PDFファイル表示 - 三和良一研究室

【三和の石井晋氏への手紙
2003 年 7 月 7 日付け】
メール、有り難うございました。スタンフォードご留学中とは存じませんでしたので、
湯沢威さんをわずらわせることになってしまいましたし、在外研究のお邪魔をしてしまい
ましたね。おふたりには申し訳ありませんでしたが、このようなかたちで、対話ができる
ことは、大変嬉しいです。
石井さんのご批判の主旨はよく分かりました。第1章で、アプローチの仕方を①政策目
的の達成度、②戦前との連続性、③戦後史への影響度の3つ、第2章で論点を①社会構成
体論、②現代資本主義論、③産業構造論、④経済政策論、⑤経済成長論、⑥消費論の6つ
を挙げながら、結論部分の第8章では、第1章の①、第2章の④しか取り上げていないの
は、
「非軍事化」目的達成度の「特権」化で、misleading だということですね。第8章の「は
じめに」では、いちおう、戦後改革の評価は「いくつかの視点からおこなわなければなら
ないが、ここでは、『非軍事化』政策の成否に論点をしぼって考えてみたい」とおことわり
はしたのですが、論点をしぼる根拠が明示されていないと指摘さているのでしょう。
私なりの根拠はあったのですが、それをハッキリ書かなかったのはまずかったですね。
折角の機会ですから、ここで、説明させていただきましょう。
第1章の②は第2章の論点①と②、第1章の③は論点③・⑤・⑥と同じです。論点①は、
長い論争、つまり、日本資本主義論争を背負っている大問題ですが、私としては、いわゆ
る連続説の立場を表明してきましたし、あらためて追加すべき論拠もありませんので、第
2章(48-49 頁)の記述で済ませたつもりです。同じように、論点②も、すでに立場表明は
していますので、やはり、第2章(49-50 頁)の略述程度でよかろうと思いました。もちろ
ん、論点①②についても、検討すべき点が残っていますが、それは主として、資本主義・
現代資本主義(最近の私の用語では 20 世紀資本主義)の概念規定にかかわる問題で、占領
期の資料から説き起こすべきものは少ないでしょう。占領政策担当者の意識のなかにいわ
ゆる「講座派」的認識があり、その占領政策への影響が指摘されていますが、その具体的
分析は十分には行われていませんし、ニューディーラーについても同様ですから、そこら
は、掘り起こす価値はありましょう。これには、占領者たちのパーソナル・ヒストリーま
で入っていく必要がありますから、私としてはパスした次第です。
論点③・⑤・⑥については、戦後経済史の分野である程度の研究は進められていますが、
意外に、実証的な分析は少ないのです。⑥などは、石井さんが書評で指摘されたように、
ほとんど未開拓の分野です。ヨーロッパでも日本でも中世・近世を対象とする社会史が流
行っているのですが、近代・現代にまでは、まだ研究が及んでいないのが現状でしょう。
⑤についても、農地改革研究は数多いですが、改革がどのように高度成長の促進要因にな
ったかについては、国内市場拡大効果を一般論的に語るだけで、具体的な数値による分析
は極めて不十分です。財閥解体と労働改革についても、農地改革よりは多少進んでいる程
度のように感じられます。このような研究史の現況を前提にしますと、占領期を、戦後史
への影響度の観点から評価することは、私にはできないのです。
つまり、論点①②についての評価は私なりに既済、③⑤⑥については私には不能という
ことで、第8章では、論点④、つまり経済政策史の観点からの評価にしぼったわけです。
経済政策史は、もともとの私のフィールドですから、ごく自然にそうなったので、あらた
めて、以上のような「言い訳」を書くことまで、頭が回らなかったともいえます。論点を
経済政策史までしぼれば、政策目的と政策手段の関係=目的合理性が大きな分析点になる
こと、最大の政策目的=非軍事化が「特権」的に重視されることの妥当性は、ご理解いた
だけると思います。
しかし、あるいは石井さんは、非軍事化という表面的な占領目的の裏には、別に本当の
目的が隠されていたのだから、ただ非軍事化の達成度を評価しただけでは真の評価にはな
らないと考えられて、「特権」化に異論を唱えておられるのかもしれません。たとえば、民
主化を旗印にしたイラク攻撃のうしろには、石油支配という真の目的があるというように。
たしかに、非軍事化は、戦争終了直後のアメリカの世界戦略からの目的設定で、冷戦開
始とともに放棄される目的ですから、表面的なもので、真の目的ではありません。政策史
分析としては、アメリカの世界戦略の観点から、日本の非軍事化は、目的合理性を持って
いたかという問題を立てることができますし、そのほうが、面白くもあります。ただ、ア
メリカ政策史研究ではなく、日本史研究の立場からは、いわば受け身の姿勢をとらざるを
得ません。つまり、戦後改革という技をしかけたのはアメリカで、日本は多少の抵抗はし
