教育思想にっいて - 福島大学学術機関リポジトリ

説 苑
ョン・ロックの
教育思想について
芳
賀
守
ージョン・ロックの教育思想について一
ロックの教育思想に関しては、既にわれわれは偉れたいくつ
面、教育思想家としてのロックに強い関心を持つのである。
彩な活躍を続けた人であった。しかし筆者は彼のいま一つの側
彼は政治.哲学・宗教・経済等の諸問題について、当時最も多
そしてイギリス経験論哲学の大成者としてよく知られている。
リス名誉革命のイデオローグ、ウイッグ党のプランメーカー、
一般にジョン.ロック︵とげコい。臭ρ5ω㌣ミ宝︶は、イギ
ま え が き
一﹃統治論﹄と諸教育論考とを素材に一
ジ
でロ
かのモノグラフを有している。また近代イギリス市民社会にお
ける政治.経済・宗教等に関する彼の主張を取扱った諸研究に
へ ロ
おいても、彼の教育思想について若干の紹介がなされている・
さらにまたロックに関する定評ある概説的研究書であるエァロ
ンやクランストンの﹃ロック伝﹄にも教育思想への言及が見出
ぞロ
される。すなわちエァロンにおいては第三篇四﹁教育と宗教﹂、
せレ
クランストンにおいては第一八章﹁教育に関する思想﹂がそれ
である。さらにR.H・クイックの場合も、序文においてロッ
ハ ロ
ク教育思想に関する批判的叙述が見られるのである。
これら諸研究の成果はいずれも貴重であり、それぞれに示唆
ながら、ロック教育思想に関する若干の考察を試みたい。ただ
する処、大なるものがある。筆者はこれ等先学の論述に導かれ
小論は、いわばその手がかりとして、いくつかの問題を覚え書
的に整理しておこうとするものである。すなわち諸教育論考の
性格、 諸論考相互間における関係、 ならびに彼の主要著作と
教育論考との関連等に関して理解を深めておこうとするのであ
り、行論を次のような順序で進める。
ハ ロ
すなわちここでは彼の晩年の著作である諸教育論考を、かの
市民社会の基礎理論の書﹃統治論﹄ ↓ミ。ギ8蔚窃亀9色
九七
1説 苑I
Oo<。旨旨。ヌ属8、また近代産業ブルジョアジーの悟性良識に
ハアロ
関する研究書である﹃人間悟性論﹄>口固ωω喫8目R三農=仁,
ヨきq昌αRω3&首堕お8等に照応せしめながら分析し、な
おその歴史的社会的基盤にも照らしてできるだけ考究を進めた
い。そのために筆者は、まず諸教育論考の内容の検討から始め
ハ ロ
る。ここに諸論考とは、正確には﹃教育に関する若干の考察﹄
コし
ノ ー\
ノ
ハおロ
ベての優越と主権とを彼に与えるものは悟性である⋮⋮﹂と語
ハぱロ
リ、あらゆる事において理性を﹁最後の裁判者と指導者﹂たら
しめる合理主義者でもあった。 このようにして彼は王党員の
錚々たる論客ロバート・フィルマーに反駁し、近代民主政治思
想における亀鑑の書﹃統治論﹄を書き次のように述べる。 ﹁理
憾は⋮⋮総ての人類に、・⋮−何人も他人の生命、健康、自由及
周知のように一七世紀の後半における当時のイギリスは内外
うな背景において書かれたものである。
よく知る処である。彼の信仰の自由を説く﹃寛容論﹄はこのよ
パルロ
を孕みながら政治的問題として発展して行くことはわれわれの
命はピュリタン革命から名誉革命にかけて、その底に宗教問題
機的に関連づけられることになるのである。そしてイギリス革
︵16︶
うにして自然法︵自然権︶と理性という二つの契機によって有
っている﹂と。彼の主著﹃悟性論﹄と﹃統治論﹄とは、このよ
ハほロ
する侵犯を裁判し、⋮⋮これを処罰することのできる権力を持
対して保護する権力のみではなく、また他人のその自然法に対
の権利及び特典の無制限な享有とを⋮⋮他人の侵害と攻撃とに
既に証示されたように、完全な自由と⋮⋮自然法の認める一切
び所有物を損傷してはならぬことを教える⋮⋮﹂、また﹁人は
藷冝B日﹃2讐$8昌8ヨぎ暇国会8ぎP一〇〇ωおよび﹁労働
っ ロ
るものであった。彼は﹁⋮⋮人間が彼等に対して持っているす
