ブラジルにおける日本語教育の現状

応 用 言 語 学 特 論 B( 日 野 先 生 ) タ ー ム ・ ペ ー パ ー
ブラジ ルにお け る日本 語教育 の 現状
- 南マットグロッソ州ドラードス市の日本語学校の現状を具体例として-
大阪大学言語文化研究科博士前期課程1年 松尾
慎
1.はじめに
日本人の海外移民の歴史は長い。明治元年に政府の許可を得ずにハワイへ渡ったいわゆ
る「元年者」に端を発し、ハワイへの官約移民や移民会社を通しての自由移民、アメリカ
合衆国とカナダ、オーストラリア、東南アジアへの移民、そして南米への移民も少なくな
い。
さて、南米に位置する移民国家のブラジルには、現在、日系人がサンパウロ州を中心に
128 万 人 ほ ど 居 住 し て い る と い わ れ て い る ( サ ン パ ウ ロ 人 文 科 学 研 究 所 1990)。 ブ ラ ジ ル
へ の 日 本 移 民 の 歴 史 は 、 1908 年 に 笠 戸 丸 で 800 名 あ ま り の 農 業 契 約 移 民 が サ ン ト ス 港 に
到着した時に始まった。初期の移民の大半は、コーヒー農場で一財産を築き、日本に帰国
する夢をいだいていた。しかし、現実は厳しく第二次世界大戦に日本が敗戦すると帰国を
断念しブラジルに定着せざるを得なかった。そういった中で、日系人
1は 農 業 分 野 に お い
ては大規模な自営農になるものも増え、また、ビジネス界、医者や弁護士、技術者などの
専門職、さらに政治の分野にも進出していった。
言語学の観点から見ると、現在、ブラジル日系人の間で、日本語からポルトガル語への
言 語 シ フ ト (Language Shift 2 )が 進 行 し て い る 。 そ の 背 景 に は 、 日 系 コ ミ ュ ニ テ ィ ー で の
日本語・ポルトガル語の言語能力や日本語に対する意識の変化、ブラジル社会での日系人
の社会的地位・役割の変化のみならず、アイデンティティーなどが要因としてあげられる
だろう。さらに、ブラジル社会自体の変化、そして国際社会における日本の立場の変化も
見過ごせない。
そういった現状の中、ブラジルには日系人を中心とした日本語教育が存在する。今回の
ターム・ペーパーでは、ブラジルの日本語教育の現状について考察したい。なお、具体例
と し て 、 筆 者 が 1994 年 3 月 か ら 1997 年 3 月 ま で 勤 務 し た 南 マ ッ ト ・ グ ロ ッ ソ 州 ド ラ ー ド
ス市のドラードスモデル校の現状を取り上げたい。なお、ここでは各家庭で行われる日本
語教育は考察の対象にはしない。
2.ブラジル日系移民の概観
まず、もう一度簡単にブラジル日系人について概観しておきたい。
ブ ラ ジ ル 日 系 人 の 人 口 は 、 約 128 万 人 (1988 年 ) と 言 わ れ て い る 。 こ れ は 、 ブ ラ ジ ル の
1
前 山 (1987)で の 定 義 は 以 下 の 通 り で あ る 。「 日 本 生 ま れ 、 日 本 国 籍 の 移 民 と 、 現 地 生 ま れ の 、 現 地 社
会 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を も ち 、そ こ の 国 籍 を 有 す る エ ス ニ ッ ク 日 系 人 と し て の 2 ,3 世 と の 両 者 を 含 め
て 用 い る 」。 本 発 表 で も こ の 定 義 を 採 用 す る 。
2
Linguistic Minorities Project(1985)で は 、 世 代 間 で お こ る Language Shift と 一 個 人 の 人 生 で お
こ る Language Loss を 区 別 し て い る 。ま た 、Clyne&Kipp(1997)で は 、オ ー ス ト ラ リ ア に お け る Language
Shift の 基 準 を「 家 庭 で 英 語 し か 話 さ な く な っ て い る 人 」と し て い る 。本 ペ ー パ ー で は 、Language Shift
を 世 代 間 で 徐 々 に 出 自 の 言 語( 日 本 語 )か ら ブ ラ ジ ル の 国 語 で あ る ポ ル ト ガ ル 語 に 移 行 し て い く 段 階 と
して定義する。
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人 口 の 1% 弱 と な る 。世 代 の 構 成 は 、1 世 12.51%
2 世 30.85% 3 世 41.33% 4 世 12.95%
5 世 以 上 0.28% 不 明 2.07% で あ る 。つ ま り 、現 在 (1999 年 )の 主 流 は 2 世 ・ 3 世 と い う こ
と に な る 。ま た 、世 代 別 の 混 血 状 況 は 、2 世 6.03%
3 世 42.00%
4 世 61.62% と な っ て
いる。3世・4世の段階でかなり混血が進んでいることが分かる。世代の移り変わり、混
血の進行とともに日本語からポルトガル語への言語シフトが進むとともに日本語に対する
意識の変化とともに日本語教育のありかたの移り変わりがみられる。
3.日本語教育の歴史
次 に 、 森 脇 (1996)を 参 考 に 日 本 語 教 育 の 歴 史 を 概 観 し て い く 。
1 . 日 本 語 教 育 の 空 白 期 (1908 年 ~ 1910 年 代 前 半 )・ ・ ・ 日 系 移 民 は 、 ま ず コ ー ヒ ー 農
園の契約労働者として働いた。日本での移民募集の時の甘言とは裏腹に、この時
代には、過酷な労働の中でブラジルでの生活に慣れるだけで精一杯だった。マラ
リアなどの被害も出てとても日本語教育に手が回る期間ではなかった。
2 . 草 創 期 ( 1910 年 代 後 半 ~ 1920 年 代 後 半 )・ ・ ・ こ の 時 期 に よ う や く 、 自 立 農 が 登 場
し日本語教育の萌芽期を迎える。大多数の移民の希望はブラジルで一財産を築き
日本に帰国することだった。よって、子弟への日本語教育は国語教育として必要
