こちら - 法政大学社会学部同窓会

年は一年生だけ。それから一学年ずつ学生数が増えていった。真新しいキャン
パスで学生たちはどのように過ごしていたのか、1期生∼3期生に当時を振り
返ってもらった。
(文・写真=会報編集部、実施日 11 月 9 日)
石倉 八王子や新宿でもよ
く飲んでいましたね。
石倉 キジがいたよ、とか。 ホームで酒盛りをしたこと
あと﹁マムシに注意﹂の看 を思い出します。
て、合宿で伊豆に行ったこ
た。それと、吉田傑俊先生
石倉 土生長穂先生はとて
も面倒見の良い先生で、ゼ
人間と社会をもっと勉強
下田 体育の授業で走って
い る と、 牛 も 見 か け た よ
石原 バス・電車でずっと
隣り合わせだったフランス
ともありましたね。
迎春
年頭のご挨拶
らいの参加でした。
け、校友会との連携を目的と
高橋 敏
います。
社会学部同窓会会長
大学と共に歩む社会学部同窓会
いこうか﹂となって、吉祥
︱なぜ、社会学部を選んだ
人く
を顧問に自主ゼミをやっ
ミ内外で交流がありまし
ね。1年の体力測定のとき
語の先生と﹁夕ご飯食べて
もらった記憶があります。
板にびっくり。
のですか
に増田明美さんに測定して
したくて
石倉 私は法政女子高出
身。法女の﹁特別講座﹂と
いう自由選択授業で﹁昭和
寺で食事をしたことも。
新年明けましておめでとう
史を学ぶ﹂を履修したのが
議会﹂が発足しました。さら
会 長 就 任 後、 卒 業 生 の 熱 い
して﹁法政大学学部同窓会協
社会学部愛と同窓会への期待
かな新春をお迎えのこととお
下田 少人数のゼミは先生 ございます。皆様方には穏や
の研究室でやっていた。盛
濃かった先生方との交流
を 改 め て 実 感 い た し ま し た。
石倉 キャンパスの中にバ
スが走っていた。
きっかけ。この授業で広島
に、社会学部同窓会では中山
そうそう、勝手にゼミに潜
すでにご承知のように、
慶び申し上げます。
︱先生方との交流は濃かっ
り込んでいる﹁聴講生﹂も 田 常 夫 先 生 の と こ ろ と か。
たのですね。
五十嵐仁ゼミに来ていたK
へ学習旅行に行って被爆者
下田 神宮球場と同じ大き
さの野球場、なかなかすご
下田 例えば、田中義久先
生は学生と積極的にコミュ
君とか。それくらい、魅力
そ の 愛 と 期 待 に 応 え る べ く、
の体験談を聞き、なぜ戦争
いな、と。スポーツ法政の
ニケーションを取ろうとし
的な勉強と交流が行われて
本年も会員活動の活性化、学
知りたいな、
と思いました。 時代でしたから。
が起きたのか、もっと深く
石倉 一回学校に来たら
キャンパスの中にいるしか
ていました。
重臣会長が退任、微力・若輩
下田 人と人の関係で成り
立つ社会とはどのようなも
ないところですからね。
の私、高橋敏が会長職を引き
のか、専門的に学んでみた
いたということなんだ。
︱サークル活動は。
あった﹁一般社団法人法政大
学校友会﹂が発足、これを受
も未来への歩みを進めるため
の歴史的な一年であったと思
員養成色が強すぎると思
受 か っ て い た け れ ど、 教
か っ た︵ 笑 い ︶。 某 大 学 も
いる子もいたね。
たけど。置き自転車をして
で疲れてバスに乗っちゃっ
石倉 私も相原駅まで歩こ
うとしたことがある。途中
働運動から学ぶべきことに
治革新運動がフランスの労
で声かけられて、日本の政
良匡俊先生にキャンパス内
に行ったり。それから、相
ミゼラブル﹂を帝劇まで観
たんだっけ。
ね。ところで何を読んでい
下田 石倉さんとIさんで
同窓生の皆様、あけまし
始 め た 読 書 会 の こ と で す ておめでとうございます。
きてから始めたんです。
探りでしたね。下級生がで
ぼうということで、石倉さ
学が採択されました。これ
創成支援事業﹂に、法政大
にも表れて面白かった。
この座談会の続きは へ
業であり、高等教育の国際
でよかった、という思いを
同窓会名誉会長
残す教育をめざして取り組
校
国
(
)
公 立 を 含 め1 0 4 校 の う
校の
ニティ・インスティテュー
型の﹁グローバル・コミュ
キャンパスでも、学部横断
い く 年 に な り ま す。 多 摩
大学の諸課題に取り組んで
教育の国際化を始めとする
のチャレンジと更なる学部
援者として、新しい課題へ
は、学部教育の協力者・応
考 え て お り ま す。 皆 様 に
をさらに高めていきたいと
育力、研究力、情報発信力
がら、学部の持っている教
化の取り組みも、学生のた
ト﹂の設置など、新たな準
教育の充実に、ぜひお力を
い申し上げます。
申し上げます。
皆様のこの一年のご多幸
のもとで、ゼミ教育を中心
に 伝 統 的 に 高 い﹁ 教 育 力 ﹂ と ご 健 康 を 、 心 か ら ご 祈 念
的 と し て い ま す。 本 学 は、 を培い、学生に学部で学ん
競争力を強化することを目
賜りますよう、心からお願
備が始まりつつあります。
パーグローバル大学構想の
立教等と並んで選定
ち、 早 稲 田、 慶 応、 明 治、 んできました。新しい国際
40
田中 充
い、法政の社会学部にしま
下田 めじろ台駅周辺が今
どうなっているか、わから
ついて、いきなり意見をぶ
ん、Iさん、Tさんの仲良
は、わが国で先導的試行に
社会学部長
した。結果として本当に良
ないけど、飲み屋があまり
つけられたこともありまし
し三人組で始めたのでし
していく大学を支援する事
応募した私立大学
かった。
な い の で、﹁ め じ コ ン ﹂ っ
として法政の新しい風を感
月には、文部
図書館の共同読書室でやっ
た。また、
じさせる出来事となりまし
こともあります。
ていました。合宿をやった
お健やかに新年をお迎え
のことと存じます。
石原 大学に入る前、写真
の専門校に通っていまし
日当たりの良いたまり場があちこちに(センタープラザ角の
オープンカフェイベント=矢部ゼミ、2014 年 9 ∼ 10 月)
14
た。伊豆で合宿をしたとき、 挑戦し大学の国際化を牽引
社会学部は、熱意と向上
心にあふれる教員スタッフ
一人一人の個性がレジュメ
社会と政治経済のことを学 ﹁ ス ー パ ー グ ロ ー バ ル 大 学
下田 SPE研︵通称スぺ 科学省が国際化と大学改革
研︶のことを話しましょう。 を掲げて重点的に推進する
9
いものは何なのか、もっと
深く考えたくて社会学部
に。 文 学 部 や 経 済 学 部 は
ちょっと違うな、という気
がしました。
︱多摩キャンパスの第一印
象は。
交通機関の思い出は。
下田 緑の中ですよね。長
野県出身の同級生が﹁東京
の大学だけれど、地元と変
わらない﹂と言っていまし
た。
石原 山の中︵笑い︶
←
にあこがれていて、撮りた
た。
社会学部同窓会の皆様へ
お願い申し上げます。
生支援の強化等に力を尽くす
代総長に就任、新たに田中 継がせていただきました。
様々な意味で、 年は、大 所存です。
充教授が社会学部長に就任し
会員の皆様方には何卒ご理
ました。また、長年の懸案で 学にとっても同窓会にとって
解、 ご 協 力 く だ さ い ま す よ う
年、田中優子社会学部長が第
かった。それで、他大学の
下田 通学はバスなのだけ
れど、ときにはめじろ台や
年生のときは上級
石倉
生がいないので、どうやっ
14
い た ね。 T さ ん の と こ ろ、
人文社会系の学部を受験し
石原 私もそう思う。
下田 例えば、中教室を使
う専門の授業で、受講学生
人くらいと
西八王子から歩いたことも
のうち希望者
14
て言って、ゼミ仲間と駅の
ある。
ました。立教大学社会学部
のときは高熱でふらふらで
17
た。フォトジャーナリスト
一緒に、ミュージカル﹁レ・ てサークルを作ろうか、手
1
石倉 最初は短編小説。そ
昨年は、前学部長の田中 一つに選ばれたものです。 めに真に役立つものにする
れ か ら﹃ チ ボ ー 家 の 人 々﹄ 優子先生が本学総長に就任
本年は、新しい総長体制 ことが目標になります。
このためには、同窓会の
とか大作も。一週間に一度、 され、六大学初の女性総長 の も と で、 こ う し た ス ー
皆様のご支援をいただきな
し た。 試 験 ど こ ろ じ ゃ な
20
1965 年 7 月生まれ、49 歳
1965 年 6 月生まれ、49 歳
社会学部社会学科 92 年 3 月卒
社会学部社会学科 89 年 3 月卒
舩橋晴俊ゼミ
土生長穂ゼミ
証券会社系シンクタンク勤務後、 NGO 女性団体の週刊新聞編集部
仏リヨン第 2 大学大学院社会学修 「私にとっては 舩橋大学 。先生
の迫力ある指導は、取材・編集の
士課程へ。ベンチャー企業でシス
仕事に大いに役立っています」
テムコンサルタント
まったく異なる環境で、学部独自の 4 年間縦割り一貫教育が始まった。最初の
石原 和
あの頃の社会学部を語ろう !