体系はベーコンの経験論をふまえた﹃人間悟性論﹄を根幹とす
を跡づける。﹂作業を行なったと。 周知のように・ックの思想
︵12︶
⋮彼は幼児を生れた瞬間にとりあげ、一歩一歩その悟性の進歩
まいを証明するように、人間理性を人々に展開してみせた。,
のように語る。﹁・ックは恰もすぐれた解剖学者が人体のぜん
はなかった。ヴォルテールの﹃哲学書簡﹄はロックについて次
ところで彼は云う迄もなく本来の意味における教育思想家で
行きたい。
者達との相互の継承と断絶との関係にも配慮しつつ論を進めて
彼の思想的先駆者、彼と同時代の人々、およびその思想的継承
︹10︶ ︵n︶
学校﹂毛。詩ぎ瞬ω385旨Sのことである。そしてその場合、
oo
見られることは、かかる時代の動向を無視しては理解できぬで
思想に保守と革新、合理性と矛盾性、停滞と進歩の二重性格が
←革命︶という目まぐるしい危機の連続の裡に推移した。彼の
共に多事多端であり、国家体制は数度にわたる革命←反革命︵
はそれぞれから有益な教示を得た。
に分析した論考である。何れも優れた特色を持ち、筆者
ニュ、ルソーの所説とも対比せしめつつロ碍クを内在的
﹃悟性論﹄︶に関連せしめながら考察し、また、モンテー
教の面においてはピュリタンの信仰を保持しながらその寛容の
びにそれと結合した近代的土地所有者階級の利害を代弁し、宗
ら議会側の主張を推進させ、社会、経済的には産業資本、なら
成されたものである。彼は政治においてはウイッグ党の立場か
二頁参照︶を、また浜林正夫氏はその教育論の背景にあ
の教育論の特異性︵﹃ウィリアム・ゴドウィン研究﹄八
会﹄四、三六、三九㈲の各頁参照︶。 また白井厚氏は彼
の重要性を指摘する︵平井﹃ロックにおける人間と社
性﹃=ヨ山旨旨螢ε括の位置づけのためロック﹃教育論﹂
︵2︶ 平井俊彦氏は、既に近代的思想史研究の視角から人間
理論を主張したのであった。しからば彼の教育論はどのような
る階級的基盤︵﹁イギリス革命の思想構造﹄二六八頁参
あろう。端的に云うならば、彼の歴史認識はこのようにして形
ものであったか。
照︶を指摘する。何れも示唆する処が多い。
国αβ8二〇p四目α幻。嵩讐〇一ピ
︵3︶匹。訂a朗>碧oP∼oミト8ぎ一HO3一℃巽けoo,HHH
︵1︶ 岩田朝一﹃ロック教育思想の研究﹄理想社、昭和一、一八
年刊。 ︵同著、七・八章に労働学校案、学問論の訳文掲
載︶。鈴木秀勇﹁ジョン・ロックの教育論﹂︵コ橋論叢﹄
︵4︶竃的貫一80Hきω8P旨、ミト。塞翁O﹃巷﹂o。一↓ぎ轟耳ω
OoロoR巳p国国αβ8二〇p
二四の六所収︶。前者は、﹃悟性論﹄に・ックの教育思想
の根拠を求め、補足するに﹁悟性の指導﹂08αo含a
︵5︶刃甲〇三〇ぎきミ鳴3ぎ詰ミ切8ミ塁ミ鳶寧ミ・
九九
︵6︶ 使用の底本は国詰蔓ヨ餌。.ω=げ冨曼である。 しかし
qミ&き同旨ω”ぎ窪。伍虞。け一〇コ ︵Oユ瓢。巴ソ
葺oq⇒号お富&ぎ堕50﹃の分析をもってした文献であ
る。後者は、・ックの教育思想について、 ﹃教育に関す
る若干の考察﹄ ︵以下﹃考察﹄︶を﹃人間悟性論﹄︵以下
ージョン・ロ ッ ク の 教 育 思 想 に つ い て 一
一説 苑i
Q.ぎモミ謹呈\急きト。急魯言O<〇一ω‘<〇一﹂<﹂o。b。“・
︵この場合はゑ。﹃ぽ。巳一〇ミミ、ミミ、導と略称︶をも併現、
訳文は主として服部弁之助訳に従った。
︵7︶ 使用底本ミミ蕊亀﹄暮春トミ濟賓〇一・H∼目’︵以下
≦o詩即9ミミ亀§熱㌧お︶。 訳文は岩波文庫、加藤卯一
郎訳︵上︶ ・︵下︶に拠る。
︵8︶ 底本はミミ蓼一<o一、くH一H・︵以下≦o美即<o一・<=ン
両息鳶ミ、§︶。訳文は明治図書版、梅麟.光生訳に従う。
︵9︶ 使用底本甲声090〆勧ミミミ国ミ蒔ミ辞︸℃℃9良×
>‘這お雫訳文は岩田﹃研究﹄七章に拠る。
︵10︶特に﹃随想録﹄の作者モンテー二.﹁︵家・国・3竃。亭
訂蒔βP温 鴇 1 8 ︶ を 挙 げ る 。
︵n︶ 特にベラーズ︵旨ω亀R即ρ5望占謁㎝︶を挙げる。
