Title Author(s) Citation Issue Date Type アーディル・シャーヒー王国(西暦一四八九年−一六八 六年)の地方支配に関する一研究 深沢, 宏 一橋大学研究年報. 経済学研究, 8: 169-278 1964-03-31 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/9378 Right Hitotsubashi University Repository 序言−問題と史料 地方の世襲役人ー特に郷主︵Uo路一又は 第一章 直轄区管理官︵田轄巴α緯︶の職責と報酬 地方の行政区画 第四章 官僚に対する封禄と封土 結 語 第六章 第七章 第五章 勅令︵男鷺ヨ診︶の邦語試訳 目 次 ) 宏 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一六九 このデカンにお UΦ昌昌一蒔げ︶と郷書記︵OΦ。。ゴ犀巳惹彗一又はU窃び℃鋤昌自o︶ 沢 周知の通り、インドのデカン地方は、一三世紀末以降、外来のムスリム勢力によって支配された。 第一節デカン中世史の概要 深 シャーヒー王国︵西暦一四八九年 ● の地方支配に関する一研究 六イ 年ル 第二章 八デ 第三章 六1 第一章 序言 問題と史料 一ア 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一七Q けるムスリム支配には数度にわたる王朝の交替が見られた。即ち、一三世紀末初めてデカンを征服したムスリム王朝 は、デリーを首都としたキルジー朝であった。然し、キルジi朝は、一四世紀初め、トゥグルク朝によって倒され、 デカンもトゥグルク王朝の領域に入れられた。然るに、一三四七年、デカンに派遣されていたトゥグルク朝の地方官 たちはデリーの中央政府に対して反逆し、地方官の一人バフマン・シャーを選んで王となし、グルバルガを都どして トゥグルク朝からの独立を宣言した。これがバフマニー王朝である。この王朝は、デカン一帯を領有し、約一五〇年 ︵1︶ 間存続した。 然し、一四八一年、この王国の優れた宰相マームード・ガーワーン︵一四〇三−八一年︶が、宮廷の顕臣の陰謀に ょって殺され、そして翌年、第一四代目の幼弱無能の王マームード・シャーハ・バフマニー二世︵在位一四八二−一 五一八年︶が即位して後、王国の中央政界は、顕臣・高官の政争の増蝸と化した。これを機会に、政争に敗れた失意 の高官たちは、それぞれ任地において王朝からの独立を宣言するに至った。即ち先ず一四八四年、ベラール州総督 ︵円鷺亀α騨︶ファテゥッラ・イマード・シャーハは、ベラールにイマード・シャーヒー王国を樹立し、次ぎに一四八 九年ダウラターバード州総督マリク・アフマド・ニザーム・ウル・ムルクは、アフマドナガルを首都としてニザー ム・シャーヒー王国を創設した。同年ベルガウム州総督ユースフ・アーディル・カーンもまた独立を宣言し、ビジャ ープールを都としてアーディル・シャーヒー王国を建設した。その後一五一二年、テレンガナ州総督クトゥブ・ウ ル・ムルクもゴールコンダを都として、クトゥブ・シャーヒー王国を設立した。他方、この様にして四つのムスリス 王国が派生し、それに応じて領域も権力も甚だしく縮少したバフマニi王国の内政は、宰相バリード一族の専断に帰 し、一五二〇年代に王統も断絶し、バフマニー王朝は名実共に滅亡し、代って宰相が即位してバリード・シャーヒー ︵2︶ 王国を建てた。かくして、バフマニー王国は五分され、デカンのいわゆる五つのムスリム王国が成立したのである。 この五つのムスリム王国は、一方で相互に闘争や和解を繰り返し、他方で、北インドを征服したムガールの軍勢に よって、一六世紀末から一六八七年までの間に、個別的に撃破・併合され歴史の舞台から消滅したのである。 本論文の研究対象であるアーディル・シャーヒi王国は、先述の如く、一四八九年ユースフ・アーディル・カーン がビジャープールを都として設立したムスリム王国である。■ハ八六年ムガール帝国に併合されるまで、一九七年間 にこの王朝には次の八名の王が即位した。 eユースフ・アーディル・シャーハ︵在位一四八九−一五一〇年︶ 国イスマーイル・アーディル・シャーハ︵・・一五一〇ー三四年︶ 国イブラーヒーム・アーディル・シャーハ一世︵・・一五三四−五八年︶ ㈲アリー・アーディル・シャーハ一世︵・二五五八−八○年︶ 国イブラーヒーム・アーディル・シャーハニ世︵・・一五八OI一六二七年︶ 因ムハンマド・アーディル・シャーハ︵・・一六二七−五六年︶ 囮アリi・アーディル・シャーハニ世︵・・一六五六−七二年︶ 囚シカンダル・アーディル・シャーハ︵・・一六七二ー八六年︶ この王朝は、一五六四年、デカンのムスリム諸王朝と連合して、南隣のヴィジャヤナガル・ヒンドゥ王国を破り、 アーディル.シャーヒー王国︵西暦一四八九年−ニハ八六年︶の地方支配に関する一研究 一七一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一七二 南カナラ地方に領土を拡張し、次いで一六一九年に、クトゥブ・シャーヒー王朝と同盟して、、東隣のバリード・シ ャーヒi王国の西半を併合した。また一六三六年、北隣のニザーム・シャーヒー王朝がムガールの軍勢によって滅亡 された時、アーディル・シャーヒー王朝は軍隊を派遣して、旧ニザーム・シャーヒー王国領の南半を奪取し、これを ナ ド ヤ カ 領土に加えた。他方、王朝を失なった旧ヴィジャヤナガル王国の地方官たちはそれぞれ独立し、トンガバドラー河の 南に、多数の小王国を建設していたのであるが、アーディル・シャーヒー王朝は、これらヒンドゥ諸王国と屡々戦い、 その或るものを撃破して、領土を併合し、併合をまぬがれた他のものを朝貢関係に立たせ、いずれにしても、ドンガ バドラi河以南の南カルナータカ地方に﹁カルナータカ州﹂を設けて、王国の属領とした。 スーバ ︵3︶ このようにして領域を拡張しつ㌧、アーディル・シャーヒi王朝は、名実共に、デカンにおけるムスリム諸王朝の 雄として、首都を中心に壮麗なイスラム宮廷文化を開花させたのである。然し、北インドを征覇したムガール帝国の 南進の勢いは激しかった。一六三一年以降、アーディル・シャーヒー王国は、ムガール軍勢の攻撃を繰り返して受け、 一六三六年これに八OO万ルピーの賠償金を支払ってひとまず和を講じた。一六五七年同王国は再びムガールの攻撃 を受け、激戦の後一〇〇〇万ルピーの賠償金を払い、更に王国領の東北地域の割譲を約束して講和した。然し同王朝 は、ムガール帝室内の帝位争奪の争いに便乗して領土割譲の約束を果さなかったので、新たにムガール帝位に就いた アウラングゼーブは、一六六五年以後同王国を繰り返して攻撃した。王朝はこれに対して頑強に抵抗した後、一六七 二年第八代の幼弱の王シカンダルの即位と共に、顕臣・高官に対する王朝の統制力が崩れ、一六八六年王朝は遂にア ︵4︶ ウラングゼーブの軍門に降り、王位は廃止され、領土はムガール帝国に併合されたのである。 ︵1︶ バフマニi王朝成立の事情については、の・︾P目虞墨ぼ⇒bぴ暮§9§動薪ダBぎ悔ミ醤良箋毫罫恥b罫ミ9蔦肉詳鼠o葺 O亀o暮鼠u這ひρ9騨営,炉月∼またこの王朝の通史として客内霊ユの窪費零象ミ噂織簿。簿題&鮮ぎミ蓉ぎミ醤9亀9§ 、oミ塁討誉軋8陶9ゆ臣一,げ﹃甘げ目国二㎎鵯︸ωβの諸Oに℃言い巳■闇○巴o馨鼠、一300”︿oド目を参照。 ︵2︶ ムスリム五王朝の成立の事情及ぴそれらの通史として、閃型竃o伍倉﹃歳曇ミ璽県罫馬ミ罫oミ&象昌肉§鼠o醤恥黛簿“ bQ89葬<〇一■昌炉b8昌2扇O一を参照。 ︵3︶ この王朝の通史として、切・口冒&斜﹃顛象ミ鯉毫暮o切戴9噂ミ映鐸鴇︸囚9げ費℃弩︸一〇〇Q。ひを参照。 ︵4︶ ムガール勢力の南進史として、差し当りω・冒・国自≦騨a窃脅国・いρQ鷺89Hミε詳&肉良馬き誉籔3U巴匡・G象− ℃やNo。∼o。ωし茸∼≒。い客ω帥詩鷺一qQ︸ミ肺韓9ミ壁勲﹄ミ§蟻舘黛ぎαoFOgo三旦這U♪℃℃﹄轟∼台るb。O∼鴇を参照。 第二節 本論文の研究課題 ムガール帝国に対するアーディル・シャーヒi王朝の抵抗も、トンガバドラー河以南のナーヤカ諸王国のこの王朝 に対する朝貢的服属も、この小論文では取り上げない。本稿が対象とするのは、一九六頁の地図に示された如く、ほ ぼビーマi河からトンガバドラー河に至る地域、即ち同王朝がその領土として名実共に主権を確立した地域の内側に おける、地方支配の機構とその運用の仕方である。か﹄る研究を試みた理由は二つあった。 第一に、先に素描した如く、二二世紀末以降約四〇〇年の間デカン地方はムスリム権力によって支配されたのであ るが、この時期に関する従来の研究は、卑見の限り、主として戦争史乃至王朝年代記的研究か、或いは王朝文化史的 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一七三 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一七四 研究に限られているように見える。か﹄る研究動向は、インド中世史家の関心のあり方が主として政治権力の変遷を ︵1︶ 跡づけることにあり、そして従来使用された史料の殆んどすぺてが、王室側近の史家や文人の書き遺した王朝年代記 乃至王朝通史に限られていたという事情に依るのであろう。か㌧る研究は十分に尊重され、参考にされるぺきである ︵ 2 ︶ ことは言うまでもない。然し、もともと外来の征服者であったムスリムが、デカン地方に定着し、原住ヒンドウ教徒 の上に支配者として君臨した時、どのような支配体制が存在したのであろうか、というインドの中世国家の構造に関 連して、基礎的に重要な別の問題もあり得る。同じくムスリム支配を受けた北インドの支配体制に関しては、不十分 ︵3︶ ではあるが、既に先学による若干の研究が発表されている。これに対比して、デカンのそれに関しては、従来殆んど 何の研究も行われていなかった。そこで、この問題を解明する一つの手懸りとして、幸いに同時代の記録が比較的に 多数蒐集公刊されているアーディル・シャーヒi王国の地方支配のあり方を、可能な限り具象的に研究して見たいと 考えた。 第二に、一七世紀の中葉、デカンの西部山間地域を中心として、ヒンドゥ教徒の目覚しい政治的復活が行われた。 史上マラータ人の擾頭と呼ばれるこの歴史的動きは、周知の通り、アーディル・シャーヒi王国の西北辺境において 生じたのである。即ち今日明らかにされているところに依れば、マラータ王国の建設者シヴァージー・ボーンスレ ー︵一六二七/三〇ー八O年︶の父、シャーハジー・ボーンスレー︵C一五九四ーエハ六四年︶は、初めニザー ム。シャーヒー王朝に武将︵留巳跨︶として仕えたが、一六三六年同王朝がムガール帝国によって撃滅された時、隣 国アーディル・シャーヒー王国に移って、改めて武将として召し抱えられた。その際、恐らく彼自身がニザーム・シ ヤーヒー王朝から封土︵累o臨鈴又は萄職↓︶として与えられていたプーナ、スーパ、インダープールの三つのパル ガナ︵一種の行政区画、後述参照︶もアーディル・シャーヒi王国の領域に入り、彼は改めてこの三パルガナを封土 として付与された。然し彼自身は、南カルナータカ地方に長期遠征を命ぜられたので、封土の代官︵日け鼠一鱒︶とし て、誠実・有能なバラモン、ダーダジー・コンダデーブを任命し、夫人及ぴ次男シヴァージーをその許に住ませた。 このシヴァージーは、既に一六四六年頃父の封土の支配権を掌握し、ムガール帝国対アーディル・シャーヒー王国の 長期抗争を巧みに活用して、徐々に西ガートの山間諸地域に勢力を拡張し、幾多の曲折を経た後、一六七四年主城ラ ーイガルにおいて、﹁即位の灌頂﹂︵翁萄げ匡跨粛︶を挙行し、一国の主権者であることを内外に宣言したのである。こ のマラータ勢力擾頭の経過や事情については、従来数多くの研究がなされた。そして、シヴァージーその人の、いわ ばカリスマ的資質を特に強調する見解、マラータ勢力の擾頭に先行する、地元民の間のヒンドゥ意識の覚醒と宗教改 ︵4︶ ︵5︶ 革運動とを特に力説する意見、或いは反対に、この勢力の擾頭にとって有利な条件となった政治的環境、即ち、ムガ ール帝国対アーディル・シヤーヒー王国の長期的闘争や、シヴァージi集団成立の基盤となった地域の地理的特殊性 を特に指摘する論説など幾つかの有力な学説が提示されたのである。確かに、これらの学説の背後には、この勢力の ︵6︶ 鐘頭に深く共感を寄せ、或いは反対に、むしろ反搬するという研究者個々人の、プロヴィンシャルなセンチメントも 潜んでいる。然し、このようなセンチメンタルな要因を別にしても、右に摘記した代表的な諸学説が、それぞれ少く とも事態の一面を鋭く摘出したものであることに、殆んど異論はないと思われる。 然しこれら従来の研究は、傑出せる指導者シヴァージーが、一方で宗教意識に覚醒したヒンドゥ達を結集し、他方 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一七五 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一七六 で有利な政治的環境を活用して、急速に王国を建設することを得たその制度的基盤に対してはあまり大きな注意を払 わなかったと言い得る。このことは、日シヴァージー勢力擾頭の、特に初期の事情を如実に示す記録がむしろ乏しい ことの他に、口従来インド史の研究が、先に指摘された如く、主として戦史乃至宗教文化史に集中し、制度、機構、 経済、社会構造などに対する関心が稀薄であったという事情に依るものと思われる。いずれにしても、シヴァージi 勢力擁頭の制度的基盤となったプーナ、スーパ、インダープールの三つのパルガナから成る﹁封土﹂の支配構造、そ の管理運営の組織、封土と中央権力との関係などを具さに研究することは、今後のマラータ史研究に残された一つの ︵7︶ 重要な、しかも困難な問題である。勿論この困難な問題を、本稿は直接に取り上げようとするのではない。ただ、こ の問題に接近する準備として、先ず、アーディル・シャーヒi王国の地方支配機構について、一般的理解を持つ必要 があるのではないか、と考えた。 つまり、8中世デカンのムスリム支配のあり方を知る手懸りとして、口そして同時に、マラータ勢力撞頭の制度的 背景を知るための予備操作として、アーディル・シャーヒー王国の地方支配について研究を試みたのである。 ところで、一国の地方支配を研究するための一つの方法は、その地方支配を担当した行政幹部のあり方、即ち一方 ではそれと中央権力との関係、他方ではそれと人民との関係を検討することにあるであろう。そしてか㌧る関係は、 もっと具体的には、地方行政幹部の職責と報酬のあり方を考察することによって、かなり明らかになるであろう。 か㌧る視点に立つ時、アーディル・シャーヒー王国では、性格の基本的に異なる二種類の行政幹部が存在した。第 一は、恐らくその﹁祖型﹂はムスリム侵入以前のデカンに古くから存在したと思われる、ヒンドゥ自身の土着世襲の 役人である。ムスリム権力は、この制度を承認し、支持して積極的に活用した。世襲役人には、ほぼ一〇ヶ村から二 〇〇ヶ村を含む地域の首長としての郷主︵U①ω田又は∪①浮ヨ鼻﹃︶、ほぼ同じ地域の書記としての郷書記︵∪①静犀巳− 犀即↓巳又はU。ωげ冨且①︶、村長︵霊琶又は旨8&鼠β冒o匿鼠9︶、村書記︵囚巳ζ旨同︶、市揚地︵鼠N賀ρ窃9F ζ菩ρ需誓︶の長︵ω8①︶、市揚地の書記︵属跨どき︶、各地に点在した城塞の警備員︵2細犀≦8剛︶などが居た。ま た時折り、村には村長補佐︵○富茜巳餌︶、市揚地にはその長の補佐︵○富&富昌︶も居た。 第二の行政幹部は、王直属の国家官僚である。官僚による地方支配には二つの方法があった。そしてこの二方法は、 ロマラ カラ パ ロ 二種類の行政区画とほぼ対応していたように見える。即ち、後に改めて検討される如く、王国の主要な諸地域は、鴛 轄区︵冒偉.鋤営巴即︶及び城区︵◎.巴魯︶と呼ばれる王の直轄領として区画され、その各々に、王が任命しな謝邸割 ︵国餌く緯鼠.︶以下の官僚が派遣され、統治した。この直轄領官僚制が、官僚による地方支配の一つの方法である。 官僚による地方支配の第二の方法は、高級及び中級の官僚に対して、一定地域をその税収と共に﹁封土﹂︵首お籾劃 日。薮。似︶として貸与し、その地域を支配させる方法である。即ち封土受領者の封土支配が、官僚による地方支配の 第二の方法である。そして、官僚に対する封土として一時的に貸与された地域は、普遵捗、直轄領と区別された、パ ルガナと呼ばれる地域であった。 ただし、パルガナの支配方法には若干の説明が必要である。何故なら、すべてのパルガナが、常に非直轄領であり・ 常に官僚に対する封土として貸与されたというわけではないからである。パルガナの支配方法は一様ではなく、少く とも三つの方式があった。第一は、単数又は複数のパルガナを、高官の封土として貸与し、彼の一円支配に委ねる方 アーディル.シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一七七 一橋大学研究年報 経済学研究 8 . 一七八 式、第二は、パルガナの一部を、一ケ村乃至数ケ村単位の小封土に区切って、それを中級官僚の封土として与え、残 りの部分はこれを朝廷に﹁接収﹂︵臼巨ぎ諄︶して、地元の世襲郷主をして管理せしめる方式、第三は、一つのパルガ ナ全体を朝廷に接収し、その行政の責任を地元の郷主に負わせ、更にそれを監督するために、特別の官僚を朝廷から 派遣する方式である。これらの様式については、後に改めて触れる。いずれにしても、封土受領者のパルガナ支配と は、右の第一及ぴ第二、特に第一の方式を意味している。 他方、封土はパルガナ区域においてのみ与えられたわけではない。管轄区及び城区と呼ばれる直轄領においても、 その一部が区切られ、官僚に対する小封土として貸与されることは屡々あった。然し、直轄領のうち封土として与え られた地域は、普通その一部であり、一つの直轄区全体を直轄区であることを停止して、高官に一円封土として貸与 することは殆んどなかったと思われる。つまり、小封土は、パルガナ地域においてだけではなく、直轄領においても 与えられた。然し大封土は、通常パルガナ地域においてのみ与えられた。 要するに、官僚による地方支配には、管理官以下による直轄区支配、封土受領者による封土支配、この二つの方式 があ っ た 。 そこで、本論文の研究課題は、次の四つの部分に分けられる。第一に、パルガナ、ムアーマラ︵管轄区︶、カラ︵城 区︶などの行政区画がどのような基準や行政目的を以って設定されたのかを推定し、その地域的分布を認定する。第 二に、行政区画の相違にか㌧わりなく遍在して、直接に人民支配を担当した世襲の役人、特にその中で最高の行政機 能を行使した郷主と郷書記の職責と報酬を検討する。第三に、直轄区支酎のために、王が任命派遣した管理官の職責 と報酬、及び任地における彼の部下と世襲役人とに対する彼の関係を考察する。第四に、官僚に与えられた封土の種 類と規模、そこにおける受封者の権限と封土運営の組織、及び受封者と世襲役人との関係を検討する。 ︵1︶ デカン中世史全体に関する、戦史・文化史的研究をここで網羅的に示すことは出来ない。この点については、いU・園。帥, 誘○昌&﹄黛§融身蜀ミざ竃い嵩SIお麟︸O費葺ぼ5碗ρ一〇総”bやひ雛∼総を参照されたい。ここでは本稿の研究対象である アーディル・シャーヒー王国に関する王朝史的・文化史的研究のみを列挙する。型客一8三“弓ぎ肉魁饗勲專蓉ぎミ﹄野“ の、四§自︵嵩G。o∼﹄器N︶毫bo帆﹃§ミ噌ωげ似声寓旨くこ旨勢くo一﹂解国○旨げ塁一一零Q。﹄づ℃・No。斜∼いoo・Uo乙旺帖﹄騒oQ、↑9N四﹄皇 寒§ミ︵§Q。よ§︶§脳穿ぎ袋寒§誉あ鋤a冨−の器罫9①。巨く。一・馨。こ自ヨa。hg①>ω一の葺。の&3 。3。き亀︵z薯ω豊呂く量。鼻輿ぎ邑睾漫ひ鱒鴇︵讐耳ぼま。︶・蜜Nぼき馨qヨミ碁ぴ寒器愛簿。 ぎ器N臥註羅§尊ぎΩミ惹勲富ミぴ誉識&のぎぴ自︵獣o。o∼賊器vyHωポ日一。O巳け霞ρ<o一・図萸︸Z。㍉﹂四P這ω9国琶。, 冨富自−u①。8p寧﹄7い9舛ρ評峯巳”昏§“≧§誤篇号巨。9一翼①闇<。臭ヌド霧もや一8よN・界囚﹄馨” 陪ぎ肉豊§毫﹄罰議&象暮皇衷﹃§ミ㍉&一目〇三葺β<・一ー<”o巴。暮旦一3P麗・&匙ω凱・Uo乙§恥零吻ε﹃噂。、 国恥言匙へ凶§N象罫勲馳母§ミ︵﹄Uミ∼聴y冒山置βO巳葺↓ρ︿oドHメ這賂”唱や一∼旨■これらの研究のうち、P.M.ジョ シー氏の二論文は、同王朝の二人の王の﹁インド化﹂を取り上げ、彼らがヒンドウを如何に側近に重用したかを述ぺる。ガヤ ナウヲしス ニ氏の論文も、イブラーヒーム・アーディル・シャーハニ世のインド化の例証として、同王がインドの伝統音楽の﹁九情緒﹂ を特に愛好し、彼の建設した町をナウラースプールと名づけ、彼の発行した貨幣をナウラース貨幣と呼ぴ、その上彼自身で ﹁ナウラース﹂という詩集を書いたことを述べる。すぺて興味深い論文である。なお本稿の勅令試訳にも示される如く、イ ブラーヒームニ世は、ヒンドウ教の河川・富・学芸の女神サラスワティーを特に尊崇し、彼の発した勅令には、屡々﹁サラス アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一七九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一八○ ワティー女神を礼拝して﹂︵器b三㌘一あ臨の雪霧≦鈴け団︶の一句が加えられている。 ︵2︶ アーディル.シャーヒー王朝に関する主なペルシャ語史書・年代記として、次のものがある。既刊のもの。︵一︶冒仁げ陣目− 彗器囚鐘目固冴げg”Q蕊罫ぎ−墳穿翠誉斜︵鵠蔑ぎ−蝋㌔§罫§扇。e9鴇匿go磯β旨&国象δ一〇p一。。いρ身︸oぎ甲蒔αQの, 国謎房げ?きの藝一8ξ︸gロ田蒔鵯“弱象ミ璽剣弊ぎミ。ぎミ§画§勺§零き∼蔑貴一〇。8﹃8ユ旨a言o巴暮郵一〇一ρ ︿o一﹂員bや一ー一〇。yda・・↓ヌロ匹蝕o昌身ド団■と同留冨げ”醤蔑ぎ−帖−窒註罫貫<〇一ω﹂目勲Hヌ国琶①βげ器し8。。1貫 本書は周知の通り、同王朝の宮廷史家として生涯を終えたフイリシュタが、全インドのムスリム諸王朝の歴史を概観した彪大 な作品であるが、彼の死亡する直前一五九六年頃までを取り扱っているに過ぎない。しかも英訳本に依る限り、制度史的観点 からは殆んど何も知り得なかった。︵N︶竃仁ゴ魯9日鈴幽目旨巨目Nロぎ三”切§騨き−竃−のR翻鼠ド団こ塑唱ロサ一〇〇撃本書は、同王 国滅亡後一二八年を経て、一八二四年、ビジャープールのムスリム史家ズバイリが若干の写本に基いて書いた同王朝通史であ のため判読に苦しみ、間もなく放棄した。その際の印象では、ムガール支配とマラータ支配を経た後に書かれた書物であるた り、事件の経過や日付に関しては信愚性はかなり高いと言われている。私はハイデラーバード版を一時閲読したが、石版印刷 め、ムガール.マラータ両時代の制度的概念も不用意に混用されているので、制度史的研究に使用するには余程の注意が必要 であると思われた。なお、前掲中り竃Oq帥﹃簿象ミ璽&弊ぎ切膏魯辱栄ぎ蕩は、同書のマラーティー語抄訳である。別の マラーティー語抄訳はO甲囚げ彗宍poミ蟹負ぎ試壁9ミ§oo§ミ罫●︿畠員bo92むまに含まれている。 未刊の写本︵一︶竃β岳ヨ目&国粋げ畦一ミ暮9醤醤鼠窒画蓉38豆&げ蜜≧ρ囚’国げ即ぎ轟鷺置旨O。国︵零も自爵巳P口げβ藁 竃ψ︶。.︶れは、同王朝第六代の王ムハンマド・アーディル・シャーハに仕えた宮廷文人ザフールが書いた同王の伝記である。 NO∼撹“があり、マラーティー語抄訳は前掲ρ鍔Nげ鴛曾象弩9qぎ醤饗象︸.・§警醤饗暮、︿♀員に含まれている。私は その英語抄訳として甲U■く9目碧韓象ミ健き寒虞ぎミ馨麟9≧斜き3ぎGっ試蟹㌦帖き言醤§§&斜く9・剛H、唱8博P一8ρ℃や 両抄訳を参照したが・本稿の課題にとって若干の点で参考になった。︵卜。︶の電覧創乞ξ巳ポ﹃樋画壕諦詳,帆,﹄駅凶鐵&象塾自 ︵冒q寅○密oΦ目げ冨昌冒ω臼︶・これは、第七代の王アリー・アーディル・シャーハニ世の宮廷文人ヌールツラが書いた同王の 年代記であり、そのマラーティー語抄訳は前掲ρm因げ貰曾のミ貰Ωぎ器讐9別置蹄Oっ§ミ9夕く。一ーHHに含まれている。本 論文のためにも一部参考になった。︵い︶冒βゴゆヨヨ器2霧箏﹃蕊帖蔑韓9︵冒α壁○$。①口げ賊ゆ擁鴇冒ψ︶これは、のと同じく アリー・アーディル・シャーハニ世の宮廷詩人ヌスラトが、同王を讃えて書いたデカン・ウルドウ語の詩集であり、そのマラ ーティー語抄訳は前掲9閏■囚げ鷺9のぎ養Ωぎ醤讐9ミミ蜜ε醤訓く9目に含まれている。︵轟︶霊N凶目凶︾ω鼠鼠巳、 肉9鯨薗訓勘肺−苧N&&吻訓勘訓画︵︼W吐詳一のげ竃にのOβp一竃ω・︶ ︵3︶ 北インドにおけるムスリム支配について例えば、︾甲ド国号ま巳一号”ミ罵笥。§匙麟臓。§亀寒§恥N慧肉鐸執恥邑§㌧苺盛9・ 卜oロ自①山‘︾一ポげ騨げ費ρ這ひ一︸○げ卑b壁一〇∼一N閑■り↓ユ℃帥梓臣一のoミ馬匡竜8器勲ミ§亀包ミ臥画韓帖§凡動弊﹃黛鉢。。。浮N目q。α‘︾目跨, げゆげのρ一〇訟・一■の騨↓犀即盤ミ虞鳴詳ミ匡“§き跨壁§s貫酵げoα・”O巴oロ洋碧ドO総・のニカ跨日のげゆ↓目費”ミ§Q詳9執Q。G。憶養蓑恥§肺§R 卜輿ミ帖昌身讐麟職oざ國o琶げ跨ざ一〇U野H篤艶昌頃臼げ一げ”↓、ミ﹄喚縁9置9謡硫璽象oミ毫ミ§喚詳gN﹄醤画賊3︾の一陣bロげ一δげぎ凶︼円。βの。・一〇〇曾 ︵4︶例えば2、ω,露蓉雪寒曼恥皇。・ぎ§§ぎξぎき量ミ詳ミ9憶R簿9肉毯ω﹃①扇。善四三埠寧目∼ H<, ︵5︶ 特に、冨9閃き鼠9嘗器号弊ぎミミ息ぎ㌧oミ§ゆo目鼠ど這Oρ℃やひヒ一一・ ︵6︶例えば葛き3焦﹂騨甚ミぎさぎ§ζ。二田嘗Φ℃レ量。ロg卑・旨もzあ費吋犀帥帰”pQ建e9署 9ぎ“歳㊦吻鴎包蓉馬漁ωけげ①α■−〇四一〇βδけ鱒︸一〇Uρ唱O■轟∼丼 ︵7︶ 乙れを研究する際に有力な手懸りとなり得るのは、ρ<・く讐自岩”じQミeξ“罫恥肉。§ぎ匙硲魂勲ミ9曾9琴麟じっミR究9Sb。。昌魯− アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年 一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一八一 Gい一”Oヶ帥讐 , < H ∼ 図 目 で あ ろ う 。 ︵8︶ 一橋大学研究年報 経済学研究 8 竃謹.餅目巴騨及ぴO、巴pロは、土着語化して、 第三節史 それぞれピ鋒巳騨又は三田巨碧、及ぴ内三魯と綴られた。 一八二 萄目︶を副えて発せられた。大臣の署名は附けられていない揚合も多いが、王の認可と玉璽とは不可欠であった。 令は、王の認可︵b碧轟壁管−一輯爵響︶を得、玉璽を捺され、通例宰相︵<器団目−国β犀薗日暮︶又はその他の大臣の署名 e 王が行政目的のために、管理官、封土受領者、郷主、その他に対して発した約二六〇通の勅令︵酷跨目蹄︶。勅 出版した。.︸れらの文書は、その性質によって、次の種類に分類され得る。 の卑b静。き暫犀竃餌包餌一”b。。冨︶の研究員たちが長年月にわたって蒐集し、批判・選択して、冊子の形で同研究所から る。か㌧る文書は、旧世襲役人の家に、長い間保存されていた。