はいから平家

はいから平家
(第
回 最終回)
小原眞紀子
obara makiko
神戸の市街地に入ってから、駅前のホテルに着くまでひどく時間がかかった。
「なんて乱暴な 運 転 な ん だ 」
芦屋からでも来たのか、超高級外車がみ幸たちのカローラを煽り、タクシーが
幅寄せして走り 抜 け て ゆ く 。
ばっかやろう、と洋彦は窓を開け、中指を突き出す。
「横浜ナンバーを目の敵にしやがって」
ワシントンホテルの立駐に車を入れ、部屋でひと休みする。ふたりともベッド
でうとうとして、目が覚めると夜の八時半を過ぎていた。
外へ出て三宮の駅を越え、元町を歩いて南京町まで辿り着いたが、店はみな閉
まっている。
何が中華街だと、洋彦は悪態をつく。
「見ろ、この鄙の夜の早さ。横浜に張り合おうというのが片腹痛い」
だが、どれもこじんまりとし
た構えは、み幸の目に横浜中華
街より美味しい店に映る。
ホテル近くに戻り、古くから
冷麺屋の名で看板をかけている
という焼き肉店に入る。大地震
でもあったらひとたまりもない
だろう、と不安にさせる造りの
狭い階段を昇ってゆくと、もう
もうと煙が立ちこめ、各テーブ
ルでは今どきコンロで肉を焼い
ている。
カルビとタン塩を注文する
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と、み幸は地図 を 拡 げ る 。
湊川の方に、ふたりが住む横浜の大倉山と同じ名の公園を見つけ、み幸は指を
差す。ホテルのすぐ裏は生田神社になっていた。
ふん、日本書紀にも出てくる神社かと、洋彦はガイドブックのページをめくる。
神戸牛のカルビとロースが運ばれてくると、テーブルに白い煙が立ちこめはじ
めた。
「神戸ってさ」
神の戸って書くんだよなと、肉を割り箸でひっくり返し、洋彦が言った。
「学生の頃に一度来て、嫌なとこだと思ったけど」
異人館とかなんとか、あまりにも通俗なんでさ、と洋彦は呟く。
ホテルの部屋に戻ると、ふたりはふたたび倒れ込むようにベッドに横になる。
疲れたな、と 洋 彦 は 言 う 。
み幸はふいに 起 き あ が っ た 。
「どうしたんだ 」
お土産、とみ幸は掠れた声で囁く。
「後部座席のお土産、開けてみなくちゃ」
駐車場の車から運んできた、大きな白い四角い包みをサイドテーブルに置くと、
み幸はベッドに腰掛けたまま緊張して眺める。
なんだよ、これがどうかしたのかと、洋彦は訊く。
み幸は無言で箱に手をかけ、包み紙を外した。
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「なんだこりゃ、なに考えてるんだっ」
洋彦はいきな り 頭 を 抱 え る 。
やっぱり、そんな気がしたんだと、み幸はやはり頭を抱える。
押しつけられた箱の上には巨大な熨斗がかかり、
洋彦の実家にも持って行けと、
筆で黒々と「寸志 田口産婦人科」と書かれている。
「なんだってこんなものに、いちいち熨斗つけるんだよ」と、洋彦は怒鳴る。
「癖なのよ、笑子叔母の、」とみ幸は言い返す。
「姉妹で撮った写真を送ってきたときも、
『志』って熨斗ついてて、ママが激怒
して」
「それにしたってこんな、なにもわざわざ包み紙の下に、
」と、洋彦は足元のバ
ッグをけ飛ばす 。
「でも、この人は必ず熨斗つけるの」と、み幸は叫んだ。
「忘れてた。どんなことがあっても、万事必ず熨斗つけるんだった」
それも田口産婦人科、って、田口笑子じゃないの、田口産婦人科って、と、み
幸はベッドの表 面 を 拳 で 叩 く 。
「九〇だぞ、爺さんはもう百なん
だぞっ」
やがて洋彦は「もういい、わか
った。横浜から何か送り直す」と
息をつき、肩を落としてベッドに
坐る。
「冗談じゃないわよ」と、み幸は
顔を上げた。
「たかが姪っ子にやるのに、持っ
てまわって、いつも、そうなんだ
から、いっつも、いっつも、そう
なんだからっ」
「厚意でくれたんだ、こっちが悪
かった」と、洋彦はうなだれる。
だ か ら 行 き た く な か っ た の よ、
九州なんぞまったく、ろくなこと
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ないったら、ええ、どうせそうでしょうよっ、あの連中は厚意のカタマリよと、
言いつのるみ幸を洋彦は呆然と見つめる。
「おまえ、声は、
」と言いかけたが、だ
けど、だけどなんで寸志なんだ、と呟いた。
服を着たままツインのベッドにそれぞれ横たわり、み幸は天井の模様を眺めて
うとうとする。
「明日はどうする、異人館へでも行くか」と、洋彦の声がする。
そうだねと、み幸は返事する。
でも、もう早く帰りたいと言うと、洋彦も頷く。ここが横浜のマンションの、
あの四角い部屋のベッドだったらと、み幸は思う。
まあ、東名にのればすぐだよ、と洋彦は言った。
「東名にのるの 」
「うん。大型トラックに挟まれて帰ることになるが」
船で帰りたいなと、み幸は言う。
「さあ、フェリーが出てるかな。神戸から横浜なんて」
だいいち、いくらかかるやらと、洋
彦は呟く。
み幸はふたたびうとうとし、車に乗
ったまま船に揺られて帰る夢を見る。
船はゆっくりと大きな半島をめぐ
り、ひどく明るい海に出た。
そういえば葉書は書いたのか、と壁
に向いた洋彦の籠もった声が耳にとど
く。
み幸は薄く目を開け、ううん、と答
えて枕に顔をうずめた。
半島の先端にある小さな島で、ふた
りは船を下り、
老婆の海女に出会った。
どこか美味しい磯料理屋はありません
かと、み幸は尋ねる。
白装束の老婆は返事をしたが、少し
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も聞きとれない。これは何語と、洋彦に訊く。
ヨット、って言ったんだよ、と、洋彦は言う。
ヨットなんて名前の店、あんまりだ、あっちのあみもとという店がいい、と、
み幸は言う。
あみもとの席につくと、舟盛りのなかで鮑が蠢いている。
ほんとにヨットって言ったの、と、み幸は訊く。
どこだって同じさ、と、洋彦は笑う。
目の前の海からあがってきた、そのままの鮑だよ。
海はいっそう明るく白く輝き、ふたりを乗せた船は島々を大きく迂回する。
書きたいなら、書いたらどうだと、また洋彦の声がした。
眠りのなかで、み幸はなんとか口をきこうとする。
と、
船の甲板で、
み幸は洋彦の耳に囁く。
ミケツクニって言ったように聞こえた、
「あのお婆さん。ここは御食つ国、って」
回 最終回 了)
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半島をめぐり終えようとしたとき、空の彼方から白く輝く紙片に似た光がいっ
ぱいに差し込んだ。船の舳先へとどいた光は像のように凝る。紙片のなかから立
(第
ち上がった小さな人の姿は遠くを指さすと、輝きながら分解して海に消えた。
やがて海の上に聳え立つ、巨大な赤い鳥居が現れた。
洋彦はまた笑 っ た 。
違うさ、日本語ハ、って言ったんだよ。
船はゆらゆらと鳥居をくぐり、沖へ出る。
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