3 民主社会主義(Democratic Socialism)の福祉国家論 - 中央学院大学

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民主社会主義(Democratic Socialism)の福祉国家論
容して福祉国家になりつつあるというのが、福祉国家論に共通な論拠で
ある。がしかし、これから先のことになると、見方が分かれてくる。民
M.ブルース( Maurice Bruce; The Coming of the Welfare State,
主社会主義(Democratic Socialism)の理論を展開した“新フェビアン
4th ed1968.)や、G.ミュルダール(Gunnar Myrdal;Beyond the Welfare
論集(New Fabian Essays,1952.)"の論調は、福祉国家(Welfare State)
State, 1960. 北川 訳「福祉国家を越えて」1970.)の研究によれば、福
祉国家の理論(theory)はないようである。そこで、自由資本主義の左
は、資本主義から社会主義への過渡期の一段階とみている(C.A.R.
派グループといわれる、いわゆる修正資本主義(Revised Capitalism ま
Crosland)。これにたいして、福祉国家をもって社会主義への過渡期の
たは変容した資本主義 Modified Capitalism) グル-プと社会主義の右
一形態とはみないで、あくまでも資本主義の基本的体制内で、あれこれ
派グループ、いわゆる民主社会主義(Democratic Socialism)グループ
の改善策を講ずるのを福祉国家とみる見方がある。この見方は、究極の
との間に、第三の道または中道(Middle Way)としての福祉国家の試論
点では社会主義とは厳密に一線を画すのであるから、これを修正資本主
がなされているが、両者とも社会主義と資本主義の長所だけをとりだし、
理想的中道論をつくりあげようとしている。したがって、それは結構づ
くめの Utopian Story の現代版の観を呈している。
Welfare State には、いまだ理論がないのみならず、その実態さえも
明確でない。M.Bruce は現段階における Welfare State の実態を
義の福祉国家論と名付けるのが至当であろう。
そこで今回は、まず民主社会主義(Democratic Socialism)の福祉国
家論を検討する。
まずイギリス民主社会主義の福祉国家論の理論的かつ思想的基盤とな
W.Beveridge の社会保障に認めているが、G.Myrdal は Welfare State
っているフェビアン協会について、どのような事情のもとに生成し、い
を J.M.Keynes の完全雇用的な経済計画に認めている。その他の多くの
福祉国家論は、いずれも資本主義の変容(Modified)を認める立場に立
かなる構想を以って福祉国家を招致しようとしたかを、草創期のフェビ
アン協会を中心にみていく。
っている。
過去の自由放任資本主義(Laissez-faire Capitalism)は、いまや変
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- 27 -
1)
草創期のフェビアン協会について
は20年代にはフランスに、50年代にはドイツに波及し、これら両国を中
心とするヨーロッパ諸国の資本主義は、イタリアおよびドイツの民族統
a)
時代的背景
一を契機として、いちぢるしく発展し、80年代には帝国主義段階に入っ
チャーティズム(Chartism)が終末を告げた1848年ごろから約30年の
た。そうしてこれら諸国は保護貿易政策により排他的市場としての植民
間のイギリスは、他のヨーロッパ諸国に先んじて産業革命を遂行し、工
地と帝国の権力圏とを求めたのである。とくに、19世紀末におけるドイ
業製品の世界的供給者の独占者となって「世界の工場」(workshop of the
ツとアメリカ資本主義の発展はイギリスを凌駕するありさまであった。
world)としての地位を確立し、以後、いわゆるヴィクトリア黄金時代
イギリス資本主義の独占的繁栄のゆき詰りについては、1870年~1890
(Victorian Golden Age)を築いて繁栄したのであった。そして70年代
年にかけてのヨーロッパを襲来した不況(depression)をも考慮しなけ
にいたるまでの政治経済の基調は、産業ブルジョアジーを中心とするレ
ればならないが、この不況の結果として各国の資本は集中され、いわゆ
ッセ・フェールにおかれていたのである。もちろん、この間に景気変動
る独占資本主義(MonopolyCapitalism)の段階に入り、それは列強の帝
はあったが、全体としてみればイギリスの富の蓄積は確実に上昇してい
国主義的競争を激化し、イギリス資本にたいする脅威を一段と強めるこ
ったのである。
とになった。
しかし、このようなヴィクトリア朝の繁栄(Victorian Prosperity)
かくしてイギリスの世界市場(World Market)における独占的地位は
は、70年代の末年に近づくにつれて、繁栄の潮がしりぞきはじめ、80年
ゆらぎはじめ、黄金時代は終焉を告げ自由貿易主義の修正を余儀なくさ
代には継続的不況に見舞われるにいたった。輸出は減少し失業者が増加
れるにいたった。イギリス資本主義が過去の甘い夢を追えなくなったい
した。かつてイギリスの産業界にみなぎっていた活気はしだいに衰退し、
ま、労働者はどのようになったであろうか。それまでの労働者は一般的
黄金時代に人びとがいだいていた無限の自動的な富と商業の進歩の幻想
には、かれらの主人とともにイギリスの繁栄を信じていた。そうして発
(illusion)は崩れ去ったのである。
展してゆく資本主義の枠のなかで、かれらの経済条件も年々いやが上に
イギリス資本主義が、このように沈滞した原因としては、ヨーロッパ
も富んでゆくものと考え、G.D.H.コールのいうように、かれらは金持ち
諸国およびアメリカ資本主義の発展がある。イギリスに起った産業革命
のテーブルからますます多くのパン屑がほとんど自動的に落ちてくるも
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のと信じていたのである。
b)
しかし、かれらの期待も不況の襲来とともに崩壊し、深刻な苦境にお
フェビアン協会の成立事情
フェビアン協会(Fabian Society)の成立は、トーマス・ディヴィド
いこまれていった。不況は不況を呼び、それは燎原の火のごとく、イギ
ソン教授(Prof. Thomas Davidson)の影響を受けた青年グループの集会
リスの全土を覆い、大量の失業者を産み落していった。ストライキは踵
である「新生活友の会」(Fellowship of the New Life)にさかのぼる。
を接して発生し、失業者のデモンストレーションは社会不安をかきたて
T.ディヴィドソンはスコットランドの生れで、倫理学および教育学を専
テンション
経済的緊 張が全国的に高まった。ハイド・パークやトラファルガー・ス
攻するアメリカ移住の学者であった。かれは自説を講演しながらヨーロ
クェアーでは飢えた労働者が集会を開き、トーリー党 (Tory Party)の
ッパ各地を旅行する、いわゆる「放浪学者」(wandering scholar)で、い
保護貿易論者が政府攻撃の気勢をあげ、ハンガー・マーチ、教会へ向け
たるところに感化を残したが、1882年9月ロンドンに滞在して、かれの
ての失業者のパレードが街を練り、工場地帯ではストライキとロックア
New life --新しい道徳的真理に基づく簡素で相互扶助の理想郷--に
ウトの攻防がつづき、エキサイトしたデモ隊が警官隊と衝突するなど物
関する講演をした。これを機にかれの思想を研究討論する集会が
情騒然とし、暗いニュースは紙面にみち、新聞雑誌には「社会問題」(the
「Fellowship of the New Life」と呼ばれたのである。T.ディヴィドソ
Social Problem)が大文字で示されていた。80年代のこのような社会情
ンの思想は、根本においては倫理的無政府主義共産主義者(ehical
勢を背景にして、イギリス伝統のリベラルな急進主義は、ヨーロッパ大
anarchist communist)であり、すべての改善はつまるところ自己の改革
陸から入ってきたマルクス主義(Marxism)並びにアメリカから入ってき
(self-reform)にありとする、いわゆる心的改造論者であった。この
たヘンリー・ジョージ(Henry George)の土地改革思想とミックスされ
Fellowship of the New Life は、愛他心と英知に立脚した理想社会を徐
て、さまざまの社会主義グループを産み落していった。レッセ・フェー
々に建設しようとするものであるが、およそ30名余のこれら青年ユー
ルによる自動調節は、いまや幻想にすぎないことが分かり、自由主義は
トピアンのなかには、のちにフェビアンの中心メンバーとなって活躍す
背腹に敵をうけることになった。フェビアン協会が生成したのは、まさ
るフランク・ポドモア(Frank Podmore,1856~1910)、エドワード・ピ
にかかる時代的背景においてである。
ーズ(Edward R.Pease,1857~1955)、ウィリアム・クラーク(William
Clarke,1852~1901)、ヒューバート・ブランド(Hubert Bland,1856~
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1914)、ロバート・オウエンの孫娘デイル・オウエン(Dale Owen)や、
主義--物質を精神的なるものに従属せしむること。
社会民主連盟(Social Democratic Federation)の有力メンバーとなっ
同友--吾々同友の唯一にして必要なる条件は、単純にして真摯に、
たヘンリー・チャンピオン(Henry H.Champion)、J.L.ジョイズ(J.L.