︵12︶ 岩波文庫﹃哲学書簡﹄林達夫訳八、一一−一一一頁。
︵13︶ 類。旨P<oピど9ミ緊物ミ蕊ミ、蒔”H日貸。身。怠oP℃・ピ
訳︵上︶三一頁。
七、 八六頁。
一〇〇
︵16︶ 平井氏は﹃悟性論﹄と﹃統治論﹄とを統一的に把握さ
れる立場をとる。前記﹃人間と社会﹄第四章特に﹁自然
状態の論理﹂を参照。
︵17︶ R・冬ミ蓼柑<9ダなお河出版、 ﹁世界大思想全集﹄
2、巻末、浜林氏﹁ロック解説﹂参照。ロックの宗教哲
学“﹃寛容論﹄Q、ぎSミミミ㌦ミはイギリスで説かれ北
最初のものではなかったと.すなわちジョーン・チ・ーワ
ェン︵冒一三〇≦OP一〇一〇−OOω︶は余り関心布、引かない方
法で﹁寛容﹂を説いた最初の一人であっ仁といわれる、
しかもオーウェンの前にはミルトンもおることを忘れて
はならない。これ等のことについては以下の文献参照一
リッナー﹃イギリス思想史﹄市井、一二郎訳、理想社、五〇
1一頁し9き§pき爵もマ舞こ℃﹂ご国国蜜9
三ω︸ミミ§、恥Sミ無ミ鳴鳥寧∼§ミミ許薯■邑臥一二㎏・
毛・=包の即言算oP﹄濫。篭蟄㎏驚ミ、
︵14︶ Hσ一Fく9戸qミ誉議ミミ∼ききPNooρ訳︵下︶二二
二 一、若干の考察﹄について
六頁。
︵15︶ SミoS蕊ミ読豊国奉量目きげ=F℃■目㊤し㎝o。・訳一 ﹁学問のためのみの教育をしりぞけ、生活のための教育をよ
しとする﹂ロックは、当時イギリスにおいて実施されていた教
︵s︶
用なものではなかったという。彼はこのような教育内容に対し
︵1︶
ては極めて懐疑的であり当時イギリス社会の中核であったジェ
︵=︶
ン教育論である﹃考察﹄の内容はいかなるものであるか。
を志向し、その内容を明瞭にした。しからば彼のジェントルマ
ことができると信じたのである。このようにしてロックは一七
︵皿︶
世紀末のイギリス社会における指導的階層目ジェントリの教育
︵9︶
彼等自身のみならず、他の階級の人々にも秩序をとり戻させる
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
によって彼は、正しい道を彼等に歩ましめることができ、また
ントリに対する正しい教育を提唱したのであった。かかる教育
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
育︵Uグラマ・スクール︶に対してきわめて批判的であった。
彼は﹁ヨ⋮ロッハの学校で現に行われており、一般に教育の範
︵3︶
囲の中に入れられている知識の大部分は、ジェントルマンが十
分に身につける必要はなく、それで大して悪評を受けるわけで
︵ 4 ︶
もなく、 自分の仕事に損害を受けるわけでもない。﹂と直言す
るのである。かかる彼の発言には、先人ミルトンの﹃教育論﹄
︹5︶
における如き、また思想的後継者A・スミスの大学・教会批判
にも似たものがある。、
とが多く、また作文・韻文・演説を構成することで子供達の無
われは学校や大学においてしばしば怠惰な空白の時を過ごすこ
れわれは大変お粗末なラテ≧語やギリシャ語をかき集めようと
︵6︶
して七、八年も費すやり損いをしておる⋮⋮。﹂と。しかもわれ
一二一の説明におおよそ従う。 彼は次のように云う。
︵3︶ この言葉は実に難解な語彙の一つであろう。筆者はト
崎訳一九二:三頁参照。
Oh毛。目κ即<〇一■<一H︻一両織ミqミ苦きoPo一什‘マ窃ω、梅
︵1︶ B・ウィレー﹃十七世紀の思想的風土﹂深瀬基寛訳、
︵7︶
意味な機智を強制する、というのである。
﹁⋮まず、ヨーマンよりは上で貴族よりは下の土地所有
すなわちミルトンは云う。 ﹁一般的に学問になされた多くの
ところでこのような批判はロックも述べる処である。彼は、
者と、これに加えて、かつての貧農のあとをつい♂.、、直
創文社、、一三一、一二頁.︺
当時実施されていた学校での授業はギリシャ語・ラテン語の文
営地の定期借地人となった裕福な借地農や、あるいはそ
