2008.05.01 No1023号

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NO.1023,
■巻頭言 ■
「一〇四七名の解雇撤回! 反新自由主義キャンペーン!」
自分と向 き合い 、自問を 繰り返 した二七 日間
今 回の 「 国鉄労 働者 一〇 四七 名の解 雇撤 回! 反新 自由 主義 キャ ンペ ーン !」は 、
も う限 界だ と言 っちゃ え! 」等
過去二回 のキャラ バンより 、自分 が想像し ていた 以上に過酷 な旅と なりまし た。
「 こ んな 事を して 何に なる? 自 分の 自己満 足?
々、自 分と向 き合い、何 度も自 問を繰り 返しま した。こ んな思 いをしたの は、人 生の
岐路に立 たされた 「分割・ 民営化 」当時以 来です 。
反 省点は多 くあり ます。いつ ものよ うにトレ ーニン グも含め 、様々 な準備不足 で臨
んだこと 。初めて 、通しの伴走者もつけなかったこと等… 。でも 、過去の経験から「自
転車なら何とかいけるだろう 」と思ったのですが 、牽引しているリヤカーの重量が(二
〇㎏ 程)これ 程の負 担になる とは…想 像と現 在の体力 の限度を はるか に超えて いまし
た。
知らない 土地で 一人…自 動車、歩 行者に 気を遣い 、自動車 専用道路 (バイ パス)に
行く 手を阻ま れ、そ こからま た引き返 す。こん な事を 毎日繰り 返して いると体 力も精
しかし、 一番の苦 戦の原 因は、車 が何に おいても 優先され 、歩行者 、自転 車の通る
神も蝕 まれてい きます。
歩道 、左側は 整備さ れていな いという ことです 。まし てやリヤ カーを 牽引して安 全に
走るこ となど、 今の日本 の道路 事情では ほとんど 不可能 です。し かし、道 路が整 備さ
れ、準備が 万全で あれば、 このリ ヤカー牽 引スタイ ルは、通 行人の 目を引き 、長距 離
の移 動ができ 、
場 所を選ば ないで 宣伝行動 が出来る 究極の宣 伝アイ テムだと 思います 。
国交 省のお役人 、国会 議員の先 生方は 、一度、 地元の 国道でいい から、 歩くか自 転
車で走って 、自分 の目で確 かめて 見るべき です。日 本はこれ から高 齢化社会 を迎える
中で 、車、高 速道路 はそれほど 必要な いと思い ます。 利用価値 のない 、無駄な高 速道
路を作 るなら、 安全で安 心して 乗れる公 共交通の 確立、 再生こそ 必要です 。そして 、
全 国どこで も、安 全に徒歩 、自転 車の旅が 出来るよ うな道路 を整備 してほし いもので
す。
あま りの道路事 情の悪 さから、 怒りが 込み上げ て、話が 脱線して しまい ました… 報
告 に戻りま す。厳 しいキャ ンペーン の反省 点からの 報告にな りまし たが、今 回のキャ
ンペ ーンの目 的は、 国鉄闘争の 世論喚 起。その ために 、分割・ 民営化 攻撃が発端 とい
われる 、新自由 主義政策 による、 弱者切 り捨ての 諸問題 と結びあい 、政府 に対し政 策
の 転換を迫 る。そ れに、私 たち当事 者が先 頭になっ て訴える ことにあ りまし た。全体
を通 して見れ ば、時 間的な制約 と、平 日は人も まばら で訴える 場所が なく、思っ てい
た数ほ どの辻立 ち宣伝は 出来ませ んでし たが、そ れでも 派手なリヤ カーが 珍しいよ う
で 、最後ま で訴え を聞いて 頂いたり 、話し かけてく れる方も 多くいま した。
また 、四国 では、県 民の八割 の方々が 購読し ていると いわれ る徳島新聞 、高知 新聞
に、大 きくカラー 写真入 りで掲載 され、 宣伝不足 を補う に余りある 効果が あったと 思
い ます。そ れから、 多くの 新しい出 会いも あり、キ ャンペー ン中、苦 しい時 、いつも
-2-
仲間が駆 けつけ、 伴走し てくれま した。三 年前の ランニン グキャラ バンで知 り合っ た
方 々 も多 く、 国鉄 闘争勝 利と いう 共通 の目 的はあ りま すが 、何 事も 、「 人と人 の繋 が
りから 」と、 あらためて 感じま した。で すから 、三月一 四日、 私が左指の 靭帯を 切っ
た時も、 待ってく れてい る各地域 の方々の 姿が浮 かび、身 体が動き 、前に進 もうと い
う気 力のあ るうちは 、キャ ンペーンを 中止す る気には なりま せんでし た。この 度も、
各地域 の方々 には、ご支 援をい ただき、 ご心配 もおかけ しまし たが、今年 は勝負 の年
であると 、自分で決めていますから 、どんなに過酷なことでも 、やれると思うことは 、
州
」
四 国在住記 №
制
(『南の国から~
キャ ンペーン ヘのご支 援、連 帯、大変 ありがと うござ いました 。
道
―「窮 極の構 造改革」 の意味( 上)―
』 中野
39
勇人 )
身体 の細胞 が一つで も反応す る限り、 立ち止 まらず、 走り続 けたいと 思います 。
「
「地方 分権」 と「中央集 権」
地方 分権って いったい 何でしょ うか。 推進派の 政府・ 財界の主張 は支離 滅裂です 。
たとえば、 地方分 権で徳川 時代の ように地 方の文 化、特色が 創造で きるとい うよう に
です 。たとえ ば、日 本経団連 会長は昨 年九月 一八日、 経団連主 催のシ ンポジウ ム「道
州制 で 日本 を変 える 」で 、
「 道州制 の導 入に よっ て、か つて 三百 の藩 が存在 し た時代
のように、 地域が それぞれ 特色あ る個性を 発揮し 、地域の活 性化に 自ら取り 組み、 実
現す ることが できる 。
」とい ってい ます。
ちょ っと待って 欲しい 。徳川時 代は封 建時代― 士農工 商の格差・ 秩序の 身分制― を
第一とした 時代で す。支配 階級の 武士集団 は生活 ―税は米― のもと だった農 の崩壊 を
恐れ 、農民を 土地に 縛りつけ ましたし 、商の発 展は「 国の乱れ 」のも とと、人の 往来
を厳し く取り締 まりまし た。典 型が関所 です。封 建君主 は商品経 済発展に 本能的 に恐
怖をいだい ていた のです。 ですか ら、資本 主義のこ の時代に 徳川三 百藩体制 を再生 し
