Ⅳ 明治維新と子ども 55 Ⅳ 明治維新と子ども 1 海外に目を向けた人材の育成 ○ 薩摩藩は,鎖国体制下に も かか わ らず ,元治元年 (1864 年)に英語や技術等 の教授を行う目的で,開成 所を設置。時代が求める人 材の姿をいち早く捉え,教 育を実践しようとした。※ その背景としては,薩摩藩 は琉球などを通じて海外情 勢を把握していたことや,前 年の薩英戦争で西欧列強と の力の差を改めて認識した ことなどが挙げられる。 開成所蔵書目録【尚古集成館蔵】 ※ 開成所の教授陣は,石河確太郎,松木弘安(寺島宗則),上野景範,八木称平らの洋学 者に加え,中濱万次郎(土佐),巻退蔵(前島密。越後),嵯峨根良吉(丹後),本間郡兵衛 (出羽),芳川顕正(阿波),安保清康(林謙三。安芸)など。著名な学者を全国から招聘。 学習科目は,海陸軍の砲術・操練・兵法,築城,測量,航海,機械,造船,天文,地理,数 学,物理,分析(化学),医学などであった。 ○ 薩摩藩では島津重豪の時代から蘭通詞(らんつうじ。オランダ語の通訳)を 登用しており,重豪の薫陶を受けた曾孫・斉彬は,蘭通詞の育成にとどまらず 蘭学の教育にまで発展させた。これが開成所の教育につながった。 ○ 唐通事(とうつうじ。中国語の通訳)・蘭通詞いずれも,城下士,郷士,庶民を 問わず希望者を募り,能力本位で人材を育成した。慶応元年(1865 年),奄美 での白糖工場建設の際には,英国人技術者の通訳とするため,現地の若者 に英通詞稽古を命じた。1 1 『薩摩藩対外交渉史の研究』徳永和喜 56 ○ 薩摩藩英国留学生(使節団も含む)は,19 人もの 大人数で,かつ 13∼14 歳の若年者も含まれていた。 薩摩藩が海外との関係性を非常に重視し,海外で の実体験による人材育成や,西洋の技術も取り入 れた新たな国づくりを志向していたことが窺える。1 ○ 薩摩藩英国留学生の長澤鼎は,米国に渡って実 業家となり,後にカリフォルニアのワイン王と呼ばれ た。村橋久成はサッポロビールの基礎を築き,五代 友厚は大阪商工会議所の初代会頭となった。この ように,薩摩藩は経済界をリードする人材も輩出し た。 五代友厚(1835-1885) 【黎明館蔵】 薩摩藩英国留学生 【鹿児島県立図書館蔵】 【写真左】 (後列左から)田中盛明,町田実積, 鮫島尚信,寺島宗則, 吉田清成 (前列左から)町田清蔵,町田久成, 長澤鼎 【写真右】 (後列左から)畠山義成,高見弥一, 村橋久成,東郷愛之進, 名越時成 (前列左から)森有礼,松村淳蔵, 中村博愛 1 犬塚孝明(鹿児島純心女子大学名誉教授) 57 ○ 後に農商務省の次官を務め る前田正名は, 慶応元年 (1865 年),16 歳で長崎に留学 した。長崎では,当時洋学の 第一人者といわれた何礼之 (がれいし。祖先は中国出身で, 通事(通訳)の家柄)の英語塾 で学んだ。薩摩藩英国留学生 の選に洩れたこともあり,発奮 して勉学に励んだという。 そして,正名は外国留学の 資金づくりのために,兄の献 吉,高橋新吉の 3 人で上海に 渡り,『薩摩辞書』を編纂し,刊 行した。同書は,幕府の開成 所が作った『英和対訳袖珍辞 書』を基に,見出し語に片仮名 をつけるなどの改良を加えた もので,2,400 部刊行されたと いう。 『薩摩辞書』は,薩摩の青年 の気概を示す紙碑である。1 ○ 薩摩藩は,明治2年(1869 年),イギリス人医師ウィリ アム・ウィリスを招き鹿児島 医学校(鹿児島大学医学部 の前身)を設立した。ウィリ スは医療に携わりつつ,薩 摩の若者に,医学のほか, 英語や数学,地理も教え た。 西洋医学の学校を設立し, 教育を行った数少ない例 で,ここで学んだ高木兼寛 1 薩摩辞書【鹿児島県立図書館蔵】 鹿児島医学校 鹿児島城下滑川付近に建設された。赤レンガ 造りだったため,「赤倉」と呼ばれた。 