていくことになり、
民で同稲荷社を祀っ
2008年に地元住
端の精神の葛藤によって
れば人々の好意と尊敬を
ある美しさや高さがなけ
3月3日、鎌倉の由比ガ
﹁さくら貝の育つ綺麗
な砂浜を取り戻そう﹂と
時の川端の精神の葛藤が
た。﹃伊豆の踊子﹄は川 ﹃伊豆の踊子﹄
を書いた当
命から若さと新鮮さを奪
りの果てしない反省は生
みるがいい。くねりくね
介さん︵
︶と=写真、
野菜の美味しさを堪能
してもらおうと鎌倉、三
物に伝えない仕組みです。
をはさみ、地震の揺れを建
地 震 対 策
制震補強工事
浦産の新鮮な野菜を使っ
住宅が地震の揺れに対し
て少しでも長く耐えられる
費用的にもかなり高額なも
終の棲み家を考える ⑫⑫
ように、色々な方法が考え
のになり、改装工事では採
ト
イ
イ
です。6強を超える揺れは
から始まり震度7が最高値
けることで、建物にエネル
品︵ ダ ン パ ー︶ を 取 り 付
ルギーを吸収する特殊な部
ギー吸収力を付加して、振
無制限に震度7となりま
あります。耐震住宅にエネ
余り知られていません
が、制震住宅というものが
基礎と土台の間にボール等
られています。法律では震
を、天井まである窓から
度6強で、一回の揺れで建
用し難くなっています。
イ
目標としています。
物が壊れない様にする事を
ト
店 名 の﹁ t o i
ト
・ディナーで楽しめる。
toi toi﹂は幸運
地震の揺れの大きさは震
度階数で表し、 段階で0
まじないの言葉とか。鎌
・成功を祈るドイツのお
来店を見込んで子ども連
倉市立第一小学校そば。
☎0467・ ・5333
地震対策の方法として一
いる鎌倉市材木座の仲村 般的に考えられたのが耐震
住 宅 と な り ま す。 新 築 は
ることで地震で倒れにくい
動時にブレーキ効果を高め
住宅で、揺れに対して真っ
す。
浜海岸で清掃活動が行わ
公一郎さん
︵
るとしてさくら貝のお守
から縁結びのご利益があ
と話していた。
ら貝を拾い集めている﹂
年ほど前から海岸でさく
ガ浜の鎮守である葛原岡
神社︵長岡仁志宮司︶が
海への恩返しとして行っ
たもので、氏子崇敬会、
由比ガ浜中央商業協同組
合、由比ガ浜商店街振興
組合らが協力した。
同神社に貝を提供して
下らない感傷の意識しな
い一部ではなかったか。
⋮
の大転換﹂を成し遂げた
を恢復することで﹁精神
が私を裏切つたとは一度
てきたのはこれだけの意
人 ね ﹂に 続 け て 唐 突 に 出
感情を知らずに、何人か
も思わなかったではない
か。好意や尊敬のあつた 味があったのです。
所では。私は立派にそれ
踊子は少年時代に川端
に好意を寄せてくれた女
で耐える方法でした。建物
向勝負のガチンコ対決、力
りません。
き、費用もそんなに高くな
勿論、改装工事でも採用で
れています。
対策の基本になると考えら
制震住宅・制震補強工事
がこれから木造住宅の地震
の剛性を高めますが振動時
に剛性が低下します。
一方、高層ビル等に採用
されている免震装置を住宅
■日向建設
鎌倉市大船1︱ ︱3
☎0467・ ・5454
http://www.hyuuga.co.jp
に取り入れた免震住宅は、
か ま く ら 山 だより ⑨
その調子の良さにご用心
特徴です。この場合抗うつ
薬の反応が悪かったり、逆
もバリバリ働けて調子が良
疲れ知らずで睡眠が短くて
まいますね。しかし中には
