あ っと いう 間 の 二〇 一〇 年 ﹁ 我愛 長江﹂会 会 長 ︿フ川良 太郎 二〇 一〇 年 、 みなさ ま にと ってど んな 一年 で 暮 れ に寄 せ て 荘 魯迅 秋 の コ ンサ ー ト が 終 わ ったば か り と いう の に、 二0 一〇年 はもう暮 れ に迫 ってきま した。 年 末 の会 報 で、今 年 の活 動 を報告 し、来年 の 我 抱負を語 ろうと考 え て いましたが、そ の旨 を ﹁ 月中 間 に 一番 緊 張感 が は し った尖閣諸 島 を め の教室 など に ついてす でに複 数 のかた から投書 活 動︱︱ コンサ ー ト や慮山 への旅 、 お よび 歴史 編集 部﹂ に伝 え ると、今 年 の主 な 愛 長 江﹂ の ﹁ ぐ るト ラブ ル で心配 さ れた秋 の コンサ ー トは を いただ いて いる ことが判明 しました。 の座 に着 いた 民 主 党 は 一年 半 にも な ら な い い りま し た。昨秋 多数 の支 持 を得 てはじ め て政権 面白 き こと よ せく だ さ い。 高杉 晋 作 の言葉 ﹁ す が、会 員 の皆 様 のアイデ ィアを ど しど しお さ て、来 年 の活 動計 画も いろ いろ思案中 で わたくしが ﹁ よく 一人で来たね﹂と褒めたら、 い つも妹夫 婦 と行動 を とも にす る母 ですが、 の上旬 に 一人 で日本 に来た のです。 日々を送 っております。そんな母がヽ 去 る六月 へ移 住 しま したが、今 や絵 を描 きなが ら平穏 な 後 は、 マカオ に いるわたく し の妹 夫 婦 のと ころ 政治 運動 に苛 まれ た アー テ ィ スト の .人と し て ひたす ら重 苦 し い歳 月 に耐 え て いま した。定年 代 から七〇年 代 の末 にかけ て、 母は さまざ まな 一九 五〇年 拙著 や会 報 など で書 いてき ま した。 母 に関 し て、 わたく しは これま でも折 にふれ 大 切な人 とは、わたくし の母 のこと です。 人 の来 日を つづ ろう と思 い立 った のです。 そ こで方 針転 換 し、わ たく し にと って大切 な チケ ット売 上、 入場 人員 と も昨 年 を L 回リ ス タ ッフ ^同 ほ っと胸を な でお ろ しま し た。 チ ケ ット販売 にご 協 力 いただ いた皆 様、 ほんと ま、 ま った く の死 に体 で見 る影 も あ り ま せ ん。 も無 き世を 面白 く ⋮﹂ ではあ りま せ んが、会 う にあ りが とうござ いま した ! 内 政、外交 ど れを と っても 及第点 を やれ るも の 面白 き こと﹂ のひ の活 動 が少 し でも 皆様 の ﹁ した でし よう か。 国内 外 で いろ いろな ことが あ はあ り ませ ん。 リー マンシ ョ ック 以来 厳 しさ の 来 年 も 日中間 には難 し い問題が も ちあが り 長江会︲ そう ですが、そ のことと荘魯 迅と我 々 ﹁ の敬 愛、友 情 の心 は別 物、 いささ か の揺 らぎ と つになれば、 と考 えます。 ﹁ 長江会﹂ の活動 と いえども こう した状況 と無 もあ りません。新 し い年が荘魯 迅と我 々にと っ 続 く経済 情勢 の中 での この体 た らく、 多 く の人 は、もはや この国 の政治家 に何 の期待も できず 、 関係 ではあ り えま せん。講座 、 ライブ とも昨年 て少 し でも良 い年 になりますようにし 閉塞感 はます ます強ま っています。 と比 べ てやや参加 人数を へらし て います。ただ 、 ﹁あ な た に会 いた く な った し、 た ま には あ の 二人 に自由な時間を つく ってあげ た いわ﹂ と言 われま した。 家 に つく なり、 母 はケ ー スか らおも むろ に軟 らかそうな包 みを出 しました。 ﹁ あなた へのお土 産 よ﹂ わたく し の記憶 は迅速 に時 のレー ルを遡 って ゆきます。 一九 七 一年 の冬 、 ﹁思想 改 造 ﹂ のた め 農 村 で 重 労働 を さ せ られ て いた 母が久 しぶ り に上 海 ヘ 一 戻りました。 そ の時 のこと です。 め った に会 えな い母 の手 か ら、手編 み のセー ターを渡 されま した。 国 はまだ 文革 の最中、 万民が身 にま とう のは 黒か灰色、スタイルはお定まり の ﹁ 人 民服﹂だ け、 そ んな時代 だ った にも かか わ らず 、わ たく しは ヶれ くんとう ・ 祖 母 の薫 陶 で編 み物 の名 人 でも あ った母か ら騰 脂色 でタ ー トルネ ック のセー タ ーをも ら った の です。 あ のセー ター は それ か ら、わ たく しと共 に幾 度 の厳冬 を過ご した こと でし ょうか。 あ のセータ ー は、自由 意 志 を 完全 に抹殺 され 誕生 祝宴 を承 ります ! ﹂ と いう立 て の視線 は ﹁ 綺 麗 に飾 られ た廊 下 を進 みなが ら、 わ たく し 顧 み れ ば ま さ し く そ の頃 か ら、 わ た く し は 母 看 板 に引 かれま した。 