誤りは極めて不快な、かつ失敗したものである。先ず第一にわ
法、飜訳、作文の練習などで、極めて衒学的でありかつ余り有
一〇一
︵2︶ 周知のように上流子弟のための私立の教育機関。
ージリ[.ン・・ 桝 . 。 ク の 教 育 思 想 に つ い て 一
−説 苑1
一〇二
医者⋮⋮専門職業の人々⋮⋮そして、裕福な商人たち、
マ騒一団900画=卜oo9・梅崎訳七三、九六、 一〇八、 一
見られる。 例えばR・≦o旨塑ぎ一.<一戸肉“讐hミむド
︵8 ︶ 彼がギリシャ語・ラテン語に言及した個所は到る処に
であった。⋮⋮。このように、いろいろな層をふくみな
七八等の諸頁参照。 R・〇三〇F象ミoSぎミ喰ミ鉾Oや
の一族の小作人たち、つぎに、有名な法律家や僧侶⋮⋮
がらまとまった平民階級上層部葺﹃ロ署R一塁段鉱
9什‘>℃℃8色×切Ohω日α質
のである。そのうえ、教育のある知的な人々は、無知で
ヤ ヤ
愚鈍な人々よりもつねに礼儀正しく秩序を重んじる。・
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
狂信や迷信にだまされることが、それだけすくなくなる
しばもっともおそろしい無秩序をひきおこすところの、
導されればされるほど、無知な諸国民のあいだではしば
クのこの発言に似た主張がある。スミスは﹁かれらは指
︵9︶ Oh尊馬奪讐↓O匡α名四﹃血O冨﹃犀ρ℃’<■スミスにもロッ
8日目。器お﹂の人々を指すと。 甲声↓の毛器ざSぎ
毎、器職慧偽◎俺ミ港︸一㎝Ooo15“ρ日富国.中国‘<o野
図ど20トご亀”P伶浜林正夫訳﹃ジェントリの勃興﹄
一、二頁。なお差し当り次の文献参照。小松芳喬﹃英国資
本主義の歩み﹄一・二章。
︵4︶類。旨即く阜≦弓馬叙§ミ§♪8﹄FPoo“■梅崎
訳一〇九頁、またOい〇三〇ぎ﹄o§軸8び。黛領ミ鉾湊℃℃o亭
α冥戸O一ω9αざ8・9什‘唱℃■一8歯8■
O富P〆℃貫け一ご切﹃■<、O訂℃■朗勺胃二戸>三−
視するが、重大な相違はロックのジェントルマンのため
内・松川訳四一六九頁。傍点筆者。︶ 両者共に教育を重
⋮﹂と。︵ω邑9日ぎ§亀≧。マ鼻’︸マ誤9大
〇一〇謹‘臣こ↓ぎ匡。骨導口耳貰零大内・松川訳ω一
の私教育、スミスの一般大衆のため公教育の立場に立つ
︵5︶Oい鋭ω巨費Sぎミ免ミき馬≧ミ、o誤一ωぎH”
篇十章二節、㈲五篇一章三節二・三款参照。また水田洋
という教育的質・量の問題があろう。
文献に次のものがある。但し筆者は原文を読む機会に未
︵10︶
ロックの発言以前にジェントリ教育のために書かれた
﹁アダム・スミスー教育論を中心に⋮﹂ ︵﹁一橋論叢﹄
一、一九・四所 載 ︶ を 参 照 。
︵6︶・︵7︶蜜。﹃ユ即ミミミ.ω︸oワoF℃●q■
だ恵まれていない。串℃雷昌節目”SぎOoミ黛蕊恥O§,
誉ミ“さ一〇器︸園.ω罠ゆ9ミ巴けρ 目許“肉醤曳傍︾O§,
あるいはジェントルマンの備えるべき資質のうち最初のもので
ハィロ
あり、また最も必要なものだと考える﹂と述べる。このようにし
ハゑ ハ ロ
誉ミ§しOωω辱︵9.Sぎ国■顛殉こく。ピ箆・29ど℃・ て彼は先ず︵健康︶、精神、罰と褒美、規律と実践、行儀作法、
究の徒が、学問の価値を餓りに多く見ないのは不思議に思うで
♪80905道占・︶ これ等はいずれもジェントリを教 宗教心等等について語るのである。次いで彼は自分のような学
育する忙めに書かれ忙手引書であると。 ︵R﹂三“国
一〇三
して必要なたしなみ碧8日三号ヨ9aーダンス.音楽.剣術
導方法である。彼はこのような知識の外に、ジェントルマンと
象を移行させながら、容易な次元←高次の段階へと進行する指
つつ観察・実験の方法により、単純なものから複雑なものへ対
い、指導の順序、教科の配列等を考慮し、興味と関心を喚起し
る方法である。彼のこの方法論は幼年期より高年次に進むに従
天文学・解剖学等を、その後数学・法律・物理学等が教授され
て一学習する。このような学習の基礎作りの上に地理.歴史.
