Working Papers 2016 年 1 月 15 日 首都機能移転は夢物語か? ~明治維新における江戸遷都から得られる示唆~ についての議論が深まってこないのは、ある意 1. はじめに 地方創生の取り組みが進められ、来年度には 味、今すぐに取り組まなければならない、とい 本格的な政策展開の段階に入ることが予定され う切迫感がない、ということかもしれない。し ている。この取り組みの根底にある認識が、東 かし、いずれは、首都東京を頂点とした統治シ 京一極集中是正の必要性である。 ステムや序列意識を打破し、21 世紀にふさわし 東京一極集中の是正は、戦後一貫して国土・ い経済社会システムの構築が待ったなしの課題 地域政策の課題として位置付けられ、様々な政 となる時がやってくる。その時に、首都機能移 策が実施あるいは検討されてきた。そうした施 転が現実の課題として取り上げられることにな 策の一つとして、首都機能移転が長年にわたり るだろう、と筆者は考えている。 本論では、こうした問題意識の下、改めて、 検討されてきた。 様々な政策の実施にもかかわらず、東京一極 首都機能移転をどのようにとらえ、どのように 集中は「是正された」という状況には至ってお 取り組んでいくのか、ということについて、明 らず、むしろ近年では、集中の加速ということ 治維新において東京が首都となった歴史的な経 が議論されるような状況となっている。にもか 緯を振り返りながら、考えてみたい。 かわらず、首都機能移転に関する議論、検討は 進展が見られていない。一時は、政治・行政上 の重要課題としてかなり議論がなされてきた首 2. 明治維新における首都東京成立の経緯と要因 都機能移転が、これだけ東京一極集中の是正が 「広辞苑」によれば、「首都」とは、「その国 声高に叫ばれている状況の中でも、かつてのよ の中央政府のある都市」「首府」とされている。 うな熱気がなくなっている現状をどう見れば良 また、 「都」については、①「帝王の宮殿のある いのであろうか。 所」 ②「首府、首都」 ③「政治・経済・文 そもそも、首都機能移転は、単に東京一極集 化などの中心となる繁華なところ」 「都会」とさ 中の是正という文脈のみで語られるべき政策課 れている。今日の東京は、首都であることはも 題ではなく、我が国の経済社会システムの未来 ちろん、 「都」の定義の①、③の要件も備え、か をどのように形成していくのか、という、より つ、人口規模も日本最大であることから、だれ 幅広い視野で検討されるべきものである。大き もが日本の首都であると認識をしている。しか な時代の転換期を迎えている我が国において、 し、明治維新における東京への首都機能の移転 こうした観点から、新しい時代の経済社会シス は、後述するように、東京を首都とする明確な テムにふさわしい「器」としての首都の在り方 定めがないまま、実行されたものであり、その 1 ことが、首都機能移転を実現させた大きな要因 要な地であるが、都とするには土地が狭いので、 でもあった、と言われている。 地形に優れている江戸を天下第一の王都とし、 本節では、今後の首都機能移転の方向性を論 浪華はこれも天然の大都会であるのでこれを西 じる前提として、明治維新における首都機能移 京として別都とする」として二都市間に序列を 転がなぜ実現したのか、ということに焦点を当 つけている。 さらに、膳所藩士であり、藩論を尊攘に導い てて、その経緯を振り返ってみたい。 た高橋作也(1825~1865)の遷都論が示される。 明治維新における首都機能移転の経緯につい 彼はその著作「蠡測篇」において、数百年続い ては、主として以下の文献を参考にした。 『東京奠都の真相』(岡部精一) 『江戸が東京となった日 遷都』(佐々木克) 『東京百年史 た国家体制を革新し、天下の耳目を一変しさら 大正 6 年 に強大隆昌の活動的社会を創り出すために遷都 明治二年の東京 が必要、とする意見を述べているが、移転場所 平成 13 年 第二巻』(東京都) についての具体的な考えは示していない。 昭和 47 年 これらの遷都論は、いわば個人の考え方を表 明したもので、すぐに公の場での議論や実施に (1)江戸中後期の遷都論 結びつくものではなかったが、その思想は、次 江戸時代、実質的な中央政府である幕府は江 のような点で、後の明治維新における首都機能 戸にあり、上述した首都の定義からすれば、江 移転に影響を与えたものと考えられる。 戸が首都であった、と見ることもできる。しか ① し、天皇がいる場所が「都」である、との見方 天下の仕組みを根本的に革新するために からすれば、京都が首都である、ということに は、仕組みの根幹をなす首都の在り方の変 なる。こうした状況にあった江戸時代にも遷都 革が必要であり、そのためには首都の位置 論は存在した。 を変えることが不可欠である。 ② 江戸時代の遷都論の先駆けとなったのは、賀 国の統治を考えるに当たり、統治が困難 茂真淵(1697~1769)の「都うつし」である。具 な地域に近いところに、統治の中枢を置く 体的な地名までは示していないが、東遷論を主 べきである。この時代であれば、それは東 張している。その理由は「西国に比べ、東国は 国ということである。 ③ 強大であるが治めがたい。そこで、東国に都を 大阪は、人や物が集まる大都市として、 おいて、その強大を利用する」というものであ また、諸外国との対応という面で、京都よ った。 り優れており、有力な移転先地であるが、 次いで、江戸中期の著述家、佐藤信淵(1769 土地が狭く、新しい首都にふさわしい容量 ~1850)の遷都論が世に示される。彼は、国土 を持ち得ていない。この観点から優れてい 計画の先駆者と言われ、これからの国土の在り るのは関東平野に位置する江戸である。 方を幾つかの著作において示している。その中 (2)江戸時代末期の遷都論(大久保利通の大阪 の一つである「宇内混同秘策」において、国内 遷都論につながる動き) を統治し、世界に伍していく国づくりを実現す 幕末になると、海外の列強との対応が迫られ、 るための一手段として、遷都論を展開している。 