「学校だより」 第6号 平成23年6月15日 高崎市立西部小学校 掲額式 6月3日(金)に、平成23年度の掲額 式がPTAによって執り行われました。午 後6時から校長室に大勢の保護者・職員が 集まり、井田なつみ前校長先生(第14代校 長)と大塚篤前PTA会長(第20代会長) の額が掲げられました。井田前校長は西部 小校長をもって37年間の教職生活に区切り を付けられ、ご家庭でこれまで整理できずにきた荷物の片付けをされているとのことです。ま た、大塚前会長は会長職を退かれましたが、これからもPTA会員として引き続きお世話にな ります。 育成会の球技大会 6月5日(日)には、雨で1週間延期になった育成会主催の地区対抗球技大会が行われ ました。早朝から育成会の皆さんが集まって準備し、大勢の地区の皆さん方が激励に来て くださいました。ソフトボール、ポートボール、円形ドッジボールの熱戦が繰り広げられ、 児童は各地区の子ども会の代表として、持てる力を振り絞って戦いました。 優勝した桃ケ丘・若田(ソフトボール)、桃ケ丘(ポートボール)の両チームは、8月 20日の市の大会に校区を代表して出場することになります。活躍を期待しています。円 形ドッチボールは下大島Aが優勝しました。 第1回学校評議員会 6月7日(火)に校長室で今年度の第1回学校評議員会を開催し、委嘱状の交付や西部小の 教育についての意見交換等を行いました。学校評議員会は地域住民・保護者及び有識者等から 広く意見を求め、地域社会に開かれた魅力ある学校づくりを推進するために各学校に設置され ています。今年度は区長会や民生児童委員、PTA、育成会などの代表10名の方にお願いし て進めております。 若田の郷を歩く ⑤ 観音塚古墳の本当のすごさがわかったのは、太平洋戦争末期の昭和20年3月のことでした。 古墳の墳丘に共用の防空壕を掘ろうとして、村人の手によって遺骸の埋葬された場所である横 穴式石室が掘り当てられ、大きな石室の空間ときらびやかな副葬品の出現に大いに驚かされた そうです。これらの出土品は、昭和36年になって国から重要文化財の指定を受けたように、 日本の古墳時代を代表する美術工芸品です。 石室からの出土品は、民家に分散されて保管されたようですが、その報告を受けた群馬県庁 では現在のように教育委員会の組織はまだなく、社寺兵事課という課内に置かれた群馬県史蹟 調査会の職員によって調査がなされ、一括して県庁に移送、保管されました。県庁には県内各 地の古墳で出土し、国民学校等に所蔵されていた埴輪や土器の中でも選りすぐりのものが集め られました。ところが、戦況が悪化し、これらの古墳出土品が空襲によって消失する恐れも出 てきたため、一ノ宮の敬神道場(現、富岡市社会教育館)に疎開させて保管したのです。 さらに、終戦直後の昭和20年10月には日本を占領した進駐軍によってこれらの古墳出土 品が接収される(取り上げられる)ことを恐れて、丹生村の岡部榮信氏宅(現、富岡市立岡部 温故館)の土蔵と敬神道場の庭園の防空壕の中、県庁北側の土塁下の防空壕に、それぞれ分散 させて埋めたのでした。観音塚古墳の出土品は岡部氏方に収蔵され、守られたのです。これら の経緯については、県庁に残る昭和20年の行政文書によって知ることができ、この同じ時期 に吉井町の多胡碑も約1年間、地中に埋められて隠されていたのです。 ところで、県庁の行政文書からわかる事実は断片的なもので、観音塚古墳の出土品が実際に いつまで、どのように地元にあって、それがいつ県庁に運ばれたのか明らかではありません。 私は一昨年、これらの出土品と多胡碑の保管・地下埋納についての文書を検討し、現地調査を 行ってレポートをまとめる機 会を得ましたが、観音塚古墳 出土品の詳細な移動について はわかりませんでした。この 当時の事情をご存じの方がい らっしゃいましたら、是非と も教えていただきたいので、 校長にご一報いただけました らありがたいです。(文責: 松田 猛) 観音塚古墳の出土品について書かれた昭和20年の文書(群馬県教育委員会)
© Copyright 2024 ExpyDoc