そ こには幼 子から白 寿 ま え な か った 十 六 歳 。 の手 編 み のセー タ ー を着 て、禁 じ ら れ たギ タ ー を で の、 さまざ ま な祝宴 のパ ター ンが書 か れ て い した。 くoz[x﹂を見 つけ てプ レゼ ントしま シ ューズ ﹁ し、わた く しが履 き慣 れ た 日本 製 のワー キ ング 生 ケ ーキ ま で いただ きま した。更 に渋 谷 へ移 動 そ れか ら 一緒 に赤 ワイ ンで乾杯 し、食 後 は誕 何 で喜 ん で いる かも わ からな い母 に説 明 した ら、そ の顔 にも幸せそうな笑 みが浮かび ました。 た︱ は っと気が つきました。 。 、 ︱︱今 日は 母さん の喜寿 ではな いか よか っ ます。 、 、 ︱︱還暦 古稀 喜寿 ⋮⋮ 日 本 風 の祝 い言 葉 を た ど って い る う ち に、 爪 弾 き なが ら、 お のれ の道 を歩 み始 め た のです 。 今 でも 旧 友 た ち に会 う と 、 時 々言 わ れ ま す 。 ﹁ 一 朦 脂 色 のタ ー ト ル ネ ック に は 妬 け た な ぁ。 緒 に 淮 海 路 を 歩 く と 、 お ま え は 女 の 子 の注 目 の 的 だ った よ ﹂ 瞬 く 間 に、 風 雨 に ま み れ た 二 十 数 年 の歳 月 が 過 ぎ ま し た 。あ のセ ー タ ー と ま った く 同 じ 物 を 、 母 は ま た 編 ん でく れ た の です 。 ﹁今 の お ま え が そ れ を 着 た って、 十 六 歳 当 時 の効 果 は望 め な いだ ろ う ﹂ と 、 旧 友 た ち に笑 わ れ る か も し れ ま せ ん 。 し か し セ ー タ ー に編 み 込 ま れ た愛 と 、 母 か ら の大 事 な メ ッセ ー ジ を 、 わ た く し は し か と 受 け 取 り 数 日 後 、 母 の誕 生 日 を 迎 え ま し た 。 そ う いう 。 に ついても 一筆触 れた いと思 います 中年 の男 と ころ で、店 頭 の日本人 スタ ッフの働 きぶ り 時 に こそ 焦 って し ま いま す が 、 日本 に 二十 三年 、 性 ですが、商 品を 丁寧 に紹 介 したう え で 膝 を 一足履 かし てく れ ました。 母は思 ついて 一足、 ま した。 あ りが とう、 母さ ん ! い る も の の、 わ た く し は 案 外 、 遊 び の こと を 知 わず 、 ﹁これ こそ、 日本 人 の本当 の姿 な のですね﹂ り ま せ ん。 し か し 母 と 二人だ け で母 の誕生 日を 迎 え る のは め った に な い機 会 で、 わ た く し は ど と感嘆 しました。 こうし て二〇 一〇年 の夏、 わたく し は生 涯初 。 悩 ん だ 末 、 母 を 連 れ て日 黒 の雅 叙 園 へ向 か い う し ても 高 ん で欲 し いと 張 り 切 って いま し た ま し た 。 そ こ で、 お 祝 い の 昼 食 を と ろ う と 思 っ め て、 母 の誕生 日を母 と 二人だ け で過ご しまし た。 母 の感 激 は言 わず もが な、そ れは わたく し た暗 黒 の時代 にど れ ほど のぬくも りを与 え てく 十六歳。 た の です 。 れた こと でし ょうか ? 家 庭 出身 を理由 に虐 げ られ、前途 には何 も 見 に と っ て も 喜 び い っぱ い の、 記 念 す べ き 日 と な った わ け です 。 更 に数 日 後 、 今 度 は わ た く し の月 例 ラ イ ブ を 迎 え る 日 に な り ま し た 。 七 時 間 演 です が 、 サ ウ ンド チ エ ツク のた め に わ た く し は い つも 五 時 前 に 到 着 す る よ う に し て いま す 。 そ の 日 も 、 母 を 連 れ て早 々と ﹄”大 塚 の ﹁ 鹿 鳴 ﹂ に つき ま し た 。 至 近 距 離 で母 に ワ ン ス テ ー ジ を 聴 い ても ら う こと は 、 実 は そ れ も 生 涯 初 め て の こと に な り ま す 。 わ れ なが ら 思 いのほか、緊 張 し ま した 。 △「似ていますか ?」 と皆様に聴いたら、「そつくりです」と誰もがそう答えてくださいました。鹿鳴にて. れ る中 で熱 気 溢 れ る ラ イブ と な った の で す 。 参 幸 いに そ の 日 は 大 人 り と な り 、 皆 様 に 見 守 ら 訳 し て、 この文 の結び とさせ ていただ きます。 変 た る 一行 が 目 に飛び 込 ん でき ま した。 それを ︵ ”すoう0●”К〓 o著 ︶ です。めく ってみると、赫 二〇 一 一年 一月 五 日号か ら年 末 にかけ て、わ 中華 綺聞怪談﹂始 ま る︱ 荘魯 迅 の ﹁ 。 ︱︱心に思 い描 いたも のがすべて理 笑になる 加 者 の中 には 、 九 年 前 にわ た く し が 企 画 し た長 江 下 り の旅 で母 や 妹 夫 婦 と 知 り あ った 方 々 も お ら れ て、 母 と 筆 談 し な が ら 思 い出 話 に花 を 咲 か せ た よ う です 。 あ り が と う 、 皆 様 ! ラ イ プ の 二 日 後 、 母 は マカ オ ヘ帰 り ま し た 。 別 れ 際 に、 わ た く し は 母 か ら 一通 の手 紙 を も ら いま し た 。 私 の胸 は 皆 様 への感 謝 で い っぱ い です 。 ⋮ ⋮ こ へ の篤 い信 頼 と 友 情 を 私 に も 読 み 取 れ ま し た 。 し た。 参 加 さ れ た皆 様 のま なざ し か ら 、 あ な た そ こに ﹁ 綺 間﹂ を つけ た のは、怨 霊 や物 の怪を い話 を 筆 端 よ り吹 き 出 さ な け れば な り ま せ ん。 ﹁ 怪 談 ﹂ と いう 限 り、 まず 身 の毛 が よだ つ怖 怪談﹂を始 めさせ て いただく こと にな りました。 中華 綺 聞 たく しは ﹃日中友 好新 聞﹄ で連載 ﹁ の夏 、 あ な た と 一緒 に 異 国 の 日本 で生 涯 最 も 楽 語 りな が らも時 には官能、 甘美 な変化 物 語を つ ﹁⋮ ⋮ ラ イ ブ の晩 、私 は ほ と んど 眠 れ ま せ ん で し い誕 生 日 を 過 ご し た こと を 、 私 は ヽ 水遠 に 忘 れ 社会 秩序 ﹂ や権力機 構 に づ り、時 には既成 の ﹁ ﹃柳斎 志 異﹄ に至 る ま で、 無 尽 とも いう べき短 か ら、清代 ・蒲 松齢 ︵一六 四〇 ∼ 一七 一五︶ の かんぼ う 捜神記﹄ 日代 ・ 千宝 ︵ ?∼三二六︶ の ﹃ 素 材 は 、工 てゆきた いと考 え て いるから です。 反発 し、 暴 れ る仙 人仙 女 の痛快 伝説 も繰 り出 し る こと が な い で し ょう ⋮ ⋮ 。 ど う か 、 私 の感 謝 と祝 福 を 皆 様 に伝 え てく だ さ い﹂ 長 々 と、 母 と の思 い出 を つづ り ま し た 。 暑 く て長 か った 今 年 の夏 、 わ た く し は め った に でき な い親 孝 行 に 励 み ま し た 。 し か し そ れ 以 上 に、 い よ い よ タ ー ト ル ネ ック の セ ー タ ー を 着 る 楽 しさ に こだ わりた いと意気 込ん でおります。 し なり に噛 み砕 いてアレ ンジ し、 思 う存 分 よむ 編 の宝 庫 か ら精 選 し て参 ります。 そ し てわたく シ ー ズ ン に な り ま し た 。 そ の 効 果 の 如 何 は、 お読 みくだ さ います よう よろ しく お願 い申 し上 母 か ら大 いな る愛 と 力 を 頂 戴 し た の です 。 こ れ か ら の 楽 し み で す 。 と こ ろ で そ れ と 一緒 に、 わ た く し は 母 か ら 一冊 の 本 を も ら い ま し げ ます。 二〇 一〇年十 二月五日 荘魯 迅 ﹁ 我 愛 長 江﹂ の会 員皆 様 も よ か った ら、ぜ ひ た 。 世 界的 に ベ スト セ ラ ー を 記 録 し た ﹃ r R oこ ● 長 江茶 房 は会 員 の皆 さ ま か ら の寄 稿 スペ ー ス です 。 今 号 は、 塁碑座 ﹂、 ﹁コンサ ート ﹂、 ﹁ 旅 ﹂ に参 加 さ れ た感想 や 思 い出 を ご紹介 しま す 。 に入 ってき ま した。 ア ヘン戦争 、 日清 戦争、辛 亥 革命 、抗 回戦 争。中 国 に対 し て無 謀残 虐 な史 実 を、 先生 は 日本 人受 講生 に対 し て実 に配慮 し つ つ、気 を配 りなが ら の講義 が痛 いほど伝 わ っ てきました。 〇九年 は ﹁ さら に掘り下げ よ !﹂ と銘う って、 ﹁中 国 現 代 史 ﹂ 講 座 に入 り ま し た。 私 にと って 我愛長江会 ・荘魯迅友の会 主催 コンサ ー ト の感 想 と 思 い出 荘魯 迅先生 の コンサート に出掛 けま した。 沖 縄 か ら コ ンサ ー ト ヘ⋮ 沖 縄 の琉 歌 も 紹 介 し ま す 新里 恵美 子 朝 鮮 戦 争 、 百花 斉 放 ・百 花 争 鳴、 文 化 大 革 命 。 大草 原 から来 る爽 や かな風 の様 な先 生 のお声 は、 まさ に鬼気 せま る内 容 でした。建 国直後 の この辺 は私 が十 代 二十代 でした。 つね に中 国 で か に越 えた出来事 が 連続 し て いた ことを知 りま す。 でも、中 国内 部 では私 の心配 や 予想 を は る は大切 に しな いと、 こば れ落 ちそ う で、今後 の 手 一杯 に汲 み上げ た渭水 のよう な先生 の優 しさ 沖 縄 の暑苦 し い我 が家 の空気 も消 え去 り、 両 に導 かれ大 パ ノラ マの世界が広がりました。 