であったのである。この時期には、日本語は外国語ではなく国語であった。
3 .戦 前 期( 1930 年 代 前 半 ~ 1941 年 )・・・こ の 時 代 は 、ブ ラ ジ ル に ナ シ ョ ナ リ ズ ム の
嵐 が 吹 き 荒 れ た 。 37 年 に 14 歳 未 満 の 児 童 に 対 す る 外 国 語 教 授 禁 止 令 が 出 さ れ 、
こ れ に 対 す る 種 々 の 方 策 も む な し く 、38 年 に 主 と し て 枢 軸 国 3 国 の 言 語 で あ る 日
本語、ドイツ語、イタリア語学校が全面的に廃止されるに至った。よって、誰か
の自宅で近所の子供たちを集めて細々と日本語教育は続いた。
4 . 戦 中 期 ( 1941 年 ~ 1945 年 )・ ・ ・ 日 本 は ブ ラ ジ ル に と っ て 敵 国 と な っ た 。 42 年 1
月にサンパウロ州保安局によってある取締令が公布告示された。その中の一項に
「 多 数 集 合 の 場 あ る い は 公 衆 の 場 に お い て 、 当 該 国 (日 ・ 独 ・ 伊 )国 語 を 使 用 す る
ことの禁止」があった。実情はさらに厳しく路上で知り合いに日本語で呼びかけ
た だ け で 警 官 に 捕 ら え ら れ た と い う 話 し も あ る (田 宮 1975)。と い う 状 況 の 中 、家
庭外で日本語を自由に話せる環境は失われていった。
5 .戦 後 期( 1950 年 代 前 半 ~ 1980 年 代 前 半 )・・・多 く の 日 系 人 に と っ て 敗 戦 国 で あ る
日本への帰国は非現実的なものとなりブラジルに定着する意志を固めていった。
そういった事情で、この時期は外国語としての日本語という意識の萌芽期となっ
た。しかし、日本語教育自体は従来の国語教育のスタイルが続き、テキストも国
語の教科書が主流であったし、教育内容も読み書き中心だった。この時期は日系
人の中でも地域差が出てきた。サンパウロ市などの大都会に点在している日系人
と地方で日系人移住地に居住している日系人ではおのずと日本語に対する意識に
も違いがあった。戦後期は敗戦国である日本の日本語を非日系に聞こえるところ
で話すのは恥ずかしかったという日系人も少なくない。
6 .現 代( 1980 年 代 後 半 ~ 今 日 )
・・・外 国 語 と し て の 日 本 語 が 定 着 し つ つ あ る 。ま た 、
非日系の日本語学習者も増えつつある。とはいえ、まだ国語の教科書で授業を行
っている学校も少なくない。というのも、教師の多くは1世で国語は教えられて
も日本語は教えられないものが多いからだ。国語の教科書は、通常、小学1年生
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入学の段階で基本的文法的事項を自然習得している児童が対象になる。よって、
小学1年生の教科書にもいわゆる「テ形」
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が当然のごとく登場する。これは、
戦前の移民子弟の多くは家庭で自然習得していたので何の説明もいらなかった。
しかし、現代になるとほとんどの日系人児童にとって「テ形」は未知の事項であ
る。こういった事項を教える知識や技術を持っていない1世教師は少なくない。
加えて、国語の教科書というのは「日本」的なものの象徴であり、この教科書
を 使 用 し て い る 間 は 、「 日 本 」的 な 心 や 考 え 方 が 伝 承 さ れ て い く と い う 根 強 い 信 仰
に支えられている。また、問題点として教師の待遇の悪さから後継者が育たない
ことが挙げられる。日本語学校の優秀な生徒は医者や弁護士、技術者などの専門
職を希望するのが現実である。
こ こ で は 、「 外 国 語 と し て の 日 本 語 」と い う 用 語 を 使 用 し た 。こ れ は 、ブ ラ ジ ル の 日 本 語
教 育 界 で こ の 用 語 が 使 用 さ れ て い る の に 倣 っ た わ け だ が 他 に も 理 由 が あ る 。例 え ば 、「 第 2
言 語 と し て の 日 本 語 」 と い う 言 い 方 は ど う で あ ろ う か 。 J.リ チ ャ ー ズ 他 編 (1986)に よ る と
第 2 言 語 と は「 あ る 国 の 母 語 で は な い が 、コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 手 段 と し て (た と え ば 、教
育 や 政 府 の 言 語 と し て )広 く 使 わ れ て い て 、 通 常 他 の 言 語 と 併 用 さ れ て い る 言 語 」 で あ る 。
現在、日系人の間で日本語が広くコミュニケーションの手段として使用されているといえ
るだろうか。もちろん、一部の日系人にとってはそうであろうが全体的には「広く」とは
言い難い。また、日本語教育の目的自体がコミュニケーション上の必要性に根ざしている
とも言い難い。とはいっても、心情的に日本語を外国語とはみなしたくはないという考え
方も根強く、ブラジル、しかも特に日系人における日本語をどう位置づけるかは容易な作
業ではなかろう。多様なレベルでの日本語が存在するというのが実情といえるだろう。
4.日本語教育の一般的現状
ブラジルにおける日本語教育はその歴史をみても分かる通り、日系移民の歴史とともに
歩んできた。よって、学習者の多くは日系人である。そして、学習者の大半が小中学校年
代で占められているのが最大の特徴である。
国 際 協 力 事 業 団 に よ る 1993 年 の 調 査 (1996)に よ る と 公 教 育 以 外 の 日 本 語 学 校 の 数 は
334 校 、 学 習 者 数 は 、 20,612 人 、 教 師 は 775 人 と な っ て い る 。 こ れ は 、 1985 年 の 調 査 よ
りも増加傾向にある。しかし、実際にはブラジル各地で日本語学校の休校や生徒数の減少
が報告されているのでこの調査結果をそのまま受け止めることはできない。さらに、この