1966 年 1 月生まれ、48 歳
社会学部社会学科 88 年 3 月卒
土生長穂ゼミ
医療系協同組合で薬品の共同購入
事務
「世の中をどう見たらいいのか、
考え方の芯を学びました」
多摩キャンパスの開校から 30 年が経った。84 年4月、市ケ谷キャンパスとは
いしはら かず
下田 暁
石倉 麻里
あき
し も だ
り
ま
いしくら
多摩 3 期生
多摩 2 期生
多摩1期生
多摩1期生∼3期生 鼎談
10
6p
第 45 号
(1) 2015 年 (平成 27 年) 1 月 1 日
高橋 敏
Vol.45
祝!多摩キャンパス 30 年
日 朝、 急 逝 し た 。
歳 だ っ た。 多 摩 移 転 前 後 の
舩橋晴俊先生
舩橋晴俊社会学部教授が8月
カリキュラム改革活動の中心メンバーのお一人であり、大学全体の在り方につ
いても積極的に発言してきた。そして原発事故を受けて発足した﹁原子力市民
は見せず、地元・大磯に吹
寺田団地で
た。現在、大学の地域交流
が ゼ ミ の 議 論 で 出 ま し た。 い﹂と新入生から人気でし
きないだろうか、という話
センターから助成もいただ
キャンパスの諸問題に向き
実験です。自分たちの力で
なっていた小空間の活性化
でずっとデッドスペースに
は、センタープラザの角地
他のかたからも、そして私
ら、そこに向かう具体的な
道のりを、ご自身で模索し
困難を真正面から
受け止める責任感の人
舩橋さんの学問に対する
態度は、現場に立ち、弱者
会員募集中!
コミュニティカフェ活動!
バスの中では気まずい感じ
いて活動しています。当面
自身からも、立候補をお願
い し た こ と が あ り ま し た。 続け、惜しみなくそれを与
テーマは
く海風のような颯爽とした
になることもある関係です
合い、学生に快適な環境を
年
信州大学人文学部准教授
います。私の卒論もこの活
動と関連したものになりま
曙ブレーキ工業㈱ 相談役
社会学部 年
渡辺 真人さん ︵矢部恒彦ゼミ︶
ウを下級生に引き継ぐこと
ことも。やっていくうちに、 職活動に入るので、ノウハ
たくさんの人と自然に知り
です。
︱矢部ゼミでは今、何を。
プ ロ ジ ェ ク ト で す。 一 人
2つの班があります。1
つは、社会学部食堂の改善
矢部ゼミの活動でずっと
やるわけにはいかないの
ぼっちで食べる子にも快適
楽しんだり⋮⋮。
で、 コ ミ ュ ニ テ ィ カ フ ェ
年 春、 に過ごしてもらえるような
が、お隣さんですから仲良
の課題は、私がまもなく就
える方でした。
仲間にとっても、社会活動
一般社団法人法政大学校友会 会長
人でもありました。
会の問題に迫ることがで
き る こ と。 そ れ を 体 現 す
るような学生の活動が寺
田 団 地︵ グ リ ー ン ヒ ル 寺
田︶で月1回開いている
コ ミ ュ ニ テ ィ カ フ ェ。 同
じバス路線を利用する同
士、 団 地 住 民 と 法 政 の 学
日︶
吉川 新吾、取材日
生 が 仲 良 く し た い と い う 合えました。団地の夏祭り
思いから始まった。︵文・ に出店して一緒に盆踊りを
写真
月
︱コミュニティカフェって
を 継 続 す る た め、
くしたい。初めに、夜の団
ていくことだ﹂とおっしゃ
す。
︱卒業後は?
最近ですけれど、地域の
安全・安心への関心から警
察官になってみたいな、と
思うようになりました。地
域コミュニティに直接かか
(電気工学科 1964年 卒)
ここ数年の先生の多忙さ
は、震災後の社会にあらわ
に な っ た﹁ 亀 裂 ﹂
﹁分断﹂
の芽を摘みとろうと全力疾
日夕方で
日
多様な切り口から現代社
走 す る 姿 そ の も の で し た。 社 会 学 部 の 良 い と こ ろ は
先生は突然、スピードを上
げて走り去ってしまいまし
たが、私たち一人ひとりが
知的遺産を受け継ぎ、さま
ざまに実践していくこと
を、どうか見守っていて欲
しいと思います。
谷口 信雄
月卒︵金山行孝ゼミ︶
先生を社会に生かすこと
遺志を継ぐことが
年
元東京都職員
る2日前の 月
委員会﹂の座長を務めていた。時代の要請に応える社会科学者の在るべき姿を
舩橋さんに最後にお会い
したのは、お亡くなりにな
身をもって示してきた先生を急に失った衝撃はあまりにも大きい。ご遺志を受
け継ぐことを誓いつつ、 名の追悼の辞をご紹介する。
した。最後のメールは
何?
地のライトアップのアイデ
食堂を目指し、利用者ヒア
リングとアンケート調査を
ちた目標を、先生は残して
の実現を人にまかせるかた
その目標をめざして、先生
行 っ て い ま す。 も う 1 つ
下 さ い ま し た。 私 ど も は、 朝の﹁メガソーラーを利用
道のりを詳細に検討し、そ
人。サークルガイダンス
して
︵舩橋プロポーザル案︶ 地住民と法大生の交流がで
−多摩キャンパスを中心と
した社会貢献事業の可能性
一学年上のゼミの先輩が ﹁ 法 政 大 学 カ フ ェ 部 ﹂ を 設
寺田団地に住んでいて、団 立しました。会員数は現在
どうしても
田中 優子
を忘れずに努力を重ねたい
失いたくないかたでした。 ではなく、ご自身で実現の
法政大学総長
と 思 い ま す。
︵
迫るものでした。そしてそ
月卒︵舩橋晴俊ゼミ︶ を思いやり、問題の本質に
アが浮かびましたが、予算
日葬
の方法を示し、同意を得な
れらの社会理論化やアーカ
的に難しく、﹁コミュニティ
月
がら実現していくかたでし
イブスづくり、原子力問題
カフェをやってみよう﹂と
私は今、総長としてここ
におりますが、ほんとうは
など大きな業績を残し、ま
いうことに。団地内の集会
り、ついにその決意がゆら
ぐことはありませんでし
た。
︵中略︶/先生が社会学
部長のとき、私は副主任と
では﹁カフェの雰囲気がい
た、取り組んでいる最中に
最終案作成の素材﹂という
急逝されました。舩橋先生
所を借りて月一回、日曜日
儀での法政大学を代表して
こと﹂︱︱舩橋先生のモッ
の昼間に開いています。お
た。何事においても、高い
トーです。これは、実証と
客さんは少ない日は
舩橋先生こそ総長にふさわ
をともにした多くの人々に
はまさに、社会の変革のた
らい、団地内の他のグルー
ものでした。
とっても、法政大学にとっ
理論形成の双方、また研究
めの学問研究・教育者とし
プのギターの演奏会やおに
の弔辞から抜粋︶
ても、日本社会、そして世
の遺志を継いでいくこと
し な い こ と を 意 味 し ま す。 ての手本でした。舩橋さん
と教育の双方に、手抜きを
が、舩橋さんを改めて社会
し い か た だ と 思 い、 昨 年、 理 想 を お 持 ち で あ り な が
界にとっても、どうしても
英知だけでなく、困難を真
茅野 恒秀
︵中略︶/ご家族はもち
るべきことは、座長として
﹁実証を通しての理論形
原子力市民委員会をまとめ ろんのこと、同僚や研究者
成 ﹂﹁ 研 究 と 教 育 を 重 ね る
しかし先生は﹁今自分がや
失いたくないかたでした/
正面から受け止める責任感
作る活動を矢部ゼミはして
先生の志と、指し示して下
人く
さった道が、いま私どもの
してそばで働き、寝る間も
惜しんで改革に取り組む姿
わる非営利団体の仕事にも
興味があります。
事務局:〒105‑0003東京都港区西新橋1‑8‑4 虎の門・米山ビル5 階
電話:03‑6273‑3958 Fax:03‑6273‑3959
E‑mail:hosei‑[email protected]
URL:http://www.hosei‑keieisya.com/
社会学部同窓会一同
法政大学経営者懇談会
理事長 金子 正之
3
ぎりの販売会があるときは
杯くらいコーヒーが出る
笑顔で接客するカフェ部メンバー(11 月9日)
3
一 般
財団法人
私たちは先生のご遺志を受け継ぎます。
12
はないかと思います。
絆の大切さを実感する今、校友の交流を通して
誠実な同窓の絆を未来へつなごう!
舩橋晴俊先生。
インタビュー
15
01
絆
法学部 1960年3月 卒
2012 年春、舩橋ゼミ卒論発表会で熱く語る先生(撮影 : 郡司 貴志)
の 人 で し た。 そ れ で い て、 に生かすことになることで
25
66
前にあります。険しい道の
勢を間近に見ておりまし
た。先生は理想を述べてそ
60
桑野 秀光
8
エプロン姿の渡辺真人さん
学⽣
8
3
15
歯を食いしばるような様子
18
11
73
追悼
りですが、理想と希望に満
8
14
13
3
2015 年 (平成 27 年) 1 月 1 日 (2)
【社会学部の今】
法政大学社会学部同窓会報
第 45 号
新年にあたって 総長としての思い
法大生が協力、
多摩地域発の化粧品が完成!
