2007年度 - 青山学院校友会中等部会 緑窓会

青 山学院 中等部緑窓会会報
42007年 (平 成19年 )5月 1日 発 行
学院中,W緑 窓会 発行人 今村和
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第 16号
緑
劉
中 等 部 縁 窓会 会 長 △7 可
一
明 る い新会員 を迎 えられま した ことは言葉 に言 い表 せな いほど
のた めには先ず この緑窓会 の活動 を中 等部 の御理解 を得 て同窓
1
1
の方 々の活発な交流 の機会 を提供 し て いく こと にし てお ります.
ど うか毎年 開催 され る ﹁
緑窓会 の日﹂ の祝祭 には是非多 く の
院 を応援す る校 友 の仲 間 とし て の活動 も展開 し てお ります
り多 く はな い でし ょう。さ ら に育山学院 のスクー ル モ ツト ー
であ る ﹁
地 の塩 世 の光 一 であ る こと の意味 を学び 多 様性 の
あ る世 の中 に出 てそれぞ れ のお考 えを も って生活 を営ん でおら
れ る であ ろう ことを 思 います と これ ら口窓 の方 々が 一同 に会
方 々が渋谷 の母校 に来 てくだ さ い。 そ こで皆様方 とま たお会 い
てき る のを楽 し みにし てお ります。現 役 の生徒 学生 の方 々は
無料 で参 加 できます から お気軽 にお出 でくださ い.
非ご 参 加 くだ さ い.
C Dを 買 う と ジ ャケ ツト に作 山 編 曲 者 とし て名 前 が 出 て い る
人 も 入 っていま す 。 学 ■ に 戻 って皆 で聴 き 歌 いま し ょう . 足
学生 時 代 の音 楽 を 中 心 に懐 か し い メ ンバ ー が演 奏 を披 露 し て
く れ ます これ か らは 見 ら れ な い メ ンバ ー構 成 で行 いま す の
で ぜ ひお集 ま り くだ さ い。 テ レビ に出 て い る人 も います 。
のお 話 を し て いただ き ます . 冊 数 限 定 で山 口弁護 上 の著 書 の
プ レゼ ント も あ り ます 十 八期 に は ミ ュー ジ シ ャンが多 く
にお 願 いしま した . 講 演 は十 八期 の弁 護 士山 田秀 雄 さ ん に次
の世代 への継 承 で大 切 な相 続 と 話 題 にな って い る熟 年 離 婚
実行委員長 小 平 昌 邦
土︶
二〇〇七年 六月 二日 ︵
﹁
私 たち の ﹃
青春﹄謳歌 それが次 の世代 への伝言﹂
私たちが満 足した今 をすご し楽しむ ことを次 の世代 に見 せ
ることが 次 の世代 により良 いも のを伝 える 一番 の方法 であ
ると考 えます.満足し充実 した生活 を送 り それ を次 の世代
に見 せ て あ のよう な生 活 を した いと 思 っても らえ る こと
が 一番 であ ると考え ています.
緑窓会 の日﹂ は出来 るだ け十 八期 で担当しようと
今年 の ﹁
企 画し ています.礼拝 は高等部出身 の横山英実さん に司式 を
お願 いし て 奏楽 は十 八期 の田中 正子さん お話は横山さん
と東京神学大学同期 で 現在 青 山学院宗教部 長 の嶋 田教授
緑窓会 の日﹂
第十 八回 ﹁
す る機会 を常 に得 る努 力を し続 け て いきた いと念 願 せぎ るを得
ま せん.