し た。 私 は ﹁ 対 岸 の火 事 ﹂ を 見 て いた の です。 自分 の課題 とし て少 し でも真似 た いと思 います。 起 こる出来事 に注 意 を 払 って見 てき た つも り で 荘 先 生 の特 別企 画講 座を 一枚 のチ ラ シを見 て 日本 列島 と いうビ ニー ル ハウ ス の中 から、向 こ 私 は、 大会 し てまだ まだ、 月 足らず の未 熟 児 中 国史 の仕 上 げ の仕 上 げ に ︱今 年 の特 別 企 画 通 いは じめ て、 二、〓一 年 かな と思 って いたら、な う岸 では何 が起 こ って いる のか、 かな り暴 風 や 会 員 ですが荘 先生 の中 国漢詩 の旅 がご 縁 とな り 松永 守男 んと八年 間も受講 した ことになりました。 大 火災 が相次 いで いる のかも知 れな い、 と いう ﹃ 我愛長江﹄ の沖縄県民代表 になりました ? あ と 一年 で、小学校 に入学 し た児童 が中学 三 ほど の望遠を し て いた のでした。 と が あ り ま せ ん。 ﹁ 自 分 な り の中 国 史 を ま とめ 思 い続 け て、実 は 一度 も復 習 のま とめを した こ かけ て中 国 の歴史 を自 分 のも のにした いと常 々 ます。 予 習 は無 理だ か ら、 せめ て復 習 に時 間を 唆 に富 んだ 内容 でし た。中 国史 の仕 上げ とも 言 そ れ に引き続 きど う中 国が進 ん で いく のか、 示 の機 構 を 説 く講 座 でし た。 そ し て、 今 の中 国、 政 治、 国家 、行 政、 軍事、 司法検 察 、そ れぞ れ そ し て今 年 二〇 一0年 は、 中華 人 民共 和 国 の かける のは私ば かり ではありません。 業 は後 ま わし で舞 踊 のカ ルチ ャー セ ンター に で 沖縄 は ﹁ 歌 と踊 の島 ﹂ と言 われ るほど たし か に、歌 踊 が盛 ん で愛 好者 の層も 厚く、会 社 の残 年 生 に育 つほど の年 月を かけ て いた ことに なり あげ るんだ ︱﹂ とば か り に気 合 が空 転 したまま えました。 字 数 ︶ が 8音 の フレ ーズ が 三 回、 大 半 は音 数 ︵ 蛇 三線、蛇 の皮 ︶ の歌 詞 琉 歌 とは歌 。三線 ︵ で八年 が過ぎ てしま いま した。 琉歌﹂ らなる四旬 体 の詩形 を と っており これを ﹁ 締 め くく り 6音が 加 わ って八 八 八 六音 か 今 から楽 し みにし て いま す。そ し て今 ま での講 と呼 ん で いる。 来年 はど んな 内 容 の講 座 に 入 って行 く のか、 秋 戦 国史、大唐 王朝史、 そ し て〇 八年 は中 国近 座 の自分なり のまとめも実行 しなければ ⋮ 中 国文 化交 流 史、中 国通 史、 秦漢 三国史、春 現 代史 の年 十 回にわた る中 国史 の仕 上げ の講 座 7オ ヽ すや ヽ ヨ 琉歌 の形式 恩納岳登 てい ︵ 8︶ 恩納女童 め ︵ 8︶ 手振りが美 し い 恩納村 の娘達 の踊り の 再 々舞 台 でも 踊 り ます 。 現 在 は 余 興 と し て リ ク エ ス ト の多 い演 目 で でか ね ! 聞 こ え る ら し い。 ネ ⋮ ⋮良 い詩 な の に ネ 。 な ん カ ヌ、シ ャ マヨー ︵又、は りが 死 んだ ら 神 様 ヨー ︶ ユ ンタ の囃 子 が 、ま た ハア ー リ ヌ、チ ン、ダ ラ、 のよ 。 安 里 屋 、 ユ ンタ は、 日 本 兵 に 大 変 嫌 ら わ れ た いま し た 。 私 が 子供 の頃 、 ヲ バ ー ︵ 祖 母︶ が良 く話 し て 手振り清 らさ ︵ 6︶ 押 し下 い見りば ︵ 8︶ 恩納岳に登 って見下ろせば 恩納村 ︵ 北部地名︶ 注 琉歌 の呼び名 サ ン、バチ、ロク ︵3、8、6︶ 潔 rfありJイん″ 孵創颯∵ヽ ︺ `i ` △マンガをまねて新里さんが描いたイラス トです 平成 二二年 一〇月 二九 日 ︵ 金︶ ﹁ 日暮里サ ニー ホー ル﹂ 主 催 ︿我 愛 長 江 会 ﹀ ︵ 荘 魯 迅友 の会 ︶ 荘魯 迅先生 の コンサートが開催 されました。 荘 先生 から多 くを学ぶ、友 の会 や中国 の漢詩 教室、歴史を学ぶ人たちに囲まれ、大勢 の来場者 で広 い会場は、 ほぼ満員 の盛況 の内 に コンサート が始まりました。 静 まり返 った ホール に大 地 を這 うような低 い 声、 そし て天 に届かんば かり の高 い声、草を な び かせ る風、頬 をなぜ る風、 これ らを感 じさせ る歌声。 効 果音 と共 に、響 くギ ター の音 色、観客 を包 み込 み、魅 了 させ る のは荘 先生 な ら では の人間 性 の豊 かさ、心暖 か い気持 ちが そ のま ま音 にな り、声 とな ってホー ル全体 に響 きわ たり、聴 い て いる人 たち に詩 の情 景が 目 に浮 かび 、あ たか もそ の中 に いるよう に感 じさせ る。 