学習者数は学校でのものであって学校には行かないで、家庭で両親や祖父母から日本語を
習得している人数は含まれていない。
日 本 語 学 校 の 約 50% は 日 本 人 会 (日 系 人 会 )経 営 の も の で あ る 。私 塾 は サ ン パ ウ ロ 市 に 集
中している。後述するように公教育における日本語教育はほとんどないといってもよい。
教師に関しては、日本人経営の日本語学校では家庭の専業主婦が金銭的目的を度外視した
ボランティア的な立場で携わっていることが多い。これは、日本語教育の歴史的経緯から
く る 教 師 の 待 遇 の 悪 さ に 起 因 す る 。 実 際 に 教 師 の 85% を 女 性 が 占 め て い る 。 世 代 別 で は 、
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日 本 語 初 級 で 習 う 事 項 の 中 で も 重 要 な も の で あ る 。 例 え ば 、「 食 べ て 」 や 「 遊 ん で 」 な ど の 動 詞 の 活
用形式を指す。これが習得できないと幅のある表現は不可能になり初級の中でもヤマ場となる。
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1 世 が 60% 、 2 世 が 25% 、 3 世 が 15% で あ り 1 世 中 心 で あ る こ と が 分 か る (宮 尾 1998)。
こういった状況の中、ブラジル日系社会における日本語教育の普及にあたる中心的存在
と し て 日 本 語 普 及 セ ン タ ー が あ る 。 こ れ は 、 様 々 な 日 系 団 体 が 一 本 化 す る た め に 1985 年
に 発 足 し 、1988 年 に 最 終 的 に 一 本 化 し た 。こ の セ ン タ ー は 教 師 の 研 修 会 の 実 施 、教 材 の 開
発などを行っている。サンパウロにあるセンターには小さいながら図書室もあり教材の貸
し 出 し も し て い る 。ま た 、こ の セ ン タ ー は JICA と 国 際 交 流 基 金 か ら の 助 成 を 受 け て い る 。
教 材 の 開 発 は JICA 派 遣 の 日 本 語 教 育 専 門 家 が 中 心 に な っ て 実 施 さ れ て い る 。
と こ ろ で 、 鷹 取 (1998)に よ る と 国 際 交 流 基 金 サ ン パ ウ ロ 日 本 語 セ ン タ ー が 1997 年 に 行
った調査で明らかになった公教育における日本語教育の実情は以下の通りである。
学 習 者 数 : 1000 人
大学で正課として日本語教育を実施している・・・5校
大 学 で 公 開 講 座 と し て 実 施 し て い る ・ ・ ・ 10 校
初 等 ・ 中 等 教 育 で 課 外 講 座 と し て 実 施 し て い る ・ ・ ・ 22 校
*課外講座は、ほとんどがサンパウロ州とパラナ州である。
サンパウロ州とパラナ州は日系人が集中している地域である。大学で正課としての日本
語教育を行っ ている大 学は 5 校ある。しかし 、日本語学科の老 舗的 存在のサンパ ウロ州立
大学の場合は入学時に少なくとも日本語能力試験の 2 級程度の実力がなければ授業につい
ていけない。同大学で作成された文法テキストはいわゆる学校文法といわれるものであり
ポ ル ト ガ ル 語 で の 説 明 が 加 え て あ る も の の 国 語 的 色 彩 が 強 い 。ま た 、他 大 学 の 場 合 は 逆 に 、
初級から指導するものの卒業時ですら日本語能力試験の3級がせいぜいというレベルであ
り、初級から上級までの一貫したプログラムを持つ大学は皆無といってもいい。
と こ ろ で 、日 本 政 府 は ブ ラ ジ ル の 日 本 語 教 育 へ の 支 援 を 国 際 協 力 事 業 団 (JICA)と 国 際 交
流 基 金 を 通 じ て 行 っ て い る 。 JICA は 主 に 日 系 人 へ の 日 本 語 教 育 の 支 援 を 担 当 し 、 国 際 交
流基金は公教育を含み日系人に限定せず、むしろ非日系への普及を積極的に推進する形で
支 援 を し て い る 。 こ れ は 、 か つ て JICA が 日 本 政 府 を 通 し た 移 民 送 出 業 務 を 担 当 し て い た
こ と に 理 由 が 求 め ら れ る 。JICA と い う と 無 償 援 助 に よ る ODA 実 施 機 関 と し て 有 名 で あ り 、
こ れ ま た 著 名 な 青 年 海 外 協 力 隊 も JICA の 事 業 で あ る が 、90 年 代 半 ば ま で は 移 住 事 業 部 が
存在していた。現在、移住事業部は廃止され日系人への支援は縮小されたものの、日系社
会シニアボランティアや日系社会青年ボランティア制度による日本からの人材派遣制度や
日系人を日本に招致する研修制度などが継続されている。
5.ブラジルにおける日本語教育の役割と目的
世界における日本語教育における学習目的は多岐に渡っている。日本研究のため、ある
いは中学や高校などの公教育におけ外国語科目、ビジネス目的その他様々であろう。筆者
が旅行で行ったインドネシアのバリ島では義務教育も満足に終了していない地元民が日本
人観光客の増加に伴い日本語学校で日本語を学んでいる。運用能力もかなりのレベルに達
している人が少なくない。
こうした中、ブラジルにおける日本語教育の役割と目的はどういったものであろうか。
実は、この役割と目的があいまいであることがブラジルにおける日本語教育の最大の問題
点ではないかと思われる。確かに、一部の学習者は明確な目的を持っている。それは、大
学における日本学研究者であり、日本への留学希望者などである。しかし、これらのいわ
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ゆる日本語エリートはごくわずかといってもよい。
ネ ウ ス ト プ ニ ー (1982)に よ る と 「 学 習 者 に 直 接 彼 ら の 意 図 に つ い て 聞 く こ と は 、 あ ま り
