Er3+イオン NTT物性科学基礎研究所における量子光学研究の最前線 167 超微細構造準位 ボソンピークモード Er3+イオンの精密分光で探るガラスの物性 私たちは1.5 μm光通信波長帯における光書き込み量子メモリへの応用を 目指して,シリカガラス光ファイバ中にドープされた167エルビウムイオ ン(167Er3+)の超微細構造準位の利用可能性を検討しています.167Er3+イオ ンの準位の安定性(寿命)がメモリ時間を決定するので,寿命に関する詳 細な情報が必要となります.本稿では,超微細構造準位の寿命を測定して いるときに,私たちが偶然に発見した寿命の異常な温度依存性と,それを もたらすガラスの物性について紹介します. 寿命の異常な温度依存性の発見 はしもと だいすけ 橋本 大佑 し み ず かおる /清水 薫 NTT物性科学基礎研究所 ,3) なるという予想外のものでした(2)( . 在比23%)のみ核スピン 7 / 2 を有し 通常の結晶中では,温度Tが低下する ています.この核スピンから生じる磁 ほど t 1の逆数である縦緩和レートβは 場 と 電 子 と の 相 互 作 用 に よ っ て, として利用しようという企図から , 小さくなり,寿命 t 1は急激に長くなり 167 光学結晶中にドープ(添加)された希 ます(β∝T n ) .そのため,観測され の超微細構造準位に分裂します.こ 近年,量子情報の光書き込みメモリ (1) 167 3+ Er3+イオンの各副準位はさらに16個 土類イオンのサブレベル(超微細構造 た異常な温度依存性は Er イオンの こで,それぞれのエネルギー間隔は, 準位やゼーマン準位)に関する研究が 周囲がガラスであることに起因してい 1 GHz程度です. さかんに行われています.このような ると考えざるを得ません.このような シリカガラス光ファイバ中にドープ サブレベルの寿命 t 1や位相コヒーレン 不思議な現象が生じる原因を追究して されたEr3+ イオンの光学遷移の特性 ス時間 t 2の値がメモリ時間を決定する いるうちに,これまでに知られていな はすでによく調べられています.例え ため,t 1や t 2の長時間化(秒〜)を念 かったサブレベル寿命 t 1とガラスに ば,その不均一広がりは 1 THz程度に 頭に系統的な研究が進められています. NTT物性科学基礎研究所でも同様 の 企 図 の も と, エ ル ビ ウ ム イ オ ン 3+ (Er )をドープした光学媒体の可能 性を検討しています.その中でも,シ リカガラス光ファイバ中にドープされ 167 3+ た Er イオンの超微細構造準位は有 *2 特 有の格子振動 であるボソンピー も及びますが,均一広がり* 4 は温度 ク* 3 との関係性が明らかになってきま 1 Kのときに10 MHz程度となります. した. また,その光学遷移の寿命T 1は温度 シリカガラス光ファイバ中にドー プされたEr3+イオン にはあまり依存せず,10 msです.こ れは,結晶の場合と同程度です.一方 で,超微細構造準位の特性に関しては シリカガラス光ファイバ中にドープ 3+ 詳細な研究はまだなされていません. 力な候補の 1 つです.その理由は,① されたEr イオンのエネルギー準位 その理由は,そのエネルギー間隔にも 1.5μm光 通 信 波 長 帯 に 光 学 遷 移 構造を図 1 に示します. ガラス中では, 不均一広がりが生じるため,そして, その構成原子やイオンからの局所的な 結晶ホストの場合に比べて t 1が短いた 4 4 ( I15/ 2 扌 I13/ 2 )を有する,②導波路 4 による光閉じ込めの効果により光と 電場によって,基底状態 I15/ 2 や励起 Er3+イオンの相互作用が増強される, 状態 4 I13/ 2 はそれぞれ 8 つと 7 つの副 ③光学遷移の不均一広がり* 1 により 準位に分裂します.なお,これらの隣 広帯域化への期待が可能, の 3 つです. り合う副準位間のエネルギー幅は周波 そこで私たちは,独自の分光手法に 数に換算すると,およそ数100 GHz〜 より,冷却に伴ってサブレベル寿命 t 1 1 THz程度です. がどの程度長くなるか調べてみまし ところで,Er原子核の同位体は多 た.ところが,結果は t 1がむしろ短く いのですが,その中で唯一167Er(存 24 NTT技術ジャーナル 2014.6 めです.