び外国語をーフランス語・ラテン語・ギリシャ語という順を経
法をと学習せしめる順序を示す。そしてやがて英語を確実に学
物語・レィナード狐物語・聖書等←書き方U習字の練習.速記
の良い作法の上に、話し方←読み方”やさしい有益なイソップ
は・学問の必要は最後に数えて良いと思うと云う。彼は子供達
驚■却賢くor図5Zgyマ軒・浜林訳﹃勃興﹄二二頁参 あろうがと断わりながら、 ジェントルマンたる資質を養うに
照︶
周知のようにこの書はロックの亡命先アムステルダムより、
故国の友人エドワード・クラーク︵お田∼ミ5︶にあてた書簡
鄭ずある。 それはおおよそ二百十数項目にわたり、 彼の﹃全
ハ ロ
集﹄第八巻では二百頁を越すほどの分量を占める。
彼はこの書において、徳育・知育・職業と技術の教育を三本
の柱としてジェントルマンのための家庭における子弟教育論を
展開する。しかも彼が、この論考において重視した彼等のため
の教育は、先ず徳性の涵養であった。従って彼は﹁教育におい
て目ざすべき困難なそして価値ある部門はそれゆえ徳性、それ
も徳性そのもの色話9<蹄εoであって⋮⋮。他の一切の考慮
も実行もこの徳の問題には席をゆずって後まわしにすべきであ
翻謬という・ また他の個所において﹁私は徳性が一個の人間
ージョン・ロックの教育思想についてt
!説 苑1
.乗馬1をあげる。そして最後に技芸と職業教育について論述
するのである。それは絵画・彫刻・金工・木工・園芸等の技術
.工芸の教育に商業簿記ヨRo訂韓累82導ωを学習する職業
教育の内容である。簿記学習はジェントルマンとして自己所有
財産の管理、維持の面より推奨されるものである。そして彼は
若きジェントルマン教育の最後の指導要領として、家庭教師監
督の下に適令時における海外視察旅行をもって、彼の教育論を
おわる﹁、
彼は結論において次のように述べる一﹁しかしこれが教育に
関する本格的論文ではないこと⋮⋮しかしここでは教育の主要
目標および目的に関する一般的見解を、それも一人のジェント
ルマンの子息について述べたにすぎない。⋮⋮敢えて自己自身
の理性に訴えたいと望む人々にはいささかの参考になるかも知
ヤ ち
れない⋮⋮﹂と︵傍点筆者︶。彼の教育論考﹃考察﹄の要旨は
︵丁︶
以上のような内容である。
︵1︶ このことは﹃考察﹄クラーク宛の献辞によって解る。
一〇四
クは﹁議会における有力者﹂クラークとは親友であり、
数多くの手紙のやりとりをなした。
︵2︶
彼の述べる項目は全文二一六ないし七項と思われる。
クイック版に拠れば第二一三項は括狐の中に︹譲㊤糞﹃巴
とあるのみで説明はない。 ︵R甲O乱。ぎ向。ミ“奨ミ挙
鴫ミ伊O﹂ooO︶しかし福島大学経済学部所藏の﹃全集﹄第
十二版の第八巻には外国旅行の説明がなされ、全文二一
六項に分れる、なお﹃考察﹄の訳本には、前記梅崎光生
訳の外、玉川大版・押村裏訳、岩波文庫・大槻春彦訳が
ある。・ックの﹁教育論考﹂を要を得て紹介したものと
しては、戦前版、大島正徳著、大教育家文庫13がある。
筆者は岩波文庫版を除き、梅崎訳によりながらもそれぞ
れを参考にした。
︵3︶ ミ。詩ρぎ一。<一戸動気ミミ、oミoP巳fマ器、梅崎
箏ミいP誌oo■訳一六二頁。
訳七九頁。
︵4︶
R・譲。夷草<9<H戸内蚤ミ。ミ琶声oPgfPま訳九︵5︶ 9﹂黛匁一辱。ヨマ9 訳二二頁以降参照。
︵7︶
ま、罫℃P8傘訳二五三頁。
頁参照。なお O戸>舞oP卜。簿魯oPgfマNooご︵6︶
Oい導ミ‘℃マ 一命R訳一七八頁以下参照。
〇三〇ぎ象ミΦ曵ぎミ領ミ孕コ貸O身&OP℃■×××<一■ロッ
ロックが﹁教育の問題﹂は極めて重大である、そして正しい
︵一︶
教育法は大いに世のためになるという。かかる発言をなす場合、
彼の教育の目標は何か。彼はしばしば、 ﹃考察﹄のところどこ
ミスはロックのこの航跡を辿りながら、更にこの考えを徹底化
ハ ロ
し、近代資本主義社会確立に伴なう人間像“経済人を示したこ
とは今日われわれ既に周知の事柄であろう。
ところでミルトンはヨーマンや市民のための教育論を発表し
ハ ロ
ろで﹁理性的人間﹂国益二8巴R89器という言葉を用いる
︵2︶
たと云われる。これに対しロックはジェントルマンの、ジェン
トルマンによるジェントルマンのための教育論を展開したこと
めであるが、この言葉の意味する処は極めて重要である。彼は
ハヨロ
論考冒頭に﹁健全な精神は健全な身体に宿る⋮﹂という句をも
は既述の通りである。彼の所論の本質はジェントルマン子弟の
躾教育論であった。当時、イギリス革命を推進し、議会の権限
ってする。彼は健全な精神と健全な身体とは相即不離の関係に
あると見る。そしてこのような状態にある人間は、 ﹁他の何人
を伸長させ、王権に対抗して自分達の政治的発言を強め、経済
的基盤を強固にし、そのカの拡大に努力していたのは、周知の
に許可を乞うこともなく、ただ自己が適当と考えるがままに、
自己の行動を整頓し、そしてその所有物及び身体を処理する完
全な自由を有する状態﹂にある人間であるとする。つまり自由
ハヰロ
革命の行き過ぎにも、革命の後退にも同意しなかった乏云われ
パアロ
ように革命の主軸たるジェントリやブルジョアジーであった。
ハ ロ
るロックには﹁一六四〇年から一六八八年を経て十七世紀の終
・平等・独立・健康の状態にある人間U豊かな智慧を保持し、
冷静に物事を処理し、事物の本質を洞察し、自己の利益を追求
りに至る六十年間は革命の収穫の安定化であり漸次的定着が進
一〇五
つたことは間違いない。当時革命によるその成果を最も多く収
︵憩︶
革命の成果に一応の賛意を表し、革命の利益を保持する側にお
し直接推進する者ではなかったが、少なく共︵革命の側におり︶
トルマンを念頭に置いた事であろう。ロックはこの革命を実行
行した﹂と云われるイギリス社会の、その担い手としてジェン
ハ ロ ヤ やし
し、自己保存を計る行動をなす人間である。これがつまりは彼
の語る﹁理性的人間﹂である。
そしてここに彼は、﹃考察﹄における教育対象であるジェン
トルマンの教育目標を置いたことになる。彼はこのようにして
近代社会におけるジェントルマンの理想型として﹁理性的人間﹂
を描き、市民社会建設のための礎石を置いたのである。A.ス
ージ﹃、、ン・ロ四クの教育思想についてー
1説 苑−
得したのは地主階級であった。だとするならば、彼の論考の焦
一〇六
︵4︶
Sミ。日ざミ、器物一〇Po一fロ■=oo。円く。蔓ヨ山口、的■一σ.