Joynes)等がいた。
以上の目的と主義とにたいし強固な献身的たるべきこと。』
しかるに1884年 1月 4日の会合において、このメンバーのうち、社会
Fellowship of the New Life は第1回を、1883年10月24日に開き、
主義の立場をとるものは、T.ディヴィドソンの理想に共鳴しながらも、
T.ディヴィドソンの New Life について討議し、ついで第2回を11月7日
それを実現する方法について意見を異にし、この提案に賛成するものは
に開いてつぎのような決議を取りきめた。
少数で、ロバート・オウエン(Robert Owen)の自叙伝の著者として有名
『ここに作成された本会の終局の目的は、最高の道徳可能性(the
highest moral possibilities)に合致せる社会の再建を為すにある。』
この決議において目的を理想主義におくことを示した会は、さらに11
月23日に、つぎのような決議を通過させた。
『現代自由競争の制度は、多数者の苦痛を犠牲として少数者の幸福と
なF.ポドモア以下、E.R.ピーズ、H.ブラントの提議にかかるつぎの決議
(Resolution)を通過させて、ここにフェビアン協会(Fabian Society)
ははじめて成立したのである。
『決議
第1
本会をフェビアン協会と称す。
決議
第2
本会は目下の所では1883年11月23日の決議に含まるるよ
快楽を保障するものであるから、一般福利厚生を確保すべく社会は再組
織されなければならない、と本会会員は主張するものである。』
り以上のものを、会員一致の基礎として強いることなし。
決議
第3
1883年11月 7日の決議を修正して、社会の再建を為すに
ありとあるを社会の再建を助けんとするにありと改む。
ここにおいてその目的の実現手段として、現存社会のレッセ・フェー
ルを基調とした自由競争制度にたいする批判に口を挿んだ Fellowship
決議
第4
此の方向に於ていかなる実際的手段を採るべきかを研究
するため、本会は左のことを為す。云々』
of the New Life は、さらに、12月 7日つぎのような、ふたたび理想主
同会の結成と同時に発表された声明書(Manifesto)の要旨は、つぎの
義の目的を強調した。
『
通りである。
新生活友の会
目的--各人の完全なる品性の教養。
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“ The Fabian are associated for spreading the following opinions
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held by them and discussing their practical consequences.
That under existing circumstances wealth cannot be enjoyed with
out dishonour or foregone without misery.
That it is the duty of each member of the State to provide for
his or her wants by his or her own Labour.
That a life interest in the Land and Capital of the nation is
distribute its benefits in the fairest way attainable, have been
discredited by the experience of the nineteenth century.
That, under the existing system of leaving the National Industry
to organise itself Competition has the effect of rendering
adulteration, dishonest dealing and inhumanity compulsory.
That since Competition amongst producers admittedly secures to
the birthright of every individual born within its confines and
the public the most satisfactory products, the State should
that access to this birthright should not depend upon the will of
compete with all its might in every department of production.
any private person other than the person seeking it.
That the most striking result of our present system of farming
out the national Land and Capital to private person has been the
division of Society into hostile classes, with large appetites
and no dinners at one extreme and large dinners and no appetites
at the other.
That such restraints upon Free Competition as the penalties for
infringing the Postal monopoly, and the withdrawal of workhouse
and prison labour from the markets, should be abolished.
That no branch of Industry should be carried on at a profit by
the central administration.
That the Public Revenue should be levied by a direct Tax; and
That the practice of entrusting the Land of the nation to
that the central administration should have no legal power to
private persons in the hope that they will make the best of it
hold back for the replenishment of the Public Treasury any
has been discredited by the consistency with which they have made
portion of the proceeds of Industries administered by them.
the worst of it; and that Nationalisation of the Land in some
form is a public duty.
That the State should compete with private individuals -especially with parents -- in providing happy homes for children,
That the pretensions of Capitalism to encourage Invention and to
so that every child may have a refuge from the tyranny or neglect
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of its natural custodians.
・カンクタトル(Fabius Cunctator)の忍耐と果敢に由来している。
That Men no longer need special political privileges to protect
すなわち『機の熟するまで諸君は待たねばならぬ。フェビウスがハン
them against Women, and that the sexs should henceforth enjoy
ニバルと戦った時に、多くの人びとがかれの遅延を攻撃したにもかかわ
equal politicalrights.
らず、最も忍耐して待ったように。しかしながら一たび時到れば諸君は
That no individual should enjoy any Privilege in consideration
フェビウスのしたように猛撃しなければならない。しからざれば諸君の
of services rendered to the State by his or her parents or other
穏忍は無益無効となるであろう。』
relations.
性格を如実にあらわすものである。
That the State should secure a liberal education and an equal
share in the National Industry to each of its units.
That the established Government has no more right to call itself
このモットーはフェビアン協会の
かくて、フェビアン協会は第1歩を踏み出したが、Fellowship of the
New Life は分派として存置され、1889年の「フェビアン論集」(Fabian
Essays)が発刊される年まで会合を継続された。
the State than the smoke of London has to call itself the weather.
成立当時のフェビアン協会のメンバーは、きわめて少数で、その大部
That we had rather face a Civil War than such another century of
分は教師、ジャーナリスト、役人等のいわゆる「中産知識階級」(middle
suffering as the present one has been."
以上のプロセスをたどるならば、Fellowship of the New Life は、重
-class or bourgeois' intellectuals)から成っており、労働者ではペ
ンキ職人のW.L.フィリップス(W.L.Phillips)唯一人であった。因に主
点をはじめは理想主義的人生の目標においたのであるが、徐々に目標実
要なメンバーをみるに、まず成立の生みの親であるF.ポドモア
現の物質的条件に重きをおくようになり、やがて、この条件の実現を期
(F.Podmore)はオックスフォード出身の郵便局に勤める公務員で、同協
するに、個人の自覚よりも組織の改造に着手するにいたってフェビアン
会成立の会合にて数々の新決議案を提出して可決せしめ、またその議決
協会は成立したのである。
の第一にあるフェビアン協会の名称はかれの創案による、オウエニズム
ところでフェビアン協会(Fabian Society)のフェビアン(Fabian)
という名称であるが、これはカルタゴを破ったローマの名将フェビウス
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で「ロバート・オウエンの自叙伝」を著わす。その友人の E.R.ピーズ
(E.R.Pease)は協会創設の立役者で元証券のブローカーで、25年間協会
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の書記を勤め、のちに「The History of the Fabian Society,1916.」を
ルス・ブースの影響をうけ結婚前から社会問題の研究家となる、「イギリ
著わす。成立から1911年まで協会の会計を勤めたH.ブラント(H.Bland)
ス協同組合運動」(Beatrice Potter,The Co-operative Movement in
は銀行勤めの経験をもつ鋭敏なジャーナリストで、1884年1月4日の初
Great Britain, 1891.)を著わし、ウェッブと結婚後救貧法委員会の委
会合では議長をつとめる。成立9カ月後にメンバーになったバーナード
員となり、「救貧法委員会少数派報告、1909.ウェッブとの共著」を公
・ショウ(George Bernard Show,1856~1950)はアイルランドの出身の新
表する。
進作家で、1911年までの20年間、同協会の執行委員として、「フェビアン
グラハム・ウォラス(Graham Wallas,1858~1932)はS.オリヴィエの
論集」「フェビアントラクト」の主筆として活躍する、かれはウェッブ
オックスフォード以来の友人で、J.ベンサムとJ.S.ミルに傾倒し、ロン
の有能な代弁者でもあり、フェビアンがイギリス社会主義思想上に有す
ドン大学に新設されたスクール・オブ・エコノミックスの講師で、かれ
る大部分の意義は、かれに負うところが大きい。G.B.ショウの勧めで入
の著書「プレイス伝」はチャーティズムの研究に端緒を与えるものとし
会したシドニー・ウェッブ(Sidny Webb,1859~1947)とシドニー・オリ
て、イギリス社会運動史の研究に貢献する。A.ベサント女史(Mrs.Annie
ヴィエ(Sidny Olivier,1859~1943)はともに植民省の役人仲間で、前者
Besant,1847~1933)は急進的無神論者(Secularism)ブラドロー
のS.ウェッブはロンドン大学に学び、1892年P.ヴィアトレスと結婚、フ
(Bradlaugh)の協力者で、ロンドン急進主義の有能な闘士である、彼女
ェビアン協会の理論的指導者として、フェビアニズムはウェッブニズム
は1885年以来フェビアン協会に属し、フェビアン論集に「社会主義下の
と同義語にされるほどあまりにも有名である、「フェビアントラクト」
産業,1889.」を発表する、ドッグ・ストライキに当っては、社会民主連
「フェビアン論集」また数多くの著書があり、フェビアンがイギリス社
盟(S.D.F.)の面々と共に指導する。W.クラーク(William Clarke,1852
会思想上に占める大部分の意義は、主としてS.ウェッブによる。後者の
~1901)は、ケンブリッジ出身の急進主義者で「スペクテーター」
S.オリヴィエはオックスフォード大学に学び、「フェビアン論集」に
(Spectator)紙に健筆をふるうジャーナリスト等々であった。
(社会主義の道徳的基礎)、並びに「フェビアントラクト」(第7「資本
かれらはH.ジョージ、H.M.ハインドマン、J.S.ミルの経済学、その他
と土地」)を執筆する、のちに労働党のインド相となる。ヴィアトレス・
の社会学派の影響をうけたさまざまのタイプから成っていたために、そ
ウェッブ夫人(Mrs.Beatrice Webb,1858~1943)は、従兄弟の夫チャー
の思想上の信条は、はなはだ混沌としていた。かれらは社会主義を標榜
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しながら、なにが社会主義(Socialism)であるか、それと無政府主義
the Fabian Society")を、イギリス社会思想史の研究家 M.ベアーの著
(Anarchism)とがいかに異なるかなどの問題については、協会メンバ
書“ Max Beer ; A History ofBritish Socialism,Vol.Ⅱ,London, 1919.