よう なんてい うのは 、時代錯 誤もはな はだしい といわ なければ なりま せん。
封建 時代の特色 は「地 方分権」 です。 三百藩大 名の藩 境は関所で 守られ 、通商は 禁
止されまし た。そ の結果、 地域の 文化、言 葉=方言 が国者( くにも の)であ るか否か
を見 極める絶 対的方 法でもあっ たので す。今で も九州 や東北の 方言で ペチャクチ ャや
られる と理解不 能ですよ ね。
封 建時代 の商品流 通発展 は、藩境 をくず していきま す。商 工業は発 展し安 土桃山の
織田 信長の時 代、泉 州堺は都市 国家を 生み出し ます。 信長、秀 吉は今 でいう自由 主義
であ る 「楽 市・ 楽座 」
「 朱印 船貿易 」を 奨励し 、 島国日 本が 英国 より はやく 資本 主義
市 場を形成 するか の時期も ありまし た。こ れを鎖国 で封建時 代へと 歴史の歯 車を逆転
回したのが家康でした 。徳川封建体制下三百年の間に 、商品流通は社会に深く浸透し 、
資本主 義の条件 をつくっ ていきま す。
開 国決定 を決定づ けたの はペルーの 来訪 、近代技術 の粋だ った圧倒 的な軍 事力=黒
船と 商品とい う重砲 隊でした。 それは 一八四八 年に、 マルクス が『共 産党宣言』 で次
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のように 述べてい るとお りです。
「 ブルジョ ア階級 は、すべ ての生産 用具の急 速な改 良によっ て、無 制限に容易 にな
った交 通によ って、すべ ての民 族を、ど んな未 開な民族 をも、 文明のなか へ引き いれ
る 。彼らの商品の安い価格は重砲隊であり 、これを打ち出せば万里の長城も破壊され 、
未開 人のど んな頑固 な異国 人嫌いも降 伏を余 儀なくさ れる。 かれらは すべての 民族を
して、 もし滅 亡したくな いなら ば、ブル ジョア 階級の生 産様式 を採用せざ るをえ なく
する。か れらはす べての民 族に、 いわゆる 文明を 自国に輸 入するこ とを、す なわち ブ
ルジ ョア階 級になる ことを強 制する。 一言で いえば、 ブルジ ョア階級 は、かれ ら自身
の姿に 型どっ て世界を創 造する のである 」
( 岩波文庫版 、四五 頁)
日本では この過 程が明治 維新と しておこ なわれた のです。 明治新 政府は封 建的生産
体制 から、 資本主義 体制づく りに邁進 します 。それは いわゆる 「地方 分権」か ら「中
央集権 」体制 づくりであ り、そ の中心が 廃藩置 県であっ たので す。
日本の国 家体制 、行政機 構は基本 的には この措置 を踏襲し つづけ てきます 。市町村
合併 は昭和 、そして 平成とく り返され ました 。そして 今、平成 の大合 併を足場 に、独
占資本 、それ に支えられ る自民 政府が中 央集権 体制をあ らたに再 構築した いとす るの
が、道州制 に他な りません 。
始まった道 州制論 議
一九九〇 年代か ら中央省 庁の再編 成、地 方自治制 度の改悪 が「地方 分権推 進」の名
の下 におこな われて きました 。その結 果が「平 成の大 合併」で 、約三 千八百あ った市
町村が 約半分の 千八百市 町村に 統合され ました 。そして 、いま声 高に叫ば れ始め てい
るのが国家 の仕組 みを根本 的に再 編成しよ うとす る「道州制 」論議 です。
「 道州制」 導入に ついて、自 民党道 州制調査 会が〇 七年六月 一四に発 表した「 道州
制に関する第二次中間報告 」で 、
「道州制は 、国家の統治機構を再構築する課題 」と 、
次のように 位置づ けていま す。
「 今こそ、 政治は窮 極の革命 的構造 改革を実 施する ことによ って国民 の期待に 応え
ていか なければ ならない 。それ は、明治 維新の『 廃藩置 県』に匹 敵する『 廃県置州 』
ともいうべ き道州 制の移行 を断行 すること によって 、これま での中 央集権体 制を一新
し、 地方分権 体制へ の大規模な 転換を 行うこと である 」
「道 州制導入」 にもっ とも熱心 なのが 日本経団 連です。 日本経団 連は〇 七年三月 二
八 日に「道 州制の 導入に向 けた第 一次提言 ―窮極の 構造改革 を目指 して」を 発表して
いま す。
「道 州制の導入 によっ て、国に おいて は外交・ 防衛など 国家安全 保障や 司法を担 当
す るととも に国家 としての 競争力を 重視し た政策を 重点的に 推進し 、また地 域におい
ては それぞれ の特徴 に応じた自 律的な 地域経営 ・行政 を推進す るとい う明確な役 割分
担が実 現する。 このこと は、アジ アなど 新興国が 台頭し グローバル 競争が 激化する 中
(滝野 忠・つづく )
で 、コンペ ティテ ィブ・エ ッジを確 立する ことによ りわが国 全体の競 争力を 強化する
観点からも重要である 。」
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『労農派マルクス主義―理論・ひと・歴史』のすすめ
―A5 判上製 四二〇 頁 定価 四一〇〇 円+税 社会評 論社刊―
日本社 会主義 の源流
「 労 農派が 日本 社会 主義 の中心 だっ た」 とは 、中曽 根康 弘元 首相 の言で あ る 。(梅
原猛との 対談『政 治と哲 学』PH P、一九 九六年 )
。そ して 、
「戦後、 社会党が新 しく
出て きます けれども 、その 基本的なD NAは 労農派で す。つ まりマル クス主 義者が社
会党の 中心を 占めてい た 。
・・・そして 、それが敗戦から来る厭戦思想と結びついて 、
平和を、 あるいは 反戦を 正面の題 目に掲げ て、社 会主義の 看板の下 に政治、 社会勢 力
を集 めまし た 」
( 同上)と 。
この 日本にお ける新自 由主義 の元祖の 「国鉄の 民営化 を断行し ・・これ で国鉄 労働
組合は崩 壊し、同 時に総 評も崩壊 し、社会 党が潰 れた・・ だから単 なる合理 化とし て
片付 けられ るもので はない 」
(『自民党の底力』〇五年)との改憲への執念は、明確に
労農派 マルク ス主義打倒 が目的 だったの である 。
その根絶なしには憲法九条改悪=「新
