あり 11 94 号 ね。どの村にも街角にも、小 んは、とても身近な存在です さて、世にあまたおわす仏 さんたちの中でも、お地蔵さ お願いします。 あけましておめでとうご ざ い ま す。 今 年 も よ ろ し く で き た と か、 ト ゲ が 抜 け た にお参りした人が、長生きが られていたわけでなく、熱心 めからそういう名前が付け ネームの付いたお地蔵さん げ 抜 き 地 蔵 」 と か、 ニ ッ ク 手を合わせる姿は、日常的で がりの人が、お堂に向かって のでしょう。 れ、親しまれるようになった が あ り、 い つ し か そ う 呼 ば 中 に は、 水 子 地 蔵 と い う、 は じ め か ら すし 、 微 笑 ま し い も の で す 。 信仰を集めています。通りす ( 病 気 が 治 っ た ) な ど の 功 験 こうけん たちも多くおわします。はじ さな地蔵堂があって、地元の ☆お地蔵さんの愛称 2016(平成 28)年 1月1日 そのお地蔵さんたちの中 に は、「 延 命 地 蔵 」 と か「 と 脚気地蔵の話 -1- といえます。 はむしろ新しいもの お わ し ま す が、 こ れ 化したお地蔵さんも 水子たちの供養に特 こちらが脚気地蔵尊におわします 今回は、古いわりには、珍 しくはじめからニックネー ムが付いていたらしいお地 蔵さんの話です。 かっけ わ の 際 に「 自 分 を 供 養 し て し ま っ た。 そ の 遍 路 が い ま いで馴染みの大工さんと見に 聞かされ、それは大変と、急 床が抜けそうな場所もあると 0 く れ た ら、 脚 気 の 人 を 助 け 行きました。 0 よ う 」 と 遺 言 を 残 し た。 そ 0 こ で 木 津 の 人 た ち は、 お 地 たしかにあちこちが随分傷 んでいます。さっそく見積も 蔵さんを作り供養した。 りをしてもらい、2月の中旬 の周りを周囲を3度廻れば願 だった瓦を補強し、掃除やお 床板や畳を替え、内外の壁 も新しくしました。落ちそう から工事に入りました。 いごとが叶うなどと信じられ 参りに便利なように水道も引 というわけでこのお地蔵さ んは、脚気に効く、病気を治 ています。 夜でも、お地蔵さんの姿を拝 してくれる、あるいは、お堂 街道ぞいのお地蔵さんで す。地元の人だけでなく、遍 めるように、格子戸のシート は、「 平 成 の 大 修 理 」 と で も た。というわけで、結果的に 明も明るいものに換えまし を透明なものに張り替え、照 きました。また、外からでも、 路たちも、ここで旅の安全を ☆修復工事 呼べそうな内容の工事になり ました。 トシ子さんと平岡弘子さん す。畳と床板を剥がすと、お ところで、いよいよ修復工 事に取り掛かった日のことで ☆墓の発見 が、 熱 心 に お 世 話 を し て 下 地蔵さんの置かれた台座を は さっています。 地 蔵 」 と 呼 ば れ て、 長 く 地 そういう経緯で生まれたお 元 の 信 仰 を 集 め て き ま し た。 地蔵さんですから、長く地元 こ の お 地 蔵 さ ん に つ い て は、 の人たちの手で守られてきま し た。 い ま は 木 津 元 村 の 上 町 ています。 たど 覆った板の隙間から、石のよ うなものが見えます。板をは 折、お堂がかなり傷んでおり、 ずしてみると、文字の刻まれ う 歩 け な く な っ て し ま い、 昨年の正月、このおふたり が年賀の挨拶にみえられた た が、 あ え な く 亡 く な っ て 地元の人が手厚く看病をし 津 ま で 辿 り 着 い て、 と う と 脚 気 で 苦 し ん だ 遍 路 が、 木 次のような言い伝えが残っ 小 さ な 地 蔵 堂 が あ り、 「脚気 祈 っ て、 西 の 1 番 札 所 に 向 木津元村を南北に走る国 道 の 高 架 と、 東 西 に 走 る 撫 かって歩いて行ったかもしれ 養 街 道 が 交 差 す る あ た り に、 ません。 ☆脚気地蔵堂 修復の終わった脚気地蔵堂 -2- た 墓 石 ら し き も の と、 そ の 横 に首の取れた石のお地蔵さん が姿 を 現 し ま し た 。 