『女たちの薩摩』日高旺 58 は後に海軍軍医総監となり,脚気(かっけ)の撲滅等に功績を挙げた。1 〔収集・解読史料等〕 ・ ウィリス文書(黎明館蔵) ・ 『鹿児島県史料 忠義公史料』(鹿児島県発行) ・ 『薩藩海軍史』 (公爵島津家編輯所発行) 1 『幕末維新を駆け抜けた英国人医師』大山瑞代訳 59 2 藩校での教育 ○ 造士館は , 安永2 年 (1773 年)に島津重豪が 開設した藩校で,城下士 が学ぶ学校であったが, 郷士の子弟,陪臣(藩主 直属の家来ではなく,家 臣の家来。又家来ともい う。)や庶民も別室又は末 席で聴講することができ た。講義は儒学,中でも 朱子学を中心に行われ た。 岡山の閑谷(しずたに) 学校,萩の明倫館,熊本 の時習館などと並ぶ全国 有数の藩校であった。 『三国名勝図会』 天保14 年(1843 年),五代秀堯らにより編纂された薩摩・大隅・ 日向の三か国の地誌。 ○ 島津斉彬は,嘉永7年(1854 年),学問の 本義を,「義理を明らかにし,心術を正し, 己を修め人を修むる器量を養ひ,君父に 対して忠孝を尽くし,全体を汚さざる儀,第 一の要務」と示した。また,安政4年(1857 年)には,「造士館諭告」を出し,「余力に は,西洋和解(わげ)の諸書も熟覧致し, 外夷の風俗器械をも我が羽翼となして, 益々皇化万国に行き渡り候様心得肝要に 存候」と,西洋の書物にも学び,外国の技 術をも身に付けて国力を発展させていくこ とが重要だと諭した。1 造士館諭告【個人蔵,黎明館保管】 1 『鹿児島県教育史』鹿児島県教育委員会編 60 ○ 藩校・造士館の設立に刺激され,外城(郷)の中にも学校設立の動きが出た。 垂水の文行館,種子島の大園学校,都城の稽古館など8校が幕末までに設立 された。1 ○ 造士館には寄宿舎があり,陪臣も入学できる。通学できない郷の寮生は, 皆自分で食事を準備し,藩が支給することはない。 学寮日 【出水市歴史民俗資料館蔵】 出水郷士・河添白水が造士館で学んだ時の日記 ○ 武芸の中で西洋銃術は非常に盛んであり,藩内で学ばない者はいない程 である。 ○ 造士館の学生を藩外に留学させる制度があり,1か月金1両2分,米4斗5 升を与えている。 ○ 以前の薩摩藩は,教育への支出が少なく,規律もきちんとしておらず,学 生が互いに励まし切磋琢磨することが中心だった。斉彬の代に至り,藩主が しばしば学問の様子を視察に訪れ,規律を引き締めたため,教育は盛んに なったという。 「観光集」秋月悌次郎2【鹿児島県立図書館蔵】 1 『鹿児島県教育史』鹿児島県教育委員会編 2 万延元年(1860 年)に薩摩藩を訪れた会津藩士 61 3 郷中教育 ○ 郷中教育は,文武の学習のみならず,問答などを通して武士道を高め,品 行を正し,利欲を去り,高潔清廉の心を養い,男女の区別を明らかにしたとさ れる。1 ○ 造士館への出校は午前 10 時から午後2時までの比較的短い時間であった が,登校前は先輩宅での朝稽古,下校後は郷中座元での復習の時間があっ た。重豪が造士館を設置した時に,郷中の教育も正式に位置づけられ,造士 館の教育と郷中教育という二重の教育が青少年に対して実施されるようにな った。2 ○ 島津斉彬は嘉永5年(1852 年),各郷中に対し,平日の行動の申告と,郷中 掟の提出を命じた。下荒田郷中から提出された掟には,「此節厚き思し召しを 以て,士の風俗立ち直り候様,仰せ渡さる趣有り,組頭衆より郷中取締人まで も仰せつけられ候」とあり,斉彬の意向を反映した郷中掟が作成され,郷中取 締人が監督することになった。これにより,郷中教育は藩の管理下に置かれ る段階になった。3 ○ 新屋敷方限(ほうぎり)では嘉永5年(1852 年)に掟を定めると共に,定まった 教場・稽古場を設置し,指導体制を整備するに至った。従来は教場を持たず, 指導者やカリキュラムが無かった郷中教育から,学校教育に近づいた新しい 郷中教育が始まったと言える。