昨 年度 は中 等部 の六十 日年 を迎 えました .粛 々とした 内容
のあ る行 事 も 取 り行 われ ま した . 卒 業 さ れ て新 た に緑 窓会 の
、
会 員 にな ら れ た方 々は 二百 七■ 三名 お ら れ ます .元 気 の良 い
の構成部会 の 一つとし ての役割 を担 っております .中 等部だ け
ではなく 同じ建 学 の精神 と教育 方針 を理解 し学校 法 人青 山学
。そ
営委 員 及び各期 の幹事 の方 々の御奉仕 を この場 を借 りまし て
深く感謝す るしだ いです 。
│
緑窓会 は青 山学院 校友会 の中等部会 とし て 校友会 全体 の中
り ま す . 会 員 数 も 一万 五十 名 ほど に な
ってお りま す 。
一期 生 か ら 五十 八期 生
青 山 学 院 中 等 部 の卒 業 生 の会 であ り
:こ
の嬉 しさt感 じます そし てこれま で立 派 に教 育さ れ てきた中
等部 の先生 職員 の方 々及び 保護者 の方 々 また 緑窓会 の役割
をよく理解さ れ、 千弁当 に て会 の運営 を担 ってくだ さ る事務 連
と
共
中 等 部 緑 窓 会 ﹂ は 一九 ● 0年
ます ﹁
に創 立 さ れ て以来 今 年 で五 十 七年 に な
卒
業
生
の
皆
様
で七卜 三歳 か ら 十 五歳 の男 女 ほぼ 同 数
覇
の方 々で構成 され ている同窓会 と いうも のは 世界的 にもあ ま
同
第十 八回 ﹁
緑窓会 の日﹂ のプ ログ ラム
卜 〓時 二十 分 ∼十 四時 二十 分 ︵
青 ヤ 請生 ︶
第 十 七 日 緑 窓 会 の日
硬 化 そ し て除 細 動 器 に つい て の講 演 を
と い って と い う 時 に 助 け 舟 を 出 し て
藤 a 一 依 頼 し た 。 し か し これ だ け では 硬 過 ぎ る.
■t﹁ 実■姜員長 ユ^
﹁
下 つ
世
を
同
塊
の
代
の
大
量
退
職
期
迎
え
て
さ
た
の
が
回
塊 卜 四期 の崎 田克 己氏 で
1界 的 に活 躍 され て い る
︱ に 付 く 。同 期 生 の令 域 で1
バ々﹂ な に か と ﹁団 塊 ﹂の文 字 が ︱
よ く も 悪 く も 団 塊 世 代 は そ のせ と 特 性 に チ ェリ ス ト 山 上 ジ ョア ン葉 氏 を ご 紹 介
お い て 一大 勢 力 であ った し 今 又 こ の ド さ り そ の 一切 を 取 り仕 切 ら れ た そ
定 年 期 に も そ の退 職 金 が 日 当 て か 再 れ は 当 日 急 違 の評 面 台 作 製 に ま で 及 ぶ .
び 注 日さ れ て いる
こう し て日塊 のシ ッポ は本体 に助 け られ
司式 横 山 英実 ︵
高 等部 F 八期 ︶
お話 嶋 田 順好 ︵
青 山学 院宗 教 部 長︶
奏 楽 田中 I子 ︵
十 八期 ︶
十 四時 三十 分 ∼︱ 五時 ニト 分 ^
肯 ヤ 講I ︶
我 々十 七 期 は 狭 義 の団 塊 世 代 に は 入 れ て 何 と か そ の 点 ■ を 果 た し た 形 だ 。
ても ら え な い と い って 一
時 代 ﹂ が あ る 開 会 礼 拝 に は 六 期 の 田坂 興 工 氏 の奨 励
点 で単 純 に 区 切 れ る も の でな い こと は 一期 の飯 久 保 広 嗣 氏 の ア メ リ カ 仕 込 み の
ツ マイ モ オ ル ガ ン の 響 き が 得 ら れ た の も 感 謝 で
の歴 史 ﹂ と名付 け て説 かれ た教,
え の通りだ .あ った . 企 画 力 動 員 力 と も に追 力 を 欠
部 校 卜 の西 山 晃 弘 慈 恵 医
大 医 師 に専 門 の 心 臓 勁 脈
え るわけ で ﹁
健康問題 ﹂
に 日を 向 け よ う と 現中 牛
緑 窓 会 も 年 々高 齢 層 は 増
言 う 定 年 齢 の五 十 五 歳 .
体 調 に 変 化 の出 て来 る 頃 .
い う こ と に な った 。 思 え
ば 毎 年 の世 当 期 は 従 来 で
と も な い のだ が 第 十 七
日 を ど う し た も のか と
し か し サ ツ マ イ モ は ツ マ イ モ で も く 卜 t 期 で は あ った が 久 し 振 り に 集 っ
シ ツポ は シ ツボ で 卜 t,
期 は い つも 前 の た 仲 間 が 翌 日 ま で飲 ん で歌 った 一日 で も
世 代 と 後 の世 代 に は さ ま れ て 今 ひ と つ あ った .