意 味 が な い 」と し て い る 。「 と い う の は 、人 間 は 自 分 自 身 の 行 動 に つ い て 、は っ き り し た 意
識があるとも限らないし、あったとしても、必ずしもそれを説明する能力を備えているわ
け で も な い 」か ら で あ る 。ま た 、「 な お そ の 上 に 、自 分 の 行 動 を ど の よ う に 合 理 化 す る か と
いうパターンがそれぞれの社会で固定しているので、同じ文化の人間は、同じような説明
を 使 う の が 普 通 で あ る 」と し て い る 。「 た と え ば 、む か し の ヨ ー ロ ッ パ で は 、ラ テ ン 語 や ギ
リ シ ャ 語 の 学 習 は 、『 古 典 文 学 の 原 書 が 読 め る よ う に 』 と い う 合 理 化 が 多 か っ た 」。 実 際 、
日系人に対して質問してみても「日本人だから」とか「日本文化を継承するため」という
答 え が 返 っ て く る こ と が 多 い が 、実 際 に 何 が 日 本 文 化 か と い う と 案 外 難 し い 。ま た 、「 日 本
文化」を学ぶためには必ず日本語を学ぶ必要があるのかという疑問も生じる。
日 系 2 世 の 林 は 、1995 年 に ブ ラ ジ ル で 行 わ れ た 日 本 語 シ ン ポ ジ ウ ム( 日 本 語 普 及 セ ン タ
ー 主 催 )で こ う 発 言 し て い る (シ ン ポ ジ ウ ム 報 告 書 [1996]よ り )。「 も し 、私 が 日 系 人 で は な
く、また、日本も今のような経済状態でなかったら、はたして息子たちを日本語学校に通
わせたでしょうか。よくわかりませんが、日系人だからたぶん日本語の勉強をさせたでし
ょ う 。け れ ど も 、私 が 日 系 人 で な け れ ば 否 定 的 な 答 え で あ る 可 能 性 の 方 が 大 き い で し ょ う 」。
要するに、日系人であるからという部分が親が子供に日本語を学習させる動機であるのは
間違いない。しかし、その目的が問題である。
家 庭 に お い て は 1 世 が 減 少 し つ つ あ る 。 こ れ は 、 新 し い 移 民 の 流 入 が 70 年 代 か ら ほ と
んどないことによる。よって、家庭内でのコミニュケーション言語としての日本語の役割
は著しく低下している。よって、第2言語としての日本語の役割は高くはない。
では、仕事で生かされることはあるのだろうか。確かに、できないよりは出来た方が機
会は広がるだろう。しかし、ブラジルに進出している日本企業や大使館、領事館で求めて
いる日本語能力は片言で話せる程度ではなく文書作成レベルまでのものである。それがで
きないのであればむしろしっかりした英語能力を持った人材を求めている。実際、ブラジ
ルに進出している商社の中には北米や南米諸国との第3国取引を中心にしているところも
あり高い英語能力が求められている。こうした状況を勘案すると就業機会を求めての日本
語学習も現実的な目的とはなりにくい。
ま た 、大 学 入 試 に お い て 、日 本 語 で 受 験 で き る 大 学 は 筆 者 の 知 る と こ ろ 1 校 の み で あ る 。
これまた、積極的な理由になりにくいだろう。
さて、よくブラジルで日本語教育の目的として言われるのは、情操・道徳などの全人的
育成目的である。ブラジルの公教育では音楽や図画工作などの授業がほとんどない。それ
を 日 本 語 学 校 が 補 完 し て い る 面 が あ る の は 事 実 で あ る 。多 く の 学 校 で は 生 徒 に よ る「 作 品 」
の展示がしてあるし、日本人会の行事などで日本語学校の生徒による踊りや劇などが行わ
れることも少なくない。また、日本人会の運動会に子供たちを参加させ集団演技を行わせ
たりラジオ体操をさせることで集団行動の訓練を行うこともある。基本的にブラジルでは
集団行動の機会が少ないので道徳的目的も兼ねているわけである。さらに、学校の掃除を
生徒にさせているところも多い。ブラジルでは普通、学校には掃除専門の職員がいるので
生徒が掃除をすることはない。授業中でも平気でガムを噛んでいるし包み紙も平気で床に
捨てたりする。
こ う し た な か 、自 分 た ち で 掃 除 さ せ る こ と を 日 本 的 美 徳 と 感 じ る 父 兄 が 少 な く な い の だ 。
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こ れ な ど は 、日 本 的 道 徳 観 、日 本 文 化 の 継 承 と 結 び つ け て 考 え ら れ る こ と が 多 い 。こ れ は 、
日系アイデンティティーにも関連する問題である。
しかし、こうしたことを目的とするなら日本語そのものを学ぶ必要があるだろうか。実
際に、筆者の知るある日本人会では日本語教育の継続を断念しつつある。その日本人会の
重鎮によると、これまで日本語学校で教えていたことを男子には野球で、そして女子には
ソフトボールで教育するとのことだ。たしかに、いわゆる日本的道徳観や情操、礼儀正し
さを育成するのに日本語そのものが必須であるという根拠はない。また、そもそも自分た
ちで掃除をすることや、いわゆる礼儀正しさが日本固有の文化なり考え方であるかどうか
は疑わしい。また、日本文化とはラジオ体操や日本の唱歌を歌ったり着物を着てお遊戯を
することなのであろうか。前述したように、伝えるべき日本文化とはいったい何であろう
か。
では、日本文化を異文化として捉えることによる異文化理解としての日本語教育は成り
立 つ で あ ろ う か 。ネ ウ ス ト プ ニ ー (1982)に よ る と 、「 外 国 語 を 勉 強 す る と 、母 国 語 以 外 の コ
ミュニケーション体系の原則を理解するようになり、それをまた逆に母国語のより詳しい
理 解 に 応 用 で き る 。( 中 略 )学 習 者 は 、直 接 に し ろ 、間 接 に し ろ 、他 の 文 化 に 対 し て 寛 容 に