産学協業が実現した。ゼミ
生たちは、林業の現場視察
や村役場でのヒアリングな
いこと。社会の厳しさと楽
どを体験しながら新商品の
化、広告販売戦略の構築ま
檜原村のヒノキを使った
化粧品の開発を考えていた
しさの両面を味わった﹂︵金
発!地域発表フェア﹂で披
で協力した化粧品﹁檜原コ
同社は、法政大学多摩地域
開 発 に 関 わ っ た。﹁ 授 業 や
段と高めた、と実感できる
スメシリーズ﹂が、ローザ
露した︵=写真︶
。
イナビリティ﹂です。舩橋
ような方法をとっていきた
澤秀二さん=副ゼミ長︶
、
社会学部の学生が商品コ
ンセプトの立案から商品
の作業に力を尽くし、私の
先生の突然のご逝去は、大
特殊化粧料︵東京都昭島市︶ 交流センターにマーケティ
法政大学総長
田中 優子
社会学部教授
テレビでの発言や表情にも
いと考えています。
の皆様、今年もまた一緒に
もりです。社会学部同窓生
京ドームで開かれた﹁信金
ングを相談、社会学部の諸 ﹁ 私 た ち の 活 動 は こ こ で 終
活動の支援﹂です。
の支援﹂
、 S は﹁ ス ポ ー ツ
援 ﹂。 次 の C は﹁ 文 化 活 動
の C は﹁ キ ャ リ ア 活 動 支
3つに整理しました。最初
友会の活動をC.C.Sの
返った。
高める一つの方策﹂と振り
大学のブランドイメージを
した。こうした活動は法政
様々な壁を乗り越えて成長
の 有 効 性 と 限 界 に 直 面 し,
生は実践を通じ様々な理論
想 だ。 諸 上 准 教 授 は、﹁ 学
ん︶などが学生たちの感
続き頑張る﹂
︵二村咲紀さ
上 茂 光 ゼ ミ が 引 き 受 け て、 わるわけではないので引き
事務局長
水上 久忠
の入会動機が高まっていな
社会学部同窓会
校友会の現在と課題
アルバイトでは体験できな
昨 年 一 年 間 は、 総 長 選
挙、理事選挙、スーパーグ
学のこの新しい出発にとっ
社会学部の教員には多く
しかし私にとって何より 言えるでしょう。
2015年は、スーパー の負担をかけるのではない
嬉しかったのは、そのどの
グローバル大学として、そ かと懸念していますが、そ
道を歩んで下さるよう、な
から発売される。 月に東
鋭 い 批 評 を 下 さ り、 ス ー
そのことを乗り越えて、持
より誇りの持てる大学とな
ローバル大学の申請作業と
後には、じつに素晴らしい
続可能社会を目指した、国
る よ う 尽 力 し て き ま し た。
パーグローバル大学の採択
応、そして長期ビジョン策
アイデアも届けて下さって
際的な研究と教育の大学に
採択、数多くの取材への対
定と、そのための複数の委
います。社会学部はまさに
て大きな痛手です。しかし
また、社会学部の卒業生
たちにとって、法政大学が
員会の発足など、気持ちも
総 長 と し て の 私 に と っ て、 な っ て い か ね ば な り ま せ
の負担が個々の教員にとっ
にとぞよろしくお願いいた
良い方向に向かうよう、さ
その試みが、今年はさらに
身体も、休まるときがあり
土台であり、拠点であると
教 員 た ち が 真 摯 に 議 論 し、 の道を確実に歩みはじめね
て新しい教育の展開であ
します。
ん。
ませんでした。
ばならない年です。採択さ
り、研究・教育の能力を一
まざまな実践をしていくつ
明確に意見を届けてくれた
れた計画の中心は﹁サステ
事柄についても、社会学部
ことです。ブランディング
法政大学の現在、
そして今後
常務理事
増田 正人
社会学部教授
生組織です。卒業生と教職
い た め、 と 考 え ら れ ま す。 に、教職員に全国の地域支
このほか、法政大学のブ
ランド価値を高めるため
員が相互に強力な絆・縁を
年4月に発足した一般
財政基盤検討委員会という
社団法人法政大学校友会
4つの委員会をおきまし
田 中 優 子 新 総 長 の も と で、法政大学は補助金を受
で、法政大学は大きな一歩 けながら、グローバル化を
信 を 展 開 し て も ら っ た り、
こ れ を 克 服 す る た め に は、 部に出向いて様々な情報発
全卒業生が結集する校友会
結ぶことを校友会は目指し
ていきます。
外国で生活する卒業生を束
た。各委員会は毎月1∼2 ︵ 校 友 会 ︶ に つ い て、 社 会
学部同窓会からの校友会代
の存在意義を明確にしてい
ねる海外支部の拡充などが
を 踏 み 出 し て い ま す。 グ 大きく進めていくことにな
年
表議員の立場から活動状況
しかし、既卒生における
終身会員の募集活動では課
をご報告いたします。
かなければなりません。
回程度の会議を開き、
春の中間報告に向けて準備
を進めています。
重 要 な テ ー マ で す。 多 摩
キャンパスで各学部教授会
題もあります。多くの卒業
これまでの校友会は、旧
校友連合会時代から﹁オー
のような価値のある諸々の
生の皆さんはこれまで同窓
集い﹂、﹁法政フェア﹂など
同窓会活動をデータベース
北條 利男
崎 秀夫
村串 仁三郎
後藤 次仁
E‑mail:[email protected]
1960年3 月卒 秋田成就ゼミ
埼玉県川越市元町 1‑9‑3(市役所通り)
TEL.049‑222‑0102
1961年3 月卒 逸見重雄ゼミ
自宅〒194‑0203 東京都町田市図師町 2224‑4
TEL・FAX.042‑793‑5550
1960年3 月卒 長谷川博ゼミ
とら
よし
1959年3 月卒 長谷川博ゼミ二部
〒171‑0022 東京都豊島区南池袋 2‑17‑11
TEL.03‑3982‑8482㈹ FAX.03‑3988‑8062
E‑mail:t‑[email protected]
1959年3 月卒 笠原千鶴ゼミ
〒410‑1127 静岡県裾野市平松 474 TEL.055‑992‑0052
E‑mail:t‑[email protected]
1959年3 月卒 笠原千鶴ゼミ
自宅〒733‑0815 広島県広島市西区己斐上 3‑3‑28
TEL.082‑272‑5534
1957年3 月卒 中島正ゼミ
〒192‑0903 東京都八王子市万町 34‑1
TEL.042‑622‑6315
1956年3 月卒 長谷川博ゼミ
藤永 正順
幹事
代表取締役
理事
すき亭
土屋 幸雄
ローバルな世界の変化に対 ります。
また、法政大学の長期ビ
応 し て、 年 7 月 に、
﹁グ
ローバルポリシー﹂
を策定、 ジョンの策定を目的に、﹁法
まず最初に会員数です
こうした動きを支え、教
公表しました。また、9月 政2030策定委員会﹂と
学側の企画・立案能力を向 が、 月 日現在の終身会
には文科省の﹁スーパーグ いう全学的な委員会を7月
1万832名。
旧校友連合会から活動して
の行事を開催してきました
化していくことも全学の卒
ル法政新年を祝う会﹂
、 と学部同窓会連携で行われ
から副学長制度を導入しま
卒業生から毎年次の全卒業
いる地域支部や学部同窓
が、ただ、イベントを次々
会組織にまったく参加して
す。まだまだ十分だとは言
生が終身会員に登録する仕
会、体育会系の部活や同好
業生組織である校友会の使
員登録数は既卒生を含めて
業に採択されました。法政 に、法政ブランドの再構築
えませんが、一つ一つの課
組みであり、組織の規模は
に開くのではなく、活動方
年4月
の 構 想 名 は、﹁ 課 題 解 決 先 を図るブランディング戦略
題を解決しながら、大学改
会ごとに作られた同窓会に
命であると、私は考えてい
上させるために、
進国日本からサステイナブ 会議、キャンパス再構築委
革 を 進 め て い る 段 階 で す。 どんどん大きくなっていき
針の基軸をはっきりする必
ます。
てきた﹁就活支援セミナー﹂
ル社会を構想するグローバ 員会、誰もが働きやすい環
ます。まさに
﹁オール法政﹂ 加入しているため、法政大
要があります。そこで、校
いないか、参加していても ﹁ オ ー ル 法 政 卒 業 生 全 国 の
ル大学の創成﹂というもの 境 を 実 現 す る た め の ダ イ
卒業生の皆さんのあたたか
学全体を網羅する校友会へ
年3月の
です。この補助金はこれか バーシティ化委員会、それ
の呼び名にふさわしい卒業
14
森田 忠男
事務所〒176‑0012 東京都練馬区豊玉 5‑7‑4
TEL03‑3993‑2301 FAX.03‑3392‑8823
自宅〒335‑0034 埼玉県戸田市笹目 3‑5‑10 TEL048‑421‑5852
1954年3 月卒 長谷川博ゼミ
11
い御支援をお願いします。
ローバル大学創生支援﹂事 にスタートさせ、そのもと
21
法政大学社会学部同窓会
すき焼き・しゃぶしゃぶ・フランス料理
創業明治5 年 伝統の味と風情をご堪能下さい
法政大学社会学部同窓会
14
10
法政大学名誉教授
(元経済学部教授)
税理士法人 TMS 池袋本部事務所
税理士、社会保険労務士、行政書士
TAKテナントビル業/ マルカパーキング/ パーラーあむ~る
15
代表社員
加藤 照親
代表取締役
15
(旧姓和田)
鈴木 和男
公認会計士
税理士
14
年 間 継 続 さ れ る も の らを支える財務を検討する
ら
10
法政大学社会学部同窓会
法政大学社会学部同窓会 顧問
学校法人昭和第一学園 常任顧問
株式会社ふこく出版
鈴木・大久保会計事務所
第 45 号
法政大学社会学部同窓会報
(3) 2015 年 (平成 27 年) 1 月 1 日 【法政大学の近況】
アルバイト先の学校で偶
然、社会学部卒業生にお会
変なものだったと推察しま のメッセージをもらった幸
僚として一緒だった増田正
︻千 葉 県︼
東久留米市
会津若松市
初めてご挨拶したことを思 働きながら周遊した話を興
船山 栄一
年卒、半田 徹
い出します。ご健闘を期待 味深く聴かせていただきま
千葉市中央区
︵土生長穂ゼミ︶
︵長谷川博ゼミ︶ した。
年卒 飯塚 正三
還暦の頃から同窓生の誘 します。
同窓会報をお送りいただ
練馬区
渋谷区
いで﹁法政︵OB︶9条の
き、ありがとうございまし
前号会報の中大路さんの
年卒 植田 孝良
年卒 太田 昭郎
会﹂をやっています。平和
た。社会学部の多彩な発展 記事を懐かしく拝見しまし
問題と日本国憲法を学ぶ会
6月 日、同窓会の総会
田中優子総長の活躍に期 の一端がうかがわれ、喜ば た。当時、議員活動などで
に出席しました。お世話さ 待しています。本を読む時 しく思います。ますますの 多忙だったのでしょう。よ
しかったゼミ活動や研究会
であると共に、半世紀も別
回忌を前倒しして開きまし
た。OB9人が久しぶりに
と入ってくるお姿が目に浮
発展を祈っております。同 く遅刻して教室にいそいそ
て、年に一度の再会を期し
同、時を忘れました。そし
活動のことを語り合い、一
集まり、墓前祭を行い、楽
人教授の常務理事としての かびます。お元気で何より
54
20
総長が
﹁勝ってください!﹂ 新しい感覚で改革を進めて
61
学社会学部OGの見事な意
た。昨年春に福島、夏に岩
かけるように心がけ、先般、
陶を受けた﹁労働法﹂の基
校舎で秋田成就先生から薫
