地元の魅力 飯能市原市場東地区関連の地名について

地元の魅力
飯能市原市場東地区関連の地名について
里を代表するのは、原、平タイラ(平ヒラではない)、野ということになるが、川がないと一般
には里とならない。広大な原が工業団地となるのは近年のことで、以前は荒蕪地だった場
合が多い。
飯能市の場合は中世的な中山町が江戸中期に町から村となり、平担地と入間川を抱え、
水田にも近い飯能村が町と呼ばれることになる。
旧飯能(飯能、久下分、眞能寺)時代は川と畑と町並で構成され、里の一典形といえよう。
主道である高麗川沿いの秩父道、入間川沿いの名栗道、川越や江戸に通ずる川沿いの平
担地は里、あえていえば山里である。山方の生活と違い交通の便や商工業が生活の主流
となり、日常生活の場は狭くて済む半農半商の家が多かった。
そこで先にいった原が地名に多くなる。山方では原と呼ぶ地名はごく少なく、平(タイラ、
ダイラ、テエラ、デエラ)といっても山の頂へんの狭い場所でここが畑作されていたが、一
般には平(ビラ)といわれる傾斜地であった。里方になると平タイラや平ヒラと呼ぶ場所は殆
んどなく原とか野が大半を占める。小高いところは丘とか台と言われた。
ところで原と野のちがいは、実は難かしい。古くから混同されていたようだが、飯能市の
野の地名をみると、旧飯能に上野、近辺をみると高野、円野ツブラノ、芦苅場に後野ウシロノ、表
野ハジカノ、立野タテノ(台地、小丘陵、古くは入会山)、少し山地に入って間野、間狩野、春日野、
端鹿野、吾野、などの「野」があり、ほとんどが小高い場所である。
次に原をみると、旧飯能近辺は、その多くが平坦地の畑。西はおよそ原市場へんまで原
地名の条件は同じようだが、それからさき原は極めて少なく、平タイラなどと呼ばれ、面積も
狭くなる。
これらから、およそ原は平担地で野は高い原とうけとれ、台とほとんどかわらない。
参考:山方の地名から原の例をみると、八徳に原と呼ばれる一町歩近い耕作地がある。
なだらかな南むきのごくゆるい平であるが、土地ではハラと言うが、タイラとかヒラとは
呼ばない。原は広いというのも条件になるのだろう:
飯能方面から新河岸へでる道筋で、供養塔の両側面にびっしりと30村ぐらいが刻まれ、
なかに岩澤村、笠縫村、飯能村、前田村、井柳村、などあげられ天明8年(1788) 11月吉日の
日付がある。供養塔そのものも地上1mほどある堂々たるもので、これらの村の寄進で造ら
れた石橋工事はまた容易でなかったろう。川幅10m前後である。
とにかく昔は橋とは冬季だけで、水が増えて流される心配のある夏は水も温むので、橋
を外すところが多く、なかには橋がなく徒渉する場所もあり、渡場ワタラバといったが、その
後立派な橋ができても地名はそのまま残った。また渡船場のこともいったようである。
橋地名が多いのは人が近くに住んでいた場合が多く、橋場、橋本などが見られる。
川は暴れることが少なくなかった。明治43年の洪水は先にもふれたが、飯能河原では何軒
も家が流された。43年に限らず、この辺は洪水のたびに災害をうけ、流路がかわり、地名が
川向こうに移ってしまった場所も何ケ所かある。大きな川でなくとも、水押とか水窪など、
水害をうける地があった。
村は市が立ち、いつか町になるようなことになる。飯能がよい例で、町場、町並と呼ばれ
た。中山には上、中、下町がある。
市場がながいこと続いたと思われるのは原市場だが、虎秀の市場などと共に往時の市
の様子は忘れ去られている。交通の要地は宿といわれ坂石町分の宿、双柳の宿あるいは
中藤の古宿など、これらは名のみ残るにすぎないが、それでも軒並みに往時をしのぶこと
ができる。
水田は坂戸や川越の大水田と規模は違うとはいえ、山からの流れを導き、溜池を作る。
あるいは入間川や成木川に堰を設け、遠い水田に水を注ぎこむなど、高度の土木技術を必
要とした耕作が江戸時代以前からあった。
八郎右衛門分は入間川と成木川から水を引いた大規模な水田であるが、堰は水上運搬
や魚携などと利害関係で争いの基にもなった。落合の白髭神社北にある広い水田の堰の
水門を回絵にあげたが、成木川にある堰の高さは2mもあろうか。その少し上にあるのが八
郎右衛門分に水を引く前ケ貫の堰口である。
堰の地名は各地にあるが、ときには水車を廻す堰で、車と呼ぶ地名や屋号が残っている。
水車のギー、ゴットンとまわる田園風景はエンジンや電気の普及で今は全く見られなくなっ
た。
原市場東
地元の魅力MAP 原市場地区の概要で紹介してありますので参照してください。
原市場は、飯能、第二地区の西、名栗川の谷間にあり、南高麗と背を合わせている。
県道飯能。名栗線を名栗川に沿ってさかのぼり、小瀬戸地区内、新寺を直進すると曲竹、
上・下赤工、原市場、唐竹、赤沢に通じ、右に道をとれば中藤三郷、中沢に至る。