な り 、 そ の 文 化 と 自 分 自 身 の 間 に 積 極 的 な 関 係 を 作 る と い う 訓 練 を 受 け る の で あ る 」。
確かに、魅力的な役割である。実際に、ポルトガル語の本では学べないことを日本語の本
で学んでいるという若い2世も存在する。しかし、そういった学習者は例外である。外国
語として考えた場合なら実用性も付随してくる英語、あるいはスペイン語に軍配があがっ
てしまうだろう。やはり単なる外国語としてではない位置づけを持たせない限り日本語教
育を推し進める積極的な理由とはなりにくい。
ここまでは、日本語教育の役割と目的を学習者とその父兄にとっての役割と目的にそっ
て考察した。しかし、もう一つ忘れてはならない主体は、日本人会である。多くの日本人
会にとって日本語学校は象徴的な存在としての価値のみではなく存在理由にもつながる価
値を持っている。多くの日本人会が赤字を抱えながらも日本語学校を経営している理由は
何であろうか。以下、それを説明したい。
日本人会は設立当初は言葉もうまく伝わらないブラジルで生きていくための互助的組
織であった。しかし、多くの日系人が社会的・経済的基盤をある程度確立した現在、その
存在理由は大きく変容している。互助組織からクラブ的組織への移行期なのである。最近
の日本人会の活動は、カラオケ、ゲートボール、野球、テニスなどのクラブ的活動が主に
なってきている。また、日本人会の専用グラウンドもありテニスコートやプールが併設さ
れていることも少なくない。そういった状況の中、各クラブが独自の活動を行うことで日
本人会としての求心力を失いつつある。また、活動に非日系が加わることも増えて日系人
のみの親睦団体の枠を超えようとしている。そうした日本人会の象徴的存在として日本語
学校がある。確かに、カラオケや野球、ゲートボールも日系人が中心に行なっているのだ
が日本語学校は日本人的アイデンティティーが結実する場所として捉えやすい。日本語学
校があるうちは、1世も自分の中にある日本を否定されないですむ。クラブ的活動のみに
なるのなら「日本人会」の名前は必要ない。
実際、排他的に非日系人を寄せ付けないというのは問題となるだろう。しかし、日本人
会がなくなればそれなりの現実的な問題点も生じる。例えば、いわゆる日本的な文化の維
持を誰が主体になって行なうのか。多くの日本人会では盆踊りを行なっている。これには
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非 日 系 人 も 参 加 す る が 日 本 人 会 が な く な れ ば 誰 が 主 催 者 に な る の か 。ま た 、日 本 人 会 で は 、
法被や太鼓、御神輿などを所持するところもあるが個人所有になれば共有リソースとして
の役割が減じてしまう。
また、日本語学校の役割は日系人が集う場を提供することだ。日本人会の活動にあまり
積極的ではなかった日系人が自分の子供が日本語学校に通学するようになり行事で着物で
も着て踊りを披露するとなると喜んで集まってくる。そこでは、当然、日系人同士の出会
い が あ り 交 流 を 持 つ 機 会 と な る 。つ ま り 、日 系 人 の 結 束 力 を 高 め る 役 割 を 担 っ て い る の だ 。
しかし、これは小規模で日系人がかなり固まっている地域では成り立つが、後述するドウ
ラードス市の市街地になるとほとんどの日系人子弟は日本語学校に通学していないのでこ
の役割は説得力を持たない。
しかしいずれにしても、日本語教育の役割と目的が曖昧であるという感はぬぐえない。
子供たちにしてもなぜ自分が日本語を勉強しているのかが明確にはなっていない。それに
もかかわらず、ひらがな、カタカナ、果ては漢字を覚えなければならず、会話は家庭であ
まり使用しないのでほとんど話せるようにはならない。となると学習の動機付けに乏しく
なるのも当然であろう。さらに、ブラジルにおいては日本に負けないぐらい子供たちは習
い 事 を 多 く し て い る 。例 え ば 、英 語 や ス ペ イ ン 語 、コ ン ピ ュ ー タ ー や 水 泳 な ど の ス ポ ー ツ 、
そしてピアノなどである。こうした忙しい子供たちにとって日本語学校は負担になる。そ
れが学習者の減少にもつながっているといえる。こうした中、ブラジルにおける日本語教
育はその積極的な目的を提示できないでいる。
6.日本語教育の問題点
日本語教育の最大の問題点は、その目的の曖昧さであるように思う。しかし、他にもい
ろいろな問題点を抱えている。
ま ず 、 日 本 語 教 師 の 待 遇 の 低 さ が 挙 げ ら れ る 。 宮 尾 (1998)に よ る と 月 給 500 ド ル 以 下 が
50% を 占 め て い る 。も ち ろ ん 、日 本 と ブ ラ ジ ル と で は 給 与 水 準 が 異 な る の で 単 純 な 比 較 は
出来ない。しかし、物価は日本に比べて生活必需品は安いものの嗜好品や耐久消費財はむ
しろ日本よりも高いぐらいである。ブラジルでは職種によってまったく給与が異なるが一
応 、最 低 給 料 が 定 め ら れ て い る 。最 低 給 料 は 、約 100 ド ル だ が 実 際 に こ れ で 一 家 が 生 活 し
ていくのは極めて難しい。
さて、ブラジルでは一般的に教師の給与水準は低く、生活は楽ではない。日本語教師の
待遇もかなり厳しいといえる。そもそも日本語教育の歴史は無償に近いボランティア教師
によって始まった。教師自ら開拓者であったので教師として費やす時間を補うために給料
以外に、父兄の労力提供が行われることもあった。そして、戦後の日本語教育を支えてき
たのは、いわゆる専業主婦であった。生活には困らない程度に収入がある家庭の主婦が請
われる形で教師を務めた。授業料も無料の学校が多く、必然的に給与も無償、あるいは非
常に低くお礼程度であった。サンパウロ市内の私塾ではともかく、地方都市の日本人会の
日本語学校ではこの傾向は現在に引き継がれている。
よって、後継者が育っていかないのが現状である。日本語学校で優秀な生徒が自分の一
生の仕事として日本語教師を選択する環境にない。ということもあり若手の教師のほとん
