Nara Women`s University Digital Information Repository

Nara Women's University Digital Information Repository
Title
CORONA衛星写真から見たタキシラの都市遺跡
Author(s)
出田, 和久
Citation
高解像度の衛星画像・衛星写真を用いた環境変化の解析, pp.71-80
Issue Date
2002-03
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/955
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CORONA衛星写真から見たタキシラの都市遺跡
出田和久(奈良女子大学・文学部)
!.はじめに
中国を中心とする東アジアにおける古代の都城をはじめとする計画都市は囲壁が巡り、
多くはその外形が長方形あるいはそれに近い形状をなし、都市の内部は直交状街路によっ
て区画されるのが一般的である。最近、前期難波京に羅城がめぐらされていた可能性を指
摘する見解も出されてはいるものの、日本の古代都城のように都市全体をめぐる周壁を有
していないものは少ないようである。また、西アジアや地中海沿岸地域の古代都市も形状
は必ずしも長方形ではないが、やはり基本的には都市を囲む壁を備えている。いずれにせ
よ都市全体を囲む囲郭の形状が長方形で、内部に直交街路網を有する整然たる都市形態は、
概ね紀元前4世紀半ばくらいまでの都市にはみられなかったようである1)。つまり、多く
の古代都市が少なくとも周壁を備えていたことから、それが崩壊して遺跡となって残る場
合には、地表景観に何らかの影響を与えていると考えられる。
そこで、本報告では、高解像度の衛星写真2)を利用して都市遺跡がどの程度判読可能か
予察的に検討を試みることにしたい。なお、今回利用する米国の偵察衛星CORONAの写真は、
「A円:ER」と「FORWARD」の撮影が行われているので概ね立体視も可能であるうえに、歴史
地理学的な視点からは1960年代という比較的古い時期の写真が利用できることから、近年
の大規模な土地改変が行われる以前の地表の景観を読み取ることができる点で、有効利用
が期待できる。また、CORONA衛星写真はアナログ写真であるためにディジタル画像を利用
する場合のような解析技術を必要としない点でも利用にあたって利便性が高い。ちなみに
CORONA衛星写真の地上解像度は2∼3メートルで、ディジタル・データであるランドサッ
ト画像の解像度は地上30メートルで、最も高い解像度を誇るスポット衛星(SPOT)でも
地上10メートルであるから、CORONA衛星写真の解像度が大変高く、利用価値が高いこと
が分かる。以下に各都市遺跡の概要および判読結果について簡単に報告することにしたい。
2.対象地域と古代都市遺跡の概要
1)対象地域の概要(図1)
インダス川の上流域と中流域の境に位置する広義のペシャーワルPeshawar盆地の東端
にあたるタキシラTaxilaの地3)は交通の要衝であり、紀元前6世紀から紀元5世紀末のエ
フタルの侵入により破壊されるまでの1000年近くにわたってビール・マウンドBhir
Mound、シルカップSirkap、シルスフSirsukhの3つの古代都市効漣綿と営まれた。
これら都市遺跡の内外に多くの仏教遺跡が分布していることでも知られる。
タキシラは19世紀後半にカニンガムA.Cunninghamによって調査され、古代のタク
シャシラーに比定された。その後、1913年から1934年まで22年間にわたってインド考
古調査局長官のマーシャルJ.Marsha11によって発掘調査が行われ、さらにゴーシュ
A.Ghoshやパキスタンの考古局により発掘調査が行われた。現在はそれらの遺跡は世界遺
産に登録され、保存されている。
一71一
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図1 タキシラの都市遺跡とその周辺
(パキスタン考古局のリプリント版)丘g.15より
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図2CORONA鯉写真にみるタキシラの者K市遺跡一km
(瀬瀬は後出の図の大体の範囲を示す)
表1
タキシラの都市遺跡の動向
、時潔
Bn6世紀
シルカップ
ど一ノ〃・マウンド
シルスフ
アケメネス朝ペルシアの属州
5世紀
4世紀
B.C329アレキサンダー大王の侵入
3世紀
マウリや朝(後のアショカ王が総督)
2世紀
バクトリア(ギリシア人の王朝)
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5都の建設
Bて).1世紀
AD.1世紀
大地震と部分的再建
印
2世紀
一
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クシャン族の建設?