申し上げます。私も市ヶ谷
て大願成就を心よりご祈念
県議会議員への挑戦、そし
どとして発展を遂げてきま
に上陸して以来、米軍港な
ペリー艦隊の黒船が久里浜
から約150年前、米軍の
てきました。横須賀港は今
た。 私 も 陰 な が ら 応 援 し、 横須賀軍港めぐりに参加し
気込みが伝わってきまし
63
本 理 念 を 忘 れ る こ と な く、 した。横須賀のクルージン
26
30
9
57
法政大学社会学部同窓会
伊藤 正義
自宅〒190‑0182 東京都西多摩郡日の出町平井 988
TEL・FAX.042‑597‑0135
1965年3 月卒 北川隆吉ゼミ
学校法人中央学園
中央福祉医療専門学校
宮杉 早苗江
年卒、 月 前 に 福 島 原 発 を 見 学 し
田 沼 肇 ゼ ミ ︶ が﹁﹃ 自 由 と
い た だ き た い と 思 い ま す。 に後藤真左美さん︵
す。記事の末尾に﹁次の機 せな学年でした。麻布校舎 ︵増島宏ゼミ︶
までした。同期が来なくて 間 を 作 る よ う に し た い と
︻福 島 県︼
89
習志野市
い し ま し た。 年 月 卒、 会を設けたい﹂とありまし のみの学生生活だった中大
進歩﹄の精神を胸に政治の 手県陸前高田、気仙沼を慰
年卒 村上 良三
中島正ゼミの中井敬一さん たが、インタビュー続編を 路先輩を見習って長生きし
世界へ﹂とのタイトルで寄 問できた。︵船山栄一ゼミ︶
※卒業年は 月時点を記載しています。
です。卒業前に、ヨーロッ 期 待 し ま す。︵ 高 橋 彦 博 ゼ な け れ ば、 と 思 い ま し た。
川崎市麻生区
前 号 会 報 拝 見 し ま し た。 稿されておりました。非常
︵村山重忠ゼミ︶
年卒 会田 良
法政大学も社会学部も進化 に共感を覚えるとともに感
き、 増 島 先 生 に 促 さ れ て、 パ、アフリカなどを数年間 ミ︶
しているようで、うれしく 動しました。さすが法政大
後期高齢者の仲間入りも
間近になり、できるだけ出
少 し 残 念 で し た。 し か し、 思 っ て い ま す。︵ 稲 増 龍 夫
思います。今年4月末にゼ
れていた法政大学同窓生の
ミ恩師の柘植先生の没後
つながりを再び作っていく
オレンジカラー、Hマーク ゼミ︶
勉学と議員活動の両立は大
28
本部〒323‑0022 栃木県小山市駅東通り 1‑42‑12
TEL.0285‑24‑1571 FAX.0285‑24‑2522
E‑mail:[email protected]
http://www.chuo‑fukushiiryou.ac.jp
1970年3 月卒 田沼肇ゼミ
携帯 090‑4077‑1223 自宅 TEL・FAX.03‑3787‑3476
2002年9 月卒 法政大学大学院社会科学研究科経営学専攻
1970年3 月卒 高橋精之ゼミ
61
79
84
水上 久忠
大学研究室 TEL・FAX.03‑3264‑4704
NPO サポートセンター 東京都中央区銀座 8‑12‑11
TEL.03‑3547‑3206
1969年3 月卒 佐藤毅ゼミ
80
11
65
14
04
10
63
事務局長
14
年卒 杉田 重雄
50
理事長
校 長
山岸 秀雄
副会長
58
58
58
人材形成研究所代表
結婚相談所3愛ネットクラブ
東京法政ライオンズクラブ 前会長
一般社団法人法政大学校友会 代表議員
法政大学社会学部同窓会
法政大学社会学部同窓会
法政大学大学院 教授
NPOサポートセンター 理事長
84
67
18
84
自宅〒184‑0001 東京都小金井市関野町 2‑4‑23
TEL・FAX.042‑381‑5548
1965年3 月卒 芝田進午ゼミ
自宅〒370‑0824 群馬県高崎市田町 141‑1‑1101
TEL.027‑321‑7308
1964年3 月卒 佐藤毅ゼミ
80
交流運動でもあります。安
72
72
顧問
3
57
倍さんの言う﹁戦後レジー を見ると、この大学の卒業
ご 活 躍 に 期 待 し て い ま す。 です。麻布校舎の写真、私 て解散しました。私はいま 社会学部OBとしての誇り グはまさに海軍港としての
狛江市
ムからの脱却﹂とは戦前の 生であることを実感できま
︵社会学部元教員︶
にとっては、戦時中学んだ だに暇なしです。産業能率 とプライドを秘めて企業内 歴史を知るうえで、大変勉
年卒 圖師 孝延
︵増島宏
軍国社会に戻すことを言っ す。都心の一等地に所在す
町田市
建築学、戦後の中央労働学 大学名誉教授・ハリウッド 社会保険労務士として労働 強 に な り ま し た。
例年、大網白里市で、6
ているようです。恐ろしい る母校。上智大、東京理科 月に玉ねぎ、8月にスイカ
年卒 二木 季男
園大学、法政大学社会学部 大 学 院 大 学 客 員 教 授。︵ 柘 者の福祉の向上と企業の健 ゼミ︶
ことに、現実に着々と、秘 大、 日 大、 明 大、 中 央 大、 を収穫しています。昨年も
全な発展に向けて引き続き ︻佐 賀 県︼
栢野ゼミで農業問題に取 と 9 年 間 の 学 び の 殿 堂 で 植秀臣ゼミ︶
密保護法、集団的自衛権の 順天堂大などライバル校は お近くの北川先生宅へ﹁北 り組み、今も現役で各地の す。﹁ ボ ロ 校 舎 ﹂ と 感 じ た ︻神 奈 川 県︼
業務に邁進していきたいと
年卒 野田 剛
行使⋮⋮、と法整備を進め いるものの、眺望絶景。こ 川先生の社会学原論を応用 指 導 な ど に あ た っ て い ま ことは皆無でした。私も次
思 っ て お り ま す。︵ 秋 田 成
横浜市瀬谷区
母校に寄せる提案と要望
ています。私は、日本の将 の場で教育される入学生は して作った玉ねぎです﹂と す。この1月に﹃農産物直 男︵医師︶の健康管理のお
就ゼミ︶
年卒 中村 裕昭
など。一、校格の向上、二、
来を守るためには、憲法に その幸福を感じよ、と言い 持参いたしました。
横浜市泉区
先生は、 売 所 は 生 き 残 れ る か ﹄︵ 創 か げ で 元 気 で す。︵ 服 部 之
組織が肥大化しすぎ、分り
先日の第1回﹁社会学講
無知では駄目だと思ってい たい。そして、中身を充実 ﹁ 図 師 君 は 相 変 わ ら ず 面 白 森社︶を出版し、雑誌記事 総ゼミ︶
年卒 大多和 浩一
づ ら い。 後 援 会、 校 友 会。
座﹂では大変楽しいひとと
ます。憲法を学ぶ輪を広げ、 させて、4年後に巣立って いことを言う﹂とお笑いさ の執筆のほか、講演にも対
柏市
きを過ごさせていただきま
平成 年 月 日で勤続 三、私は今年8月に 歳台
空洞化している民主主義の ほしい。
年卒 中村 一廣
︵村山重忠ゼミ︶ れました。今年︵ 年︶も 応しています。日本農業再
した。私たちの世代は、い
年到達。︵吉村真子ゼミ︶ になった。 歳以上は思い
再生を進めていきましょ
板橋区
6月 日に、ご自宅へ収穫 生の道筋を現場と一緒に描
切って会費などを半額にし
川崎市宮前区
前 号 会 報 で﹁︵ 仮 称 ︶ 同 わゆる﹁鉄柵﹂時代で、ゼ
う。
年卒 深川 正惲
物を持参いたしましたとこ かなければなりません。︵今 窓会の将来を考える会﹂発 ミも取らず、卒論も書かず、
てはいかが。オールド会員
年卒 小泉 俊輔
︻東 京 都︼
厚木より駅伝応援に参加 ろ、奥様から4月7日にご の国の︶政策は現状知らず 足の記事を拝見して、とて 単 位 を 取 っ て、 そ れ も レ
数年前よりチャリティー ︵ の 人 数 ︶ も 飛 躍 的 に 伸 び
した。水上事務局長、平崎 逝去されたことを告げられ で 的 外 れ で す。︵ 栢 野 晴 夫 も頼もしく思い、一筆書き ポート提出のみで卒業して 映 画 鑑 賞 会 を 主 催 し て い る の で は な い か。︵ 湯 川 和
新宿区
ました。
残念でなりません。 ゼミ︶
ました。 数年前、昔の校 い っ た 仲 間 が 大 勢 い ま す。 る。そのきっかけは、私の 夫ゼミ︶
校友会品川支部長、昭和
年卒 平山 孝子
友会︵現在の校友会とは違 彼らは、学校や先生方との 住む川崎の映画会社が製作
田中優子先生が総長にな 年卒の鈴木嘉能先輩を紹介 私は、先生と同じ干支、巳 ︻埼 玉 県︼
う︶のゴタゴタで、法大の 距離感が遠く、イベント性 し、現在、法政大学総長で
られ、六大学で初めての女 される。すでに駅伝の会が 年 生 ま れ で す。︵ 北 川 隆 吉
越谷市
同窓生として憂う日々があ ︵ 有 名 人 を 呼 ぶ と か ︶ が な ある田中優子氏監修の﹁オ
性の総長・学長ということ 組織され、毎年この青物横 ゼミ︶
年卒 横山 隆一
小金井市
で﹁さすが法政﹂と誇らし 丁駅前で応援している伝統
前 号 会 報 の 最 終 ペ ー ジ りました。私は、初代同窓 いと、同窓会事業には参加 オカミの護符﹂、﹁うつし世 新入会員の紹介
年卒 水津 真
く思います。先生とは法政 ある会です。応援後は近く
に 掲 載 さ れ た 麻 布 校 舎 の 会長と同じ増島ゼミでした しないように思えます。一 の静寂﹂といったドキュメ
︵
受
付期間 年5月∼ 月︶
在 学 中 は も ち ろ ん の こ と、 の店で新年会に約 名が参
私たちの大先輩である中 写 真、 懐 か し か っ た な あ。 ので、発足2年目より参加 考が必要と考えます。事務 ンタリー映画を支援してか
中 正美
余年の職員としての在勤 加、来年こそはシード権獲 大路満喜子さんへの前号会 我々 年卒業生はこの校舎 い た し ま し た。 当 時 は 皆、 局の皆様、いつもご苦労様 らで、昨年は、戦時中の国
半田 徹
中もお話ししたことはあり 得を誓い合った。校歌斉唱 報掲載インタビュー記事を は1年次だけで、2年次か 本当に﹁進取の気性﹂に富 です。ありがとうございま 家的機密兵器工場にかんす
清田 卓生
る 映 画﹁ 陸 軍 登 戸 研 究 所 ﹂
ませんでしたが、増島宏先 で散会、有意義で楽しい一 興味深く拝見しました。地 ら市ヶ谷キャンパスの 年 んでいました。そのときの す。︵安江孝一ゼミ︶
中島 謙
横浜市中区
ことを思い出します。さす
︵増島宏ゼミ︶ 方 議 員 の 重 責 を 務 め な が 館、そして卒業式の頃は
を 上 映、︵ 収 益 金 を ︶ 東 日
生が熱心にやっておられた 日でした。
石原 和
年卒 鈴木 康功
われらの卒業生ですね。
葛飾区
本大震災復興支援金として
﹁ 落 合・ 中 井 九 条 の 会 ﹂ に
ら、
ご卒業されていますが、 年館も。さらに、大内兵衛 が、
下田 暁
前 号 会 報 の﹁ 交 流 の 広 場 ﹂ 送金した。私は地震の4か
呼ばれて話をなさったと
55
58
柳澤 昭吉
支部長
33
3
14
72
60
30
一般社団法人法政大学校友会広報部会 副部会長
法政大学社会学部同窓会 副会長
株式会社 バン
一般社団法人法政大学校友会
群馬県支部高崎支部
【交流の広場】 2015 年 (平成 27 年) 1 月 1 日 (4)
法政大学社会学部同窓会報
第 45 号
オリンピックに向けて、
挑戦し続けます。
たか?