スライ ド方式 の映像 も目を楽 しませ てくれた 素晴 らし い コンサート でした。 これか らも体 の中 か ら出 てく る感性 そ のまま を歌 い続け てほし いです。 作 ら れた 心 は人を飽 きさせ ますが、真 の心は いつま でも体 の中 に残 り続け ると思 います。 先 生 の い つもな がら の迫 力あ るギ ター での歌 声 と とも に、 スク リ ー ンに映 し出 された、中 国 の歴史的詩 人 のト ークを交 えた先生自身 の、新 曲 を含 め て ﹁ 作 詞 ・作 曲﹂ された沢山 の曲 が披 露 され、 しば しば そ の素晴 らしさ に酔 いしれ感 動 しました。 素敵 な 一夜 をありが とうござ いました ︱ 中国の大地を思い、日中友好を願う 平 知世 コンサ ート当 日は、晴 天 になりま した。荘 先 生 は雨男 ではな いかしら?と、心配していました が、雨天ば かり続く中よくぞ晴れ てくれました。 ミ ュージ シ ヤ ン ・吟 遊 詩 人 の荘 魯 迅 さ ん は、 私 の十 四年来 の中 国語 の先生 な のです。 初 め てお見 かけ した ときは、な ん て美 し い声 の人だ ろう と驚 きま した。荘 先生 の歌声 は、中 国 の広 大 な大地 を想像 させ、軽 や か で美 し いの で、 私 は と ても 大 好 き です。 ﹁ 牧 歌 ﹂ ﹁天 の声 ﹂ の歌 が特 に気 に入 って います。荘 先生 の十 二弦 のギ ター の音 も好 き で、映像 も照明も素敵 でし た。 ﹁風講 々﹂ は、 劇 を 観 て いるよ う で感 動 し ました。 これか ら、生 まれ る新 し い曲も楽 しみ にし て います。 荘 先生 の歌 を 口ず さ みなが ら歩く私 の単独中 国旅行 も楽 し いも のです。中 日友好を願 います。 ﹁ 虎 渓 三笑 ﹂ 澤 桂 く、自 ら律 するも のな のだ ろうか。 て行 く と き 談 笑 に夢 中 に な り 明 が 会 し た。 慧 遠 法 師 が 送 っ 家 ・陸 修 静、 詩 人 儒 家 の陶 淵 いた 名 僧 慧 遠 法 師 、 道 教 の大 有 る時、 慮 山 に東 林 寺 を 開 た い、 まず 異宗教 同士 の集 まり であ るから宗派 何故 な ら、 この二人 の清談 内容 を想像 し てみ ば 、石悟もまた大 変な聖人 でなければな らな い。 間 でな いことを 石格 は知 って いて描 いたとすれ ろう か。陸修静 は若 く、そ の時会 える時 代 の人 石格 はど んな意 図 で二人 の笑 う姿描 いた のだ ﹁ 虎 渓 三笑 の図 ﹂ は宋 の石 悟 が 描 き、 蘇拭 が 自 分 で作 った 禁 足 の掟 を 破 っ 教則 を超 えた宗教 学 や宗教哲 学 を語 り ﹁ 昇華 さ 庸 山 の旅 は濃 密 な 旅 だ った て橋 を 渡 って し ま い、 二 人 が 題 をした のだ そ うだ 。 それ には 二人が誰 であ る 大笑 いをしたと いう のだ。 れた 一致点﹂ をみ いだ した ので楽 しく時 を 過ご した のであ ろう。 の でな にを 記 し た ら良 いの か 慧遠 は ﹁ 近 頃 の若 い者 は自 そし て、虎渓 の橋を思わず超 え てしま った。 かを記 し て いな か った ので黄 山 谷 ︵ 黄 庭 堅︶ が 律 心、 向 上 心 が 足 り な い ね。 判らな い。最初 から興味があ っ 不満ば かり言 って いる。 ﹂ など そ こでは宗教戦 争 や民族紛 争 など考 えられな い、異文 化 理解 の哲 理を み つけ た のではな いだ それ に命名 し て以来有 名 な 画題 とな った そう で と会 話 し て いた かも しれ な い。 ろうか。 た ﹁虎 渓 三笑 ﹂ に つ いて述 べ 戒 律 の普 及 に力 を 注 い で、 自 ある。 ら戒 律 を 厳 し く 守 り 三十 年 も そ れ が 受 け 継 が れ て いれ ば 世 界 は平 和 であ り、後世、慮山 の 一面〇〇会 談 や○○会 議 の後 てみた い。 山 を 降 り な か った の に、 こ の 遺 症 に悩まさ れる ことは無 か った のではな いだ 人 の名を 記した。 と いう こと は、それぞ れがど そ の弟 子 であ る黄 山谷 は得意 の知識を生 か し三 石悟 の意 図を 理解 し、 ﹁ 虎渓 三笑 の図﹂ と題 し、 石悟 は理想 を、 得意 な人物 画 で表現 し蘇 拭 は ろうか。 ときば か りは虎 渓 の橋 を渡 り、 戒 律 は 他 者 か ら押 し 付 け ら れ る も の では な よほど楽 しか った のであろう。 かも知 れな い。 自 ら思 わず 戒律 を破 った ので大笑 いにな った の △写真提供 富士原さん んな時 代背 景 や生活 環境 か ら このよ うな ことを 表 現 した のだ ろうか。 