日本科学教育学会研究会研究報告 Vol. 29 No. 2(2014) アメリカ合衆国における SAT 生物試験のバイオテクノロジー分野の特質 Characteristics of Biotechnology in SAT Biology Exam in the U.S. 伊藤哲章 ITO, Tetsuaki 郡山女子大学 Koriyama Women’s University & College [要約]本研究では、アメリカ合衆国の高校生物教育におけるバイオテクノロジーに関する教 育内容の特質を明らかにすることを目的とした。そこで、顕在的カリキュラムの一つといえる Scholastic Assessment Test (SAT) Biology Examに着目し、バイオテクノロジーに関する内 容について分析検討を行った結果、次の2点がわかった。 バイオテクノロジー分野が全体に占める量は、 Biology E (Ecological) が約4%で、 Biology M (Molecular) では10%である。また、Biology E、Mどちらのバイオテクノロジーの問題も基 本的な知識を問うものであった。 [キーワード]生物教育、バイオテクノロジー教育、SAT生物試験、アメリカ合衆国 1 はじめに 本研究ではアメリカの高校生物におけるバイオテク バイオテクノロジー産業では、特許数、研究者の数、 ノロジー教育のカリキュラムの特質を明らかにするこ 政府投資額等の点でアメリカ合衆国が他の国々を圧倒 とを目的とする。周知のように、アメリカには教育スタ している(菰田,2007)。バイオテクノロジーが今後も重 ンダードはあるが、日本における学習指導要領のような 要な産業であり続けるであろうことを考えれば、このア 拘束力を持つ全国統一の基準は存在しない。教科書検定 メリカの生物教育におけるバイオテクノロジー教育の 制度もなく、教科書を使用する義務もない(熊野, 位置づけを明らかにしその特質を把握することは、日本 2009)。教科書を使用しての授業が一般的ではあるが、 のバイオテクノロジー教育を考える上で参考になると 多くの種類の教科書が存在するので、教科書によって内 思われる。アメリカの高校生物教育では、バイオテクノ 容、難易度、配列等が異なっている。また、公立学校と ロジーを論争の的になっている分野と説明し、バイオテ 私立学校による違いがあることは言うまでもなく、同一 クノロジーの実験をする代わりに倫理に関する学習活 学校内でも習熟度別による授業が行われていることか 動を行うことが多かった。そのような傾向の中で、実験 ら、授業の実践例から教育内容の特質を一般化すること を含めたバイオテクノロジー教材を積極的に生物の授 は難しい。そこで、本稿では顕在的カリキュラムの一つ 業に取り入れることを決定した州もあった(Zellar, である大学入学のための標準テストであるScholastic 1994 )。 1998 年 に 行 わ れ た National Science Assessment Test(以下SATと記す)の Biology Exam Foundationの調査によると、実験を含めたバイオテク を分析対象とする。大学入学試験問題の内容も、生徒の ノロジーの授業は全ての高校で実施されているわけで 当該知識のあり方に強く影響を与えていると考えるか はない(Micklos et al., 1998)が、バイオテクノロジー らである。この分析からアメリカの高校生物教育におけ の社会的恩恵は大衆のバイオテクノロジーの理解にか るバイオテクノロジー教育のカリキュラムの特質の一 かっており、理解が不十分であれば遺伝子検査や遺伝子 端を解明したい。 組換え作物の普及、医療技術等における政府の政策に影 なお、バイオテクノロジーの定義については諸説ある 響を与えると多くの専門家が指摘している(Betsch, が、本研究では生物体の機能を利用した技術全般と定義 1996; Dawson and Cowan, 2003) 。 する。また、遺伝子工学はバイオテクノロジーに含まれ、 ― 111 ― 日本科学教育学会研究会研究報告 Vol. 29 No. 2(2014) 生物の遺伝子に各種の操作を加えてそれを研究し,かつ の2つの分野で出題量が多い。 利用しようとする学問体系と定義する。 2)SAT Biology Exam のバイオテクノロジー分野の問 2 SAT Biology Examの出題範囲とバイオテクノロジー 題 分野の問題 表2は Biology E / M のサンプル問題のトピックを 1)SAT Biology Examの出題範囲 示している。