こ ぼ り ていしん 白山麓通信 ―1 枚の写真から― 10 号 「小堀定信の夢」 20160101 発行 新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 さて、当館は冬季休館中ですが、本年初の「白山麓通信」をお届けします。今回紹介する小堀定信(1889 ~1964 一説には 1888 生)は、白山市(旧鶴来町)月橋町に農家の三男として生まれ、若い頃に荷馬車 きんめい を使って運送会社を始めました。大正 14 年(1925)に金名鉄道株式会社を設立して、敷設工事を始め、 翌年には白山下と広瀬間、続いて、昭和 2 年(1927)6 月に広瀬と加賀一の宮間を開業させました。 金名鉄道の「金」は金沢、 「名」は名古屋を意味し、金沢と名古屋を鉄道で結ぶという壮大な構想から 付けられた名前ですが、昭和初期は国内の金融恐慌や米国の株価暴落もあって、常に資金繰りに悩まさ れ、戦時中の昭和 18 年(1943)には戦時統制によって北陸鉄道金名線になりました。 戦後になっても、白山麓の物資運搬や地元住民の足として利用されましたが、昭和 40 年代に入って、 自動車の普及や過疎化などによって貨物と乗客は激減しました。さらに、旧鶴来町中島町と旧鳥越村広 瀬地区を結ぶ手取橋梁の土台基盤の損傷によって崩壊の危険性が指摘されたために昭和 59 年(1984)11 月から運休し、昭和 62 年(1987)に全線が廃止となりました。 かわらやま 小堀定信の胸像が、白山市(旧鳥越村)河原山町の一画に建っています。ここは金名線の終着駅であ る白山下駅があった場所で、今はサイクルステーション白山下駅になっています。 胸像の台座に埋め込まれた銘板には、金名鉄道創設 25 周年にあたる昭和 24 年(1949)に、鳥越村長 などが発起人となって、 「幾多の苦難を克服して、独力で鶴来と白山下駅間を開通させた小堀の偉業を讃 えるために建てられた」ことなどが、刻まれています。 た か こ 白山市河原山町に住む北川他歌子さん(昭和 12 年生)は、「金名線の車内はいつも混んでいて、白山 下駅前も白山登山の人たちなどで賑わい、白山麓の木材を積んだ貨車が頻繁に往き交っていた」。また、 小堀定信を実際に見たことがある白山市三ツ屋野町に住む庄田良直さん(昭和 2 年生)は、 「銅像は、河 原山の元田さんが、がんばって建てた。小堀さんは、背は低かったが、きりっとした方だった」と話さ れました。 さらに、 『手取川紀行』 (平成 18 年・時鐘舎発行)には、「白山ろく 5 村の出征兵士のほとんどは白山 下駅に集合し、ここから戦地に赴いたことや、白山ろくからの北海道移民は、昭和 9 年(1934)の大水 害などを契機に急速に増えており、そのほとんどが金名線で金沢駅まで出て、北陸線に乗り換え、一路 北を目指した」ことが、紹介されています。
© Copyright 2024 ExpyDoc