時 代 や国境 を 越 えた 日本 でも、多 く 描 かれ て いる画題 の魅力 はど こにあ る のだ ろうか。 ■慧遠 ︵ ωω●年 ∼ 一い0年︶山 西省 の人 慮 山 に住 んだ中 国仏 教 の中 心的 人物 で念 仏 行 一 であ るが ﹁ 般舟 一 一 味 経﹂ に基 づ いた禅 観 の修法 ︲を行 った。 ■陸修静 ︵ 卜oo年∼ 一﹃N年 ︶浙江省 の人 さ まざ まな流 れ のあ った道教 を纏 め上げ る こ と に寄与 した と いわれ るc戒律 と礼 儀 の整備 を 行 った。 ■陶淵明 ︵ ωoい年 ∼ 一い﹃年 ︶江 西省 の人 玄学 ︵ 儒家 ︶ に通 じ ﹁ 古今 隠 逸詩 人 の宗 ﹂ と 評され て いる。 ■石倍 ︵ 不詳 Φoo年 頃︶ 四川省 の人 唯 、 リズ ム に のせ て 澤 澄 子 中 国 で見 る 月 石井 和 子 杜甫 の足跡を辿 る旅﹂ で、 二〇〇九年 四月 の ﹁ 湖 南省 ・洞庭湖 に舟 を浮 か べた とき のこと は忘 れ難 い。 夕暮 れが迫 る に つれ、白 いウ ロ コのよ 慮 山 に て 一人 想 う 雲 海 の上 に立 ち 山 霧 に包 ま れ う な雲が、オ レ ンジ から金色 に変化 し て い った。 は 円 いが 、満 月 にはまだ 早 か った。帰 国後 に暦 そ のと き の月 は左上 が欠 けた形 で、半 輪 よ り のも の のようだ った。 に影 を落 と し浮 かん では消 え てゆく と の表 現そ い浮 かぶ。天地宇 宙す べ て のも のが 昼も夜 も湖 乾坤 日夜浮﹄ が思 甫の ﹁ 登岳 陽楼 ﹂ の中 の句 ﹃ の上 に昇 る月。 そ の光 景 から は、 か の有 名 な杜 海 のような洞庭湖 に沈 ん でゆく太陽 と、 岳 陽楼 峻 険 な 峰 々を 連 ね る 孤 高 の山 仙 人 の往 来 のみ 許 さ る 時 は 雲 の流 れ る如 く 過 ぎ 今 や廠 山 は 人 々 を 優 し く 懐 に抱 く そ の美 景 、 美 観 に人 々 は 喜 び 楽 し く酔 いし れ る 遠 き 日 の牧 歌 の心 を 想 い 五、 を見 ると、 この日は陰 暦 二月十 日、 月齢九 ・ 吾 が 心 は桃 源 郷 に遊 ぶ 事 な味 わ いにな るが、洞庭湖 の眺 め でも重 要 な ﹁ 筆 墨 縦 逸 で規 矩 を 専 ら にせず ﹂ と言 い。 代 表的 な水 墨画家 の 一人。 人物面 で有名 ︵ . あ ヽこ の想 い 誰 に感 謝 す べき や 要 素 と な った。 も しも これが 三 日 月だ った ら、 て未 陽 に向 か い、杜甫終焉 の地を訪 ねた。帰路、 そ の 二日後、湖南 省 の省 都 。長沙 か ら南 下 し 月に で良 か ったなあ と思 った。 十 日 の月﹂だ った。 月 は漢詩 の中 でも大 即ち ﹁ ■蘇拭 ︵︻ oωo年∼ ︻︼ o︻年︶ 四川省 の人 天 を 仰 ぎ 地 に伏 し て神 に謝 し ま た満 月 だ った ら、 ﹁月 は東 に、 日は 西 に﹂ と も 人 々に敬慕 され ている。 政治 家 ・文 学 者 ・書 道家 。 人格 は い つの世 に ま た 多 く の友 に感 謝 言 う情 景 に は な ら な か った であ ろ う。 ﹁十 日 の あ りが と う ! 荘 魯 迅 氏 に衷 心 よ り 深 謝 そ し て、 そ し て ■黄山 谷 ︵︻ oヽい年 ∼ ︻︻ oい年 ︶江 西省 の人 ︶ 蘇拭 に師事 した北朱 の詩 人´ 古 人 の詩 句 を活 用、新 し い自 分 の詩 を つく り だす手法 は世 に知 られ て いる。 を担ぎ な が ら畔 を歩 いて いる。 一日 の仕事を終 え、家 路 に つこうとし て いる のだ ろう か。 そ の 迫 り、 円 さを増 し てき た 月が輝 き始 め る中 、鋤 に田を耕 す人 の姿 があ った。青 い空 に夕暮 れが いこと に目を 見張 り つつ眺 め て いると、 そ の中 んぼ が続 いて いた。大地 の色 が煉 瓦 のよう に赤 バ ス の車 窓 には農 村 風景が広 が り、赤 い上 の田 の姿 はもう かすかなも のにな って いた。 半 あ まり、 や っと太 陽 が姿 を見 せ る頃 には、 月 既 に日 の出 を迎 え て いる様 子。待 つこと 一時 間 だ姿 を 現 さ な いが、 五老嶺 の向 こう側 ではも う ま ってゆく。 日 の出 の時 間 を 過ぎ ても 太陽 はま 嶺 の上 を昇 ってゆき、ま は黒 からピ ンク色 に染 え てゆ く。 月は金 色 か ら白 に変 化 しなが ら 五老 を 失 い、 あん な に輝 いて いたオ リオ ンさ えも消 北省 武 漢 で食 べた南 昌魚、骨 は多 く あ ったが味 に多 いな るサ ービ スを 提供 し てくれ ま した。湖 持 味 を お互 いに発揮 し て いただ き、私達旅 行者 音 は ﹁ソウ﹂と同じ ですが、字が違 っている通り、 先生 と地 元 の名 ガ イ ド ﹁ 宋﹂ さん。 日本 語 の発 し てみました。 