4 ○ 武士の子は 15 歳前後で二才組(にせぐみ)に入り,21∼22 歳位に卒業す る。地域で郷中をつくり,他所の郷中に入ることはない。日夜集まり文武を学 び,相互扶助を行う。軟弱で柔和な様子は全く無く,質朴剛健を旨とする。 ○ 二才組は昔からあったわけではなく,100 年ほど前に「少年たちが地域で互 いに学ぶようにすれば,徳を以て教化できる」と提案した者があったことから 始まった。 ○ 二才組が集まった際に,しばしば非常時に対処する方法や武士としての日 常の行いについて問答している。これを詮議と呼ぶ。 1 『薩藩士風沿革』鹿児島県教育会編 2 『鹿児島県教育史』鹿児島県教育委員会編 3・4 「幕末維新期、薩摩藩の郷中教育」(『日本歴史』613 号)安藤保(九州大学名誉教授) 62 ○ 12 月 14 日は赤穂義士討入の日で,二才組は必ず集まり夜通し「赤穂義士 伝」の輪読会を行う。これを通して,少年の忠義の心構えを鼓舞している。 「観光集」秋月悌次郎1【鹿児島県立図書館蔵】 「観光集」:資料 11 『赤城義臣伝』【黎明館蔵】 赤穂義士を題材とした読物 1 万延元年(1860 年)に薩摩藩を訪れた会津藩士 63 4 庶民の教育 (1) 幕末期 ○ 子どもには物心がつくと,ごく簡単な農作業や家事の手伝いをさせた。その 方法は教えるというより,見習わせて覚えさせ,やらせて,まちがいを直すと いうものであった。厳しい見習いの反面,子どもはその合間に山や川の伝説 や草木の名のいわれなど,村の自然や歴史を学んだ。1 ○ 百姓は,よき村人として一生を終わることが理想的な生き方とされた。農村 では,子どもをよき村人に育てるための躾が厳しかった。2 ○ 髙城武兵衛が書き写した「教諭書」には,「子は親に孝行を尽くし,親は子ど もを農業一遍に打ちかかるように育てよ。」などと記されていて,百姓の教育・ 農業政策の一端を示している。 『知覧町郷土誌』 ○ 百姓の子弟への教育は,農作業等の技術教育から情操教育に至るまで,全 て実践活動を通じて行われた。幼少の頃は家庭を中心とする躾が主で,15 歳 になり用夫(いぶ)として一人前と認められると,村の異年齢集団である二才 組(にせぐみ)に参加し,先輩から独特の厳しい躾や訓練を受けた。3 ○ 坊津地方では,郷士・農民・浦人の子弟がいっしょに教えられ共同学習をし ていた。 『坊津町郷土誌 下巻』 ○ 百姓の社会にも二才組という組織があった。方限(ほうぎり)の警戒,風紀の 取締りなどに当たり,若者の風紀の乱れを矯正しようとするものであった。団 体には一つずつ踊りがあり,踊りを練習するという団体行動の訓練に意義が あって,また娯楽と潤いを与えるという目的も持っていた。 『樋脇町史 上巻』 『薩摩見聞記』 二才組での棒踊りの様子 1∼3 『鹿児島県教育史』鹿児島県教育委員会編 64 (2) 明治初期 ○ 幕末期から明治初期までの寺子屋の数は,東京 487,大阪 778,熊本 910 に 対して鹿児島は 19 となっている。この鹿児島の寺子屋不振の理由として,以 下のことなどが挙げられている。 ① 郷士が多い薩摩藩では,庶民は直接的に郷士に支配され,寺子屋教育を 成り立たせる余裕がなかった。 ② 商業が未発達で町人が少ないため,読み書きそろばん等の教育は少人 数の徒弟奉公で間に合った。1 ○ 政府の強力な指導で小学校は短時日のうちに全国に 開設され,明治7年(1874 年)には全国で 17,000 校余りを 数えた。同年の鹿児島県内の小学校数は 97 校,児童数 は 9,605 人である。この数は多いようであるが,就学す べき学齢児童が 135,139 人であるから,就学率はわずか 7.1%にすぎない。7.1%という数字は,全国最下位である。 