どが女性である。そして、ようやく教師として成長した頃に結婚で他の町に移り住んでし
まい後継者を失うというのが典型的なパターンである。また、移り住んだ町で教える機会
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があるとも限らない。教師の待遇改善のためには単純に考えれば授業料の値上げが考えら
れるがなかなか父兄の理解は得られない。日本語教育に高い金を払うという発想ができな
いのである。実際、授業料の値上げで学校から離れていく生徒も少なくない。
このような状況では、なかなかプロ意識を持った日本語教師は誕生しにくい。そうした
こともあり日本語教師の中には専門性に欠ける者も少なくない。教師の多くは言語教育を
体系だって学んだことがない。もちろん、長年、献身的な態度で教師を務めていることは
敬服に値するし、経験から学んだ知識も軽視はできない。しかし、前述したように1世の
教師であれば、国語としてではなく、外国語としての日本語を教えるための新たな知識が
必 要 で あ る 。 と こ ろ が 、 な か な か 体 系 だ っ た 研 修 の 機 会 は な い 。 JICA は 年 に 2 回 、 国 際
交流基金は年に1回の研修をサンパウロを中心にして行っているが家庭の諸事情もあり参
加ができない教師が多い。また、日系社会シニアボランティアが各地に派遣され地元の日
本語教師の指導に当たっている。しかし、シニアボラアンティア自体がブラジルの日本語
教育に馴れるまでに時間がかかることや各日本語学校ごとのニーズが異なることもありな
かなか体系的な指導は難しい。
以上、教師確保・教師養成上の問題点を挙げた。しかし、まだまだ多くの問題点が残さ
れている。その一つは複式学級の問題だ。生徒のレベル、年齢はまちまちであることが多
い。それにもかかわらず一人の教師が多くの生徒を同時に一つの教室で教えているケース
が あ る 。 生 徒 が 50~ 60 人 ほ ど の 学 校 に 教 師 一 人 と い う 例 も 耳 に し た こ と が あ る 。 そ う い
った環境ではどうしても読み書き中心の教育になってしまいがちである。古典的パターン
では国語の教科書をとにかく丸写しにする方法がとられる。さすがにこのやり方で運営さ
れている学校は、現在ほとんどない。しかし、生徒の大半が日本語を話せない現状では会
話能力の学習が重視されるべきであるのに難しいのが実情だ。よって、5年、6年日本語
学校に通ってもほとんど日本語が話せない生徒も少なくなくむしろ多数を占めるといって
よい。
次の問題点は教材の不足である。長年、国語の教科書を使用した教育が行われてきたが
現在求められているのは、学習者の年齢にあった外国語としての日本語の教科書である。
日本国内でも低年齢の日本語学習者のための教材は多くない。かといって成人向けの教科
書では語彙や話題が年齢的に適切ではない。そこで、前述したように日本語普及センター
が日本語教科書の開発をすすめている。毎年1冊ほどのペースで刊行されているが、現在
出版されているのは、一般の日本語教育でいうところの初級後半レベルである。つまり、
初級レベルの実力をすでに持っている生徒に対する適当な教材が不足している。
以上、一般的な問題点を概観したがもちろんそれぞれの学校によってその問題点は異な
っ て く る 。 そ こ で 、 以 下 で は 筆 者 が 、 94 年 3 月 か ら 97 年 3 月 ま で の 3 年 間 JICA の 日 系
社 会 青 年 ボ ラ ン テ ィ ア と し て 日 本 語 教 師 を 務 め た ド ラ ー ド ス 日 本 語 学 校 モ デ ル 校 (以 下 、モ
デ ル 校 と す る )の 現 状 に 関 し て 報 告 し た い と 思 う 。
7.モデル校における日本語教育
モ デ ル 校 は 南 マ ッ ト ・ グ ロ ッ ソ 州 ( Mato Grosso do Sul) ド ラ ー ド ス 市 (Dourados)の 中
心 に あ る 。 ド ラ ー ド ス 市 は 、 サ ン パ ウ ロ か ら 内 陸 に 向 か っ て 約 1,100 キ ロ 離 れ た 大 豆 ・ と
う も ろ こ し ・ 牧 畜 を 中 心 と し た 農 牧 業 を 主 要 産 業 と す る 地 方 都 市 で あ る 。 人 口 は 、 約 16
万 人 で 州 2 番 目 と な っ て お り 、 日 系 人 は 約 800 世 帯 居 住 し て い る 。
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モ デ ル 校 は 、 JICA の 助 成 を 受 け 地 元 の 3 つ の 日 本 人 会 に よ る 日 本 語 学 校 を 一 本 化 す る
と い う 条 件 で 1989 年 に 設 立 さ れ た 。 経 営 母 体 は 、 南 マ ッ ト ・ グ ロ ッ ソ 州 の 南 部 の 各 日 本
人 会 の 親 睦 と 交 流 を 目 的 に 1964 年 に 設 立 さ れ た 南 マ ッ ト ・ グ ロ ッ ソ 州 日 伯 文 化 連 合 会 と
なっている。直接の経営は、地元の日本人会で中心的役割を担っている人々から構成され
る運営委員会が行っている。
98 年 の 生 徒 数 は 、約 80 名 で う ち 成 人 は 約 10 名 で 日 系 人 が 中 心 で あ る 。教 師 は 、7 名 全
員 が 女 性 で う ち 1 世 が 3 名 、 3 世 が 1 名 、 4 世 が 2 名 、 さ ら に 、 筆 者 の 後 任 に な る JICA
派遣教師が1名いる。
クラス編成は、幼稚部、レベル別クラス、夜間成人クラスの3つに大別できる。レベル
別 ク ラ ス は 、97 年 ま で 国 語 ク ラ ス と 会 話 ク ラ ス に 分 か れ て い た 。国 語 の 教 科 書 を 主 教 材 と
す る 国 語 ク ラ ス は 、家 庭 に 日 本 語 が 残 り あ る 程 度 日 本 語 を 自 然 習 得 し て い る 生 徒 が 対 象 で 、
日本語普及センターの教科書を使用する会話クラスはほとんど日本語環境にない生徒が対