そ の在 り様 を ひそめ て来 た 。
で、 ど う し た と いう こ
今 は 亡 き 窪 田道 二郎 先 生 が 講 師 山 田 秀 雄 ^
十 八期 弁 護 ■ ︶
﹁
と
相
続
熟
年
離
婚
﹂
卜 た時 二十 分 ∼十 六 時 一
十分 ^
女 子 短期 大 学会 生 ︶
十 六時 三十 分 ∼卜 七時 三卜 分 ^
青 学 講堂 ︶
演 奏者 浜 日茂 外 也 井 口 呂之 伊東 保 男
松島 通昭 人 塚山紀 人 間 川 弘和
白井 万知 子 高 橋 義 光 口中 正r
F 八期 ︶
■ 野比 洋 兒 ^
田中 ︶希 史 子
猪 野 仕 久 村 L ︵
^
高 等部 卜 八期 ︶
戸室 隆 一
﹁一九 六 〇∼ t O年代 のF楽 を中 心 に﹂
事 務所 を三 年 .企 業 法務 般 民事 事 件 を中 心 に活 動. テ レビ ラ
ジオ に コメ ンテー ター と し て出演 ま た 著 作 活動 の機会 も多 い
0 演奏 青 山 学院 中等 部 高 年 部 十 八期 卒業 ■ で 在 学中 お よび
現 在 古 楽 活 動 を し て いるイ が行 います .プ ロ ア マチ ュア の混 成
で 在 学当 時 の十 楽 を中 心 に演奏 しま す
道 師 牧 師 を 経 て 青 山学 院 大学 国際 政 治経済 学 部 教授 .
0 講 演 山 田 秀 雄 氏 ″ 山ヤ 院初 中 高 等部 、 慶應 義 塾 大
学 法 学部 卒 業 筑 波 大 学大 学院 経 営 政 策学 部修 了. 山 田 尾崎 法 律
● お 話 嶋 田 順好 氏 早稲 田大 学政 治 経済 学 部卒 業 東 京 神
学 大 学大 学 院時 t 課程前 期 修 了 日本 キ リ スト教 団中渋 谷 教会 の伝
プ ロフ ィー ル
:舌
二 講 演
L
ネ
演 茶
拝
奏会
内 H
容 時
′
1 1
同 期 会 便 り
中 高 等 部 合 同 一期 会
一翔 島 崎 え 筆
■︶ 一
■ 0 〇 六 年 ︱ 一月 十 一日 ︵
年 毎 に 行 って い る 中 高 等 部 合 同 一期
会 を ご 来 賓 の組 引 静 江 先 生
女 岸 信 人 先 生 を お 迎 え し て古
遠 路 出 席 され 近 況 と 思 い出 話 小 林
順 兄 に よ る● 例 の記 念 写真 撮 影 先
十 四 期大 同期 会 のお誘 い
先 生 は じ め 諸 先 生 と 一期 兄 姉 のご 健
欠 I さ れ た 中 等 部 の大 部 先 生 浜 崎
同期 会 を 開 催 致 し ま す 。 それ に先 だ っ
青 学 会館 に焚 いて中 等部 高 年 部 合 同大
五 月十 九 日 ︵
上 ︶十 七時 二十 分 よ り
十 四期 松口 ‘代
会 を 願 い つ つ名 残 り 惜 し い 故
生 方 のご 挨 拶 と感 謝 の花束 贈 呈 のあ と
康と
て卜 六時 よ り高 等 部 校舎 見 学会 も併 せ
て企 画し てお り ます 。 記 念 の年 です
,り ま し た 。
会 とな
六 十 八 名 の 兄 姉 が 互 い の無 事
︱ 交 を 温 め て豊 か な
を び ︱
︱
恵,
み のと き を 過 し ま し た 。
多 目的室 の 部 にお い て、 緑窓 会 の楽
十 一月 四 日五 日 の両 日 例 年 の様 に
にぎ や か に集 り ま し ょう .
開 会 に 先 立 ち 幹 事 の年 田
し い催 し が あ り ま し た 。中 等部 六十 周
学会 館 で行 な いま し た 出 席
川 潔 兄 か ら こ の 二年 間 に 斉 藤
年 を記 念 し て 一期 か ら六十 期 ま で の
十八期 同期会
六 月 二日 ︵
土ヽ 緑 窓会 の日﹂終 了後
会費七千円
+ 八時 よ り青 学会 館
中 等 部 卒 業 後 四十 年 目 の同期 会 です
地 方 や 海 外 か ら も出 席 予定 が あ り ま す
ので 皆 様 御参 加下 さ い
﹁
緑 窓会 維持 会費 ﹂ に つい て
皆 様 お 立 寄 り 下 さ い. 一
〇 〇七年十 一
え ら れ て います .本 年 の文 化祭 には
の準 備 も 石出 先 生 のお 心 遣 い にき さ
のみ同対 し て居 ります .