その主張の大筋は「日本全国を八に区分し、江 尊皇攘夷と公武合体の議論が激突する中、慶応 戸を以って東京と為し大阪を以って西京と為し、 三年(1867 年)10 月の徳川慶喜による大政奉 日本をして両京あらしむべし」というものであ 還や同年 12 月の王政復古の大号令など統治の る。さらに、 「浪華は万物が行き交う港がある重 仕組みを根本的に変革するような動きが起きる。 2 今後の外国人との応接、海外との関係上、海辺に都が あった方が利便がよい。 こうした動きに伴い、幕府の統治力は弱まり、 権力の中枢は江戸から京都へと移り、中央政府 の所在地という意味でも京都が首都となってい そこで浪華に都を移し、大坂城の本丸を皇居にし、二 の丸には百寮(役所)を設け、皇城の四方に大諸侯の 邸地を賜り、その外に兵を配置するなどして守りを固 める。 った。この状況変化は、その後の遷都論に大き な影響を与える。尊攘派を中心とした人々から は、天皇による親征(天子が自ら軍を率いて出 征)を行うためには、京都ではなく、天皇の拠 このように伊地知正治の主張は、大坂城を中 点を浪華に移す必要がある、との議論が盛んに 心に首都としてのまちづくりにも言及しており、 なされるようになった。 一時的に都を移す、ということではなく、永続 尊攘急進派の中心であった筑前の志士 平野 的に大阪を都にするといういわゆる遷都論であ 國臣(1828~1864)はその著作「四天三策」(文久 ると言える。伊地知正治は大久保利通と同じ薩 二年(1862 年))で、 「 薩摩の島津久光の支えの下、 摩藩士であり、この考え方は二か月後に示され 天皇が浪華に移って、親征を行う」という構想 た大久保利通の大阪遷都論にも少なからぬ影響 を述べていた。 を与えたものと考えられる。 また、一年後の文久三年(1863 年)には、同じ 一方で、幕府側からも全く別の観点から大阪 く尊攘派の中心人物で、久留米水天宮の祠官で 遷都論が示された。徳川慶喜は、大政奉還した あった真木和泉(1813~1864)がその著作「五事 ものの、引き続き新政府においても一定の地位 建策」において、 「大事業を為すためには、旧套 を確保しようとしていた。このため、従来の江 を脱し、従来の居を離れる必要がある」として、 戸幕府とは異なる新たな政府機構を江戸ではな 天皇の大阪への行幸を主張した。そして大阪で い場所に置き、その機構における徳川の影響力 ある理由として、 「大坂は天下の要地で商業・流 を確保しよう、という延命策が考えられ、幕臣 通の中心であり、諸侯の統御さらには外国(夷) 西周(1829~1897)は、「江戸から大阪に政府機 を御する上で利のある所である」とした。 構を移転し、これを「公府」と称し、将軍を大 これらの主張は、一定期間、天皇が大阪へ居 君と改める」との考え方を起草した。 を移すという意味合いが強く、恒久的な遷都と いう考え方にまでは至っていないと見ることが (3)大久保利通の大阪遷都論と天皇の大阪行幸 できる。 慶応四年(1868 年)1 月 3 日に勃発した鳥羽・ その後、慶応三年(1867 年)11 月には薩摩藩士 伏見戦争で薩長を主体とした政府軍が徳川慶喜 伊地知正治(1828~1886)の構想が示された。こ 率いる旧幕軍を打ち破った。この時点で、幕府 の構想は、大久保利通(1830~1878)が大阪遷都 と天皇・新政府との関係は西周が遷都論を起草 を建白する二か月前に示されたものであり、建 した時とは大きく変化した。しかし、国内的に 白前に明確に大阪遷都を主張した唯一のもので は、東国を中心に、旗幟を鮮明にしていない諸 あると言われている。その主張の概要は次のと 藩もあり、また、対外的な対応からも、一刻も おりである。 早く諸藩を統御し、外交の体制を確立する政府 を築かなければならない状況にあった。その危 機感を強く持っていた大久保利通は、直後の 1 これから外国人との応接が困難かつ重要であるが、応 接の地として京都は土地が少なく(「土地偏少」)気風 が狭苦しい(「人気狭隘」)ので、皇国の都地にふさわ しくなく、外国に対し、恥をかくことになる。 月 17 日に政府側のトップである総裁有栖川宮 (熾仁親王)に対し、建白書を提出した。遷都 3 論の観点でポイントとなる点を抜粋すると以下 月 21 日に実現し、天皇は、閏 4 月 6 日まで 6 のとおりである。 週間余り大阪に滞在した後、京都に還幸した。 その後、閏 4 月 21 日に、新しい官制を公布 し、正式に最高官庁である太政官が京都に設置 此機に臨み一大英断を行ひ親征の大挙を決せられ・・ (略)・・大阪に巡幸ありて行在所を彼地に定め内は以て 朝廷の積弊を一洗し、外は以て海外諸国との交際を明 にし、陸海軍を整備せられんことを望む。 され、翌日には、太政官の上に立って天皇が政 務を行う天皇親政(天子が自ら政治を行う)が 布告された。 大阪行幸は、一時的とはいえ、天皇が京都を 遷都之地は浪華に如くべからず、暫く行在を定められ、 治乱の体を一途に居え、大に為すこと有べし、外国交 際の道、富国強兵の術、攻守の大権を取り、海陸軍を 起す等のことに於て地形適当なるべし。 離れ、そのことと統治機構の革新が連動した、 という意味で重要な出来事であった。 (4)江戸遷都論 この意見では、いきなり遷都では反対も大き 大阪遷都は実現しなかったが、その論は広く いとみて、行幸という形式をにじませているが、 知られるところになり、遷都論が活発になった。 大久保の本意は、維新の好機に乗じ、久しく因 その中で江戸への遷都論が急速に高まるように 襲に囚われた京都から都を大阪に遷し、内外を なる。その代表的な論が前島密(1835~1919)に 統御し王政の規模を確定し、世界各国と対峙し よる江戸遷都論である。この遷都論は前島から なければならない、というものであった。さら 大久保に届けられたが、その直前の 4 月 11 日 に言えば、これからの天皇は、国民との接触が に江戸城開城という出来事があった。これは、 密なヨーロッパの皇帝のような在り様を考えて 江戸をはじめとした東国の経営の主体が形式的に いた、と言われる。