更に女子だけの数を見ると,学齢児童 63,065 人中の女 子のうち,わずか 300 人が小学校に通ったのであって, 就学率は 0.48%,つまり,この年の統計によると,ほぼ全 員の女子が学制が施行されたにもかかわらず,小学校 に入って勉強することはできなかったということである。2 西郷隆盛直筆の田上小学門札 【鹿児島市立田上小学校蔵】 ○ 西南戦争後の鹿児島県も,明治政府と同様,「教育は国づくりの基本」という 認識の下,厳しい財政状況の中でも教育の充実を図っていった。特に岩村通 俊県令は教育に熱心で,その在任中に小学校の整備も急速に進み,入学す る子どもも増加した。 県下の小学校の景状は,他府県に後れ最も教育もあがらざりしが,近年にては県官の奨 励と訓導の尽力にて追々卒業生も増加に至れり 「明治 12 年7月4日付朝日新聞」 1 『近世の学校と教育』海原徹(京都大学名誉教授) 2 『薩摩おごじょ』吉井和子(鹿児島女子短期大学名誉教授) 65 ○ 明治維新前の伊作郷における教育施設としては,寺子屋や郷中教育を行う 稽古所などがあった。明治2年(1869 年)には,地域有志によって「素読館(そ どくかん)」が設立された。ここでは,常備隊(版籍奉還後,郷に代わって地方 行政を担った組織)の管理下で和漢の学問を主体とした青少年教育が行われ た。1 ○ 明治5年(1872 年)に素読館から改組された小学校では,現代にも通じるよう な規則が定められていた。 一 禁疾走 かけあるくべからず 一 禁雑語 むだはなしすべからず 一 禁玩器 もてあそびもの相(あい)ならず 一 勿争罵 あらそひののしるべからず 一 勿教違令 おしへにたがふ事なかれ 一 勿取與 もの取かゆる事なかれ 一 勤者有賞 つとむるものしょう有 一 惰者有罰 おこたるものばつ有 明治五年申四月八日 (「諸役,文武館掛及郷校教官仰付書」)【日置市吹上歴史民俗資料館蔵】 【概要】 (校舎内で)走らない,無駄話をしない,玩具を持ち込まない,争ったり罵 ったりしない,教えに反したことをしない,物を取り替えない,努力する者は 賞する,おこたる者は罰する 1 『宇都為栄村長 生誕 150 周年記念誌』 66 (3) 明治 20 年頃 ○ 鹿児島の就学児童の割合は,全国最低で ある。男子は就学対象児童の半分を越えた 程度で,女子は就学対象児童の8∼9%に 過ぎない。石川県は,男子が 80 数%,女子 が 60 数%就学している。1 ○ 鹿児島市内の小学校の男女比は2対1だ が,地方では最高でも男女比が3対1で,学 校によっては女子はいない場合もある。2 小学高等科第一級卒業証書【黎明館蔵】 ○ 他県では維新から既に 20 数年経っているが,鹿児島県は事実上,10 数年し か経っていないため就学率が低い。鹿児島の維新は西南戦争後からと言って 良く,それまでは封建制度が続いていた。西南戦争によって,鹿児島の人は 世の進歩に遅れたことに気付いた。3 ○ 西南戦争後に鹿児島では各種学校の設置が 盛んになり,明治 20 年頃には小学校の積立金 (有力者からの献金等を基にしたものか)は全 国3位,学校の面積は全国2位になった。4 ○ 武家社会の道徳規範であった「武士道」の精 神は,明治維新後,礼儀・質素・倹約・忠義とい った道徳観として庶民にも受け継がれていった。 初等小学修身初歩【黎明館蔵】 当時の教師の多くが武士出身であり,学校教 育を通じて浸透していったことも要因として挙げられる。 〔収集・解読史料等〕 ・ ・ ・ ・ 当時の新聞記事 県内各市町村郷土誌 「諸役,文武館掛及郷校教官仰付書」(日置市吹上歴史民俗資料館蔵) 「観光集」秋月悌次郎(鹿児島県立図書館蔵) 1∼4 『薩摩見聞記』本富安四郎(明治 22 年に宮之城村の盈進尋常高等小学校に赴任した新潟出身の教師) 67 68
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