宗教経験とそのコンテクスト -ヨアヒム・ワッハの宗教論をめぐって- 薄井 一那 キーワード:ワッハ、宗教経験、コンテクスト、 「関係的性格」 はじめに 現代の宗教学においては、西洋をモデルとした概念的枠組みに依拠して宗教 を捉えてきたが、宗教に関するさまざまなデータが蓄積されてくるにつれて、 そのような枠組みの限界が指摘されるようになってきた。そして、そもそも近 代の西洋で生まれた「宗教」 (religion)という概念は、日本をはじめ世界の 諸宗教に適用可能な普遍的な概念であるのか、という根本的な問題もしばしば 取り挙げられている。それは同時に、 「宗教」という対象によって字間領域を 規定してきた宗教学にとっての問題ともなっている。また、現代の宗教学はさ まざまな専門領域で発達してきたが、宗教研究の研究領域がますます専門化・ 細分化することによって、その方向づけを失いつつある。 ここで取り挙げるのは、現代の宗教学において、シカゴ学派の祖と言われる ヨアヒム・ワッハ(Joachim Wach, 1898-1955)の宗教論である。現代の宗 教学を牽引してきたのがそのシカゴ学派であり、かれの宗教論が無批判に受け 継がれてきたのではないにしろ、ワッハの理論的・方法論的な枠組みが現代の 宗教学の源流において存在すると言える。日本では、岸本英夫の『宗教学』 【岸 本1961: 5]をはじめ、宗教研究の領域がワッハの研究を援用しながら説明さ れてきたこともあってワッハの名は宗教研究者の間でよく知られている。しか し、かれの宗教論が十分に研究されてきたとは言えない。 宗教学におけるワッハの業績は、大まかに捉えて四つに分けられる。第-に は、宗教現象の「理解」の学として宗教学を性格づけようとした理論的・方法 ー 129 - 論的研究である。第二には、 19世紀の解釈学理論に関する研究である。第三 には、宗教と社会の相互制約関係を扱った宗教社会学的な研究である。第四に は、宗教経験とその表現に関する体系的な研究である。 ここでは、かれの宗教論のなかでも、おもに後年の著作に依りながら、とり わけ「宗教経験」 (religious experience)に関する理解に焦点をあてて考察を 進める。まず、宗教に対するワッハの基本的な態度と視点をふまえて、宗教経 験とその表現に関する理解を明らかにする。そして、宗教経験に関する理解を ふまえながら、真理の問題や宗教の類型的理解について考察し、ワッハの宗教 論を今日の視点から検討することによって、宗教研究の問題点について考えた い。 Ⅰ ワッハ宗教学とその視点 I-1 ワッハ以前の宗教学の展開 ここでは、ワッハ宗教学はどのような流れの中から生まれたのかをかれ自身 の理解に従いながら検討し、それによって、ワッハの基本的な研究態度を明 らかにしたい.ワッハは、遺著『宗教の比較研究』 (The ComparatJ'veStudyoF Rell-gllons)において、宗教の比較研究、すなわち、宗教学の展開を三段階に分 けて論じている。 宗教学は、ワッハによれば、マックス・ミュラー(MaxMtlller)にはじまるが1、 この第一段階においては、他宗教を理解したいという純粋な情熱や思弁的関心 が強く、宗教的表現の中でもとりわけ神話が注目された。そして、宗教哲学や、 とりわけキリスト教神学からの解放を表現するために、この新しい学問分野に 対して「宗教学」 (science of religion, Religionswissenschart)という用語が 用いられた。 】ワッハは、ミュラーの『比較神話字』 (ComparalweMythology, 1856)や『宗教学概論』 (lnlr('ductl・on lo the ScJence ofRelJgL,,nS,1870)や「インドの宗教によって例示される宗教の起源と発達」 (OrJgln and Growth oflReligLOn aS IJlustraEed by The ReJJgJ()ns orlndL-a. 1878)という講演を挙げている。 - 130 - 第二段階の端初は、ワッハによれば、 『宗教学の諸要素』 (Elementsoflhe ScLenceofRelJglon)として出版されたオランダのコルネリス・ P ・ティーレ (Cornelis P. Tiele)のギフォード講演(1896-1898)である。この段階において は、宗教学ばかりでなく民族学や社会学や心理学においても、進化論的な図式 が展開されたという2。この第二段階は、ワッハによれば、言語学的、歴史学 的関心が強く、実証主義的な気質によって特徴づけられる。したがって、「記述」 (description)が「評価」 (evaluation)にとってかわり、規範や価値が歴史学的、 心理学的、社会学的に説明された。この段階においては、研究の専門化が進み、 「客観性」 (objectivity)が強く要求されたo ワッハは、ルドルフ・オットー(RudolfOtto)を第三段階3の代表的人物 と捉えているが、ワッハによれば、オットーは、 「究極的実在の客観的性格を 力強く強調して、宗教が主観的で幻想的であるとする理論をことごとく論駁」 【Wach 1958: 6】したのである。