1 月 23 日の太政官会議で、 も全くの空白状態になったという意味でその後の 正式に遷都について発議・説明が大久保らから 遷都論にも大きな意味を持つ出来事であった。 なされたが、この時は、賛否両論あり採用され 前島の江戸遷都論の要点は次のとおりである。 なかった。 また、遷都先を大阪としたことについては、 大阪でなければならない、というほどの理由は 帝都は、国の中央に位置すべき。蝦夷地の開拓後は、 江戸が国の中央である。蝦夷地の開拓は重要であり、 江戸に都があった方が浪華より便が良い。 示されていない。 『東京奠都の真相』では、この 点について、 「特に、海軍を盛んにすることがこ れから重要であり、海岸に接することが要件で 浪華はこれまで運輸便利の地であったが、これからは 大鑑の時代であり、これを容れる港は築り難い。江戸 は十分に築り得る。 あった」との説明が加えられているが、大阪が 遷都先でなければならない理由としては迫力を 浪華は道路狭隘で大帝都にふさわしくない。江戸は、 道路は広闊で、風景も雄大で大帝都を建設するのに適 している。 欠くものであるように思われる。むしろ、大久 保は遷都先としての大阪にそれほどのこだわり はなく、とにかく天皇を行幸の形ででも京都か 浪華の市街は狭小で改築が必要だが、これに要する経 費が掛かる。江戸は改築の必要がない。 ら引き離すことが重要であると考え、京都に近 く、海に面している大阪をその実現の可能性が 江戸には、利用可能な官衙や学校が多く存在している。 修築を施せば江戸城も十分使える。 高い場所として認識していたのではないか、と 推測される。 江戸は世界に誇る大都市であるが、都を置かないと、 寂れてしまい、その歴史的資産が失われてしまう。浪 華は都でなくても衰退はしない。 大久保の大阪遷都論は、様々な反対意見もあ り実現しなかったが、大阪行幸については、3 4 このように、江戸城開城を大きな節目に、実 この前島密の江戸遷都論は、 「都」の立地論と いう観点からは、極めて説得力のある論であり、 態的にも急速に東京遷都へと動き出していくこ 江戸遷都の流れをつくる先駆けとなった、と考 とになる。 えられる。 (5)天皇の東京行幸と京都還幸 さらに、関東の民心の鎮定を図るために江戸 遷 都 す べ き 、 と の 薩 摩 藩 士 黒 田 清 綱 (1830 ~ 江戸を東京とすることに比べ、天皇の東京行 1917)の論や、蝦夷地の運営が重要であり、浪 幸は反対論もあったが、8 月 4 日に行幸が発表 華より江戸が適地である、とした館林藩士岡谷 された。そして、9 月 20 日に京都の御所から東 繁實(1835~1920)の論が出てくるなど、俄かに 京行幸へ出発し、10 月 13 日に天皇は江戸城に 江戸遷都論が盛んになる。 入った。この時に江戸城を皇居とする、との布 また、佐賀藩士大木喬任(1832~1899)、江藤 告がなされ、京都の御所とあわせ、皇居が東西 新 平 (1834~ 1874)の 両 京 併 置の 建 白 が この 時 二か所となる。この時点で、政府首脳であった 期に出されている。彼らの意見は「帝都を江戸 三条実美(1837~1891)や大久保利通は、東京遷 に還して天下に耳目を一新して以て揆亂反正の 都の腹を固めており、その実現のためのプロセ 大業を成就すべし」という江戸遷都論であった スを慎重に考えていたと思われる。そのプロセ が、岩倉具視にあてた建白書では、江戸城を東 スの第一がいつ、どのように京都へ還幸するか、 京と定め、やがて東西両京の間に鉄道を開通さ ということである。東京と京都の両方に気を使 せる、という両京併置説を唱えており、単なる わなければならないが、三条は、重要なことは 江戸遷都論とは一味違う政治家の議論を展開し 東京の人心であり、 「 国家之興廃ハ関東人心ノ向 ている。 背ニアリ」とした。一方の政府の実力者である 一方、同じ時期に総裁局顧問であった木戸孝 岩 倉 具 視 (1825~ 1883)も 東京 遷 都 の 意識 は 共 允(1833~1877)は、 「京都をもって帝都となし、 通であったが、もう少し京都の人心に配慮する 大阪を西京、江戸を東京として、時宜にしたが 必要があるとの考えであった。いずれにしても って東西巡幸する」とする議を建てている。 「遷都」という言葉は慎重に使わないようにし こうした京都の在り様を視野に入れた遷都論 ていた。『江戸が東京になった日』によれば、 も含め、様々な江戸遷都論が識者から示される 11 月 22 日に岩倉具視が三条実美にあてた手紙 ようになるが、これと並行して、政治・行政の では次のような遷都に向けてのプロセスが示さ 舞台でも、江戸城開城により、江戸、関東の経 れている。 (現実は、ほぼこのシナリオのとおり 営が政府の重要課題となり、江戸の存在がクロ 進行する。) ーズアップされるようになった。 そして、統治機能が実質的にも形式的にも空 まず還幸する旨を布告して、京・大坂の人心を安堵さ せる。 白となった江戸、関東の統治のため、天皇の江 戸行幸が計画される。さらに、これと軌を一に 来春、東京に再幸し、「諸侯伯」合同による公儀で「大 政の根軸」を立てる。 する形で、江戸の名称を、既に事実上使われて いた「東京」とすることが検討され、大きな異 再幸の節は、太政官を東京へ移す。 論もなく、7 月 17 日に東京と定める詔書が出さ れた。この時点で江戸は東の都として西の都で 皇后もあとで東京に行啓する。 ある京都と対等の位置を占めるようになった。 再幸にそなえて「御内儀向」の造営に取り掛かること を布告する。そうすれば東京の人心は大いに安堵する であろう。(『岩倉具視関係文書』四) ただし、太政官はまだ京都にあり、首都は京都 のままであった。 5 慎重な検討を経て、天皇は 12 月 8 日に京都 慮した表れ」 (『東京奠都の真相』)との指摘がな へ向け出発し、12 月 22 日に京都に還幸した。 されている。 重要なことは、東京行幸に比較して京都還幸 予定どおり、3 月 7 日に京都を出発した天皇 に供奉するものは一千人余り少なかった、とい は明治二年(1869 年) 3 月 28 日に皇居・東京城 うことである。つまり、かなりの人数をそのま に入った。