首 な し 地 蔵 は、 か つ て は 墓 石の上に置かれていたらしい 形跡 が あ り ま す 。 山常 はんざんじょう 墓 石 に は、 正 面 に「 繁 しょうしゃみ 取 っ て、 見 て も ら い ま し た。 また長谷寺のホームページに げ ら れ て、 ち ょ っ と し た 話 題 やNHKニュースでも取り上 で 紹 介 さ れ、 続 い て 徳 島 新 聞 木津で行き倒れたらしい遍 路は、うちの過去帳に記録が もあります。 じるには、いささかためらい 彼らも遍路と変わらない存在 ように、地蔵のおわす台座の ことを想定して、これまでの ところでこのお堂は、大正 年に再建されたという記録 年あ が、堂の内外に残っています。 年ですから、今から ま り 昔 の こ と。「 再 建 」 と あ りますから、以前にもお堂と 徳島新聞 2015 年 2 月 20 日付 公 開 し て い る 私 の 日 記(「 ブ ログ」といいます)を見た人 が知り合いの新聞記者に話を になりました。 あります。長谷寺の先住たち してくれたらしく、毎日新聞 ☆誰の墓なのか のでしょう。しかし過去帳に が引導を渡し、戒名を付けた ここで亡くなったのは遍路 という言い伝えが、事実か否 かは確かめようもありません が、 言 い 伝 え が 残 っ て い る 以 上、 そ の 可 能 性 は 否 定 で き ま もので、 当時一般的だった「△ になります。 板を外せばすぐに見られる構 蔵を刻んで供養したことも不 自然ではありません。 ともあれ、もし遍路墓なら 極めて特殊なものですし、鳴 ☆再建 おり、しばらく木津に滞在し、 造にしてもらいました。 下 に 封 じ 込 め て し ま わ ず に、 あるいは、そういう半僧半 俗の人が、医術を身に付けて 残る遍路たちの戒名は、ほと た存在だったのかもしれませ 門 で 初 め て の 発 見 に な り ま よ く 知 ら れ て い る の は す。郷土史の貴重な資料にな んどが「○○信士(信女) 」の、 ん。 ろ く ぶ かい こく いわゆる二字戒名と呼ばれる 「 六 十 六 部 」 と 呼 ば れ る 廻 国 る こ と は 間 違 い の な い と こ ろ の行者ですが、四国を巡れば で、いずれ研究の対象になる せん。しかし、遍路墓は四国 △ ○ ○ 信 士( 信 女 ) 」という 四字の戒名とは、扱いを異に の各地に残っていますが、そ そういう意味では、遍路と断 全体はこういう構造 ある上に、居士や信士の位号 脚気の患者を治療したのかも は「 沙 弥 」 と な っ て い ま す。 知れません。その人物がこの 地で亡くなったとしたら、地 沙弥は、出家はしているけれ 刻んで墓の上に安置し、お堂 しています。 まで作って供養したという例 墓石に刻まれた戒名「繁山 かぶん は、 寡 聞 に し て 知 り ま せ ん。 常昌沙弥」は、字数が四字で 昌沙弥 天明六年五月朔日」、 の遍路を弔うために地蔵像を 向 か っ て 左 の 側 面 に「 越 後 国 苅羽郡吉井村者也」と刻んで あ り ま す。 い ま の 新 潟 県 柏 崎 市あ た り で す 。 これがもし言い伝えの遍路 の 墓 だ っ た ら、 郷 土 史 や 遍 ど僧侶の見習いといった存在 とされています。 もしかしたら、遍路とは少 ぎょうじゃ し性格の異なる「行者」といっ 90 路史にとって貴重な研究材料 に な る の で は と 考 え、 す ぐ に 鳴 門 教 育 大 学 の 先 生 や、 県 立 博物館の学芸員さんに連絡を 保 存 状 態 が 良 か っ た お か げ か、 墓 石 は とても江戸時代のものとは思えません。 13 1924 墓石、現る。隣には首なし地蔵も。 -3- 呼べるものがあったことが分 かりま す 。 年 に、 い ま の 墓石の上に小さな地蔵を置 い て ま つ り、 後 に 小 さ な お 堂 こしら を 拵 え、 大 正 立 派 な お 堂 が で き た。 単 純 に 考えるとそういう流れになり ま す。 地 蔵 の 首 が と れ た こ と が、 再 建 の き っ か け だ っ た の かもし れ ま せ ん 。 