憲法制定 」はなし えない、 と。
今、
「マル クス人 気 」
、 たいへん なマルク スのリ バイバル ・ブーム である。 様々な マ
ルクス を冠し た題名の出 版物が 書店に並 び、電 車のつり 広告で 日本共産党 の委員 長が
佐藤 優 )。「一
「 宣 言 」 を 語 り (『週 刊 朝 日 』 〇 八 ・ 四 ・ 四 )、「 外 務 省 の ラ ス プ ー チ ン 」 が 「『資 本
論 』で 見る日 本国 の地 獄絵 」を読 み解 く(『ア エラ 』〇 八・三 ・ 一〇
九世紀 の救貧 院は格差社 会の地 獄絵 」
「JR宝塚線事故は利潤追求重視の悲劇の結末 」
「ホリエモンを逮捕させた日本国の生存本能 」
「『ゴキブリ入り特製パン 』
(『資本論 』)
を 笑 えな い現 代日本 」(佐藤 優) など 新自 由主義 の害 毒垂 れ流 しの日 本 に、マ ルク ス
が述べ る「資 本主義的蓄 積の一 般法則 」
(いわ ゆる「窮 乏化法 則 」
) 通りの現 状が誰の
目にもあら わにな ったから である 。
し かしそれ が戦前 、反ファシ ズム統 一戦線を 否定し 、戦後は 極左冒 険主義路線 や六
十四年 公労協 四・一七ス ト破り や国鉄闘 争四党 合意問題 などで反 労働者的 立場を とっ
てきた講座 派末裔 の若手「 元前衛 」党委員 長や、 宇野理論か ぶれで 国家主義 者にな っ
てい る者(佐 藤優は これだけ 窮乏化法 則の現象 をあげ つらいな がら『 資本論』 の結論
であ る 窮乏 化法 則と そこか ら論 証さ れる 「資本 主 義的蓄 積の 歴史 的傾 向 」、す なわち
社会主義革 命の必 然性を否 定する 宇野理論 が正し いと言うが 、日本 語として およそ 理
解で きない) などが 、偽装マ ルクス主 義を開陳 するマ スコミ状 況に忸 怩(じくじ )た
る思い をしてき たのは私 ひとり ではない だろう。
四十年 にわたる 研究の成 果
ここ に至り、四 十年に わたる丹 念な資 料収集と 分析・ 研究を踏ま え、八 年の歳月 を
かけて、マ ルクス 主義を日 本的条 件に正し く適用し た科学的 社会主 義者の集 団の初め
上 巻 』(社会 評論
ての 通史で、 初めて 労農派マル クス主 義者自身 の手に よる本が 刊行さ れた。敬愛 する
先輩 ・ 石河 康国 さん の『労 農派 マル クス 主義― 理論 ・ひ と・ 歴史
-5-
社刊)で ある。
前 述・佐藤 優もこ の点は正 しくも「 一九三〇 年代、 野呂栄太 郎ら講 座派と山川 均ら
労農派 との間 で日本資本 主義論 争が起こ り、日 本のマル クス主 義研究は欧 米を凌 駕す
る高みに 達した」 と述べ る。石河 氏は「結 合の前 の分離」 を説き大 衆運動に 分裂を も
た ら す福 本イ ズム 批判( 山川 均) や 、「三 〇年も の間 、資 本主 義の 法則 的作用 が押 し
とどめ られる はずがない 」と山 田盛太郎 の封建 的・絶対 主義的 な「資本主 義の型 」固
定・強化 を説く非 科学的な 現状分 析批判( 向坂逸 郎)など で労農派 理論は鍛 えられ 発
展し てきた と述べる 。そして 、労農派 を代表 する二大 論文と は、極左 分裂主義 吹き荒
れるなか発表された「無産階級運動の方向転換 」
(山川均『前衛 』一九二二・八 )と 、
世界 初 の科学 的な 平和 革命 論で ある「 歴史 的法 則に つい て 」(向 坂逸郎 、月 刊『 世界
文化 』一九 四六・九 )である というが 、究め つくした 人の言で あろう 。
「労 農派」 と「講座 派」
「 文章は労 農派だ よ」という 有名な 言葉があ るが、 そして奥 ゆかし くてとても 大事
なこと や、す ごい努力の 結果生 み出され たこと でも、労 農派の論 客はさら りとこ とも
なげに述べ る。こ の著書で も他な らぬ天皇 制のこ とで、たい へん意 味深い事 を述べ て
いる 。私が学 生時代 に山田盛 太郎の『 日本資 本主義分 析』の悪 文に仲 間と取り 組んで
いたと き、図 書館から発 掘して きた本に あった 岡崎三郎 さんのさ らりとし た一頁 の文
章に、憑物 (つき もの)が とれる 思いがし た。
そ の山 田氏 が私の 学ぶ 立命 館大 学に特 別 講義に 来ら れた 際( 七三年 )、「『資本論』
第二巻 の再生産 論で現実 の資本 主義分析 を先生 がされて いるのは 、レーニ ンがや って
いると言わ れる。 しかしレ ーニン が『市場 問題に ついて』で 言って いるのは 、ナロ ー
ドニ キが再生 産論を もとに資 本主義の 矛盾を言 うのは 間違いだ と言っ ているので あっ
て、 全 く逆 じゃ ない ですか 」と 質問 した ら 、「私 は授業 をや って いる んで、 研 究会を
やっている んでは ない」と 生協の 食堂にな らんでし まわれ、 らちが あかなか ったこ と
も思 い出した 。その 足で友人 と大阪に 出向き、 社会主 義協会関 西支局 を初めて訪 問し
たこと も。そし て社青同 立命館 大学班の 結成に向 かった 。
世界初の 『マルク ス・エ ンゲルス 全集』 が出版され たのは 、マルク スの祖 国・ドイ
ツで もなく、 マルク スが『資本 論』を 書いたイ ギリス でも、世 界初の 社会主義国 ・ソ
連でも なく、こ の東洋の 島国だ った。そ れも戦前 の社会 主義はお ろか民主 主義運動 に
も 大弾圧を 下され ていたま さにそ のときに 、向坂逸 郎初め労 農派の 学者・研 究者が五
年と いう異例 の短い 期間で全三 一巻を 完結させ たので ある。
私の 年の離れた 従兄弟 である芳 賀徹と いう比較 文学者は 、この本 を監修 された東 大
同期の塚本健先生などとはおよそ逆の政治的立場にあるが 、山川菊栄の『武家の女性 』
(岩 波文庫) を解説 していて驚 いた。 すっかり その文 章(もち ろんだ がその内容 ・識
見にも )に感動してしまっているのである 。
「生前 、一度お会いしておけばよかった 」
と 残念がる ことし きりであ った。
労農 派は講 座派のよ うに科学 的究明を コミン テルンの 指導な どで政治 的に一晩 にし
て一転 させたり 、決着さ せたりし なかっ た。価値 論・地 代論論争の 時労農 派で活躍 し