ワッハは、第三段階について、 「合理的検討の 価値を無視せずに宗教における非合理的要素を強調することによって、過剰な 知性主義や伝統教義への固執は排除される」と考え、さらには、 「表面的な同 一視」を避けることができるとも述べている[ibid.:6】。 この第三段階における宗教研究は、それまでの研究成果をふまえたうえで、 次の三つの特徴をもっているという。すなわち、 「過度の専門化や細分化の弊 害を統合的な展望によって克服しようとする願望」、 「宗教経験の本質に深く分 け入ろうとする願望」、および、 「認識論的、究極的には形而ヒ学的特徴をもつ 問題の探究」である【ibid.: 51。これら三つの特徴は、ワッハの宗教学理論を理 2 進化論の適用の例として、ワッハは、 E・B.タイラー『未開文化』 (E.B.Tylor,PrlmJlLVe c(JlEure, 1871)、エミール・デュルケ-ム『宗教生活の原初形態』 (Emilc Durkhcim, Lps F()rmL・.bl LiJt,menEalreS dc, Ia vI'C・ rL・JLgL'euse, 1912)、ヴイルヘルム・ヴント『民族心理学』 (Wllhelm WundL, VolkerpsychologJe, 1906)を挙げている。 3 この第三段階は、哲学においては新カント学派やアンリ・ベルクソン(HenriBergH。n)や井且象′、f絹、 カトリック思想においてはフリードリッヒ・フォン・ヒュ-ゲル(FriedrlChvonHugeりやマックス・ F・シェーラー(MaxF. Scheler)、プロテスタント神Jui:においてはナタン・ゼ-デルブローム(Nathan Soderblom)やカール・バルト(KarlBarth)やルドルフ・オットーによってはじまった、とワッ ハは考えている。 - 131 - 解するうえで重要である。 さらに、 『宗教経験の諸類型』 (Types of'Rell'gJ'()uS Experience)の「序」では、 宗教研究において、 「本質への集中という意味で、最低限のルールをもつこと」、 「諸事実を集めることよりもその意味に関心を持つこと」、さらに「生に関する 統合的な見地を目指して努力すること」の重要性を指摘している【Wach 1951: Ⅹiii】。ここに、ワッハの基本的な考え方を理解することができる。 I-2 ワッハの宗教学的視点 ワッハによれば、近代以降の西洋における哲学思想は、主として「人間」に ついて探求し、 「世界」や「神」というテーマも人間を中心に据えたうえで思 索してきたという。このことに関して、ワッハは、『宗教的人間論の類型』(Typen relL'gjOseI- AnlhropoIogje)の冒頭において次のように述べているo 哲学は人間に関して省察する。すなわち、人間の本質、起源、目的、価値 の問題を扱うが、そのこと以上に、われわれにとって本来的で自明のこと があるだろうか。(中略)われわれは人間と世界というテーマばかりでなく、 人間と神というもう一つ別のテーマについても、人間の側から構築してき た。 IWach 1932: 7] ワッハのこの叙述からも明らかであるが、ワッハは、 『宗教の比較研究』か らも窺えるように、生涯にわたっていわゆる「人間論」 (Anthropologie)に 強い関心をもっていた。かれの考えた人間論は、神論や宇宙論、さらには、救 済論や終末論などと本来的に密接不可分なものであった。この立場は、以下の 引用にも色濃くあらわれている。 宗教において、人間に関する解釈、人間の本質や目的に関する解釈は、少 なくともまず、整然と区分され構成された教えという形によって提起され るのではなく、神話的な根本概念との連関において表現される。つまり、 宇宙論的なもの、歴史的なもの、人間論的なもの、救済論的なものが、多 かれ少なかれ相互に入り混じって表現される。神性の生成と働きに関する 概念、世界の成立と消滅に関する概念、人間の起源、本性、目的に関する ー 132 - 概念は、内的な対応関係において成立し展開してきた。 (中略)本来的に 宗教体験では一つであり、開祖の預言的な根源的直観においておよそ一つ であるものが、教義の形成や組織化の過程において、その主意と展開の違 いに応じて分化する。教義の形成や組織化とは、実践的な領域における儀 礼の形成のことであり、社会学的な領域では、共同体の構成や形成のこと である。 【Wach 1932: 8] このような人間および宗教に関する理解が、ワッハの宗教論の根底をなして いる。キタガワが「ワッハの記述科学と経験的分析は、人間に焦点を合わせる 一定の哲学的伝統に基づいている」 [Kitagawa 1958: xxiv比述べているのも このあたりを指していると思われる。 それでは、ワッハは、宗教をどのような観点から見ているのであろうか。そ れについて、かれは、 『宗教経験の諸類型』の「序」において、次のように述 べている。 われわれは、風習や道徳規範、慣習や制度が、それぞれの文化によって異 なることを知っているo Lかし、そのことは、宗教もまた文化の一機能や 一側面であるということを意味するのであろうか。 (中略)たーしかに、宗 教と言われているものの大部分は、文化や慣習のカテゴリーに属している ことに疑いはない。しかし、われわれは宗教経験とその表現とを注意深く 区別しなければならない、というのが本書の著者の確信である。 