同日、政府は「東京城西ノ丸ヘ御駐 ま東京へ残してきた、ということであり、例え 簾、依テ、皇城ト称ス」とした。皇城には「官 ば、外交関係の官庁は、還幸の際も京都へは帰 衙の在る所」という意味合いが含まれており、 らなかった。首都機能の中の外交部門は、事実 太政官が東京城の中に置かれた。 この時点で、実質的に、東京遷都が実現した 上、東京に置かれることとなった。 と見ることができるが、政府はあえて遷都の発 令をしなかった。その理由について、 『江戸が東 (6)東京への再幸と事実上の遷都 京になった日』は次のように指摘している。 上記のように、首都機能の一部が徐々に東京 に形成されるようになっていたが、天皇が京都 へ還幸した段階で、太政官はまだ京都に残って 「何よりも、畿内とくに京都の人心への配慮である。遷 おり、形式的には首都は依然として京都のまま 都を発令することによって、大きな社会的混乱が生じる であった。形式と実態が乖離しつつあり、実態 ようなら、当面発令しない方がよいとの考え方である。 的には、東京と京都の二都体制の様相を呈して 裏返すと、遷都を発令する必要性が高くなかったという いた。この状況は、経費などの面からも課題が ことになる。つまり、東京遷都にあたり、新たに人と金 多く、早期に二都体制を解消し、東京へ首都機 を集めて首都づくりをする必要がなく、遷都を発令する 意義がその面で大きくなかったということである。さら 能を移すことが、この時点での政府中枢の暗黙 に言えば、遷都そのものが目的ではなく、遷都は、様々 の合意であったと考えられる。このため、早期 な維新の改革を断行するための手段であるとの認識があ の東京再幸に向けて、東京の位置づけを高める った、ということである。天皇の東京再幸の時期は、版 幾つかの決定がなされる。 籍奉還という大事業を円滑に成し遂げるために、慎重に まず、京都還幸に先立つ 12 月 6 日に、政府 選ばれた、ということもその一つであり、様々な改革が 実現すれば、遷都を形式的に位置づける意義は余りない、 は「公議所」 (国の法令・制度などを議論する各 という認識だったのではないか。」 藩の代表による会議)を東京に設けることを発 表した。 また、明治二年(1869 年)の 1 月 18 日には、 遷都の発令はなかったが、その後、4 月 22 国是に関する大会議を東京で開催することを決 日には、国是立定のための会議が東京で開かれ、 め、藩主や知事などに四月中旬までに集まるよ 6 月 17 日には版籍奉還という国家の重大政策 う命が出た。 が東京で決定された。このように事実上、首都 そして、3 月 7 日に天皇が東京再幸のため京 東京が機能し始めるが、さらに皇后の東京行啓 都を出発し、それとともに、太政官を、天皇が が発表されるに至って、京都、西国の人心は大 東京滞在中は東京に移し、京都に留守官を置く きく動揺した。当時の留守官中御門經之(1821 ことが布告される。 この布告については、 「 あえて東京滞在中とし、 遷都とはしていないことは、京都市民への配慮 ~1891)、京都府知事長谷信篤(1818~1902)は 「遷都のためではなく、必ず御還幸ある」とし て事態の収拾を図った。こうした中、皇后は 10 が必要であった表れ」(『江戸が東京になった 月 5 日京都を発し、同 24 日に東京に到着した。 日』)、「「留守」という二文字が京都の人心に配 6 (1)絶対的な移転理由の存在 一方で、公式には「明治三年三月には、京都 へ還幸し、大嘗会を京都で行う」としているこ 江戸時代は、御所のある京都、権力の中枢が とを、どのように処理するか、がこの段階での ある江戸、経済中枢の大阪というように、中枢 重要な課題となった。国家多事にして、還幸が 機能は分散していた。それが幕末になり幕府の 困難な中、評議が続けられたが、結局、還幸延 権力が弱まるにつれて、京都が権力中枢の場と 期と決せられた。 なった。当時の政府が考えた天皇を中心とした さらに、明治四年(1871 年) 4 月 12 日に皇太 明治維新の新たな体制を構築する上で、その時 后が東京に行啓し、赤坂に離宮が設けられ、同 点で権力を有しつつある京都の旧体制を壊すこ 年 8 月には京都の留守官が廃止される。これに とがどうしても必要であり、それを実現するた より、中央行政機関として京都に残存する機関 めには、天皇が旧体制の権力の中枢である京都 は皆無となり、ここに至って、京都の首都機能 から離れることが不可欠であった。 『 江戸が東京 は消滅した。 になった日』が指摘しているように、遷都は、 それ自体が目的ではなく、明治維新という大改 以上のように、遷都の発令がなされなかった 革を実現させるための手段であったということ ため、東京へ首都機能を集めた一連の動きを「東 であり、版籍奉還という天下の大事業を成し遂 京遷都」ではなく、新たな都をつくる、という げるためには、どうしても天皇の東京再幸(事 意味で「東京奠都」とするのが適当とする意見 実上の遷都)があのタイミングで必要であった もある。 のはその典型と言える。遷都をすることなく、 いずれにしても、東京はその後、実質的な首 明治維新の改革が実現できるのであれば、遷都 都としての体裁を持つ都市として機能の充実が は必要ない、というのが大久保はじめ当時の政 図られていくことなる。 府首脳の認識であったと考えられる。 一方で、京都については、上記のように、移 (2)江戸でなければならなかった移転先 転の過程で、その人心に対する配慮が慎重にな されたが、首都機能の移転により、京都の経済 当初は、改革を実現するために、京都から首 社会は一気に衰退する。このため、政府は、移 都機能を移転することが眼目であり、移転先に 転後も、京都の再興のために租税免除の特典や ついては、それほど熟考されていなかったので 産業基立金などの産業振興策を講じたが、その はないか、とも考えられる。大久保利通の大阪 資金を活用して、新たな学術・文化都市として 遷都論も、遷都先が大阪である理由は、外交の 京都を蘇らせたのは、京都府の初代知事 長谷 関係で港を有するところ、という程度の条件が 槇村正直(1834~1896)を中 示されているだけであり、むしろ本意は、遷都 心に、これに呼応した町衆(京都の商工業者) の前段階として必要な天皇行幸が行いやすいと など京都の人々であった。 