の方 に は ﹁
緑窓 会 の日﹂ の振 込 用紙
は よ ろし く お願 い致 し ま す 。 納 入済
千 円 です 。 二〇 〇六 年 に納 入忘 れ の方
年間 で 二
二〇 〇六 年 二〇 〇七 年 一一
月十 日 十 一日開催 さ れます 。
す .毎 年 の事 です が お 茶 の用意 など
力 に よ る も の で 心 か ら感 謝 いた し ま
こ の企 画は 石出 先 生 の大 変 なご 尽
を 思 い出 し 改 め て規 に感 謝 した り 。
殊 深 く 見 な が ら 自 分 の通 って いた 頃
で の学 費 の変 遷 の 一覧 もあ り 大 変 興
れ ま し た 。 も う 一つ 一期 から 現 在 ま
中等部文 化祭
賢 中村 ︵
池 原 ︶喜 美 r 林 ふ
全 員 の写真 が 部 屋 の菫 全 体 に張 り 出 さ
︲
じ 子 の 二先 生 が 召 天 さ れ た こ
1 期 の物 故 者 ま た 伴 侶
と、 ︱
,
を L く さ れ た 方 々 の名 が 報 告
さ れ ま し た 。 続 い て島 崎 よ り
青山 学院 のスクー ル モ ットー
であ る ﹁
地 の塩 世 の光 一 ︵マ
タ イ に よ る福 音 書 五0 卜 三 ∼
卜 六︶ の聖 書 朗 読 と奨 励 講 話
召 天 者 と そ のご 造 族 を 党 え て
祈 祷 を 献げ 内 海 卒 兄 の〓 頭
で乾 杯 会 食 と懇 談 にな りま
プ ラ ハ在 住 の板 倉 工 毅 兄 が
し た 。 ・
ゝ
(・
隆夫 (3期 )
保科
英語 の矢部衛先生が野球部長 に就 かれ
中等部 に野球部が創 設された のは終戦
前 のグ ラウ ントはなく、 用具を揃 え るの
ださ いました.しかし 練習す るにも自
に夢中 になりました。ま ったく先 の見 え
時にとんど唯 一のスポ ー ツであ った野球
こうした混乱と困窮 のなか で人 々は当
野球 は人 の心を動 かした
から 二年足らず の昭和 一十 二年 ︵一九 四
も この上なく難し い状 況にありました。
体育 の岩波 正隆先生が指導 に当た ってく
七︶ 四月、男女共学 の新制中等部 が発足
当時 わが 回は連今 回 の占領下に置かれ、 な い時 間 で 一条 の光 を野球 に見 いだ した
野球部が創設された ころ
し て間もなく のことでした。
の球 児たちは そ の春 早 々 真剣 に話し
を断行しました。教育面 でも 二十 二年 二
経済 をはじめあらゆ る分 野 で民主化政策
連合 国は日本 の非常事化を 目的に政治
野球大会 ︵
後 の高校選´
十確大会︶ 都市
たプ ロ野球や東京 六大学 全国中等学校
のです.戦争 の激 化により中断 され てい
一期生 とし て中等部 に入学した︱ 二歳
合 って野琲部創 設を立案しました。相談
に入り切れな いほど の観衆 を集 めました.
育とし 高校三一
■ 大学 四年
六年に加え中学 三年を義 務教
少年たちは手作 り のバ ツトとグ ラブ を両
れた選手 のプ レーに日ご ろの不安を忘 れ
大人たちは再び 野球が でき る首び にあふ
対抗などが 二+ 一年 に復活し、 スタ ンド
月 学校 教育法が公布 され 直ち に新し
い学制が実施されました。従来 の小学校
す るにもL級生は 一人もおらず、何 もか
も自分 たち で決 めなければ なりません。
と単線型に改めるというも の
腕 に抱 え込ん で焼け跡 に空き地を見 つけ
ては 後楽 園球 場 や神 宮 球 場 に見 立 て、
でした。
学制改革は 急 に行われた
,科書 ど
ため 教室や教
な 教育
旧制 の高等女学部 や中学部 の
間を願 ったと いう エビ ツードを新聞 で読
の コメを相手チー ムに贈り そ の後 の健
て参加しました.敗退したチー ムが残 り
た つた 一個 のボールを追 いかけました.