それを、プーナ・インド史研究所︵閃冨雷け旨げ器 本稿が依拠する基礎史料を簡単に紹介したい。それは、アーディル・シャーヒー時代の約三六〇通の公私文書であ 料 国 管理官や封土受領者よりも下級の地方官、例えぱ主要な町や村の駐在官︵6鼠昌&跨︶が発した約五通の令書 国 管理官や封土受領者が、世襲役人その他に与えた約四〇通の令状︵犀げ畦爵げ暮︶。 、 散集録されている。そのうち、本稿との関連で特に興味ある三通を邦語に試訳して、次章に示す。 の、同王朝の勅令は、前述インド史研究所史料編集長G・H・カレー氏編﹁インド史のペルシャ語気糀﹂全五巻に分 ンドウの言語︶と呼ばれた方言マラーティー語で、本文の簡単な要旨が書き副えられた場合もある。これら二六〇通 勅令は、この王朝の公用語であるペルシャ語で書かれた。そして、その余白や裏面に、当時ヒンドウィー語︵即ちヒ (、 ︵巨一器目︶。 ㈲ 王、管理官、封土受領者、駐在官、郷主などが、世襲役人や一般人民に対して与えた二五通の保証書︵ζ阜 鼠睡鋤︶。これらは、一定の権益や状態を保証するために書かれた公文書である。なお、勅令、,令状、令書には、保証 書とは名付けられていないけれども内容において保証書であるものもかなり多い。 国 世襲役職、財産、その他の権益に関する紛議を解決するために、地方官、世襲役人、人民代表が集会︵日&農ω︶ を開き、紛議を裁定した際、その結果を確認し、保証するために、集会の名において当事者に与えられた一五通の裁 定書︵日魯a畦︶。 因 世襲役職や宅地などの売却書︵ξ貯巷碑蜜︶三通。 ㈹ 農地の区割りや担税額を記した記録三通。 囚 私書簡又はそれに類する文書約一〇通。 ︵2︶ 右の口から囚までの文書は、当時のマラーティー語で書かれ、主として、インド史研究所刊行の﹁シヴァージー時 代の史料﹂全一一巻に集録されている。 これら八種の文書のうち、勅令は、王権によって承認された地方支配機構の骨組みを知るために特に有用であり、 その他の文書はか㌧る機構の運営を理解する上で特に有益である。 他方、史料の数そのものも甚だ限られている上に、その地域的・時間的分布から生ずる若干の重要な制約がある。 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一八三・ 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一八四 第一に、史料の地域的分布は王国の全領域を蓋うているわけではなく、そしてその分布密度の地域的差異も甚だ大き い.一九六頁に附載した地図のうち空白のまま残された地域は、ここで使用し得た史料には全く現われない地域であ る。史料の分布密度についても、クリシュナi河流域、バンカープールからムドガル地方、ショラ;プール・シャー ハドウルグ地方はその他の地方に比して密度が高い。従って或る機構や事態が、実は、記録に現われた特定地方に固 有のものであり、史料に乏しく、又は史料密度の低い他の地方には、別の機構や事態が存在したかも知れない。か㌧ る可能性を予想しつつ、しかも本稿は、かなり大胆な一般化を行わざるを得なかった。第二に、史料の時間的分布も また甚しく偏っている。王国の建設から一六世紀中頃までの約七〇年間の文書はここでは一通も見出されなかった。 その上、一六世紀後半の文書も、僅かに勅令一七通、その他の文書七通が見出されたに過ぎず、他はすぺて一七世紀 の記録である。このことは、か㌧る研究にとって基本的に重要な建国期の機構や事態について、正確には何も知り得 ないことを意味する。従って、本論文で検討される機構や事態は主として一七世紀のそれであり、しかもその静止的 な復元を試みる以上のことを本稿はなし得ない。 史料の分布状態から生ずる以上の制約の他に、この国の地方支配に関して依拠するに足る先学の業績も殆んど皆無 に近いという事情も加わるので、今後新しい事実が発見され、或いは新した研究が発表されるにつれて、本稿にも追 ︵3︶ 加や訂正を加えねばならなくなるであろう。その日の一日も早く来ることを願いつ\右の点を前以ってお断わりし ておきたい。 アーディル.シャーヒー王国︵西暦一四八九年−ニハ八六年Vの地方支翫に関する一研究 一八五 ー氏︵現在マハーラーシュトラ州政府文書館長︶が一九四〇年>一一ぎα昼団巨oqO雲鵯霧ので発表されたぺーバーに若干 言6声一扇8ロ9あ禽一げΦ>=ぼ自昼田房8昌OO昌αq8誘”一翼ρ℃やH∼ご’がただ一つしかない。これは、P・M・ジョーシ ︵3︶ 私の知る限り、アーディル・シャーヒー王国の支配制度に関する研究として、やヌ甘昌ご﹄野身言ミ臥“§賊謁象養ミ芦 この史料集をのOωと略記する。 収載文書がインド史研究所季報︵↓↓巴ヨ留鮮︶に分散して別に掲載されていたので、私はそれらを閲覧した。本稿の脚註では α十N十α♪一〇緯︸く9。図Ha。げ︸ρ軍囚げや﹃ρづや国十〇禽一30。・なお第五巻は入手不可能であったが、その刊行に先立って 2﹂8耳bや客+二♪這轟押ε一・臭8・夢ψ<・卜奉一”玲鴛り電﹂N+さ9む参く卑区&.冨ψ<、>奏ポ玲鷺もや 囚冨β℃やN+“+一&し8ざくo一・<目ΦPげ鴇囚・<・り弩弩山貧①脅甲p︾讐ρ℃や8+ご♪むいo。嚇くoピ<一目&■げ蜜oQ■ 国囚冨β℃やN+N+b。+N+b⊇紹+N♪一〇いo ︿〇一﹂<区ーξP<■bo鼠帥き弓サN+一一轟+o。︸む器<o一■<H&,冨9︸H, b目き鼠β℃やb。ひ+一一N+卜。Uし89<〇一,目&σ冤U<bo巳跨”℃唱80+8む8旧<o一﹂目9■げ曳の客冒ω匡欝9 ︵2︶象§9ミ帆ミ硫§∼§﹂一<・一の‘一旨ひ乙。ω。。、ω鼠套H酵冴ω琶昌。爵欝爵&葺℃。。塁,く。一■一。q■ξ囚,︿・ として出版された。註と要旨は、近く第二部として公刊される予定である。本稿の脚註ではこの史料集をbのH国と略記する。 旨だけを示しているに過ぎないことである。第五巻は、編者の序文、文書のテキストの他に人・地名索引が加えられて第一部 ガリ文字に醗字され、しかもその前半は醗字が不規則なため、時折り判読に困難なここ、そして時にはテキストを省略して要 説明、要旨、註、索引がつけられている。そのうち第一巻の欠点は、印刷技術の都合で、文書のテキストがすぺてデーヴァナ 一江げ舘留霧げ&ご犀冒魯魯一一bo自勲第一巻から第四巻までは、ペルシャ語のテキストの他に、マラーティi語による出所 ℃やα+Ooo鳩一8ごく〇一目戸毛,“+雛o。し3漕<〇一﹂∼もワQ+茸+轟♪一〇ミ一<〇一。く︸蜜濤押℃bま+撃甜一8ど国げ酵暮 ︵−︶9寓囚9お①α・”、塞帖§硫ミ§賄皇﹄蔑賊§導象ミ贈︵嚢罫勢騨寒這じ。§蓉︶﹄。一●Hもo、。。+一。ρ一。い分く。一﹂月 」 一橋大学研究年報 経済学研究 3 ・ ・ 一八六 の註を加えて印刷されたものである。この論文は、一、王、宮廷、諸大臣、二、外交関係、三、地方行政、四、農業制度、五、 司法と警察、六、ムハンマド・アーディル・シャーハの改革、以上の六節からなる。脚註の数が甚だ少ない上に、註記された 根拠の大部分が、王朝年代記又はそれらに基いた現代の研究書であり、特に有益な研究とは思われない。本稿は、この論文の 若干の点を参考にした。その他同王国の支配制度に言及した研究として、い○β旨U仁中け﹄零論ミ璽&へぎ康麟専§容卸希≦ ①色江o旨O巴o暮3、一℃旨曽くo一﹂,○げ騨掌¢目−H<﹃<酢臼○匡昌o”肩書∼§野&&の鴇器ミ県“ぎ寒ミ息ン題讐boo昌欝一℃qい”O冨℃け■ H一の①詳δβ目H曾ρ囚。<、勺ロ壁ロα騨80阜”Pつぴミ9Ω評9蕊讐9の勘註&3︿O一■<H押閲OO昌P一800一、憶9象勘e9藍い弓や一∼応o銅があ る。このうち第一の本は、一九世紀初頭イギリス人行政官によって書かれた最初のマラータ史であり、古典的価値はあるが、 根拠が全く示されていないので、そのままでは依拠出来ない。第二の書については、東洋学報四三巻二号所収の私の書評を参 照されたい。第三の書は、﹁シヴァージー時代の史料﹂,第七巻の編者プランダレー氏が、その巻頭に、二九頁にわたって、ム スリム時代及ぴマラータ時代の地方行政制度について解説したものである。解訳であるためか、註が全く附けられていないと いう欠点はあるが、本稿にとっても参考になる点が多かった。その他、同王国の史料・文書を紹介したものとして、界国、 切器呉楠ぎb翁鉢ミー§㌣﹄ミミ皇罫。望覧§ミ9ミ“勺30Φ3ぼαQω9ぎ山置p国糞o同一〇巴因①8aωOo目日一の巴op︿oピ図く鍔 Uo臣ン一睾ど℃℃這ω∼Nρ目,︾,Oげ節αqげp鼠⇒﹄良&qQび麟建q壕9蕊き恥ぎさ訓ミ§訓9醤ミ9“臥言樋§﹃息ミ&&﹃蕊やHげ置‘<〇一。 図図H一翠♪℃℃N∼o。Uo”臥9§§督ミ9遷Ω§健皇匡§﹄良&oo言ぎ肉ミミ9§ε望§ξ㊦切ぎ毯劃H玄山‘︿oピ駿レO&もや ζ∼一N■があるo ▼ 第二章 勅令の邦語試訳 アーディル・シャーヒー王朝が発した勅令のうち、本稿との関連で特に興味深い三通を選び、以下にその邦訳を試 みる。第一の勅令は、管轄区管理官及ぴ事務官たちの権限、管轄区とパルガナ区との関係などについて重要であり、 ムアしマラじハワドルダドル 第二は、一つのパルガナが、高級武将に一円封土として貸与されたことを示す勅令の一例であり、そして第三は、管 轄区の管理官を任命したことを告示した勅令である。括弧は、史料編集者による註記をも参照して、私が入れた。 ︵1︶ フロしアルロカリロル アルリムルキツラロ 試訳日︵イプラーヒーム・アーディル・シャーハニ世の第三三年、西暦一六一二年一月二〇日付︶ 国一国 ・ 神は万人の友。神の国 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一八七 冨旨ま普︶、︵同村を︶上記パルガナの所属に返すことに決定した。︵それ故︶貴官たちは上記村に介入するな。次 一六一二年︶に。単独の騎士︵鼠警犀跨ぢぼ翌︶カーン・アリーの子アリi・カーンの封土︵ヨ8班叫︶である、ガ マウザ ダグ・パルガナ︵評茜き餌O&轟︶のマングワール村は、上記管轄区に属していたが、それをとり止めて︵呂↓ け︶とに対して吉祥・神聖な勅令が発せられた。サラスワティー女神を礼拝して。シュフール暦一〇二一年︵西暦 ︵ 4 ︶ トールガル管轄区︵ピ鼠ヨ巴鉾↓○茜箪︶の管理官︵国暑巴島﹃︶マリク・シェールディルと事務官たち︵国似詩β鼠− ︵2︶ ︵3︶ ムアー多 ハワールダール カールクソ ぎに、上記パルガナの諸村から戦争税︵壁コー喜茜蜜9団︶を集めるために、上記管轄区から徴税官︵↓菩弩α母︶ 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一八八 が派遣されたとの情報が入ったが、貴官たちは︵上記戦争税と︶どのような関係があるのか。上記税額は、上記パ ご ぜん ルガナの郷主︵U霧細︶が集めて御前︵煽に昌↓︶に送るであろう。貴官たちに関係はないから介入するな。次ぎに、 上記管轄区の郷主︵∪Φω田︶は、上記パルガナのコーチゲーレー村、トーパドカリーハッティー村及びバレーワ ール村の家畜を無法に掠奪し、且つ自分の諸取り分︵一男響日碑︶︵があると︶の理由で、上記パルガナの諸村に迷 ラワロジマロト 惑を及ぽしている︵との情報が入った︶。︵そうするための︶彼の分限と資格︵冨α話彗鼠轟−一〇︶は何であるか。 Q 彼にはガダグ・パルガナの諸村と何の関係もない。諸村の家畜で持ち去られたものを一頭残らず返させよ。諸取 り分の理由で上記パルガナの諸村に妨害と迷惑を及ぽさせるな。この件に関する厳命を十分に心得て、吉祥なる 勅令の命令を実行せよ。ヒジュラ暦一〇二〇年一月一六日︵西暦一六二犀一月二〇日︶に記す。︵此処に二つの印が 捺されている︶ ︿暫 囚鋤随犀=昌似亭一−寓=.鋤目巴蟄目o鷲㎎巴抑昌匹げ ︵余白に︶神聖・偉大なる陛下の御認可。位階の高く秀でたる者、大蔵大臣︵>鼠巳−甘日巳昌︶イクラース・カ ーンの署名と共に。 冒騨=犀ωげ①﹃α=国簿く餌一自鋼擁 ︵1︶ 勅令の原文は次の通りである。勺曽漏く巳目H. 20・いN M[偉−卑一惑詳ロ一団一 跨一■巨ロ一犀山−一=鋤ゴ 司貧旨鋤け−一−げ§昌∂、θ乙−恥げ鷺h誓自P目網龍けげa鋤巳げ 欝冨葱−の臨の§。。華け団旨昏印旨量錠菖、霧げ鷺轟即一篤浮旨.。浮夷藁−陣−評茜嘗坦o&お馨ρ留÷.喜撃酵げぎ 映鼠ロ、≧二器穿鼠・厨鼠α巴げ鼠擁ぼくおけ巨壽課寧一由ロ、ぎ巴巴白器犀日ωげ&昌げ自自円器目民昌鼠Ng亨一− 評茜き帥旨器犀日目呂鷺峯=聾・・ま昌旨βα昌鋒一島げ身鉱匠げωg目卿α罫訓巴山舘α①匿ーヨ臼鱒日冨−自・畠鴇匡 奉創⑦αq鍔8静程昌且昌匹げげ胃田N翠一−廿話冨葺−一ム魯似団÷評﹃撃塁臣器ざ二騨、玄鉱跨震冒ρ.卿台巴簿−一白器パ日昂邑鼠− α昌きαげ霧巨目鋤昌魯昌一ωσ暮血警&N畦−一∴轟葵日富u。聾・一−評夷跨冨−一ーヨ霧ざ﹃ぎ−く楊日舅ωぎ国昌日旨昌 −一出盲日醇≦鐸銭募ヨ自聾∈鼠$、註8壼ム酵鋒邑震酵ぎ暴−旨く&毒U窪鋤剛・一窯匡.雪・巴ユ白器匿響匹げ器旨闘 N言号銘嚇ααQ・自−一−冒p養.鈴囚。。9①旨養冒窪N.卑目。冨爵豊冨叢奉馨ρ蕾野一①藁巳−評茜き鉱−暴。q5↓げε誌β﹃ 鋤奉猛昌奉σ午.葺±曽鼠誉舜−一−犀げ壁霧等酵げ区①鼠団ーモ篶αq程費−一白器5鴨旨霧ぎ盆畠Φげ冨自く即帥&ぎ騨−一6 鼠昌&。−轟げpα。鼠団−一−o器夷巳ω訂自轟−詠弓呂警。ゴ魯暗。四・昌−孟①鼠剛げ弩自昌鼠魯&。犀鼠。卑鼠国魯顕一歪ム 奉富・.旨−一−算鼠N言騨露器卸督言げ区①冨同ーモ跨σQ弩鉱自器ざH毒け霧馨団昌α鑑き墨−呈冨民鼠旨鼠σ萄ざαげ巴剛悪 島冨け昌げ胃嘗ざ亭一−寓鼠巳−巨鼠旨昌︵参藝鉱39塁昌ーξ浮。&§︶旨萄同菩主∴・慕ざ=・峯日玄ρ霧−ω趨器 .器ぽ弩の厨ぼき・巳−ρ蟄.崔替紹壁一8p 評署ぎ茜−一−晋昌↓−一−霧ぼ豫、巴鋤鼠、p野巳きぎ.毘旨ぎβ胤.一虫ゐ区鴛奉μ一∴壁瓢三窪蓼蓉き>日騨−こロヨ三昌 ︵2︶サラスワティー女神は、ヒンドウ教の河川・冨・学芸の神。第一章第二節註︵1︶に記した如く、イプラーヒーム・アー ディル・シャーハニ世は、ヒンドウの宗教を尊重し、その文化を愛好した。彼が発した勅令には塵々この﹁サラスワティー女 ︵3︶ シュフール暦は、一四世紀中葉からデカンで広く使用されたアラピヤ太陽暦と言われ、西暦年数より五九九年乃至六〇〇 神を礼拝して﹂という一句が見出される。 年少ない。詳しくはの■缶囚ぽ鷲曾の§ぴ路&、§建。建ミ戟讐8閲8ロ幽這蟄づや一一〇∼一Nを参照。ムスリム支配下のデカンで アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年 一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一八九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一九〇 は、アラピヤ陰暦であるヒジュラ暦とシュフール暦とが併用された。その際シュフール暦の年数をまず記し、次いでヒジュラ 暦の年月日を記すのが慣行であった。またマラータ時代には、シャカ暦とシュフール暦とが併用された。 ︵4︶ この王国に仕えた騎士には大別して四つの種類があったと思われる。第一は数名の従者、及ぴ馬と武器を私費で維持する 毘ポげ暫α響、第二は、馬も武具も自弁であるが、従者を伴うことなく、また特定の部隊に配属されることもなく、単身で参軍 し、単独で行動した置昌犀鷺置幽ぼ鑑、第三は、馬も武具も自弁ではあるけれども、特定の騎兵隊に編入されたず号パ鷺一、第 四は、馬も武具も特定の主君から支給ざれたげ響讐噂。第二については必ずしも確言出来ないが、語義から見て、そのように 思われる。なおこの点に関してψ2■ω臼”鴎.蒔ミミミ這GQ窒9ミ皇簿馬康ミ騨言鉾○ユΦ暮巴ゼ○講σqヨや塁、一翫oo一℃や♪ω C を参照されたい。 ︵1︶ フし アル カリにル アルじムルキツヲロ 試訳口︵ムハンマド・アーディル・シャーハの第六年、西暦一六三二年七月⋮二日付︶ 神は万人の友。神 の国 支柱、人民と貴族の精華、愛顧と恩恵に適する者、サンバージーの廉直に対する賞与として︵匹胃≦a甲一富江畠− ︵3︶ ょって、シャーハジー・ボーンスラーの子、品位の宿る者、官職の高き者、人を覚醒させる勇士、顕臣と貴族の ︵西暦一六三二年︶に。ミール・アリー・ラザーの許にあった上記パルガナの諸村を、王の愛顧と限りなき恩恵に ︵2︶ ガダグ・パルガナの郷主たち︵UΦ籔旨ロ︶に対して吉祥・神聖な勅令が発せられた。シュフール暦一〇三二年 B魯︶、全税目と共に︵巨、即犀巳げ習︶、︵彼に︶恵み与えることに決定した。上記パルガナの諸村を︵彼に︶与え、 同人の受領と保有に委ねよ。神聖なる勅令の命令を実行せよ。ヒジュラ暦一〇四二年一月一五日︵西暦工ハ三二年 七月壬二日︶に記す。︵余白に︶神聖・高貴・吉祥・偉大なる陛下の御認可。位高き貴臣、繁栄の象徴、位階の秀 でたる者、侍従長︵の胃図ン名傍忠血§日︶ダウラト・カワース・カーンの署名と共に。 ︵裏面に、モーリー草書体のマラーティー語で︶シャーハジーに封土︵日o額紬︶が与えられた。勅令に従い、ガダ グ・パルガナの諸村を、サンバージー・ボーンスラーの名で。 ︵1︶ 勅令の原文。℃曽餌<〇一・目劃2ρ$・ 国β−暫一惑︸巴口 ︾一−目β一犀−一占二四げ 男畦目ぎ−一−げ犀筥身薗早一あげ鷺一。。仁仙日旨津げε帥巳げUΦω身雪−一ら胃oq山β卑○&夷似昌駐げ雷昌仁げ日。。壁粋器ロ剛萌巴冴冒くの 自跨≦aげ−一δ試ρ釧巨暮−一−.一N鍔ヱー冨昌鋤ユ馬.葺−学鼠幹暗げ浮ε四.暮−一占旨一げ似げ.鐸ヨユ暮−巳幽ヨ留篇く魯巨−2砧ロ昌暮同冨−巳−”げ卿一圃 巴眺鶴鼠﹃一−目騨鼠宜目。一−唱践昌鋤げ餌量奉鼠誹−一古く似ま−一−犀げ匿暑似昌陣山oげ田−一も胃αq勢壁−凶ーヨ器犀日げ翠暮−一竃冒、ト一一閃帥鼠 話β一山.首ぎ野ρ−巳白鷺書首奉阜菩ω琶留暮似一一鼠旨彗巳あ践ど一閃ぎ霧蜀昌.蟄ざ一げ謬ヨ毘β旨暮剛弩ヨ自昌 跨β3げ器けe凶げ鋤旨自民﹃αoげ田−一ら跨鵯冨−学目器犀山巳伍は巨げ巴暫昌βヨぞやβαく帥鼠噂BげN毒鼠。。鷺崖匠−日霧げ騨−一一−aけ 鼠Nの慕鋤β鼠げ跨甘巨孚寓貧目ぎ÷器ぼ鉱量奉監鼠育団β昌隣蹟目酵冒音貧βヨー巳−冨鼠旨ωき⇒一。鵡■ b胃鼠壁讐−ゆ−偶欝日÷霧げβ胤−玉a霧−陣−げロヨ身帥ロー一−.毘鋤鼠.即蜀β−一−ぎぎ−一・.葛聲ぎの、鈷α暮邑旨ぎ冨団.午三ゐ&零 く魯巳ーヨ葬ぎU騨三暮因計名鋤の映隷昌の貧犀げ毛傍皿出自自励 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一九一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一九二 ︵裏面に︶ωげ帥ど訂目o犀器卸E浮〇一︶勲昌q吋βg㌶醤β四昌α①げ卸望Φ勺鶏磯騨昌簿O費α騨頓げ巴ω巨の鱒げ鋤旨閃げ8萄 ︵2︶ ミール・アリー・ラザーはイブラーヒーム・アーディル・シャーハニ世の末年からムハンマド。アーディル・シャーハの 初期まで仕えた官僚であり、少くとも一六二六年九月から一六二八年一〇月までバンカープール管轄区の管理官であった。 ≦α。田田モ。一ロ押2。ひひ’ω9く。善碧韓巽ミ黛§ミ§§馨鼠蕎暴もや。一壁も・。。ρρ串内け貰①”oQミ暮9§, “醤椙醤謙cQ9き讐ミ30や9f唱伊その後昇進して、ガダグ・パルガナの諸村を封土として与えられていたことをこの勅令は 示しているが、その後、史書にも勅令にも彼の名は全く現われない。恐らくこの頃死去したものと思われる。 ︵3︶ サンバージー・ボーンスラーは、マラータ王国の建設者シヴァージーの実兄。父シャーハジーは、一六三〇年末ニザーム シャーヒー王朝を一時去って、ムガール朝に仕え、一六三二年七月ムガール朝を去って、アーディル・シャーヒー王朝に武将 として召し抱えられた。然し一年後、この王朝を去って、再ぴニザーム・シャーヒー王朝に帰り、アーディル.シャーヒー王 朝の援助を得てムガールの軍勢と戦った。然し、一六三六年君国の滅亡と共に、改めてアーディル.シャーヒー王朝に戻り、 終生二れに仕えた。その間長子サンバージーは終始父と行動を共にし、一六五五年頃、アーディル.シャーヒー王朝の武将と して従軍中、トンガバドラー河畔のカナクギリにおいて戦死した。この勅令はシャーハジーが初めてアーディル.シャーヒ ー王朝に仕えた時、その長子の名で、ガダグ・バルガナを封土として受領したことを示している。<達Φい客の鷲犀胃一恥ミ, e§β§画﹄壽憶慧貸oや。一ρ︸や§ψ幻■ωげ鷺日費ミミ§奮顛象ミ璽︵寒−昏9§還犠yぎ一5訂ざ一翼♪りo。。 、1︶ アツラド アルヨムルキツヲロ 試訳国︵アリー・アーディル・シャーハニ世の第八年、西暦一六六三年二月一四日付︶ 恵み深く慈しみ深い神の御名において。神の国 圃 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ーエハ八六年︶の地方支配に関する一研究 一九三 ︵余白に︶神聖・高貴・吉祥・偉大なる陛下の御認可。知力の秀でたる者、事理に通暁せる者、国軍総司令官 日︶に記す。︵ここに三つの印が捺されている︶ れたものと理解せよ。神聖な勅令の命令を実行せよ。ヒジュラ暦一〇七三年七月一五日︵西暦一六六一二年二月一四 務官たち、軍隊指揮官たち、警備員たち、郷主たち、及ぴ一般人民は、上記管理官の指揮と支配に服従せよ。管 うヤーハラ タソカー ザマ〒ト 理官職の俸給と税の分け前は、︵従来︶行われている通りに行わせよ。︵彼が︶あらかじめ立てた保証人は確認さ て城の強化・安全と、地域の耕作︵ヨ、ゆ日騨一︶と繁栄︵蓼鑑似巳︶とに専心着実に努力せよ。上記管轄区の事 ウイラロヤト た。上記管理官は、それを身にまとって栄誉と栄光を受け、管理官職を自己に確認されたものと理解し、安心し 上記ミーラーン・アブドウル・カーダルに確認し、栄光を増すために、上記管理官に対して恩賜の御衣が贈られ ったが、︵同人の︶同意︵を得る︶に至らなかったので、王の愛顧と限りない恩恵により、上記管轄区の管理官職を シュフール暦一〇六三年︵西暦一六六一二年︶に。上記管轄区の管理官職はイナーヤト.カーンに授けられる筈であ ハワこルダ り ち、軍隊指揮官たち、警 備 員たち、郷主たち、及び一般人民に対して、吉祥・神聖な勅令が発せられた。 サリ。グローハーソ ナーヤクワデイヤーン デーサーヤーン ジヤム7ール アジーズ。カーン、官職の高き者、管理官ミーラーン・アブドウル・カーダル・ムハンマド.カーン、事務官た ハワールダール カールクナーソ となき恩愛の的、秀でたる貴臣、繁栄の象徴、位階の高き者、サンダラープール管轄区の軍司令官兼管理長官 ムアリマラ サリ サリノしパト サリリハワラルダしル 官職の高き者、人を覚醒させる勇士、壮麗の宿る者、宮廷の信頼厚き者、王の愛顧に適する者、神の絶えるア︾ 一橋大学研究年報 サイイード・ ヌールッラの署名と共に。 経済学研究 8 ︵の畦−一ぎ毘−一−目ロ日画濤︶ ︵1︶ 勅令の原文、勺ωH揖<〇一”メ客98■ 田−.堕日.一一一酵蟄一−β一巨き巴ら暮冒≧白巳匠−一一一謬 一九四 奉冨。。げ巨琴著き酵巨三号鷲−一−鼠茜跨−ゆ−ミ蚤畠菖巨.ρg日呂−一−鼠茜醤−一−。。巳鼠巳の鼠同警旨・一−.零翌隔−一−冨身鼠三ヨ弩昌学 男鷺ヨぎ−一−げロ菖身勾β÷ωげ胃胤旨山日愚津び巴ぎぎ.ゆNN暮奉β鼠.跨−凶ム霧粛罫跨ε叫、暮奉ω一茜鼠目鋒−一−ぎ氏げ罫昌oざ一 一−.魯鋒−一・.国巴一−一−臨似岳雲碧−一−.呂昌ぎ器.剖暮巨昏菅寅自、−巳ゐ鑑鷺毒三−日躊ぎ、︾臨躊冨昌ω鷺−一−ω鶏÷昌程σ暮の鶏−一− 冨鼠一α碑奉、一鵠暮舌量鼠.培一−3の置跨目鼠昌.︾竃−巳−ρ翌鷺竃昌帥B巨&卸藏ロ掴薯巴α騨奉囚鋼詩毒ぎ話の遭−学讐o− げぎ話2帥降品曙ぎ毒UΦω身ぎ奉冨目冨霧詩き鉱−冒ロ.画目巴鉱−の弩色9日診ざげ器旨昌日鍔壼ω巴蹄降巴昌話 巴寵自貧一昌奉蜀冨く習跨同−一−目ロ.餌ヨ巴髪白器犀日訂−.冒身客肉副昌塁昏浮鼠昌げ自ρa響け旨P昌臼写冒器鼠げ−一 目胃書ぎ−一−冨房鼠獣昌費奉団鷺け−一−、零翌臨−一ぎ岳賊品冨冨鼠一島吋団−ゆ虫¢.餌ヨ巴騨−一−巨器臨じ四−峯Hぎ.︾鼠主ゐ鑑跨目霧鼠↓− 苧aぽ邑呂跨縁弩h弩琶ま魯一跨跨ヱ白器苓厨普緯鼠巴げ鷺a起砦巴島↓匿器冨ユ一−やま国巨、即ヱー島§騨冨浮覧畿昌路&魯 日后跨㎏跨島巳ω$げ富−ぎ翌目賞B.蟄鼠ユの江訂轟巨話目鶴σ帥け風−ρ巴、呂奉目.帥B山識毒帥鼠鍛三−一也一9魯の胃凶畦目 霧け昌鼠冨自吋浮倒㊤鼠匡母日器鼠㍗一一−玖げ鼠ぎ器奉一3ω−一−ぎ巨ロ目鼠N詣の魯轟出鼠N撃ω馨昌冨鼠匡母同び甲§ま 奉路住“窟鼠β鼠昌&<国囚卿詩毒ぎ奉留ヱーα8鼠け話客田写似qぎ奉U①ωぞぎ奏廿目げ日。。欝磐巴自仁. 似ヨ巴翌白暫爵日似弩璋9轟冨げヱ出帥畠一島ヱ白q旨出−巴げげま騨げ鼠昏きq奉旨霧げ群跨臼奉鼠募薗≦習−一冨品匡碑同 g巨ぎ。富げβ<ぎ更gqぎ目山菩声く雪鼠β巳国弩鋤旨け・一ゐ呂ぎ目β・旨鶏。。ザ壼鋤ωや且鼠舞冨巳げ胃言ざ年 競鴛目習÷毬日舞量奉昌叶菩箭き自鑑ヨ醤殉a善の聲即ち嵩 b費くぎ轟置出自日屯ロ。。げβ匝−2山器−帥げ堂目ぞP阜一−即.観鼠 ω蝕躍Z帥厩β一一騨げω帥吋−一惑詳a一占−罵ρ営弩一犀 第三章 地方の行政区画 、巴叫日−一−のぞ卿自暮く帥 巳ρ暮暮魯ω邸叫げB一鼠箆鋤昌犀助矧凪け 前章で邦訳を試みた勅令においても現われた如く、この王国の基本的行政区画として、パルガナとムアーマラ︵管 轄区︶があった。また、これら三通の勅令には見出されないけれども、各地に﹁城区﹂︵O.巴昌︶と呼ばれる区域もあ った。他方、少くとも、トンガバドラi河以南の新領域と、西ガード山脈の西側、海岸沿いの帯状地域即ちコーンカ ン地方とに、恐らくムガール帝国の国制を模倣して設置されたものと思われるスーバ︵呂げ昌州︶.カルナータカ及 ぴスーバ・タルコーカンという二つの行政区画もあった。このうちスーバ・カルナータカは、前述の如く、ヴイジャ ナ ヤカ ヤナガル・ヒンドウ王国の崩壊後、その地方官たちが設立した小王国に対して、アーディル・シャーヒー王朝の支配 権が侵入し、一部の小王国を王国領に併合して、残りの小王国を朝貢的従属関係に置き、そして新領域と朝貢諸国と スしバダドル を含めて、カルナータヵ州としたものである。そしてその中心地バンガロールに州総督が派遣された。然し、既にお 断りした如く、本稿の対象は、トンガバドラー河以北の王国固有の地域に限定しているので、カルナータカ州には立 スにパ ち入らない。他方アラピヤ海に面したコーンカン地方については、そこにも州が置かれ、州内諸地域にムァーマラ及 ぴパルガナが存在したということ以外に、州とムアーマラやパルガナとの関連は明らかでない。従ってこの帯状地域 の支配体制も一応本稿の対象の外に置きたい。 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一九五 一橋大学研究年報 経済学研究 、 尊 、 8 一 祠 りh ﹃ ︾ 一 ﹁ 幅 一 ゲ ⑥ 2 ,堅7ー 庖 、 鹸伽 △ ア1・⑰∼ ラ θ ビ 3 ヤ987 、 ⑤④③① / γ 一九六 トンガバドラー河の北、ガート山脈の 東におけるこの王国の基本的行政区画は、 パルガナ、ムアーマラ、カラであり、そ の上に更に﹁州﹂に相当する大きな区画 があったとは思われないので、以下にこ 同じくムスリム支配を受けた北インドで である。この呼称はデカンだけではなく、 者によってインドに導入された区画呼称 を意味するペルシャ語で、ムスリム侵入 パルガナという語は、器αqδコ良警昌9 / 第一節パルガナ︵評茜塁即︶ 布とを検討したい。 