ー自身がまったく夢中であった。E.R.ピーズが、当時のわれわれは社会
”を援用して考察してゆくことにする。
革命家に必然の要素である自己信頼に欠けていたと語っていることをも
フェビアン協会のメンバーは、S.ウェッブの指導の下、19世紀初頭に
ってしても、その真相をうかがい知ることができる。ここにおいて、フ
あってゼレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)とゼームス・ミル(James
ェビアン協会は「街頭」の活動をH.M.ハインドマンの社会民主連盟
Mill)を首とする哲学的急進論者(philosophical radicals)が、イギリ
(S.D.F.)にゆずって,K.マルクス(K.Marx)、ラッサール(Lassalle),プ
ス自由主義(British liberalism)の台頭を指導したように、フェビア
ルードン(Proudhon)などの社会思想研究に、A.スミス(A.Smith)、D.
ンもその指導によって、イギリス社会主義の興隆に貢献しようと努力し
リカード(D.Ricardo)、J.S.ミル(J.S.Mill)、クリフ・レスリ(Cliffe
た。哲学的急進論者たちは政党は結成しなかったが、かえって、それに
Leslie)、ケーアネス(Cairnes)の経済学説研究にと旧来の社会主義伝
よって当時における改革運動と立法上に不滅なる影響を与えることがで
統から脱却して、新しい社会づくりに努力した。この研究および準備の期
きた。しからば、フェビアン協会員も同様の働きをなしえないという理
間は、1884年より「Tory Gold事件」を機に社会民主連盟(S.D.F.)並び
由があろうか。・・・・R.オーエンが社会主義の宣伝に従事した当時は、労
に無政府主義と絶縁し、フェビアン協会の綱領(The Basis of the
働階級はいまだ団結しておらず自己の勢力を自覚せず、かれらは大体に
Fabian Society)が採択される1887年まで継続したといわれている。
おいて無教育な状態であった。国家は地主階級の寡頭政治であり、大衆
の幸福とはなんら関係することのない圧制機関であり、戦争、警察およ
c)
レッセ・フェールよりウエル・フェアー社会へ
び課税のための機関であった。福祉、改善、および社会的正義の性質を
- R.オーエン, K.マルクス より S.ウエッブへ -
帯びているすべてのことは、国家の任務とは認められなかった。したが
次にフェビアン協会(Fabian Society)とりわけS.ウェッブを中心に、
って議会運動も労働組合運動も無効であった。・・・・なぜならばそれは資
フェビアン社会主義(Fabian Socialism)を明白に構成し、福祉社会実
産階級と治者階級とは団結して大衆に反対していたからである。資本、
現への基礎つくりをなしてゆく過程(1887年6月の綱領“ The Basis of
機械および軍隊は労働階級が、かれらの状態改良のためにするいかなる
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努力をも打破したからである。すなわち、人間はかれ自身の性格をつく
それは出来上がった事実よりもむしろ傾向にすぎなかった。S.ウェッブ
るという誤謬のうえに基づいていた。けれども実際において人間の性格
は、これらの傾向を看破して、みずから社会改良の任務を負う準備のあ
は境遇(circumstances)によって決定されるものである。これらの境遇
る民主的国家(Democratic State)、経済的、政治的に勢力を有する労
は私有財産と自由競争とによって創造されたものであり、したがって社
働階級および社会的良心(social conscience)にめざめつつある国民を
会的害悪に結果したのである。境遇の変化が必要であった。すなわち私
もってすれば、社会主義は革命および階級闘争(class struggle)の手段
有財産および自由競争より共産主義および協同主義(co-operation)へ
によらなくとも、しだいに実現できると確信した。
の変化が大切であった。・・・K.マルクス(K.Marx)が実証科学(positive
それはマルキシズム(Marxism)からフェビアニズム(Fabianism)へ、
science)によって武装せる社会主義を提示したときにおいては、労働階
すなわち社会革命の理論(social revolutionary doctorine)から社会
級はすでに団結し、政治上および経済上の解放のために社会の不法にた
的実際(social practice)への推移を意味する。したがって社会主義者
いして勇敢に闘争した。しかるに成年男子労働者は自由競争、需要供給、
は特定の社会的害悪を研究し、社会主義の一般原則にしたがって、その
生存競争のなすがままに放任され、立法や労働条件を改善すべき直接の
おのおのを矯正する方法を指摘し、それを国民に納得させるよう努力す
機能は与えられなかった。しかも富の非常なる蓄積と中流階級の政権獲
べきである。社会主義者の使命は、経済的社会的生活のもろもろの部門
得の時代において、かかるありさまであった。K.マルクスの学説は、激
における専門知識を獲得し、みずから立法ならびに行政の機関に習熟し、
しい競争のもとにある経済生活、非民主的政治組織、互いに闘う階級に
かれらの知識と経験とによって、すべての政治機関の運用に当ることで
分裂した社会によってもたらされた諸状態の的確なる表現であった。し
ある。社会主義の実現は、国家が社会改良をとり入れ、雇用主が団体契
かるに1865年以来イギリスは変革の時代に入り、古い思想は退去し、労
約を承認し、国家および労働組合の干渉に服従した時点より開始された
働階級は選挙権と労働組合立法とを獲得した。個人的利益の基づく自由
のである。・・・・S.ウェッブは、J.S.ミルの地代論に立脚している。かれ
主義の思想は、社会改良にたいする国家および公共団体の集産主義的思
は、J.S.ミルが土地制度改良以上に出なかったかを論及し、それを資本
想(collectivist theory)に道を譲りつつあった。しかしながら、これ
の領域まで拡大してゆく。土地の位置(position)、沃度(fertility)、含
らの変化はすべての人びとに明確に意識されていたわけではなかった。
有鉱物(mineral contents)、単なる人間の存在などの要素が集って、一
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つの土地と他の土地との純利益の差をもたらし、それが、やがて経済的
る。・・・・そのばあい、生産物の分配(distribution of the produce)が
地代(economic rent)の現象を生じたのである。現代の経済的撹乱をひ
すべて平等の原則(principle of equality)にしたがっておこなわれる
き起したものは、この地代の法則(law of rent)であった。・・・・工業にお
ことを主張するのではなく,ただ,すべての労働者が文化生活の最低限度
いても、同一産業部門に働く労働者ひとり当りの生産高にはなはだしい
を保証され(every worker should be guaranteed a minimum of
差異が存在する。工場や商業事務所の敷地、発明発見の利用、原料およ
civilised existence)、さらに一層能力のあるものには能力のレントと
び道具、組織および管理の形式などにおける差異が、この違いをもたら
して、より高い報酬が与えられなければならないからである。国民の社
したのであって、それは土地の性質の差異と同じものである。有利なる
会的良心が、報酬の程度に関係なく、かれらの義務を遂行するにあまり
工場、商店のもつ便宜は産業上の賃貸料(industrial rent)よりなって
あるほど発達しない間は、平等の分配は不可能である。・・・・あらゆる産
おり、そのレントの大部分は不労所得(unearned increment)である。
業の社会化を要求するものではないが、社会的に操作されることが便利
資本家が享受するこれらの便宜は資本家がみずから努力した結果である
であるような産業資本の管理を共同体に移行できるように努めるべきで
よりはむしろ社会の努力の結果であった。社会において勤労するすべて
ある。云々
の人びとが、この文化生活の発達、科学の功業、富の増大およびより有
利なる組織形態に貢献した。・・・・したがって、土地および産業資本を個
以上のS.ウェッブの主張、思想はそのままフェビアン協会の指導原理
となって、1887年6月3日の会合において採択された。
人的ならびに階級的所有から解放し、一般的福祉のためにそれらを社会
「 The Basis of the Fabian Society 」は、これを示している。
(community)に委託し、社会を再組織することである。・・・・そのばあい
すなわち
これらの政策がなんらかの賠償を支払わずして実施さるべきである。・・・
・なんとなれば、こうしてはじめてこれまでの不労所得であった地代およ
“ The Fabian Society consists of Socialists.