ころ、ということではなかったかと思われる。 信篤、二代知事 遷都先として大阪でなければならない、という ほどのこだわりはなく、したがって、その後の 江戸遷都の動きに容易に転換していったように 3. 明治維新における首都機能移転が実現した 見える。要は、京都から権力の中枢を動かすこ 要因 とに意味があったということであった。 明治維新における首都東京の誕生のプロセス ところが、その後、徳川慶喜による江戸城開 は、首都機能移転の実現という観点から、幾つ 城があり、江戸は、実質的にも形式的にも権力 かの重要なポイントを示している。 の空白地となった。それまでは、力が衰えたと 7 はいえ、幕府という存在があり、江戸はその中 識していたように思われる。このため、遷都へ 枢であったのは事実であり、新政府と幕府の関 向けたプロセスとして、東京行幸、京都還幸な 係もまだ不透明さを抱えていた。江戸城開城に どにより、東西両京の併存という過程を組み込 より、江戸さらには東国の権力構造が一層不透 みながら、慎重に東京への比重を高めていった。 明になり、これらの地を円滑に統治することが その上で、最終的に、遷都の発令をしない、と 維新の改革を成就するためにも重要なこととな いう重大な決断をした、ということが言える。 ってきた。さらに、蝦夷地の開拓が進み、その 移転元・京都に配慮したこの決断は、単に当面 統治の重要さが増すにつれて、統治の空間的構 の反発をかわすというものではなく、その得失 造の面から、その中心を東に動かさざるを得な を政府部内で慎重に熟考をした結果であり、実 い状況も出てきた。こうした経緯から、移転先 質的なデメリットが遷都を発令するリスクを上 は、江戸でなければならない、という認識が強 回ることはない、との冷静な判断の下でなされ まったと考えられる。つまり、移転先として、 た、と考えられる。こうした措置は、 「天皇はい 江戸が相対的に優れているということではなく、 ずれ 京都 に 還幸 され る 」と いう 希 望を 京都 の 絶対的選択の場としての江戸ということであっ 人々が持ち得る余地を残したが、実態として首 た。 都機能を失った京都が、都市としての活力を急 もう一つ、江戸にしかない移転先としての条 速に失うことの懸念は政府も強く持っていた。 件が存在した。それは、新しい首都を形成して このため、政府は京都の産業振興のための特段 いくために必要な質の高い遊休資産が豊富に存 の資金的支援措置を講じたが、上述したように、 在していた、という点である。江戸幕府により こうした資金を活用して京都の復興に取り組ん 長い年月をかけて構築されてきた街路などの都 だのは、京都の地元の人々であった。地域に存 市インフラや不要となった大名屋敷などの建築 在した豊富な人材とネットワークを礎に、京都 物を活用して首都づくりができる地は江戸しか は復興を遂げていくが、その過程は、長年「都」 なく、財政状況がひっ迫していた新政府にとっ であった底力ともいうべきものが発揮された結 て、この条件は欠くべからざる移転条件となる。 果、と見ることができる。 前島密の江戸遷都論はこの点を鋭く指摘してお いずれにしても、この明治維新期の京都との り、岩倉具視はこの論に強く影響を受けた、と 関係における調整過程は、移転の具体化に向け 言われている。 て、移転元との合意形成のプロセスが、極めて 重要かつ困難な手続きであるか、を示している。 一方で、江戸遷都は、幕府の中枢であった江 戸との継続性を断ち切ることが絶対条件であっ 現在の首都機能移転の取組みで考えれば、移転 た。その意味で、江戸から東京への改称、江戸 について極めて強い反対を唱えている東京都を 城を東京城とし、さらに皇城とするなどの措置 はじめとした東京関係者との調整が実現に向け は必要不可欠なものであった。このことは、新 た大きな課題である、ということを改めて示す 首都の成立にとって、移転先がそれまで有して とともに、京都の復興過程は、仮に首都機能が いた地域性や歴史性を、時として遮断すること 移転した場合の東京のその後の道筋にも多くの も必要となることを示唆している。 示唆を与えるものである、と考えられる。 (3)移転元・京都に対する最大限の配慮と周到 (4)実現に向けた圧倒的なスピード感 明治維新における首都機能移転は、慶応四年 な調整プロセス 新政府は、遷都に対する京都をはじめとした (1868 年) 1 月 17 日の大久保利通による大坂遷 畿内の反発が相当の脅威であることは、強く意 都の 言上 か ら始 まり 、 最終 的に は 、明 治二 年 8 (1869 年) 3 月 28 日の天皇の東京再幸によって そこで、まず、今日の首都機能移転に関する 検討の経緯を振り返ることとする。 事実上実現した、と見ることができる。もちろ ん大久保の大阪遷都論の以前にも、上述したよ 詳細は、 (参考資料)のとおりであるが、この うに、幾つかの遷都論が示され、これらは、1868 経緯の中で、大きな節目となったのが平成 2 年 年以降の遷都の取り組みに対する思想上のバッ の国会決議である。この決議に基づいて、国会 クボーンとなったと考えられる。しかし、1868 では、平成 3 年に特別委員会が設置され、平成 年以前の移転論が具体的な動きにつながり、遷 4 年に議員立法として「国会等の移転に関する 都に向けて一歩ずつ実績が積み上がってきた、 法律」(以下「移転法」という)が制定・施行さ というわけではなく、具体的な移転事業は、ま れた。一方、政府も「移転法」に基づく「国会 さに、大阪遷都論から東京再幸までのわずか 1 等移転調査会」を平成 5 年に設置し、公式に議 年 3 か月強で実現に至った、ということになる。 論を開始した。