よって,飽和吸収分光法* 5 *1 不均一広がり:各Er 3 +イオンの周囲のガラ ス構造の違いにより生じる遷移周波数の広 がり. *2 格子振動:結晶やガラスを構成する原子や イオンの振動. *3 ボソンピーク:ガラス中の格子振動の状態 密度に現れる振動周波数 1 THz付近を中心 とした幅〜 2 THz程度のピーク. *4 均一広がり:1個のEr 3 +イオンの光学遷移 が有する遷移周波数の幅. 特 集 の寿命T1や超微細構造準位の寿命 t 1に 7 th 4 応じて,基底準位に緩和します.これ I13/2 Er 3 + 167 励起状態 2 nd により,プローブ光パルスの吸収が増 大し,透過光強度の過渡的な減少とし て観測できます.すなわち,得られた 透過光強度の減衰の様子を調べること 1 st 光学遷移 で,T1のみならず t 1も見積もることが 1.5 μm できるのです. 8 th 実験系の概略を図 2(a)に示します. 実験には,4.5 mの単一モードのEr ドープシリカガラス光ファイバを用い 2 nd ました.波長を1533.2 nmに設定した 線幅100 kHzの波長可変レーザからの 数100 GHz ∼ 1 THz 基底状態 4 I15/2 光をポンプ光とプローブ光に分岐しま 1 st す.そして,分岐した光を音響光学素 子(AOM)* 7 によりそれぞれパルス ∼ 1 GHz 化します.パルス化されたこれらの光 は, クライオスタット(低温冷却装置) 副準位 超微細構造準位 図 1 シリカガラス光ファイバ中にドープされたEr 3+ イオンの エネルギー準位構造 中で冷却されている長さ4.5 mのEr ドープシリカガラス光ファイバに対向 照射されます.そして,透過してきた プローブ光パルスの光強度を測定しま す.ポンプ光パルスとプローブ光パル *6 やフォトンエコー法 などの従来の 分光手法をそのまま用いたのでは,t 1 移の吸収を飽和させます. これにより, スの入力光パワーはそれぞれ− 6 dBm 1.53 μm付近に遷移波長を有する特定 および−27 dBmです.光パルスの時 167 3+ の Er イオンが選択的に励起されま 系列は図 2(b)に示すとおりです.パ す.これらのイオンについては,図 1 ルス幅45 msのポンプ光パルスの照射 に示す励起状態,および基底状態の超 を終えた直後に同じくパルス幅45 ms NTT物性科学基礎研究所では,t 1 微細構造準位のそれぞれに電子が確率 のプローブ光パルスを照射します.そ の値を測定するために過渡的飽和吸収 的に分布することになります.この状 して,周期100 msでこのサイクルを 分光法とも呼ぶべき手法を試みまし 態でポンプ光パルスをオフにすること 繰り返しています. た.これには 2 つの段階があります. で,②へと移行します.②では,ポン すなわち,①吸収飽和による初期状態 プ光パルスをオフにした直後に,周波 の準備,②その後の緩和による終状態 数は同じですが光強度が弱いプローブ への移行です.①では,光強度が強く 光パルスを照射します.ポンプ光パル て充分な時間幅を有するポンプ光パル スの光強度に比べて十分弱いために, の値を測定することは困難です. 寿命の測定方法 3+ スをEr イオンに照射して,光学遷 各準位の電子の分布確率は,光学遷移 *5 飽和吸収分光法:不均一広がり中に埋もれ た一部のイオンの均一広がりの様子を調べ ることができる分光手法. *6 フォトンエコー法:不均一広がり中に埋も れた一部のイオンの位相コヒーレンス時間 を調べることができる分光手法. *7 音響光学素子:光学媒体中に発生させた音 響波により入射光を回折させ,その強度変 調を可能にする素子. NTT技術ジャーナル 2014.6 25 NTT物性科学基礎研究所における量子光学研究の最前線 167 Er3+ イオンの超微細構造準位 の寿命特性 ガラス光ファイバに対するプローブ光 時定数にしたがって,その強度が減衰 パルスの透過光強度の時間変化を図 3 していく様子が観測できています.こ (a)に示します.