象であった。しかし、生徒の日本語能力の低下に伴い国語クラスを継続するのが困難にな
ったため一本化された。国語クラスであった生徒に対してはレベルに合わせて教師がいろ
いろな教材を組み合わせた指導をしている。
授 業 は 、 幼 稚 部 が 月 曜 日 か ら 金 曜 日 ま で の 8 時 か ら 11 時 ま で と な っ て い る 。 日 本 語 の
他 に も ア ル フ ァ ベ ッ ト を 指 導 し て い る 。 そ う い っ た こ と も あ り 95 年 に は 非 日 系 の 生 徒 も
か な り の 割 合 を 示 し 生 徒 数 も 20 名 前 後 い た が 、 98 年 に は 10 名 前 後 に 減 少 し て い る 。 減
少の原因は他の幼稚園でモデル校よりも授業料を安くしたところが現れたという話も聞く
が は っ き り し な い 。 レ ベ ル 別 ク ラ ス は 、 週 に 4 日 で 50 分 を 2 コ マ の 授 業 で あ る 。 内 、 1
日は歌や図工、習字、ダンスなどのいわゆる情操教育に当てられている。夜間成人クラス
では週に2日、初級レベルの指導をしている。この他に、児童対象の土曜日だけのクラス
も開講されているようである。
授 業 料 は 、だ い た い 月 額 40 ド ル で あ る 。宮 尾 (1998)に よ る と ブ ラ ジ ル 全 体 で は 35 ド ル
以 下 の 学 校 が 60% を 占 め て い る 。 教 師 の 給 料 は 97 年 ま で 月 給 制 で あ っ た が 98 年 か ら 時
間給制になった。この変化によって、ベテラン教師の中には大幅に給与が減少したものも
い る よ う だ 。 し か し 、 月 に 約 1000 ド ル の 赤 字 が 続 い て い る と い う 状 況 で は 、 時 間 数 に 応
じて給与を増減するという合理化はやむを得ない。
さて、この学校では他の日本語学校同様に行事が非常に多い。このあたりが、英語塾と
の差であろう。始業式、終業式、卒業式に始まり、子供の日、母の日、日本人会の運動会
へ の 参 加 、絵 画 教 室 、習 字 や 絵 画 な ど の 各 種 コ ン ク ー ル へ の 参 加 、お 話 発 表 会 (い わ ゆ る ス
ピ ー チ コ ン テ ス ト に 似 て い る )、そ し て ブ ラ ジ ル の 各 種 お 祭 り な ど の 多 岐 に 渡 っ て い る 。こ
ういった行事ではだいたい生徒による歌、ダンスや踊りなどが披露される。その際、女子
生徒が着物を着る機会もあり、これだけで十分に子供をモデル校に通わせていることに満
足している父兄もいるようだ。また、絵画のコンクールなどは、日本語能力とは無関係故
に、日本語能力が低い生徒にとっては入賞することで自分自身に自信をつける良い機会に
な っ て い る よ う だ 。実 際 、98 年 に は 非 日 系 の 生 徒 が 日 本 の 団 体 の 主 催 す る 世 界 中 の 子 供 た
ちを対象にした絵画コンクールで入賞した。これは、地元の新聞でも写真入りで掲載され
本人にとっては大きな自信になったようだ。これは、日本語学校が担っている役割の多様
性を示す一例といえよう。単に語学学校として日本語学校を捉えるなら英語学校と比較し
てその実用性の乏しさから存在理由が薄くなっていくだろう。しかし、この絵画コンクー
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ルのように付加価値を見いだせれば、十分に日本語学校は生き残っていけるのではないだ
ろうか。
この学校では、いわゆる日本的なしつけも教育されている。まず、掃除は生徒が行う。
前述したように通常、ブラジルでは清掃は専門の職員が行う。しかし、モデル校では自分
たちで使用した学校は自分たちで清掃するという方針を貫いている。これに関して、父兄
からの反発はないし、生徒も日本語学校の規則ということでこれに従っている。しかし、
あ る 学 校 で は 生 徒 に 掃 除 を さ せ よ う と し た と こ ろ 父 兄 か ら 反 発 が 出 た と 聞 い た 。も っ と も 、
大多数の日本語学校では生徒が掃除をしているようだ。モデル校では、学校内での水以外
の飲食が禁止されている。もっとも、教員は職員室でおやつを食べたりコーヒーを飲んだ
りしている。前述したようにブラジルでは、授業中にガムを噛むぐらいは当然となってい
る。また、授業中に教師に無断で水を飲みに行ったりするのも珍しくはない。モデル校で
は生理的な理由で水を飲むことを禁止はしないが必ず教師の許可を取らなくてはならない。
また、服装に関しても「子供らしい服装」という規定がある。実際は明確な基準があるわ
けではなく1世の校長が判断している。ブラジルでは女性のへそ出しファッションはまっ
たく普通であるがモデル校では原則禁止である。このあたりになると掃除を生徒自身で行
うというレベルとは異なるレベルであるような印象がある。しかし、非日系の生徒にはよ
く伝わらないようで、自由なファッションで登校するが校長も非日系に関しては、注意を
す る こ と は な い よ う だ 。要 す る に 、日 系 人 に 対 す る 一 種 の 日 本 人 的 教 育 の 一 環 な の だ ろ う 。
さて、次にモデル校が抱える課題・問題点を論じたい。まず、何よりも問題なのは赤字
経 営 で あ る 。 前 述 し た よ う に 月 に 約 1000 ド ル の 赤 字 を 抱 え て い る 。 市 か ら の 助 成 も あ る
がそれだけではとてもまかなえない。その赤字を埋めるために以前は、大農場主からの寄
付 を 仰 い で い た 。 し か し 、 運 営 委 員 会 の 中 心 が 95 年 あ た り を 境 に 1 世 か ら 2 世 ・ 3 世 に
移 る に し た が っ て 、ビ ン ゴ を し た り プ ロ モ ソ ン と 呼 ば れ る す き 焼 き 会 や シ ュ ハ ス コ (バ ー ベ
キ ュ ー )な ど を 開 催 し そ の 純 益 を 運 営 資 金 に ま わ す よ う に な っ て い る 。授 業 料 の 値 上 げ も 常