ここで、 「国会等の移転」とは「国 もちろん、短期間だからと言って、勢いにまか 会、国会活動に関連する行政の中枢機能及び四 せて強引に事を進めた、というわけではなく、 方の中枢機能を東京圏以外の地域に移す」こと 上述したようにそのプロセスについては熟慮を とされ、皇居は検討の対象とはしないことが明 重ねて道筋を選択しており、周到な作業手順を 確にされた。 踏んだ移転事業であったと見ることができる。 その後、平成 8 年の「移転法」改正に基づき しかし、首都機能移転のような従来の仕組みを 設置された「国会等移転審議会」において、移 根本的に変革するような大事業は、長期間、検 転先候補地の選定等が審議され、平成 11 年に 討を重ねたから実現する、とは言えない側面が 次のような答申がなされた。 あり、明治維新の首都機能移転は、好機を的確 にとらえて、短期間で実現にまで持っていくと 移転先候補地として、北東地域の「栃木・福島地域」又 は東海地域の「岐阜・愛知地域」を選定する。 いうスピード感がその成否を占う大きな要素で あることを示している。 「三重・畿央地域」は、他の地域にない特徴を有してお り、将来新たな高速交通網等が整備されることになれば、 移転先候補地となる可能性がある。 4.首都機能移転の取組み経緯と移転の必要性 3.で示した論点を念頭に、現在の首都機能 移転の今後を展望したい。まず、本節では、こ この答申を受けて、再び国会が検討の舞台と れまでの取組みの経緯及びその中で議論されて なる。国会では、衆参両院に「国会等の移転に きた移転の必要性について概観するとともに、 関する特別委員会」を設置し、移転先候補地の その今日的な意義を改めて整理する。 絞り込み等の議論を重ねた。議論は、その後、 平成 15 年に設置された「国会等の移転に関す (1)首都機能移転に関するこれまでの取組み経緯 る政党間両院協議会」に引き継がれたが、国会 首都機能移転に関する国会や政府の検討は、 の意思として、移転先候補地を絞り込むことは 現在、全く動きがない状況にあるが、少なくと できず、平成 16 年 12 月に、以下のような「座 も、形式的には議論は継続中、ということにな 長とりまとめ」を衆参両院の議長に報告した。 っている。一方で、有識者の間では、大きな転 換期にある我が国の経済社会の将来を考える上 で、首都機能移転についてもう一度本気で考え るべきである、とする意見も根強いものがある。 9 での集中は依然として高い水準にある。東京への 「国会の意思を問う方法」について検討を重ねてきたが、 一極集中の構造や東京の過密状況は基本的に変わ 国会等の移転は、国と地方の新たな関係、防災、危機管 っておらず、通勤混雑、交通渋滞だけをとってみ 理の在り方など、密接に関連する諸問題に一定の解決の ても、その弊害は、既に許容限界をはるかに超え 道筋が見えた後、大局的な観点から検討し、意思決定を ている。首都機能の移転を契機に、国政全般にわ 行うべきものであるとの意見が多くを占めた。当協議会 としては、今後は、上記意思決定に向けた議論に資する たる改革を進めることにより、東京を頂点とする ため、分散移転や防災、とりわけ危機管理機能(いわゆ 序列意識が変化し、各地域の自立性が高まって、 るバックアップ機能)の中枢の優先移転などの考え方を 文化面での多様性を取り戻し、企業の東京への立 深めるための調査、検討を行うこととする。 地志向にも変化をもたらすものと考えられる。 首都機能を分離することにより、東京はゆとり と活力ある経済、文化都市として生まれ変わり、 その後、実質的な検討が進まないまま今日を 現在にも増して光彩を放つ世界都市であり続ける 迎えている。 であろう。 (2)これまで議論されてきた首都機能移転の必 ③ 災害対応力の強化 要性 現在のような一極集中の状態で、もし東京が大 首都機能移転の必要性については、様々な意 地震に襲われると、日本の中枢機能が停止し、我 見、議論が各界各層から示されてきたが、平成 が国のみならず国際的な規模で深刻な危機を招来 11 年の国会等移転審議会において、以下のよう することになりかねない。 な整理がなされ、この内容がその後の検討にお しかしながら、現状の東京では、緊急時の職員 ける前提となってきた。 の参集に支障が生じるなど、災害時の司令塔とし ての危機管理面での十分な対応は必ずしも容易で ① 国政全般の改革 はない。 国政全般にわたる諸改革は、まだ緒についたば 首都機能移転によって、政治、行政、経済、文 かりであり、さらに強力に推進するためには、大 化等、すべての中枢が同時に被災することを回避 きな契機となるものが必要である。首都機能移転 するとともに、大規模な災害に対して安全性の高 は、国政全般を根源にさかのぼって見直すための い地域の災害時の司令塔機能を構築することで、 極めて重要な転機になる。 我が国の災害対応力を飛躍的に強化することが可 首都機能移転と諸改革を「車の両輪」として一 能になる。 体的に推進することによって、現行制度の改革を また、移転跡地の活用により、東京の防災性は 加速し、定着させ、行政組織の効率化や地方分権 向上し、仮に被災した場合でも緩和することが期 を一層本格的に進めることが期待される。 待できる。(アンダーラインは筆者による) また、政治と経済の中枢を分離することによっ て、政、官、民の新たな関係が始まり、国、地方 (3)再整理が必要な移転の必要性 に及ぶ横断的な情報ネットワークが構築されて、 次に、平成 11 年時点に整理された上記(2)の 真に国民と密着した政策の立案が可能となる。 移転の必要性が、今日の状況の中で、どのよう に変化して来たのか、について改めて整理をし ② 東京一極集中の是正 てみたい。 東京圏への人口の集中は、近年の景気後退局面 において一時的には緩和したが、機能面や情報面 10 ① しかし、現在の首都東京の状況は、過密の問 国政全般の改革と東京を頂点とする 題は抱えつつも、許容限界を超えてしまってい 序列意識の打破 明治維新における首都機能移転は、新たな国 るという状況にはない、というのが一般的な理 家体制の構築のために、権力が集中しつつあっ 解であろう。また、今後、東京圏の人口も減少 た京都を頂点とする旧来の権力構造の打破、と することが見込まれる中、将来を展望しても、 いう観点による移転であった。