It therefore aims at the reorganisation of Society by the
び利子が労働の報酬に付加され、怠惰なる階級は消滅し、実際上の機会
emancipation of Land and Industrial Capital from individual and
均等は経済力の自発的行動によって維持され、個人の自由に干渉するこ
class ownership, and the vesting of them in the community for the
とが現制度によっておこなわれるよりもはるかに少いであろうからであ
general benefit. In this way only can the natural and acquired
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advantages of the country be equitably shared by the whole people.
The Society accordingly works for the extinction of private
For the attainment of these ends the Fabian Society looks to the
spread of Socialist opinions, and the social and political
property in Land and of the consequent individual appropriation,
changes consequent thereon, including the establishment of equal
in the form of Rent, of the price paid for permission to use the
citizenship for men and women. It seeks to achieve these ends by
earth, as well as for the advantages of superior soils and sites.
the general dissemination of knowledgeas to the relation between
The Society, further, works for the transfer to the community of
the individual and Society in its economic,ethical, and political
the administration of such industrial Capital as can conveniently
be managed socially. For, owing to the monopoly of the means of
aspects."
以上の原理によって明らかなように、フェビアン協会は、イギリスの
production in the past, industrial inventions and the
伝統的な社会理論であるレッセ・フェールに反して意識的に新しい社会
transformation of surplus income into Capital have mainly
(福祉社会)、すなわち、「土地」「資本」の生産手段を排除して不労
enriched the proprietary class, the worker being now dependent on
所得階級の特権を拒否し、所得の公平なる分配を求め、貧困を除去する
that class for leave to earn a living.
ために国家の活動を要請することを目的とするものであり、それはマル
If these measures be carried out, without compensation(though
not without such relief to expropriated individuals as may seem
fit to the community), Rent and Interest will be added to the
クス主義の公式理論である革命理論に溺れることなく漸進主義に基づい
て、福祉社会を実現しようとするものであった。
このような綱領(The Basis of the Fabian Society)の思想は、後の
reward of labour, the idle class now living on the labour of
ウェッブ夫妻(Sidney and Beatrice Webb)による「救貧法委員会少数
others will necessarily disappear, and practical equality of
派報告」(The Break-up of the Poor Law: being Part One of the
opportunity will be maintained by the spontaneous action of
Minority Report of the Poor Law Commission, London, 1909.)の提案
economic forces with much less interference with personal liberty
となって、イギリスの社会保障制度に結実し、福祉国家の形成に大きな
than the present system entails.
影響を与え、また「土地」「資本」のいわゆる生産手段の公有化思想は、
- 46 -
- 47 -
紆余曲折はあったにせよ国有化計画の実現となって、労働党の福祉国家
的政策の思想的かつ理論的基盤となっていることは周知の事実である。
6)
生産の傾向、したがって生活水準の傾向は上昇している。二つ
の大戦間の不況は経済発展を阻害した。産業は安定を求めてカル
テルを結成したため、経済は停滞した。これに反して、高水準の
2)
C.A.R.クロスランドの見解
雇用下では投資も高水準のため、制限的慣行の必要は低下し、労
働は不足となり高価であるから、生産の経済的方法が発達する。
New Fabian Essays の第2論文「資本主義よりの過渡期」の著者
C.A.R.Crosland は、イギリスおよびそれと同様に成熟した工業国におけ
る、転形した資本主義を Post-Capitalist Society と名付け、その特徴
を8点に求めた。
混合経済(Mixed Economy)によって提供される高水準雇用下では、
国民所得は年々増大する。
7)
社会の階級構成は複雑となり、初期資本主義期の単純な階級的
特徴は消え去り、K.Marx の予期しなかった技術的・専門的中産階
1)
私有財産は、経済的・社会的勢力の本質的要素ではない。
級(Technostructure)が生成し、その傾向は継続する。機械化が
2)
過去において財産所有者がふるった力は、いまや経営者階級に
不断に進むにつれて、狭義の労働者は減少する。高い生活水準は
移った。
財貨よりサービスにたいする需要を不断に増加する。中間階級は
3)
国家の力は、いまや一国の経済生活を支配するようになった。
4)
社会的サービスの水準は高く、このような社会は福祉国家と呼
称される。
5)
階級闘争を緩和する。
8)
思想的には、私有財産権、個人的創意、競争、利潤動機の強調
が止み、国家の義務、社会的経済的保障、協同行為の美徳に席を
雇用傾向は高水準に向かい、慢性的大量失業の再発の懸念はう
ゆずるようになる。かくのごとき特徴をもつ新しい社会を、
すらいだ。J.M.keynes の理論は理解され、完全雇用への政治的推
C.A.R.Crosland は福祉国家(Welfare State)、混合経済(Mixed
進力は以前より強く、生産、消費とともに A.H.Hansen のいう公
Economy)、経営者国家(Managerial State)、進歩的資本主義
有部門(Public Sector)と私的部門(Private Sector)の双方で
(Progressive Capitalism)、フェアディール主義(Fair Dealism)、
おこなわれる。
国家資本主義(State Capitalism)、社会主義の第一段階(First
- 48 -
- 49 -
Stage of Socialism)、国家統制主義(Statism)、古い社会の胎
期に
内に育まれた新しい社会(New Society being born in the Womb
Welfare State という一段階を認めるかどうかにある。いうまでもなく、
of the Old)の名称をもって形容している。
Marxism では、資本主義が福祉国家に変容するということはなく、むしろ、
それこそ State Monopoly Capitalism への変容であると強調する。
イギリス労働党の理論的指導者たちの福祉国家論は、大体これと同工
C.A.R.Crosland は、“New Fabian Essays - The Transition from
異曲である。わが国では、J.Strachey(Contemporary Capitalism, 1956.
Capitalism,1952.”の論文の中で、労働党政府の実現した段階から一段
関、三宅
と社会主義へ前進すべきことを主張している。 C.A.R.Crosland は1945
訳「現代の資本主義」)の福祉国家論が知られているが、大
綱においては C.A.R.Crosland の見解と同じである。
Welfare State をもって、社会主義への過渡期の一段階とみる思想は、
年以後、イギリス資本主義の転形は急速に進展し、イギリス資本主義は
あきらかに別個の体制に突入したとみる。この新しい体制を Statism と
(例えば、New Fabianist の C.A.R.Crosland“ The Transition from
名付け、「資本主義からもっとも基本的な変化は
Capitalism.- New Fabian Essays,1952." R.H.S.Crossman“ Towards
Statism への変化である」という。この体制は本質的には混合的である。
a philosophy of Socialism.-New Fabian Essays.” J.Strachey
産業の私有が支配的であり、大部分の生産が市場生産であり、旧い階級
“ Contemporary Capitalism, 1956.”) 社会主義論ではあるが、その社
分化が存続しているかぎりにおいて、それは資本主義である。だが市場
会主義論は資本主義が福祉国家に変容して、しかる後にさらに一歩進め
の影響力は中央計画に服従せしめられ、基幹産業は国有化されている等
て社会主義へ移行するとみるので、階級闘争の激化によって革命的変革
々の点においては非資本主義である。だが社会主義は、1951年現在
をとげるとみる Marxism とは異なっている。そこで Marxist からは上
Statismとは異なる体制である。社会主義のマルクス的定義たる(1918年
掲の
労働党規約第4条)「生産、分配、交換手段の共有化」や、Old Fabian
New Fabianist の Democratic Socialism が(例えば小谷 義次
Laissez-faire から
「福祉国家論」1966年 7~16頁)きびしく批判される。また、これら
の集産主義的強調は、もはや支持者が少なく、1935年の G.D.H.Cole の
Democratic Socialism のほうも、Marxism とは異った社会主義への道の
定義がもっとも共鳴者が多い。それによれば「社会主義とは、人々が対
あることを強調する。両者のちがいは、資本主義から社会主義への過渡
立する経済的階級に分裂しておらず、社会的福祉を増進する手段を共通
- 50 -
- 51 -
に使用しつつ、はぼ接近した社会的および経済的平等の状態で生活する
第二は、教育制度の問題である。
社会の一形態を意味する。」 この定義は「階級なき社会」を強調してい
第三は、産業の問題である。--国有化の大々的拡張、配当制限、会
る。
社所有の法的構成を株主の支配から解放し、労働者、消費者、
G.D.H.Cole の定義をとれば、Statism と Socialism の区別は明らか
となる。
共同体の協議体とすること--
方法は以上で尽きるものではないが、正統的でない革命的な方法が必
1951年までのイギリスは、平等化に向って大きく前進したことは確かで
要である。人口の大部分を占める労働者が自分の働く産業にたいして経
ある。しかし、いまだ「階級なき社会」の理想に接近しはじめていると
営参加のセンスをもち、責任を感ずる体制ができあがらなければ、いつま
はいえない。課税による所得再分配にもかかわらず、生活水準には大き
でも階級社会は残される。Statism は、以前の最悪の社会的害悪を克服し