バイオテクノロジーに関するトピックに アメリカ合衆国の大学入試では、通常は標準テストを は下線を示した。 受験しそのスコアの提出が義務づけられている。 College Board が主催するSATとACTが運営する 表2 SAT Sample Questions American College Testingがあるが、本稿ではこれまで 最も多く利用されてきたSATの生物試験の出題内容を 分析する。SATのSubject Test の生物にはBiology E(Ecological) (生態学・進化等)とBiology M(Molecular) (生化学・細胞の構造等) の2種類があり、60分で合計 80題の選択肢問題を解く。60題はBiology EとMの共通 問題で、20題はそれぞれの選択問題である。表1はその 出題範囲で、バイオテクノロジーに関連する箇所が下線 で示されている。 表1 Biology E/M 出題範囲 E Biology E/M 共通問題 1~4 植物細胞のタ イプ 5~6 遺伝 7~10 生物の分類 11~14 タンパク質 合成の問題 15~17 ホルモンの 問題 18 リボソームの役 割 19 遺伝 20 受精卵 21 光合成色素 22 骨格図 23 赤血球の問題 24 ヒトの人口増加 25 食物網 26 窒素固定 27 一遺伝子雑種 28 生態系の維持 29 性染色体 30 菌類の特徴 31 進化論 32 生得的な行動 33 鎌形赤血球貧血 症 34 ヒトの人口増加 35 魚類からの進化 36 酵素の性質 37 性染色体 38 馬の系統図 M 39 ヒト精子のエネルギ ー供給 40 副腎のホルモン 41 DNA の複製 42 生態系における個体 数の維持 43 ヒトデの性質 44 染色体の組換え 45 腎臓の機能 46 生物多様性 47 植物遷移 48 植物繊維 49~51 角化症と皮膚が ん 52~55 植物の極性の実 験 56~60 ウニの卵割の実 験 Biology E 細胞と分子生物学 細胞構造と組織、有糸分裂、光合成、 細胞呼吸、酵素、生合成、生化学 生態学 エネルギーの流れ、栄養循環、個体群、 生物群集、生態系、生物群系、保護生物学、 生物多様性、人類介入の影響 15% 27% 23% 13% 61 小川の生態系 62 生態系における 栄養源 63 原子大気 64 窒素とリンの物 質循環 65 66 67 68 81 リン脂質の構造 82 光合成の明反応 83 酵素反応 84 染色分体の数 85 光合成で発生す る気体 86 アルコール発酵 87 運搬RNAの機能 88 減数分裂と有糸 分裂の違い 89 遺伝子組換えト ウモロコシ 90 光合成の明反応 食物連鎖 河川の浄化能力 適応放散 相利共生 69 種子の分散 70~72 フジツボの生息 環境 73~75 大腸菌のペニシ リンに関する実験 76~80 植物遷移 Biology M 遺伝学 減数分裂、メンデル遺伝学、遺伝の型、 分子遺伝学、個体群の遺伝学 15% 20% 有機生物学 生物(特に植物と動物)の構造・機能・発達、 動物の行動 25% 25% 進化と多様性 生命の起源、進化の形跡、進化の型、 自然淘汰、種形成、有機物の分類・多様性 22% 15% (College Board, 2014) 91 細胞呼吸の産出物 92 遺伝子の変異とアミ ノ酸配列 93 クローン動物の DNA の配列 94~97 水草の光合成の 実験 98~100 タンパク質の 電気泳動実験 (The Official Study Guides for All SAT Subject Tests, 2011) バイオテクノロジーに関係する出題範囲は細胞呼吸 バイオテクノロジー分野に関しては、Biology E / M共 と分子遺伝学の2つであり、教科書の内容とおおむね 通問題、Biology E、Biology Mの全てにおいて基本的な 重なっている。当然のことではあるが、Biology M は 知識が問われている。また、Biology Mでは遺伝子組換 Biology E と比較して「細胞と分子生物学」 「遺伝学」 えトウモロコシやクローン動物のDNAの配列などの遺 ― 112 ― 日本科学教育学会研究会研究報告 Vol. 29 No. 2(2014) 伝子工学に関する問題が中心となっている。バイオテク ノロジーの問題はBiology E / M共通問題にはなく、 Biology Eに3題、Biology Mには8題見られる。