光学遷移の寿命T1や超 の結果から, 4 Kにおける t 1の値は3.1 微細構造準位の寿命 t 1に応じた 2 つの 4 Kに冷却されたErドープシリカ msと求めることができました. (a) 寿命測定のための実験系 ポンプ光 波長可変 レーザ アイソレータ AOM プローブ光 λ=1533.2 nm 線幅100 kHz アッテネータ (減衰器) クライオスタット AOM (b) 光パルスの時系列 100 ms 光検出器 光強度 ポンプ プローブ 45 ms 45 ms 4.5 m Erドープ シリカガラス 光ファイバ (2.5∼30 K) ポンプ 時間 図 2 寿命の測定方法 (Hz) 120 110 −0.5 100 t1に応じた時定数 縦緩和レートβ プローブ光パルスの透過光強度 0 −1 −1.5 0 5 80 70 60 T1に応じた時定数 50 t1=3.1 ms −2 90 10 15 20(ms) 40 0 5 10 (a) 4Kにおけるプローブ光パルスの透過光強度の時間変化 NTT技術ジャーナル 2014.6 20 25 −1 (b) 縦緩和レートβ= (3 t1) の温度依存性 図 3 167 Er 3+ イオンの超微細構造準位の寿命特性 26 15 温 度 時 間 30(K) 特 集 続いて,30 Kから2.5 Kまでの温度 範囲で同様に t 1の値を調べてみまし −1 た.縦緩和レートβ=(3t1) の温度 依存性を図 3(b)に示します.30 Kから 20 Kの温度領域では, 2 π×7.5 Hz程 度の一定値を示しています.そして, 的にどのように説明されるかを解説し 度Tに比例するので,ホップする確率 ます. もTに比例します. ガラス中のBPM(ボソンピーク BPMとの相互作用による緩和 モード) ガラス中のEr3+ イオンの超微細構 ガラスには結晶と異なり,並進対称 造準位の緩和に話を戻します.私たち 20 Kから 4 Kの温度領域では温度低 性の欠如と構造の不規則性という特徴 は観測された寿命 t 1の温度依存性のプ 下に伴ってβの値が 2 π×8.6 Hzから があります.この不規則性のために, ロファイルを再現するために,BPM 2 π ×17.2 Hzまで増大しています. 波長の短い格子振動(フォノン)は伝 との相互作用による超微細構造準位の このように,30 Kから 4 Kまでの温度 搬することなく局在してしまいます. 縦緩和レートを計算しました.Er3+ 領域では,温度を低下させているにも すなわち,単純な伝搬モード以外にも イオンから眺めると,近傍にBPMが かかわらず,βの値がむしろ増大し緩 さまざまな低エネルギーの振動モード いてもやがてホップして飛び去ってし 和が促進され,超微細構造準位の寿命 が存在する可能性があるのです.実際 まうので(図 4 ) ,その滞在時間を相 t1が短くなる,という異常な温度依存 に,種別を問わずガラス中の格子振動 互作用時間,もしくはBPMの寿命と 性が観測されました.これは,温度の には振動周波数 1 THz付近を中心と 考えることができます.温度が低いほ 低下に伴って,量子状態が安定になる した幅の広い(〜 2 THz程度)状態密 どBPMの滞在時間が長く,充分に相 *8 という通常の理解とは真逆の結果で 度 のピークが現れることが半世紀 互作用するために,かえって超微細構 す.例えば,Y2SiO5結晶中にドープ 前から知られており,これはボソン 造準位の緩和が促進されると考えられ されたユウロピウムイオン(Eu ) ピークと呼ばれています.しかし,そ ます. の場合,18 Kから 4 Kまで温度を下げ の素性や起源については統一的な見解 実験結果と計算結果を比較した様子 ると,超微細構造準位の縦緩和レート は得られないまま現在に至っています. を図 5 に示します.温度低下に伴って 一方で,この10年近くの間に中性子 縦緩和レートβが増大する様子を再現 3+ −6 が 2 π ×0.1 Hzから 2 π ×10 Hz程 *9 *10 できていることから,BPMの局在と, 度まで減少します.これら結晶中の希 散乱 土類イオンの超微細構造準位の緩和を て,ボソンピークを担っていると考え 伝搬フォノンとの相互作用によるホッ 調べた実験結果との比較から,今回観 られる格子振動モード(BPM:ボソ プという描像が基本的なポイントを押 測されたβの異常な温度依存性は,シ ンピークモード)の特徴が次第に明ら さえていることがよく分かります.な や光ラマン散乱 などによっ (4) リカガラスホストの非晶質性に起因す かになってきました .