な差がある。資本と労働、利潤と賃金の対立は消滅していない。教育に
たが、その成果はある意味で消極的であり、乱用の排除に限られた。社
おいても機会の不平等が大きい。イギリスはいまだ階級社会である。社
会主義者がつねに夢みた階級なき社会を創造することがまだ残されてい
会主義の目的は階級を根絶し、その代わりに共通利益と平等状態をもた
る。
らすことにある。社会主義の目的を実現するには、次の諸方策がある。
New Fabian Essays や R.H.S.Crossman; Towards a philosophy of
1)
無料の社会的サービスの継続的拡張
Socialism.もまた、Mixed Economy や Welfare State などの過渡的形態
2)
全産業における国有化の拡張
から、社会主義へ前進すべきことを強調している。
3)
統制の継続的拡張
4)
直接税による所得再分配の推進
しかし、その後の労働党政府は、福祉国家から社会主義への前進とい
以上の政策は、いずれも伝統的であり一般的であるが、しかし社会主
えるようなことはなにもやれなかった。のみならず、福祉国家とさえ言
いうるかどうか疑わしい点がいくつか指摘される状態である。たとえば、
義に大いに接近させることにはならない。社会主義実現に向かうために
国有化のさらにいっそうの前進は全く主張されなくなった。そして、政
は、他の方向へと転換しなければならない。
府が私的大企業の株主になって、私的利潤の一部を政府が吸いあげて公
第一は、富の所有の問題である。
- 52 -
共的支出にあてる代案などを提案している。また、「ゆりかごから墓場
- 53 -
まで」とうたいあげられた社会保障制度も、その財源を分析してみると、
からの築きあげた文明そのもので、つくり出された幾多の社会問題のた
国家支出は案外少なく、受益者負担が意外に多いといったことも明るみ
めに無残にも打ち敗られて失敗につぐ失敗を重ねてきたことは看過でき
に出ている。その他、所得再分配も、たいして実効をあげていないこと
ない事実である。と資本主義制度の弊害を指摘し非難する。
が統計的に指摘される。身分的な社会構造も、いぜんとして根強く残っ
すなわち世界の労働および社会主義運動は社会の資本主義制度にたい
ている。これらの弱点をかかえながら、漸進主義という美名のもとに改
する一種の反抗である。こんにちの最高文明人は、その知識、性格、知
良政策に低迷している点が Marxist からきびしく批判されるゆえんであ
能において、産業的寡頭政治に代わる産業的民本政治をもってしようと
る。
し、また金銭上の利己的動機に代わるに公共的奉仕の動機をもってしよ
うとする機会に熟していることを信じて疑わないと同時に、さらに世界
3)
Sidney and Beatrice Webb の社会主義思想
の大部分においては賃金取得者にたいする生産機関所有者の独裁権より
も、むしろそれ以上にその動機において、いっそう不純であるばかりか、
a)
資本主義批判
その結果においても有害な独裁者が多々あったことを確信するものであ
フェビアン協会の中心的地位を有するウェッブ夫妻の民主社会主義
る。すなわち幾多の奴隷にたいするその持主の圧迫、服従民族にたいす
(Democratic Socialism)思想を理解する有力な手引は、夫妻共著の
る征服者の圧制、人民にたいする専制君主または少数執政者の高圧手段
“ The Decay of Capitalist Civilisation, 1923.”に展開されている
などは、いずれも政治的権力を個人もしくは限定された貴族、もしくは
資本主義にたいする批判的見解を知ることによって肯首できる。
他の少数の民族、階級、宗教に独占せしめることによるものであるが、
ウェッブ夫妻は、18世紀後半乃至19世紀中葉にかけての資本主義は害
これと同時にこれらの圧制の諸様式と相平行し、相離れつつ、時として
悪よりも、むしろ数多くの善き成果を収めることができた。すなわち資
は弱くまたは強く、女子にたいする男子、子供にたいする親の家庭的暴
本主義は過去100年間の急激な人口増加に対比して、物質的文明のまこと
虐もおこなわれている。ひとりの人間にたいする他の人間のこのような
に驚くべき進歩を醸し出し国民所得の増大をもたらしてその目的を達成
別個な特有の圧制様式のひとつひとつが、経済的、政治的、もしくは社
することができた。けれども、それ以後における資本主義は、そのみず
会的のそれぞれの法律、慣習に体現されて、それが諸民族のなかに、い
- 54 -
- 55 -
まや必然と反抗、改革の機運を促している。いやしくも社会主義者にし
すます呪わしく卑屈にしてしまう。しかし賃金所得者の貧窮とか、ある
て社会主義の根底をなすデモクラシーの精神に忠実なるかぎり、かれら
いは財産所有者の奢侈とかは、かならずしも資本主義の最悪なる事相で
は当然これらのいっさいの運動に同情してこれを助成するであろう。そ
はなくて、かえって無産者と所有による生活(lives by owning)階級に
うしてかれらは社会発展の常態において奴隷売買の禁止や政治的民本主
属する人びととの間の、個人的自由における酷だしい不平等がそのもっ
義の確立や女子の解放が、産業発達における民本主義を一般的に採用せ
とも忌むべき方面である。二六時中他人の生産機関によって糊口するほ
しめることに先立たねばならないことを確信するものであって、これら
かはない国民のうちの3分の2は、これらの機関を有する比較的限定さ
の圧制のいずれかでも存在することは、やがて労働者にたいする資本家
れた階級に属する人びとの命令のままに働くほかはなく、これらの命令
の圧制をも寛仮することになり、けっきょくは資本主義特有の幾多罪悪
に背いたからとて法律上罰せられることはないとしても、こうしては好
にたいして目を閉じるようになるにちがいない。けれどもわれわれ社会
んで餓死を待つことになる。賃金取得者が賃金奴隷(wage slavery)と
主義者の目的は、何と言っても、こんにち最高文明国の政治的民主国で
して不平をいう理由は実にこの点にある。社会主義者は資本主義制度の
おこなわれている多数貧民にたいする比較的少数の有産階級の、特殊な
基礎そのものを貨物の生産、分配ならびに勤労を組織する手段として、
様式の暴虐に注意を集中することである。といい、産業資本主義制度と
科学的にきわめて不健全なものであり、人類の心霊的進歩とも両立し難
そのうえに築かれている一般社会にたいする非難を要約してつぎのよう
いものである。資本主義は初期において国民の富を増加するためにかな
に説く。
りの成果を収めることができたが、しかしけっきょくは貨物の生産と勤
すなわち、もともと国民一般が貧窮に陥いるには種々の原因があるだ
労とを極度に増大することができず、そのためにみずからの揚言せる目
ろうが、とくに民衆の多くが生産機関を所有することを阻まれると、た
的を蹂躙してしまったばかりか、ひとりひとりの所有者をして利潤追求
とえ全体の生産がいかに絶大であっても、多くの人びとはつねに困窮な
の動機に奔走させたために国民道徳、国際平和ならびに文明そのものに
生活に陥いり、たえず飢餓に脅かされることは歴史が証明している。こ
たいして害悪を与えてしまった。こうした現代企業の失敗は、営利の動
のような困窮とこれに付随する生活上の不安は、有産階級の安楽と贅沢
機における固有の欠点と営利者の職業における不可避的な発展とに帰す
とにより、またかれらのなかの1部の人間の破廉恥な怠惰によって、ま
ることができるであろう。
- 56 -
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ウェッブ夫妻は、このような資本主義の最初の成果が崩れ去り、失敗
夫妻は19世紀の政治的民主主義はすでに過去のものとなり、20世紀の民
に終った原因を利潤の動機に内在する種々な欠陥にみるのであるが、と
主主義は産業民主主義でなければならないことを説き、「建設的な」社
りわけ利潤追求にもとづく害悪をつぎの諸点にもとめている。
会主義民主国を提唱する。
すなわち、その第1は、社会的環境の破壊である。利潤追求者は、休
みなしに働き通せる労働力を維持するため、労働者にたいして支払う経
b)
社会主義民主国の構造
費がわずかに衣食住を辛じて支えるに足る費用を支払っているにすぎな
ウェッブ夫妻が、第1次大戦直後までの豊富な体験と研究とを基礎に
い・・・・、かれら数百万をとりまく環境のいっさいの快適さと美しいもの
構想した“ A Constitution for The Social Commonwealth of Great
が悉く破壊され、空気も水も土地もすべて毒されたため、人間生産力の
Britain, 1920.”によれば、万人の自由平等をめざして出発した自由資
諸要因である健康、幸福、道徳や道義心、知能が劣等なものとなってい
本主義は、いまや資本家階級の独裁を生み出し、労働者階級は被圧迫者
る。・・・・第2は、自然財源の荒廃である。利潤追求者は毛皮用や食糧用
と化した。この弊害を是正して、労働者階級を解放し、自由と平等と最
の動物を四季をとわず撲殺し、原始林を乱伐し、自然の牧場を裸にし、
低限度の生存と慰安を保障するためには社会主義に依らねばならないと
肥沃な処女地を磽
にし、石炭、金属、石油、ガス等の天然資源にいた
高調する。
るまで濫費されて、河川は涸らされ、風土そのものさえ害わるるにいた
すなわち
った。・・・・このような資源の濫費に加えて、過大投資から独占化の過程
What the Socialist aims at is the substitution, for this
をいそぎ究極には資本主義制度の基礎であるところの個人の主導権や冒
Dictatorship of the Capitalist,of government of the people by
険心ならびに企業の自由を失なわせてしまい、好況と不況との交替を不
the people and for the people, in all the industries and services
可避的なものとし、大量の失業者を産み出してしまった。・・・・資本主義
by which the people live. Only in this way can either the genuine
が自発的な成功を収めることができたのは、利潤追求者の刺激剤による
participation of the whole body of the people in the administrati
よりも、実にこのような「飢餓の鞭(the whip of starvation)」であ
on ofits own affairs,and the people's effective consciousness of
ったが、しかし、それらの適用はもはや不可能となった。・・・・ウエッブ
consent to what is done in its name, ever be realised. This
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application of Democracy to industry,though it has its own
とによって工夫されたものである。ところが産業革命の結果と資本主義
inherent value as an unique educational force, is in the eyes of
制度の発達とは、共同社会の富の10分の9を独占しつつある。総人口の
the Socialist also a means to an end, namely, a more equitable
約1割に当る特権階級に奉仕する「雇用者」--総人口の8割乃至9割
sharing of the national product among all members of the
までを占める--の民主制を我々に与えてくれた。ウェッブ夫妻はさら
community,in order that there should be available for all the
に、この問題を論及してつぎのようにいう。
members of the community that largest attainable measued of
共同社会がよって生活するところのもろもろの産業および労務にたい
personal freedom. Hence the purpose of Socialism is twofold:the
して民主制を適用するとは一体何を意味するか。19世紀の社会主義にと
application of Democracy to industry and the adoption by this
ってはこの問題は起らなかった。かれらはヴィクトリア時代の民主主義
Social Democracy
から選挙権の平等に関するかれらの観念をうけ継いだ。そしてヴィクト
of the principle of maximising equality in
“ life,liberty and thepursuit of happiness.”