︱どのような学生時代でし
に携わっています。この
基本的には海外関係の仕事
余年は医療機器メーカーで
前年で学内が騒然としてお
た。入学した年が多摩移転
運動に明け暮れた毎日でし
婚のこと
︱ベトナムのこと、国際結
います。
は家にも帰れない日が続
路の横で農民が水牛を引い
の国際空港に着陸時、滑走
最初にベトナムに行った
り、そこに巻き込まれてゆ
のは 年 月。首都ハノイ
キロ以上太ってしま
きませんが、基本的には結
婚してよかったです。
︱今の生活の中心は。
い、今の体形の基本ができ
見 て、﹁ え ら い と こ ろ に 来
て田んぼを耕しているのを
視点で考えた国際化が今後
会、市民の福利を長期的な
︱先生や後輩たちへメッ
えています。
ました。その反動か、残り
る程度で、一ヶ月間、日本
てしまった﹄と焦りました。 セージ
ますが、勉強をしたのもこ
人に会わないのが普通でし
の2年間はやや弛緩した感
の時期でした。
た。隔世の感です。今は仕
ますます求められるように
な る で し ょ う。﹁ 自 由 と 進
駐 在 中 に 知 り 合 い ま し た。 その面でも優れた人財を輩
歩﹂の法政大学は、きっと
その後アルバイトで半年以
います。
出してくれると、期待して
妻との生活については、少
以上でないと
を看取ることは難しい。で 保険料は上がり、給付は減
は 施 設 は ど う か。﹁ 充 実 し らされる。介護現場は給料
た老人介護﹂を売り物にす が上がらず疲弊し、事業者
るCMは、高額な保証金と は働き手が集まらず苦悩す
物 件 ﹂。 庶 民 が 保 険 で 入 居 第三の矢というから困った
居住費を請求される﹁自費 る。これでアベノミクスの
護、息子の就職難、友人の
できる施設は少ない。
その中で、最も深刻なのは
本は、
﹁医療費総額の削減﹂ る。
入院﹂が特徴。だがその根 組みが広がることを切望す
︵
年卒、長谷川博ゼミ︶
年1月逝去
月逝去
年卒、笠原千鶴ゼミ︶
年3月逝去
年卒、村山重忠ゼミ︶
菅澤 正武
︵
五嶋 耕太郎
年
平澤 正美
年卒、村井康男ゼミ︶
︵
︵
酒井 明雄
年6月逝去
年卒、北川隆吉ゼミ︶
年8月逝去
年卒、石川淳志ゼミ︶
年9月逝去
年卒、笠原千鶴ゼミ︶
年
月 日逝去
長、元法政大学職員
社会学部同窓会元事務局
︵
原 春夫
︵
鈴木 晶
︵
吉田 博
いました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
る。夢のような話が語られ り自宅療養、医療保険より
ご遺族の方から次の会員のご逝去のご連絡がありま
てはいるが、病気を抱えて 介 護 保 険、 保 健 か ら 自 費、
した。社会学部同窓会の発展にご尽力ありがとうござ
宅とし、安らかに死を迎え ﹁川上から川下へ﹂、病院よ
会 社 に 入 り ま し た。 以 来、 ない字数ではとても表現で
上過ごした後、小さな貿易
就職した医療保健生協を 引先国の一つ﹂程度の付き
一 年 未 満 で や め て し ま い、 合いです。妻とはベトナム
事ではベトナムは﹁単に取
︱卒業後はどのような仕事
じで過ぎた印象を持ってい
うになったら、と密かに考
楽しませることができるよ
つながりを作ったり、人を
す。将来は、これで人との
器の練習を再開していま
裕ができて、
年ぶりに楽
海外営業関係の仕事をして
歳手前までは仕事中心
の生活でした。今は少し余
きました。特に1年生の時
初めの3年間は、仲間と
ともに学生自治会の民主化
20
滞在日本人の数も両手に余
対等平等な人間同士の関
係を基礎にして、相手の社
き、
50
デサント所属陸上競技選手
年卒、鈴木智道ゼミ
は ゼ ミ の 仲 間 た ち で し た。
貪欲に世界へ挑戦し続けて
20
矢澤 航
の日々も、お酒の席で語り
そんな仲間たちへの恩返し
峰のスポーツの祭典であ
いきます。応援していただ
年卒、金山行孝ゼミ
年卒、金山行孝ゼミ
近況報告と学生時代の思い出
櫻井
和秀
︶ 子
櫻井 ︵旧姓坂本涼
11
の挑戦が叶わなかったと
所属の陸上競技選手として
合った日々も、これから私
は、 や は り 世 界 と 対 等 に
き、温かく支えてくれたの
活動しています、矢澤航と
が進んでいく舞台へ駆け上
戦っている姿を見てもらう
みなさんこんにちは。現 人生の一つの支えとなって
在、
﹁ 株 式 会 社 デ サ ン ト ﹂ います。苦労した論文作成
申します。今回、同窓会報
がっていく為の原動力の一
ことだと思っています。
に載せていただくというこ
とで、
大変光栄に思います。 つです。この出会いにとて
学 生 時 代 を 思 い 出 す と、 も感謝しています。
年のリオ五輪、そして
陸上競技部での思い出はも
年東京五輪で日本代表と
そんな私のこれからの目
標 は、 も ち ろ ん 世 界 最 高 し て 選 出 さ れ る た め に も、
活動はとても充実したもの
る﹁オリンピック﹂で戦う
けると嬉しいです。今後と
ちろんのこと、中でもゼミ
でした。競技生活との両立
ことです。学生時代の私に
竣工しただけで、同時に移
いたり、まして、認知症を 官から民へ。要支援1と2
は容易ではありませんでし
来 た り、 時 に は そ の 逆 が
転した経済学部棟をはじ
発症した時、自宅で最期を は自治体の事業にする、特
に?