ェントルマンのための訓育・指導・育成の書﹃若干の考察﹄を
向し、イギリス資本主義の成立に伴うその推進者となるべきジ
たらすものとして、新しい時代における新しい人間の形成を指
ねばなるまい。彼はこのように教育こそ人間に大きな相違をも
場、運動場において練達の農夫帥8目覚09盲目目窪、建
て来る乙とがない。 反対に、 巻。ヨき霞賃銭島田碧
かし彼の﹃教育論﹄にはジェントルマンという言葉は出
︵6 ︶ このように断定する乙とにはもちろん危険が伴う。し
︵5 ︶ 大河内一男﹃スミスとリスト﹄二章参照。
服部訳一五頁。
公表したわけである。実にその翌年一六九四年にはウィッグ党
︶皿︺
内閣が成立し、またイギリス政府と同じ位基礎鞏固と云われる
築家、技師⋮等等にしたてたであろうというモリスの批
点にジェントルマンを据えたことは誠に正鵠を射たものと云わ
イングランド銀行が設立され、イギリス資本主義発展のための
評もある。 Oいミ畿き匙砧物8、“匙ミ魯H馨3αロO該OP㍗
︵11︶
役割を果たすことになるのであった。
図諸き口pα月切■
︵7 ︶ 大塚久雄﹁重商主義成立の社会的基盤﹂三、三一頁参
という言葉が使用される個所がある。なお自分自身を教
︵1︶O沖≦o蒔即<o野<一拝寧ミqミきき8■含fP葺訳
一〇、頁参照 。
照︵﹃古典学派の生成と展開﹄有斐閣、所収︶。
︵8︶
浜林﹃構造﹄六章三、参照。
︵2︶ 彼は﹁理性﹂または﹁理性的人間﹂という言葉をしば
しば使用する。例えばR。尊ミ’マミ”郎ρ9、①O∼噛ρ
︵9 ︶ ベリ・アンダーソン﹁現代イギリス危機の諸起源﹂米
川訳六七頁︵﹃思想﹄おoo︶。
O㎝08・訳二九、五六、八五、九一−二、一二二頁等。
この言葉はもともと﹃悟性論﹄において論述される。理
このような指摘については恐らく異論があるまい。
浜林﹃構造﹄二六五−六頁、服部訳﹃政治論﹄解説六参
︵10︶
社会﹄特に四章二参照。
照。またΩ●願いい島民︸ヤミ韓偽ミ目ミ蕊ミき閏試㍗
性的人間の構造についての論旨については平井﹃人間と
︵3︶ 奪ミーマ9訳一三頁。
、ミミ、ρ¢■ギ窃即P認閣堀・飯坂訳一、⋮、 頁参照。
︵n︶ ロックのクラーク宛の献辞を見よ。O抽憩。蒔即<Oピ
≦鍔簿、§ミ&き。マoFB﹂臨一■訳九1二一頁参照。
周知のようにスミスにもロ周・クの所説に類似の発言があ
る。彼は﹁⋮⋮非常に異った人間の差、例えばその辺の
人足と学者の差の如きも、自然の性質よりは習慣や慣行
の新しいブルジョアジー︵ジェントリその他yの下で働く労働
ージョン・ロックの教育思想についてt
発表した・これは僅か活字にして二頁半程のパンフレットであ
され、一六九七年彼の計画案による﹁労働学校﹂案なるものを
貧民の子弟の訓練、矯正に関する見解を提案した。すなわち彼
ハりじ
は一六九五年、下院における﹁通商産業委員会﹂の委員に任命
ロ
ントルマンの教育論であったが、同時にまた彼は、かかる社会
ロックの﹃考察﹄は以上見てきたように、当時におけるジェ
三 ﹁ 労 働 学 校 ﹂ に つ い て
︵12︶ Oいみ馬筏こマωOρ
︵傍点筆者︺
﹄
ロ
り・この提案は不幸にして何等法律上の効力を発揮しなかった
せロ
と云われる。以下にその内容を要略しておこう。
彼は云う。﹁働く人々の子供達は教区にとりいつも重荷にな
っており、常に怠惰のままに放置されている。従って彼等の労
働もまた一般に一二才ないし一四才までは社会にとり役立たな
くなっているのである﹂と。従ってこの弊害と不合理とを除去
するために、法律により各教区に﹁労働学校﹂を設立し、貧民
一〇七
まわされる。この結果、子供達は学校で十分な・ハンの支給を受
扶助費が貧困で怠惰な両親に送金されずに直接、学校給食費に
すなわち貧困家庭の父親が生活扶助費を浪費する傾向を防ぎ、
このことは実質的な教区の民生費負担軽減にもなるという。
な生活を送るように子供達を仕向けることができる。
い環境の下で幼児の裡から働くことに慣らされ、真面目で勤勉
る。従って彼等は十分に働くことができ、また子供達はよリ良
まず貧困家庭の母親は子供を養育する手数を省くことができ