で、思い当たる場合は御家
院に行かないことが多いの
人も調子が良いと感じて病
必要です。軽躁状態では本
まうこともあるので注意が
にひどい躁状態を呈してし
いと思ったら、そのうち活
報告したほうがいいでしょ
族など周りの方が主治医に
気を失い抑うつ状態になる
方もおられます。
う。
●看護師募集 アナタの笑
の根性が卑しい曲がった
顔と思いやりで一緒に働き
長引いて辛くなったので
達の象徴として川端少年 病院へ行ったら﹁うつ病﹂
と診断されて治療を続けた
を救うために現れた異界
ませんか?︵詳細はHP︶
もの︵これが川端の失恋
けどなかなか回復しないケ
の少女であり、物語の最
医療法人森と海メンタルホ
したあとの感情だったの
ースなど、もしかしたらそ
後に現れて川端少年をマ
スピタルかまくら山 院長
で す!︶ な ぞ と は、 嘘
れは双極性感情障害2型の
ントでくるんでくれた学
症状なのかもしれません。
だ、嘘だ、大きな嘘だつ
思の力で信じてしまえ。 ︵神奈川歯科大名誉教授︶ すが、﹁うつ﹂はしっかり
鎌倉市鎌倉山1︱ ︱1
生は清野だったのです。
いわゆる躁鬱病の一種で
たのだ。嘘であつたと意
に価していたのだ。自分
出るのに﹁躁﹂は軽いのが
精神保健指定医
岡田
昇
めようかとお考えの方も多
ので心機一転、運動でも始
て体も動かしやすくなった
いよいよ新年度がスター
孤児と云う言葉に対する
こうして川端は自分が
いい人と思われていた昔 トしました。気温も上がっ
りを授与し好評の、由比
︶
は 、﹁
れた=写真。3年ほど前
席もある。
れのためのゆったりした
づくり。幅広い年齢層の
ペンキ塗りなど行い、店
床の板張りや壁・天井の
た優しい味わいの料理
鎌倉駅から海に向かう
若宮大路に面してカジュ
ら
で、塀に囲まれており、
く
淋しい春の眺めだ。来春
さ
吉野が好きだ。遠山の新
家の猫の額の如き庭では
桜も種類が沢山あるよ
無理なので、
隣りの家の、 うだが、私はやはり染井
アルレストランが2月
とわくわくしている。
わが家の二階からは真正
新しい段葛がどんな形で
日、オープンした。
二十数年前、拙宅を建
て直す時、残念乍らわが
会があった。紅梅白梅揃
緑の中に一群れの山桜も
お目見得するか、鎌倉の
街を眺めながら、ランチ
って見頃で素晴らしかっ
面の所に、桜を一本植え
美しいが、染井吉野は、
今、八幡宮の段葛の桜
並木が、全て植え替え中
言葉になっている。それ
俳句の世界では、花、
と言えば桜の花を指した
た。元来無風流な人間だ
させてもらった。まだ弱
野尻さんのお宅で梅見の
だけ日本人にとっては桜
が、その日は文句なしに
新名所となるだろう。
とおやま
の花はなじみが深いのだ
散る時の花びらのかろや
なり、2004年ご
〝あったかいお店〟
を目指す澁谷秀樹さん
々しい細い幹の若木だっ
し、祀ったものという。
たちがお供えの餅を担い
で社殿の改修も行った。
た勝田主計が境内を整備 ﹁ 音 松 稲 荷 ク ラ ブ ﹂が 発
︵昭和 ︶に大臣を務め
材木座の音松稲荷社で初午祭
﹁赤神社﹂の名で親し
まれている鎌倉市材木座
3丁目の音松稲荷社で2
月
日、 初 午 祭 が 行 わ
1962年に御社が
建 て ら れ た が、 そ の
で園から神社までの路地
ろからは祭事も行わ
したものを、1940年
思い出すことでした。次
生み出された作品なので