ますが、ほとんど一方的に一本勝負を決められたのですから、日本主体の政策史を書くこ
とは無理です。ここでは、なぜ非軍事化で攻められ、戦後改革技を決められたのかを受け
身のかたちで分析することしかできません。第1章では、
「日本は、経済面では、ジュニア・
パートナーを通り越してアメリカを脅かす強力な競争相手にまで成長した。これが戦後改
革で新たな成長構造を身につけたことのひとつの結果であるとすれば、アメリカの対日占
領政策は、最終的にはその目的達成に失敗したと言うべきではなかろうか」と書きました
が、これは、歴史ジョークで、実証した結論ではありません。
大学定年のときに、卒業論文のつもりで『経済政策史的研究』を3冊上梓しましたが、
じつは、『日本占領』はほかの本とは異質です。『日本近代』と『戦間期日本』は、それぞ
れの時期の日本の経済政策を対象にしているのですが、占領期については、アメリカ(連
合国)の政策が対象です。したがって、私の経済政策史の分析方法(これについては、『青
山経済論集』の「経済政策史のケース・スタディ」シリーズをご覧ください)を、直接に
適用したわけではないのです。政策決定過程の分析は、同じようにしましたが、評価は違
う観点からのものになりました。つまり、受け身の姿勢です。
技をかけてきた側の意図を忖度することは棚上げして、直接に仕掛けられた技自体を出
発点にして考えようということです。そこで、非軍事化目的の正当性、その目的に対して
の戦後改革という手段の目的合理性、さらには、戦後改革というような相手国の内部構造
を変革することの国際法的な正当性などを検討したのです。
とはいえ、アメリカの意図について棚上げしたままで良いと考えているわけではありま
せん。第6章では、独占禁止法改正をめぐって、アメリカの資本家・企業の利害関係の影
響も分析しましたが、このような分析は興味深く有意義です。初期の非軍事化という目的
にアメリカ資本がどのような関心をもったかは、知りたいところなのですが、資料的な制
約もあって、未解明のままです。ただ、この分析は、当面の課題である非軍事化の成否評
価のために不可欠ということではありませんので、サボった次第です。
これで、私の問題の取り上げ方はお判り頂けたと思います。多分、言葉が足りないが、
misleading ではなかったと言っていただけるのじゃないでしょうか?まだ、ご納得いただ
けないとすると、問題は、非軍事化を「特権」的に取り上げると、どんな新しいことが見
えてくるかというところでしょう。
これまでも、占領目的として、非軍事化と民主化を並列することに異議を申し立てて非
軍事化を「特権」化してきましたから、そこは繰り返しです。非軍事化が目的なら、占領
軍は国内構造まで変えて良いのかという国際法的な論点は、これまで十分には取り扱われ
てこなかったですから、すこし新しいかもしれません。戦後改革が日本を非軍事化したか
という問いは、かなり新しい問題提起だと思います。答えができていないではないかとの
お叱りは覚悟していますが、ここには、私のこだわりがあります。
戦後史の帰結としての現在の日本を見て、はたして平和国家とか民主主義国家と言える
のか、大いに疑問です。とうとうこの秋には、他国の陸上領地に自衛隊が入ることになり
ました。PKO 協力法とは違って、国連協力活動ではなく、アメリカへの事実上の軍事協力
ですから、素直に見れば憲法に抵触します。では、これが民主主義的な手順で決定された
かとみると、形式要件はともかく実質的には自民党独裁でしょう。独裁するほどの力がな
いはずの政党が独自裁定できたのですからオドロキです。このような時代状況を念頭に、
私の問題提起があったとお考えいただきたいのです。「日本の非軍事化は成功したのか」と
いう問題提起は、さきほどのように、経済政策史研究そのもののなかから受け身のかたち
で出ては来たのですが、研究主体としての私のなかには、同時代人としての関心が存在し、
その関心が、このような問題提起の仕方を選ばせたという事情もあります。
今年の社会経済史学会が東京経済大学で開かれた日、帰りに、石井寛治・武田晴人・沢
井実さんたちとコーヒー店で、大塚史学について語りました。私は、日本の近代化という
戦後の課題に、学問的立場から真正面に取り組まれた大塚久雄先生の姿勢からは学ぶべき
ところが多いと発言しました。昨今、経済史学は学問として精緻化の一途を辿って大きな
成果を挙げてはいますが、では、なんのための学問かと問うと、答えが返ってこない場合
が多いように感じています。大塚先生には、このような問いかけすら無用の、確固たる学
問主体としての立脚点がおありでした。大塚先生と並んでなどというおこがましいことを
思っているのではありませんが、私なりに、同時代が抱える問題への関わりを考えながら、
ささやかな問題提起とそれへの解答を試みたわけです。
こころざしのあるところをお汲み取りいただいて、いたらない部分の多いことをお許し
頂ければ幸いです。