-6-
た櫛田民 蔵は、小 作料の 性格規定 に渾身の 力をふ りしぼり 、論争半 ばで没し た。そ れ
とい うのも 、革命戦 略の前 提となる日 本資本 主義の権 力規定 を明かに するのに つなが
ってい るから 、真理の探 究に真 剣なので あった 。
これも私 事回想 で失礼だ が、大 学二回生 時に担当 をしてい たので 学内研究 組織で 向
坂 逸 郎講 演会 をも ち(七 二年 )、共産 党・ 民青三 千人 と言 われ た当 時の 学内で 六百 人
の参加 で成功 させること ができ た。講演 直前に 、日本共 産党員 の教授たち はいっ せい
に各 ク ラスで 向坂 理論 批判 を述 べた 。
「 資本一 般世 界に 還元 する ので気 をつ ける よう
に」 と。こ れはまあ 許せた。 四回生時 、山口 正之とい う当時 大学で看 板教授だ った人
の国家 独占資 本主義論を 批判す る論文を 書いて 学内機関 誌に投 稿したとき 、その かば
ん持 ち の若い 助教 授か ら呼 び出 され 、
「 君は社 会主 義協 会の立 場 で書い てい るの で間
違っ ている から書き 直しなさ い」と言 われた 。何の内 容批判も なしに 。その場 はぐっ
とこら えなぜ かそのまま 掲載は されたが 、ばか ばかしく なり卒 業寸前に自 主退学 し、
先輩の勧 めで京都 総評に入 局し今 日に至る 。
「世界で初 めての 」見解も
この本はおよそ「血わき肉踊る 」本ではない。労農派というとどてらや浴衣を着て、
気楽 に饅頭で も食べ ながら犬 の頭をな で、カ ラスを飼 っている という ような雰 囲気の
写真 が 多い 。石 河氏 も言う よう に「 雑誌 付録 に『 婦人版 』を 作成 」
( こんな こ ともそ
の頃は 他に なか った らしい )し 、「『革 命家 』気 取りせ ず 、『 普通の 人』 に親し まれる
作風 」が労農 派だ、 と(そし てレジュ メを作ら ない。 図解をし ない・ ・正確さ を期そ
うと す るの だろ う )。戦 前の 無産政 党の 離合 集散 や戦後 の「 社会 主義 労働党 準 備会」
の経過など を詳述 されてい て、こ の書評を 滝野編 集長に急ぎ 命ぜら れた小生 には、 四
〇五 ページ二 段組で 読了にた いへん骨 が折れた 。しか し、当時 の労農 派の人びと 自身
が勘違 いしてい ること、 忘却さ れていた ことなど の指摘 も随所に され、そ の章節 の末
尾にはさり げなく 「世界で 初めて の」見解 が披瀝さ れている のであ る。
政 治の力学 について も大いに 学んだ 。戦後の 片山内 閣、芦田 内閣など を組閣・ 入閣
して今 の民主党 以上にひ どい部 分を抱え ながら、 それよ りも国民 的人気を 博しなが ら
よく自由党 などに 飲み込ま れずに 、日本共 産党に労 農党等な どを介 して今で は考えら
れな いもぎり 取り戦 術を受けな がらも 、良く持 ちこた え左派社 会党の 建設・大躍 進ま
でいた った経緯 など、類 似本で は絶対に 学べない 。
そ して奇 異なこと を言う ようだが 、かつ て「労農派 はどろ んこにな って労 働者と闘
う 」と 言 った 人がい たが (そ のこ とは正 当だ が )、労 農派 は初 めから 労働 運動 と一 体
であっ たわけで はないこ とも改め て知っ た。すべ て支配 階級の攻 撃による が、戦前 は
猪 俣津南雄 や高野 実などを 除いて、 むしろ 皮肉にも 理論的に は労農 派として は「極度
の封 建制」を 否定し ていた農民 組合の 方に影響 力があ り、戦後 も向坂 逸郎の三池 労働
者との つながり が本格的 スタート だった のである 。河上 肇に端的に 現れて いる日本 の
左 翼インテ リにあ りがちな 「実践」 コンプ レックス と権威主 義を捨て て、労 農派は労
働者 とすなお に学習 会を組織し て、そ の後労働 運動に 大きな影 響力を 築いていっ た。
日本共 産党はコ ミンテ ルンに盲 従し、三 二テー ゼで「天 皇制に対 する闘 争から外 ら
-7-
す」と、 反ファッ ショ闘 争を否定 した。こ の間は 手のひら を返した ような国 際共産 主
義運 動への 見解・対 応にな っているが 、深く 理解・反 省した 上での転 換ではな い。自
主的に 考える こと、統一 戦線の 重要性な ど、今 の憲法九 条改悪 反対闘争で も〝九 条ネ
ット〟へ の誹謗中 傷の仕 方を見て いると、 この人 たちは本 当には分 かってい ないの か
もし れない という気 がして くる。そん なこと も学べる 本であ る。だか ら第二次 大戦直
後、山 川均か ら民主人民 戦線の 提起がな され大 きく社会 党・共 産党や民衆 をまき こん
だ運動が 発展した が、先輩 の壮大 で重要な 実践を 大いに学 び、私た ち後進は 自信を も
ち進 まねば ならない 。
石河 さんと いう人
石 河さんは キャラ クターから しても 、こうい う労農 派を体現 した人 である。酒 もタ
バコも たしな まない。私 たちが アルコー ルで気 炎をあげ ている とき、きち んとつ きあ
いされな がらも帰 宅後は永 年おく びにも出 さずに 勉強に勉強 を重ね 、この世 界で最 初
の本を著述されていたのである 。五一年までがこの上巻で扱い 、下巻では毛沢東が「不
思議な 党だ」 と首を傾げ た日本 社会党の 消滅す る一九九 五年まで が解明さ れる。 今か
ら待ち遠し い。八 四年労研 センタ ー全国集 会で入 洛された際 、私が 大学時代 から通 い
つめ 労農派の 本を探 しても何 もなく、 仕方が ないので 太田派の 『社会 主義』を 抱えて
帰った 京大・ 吉田山ふも との古 本屋で、 あっさ りと『労 農』の創 刊号を探 して私 にす
すめてくだ さるの である。 店主と 親しくな るのが コツとのこ と。石 河さんは 菓子を 食
べ、 山のよう な古本 や資料を 紐解き、 うまずた ゆまず 事務をこ なし、 自転車で 都内ど
こへで も出かけ 労働者・ 市民と 気さくに 交流す る。
堺利 彦や 山川 均の 時代 なら 、
「 大御所 」と して 後輩 が活動 を押 さえ 込ん だで あろう