あったりと相互に行き来し
め、ほとんどが工事中、仮
迎えることは、よほど恵ま 養は要介護
もよろしくお願い致しま
てゼミの一体運営を維持し
囲いの間を歩いたことを思
れ た 家 庭 で な い と 困 難 だ。 入れない、一定所得がある
とって、オリンピックは夢
私どもは市ケ谷最後の社
会学部生と多摩一期生とい
ていました。二正面でご指
い出します。当時植樹した
地域社会が崩壊する中、昔 高齢者は一部負担が倍にな
たが、ゼミの先生や仲間と
う夫婦です。金山行孝ゼミ
導くださった先生のご負担
ての樹木が今ではすっかり
のように家で家族が高齢者 る、大変厳しい中身なのだ。
す。
で出会い、縁あって結婚し
はいかばかりかと今改めて
生い茂り、建物と共に、成 ﹃医療介護総合法﹄と
の舞台でした。その舞台へ
ました。
思います。金山先生からは
熟したキャンパスの景観を
の出会いは、今や私の競技
当時、金山ゼミは青森県
六ヶ所村での調査を長年継
常々﹁文化を継承する義務
﹁文化の継承﹂
続しており、4年生から2
ミ活動をしていました。
私たちの暮らし
年生までが一体となってゼ
が君らにはある﹂とご指導 形成していることに 年の
清田 卓生
いただき、先生も実践され 経過を感じます。
年 月卒 森實ゼミ
ていました。それは調査の
そして、 年前の自分と
私 は 年 代 卒 業 な の で、
同じ年齢の長男が、 年か もはやアラフィフ。親の介
ら同じ社会学科生として同
持病談義、知人の離婚、今
ためでも、ゼミのためでも
なく、キャンパス移転を越
じキャンパスを歩いている
市ケ谷から多摩への移転
は学部全学年一斉ではな
く、市ケ谷入学生は卒業ま
えて、良き社会学部を継承
ことに感慨を覚えます。恩
介護問題だ。終の棲家を自
ものだ。使いやすく持続可
年入学生から
せよ、との事だと今にして
今 回 の﹁ 医 療 介 護 総 合 能な、安心の介護保険制度
まで他人事だった様々な課
﹁基本は自宅、時々 を再構築する。そんな取り
題が、
突然押し寄せてきた。 法﹂は、
で市ケ谷、
多摩へ入学するという、逐
師の教えには届きませんが
入学当初の多摩キャンパ ﹁ 文 化 の 継 承 ﹂ を わ ず か ず
スは社会学部棟など一部が つでも実践してゆきます。
〒105‑0004 東京都港区新橋 2‑16‑1
1968年3 月卒 湯川和夫ゼミ
1967年3 月卒 土生長穂ゼミ
〒950‑0972 新潟県新潟市中央区新和 3‑12‑6
1966年3 月卒 佐藤毅ゼミ
北村 次郎
塩田 利明
自宅〒242‑0008 神奈川県大和市中央林間 4‑29‑14
TEL・FAX.046‑275‑3022
1961年3 月卒 土生長穂ゼミ
自宅〒277‑0086 千葉県柏市永楽台 3‑8‑3
1961年3 月卒 増島宏ゼミ
〒101‑0047 東京都千代田区内神田 1‑11‑10 コハラビル 2F
TEL・FAX.03‑5577‑3151 携帯 090‑4415‑2515
1961年3 月卒 山本巌ゼミ
中山 重臣
常任顧問
社会学科 88 年 3 月卒
五十嵐仁ゼミ
思います。
もあり、キャンパスが分か
れても先輩方が毎週多摩に
2
ホノルルマラソン日本事務局 代表
法政大学社会学部同窓会
法政大学2 号評議員
株式会社新潟放送
57
13
65
14
3
中村 一廣
中島 謙さん
次移転でした。そんなこと
80 3
14 69
14 65
14 59
11
30
14
理事
竹石 松次
代表取締役
社 長
30
理事
千葉 正顕
代表取締役
23
86
88
87
法政大学社会学部同窓会
柏市地域づくり推進委員会 委員
法政大学社会学部同窓会
東京実業有限会社
91
10
14
和秀さん ( 右 ) と息子さん ( 左 )
84
60
14
60
14
16
20
医療機器メーカー
海外営業担当
20 年ぶりに楽器の
練習を再開しました !
第 45 号
法政大学社会学部同窓会報
(5) 2015 年 (平成 27 年) 1 月 1 日 【交流の広場】
こちらから
下田 図書館に集まること
が多かったね。
人くらいで活気がある
石原 私にとっては、法政
大学というより、舩橋大学
重要性を学びました。
せなことでした。今の仕事
感じることができたのは幸
大切さ。学問することへの
情熱、先生の迫力を間近に
でした。フランスから帰っ
石倉 世の中で起こってい うこと。どういう考えでも
る色々なことをどう見たら いいから、立場をはっきり
いいか、考え方の芯が学べ させよ、とも。法政大学社
かった時、ある女性の先生
る と 報 告 が あ っ た。 ま た、 環で留学生受け入れをさら
プ ロ ー チ は ﹂﹁ 社 学 棟 の 中
論審査の1月下旬に何かア
交換した。教授会側から﹁卒
ていってほしいな。
石倉 いろいろなことを決
めつけずに、自由に追求し
︱後輩へのメッセージを。
年 月 日、前庭で新 では視点を学ぶことができ
校舎の建築基礎工事が開始 た。地球温暖化対策として
職情報イベント以外のとこ
や教員が多数参加し、参加
は各業界で活躍する卒業生
いので、私たちの学生時代
よ り も、 ず っ と 大 人 な ん
じゃないかと思う。私の息
子を見ていてもそう感じ
る。 傷 つ く こ と も 多 い 分、
感受性が豊かで鋭い面もあ
り そ う。 自 信 を 持 っ て 頑
張ってほしい。私たちの世
代は何らかのサポートをし
ていかなきゃという気もし
法政大学社会学部同窓会
1975年3 月卒 士生ゼミ
吉川 新吾
というのもあったね。最高
時
たこと。これはずっと生き 会学部では社会科学の基礎
教育がとても充実していた
そう。シンクタンクで働い 舩橋先生は、﹁思ったこと、 で探して買ったり。この本
が、当たり前のことをきち
に強めると語った。成績不
に学部同窓会専用掲示板を
年館869教室で、第2
遊んでもいい。でも授業は
る。
ろで、自主的に大人に会う
学生と情報交換を繰り広げ
も い る ﹂︵ 小 林 さ ん ︶、﹁ 就
ようにした。型にはまらず
で後輩たちの前途を祈念し
に﹂
︵ 石 渡 さ ん ︶ な ど と、 た。そして最後は校歌斉唱
後輩たちにメッセージを
小澤 俊文
の対談の続きは
石原 一つの文献をみんな
そうだ、
SPE研主催で、 サークル。男女比もバラン
で討論しながら学ぶのは本 東大教授で教育学者の堀尾 スが取れていて、お気に入
ています。
てきたカッコイイ先生がい ︵取材・編集︶にもつながっ
りの女の子との交流を楽し
当に勉強になりました。こ 輝久先生を招いて講演会を
ています。
題になって、みんなで見に
それから、名前は思い出
せないのだけれど、語学の
るよ、と女子学生の間で話
行ったのが最初。先生が紹
は今でも年に数回は開きま
んと誠実にやり遂げること
授業で提出物の集まりが悪
た後に、フランスの大学院 考えたことを手帳にすぐ記
す。社会調査の訓練で先生
田中義久先生の基礎ゼミも ときどき思い出す。例えば、 介した森有正の本を古本屋
に留学したのだけれど、繰 録すること。一生懸命考え
こそが大事なんだと、一時
社会科学の基礎教育は生
り返し向こうで言われたの よ﹂
とよく言っていました。 が強調されたのは、おおも
限全部使って、至らない私
きる力に
︱社会学部で学び、今、役
とのデータに当たることの
たちを叱ってくれたことが
は、基礎をしっかり、とい 物事の本質を考えることの
ありました。そういう全力
で向き合ってくれる先生と
社学棟に同窓会掲示板設置も検討
を確認しつつ、学部同窓会
の出会いは大きい。
教授会執行部との懇談会
に立っていると思うこと。
ていましたね。
なのに、明るく盛り上がっ
いつ意外にできるな、とか 開 い た こ と が あ り ま し た。 ん で い る 男 の 子 も い た し、 下田 1年生のときの勉強 ので、大いに役立った。
感じたり。
参加者は 人くらい。あと 一見、お堅い学習サークル が大きい。舩橋先生の﹁社
それから、先生から何気
会科学の方法﹂
もそうだし、 なく言われたこと、今でも
回﹁社会学講座﹂リポート
向上できわめて重要﹂と学
の認知度向上について意見
は田中充︵みつる︶学部長、 市ケ谷時代の卒業生にキャ
振者や学生のメンタル上の
設置しては﹂など具体案が
月
部長は意義を強調。その一
健康学部が中心になり
日に記念シンポを開催す
ンパス見学の機会を設ける
問題への対応強化について
社会学部同窓会は9月
日、教授会執行部との定例
任︶
、
矢部恒彦准教授︵同︶、 課題では﹁後援会の見学会
は、同窓会側から﹁多様な
下田 サークルでも部活で
も 一 生 懸 命 や っ て い い し、
懇談会を行った。教授会側
された市ケ谷キャンパスの は、緩和策と適応策という
土橋臣吾准教授
︵同副主任︶ などに企画を重ねては﹂と
出された。依田理事からは
大切にしてほしい。そのと
同窓会側は高橋敏会長、水
ため、先輩たちの体験談を ﹁ 多 摩 の 学 園 祭 に ブ ー ス を
きは、つまらないと思って
回社会学部同窓会主催﹁社 界全体で温室効果ガスの排
出すくらいのことをしても
上 久 忠 事 務 局 長、 濱 名 達、 の近況、学生の状況につい
楽しく聞かせるような場
会学講座﹂が開かれた。今 出削減を行いながら、進み
ては、
まず文部科学省
﹁スー
依田︵いだ︶素味、吉川新
パーグローバル ﹂への挑
吾が出席した。
いても、あとで生きてくる
いい﹂などアイデアがふく
︵吉川 新吾︶ はずだから。勉強は強いら
れる価値があるもの。社会
自らの体験を生き生きと
に出るとありがたさがわか
語 っ た。﹁ 授 業 に は き ち ん
り 学 ぶ べ き ﹂︵ 長 田 さ ん ︶、
と出席し、在学中にしっか
石原 今の子は、3・ が
あったし、労働環境も厳し
ポーツ健康学部 年卒︶が
戦が話題に。﹁大学のグロー
最後に、﹁就活セミナー﹂ らんだ。
の成功に力を合わせること
バル化、社会的プレゼンス
就活支援セミナー開く!