【Wach 1951: xi-Xii】 このように、ワッハは宗教を「経験」と「表現」の側面から捉え、宗教に固 有の領域は「宗教経験」にあると考えた。この点が、ワッハの宗教学理論を理 解するとで基本的に重要であるo ワッハが『宗教学』 (RelL'gjonswL'SsenschaFl)を著した当時の宗教学は、その学 問的性格や宗教研究における位置づけなどが不明瞭で不安定であり、たとえ暫 定的であれ、宗教研究における宗教学の位置づけが必要であった。そこで、ワッ ハは、 『宗教学』において、解釈学的理論を土台として学問的かつ理論的に体 系づけ、宗教研究における他の領域との学問的な性格の違いを明らかにしよう - 133 - と試みた。それに対して、晩年になると、 『宗教の比較研究』においても明ら かなように、宗教学と宗教哲学や神学との連関に積極的な関心を示した。この ようなワッハ宗教学に対して、当初、宗教学の課題を明確に規定したワッハは、 後に、「規範的」研究へと「移行」していったという指摘がしばしばなされるr田 丸198714. ただ、キタガワは、ワッハが宗教を捉えようとした基本的な枠組みそのも のはほぼ一貫していたとしているlKitagawa 1988:xi]。すなわち、ワッハは、 表面的には「移行」したが、その根底においては一貫して解釈学的な理論を土 台としていた。そして、宗教現象を宗教経験と表現のダイナミズムとして社会 学、歴史学、心理学、類型学などさまざまな観点から統合的に理解することに よって、宗教そのものを理解しようと試みたのである5。 ⅠⅠ宗教繕駿とその構造 ⅠⅠ-1 宗教経験とその特徴 ワッハは、宗教に関する研究領域の専門化や細分化の弊害を指摘し、データ を組織化しようと試みた。すなわち、宗教現象間の相互関係や意味連関を明ら かにしようとしたのである。その際、ワッハは、宗教に固有なものとして宗教 経験を中心に据えた。 ワッハによれば、宗教経験に関する見解には大きく四つの立場があるIWach 4 この,・∴・A.に関しては批判ばかりでなく、 「彼の宗教学は、初期の厳軒かつ経験的ではあったが、意図 的に真理の問題を避けた視野の狭いものから、晩ifLIのあらゆる宗教の真群を真確と認めつつ、謙虚 にそれを理解し評価するものとなった」 【人竹1979:80】という比較的好意的な指摘もある。 5 この点に関して、和井FFI学は、 「ヴァッハの多方面的な諸著に-質した統・件を与えている基本線 とは何か。 (中略)結論的に言えば、宗教的生の客観態(Objektivation)としての宗教的世界を、「経験」 「表Bi」 「和解」の構造連関からとらえようとする視点、その視点から解釈学的関心に芹かれた宗教 学を構築しようとする意図、これである」 l和井田1966: 1111と述べている。ただし、ワッハ宗教 学において、基本的な枠組みはそれほど大きく変化していなくとも、関心や主眼点の「移行」があ ることは事実であって、それにともなって宗教学の付置づけが修正されていることはたしかであるo ワッハ宗教学の「移行」に対する指摘や批判は、この意味で理解する必要があるD - 134 - 1958: 30】。第一一は、宗教経験と言われるようなものは存在しないという立場 である。つまり、宗教経験は、幻想以外の何ものでもないという考え方である。 第二は、宗教経験の存在は認めるが、それは一般的な経験と区別できないとい う考え方である。第三は、宗教経験を特定の宗教における宗教経験と完全に同 一視する考え方である0第四は、一般的な経験や特定の宗教における宗教経験 とは異なる真の宗教経験が存在するという考え方である。最後の第四の立場に 立つワッハは、宗教経験が一一定の構造をもつ経験であると捉え、それは「情動 の不完全で唆味な拡張であるどころか、かえって秩序立った経験なのである」 tibid∴ 301と述べている。 ワッハは、宗教経験とその表現にみられる一一定の構造を明らかにするために、 次の四つの基準を提示した6. 1.宗教経験は、 「究極的実在として経験されるものに対する応答」 (a response to what is experienced as Ultimate Reality)である。宗教経験 において、われわれは個々の有限な現象や物質などではなく、万物を制約し、 支えているものに対して応答する。 2.宗教経験は、究極的実在として理解されるものに対する「全存在をかけた 全人的応答」 (total response of the total being)である。宗教経験は、単 に心や感情や意志などの人間存在の一部分のみに関わるのではなく、 「全体 的人間」 (integral persons)として人間存在の全体に関わるのである。この ような全人格の「統合」は宗教の目的というよりは、むしろ宗教経験の前提 であり結果でもある。 3.宗教経験は、人間がなしうる最も強く深遠な経験である。究極的実在は、力 と意味において人間の日常的経験の領域を超越しており、したがって、そのよ うな実在と人間の交わりは、強さと意味において最も強く深い経験である。 4.宗教経験は、行動にあらわれる。すなわち、宗教経験は、人間を行動へと 6 『宗教の比較研究』と『宗教経験の諸類型』の第L増. 「宗教における普遍的なるもの」 (Universals in RellglOn)を参軌 - 135 - 駆り立てるものであり、行動とその動機づけの最も強い源泉である。