一レ
3世紀
4世紀
エフタルの侵入・滅亡?
5世紀
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一73一
タキシラの地は、東はマリー丘陵に限られ、ルンディ・ナーラー:Lundi Nullah、タムラ
iーラーTamura Nullahの2本の川が形成した幅約8キロメートル、長さ約17キロ
メートルの肥沃な平野に位置し、海抜高度は520∼550メートルくらいである。上記の都
ー・
市遺跡は南部を東から伸びてくるマリー丘陵の支脈であるハティアール丘陵に限られ、こ
の丘陵の西の麓にビール・マウンドが、北の麓にシルカップが位置し、ルンディ・ナーラ
ー川を挟んでシルカップの北北東約1.5キロメートルにシルスフが位置している。
2)タキシラの都市遺跡 (図2)
ここではまず、主にマーシャルによってまとめられたAGuide to TAXILA5)によりなが
ら各都市遺跡について簡単に紹介するとともに、衛星写真からどのようなことが分かるか
について記すことにする。
(1)ビール・マウンド
アケメネス朝ペルシアの属州であったB.C.6世紀からB.C.5世紀頃の都市、アレクサン
ダー大王に降伏したB.C.4世紀頃の都市、マウリア王朝に属したB.C.3世紀の頃の都市、
B.C.2世紀以降のギリシア人諸王の頃の都市、合わせて4つの時期の都市遺構が検出され
た。タキシラの都市遺跡の中では最も古い。南北約1100メートル、東西約670メートル
の不整形な周壁で囲まれ、この壁には日乾しレンガや泥も使用されている。なお、タキシ
ラ博:物館はこのビール・マウンドの遺跡の北西部に位置している。
ビール・マウンドでは上記のように4つの文化層が確認されたが、そのうち比較的よく明
らかになった第2層はB.C.3世紀頃の都市と考えられている。したがってこれが、アショ
カ王が太子時代に総督として滞在したタキシラの都市ということになる。マーシャルによ
って調査されたこの第2層の面積はおよそ3エーカー(約1.2ヘクターール)で、都市は街
路や路地で画された住居や商店からなるブロックによって構成されている。典型的な住居
は2階建てで、中庭を囲んでその周りに部屋が設けられているが、シルカップの住居プラ
ンと比べるとやや不整形である。街路や路地のレイアウトは不規則で、計画性は認め難い
ようである。平均して面心6.7メートルのほぼ南北に走る街路と湾曲して走る幅2.7∼5.1
メートルの道が接続し、路地はこれらよりも狭く、家々の間の通路は2人並んで歩くこと
ができないほどである。現在のパキスタンで都市内部の路地の奥に入り込んだ時と同じよ
うな印象であったかと想像される。この時期の周壁は石灰岩とカンジュールと呼ばれる多
孔質砂岩で構築され、ビール・マウンドの都市ではこの時期の周壁が最もキッチリしてい
て丈夫であるという。
(2)シルカップ
ハティアール丘陵の西端の尾根か
ら北の平地に向けて広がり、周囲約
5.5キロ、厚さ約4.6∼6.6メートル、
西側は凹凸があるが北側と東側は真
っ直ぐな、高さ6∼9メートルの石
壁が巡り、方形の逸出が不規則な間
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りぼ
ド
ら
難.