リア時代と等しく、かれらもまた、社会における人間は、ただ人間とし
ここに表現されたウェッブ夫妻の社会主義論には、人格の自由と完成
てのみ代表されるべきだと主張した。実際、当時の社会主義者は、単純
とを至上目標とするグリーン(T.H.Green)流の理想主義が一つの新しい
なる民主主義者と等しく、つぎのことを承認した。すなわち民主制は一
要素となって加わっている。社会化も民主化も、この目的のための手段
つであり、しかも不可分のものである。そしてそれは共同社会のすべて
である。
の集団的事業の管理に、直接もしくは代表者を通じて参加すべきすべて
ウェッブ夫妻は公有化とともに民主化を強調した点で社会問題を一歩
の成年者の平等にして、かつ同種類の権利のうえに基礎をもつ、と。・・・
深めたが、まず18世紀乃至19世紀の政治的民主主義はすでに過去のもの
しかしすべて、このような民主主義の諸形態は、個々の公民をもって、
となり、20世紀の民主主義は実質的な社会的、経済的、産業民主主義で
すべての時代ならびに時節を通じ、かつまた、すべての生活関係におい
なければならないことを説く。
て、もろもろの欲望および目的の同質的なものをもつ一個人の人間とし
すなわち、政治的民主制の仕組は、独立せる生産者の本質的に平等な
て認めているのである。
る共同社会のために、ルソー(Rousseau)とジェッファスン(Jefferson)
20世紀の初頭において、世界は、民主制の性質に関する思想上の革命
- 60 -
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によって、一つの新しいそしてより根本的な意見の分離を認識するにい
消費者によってなすべきか、あるいは将来の人びとのため全国的資源の
たった。・・・・共同社会の民主的組織は、ただ単に人間としての人間の代
保存に利害関係をもつ、公民としての共同社会全体に
表組織ではなく、社会におけるかれの生活の主要な各方面における人間
よってなすべきか・・・・というが如きである。
の代表を容認するものである。すなわちそれは、生産者としての人間、
かかる論争の初期においては、各派のおのおのはもっとも極端なる形
消費者としての人間、ならびにかれの属している人種または共同社会の
において、自己の地位を弁護し、そしてただ真正なる民主制は、生産者
継続的存在ならびにその独立に関与し、あるいはかれの希望する文明の
としての人、また消費者としての人、もしくは、公民としての人の基礎
特徴に関係をもつ、公民としての人間、の代表を認容することであり、
を、各自排他的に採用するところのものである、と事実主張する傾向が
おそらくはまた他に知識の探究者としての人間、または宗教的信仰家と
あった。それは、民主制は一つであり、かつ不可分のものでなければな
しての人間、の代表を認容することである。
らない、という甚だしい迷誤の反復にほかならなかった。・・・・イギリス
ウェッブ夫妻は人間としての人間の代表組織ではなく、人間は各種の
職能において別々に代表さるべきことを説く。
においては、少なくとも、この論争はいまや大いに相互の了解をもたら
した・・・・実際、こんにちではすべての社会主義的思想家によってつぎの
すなわち、19世紀の後半において、政治的民主制の傍に、生産者の民
ことが認められている。すなわち、もしわれわれが、個人の全集団のた
主的組織と消費者の民主的組織とが発生し、実際偉大なる努力を獲得し、
めに人身の自由をできるかぎり獲得し、同時に払われた努力と犠牲とに
その何れもが、自己の組織をもって産業自治の唯一の真正なる形態なり
比例して貨物および労務の最大の純生産力を獲得せんとするならば、さ
と信ずるにいたった。
らにまた、われわれが現代の公民にたいすると同様、将来の共同社会の
・・・・生産者組合と消費者組合とがもろもろの産業および労務の所有なら
ために備うべきであるならば、社会の民主的組織は、ただ人間としての
びに支配を獲得せんとする対抗的な要求は、激しく論争の的となるにい
人間のうえに基礎をおくべきではなくして、われわれの思考する4つの
たった。たとえば、鉱山の所有ならびに管理は、筋肉労働者と頭脳労働
別個のかつ対立的な基礎から生まれてこなければならない。・・・・それは
者との如何を問わず、石炭生産者の代表者によってなすべきか、あるい
ある特定の貨物または労務の生産者としての人、もろもろの貨物および
は家庭用消費と産業用消費との如何を問わず、消費者としての、石炭の
労務全体の一消費者としての人、さらに2側面における一公民としての
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人、--一側面においては、国防と国内秩序、換言すれば、国の内外か
いるが、その要旨はつぎの通りである。まず中央政治については、国王
ら侵害にたいする保護に関係し、他は“共同社会の各員の個人的福祉
(The King)は、大英民主国にとって儀礼的酋長者(Ceremonial
(well being)に表現されたる、かれの希望する文明様式の促進と将来
headship)として維持するが、政治上の責任は負わしめない。・・・・上院
の物質的ならびに非物質的利益”(・・ with the promotion of the type
(The House of Lords)は廃止する。・・・・国会(The National
of civilisation that he desires, expressed in the individual
Parliament)は国政が支配(Verwaltung)と経済(Wirtschaft)とに分
well-being of all members of the community; and with the
れるに応じて、政治議院(Political Parliament)と社会議院(Social
non-material as well as the material interests of the future.)に
Parliament)とに分けられる。政治議院は外交、司法、軍事を担当し、
関する部面である。したがって、それぞれの部面における民主制が補充
その執行部としての内閣は、その議院にたいして責任をもつ。社会議院
し合うことが必要である。消費者民主制の目的はかれらが各自希望する
は国民の経済および社会的活動にたいする統制をおこない、その執行部
貨物および労務の豊富なることとその低廉を計り、生産者民主制は各職
は共同責任の内閣をもつ必要はなく、国会の常任委員会により監督せら
業によってかれらの社会的ならびに産業的身分を向上せしめ、かれら自
れ、その委員長は政策において互いに必ずしも一致する必要はなく連帯
身の特殊の生活および行為の標準を維持し、労働生活の状態を統制する
責任をもたない。両院の関係は対等で、共同委員会で協議をし、どうし
こと目的とし、公民民主主義は、国防および外交関係、法律の発展およ
ても意見の一致をみない場合は国民投票できめる。かように、刑法を通
び秩序の維持、ならびに裁判の執行・・・・生産および分配がよって定まる
じて人を統治するが、物の管理はおこなわない政治議院と、物の管理を
共同的経済生活の経営、国民所得の不平なる分配、将来のひとびとのた
するが人を強制する法律を執行する権限をもたない社会議院とに分つ目
めの国民的資源の保存および賢明なる管理、共同社会が企画し、かつ希
的は、現在過多に増加しつつある政治の職権を分つことによって、政府
望する文明の種類の決定およびその維持、人種の衛生および各世代人の
による個人の自由の侵害を防ぐことにある。政党は将来なくなりはしな
教育、ならびに科学的発見およびその研究と文学、芸術の促進を目的とす
いが、こんにちの地方自治体におけるごとくその影響を弱めるであろう。
るものである。
政党はむしろ選挙民教育の機関となるであろう。と、つづいて国有産業
かかる原則のうえに立って、ウェッブ夫妻は社会主義組織を提案して
- 64 -
(The Nationalised Industries)および労務(Service)の管理
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(administration)については、社会議院は政策を決定し統制するが直
命令権をもつかは重要でなくなってくる。すなわち科学的な能率、生産
接管理には当らない。産業および労務の管理は自作農や美術工芸のごと
技術の測定(Measurement)とその公表(Publicity)により、個人的専
き個人でおこなわれる少数のものをのぞき、全国的組織の機関か、市町
断を許されなくなり、非人格的な事実が数字をもってそれを示し、みん
村の形態のものか、または協同組合によりおこなわれる。前二者は消費
なの同意をえて説得力をもつようになるからである。なお社会議院は国
者の強制的組合であり、第三のものは消費者の自発的組合である。全国
有産業にかぎらず、あらゆる社会化された産業の管理を調査し、政策が
的規模のものすなわち国有化(nationalize)されるものは、その数は12
忠実に履行されているかどうかを調べて国会および民衆に報告する統制
位であるが、その管理のために、社会議院の常任委員会は、それぞれの
部(Control Department)をもたなければならない。・・・・地方自治体の
産業につき全国委員会(National Board)を任命する。全国委員会の委
経営する産業は社会主義国では拡大され、あらゆる産業の半分まではこ
員は各課の課長以上の上役、労働者書記の代表者および消費者代表から
のグループにはいる。自治体産業は郷土的愛郷心があることと、他の自
なる。各地方には同様の構成の地方評議会(District Council)が設け
治体の企業と競争する点で国有産業より優れている。これは地方議会の
られ、各種の機能に応じそれぞれの程度の自治を認められる。雇用条件
下に立つが、その業務の管理については国有産業と原理上異ならない。
については生産者民主制としての労働組合の主張が聞かるべきであり、各
社会主義国においては消費者の自発的組合である協同組合は減少するど
工場ごとに労働者の代表からなる工場委員会(Works Committee)が経営
ころか、みんなの富が平均化するために加盟者が増加する。その結果、
者と討議して決定するが、全国的団体契約や全国委員会、地方評議会の
単に配給のみでなく生産をおこなうこともでき、国有または自治体産業
決定した産業上の規定に違反することはできない。労働組合は経営者で
と競争して、組合自身の供給のため、みずから鉱山や農業や工場を所有