この場 合、行動の対極にあるのは瞑想ではなく無関心である。 宗教経験として認められるためには、この四つの基準を満たさなければな らないと考えた。この四つの基準を満たす必要性にふれたあとで、ワッハは 「これは、いかなる『神なき』 (godless)宗教もありえないということであり、 仏教や儒教がそのような『神なき』宗教であると考えるのは誤解にすぎない」 【ibid・: 37】と述べている。これに関連して、キタガワは、 「宗教史学徒として のヴァッハは、すべての宗教は究極的実在-それは仏教のように相対的存在 を否定する究極的無として受けとるか、あるいは、有神教のように人格的なも のとして受けとるかの相違はあっても-についての人間の体験を土台とした ものであり、それ故にすべての宗教は、それぞれに普遍的な性格をもつという 確信を一生もちつづけたのである」 【北川1985: 26-27]と述べている。 また、ワッハによれば、仏教において神に相当するのは「法身」 (dharmakaya) である。かれは、神観念を人格的と非人格的という二つの極から捉えているが、 「大乗仏教と小乗仏教は、同じ問いに対して別の答えを与えてきた。大乗仏教 は法身の人格化として一人ないし幾人かの仏陀を崇拝する」 [Wach 1958: 831 と述べている。 ワッハは究極的実在と全人的応答という二重の契機から宗教経験を捉えてい るが、この場合の応答とは、特に具体的な問答のようなものを想定しているわ けではない。かれは「宗教経験は人間の側の応答能力を前提としている」【ibid.: 40】として、その大きさに応じて宗教経験の深さが異なると考えた。したがっ て、かれによれば、人間は、究極的実在に対して完全に受動的ではない。そし て、宗教経験によって、人間に普遍的に備わっている「ヌミノーゼ」的な感情 が喚起されるという。 さらに、ワッハは、宗教経験理解の留意点として四つを挙げている[ibid∴ 31-32】。第一に、宗教経験においては理解や知覚などのように、意識には程度 があるということである。第二に、この場合の応答というのは、究極的実在と 宗教的人間(homines religiosi)との出会いの一部であるということである。 - 136 - 第三に、至高の存在を「経験する」ことは、経験するものと経験されるものと のダイナミックな関係を意味しているということである。したがって、いかな る宗教も静的な観点から探究することはできないし、そうしてほならないとい う。第四に、宗教経験とその表現は、つねに歴史的、文化的、社会的、宗教的 に条件づけられているということである。したがって、宗教経験は、自己の立 場を絶対視するのではなく、それぞれのコンテクストにおいて理解する必要が ある。しかし、これはいかなる種類の相対主義や社会的ないし文化的決定論を 支持するものではないとしている。 そして、宗教経験が表現されるということも、ワッハによれば普遍的である。 宗教経験は表現されることによって、そして、表現を通して他者に対して目に 見えるものとなる。理論上は、宗教経験とその表現というように両者は二つの 分離したものであるが、単純にまず経験があってその後に表現があると考える べきではない。多くの場合、宗教経験そのものは、すでにある一定の表現を伴っ ているとも言える。実質においては、この両者は不可分であり、表現のみが経 験から切り離されて固定化することはしばしばあるが、一方がなくなれば他方 も少なくとも本来的なあり方としては成り立たない。 ⅠⅠ-2 宗教経験とその表現 さらに、ワッハは、あらゆる宗教に普遍的なものとして、宗教経験の表現様 式における類似を指摘した。 ワッハによれば、信仰者は、 「理論的な表現」 (theoretical expression)、 「実践的な表現」 (practical expression)、 「社会学的な表現」 (sociological expression)という大きく三つの手段によって、自らの宗教経験を明確にし、 他者と共有しようとする衝動あるいは必要性を感じている。これらの表現の三 様式に関して、ワッハは、宗教において「その程度や発達の早さは当然異なる が、これら三つの要素のうちどれか一つでも完全に欠けているものに、宗教と 呼ぶに値するものはない。これら三つの表現様式のうち一つの優位性を確立し ょうとする多くの試みにもかかわらず、神話が祭儀よりあるいは両者が共同体 - 137 - より重要だという議論は無意味である。このようにわれわれは考える。宗教的 生の力動性は、これら三側面がお互いに交わり合うことによって成り立ってい ると歴史は教えてくれる」 rWach 1951:341と述べている。 一つEjに、理論的な表現においては、その第一の形式が「神話」 (myth)、 第二の形式が「教理」 (doctrine)、第三の形式が「ドグマ」 (dogma)であ る。理論的な表現において論じられる主題は、 「神論」 (theology)、 「宇宙論」 (cosmology)、 「人間論」 (anthropology)の三つが普遍的に見られるという。 二つ目に、実践的な表現は、 「儀礼」 (rite)と呼ばれる特別な行為から日常の 行為まで広範囲に及ぶ。ある行為が純粋に宗教的であるかどうかは、その行為 の意図を検証しなければならない。