世界の首都機能 切迫性を持つ課題とは必ずしも捉えられていな 移転の実例を見ると、移転の理由は様々である い、と言える。 が、新しい国家体制の構築とそのための旧体制 ③ の打破、が強い動機となって移転が実現してい 災害対応力の強化 災害対応力の強化は、首都機能移転を必要と る事例が数多くみられる。 現在の我が国は、人口減少、急激な少子高齢 するわかりやすい理由であり、その重要性は高 化、不連続的なグローバル化・情報化の進展な まってきていると言える。しかし、この場合の どこれまでの延長線上にはない、質量ともに大 テーマは「機能の分散」ということになる。 きな変化の中にある。こうした変化に対応し、 従来から検討を進めてきた一括移転を前提と 新たな 21 世紀型の豊かな経済社会を実現して すると、経済中枢機能との空間的な分離という いくためには、現在の経済社会システムの継続 点で意義はあるものの、災害リスクの低減の観 では限界があることを多くの国民は感じている。 点から移転が必然の選択肢として合意が得られ しかし、21 世紀にふさわしい新たな仕組みが必 る状況にはない。むしろ、切迫した課題である 要であることは認識をしつつも、直ちに改革に からこそ、首都機能のバックアップの整備と現 着手しないと間に合わないという危機感は必ず 存する首都機能の防災対応力の強化が優先され しも浸透していないのが現状である。このため、 るべき、との考え方が今日では一般的であろう。 首都機能移転が、現実に直面する課題への対応 このため、災害対応力の強化という観点に立て という意味で現時点で不可欠である、という認 ば、首都機能の分散配置という観点も含めた幅 識が広く国民に共有されている、とは言えない 広い移転形式や移転プログラムが検討されるべ 状況にある。 きと考えられる。 その意味で、平成 16 年の「国会等の移転に ② 関する政党間両院協議会」の「座長とりまとめ」 許容限界を超える過密問題への対応 過密問題が許容限界を超えている、という論 は、従来からの取組み経緯を尊重しつつ、こう 点は、首都機能移転の理由としては、現実に直 した新たな視点に初めて言及した意義を有して 面する物的な課題への対応、という意味で極め いる。 て明解な理由となる。竹村公太郎氏は、その著 (4)今後の展望と継続的な検討の必要性 書『土地の文明』の中で、 「かつての平安京への 首都機能移転も体制の一新に加え、水資源や森 以上、見てきたように、経済社会の変化に伴 林資源の枯渇がその大きな理由であった」とす い、首都機能移転の必要性も重点が変わってい る見解を示している。また、最近の中国・北京 くこととなる。その中で、移転を巡る現状を見 の首都機能移転の取組みも大気汚染という環境 ると、移転を必要とする理由が、将来の課題へ 容量に起因する現実に起きている問題への対応、 の対応が中心で、現在直面する課題への対応と という意味で切羽詰まった移転動機に基づく動 いう要素がほとんどないことが、首都機能移転 きと言える。 が切迫した政策課題となり得ていない大きな要 因であると考えられる。 (『土地の文明』 (竹村公 11 太郎)では、 「リアルでない東京遷都」と指摘し 新における首都機能移転を超える重要なテーマ ている。) となる。その点からすると、今、直ちに首都機 能移転に向けた検討を加速させる環境にはない、 しかし、一方で、(3)①でも示したように、現 在の我が国社会は、徐々に行き詰まりが見えて と言われればその通りなのかもしれない。しか きつつも、直ちに手を打つところまでいかない、 し、未来を展望すれば、首都機能移転に関する いわゆる「ゆでガエル」状態にあり、近い将来、 検討の火種は絶やしてはならない、と思われる。 国政全般の改革に踏み込まなければならない段 これまで蓄積されてきた検討経緯を尊重しつつ、 階を迎える可能性は高い、と考えられる。その リセットすべき点はリセットしていきながら、 際には、首都機能移転について改めて検討しよ 将来、必要とされる時に、移転が実現できるよ うという機運が高まることが想定される。なぜ うな条件整備について、戦略的で継続的な検討 なら、現在の経済社会システムは、上記の(2) を期待したい。 ②で指摘されている東京を頂点とした一極集中 の序列構造と密接に結びついているからである。 最後に、本稿は筆者の個人的見解を述べたも さらに、付言すると、東京一極集中の是正は、 のであり、みずほ総合研究所(株)の見解を示 既存システムの打破に留まらず、これからの成 すものではないことをお断りする。 長を支える多様性あふれる新たな社会の創造と いう観点からも不可欠だからである。 明治維新における首都機能移転の経緯を振り 返ると、いざ、こうした段階を迎えたときに、 首都機能移転を単なる議論で終わらせず、実現 させる、という観点からは、次のような条件が 必要となってくるのではないか、と考えられる。 ① 移転を必要とする絶対的な理由 (特に、現在直面している課題解決に移転 が不可欠と言えるか?) ② 移転先地を特定できる絶対的理由 (移転先はここでなければならない、とい う選定理由が見い出せるか?) ③ 移転元・東京との合意形成プロセスの確立 (東京の未来にとって、移転がプラスであ る、と示せるか?) ④ 短期間で実行可能な制度的枠組みの構築 (国民の合意を得ながら短期間で移転を実 現する手順が用意できるか?) 特に、東京関係者を含めた国民的な合意形成 は、今後の首都機能移転実現にとって、明治維 12 (参考資料) 国会等の移転に関する主な経緯 (文中敬称略、当時の役職を記載) 政府の動き 学者・研究機関等(昭和 30 年代~) 遷都・分都論等の首都機能移転の提言 国会等の動き 新首都推進懇談会 超党派議員懇談会 昭和 50 年 2 月発足 会長:村田 敬次郎(平成 5 年 10 月まで金丸 信) 会員 約 200 名 第三次全国総合開発計画(昭和 52 年 11 月) 首都機能の移転は、……21 世紀に向けて創造的建 設的な議論が国民的規模でなされることが望ま れ、これを踏まえてその移転の方向を見定めなけ ればならない。 