一 2 ﹃ ナーヤカ諸 王 国 れら三種の区画の設定の意味と地域的分 、 ! ! リ 一 一 ヤ ー懸畷麹.卸渚 ムガール帝国 ヲゥ㌢トヒー謁弦 ∼ 一 .’ り 「 愈、\\ i、、 ” 3 1713 ナ・プーナ、パルガナ・ワーイーなどと呼ばれた。この区画呼称は 、 北インドでもデカンでも、一四世紀前半、トゥ も広く用いられた。北インドでもデカンでも、パルガナ区画は、 その区画内の中心的都邑の名と共に、例えばバルガ 地図 17世紀中葉のアーディル・シャーヒー王国 △Mu・amala OParg&na 1. BijゑP{ir L Kanakgifi 前 2.Muhammadp廿r 2.Gangawati 募 ア3.RaicMr 3,Gadag地 三.4.Mudga1 4,Hubuli 勢 ア ィ 5.Torga1 5。Lakshmeshvar 説 ノレ .Bankap丘r 6.Mudh・1 盟 シ 7.Goa 7.Kゑga1 ヤ 8.Miraj(Murtazゑbad) 8.Kolh盃par 1 ヒ 9. Sanda1ゑP{ir (Sholap{ir) 9・ R且nja I 10.Bidar IO.Karhad 王 国’11.Chau1(Pゑdshabad) 11・Khatav (12.Kalyゑn(Mura且jan) 12jlan 西 暦13.Bivandi(lslamabad) 13・Phaltan − 14.M:e(1h 四 八□9‘alah 15・Utrauli 九1.Kopa1 16。Birw且di 年 2. Badavi(Sikandar且bゑd, 17. Klu(ial Sikandargad) 18.Sirwa1(Sirale) 六 3.Panala 19,wai 杢4.Was・tゑ 20.P・・na ノペ 年5.Pa垣ri 21.S丘pa ) 6. Sゑtara 22, Ind且p{ir の 23,Salsi(Salsette) 地7.Mandan 方 8.Chandan 24.Almala(Sindagi) 支 配9.Rohira(R吾her) 25・Gan】丘ti に 10,Rajgad 26.Aland 関 す 11.Kondhana 27.Mallidari(Akalkot) る 12.Shahdurg(Na1(1urg) 28。Donkl(Osmanabad) 研 29.Pangri(Balsi) グルク朝の治世に導入 されたのだと言われた ︵1︶ り、或いは、それより 以前に既に存在したと も言われ、その導入の ︵2︶ 正確な時期は明らかで ない。またパルガナ区 画がどのような基準に 基づいて設定されたの かもまだ解明されてい ない。然し、この点に ついて若干の推察を行 うことは出来る。対象 をデカンに限って考察 しよ・つ。 パルガナ区画設定の 一九七 究 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一九八 基準について一つの示唆を与える事実はパルガナの規模の不整一性である。例えばアーディル・シャーヒー王国にお ︵3︶ いて、パルガナはほぼ一〇ケ村から二〇〇ケ村を含む地域であり、大小多様な規模のパルガナが存在した。この事実 が示唆することは、初期のムスリム征服者がパルガナ区画を設定した時、何らかの画一的な基準︵例えば一定の地租 額︶に基づいて全く新しくこの区画を定めたのではなく、むしろもっと土着の、何らかの既存の区画をほぼ承認して、 呼称だけをパルガナに替えたのではないか、ということである。 この推察を支持する第一の根拠として、タッパi︵の書鼠︶という区画呼称がある。これは、ヒンディー、グジヤ ラティー、マラーティー諸方言に使用され、その語形から推察して、恐らくヒンドウの土着語である。そして少くと ︵4︶ もデカンでは、この語はパルガナと屡々同意義に用いられている。K・V・プランダレi氏も、タッパーとパルガナ ︵5︶ は﹁同意語﹂︵冨q身︶と考えねばならないと指摘しており、事実、例えば、三日違いに発せられた二通の勅令におい ︵6︶ て、先の一通に示された三つのタッパーが、他の一通で三つのパルガナと呼び直されている。他方、ムスリム支配が 比較的後代に、そして緩慢に浸透したマーワル山間地域からソールセソト地方にかけて、パルガナという呼称はあま ︵7︶ り使用されず、むしろタッパーが一般的であった。勿論タッパーという語が何時頃から使用されたのかは明らかでな い。然し、これが土着語であるとすると、それと外来語とが同意語として使用されている揚合、土着語の方が古いと 想定する方が、その逆よりも恐らく正しいであろう。そうであるとすれば、初期のムスリム支配者は、既にタッパー と呼ばれていた区域をパルガナと呼ぴ改めたのであり、そして地方によっては、タッパーという語が駆逐されないで 残ったのだ、と想定し得る。ただし、この二語は同意義に使用されないで、例えば﹁パルガナ・プーナのタッパー・ ムセコーレー﹂の如く、前者が後者よりも大きな区域を示す揚合もある。先の推定に従えば、か㌧る事例は、複数の ︵8︶ タッパーを合わせて一つのパルガナが設定された揚合もあったことを示唆している。 パルガナは、新しい基準に基づいてではなく、むしろ既存の地域区分に即して設定されたのであろうとの推定を支 持する第二の根拠は、普通パルガナを単位として単数又は複数の郷主が居たことである。後に指摘される如く、郷主 制の﹁祖型﹂は、ムスリム侵入以前のデカンに既に存在したと言われている。それ故、パルガナを単位として郷主が 存在したことは、逆に、郷主の支配領域を単位としてパルガナ区域が設定されたことを示唆している。K・V・プラ ︵9︶ ンダレー氏も、パルガナの規模は、郷主の職域の大小に基因すると言っているが、この意見は恐らく正しいであろ う。一つのパルガナに複数の郷主が存在する揚合は、当初単一であった郷主職が、その後家族内での職域の分割や、 役職の部分的な譲渡によって複数になったのだと思われる。 以上二つの推察を結ぴつけると、ムスリム侵入当時、土着郷主の支配領域はタッバーと呼ばれた。新しい征服者は 郷主職に対して、後に考察される如き若干の重要な変化を加えて、これを制度として承認し、積極的に活用した。そ して、彼らの従来からの支配領域をパルガナというペルシャ呼称を以って呼び替えたのだ、ということになる。 この王国に存在したパルガナの総数を確かめることは出来ない。史料に現われる約三五のパルガナのうち、所在地 ≦ー串目08一目黛↓ぎ﹄ミミ賊§の鴇g葦勲ミo静ミ幅蔑貴O蟄目げ擁峯αqρ一〇娼︵2一跨替&o白菖o昌︶bや一〇〇∼一〇・︿・ を確かめ得た二九を地図に示した。 ︵−︶ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一九九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二〇〇 βの≡6“§恥討§。ミ切窒鉢§亀暮恥翼ミ&、§−boo犀しo蟄竈・刈”一9一丼 ︵2︶︾、中ヌ頃暮ぴ三鼠守§cb肉§蕊&帆§皇ミ器隙.醤笥蕊恥討ぎ§3≧鼠冨げ盆﹂8一も■NuP ︵3︶国’く。勺彗弩鼠お”oっ謎暴99蕊養臼薄讐<oピく員80津,噌や頓■ ︵4︶国昂≦房9ビ諏箋自恥ミ聖毫憂§ミ§隣ぎ§倒竃↓ミ﹃葭§軋&§塁霧馬旨N⋮ミ勢&ヒロ蕊織簿﹄蔑国.3・巳胃αQ& &こ○巴o暮亘一£ρやoo一y ︵5︶界ダ℃弩毯α弩98乙芦や鯵.、、鼠冨、寓℃aαqき旨o鼠昌℃跨曳身器ヨa庫鼠息o、、。 ︵6︶ bω︻ヌ<〇一■<128■にy旨o。’↓巷冨℃即コの昌↓跨℃冨Uξ一田﹃↓も℃鋤∪跨留きがそれぞれb粒渥目蟄と呼ぴ替えられ ているのを見よ。同様に、自節℃冨国〇三鼠︵ヲ箆−<〇一・H・Z8﹄oo︸台︶がb幽茜器陣閃o法鈷︵一げ達‘く〇一・鍔Zo・ミ︶と呼ば ︵7︶H玄q3︿o一月20。。﹂o。﹄一︸N紳Nい玉ど<〇一﹂”20の﹂一︸路︸︿oド=担28。封8, れているのを見よo ︵8︶Hσ一α‘︿〇一HH■Zo■ω禽くo一。H月20■軌9 ︵9︶凶<,b目p&鷺Φ”oや9‘やω...℃畦鵯蔓ぎ邑αQ響鋒。嵩器算ξ帥琶落碧三貯霧雪試8旨⋮犀鼠。耳卸奉$鼠, 第二節 パルガナ内外の小区画 ︵Oロ遺翌囚騨ぐ習︶、タルフ︵↓霞が月鴛壁︶などと呼ばれる小区画も屡々存在した。この三語は共にアラビヤ語源で ルガナの内側にそれに附属した形で、又はパルガナの周辺に独立の区画として、サムト︵留ヨけ︶、カルヤート ℃β日9雪蚕ヨご酵けげo副、、■ あり、ムスリム侵入者によって導入された区画呼称である。これら三つの呼称について、K、・V・プランダレー氏は、 ︵1︶ タルフはプーナ地域において、サムトはサタラ地方で、そしてカルヤートは広くデカンの諸地方で使用されたと言う。 確かに、タルフという呼称は、時には他の地方にも散見されるが、主としてプーナからボールの地域に多く用いられ たことに殆んど疑いはない。然し、同氏の見解に反して、サムトという区画は、必ずしもサタラ地方に限られず、そ の他の地域にも広く見出される。同様に、同氏の見解に反して、カルヤートという呼称は、プーナの東南サースワド ︵2︶ 地方から、マン、カルハード、コルハープール、バンカープールの諸地方においてのみ使用され、それ以外の地方、 例えばショラープールでは使われなかったと思われる。 そこで、サムトとカルヤートとが同一地域で併用された揚合をやや注意深く検討すると、少くとも二つのことを指 ︵3︶ 摘し得る。第一に、両語は同義語として代替的に混用される場合もあった。第二に、少くともバンカープール地方で は、カルヤートは、サムト内の、又はその週辺の小区画を意味した。そして更に、この地方ではサムトとカルヤート との間にヒサール︵掴肪騨︶という区画もあった。これもアラビヤ語源の区画呼称であり、ここでは、サムトとカル ︵ 4 ︶ ヤートの中間の区画を意味した。 これら小区画の規模もまた一様ではなかった。例えば一六二七年シャーハドゥルグ城区の一サムトには少くとも五 一ケ村が含まれたのに対し、同じ頃プーナの東南方のカルヤート・サースワドには一〇ケ村しか存在しなかった。 ︵5︶ ︵6︶ かかる不整一性は、これらの小区画もまた、,何か画一的な基準に基づいて政策的に設定されたものではなく、パル ガナの揚合と同じく、もっと土着の要因によって、いわば自生的に成立したものであることを示唆している。この点 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二〇一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二〇二 について、K・V・プランダレi氏は、これらの小区画は、普通はパルガナ郷主職の家族内の分割や、部分的譲渡に よって生じたものであると説明し、そして時には、王がパルガナの一部を区切って、そこに小規模の新郷主を任命す ることもあったと述べている。この見解は、個汝の場合について証明することは必ずしも出来ないけれども、恐らく ︵7︶ 正しいと見て良い。何故なら、かかる小区画が存在した場合には、通例それを単位として、小郷主が存在したからで ある。かかる揚合、小区画の郷主は単数であることも複数であることもあった。複数の揚合は、郷主職が同族の成員 ︵8︶ ︵9︶ によって分担されてはいるけれども、然しそれぞれ別個の区画呼称を以って最終的に分割されるに至っていない状態 ヤ ヤ ヤ ヤ を示しているのかも知れない。 タルフ、サムト、カルヤート、ヒサールなど小区画呼称はすべて外来のアラビヤ語であり、これに対応する土着語 は見出されない。このことは、一六・一七世紀に存在した小区画はすべてムスリム支配の確立後に生じたものである か、或いは土着の区画呼称が外来語によって完全に駆逐されてしまったことを意味する。 本稿では、特に断わらない限り、小区画も含めて﹁パルガナ区域﹂という概念を用いる。 鼠くぎ魯〇一爵匡 皿 翠 、 、 ︵1︶ 国一<●bβ冨&跨90や9けこりい.、⋮け旨昏鼠り信β旨9旨げ四︺緕、↑胃蜀、旨げ彗讐9一鶉品蔓騨畳o富6静匿暮、 ︵2︶.、ω碧暮嵐け−一自に.鋤ヨ巴騨∋器犀日︵竃旨雲§鼠9吋︶.、︵量“ε一甲員29ご︶、..ぎ巨、一、e撃一−膨2、卸目巴㊤旨p爵騨 ︵ωo昌恩づ日︶ 留日げ国騨夷巴一く㊤ω讐糞=o曽一6巳圃く鱒のp巳け囚goマ犀巨一a<鈴ω葺一井↓p一二一一−一ーピβ.鋤ヨpポ旨器犀日︵鼠偉げ㌣ 一⋮■、、︵同三ρ︿o一、目︾2。ω﹂一∼峯Pb。♪ミ︶な留葺囚露&撃一毒夢茜o冨−一きβ、鋤日巴p岳器葱↓︵三鼠αQ卑一︶、、︵H玄身 ヨヨ騨自℃帥同、、︵Hσ5‘<o一■目押29Nyまたダルワール地方で.、の国B酔Oμ洋巴:の胆ヨけ囚跨q魯鴨勺ぼoN鋤げ鋤飢:ω帥ヨ汁囚巳6− くO一■ H玄α己く〇 一 , く ︶ 客 o ■ ご 避 HH押2ρ曽ソ ︵7︶ ℃ωH戸くo一﹂M客ρ轟ごく〇一﹂H”20の﹄ρい∋く〇一く︸客oω、鼻ρ一ωo。”一いO■ Hσ一自こ℃や ω ∼ ひ 因■<﹃bロ旨邑鷺①”ε。一¢讐や餌.、囚跨q碑留男器陣畠。冒讐菩U。跨導爵げ富魯募鴇く謬。富奉3注鍔、、 ︵8︶ 三節管轄区︵ピβ.鋤巨巴帥︶と城区︵O.巴魯︶ Hげ一畠4<〇一H戸20ω一−一ρ一一讐一ρb。ド いない。 勅令の邦語試訳国において示されている如く、 管轄区は王の直轄区であった。そして城区も同様であったことに疑 ︵9︶ ︵6︶ ︵5︶ 督脇擁国o一巴、、︵Hげ一自‘くoピ目︾Zo,o︶、、、留目け国跨撃一目旨.蟄菅噸習田〇一巴督鴇﹃頃鷺ヨ鷺−あ跨ヨけ因ぎ。げ目昌噌︵Hげ一自■ ︵4︶..O鷺鴇け因ぎ団げ。暮日−一−督脇﹃筥欝犀日︵寄島巴団︶、、︵H玄ρ<。一ー目矯乞。幹。。、一。ソ..留葺旨器犀日︵国呂㎎巴ε窪豊h ︵3︶目三自‘<・H<’z。ω﹂NN∼Nゆ,曾q騨田一凝鵠了留翼田一甜鼠e 一塁爵日︵留且巴9日︶︵H互α,く阜尽zoo。N∼。。。。β3︶■ く〇一■目戸乞○臼ひ。。︶■︷、留巨竃跨a︵÷竃β.習巨即のp且巴9日︶︵H葺島‘くoピく響20の■“ρ章・︶..ωρ昌年く酵同−一寓β.餌目巴帥 αQ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年 一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二〇三 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二〇四 この両語は共にアラビヤ語源であり、ムスリム支配者によって導入されたものである。然し、アーディル・シャー ヒi王朝に先行したキルジi、トゥグルク、バフマニー諸王国、更に建国期のアーディル・シャーヒー王国自体の地 方支配機構は現在必ずしも明らかでないために、この二つの呼称がどの王朝によって初めて使用されたのか明瞭でな い。然し、これら二つの区画呼称がアーディル・シャーヒー時代よりも前に導入されたとしても、この時代において も、城を建設し︵例えぱサタラ城とシャーハドゥルグ城︶、その隣接諸地域を新城の管理下に組入れて新たに直轄区 カラ ︵1︶ を設定することは行われた。 ︵2︶ 直轄区の規模は、サタラ城区の如く四〇ケ村しか含まない揚合もあった。然し通例、直轄区は、規模の大きなパル ガナに相当する地域か、或いはそれよりも遙かに大きな地域を管掌したと見える。何故なら、直轄区は、屡々二乃至 六のサムトやカルヤートを含み、そして時には、シャーハドゥルグ城区のように、七パルガナと一カルヤートを含 ︵3︶ ︵4︶ む揚合もあったからである。つまり、直轄区は、通例規模も大きく、そして次に述べる意味で重要な、単数乃至複数 のパルガナ区域を区切って設定されたものと思われる。 そこで、管轄区及び城区はどのような意味で重要な地域に設定されたのであろうか。附載した地図に基づいて、次 の諸点を指摘することが出来る。日管轄区は、主な河川の合流地域︵例えばライチュール、トールガル、ムドガル、 ムァヨマラ サンダラープール︶、主な河川の流域︵バンカープール、ミーラズ︶、開港地︵ゴア、チャウル︶、交通の要衝︵カル ヤーン、ビワンディー︶などに設定され、そして国土の辺境地域にょり多く分布した。即ち、水利が良く農業生産の 盛んな地域、交通・交易の要地、国土防衛上の重要地域、か﹂る地域に管轄区は設定された。口城区も、主な河川の 合流地域︵バダーウィー、シャーハドゥルグ︶、その流域︵コーパル、パナーテー、サタテ、マンダン、チャンダン︶、 そして特に西ガート山脈沿いの要衝︵ワソータ、パラーリー、ラーヘール又は・ーヒラー、ラージガル、コンダーナ︶ に設けられた。要するに、管轄区も城区も、財政的及び軍事的に重要な地域に設定された。 ところで、管轄区と城区は、相互に異なる区画として取り扱われ、決して混同されなかった。だがこの二つの区画 の行政機能の相違を判定することは必ずしも容易でない。両区画ともに、単数の管理官の下に、多数の官吏及ぴ軍隊 、 が駐在して、後に検討される如く、区域内の行政全般を担当した。屡々一方の管理官が他方の管理官として転任させ ︵5︶ ︵6︶ ・⋮ られた。そして管轄区にも城があった。従って、両区画の行政機能に何か基本的な相違があったとは思われない。然 しその相違を敢えて求めるならば、矢張り、管轄区はより一層財政的目的を以って設定されたのに対して、城区はよ り一層軍事的意図を以って画定されたと思われる。何故なら、第一に、ムアーマラという語は本来﹁事業﹂、﹁交通﹂、 ﹁約束﹂などを意味したのに対し、カラは文字通り﹁城﹂を意味したという呼称の原義的相違を先ず指摘するア︼とが 出来る。第二に、先述の如く、管轄区の主要な立地条件は、農業生産の中心地及び交易・交通の要地であったのに対 し、城区の圧倒的多数は、山脈沿いの要害の地に集中している。そして第三に、城区では、その税収のかなりの部分 シャーハドゥルグ城区については蜀の目コρく〇一一<128 一ミ∼昭サタラ城区についてはのOψ く〇一p<一 ℃サひN∼9 が城の維持費乃至補修費として与えられた揚合も多いのに対し、管轄区についてはかかる事例は見出されないからで ︵7︶ ある。 ︵−︶ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二〇五 を 見よ。 一橋大学研究年報 経済学研究 二〇六 ..嵐且群奉爵号﹃あ程一6巨器犀母鼠昌昏≦型÷9ぎ鉱め、巴習目器犀日−葵昌爵ξ自鷺習一∋b&の鼠鼠墨鼠N旨器N、帥 冨欝鼠げ富N騨げ8⋮鴇げ帥二。。江、島山−一め.巴跨竃β鼠↓躊のぽ酵3茜Eけρ呂白冨ヨ霊替霧“、、︵Hげ一自‘︿o一■<℃Zρ一9︶. 一め.巴昌囚き辞ぴq艮目器犀日巨弩冨目彗貯↓日ま昌鼠げ卿巳α替昌邑呂霧ρ、、︵H玄山‘︿oドH戸2ρ8y..目呂巳帥讐 鼠墨奉Ω巴四<pげ.き①器く臨旨け−一め.巳昌旨器吋日げ帥コ・誓pけ÷寄琶鋤含−一2似誘犀ヨ霧鼠宝一−aげげ巴昌.α鑑く巴の牙毘− 箏一−醇鼠巳−路玄ρβ<四壼の“、、︵H匿‘<。一目、2ρ。。ρ︶・・竪。鼠ω冨くも日奉昏言陣侭跨の①お毒臥琶同奉く翠 ︵7︶、δ冨冨a昌誉雲N.節−一め、巴替田島忌鼠旨田官ど奉ヨε蜂、崔匿奉N募訣巴β三ゐ.弩昌筥.即ざ一島げ9↓言ざ− ︵6︶ 勅令試訳白を見よ。 同一”2ρ誌︶であ っ た o 2ρO一︶、一六六二年二月にパラーリー城区管理官︵H互曾く〇一﹂廿20砧ひ︶、同年二一月にチャンダン城区管理官︵H獣F<9・ ︵5︶ 例えば、この王朝の有名な武将アフザルカーンは、一六六〇年六月にサンダーラープール管轄区管理官︵Hび5こ<8︿︸ ︵4︶ 一げ一皇<9.∼28﹂ミ∼暗。この城は、一五六〇年頃、アリー・アーディル・シャーハの治世に建設された。 Zρ二℃︶が含まれていた。 サンダラープール管轄区に四サムト︵H三F︿巳■<嚇Z8,“♪ひρooざ露︶、バナ;ラー城区にニカルヤート︵昌置こ<oピ<、 ︵3︶ バンカープール管轄区に六サムト︵bωH国︸︿oど目H客○ψざご︶、ムドガル管轄区にニサムト︵Hげ試‘<oド目月2ρひoo︶、 ぐo一。<担℃や9∼ひい, ち南の二〇ヶ村、パルガナ・カルハードのうち北の二〇ヶ村、合計四〇ヶ村が区切られて、サタラ城区に編入された。のOの ︵2︶ サタラ城は、一五四〇年頃、イプラーヒーム・アーディル・シャーハの治世に建設され、その際バルガナ・ワーイーのう 8 臣器パ日げ鷺凱ω9ヱー鍬げδげ跨鼠昌犀げ︵卸ぎ−一みげ鋤昌暫÷ρ、巴卑げ目鶏犀日ヨ目紹旨跨冨ヨ山自跨ぽヨ鷺冨ヨ暮脇鷺目薗魯げ跨に鼠げ 器け、.︵Hげ置‘<〇一,く。Z9ご轟︶。 第四章 地方の世襲役人 特に郷主と郷書記 第一節 世 襲 役 人 制 度 土着の世襲役人とは、先に述べたように、パルガナ又はその小区画の首長としての郷主︵∪①路剛又は∪⑦跨琶爵げ︶、 郷書記︵∪①昌犀三ざ唇剛又はUoのげbぎ曾︶、村長︵b習9冒唇&鼠日又は冒o匿鼠ヨ︶、村書記︵因巳ζ召団︶、市揚 地の長︵ω①實︶、市揚地の書記︵冒呂どき︶、城塞警備員︵2跳犀譲翠同︶などである。郷主及び郷書記について考察する 前に、世襲役人制度一般について、若干の点を指摘しておきたい。 e これら役人の呼称のうち、村長を意味する竃呂亀留目又は冒o匿鼠目が、指導者・首長を示すアラビヤ語 であるのを除くと、他はすぺて土着のヒンドウ語である。このことは、世襲役人制度の少くとも祖型はムスリム侵入 以前の時代に既に存在していたことを示唆する。そして事実、西南マハーラーシュトラ地方から発見された、一二世 紀乃至一三世紀の、古代マラーティー語で書かれた若干の銅板碑文に、少くとも男習旦囚巳ζ言押望貫竃魯どき ︵1︶ の役職呼称が明記されている。他方、Uoω賀∪Φ旨旨o犀FU①旨犀巳匿遷一︸Uo診冨&。という呼称は、これらの碑文 には示されていない。卑見の限り、かかる役職呼称が見出される最も古い記録は、バフマニi王国成立後約五〇年を アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二〇七 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二〇八 ワ タ ソ 経た一三九五年一二月七日付の、プーナ近辺の或る郷書記兼村書記の役職に関するマラーティー語文書である。この 中に、Uoω日爵FUo器目爵戸U。誓oB爵戸及びUo毯翌①︸∪霧9置ρ∪霧魯β涛跨昌∪①昌爵巳寄↓昌Uo降巳ざ旨闘 などの呼称が記されている。∪①昌目爵げやUoこ。げ鼠ロ曾の呼称が、ムスリム支配の成立後の記録にのみ見出される ︵2︶ ことは、かかる機構自体もムスリム支配の確立後に成立したことを示唆しているかも知れない。然し、必ずしもそう ではなく、次節においてやや詳しく検討される如く、郷主機構の少くとも祖型は、やはリムスリム侵入以前の古代デ カンにおいて既に存在していたと思われる。 ︵3︶ 国 世襲役人たちの﹁役職﹂は、アラビヤ語で﹁家産﹂や﹁相続財産﹂を意味するヨぼ器、又は同じくアラビヤ語 で﹁故郷﹂や﹁郷土﹂を意味する≦暮呂という語で呼ばれた。この二つの概念は世襲的役職という同じ実体を示す ︵4︶ 同意語として混用されており、その間で特に区別されたとは思われない。他方、かかる役職の反面をなす公認された ﹁役得﹂の主要部分は、アラビヤ語で﹁施与﹂や﹁恩給﹂を意味するぼ.似日︵又は言似目︶という語で呼ぱれた。そ して役職と役得は、王の直轄区においてだけではなく、官僚に貸与された封土においてさえ、原則として、直接に或 いは少くとも窮極において、王の恩恵によって個別的に確認され、保証されたものであった。﹁窮極において﹂とい う意味は、後に改めて考察される如く、封土の受領者は、封土内の既存の役人恩給を増加し、或いは欠員の役職に新 たに役人を任命することも出来たが、このようにして恩給を増加され、或いは新たに任命された役人が、その確認と ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ 保証を王に請願すれば、その受封者又は役人が反逆者でない限り、請願は通例そのまま受理された、という意味であ る。その上王は、官僚の封土地域においてさえ、世襲役人の恩給を増加し、或いは欠員の役職に新しく役人を任命し ︵8︶ ︵9︶ たし、また封土受領者によって既得権益を侵害された役人は、その復権と保護を直接に王に請願することも出来た。 要するに世襲役人の役職と役得は、王権によって保証されたものであった。 国 世襲役人の役職と恩給は、永代享受を公認された。このことは、役職とその恩給を確認乃至再確認した勅令に おいて、殆んど常に、﹁彼の後には彼の子と孫に﹂︵げ、鑑o募函巳翌奉菩一鑑−一〇︶、﹁永久の﹂︵診匿一︶、﹁時代の最 後の日まで﹂︵鼠峯ρ目−自−鋸目鍵︶、﹁最後の審判の日まで﹂︵鼠︾程巨−巳−巳風巨︶などと書かれていることから明ら かで あ る 。 ︵n︶ ㈲ 役職を王権によって確認され、保証された世襲役人が、王によって要求された義務は、﹁忠誠﹂︵富一寧戴暑母一︶、 ﹁献身﹂︵翁臨旨ぎ一︶、﹁王国の繁栄を祈る心﹂︵鼠巳暮歯げ≦似寓︶、﹁塩︵即ち被養︶に対する誠実﹂︵葛旨躊出巴蟄剛︶ などと呼ばれた忠誠的心情を保持し、年々一定の貢金︵需昏犀霧亘ロ欝舘き欝魯醇巳︶を献上し、通常の税額よりは 遙かに低率の恩給税︵旨.似誉−冨葺︶と呼ばれる税を支払い、そして、後に郷主と郷書記に限って考察される如き職務 を励行することであった。 ・国 世襲役人の役職は、その恩給と共に、一種の﹁家産﹂と見徹された。従って、それは売買、分割、譲渡され得 た。然し、かかる行為が当事者の間で無制約に、自由に行われ得たという意味ではないコ役職の売買、分割、譲渡に は、政府権力の承認と地域社会の確認とが心要であった。政府権力の承認はこれを得ても、地域社会の確認を得ない ゴータ ︵11︶ ゴータ で行われたかかる行為は原則として無効とされた。役職の売買・分割・譲渡に対するこの政治的・社会的制約に対応 ︵12︶ して、役職の保持者は、圧倒的にヒンドウであり、しかも彼らのうち若干の高位力iストの成員であったと思われる。 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二〇九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二一〇 ︵13︶ 史料に姓名の示された世襲役人のうち、郷主一名、村長二名がムスリムである他は、すぺてヒンドウである。しかも 右のムスリムでさえ、外来の異邦人であるよりも、むしろヒンドゥの改宗者であったと推察され得る。他方、ヒンド ゥ世襲役人のカーストを判定すると、マハーラーシュトラ地方の西ガート山脈から東の高原地方では、郷主と村長は、 通例、地域社会の第二階級で、武事と農業を世襲業としたマラータ・カーストに属し、郷書記と村書記は、代々文筆 をほぼ独占していたバラモン・カーストの成員であった。西ガ⋮ト山脈以西のいわゆるコーンカン地帯では、マラー タの代りに、プラブー・カーヤスタが優勢であったと見え、このカースト出身の郷主も多少見出される。北部カルナ ータカ地方における役職は、主としてバラモン及ぴリンガーヤトによって占められていたと思われる。いずれにして も、地方支配の先端を分掌した世襲の役職が、二、三の高位カーストの成員によってほぼ独占されていたらしいこと を、ここで指摘して置きたい。 ︵1︶ 閑げ碑暮犀浮甜留霧げ&富パ竃陣ロ鼠一巴■ま騨動ミ導∼畿ミ遷、のげ爵暫一〇。ま︸客ρ8︸Pっぎぎ匿も⊃q§ミミ黛蕊﹃画§蓉憶& 身く、囚■憲マ理⑦﹂窪g図ミ吻§ミミ畢の冨冨一。。いざz。■轟♪b蕊§簿ミき画§窮§§言鳶ミR昌罫帖園。漸§§&ξp <9卜営ρH鉱P図団曙、暮﹄誉§斜のげ躊”一〇。いo。”℃℃,ご一1一♪翰§ぎNおqミ轟ミミ騨薪目画ミ養憎§げ同ψい>鼠け ︵2︶ この記録の中には、四〇ヶ村の郷書記、六ヶ村の書記︵囚三犀鷺βOきけ犀ロ鱒跨巳︶、郷主などの呼称の他、村長︵竃o監− α蟄巨︶及ぴ村長補佐︵○げ程αQ鼠︶の呼称も見出される。ωOω、くo一・<月Zo8・ ︵3︶ 世襲役職を、・・ーラースと呼んでいる勅令の例を示しておく。郷主職︵︸のH坦ぢ一﹂鍔23篇︸捜樽NざN£o︸︿〇一・ダ20塑 デサロイしキロ デノゑクルカルナギる バしテ ルキヒ クルカルナキド セ テにバ ナ チヨロドルキじ 撰︾一〇一,一讐∼沖ごO∼お︶、郷書記職︵H互“<o一・押客oψN辞N9︿〇一・メ20。。一鰭∼沖嵩O∼器︶、村長職︵Hび一“<包ー貫 ZO﹂ど<〇一■ダ客ρざ一︶、村書記職︵Hぼα■く〇一h︸28﹂ρ二∼一Q︶、市揚地の首長職︵Hげ薗﹄〇一・ダZO﹂9︶、市場地長補佐 職︵一げ達こくo一,<928﹂ミ∼8︶。か㌧る公務を帯ぴた役職の他に、例えぱ占星師職も、・・ーラースと呼ばれた︵H怠負<〇一■H ノロヒシヒキユ 20の■=∼一い︶o ω冨3p葺p匡習βぎ﹃鹸卸畠豊旨言ぎ冒ヨ9塁9、ぎ昌昌創8三く暮き3巨どけぼ。げ酵g器魯9跨β昌践、、 ︵4︶、.浮ε。譲蚕一魯くp浮三①ω。茜孚。の§塁け因。お撃。岩鼠一犀巳ζ﹃髭奉一・。。穿一,,鼠葛巨爵巴・Φ・⋮国欝ぎ ︵一巨俳くoピト20二y同様にワタンとミーラースが混用されている例としての○¢<〇一﹂戸20しまをも見よ。 ︵5︶ 例えばのOρ<9製Zρ8・ ︵6︶ 王権に対して反逆した世襲役人の役職・恩給は、政府に接収され、臨時に地方官僚によって管理された。bの一鼻く9﹂戸 Z3■ミーNoo,ωOρ<oHHく︸2ρ$oo。 ︵7︶ 例えぱ、或る村の書記兼占星師が、受封者によって役得恩給を加増してもらい、それを王が確認した例としてb曽国、<o一り Hり乞○ψ旨∼嵩層まを見よ。 ︵8︶ 一六六〇年バルガナ・コルハープールの郷書記の一家が死滅し、役職の相続人が居なかったので、王は、一バラモンの請 願を受け、役職を彼に与えた︵H三“ぐ〇一﹂︸20■舘︶。またパルガナの郷主職の確認乃至恩給の加増についてはHげ一“さ一’ ︿一乞o幹旨ρ一撃を参照。 ︵9︶ 或るバルガナの郷書記が土地の受封者によって役職を侵害され、その保護を王に訴えた例︵HgF<○ド押客o¢撃ヤN頓︶、 他のパルガナの郷主職が侵害されたので、王がそれを保護した例︵目含F<o一・ダ2ρさ一︶。 ︵10︶ 例えば一び一P︿9担Z8P一ρ一ご<oピ目20幹旨︸ω∋︿o一一目H月20幹ど錦<〇一・∼20幹5一・旨斜お♪一鴇∼P アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年 一六八六年︶の他方支配に関する一研究 二一一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二一二 ︵11︶ 例えば村長職の売買についてωOρ<阜口押20幹90。・ひ一9村書記職の売買についてωOρく〇一﹂戸29aoo︸ぐ〇一・<ー コ9郷主職の分割について冒一負<〇一﹂H2ρ曽Ooを見よ。 ︵12︶ 例えぱ次の事例がある。或る封土受領者は、領内の一村畏の役職を強制的に三分割し、そのうち二つを他の人物に与えた。 その後受封者が交替したので、本来の村長は新受封者に対して、村長職三分割の不当なるを訴え、裁判集会を開催されるよう 請願した。そ.︶で新受封者の代官たち、郷主、郷書記、近隣各村の村長、市揚地の長たちが集まって集会を開き討議した結果、 ゴ ヒ ゴヒタ ルしズ 集会は次の理由で本来の村長の勝訴を決定した。﹁︵他の二名の新村長が証拠として提出した︶書類は不適当︵又は虚偽犀げo− プヲジヤロ 9︶である。それには、村の十二種類のバルーテー︵手工業者及ぴサービス人︶と六〇名の農民︵か﹄る数字そのものはむし ていなければ、その書類は不適当である。﹂ωOρ︿亀くロ押29Nρ ろ象徴的なものに過ぎないと思われる︶の確認がない。つまり地域仲間の同意がない。若しも書類に村人たちの確認が示され ︵13︶ ムスリム村長の例として、 bのH貫くo一,戸29ご℃ムスリム郷主の例としてω○ρぎ一﹂∼乞o■ひo。o。を見よ。 第二節 郷主制の連続性 先に指摘された如く、パルガナ又はその小区画の世襲的首長を意味するα。路同或いは8昌ヨ爵げという呼称は共 にヒンドウの土着語である。H・R・ウイルソンやJ・グラント・ダフによれば、αoω鋤という語は、サンスクリ ットの創Φのげ甲&げな諄一︵α窃匿旺8ロ旨q・8旭o豆器三℃暮一”o匡①戸旨一9︶から転化したか或いは同じ語源である。 犀冨堕”。三焦︶から派生したか又は同じ語源である。いずれにしても、両語は共に一定地域の首長、指導者、代弁者 同様に、血o跨目偉犀げも、サンスクリットの留魯㌣日信吋げ魯︵日ロ犀募“Bo暮Fぽ匿︶、或いは自Φ吟㌣巨ロ犀げ冨︵日阜 ︵−︶ を意味した土着語であることに疑いはない。 アーディル・シャーヒー時代の記録では、か、る地域的首長は通例Uo路闘と呼ばれ、マハーラーシュトラ地方の ︵2︶ 西部において屡々Uo診日ロ犀げと呼ばれた。然しここでも、同一の∪Φ跨巨爵げが時折り∪①路一とも呼ばれている。 ︵3︶ また南カナラ地方のUΦ路団も時には∪Φωげ日爵げと呼ばれた。なお北カルナータカ地方の一部に見出される2鋤弓嚇, 琶匿げについては後に触れる。いずれにしても∪。路一と∪Φω賦目賃犀げはパルガナ又はその小区画の首長を示す同義 異語に他ならなかった。 世襲郷主の呼称がヒンドウの土着語であり、そしてその役職・役得を意味する日冒貫≦諄き︸ぼ、帥旨が先述の如 くアラピヤ語であることは、郷主制について、二つの重要な示唆を与える。第一は、ムスリムによる征服以前に、既 に郷主制の﹁祖型﹂が存在したのではないかということであり、第二は、然しその﹁祖型﹂の職貴と報酬は、後代に 見られる程明確には制度化されていなかったのであり、ムスリム征服者が、郷主の職責と権益を、彼らの支配関心と 概念に基づいて整理し確定したのではないか、ということである。 か㌧る示唆を検討するための手懸りはアルテーカル教授によって与えられている。同教授によれば、西暦八世紀か ら一一世紀にデカン一帯を領有したラーシュトラクータ王国において、一〇〇ヶ村から五〇〇ヶ村を含む地域はブク ティ︵國げ爵εと呼ばれ、そこにボーギカ︵国ぎ讐鼠︶又はボーガパティ︵閃ぎ撃冨5と呼ばれた国家官僚と並んで、 ﹁世襲の徴税役人たち﹂︵げΦ冨象岳曙8︿魯轟o臨8旨︶がいた。それらは、マハーラーシュトラ地方では、UΦ聾轟↓画, ︵4︶ 目即5冨︸カルナータカ地方では2&暗く琶富と呼ばれた。そして別の書で同教授は同じ問題に触れ、﹁マラータ時 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一二三 代の郷書記、郷書記長、郷主などは、それら︵マハーラーシュトラ地方のU。旨轟鼠一塁臣實とカルナータカ デロンユパドソデし サルニアラノユパにンデド デドシユムク 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一二四 ︵5︶ 地方の2君管く信仁曾︶の子孫であった。﹂と言っている。この見解に即して若干の考察を行いたい。 第一に、アーディル,シャーヒー時代に郷主が存在した区画単位は、パルガナ又はそれと同意語と解されるタソパ ー、或いはそれらの小区画であって、ブクティではない。ブクティという区画呼称は、一六∼一七世紀の史料には全 く現われない。同様に、ムスリム時代及ぴマラータ時代の世襲徴税役人はデトサーイー又はデーシュムクであって、 デーシャグラーマクータではない。後者も一六∼一七世紀の史料には全く現われない。古い呼称が何時頃消滅し、新 しい呼称が何時から使用されたのかということは、先述の如く、正確には分らない。ラーシュトラクータ時代に続く ヤーダウア時代についても、その後のムスリム支配の初期、特に一四世紀前半についても、つまりほぼ四〇〇年間の 地方支配体制がまだ殆んど何も分っていないからである。第二に、アーディル・シャーヒー時代においてさえ、郷主 職や郷書記職の売買・譲渡・新設が時折り行われたのであるから、マラータ時代及ぴそれに先行するアーディル・ シャーヒi時代の郷主や郷書記を、ラーシュトラクータ時代のデーシャグラーマクータやナードガーウンダの﹁子 孫﹂︵自霧8民き富︶であったとして、両者の血縁的連続性を簡単に相定することは必ずしも妥当ではない。第三に、 このように呼称も異なり、そして血縁的連続性も必ずしも即座には認め難いけれども、然し、一定区域の徴税を主た る任務とする世襲役人機構そのものの連続性はこれを認め得ると思われる。特に、アーディル・シャーヒー時代に北 部カルナータカ地方の一部に乞町αqぎ邑魯と呼ばれる世襲役人が居たが、これはラーシュトラクータ時代にカルナ ータカ地方に居たと言われる2&αq牙巷曾と全く同じ呼称である。後者の母及び翠が、アラビヤ文字に醗字されて、 d又はr、及ぴnに変化したに過ぎない。乞鑑αq響菖曾はカナリーズ語で、一定地域︵乞&︶の首長︵暗く琶曾︶を 意味し、語義においてデーサーイーやデーシュムクと等しい。ところで、アーディル・シャーヒー時代の2酵暗β苧 α跨は具体的にどのような職責を担当したのか詳しくは明らかでない。然し恐らくそれは、デーサーイーとの間に明 瞭な相違を持たなかったのではないかと思われる。何故なら、屡々同一人物が、同一区域の、又は隣接する諸区域の ︵6︶ デーサーイ⋮であると同時にナールガーウンダでもあった。そして二つの呼称が同一人物に兼併されていない揚合に ︵7︶ は、ナールガーウンダの役得は﹁デーサーイーが享受しているところに準じて与えられ﹂た。つまり、ラーシュトラ クータ時代のナールガーウンダは、その後導入されたデーサーイーという呼称を与えられたか、さもなければ後者に 準ずるものとして取り扱われたことが分る。この点から見ても、ムスリム征服以前と以後の世襲役人制度にはかなり 具体的な連続性があったと思われる。第四に、然しラーシュトラクータ時代の﹁世襲徴税役人﹂は、後代のそれ程明 確に制度化されていたとは思われない。何故なら、前者は、後者の如く、名実共に世襲であったかどうかは必ずしも ︵8︶ 確かではなく、単に事実上世襲であったらしいことを示す若干の証拠があるに過ぎない。そして、ラーシュトラクー タ時代の﹁世襲徴税役人﹂は、一種の免税地︵留跨謎鼠日爵句冨冨け9タ︶を保有したことを除いて、彼らの役得も職 責も必ずしも明瞭ではない。然るに、後代においては、一定区域の世襲役職は、郷主及び郷書記という相互に区別さ ︵9︶ れた二つの役職に分化され、しかもこの二つは通例、カースト的分業に基づいて二人の異なる人物によって担当され た。そしてか・る役職とその役得は、ミーラース︵又はワタン︶とイナームというムスリム用語によって概念化され ていた。 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二一五 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二一六 要するに郷主制の﹁祖型﹂はムスリム征服以前に既にあったように見える。ムスリム支配者は、この﹁祖型﹂を彼 ︵10︶ らの支配関心に即して制度化し、その分限を概念化して、これを地方支配のための重要な手段として活用したのだと 思われる。 89い○壁暮Uロ融一臥顛巽ミ健亀鉢ぎ歳9専§言漁oや9f︿〇一鮮℃やさooo∼呂, ︵1︶ 国・甲≦房9”Ro器ミ璽毫∼&§&§“肉S§§﹃零ミ賄§園毫o簿箋誤爵N蚕ミ勢澱加蕊鐘い簿亀貴oや9fや タルフ ︵2︶ 例えばローヒラi城区ボール地方の郷主カーノージー・ジエーデーはデーシュムクとも呼ぱれ︵層曽坦くoピ劇乞o卯&一 ≒”お︸8︶、同時にデーサーイとも呼ぱれた︵一げ幽負く〇一・ど28・高ρ台”奪鳩&︶。 ︵3︶ 例えば南カナラ地方のホーレホンヌール・バルガナの﹁デーシュムク職とデーシュパーンデー職﹂は、ハヌマントガーウ ダという名の人物に保持されていた︵Hび一Pく9目押2ρ“︶が、彼は同時に、バンカーブール管轄区グッタル地域のデーサ サムト ーイーであった︵一げ崖‘︿9●トZ8、ざ担一怠ま︶。 ︵4︶ ︾ψ︾一3犀鷺”↓ぎ鞄身ミ醤試言角9詳“簿馬等§墓貸booロ辞一3や℃や一醤∼一〇〇〇。 ︵5︶∪ρ”oo躰ミ恥§“Q8cb醤慕§き匡§龍§噛蔑貸ω巳。α‘竃o岳巴閃導貧ωこ錫一〇軌。。も﹄一〇, ︵6︶..国騨昌ヨ窪け○窪且昌∪窃鋤−一−ω蟄臣けOロ辞巴÷冒ロ、似ヨ箪”日器5﹃︵田爵書日︶げ卑魯茜農目.騨ポ一一菖首留壁ヨま 匠げ昌箇茜鱒偉p魯匡−一−ω帥ヨけ日器犀日︵O暮梓巴︶<粋留目け国騨茜巴剛く跨留首け国o﹃巴岡く陣留目け囚g日詳βa︿魯留畦け↓出卑 ぐ巴一剛−陣−冒β.似g箪騨目器犀日旨団鼠の−一−ρ呂団ヨー一−吋びゆq器一く簿σゴooqp︿騨$げg一浮<&、、︵︸ωH餌くo一●目押2ρ刈y、.幹冒ぞ叫の く雪犀魯鑑臨U窃巴−ゆら貧鹸蟄ロ蟄O註轟墨2母四讐け鼠げ−一め騨置げ国似山画≦・⋮・ぐ︵H虹F︿〇一甲H一洲Z8。ooどo。頓y..の臨三く蹄 <gκ碧澄践Uo路剛−一ら碧撃β暫○銭お毒知○涛段ロα騨げ奉2似詩即ββ島や﹃一め、巴鱒げ切似盆く一くやoo即ヨけN巴ぎ養甲一め.魯鼠げ 囚8巴⋮⋮,、、︵Hび箆こく〇一。H戸20、ooN︶、.日剛鐵ω−一U霧ヨ偉寓く費Uo降巳犀帥ヨ餌露くロ之鋤詩やロ昌α粋ζ−一−竃β、鋤ヨ”ずヨ器犀日げ跨 国犀o噛く帥げ.鶴o︷鷺鐸昌ユ似ロー一−のげ卿三同︼Wげopo。ド9吋げβ吋障巨−一削胃目餌ロ㊧ωげ特鉱冨く卿昌霧“、、︵Hげ置‘<oピく,乞ρ一一〇〇y .、閏琶ロ目呂↓ぎ薯留置①ω鋤同奉UΦ降巳監琶一話2鋤詩窪&昌−一b.巴昌営器犀日︵の冨匡信茜︶縞9黒暮魯の巴昌⋮ 目呂一蒔げ:Bロβ旨胃h胃目自山”げ旨目α簿げ霧け、、,︵H立負く〇一,<”客o﹂器︶,.、2胃ωo国ロ目ロヨど剛Uo鼠団く”Uo論巳犀遭巳ぐ即 乞鋤詩鈴ββ幽勢げ⋮:、、︵Hげ一山■︸く〇一,<”20■峯Ny ︵7︶.、2鋤茜置匡躊一−一め、巴昌ヨ鋤降母︵田島≦︶鼠−鼠の呂風−ρ呂ぎ鼠冒昏鐸日冒費賦馬ユ琶”目毬犀日首5日舅↓−⋮ ㌦鷺彗勾自”げωげ億αゆげ霧けヨ一げ卿國脾α匠げ目βρ即畦鷲α帥巳の梓四げヨロ匡旨響−一−2鋤弓㎎層ρ昌山節犀一げ艶げ楊プ一ゐ卸.一山ゆげ欝oβ︿似昌 山跨蟄昌α<蟄ぼ、鋤目鋸gぎ自鷺冒費ロ国.”げ2帥壁讐昌山跨p跨巨鍬く費竃費一一N、蟄げ竃Φの自qo犀℃緯葛く節竃節βN、騨げピ鋤冨昌犀o識山o 目町奉鼠.N①言.似旨話く胃鼠匿奉冨β一薯欝冒即奉冒践据。げげ鼠奉げ轟団︵り︶言、巴δ8げ甲一め、巴昌一毒葵日ざげ 轡ミー蔚客ミ∪塁鼠寒&§§象訓醤蔑累鼠爵醤§§&亀虞き鼠騨§§韓&9§釧、、︵一げ箆こ<〇一’一戸20§︶ ・ ︵8︶ ︾ψ毎一8犀跨”﹃ぎ調禽ミ憶暮忌鵠9葺良牒ぎ母§醤塁○つo一けこ℃や一Voolooド ︵9︶北カルナータカ地方では、この二つの役職が同一人物に兼ねられている例が時折り見出される︵例えぱ本節註︵6︶の後 半を見よ︶。このことは恐らくこの地方のカースト制度の特色に依るものと思われる・即ちこの地方では・マハーラーシュト ラ地方のマラータに対応する有力な軍事力ーストが存在しない。代りに、特定職業への偏向を必ずしも持たないリンガーヤト 宗派の成員が・バラモンと並んで有勢であり・そして彼らの中には識字者も多かったと思われる。従って、彼らのに中に・郷 ︵10︶ ムスリム支配下で、ヒンドウの世襲役人制が、地方支配の重要な手段として活用されたのはデカンにおいてだけではない。 主・郷書記の二つの役職を兼ね持つ者も居たようである。 同様の制度は北インドにおいても存在した。そこでは、バルガナの世襲的首長は○げ塁創訂剛、その書記はOぎ一5もと呼ばれ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二一七 一橋大学研究年報 経済学研究 8 一二八 た。また村長は客一δ讐qα騨目、村書記はb暮≦跨団と称された。これら、北インドの世襲役人の職務と役得のあり方はまだ十 分に詳しく研究されているとは言い難いけれどもデカンにおけるそれと基本的にはほぼ同様であったと考えて差し支えないよ うである。<往Φ勺・ω餌円卑β”﹃ン恥、き言§o§内qSミ詳韓軸§皇罫馬ミ9Q詳麟ぢ︵蜜らoqI途賑Goy舞一﹃げ簿げ臼貸ち&”℃や蹄♪NO怠 含oo∼α9薫,国。ピ○冨鮮昌山”↓ン馬卜q養試g醤GQ喫象oミ皇ミ身ざ§﹄醤§3>一冨げ帥げ騨αoα‘℃や一PひP冨︼oogN禽−NNどミα■ 特にH諏のコ鵠昌びn﹃.詳﹄ミミ言昌冬象oミ亀ミ虞饗蕊富警90℃■9f一8辞℃℃,謎Oo∼ミを参照。 第三節 郷主と王権 先に一般的に指摘された王権と世襲役人との関係を、対象を郷主に限ってもっと具体的に考察する。 ﹁王の愛顧と限りなき恩恵﹂︵旨跨習一巨−一冨房鼠鼠壁くゆ団貰瓜歯益焦÷障堅一胃轟壁︶によって、郷主の役職と役 得を確認又は再確認した王は、その旨を、地元の地方官、封土受領者、他の世襲役人、及び一般人民に対して勅令の 形で通告し、彼の職務の執行と役得の享受とを妨害しないように命じた。 この王の﹁恩恵﹂に対応して、郷主が王によって要求されたのは、後に考察される職務の執行の他に、先述の如く、 ︵1︶ 第一に一般的忠誠心情を保持すること、第二に王に対して年々一定の﹁貢金﹂を納入すること、第三に王に対して﹁保 ︵2︶ 証人﹂︵鼠目旦冨巨ぎ︶を立てることであった。第四に、他の世襲役人と同じく郷主は、王に対し、或いは王にょっ イナしム てその地域の税収を封禄として授与された高官に対し、自己の恩給の上に時折り賦課された恩給税︵甘曾ぼ.鋤ヨ冨鼠︶ を納めねばならなかった。第五に、直轄区の郷主は、その区の﹁管理官の指揮と支配に服従すること﹂︵α跨堅喜奉 ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ 壁隔ヱー国累凹鼠一げまき︶、高官の封土として一円支配に委ねられたパルガナの郷主も﹁彼︵受封者︶に服徒すること﹂ ︵山匿目β鼠鼠.暮−富吟ぎげま魯︶を王によって命ぜられた。 他方で朝廷は、直轄区では管理官以下の官僚機構、一円封土ではその受領者と代官機構、小封土地域でもその受領 者及び代官たち、臨時に朝廷に﹁接収﹂されたパルガナではその郷主の行政全般を監督するために中央から派遣され ︵6︶ た冒替弩α母又は.諏目埠と呼ばれる監督官、これらの官僚機構を通して、郷主の忠誠を強制し、彼らの勤役状態を 監督した。 官僚機構を通して、郷主の怠慢や逸脱行為を探知した朝廷は、郷主に対して叱責の勅令を発し、勤役の励行乃至は ︵7︶ 逸脱の即時中止を命じ、将来再ぴ同様の事態が生じたならば、彼の役職を没収し、これを他人に与えるであろうと 威嚇的警告を発した。更に、郷主が不服従、騒乱、反逆を犯した揚合には、朝廷は中央から軍隊を派遣し、地方官や 他の郷主たちにも指令を発して軍隊を出動させ、これを鎮圧し、犯人を捕えて中央に送らせ、そして彼の役職を政府 に接収して、臨時に政府官僚をして管理させた。このような揚合、後日犯人の親戚・縁者の請願を受けて、朝廷は彼 ︵8︶ らに役職を返還する揚合もあったが、時には、これを全く没収して、王の恩恵に適した別のヒンドウに与え、その永 ︵9︶ 代享受を保証する揚合もあった。 ︵ 1 0 ︶ ︵1︶ 例えぱbωH鍔く〇一,ダ29嵩ρ..目勢げ一一魯囚招自げo昌℃Φ昌犀霧げo犀路5げ畠蓼三一一即く騨凶ヨ鈴昌o跨鋤ρ呂已ロ卸壁旨、 ⋮び甲ヨ帥げば薯o犀紹自づ騨昌萄げげoロ目国ρ言.昌跨ヨロq帥げ匠げ、§憶凱容詳勘.&画馨嫡誉ミ“R︸鼠罫9亀く節昌国げ一一饗目器犀帥同σ卸げ暮−一− 需旨犀器げ山弩<a曽β昌ミ↑≦卸げ∴−ヨ騨廿包−一−鼠忌σ爵笥奪箇一き餌−凶ムΦ名似午ゆ山.宣げ騨く鐵魯げ−一−日簿廿巴−一−犀げ欝似昌即甲学.卿ヨ凶3﹃血跨ゴー アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年i一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二一九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二二〇 警一盈瀞げoo﹃偉α勲げ暫警,、、 ︵2︶..。鈷日営山鶏餌震鳶ユ鑑昌奉ζ3昌÷里誉−一鼠P跨昏&呂﹃・.⋮塾轟一=壼鼠匡・・壁ホげ語昌,、、︵守一負く鼻 く鴇乞o一い。︶..鑓ヨ警÷馨急巨÷u霧細目器犀日旨呂畦冨擁差貯9−、三帥ヱー鐘鼠巳二一一欝警一旨壁−ωダ轟鼠、、、八旨具<o一■ダ 20﹂呂︶ただし、他の世襲役人も保証人を立てる必要があったかどうか明らかでない。 ︵3︶ 例えぱω○ρ<oピ<H一ど2ρOを見よ。 ︵4︶ b曽月<o一、戸乞08、.げ碧暫q匠げo伍胃壁鼠く騨廿巴胆げ−一国程巴含騨−凶め巨pげ臣器犀日σ民匡げ;、、及ぴ勅令の邦語試 ︵5︶、、⋮UΦ銀旨β<p竃后器鼠巨ぎ︵−一−評茜騨冨98αq︶⋮評茜きp巨欝犀日﹃げ騨ヨぎ器3N昌爵日聲一蟄⋮げp−富く弩昌−一− 訳白を参照。 のOω︸<o一、H<︸29認ごくo一,<︸20■N一、 ⋮H奪一帯肉副昌出鷺ヨま帥げω一三創即げ霧け白同げ鍔区巴け貯博旨暮謬陣、讐−苫。。ゴぎげ帥餌舞ぽげ帥呂や昌α⋮、、Hげ瓦‘<〇一■H月20■睾● ︵6︶ 例えぱbω囲餌く〇一’眉298︸<9目押28,5︸一弁oo9︿o一■<︸Z9目一● Hげ一F<o一﹂戸Z9ミ。 ︵7︶ ︵8︶ H互自こ<o一﹂月2ρN丼 9ρ鼠自簿b■<’目p≦㎞8a∴b禽量。謹、こミ罫馬じっ詳暮自§良評簿ミRb皇弊ミ”思08夢一8担2ρ一〇〇博やo。ωひ ︵9︶ ︵10︶ 第四節 郷主の勤役 直轄区で も パ ル ガ ナ 区 で も 、 郷主の職責は、﹁地域の耕作と繁栄に励むこと﹂︵く一一身暮−翁巨ゆ.曽ヨ日話浮翌ぎ という文言によって、一般的に表現された。換言すれぱ、納税者としての人民を生業に従事させ、そのた ︵1︶ ω翠酵”b︶ めに、人民の紛議を解決し、地域の治安を維持し、外敵から地域を防衛し、そして政府の命令に応じて敵領に侵攻す ること、即ち治安・防衛・司法・徴税が郷主の勤役であった。 ⑨ 治安任務 直轄区でもパルガナ区でも、郷主は自己の管掌区域の一般的治安の維持に貴任を負うた。そのために彼は数十名か ら数百名に及ぶ﹁手兵﹂︵冨日団.跨−一寒ま︶又は﹁自分の騎兵と歩兵﹂︵の鷺母ぎ奉菩昏似β÷窪P島︶を、自己の負担 で保持した。その際、各郷主が常時保持すべき兵馬の数或いは常時保持し得る兵馬の数が定められていたのかどうか ︵2︶ は明らかでない。然し、郷主は必要に応じてその兵馬の数を増員し得たこと、そして政府も、郷主による兵馬の保持 を自明の事実として認めかつ期待したことは明らかである。朝廷乃至は地方官から特別の指令を受けなくても、郷主 は常時地域内の騒乱を取り締り、紛争を解決する責任があった。さもなければ、情報に接した朝廷は郷主に対して勅 ︵3︶ ︵4︶ .︵5︶ ︵6︶ 令を発し、その怠慢を叱責し、直ちに善処することを要求した。例えば、横暴な村長や他の郷主を取り締り、越権や 反逆を企てた封土受領者を制止・抑圧し、或いは封土地域を荒した者を処罰し、更に、職分の上で本来上級者である ︵7︶ ぺき地方高官の横暴を抑止することをさえ、郷主は朝廷によって命ぜられた。つまり、地方官も郷主も、個別的に、 王に対する忠誠と勤役の義務を負うたのであるから、郷主が、一方でその地域の官僚や大封土受領者の指揮に服従せ ねぱならなかったとしても、それは後者が王に対する忠誠の規範を遵守した限りにおいてなのであって、もしも後者 が忠誠義務に違反した揚合には、それを摘発し攻繋することが、王に対する郷主の義務であった。 この郷主の治安任務についてもう二つの点を指摘しておきたい。第一に、彼は、彼自身の判断に基づいて、犯人を アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一=二 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二二二 ︵8︶ ﹁適切に処罰する﹂ことを公的に認められていた。第二に、彼は、地方官、受封者或いはその他の権力者による税や 金品の法外な要永や掠奪に堪えかねて、村民が逃散した揚合、一方で村民たちに対して、か、る不法事態を二度と生 ぜしめないとの﹁保証﹂︵彊β堅巳︶と﹁慰安﹂︵象匡鍔同︶とを与え、他方で彼らを郷村に連れ戻し、定着して生業 ︵9︶ に従事させる任務を も 負 う て い た 。 ︵1︶ 例えぱbω一田<〇一。H戸20■ひどくoピ428■一一ど嵩9猛O・ ︵2︶のOρ<o一﹂押Zo﹄8 ︵3︶ 例えぱ男ω一員<o一,員客o■卜。N㌃.囚a鋤ユ囲囚﹃ε島一︶8ヨ仁﹃陣白ε唱罰Oヰp三団,一,O包簿ポカo寓鼠⋮ユ鷺ぎく巴似ヨ帥、巴ゆ田 昌且筈匠げ因冨ロαo一一囚﹃o℃島昌ユ。り急ヱーωぎヨ似器呂同÷一一費3ヨN鑑諮団鼠.甲一−壽胃似び同÷<二ぞ暮旨叫ざ昌a養o 言βポ畠国冒昌毒ぼ.帥ヨ寄弩α替ユ鷺ヨ魯.費ヨ日写く臨旨π呂。・跨コ歪呂α彗ぎ喜巳曾お畦且昌げ、&守鴇伍,一,≦ 一身暮冒昌じ忠壁qu①弩爵団−一−筈。畠げ区。αq畳§擁冨一塁=婁・ま呂浮為げ毬昌く器.⋮.、、 ︵4︶ Hげ答︸<〇一・舅乞o・N即<o一,目押20幹昌︸斜oo・ ︵5︶Hげ一α・︾く〇一﹃戸客o﹄勢 ︵6︶H三山こく。ピ目︸29一∋くo一●く一20ω﹂い。。し8・ ︵7︶..評毒翠甚雌鼠堵冒よ匿躁ω鼠日旨津げ畳旨u馨轟昌−肖ε客撃ω一︵の器①ぎ︶ぎ浮−臼巷冨馨躊母 鼠、ω9鋤壼ヱ2p轟げ竃岳9鼠§き鼠雫9巨孚一−鼠↓旨ぎ÷毬腎絃β︿ぎ霧eα貰ぎ奉蜀鼠ム胃σQ穿⋮目o。。げき嘘a崔 匠げ⋮田鼠縞ω冨ヨ⋮フ︷ε弩玖毒臼ぎ区騨÷↓巴犀畠彗身帰昌9ゆ鼠白巷審旨器ざ吋餌ヨ帥α昌鼠ωげ&跨α謹昌ミ影﹃卿σ 暴ヨま昌旨器一凶饗凶協象く胃雷&昌器け−・欝β雪巨げ身毬匹げ富−<費。。孕寓貧・・ぎ−評且詳目器鼠㎏,眸,2げ,目鋤鼠↓ ≦鼠冨ヱ肖避冨白器冨魯伍①暮一旨民彗壁−鼠鼠&■ー−.、H窪山‘8一り目博2ρoN ︵8︶.、冨翁日奪急畦ぎ−翁㎎。践目弩び㌣品一菖訂自昌帥鼠.、︵Hび算く。一。戸2。■心。応。︶.、、⋮.>巨一ぎ奉u。鼠鴇泣−留艮o暮琶 ⋮鼠日三鷺目&<島孚寓鷺鼠β⋮鶴↓鼠冨菩の鼠目呼馨剖昌評摯−昌器呂寓似σ㌣α婁牙貧血昌げ鷺ρ&遭・■富巳 壁茜謬,一,旨ロ.騨一蜀σ㌣津のぎ昌畠。ら卸昌巨ぎの。跨巨弩話鼠象げ呂ヨ身の鼠家げ目ぎげ.&毎医−弓日鼠冨げ奉身昌 国慕日鼠,守の討呂、、・︵Hび具<。一,員29誤︶,.、鼠白三の畦呂毒畳−一−h簿§鋤昌⋮唐暮㊤目匿跨&ぎ目器犀費−鼠什畿同げぎ−鼠一獣 奉冨げ、輿旨冨日豊昏g−冨一÷奪ま鼠ω一鋒、、︵量“ぎ二戸2。﹂一︶。.、鼠。跨ぎ︵&蓼高蔦︶琶鼠亭鼠3g冨a昌 B嘗孚く巴爵目自菩ぎ冨−虜ぎ風昌冨−冨段÷さま鼠旨&⋮、、︵一烹勲ε一﹂月2ρ一“︶ー、.お胃冒鼠.