多摩キャンパス 周年記
念行事について、スポーツ
を﹂と提案した。
回の講師は社会学部長の田 ゆく温暖化への適応策の必
て質疑応答が続いた。社会
先輩の経験に学び、
意欲を高めよう
授会主任︶が務め、楽天の
長田敦宏さん︵社会学部
年卒︶
、アイ・アール・ジャ
れる。企業訪問すれば先輩
コーディネーターには矢 ﹁ 就 活 は 一 人 で し な い で。
回目を迎えた﹁就活支
クに焦点を当てて、行政の 参加者の一員として心より
部恒彦社会学部准教授︵教 家族や同級生も応援してく
援セミナー﹂が 年 月
る気候変動・温暖化のリス 長 自 ら 示 し て く だ さ っ た。
世紀の地域社会が直面 人になってからも、学び続
する深刻な課題の一つであ けることの重要さを、学部
テーマを取り上げた。
学 と し て も 大 変 ホ ッ ト な だったが、予定時間を超え
環境と私たちの暮らし﹂と
告知時間が短かったこと
題し、身近で、しかも社会 も あ り 限 ら れ た 参 加 人 数
球温暖化問題∼これからの してくださった。
中 充 先 生。﹁ ど う な る! 地 要性を、非常に具体的に示
鈴木智道准教授︵教授会主
つ柱があるとのこと。世
人生があることを知らせる
緩和策と適応策、両方が大事
地球温暖化問題の核心を学ぶ
第第
に苦労しましたね。
石倉 あの頃は、サークル すぎる﹂と怒られた。
棟がないので、集まる場所 石原 A君やO君が中心に
なっていた近現代史研究会
歩いたことを思い出すな。 模でやるもの。聴衆が少な
あって、各ゼミを訪問して 学とかだったら400人規
下田 ゼミ活動では、ゼミ で 某 教 授 か ら、
﹁堀尾輝久
連を作ろう、という運動も 先生の講演会は東京学芸大
40
立場から地域社会の課題を 感謝を申し上げたい。
グドームで開催された。約
人が参加した。社会・経
年 卒 ︶、 至 誠 学 舎 立
パンの小林和矢さん︵経済
会 が 主 催 す る 恒 例 行 事 で、 学 部
年卒︶
、日本体
多 摩 4 学 部 教 授 会 が 後 援、 川の石綿奈々実さん︵現代
福祉学部
た。
︵水上 久忠︶ ます。
送った。終了後の懇親会に
星野 昌弘
副会長
藤崎 清孝
〒150‑0001 東京都渋谷区神宮前 6‑31‑19
TEL.03‑3409‑2301 ㈹
1975年3 月卒 庄司ゼミ
1974年3 月卒 芝田ゼミ
←
提案があった。大学や学部
15
E‑mail:shingo‑[email protected]
1987年3 月卒 田中義久ゼミ
1987年3 月卒 金山ゼミ
TEL.090‑1802‑2908
E‑mail:[email protected]
1978年3 月卒 金山行孝ゼミ
郡司 貴志
理事
高橋 敏
30
「法政大学 55/58 年館の再生を望む会」
発起人・事務局
法政大学社会学部同窓会
法政大学社会学部同窓会
11
〒107‑8349 東京都港区北青山2 丁目 5‑8 青山OMスクエア
TEL.03‑6440‑2500
1975年3月 卒
〒101‑0046 東京都千代田区神田多町 2‑7 翔和多町ビル2階
TEL03‑3256‑7058 FAX.03‑3251‑2205
E‑mail:[email protected]
1975年3 月卒 士生ゼミ
13
2
27
追求してきた田中先生なら
10
済・現代福祉の3学部同窓
22
育協会の富澤佑也さん︵ス
11
撮影 : 北條 利男
30
14
多摩キャリアセンターが支
援した。
12
会長
60
代表取締役
社 長
22
2
9
代表取締役
社 長
30
21
依田 素味
(
) 日、多摩キャンパス・エッ
講師を務めた田中充先生
( 撮影:吉川 新吾 )
株式会社オークネット
法政大学社会学部同窓会 理事
木村誠事務所
11
14
木村 誠
司法書士
21
大畑 きぬ代
理事
1p
14
58
株式会社 コロンバン
法政大学社会学部同窓会
【同窓会活動】 2015 年 (平成 27 年) 1 月 1 日 (6)
法政大学社会学部同窓会報
第 45 号
同窓会活動充実のために、
会員を増やしましょう。
登録数)です。しかし、毎年確実に会費を納入される方
は半数以下であり、会費収入額が毎年変動するため活動
計画が立てにくいという長年の悩みがあります。また、
若い世代ほど入会が少なく、会員の高齢化が進んでいま
す。同窓会は会費収入で成り立っており、会員数と会費
収入の安定が同窓会活動充実の必須条件です。さらに、
在校生は就職活動などで先輩からの親身な助言を求めて
おり、こうした点からも、会員の各年代がバランスよく
していきたい﹂と挨拶、ま
た、世代交代を見据えた会
長交代の意義について説明
した。続いて来賓を代表し
校友会の桑野秀光会長から
て、一般社団法人法政大学
祝辞をいただいた。
力を尽くしたい﹂と挨拶し
組織の拡大・発展のために
力で若輩者ですが、同窓会
認した。
高橋敏新会長は
﹁微
い、全議案を満場一致で承
算案、役員体制の報告を行
本年度の事業活動および予
【会員の皆様へのお願い】
た。なお、当日の出席者か
らは﹁校友会は︵本校卒業
生組織の︶過去の事例を忘
れることのないようにして
仲間に社会学部同窓会への入会をお勧めいただき、会員
増員にご協力ください。同窓会の役員も社会学部の先生
方や在校生に働きかけ、
会員増員に努力してまいります。
社会学部からは毎年 800 人近くの学生が卒業し、1952
年の学部創設当時からの卒業生は数万人に及びます。社
壽福ゼミOBの
島田氏が記念講演
年卒、壽福眞美ゼミ︶が講
師。島田さんは一般企業で
働いた後、法政大学大学院
社会科学研究科政策科学専
攻を経て、現在、東京大学
する母校の大学・学生を支援していきましょう。会員増
員にご協力くださいますようよろしくお願い致します。
【入会対象者をお知らせください】
入会対象者の氏名、住所、連絡先をお知らせください。
社会学部同窓会のご案内と入会申込書、会報をお送りし
学大学院では、従来の都市
相互に交流して同窓会を活性化させましょう。そして愛
ます。同窓会ホームページからも申し込みが可能です。
電話・FAX:042-783-2421
ホームページ:http://www.hoseisoc-dousoukai.jp/
今年度学位取得予定。
体による街づくり︵コミュ
ニティ形成論︶の在り方や、
非論証的な推論方法である
を見つける研究、などに取
より構成の差異があること
いったのか︵発話割合︶に
どのように会話が変わって
時 間 軸 の 変 化 で 発 言 者 が、
れ た 法 則 性 に 基 づ く 研 究、
学中に学校近くを流れる境 ﹁ 社 会 構 築 主 義 ﹂ に よ る 隠
川︵上流部が多摩キャンパ
スに近接︶をフィールド
ワークしたことと、スペン
サーの﹃社会進化論﹄を読
ん だ こ と ﹂ と 語 っ た。 ま
た、社会学部在学中は、土
り組んでいる。
新事務局員、
年4月∼
月
口=金子久美子、
活用させていただきます。
ます。貴重な運営費として
皆様から寄せられました
ご厚志を心から感謝いたし
11
吉崎 秀夫氏が経営
年卒、逸見重雄ゼ
込︶
。集合は午前
14
川越﹁吉寅﹂で新年会
社会学部同窓会は1月
日、会員は誰でも参加でき
夫氏︵
営者は同窓会理事の吉崎秀
顔合わせを行う。同店の経
焼料亭 吉寅﹂で新年初の
焼店を開業した名店﹁すき
業し、埼玉県で最初にすき
を 開 催 す る。 明 治 年 に 創
る
﹁同窓会新年会イン川越﹂
17
口=新村武彦、
口=矢部保雄、
7口=太田昭郎、山田光弘、
時 分、 小泉透、野村廣、笠原邦丸、
[email protected]
メールアドレス
090・4077・1223
携帯電話
いただいたご縁で、こちら
の事務局を紹介していただ
き、今に至ります。一日も
早く仕事を覚え、微力なが
ら、事務局運営のお役に立
てるよう努めてまいりま
5 口 = 藤 永 正 順、 杉 本 昇、
4口=野村周司、栗原政實、
3口=嶋川義久、中條務、
古川育男、小泉栄一、
2口=伊藤雅史、春山忠男、
岩崎久美子、土田浩司、
尾崎孝、尾崎覚、坂元要、
久保田和幸、中大路満喜子、
川杉光司、澁澤知宏、
杉田重雄、村上良三、
西脇和彦、河合三彦、
加美越生、川勝文雄、
平山孝子、齋藤俊博、
宇佐美貴、森田靖也、
柳瀬英雄、渡會豊明、
川添重村、松井睦夫、
都市論﹂を例に出して、﹁卒
大江吉宣氏が著した﹁自給
大学は私にとって憧れの大
校ではありませんが、法政
だくことになりました。母
会学の危機を感じる﹂とし、 会事務局を担当させていた
社会学部同窓会の益々のご
け し て 申 し 訳 あ り ま せ ん。 1口=横山隆一、山口真澄、
め、皆様にはご迷惑をおか
た。年度の途中であったた
︵太田 洋子︶ 神順子
倉根祐子、鈴木敏子、
河渡真一、三井和也、
植田孝良、
鈴木光枝、安井洸治、
業生へのメッセージ﹂を
語った。
︵郡司 貴志︶ ンパスの他部署で働かせて
発展を祈念いたします。
藤田潤、数土清治、
川浪佐賀男、宮邉富宏、
高野忍、黒住修、
ます。
︵入江 久美子︶ 小林恭久、会田良、
山田道生、宇田川英夫、
す。よろしくお願いいたし
木村誠
水上まで︵1月9日締切︶
。 郷久保博、山岸秀雄、
参 加 申 し 込 み は 事 務 局 長、 福田伸夫、風見久夫、
新年会後は川越市内散策。
東 武 東 上 線 川 越 駅 改 札 口。 中正美、
20
島 田 氏 は 講 演 の 最 後 で、
の各教授に師事し、大いに
入江久美子です。 退任のご挨拶
薫陶を得たという。東京大 ﹁ 多 様 な 解 釈 を 前 提 と し な
諸事情により、退職させ
年 月から太田さんの
後任として、社会学部同窓 ていただくことになりまし
生長穂、稲上毅、高尾利数
11
学です。9月まで多摩キャ
くなってきている風潮に社
10 11 32
10
ミ︶
。会費は6千5百円︵税
61
学 専 攻 博 士 課 程 に 在 学 中。 計画発想ではない、市民主 同窓会 事務局から
大学院工学系研究科都市工
そこで会員の皆様にお願いです。ゼミやサークル等の
島 田 氏 は、
﹁社会学を志