隔で配置されていた。市街地部分に
は幅約7.5メートルのメイン・スト
リートがほぼ南北に走り、幅約3メ
図3 シルカップのメイン・ストリート
一74一
一トルの道路が大体
30数メートル間隔で
これに直交して東西に
走る(図3)。マーシャ
ルによる発掘調査部分
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によって長方形のブロ
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とみられる(図4)。住
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(CONJECTURAL)
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明らかでない部分も多
のような直交する道路
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は全体の1割強であり
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ール・マウンドの住居
図4 シルカップの周壁と都市のレイアウト(推定)
Dar,S.
R.(1984):TAXILA and the Western World より
と比べると明確な改良
がみられ、多くの不規則さはあるもの
の明らかに同一の原理に基づいている
とみられている。住居は粗割りの石積
み(野石積み)で、A.D.25∼30年頃
に起こった地震で破損した後は、特有
のダイアパー式(地文様)の石積みで
修理されたり、再建されたりしている。
屋根はオリエント地方で一般的にみら
れるのと同じ泥を塗り込んだ陸屋根で
図5 クナーラの僧院
あった。また、発掘された市街地の南
端に近いところに王宮がある。これはメイン・ストリートに面し、間口約105メートル、
奥行120メートルほどの規模で、中庭を中心に周りに部屋が並んでいるというもので、一
般住居と同じく粗割りした石を積んで造られ、後世の補修や増広が大変多くみられる。
市街地の南部にはハティアール丘陵東端にあたる丘が伸びてきており、クナーラの仏塔
Kunala Stupaと僧院Monastery(図5)があった。これはあたかも古代ギリシアにおけ
るアクロポリスの丘のようで、北部の平野部にある市街地部分との間には石積の壁が設け
られていた。
このようにシルカップでは都市壁に囲まれたなかに小高い丘があり、直交状街路パター
ンがみられ、古代ギリシアの植民都市を彷彿とさせる。また、その東の尾根にはマハルと
呼ばれるところがあり、中庭を囲んで多数の部屋がある宮殿らしき建物の跡が発掘され、
マハルが宮殿を意味することもあり、冬の宮殿と推定されている。
(3)シルスフ
シルカップの北東約1.6キロのルンディ・ナーラ田川の北岸に位置している。東西約1.4
キロメートル、南北約1キロメートルのほぼ長方形で、厚さ約5.6メートルの石積の壁で
囲まれている。発掘調査は南東隅のごく一部に限られていたが、周壁の表面はそれ以前に
一75一
特徴的であった粗い割石を使用した野石積みではなく、パルティアや初期クシャーン時代
に特徴的なダイアパー式(地文様)の石積みで仕上げていることやロール状の円く張り出
した土台で強化されていること、周壁にはおよそ27メートル間隔で半円形の稜堅があり
矢狭間が設けられていることなどが明らかとなった。マーシャルはクシャーンKushan族
のヴィマ・カドフィセスV’ima Kadphises王の時代(1世紀後半)に創建されたとみてい
るが、稜墨が矩形ではなく半円形であることなどから、2世紀後半から3世紀初めの創建
との見方がある6)。5世紀末のエフタル族の侵入で破壊され、タキシラにおける都市の歴
史に幕が下ろされた。
以上のようなタキシラの都市遺跡を簡単に年表で示すと表一1のようになる。
3.判読結果
上記遺跡を中心に、高解像度のスキャナで衛星写真をスキャンして、ディスプレイ上で
拡大したり、「A:FTER」と「FORWARD」の画像をプリント・アウトして実体視したりし
て判読を試みた。特に、周壁で囲まれていた範囲がどの程度明らかに出来るか、あるいは
内部の街路網の痕跡を見出せるかについてポイントを置いて、マーシャルの報告を参考に
しながら判読を試みた。
$
1) ビール・マウンド
ビール・マウンドでは、油
壷A−Bと西辺B−C付近
において周壁の痕跡と思わ
れる道路や線状の僅かな高
まりが認められた。その他
の部分では周壁の痕跡は、
細い帯状の微高地として判
読することはでほとんどで
きなかった。しかし、かつ
図6 ビール・マウンド(実体視)o一〇m
Data ava i l able frcxn U. S. Geo logica l Survev, EROS Data Center, S i oux Fa l l s. so.