復活第 一回 の全 国中等学校大会 には十
校今 で学びました。事実 わ
み 心が震えた ことを党 え ています。野
イン フラが整わなか った のは
が国 の生産活動は事実上停止
球は スポ ー ツや趣味と い った範疇を超え
の選 手は自分たちが食 べる コメを持参し
状態 に陥 っており 物資 の欠
人 の心を動 かすきわめ て大切な存在だ っ
九 の地方代表校が出場しましたが 各校
乏は著 しか った のです。物不
た のです.
当然 でした.新 設の中等部 で
足による枢度のインフレは人々
も一
二期生は戦災を免れた
の生活を苦しめ、激し い労働
私たち二期+が入学した二+四年四Д
グ ラウ ンド全体 が輝 いて いた
千万人が餓死す るという観測
東京農業大学 の敷地跡 に中等部専 用 の新
議が原発 農村 の疲弊は深
,な食糧危機をもたらし 一
刻
すら報じられ るほど でした。
と先 輩 部 員 た ち に走 攻守 に わた り手 を
基礎練習 の時期が終わ ると、岩波先生
日でしたが ボ ールに触れ 大勢 の部 員
部が使 用し ていたグ ラウ ンド の片 隅 で 月
取 って指■し ていただ きました。同期生
と並 ん でキ ャ ッチボ ー ルが でき る そ の
身 のせま い練習を余儀 なくされ ていた先
たりもしました。年 々 体 も技術も成 長
も整備 され 校合 の地下 には各運動部 の
輩部員 の専び は 後輩たち の想像をは る
し て私たちはますます 野求 に熱中し 三
校合が落成 隣接 の台地上にグ ラウ ンド
かに越えたも のであ ったに違 いあ りませ
F名 以上が野メ部 に入部
ん. 三期 生は 一
年生 のとき渋谷 区中学校 野球大会 で優勝
ような ことすら嬉 しく てたまらず グ ラ
しましたが 上級生 と 年生 では体格も
したこともあります。そのとき のメンバー
ウ ンド全体が輝 いて見えたものです。
実力 も大差があ ったからでし ょう 同じ
は高等部や他校 に進 み 野球部 に人部し
部室が 設け られ て野球部もそ の 一室 に人
内容 の練習は課せられません でした.当
居しました。専門部と旧制中学部 の運動
初 は外 野 でラ ン ニングやキ ャ ッチボ ール
た者 のほか 他 の運動部や文化部 に所属
ライト側 の塀が常陸官邸 と の境界 でし
を目指 し て大 いに励 み 好結果を残 しま
した者 も いましたが それぞ れ の甲子国
同■ プ レー に ついてアドバイスし合 っ
に終始 し ていたと記憶し ています
た。上級生が打撃練醤 で邸内 に打 ち込ん
確たる礎‘のゆえでありまし ょう.
あ の困難 山積 の時代 に輝 くば か り の日々
往時 を振り返 って胸中を去来 す るのは
した。 これも中等部 の野球部体験 と いう
だボ ールを 一年生が塀を乗 り越え て回収
に行 った こともしば しば でした。官 邸 の
る私たちをヽ内 パト ロール中 の警官が手
庭 園 で卓 木をかき分けボ ールを探し てい
方 同期■や後輩部長たちに対す る あ
を与え てくだ さ った学校 や先上方 先輩
,
伝 ってくれた こともあります .そんな
るいは こうした人 々と出会 わせ てくれ
た野球 そ のも のに対す る感謝 の念 のみ で
す。 この思いを筆舌 により表す ことなど
到底 できません。
中等部 を率 大し て五十 五年が経 った い
まも高等部 の,
野球部 OB会などを通じ て
学院 の野球 にかかわり続け ている のも
あるかもしれません.
感謝 の気持ち のほん のささやかな 一端 で
て 七 万 円 の賞 金 を 獲 得 さ れ た のは 、
氣 賀 健 生 先 生 です 。 懐 か し い ジ ャズ
の B C Mを 聞 き な が ら 若 き 日 の思
い出 話 で お お い に 盛 り L が り 予 定
の 時 間 が あ っと いう 間 に 過ぎ ま し た
席 上、 次 口を ■0 〇 八年 卜 月 と 決 め
ま し た が ﹁も っと 早 く 開 き た い﹂
と い う 要 t が 多 い た め 幹 ■ 会 で検
討 の結果 三〇〇八年二月十 二日 ︵
水︶
に 開催 す る こと に な り ま し た 。
同期 生 と の再会 を 今 か ら楽 し み に
と語 り ﹃愛 の喜 び ﹄ ﹃
愛 の悲 し み﹄
な ど を 演 奏 し て下 さ いま し た .