受けなかったはずだ。境
鎌倉・由比ガ浜
い年である。で私の文学
に初代によって全否定さ
す。
人﹂と思われていた子供
号と2月号、その年の9
ほこら
に対する感激は増々高ま
れたと思い込んだ自分を
れなくなっていた。
を巡行した=写真。
れ、いずみ幼稚園の園児
初午祭や6月の五所神社
美しいと思った。
日が三寒四温のように入
るが、梅の方がしっとり
今年の冬はバカに寒い
日と十五、六度の気温の
ていいと言う人も多い。
り交じって季節を感じ取
と落ち着いた風情があっ
一ケ月程前、雪の下の
木版画
藤本宿
ったのである。
この後、中学の時に中
学の寄宿舎で﹁精神の輝
時 代 に 帰 り、自 分 は﹁ い
遇からしかたなしに一時
赤羽根龍夫
き﹂を持った清野少年と
︶︶
憧憬は高まり一生を文学
よく表されている、いわ
ふだけだ。そして私の自
の間少しいじけて縮かん
私は総ての人々を単純 のです。
いのではないでしょうか。
でゐただけのことだ。⋮ に信じて、猜疑と憎悪の
﹃伊豆の踊子﹄
の結末近 やはり春は気分が高揚す
る季節でつい張り切ってし
くで
﹁ 孤 児 根 性 ﹂が﹁ い い
ば
﹃伊豆の踊子﹄
の舞台裏
身に対する反省や嫌悪や
された
﹁大黒像と駕籠﹂
は
というべき作品です。
ゐるゆゑの自身をひそか
悲しむ心は私の境遇とか
かったか。自分の根性を
ての浮つ面の遊戯ではな
呵責は、却ってさうして
私は自分の精神を洗い
浄め、やがて高めること
にいい子におもひたがっ
をすることが必要でし
い人﹂なんだと自己肯定
︵︵
園児 た ち が お 供 え 餅 を 奉 納
ろう。勿論好き嫌いはあ
toi toi」
を、久しく生存の目的と
してゐた。⋮
そして︵私に︶精神の
濁りや歪みを償って餘り
10
35
「toi
歳で踊子
ってきて﹃湯ヶ島の思い
出﹄を書いたのです。し
たがってこの時、心を占
領していた初代とのこと
は書きませんでした。
天城トンネル
10
店名は
幸運を呼ぶ
32
60
若宮大路に
〝あったかいお店〟
38
同性愛体験、
取り戻すために、﹁いい
﹃伊豆の踊子﹄が発表
されたのが大正 年1月
15
15
15
につつまれようとしたの
川端文学と剣術
川端文学というと叙情
を表現したと思われてい
一行と伊豆の旅を経て、
でした。⋮
ます。しかし少年・青年
の打撃﹂を与えた﹁不可
歳の日記には、
どんな変化を起したか実
に大正三年は我の精神史
一番大事なことは清野
との、初恋に似た感情を
死を告げる手紙の中で、
歳の時に川端に﹁精神
の頃は強い精神性を秘め
私の苦しい将来の文学
生活を考えますと唯真面
解な裏切り﹂による失恋
月、
て い ま す。 大 正 3 年 3
目な努力で私の世界を創
を忘れるために伊豆にや
余もこれより大に夜道
を歩き膽力を養成セムと
決心す。
また別の手紙では
祖父は2カ月ほどして
祖父の死は私の身の上
亡くなりますが、祖父の のみならず私の精神上に
と思います。
造していくより外はない
19
47
23
月号の
﹁文藝春秋﹂に発表
自分の精神をありのま
まに現して天下に問うて
127
に到底逸する事の出来な
☎0467・ ・2550
23
22
70
ト イ
ト イ
ト イ
23
14
14
孤児の生活がはじまる
と共に私の文学に対する
32
15
12
第433号
2015年(平成27年)4月1日
1部 108円
(3)