お歳 にはなら れたが 、今は幸 か不幸か 石河さん にはま だまだ第 一線で 、この本の 続編
を出版 して奮闘 していた だかね ばならな い。世界 初の本 を世界初 に読了し た一般 読者
(稲村
守)
の栄誉を受 けたこ とに感謝 し、こ の大作が 多くの仲 間に広ま ること を祈念し たい。
「 反中国 」キャ ンペ ーンに だま される な
― チ ベ ッ ト 問 題 の 視 点 ―
中 国のチベ ット自 治区、そし てチベ ット人が 居住す る四川省 、甘粛 省でなにが 起き
たのか 。チベ ット自治区 の首都 ・ラサの 「事件 」をいち はやく伝 えたのは 米政府 系の
「ラジオ・自由・アジア 」で 、
「人権抑圧に抗議 。中国政府が弾圧 。死者は○○○人 」
とい うものだ った。 その後の 報道もす べて「ラ ジオ・ 自由・ア ジア」 である。
米政 府メディア は冷戦 時代、そ して現 代も己の 気に食 わぬ政府批 判と扇 動にメデ ィ
アを駆使し てきた 。いわゆ る「謀 略放送」 である 。それに直 面して いるのが 、中南 米
では キューバ 、ベネ ズエラで あり、北 東アジア では北 朝鮮、中 東では イラン、シ リア
といっ た米国と 一線を画 す国々 である。
チベットは中華人民共和国成立(一九四九年 )以前も以降も中国と結びついており 、
-8-
一九五一 年に「中 華人民 政府と西 蔵(チベ ット) 地方政府 の西蔵平 和解放に 関する 協
約 ( 十七 条条 約 )」を 結んで いる 。中 国社 会主 義建設 が紆 余曲 折し たこ と、大 躍進 、
文 化 大 革命 が 辺 境 の 中国 自 治 区 に 少 なか ら ぬ影 響 を与 え たで あろ う こと は 予想 でき
る。
米 国は中華 人民共 和国の困 難を利用 し、ウイ グル、 内モンゴ ル、チ ベットとい った
辺境民 族の蜂 起・反乱を たくら んだ。一 九五六 年から一 九五九 年に米CI Aが支 援し
勃発 し た武装 蜂起 であ る 。
「冷 戦時 代」の 米国 の常 套手 段で ある 。この 時、 ダラ イ・
今回 の「事件 」は八月 八日開 会の上海 オリンピ ックに 合わせた くらまれ たところ に
ラマ はイン ドに亡命 政府をつ くった。
特徴 が ある 。
「 オリン ピッ クは 世界 平和、 民族 協調 の祭 典。中 国 のチベ ット での 人権
侵略 は、オ リンピッ ク主催国 としての 資格が ない」と の反キャ ンペー ンである 。聖火
リレー が国際 分野の標的 とされ た。聖火 点火、 イギリス 、フラ ンスの聖火 リレー の映
像、十六 ヶ国十九 の中国大 使館へ の攻撃― 数はそ れほどでも ない― が、世論 づくり に
利用 された 。
中 国は 共産 党が 「社会 主義 市場 経済 」を 積極 的にお し進 める 。「 社会 主義」 との 冠
がふせられ てはい るが、現 在の中 国は資本 主義化 のまっただ なかに ある。〇 六年、 西
蔵 鉄 道が 開通 した。 旅ば やり の日 本では 、「西蔵 鉄道 でチ ベッ トへ。 ラ サとポ タラ 宮
殿への お誘い 」広告があ ふれか える。N HKの 特集番組 はラサが 商業主義 の渦中 にあ
-9-
ることを赤 裸々に 伝える。 急速な 商業化、 資本主 義化が古く からの チベット 文化と 生
活を 破壊する ばかり か、猛烈 な物価高 騰をもた らし、 チベット 人の生 活に大き な変化
を与え ているだ ろうこと も予想 できる。
これ らを 理由 に 、「ラ ジオ ・自 由・ア ジア 」は チベ ット人 のみ なら ず、 世界 の中国
嫌い の人々を 扇動す る。これ にあおら れている のが現 状であろ う。成 長しつづけ る経
済、 中 国は ギョ ウザ 事件等 で「 中国 はな にをす る かわか らな い国 」
、 さらに は 中国は
「五輪を国 威発揚 に利用し ている 」とのい いがかり まで加わ ってい る。東京 オリン ピ
ック はどうだ ったの でしょう かね。
オリ ンピックは 今や「 金儲けの 手段」 でしかな いこと は誰もが知 ってい る。出場 、
入賞めざし 一年三 百六十五 日―四 年に一回 だから一 千四百六 十日― を練習に 励む選手
の姿 に魅力を 感じ、 声援するの だ。
合同学 習会「河 添講演」 in土 浦―
ボッタクリ企業への〝必殺仕置人〟
―3・
ってる 働く権利 』など) を購入 した。
的で参考になり、参加者はすぐれものの啓蒙書(『貧困襲来 』
『おし えて、 ぼくらが 持
催者らのメ ンバー が熱心に 聴き入 った。立 派なレ ジュメに沿 って語 られた内 容は具 体
二時 から四時ま で学習 会をやり 、茨城 ユニオン 、N関 労、ネット ワーク 500の 共
豊島 区南大塚 に事務 所を構え 、現在三 〇〇人ほ どの組 合員を擁 してい る。
「首都圏 青年ユ ニオン」 書記長の 河添誠 さんをお 呼びした 。このユ ニオン は、都内
23
迫力の八 分間ビ デオ映像
夜 の渋谷、 若者た ちが往き 交う路上 にユニオ ンの組 合員が集 まる。 その輪の中 には
今夜団交にいく女性がいる 。近くの事務所の中 、社長を前に 、その女性と河添書記長 。
女性がバ イトで働 く店の 店長が突 然、この 女性を クビにし た。その ことを社 長は知 っ
てい るのか 、社長が 認めた ことなのか と糾す …。
河添 さんはト ークの中 で「終 わってか ら、喫茶 店で話 し合おう というと 、お金が 無
いの で 帰っち ゃう こと があ るの で、路 上で やる 」「団交 は、 普段 はひど い目 に遭 って
いる労働者が 、経営者と対等に渡り合える 、そのことを若者に体験的に学習できる場 」
「だか ら、当 事者が主人 公であ り、ユニ オンは それを応 援する に過ぎない 、請負 い的
代理人で はないこ とを当事 者にも きちんと 分から せてから団 交に臨 む」と解 説した 。
大 手 美容 室チェ ーン As hで 働く若 者 の無権 利状 態と 、残 業代を 支払 わせ たこ と
華や かに見え る美容師 業界に憧 れてA shに就 職した 。ところ が朝早く から夜十 時
頃まで渋 谷の駅前 でチラシ 撒きば かり。し かも低 賃金で残業 代は無 し。家の 人(親 )