か し い 母 校 で演 秦 で き 嬉 し い ﹂
ロと 小 山 京 子 氏 のビ ア ノ 演 奏
によ る音 楽 会 で 山 本 さ ん は ﹁
懐
山 本 格 之 介 氏 ^二十 期 ︶ のチ ェ
楽会 が行 われました
時 よ り 同会 場 に て、 創 立 記 念 音
懐 か し い 旧教 職 員 の方 々 の紹 介
も行 わ れま し た。 また 午 後 一
ま し た 。 ま た 来 賓 で招 か れ た
挨 拶 が あ り、 今 村 会 長 か ら は 中
等 部 に対 し 横 断 幕 の寄 贈 が あ り
久 緑 窓会会 長 より、 中等 部創 立
六 十 周 年 に あ た って のお 祝 い の
式 後 深 町 正信院 長 今 村和
祈 祷 を も って式 は 無 事 終 了 い た
しました。
奏 の後 一同 で讃 美 歌 を 歌 い 、
ま し た . ハ ンド ベ ル 部 に よ る演
をお迎えし ﹁
神 の時 恵 み の時 ﹂
と 題 し て 中 等 部 六 十 年 の 歴 史
を 振 り 返 って のお 話 を いた だ き
院大学 女 子短期大学非常勤講師︶
之 氏 ^中 等 部 十 四 期 生 青 山 学
聖 歌 隊 に よ る合 唱 が 捧 げ ら れ ま し た . 説 教 に は 野 村 祐
唱 生 徒 代 表 に よ り 聖 書 の朗 読 が な さ れ 祈 祷 の後
われま した.
西 国恵 一部 宗 教 主 任 司 式 の も と 一同 で讃 美 歌 を 斉
二 月 二十 日 ︵火 ︶ 十 時 三 十 分 よ り 青 山 学 院 講 堂 に お
い て 青 山 学 院 中 等 部 創 立 六 卜 周 年 記 念 礼 拝 が 執 り 行
中 等 部 創 立 六 十 周 年 を 記 念 し て横 断 幕 贈 呈
ー
同 期 会 便 り
中 等 部 書 同等 部 合 同 三 期 会
二期 ・
二宅 康え
二 〇 〇 六 年 十 月 二十 二 日 本月 ︶ 青
学 会 館 で中 等 部 高 等 部 合 同 の 三 期
会 が 開 か れ 六 名 の先 生 方 を 円 ん で
バ ック に 同 期 生 の フ ラダ ン ス と
に よ る ハ ワ イ ア ン バ ン ド の生 演 奏 を
ラ ク シ ョ ン と し て ″ 山 の後 輩 た ち
回は ﹁
古 希 を 祝 う 会 ﹂ のた め ア ト
卒 業 上 九 十 九 名 が 出席 し ま し た 。 今
ジ ャズ の熱 演 や ジ ャ ンケ ンゲ ー ム を
シ
楽 し み ま し た 。 ジ ャ ンケ ン に 優 勝 し
シ
し て いま す .
―
し ,Sう ミカヽアバンタし ,Sε ゛うヽ %ヽ ンバン ,し ,S,ミ らヽ %ド ン バンテし ,S,Sつ ヽえヽアバン ,し,さ τミうヽヵベンバンタツ´
た こ と を 再 確 認 いた し ま
た の で こち ら に いら っし ゃ る間 にぜ
同じ く 十 一月 に金 婚 式 を 迎 え ら れ ま し
年 十 一月 に喜 寿 を お 迎 え に な り ま た
H さ れ る とう か が いま し た 。 ■0 〇 六
らし た 熱 海 市 の函 南 を離 れ 京 都 へ転
■0 〇 七 年 二月 に 十 四年 間住 ん で い
中 等部 時 代 の恩師 伊藤 いく代 先 生 が
ク リ ス マスを 間 近 に控 え た あ る日
いた し ま し た 。 そ し て いく代 先 生 の
た 幸 せを 共有 し て い る嬉 し さ を 実 感
時 へ に良 き学 校 生 活 を送 る こと の出 来
,
び 懐 か し い中 等 部 時 代 を 偲び 良 き
し い先 生 と の出 会 いが あ った ことを
八年 も の歳 月が 流 れ た 今 でも 素 晴 ら
と と も に 一九 五九 年 二 月卒 業 後 四十
協 力 し てくだ さ り 幹 ■ ■名 感 激 す る
い連 絡 と な りま し た が 多 く の方 々が
か な り急 な し か も 年末 年 始 の慌 し
い寄 せ 書 き 用 の色 紙 を 作 り
初 め て出 席 と いう 方 美 し
卒 業 以 来 中 等 部 の集 ま り は
介 護 の合 間 にご 出 席 ,
の方
て くだ さ った 方 お
北海 道 や軽 井 沢 か ら いら し
て くだ さ った 方 は るば る
日 を 週 間 延 ば し て出 席 し
さ った 方 ア メ リ カ ヘの帰
お 忙 し い中 駆 け つけ て くだ
十 期 長 本 川 節 子
ひと 急 進 一月 二十 一日 ︵
日︶ ﹁ 藤
英 語 の授 業 によ って 英 語が 人 好 き な
伊 藤 い く 代 先 生 の喜 寿 を 祝 う 会
,ビ
いく代 先 生 のI 寿 を祝 う会 ﹂ を 品 川
当 日 は 個 展を 開催 中 の
した.