ある全国委員会の代表と同数の委員からなる合同協議会をもち、そこで
することも可能となる。もちろん国民的資源の保存のため公民の強制的
団体契約をおこなう。さらに諮問委員会(Advisory Committee)が生産
組合である国家が独占するものもあるが、社会議院の統制の範囲内では、
者および消費者の代表により作られ、苦情や批判がなされるとともに他
各公有企業間で競争がおこなわれることが望ましい。消費者の任意的組
方科学的調査をおこなう。また、これは国有産業のみにかぎられないが、
合を作る最大の自由をそれぞれの団体に保存せしむることにより、個人
事実経営上の命令、訓練については、社会化が進むにつれ、だれがその
的創意を奨励することが望ましく、個人人格のかかる団体的伸張につい
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ては何らの制限もない。新聞も政府の官報のほかに協同組合の経営する
のもが存在するであろう。生産者の団体たる職業団体は、特殊的職分を
してであると。
ウェッブ夫妻は、生産手段の公有化とその民主的管理すなわち生産者、
尽すもののみの自発的団体として組織さるべきであり、社会において階
消費者、中立的公民の三者構成の産業民主主義を主張し、将来のイギリ
級闘争の機関たることをやめて、その団体員の生活を擁護し、その技能
ス社会主義民主国を構想する。
を高めることを目的とするようになる。罷業権は認められるが、実際上
それは行使されないで、各職業間の平均賃金の差別は測定と公表の結果
4)
S.& B.Webb に影響を与えた T.H.Green の思想について
與論により決定されるであろう。
なお、ウェッブ夫妻は、このような社会機構への変革は、イギリスに
すでにみたように、ウェッブ夫妻の社会主義論には、人格の自由と完
あっては暴力革命により一挙に実現されることはないからその過渡的措
成とを至上目標とする、T.H.グリーン(Thomas Hill Green) 流の理想
置が重要である、として「国民最低限度」政策と「公共奉仕の精神」革
主義がひとつの新しい要素となって加わっている。社会化も民主化も、
命を高調して本書を結んでいる。
この目標のためのひとつの手段となっている。
すなわち、社会における人びとは、かれらの職分を遂行するに当って、
そこで以下においては、フェビアン社会主義の思想的指導者であるウ
富を得んとする熱望によって刺激せられまたは刺激せらるべきものだ、
ェッブ夫妻に多大の影響を与えた、T.H.グリーン の思想、とりわけグリ
とする資本主義制度のよって立つ、不幸なる仮説・・・・は一つの病的悪魔
ーンの国家観について検討を加えていく。
たるを失なわないが、現今の西ヨーロッパは3世紀前ほどにはその仮説
グリーンの思想体系の根幹をなしている道徳哲学において、かれは
に魔せられていない、そして今日では却ってそれから漸次離脱しつつあ
「善とは人格の完成であり、諸能力の充実であり、自己実現である。」と
る。自己富致の動機に代うるに公共的奉仕の動機をもってすることは與
言っている。さらに「人格の完成とは、あらゆる人の人格の完成を図るこ
論のうちにすでに起りつつある変化によって促進されるであろう。われ
とが、各人の人格完成の主要な要素」であり、「人格の完成はいかにし
われが本書を献ずるのは、社会的奉仕の精神によって刺激せられ、かつ
てなしうるかについては、かれの社会哲学において、「人格の完成は、
たえず増加してやまぬ知識によって輝かされる、自由なる民主制にたい
ただ各人自らの内部努力による外はない。しかし、人格の完成をなすた
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めに必要な条件をそなえ、それに障害となるものを除去することは可能
を行なわさせられるが、義務よりその行為を行なわさせることはできな
である。これを果たすのは、社会制度の任務である。したがって、社会
い。いかに人が内面生活を営むかは国家の権力のいかんとも指を染める
制度の理想は、あらゆる社会の成員の人格の完成をなすことにある。」
ことはできない。それどころか、この領域に指を染めることは、国家の
と述べている。さらに社会制度の中の制度とでもいうべき『国家』につ
存在の目的に反するわけである。なぜならば、この内面の生活において
いて、かれは国家とは「その成員の権利を、より完全により円滑に、保
は自然の調和が完成の必要な条件であるのにかかわらず、今aという方
持するための制度である。」と言っている。権利が各人の人格完成のた
向に傾きつつある人に、外部より権力をもってbという方向を強要する
めに必要な条件であるならば、権利を保持する国家は、我々の道徳的生
ことは、その人がbにたいする準備を欠いているときに、aをなげうっ
活に必要欠くべからざる制度なのである。
てbという方向にかわるように求めることであり、内面生活に動揺と不
グリーンの国家機能に関する見解は、在来の自由主義における見解と
まったく異なっている。
秩序とを生じさせ、自然なる有機的完成を阻止するからである。まして
やその強要は刑罰を楯として迫られるのである。この場合に強要にした
グリーンによれば、国家の目的は成員の人格完成をなしとげることに
がうことは、その自然の準備のあるなしにかかわらず、刑罰にたいする
ある。この国家の目的からして国家は、国家がなすべからざる任務とな
恐怖のためである。このようにして、善はそれが人格完成の意識を動機
すべき任務とのふたつが派生される。
としてのみなされるものであり、それが、道徳的という名に値するもの
国家の目的が成員の人格の完成にあるならば、かれらの人格の完成を
にもかかわらず、刑罰にたいする恐怖をよびおこすことにより、換言す
阻止することは、その目的からしてなすべからざることである。ここに
れば、利己心を刺激することにより、人格の完成を促すのは、促がされ
国家の消極的任務が発生する。
るものが道徳的であるために、当然に自己矛盾である。このような経路
およそ人格の完成とは、ただ個人ひとりが負うべき課題であって、第
三者や、国家は参加すべきものではない。ここに精神成長の威厳があり、
道徳的生活の神聖さがある。
によって促された人格の完成は、既に「道徳的」たる性質に背反し、国
家存在の目的に矛盾するものである。
グリーンが内面生活の領域に、国家干渉を排斥しようとしたのは、こ
国家は人をむちうって、かれの外的状態を強制し、義務にかなう行為
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のような理由によるのである。
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これらのことについて、グリーンは
“ Now any direct enforcement of the outward conduct, which ought
to
flow from social interests, by means of threatened penalties
away the occasion for the exercise of parental forethought,filial
reverence, and neighbourly kindness).”と言っている。
グリーンが国家干渉を排斥した領域は、内面生活に関するものだけで
and a law requiring such conduct necessarily implies penalties
あり、その主要なる内容は信仰または一般思想に関してであった。この
for disobedience to it-does interfere with the spontaneous
領域にたいして、かれはなお自由を唱え、自由主義は依然として存在の
action of those interests, and consequently checks the growth of
価値があるものと考えた。グリーンにおけるこれらの自由の論拠は、自
the capacity which is the condition of the beneficial exercise of
由が善すなわち人格の完成のために必要であり、そして成員の人格の完
rights.”と言っている。
成を図ることが国家の目的であるならば、これらの自由は国家目的から
そしてかれは、これらなすべからざる干渉は、今日までいかなる形式
の必然的帰結でなければならない。
においてなされてきたのか、について
グリーンはこれに関して次のように述べている。
“This has been done (a) by legal requirements of religious
すなわち、
observance and profession of belief, which have tended to vitiate
“ The true ground of objection to `paternal government´ is not
the religious source of morality; (b) by prohibitious and
that itviolates the `laissez faire´ principle and conceives that
restraints, unnecessary, or which have ceased to be necessary,for
its office is to make people good, to promote morality, but that
maintaining the social conditions of the moral life, and which
it rests on a misconception of morality. The real function of
interfere with the growth of self-reliance, with the formation of
government being to maintain conditions of life in which morality
a manly conscience and sense of moral dignity, --in short, with
shall be possible, and morality consisting in the disinterested