ての周壁の存在が現在の地
表面の地割形態に影響を与えているのではないかと考え捜したところ、西壁中央やや南寄
りのC−D間においてみられる凹部が、マーシャルが示した周壁のラインとほぼ一致する
地割部分と認めることができる。周壁内部の道路の痕跡については判然としない(図6)。
2)シルカップ(図7)
シルカップの現在の状況は発掘により、地上でも街路や周壁の一部は容易に確認できる。
したがって当然のことながら、CORONA衛星写真でも街路パターンは容易に判読でき、
北のメイン・ゲートから南に伸びるメイン・ストリートA−Bだけではなく、これに直交
する13本の東西道路、さらに周壁も北辺A−Eは明瞭に認められる。東壁はマーシャル
の図でも直線的に示されているが、衛星写真でもC−Dの部分で、直線的な僅かな高まり
がハティアール丘陵に上がっていく部分も含めてかなり明瞭に残っている。また、平地部
分の南端に近いK一:L、M−Nの部分でも帯状の僅かに高まりが認められ、市街地を区画
する壁の跡ではないかと考えられる。
周壁の西辺は不規則な形状を示していることが知られている。この部分では屈曲した線
一76一
$
ヨむむの
図7 シルカップ(実体視)
」≡≡≡古≡日日」
Data available from U. S. Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD.
状に白く写っている部分が石壁自体が露出しているのか判然としないが、その形状は推定
復原された周壁のラインに近似している(図4参照)。特に、F−G、 H一一1−Jでは暗い帯
状の部分が認められ、その東側の部分よりも僅かに低いようにも見え、周壁推定ラインの
凹部によく対応しているようである。さらに、この西側にほぼ南北方向に細長い僅かな凹
地が北壁近くにまで及んでいる。この西側を北流しているタムラー・ナーラー川との関係
を考えると、この凹地は濠として人工的に掘削されたものの痕跡であるかも知れない。
また、この周壁にはところどころに点状の僅かな高まりを認めることができるが、報告
の記載と合わせて考えると、これは稜墨である可能性が高い。シルカップでは周壁の直線
部には方形の稜塗が、コーナー部には五角形7)の稜塗が附属していたようである。
このほか、南部のハティアール丘陵では、東側に長方形の区画(0)が、さらにその南
西には方形に盛り上がった部分(P)が見え、それぞれクナーラの仏塔と僧院および冬の
王宮とも考えられているマハルと判断される。
ところで、このCORONA衛星写真に表れているのは概ね第二層Partian Stratumに相当
するものであることが発掘報告との照合から分かるが、発掘調査によって遺構が地表面に
出ていなければ、上記のように比較的明瞭には判読できなかったのではないかと考えられ
る。特に都市内部の道路遺構は、ここでは発掘調査以前の状況と照合できないので、実際
にどの程度衛星写真による判読が有効であるかの判断は難しいが、ビール・マウンドと同
様にほとんど判読できないものと思われる。
なお、シルカップの北壁の北500メートル程のところに明瞭な土塁の跡(Q−R)が見
一77一
える。これはカッチャー・コトの土塁であるとされるが、先述のように都市プランなどは
明らかではない。
3)シルスフ(図8)
シルスフでは周壁南辺のA−Bと東辺のA−D間で連続する細長い帯状の地割が認めら
れ、実体視するとそれらが周辺の耕地と比べて僅かな高まりであることが判読できる。さ
らに、この2辺のように連続性は十分ではなくても西辺のB−C間および北辺のC−D間
において、E一:F、 G−Hなどのように部分的にではあるが、帯状の微高地を認めることが
でき、これらは周壁の痕跡を一部分留めていると考えられる。
また、南辺と東辺の周壁を注意して見ると、スポット状に僅かに高くなっているように
見える部分がある。これはシルカップと同様に周壁に取り付けられた稜墨の痕跡を示すも
のではないかと推測できる。シルスフの稜墾は、方形であったシルカップとは異なり、半
円形であったとされるが、衛星写真ではそこまでの判読はできない。
このほか興味深いこととして、北西流していたルンディ・ナーラー川の支流がシルスフ
の南辺の1点で向きを変えしばらく西流するが、この部分は人工的に付け替えられたと思
われ、北西方向には本来の河道の痕跡を認めることができる。濠と飲料水の給源として利
用したのであろう。
図8 シルスフ(実体視)
一km
Data available from U. S. Geological Survey, EROS Data Center, Sioux Falls, SD.