帥a騨目器ざ同 冨日ま呂毒需畳鷺鋤昌似−鼠g琶ぎ3嘗田黄萄犀置匡目身註江げ暴冨写階鼠写留葺目器5擁げ跨団g苺甘 冨詩葺冨巨窪魯§壁一奉旨器畠臣ぎ萄賦α話けきげ跨路揖q匠げげ腎α紹跨冨詩跨皐犀即a昌げ午冨一÷寄置 鼠跨器.、︵H三山遺8一<.乞o﹂い。。y..9−奉召一−鳳貴鼠昌−嘱。ωげ語暮鼠o奉許誘o一同−誌げ甲畠す鼠酉α毒ぢ旨田 冨ヨま昌,奉2霧畠奉ぎ診奉艮§ら割貧冨∈巴犀三跨路.培ざ巴島冨昌3訂冨鼠彗ダB鐵匿−。島匹昌事費− ↓げ緯胃同器註−、、︵目げ一αこ<〇一,<︶客○﹂8︶. アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年 一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二二三 −篭・︵Hげ誌ぐ・一目層2ρ8︶●、、寄帰ヨぎ−習含﹃旨津ぎ−誉さ−○ぎ。。一鼠∪①鐘÷評茜き即と琶p萄似昌旨・・冨菖卿.琴一ー 蕊試下蕊罫−.箋§砺ぎ憶ミミ畢&罫蓉氏暮§亀Q養ご9§言褻§儀鼠暮轡ミ昏ン騒︸基慕試嘆ミ9.9奉尋ミ惣&警縞燵§﹄ 一募民欝冒目p旨年畦評邑ぎ話弓、曙田げa一蒔器匡昌び&貧賞津魯自昏臣鴛3鏑浮鼠呂&oげ巨.m5帥象壁α㌧§割身 −臣豊養函唇警。呂β自魯白慕ざ特匹弩霧里奪鷺ぎ騨の?鼠ロ器げ呂器塁雪㌣一も畦鵯壼げ旨器ざ﹃ω富邑三 島茜坤げ⋮導首冴塁ヨま昏旺げ昏養、昌冒巴÷評↓鵯壼ヨ器目特⋮犀巳鼠区琶藝替募−目薯げ−陣温貧導ぎ路玄ρ日呂卸協 ︵9︶、、寄器翠−切&日鴇津ぎ−圃巳σ・∪①路旨巳−評茜即壁○&彊似爵跨・の鼠凶窪三帥穿a日旨琶a亀ωp茜δげ⋮蜜− 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二二四 医署傍ぎ−目ロ岱協旨巳宝程N.昌u。奉蒔雪o毒竃器国豊国や一凪呂吋ーモ曾碧壁目器犀日鼠ム跨。q替−.跨N壁Bまき含 匹げげ甲く蓼冨甲陣−ぎ㎏.蹄旨−一ム魯鋤ヨ器犀日ヨロ鼠3旨呂目圃旨くき山・貰言げ.銭げ暫岳oげ<aげ臣言−巳−くεOげα碧ぎ 鼠昌≦冒げβ甲3ωぎ塁αゆミヘ盛ミ画蔑﹃.蔑鴇駄&暮良簿鼠醤麟.麟詳尋言き&嘗鼠目&,、、︵Hび一α‘くoド︿■20 一一一y .、司胃日帥ロ・・雀麟日旨津訂−一卿巳げ∪89警く騨Uo跨巳犀胃巳く国の鷲−日離ρ呂鼠ヨ餌昌−一b包蟄げのげ鋤げαξα⇔餅昌ざぽ・3ヨ一く巴鋤 鼠−鼠凝謬⋮↓o昌きαQ一時岳含巴げ9霧鴛α魯田帥.魯ヨ弩−一め、鉱費げ÷巨器吋日訂−︿錺9げ÷織客毒津墨ヱーヨ書国器鼠旨き旨騨− 一自鼠鼠奉げ、器①奪鷺鋤げ毒く巴藝一昌&替﹃、蹄旨団筥箕9零βρ奉冨鼓αQ雲α昌浮民昌冨断け昌餌巳墨畠9 鍔琶冒÷ゴ倦跨鼠匿a毒畠−目鶴旨.旨蘇号げ霧けげ胃αq謬犀旨団昌冨葺げ蓼げ&琶げ似冒げ鋤冨2一やぐ蔚冒呂犀げ日鼠げ ヨ団吋β壁β自毒昌魯實自簿巴ユ饗ヱー旨oヨ倒パげ≦鋤ゴ区。。げβ含:﹃.鼠鴇−蔦言−餐蕊“&脳辱貼器&﹃母器管鼠獣q&ミ費詳 蟹∼皇、−帖−欝罫ミ罫−帖肖副蓉ぴ臨ぎ鉢罫震魯ミ9智寒ミき醤ミ蕊蓉−喚§勢馨暮言ミ勘醤器醤きミ&言試象ε帖趣ミ費蔑魯詳 庸醤帖.−帆点器鼠ミ9、麟ミ尋言き融騨旨N§犠⋮⋮.、︵Hま“くoドタ客P一まy尚或る恩給村の織師が町に転居した時、その村 の村長が彼を呼ぴ戻した例としてHgF<Q一・メ客ρ総を参照。 口 防衛・軍事任務 郷主は、国内の反乱や外敵の侵入に際し、手兵を連れて出動する軍事任務をも負うた。直轄区の郷主は、その地の 管理官の指揮下に入るのが通常であったであろうが、時には中央から召命を受けて馳せ参じ、或いは中央から派遣 された武将の傘下に加えられる揚合もあった。高官に封土として貸与されたパルガナの郷主は、受封者の指揮に従っ ︵1︶ たと思われる。朝廷に接収されたパルガナの郷主は、中央政府の命令を受けて首都に参上したり、或いは中央から派 ︵2︶ ︵3︶ 遣された武将の配下に入った。 ︵4︶ ︵5︶ いずれにしても、多数の郷主が反乱の鎮圧や外敵との戦闘に参加した。そして武功のあウた郷主は、役得の増加を 認められ、或いは﹁恩賜の御衣﹂︵犀匡一.碧−一鼠犀匡擁又は犀匡一.暮÷昌鋤匡︶を授けられた。特にムガール軍勢の侵入に 対して善戦し、五〇〇名の騎兵を持つ資格と大臣の称号と一定地域の封土とを授けられた郷主も居た。 ワジール ジヤーギール ︵6︶ ︵1︶ bωH頃︾<〇一,H”之oψ轟ρ&︸く〇一、H劃20¢NρN辞くoド目押20ω,旨”嶺︾一9一〇一N♪舘’ ︵2︶ 例えばω○ρ<o一’くH℃299㌦.︾U菊帥犀げ蒔げ鋤器⋮︾βパ彦犀げ鋤昌:鼠一卿囚げ叫昌の卿ロロ幽国U①ω田b鴛艘9昌費U暫犀昌ヨ窃く国↓ 玄α卿昌騨山⋮婁蕊画ミぴ轡ミ惣ミ帖肉o罫画騨蕊馨題匙暮§ぎ蔦§養ぎミ帖楓簿禽勢帖aぎ墨げ筈冒跨εΦωロ碗魯昌げ箪一言似目げo萄 8咬呂蟄目ぎ客犀鷺言αq冨費旨零窪一の騨鴇国β槻弩。ヨε犀日−岩騨罫一鼠睡ピ勢ε。旨ε犀日魯冨器¢−、、 ︵3︶拐H餌く〇一﹂戸zoの﹂㍉9§o。9︿〇一。<層20¢誌甜一いp ︵4︶ Hげ崔‘︿oピ剥20ω.章︾轟9ぐ〇一■目一一Z89一〇〇一Nごくo一。︿や29誌タ ︵6︶Hげ一自‘︿oピロ押 Z o 幹 o 。 ざ o 。 o 。 , ︵5︶H9山‘︿〇一■H月2ρo。9<o一■く︸29累p 国司法機能 刑事問題に関する郷主の役割は治安任務の項で論ぜられた。此処でいう司法の対象は、民事問題、特に世襲役職や その他の権益に関する紛議である。 ︵1︶ ︵2︶ 紛議の当事者は、その地の地方官又は受封者、或いは郷主に訴えるか、さもなければ直接に朝廷に告訴した。直訴 一爵壁与ご署母︶解決することを命じた。即ち、地方官や受封者と並んで、郷主︵及ぴその他の世襲役人︶も司法機 を受けた朝廷は、その事件を、地元の地方官、受封者又は郷主に差し戻し、﹁隣人たちの証言に基づいて﹂︵げ㌣葺裁ρ− ︵ 3 ︶ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二二五 一橋大学研究年報,経済学研究 8 、 二二六 能を担当したのであるが、然し、﹁隣人たちの証言に基づいて﹂という句が示す通り、郷主自身の独断的裁量にょっ て是非の判定が行われたのではない。﹁隣人たちの証言に基づく﹂とは、具体的には、当事者双方、郷主その他の世 デ 襲役人たち、当事者の村の手工業者やサーピス人たち、及ぴ代表的農民などが集まり、それに通常は地方官僚も参加 して、裁判集会︵目且似冴︶を開き、紛議の経緯に通暁していると思われる人凌をして個別的に証言させ、これらの ︵4︶ 証言に基づいて、集会が集会の名において判定を下し、それを記した書類︵ヨ昌雷畦︶を当事者に与えることを意味 した。そしてか、る集会において解決し得ない問題は、当事者の間の﹁神明裁判﹂︵3く旨︶に託され、それを上記の ︵5︶ 如き構成を持つ集会が検視し、その結果を確認し保証した。つまり地方官や郷主の司法機能は、か﹂る集会を召集. 司会し、そして集会の裁定を権力の保持者として確認・保証することに限られていた。か㌧る司法制度については ︵6︶ 既にV・T・グネー氏の研究が公表されているので、此処で詳しく立ち入ることは避けるが、この地域集会の伝統は 恐らく古代インドにまで潮るものである。ムスリム征服王朝は、インドのこの伝統的司法慣行を支持し保護した。そ ︵7︶ の動機が何であったかは別として、この司法制度について三つの点を指摘することが出来る。第一に、か㌧る司法集 会は、屡々言われる如く、何らの国家権力も干与しない、純粋に﹁共同体的﹂な自己規整のための、・マンティック な集会であったわけではない。そこには、国家権力を代行する世襲役人が常に出席し、そして屡々数名の地方官僚も また臨席した。第二に、然し、注目すべきことは、か㌧る集会に国家権力が干与したということではなく、紛議を裁 定する裁判権が、地方官、受封者、郷主の如き特定の個人の手中に掌握されることなく、常に人民の多数の代表者を も含む集会そのものに持たれたということである。地域社会の確認と伺意を得ない決定は、先に例示した如く︵本章 第一節註︵n︶を参照︶、原則として無効とされたことが重要である。何故なら、本論文において徐々に明らかになる 如く、この王国では︵そしてインドの他の中世諸国家においてもほぼ同様であろうと思われる。︶封建的諸特徴や封建 化への諸傾向が他の面では見出されるにもかかわらず、司法制度において、いわゆる﹁領主裁判権﹂は成立しなかっ たことが、一つの大きな特色であり、ヨーロッパや日本の中世国家とインドのそれとを区別する一つの大きな相違で あろうと思われるからである。第三に、この地域社会の同意と確認が決定的な役割を持った司法制度は、一方で、後 ︵ 8 ︶ にも考察される如く、郷主の恩給村支配や、封土受領者の封土支配を大きく制約した反面、同時に、人民に対する地 域社会の強制力を維持し、人民の伝統的社会・経済秩序を存続させる上で重要な役割を果したと思われる。 ︵1︶bωH餌く〇一H︸290。’..⋮↓98目a冨跨ぎげげ助ひα帥一叫αQ一似く四α臣曙跨犀卸日冨旨αΦ同鼠甲≧9蕊ミQ§鳴§嫡b跨禽⋮ 覧譜鳶鷺罫郊旨ミξ薗昌&騨§薗論&勢亀尋尊ミ§卸蕊鳶ミ言罫帖ミ号勢§§富&獣醤ぎ斜貰醤暮ξミ鱒ミ§§群、、﹃ ︵2︶ 例えばHげ一負<〇一﹂芦2ρ命、 はそれを朝廷に訴えた。政府は事件を地元の郷主に差し戻し、..。。けo旨助げ畦の跨臨目÷号げB器犀日旨Poげ富山目鷺目騨楊臨 ︵3︶ Hσ一“<9﹂戸客ρ畠■或る騎士にムカーサーとして与えられていた村の村長が、村の土地を不法に占取した時、受封者 訂き嵐呂−一−ぎ毘ρ−一−冨く騨冨山伍ヨ魯&帥αく騨げげo鵯く暮昌・一−ω巴3鑑く暫畦似鼠ρ&号ヨぎ−ぎ響ぼ響胃鼠げ。。団日目器犀日 ユ賃ロげ巴騨α魯目器犀日ロロg身き島奉︸暮①一誉器吋冒−鐵ヨロ鼠留旨珠跨信q年け昌守3げきα︿臼冨ρρ−学目β畠ω田鼠匹山 犀弩盆げ鼠−蟄げ鋤暴ロα⋮、、と命じた。 ︵4︶ か㌧るマハザルの例としてωΩ酬く〇一HH”20¢曽oQ︾睾どく〇一・目ど20幹鴇ぎ総ρaぎ900いくo一・一ざ客09$℃・認ど く〇一■<目一乞o幹ざひO旧く〇一■<目ど2ρ刈9 アーディル・シャーヒi王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二二七 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二二八 ︵ 5 ︶ 例 え ば 目 げ 一 F く o 一 , < 月 2 ρ 一 ︵6︶<■りの毒曾壇ぎ∼&§&切窒鷺ミ県簿価ミミ§ぎ漁℃oo壼﹂30。’ ︵7︶ 例えば国跨αげ騨囚ロヨβα≧oo常ユ一”卜8蕊qS塁§ミαミ§﹄§&轟騨騒3U①一ぼ”這総︸Oげ鱒や<, ︵8︶ 一八七九年ロシヤの歴史家コワレフスキーは、ムスリム時代の北インドにおける﹁封建的﹂諸特徴を論じた際、﹁封建制﹂ 概念の四特徴をe恩貸制、⇔托身、㊧官職の賃貸、㊨家産的司法となし、この四特徴のうち最初の三つはインドにおいても存 在したのに対し、第四のそれはインドに存在せず、インドの司法制度は人民集会によるそれであって、このことが、インドに おける封建制の展開を、西欧におけるよりもゆるやかなものにした乙と、更に、第三の﹁官職の賃貸﹂でさえもインドでは限 られた事例しか見出されず、一般に中央集権的官僚制が普及していたことを論じた。≦留Uき芭↓﹃o旨oコ、ミ費騨ミ誉 ﹄蔑言︸首肉。﹄鼠巳身§き韓象ミ撃&’げ図舛Oo巳げ8P勺ユロ88ロq巳<o誘一芝b器ωの弘39や一ミ9 ㈲徴税任務 以上に考察された郷主の治安・軍事任務及び司法機能は、直轄区でもパルガナ区でも基本的に同じであったと思わ れる。然し彼の徴税任務に関しては、両種の行政区画において重要な相違があったと見えるので、まずバルガナ区域 の郷主の徴税任務から考察する。 先に指摘された如く、パルガナの支配には三つの方法があった。第一は、パルガナ全体を高官に封土として貸与し、 彼の一円的支配に委ねる方法、第二は、パルガナの一部を中級官僚の小封土として分与し、残りの部分はこれを中央 に接収し、郷主をして統治させる方法、第三は、パルガナ全体を朝廷に接収し、郷主に統治責任を負わせ、そして中 央から監督官を派遣して郷主の行政全般を監督させる方法である。第一の一円封土と第二の小封土とにおける徴税方 法、それと郷主以下の世襲役人との関係は、後に封土について考察する時に検討する。此処では、第二及ぴ第三の、 臨時に中央政府に接収されたパルガナ又はその部分における郷主の徴税任務を見る。 か㌧るパルガナ区域においては、郷主が徴税権と納税責任とを保持した。勅令の試訳日にも示された如く、パルガ ナの戦争税は﹁上記パルガナの郷主が集めて御前に送る﹂とあり、そして郷主は﹁国庫に納めるぺき徴税額﹂︵堅阜 ご ぜん 5莫げ≦a歯ぼ温冨山㌧似B一声︶を各村から集めて、﹁御前﹂︵国自日︶や﹁朝廷﹂︵U舘αR謬︶に送るよう屡々命令を受 ︵−︶ ︵2︶ けた。勿論か㌧る命令の中には、単に﹁御前﹂や﹁朝廷﹂ではなく、別の送り先を特に指定した例もある。 徴税に先立って郷主は郷書記と共同し、そして各村の村長及ぴ村書記の協力を得て、各村の納入すぺき税額を査定 ︵器口9菖︶し、その結果を中央政府に報告した。中央政府はそれを検討して、﹁徴税額の決定﹂︵す日習程島︶を行な い、それを郷主に通告した。この決定額を郷主は各村の村長をして徴収させ、それを一括して国庫に送った。大体以 上の如き手続きを経て徴税が行われた。 ぎロ 郷主の徴税任務についてもう二つの点を指摘しておきたい。第一に、パルガナに対して、軍隊やその他政府活動の ために特別に賦課された物資を調達し、政府の建築事業や資材運搬のための夫役人足︵げ圃跨︶を徴発し、或いはそ ロ の代りに代金を徴収して、労働人足を召集し、それに賃銀を支払って、政府の指定した揚所に送ることも郷主の任務 であった。第二に、臨時の夫役人足ではなく、継続的に一定数の兵士︵菩ω鼠日︶を政府に供給するために、即ち徴 ︵5︶ ハ ロ 兵請負人として、一定の村の税収を与えられている郷主も居た。 要するに、臨時に中央政府に接収されたパルガナ地域においては、郷主は徴税権と納税貴任とを保有した。ア一れに アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二二九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二三〇 対して、王の直轄区では、後にも指摘される如く、管理官が徴税責任者であった。そして勅令の試訳ωが示している 如く、直轄区の徴税官︵日菩畳山母︶が、諸村の税を徴収するために派遣された。即ちここでは、徴税権は政府官僚 の手中にあり、郷主 に は な か っ た 。 然し、直轄区の郷主は徴税に全く干与しなかったのではない。例えば、シャーハドゥルグ城区の管理官及ぴ事務官 たちは、﹁上記地域の治安のための必要事項、︵担税額の︶配分、その他の諸仕事、裁判等々を、彼︵郷主︶の同意を 得ないで行なうな。⋮⋮彼の名誉と規則を適切に理解せよ。﹂︵日ロ匡営目碑−一げ舘緯話叶四傷ぎ話げ.舘①薮旨卸毒 巨ロ諺旨奉竃甲繊雷−一−≦一母魯目器犀日げ午oqげ巴﹃詳江賠ρ−一虫霧鼠ユ一幽甚㎏蟄くぎ歪aき塁−鼠富区奉−廿弩巳堕↑島臨 ハマレ 奉息.箆ま白器げ騨−苧鉱げσ鎚−毒菅鼠蜜民⋮︶と王によって命ぜられた。またサンダラープール管轄区内の諸村の村 長が連名で管理官に請願を提出し、同管轄区内で地域間の税率が不均等であるとの事実を指摘し、それを均等にされ るように訴えた時、管理官は、﹁この税率に従って徴集することについて郷主の同意︵∪。ωげ日爵藍。鼠犀葺鼠︶を得 ご ぜん たので、その旨を既に御前に報告した。︵御前の︶許可なしに︵税率を変更して︶徴税することは出来ないから、こ ︵8︶ の件を︵改めて︶御前に報告し、御返書を得てから、貴君たちの意向に副うようにする﹂と答えた。 要するに直轄区では、郷主は徴税権も徴税責任も持たなかった。然し、担税額の配分や税率の決定には郷主の同意 が必要であった。 ︵1︶ 例えば勺力H戸くo一目ど28﹂ざ象、ひ怠コ、 ︵2︶ 例えぱ郷主は、国庫に納入すぺき金額の一部を﹁銃隊﹂︵げ胃溜β島蔚似ロ︶に送った揚合もある。Hσ一ρ︿〇一﹂月29冨・ ナカル ︵3︶の8毫典く目︸客亀■﹁写し﹂,..寄巳鼠目卿鼠鼠B⋮浮路奉・6。玲巳冨ヨ闘評韻呂①国爵豊⋮鼠一けロ目ぼ国爵毘 鵠臨9①覧8αq巴a霧けげo冒げ。畠鼠臣窟曾一げoけな劉ε巨岳評琶囚巳臣β闘話壁岩=。犀騨自ま窪似の同師。冒 ぴq帥oロo巨く卑路糞犀貧⇔Pロ:ひq似o目o営一鋤くロ鴬器渉o酎嘗犀暫壁帥昌自鎌葛ω遭犀鍔すヨ鋤げ騨昌禽oげ①山鋤目⋮目謀犀o一〇・;欝蔑恥&9諄鵠 &慰騨爵ぎ息“ぴ塁蝕忌§G。88麟慧訓ξ辱℃圃勢爵帖映ミ岱弊騒爵窒溶ε§噺旨言慰93籍醤碁ミミ曾﹃⇔罫ミ&き§騨劃、、 ︵4︶ 例えぱ、郷主は、土地の商人達をして騎兵隊のために穀物を運送させることを命ぜられた。その際運送を監督するために、 中央から官僚が派遣された。この揚合、これらの商人は通関税その他の支払いを免除されたが・政府が穀物の代金を支払った ︵5︶Hげ一山こく〇一一戸20,軌頓、 のかどうかは記されていない。℃段匡・<〇一・目押乞o・認・ ︵6︶一げ苓■くoH一戸20甲o。一。 ︵7︶ 一げ一3く〇一・ドZ9旨Pこの郷主は、郷主職の他に、郷書記職、城下町の市揚地書記職、及ぴ市揚地長補佐職をも兼任し デ サドイじ マハドジヤン ヂロ ドリロ ていたので、この勅令には・これらの役職の名が連記されている・ ︵8︶ ω○の<oピ図︻、20一℃9ゆ象、.⋮8葛鷲p目習①㎎げ①菖Φ℃似げ二Φ目げ騨昌費ロ昌山Uoω目O犀げ餌畠叫犀彗げ卸騎げ呂ロ国εβ旨 貯げ蓼σ曽一一ぼ目轡oげ巴団9ヨ三ヨげ讐一鼠一〇⋮⋮言昌岩げ蓼①窟普国ε弩⇔ごぼ一①四げoげ田閂げ夷貧声稼跨ヨ巴寄ユ萄けミΦ 冤①鼠σ。国εロ旨旧魯・呂蛍畠げ習器呂g日。冨犀鼠野蕊書冨讐昌賓①鼠σ①昌目匡寄岳ヨ三鋤げ癒壁互①・、. 第五節 郷主の役得 右に考察された勤役に対する報酬として郷主は一定の役得の永代享受を、王によって承認され保証された。 郷主の アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二三一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二三二 役得は、普通、管掌区域内の数個の恩給村︵β、餌日暗目︶及び若干の恩給地︵ぎ.似目鑓目ぎ︶の領有権と、管掌区域 内の各村からの種々の取り分とから成っていた。然し、役得は、原則として王の﹁恩恵﹂によって承認され、保証さ れたものであるから、その規模についてすべての郷主に適用される何か一定の基準があったとは思われない。むしろ、 時、所、郷主家族の国家的功績の度合、王及び王朝の財政的・軍事的・情緒的諸条件などに応じて、恩給の規模は郷 主.ことに異なったと見ねばならない。従ってここでは、恐らく典型的と思われる一例だけを示し、その後で若干の点 を考 察 し た い 。 タルフ ローヒラー城区内ボール地域の郷主力ーノージー・ジェーデーは、一六〇八−九年に、この地方を領有していたニ ザーム・シャーヒー王朝によって、同地域の二ヶ村を、その全税目︵匿巳鼠げ︶及び慣行的な全費目︵犀巳ρぎ冒︶と 共に与えられ、その他に、同地域の各村からの小額の取り分︵冨βす鈷臥日帥︶とω響ぎ霧跨圃︵意味不明︶とを公認 された。彼の右の恩給は一六二八年同王朝によって再確認された。一六三六年この地方はアーディル・シャーヒー王 イナーム ︵1︶ 国に併合された。その際同郷主はアーディル・シャーヒー王朝のために功績を立てたと見え、一六三七年ムハンマ イナしム ド・アーディル・シャーハは、もう一ヶ村を、その﹁全税目︵犀三鼠9と全費目︵犀巳くε爵理︶﹂と共に、恩給とし ︵2︶ て彼に永久に与えた。続いて一六三八年、王は同郷主が従来から占有︵げぎ撃く暮昌︶していた他の一ヶ村を、側近 ︵3︶ の高官の推薦によって、彼の付加恩給村︵訪跨暮鳳o巳として確認した。そして二年後、一六四〇年に・ーヒラー ︵4︶ 城区の管理官、事務官たち、郷主たち及び役人たち︵︾匹匡犀弩なぎ︶に対して次の勅令が発せられた。 ﹁同城区のボール地域の郷主カノージーは−:朝廷に対して請願した。﹃かって︵ニザーム・シャーヒー王国 の宰相であった︶マリク・アンバルの統治以来、市揚地を持つアンボーラ村とカーリー村の二ヶ村、そして現在 バしザドル の︵アーディル・シャーヒー王朝の︶恩恵によって、同地域のチーカルガーオ村とナータンビー村の二ヶ村、合 計四ヶ村は、ニザーム・シャーヒー王朝の勅令と現王朝の勅令とに従って、全税目︵犀巳鼠σ︶、全費目︵犀巳く孚 廿げ警︶、その他の慣行的取り分︵の冴舘ρぎ勾ロ響︶、種々の取り分︵宣鼠註日騨︶、及び諸徴収︵す旨回.叩一と蓼冨 イナ ム 奉冨岳猛︶と共に、私の恩給として行われています。これらの他に︵地域内各村からの︶小額の取り分︵冨£ 狂くぎぎ騨︶、布の取り分︵冨鼠冨90昌︶、ωぎ①舞臨︵意味不明︶もまた︵私の役得として︶行われています。 然るに現在、︵同地域の︶駐在所は勅令を否認し、妨害を及ぽしています。そして、︵従来︶上記の諸村が年た支 タ む ナ 払ったことのない諸税額を要求し、迷惑を与えています。御一考下さい。﹄上記諸村及ぴその他は、ニザーム. シャーヒー王朝の勅令と︵本王朝の︶吉祥・神聖なる勅令とに従って、︵彼の役得として︶行われるぺきである にもか﹄わらず、駐在所が勅令を否認し、妨害を及ぼし、︵上記︶諸村が支払ったことのない諸税額の理由で迷 惑を与える理由は何か。それ故⋮⋮勅令を受け取ると同時に、市揚地を伴う上記全四村を、全税目、全費目、そ の他の慣行的取り分、種々の取り分、諸徴収と共に、そして︵地域内各村からの︶小額の取り分、布の取り分、 の酵Φ路昌、その他と共に、ニザーム・シャーヒー王朝の勅令と吉祥・神聖なる︵本王朝の︶勅令とに従って、上 税︵塁犀警冨鼠︶、井戸水灌概税︵鋸犀穿げ§今げ︶、未耕地追加耕作税︵9鱒弩<9昌︶、椰子の実税︵げ号蚕葛、 記郷主の恩給として確認されたものと理解し、︵彼に︶与えよ。更に、現在あり又は将来造出されるであろう購入 ︵5︶ 靴税︵冨ゼ8露︶、饗応税︵誉ΦN鼠巳︶、壁βωo一げ巴︵意味不明︶、債務弁済税︵穿畦呂富葺良く分らぬ︶、戦争 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に閥する一研究 二三三 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二三四 税︵冨轟冨民︶、贈物︵需跨匿ω嘗︶、5ρ器身目蟄話甘無旨群.昌注Φ臣騨︵意味不明︶、マンゴー税、︵讐げ畦田︶、 マハール賎民のサービス︵冨8く騨︶、大工の納める寝台︵℃巴き頓ω葺騨︶、材木︵の跨︶、罰金︵αq毒富︶、商業税 ︵日ロ馨胃診︶、夫役︵げ9毒σ茜跨︶、貢物︵鼠↓目田昌︶、その他の現物税︵磯げ臥寅ぽ巨普蕊日︶、パーンの葉 ︵冨3旨①巳︶、及びその他の諸税目︵げ、舘①鼠σ鼠︶で、上記諸村から生ずるものはこれを彼に与えることを命ず る。今後妨害を及ぼすな。どのような仕方ででも異議を唱えるな。彼の後には彼の子と孫に行わせよ。この点に ついて異議を唱える者はすべて朝廷の罪人と見倣されるであろう。年々勅令の更新を要求するな。写しを書き取 って、勅令の原文を︵彼に︶渡せ。神聖なる勅令の命令を実行せよ。⋮⋮﹂ もう一つだけ加える。右の勅令の日付から二ヶ月半後に、同郷主は、他の一村の黒土耕地六タンカ︵その正確な大 きさは分らぬ︶を、それから生ずる現物税︵巨菩梯包︶、現金税︵壁琶ぞ理︶、小額の取り分︵冨巳.鉱−一零ぎ巨理︶、 夫役︵げ魯養σ碍似目︶、貢物︵胤貧日細診︶、債務弁済税︵犀げ震畠冨鼠良く分らぬ︶、器ぎ巴︵意味不明︶、井戸水灌 概税︵鋸謡ヱ占自島︶、未耕地追加耕作税︵。置試才9昌︶、け昌9暮自︵意味不明︶、椰子の実税︵σ①一①寮ε、戦争税 ︵すお冨鼠︶、贈物︵需跨犀霧げ︶、靴税e卸な8寓︶、饗応税︵目雷鼠a︶、その他現金及び穀物の付加税︵の身跨魯くき, 代恩給﹂︵ゴ.卸菖−一菩巳︶として与えられた。 や壁ρ岳毒︺ゆ目器︶など、﹁現在政府の台帳に記載されており、或いは将来造出されるであろう全税目と共に﹂、﹁永 ︵6︶ 右の例に基づいて次のように言い得る。 8以前の王朝が承認し保証した役得は、後の王朝もまた通常これを承認し、保証した。﹁ニザーム・シャーヒー 王朝の勅令に従って﹂という文言がこのことを示している。 ⑭ 王は、特殊な功績のあった郷主に対して、恩恵を与えて、時折りその役得を増加した。 国 この王国では、驚くべき程に種類の多い、多様な名目の税が徴収された。全く同じ種類の税が、王国の全領域 において徴収されたわけではないけれども、右に類似の名目の税は、王国の他の地方でも見出される。これらの税目 の中には、意味の不明瞭なものも多い。 四 然し、ここで注目すぺきことは、税目の多様性それ自体ではない。むしろ、各税目についての取り高も、役得 ︵7︶ 全体の量︵額︶も全く明示されていないということである。即ち郷主の役得は必ずも定額乃至定量ではなかったので ある。つまり郷主は、恩給村及び恩給地における公認された税目、しかも殆んど全部の税目と、管掌区域内の各村か らの若干の取り分とについて、いわぱ﹁任意徴収権﹂を授与されたわけである。勿論、この役得収入は、その地域全 般の国税徴収率に準じたであろうことは推察され得る。然しここで重要なことは、郷主臆、王のためにではなく、自 己のために、人民の支払い得る限界まで役得を徴収し得る特権を授与されたことである。徴収が過重なる揚合、それ に対する人民の抵抗手段は、朝廷又は地方官憲に対する直訴嘆願か逃散以外にはなかったであろう。か㌧る揚合、朝 カウル デイルダドリに 廷は、後に指摘される様に、地方官に命じて、郷主の横暴を抑止させた。また郷主は、村民に対して、か㌧る事態を 再発させないとの﹁保証﹂と﹁慰 安﹂を与えねぱならなかった。そうした上でではあるけれども、同時に彼は、逃 散した村民を、既述の如く郷村に連れ戻し、耕作に従事させる強制力をも保持したのである。 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二三五 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二三六 国 郷主が授与されたのは、単に恩給役得の徴収権だけではない。﹁村︵又は土地︶を、税目と共に﹂という文言 が示すように、郷主は、恩給村及び恩給地に対する一種の領有権をも保持した。これを領有権と呼ぶのは、郷主は、 自己の恩給村の人々に対し、そして恐らくは思給地の耕作者に対しても、或る種の支配権を公的に承認されたからで ︵8︶ た他の郷主の恩給村の村長、村書記及び人民は﹁孫子の代まで彼︵郷主︶の命令に従い、︵彼を︶尊敬し続けるよう﹂ ある。例えば、郷主の恩給村の村長は、特に﹁郷主に仕える﹂︵Uo旨ヨ爵冨o露o鼠す一匿甘3︶者と呼ばれたし、ま ライヤ三了 ︵9︶ 攻府によって特に命ぜられた。即ち、彼らはもはや単に王に仕える村役人や臣民であっただけではなく、同時に郷主 に仕える村役人及び領民でもあったのである。 因 それでは、郷主のか㌧る領有権は、もっと具体的にどのような内容を持ち、そしてどのような制約を受けたの であろうか。第一の内容は、先述の如く、恩給の徴収を実現するための、各種の強制権である。即ち、村民を定住さ せ、生業に従事させる権力である。