旧原市場村は「名栗谷より捷径も此処に会し、二、三の小漢谷も此処に其の口を開いて
居る」(武蔵野歴史地理》」とから、二、三戸とはいうが市が立ち、原市場という村名になっ
たという。元禄の頃には既に原市場の名が付せられていたというから、おそらく江戸初期
あるいはそれ以前のことであったらしい。それ以前は中藤を含め日影郷と呼んでいたとい
うが、谷のせまいこの一帯を言い得て妙な命名ではある。
幕末、原市場、唐竹、赤沢村は一橋領、曲竹、上・下赤工、中藤三郷は田安領であった。廃藩
置県の洗礼の後、明治4年末には入間県壺麗郡に配され、同7年、曲竹は合併して原市場村
に編入された。同22年8村合併し原市場村となり、昭和18年、入間郡に属するところとなり、
同31年、飯能市と合併し現在に至る。これに伴い、当時まで吾野地区に属していた南地区
の中沢、飛村が、地理的要因のため原市場地区に編入された。
小名:小住、山崎(旧曲竹村)
石倉、原市場、奮生、妻沢、金山、房ヶ谷戸(旧原市場村)。
旧原市場村は明治7年に曲竹村を合併している。
そこで『風土記稿』の小名をはじめ地名の解説も曲竹を別に扱った。
曲竹
入間川に中藤川が合流するところが東はずれで、西は旧原市場村と中藤。南は入間川を
へだてて下赤工と小岩井、北が中藤と小瀬戸になる。
曲竹村は『田園簿』にもある古い村で明治7年合併とはじめに書いたが、その「合併伺書」に
はマガタケと振り仮名し(『郡村誌』はマガリダケである。
「曲竹村絵図J文久元年(鴨下家蔵)をみると、小瀬戸村から曲竹へ渡る道は、いまより北に
あり、それを西南に少しゆくと高札場、3軒ほどの家が並ぶ。『風土記稿』に「高札場は村の
東よりにあり」とあって、いまの子字曲竹へんの事とうけとれる。
曲竹の地名は下赤工竹際の川原から見上ると、蛇行する川が崖の下を曲りくねっている
様がよくわかる。曲岳(嶽)である。竹際(岳際)がまた字名としてピッタリしている。
原市場
東は曲竹、上赤工、西は赤沢、および名栗村、南が唐竹および赤沢、一部は直竹にかかって
いる。北には中藤と南の中沢がある。
原市場は古い村であるが『田園簿』には日影村とあり、そのなかに後の中藤、赤沢、原市
場の3村が含まれていた。この分村は寛文8年の検地が3村に分けて行なわれているから、
その前後と推定される。唐竹合併が明治22年。中沢は昭和31年。
小名原市場は、今も自治会に残って字原郷の周辺を言っており、昔は市がたって賑わい、
村名もここから起ったのはいうまでもない。そして現在も地域における交通や産業の中枢
である。
〈旧曲竹村〉
山崎
旧曲竹村の東端。中藤川が入間川に落合うところで西から延びる山すそ。北川の山崎とよ
く似た地形である。
曲竹
マガリダケ
現在の原市場東自治会曲竹地区
山崎の南、村の地名はここから起る。はじめに述べたように、音はマガタケといったらしい。
古久住コクズミ
小名:小住か。
曲竹の西南。小名小住はここのことであろう:旧家の文書にも古住(明治17年)とあり、明治
15年には古久住としている。年代に前後はあるが、古住は小名小住とみて間違いなかろう。
そうすると小住は地形から「小隅」と翠解できる。入間川が曲竹の手前で深く入りこみ、川
にはさまれた隅がこの地である。俗に砂場といわれている。
庚塚カノエズカ
古久住の北にある山林。「労券各芦への古い道筋で庚申塔があつたJ(『原市場の地名』)。
平久保
久保地もあり、平もある。
柳瀬
ヤナゼ _
古久住の西にあたる入間川ぞい「川瀬にやな(梁)を仕掛けて魚をとる所J(『原市場の地
名』)。
〈旧原市場村〉
山下
東に旧曲竹村。旧原市場村の東端になる。地名は文字の通り。
房ヶ谷戸
ボウガイト
現在の原市場東自治会房ヶ谷戸地区
肥沢の南にある川沿いの谷戸。房は西光寺の房(坊)があったのでいう。棒ヶ谷戸と当字で
書かれることもある。赤沢の金錫寺を中心として房のつく字があるが、これはフサと読ま
れている。西光寺墓地には原市場地区最古の正元2年(1260)以下の大板碑、4基が並んで
建つ。
金山
現在の原市場東自治会金山地区
房ヶ谷戸の西、金山は鉱山の別名であり、また鍛冶屋の神様、金山彦神のことでもある。と
ころで最近この地から、金屎カナクソ(鉱滓)がみつかつたというから鍛冶屋さんが居たに違
いない。金山彦神社はすでにないが、鍛冶師は必ず祭った。すでに書いたと思うが、鍛冶
なくして村の生活は無かった。
参考:聖天渕ショウテンブチ
金山の上流を聖天渕という。大岩が立ちはだかり、ために流路は渕をなし「平水一丈四五
尺、滄浪盤渦す、渕上厳頭に聖天祠あり」(『風土記稿』)。と、現在もその景観が保たれてい
る。
日野沢
金山の西、日野、日名は日向の省略と思われる。日向沢のことであろう。この沢は南を向い
た急な斜面にある。
参照資料:「飯能市史(資料編) 地名・姓氏」 飯能の地名
:飯能なんでも大全集