国会等の移転に関する決議 平成 2 年 11 月衆・参両議院で採択 ・東京一極集中の排除 ・21 世紀にふさわしい政治・行政機能の確立 第四次全国総合開発計画(昭和 62 年 6 月) 遷都問題については、……………国民的規模での 議論を踏まえ、引き続き検討する。 国会等の移転に関する特別委員会 平成 3 年 8 月衆・参両議院に設置 首都機能移転問題に関する懇談会 国土庁長官の主催する懇談会 座長:八十島 義之助(帝京技術科学大学学長) 平成 2 年 1 月発足 平成 4 年 6 月とりまとめ 国会等の移転に関する法律 平成 4 年 12 月施行 ・国会等の移転の具体化に向けての国の検討責務 ・国が検討を行う上での指針 ・国会等移転調査会の設置 首都機能移転問題を考える有識者会議 内閣総理大臣主催 座長:平岩 外四(経団連会長) 平成 2 年 12 月発足 平成 4 年 7 月とりまとめ 国会等移転調査会 会長:宇野 收(関西経済連合会相談役) 平成 5 年 4 月第 1 回会合 平成 6 年 6 月中間報告 平成 7 年 6 月第二次中間報告 平成 7 年 12 月調査会報告 (移転の意義・効果、移転先の選定基準等をとりまとめ) (7 回開催) 公聴会:4 回開催 基本部会 部会長:八十島 義之助(帝京平成大学学長) 平成 7 年 12 月 7 日までに 24 回開催 新都市部会 会長:下河辺 淳(東京海上研究所理事長) 平成 7 年 5 月 17 日までに 10 回開催 国会等の移転に関する法律の一部改正 平成 8 年 6 月施行 ・移転先候補地の選定等 ・国会等移転審議会の設置 21 世紀の国土のグランドデザイン(新しい全国総合開発計画、平成 10 年 3 月) 首都機能移転は、………国土政策上極めて大きな効果を有するもの………具体化に向けて積極的に検討 を進めるべきである。…… 13 国会等移転審議会(国会等の移転先の候補地の選定等について調査審議) 国会等移転審議会 調査部会 会長:森 亘 (東京大学名誉教授) (平成 10 年 6 月~) 部会長:石原信雄 (地方自治研究機構理事長) (平成 10 年 6 月~) 前会長:平岩 外四 (東京電力(株)相談役) 前部会長:有馬朗人(理化学研究所理事長) 平成 8 年 12 月 19 日 第 1 回~ 平成 11 年 12 月 20 日 第 31 回 (転先候補地の選定等をとりまとめ) 平成 9 年 4 月 2 日 第 1 回~ 平成 11 年 10 月 7 日 第 21 回 平成 10 年 9 月~10 月 調査対象地域の現地調査 平成 11 年 1 月~6 月 公聴会 9 回開催 公聴会議事要旨へ 国会等移転審議会答申 (平成 11 年 12 月) ・ 移転先候補地として、北東地域の「栃木・福島地域」又は東海地域の「岐阜・愛知地域」を選定する。 ・ 「三重・畿央地域」は、他の地域にない特徴を有しており、将来新たな高速交通網等が整備されるこ とになれば、移転先候補地となる可能性がある。 【答申後の国会の動き】 衆議院 国会等の移転に関する特別委員会 平成 12 年 5 月 18 日 決議 答申を踏まえ、移転先候補地の絞込みを行い、2 年 を目途にその結論を得る。 参議院 国会等の移転に関する特別委員会 平成 14 年 7 月 31 日 理事会申し合わせ 国会等の移転について、早急に結論を得るべく、 各会派での意見集約につとめることとする。 平成 14 年 7 月 25 日 理事会申し合わせ 移転規模等のコンセプトの見直しについての検討 を衆議院移転特において早急に行い、平成 15 年の 通常国会本会議で移転の是非について決議を行う こと等を各党に要請。 平成 15 年 6 月 11 日 中間報告 これまでの検討経緯等に関する中間報告書を採択 (6 月 13 日に委員長が本会議において報告) 平成 15 年 5 月 28 日 中間報告 これまでの検討経緯等に関する中間報告書を採択 (翌 5 月 29 日に委員長が本会議において報告) 平成 15 年 6 月 16 日 国会等の移転に関する政党間両院協議会の設置 平成 16 年 12 月 22 日 国会等の移転に関する政党間両院協議会 「座長とりまとめ」 →衆・参の議院運営委員長に報告 「国会の意思を問う方法」について検討を重ねてきたが、国会等の移転は、国と地方の新たな関係、防 災、危機管理のあり方など、密接に関連する諸問題に一定の解決の道筋が見えた後、大局的な観点から 検討し、意思決定を行うべきものであるとの意見が多くを占めた。当協議会としては、今後は、上記意 思決定に向けた議論に資するため、分散移転や防災、とりわけ危機管理機能(いわゆるバックアップ機 能)の中枢の優先移転などの考え方を深めるための調査、検討を行うこととする。 出典:国土交通省ホームページ 14 (参考文献) 1) 岡部精一「東京奠都の真相」(1916 年) 2) 佐々木克「江戸が東京になった日 明治 二年の東京遷都」(2001 年) 3) 佐々木克「大久保利通と明治維新」(1998 年) 第二巻」 ( 1972 年) 4) 東京都「東京百年史 5) 日本開発構想研究所「東京遷都の経緯及 びその後の首都機能移転論等」 ( 2014 年) 6) 竹村公太郎「土地の文明」(2007 年) 7) 京都経済同友会「京都・近代化の軌跡 ~遷都と京都の復興活動」(2012 年) 8) 幾度明 「首都機能移転の意義・効果に ついての議論」(2005 年) みずほ総合研究所 社会・公共アドバイザリー部 上席参与 幾度 明 [email protected] 本資料は、情報提供のみを目的として作成されたものであり、法務・貿易・投資等の助言やコンサル ティング等を目的とするものではありません。また、本資料は、当社が信頼できると判断した各種資料・ データ等に基づき作成されておりますが、その正確性・確実性を保証するものではありません。利用者 が、個人の財産や事業に影響を及ぼす可能性のある何らかの決定や行動をとる際には、利用者ご自身の 責任においてご判断ください。 15
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