それゆえ、あらゆる行為が神と人間の交わ りを証明していることが、信仰者として最も望ましいが、ワッハは、そのなか でも特に「献身」 (devotion)と「奉仕」 (seⅣice)の行為が普遍的な宗教的 行為であると考えた。 三つ目に、社会学的な表現であるが、人間は、宗教経験において経験したこ とを他者と共有したいと考える。そのような動機に基づく社会学的な表現に よって、究極的実在に方向づけられた宗教的共同体が形成される。社会学的 な表現については、ワッハの主著のひとつである『宗教社会学』 (Soc]'oIogyof. IML'gjon)において、主として論じられている。 ワッハの図式に照らして言えば、宗教経験は、それ自体では目に見える世界 あるいは歴史上の世界には存在しない。存在するのは、その表現としての宗教 現象であり、それは不可避に時代、文化、社会等の制約を受けている。すなわ ち、宗教経験が表現されるときには、それが「理論的な表現」、 「実践的な表現」、 「社会学的な表現」のいずれであっても、信仰者が精通している言語的ないし 文化的媒体を通してしか表現されえない。このような媒体は、いずれも宗教経 験以前の価値観や世界観を伴い、その時代の文化や社会、あるいは、先行する 自他の宗教伝統によって自動的に限定されている。すなわち、宗教経験の表現 は、そのコンテクストと不可分の関係にあるということである。 ー 138 - Ⅲ 宗教経験と世界の宗教 ⅠII- 1 宗教経験と真理の問題 宗教学とは、ワッハにとって、単なる宗教現象の客観的な記述でも、単なる 主観的な内面からの宗教研究でもない。かれによれば、宗教学は、その両方の 中間に位置すべきものである。 宗教学の課題は、宗教現象の根源である宗教経験の本質を追究し、宗教経験 とその表現との関わりを統合的に理解することである。かれはこのように確信 していた。したがって、宗教学においては、客体化された宗教経験の表現のみ に焦点をあてるのではなく、宗教経験との連関において捉えることが必要であ るという。ワッハが宗教研究において、いわゆる宗教経験をその中心に据えた 背景には、こうした宗教理解が伏在している。かれのいう宗教学は、いわば外 面にあらわれた宗教的な表現から宗教経験そのものに迫ろうとするものであ る。 宗教学の方法と課題に関して、ワッハは、その限界を十分に認識していたが、 宗教的真理の問題に関わることをあきらめなかった。真理に関する問題を、宗 教経験の本質に関連づけることによって、宗教学が、特定の宗教の真理解釈を 絶対視することなく、真理の問題に貢献できると考えた。というよりはむしろ、 かれは、宗教経験の問題に取り組めば、真理の問題に関わらざるをえないと考 えた[Wach 1968: 146】。真理について、ワッハは、これまでに与えられた真 理は、神が与えることができる最高のものであるか、また、それは適切に理解 されてきたか、さらに、それは適切に表現されているか、という問いを提示し ている7。 第一の問いに対しては、肯定的に答えるが、他の二つの問いに対しては、肯 定的に答えることはできないという。すなわち、真理は、ワッハによれば、神 が与えうる最高のものであるが、いかなる宗教においても適切にそして十分に 7 『宗教経験の諸類型J) (24-25再)や『宗教の比較研究』 (45頁)を参照。 - 139 - 理解され、表現されてはこなかったということである。かれによれば、真理は 一つであるが、特定の宗教の真理だけが真理であるとも、あらゆる宗教がすべ て平等に真理であるとも考えない。したがって、諸宗教の立場をできるだけ汲 み上げようとすることは、決して「寛容の精神」という一一一一言で片づけられるも のではない。すなわち、真理を得ようとするところに宗教間の相互理解の意義 があると言える。 ● ● ● ● ● ● ● ● その点にも関連するが、ワッハは、 「宗教学伯、ヌミノーゼの感覚(sensus numinis)、すなわち、宗教的な情操と理解を広げ、そして深める。宗教学は、 自らの信仰の理解をより深め、宗教とは何か、そして、それは何を意味するの かについて、新しく包括的な経験を可能にする」 tWach 1967: 4]と述べてい る。このように、かれは、宗教学の「実用的な意義」を強調している。例えば、 カトリックの儀礼的表現の意味を理解することによって、カトリック以外の信 仰者にとっても、宗教的生がより豊かで力強いものになるということである。 すなわち、宗教学の理解によって、自らの信仰の本質についての新しい理解に 到達することができるとワッハは考えたのである。さらには、宗教学の理解が、 宗教伝統の内部の人間による理解よりも、深く適切である場合さえありうると 考えた。 このようなワッハの理解は、宗教間対話の議論に関連するものである。すな わち、対話的視点から言えば、かれは諸宗教が絶対的に正しいとして譲らない 諸真理をいかに調停するかという問題に対して、宗教経験に糸口を求めようと したのである。そして、他者の信仰に触れることによって得られる有効性を「真 理」という言葉を使って表現しようとしたのである。ワッハによれば、コンテ クスト間の差異は相互理解の障害であるが、それは必ずしもマイナスの要素と いうわけではなく、人間の宗教的生を充実させるうえでのプラスの側面をも持 ち合わせているのである。 