第二の内容は、恩給授与権である。即ち郷主は、その恩給村における既存の村役 人の恩給地及びその他の役得収入を増加して与えることが出来た。そしてこのようにして増加された村役人の役得は、 ︵10︶ 政府も当然にこれを承認した。 同時に、郷主の領有権は大きな制約をも受けていた。即ち郷主は、その恩給村における既存の村役人の役職と役得 を、原則として侵害し得なかった。村役人の役職と役得は、既に述べた如く、王権によって保証され、そしてか、る ︵n︶ ヤ ヤ ヤ ものとして地域社会によっても確認されたものであったから、郷主といえどもこれを侵害することは許されなかった。 既存の役職・役得だけではない。郷主が、恐らく彼自身の恩給取得の一部を犠牲にして、恩給村の村役人に与えた役 ︵控︶ 得でさえも、それが一たぴ政府と地域社会とによウて確認されると、もはや何人もそれを侵害することを許されなか った。敢えて侵害しようとすると、村役人はこれを政府の地方官に訴え、近隣諸村の代表者を含む裁判集会を開催し てもらい、自己の権益の再確認と再保証を受けることが出来た。つまり郷主の領有権は、インド固有の司法制度によ ︵13︶ って大きく制約されていたのである。 ただし、役職の保持者の権益ではなく、恩給村の一般村民の地権と郷主の領有権との関係はここでは論じ得ない。 ︵1︶ ωOρ︿〇一、員2ρ8騨、、⋮U塁Bロ犀け舘一鼠σ暮団客轡εo>昌げ○審犀巳げ翠パ三犀四ββ︿坦咬器凶魯P鋤げ胆空ど一目鋤く騨路ぽ身o 路臨く陣℃巴卑犀竃卑ε①凶警囹・:げ暫q包ぼ箇目UΦのヨ卿犀び℃紐層吋:、、。 ︵2︶bのH餌くo一■H”2ρ酵..囚きo旨冒穿卿u。路−一−↓ゆ誌切げoヱめ.毘昌目器観日⋮目暮目即aぎ−鼠鼠隔.山路寄け昌庄鼠− げ鴛ぎ設雲N、騨0げ弊巴暗8−一め、巴昌旨器犀日α胃<aげ首.帥臼−一因琶魯Uo置目器犀日巨跨昌帥ヨ暮︷鷺露ま昌鼠鼠一ま讐 。。げロ鍔げ器け臣同げぞ&ざげα①げ日器犀日巨.帥犀巳鼠σ毒パ巳奉冒鼠けユロロ鼠﹃ロロ目身目自⋮,、、 ︵3︶H獣山‘<oド押Zρ鼻..⋮ソ︷窪Nがヨ器犀日︵2鋤鼠昌寓︶畠自ぎ畠魯鼠−臨げ騨け奉U①籔同目器閃日浮お9昌β鼠揖斡 げ甲げ騨目鋤昌5臨ρ目μρ貧雷擁団霧目ゆα費げωげβα即げ器け⋮,、、 ︵4︶ Hげ置‘︿〇一●ど2ρ鼠 ︵5︶ この史料集の編者G・H・カレー氏は、o匡パ弩は恐らく、村の未耕地を耕してそこに稲を植えた農民が支払った生産物 の一部、く①3げは、何らかの理由で耕地の一部が低査定されたのを補うために、他の一部に課された追加税を意味したと推定 しているが、正確な意味は必ずしも明らかでない。 ︵6︶bωH餌<〇一高︾20﹂9 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二三七 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二三八 ︵7︶ ここで使用した勅令の中で、郷主と郷書記の現金役得額が明記されている例が少くとも一つある。即ち南カナラ地方のホ ーレーホンヌール・パルガナの郷主職と郷書記職は、ハヌマント・ガウダという人物が保持していたが、彼は、郷主職及ぴ郷 を承認されていた。Hげこくo一HHH129轟 書記職のために恩給村をそれぞれ一つづつの他に、郷主職の現金役得として三一ニホン半、郷書記職のそれとして三〇〇ホン ︵8︶の0ψ<〇一﹂員29鴇ド、、⋮け三言野轟畠冨ぎNα自奉爵鯨9寄ごδ犀旨の窟ぎ一。鼠鼠毒パ一蚤9貧寄餌言 b馬§トミ巾ミ§簿帖魯更ミ帖導ミ喝昌ミ麟ξ恥ミ§ミ琶ミ婆ミぎ§ミ帖ぎa鵠§恥§、亀勢慧。、、 ︵9︶Hび一qこ<。一・≦2。﹄騨.、ε象語ロ困一。ω涛p&畦の且日h顕︹薯=酵ヨ鼻呂騨旨豊奉5一寄邑毒邑図四菖 三帥ε①国巳αq&団望艮ω巴αqぎ日匹一。ヨεざ7島鷺くε−幹旨一茎ωく①爵讐四︹ぼe。里評茜き巳の践茜毒乞匿ひq程島 囚自Φ営a犀ゆ牒︶、習岳昌ぞ簿ω似げoび犀鋤ヨ鋤く帥弓剛路げ詳αΦ悶げo昌勾蜜費εo旨ε犀日犀巳げ鋤σ犀覧犀緯旨言卸ヨ琶跨げやヨ翼同犀Φ鼠 霧①§騨亀母&画璽§ぎ㌣ξ象&&象舘睾喝鼠画こ画罫匙e鋒︵薗黛︶、、 ︵10︶一烹F3一﹂耳2ρ鴇丼..⋮■躊ど剛ゆ鼠烏厨零oζ3目竃暫ε。>呂砦且。一路鼠謡U霧げヨ爵げ旨巴轟ヨ馨同竃o冨魯旨 日aざ鼠の轟ぎ9ぎゆα2養詩鼠9監一鴇魯旨冨冨富一〇鼠馬奉犀鼠g鷺冨β犀ヨ。︿紹巴。○ぼ呂毒一①浮豊一 ぎb馬終§§ミ§罫璽斜罠昏尉蔚§Nぎぎ9﹄、、 ︵n︶ 新たに郷主の恩給村として付与された村には、既存の村長が居続けた。例えば、ボール地域のチカールガーオン村は、既 述の如く、一六三七年に郷主力ーノージー・ジエーデーの恩給村として与えられたのであるが、その村長の名は、一六一六年 頓oo一︶。 にヒロージー・ドーンドーであったが︵ωOρ︿oH口督20娠ま︶、一六四三年にも同人が村長をしていた︵H玄Fく〇一h月客9 ︵12︶ 郷主によって付与された、恩給付の村長役職を地域社会の代表者たちが確認乃至再確認した例として、Hげ一ρ︿9■<戸 客ρ8を参照。..⋮弊ξ翁鳩§醤噂9§蕊褻ぎ謬書ミ9論噂ミ§恥蛛ξ翻良ミ&9舞犠き§趣嫡蓉暮鼠9韓帖脳象言言ぎ馨薗§b跨N§薗壽 の§9§ぎ息言窯圃ぎ⋮⋮冨β旨9卿℃一①瞬①臨日巳o菩一〇函凶&冨け雷ぽ跨℃巴Φ鼠一同冨β嘗弩卿魯蹴嵩忌三一〇筥ゲ舘一程昌 暫ユぎ鼠民ミ母鼠器§§ζ麟ミ蕊魯翫罫恥﹃ξ薗醤ξざ§q§暮&ミ言蕊醤&画鼠蔓ど奉昌昌零費εΦ簿ε5まぼ話路言江く鷲 昌a鷺畠呂口尊ξ翻旨§9象醤ミ蕊専−e§§ミ虞副身馨魯ぎ導ミ爲鵠9寒遷9§舳ぎ⋮.、. ︵13︶ 郷主によって付与された村長役得について紛議が生じた時、地域集会がそれを裁定し、役得を再確認した例として目露“ ぐ〇一﹄月客ρ鴇Nを参照。、...,言似ヨ暮団旨鼻卑鼠ヨ ぎ∪題訓韓§試簿璽漸e&帆蜀獣良鵠書ぎ&け鴇く鷺同昌署鋤犀匡呂ユ田鋤ヨの凶 崖ε日鴇ゆ昌ヨ巴Pヨ萄一〇鼠臨U騨吋且剛累o蓋魯目:げげo鳴奉岱ヨき留鋤且鼠の巴轡畿oげ卿主①似冨 ぎミ馬魯ミきぎ∼暮ミ帖 導副薗§旨鱒ぎ勢母守・■、、 第六節 郷書記︵U⑦旨ざ一ζ旨一又はU①旨冨且Φ︶ 郷主と共同して、一定地域の徴税と司法に参与し、種々の記録を書き、それを保管した世襲役人が郷書記であった。 郷書記の仕事にとって筆記能力が不可欠の要件であったから、この役職は、既に述べたように、バラモンによってほ ぼ独占されていたと思われる。 前に示した如く、直轄区とパルガナ区とで、郷主の徴税任務には大きな相違があったのに対比して、郷書記の役割 は、両種の区画において、基本的に同じであったと思われる。例えば管轄区の管理官は、﹁税の査定︵鍔p9巳︶、要 ︵1︶ 求︵“巴ぎ︶、徴収︵鼠富ε、記録︵日菩罫畦︶、削減︵目鋒↓εぴ︶、その他︵の仕事︶を、彼︵郷書記︶の同意を以\っ ︵2︶ て︵鼠昏崖8−一〇︶行うこと。彼の諒解なしに︵訂桑3窪−一〇︶、決して徴税︵、即ヨ巴︶を行うな。﹂と王によって命ぜ アーディル.シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二三九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二四〇 られた。朝廷に接収されたパルガナでも、後に考察する一円封土として貸与されたパルガナでも郷書記は、郷主と共 ︵3︶ ︵4︶ 同して、各村の税を査定し、徴収した。また地域集会において、その裁定書乃至は保証書を筆記したのも、普通は郷 書記であった。 か㌧る勤役の執行に対して、郷書記は、その管掌区域内に、郷主の役得とは別個に、規模において郷主のそれのほ ぽ半分に相当するかと思われる恩給役得を、王権によって承認されていた。その恩給村及ぴ恩給地における郷書記の ︵5︶ ︵6︶ 支配権は、郷主のそれと基本的に等しかったと思われるので、ここでは繰り返さない。 一つの点だけを強調しておきたい。郷書記の役職と役得は、郷主のそれに附随・隷属したものではなく、別個に王 権によって承認され保証された役職と役得であった。それ故、郷主といえどもそれを侵害することを許されなかった。 ︵7︶ 郷主と郷書記は、それぞれ別個の役職の保持者として、互に協力して、王国に対する奉仕に精進することを要求され た。 郷主制と同じく、郷書記制の﹁祖型﹂もまたムスリム侵入以前の古代に存在したかも知れない。然し、郷書記の役 職と役得が、原則として郷主のそれとは区別されたものとして確立されたのは、恐らくムスリムの征服以後ではなか ったかと思われる。既に述べた如く、ミーラース︵又はワタン︶やイナームというムスリム用語が、この点を示唆し ている。若しもそうであるとするならば、ムスリム征服王朝は、一方で、郷書記の役職を郷主のそれから独立のもの として承認し、これに対して郷主のそれのほぽ半ばに達する大きな恩給役得を付与して、これを厚遇しつ\他方で、 地方支配の主な内容をなす徴税業務を郷書記にも分掌させ、郷主との協力を要求しながら、同時に両者を相互に牽制 させたのではないか 、 と 思 わ れ る 。 地元出身の土着王朝にとっても多かれ少なかれ同様であろうけれども、特に外来の征服王朝にとっては、日々の異 教徒支配のために、原住民の有力者とその支配力に大きく依存せざるを得なかった。か㌧る地元の代表者として承認 され、ヒンドウをしてヒンドウを支配させるために機構化され、活用されたのが、世襲役人制度、中でも郷主と郷書 記の制度であった。ムスリム王朝は、一方で彼らの役職・役得を永代不可侵のものとして承認し保護して、彼らを厚 遇し、同時に、徴税・治安・その他行政全般にわたって、彼らに大きな貴任を負わせた。しかも、彼らの役職を相互 に別個のものとして保証して互に牽制させつ﹄、反面で伝統的司法制度を保護して、彼らの恩給村における﹁領主化﹂ の徹底を抑制したと言うことが出来る。 ︵1︶ 原文では・最後の綴りがアインとなっているが・か㌧る単語は辞典に見出されないので・ガインの落点した誤植と見倣し た。 ︵2︶bの田︸<o一﹂月2ρひ。。な、⋮奉器昌。巨同轟琶呂話富富ロ蚕目国鼠N跨声目鉱旨、⋮奉げ.器o鼠−ま齢ρ−一・o μβ日鋤園の昌αげo−<塾ρ卿隔÷o.騨目巴国卑審ロ㌣閃ロ昌暫昌自⋮、. ︵3︶ 例えばωOρ<9・<目どZgOを参照。 ︵4︶ 例えぱHぼFげ〇一■督乞ρaを参照。 ︵5︶ 例えぱ或る村における郷主の恩給地は一チャウル︵一二〇ビガ︶であったのに対し、郷書記のそれは半チャウルであった アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二四一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二四二 ︵Hげ一“<〇一。<H月客ρo。♪℃つ3ヒひ︶。尤も郷主と郷書記の役得が互に殆んど等しい場合もあった︵勺ωH頃<〇一,H昌2ρ轟︶。 ︵6︶ 例えばb曽坦く卑押乞8ーρN一∼μNo。旧<o一﹂戸20ひo。 く〇一、ダZρ二Nを参照。 ︵7︶ω○ρく〇一,≦戸29ひN■.、⋮9ヨ三︵uΦω四一︶く簿一揖算く魯閏畦剛詔鼠︺一uΦ許巳冨邑勺鷺撃養e器5ユ①匡く降団奉暮 け旨畠Φg筥。げΦb彗騨きの巨魯。鼠一一衝翌。鋤δ卿εヨ募のな蓼冨昌旨巷ロ巷蟄げ鶏ざ嘗。。蔚萄島け①ω暮峯巨鋼巳鼠旨匿ご① 梓鷺団訂≦一菖く雪縞o冨創げ鷺ヨ魯塁く冨蔓鋤oぎ器ヨ匿ゴ雪轟犀ゴg8εヨ三諾すけ轟ぎ雪鼠︺器鼠犀鷺圃こ9①冤似ヨ&ぽ 9巨oげΦ℃げ蟄自卸鋤げΦ葺ヨ岳卿旨o冨くゆ国鷺一ω卸びど一日帥旨9”鋤げ①⋮、、。 第五章 直轄区管理官の職責と報酬 土着の世襲役人を地方支配の一つの支柱とすると、もう一つの支柱は王直属の官僚であった。彼らの出自は一様で はなかった。それを大別すると、第一に、トルコ、ペルシャ、アフガニスタンなど中近東のムスリム諸国から、僥倖 を求め、陸路北インドを経て、又は海路アラビヤ海を南下してデカンに定着し、ムスリム諸王朝に仕えて位階を上昇 したムスリムの官僚たちが居た。アーディル・シャーヒー王朝の始祖ユースフ・アーディル・カーンも、このように してトルコから来航し、バフマニー朝に仕えた官僚の一人であった。いずれにせよ、彼らの大多数は再び郷国に帰る ことなく、デカンに定着したのであるけれども、その家系の出身地に基づいて、一般に﹁外邦人﹂︵b暫aΦの日︶と呼 ぱれていた。第二に、地元のヒンドウのうちでイスラムに改宗し、仕官して昇級した土着のムスリム官僚が居た。デ カンのムスリム諸王朝は原住民の強制的改宗を殆んど行わなかったけれども、なおかなりの数のヒンドウがイスラム に改宗したと見え、彼らは﹁外邦人﹂に対して、﹁デカン人﹂︵OΦ08嘗︶と呼ばれ、官僚の有力な一派を形成した。 ニザーム・シャーヒー王朝の始祖ニザーム・ウル・ムルクも、イスラムに改宗してバフマニー朝に仕えたバラモンで あった。第三に、アフリカ東岸アピシニャ出身の多数のムスリムが集団で来住し、或いは奴隷として連れて来られ、 デカンの西海岸地方に定着していた。彼らは﹁アピシニャ人﹂︵閏ゆびω同︶又はサイイードの転詑した﹁シッディし族﹂ ︵の置臼︶などと呼ばれ、その多くは仕官して、官僚層のもう一派を形成していた。ニザーム・シャーヒー王朝の優れ た宰相マリク・アζハルはこれの出身であった。第四に、原住民のうち仕官して位階を昇ったヒンドウ官僚も居た。 彼らは、官職を昇るに比例して、幾何級数的に減少したように思われるが、なお相当多数の中級及ぴ高級のヒンドウ 官僚が居た。マラータ王国の建設者シヴァージーの父、シャーハジー・ボーンスレーはか﹂るヒンドウ官僚の代表的 な一人であったのである。これら大別して四系統の王朝官僚のうち、第一の﹁外邦人﹂はそれ自体で一つの派閥を形 成し、そして第二から第四までの官僚がもう一つの派閥を作り、この二大派閥で王の側近の要職をめぐって屡々争っ たことは、デカンのムスリム諸王国の史書が好んで述べるところである。 ところで、既に指摘された如く、官僚による地方支配には、王の直轄区における官僚支配と封土における受封者の 支配との二つの方式があった。本章は、第一の直轄区における官僚支配において最高の責任と権力を付与された管理 官 を中心に考察する。 既に指摘されたように、直轄区には、単数の管理宮︵国專弩山酵︶が王によって任命・派遣されていた。管理官が 欠員乃至不在の揚合には、その代理として代理官︵乞理亨一ら富ま暮︶が居たが、これも恐らく王によって任命された。 また時には、管理官の上に管理長官︵留ま−匡品匡酵︶が任命されている揚合もあった︵勅令の邦語試訳㊧を参照︶。然 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二四三 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二四四 しこれはむしろ例外的事態と思われ、そしてその職責も要するに管理官の上位にあって、それに準ずるものであった に違いないので、ここでは考察しない。 ︵1︶ ︵2︶ 管理官の下には、軍隊指揮官たち︵の舘−一αq8げぎ︶と事務官たち︵囚蹄犀琶ぎ︶などの官僚と、城塞の警備を世襲 職とする城塞警備員たち︵客田犀≦鑑ぐぎ︶とが居て、管理官の指揮に服した。更に、首都ビジャープールを初め、恐 らくはその他の直轄区の首市にも、王によって任命された都市長官︵因9毒弩︶が居て、都市の治安に当った。また ︵3︶ 首市以外の主な町や村には、駐在所︵↓鼠壁︶が点在し、そこに、王によって任命された駐在官︵6鼠冨鼠円又は ↓﹃ぎo鼠↓︶が居た。か㌧る直轄区の官僚機構において、最高の行政貴任を保持したのは管理官であった。 管理官、その代理官、及ぴ管理官の上に時折り任命された管理長官は、王の直轄区における統治の最高責任者であ ったので、当然に、彼らの大部分はムスリムであった。例えば、勅令に姓名の明記された四一名の管理官のうち、ヒ ンドウは七名であるのに対し、残りの三四名はムスリムであった。代理官九名、管理長官七名はすぺてムスリムであ った。これによっても、このムスリム王朝に直属した地方高官の圧倒的多数がムスリムであったことは推察され得る。 ただし、これらムスリム地方高官の派閥関係はここでは必ずしも判定され得ない。 ︵1︶ 城塞警備員については、本論文は何も言及し得なかった。彼らについて、例えぱ、のOoo・︿〇一・Hざ20ψ§N∼&を参照 されたい。 ︵2︶ 少くとも首都ビジャープールには王の任命した都市長官が居た。b・目甘昌廿匡§戴§ミ﹄斜§蕊動壁ミQ3言↓参霧8菖o霧 。協2二&す聖ω8qO。夷誘ωし。8も﹂ρo■押捌冨蚕・の、器器9ミ辱9寄§じっ§ミ鼻。や鼻<。一・HHも・。。命 ︵3︶、.評。>ヨぼ画o↓属一お鼠弓評跨の鼠9ξ三ロ、鋤ヨ巳帥竃虞ごヨヨ区℃日、、︵田田︸くoド却客。,認︶。..︾げヨ&喜き 臼げ卸昌a紳O、巴帥げOげ跨昌q騨ロ、、︵一ぼP︿oピ月29一boV、.のげ巴犀げ︾げヨ&冒コ碧300一一鼠げ山弩;ロ鋼目N&騨げげ㌣日げ帥昌費自鍵団 :め卑q弾力ぎ圃国oロロ日:、、︵H露山‘<〇一・口押20・一〇︶・.、殉鍔a同↓ユ目巴↓げぎa町・O巴騨げゆ謹響賢、︵H三α4︿〇一﹂戸2ρ 翠y、.訂識器げ舞ヨ霧け琶弾ぎ翌頴誓囚霧富ま言刈目警常累鐸鋤ヨ”3日9眠出且習壁一ε①評罫蓉§醤ξぎ蕊鴇 聖智蕊醤3倉鼠↓試醤&専璽象9器褻ぐb鴇鋤℃慣舘剛鼠犀く鋤げo圃昌鋤、、︵の○ρ︿oピ鍔20■践Ny 第一節管理官と王権 勅令の邦語試訳⑬に示された如く、管理官は、彼自身の﹁合意﹂︵彊旨励︶に基づき、王の﹁恩恵﹂によって任命さ れた。そして就任に際して、彼は﹁恩賜の御衣﹂を与えられ、反対に王に対する忠誠の裏付けとして、特定の﹁保 ︵1︶ 証人﹂︵鋸日似卸鼠目ぼ又は鑓旨鋤口騨︶を立てねばならなかった。 ︵2︶ ︵3︶ 王は、管理官の任命に際して、少くとも形式的には彼の﹁合意﹂を求めたこと、そして管理官の中には、﹁御前会 議出席員﹂︵冒&巴臨又は家ε弩ωご−輯自日︶、﹁朝廷の部局の長﹂︵冒魯亀鼠ヱ出自日︶などの肩書を保持した者も居 たことは、この職には朝廷においても責任のある高官が任命されたことを示している。 然し、管理官の任命は王の恩恵に依ったのであるから、そこに特定の任期があったことは思われない。むしろ、数 ヶ月から三年位の期間を置いて、不規則に、頻繁な人事移動が行われた。例えば、サンダラープール︵ショラープi ︵4︶ ル︶管轄区では、一六四〇年九月から一六六二年三月までに、少くとも延べ一五名の管理官が交替した。一度解任さ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二四五 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二四六 れた管理官が後に同じ職に任命されることもあり、この延べ一五名のうち少くとも三名は、右の期間に二度づつ管理 ︵5︶ 官となった。また、かつて管理官として勤務した人が、後に昇進して管理長官として任命される揚合もあった。この ようにむしろ頻繁な人事移動が、王の側近の派閥的な力関係の変更に起因したのか、王及ぴその側近の単なる恣意に 依ったのか、それとも何らかの政策的意図に由来したのかは、容易に判定し得ない。然しいずれにしても、管理官職 は名実共に世襲ではなかったこと、そしてか㌧る頻繁なる人事移動は、一定地域に対する管理官の特殊な結ぴつきを 抑制する効果を持っていたことは明らかである。 アーディル.シャーヒー王国においても、ムガール帝国におけると同じく、高級官僚が自己の負担において維持す ︵6︶ ぺき兵馬の数によって示される﹁位階﹂︵目き器げ︶の制度が存在したと言われている。然しここで依拠する史料には、 か㌧る兵馬の具体的な数を明記したものが少ないので、管理官が彼の負担でどれほどの兵馬を保持したのか明らかで ない。ただ、大臣の名替称号を持つ一功臣が五百騎を保持する資格を認められたとあるから、管理官の揚合はそれよ ワゾール ︵7︶ りも少なかったことは推察され得よう。 ただし、管理官が自己の負担で一定数の兵馬を保持したことは、彼の部下として、彼の指揮と指令に服従すべきで あった直轄区の官僚たちもまた、彼によって扶養された家臣であったという意味ではない。既に指摘された如く、直 ︵8︶ 轄区に在勤した軍隊指揮官たち、事務官たち、駐在官たちは、管理官とは別途に任命されたのであり、そのうち少く とも軍隊指揮官たちと駐在官たちは、王によって別途に任命され、報酬を与えられた勅任官であった。 ︵9︶ ︵10︶ ︵1︶ 本論文第二章﹁勅令の邦語試訳﹂㊧を参照。 ︵2︶田田﹄。一、目︸29鴇“<。ピく鳩z。ω・§博。。︸。。。・ ︵3︶ 目げ一山‘く〇一。<いZOω,αN∼刈ρQoU∼QQN ︶ Hげ一α︷<〇一、<−ZOω甲軌N噌ひ一■ ︵4︶Hげ一α‘く9く一客oφ象∼穽 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年 一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二四七 一① 、馬尊詳敦9角ぴ06ミ9覧鳶鐸憶翫始帖韓﹃§﹃爲き39e勘 目詳画謁9亀画憶璽価鉢9動恥画N恥噌翫・:,.、 ︵10︶ のOρ<〇一’HH︸ZO■いωN︸.、げ曽一鋤け陣び の蟄目蟄警 昌一倒げ鋤⇒鋼α ︸O“げ囚帥ωげ① ︾一げ輯同目四旨一〇竃費げ似畦胆α℃ゆ時鋤昏パ國・:節臨一鋤ごび瓜o ヨO廿げー一1︷蟄同目鋤昌oo卸げ陣ρ ヨ一一ρ鋤咽似 げ帥ー犀げ帥匹 ↓蟄く卿け即ω¢、、 犀似げ Oげ四犀帥↓ げ騨−q騨同の卿げ・:出試ヨ卸ω 昌鱒巨ゆ自 犀ゆげ 竃帥仁国、帥 一一け角一占−℃節↓⑳帥5餌 屋p層るq犀凶H 犀げ卿鴨ご・げ鋤ρ剛ドβ一げ帥げ 自偉昌げ蹴騨 び騨, たので、これも勅任官であったことに間違いない。bω目犀くo一﹂員298㌦.ωげ巴ぎ鼠帥犀げ飢帥5一ロβ碧急留茜博oげ冨目.帥 ︵9︶ 軍隊指揮官の任命書は私の依拠する史料の中に見出されないが、軍隊指揮官は、王の勅令によって、封土を与えられてい ムカ サじ れらが、管理官とは別個に任免されたものであることを示している。 ︵8︶ 勅令邦語試訳臼において管理官の任命が告示された対象の中に、軍隊指揮官たちと事務官たちとが含まれているのは、二 ω費↓魯昌一鋤一β1一−一鋤の団噌占ーく=似図即﹃一−昌跨βρ鋤げ国鋤け犀一P毛四げ跨α の一一置自:,、、 ︵7︶拐田曹く。一﹂芦ぎ■。。。。’..ω邑署財<①爵p翁含⋮蔑器養尊−愚身恥鼠向§辱訂6糞呂貧βぽ帥肇象昌ぎ卿目鋤 ぼo日爵①Oo<①彗ヨΦ暮o閉聾一8耳目呂。きs旨。蝕o昌8浮①国創診昌−・、、 ウOQQ・帆.⋮囚げ①一βの餌矩倉昌け帥ロαいP犀げP8ω帥ミ暫昌“UΦω玖ω○胤けげoα一警ユOけOh国5伍ゆ一︸≦げO ぽ曽α σのo口 げO一α一旨の暫§93吻麟ぴ ︵6︶ 例えば国’9因即譲一ぎ8ロo騨”のミま。切8導勲ミミ§ぎ臼象ミ$<o一■HOo︿①彗巨①旨OΦ暮β一℃冨o。即国o目げ碧ど一8漕 (一 一橋大学研究年報 経済学研究 第二節 管理官の職責 二四八 官僚、或いは軍隊の不当収奪や横暴のため、村が荒廃した揚合、管理官は、一方でか㌧る抑圧者を取り締り、他方で ︵4︶ 村民たちに﹁保証﹂と﹁慰安﹂を与え、彼らを帰村させ、生業に従事させるべきであった。第二に、管理官は、彼自 管理官の治安任務について、二つの点だけを附言しておきたい。第一に、個々の村民が何らかの理由で郷村から逃 ︵3︶ 亡した揚合、その村の村長に命じて、彼を郷里に連れ戻させることも管理官の任務であった。また、世襲役人、地方 する﹂義務に従って、その手兵を率いて、屡々管理官と行動を共にしたであろうことも、既に指摘された。 従事した。このことについて多くを述ぺる必要はあるまい。その際、直轄区の郷主も、管理官の﹁指揮と支配に服従 ︵2︶ 管理官は、その管掌区域においてだけではなく、中央からの指令に基づいて、他の地域にも出動し、治安と防衛に e 軍事・治安任務 出来る。 強調されたに過ぎない。いずれにしても、管理官の任務も、e防衛・軍事、口治安、国司法、㈲徴税に分けることが ただ、管理官は、直轄区行政の最高責任を負うた王直属の官僚であったから、その一般的任務の冒頭に、特に防衛が また防衛・軍事任務を負担したのであるから、管理官と郷主との一般的任務に基本的な相違はなかったと言い得る。 じている。先に考察された郷主の一般的勤役に比べて、管理官のそれは、防衛任務が特に強調されているが、郷主も ︵ 1 ︶ 管理官の一般的任務を述べた一勅令は、﹁城の強化・安全と、地域の耕作と繁栄とに、専心着実に努力せよ﹂と命 8 勅令の邦語試訳白を参照。 ︵5︶ 従 身の判断に っ て 、 治安妨害者を﹁適切に処罰する﹂権限をも公認されていた。 ︵−︶ 例えばbの一餌く〇一,芦ZρNごくoピく︸客o幹翠︸署いoo怠ε−Oρ3層鶏● Hげ箆‘︿○一,︿12ρ刈N、 Hげ箆■ヤくoピく悔Zρωoo− ︵2︶ ︵4︶ Hげここく〇一■く曽Z9摯、.⋮9吋犀霧一犀跨昌蟄にN詩鈴↓昌⇒ヨ勾身げ冨箭暮O巴山笥げ犀ロ塁注o−誌コ程.一鼠⇒げヂβ二醤9§山 ︵3︶ ︵5︶ 7 の 旨 ” 、 獣ゴ.凶び β け− 血Φ 帥 鼠β β≦ 自 ・: ゆ.︵新たにトラブルを起こし、悪い行いを為す者は、これを、他人のみせしめになるように、 特別に処罰せよ。︶ 国 司法機能 マジヤしリス 世襲役職やその他の権益に関する紛議を解決する際の、管理官の司法機能は、実質的に郷主のそれと同様であった。 即ち彼の役割は、当事者の提訴を受けて、裁判集会を召集し、それに出席して、集会の判定を確認し、保証すること ︵1︶ に限られた。この集会の構造は、郷主の司法機能との関連で指摘された通りである。か﹄る伝統的な集会裁判制度の 保護・存続の意義についても既に考察された。 ︵1︶ 管理官が出席したことを示す集会裁定書の一例としてωOρ︿〇一・戸乞9い酵を参照。またbω肖餌く〇一・ダZρひ“ .げげoヨ似︵国奨弩象↓奉囚画味犀琶酵︶奉旨帥aヨ警−一−↓ゴ倒轟毒すくぎω畦。。剛旨↓鑑毎げ&段けぎ昌魯ω田き鑑奉ヨ鋤 ヤ ヤ も ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 5ρ巳山騨筥寅くぎげ凶身げげ卸のげ盆げ&ぎヨεき三鑑益魯くロヨ三δ碧、騨路N讐自、、︵貴官たち1管理官と事務官たちー、駐 在所の者たち、及ぴ兵士らは、︵争いのあった村の︶境界に行き、以前から年々行われて来たところに従って、境界を画定し アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ーエハ八六年︶の地方支配に関する一研究 二四九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二五〇 て与えよ。︶、及ぴ<・↓Qβ昌①”風ぎ∼虞亀8§執の鴫9塁黛罫恥歳ミ§ぎやOサo一f℃や8∼謡を参照。 国 徴税任務 ︵−︶ ︵2V 管理官は、直轄区の税を徴収し、その区域内の郷主その他世襲役人から王に対する﹁貢金﹂を集め、それらを朝廷 に送付する最高責任者であった。また政府が臨時に必要とした夫役人足や建設労働者を徴発することも管理官の任務 であった。尤も彼らは常に無償労役を供出したのではなく、朝廷の建築部局︵冒昌巴−一、一日母跨︶から一定の賃銀を 支払われたり、或いは特定村の税収の中から報酬を与えられる揚合もあった。 ︵3︶ ︵4︶ 既に指摘されたように、直轄区の郷主は直接徴税権を剥奪され、これに代って直轄区の役所から徴税官︵6昌答− ︵5︶ 創鋒︶が派遣され、諸村から徴税した。然し、ここでも郷主と郷書記は、税率の決定、担税額の配分、その他に関して重 要な役割を果すぺきであったことは前述の通りである。つまり、直轄区では管理官が徴税責任者であったと言っても、 それは、あくまでも郷主・郷書記という土着・世襲の役人によって制約され、彼らの同意と協力を得て行われねばな らなかった。そして、か﹂る世襲役人による牽制の他に、朝廷は時折り直轄区に対して、特別の官僚を派遣し、管理 官の行政全般を視察︵巳σq跨︶させ、それを朝廷に報告させた。か㌧る揚合、管理官は、この官僚と協議︵糞一望警︶ ︵6︶ し、協力︵首鼠α︶することを王によって命ぜられた。王は、管理官に対して、か㌧る二重の牽制を加えて、これを 中央の全き統制の下に置こうとしたのである。 ︵1︶ 例えば℃ω一餌<9ざ209ひoo︸団ρ置”ま︸謎騒お”ooρo。ド ︵2︶Hσ一血こくo轡<120ω﹄♪一いい ︵6︶ ︵5︶ ︵4︶ ︵3︶ bωH頃︸く〇一’<︸2p軌い 勅令の邦語試 訳 e を 参 照 。 Hσ箆こく〇一 . < ” 2 9 ひ 9 Hび一q‘<〇一■<”20■軌9 第三節 管理官の報酬 勅令の邦語試訳国に示されたように、サンダラープール管轄区の管理官として、、・・ーラーン・アブドウル・カーダ ルという名の官僚を新たに任命したことを告げた一勅令は、同管轄区の事務官たち、軍隊指揮官たち、警備員たち、 郷主たち、及び一般人民に対し、新任管理官の指揮と支配に服従することを命じた後、﹁管理官職︵閏零弩詠臨︶の ︵1︶ 俸給︵日臣鼠匿壁︶と税の分け前︵什き窪毒群︶は、︵従来︶行われている通りに行わせよ。﹂と述べている。ここで 示唆されていることは、e管理官は、その報酬として恐らく国庫から直接に一定額の給料を与えられた他、管掌区域 の税収の一部をも授与されていたこと、国か﹂る給与は、管理官職という特定の職務に結ぴつけられたものであって、 前任者は解任・転任と同時にそれを取得する資格を失い、後任者がそれを得たことである。管理官の給与については これ以上のことは分らない。 然し、管理官に任命される程の高官は、その職務と結びついた俸給の他に、彼の﹁廉直に対する賞与として﹂︵山畦 ≦騨甘−一一鋒畠目讐︶、特定の官職とは必ずしも結ぴつけられていない封土︵本稿ではか㌧る封土を﹁賞与封土﹂と呼ぶ。後 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二五一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二五二 述第六章を参照︶をも与えられた。例えば、右の任命後一年を経て、同人のいまだ在任中、同人と同一人物であること 計リ.サリノーパト サリ.9ールグール ハワールダール カー ルクナ ソ に疑いのない一官僚に対して、賞与封土が貸与されたことを、同管轄区の最高指揮官兼管理長官、管理官、及び事 務官たちに告示した次の勅令がある。﹁故アジーズ・カーンの保有していた、同管轄区のバウラーマニー村を、煙草 税、パーンの葉税、及ぴ諸恩給を除いて、全税目と共に、王の愛顧と限りない恩恵により、官職の高きもの、勇士の 精華、高貴なる宮廷の繁栄を祈る者の子、内外共に華麗なる者、アブドウル・カーダルの廉直に対する賞与として、 ︵2︶ ︵彼に︶恵み与えることに決定した。上記の村を︵彼に︶与え、同人の受領と保有に委ねよ。﹂上の勅令の冒頭に ﹁故アジーズ・カーン﹂とあるのは、この勅令の日付の七ケ月前まで、同管轄区の最高指揮官兼管理長官をしていた 官僚の名である。また後に改めて指摘される如く、賞与封土の貸与を告示した勅令は、受封者の官職名を通例明記す ︵3︶ ることなく、その代りに壮大な﹁賛辞﹂を並べている。そしてムスリムの姓名は、屡々その一部が省略されるから、 この受封者アブドウル・カーダルが、管理官ミーラーン・アブドウル・カーダルその人であったことに疑いはない。 更に、彼は、単に一ケ村だけではなく、史料には現われないが、恐らく、異なる時日に散在する数ケ村を封土として 貸与されたであろうと思われる。いずれにしても、彼はその﹁廉直﹂の故に、王の恩恵によって、一定地域の一種の 領有権を一時的に貸与された。この点が重要である。 要するに管理官は、王によって随時に任免される官僚であった。しかも、彼はその管掌区域の一円支配を認められ たのではなく、彼の部下として在任した他の官僚たちも、彼と同じく、王に対して忠誠義務を持つ王の官僚であって、 管理官の家臣ではなかった。彼の行政は、これらのいわば中級の官僚たちによって制約された他、同じく王に対して 個別的に忠誠義務を持つ世襲役人層によっても牽制された。他方、彼は、解任・転任と同時に受領資格を失う一定の 俸給を王によって与えられていた。このような意味で、彼は王の﹁家産的官僚﹂と呼ばれるぺきものであった。然し、 彼は単に﹁家産的官僚﹂にとどまったのではない。同時に彼は、王の恩恵によって、一定地域の一時的領有権を付与 され、そして彼自身の負担において、恐らく一定数の兵馬をも保持した。この意味で彼は所謂﹁封建的官僚﹂の側面 を も兼ね持っていた。 このような二面性は単に管理官にのみ存在したのではない。それは、広く、この王国の高級官僚一般に、そして多 くの中級官僚においても見出される特性であった。そこで次章で、家産官僚制の封建官僚的側面に視点を移し、封禄 乃至封土の種類と規模、封土管理の組織と受封者の権限について考察する。 ︵1︶ 勅令の邦語試訳㊧を参照。 .似目巴帥医器犀日げ四げ暮−一−、︾N冒因げ鋤昌−一目帥昔帥日α畦くaげ−一−δ江ρ餌旨暮÷、一国国暮く暫β隔、暮−一−自舘蒔鋼げ旨ε似、暮く鎖旨臼げ似B魯− ︵2︶りの一餌く〇一,<”Zo■oo。。..−器鼠旺白零跨ゴーぎ鑑昌似鼠冨毒閉跨け・一.帥鼠驚−芥巨段品冨三帥虞昌国o品ヨ彗団−一之午 b帥口叫.α国巳暮爵げ≦鋤け器似自帥げ山−山胃αq似げ−帥く聖ε帥げ騨蔚叶のげ−一げ警冒くゆ憩q陣げ冒︾げα−巳O鋤自貰ヨ、蟄犀Eげ鋤げ犀げ跨二εロげ鋤犀帥 二五三 く帥けゼげ仁茜−鋸犀く.”<”注.鋤目簿、鋒崖暮翫霧巨薗α暫げ伍蟄げ鋤巳αゆげ跨βα卑げ霧δ目団げ身勢自匠げ客ゆ盲。㌣一ーヨ器屏日αβ昌げ巴魯 昌偉唐鋤蜜蟄ロ傷く騨α弩ρ帥げN蟄鼠肋餌旨ロh−学目器げ緯自−巴げげ縛凶ロN卿β昌q・:●.. ︵3︶ 勅令の邦語試訳臼及ぴHげ一“ぐo一,メ乞9Sを参照。 アーディル シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一橋大学研究年報 経済学研究 二五四 ニカル・タームは付けられていない。然し、地方語では、これもまた一般にモカーサーと呼ばれたことは、勅令の邦 た残りの全税目︶と共に、額又は量を明記しないで付与された。ペルシャ語勅令においては、この禄にも特定のテク えられたものである。それは、一ヶ村から数パルガナに及ぶ地域を、そこから生ずる全税目︵又は若千の税目を除い 第三は、高級官僚に対し、その﹁廉直に対する賞与として﹂︵α弩毒巴甲二駐鼠日暮︶、特に王の﹁恩恵﹂によって与 残りの全税目︶と共に、金額乃至は量を明記しないで与えられた禄である。本稿ではこれを﹁職務封土﹂と呼ぴたい。 官職の﹁俸給の代りに﹂︵げ&巴日臣鼠壁旨︶、一村乃至数ヶ村を、そこから生ずる全税目︵又は若千の税目を除いた ヤ ヤ ヤ 禄﹂と呼ぶ。第二はムカーサー︵ペルシャ語で巨ロ畠脇。マラーテイー語で目o弼紬と転託した。︶と言い、その受 ヤ ヤ 領者はムカーサーイー︵目β傍釧日畠冴田︶と呼ばれた。これは近衛軍の騎士・軍人、及び中級の官僚に対し、特定 ︵1︶ た一定額を授与したものである。この禄には特定のテクニカル・タームは付けられていない。本稿はこれを﹁定額封 ヤ ヤ ヤ ヤ われる。第一は、近衛軍の騎士に対して、その﹁俸給の代りに﹂︵げ呂巴ヨ島冨募露︶、特定村の税収のうち明記され し ヤ ヤ ヤ の税収の授与、即ち封禄には、授禄の条件及び受禄者の権限に基づいて、少くとも三つの異なる種類が存在したと思 王がその官僚に対して、一定地域の税収を授与したことを告知した多数の勅令をや㌧詳細に検討すると、一定地域 された。 既に指摘されたように、官僚に対する封土は、直轄区の一部にも与えられたけれども、通常はパルガナ区域に設定 第六章 官僚に対する封禄と封土 8 語試訳口に示された如く、シャーハジi・ボーンスラーの子サンバージーに対し、その﹁廉直に対する賞与として﹂ 一つのバルガナを貸与した勅令の裏面に、マラーティi語で﹁シャーハジーにモカーサーが与えられた。勅令に従っ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ て、ガダグ・パルガナの諸村を、サンバージー・ボーンスラーの名で。﹂と記されていることからも明らかである。 私は、第三の種類の禄を仮りに﹁賞与封土﹂と名付けたい。 右の三種類の封禄乃至封土のうち、地方支配との関連で特に重要なのは、第二、特に第三のそれである。然し﹂こ の二種類の特徴を一層明確にするために、以下に順次第一の種類から考察し、そして最後に節を改めて、第三の賞与 封土のうち一パルガナ又はそれ以上の地域を含む大規模な封土の管理組織と受封者の領有権のあり方とについて検討 したい。 ︵1︶ ムカーサーという語がアラビヤ語源であることに間違いはないが、その語源となった単語は必ずしも明らかでない。J・ T・モールスウォースは、これを、アラピヤ語の日ロぎ虜曾吻︵“o昌Φ≦げ○や唱℃お℃風暮9eヨ帥吋9げ一のoをβ︶から派生した 語であるかも知れないとして疑間符をつけている︵い日三9窃名o詳﹃b愚帆§9這”歳ミ息試§軋肉詰黛身鳶国o旨鼠別一〇。鴇い N昌qoPやまN︶。然しこれは綴りが違い過ぎるように見える。むしろアラピヤ語の目自ρ傍鋒︵品oぼαqh鷺o中いげ①冒α身良− 鮮きけ︶、又はヨ一一ρ習留け︵目琶欝ぼのββ巴 び巴きo冒撃8日需塁暮ぎoq︶から転化した語であるかも知れない。いずれにして も、この語は、デカンのムスリム諸王国において、官僚に対する封土を意味する語として広く用いられた。尤も、デカン以北 二五五 のムスリム諸王国で行われたδ鼠.制度や特にムガール帝国で一般に行われた蜀の副制度と、ムカーサー制度とが全く同じ も の で あ っ た か ど う か は 、 別 の 機 会 に 検 討 し た い 。 アーディル シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一橋大学研究年報 経済学研究 第一節定額封禄 ︵2︶ 定額封禄の例としてb磐餌く〇一・H月20¢■ま﹄路−a︸&”畠︸総讐ひρ曾︸9を参照。 ︵1︶ か﹄る三種類の騎士については、本論文第二章勅令の邦語試訳eの註︵4︶を参照。 何らかの支配権を村に及ぽすことではなかった。 二五六 れを彼の許に送った。いずれにしても、彼の資格は、政府の定めた一定額を受け取ることに限られ、それを越えて、 受禄者又はその代人︵旨μ欝.巴一δ︶が直接に村におもむいて定められた額を村長から受け取るか、或いは村長がそ 給の代りに付与されたのであるから、受禄者が馬や馬具を所持しなかった揚合、参勤を怠った揚合、或いは逃亡乃至 ︵2︶ 死亡した揚合に、禄は直ちに停止された。 ○○ルピi︶から六〇〇ホン︵二四〇〇ルピー︶までであった。この禄は、事務的に、か㌧る特定の職務に対する俸 恐らく﹁騎行資格を持つ官吏団に属する者﹂︵冨B.−写涛蓼−9鮮跨︶であった。彼らの禄は年額ほぽ二〇〇ホン︵八 持つことなく、また特定部隊に所属することもなく、単身で、自弁の馬と武具とを以って参軍する騎士︵宣昌匿↓置− ︵1︶ 鑑↓翌︶、馬と武具は自弁であるけれども、特定の騎馬隊に所属する騎士︵ポ跨ζ邑などであり、そして受領資格は めて事務的に与えられた。受領者は、自己の負担で馬と武器及ぴ数名の家来とを保持する騎士︵毘﹃匡酵︶、家来を この禄の受領者は、その﹁俸給の代りに﹂特定村の税収の一部︵鼠傷Hβ︶を、特に王の恩恵によってではなく、極 8 第二節 職務封土 ︵6︶ ︵7︶ ︵−︶ へ& この禄の受領者は、定額封禄のそれと同じく、家来を持つ騎士︵のま昌α騨︶、単独の騎士、︵ず昌犀霧ヱ山坤鑑︶、騎 ︵3︶ ︵生︶ ︵5︶ 馬隊に所属する騎士︵宣跨冨ユ︶などの他、もっと上級の軍隊指揮官︵ω畦−一αq8ぽ︶、騎馬隊長︵頃零理鼠ヱ画呼緯︶、 歩兵隊長︵冒目暫.魯q跨︶などいわば将校たちや、或いは朝廷の書記局︵ピ書暫=あ鼠げ壁く邑の官吏たち、衣裳局 ︵冒書巴÷遍日鼠芽臨冨︶の官吏たち、建築局︵ピ昏巴−一.H目騨舞−一頃ロ昌唖︶の官吏たち、財務局︵属即冨寓−囚げ≦冴︶ ︵8︶ ︵9︶ の官吏たち、厩舎︵目暫冨匡らaαq酵︶の官吏たち、調度局︵崔菩巴−一国貰鍵げ犀鼠暴︶の官吏たち、車輌局︵目暫冨=− ︵10︶ ︵n︶ ︵12︶ <呂呂︶の官吏たち、楽士たち︵6霧ωぐぎ︶などであった。そして彼らもまた﹁騎行資格を持つ官吏団﹂に属するの ︵13︶ ︵M︶ が通例であった。また右の受禄者のうち、朝廷の諸部局の官吏たちの揚合は、個々の官吏が別個の禄を受けたのでは なく、同じ部局に属する官吏たちが恐らく数名一団となって一つの禄を与えられるのが通例であった。 定額封禄と同じく、この禄もまた特に王の恩恵によってではなく、むしろ事務的に、右のような職務に対する﹁俸 給の代りに﹂付与され、従って、職務怠慢、転任、解任、死亡などの理由で、随時に停止・交替された9 然し定額封禄に比べると、職務封土には一つ大きな相違があった。即ち、前者においては一定村の税収の一部を定 ヤ 額を明記して与えたのに対し、後者の付与を告知した勅令には、一村乃至数ケ村を、その全税目︵又は若千の税目を 除いた残りの全税目︶と共に、受領者に与えることに決定したから、﹁同村を彼に与えよ﹂︵留げ÷巨雷犀日&日鼠す− ヤ ヤ ヤ 一6昌偉旨身き山︶と明記されている。即ちこの禄は、単に徴収権だけではなく、村に対する一種の領有権をも付与した アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二五七 のである。 一橋大学研究年報 経済学研究 二五八 してでも、禄を完納するよう受領者によって要求された。そして、受領者は、納入の遅延の廉で村役人に罰金を課す ︵21︶ た。特に村長と村書記は、村民窮乏のため、定められた額の徴収が出来なかった揚合、その役職を担保として借金を の内容は、禄の強制徴収権である。禄の徴収と納入に直接の貴任を負うたのは、その地の郷主以下の世襲役人であっ そして事実として国税額を越える率で徴収することは不可能であったかも知れない。然し少くとも時には、受禄者は、 ︵想︶ 近隣の直轄村とは異なる方法で徴収を行なったし、また荒蕪地の関墾者に対して、その納入分を事前に削減するか、 ︵20︶ 或いは一応通常の率に従って納入させた後、その一部を払い戻してやるか、いづれにするも彼の任意であ?た。第三 徴収に関して指摘されたように、封禄の徴収においても、近隣の国有村の税率に従うのが慣行であったであろうし、 ことを禁じ、そしてその旨を村に﹁保証﹂せよと命じた。第二の内容は、禄の任意徴収権である。さきに郷主の恩給 ︵18︶ 禄の徴収を妨害した揚合、受領者は王に訴えて善処を仰いだが、その際王は、管理官に対し、官吏を村に近寄らせる さえ、それは、管理官以下の直轄区官僚の日常的支配から除外されたことである。直轄区の官吏が封土に立ち入り、 ヤ ヤ ヤ いずれの方法で封土を管理したにせよ、受領者の領有権の内容の第一は、封土が直轄区の一部に与えられた場合で 自身も時折り村におもむいて、情況を視察した。 ︵17︶ めて受領者に送るか、或いは受領者の代官たち︵旨ロ鼠.巴一δぎ︶が封土に在住してそれを管理した。そして、受領者 ︵娼︶ ︵16︶ いて見ると、受領者は、普通、首都又は一定の任地において勤役に従事したのであるから、地元の世襲役人が禄を集 そこで職務封土の管理方法とそこにおける領有権の内容について二、三の点を指摘する。まず封土管理の方法につ 8 ることもあっ︵磁。受禄者による過重なる要求に対して、村長と村民は逃散の手段に訴えた。その揚合政府は、地元の 郷主に対しては村長と村民を村に連れ戻して仕事に従事させよと命じ、村長と村民に対しては、受禄者をして慣行的 タロ 徴収高まで、禄の徴収を引き下げさせることを﹁保証﹂した。いずれにせよ、受禄者は可能な限度まで徴収し得る資 格を保持したことに疑いはない。 然し他面では、受禄者の領有権は大きな制約を受けていた。第一に、受禄者は封土村の村役人の役職や役得を勝手 ゑロ に侵害し得なかった。村には、既存の村長と村書記が居続けて、村の日常的管理を行なった。彼らの役職と役得は、 窮極においては、王権によって保護されたものであったから、受禄者はそれを任意に侵害すぺきではなかった。第二 に、受禄者は、村の世襲役人が反抗した揚合でも、彼らを任意に処罰し得なかったと思われる。郷主や村長が禄を受 あロ 領者に手渡さない揚合でさえ、受禄者はそれを直接に制裁しないで、通例朝廷に請願して別途に取り締ってもらった。 要するに、職務封土は、王の地方官僚による日常的支配を一応免除された。そして受領者は、禄の任意.強制徴収 ︵2︶ ︵−︶ Hげ一山■讐<〇一■一一ど乞O■恥oQ’ Hげ一山■︸︿〇 一 ’ H H 劃 客 O ω ■ 轟 鈎 頓 ♪ α ω ・ 旧のH国︸く〇一。一HH層20の,凱♪頓丼 の地方支配に関する一研究 二五九 権を保持した。然し同時に彼は、村役人の役職・役得奄侵害すぺきではなく、またそれらを勝手に制裁すぺきでもな ︵3︶ 一び一α4ぐO一●目H一12ρ轟O■ かった。 ︵4︶ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶ 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二六〇 ︵5︶Hげ一側こ ︵6︶H玄“ ︵7︶Hび一ρ ︵8︶Hげ一qこ ︵9︶Hげ一P ︵10︶H獣P ︵11︶Hげ一q‘ ︵13︶一げ一F ︵皿︶H臣q■一 ︵耳︶ 一げ一仙; ︵15︶Hげ一P く〇一, ︵16︶旭ωH餌 ︵17︶ のOρ H月Zρ頓い、 <”29一一P H月2ρa。 <讐之ρ$’ く層Zo■ミ。 く︸2ρ一〇〇〇’ H鍔29刈o。隆 <、2ρ一いoo■ く噛客o嵩o。■ <︸2ρ09 目矯20㍉o。,の○ρ︿o一,<︸客o。。﹂ρ。。。・ H<噂20謹9 く ごQo・ ℃ くン。・ひp..・。.︿陣濫聾,一,誤ぎげ帥喩書副馨・よ呂轟−ぼ弩α話−ρ壁奉象鼻剛惹鴇翁 斉乞ρ。ρやαひ㌃.⋮ω呂陣昌山塩く酵①ヨ鼻密ご・日ヨ藝.冒呂℃鼠営αqげg§鼠く一一謬。勢雨昌奉 ︿oH ︵18︶りのH餌 儀騨げ⋮こ 呂℃冨琶同 稗”叶巴のΦ象匡①壁ユ身。臨急ダ跨爵琶管§一昌p呂三毘葦の呂鷺呂αq響鐸冨忌奉詩蟄αq似くぎ畳 ︺き霧Φー ︵19︶ の8植 琶,量1妾 能§邑畿葦§邑巨巨§巨§ ,冨特げ“犀信一一一尻碧帥槻げ。O昌ロや誘U涛冒暴犀碧凶⇒す誓︶免、﹁上記村の受封者は横暴で、︵村民から︶油を取る のに容量を以って致します。然るに、︵油を︶重量によって徴収するのがこの地方の慣行であります。:。,:慣行に従って取っ 計算しない。だから上記の村においても、慣行に従い︵重量に基づいて油を︶取るように取り計らう﹂︵と答えた︶。 て頂きたいと思います﹂︵と村長が管理官に訴えた。そこで管理官は︶﹁上記村を除いて、その他の村では、油を容量によって ︵20︶ Hげ一qこく〇一■図押29℃9やひ9、、旨ど同旨βパ器細ぎ嘗ぎ嘗弓o色餅の①δΦ閃p擁剛けげ。一。一旨。げ①昌粋犀嘗ヨ帥冒↓駒α①けげ。け。 ︿”霞3鴇犀劉管≦ヨa3山①け壼くげ9蔓鋤σ巳包昌ρ犀鐸Φ旨一ぢ巴巴器急旨o匹剛ド母響げ9。■、、﹁以前の受封者は、荒蕪地を耕 した人々に対して、現金納入を免除して下さいました。また若干の村では現金納入を免除する代りに、現金の一部を払い戻し て下さいました。﹂ ︵21︶ Hげ一自こ<O一、一くーZ9圃一9 ︵22︶ Hσ一山こ<O 一 ■ H < − Z O ・ 刈 一 9 ︵23︶ Hげ5:<〇一,くH噌Zρま.、囚勢巳げき卸巨⋮の畦−目o犀&暫巨く帥:b警〇一奉 囚三犀ロ吋乱く即の層目算ωけb腕即一.⋮..ε目oげΦ凪轟の一 壁話ヨ量聾喜幕留昌同馨区轟鼠ぎ鼠。q。三跨ω訪亀富旨即呂昌g善び。象げ。的呂閃。一。跨ω四菖臼言三陣弓一 葺目げ冴岡吋卑巳器09旨げ欝一着自暮剛鼠零一ωげo薗βΦα凶ω巴鋤げ”α犀巴o。①αo梓げ08巴3一器o匡匹緯犀勢門凶昌α①凶昌凶犀四寓餌ひαo, 旨四昌鉾犀貰凶鼠鴇ご①.、︵村長・村書記及び全村民に対する保証書︶﹁貴君らの村に新らしい受封者が来て沢山のお金を要求し て困らせたので・貴君らは失望して︵村を︶去った。そこで貴君らに保証を与える。貴君らに多くの苦労を与えさせないで、 従来年々支払って来た通りに訂正させるから、何の不安も持つことなく、︵村に︶帰るように。﹂同様にHσ一“<。一<一12。﹂o。, をも参照。 ︵餌︶ 一び山α‘<〇一,<H鴇乞O 一ひ・ ︵25︶ Hげ箆こ<〇一,<H’2ρい丼勺のH嵩”く〇一・HHH︸20ω・“oo・91刈oo・ アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二六一 一橋大学研究年報 経済学研究 第三節 賞与封土 二六二 対応して、大規模封土の受領者の大多数はムスリムであった。・以上の二点について一例だけを示す。パルガナ、ワー して世襲ではなかった。第二に、既に指摘された如く、高官・顕臣の数におけるムスリムの圧倒的優勢という事態に この賞与封土について、重要な二点をまず指摘しておきたい。第一に、か㌧る大規模な封土でさえ、それは原則と りの全税目、一カルヤートの一市揚地と一四ヶ村の全税目、一サムトの三六ヶ村の二税目を除いて残りの全税目、一 ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ サムト乃至一カルヤートの全税目、一パルガナの全税目、数パルガナの全税目など、甚だ大規模であった。 レ︵5︶ カスバ ︵6︶ . ︵7︶ 模の揚合も勿論多かった。然し、王の側近の高官や顕臣に与えられた禄は、一サムトの三二ヶ村の二税目を除いて残 ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ さて、この封土は、一ヶ村の全税目、二ヶ村の全税目、三ク村の二税目を除いて残りの全税目など、比較的に小規 ︵−︶ が時には居た。 級官僚に対して貸与したものであったと言い得る。尤も、特に功績のあった郷主の中にも、この封土を貸与された者 直轄区管理官などとして、同王国の通史や勅令に屡タ現われる人物であったことが分る。つまり賞与封土は、王が高 の姓名を見ると、彼らの多くは、王の側近に仕えた各種大臣、国軍総司令官、方面軍司令官、地方軍司令官、将軍、 サリ勇イ2‡−多 シバー→サラール サ塾サリノーバトサルダール 王の恩恵によって付与された︵本論文第二章勅令の邦語試訳⇔を参照︶。然し、職名は記されていなくても、その受領者 することなく、その代りに、数語から数行に及ぶ壮大華麗な﹁賛辞﹂を副ソえ、受領者の﹁廉直に対する賞与﹂として、 職務封土は特定の官職に対する﹁俸給の代りに﹂事務的に付与されたのに対し、賞与封土は、通例特定官職を明記 8 イーは、一四八九年の同王国の建設から、一六七八年同パルガナがシヴァージーによって占拠されるまで、一八九年 ︵11︶ 間に延べ二四名の高官に封土として与えられたことを示す﹁覚え書き﹂︵愚島轟白Φ︶がある。それによると、各官僚 の受封期間は最大二七年九ヶ月、最小三ヶ月であった。そしてこの二四名のうち、ヒンドウは四名で、二〇名がムス リム で あ っ た 。 ︵12︶ このように賞与封土もまた原則として世襲ではなかった。然し、この封土は、職務封土に比ぺて、かなり長期化し、 そして時には半恒久化する可能性もあったと思われる。何故なら、賞与封土は、特定官職に必ずしも結合されること ︵B︶ なく、単に受封者の﹁廉直﹂に対する賞与として、王の﹁恩恵﹂によって付与されたものだからである。 そこで、一般に賞与封土の受領者の王に対する義務、封土管理の方法、封土における支配権の内容について、若干 の点を指摘したい。 ︵15︶ ︵腔︶ 第一に、王に対する受封者の最大の義務は、その封土の収入を以って、最低数百騎から最高恐らく五千騎乃至七千 騎に及ぶ兵馬を保持し、か㌧る手兵を率いて、王の指定する中央乃至地方の要職や、或いは国土の防衛や敵領への攻 繋に従事することであった。一般にムスリム王国では、官僚の文武の区別は明確でない。特に高級官僚は、通常、行 政官であると同時に武官でもあり、中央の諸大臣でさえ、その手兵を率い、時には王によって追加された近衛軍の一 ︵16︶ 部をも伴なって従軍した。か㌧る事例は、この王国の史書の至る所に見出される。 第二に、賞与封土の受領者は、職務封土のそれと同様に、その封土に定住することなく、中央又は遠隔地において 王国の業務に従事したのであるから、各々﹁代官たち﹂︵日暮魯.毘一5ぎ︶を任命・派遣して封土を管理させた。﹄,ヶ村 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二六三 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二六四 ︵17︶ 乃至数ヶ村からなる小封土の揚合でも通例代宮たちが封土に在住したと思われるが、一サムトや一パルガナ、又はそ れ以上の大封土の揚合は、常に代官たちが派遣されていた。か㌧る代官機構については次節でもっと詳しく考察する。 ︵18︶ 第三に、受封者の支配権の内容を見ると、先ず、彼は、職務封土の受領者と同じく、禄の任意・強制徴収権を享受 した。そして彼は、既存の世襲役人の恩給役得を加増し、また寺院や聖職者にも恩給地やその他の取り分を授与する ︵19︶ ことも出来た。このようにして恩給役得を増加してもらった役入や聖職者は、その確認と保証を国王に請願すれば、 ︵20︶ 通例そのま㌧確認と保証を受け得たのである。 然し第四に、受封者の領有権は、大きな制約をも受けていた。即ち、彼は、既存の世襲役人の役職・役得を任意に 侵害し得なかった。後に改めて指摘されるように封土地域においても、既存の土着世襲の役人たちが、治安・徴税そ の他行政全般を担当し、それに対する役得を享受し続けた。役職の執行と役得の享受を、受封者又はその代官たちに ︵飢︶ よって妨害された世襲役人は、先述の如く、その保護と復権を直接に国王に請願し得たのである。更に、大封土の受 領者でさえも、その地の世襲役人を勝手に制裁すべきではなかったと思われる。例えば、一地方を封土として保有し た或る大臣の揚合、その地の郷主が封土内の二ヶ村を不法に占取したのに対して、受封者はこれを自分で処罰するこ となく、王に訴えて別途に取り締ってもらった事例がある。要するに、大封土の受領者でさえも、その公認された領 ︵22︶ 、 、 、 、 、 有権は、禄の任意・強制徴収権と、恩給授与権とに限られていたと思われる。 以上は、王権によって承認され、或いは意図された公的な機構としての、賞与封土受領者のあり方である。