てほしい﹂との要望をいた
すきっかけは、湘南高校在
だいた。
揃った同窓会組織の構築が望まれます。
総会は、前年度の事業活
前 会 長 が、﹁ 田 中 優 子 総 長
定期総会後の恒例の記念
前社会学部長を同窓会とし 動 お よ び 会 計・ 監 査 報 告、
講演は、島田昭仁さん︵
ても全面的にバックアップ
開かれた。冒頭、中山重臣
谷キャンパス571教室で
年度定期総会が6月
日、再開発の始まった市ケ
二〇一四年度定期総会報告
社会学部同窓会の会員数は、現在約 1,200 人(名簿
欲しい﹂
、
﹁学部同窓会は役
〒 194-0298 東京都町田市相原町 4342
10
【組織の現状と課題】
員決定プロセスを明文化し
法政大学社会学部同窓会事務局
14
14
会の各界で活躍する卒業生が同窓会員となり、結集し、
( 撮影:郡司 貴志 )
社会学部同窓会会長 高橋 敏
14
( 撮影:郡司 貴志 )
92
第 45 号
法政大学社会学部同窓会報
(7) 2014 年 (平成 27 年) 1 月 1 日 【同窓会活動】
森田忠男さんに聞く 同窓会設立秘話
86
年 に わ た る 設 立 準 備 を 経 て、
年
︵ 月
月、 社 会 学 部 同 窓 会 は 設 立 し た。 こ う
自に﹂という動きが盛り
を 持 つ 人 も い て、
﹁学部独
ない︶の在り方に違和感
法人法政大学校友会では
校 友 会。 現 在 の 一 般 社 団
を 起 こ し ま す︵
﹃法政大学
取っていたという不祥事
て巨額の工作資金を受け
大手建設会社に働きかけ
部 の 校 友 理 事・ 監 事 ら が
年 2 月 ︶ に 先 立 っ て、 一
ド の 川 崎 市 へ の 売 却︵
や り た い ﹂ と、 校 正 部 長
に お 願 い し て、 本 社 へ 異
活字の世界で仕事がした
高校では高校新聞の活
動 に 夢 中 で し た。 そ し て
を任されるようになりま
ちにある専門誌の編集長
速 い と 評 価 さ れ、 若 い う
の 経 験 が 生 き て、 動 き が
学生時代の思い出
いと思うようになりまし
した。
動。 高 校、 大 学 の 新 聞 部
た。 法 政 大 学 社 会 学 部 は
てすぐに法政大学新聞学
り ま せ ん で し た。 入 学 し
ば、 今 の 自 分 の 発 想 は あ
会員拡大に力を入れまし
し い 時 で し た。 で す か ら、
の会長就任時も財政が厳
か、 と い う こ と で す。 私
今、 第 一 に 心 配 な の は、
組織力が弱まっていない
これから
社会学部同窓会の
最初から希望して入りま
し た。﹁ 社 会 科 学 ﹂ に 最 初
は と ま ど い ま し た が、 刺
な ぜ、 私 が 学 部 同 窓 会
︵ 高 橋﹁ 恩 師 の 金 山 行 孝 先
に積極的に参加するよう
会に入部し、富士見町︵市
激 的 で し た。 あ の と き 社
に な っ た か。 学 生 時 代 の
ケ谷いキャンパス︶の部
会科学を学んでいなけれ
き て い る か ら、 学 部 同 窓
の影響が大きかったと思
会 を ゼ ミO B で 支 援 し ろ、 2 年 先 輩、 松 島 春 海 さ ん
平成 20 年 7 月
昭和第一学園理事長に就任
(平成 26 年 3 月退任)
聞麻布支局の活動を一緒
さ ん と 私 は、 法 政 大 学 新
授 に な っ た 方 で す。 松 島
み、 埼 玉 大 学 経 済 学 部 教
立に住んでいた法学部の
取 材 の 一 環 で、 当 時、 国
て い る の は、 砂 川 闘 争 の
聞の活動で思い出に残っ
立 ち 上 げ ま し た。 法 大 新
さんと一緒に麻布支局を
座のような先生方と卒業
最近始めた土曜開催の講
た 感 じ で す。 で す か ら、
し た。 ド ラ イ に な っ て き
識もかなり変わってきま
生方の同窓会に対する意
を十分理解させていただ
に や っ て い ま し た。 そ の
き ま し た。 現 在 の 方 針 で
松島さんから同窓会作り
特 別 な も の が あ る の で す。
私 は、 長 谷 川 博 ゼ ミ で
し た の で、﹁ 歴 研 ﹂︵ 歴 史
運営されると良いと思い
生の交流を深める活動は
学 研 究 会 ︶ に 参 加。 3 年
ます。
大 切 で す ね。 第 二 は、 校
生 の と き は﹁ 神 戸 に お け
中 村 哲 先 生︵ 元 法 政 大 学
部生を募集した第一期生
る米騒動の研究﹂に取り
総長︶のお宅に通ったこ
ですから特別な思いがあ
総会などで皆さんの認識
る の は 当 然 で す。 ほ ぼ 同
組 み、 卒 論 は﹁ 三 多 摩 困
の顔ぶれが揃っていきま
に も 話 が い っ て、 準 備 会
川先生の研究に少しお役
∼︶ の 手 に も わ た り、 色
京 経 済 大 学 名 誉 教 授、
こ れ は 色 川 大 吉 さ ん︵ 東
待ち合わせ場所に何時
もの穏やかな微笑とダン
森田顧問の
し た。 み ん な、 社 会 学 部
ディな装いで現われた森
に、 一 途 な 大 学 愛、 同 窓
ら現在までの思い出の中
田 顧 問。 麻 布 校 舎 時 代 か
お話を聞いて
の た め に 何 か し た い、 と
に立ったと聞いています。
先 生 に﹁ 帝 国 地 方 行 政 学
を合わせて頑張りました。
苦 労 も あ り ま し た が、 力
心 の 時 代 で す。 い ろ い ろ
まだ電話が通信手段の中
に 入 り、 そ の 後、﹁ 編 集 を
は、 最 初 に 立 川 の 校 正 部
と に な り ま し た。 職 場 で
を 紹 介 さ れ、 入 社 す る こ
気がしました。 ︵高橋 敏︶
きる﹂そのお手本を見た
い と 共 に﹁ カ ッ コ 良 く 生
し た。 身 の 引 き 締 ま る 思
れ て 大 い に 助 か り ま し た。 会 ﹂︵ 現 在﹁ ぎ ょ う せ い ﹂︶ 会 愛 を 語 っ て く だ さ い ま
事︶が事務局を担ってく
大 矢 常 吉 さ ん︵ 設 立 時 幹
す よ。 大 学 職 員 で あ っ た
就職活動ではいろいろ
苦 労 し ま し た が、 高 校 の
いう思いが強かったので
会 学 部 同 窓 会 初 代 会 長 ︶ 民 党 事 件 の 研 究・ 序 論 ﹂。
私 は、 法 政 大 学 が 社 会 学
時 に、 黒 坂 一 久 さ ん︵ 社
の 協 力 を 依 頼 さ れ、 す ぐ
と呼びかけられたことを
法政大学評議員就任
(平成 20 年 3 月退任)
に参加するようになりま
た。 今 の 状 況 は い か が で
平成 11 年 4 月
友会や他学部同窓会と連
し ょ う か。 社 会 学 部 の 先
法政大学社会学部同窓会会長就任
(平成 16 年 7 月退任)
携 の 重 視 で す。 こ の 点 は
室に通うようになりまし
株式会社ふこく出版設立
と で す。 中 村 哲 さ ん は 新
た。 し ば ら く し て、 松 島
平成 10 年 6 月
聞学会の顧問でした。
い ま す。 松 島 さ ん は 卒 業
株式会社ぎょうせい退社
平成 8 年 10 月
し た。 や は り 麻 布 時 代 の
後、 東 京 大 学 大 学 院 に 進
か れ て い た よ う に 思 い ま ﹁このような卒業生組織は
平成 7 年 12 月
先生と学生の結びつきは
思い出しました﹄
︶
年、 社 会 学 部
した﹂
︶ 当 時 の 私 は、 出
で参加させていただきま
で し た︵ 高 橋﹁ 私 も 末 席
の場で初めて行われたの
ろうという呼びかけが公
も、 そ こ で、 同 窓 会 を 作
会をやったのですけれど
れ、 私 は パ ー テ ィ ー の 司
周年の集いが多摩で開か
いえる
こうした不祥事が世間
日、聞き手・高橋 敏、文・吉川 新吾︶ に明るみに出る前夜とも
上 が っ た。 と り わ け 麻 布
と戦後五〇年﹄参照︶
。こ
設立経緯
高 橋 彦 博 先 生︵ 現 名 誉
教授︶の学部長在任時
校 舎 で 学 生 と し て、 若 き
∼
校とする先生方を中心に
︵
の事件は校友会の在り方
卒業生と社会学部の先生
昭和 61 年 10 月 取締役に就任
世話人という形で参加す
ダメ﹂という思いを持つ
昭和 57 年 10 月 営業部長に就任
す。 一 方、 校 友 会 は、 法
昭和 9 年(1934 年)生まれ、東京都八王子市出身
方の接点を拡大すること
( 撮影:郡司 貴志 )
人 が 増 え て い き ま し た。 ることにしました。
森田 忠男 顧問
政大学川崎第二グラウン
日 々 で し た が、 準 備 会 の
に も 起 因 す る も の で あ り、 版 社 の 営 業 部 長 で 多 忙 な
方が社会学部を愛する気
教員として過ごした先生
11
年︶に、法政を母
文系初の学 部 同 窓 会 の
したい。そこで、森田忠男顧問︵元会長︶に設立当初の出来事を聞いた。
した歩みを振り返り、先輩方が同窓会活動にかけた思いを次の世代に継承
3
多摩キャンパスにおける新しい挑戦の熱気に包まれながら、 年 月に
開 か れ た 社 会 学 部 周 年 の 集 い で 学 部 同 窓 会 設 立 の 呼 び か け が 行 わ れ、 数
35
﹁同窓会を作ろう﹂という
86
89
10
生 か ら﹃ 大 変 な こ と が 起
〝みんな、社会学部のために何かしたい、
という思いが強かった〟
呼びかけに応え、卒業生も、教員も動く
ロングインタビュー
85
が狙いでした。校友会︵旧
現在、法政大学社会学部同窓会顧問、昭和第一学園
常任顧問
84
話 が す で に 出 て い ま し た。 持 ち が 強 く、 積 極 的 に 動
35
3
株式会社帝国地方行政学会
(現ぎょうせい)入社
同年 11 月
法政大学社会学部卒業
昭和 31 年 3 月
昭和第二高校普通科卒業
昭和 27 年 3 月
25
88
【歴史と文化】 2015 年 (平成 27 年) 1 月 1 日 (8)
法政大学社会学部同窓会報
第 45 号