ⅠⅠⅠ-2 宗教経験の類型的理解-人間・神・宇宙 ワッハは、世界の諸宗教を視野に入れて、さらには、幅広い関心から宗教を - 140 - 理解しようと試みた。このことは、かれの理論が、その後の宗教学の展開にお いて大きな影響を与えた所以であろう。 ワッハは、 「記述的な意味だけでなく規範的な意味でも、宗教経験において 究極的実在に直面するのは全体的存在者だけである。 (中略)東洋はこの関係 をよくわきまえていたため、人間に関する教説の点で近代の西洋ほど大きなま ちがいを犯すことは決してなかった。東洋ではつねに、人間論が宇宙論や神論 と密接な関係にあるものと考えられてきた」 【Wach 1958:34】、あるいは、 「西 洋の人間論と比較して、人間に関する東洋思想は、西洋においては次第に薄ら いだ特徴、つまり、宇宙論的コンテクストによって特徴づけられるというのが われわれの主張である」[Wach 1951:61】と述べている。さらに、ワッハは、「神 話的段階における思想は、ほとんどの無文字文化や東洋の古代文化においてそ うであるように、第一に神論と宇宙論に向けられ」ていると考え、 「人間中心 主義は、東洋においては実質的に知られていない」と述べている【ibid∴ 65】。 このように、ワッハは、その宗教論において西洋と東洋の宗教現象を対照的 に捉える傾向があった。ワッハの宗教論の中から、西洋と東洋の類型的把握に よる典型的な例を挙げれば、たとえば、西洋の宗教においては、身体と精神、 さらには人格を形成しているさまざまな部分が独立して扱われる傾向があった のに対して、東洋の宗教においては、身体と精神と霊魂が密接に関係していた という。そして、西洋においては、ワッハによれば人間論、神論、宇宙論とい う普遍的で最も根本的なテーマが別々のものとして扱われる傾向にあったのに 対して、東洋においては、つねに三者が密接な関係にあったという。さらには、 宗教経験の表現様式について、西洋では、論述的な言葉が宗教経験を表現する 唯一の正当な形態であるとみなされることがあまりにも多かったのに対して、 東洋では、いつも告知的な媒体を評価してきたという。かれによれば、論述的 様式は、明示的、直接的であり、明確で厳密に規定されていて、最大限の正確 さを可能にすることから言語が唯一でないにしても第一の手段である。それに 対して、告知的様式は、隠された形で何かを指摘したり示唆したり表現したり するもので、視覚的な形で伝えられるという。 - 141 - このようなワッハの類型的な把握の根底には、比較的早い時期の著作である 『宗教的人間論の類型』や後に英語で書き改められた「近東の宗教における人 間の観念」 (The ldea of Man in the Near Eastern Religions、 『宗教経験の諸 類型』の第二章)にみられる人間論から捉えた宗教の類型的理解があると言え る。かれは、西洋の宗教と東洋の宗教の決定的な違いは、神論や宇宙論ではな く人間論にあると考えた。 ワッハによれば、西洋の宗教思想は、ギリジア的な思想とユダヤ・キリス ト・イスラーム的な思想という二つの類型に分けられる。すなわち、ワッハ は、人間に関する教説から宗教を捉えて、ギリシア的な思想を「人間中心主義」 (Anthropo-zentrismus)、ユダヤ・キリスト・イスラーム的な思想を「神中心 主義」 (Theo-zentrismus)とし、それに対して、東洋の宗教における思想を「宇 宙中心主義」 (Kosmo-zentrismus)と捉えた。ユダヤ・キリスト・イスラーム においては、ワッハによれば、その初期からギリシア哲学のカテゴリーを用い て教理を展開してきたことから、ギリシアの「人間中心主義」的な思想とユダ ヤ・キリスト・イスラームの「神中心主義」的な思想が複雑に絡み合っている。 それに対して、東洋の宗教現象においては、あらゆるものを秩序づける宇宙論 的な秩序が特徴的であるという。 「人間中心主義」、 「神中心主義」、 「宇宙中心主義」という三類型は、宗教経 験の表現様式を形態ではなく、内容の側面から類型化したものである。そして、 これは、ワッハがあらゆる宗教に普遍的に見られると考えた人間論、神論、宇 宙論という三つに対応していると解釈できる。このことは、人間論について論 じようとすれば、神論や宇宙論に言及せずにはいられないことを端的に示して いる。かれによれば、宗教経験において一体であるものが、その後の展開や強 調点の違いに応じて人間論、神論、宇宙論へと分化しているのであって、これ ら三つの主題は宗教を説明する際の三つの側面である。すなわち、 「人間中心 主義」、 「神中心主義」、 「宇宙中心主義」という類型も、この三つの根本的主題 に照らせば、それぞれ異なるものではなく内的な対応関係にあると言える。 このような類型は、特定の宗教ではなく「人類の宗教」という視点から宗教 ー 142 - を考えるとき、今Hもなお一定の妥当性を有しているが、 、当然ながら、きれい に類型化できるはずはなく、多くの例外的な宗教経験とその表現が存在してい る。ある意味でこのような例外は、実際の宗教別象において人間に関する主題、 神などの究極的実在に関する主題、世界や宇何に関する了題の二_三署がいかにイ)A 機的に連関しているかということを暗に物語っていると読むこともできる。 