全出題 中の割合はBiology Eでは約4%、Biology Mで10%であ る。SATの生物試験問題の難易度は、日本の大学入試試 験センター試験レベルと同等かやや易しいと思われる。 例として、下にBiology Mの問題を4題あげる。なお、 問 93 通常、母親から成長し発達しクローン化された 正常な動物は、どのような配列を受け取るか。 A 母親の DNA の配列の半分 B 父親の RNA の配列の半分 C 母親の RNA の配列の全て D 父親の DNA の配列の全て E 母親の DNA の配列の全て (解答 E 正答率79%) 正答率は、80問中50問を正解した3964人の学生を抽出 3 SATにおけるバイオテクノロジー分野の内容と特質 し、その学生たちの平均正答率を示している。 1)バイオテクノロジー分野の内容 問86 発酵の最終生産物は何か。正しいものをA〜Eか ら1つ選べ。 A B C D E 炭素と酸素 グルコースとアルコール 二酸化炭素と酸素 二酸化炭素とアルコール 酸素と水 (解答 D 正答率65%) 問89 細菌であるBT菌が産出するBtタンパク質によっ て、トウモロコシの害虫は死ぬ。もし、トウモロ コシがBtタンパク質を発現するようにBt遺伝子 をトウモロコシに組み込めば、そのトウモロコシ を食べた害虫はどうなるか。正しいものをA〜E から1つ選べ。 Ⅰ Btトウモロコシを食べた害虫は死ぬ。 Ⅱ Btトウモロコシに感染したBT菌は死ぬ。 Ⅲ トウモロコシの害虫はBt遺伝子を染色体の 中に組み込む。 A B C D E Ⅰだけが正しい Ⅱだけが正しい Ⅲだけが正しい ⅠとⅢが正しい ⅡとⅢが正しい (解答 A 正答率67%) 問92 遺伝子の突然変異の位置と対応するタンパク質 中の変化したアミノ酸の位置に関してどのようなこと が言えるか。 A 関係はない B 逆の位置に関係する C 細菌では関係し、哺乳類では関係しない D 種によって異なる E 同じ位置で関係がある (解答 E 正答率79%) SAT におけるバイオテクノロジー分野の内容にはど のような特徴があるだろうか。SAT Biology E / M の 出題範囲でバイオテクノロジーに関係するのは細胞呼 吸と分子遺伝学の2つであった。SAT Biology E / M のサンプル問題もこれと同様である。 問 86 の発酵に関する問題は、アルコール発酵によっ てエタノールと二酸化炭素が生成されることを知って いれば正答を選ぶことは容易である。問 89 の Bt タン パク質に関する問題は、遺伝子組換え作物の利用に関 する問題である。アメリカは遺伝子組換え作物の栽培 が広く普及しており、農作物輸出大国である。遺伝子 組換え作物の正しい知識は社会からも求められており、 確認をしたい学習内容だろう。問 93 のクローン動物の 問題は、クローン動物の基本的な原理を確認する問題 であり、正答率は高いと思われる。問 98〜100 のタン パク質の電気泳動実験は、生物工学の手法として用い られる電気泳動の特徴に関する問題が出題されている。 タンパク質を3種類の消化酵素で処理し電気泳動を行 った結果が図示されており、実験結果を読み取れるか どうかを確認している。電気泳動に関する基本的な知 識を問う問題である。 これらの問題から、バイオテクノロジーに関する基 礎的な知識が問われていることがわかった。本稿では バイオテクノロジーに関する問題のみを取り上げたが、 SAT Biology Exam で出題されているほとんどの問題 は、生物学の中において基本的な事項とされている内 容である。 2)バイオテクノロジー分野の割合 次にバイオテクノロジー分野が全体に占める量を考 察する。SATではBiology E (Ecological) が約4%で、 ― 113 ― 日本科学教育学会研究会研究報告 Vol. 29 No. 2(2014) Biology M (Molecular) では10%である。Biology M が 述のAP Biology Examも調べる必要がある。今後の課題 10%と高いのは、Biology Mが分子生物学系の問題を多 としたい。 く含む試験だからであろう。いずれによせ、SATにおい てバイオテクノロジーの分野が他の分野と比較して多 いということはなく、表1にあるとおり、細胞と分子生 物学、生態学、遺伝学、有機生物学、進化と多様性の各 分野より出題されている。 4 AP(Advanced Placement) Courseについて アメリカの高校では、習熟度別学習がシステム化され ている。