が 心 に大 き く印象 付 け られ た場所、光 景を 記述 荘﹂ 今 回 の旅 の説 明を し て いた だ いた のが ﹁ 姿 は、 陶 淵 明 。﹁ 帰 園 田居 其 三﹂ の中 の句 ﹃帯 えられ、 二〇 一0年 九 月 に陶 淵 明を 尋 ね る旅 に 日園 風景を見 た いと思 い始 めた。 願 いは 翌年 叶 そ の光 景を 見 て以来 、陶 淵 明 の故 里 ・慮 山 の れ た月、ど ちらも印 象 深 い。 こうな る と、 四川 浮 かん で いた 月、慮山 のご 来 光を 引き上げ てく 張 り上げ てく れた よう に感 じた。 岳陽楼 の上 に い月が、 五老 嶺 の陰 に隠 れ た大 きな太 陽 を引 っ 出 に気 まま な自由 詩 を作 って夕食 時 に吟 じま し 洲 を心 で見 て下 さ いと の説 明も あ り、私 は思 い 宋 ﹂ さ んが今 は 無 い鶏 鵡 さ ん に聴 き ま し た。 ﹁ 登 った。黄鶴楼 に因んだ説明、詩等 を両 ﹁ソウ﹂ 日本 で有名 な黄 鶴楼 に参 加者 全 員 二十 三名 が が良 か ったなあ ! 参加 し た。江 西省 ・康 山 は山 紫水 明 の地、 そ の 省 で峨 眉山 にか か る半輪 の月を見 られ な か った た。 こ こでも 月は重 要 な演出 を し てく れた。 か細 景色 を堪 能 した。 桃 源郷 の モデ ル と言 われ る農 のが つくづ く残念 であ る。 月荷 鋤帰﹄を絵 に描 いたか のようだ った。 村も 歩 いた。ご来 光 を拝 む ことも できた。 早朝 座が 輝 いて いる。 こんな に鮮 明なオ リオ ンを 見 四時 に起 床、懐中 電灯 を頼 り に山 道 を歩 き、ご 来光 見物 の場所 に向 か った。空 には、オ リオ ン に関 係 し た 地。 慮 山、 虎 渓 三笑、 陶 淵 明故 里、 講 義を さ れま した。 そ の予備 知識 を得 て陶淵 明 陶淵 明﹂ に ついて 夜 の講 座 では、荘 先生 が ﹁ る のは、 何 年 ぶ り、 いや何 卜 年 ぶ りだ ろ う か。 冬 の星座 ・オリ オ ンが、九 月 には未 明 の中 天 に 九 月五日には、慮山東 門 で康山 の雄姿を眺 め、 酔 石︶を訪 ね る時 に参 考 にな りま し 栗 里陶 村 ︵ た。 ﹁ 荘 先 生 と 行 く 漢 詩 の旅 ﹂ 富士 原 幸雄 自 鹿 洞書 院、流 石を 見 て以前、細 川首相 が見 た 浮 かぶ のにも感 動 した。東 の空 には、薄 いほ っ そり と した 月が 昇り始 め て いた。 この日は陰 暦 、 時 の、あ の満 天 の星 6Y流 れ星、あ の日 の出 6︶ 、昼 間見 た庭山 、虹色 の空 6︶ あ の紫色 の雲 3し 朝 四時 に起 床 し て康 山 の日 の出を見 に行 った にたど り着 いた数名。 漱 石﹂ 漱 石﹂を見 に、石を滑りながら ﹁ と言 う ﹁ 今年 は九 月 二日 ︵ 金 ︶陶淵明、 木 ︶∼ 一〇 口 ︵ 数多 く の場 所、名所 旧跡 を 見学 しま したが私 九江、南昌、L海 の中 国旅 に参加 しました。 李 白、 自 居 易、 蘇 拭 の 足跡 を 巡 り つ つ 武 漢、 七 月 二七 日、 月齢 二六 、所 謂 三 日月 の反対 の形 をし て いた。 慮山 ・五老嶺 か ら昇 る太 陽 が見 られ る絶 好 の ポ イ ント に到着 。辺 り はまだ まだ 間 の中 、 五老 嶺 の形が や っと見 え る程 度 だ。 星が次 第 に輝 き 自の ﹁ 望 慮 山 瀑 布 ﹂ の詩 の構 成 を 思 の瀑 布 6﹀のあ の高 低 差 、 ま さ に 李 来な いのではな いだ ろうかと? を 見 て感激 しま した。 も う今 後 見 る こと は出 を 案内 し ても ら い、陶 淵 明 の故 里 ら しき 井 戸 ﹁ あ り が と うご ざ いま し た 。﹂ に感 謝 申 し 上 げ ま す 。 生 初 め 参 加 者 皆 様 方 、 旅 行 企 画 の各 社 の皆 様 方 た 旅 行 であ り 思 い出 深 い中 国 旅 行 で し た 。 荘 先 家 団彙 の ひ と 時 、 振 り 返 って見 る と誠 に充 実 し 楽 し く 過 ご し た こと 、 そ し て荘 先 生 宅 訪 問 し 一 ま た 宴 会 パ ー テ イ で の皆 さ ん の話 や 踊 り 歌 等 てシ ャワー は楽し い思 い出 となりました。 中 国館 の入場 の並 ん だ こと、あ の暑 さ、 そ し へ短 時 間 に諸 国 の会 場、 建 物 を 巡 った こと。 万博 組 とL 海 市内 見学 の選択 コー ス私 は 万博 最終 日 識 させ てくれました。 の変 革 現代 中 国 へ継 が って、歴史 を 新 た に認 革 命 へと継 が り、 四人組 追 放、 都 小 平路 線 へ ハラ ハラし て聴 いて いま した。