ワッハのこのような類型的枠組みは、ひとたび枠組みができると固定化し、 スタティックな枠組みになりがちである。この=.類型においても、 -西洋の視点 から捉えた枠組みが先行し、それゆえ、実際の宗教のリアリティとうまく合わ ない例外的な事例が/i:.じている感も否定できない。しかし、このように、個々 の宗教ばかりでなく人類の宗教全体から宗教を捉えようとする意除目ま、今日の 宗教学においても見習うべきところは多い。 おわりに 宗教は個人の内血に関わることであるが、一一万で、個人の内r帥ことどまるば かりではなく、われわれの日に見えるかたちとなって人間の里舌にさまざまな 影響を与える。ここで取り挙げたワッハのいう宗教経験の図式は、信仰者を個 人として扱うばかりではなく、その社会性をも視野に入れており、包括性に優 れた図式と言えるL小出19(jG]o 人間学的でありながら社会学的でもあると言 い換えることもできる。しかし、そのl対式は、たしかに世界の宗教を視野に入 れているが、周知のようにキリスト教をはじめとする有神論的なモデルによる ところが大きいことは否定できない。 このような傾IL'小ま、なにもT7,1ノハだけにあてはまることではないo宗教研究に際 して用いられる概念や枠組みは「必然的に暫定的な性格」をもっているのであ り、われわれは「歴史的・文化的な偏見」を常に疑わなければならないlグラ ハム2()04: 30-3日。すなわち、ワッハの宗教論における構成概念もイ(HJ避的 に「暫定的な性格」をもち、意識的であれ無意識的であれ、当時の西洋の「歴 史的・対ヒ的な偏見」を伴っているということであるo このことは、ワッハの - 143 - 宗教論が宗教のリアリティを適確に捉えているかどうかという点で、他の研究 者にとっても同様に、おのずと限界があることを明示している。 それでは、そのような「歴史的・又化的な偏見」を伴う概念や枠組みを用い るわれわれには、どのような研究姿勢が求められるのであろうかo その.点に関 しては、宗教経験理解の留意点として紹介しているワッハ自身の考え(第川に、 宗教経験とその表現は、つねに燃史的、文化的、社会的、宗教的に条件づけら れているということである。したがって、宗教経験は、自己の\1場を絶対視す るのではなく、それぞれのコンテクストにおいて糾解する必要がある0)の巾 にヒントがあるのではないが。 というのも、研究者は、宗教を理解しようとする際に、その宗教のコンテク ストや担い手の関わり方を、意識的あるいは無意識的に軽視しがちである。と ころが、 「宗教」をはじめ「聖典」 「儀礼」 「祈り」など、宗教学において不可 欠とも言える宗教的カテゴリーは「関係的性格」をもっている。すなわち、グ ラハムの言葉をかりれば、宗教研究におけるさまざまな概念や用語は、 「多岐 にわたるfli象を分頗するための一一般的な用語にはなるが、それらが宗教研究に とって把握可能で、意味あるものとなるのは、それらが信仰者との文脈的関係 において群解される時だけである」 Lグラハム2004: 331。この洞察は市要で あるoすなわち、宗教と呼ばれるfii象に宗教的な意味合いを/j・えるのは、その 信仰者の関わり方であるo研究者が一見宗教的ではないとみられる以象に宗教 的な意味合いを比つける場合においても、研究者の視点がより大きな役割を占 めるとはいえ、基本的には同様である。この「関係的性格」を無視することは 信仰者にとっての意味を無視するということであり、そのような研究において、 ㍍仰の実態を捉えることは不可能と言える。研究者と信仰者の間に横たわる溝 を埋めるのは、そこから何かを学ぼうとする真筆な態度、あるいは、純粋に柑 8 ワッハは、宗教fli如)コンテクストがもつ市要件を十分に認めていたが、それがかれの),;て教諭o) 中で卜'/Jに反映されているかというと簸川iJも残る。その紫L^jの つには、コンテクストを重税する あまり州対i:_掛こWE'Fることや、宗教を社会的ないし文化的なLJJ果関係によって湖明しようとする決 JjiI.釦こ陥ることを繁戒したことが考えられる。 - 144 - 手を理解しようとする態度である。これが欠けていれば、たとえ信仰の広がり を捉えることはできたとしてもその意味や深さを捉えることはできないし、さ らには、宗教研究が単なる珍奇なものに関する表面的なデータの蓄積に陥るこ とにもなる。 したがって、ワッハの宗教論さらには現代の宗教学において当然のように用 いられてきた概念や枠組みを単純に自明なものとして受け入れるのではなく、 より微妙なニュアンスや問題を含んだものとして理解することが必要である。 こうした従来の概念や枠組みを絶対的なものとして宗教現象に当てはめた場 合、焦点や強調点や枠組みの違いによって、まったく見え方が異なってしまう 危険性がある。とはいえ、このような概念や枠組みを、実際のリアリティにそ ぐわないとして切り捨ててしまうことはまた決して生産的とは言えない。宗教 現象のコンテクストに位置づけて柔軟に用いるのであれば、その有効性を決し て無視できるものではない。特に、その発見的意義が損なわれることはないし、 通文化的な関係に考えをめぐらせるときに不可欠とも言える。したがって、今 後は、世界の宗教あるいは宗教的なものを研究する際に、信仰者の関わり方を 中心としてそのコンテクストに位置づけて宗教を理解し、そうして得られた研 究成果に照らしながら、従来の概念的枠組みを再検討する必要がある。