た だ、 近 隣 に も 地 蔵 堂 は 多 い で す が、 こ れ ほ ど 立 派 な お 堂 は あ り ま せ ん。 こ の お 堂 は 6 畳 の 広 さ で、 中 で 法 要 も で きるよ う に な っ て い ま す 。 のうち 人が女性です。 23 人」として、都合 人もの名 会のときには、境内に詠歌場 かの庵やお堂が、長谷寺の所 めた、近辺に点在するいくつ しては、とくに檀家さんに寄 りますから、今回の修理に際 からといって、地元の人に寄 付を募ることはしませんでし 講が交替して、法要の間ずっ このとき、当時の住職であ と 詠 歌 を 唱 え 続 け て い ま す。 る、福田興邦の名で、脚気地 付を呼び掛けるとなると容易 属となりました。 蔵 堂 を 長谷 寺 の 所 属 と する 旨 なことではありません。まさ 推進力となって、再建が進め 歌連中が、募金活動の大きな ト。石碑に名前が刻まれた詠 いうチャリティー・コンサー という話を聞きます。いまで えては、浄財の喜捨を求めた ど、各地に出向いて詠歌を唱 例えば寺の修理や改築の時な んが、少なくとも、寺も当時 を持たなかったとも思えませ ところで、大正 年のこの 再建に、長谷寺が一切関わり ☆長谷寺に所属 けです。 名残を、いまに残しているわ チャリティー・コンサートの 「この中に、 に 長 谷 寺 の 住 職 だ っ た の で、 の名前も掲示し、 こ の 墓 石の こ と は 承 知 して い 彼 を 堂 の建 立 者 と 思 い 違い は に「 繁 山 当 昌 建 立 」 と あ り、 せめて、このお地蔵さんを 「常」を「当」と読み間違え、 信 仰 し て い る 人 た ち に だ け、 ました。その際、大正 再建時に加え、昭和 年の 年の小 修理に尽力してくれた人たち これが長谷寺の所属になっ たのは、戦時下の 年に施行 んだったと言えます。 いことではありません。 師を務めたことも、想像に難 もしれないし、落慶法要の導 再 建 に 際し て 相 談 を 受 けた か 近 所 に 住 む 人 た ち を 中 心 に、 あるのでしょうか、地蔵堂の 蓋を開けてみると、やはり 身近な地蔵さんという意識が 年 の 再建 の 時 点 で は す で された宗教団体法によってで ☆募金活動 ご先祖さまの名前、ありませ す。国による宗教統制が強化 くらいはこれでまかなうこと 人を超える方々から浄財が され、町や村にある小さな仏 というわけで、この地蔵堂 は、いまは長谷寺に属する施 堂は、必ずどこかの寺院への が 守 って き た と い う 歴 史が あ ができました。お地蔵さんパ 正 たのだろうと思われます。大 しているものの、興邦住職は、 堂の正面にその旨の掲示をし 寄 付 を 呼 び 掛 け て み よ う と、 動いてもらうわけにもいきま られたことでしょう。だから の住職の名前も、堂内外の記 こ の と きに 見 る 機 会 が あっ た た。また、地元が守ってきた の書類が、宗派の管長や県知 か、自治会や町内会の組織に 0 事に提出されています。 0 0 るという風習があり、集まっ せん。 0 た浄財は、寺に奉納されます。 この手続きの書類には、脚 気地蔵堂の「由緒沿革」の項 こそ、特別に石碑を建て、名 録には見えません。どこまで の か も し れ ま せ ん。 む ろ ん、 んか?」と書き添えました。 きしゃ 前を刻んだわけです。 も地元木津の人々のお地蔵さ 前にはもろぶたが置かれ、参 当時は各地に詠歌を唱える 講 が あ り、 そ の つ な が り で、 拝者たちがここに浄財を入れ 前が記されています。 64 ら と呼ばれる舞台をつくり、各 いまひとつは堂内に掲げ しゅうせん れた木製の額で、 「再建 周 旋 地の、あるいは各寺院の詠歌 詠歌連中の名が刻まれた石碑 詠歌といえば、いまも大法 13 61 所 属 が 義 務 付 け ら れ ま し た。 設ですが、長く地元の人たち 13 13 1940 これにより、脚気地蔵堂を含 ワー、恐るべしです。 寄せられ、修理の経費の半分 20 こ の 再 建 に 関 し て は、 ふ た つの記録が堂の内外に残って い ま す。 