語るのである。
する。これについての得策と思われる点をロックは次のように
その場合、三才以上十四才までの総べての子供達にこれを適用
ωB一什F§恥ミ■鳥≧oマoF℃﹂㎝・訳9一二一頁。 の子弟をこれに収容し就学せしめることを義務.つけるという。
や瓠昏に基づくところが多いと思われる:.﹂という。
1
できるという。そしてこれ等の学校で使用され、また教区の貧
一〇八
け、健康管理、体位の向上に役立つであろうと。
民の間で使用される仕事の材料は、救貧税の一部からなる共有
1−説 苑一
また子供達は学校で労働して儲けを得ると。このような労働
財産m8ヨヨ自誓。臭によって準備されると説明するのであ
ギリス救貧法施行以来の﹁血腥い立法﹂の下における﹁労役場
るこの案件を社会政策的見地から検討するならば、十七世紀イ
読むことができる。確かに、イギリス資本主義成立過程におけ
われわれはこの計画案の特徴について既に優れた幾多の論評を
以上が・ックの提案した﹁労働学校﹂計画案の梗概である。
る。
の内容は紡ぎや編み物、または毛織物マニュファクチュアの︸
部の仕事をなすことである。ただし子供達にとり適正な仕事の
ない地方の場合、彼等の仕事の材料選択についてはその地の貧
民救済委員牙ooq轟巳㌶拐鑑些。℃8構の処置に任せられる
という仕組みである。このようにして彼等の学校内の労働は、
その生活扶助費の負担を軽減し、延いては王国にも利益をもた
らすというのである。そして学校勤務の教師の手当は救貧税か
校﹂の設立という前向きの姿を読み取ることもできよう。従っ
﹂“﹁懲治監﹂による労働貧民対策←新たな﹁労役場﹂H﹁勤労学
次に学校で学ぶ生徒の雇傭に関しては以下のように各方面に
ら支払われるものである。
義務づける。すなわちまず各村落の手職人は彼等の必要とする
先がけた卓見ともいわれ得るであろう。しかもその根底には良
︵6︶
く働く勤勉な人々に対する慈善心があったとも強調されるであ
﹁雇傭の権利﹂とを謳うものであったろう。その限り、時流に
︵5︶
てそれは原始蓄積期における労働貧民大衆の﹁労働の義務﹂と
徒弟をば学校に学ぶ貧民子弟の中から雇傭すること。また年収
二五ポンド以上の土地所有者、または年収五十ポンド以上の土
地貸与者はその農耕の手助け者を学校に学ぶ子供に求めねばな
らないこと。また満一四才まで年季奉公の契約をなさない子供
れるのである。それは言葉通りに﹁労働﹂の学校であり、労役
ろう。だがしかし、他方ここには﹁没落しつつある小生産者へ
ハァロ
の共感はひとかけらも見出すことはできない﹂ともきめつけら
ヨーマ・、・、農夫の許に年季奉公せねばならないというのであ
パヨロ
の学校そのものでもあると云われ得る。
はだれでも、村内一番の広大な土地所有者けジェントルマン、
る。その上仕事のない大人達もまたこの学校で学習することも
まことにこれ等の主張のそれぞれには論者による論拠の正当
性があるであろう。一六四九年には﹁労働階級の主張の正当性﹂
のために論じたといわれるチェンバレンの﹃貧者の擁護者﹄
ξミミミ軸.μ﹄ミミミ趣また彼より遙かに革命的でないと云わ
れる﹃諸々の国々における貧者を幸福ならしめるの道﹄﹄
ミミきミ寒ミぎ㌧﹂oミ営き鳥総“ミ畑ミ、誌、乏ミ&基歳暮ξ・
一〇8というプロッコイの。パンフレット、そして一六九六年ベ
ハ ロ
ラーズの﹁大学設立案﹂等々がある。これ等に比較するならば
ロックの計画案は極めて簡略であり、しかもそれはジェントル
マンの教育を説いた﹃考察﹄に比較する時、一層顕著な相違の
あることは一般に認容される事柄ではなかろうか。
︵1︶ Oい〇三〇ぎ匙・黛篤‘>℃℃雪色x>、ミミミ醤領効き。ミ傷・
︵一〇〇ご
︵2︶ 前記大塚﹃社会的基盤﹄ 註励三一−1二頁参照。 なお
9・O仁旨旨ロのゴロヨ、SぎOきミき禽肉醤曳重斬辱ミ基㌧倦
説研究﹄七一、一一、一1四頁等参照。
一
■一
〇〇震い
︵4︶RO旨〆。p。fミミ奪夷甕軸8℃O、
9
岩田﹃研究﹄一六〇一ご、﹁頁訳文参照、
︵5︶ 前記服部﹃展開﹄二三−五頁参照。