4)周辺の仏教寺院遺跡
都市遺跡内にあるものについては既に
上で触れたものもあるが、タキシラ周辺
には多くの仏教寺院遺跡がある。これら
がどの程度衛星写真から判読できるか、
いくつか事例的に見ておくことにする。
①ダルマラージカDharmarajika
シルカップからハティアール丘陵を南
に越えた、タムラー・ナーラー川の右岸
の段丘上にあるダルマラージカ寺院は、
タキシラのみならずガンダーラ地方最大
図9 ダルマラージカの仏塔
の仏教寺院である8)。その名は「法の主
一78一
(:Lord of the:Law)」と
$
いうような意味で、紀元
前3世紀に仏舎利を分納
するためにアショカ王が
’/1’1開削
愚書
創建したとされ、紀元5
世紀のエフタルの侵入ま
で続いたとされる9)。大
塔:(図9)の円形基壇は、
む
東西45.7メートル、南北
44.7メートルで、伏鉢の
ヨむむ
図10 ダルマラージカ(実体視) 」一
Data available from U. S. (]eological Survey, EROS Data Center, Sioux Fal ls, SD.
高さ(現存)13.7メート
ルという大きなもので、
仏塔の周りには小祠堂が
並ぶが、その状況は衛星
写真を実体視するとよく
うかがえる。また、周辺
に祠堂などが散在してい
る様子もよく判読できる
(図10)。
OwtOOM Ow300m
図11モーラ・モラドゥ
Data available from
②モーラ・モラドゥ
図12ジョーリアン
U. S. GeoloQical Survev. EROS Data Center. Sioux Falls. SD.
Mohra Moradu(図11)
:シルスフの南東1.6キロメートルほどのハティアール丘陵の小
さな谷を少し登った斜面中腹にある。手前に仏塔、奥に僧院がある。ダルマラージカほど
大規模でさしたる特色があるというわけではないが、ストゥッコなどの寺院壁面を荘厳す
る像が彩色はほとんど消えているものの非常によく残っていた。
衛星写真では、ダルマラージカほど大きくはないので塔院と僧院の区別はつかないが、
谷の中腹のテラスにかろうじて方形の地物を認めることができる。
③ジョーリアンJauhan(図12):モーラ・モラドゥの東北東約1.6キロメートルの、90
メートルほどの高さの丘陵上にある。灌概用水路をわたり、斜面を登ると、塔院があり、
その東に僧院が接続している。ここもストゥッコなどの寺院壁面を荘厳する像が非常によ
く残り、モーラ・モラドゥよりも残りはよいが、質的には躍動感、造形の巧みさ、デリカ
シイなどの点で少し劣る。クシャーン朝時代の2世紀の創建とみられている。この塔院と
僧院が接続した配置がよく分る。
おわりにかえて
近年公開されるようになったアメリカ合衆国の偵察衛星が撮影した高解像度の写真によ
って、換言すればいわば宇宙からの目によって実際にどの程度遺跡が判読できるのかにつ
いて、パキスタンのタキシラに展開した古代都市の遺跡を中心的な事例として取り上げて
検討した。撮影時期が1960年代半ば頃のものが利用できるので、歴史地理的な検討には
好都合であるが、実際に利用するに当たっては、直接ルーペでのぞいて判読することも可
能ではあるが、広い範囲について行うのは労力や視力に与える影響を考慮すると現実的で
一 79 一一
はない。そこで、スキャナで画像を取り込んで、ディスプレイ上で拡大して判読すること
が簡便でよいと思われるが、この場合どの程度判読できるかはスキャナやディスプレイの
解像度によるので、ハードウエアの環境に大きく依存することになる。
つぎに判読の結果について簡単にまとめる。周壁や稜墨のように地表面に起伏の差とし