︶ やが て文化大 で の荘 先生 の熱 弁 ︵こ こで話 し て い いのか と 毛 沢 東 の大 き な 路線 変 更 の舞 台 とな った場所 麿 山会 議 跡 愁 に浸 って いた。 を感 慨深 く 眺 め て いると何 んと も言 えな い郷 閣 詩﹂ の説 明 を聴 きな が ら沿 々と流 れ る長 江 膝王 膝 王閣 に登 って荘 先生 から若 き 王勃 の ﹁ 膝王閣 い出 さ せ てく れ ま し た 。 この① ② ③ ④ ③ を 一気 に詩 に歌 い込 ん だ のか な し て ヘルメ ットを被 って工事現場 生が 、土地 の マネージ ャー と交渉 シ ョンらしき 工事現場 に入り荘先 跡 が あ り、 更 に奥 に行 く と マ ン 陶 淵 明 が渡 った と いう ﹁ 柴 桑橋 ﹂ 栗 里陶 村 た のかなあと感慨 に耽 った。 源記︶ に出 てくるが、 この地だ っ 桃下 の丘 の上 に﹂ と 日く有名な ︵ の地﹂あ るかと、村民答え て ﹁ あ 村人 ︵ 楚 の祖先 女性︶ に問うた ﹁ 先生が ど んど ん奥 に入 って行 く。 楚 の康工が逃れた谷があ った。荘 康 王 谷 ・桃 花 源 疑 是銀 河落 九 天 飛 流 直 下 三千 尺 遥看 瀑 布 掛 前 川 日照 香 燎 生 紫 煙 望 慮 山 瀑 布 李 白 と 思 いま し た 。 △写真提供 富士原さん 荘先 生の 講座 と音楽活動 の こ案 内 ■朝日カルチャーセンター 新宿住友ビル7階 「漢詩を原典で学ぶ」 水曜日 15:30∼ 17:30 ● 1/19 唐・王勃「杜少府の任に蜀州に ゆ 之くを搭ゑ」(五 言律詩 ) 李白「王倫に贈る」 (七 言絶句 唐・元根 「楽天の江州司馬を授けら ) ● 2/2 れ しを聞いて」 (七ん■ゅう 言絶句) 「 に 白楽天 舟中 て元九の詩 を読む」 ,ア ● 3/2 (七 言絶句) 唐・ 形p宗 元「漁翁」 (七 言古詩) 柳宗元 「江雪」 (五 言古絶) ● 3/16 唐 。孟郊 「古別離」 (楽 府) 陸亀蒙 「離別」 (五 言古詩) ● 3/30 唐・ 李商隠 「落花」 (五 言律詩) 杜牧 「花を歎 くJ(七 言絶句) 「申込 。問合せ 朝日カルチャーセンター教養科 TEL 03 3344-1945 ■鹿 鳴 ライ ブ 1/27、 2/24、 3/24 JR山 手線大塚駅南口下車 1分 毎月 第 4木 曜日 会費 3′ 500円 (ワ ンドリンクつき 助口 琲館「鹿鳴J 19:00-21:00 ) [問 合せ」 荘魯迅事務所 TEL&FAX 03‐ 3754-0900 ■『 日中友好新聞』荘魯迅連載 「中華 綺聞怪談 (き ぶんかいだん)J 2011年 1月 から 12月 まで (月 3回 ) [購 読・問合せ] 日本 中国友好協会 本部 Te1 03-3234-4700 Fax:03-3234-4703 事務局 〒 101-0065 東京都千代 田区西神 田 2-41東 方学会 ビル 3階 ] ●総会のお知 らせ● とき :平 成 23年 2月 5日 (金 ) ところ :台 東区民会館 9階 中会議室 午後 2時 ∼ (詳 細は別紙をご覧ください) 「我愛長江」会の事務局か らお願 い 0 訂正とお詫び 会報 第 45号 掲載 4ベ ー ジ 加曽利勇典さん の記 事に誤 りが有 り 1春 ました。 タイ トル 風秋月 lFIに 好 しJに 訂正いた します。 r2 会員の募集に ついて 会費の収 入が頼みの長江会ですが、この ところ、減 少か懸念され ます。 秋 の コ ンサー トでお呼びかけ したところ 3人 の /」 が人会 され ました。 会員の皆様か らご友人の方に、入会を是非お勧め ドさい。 O 実行委員の募集 コンサ ー ト・ 歴史講座・ 鹿鳴 ライブ等でお手伝い して ドさる 方を募 集 しています。1回 のみでも結構ですのでお気軽にお申し出ください。 ■ 会 費振 込 先 会費 :一 般会員 3′ 000円 /賛 助会員 10′ 000円 【 郵便振替】 00140-1-663853「 我愛長江」会 【 銀行日座】 三菱東京 UFJ銀 行市ヶ谷支店 普通 1129557 コ ン サ の 悪 れ 窃場で チ ョ コ レー ト色 の ツ バ 付 き帽 子を 荘 魯 迅 事 務所 に て保 管 して い ます。 心 あた りの方 は ご連絡下 さい。 ※どちらか選択して下さい。│■ 我愛長江会伴野芳浩 (ト モノヨシヒロ) 会報 第 46号 2010年 12月 20日 「我愛 長江 J会 /荘 魯迅友 の会 編集「我愛長江J会 /荘 魯迅友の会 広報部 発行 1我 愛長江 1会 /荘 魯迅友の会 友の会の連絡 II務 局 (臨 時)当 分の間は 2カ 所で行います。 ① 〒 140く )004 品川区南品川 51614802(小 岩宅)TRLと FAX共 0334721745(夜 間の 19時 ∼ 22時 まで) ■1と FAX共 0337540900 ② 〒 146‐ 0085 大Hl区 久が原 21‐ 2(角 田宅) 1‐ 10
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