そして、 その重要性は、ますます増大している。 ただし、このようなコンテクストの重視は社会的・文化的決定論を支持する ものではない。ここでのそれは、信仰の実態を捉えようとするものであって、 この研究姿勢と共に、信仰者の意味世界に注目しながら宗教あるいは宗教的な ものをみることが必要であるo その際、当然のことながら、信仰者にとっての 意味に注意を奪われ、それに/iって現実を見失ってはならないことは言うまで もない。それゆえ、宗教あるいは宗教的なものをコンテクストに位置づけて、 そうはいってもそのなかに解消してしまうのではなく、他の学問分野と連携し ながら有機的に理解すべきである。とりわけ、スピリチュアリティなどが話題 に挙がる今日の宗教動向は、個人の意味世界に注目すること、そして、従来の 学問的な枠にとらわれないことを要求していると言える。 - 145 - このように、今日、 「宗教」のリアリティを捉えようとすれば、従来の学問 領域の枠にとらわれないアプローチがますます求められることになるわけであ るが、単なる学問の学際化は画一化を招くことになる。宗教の統合的理解を目 指したワッハは、宗教に関心をもつさまざまな字間分野の研究者が依って立つ 全般的な枠組みを構築しようと奔走し、そのような意図の下で宗教経験とその 表現に関する理論を展開した。それは、信仰者の超越的な次元と社会的な次元 を同時に捉えようとするものであった。そこに√超越的な次元の探究という学 際化が進んだとしても譲れない視点をみることができる。たしかに、ワッハの 宗教経験とその表現に関する理論は、今日の視点からみれば多くの批判点を含 んでいるが、それぞれに独自の視点を有していることで有機的な研究が可能に なる、ということをわれわれに示唆している。今さら強調するまでもないかも しれないが、宗教研究の学際化、それは創造的な知を生み出すためのものでな ければならない。 今日の宗教研究においては、 「宗教とはなにか」を問うことはさまざまな問 題を学んでいるとされる。それでも、なぜその現象は「宗教」と呼ばれるのか、 そして、 「宗教」という言葉を使ってその現象から何をみるのか、という問い は重要である。宗教を研究する動機はさまざまであろうが、研究者が「宗教」 という言葉を用いて諸現象を読み解き、それによって人間や世界を問う際に、 「そこから人は何を学ぶのか」という視点に立つことによってより創造的な知 が生み出されていくのではないか。このような視点をふまえたうえで、宗教現 象の意味理解の地平を切り拓くことが求められる。 ー 146 - 【引用・参考文献】 ・ Kitagawa, Joseph M., ‖Introduction: The Life and Thought oHoachim Wach,''in Joachim Wach, The ComparalJ've Study oFRel1-gjons, ed.with an Introduction by Joseph M. 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As is generally known, the religious theory of Joachim Wach (1898-1955) is also based on Western frameworks and conceptions. On that premise I will take up his theory ln this article. In Japan his name is well-known among religious researchers, but studies on his theory are far from satisfactory. In this article I will focus on his understanding or religlOuS experience that is the core part of his theory. First, I would like to illuminate his attitude and viewpoint towards '-religlOn■■, and consider his theory of the religlOuS experience and its expression. Second, Considering his understanding of religious experience, I will examine the issue of truth and the typologlCal understanding or religlOnS. Finally, based on the problems of Wach■s theory, I would like to think about the future or religious Studies, and propose a possible direction for the field. - 149 -
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