ひ と つ は 堂 の 前 に 建 つ石碑で、上部に「再建記念」 人 の「 詠 歌 連 中 」 と刻まれ、「発願人・功労者」 を含めて 堂内に掲げられた世話人さんたちの芳名額 13 の 名 前 が 刻 ん で あ り ま す。 こ 26 -4- り で 修 理 を 終 え、 沙 弥 の 命 日 墓の出現などというハプニ ン グ が あ り つ つ も、 1 か 月 余 ☆法要 できていなかったことになり せ ん が、 ず い ぶ ん 長 い 間 供 養 なってしまったのか分かりま わけですから、いつからそう 識は無くなってしまっていた 行して 頭に発 まも年 住がい や、先 ら れ、 法 要 に 先 だ っ て 詠 歌 を やはり詠歌をしている方がお しかし、これから 年、 年 後 に は、 こ う い う も の は もはたしています。 に残っていたとしても、探し てすぐも見つか るものでもな さか考えさせられました。 いでしょう。 先に記したように、大正 年の再建の際の関係者の名前 しかし、記録が「物」とと は、寺の内外に残っています。 もにあれば、その「物」が無 理の記録としては、すっかり 堂が存在し続ける限り、記録 ます。堂内に残しさえすれば、 くならない限り、記録は残り 色褪せてはいますが、収支決 も残ることになります。その 年)の小修 算書が壁に画鋲で留められて 記録の内容が、たとえ修理の 年( い ま し た。 ち な み に こ の と き 時と寄付者の名 前だけに過ぎ 考えてみれば、どの寺も神 社にも、内外に再建や修理の は、長谷寺の関係者では、先 を残しています。 長谷寺には、この「百日紅」 際 の 寄 付 者 の 名 前 が 刻 ま れ、 通り壁に貼っておくことにし た。むろんそこには、日付と い方法なのだなと実感しまし とで、たしかにあれが一番い があったのですが、今回のこ でいることに、とても違和感 いかにもこれ見よがしに並ん 初は、寄付者の名前ばかりが、 あるいは記されています。当 んでしまいました。 かったので、ここまでずれ込 堂の修復と、去年は話題が多 た。高野山開創 脚気地蔵堂の修復は、もう 去年の話になってしまいまし ▽ △ ました。 昭和の小修理の記録は決算報告でした は、「 物 」 自 身 が 語 っ て く れ ませんが、改築や修理の詳細 は 果 た し て く れ る だ ろ う と、 しても、報告という役割だけ 記録として記したこの文章 は、いずれ失われてしまうに 年、毘沙門 るのでしょう。 れてし ま まって い す。 こ れ以上 傷まぬ ように クリア ファイ ルに挟 み、 元 いささか自己満足、かつ自虐 的な思いはありますが。 年の修理の記 今回の芳名額。大正の額 の隣に並べました。 録は、紙が色褪せ、一部は破 た。なお昭和 も、額にして堂内に残しまし と い う わ け で、 今 回 の 修 理の篤志寄付の方々の名前 名前くらいしか記されてはい 1200 の 5 月 1 日 に、 さ さ や か な 法 赤飯 と 餅 を 配 り ま し た 。 唱えてくれました。 どこかに 散逸してしまうこと 要を し ま し た 。 ます。だとしたら、申し訳な い る 「同信」 浄財を寄せて下さった方々 いことでした。そういう気持 などの に案内状を送り、お堂の正面 ちも込めての法要でした。 印刷物 に も 案 内 を 掲 示 し、 当 日 は、 石碑に名前の残る詠歌連中 参 列 者 み ん な で お 経 を 読 み、 の ご 子 孫 さ ま た ち の 中 に は、 が、寺の活動記録を残す役割 考 え て み る と、「 自 分 を 供 養 し て く れ た ら・・」 と い う ☆記録の残し方 さんいつ 沙 弥 と の 約 束 は、 守 ら れ て い 100 だって考えられます。もし寺 50 ないとしてもです。 また昭和 13 住夫人の小塩和子のみが名前 1986 61 ま せ ん で し た。 お 参 り す る 人 ところで今回の修理の記録 は、 お 地 蔵 さ ん を 拝 ん で も、 をどう残したらいいか、いさ 沙弥を供養しているという意 修復完成記念の追悼 法 要 61
© Copyright 2024 ExpyDoc