通常の授業が難易度別に分かれているのである。 州によって異なるが、一例として難易度が低い方から Regular Course、Honors Course、Advanced Placement (AP) Courseというように分かれており、 AP Courseでは大学の低学年クラスと同等レベルの内容を 学習する。Courseが終了した後、年に1度、5月に実施 されるAP Examを受験し、1〜5までのスコアで評価 される。4か5のスコアを取得すると該当授業の単位を 与える大学もあるが、有名大学ではAPの高いスコアを 取得している学生がほとんどなので、単位にならないこ とが多い。通常、成績優秀でなければ、または学校が許 可しなければAP Course を選択することはできない (古谷,2006)。 AP ExamはSAT同様、College Boardが統括管理して いる。主要教科ほぼ全てにAP Courseがあり、その数は 30以上にのぼる。それぞれにAP Examがあり、Biology Exam Details and Descriptionが発行されている。難易 度の高い大学に進学する生徒の多くがAP Course の単 引用文献 Betsch, D.F. (1996). Biotechnology Education for Non-scientists in the USA. World Journal of Microbiology and Biotechnology 12, 439-443. College Board. (2014). SAT Subject Test Practice Biology E/M. http://sat.collegeboard.org/practice/sat-subject-testpreparation/biology-em. College Board. (2011). The Official Study Guide for All SAT Subject Tests Second Edition. New York, New York: College Board. Dawson, V. and Cowan, E. (2003). Western Australian School Students’ Understanding of Biotechnology. International Journal of Science Education, 25(1), 57-6 熊野善介(2009)「第 3 期科学技術基本計画のフォロ ーアップ 理数教育部分に係る調査研究」『理数教 科書に関する国際比較調査結果報告』国立教育政策 研究所 古谷美央(2006)「ダラスの公立高校における AP 教 育体験」松田良一編著『世界の科学教育 ― 国際比較 からみた日本の科学教育』明石書店. 143-155. 菰田文男(2007)「バイオテクノロジーと発展途上 国の経済開発」 『立命館国際研究』第 19 巻,第 3 号, 69-95. Micklos, D., Cumella –Korabik, J., Kruper, J., Christensen, M. (1998). Biotechnology labs in America High Schools. DNA Learning Center —Cold Spring Harbor Laboratory, Cold Spring Harbor. Zeller, M. F. (1994). Biotechnology in the High School Biology Curriculum: The Future Is Here!. The American Biology Teacher, 56(8), 460-464. 位を取得し、AP Examを受験していることを考慮する と、SAT Biology ExamばかりではなくAP Biology Examも調べる必要があるだろう。 5 おわりに 本稿で調査したSAT Biology Ecological / Molecular では、バイオテクノロジー分野については基本的な知識 の習得を重視しており、さほど大きな割合を占めていな いことがわかった。 本稿でのSAT Biology Examの問題はサンプル問題 に限られているのでさらに調査が必要であり、また、前 ― 114 ―
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