然し、 か㌧る公認された機構や権限が、常にそのま﹂実施され遵守されたという保証は必ずしもない。特に一サムトやてハ ルガナ、又はそれ以上の地域に及ぶ大封土の揚合、受封者の側で、公認された分限を必ずしも厳守することなく、む しろ屡々分立化や独立化の動きを示したと思われる。その意味で、大封土の制度は地方支配との関連で特に重要であ る。そこで節を改めて、大封土運営の機構と受封者の支配権のあり方とを、もっと具体的に考察しよう。 ︵1︶ 例えばサムト・グッタルの郷主ハヌマント・ガーウンダ︵唱ωH鍔<〇一目HZρひ︶、及ぴギリスダー・デサイーの例︵Hげ一げ■− <〇一<・Zo■蟄︶。またムガール帝国で一般に用いられたジヤーギールという語は、アーディル・シャーヒー王国の公文書に は滅多に現われないが、それが現われる揚合を見ると、これは、賞与封土と同じ実体を示したことが分かる。Hげ一ρく9・ト ︵5︶ ︵4︶ ︵3︶ ︵2︶ Hげ箆こくoピロH 乞O■いい 一び置4︿〇一、<︸ 乞ρOoy Hげ箆‘く〇一,目− ZOoQ。一ど一N。 Hげ匡4<oドH押 2ρ一㌣<〇一■目一一2ρNoo, Hげ箆‘くoピ目H 一 ︼ ZO■いoo・く〇一臼一HH 20 0Qoo’ ︵6︶ Hげ箆‘︿〇一■<一 Hげ一自 <〇一■HHH Z9$い<〇一■く、客oψ田−OO■ ZOooQo, ”20■刈どく〇一■<植乞o幹台−刈ρoogOρOoo’ ︵7︶ H玄山‘︿oドH昌 Zo9一ρNgOoo脚ぐ〇一,<’ZoωO一︸旨9一いoo, のOρ<oピく押 b℃9∼総 この﹁覚え書き﹂は、インド史研究所のS・G・ジ日ーシ氏がワーイー市で見出した文書の Hげ置‘︿〇一:︿︸ 客9二〇 ,︾ ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ ︵11︶ アーディル シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二六五 一橋大学研究年報 経済学研究 3 二六六 者の姓名と支配期間を書き並ぺたものである。書いた人の名も、書かれた日付も記されて居ないが、その文体と、そしてアウ 一つで、アーディル・シャーヒー王朝の成立から、一七〇六年、ムガール帝国のアゥラングゼープの没時までの同地方の支配 ラングゼーブの死去までの時期を記していることから判断して、一八世紀の初め頃に書かれたのではないかと推察される。ま たこれに記された各統治者の統治年数は必ずしも正確であるとは思われない。然し、このバルガナを支配したアーディル・シ ワジヒル ムカコサド ワジヒル ャーヒー王朝の高官の名を列記した個所の冒頭に、﹁ビジャープールにユースフ・パードシャーが即位し、国土を区画し、国土 に高官を任命した。そして若干の高官に封土を与え、.ハルガナを分与した。その時以後、ワーイー地方も高官に支配された。﹂ と書かれているから、それに続く二四名の高官は、このパルガナを封土として分与されたものであったと考えて差し支えない と思う。 ︵12︶ 例えば、シャーハジー・ボーンスレーが受領したプーナ、スーパ、インダープールの三.ハルガナを見よ。この封土を基盤 としてジヴァージーはマラータ王国を建設した。またアーディル・シャーヒー朝に武将として仕え、ムドール・.ハルガナを受 封したゴールパデー家も、そのま﹂恒久化し、マラータ時代を生きのぴて、英領時代に藩王国として認められた。U■<・︾讐o O山﹄ミ鼠ぴ&の麟醤象試§§ン璽噺O計ミ㌧9蝋恥Q、§﹃脳N蓮島隻蕊諏罫織恥bOO昌鉾一3命更にbの阜H︿Oピ一却209旨︸這い<O一、目一噂20■ まをも見よ。 ︵13︶ 賞与封土は、受封者の転任や解任ではなくむしろその死亡を契機とし交替される場合も多かった。例えば本論文第二章勅 令の邦語試訳口の註︵2︶、また本論文二五二頁の﹁故アジーズ・カーン﹂の項を見よ。受封者の死亡を契機とする交替は他 にも見出される。また、受封者の反逆を契機とする交替も勿論あった︵bω一鍔くo一・<・20﹂S︶。 ︵14︶ 本論文二四 六 頁 参 照 。 ︵15︶ 型冒一〇ω巨”﹄戚§ぎぎ﹂画蔦申§§﹃ミ国S“oつo一fやNUり<■>℃けΦ&﹄ミ虞RぎNoo§象試醤R罫鴛Q調ミ憶9黛qぎ蕊き斜簿鋤 ﹄職言恥℃oや9f℃℃8∼UP ︵16︶ か﹄る事例は例えばρ国囚げ跨9象ε99ミ辱9噌ミ“qo9き蓉鳶<〇一目℃8轟ち路の至るところに見出される。 ︵18︶ Hげ昼く〇一臼H戸Z8﹂ON9く〇一ー首Zoの﹄ρ2、ごo。を参照。 ︵17︶ 例えぱ勺ωH餌く〇一・H戸2ρ鵠い<9ダ2鐸轟飼o。Oを参照。 ︵19︶ 例えばパルガナ・ワーイーの或る村の村書記兼占星師が、その役得恩給を加増してもらった例としてHげ凶負ぐ〇一■押28 目∼ごを見よ。 ︵20︶ 例えば目玄Fぐoピ押2ρ賠・の○の・く〇一﹂拝20認9く2く一・Z9禽を参照。ムスリムの受封者でさえも、屡々ヒン ドウの聖職者や神殿に恩給を寄進した。 ︵21︶ 郷書記が、受封者に役職を侵害され、王に直訴した例︵b鞍餌ぐ〇一・押Zρ匿︶。また受封者の代官たちが郷主や人民に ︵22︶H獣含‘︿〇一﹂H一−客o駅 対して乱暴をしたならば、朝廷に訴え出よと、王が命じた例︵H夏F︿9<・Zo・8︶。 第四節 大封土運営の組織と受封者の支配権 この節が依拠する史料は、高級官僚たちに対して封土として貸与された一三のパルガナ地域に関する四三通のマラ ーティi語文書である。四三通の内訳は、パルガナ・ワーイーに関して=一通、パルガナ・ファルタンとパルガナ・ ラクシュメーシュワルとに関して各六通、パルガナ・シルワル︵又はシラーレi︶に関して五通、その他のパルガナ に関して各三通乃至一通である。以下の考察は、最初の四つのパルガナの事態を主な対象とする。 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二六七 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二六八 日 封土運営の組織 ムカしサし −、パルガナを封土として貸与された高官は、地元の郷主、郷書記、各村の村長及び村民に対して﹁令状﹂︵囚9ー ︵1︶ 三穿碧︶を発し、同パルガナが彼に封土として与えられたことを告知し、﹁心配も不満も持つことなく、定住して耕 作に従事し、幸福に暮すよう﹂命じた。 2、受封者は、ペルシャ語勅令において﹁代官たち﹂︵誉葺¢.巴一β酵︶と一括して呼ばれる封土管理人たちを任命し た。マラーティi語文書によれば、か﹂る﹁代官たち﹂は必ずしも少数の人々であったのではなく、種々の異なる役 割と呼称を持つ多数の人々であり、しかも、彼らの呼称と役割は、通常、王の直轄区における官僚機構に準じていた ︵2︶ ことがわかる。即ち、封土の首市に設置された﹁役所﹂︵Uぎぎ︶には、封土全体を管理する管理官︵国塁弩鼠聴︶、封 ︵3︶ 土内の主要な町村に設立された﹁駐在所﹂︵6猛鼠︶には近隣の町村を統轄する駐在官︵↓げぎa酵︶、そして役所と ︵4︶ ︵5︶ カ[ルクγ 各駐在所とに、事務官たち︵囚酵ざけ︶と兵士たち︵げ霧訂日︶とが配置された。また﹁事務官﹂は、時に管理官や駐 在官をも意味したが、狭い意味では、事務監視人︵蜜暗ミ程︶、事務長︵留a蹉鼠博︶、駐屯軍隊長︵留旨騨ロげ魯︶、財務 ︵6︶ ハワ 員︵冒魯甘目&剖︶、給与支払係り︵ω筈巳。︶、金庫保管人︵U畦↑畦犀げ器︶、通信書記︵○獣言包、ペルシヤ語書記︵霊− まルダドル 雷旨邑などを含んでいた。これらの代官たちについて三つの重要な点を指摘しておきたい。第一に、大封土の管 理官の大多数はヒンドウであったと思われる。例えぱパルガナ・ワーイーでは、エハ三六年から一六六七年まで、三 ︵7︶ 一年間に延べ少くとも一八名の管理官が任命されたが、そのうち四名がムスリムで、一四名はヒンドウであった。第 ニに、﹁事務官﹂の圧倒的多数もまたヒンドウであった。少くとも彼らの姓名が明記された若干の文書によると、事 カ ルクン 實ガーワノ ヘ&︶ 務監視人と駐屯軍隊長とがムスリムである他は、すぺてヒンドウである。そして第三に、これらの事務官のうち、少 くとも下級の書記たち︵例えば給与支払係りと通信書記︶の中には、その仕事を家産として保持し、代々世襲で同じ サプユドス チトニドス ワタン ︵9︶ 職揚において同じ仕事に従事する者も居た。このような事態の意味は、後に一括して考察される。 3、受封者は、その代官たちを任命・派遣するに当って、地元の郷主以下世襲役人に対し、右の任命を告知し、 ︵10︶ ﹁︵代官たちの︶言うことに従って仕事をせよ。⋮−日夜彼らの身辺にあって勤務を励行せよ。﹂とか、﹁︵代官たちの︶ ︵11︶ 言うことは、私の言うことであると知れ。﹂とか、或いは、﹁︵代官たちと︶一体となり、貴下の誠意︵鼠巳魯犀ぎ寓︶ を披渥せよ。﹂と命じ、代官に対する彼らの服従を要求した。 ︵E︶ 右に指摘された諸事例に基づき、封土運営の組織について恐らく次のように一般化し得る。ω王の直轄領における と同じく、一円封土の支配機構も二重性を持った。即ち土着世襲の役人機構と、その上に君臨した受封者の代官機構 とである。口この二重の機構において、世襲役人だけではなく、代官たちの大多数もヒンドウで、しかも主としてバ ラモンであり、そして下級の書記職の少くとも一部は世襲であったという事実は、この王国のムスリム高官でさえ、 その封土の日常的運営に関して、原住民の代表的社会層の出身者に、ほぽ全面的に依存せざるを得なかったことを示 ノ ド パ ト している。国ムスリム受封者は、封土の運営全般をヒンドウに依存しつつ、事務監視人と駐屯軍隊長との職に特にム ニ ガ ロ ワ ン サ リ スリムを任用して、ヒンドウ代官たちの封土管理を牽制させたのではないか、と思われる。 ︵1︶ のOρ<oHH < ” Z ρ 認 O 、 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年−一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二六九 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二七〇 鼠鼠。巳客呂冒巳鋤国零鋤鼠目奉因助詩巨罵誓註Φ跨oδ旨鋸暑典。蕉欝①器o呂9目鼠巳暮浮oぼ坤げ冒堅言o⋮、.、 ︵2︶の○ρ︿〇一●<日,Z9章、.器↓爵算臣ぎ。−︾二鋒昏ぎみ酵田一倒U①昌U①の目山浮評茜弩国ω鼠一。窪鼠ロ呂⋮目㌣ ︵3︶H玄師こくo一,<日”客ρ占..震塗臣詩鼠βΦ⋮>嘗一犀げぎ⋮σaぎ①げ田︺則u。ω鋤一評お費冨ω鼠一①・−2筈同峯二琶冨齢。ぽ ↓げ似OOα曽吋団 犀P﹃山旨:ら唇暫げ似一似ω 20附 目簿げ箇R口帥α↓げ似召臼α帥り・・℃勢けげく旨似鋤げΦ・:■︵、 ︵4︶目露F︿o一,押客o■轟軌■h、鶴冨匡δ臣ぎ。−ま琶浮ぎみ農零筥鼠↓一団u。昏日爵げ奉竃國猛鼠一同U9ざ一匿后同評霞程魯 の一暑包玄鼠ロ&−脚翁5鼠5昌。5誉碧Hω囚四詩琶U象ω一鼠喰一#8①鷲卑g碧①。鼠一く団ご習Φ⋮’、、 ︵5︶一げ一ρく〇一﹂く鳩20。。甲翼ω㍉恥μ醤9 ︵6︶ 例えぱパルガナ・ファルタンにおける或る村長職に関する紛議の裁定書がある。これに示された集会出席者のうち囚甲 詩ロロの項目の下にω箆o冒β吋β目α日鋤⇔a跨”Z舘ωoOo旨ど剛ωやげ巨く貫ピ似げ鋤旨ど同Oo<5α冒a旨Oα跨と記されている ︵Hσ“<o一日<︸2ρ認一︶。またパルガナ・ワーイーの或る村長職の紛議に関する裁定書において、囚騨一e昌卿三の項目の下に、 国どωげ臨ワ飼おo囚似昌げo℃臼5α淳国騨く堅島似却ピo廿山一昌犀げ帥ロ2蒔げ脚く帥け・2国↓oOo唱層一の卑励山即津騨鉾国騨鴇四一凶客似ヨ鋤旨ωロげづ団ω・<Φ, チトユドス げ鋤一剛鴫〇一げO℃似↓魯の口一〇〇︸2似σQO6二昌誉陣一℃跨昏け旨陣一ヨ帥α似ジ2餌↓OM︻騨bげOUやhけO肺﹃げ冴12跨一卑同犀げ鋤けの騨噌口Oσ勢“<苫げ即一囚帰陣切げ口帥 ○げ暮b凹のと記されている︵H烹P︸<巳,<目劃2ρ刈O︶。 ︵7︶Hげす︸<〇一 , ≦ ” ℃ や ま ∼ ひ o 。 ︸ ︵8︶ 例えぱ上述註︵6︶を参照。 ︵9︶ 例えぱ、プーナの東南方サースワド地域のサースワド町の駐在所に勤務した通信書記及び給与支払係の二つの職は、昔か タロナ クルカルニド ワ タ ソ ら代々、その町の書記ボーキール家の世襲職であったと記されている︵Hσ一F<9■H鍔2ρ斜章︶。.、⋮閃ど昌昌冒餌げ践ど一 ぎ目嵩切o巨旨且く崖δ犀①一。匡囚器げ。ω傍≦区囚跨旨け目a犀日岩浮同一↓鼠邑旨。霞Oぼ9鼠奉円寓巳旨。ぽ一〇瓢。日 ω暫げ三玖げo謹帥9昌鋤胤①b自鼠一四昌犀母獣巳山鷺吋碑固a℃日≦島巴暮田o、・;.、ただしこの記録は、一七一七年マラータ王国の シャーフー王の時代の記録である。 ︵−o︶H瓢自こぐ。一H.客。串、、器霊匹蒔賎冨−髭芭寄ぎ−鼠−uΦ旨呂百声−∪①降巳監旨圃b角↓の簿目鱒腔賊く蟄一げ置ぎ騨α−・ 囚鋤爵冒互の同路管=8①肩陣目習Φ。鼠一く団ご習①⋮扇貯象ω囚似爵巷轟博鍔o塁昌鱒監。。=降。。ぼ壁互p.、 ︵11︶蜜α‘く。一く日、2。轟警.器雷匹δ昏ぎ。⋮葭︺巴窪ぎみ四⋮uΦ弩爵げ℃跨αq目蹟一擁﹄。げ藷昌帥α,−け①5鴇①げ。一含Φ艶 8卿目。鼠峯藍器ヨao謹犀鼠菖ユ蟄目似吋跨爵日習卿野耳霧opβ轟鼠ζ昌昌雲パ冨o眉o・−・、、 ︵皿︶H匿こ葦く目レ:轟,、.鶴露窩蒔野。⋮盈美鼠昌⋮鼠⋮u。ω忌寄寄窓冨の莚。げ一量跨α⋮鼠げ帥蜀ωz慧, 目ロ蜀国零巴α習奉囚卿詩目冨昌三一〇爵①¢蜜雪<①一集算①霧o雲菩目α程ポけ犀ぎげご謬冒寄暑Φ⋮・、、 目 受封者の支配権 ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ﹀ 受封者は、右に考察した如き代官組織を通して、ほぽ次の如き主要な内容を持つ支配権を行使した。 ︵1︶ 1、既に一般的に指摘されたように、受封者は、封土内の郷主及ぴ郷書記の恩給村及び恩給地、村長及び村書記の 恩給地を追加し、或いはヒンドウ神殿にも恩給地を施与し、またヒン下ウ聖職者の恩給取得をも加増して与えた。カ かる恩給授与権は、受封者に対して認められた権限の一部であり、従って、彼によって追加・新設された恩給は、朝 ︵5︶ 廷によっても、後継の受封者によっても通例そのま㌧承認された。 2、受封者は、世襲役職やその他の権益に関する紛議の当事者から提訴を受け、当事者たちと地域代表者たちとを 喚問して、裁判集会を開催し、集会の名において裁定を下す司法機能をも保持した。尤も、か㌧る集会には、受封者 ︵6︶ 自身は通常臨席することなく、彼の代官たちが出席した。いずれにしても、か㌧る司法機能が伝統的な集会裁判の原 アーディル・シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二七一 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二七二 則に従うものである限り、それは当然に受封者の公認された権限に属した。 3、受封者は禄の任意・強制徴収権を保持した。そして禄を直接に人民から徴収し、それを代官たちに納入する責 任を、受封者によって負わされたのは、言うまでもなく郷主以下の世襲役人であった。例えば或る受封者は郷主に対 し、﹁郷主の任務︵瓢団鼠︶は、地域を⋮⋮一尺も未耕状態に放置せぬこと、若しも未耕地があるならば、︵農民に︶ 鋤︵鼠凝跨︶の︵無償授与の?︶保証と、年次累進税︵謎鼠鈷︶の保証とを与え、全土地を耕作させること、そして 年々税収を増加させること、これが貴下の慣行的任務︵βお浮︶である。⋮⋮主君︵鶏ぽび︶への奉仕を実行し、地 域の耕作を実施した上で自分の権利︵げ酵、即ち恩給役得︶を食まれよ。⋮地域の人民︵声藩εに種々の慰安を ︵7︶ 与え、努力して鋤を取らせよ。一尺の土地も放置されぬように、耕作を行わせよ。﹂と命じた。このようにして禄の ターネダール ︵8︶ 徴収と納入の責任を負わされた郷主以下の世襲役人は、その地の駐在官の監督と助言を受けて、各村から禄を徴収し、 それを最寄りの駐在所に納め、或いは直接に封土首市の役所に届けるぺきであった。要するに、受封者は、代官機構 タ ー ナ ︵9︶ デイワーン ︵⑳︶ と世襲役人機構とを通して、人民をいわぱ強制的に耕作させ、そして禄を強制的に徴収する権限を保持したのであ る。 上述の如く、司法集会を開催し、恩給役得を授与し、そして禄を強制的に徴収することは、封土の受領者が公的に 承認された権限に属することであった。然し、大封土の受領者は、事実として屡々その権限を逸脱して支配権を行使 したと思われる。 その端的な事例は、王権によって承認・保証され、その意味で﹁神聖不可侵﹂な世襲役人の役職や役得、或いは神 殿や聖職者の恩給取得を、受封者やその代官が侵害したことである。例えば、受封者が交替した揚合、新受封者の代 官たちは、屡々、領内の世襲役職や、神殿・聖職者の恩給権益を検視して回り、か、る役職及び権益を新しい受封者 によって再確認してもらうことを要求した。そしてか㌧る要求を無視すると、代宮たちは、役職の執行と権益の享受 ︵n︶ を妨害乃至は阻止したのである。世襲役人や聖職者にとって、王の授けた権益保証の勅令を提示するだけでは、屡々 ︵m︶ 不十分かつ不安心であったのであり、彼らは、新しい受封者の﹁令状﹂をも下付してもらわねばならなかった。 か﹂る検視は、通常は、受封者及ぴその代官たちの権威を、世襲役人や聖職者や一般人民に印象づけ、これらを服 従させる以上の目的を持たなかったであろう。従って役職や権益の再確認を申請すれば、受封者はこれを即座に承認 し、保証するのが通例であったと思われる。 然し少くとも時折り、受封者は、例えば郷主の役職に関する紛議に介入し、役職の執行を一時停止した上で、その ︵13︶ 保持者と﹁示談﹂︵旨目鋤鼠きげ鼠︶を行い、多額の金品︵例えば二、四〇〇ルピー︶を強要した後、改めて役職を返還 する.一ともあった。それだけではない。飢謹のため、或る村の村長と村民が逃散した時、封土の管理官は村長を役所 に喚問し、﹁村の耕作と税の査定を実施し、役所の徴収分を納入せよ。若しもお前が村の耕作と税の査定を行わない ならぱ、村長職を役所に寄託せよ。村長職を誰か他の者に与え、役所の村を耕作させ、税を納入させよう。さもなけ れば、村の税の代りに、お前の首を刀で切る。﹂と威嚇し、そして事実村長を投獄して村長職を勝手に三分割し、そ の二っを他の者に与えてしまった例さえある。 ︵14︶ 要するに、大封土の受領者とその代官たちは、王権によって保証されていた筈の役職や権益を、時には侵害し、そ アーディル.シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二七三 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二七四 して公的に承認された権限を越えて、少くとも時折り任意に制裁力を行使した。つまり受封者の側では、その封土支 配権が受けた制約を出来るだけ排除して、可能な限り徹底的な領主権を掌握しようとする欲求とその動きとがあった と言い得る。反面から言えば、郷主以下世襲役人の役職と役得は、王権によって保証されたものとはいえ、事実とし て、必ずしも安全・確実なものではなかった。彼らは、屡々その役職をかけ、そして時には生命をさえかけて、受封 者の支配権の下に置かれたのである。 2ρN頓 ︵1 ︶例えばω8”ぎ一,戸客8﹄Oざまo。︸く〇一ーく斜20。。■§8讐8︸く鼻くH月 を参照。 ︵3 ︶例えばHげここ<〇一,くど乞ρ訟を参照。 ︵2 ︶例えぱHσ一負く〇一■ど2ρき ぐ鼻一く・2ρΣOを参照。 ︵4 ︶例えばHげ一F︿〇一﹂戸20・器ひ90・を参照。 か、る集会裁定書の例としての○の”くoピト298モ〇一﹂ヌ客o幹$担認ごく〇一臼詣”2ρどく。一<H戸客ρまを参照。 ︵5 ︶b曽鍔く〇一■月之oの■匡∼一い,ωOρく〇一■口︸20■まごく〇一●目戸20幹a℃器9︿oピ<HHH・20・撃・ H玄αこくoド一讐客o﹄い職^巴↓欝窪匹ぎΦ;ヒ︺巴寄思⋮扇・⋮u。旨旨偉ドげ舌⋮uΦ。。5一匿旨団b暫聴磯騨旨山のゆ暑ロ一げ一島ロ費q ︵6︶ ︵7︶ :u窃艮浮。ぽ蛋島似富賦く藏蚤団ぼ。。属け聾雇巷呂茸。島亙g&ご馨団こ畳一gの。=旨雲葺帥同。冨奉 臼oo叫けoげ 一ω響Φ。ぎぎ三げ。乙。鼠p讐誓善三藍昆同急囚霧ぎの弩げ匿三翼。富曾暮劉くΦげ雲琶9①﹃帥<①の寓冨. 寄旨跨冒く§。昌鼠馨擁同再目畳①藝匹卿く①<§。ξ§・藝国帥蓉匿鼠げ。鼠目団窪げ旨”<げ。卿憂仁巨一 藍ゑ。冨竃①琶げ騨ビ:畳呂象劉琶目藝響窪藷騨乙耳畳こ①ゴ四ω自昌ご卑凸ご巴堕。寓擁臼 吋曽博費くご¢:●い℃ ︵8︶憲q㌔。一≧揖多a■.、・−鼠墨似を印昏富塁竃野§畦−b響く臨罫①鼠磯誕国鼠く同¢犀暫一ω同再Φ普当 謬o⋮冨帥毒管o浮似膏①の習義一奉g旨匡寓鼠鼠ヨ目o冒鴇日爵菩蒜犀遭冒山①督①⋮犀ゆ寓一犀ゆ㎏勾ヨz自一旨騨ぽ即目帥鶏、 冨一醤①8憂。げ。一山g一一εぎ§誘轟留き︺。匡犀藝琶鼠匿鴇言鼠墜碑即ω。匡昌暫断域甚帥吋冒のβ臣Φ§。 緬M ︵9︶H三q‘<。一﹂<−乞。の・刈参団斜u・ ︵−o︶H画山こく〇一﹂■20ム9.、⋮ω弩鼠翁一魯の縞ω習剛け鼠獣昏・−uζ習剛昌。b麟涛①u著9似の団ロΦ色縞ユ蟄吋日①口。卿宕魯管①恒。 言目魯①旨a巴募岩謬3⋮、、︵受封者から郷主への命令。︶﹁年々の税を持参することなく、.⋮・.役所の金を役所に届けない で、自分で着服するとは、貴君の身分は一体何なのか。﹂ ︵11︶ 例えばωOρ︿o一﹂月20幹鵠”紹α︾鴇o。い緯沖睾ρ摯怠象9誤9<典HざZρNb。ご<。一<H︾29ひ9く。一・<H一・29 い9くo一,<H一 H ︸ 2 9 撃 を 参 照 。 ︵12︶ H玄自‘くo一■目斜28■総ρ総oo一くo一・<悶一2ρ賂・ ︵13︶ Hび5■︾︿〇一,H<120・刈NN・ ︵u︶量α:巨く目レρ刈ρ巳い..⋮αq四§富野畳聾。け且婆言u一善酵。↓畏蟄邑蟄ωま①・①一印同ぎ葛鷺く団。げ。 野畳馨§甚。葺蟹け琶評琶ひq凶u一善。冨匿邑謬費還琶吋。暑b暮①転飢Φ冒u轟嘗。げ①αq鐸鼠鼠¢自け閃帥厩冒 自霧薮ω習帥昌跨α暫旨凶簿ヨ巴ロ騨犀鷺一萄管49①び£ヨ同げ国富一ε岳αQゆaき畦町卿けの三同α。β:、、ただしア一の村長は、次の 二七五 受封者の時代に、前任者の不法弾圧を訴えて裁判集会を開催してもらい、勝訴して村長職全部を復活してもらった。本論文第 四章第一節註︵12︶︵一ニニ頁︶を参照。 アーディル シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 一橋大学研究年報 経済学研究 第七章 結 8 二七六 ても、その領有権の主な内容をなすものは、郷主の揚合と同様、禄の任意・強制徴収権と恩給授与権にとどまったの そして、そこに見出された三種類の封土のうち、第一の種類は定額を授与したに過ぎず、第二及ぴ第三の種類につい うな資椿に基づいて付与されたにせよ、封土領有権は原則として一時的に付与されたのであって、世襲ではなかった。 く見出される性格であった。そこで彼らの﹁封建官僚的﹂側面に目を転じ、彼らの封土を考察すると、それがどのよ 国 か㌧る二面的性格は、直轄区管理官にのみ見出されたのではなく、王直属の中級及ぴ特に高級の官僚にひとし 有権を保持した。この意味で彼は﹁封建的官僚﹂の一面をも有した。 随時に任免された﹁家産的官僚﹂であった。然し彼もまた、自己の負担で兵馬を保持し、そして一定地域の一時的領 口 王の直轄区に任命・派遣された管理官は、王のために防衛・治安・徴税その他行政全般を担当し、王によって 権も含むものではなかった。 として、公認された恩給役得の強制徴収権と、村役人その他に対する恩給授与権を内容とし、任意裁判権も任意制裁 自己の負担で手兵を保持し、そして、管掌区域内の一部の永代領有権を公認されていた。ただし、この領有権は、主 の勤役に従事した﹁役人﹂であって、管掌区域全体の﹁領主﹂ではなかった。然し、世襲役人のうち、特に郷主は、 ⑭ 郷主以下の世襲役人は、王又は王によってその地域を封土として貸与された官僚のために、徴税、治安その他 以上の研究は次のように要約され得ると思う。 語 であり、大封土の受領者と言えども、既存の世襲役職やその他の権益を勝手に侵害することを・公的には許されなか った。これらの役職や権益は、伝統的な集会司法制度とそれを支持する王権とによって保護されたのであり、その意 味で﹁神聖不可侵﹂であった。 ㈲ 然し、高級官僚が付与された大封土の揚合、その与奪の条件も、不明瞭な﹁廉直﹂であり、そしてそこに行使 される領有権も強大であった。従って当然に、受封者の側で、封土領有権に随伴した諸制約を無視し、﹁封建的領主 化﹂を徹底させるための大きな可能性と、現実の動きとが存在し、そしてそれに応じて領内世襲役人の受封者に対す る従属の度合いも強まった。 に対する情緒的.実際的編絆とが弛緩すれば、むしろ急速に、王の役人乃至は宮僚から、地域全体の﹁領主﹂へと転 国 更に、大封土の受領者だけではない。世襲郷主も、そして直轄区の官僚群でさえも、王権による統制力と、王 化し得る大きな可能性を持っていた。 以上の諸点を要するに、この王国は、地域的な分化乃至独立の多様な契機を大きく内包した中央集権国家であった、 と一一一一口い得る。そして、地域的分化.独立の動きが生じたとすれぱ、それは、e大封土の受領者又はその代官たち、口 郷主その他の世襲役人、国直轄区官僚群、これら三者の複雑な対立や、相剋や、妥協や、結合を通して行われたであ ろう。制度史的観点から見る時、か﹂る事態の最も顕著な事例がシヴァージi勢力の擁頭であったかも知れない。 他方、アーディル.シャ;ヒi王朝は、外来の征服王朝として不可避的に、その支配機構の末端になればなるほど・ 原住ヒンドウ教徒の代表的社会層を大きく活用し、日常的支配のほぼ全部面にわたって・彼らに依存せねばならなか アーディル.シャーヒー王国︵西暦一四八九年ー一六八六年︶の地方支配に関する一研究 二七七 一橋大学研究年報 経済学研究 8 二七八 った。即ち、世襲の役人機構については言うまでもなく、ムスリム高級官僚の封土における代官機構でさえも、その 日常的運営を担当したのは、主としてヒンドウの代表的社会層の出身者であった。か㌧るヒンドウの有力者層を末端 にふまえたムスリム支配が、ヒンドウ全体の社会秩序や経済構造に対してどのような効果や影響を及ぼしたであろう かという問題は別として、少くとも一つの点だけは明らかである。即ち、ムスリム支配の真只中において、その支配 権に随伴しつ﹄、行政の日常的技術に習熟した尾大な数のヒンドウが不断に存在した、ということである。そして、 一七世紀中葉、この王国の西北辺境において、シヴァージーの卓越せる指導の下に、ヒンドウ勢力が大きく擁頭し、 急速に領土を拡張して国家体制を整備するに至ったその動きは、ムスリム支配下において行政技術を体得したこれら 多数のヒンドウの積極的な支持と参加を得ることによって初めて可能であったであろう、ということもほぼ確実であ る。その意味で、マラータ勢力擾頭のための、行政機構的基盤は、既にムスリム支配下において準備されていた、と 言う こ と が 出 来 る 。
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