に懸案事項になるが急速な値上げは生徒離れにつながるので実施できない。となると、教
師 や 職 員 の リ ス ト ラ が 問 題 に な る 。し か し 、職 員 は も と も と ぎ り ぎ り の 人 数 し か い な い し 、
教師のリストラは人間関係を考えると難しい。第一、教師のリストラは授業編成にも重大
な影響を与える。
次 の 問 題 点 は 、 教 師 後 継 者 の 不 足 で あ る 。 教 師 の 年 齢 構 成 は 60 代 が 2 名 で 、 40 代 前 半
と 30 代 半 ば が 1 名 ず つ 、 そ し て 20 代 が 3 名 (う ち 1 名 は 日 本 か ら の 派 遣 教 師 )と な っ て い
る 。 60 代 の 2 名 が 退 職 し た 後 、 誰 が 学 校 を 担 っ て い く の か の 展 望 が 拓 け な い 。 40 代 前 半
の教師が有力視されているが配偶者の仕事の都合によってはドラードスを離れる可能性が
大 き い 。ま た 、30 代 の 教 師 は 家 庭 を 優 先 し 、会 議 な ど に は 原 則 的 に 出 席 し な い と い う 条 件
で 教 師 を し て い る 。ま た 、20 代 の 2 名 は 未 婚 で 結 婚 し た 後 、他 の 町 に 移 り 住 む 可 能 性 が あ
る。こういった状況はブラジルの他の学校でも大体同じである。ブラジルでは年配の1世
の教師と若い2世以降の教師がいて中堅層が不在というのが典型パターンである。それを
考えるとモデル校では、中堅教師がいるだけ状況は良い方であろう。しかし、フルタイム
で 働 い て も 現 状 で は せ い ぜ い 700 ド ル し か 月 収 は 見 込 め な い 。こ の 収 入 で 一 家 を 支 え る の
は非常に困難である。となると長い目でモデル校を支えていく人材を確保するのはかなり
困難になる。
さらに問題になるのは学校の基本的方針の曖昧さである。教育の目的をどこにおくのか
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は必ずしも明確ではない。一種の日本人教育的な色彩は親の世代が2世・3世が中心にな
りつつある現在、かなりの無理がある。かといって、完全に外国語学校としてしまうと英
語やスペイン語と異なり実用的な価値に乏しい日本語にそれほどの魅力はないのではない
だろうか。
本授業のテーマにひきつけて国際英語ならぬ国際日本語として日本語を日本文化や日本
的価値観と切り離して設定するとする。筆者には現在のブラジルにおける日本語教育にお
いて国際日本語が受け入れられる可能性は少ないように思う。単なる伝達手段であれば、
はるかに英語やスペイン語の方が魅力があろう。しかし、強いて挙げれば日本での就労希
望者のための日本語教育であれば国際日本語の概念も有効性を帯びてくるであろう。実際
に、筆者は任期中に日本での就労希望者をターゲットにした1ヶ月の短期集中夜間成人ク
ラスにて教えた経験がある。ところが、このクラスでは実際のところ日本語はもちろん教
えたが日本とブラジルの習慣の違いからくる注意点などをかなり授業におりこんだ。とい
う の も 実 際 に 10 回 ほ ど の 授 業 で そ れ ほ ど 簡 単 に 話 せ る よ う に な る は ず も な い か ら だ 。
よって、日本語教育という文脈では国際日本語の概念はあまり有効ではないかもしれな
い。しかし、実際にブラジルで話されている日本語のブラジル変種の正当性を主張する上
では有効な概念であろう。日系人の多くは「現役日本人」である筆者と日本語で話す際、
プレッシャーを感じることがあるようだ。それは、自分の話す日本語がかなり「崩れた」
日本語であるとの意識を持っているからである。実際のところ、ポルトガル語からの借用
が多いので知らない単語を使用されると理解できないことがあるし、語の簡略化や日本の
特定地域の変種の一部分やポルトガル語に干渉を受けた表現が突然登場することも多い。
しかし、それで意志が疎通できないことはほとんどない。語の借用で理解できなければ質
問すれば簡単に理解できる。要するに、日本のいわゆる共通語と言われている変種とブラ
ジ ル で 使 用 さ れ て い る 変 種 の 間 に 優 劣 の 差 は 存 在 し な い の で あ る 。「 自 分 の 話 す 日 本 語 は
滅茶苦茶だから話すのは恥ずかしい」と考えている2世は少なくない。彼らの多くは、子
供の頃に家庭で自然習得した日本語を成人して以来、ほとんど使用していない。こういっ
た層の日系人が自信を持って日本語を使用するようになれば、ブラジル変種の日本語が後
世に少しずつ継承されていくのではないだろうか。やや本題からはずれたが国際日本語の
概念をブラジルというフィールドで考察してみた。
8.まとめ
以上、ブラジルにおける日本語教育を一般的側面と具体的な学校を取り上げ考察した。
ブラジルにおける日本語教育は日系人中心でしかも小中学校年代の学習者が中心であるこ
とを明らかにした。
日 本 に お い て ブ ラ ジ ル に 日 系 人 が 100 万 人 以 上 も 存 在 す る こ と を 知 る 人 は 少 な い で あ ろ
う。ましてや、その日系人における日本語の運用状況や日本語教育の実情に関する情報は
皆無に等しい。そこで、ブラジルの日系人や日本語に関する情報を持つ人間として今後と
もそうした情報を発信していきたい。それは、国策移民としてブラジルに渡った1世の苦
労を風化させない試みでもあるし、最も国際化された「日本人」である日系人の姿を日本
に伝えることで国際化に関する議論に一石を投じる試みでもある。やや、感傷的ではある
がそれが筆者の研究の大きな動機付けになっていることを告白しつつターム・ペーパーの
終わりとしたい。
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参考文献
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