は、 いつも 遅いので 「遊んで いるのだ ろう」 と信用せ ず、偵察 に来る 有様。
この美容界は昔の徒弟制よろしく、技術指導料の名目で、賃金から天引き。まさに、
労働力とい う商品 をブッタ クル= ピンハネ だ。て いのいいタ コ部屋 労働だ。
青 年ユニオン のポ リシー=労 働テツ ガク
労働 基準法と いう法律 を、無視 したよ うな労働 環境の 中に今の若 者(労 働者一般 )
は置かれて いる。
そ こ で「 三点セ ット 」(残業 代の 支払 い、社 会保 険の 適用 、有 給休暇 )を 企業 側に
守らせ ると共に 、若者に も労働 権利、労 働組合 の存在意 義を学ば せる。労 基署や 生活
保護申請の 活用法 も知って もらう 。
労 働組合運 動も平 和運動と同 じく幅 広くやっ てゆき たい。イ ンターネ ットで連 絡し
合って 、地域分 会をあち こちに つくって 支え合い ながら やってい る。それ で、組 合員
の定着率は 七割を キープし ている 。
今 の若者は 路上のぬ かるみの 上で座 っている ような ものだ。 せめてブ ルーシー トの
上に座 らせるべ きだ。
憲法の九 条(平和 )
、 二十五条( 生存権 )
、二十 八条( 勤労者の 権利)は セット にな
って いる―。
一九九九年に財界・日本経団連が仕掛けて法制化され、さらに改悪された「派遣法」
によ って、労 働環境 は劣悪化し 、偽装 請負、一 日派遣 、ワーキ ングプ ア、格差社 会、
自己責 任などと いうコト バが氾濫 し、セ ーフティ ーネッ トは破れ つづけ、 夢のない 世
相 に激変。 その一 方で、一 万五千円 の鯛茶 漬けの昼 めしを食 べてる ヒルズ族 のことが
話題 になる。
一七〇 〇万人の 非正規 雇用労働 者は年 収二〇〇 万円以下 で暮らし 、寄る 辺なき人 生
吉宅 )
を 余儀なく されて いる。こ のような 人々に 「寄る辺 」の一つ をつくり 出そう としてい
る。 若者の未 来に幸 あれと願わ ずには いられな かった 、河添ト ークだ った。
(花井
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(1)
(2)
(3)
独
占
資
世界経 済の「 危機」
本
の
強
化
策
―新 自由主義 、そして 規制緩 和―
世界 経済は「 危機」の 様相を 深めてい る。原因 は、い わゆるサ ブプライ ム・ロー ン
の証券化 に端を発 した金融 ・信用 制度の動 揺だ。 震源地が 世界の金 融センタ ーの中 心
国・ 米国で あること 、そし て銀行と証 券業界 が同時に 障害を 起こして いること が最大
の特徴 だ。G 7蔵相・中 央銀行 総裁会議 (四月 一一日) の直前 、米国中央 銀行( FR
B)前総 裁グリン スパン、 現総裁 バーナン キが相 次いで「過 去半世 紀で直面 したこ と
のない事態がつづいている 」、
「第二次世界大戦以来のもっとも深刻な危機 」と述べた 。
本誌 でくり返 し述べて きたよう に、資 本主義と いう社 会制度は 供給と需 要、売り と
買いの調 整を市場 をつうじ おこな う 。
「 バブルだ 」の慎重 論は 、
「儲けが 増えてい る」
の一 言で悲 観論とし て切り捨 てられ、 反乱が 起きて「 事後的」 にバブ ルだった ことが
追認さ れる。 これが資本 主義の 経済法則 である 。
二一世紀 に入っ てからの かつてな い世界 経済の繁 栄は、① 毎年、 史上最高 を更新し
つづ けた貿 易収支の 大赤字と 軍費増大 という 米国の浪 費経済、 ②G7 の国ぐに の人口
約七 億 人を 一国 では るかに 上回 る中 国( 一三 億人 )
、 インド (一 一億 人)の 資 本主義
化と一〇% をはる かに超え る高度 経済成長 、③中 国、インド の経済 発展は石 油、天 然
ガス 、石炭 、鉄鉱石 、レアル・メタルといった天然資源と穀物の需給関係を激変させ 、
価格を この間数 倍にまで つり上 げた。濡 れ手に 泡のロシ ア、ブラ ジル、中 東産油 国の
消費拡大、 ④「ド ル漬け」 の中東 産油国( クウェ ート、カタ ール、 バーレー ン、ア ラ
ブ 首 長国 連邦 )は人 口数 十万 から 数百万 と いう小 さな 国家 にも かかわ らず 、「ドル 減
価は必 至。今の うちに投 資を」 と、不動 産・イン フラ整 備に一兆 ~一・五 兆ドル を投
資、⑤日本 のゼロ 金利が演 出した 。
中 国、ロシ ア、ブラ ジル、イ ンドと いった新 興国は 「米国の バブルは まだ続く 」と
読み、 米国、日 本、EU 諸国は 「新興国 の経済成 長はさ らに続く 」と、バ ブルを膨 脹
させつづけた 。米国の景気後退は住宅 、自動車市場の収縮に示され 、消費は鈍化した 。
IT産業でもかつての勢いはなくなった 。ドルは安くなり 、株価も乱高下をくり返す 。
それと ともに、 世界中の 株式市 場で株は 下がり、 為替市 場では円 、ユーロ 、元が上 が
りつづける 。ドル 安は輸入 を減ら す。輸出 国の米国 への輸出 は減る 。世界貿 易、経済
は停 滞する。
矛盾 深まる中 国
競争 はこう して激し くなる。 世界の 大企業は 安い労働 力、税 の優遇制 度で、中 国沿
海部を 世界の製 造基地と した。そ の中国 に異変が 起きて いる。台湾 、韓国 、香港、 そ
し て日本企 業が「 中国は賃 金が高く なった 、税制に メリット がなく なった」 と撤退を
始め た。
中国は 経済特区 を作り 外国企業 を優遇 するかた わら、安 い労働力 を供給 し、資本 主
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義を導入 する本源 的蓄積 を猛烈に 進めた。 農民は 土地を奪 われ都市 に出る。 資本主 義
の発 展はか ならず都 市と地 方、工業と 農業の 対立を生 む。こ れらは、 さまざま な格差
となっ て矛盾 をふくらま せる。 かつて日 本が経 験した高 度経済 成長の諸矛 盾が中 国を
襲い始め たのだ。
一 本調子で 上がり 続けた株 価は下が り、上海 株式市 場は昨年 十月の 史上最高値 から