シリカガラス お, 8 Kから2.5 Kでは,実験結果を るものであると考えざるを得ません. 中のBPMは局在性の強いモードであ 再現できていませんが,考えられる原 一方で, 4 Kから2.5 Kの温度領域で ることが示唆され,光ラマン散乱の結 因としては,BPMの状態密度を正確 は,さらなる温度低下に伴いβの値が 果からは,BPMが堅牢な構成単位で に評価できていないか,ほかの振動 2 π×17.2 Hzから 2 π×16.0 Hzまで あるSiO4四面体のねじれ運動に関係 減少しており,通常の説明が適用でき したモードであることが判明していま ます. す.また,非常に興味深い別の特徴と このように,今回NTT物性科学基 して,あるサイトに局在しているBPM 礎研究所では偶然,超微細構造準位の が伝搬性を持つ音波を媒介として別の 縦緩和レートβの異常な温度依存性を サイトにホップするということも示唆 発見しました.次に,この現象が物理 されています.音響フォノンの数は温 *8 状態密度:単位エネルギー当りの量子状態 の数. *9 中性子散乱:測定物質に照射された中性子 線の散乱の様子から,物質を構成する原子 の原子核や核 ・ 電子スピンの空間配列 ・ 集 団運動を測定するための手法. *10 光ラマン散乱:測定物質に照射された光の ラマン散乱の様子から,物質を構成する原 子や分子のエネルギー準位構造を測定する ための手法. NTT技術ジャーナル 2014.6 27 NTT物性科学基礎研究所における量子光学研究の最前線 167 Er 3 + Simon, and N. Gisin: “A solid-state lightmatter interface at the single-photon level,” Nature,Vol.456,No.7223,pp.773-777,2008. (2) D. Hashimoto and K. Shimizu: “Population relaxation induced by the Boson peak mode observed in optical hyperfine spectroscopy of 167 Er3+ ions doped in a silicate glass fiber,” J. Opt. Soc. Am. B,Vol.28,No.9,pp.2227-2235, 2011. (3) 橋本 ・ 清水:“ガラス中のEr3+イオンのサブレ ベル分光-ボソンピークモードの局在性と 非局在性を探る,” 固体物理,Vol.48,No.5, pp. 201-213,2013. (4) 中山:“シリカガラスのボソン ・ ピークとそ の 物 理,” 日 本 物 理 学 会 誌,Vol.58,No.7, pp.512-519,2003. BPM 図 4 BPMがホップする様子 (任意単位) 1.2 実験結果 縦緩和レートβ 1 0.8 0.6 0.4 0.2 0 計算結果 0 5 10 15 20 25 30(K) 温 度 図 5 実験結果と計算結果との比較 モードの介在によるものと考えられま 少している様子が分かります.今後は す.それでもなお,低温でのβのピー そのような温度領域で同様の実験を行 クの存在を定性的には予想できてい い,寿命 t 1の長寿命化を確認します. ます. 長寿命化に成功すれば,本来の目的で 今後の課題 実験結果と計算結果より,2.5 Kよ りもさらに低温側では,βが急激に減 28 NTT技術ジャーナル 2014.6 ある量子情報の光書き込みメモリとし ての応用に取り組みます. ■参考文献 (1) H. D. Riedmatten, M. Afzelius, M. U. Staudt, C. (左から) 清水 薫/ 橋本 大佑 光通信波長帯で動作する量子メモリを実 現することができれば,光ファイバを用い た量子暗号通信ネットワークの大規模化に 一歩近づくことになります.絶対的に安全 な通信を社会に提供できるよう,日々研究 に取り組んでいきます. ◆問い合わせ先 NTT物性科学基礎研究所 量子光物性研究部 量子光制御研究グループ TEL 046-240-3938 FAX 046-240-4726 E-mail hashimoto.daisuke lab.ntt.co.jp
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