ル に あ る レ スト ラ ン で開 催 す る こと に
科 日 にな った のは 私 一人 では な か っ
映 画 祭 で 一日 本 映 画 あ る 視 点 ﹂ 部
門の ﹁
リ
4 品質 ヽ を 受質 しま した 。 ︵
ンダ ハ ツテ ンド ル フ監 督 ︶
を 受 貨 さ ら に 同 年 十 月 の東 京 国 際
が i O 〇 六 年 五 ” ニ ュー ヨ ー ク
のト ラ イ ベ ッカ 映 画 祭 で 一
観客賞 ﹂
キ ュメ ンタリー映 画 ﹃ミリキタ ニの猫﹄
昌宏 さ ん が 企 画 共 同制 作 さ れ た ド
ご 子 息 で ニ ュー ヨ ー ク 在 住 の占 川
吉 川 ︵旧 姓 L 参 郷 ︶ 和 子 先 生 の
山 学 院 の高 年 部 と 大 学 経 済 学 部 の卒
愛 ふ でご 活 躍 の吉 川 昌 宏 さ ん は 、 古
客 が 捩 を拭 っていま し た .
ニ ュー ヨ ー ク では ﹁マサ さ ん ﹂ の
戦 中 の■ い体 験 を 語 る姿 に、 人 勢 の観
怖 に な っていき ま す 。試 写会 では 人
しま す が 周 囲 の人 々 の尽力 で社 会 復
出 す ﹂ を モ ット ー とす る ミリキ タ ニ氏
は 背 を 丸 め た ホ ー ムレ ス の姿 で登場
戦争 では な く アー ト を創 り
者 です 。 ﹁
ら っし や いま す .
路 に着 き ま し た 。
方 々に 思 いを 馳 せ つ つ 家
に や む を 得す 欠 = さ れ た
日 に か か れ る こと を 楽 し み
来 敵 な いく 代 先 生 に ま た お
え な い 若 々し く わ 元 気 で
喜 方 を 迎 え られ た とは 思
過ご す こと が出 来 ま した .
い 和 や か な 嬉 し い時 を
こ に 顔 を 出 し 本 当 に楽 し
部 時 代 の自 分 達 が そ こ か し
う ち に い つ のま に か 中 +
れ た 先 生 を 円 み 語 り 合 う
も 見 せ ず 新 幹 線 で到 着 さ
た . 引 越 し のた め のお 疲 れ
め に 二 十 二名 が 集 ま り ま し
いく 代 先 生 を お 祝 いす る た
届 け てく だ さ った 方 等 々
様の
致 しました。
主 人 公 の ジ ミ ー ツト ム ミ リ キ
業 生 です I 川 和 子 先 生 は 八+ 歳
一
褐オ あや子
タ ニ氏 は カ リ フ ォ ル ニ ア 生 ま れ の
を 越 え ら れ た 0 でも、 世 田谷 使 徒 教
´
斯
上 参 郷 先 生 の こ 子 息 、映 画 祭 で受 賞 ´
広 島 育 ち 。 帰 米 後 第 二次 世 界 人 戦
会 で 月 一回 のオ ル ガ ン 奉 仕 を し て い
帰 を 果 た す に つれ て 生 き生 き し た表
中 に 日本 人 収 容 所 生 活 を 体 験 し た
八F 歳 代 の 日系 人 画家 で元 路 上 生 活
一
ヽ一
中 等 部 便 り
緑
窓
会
会
計
報
告
6.430,299
☆ 二〇〇■年度 入事
前
受
会
資
チャンタミット献 金分
掟療 相 までおせ話 にな0ま した。
^春 、 ■年 を4 えられま した。
天木 京 子 先 生 ︵
国語︶
二 〇 〇 一4 口月 から 講 ” と し て
ネ 載 さ れ て いま した 。 今 ふ より
研究 生活 に 入られます.