て残っているものについては比較的判読しやすい。一方、道路遺構などのように現在の地
表面に起伏の差として残りにくいものは、地割や地表面に明暗の濃度のパターンとして現
れなければ判読が困難である。つまり、一般の空中写真と比較すると、小縮尺であるので
広範囲をかなり明瞭に判読できるが、今回の事例では未発掘の都市遺跡について特にその
内部構造の判読まではできなかった。したがって、CORONA衛星写真の解像度を十分に活か
せるハードウエアの環境のもとで利用すれば、CORONA衛星写真は空中写真がない地域にお
いて地表面に起伏が残る遺跡の分布などの調査には利用価値があるといえそうである。
注および参考文献
1)出田和久:直交街路網を有する方形囲郭都市の成立と伝播に関する予察的検討、『平成6∼9年度文部
省科学研究費補助金研究成果報告書 基盤研究(A)(2) ユーラシアにおける都市囲郭の成立と系
譜に関する比較地誌学研究』(研究代表者:戸祭由美夫)、pp.161−192、1998年
2)1995年から公開されるようになった米国の偵察衛星コロナ(CORONA)のデータは解像度の高さと
入手が容易で、費用も比較的廉i価であることから、最近その利用が進んでいる。(小方登:衛星写真
を利用した渤海都城プランの研究,人文地理52−2,2000年,PP.129−148 など)
3)タキシラTaXilaはパキスタンの首都イスラマバードIslamabadの北西約30キロに位置し、かつての
ガンダーラ仏教文化の東端近くにあたる。
4)発掘調査の面積が狭くて実態の解明が進んでいないシルカップの北半分に重なっているカッチャ
一・コトKaccha Kotを含めると4つということになる。このカッチャー・コトについては、1913年
から34年にかけて22年間もタキシラでの発掘調査に従事したマーシャル卿によれば、大まかに囲ま
れた部分は現在みられるキャラバンや家畜のための壁垣というよりも恒久的な居住のためのものと
考えている。Marshall, J.H. A Guide to Taxila, Cambridge University Press,1960,4th edition, p.84。
なお、近年の調査の成果からダルDar博士はタキシラの都市はエフタルの侵入後もかろうじて生き延
び、7世紀にも存在していたと述べている(Da r, S.R.:TAXILA and the Western World, Al・Waqar
Publishers, Lahore, 1984, pp.5’6).
5)Marshal, J.H.:前掲書
6)田辺勝美:都市遺跡一三キシラ、(樋口隆康他編『パキスタン・ガンダーラ美術展図録』、日本放送協
会)1984、P.120。なお、樋口はこの半円形の稜墜はアフガニスタンのクシャーン朝時代の遺跡にも
みられるとしているので、この半円三稜堅の出現時期が問題である。樋口隆康『ガンダーラの美神と
仏たち その源流と本質』、日本放送出版協会、1986、p.57.
7)六角形であるとの指摘もある(A.(fOhsh:Ta.xila・Sirkap,Ancient India,:bulletin of the Archaeological
Survey of India.No.4,1947−48,pp.41−84、西川幸治=『仏教文化の二郷をさぐる一インドからガンダー
うまで一』、日本放送出版協会、1985年、p.155)。
8)樋口隆康:ガンダーラの美神と仏たち一その源流と本質一、日本放送出版協会、1986年、p.60。
9) Marshall, J.H.:ibid. pp.102−123.
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