四月は じめに 、下落率は 五割弱 にもなっ た。不 動産価格 は約二 割の下落と いう。 元は
上がりつ づけ、〇 五年の切 り上げ 後はじめ て六元 台に突入 した。さ らには人 件費、 資
中国のすさまじい成長は天然資源、農産物をつり上げた。原油は過去五年に五倍に 、
材の 高騰、 一〇%に も達する 物価上昇 である 。
穀物価格 は三倍に もハネ上 がった 。原油高 騰はエ タノール価 格を生 産ライン にのせ 、
大豆 、トウモロコシ 、砂糖きびといった穀物が人間の食料ではなく 、自動車の「食料 」
とされ る時代 を作った。 穀物、 食料不足 は世界 をおおう 。世界 各地に食料 暴動が 吹き
荒れ る 。こん な中 での G7 蔵相 ・中央 銀行 総裁 会議 だっ たが 、
「 金融秩 序回 復へ の協
調行 動強化 」を申し 合わせた だけで、 打開策 を見出せ ていない 。
ドル は下が る
一 ヶ月前に 話しは 戻る。三月 七日、 ニューヨ ーク株 式市場( ダウ) は一万二千 ドル
を割り 込み、 一万一千八 百九十 三ドルと なった 。これま での最高 値は〇七 年十月 の一
万四千百六 十四ド ルである から二 千二百七 十ドル 、率にして 一六・ 〇パーセ ントの 下
げ で ある 。東 京証券 取引 所( 日経 平均 )、 三月七 日の 終値 は一 万二千 七 百八十 二円 、
年初の 株価は一 万五千三 百七円 であった から、 二千五百 二十五円 、率にし て一六 ・四
パーセント の下げ である。 この時 、円は九 五円台 に突入した 。
日 米通貨当 局の経 済見通しは 一挙に 悲観論へ と傾い た。米国 中央銀行 ・FRB は①
経済成 長は年初 から減速 、②中 小銀行破 綻、③サ ブプラ イム問題 による損 失増大 、④
さらなる利 下げも といい、 大統領 は①現在 は困難な 時期にあ る、② 経済の減 速は明 ら
かと まで云う ように なった。 日本銀行 も①株式 、為替 市場は振 れ大き い展開、② 背景
に米国 中心に世 界経済の ダウン サイドリ スクが強 まって いると日 銀総裁が 退任会見 で
述べざるを えない 状況に追 い込ま れた。
この数年、日銀はドルを維持するために三十兆 、四十兆ともいわれるドルを買った 。
外国投 資家だけ でなく日 本の投 資家もゼ ロ金利の 円を売 り、ドル を買って その資金 を
投 資した。 円は下 がり、金 利差で 儲けさせ てあげま すよとい う外貨 貯金、株 式、債権
他諸 々の金融 商品に 投資し、利 益を稼 ぐいわゆ る投資 信託は増 えに増 えた。昨年 来、
株、債 権は下が りつづけ 、投資信 託の利 益は失わ れつづ ける。つ い一ヶ月 前まで一 ド
ル 一一五円 前後だ った円は 、四月で は一〇 一円台を つけてい る。
一万 ドル投 資した投 資家はい ま一万 百円を手 にするだ け、十 四万損し ているこ とに
なる 。余裕ある投資家は 、
「株 、為替は上がったり 、下がったりだ 。そのうち上がる 」。
だ が、銀行 から借 金し有り 金果たい ている デイ・ト レーダー は青息吐 息で金 策に追わ
れて いるに違 いない 。このまま 金融不 安→大不 況、さ らには恐 慌とな れば、自殺 者が
史上最 高になる ことは間 違いある まい。
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新自由 主義と 田中角栄
こ の 背景に 、
「 新自 由主 義」を 推奨 した 新古 典学派 と いわれ る流 れが ある 。日本 で
は大昔、 田中角栄 が本能 的に口に した理屈 である 。日本列 島改造論 実行には 、公共 投
資が 必要と なる。だ が、金 はない。ど うする か。借金 でまか なう。国 債発行で ある。
国債発 行につ まらぬ理屈 がつけ られた。 道路、 インフラ 整備の 借金は利益 を生む 。だ
から建設 国債はい い。もう 一つ、 赤字国債 だ。こ れはタチ が悪い、 と。建設 国債が バ
角栄 さんがそ の時言っ たのは 、数十兆 の借金は ①国有 資産を売 り、②国 営企業を 民
ンバ ン発行 され、国 の借金は 増え続け た。
営化し、 株式を売 却すれば どうに でもなる 。角栄 が新自由主 義者、 ネオコン などと い
う者 はいま い。しか し、理屈 はともか く金儲 けの感が 鋭ぎすま されて いた角栄 は、新
自由主 義者が まず反革命 後のチ リで 、
その後 中南米諸 国全域で フリー ドマンが 実験し 、
レーガン 、サッチ ャーが実 行した 、資本の 手を縛 る法制を改 悪する 規制緩和 、さら に
は国 営企業 を民営化 し株式を 売却する という 新自由主 義的手法 をいい 当ててい たとは
いえま いか。 新自由主義 とは金 儲けの手 法を考 えつづけ る資本家 には当た り前の こと
であったの だ。そ こで、考 えられ なければ ならな いのは「新 自由主 義」とは 何かで あ
る。
新 自由 主義 とは 何か 。「 新」と いう から には 「古い 」自 由主 義が なけ ればな らぬ 。
「古い」自 由主義 とは何か 。モデ ルとされ るのは 一九世紀前 半から 七〇年代 半ばま で
イギ リスが世 界の工 場として あった時 の資本主 義であ ろう。資 本主義 は農民、 手工業
者を労 働者に転 化する原 始的蓄 積期を経 、繊維 工業―毛 織物、綿 織物―を 中心に 「起
業家」が競 争し合 った。
競 争という 「見え ざる手」が 資本を 増殖させ た。い わゆる産 業資本主 義の時代 であ
る 。この時代 、自由貿易か保護貿易かが 、イギリス 、ヨーロッパ諸国で議論となった 。
イギリスの 産業資 本家は自 由貿易 を主張し 、農民・ 農業資本 家は保 護貿易を 求めた 。
ヨー ロッパ諸 国では 自国産業 の保護と いう保護 貿易を とった。
自由 貿易であれ 保護貿 易であれ 、世界 を資本主 義化す ることでは 同じで あった。 自
由主義は一 九世紀 後半、機 械装置 、鉄道・ 海運の発 展がもた らした 石炭・化 学工業、
鉄鋼 業の発展 が株式 会社を企業 形態と するとと もに独 占資本を つくり 出す。帝国 主義
時代の 幕開けで ある。そ して今 、独占資 本が産業 ・金融 界を支配 する。