た邊 掟 先 生 ^
英 語︶
二 〇 0 大年 四月 か らヤ 高 人事 え
流 で鷲 “ と し て本 職 さ れ て いま
した .
今ま よう高キ卦 へえ られます。
Hi受 会費 (新 会員分)
費費費費費費賀資料金費費費
t送 口
岬 熱
制発業H譲通光信借付件弔
報報 務 道
会会事事会交水運賃寄 人慶雑
肇亜
興
利坂
飯田
事事
監監
子 子子
居合
] 照陽
本
西鳥河
集 計計
副 会会
久 己道
和克 正
長長長
^
^
^
ム
会副副
今崎伊
村 田藤
次 年度繰 越収 支差額
部長 山 本 与恙春
漱域 千 痒 え 恙
宗業 主任 西 口 恙 一郎
漱 餐i‘ 浦 口 浩
指専 主任 小 口 え 信
よ研 主任 持 木 わ 笑
一年学年 二を 出 木 籠 子
二年学年 二在 え 口 ■ テ
、 口 ■ 孝
ニ年学年 二‘ ︱
′
事 務長 渡 迪 ι
息
利
金
預
7,046,152
前年度繰越収 支差 額
当年 度 収 支 差 額
成 18)年 度 収 支 計 算 書
2000(平 成 18年 )4月 lH
2007(平 成 19年 )3月 31日
自 至
付
入 合 計
本 年 度 支 41合 計
☆癸 動
次 の先生方 がヤ等 部を去 られます。
口十 お生 え ■ ︵
理科︶
一え へ九年 四月 か ら 理科 第 二分
野 を拒 当 され て いま した。
今 ふ か ら自 然 孫 誕 関 係 の仕事 を
目 指 し て勉 強 さ れ 着 本 は自 然
保護 関係 の仕事 に従事 されます。
事 肇長 ︶
■本祥 次郎 え生 ︵
一え た 六年 口月 か ら事 務 民 と し
て未 載 され て いま した。
一方 マラ ツ ン大 会 にも多 く韓
場 さ れ た い記 録 を 出 さ れ て い
☆ヤ等 椰創 ユ 六十月年 記念 行事
※逹勁会
■00大年 十月 十 一口 ︵
月︶
二 二年 生 茅 子 によ る組 体 林 で、
ビ ラ ミ ッド の業 上段 の生徒 が ﹁
創
立 六十周年 ﹂ のえ ホを った。
※ヤ等 部茶
,
二〇〇六年十 一月 ロロ ^
上γエロ ︵
口︶
全 卒 業 期 のア ル バ ム集 合 写真 や 各
種奇 料 の晨 ホ をな った 。今 年 え の
等 卦茶 でも晨ホ子え て います。
, 立 六十月年 記念 礼拝
※創
え︶
二〇〇七年 二 二■ 口 ︵
月
説夕 =オ村 祐え 民 ︵
十 口翔︶
※創 ユ t念 昔栞 会
え︶
二
七年 二 二十 日 ︵
〇
〇
月
演え =“本 たく介 κ ︵
二十剤 ︶
※え合 奇料黎 蒼行
火︶
二〇〇七年 二月 二十 日 ︵
ヤキ部創立二十月年峙 に発行した ﹁
i
ル学 眈ヤ 等 部 の二十年 ﹂ 後 十 年 間
のま とめ とし て、 さ ら に今 後 の記
合鑢芥●峙 の奇料 として、資料年 ^
十
二ベージ︶を茶″ した。
寄
収
持
1文
本 年 度
51,000
10,200
1,487
546,000
28,000
2,612
lR
雑
819,000
4,972.000
維
額
金
目
科
額
度大会金
会
費
2007年
750.592
1.148.250
625,086
89,147
109,194
210,760
12,000
148,746
136,080
88,934
100,000
15,000
26 585
3,460,374
2,969,925
10,916,077
部
の
人
収
部
の
出
支
金
日
科
ま し た。
今ふ 、停 年 を4えら れました。
単 問 泰 茂 先生 ︵
薇 医︶
一九 ヘ ヘキ ニ月 か ら 狡 医 とし て
家 職 され て いました。
■■ を はじめな戦員 の健康 採著
2006(平
青山学院 中等部緑窓会