the moral autonomy which in the condition of the highest goodness
performance of self-imposed duties,`paternal government´does its
; (c) by legal institutions which take away the occasion for the
best to make it impossible by narrowing the room for the
exercise of certain moral virtues(e.g. the Poor-law which takes
self-imposition of duties and for the play of disinterested
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motives.”と。
with freedom of contract,is justified on the ground that it is
このことはすなわち、国家が思想言論に干渉することは、不可能な領
the business of the state, not indeed directly to promote moral
域に権力を行使することであり、それが効果をなしとげるならば、それ
goodness, for that, from the very nature of moral goodness, it
は威武に屈し、富貴におぼれるひきょうな成員を創造することである。
cannot do, but to maintain the conditions without which a free
これは国家の道徳的目的に反している。この点において、かれは依然と
exercise of the human faculties is impossible.”
して自由主義者であった。
また、グリーンは次のようにも述べている。
国家の目的が、その成員の人格の完成を図ることにあるゆえ、国家の
“ For this reason the effectual action of the state, i.e. the
第2の任務が派生してくる。それは、成員の人格の完成のために障害と
community as acting through law, for the promotion of habits of
なるものを除去しなければならないということである。なぜならば、あ
true citizenship, seems necessarily to be confined to the removal
まりに多くの障害があれば、これと闘うため人格の完成が阻止されるお
of obstacles. Under this head, however, there may and should be
それがあり、そうでなくとも大きな犠牲が払われるからである。これが
included much that most states have hitherto neglected, and much
国家の積極的任務である。
that at first sight may have the appearance of an enforcement of
国家のなしうることは人格の完成それ自体にはなく、それへの必要条
moral duties, e.g. the requirement that parents have their
件を具備することにある。これらの障害を除去することは、それ自身に
children taught the elementary arts.・・・・ It would be out of place
おいては価値あることではないが、それが人格の完成すなわち善の実現
here to consider in detail the remedies for these evils, or to
に役立つことによってそれは価値づけられるものである。そのうえ、善
discuss the question how far it is well to trust to the
への必要な手段として、国家はこの任務を忠実に実施する義務がある。
initiative of the state or of individuals in dealing with them.
この名目の下に国家の干渉強制は是認される。
It is enough to point out the directions in which the state may
すなわち、
“ Our modern legislation then with reference to labour, and
remove obstacles to the realisation of the capacity for
education, and health, involving as it does manifold interference
beneficial exercise of rights, without defeating its own object
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by vitiating the spontaneous charactor of that capacity.”
躊躇と逡巡とに遭遇せざるをえなかった。じつに、「当時のもっとも急
人が意識しようとしまいと、国家は過去において長くこれらの障害の
迫した政治問題」は、個人の自由はなぜ貴重であるか、障害除去のため
除去に努めてきた。他人が我々の身体を殺傷し、財貨を奪取し、破棄す
の干渉は、いかなる場合においても否定されなければならないのか、を
ることにたいして、刑罰をもってこれらを禁止させるようにしたのはそ
検討し、人にたいして向かうべき指針を提示することにあった。
の現われである。
そもそも自由とは「強制のない状態」をいうのである。強制にはいろ
膨大な法律の体系は我々にとって障害除去の役目をなすものである。
いろな種類がある。我々を殺傷し監禁し、我々の財貨を奪取するような
我々は自己の人格の完成の障害を除去するために、他人にたいする権利
ものは、いずれも強制の一種である。これらの強制を除去して自由とす
を与えられ、同時に他人の人格の完成のために、障害となってはならな
ることに国家の目的がある。それなのに国家は、それ自身が一種の強制
い義務を負わされている。そして何が障害であるかは、事情の変化とと
を各個人に加えることとなった。ここにおいて、国家により除去された
もに変化していく。いまや新しい障害を除去するため、資本家と労働者
強制は忘れさられ、およそ強制とは国家による強制と同一視されるよう
との契約に干渉して、その労働時間を制限し、危害不衛生の設備を取り
になり、国家の強制のない状態がすなわち自由と速断されることとなっ
しまろうとし、あるいは両親の児童にたいする教育に干渉し、国民普通
てしまった。
強制教育法案を通過させようとし、あるいは飲酒に制限を加えるため、
前時代において自由とは、「国家の強制」がない状態であった。しか
酒類販売業を取りしまろうとした。これらは労働者、児童あるいは飲酒
し国家の強制はおよそ強制の唯一種にしかすぎない。国家の強制を排斥
者の人格の完成のために、その障害を除去することを目的としている。
した結果、資本家の強制を導入することになったのならば、一難去って
しかも身体を殺傷し、財貨を奪取しようとする障害を除去することは、
一難を迎えることとなる。もし強制のないことをもって自由というのな
国家の正常な任務としてだれもあやしむところがないのにかかわらず、
らば、この時は決して自由ではない。
これらの立法はその都度個人の自由という名目のもとに、しれつな反対
に新しい意味をつけ加え、「障害の除去」という標語によってこれをな
を受けてきた。今後も同様の立法は、このような理由により阻止される
そうとした。労働者は低い賃金に甘んじて、長時間の労働に従い、たえ
危険性がある。これらの立法により障害を除去しようとするくわだては、
ず失業の危険におびやかされていた。児童は教育自由の下に教育をうけ
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グリーンは「自由」という言葉
ていない両親の下で、必要な教育を受ける機会を失なっていた。これら
の障害を除去することが、新時代の立法の目的である。障害が除去され
Sidney and Beatrice Webb;“ The Decay of Capitalist Civilisation,
ることにより、各個人は善の実現をなしうる条件が与えられる。これを
1923.",“ A Constitution for The Social
その成員に与えることが国家存在の目的なのである。
Commonwealth of Great Britain, 1920.”
従来「自由」の名において幾多の改革がなされてきたが、グリーンに
T.H.Green; Lecture on the Plinciples of Political Obligation,1921.
とっては、「自由」が終局の目的ではなく、じつは人格の完成が終局の
鈴木 安蔵 編 「福祉国家論批判 1967年」
目的であった。そしてこの目的のために従来の「自由」が必要な手段で
小谷 義次 著 「福祉国家論 1966年」
あったのである。
以上みてきたものが、T.H.グリーンの国家観である。
《参考文献》
Max Beer; A History of British Socialism, 1919.
E.R.Pease; The History of The Fabian Society, 1916.
C.A.R.Crosland; New Fabian Essays,1952.“The Transition from
Capitalism.",“ The Future of Socialism,1956.
(関 訳「福祉国家の将来」)"
R.H.S.Crossman; New Fabian Essays, 1952.“Towards a philosophy of
Socialism."
J.Strachey; Contemporary Capitalism, 1956.(関 訳「現代の資本主
義」)
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