新 自由主 義の担い 手はだ れか。独 占資本 である。猛 烈な市 場拡大と IT・ ME技術
革命は独占資本間の競争をすさまじくした 。技術の発展 、さらには新興国家群―中国 、
インド 、ロシア 、ブラジ ルの低賃 金労働 者によっ てつく られた商 品群はか つてフォ ー
ド 生産シス テムで 自動車の 生産価格 が下が りつづけ たように 、
生産 価格を 低下させ る 。
日本 や米国、 独の労 働者の賃金 がはな はだしく は二十 ~三十分 の一、 平均的には 十~
十五分 の一の地 で生産さ れるので あるか ら、価格 競争ふ くめ競争は 激しく なる。国 家
は 独占資本 のため の競争強 化策をつ ぎつぎ に打ち出 す。国家 と独占資 本の協 調・協力
であ る。この ように 、新自由主 義とは 独占資本 間の競 争であり 、規制 緩和とは独 占資
本強化 のための 方策であ る。
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◇ 読 者 か ら の お た よ り ◇
ストラ イキ 継続中 「尼 崎市は ワー キングプア をつくるな」― 競争入札の中 止と約束ど おりの雇用
の安 定を 求めて 、武 庫川ユ ニオ ン尼 崎市分会の尼崎 市役所の住 民票入力業務 に従事する女性 派遣労
働者五 人が 三月三 日か ら無期 限ス トに突入 しました。い まだ尼崎市から 一切話し合 いの申し入れ は
なく、まだまだ闘いは続きます 。組合員たちは仲間に支えられ、元気いっぱい闘いを進めています 。
ストライキがこんなに楽しいものとは思っても見なかったと 。
(労働組合武庫川ユニオン )
編集 部よ り たたか いは 今日( 三月二四 日現在)も 継続中。二八 日に職場復帰。 四月一日か ら新
たなステージの始まりです。武庫川ユニオンに激励を。
職場 の仲 間 ご ぶさた して います 。お変わ りありませ んか。なかな かお会いできな く送金遅 れまし
た 。季節も春 、今度は桜の下で会いたいですね 。職場の仲間も我われの話しに耳を傾けております 。
それはそうでしょう。このままでは精神疾患になってしまいます。
(神奈川・A )
編集部より 昨日はお久しぶりでした。秋葉原にゃ桜ありませんものね。
(新潟・K )
自宅へ 四月から自宅へお願いします。六ヶ月分、残りはカンパです。
編集部より 過日は電話ありがとう。了解です。
若者 に失 笑 誌 代遅く なり ました 。何とか がんばって います。先般 、春闘オルグで の若者の話 しを
聞いて 失笑 しまし た。 専従オ ルグ が「ローレ ックス」の 高級時計を着け 「ヴィトン 」のバックに 、
高級 ブラ ンドス ーツ を身に まと って オルグに来たと 。あんなの に、インスタ ントラーメン食 ってい
る俺達 の気持ち がわかんの? と云 っていました。つい に全労連も労働貴族 化したのかと、笑い を
禁じえませんでした。
(広島・T)
編集部より 本当カヨって、ビックリです。TPOをわきまえればいいのにね。
「四 党合 意」の テツ 踏まぬ よう 国 労闘争団問題も いよいよ六 月が大きな山 場になるよう ですが、
「四党合意」のテツを踏まないよう、みんなで頑張りましょう 。
(名寄・S)
編集 部よ り 国労闘 争団 三月末 から総力 戦のよう。三 月二六日は 五十五時間座り 込み、四月一 日
の集会。そして六月二日の葛西尋問に向けての諸行動です。
本日 、中 央オル グでー す 今年 もい よいよ春闘 が始まります。 その春闘の要 求を決定す る中央委員
会が三 月二 三日に 札幌 で開か れます 。組合員 の皆さんは すでに配布され た議案書にて 要求項目、 ベ
ース アッ プ額等 につい ては ご存 じの 事と思いますが 、本日、中央 書記長が支 部オルグに来組 されま
す。組 合員 の皆さ んぜ ひオル グへの 参加を「 ヨロシク」 です。ここ何年 間かベースア ップゼロ回 答
に終 始し ており 協会の 回答 もマ イナ ス回答で手当に は「以下」な んてつけた 回答をだしたり 、収入
アップ に向 けての 具体 的な対 策の打 ち出しも なかったり で来ている。こ のままでは、 私達の生活 は
良く なら ない、 生活と 労働 条件 、労 働環境改善も合 わせて、〇八 春闘、しっ かり闘って行く ために
も、中 央オ ルグき っち り受け て、し っかり意思 統一して この春闘戦って 行こうね。〝 さあ団結だ 〟
(北海道・「みんな 」
・六六七七号より)
編集部より 春闘はこれから本番なのに、JC集中回答で終わったかのような雰囲気。
賃金 要求は 二十 万が妥 当 春闘 時の 賃金要求根 拠は総生活費と 八時間労働の 賃金の充足 率(再生産
率)を 根拠 とすべ き。最 近の 傾向は 、要求金額 は決めて も、要求金額( 生活費)の理 論がない。 相
模鉄 道の家 計調 査の結 果を みると 、
「労働力 の再生産率は 六〇% 」
。不足分の 四〇%ぐらいは 春闘の
要求額とすべきだと思う 。①四人所帯の総生活費五十万円、②四人所帯八時間労働の賃金三十万円、
③四 人所帯 の春 闘要求 額二 十万 円が、 生活論的な要 求根拠です。
(神奈川 ・K)
編集部 より 要求 根拠が 労働 力価 値説にもとづ くことから、 生産性賃金論 、企業の支払 い能力論
にゆがめられてしまった。現代「春闘」の根本的誤りです。
四十八 時間ハ ンス ト 国鉄闘 争は重 要な局面 。中央では 三月二五~四月 二日、国交省 前で座り込 み
行動 が計画 され ていま す。 私は 大阪常 駐オルグにな り六年め。三月 二六~二八 日、JR新大 阪駅前
での四 十八時 間ハ ンガー スト ライキ を取り組む ことにしま した。ハンス ト参加者は牛島 時彦(六〇
歳・熊本闘 争団団長 )
、大串 潤二(五八歳・ 兵庫常駐オルグ )、松浦成治(五十歳・ 熊本闘争団 )
、
蓑田浩 司(四 五歳 ・大阪 常駐 オルグ )です。地 元でも二七 ~二九回、ハ ンガーストライ キを取り組
みます 。
(大阪・蓑田浩司 )
編集部より 己れにできることに創意工夫してとりくむ。
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