︵6︶ 岩田﹃研究﹄一五八−六〇頁参照。
浜林﹃構造﹄二六七−八頁。
OいO話ロω8P卜象ぎ”oマ含什‘℃℃、畠盟●
︵7︶
矢川徳光﹁W労働と教育﹂一六八頁参照。
Oい蜜・切85>寅びき港&切、ミ客恥。亀ミ∼旨♪<〇一・
︵岩波﹃現代教育学﹄4所収︺
︵8︶
︵9︶
8ρ署■置IS加田哲二訳八九−九五頁参照。
四 政治・家庭・社会教育論
︵A︶政治教育論について
ロックの﹃統治論﹄は﹁法律専門外の著者によるイギリス成
ように彼の政治思想は国内のみならず国外の重要な政治変革に
の中で最も重要な貢献をなしたもの﹂と云われておる。周知の
︵t︶ 1
“醤軋Ooミミ箋&、P畠μ一8曾O忌。ぎ警ミ偽Q、瀞ミ茜ミ鉾 文法国品冴﹃8冨旨旨δ召=∼毛にこれまでになされたもの
も大きな影響を及ぼしたのである。
oPgf℃.三岳雫
︵3︶ ロッシアー﹃英国経済学史論﹄杉本栄一訳二二一頁、
一〇九
服部﹃展開﹄二四頁、高橋誠一郎﹃改訂重商主義経済学
ージョン・ロックの教育思想について一
開と共に教育思想の根本理念を見出すことである。彼は﹃統治
だがしかし特に筆者の関心を持つ問題は、その政治思想の展
故に﹁その状態﹂H完全且つ平等の状態になるまで、﹁子供連
︵4︶
の精神を陶冶し、無知な未成年期の行動を統御すること﹂が必
﹁その状態﹂の人間にはならないと主張するものである。それ
一一〇
論﹄第二部第六章父権論において旧約︵創世記︶の内容を引用
要である。このことについて子供連の両親は、未完成な幼少の
1説 苑−
しつつ以下のように語るのである。すなわち﹁アダムは完全な
状態にある間、子供達を世話する義務を持つものである。この
事は親が子に対して負う神に課せられた両親の義務である。こ
の ロ
人間に創られたのであった。彼の肉体と精神は、そのカと理性
を十分に持っていた。それ故、彼は人間となった最初から自身
はすべて脆弱で無力で知識も理解力もない嬰児として生れるの
の子供達によって住まわれるようになった。しかしその子供達
と善意、感謝と扶助の心情が生じ、父子相互間における権利・
うな事由から親子相互間における人間関係に尊敬と服従、平和
のようにして親は子に対して権利をもつことにもなる。このよ
ロ ロ
である。しかしこの未完全な状態から生ずる諸欠陥を、成長と
﹁父権﹂とは全能神から両親が付与された固有のものであり、
義務の関係は双務的なものになると・ックは云う。かくして
を扶養しそして保持することができた。彼以来この世界は、彼
年令による改善がそれを除き去るまで、補充することは、アダ
ムとイヴ、及び彼等以後のすべての両親達は⋮⋮彼等の生んだ
敬の義務とは互いに対立・矛盾することなく密着・不離の関係
親の子に対する教育︵養育︶の義務と子の親に対する服従・尊
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ムについては旧約・﹁創世記﹂二、三、四章参照。
︵2︶ ﹂黛罫。マ9fマ置幹服部訳五九頁。傍点筆者。アダ
αβoこ。戸P<■
︵1︶ 臼ミoS誌ミぴ露国<oq日置.ω=σこ。℃’葺こぎ賃。−
H父・子問の自然的状態にあるものとなるのであると。
子供を−・⋮保護し、育成し、そして教育しなければならぬ義務
︵2一
を負わされたのであった。⋮⋮﹂と。これがロックの説く自然
法的教育理念であった。
彼は﹁子供達は、実は、この完全な平等の状態においては生
れないことをわたくしは認める。しかし彼等はその状態になる
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ や
ものとして生れるのである﹂従ってこれを育成し、教育しなけ
︵3︶ 導築貸P一命、服部訳五九頁。
、 、 ︵3︶ 、 、 、 、 、 、
れば、理性を有ち、自己の意志に従って行動し、自由で聡明な
︵4︶ 導ミ一℃レ&■服部訳六一頁。
このようにしてロックの父権論は教育権・養育権、そして﹁
ハ ロ
各々の国の法律慣習に従って或る割合でその子供達に分配さ
れる⋮⋮相続される財産﹂の遺贈権・相続権を内容として成立
する。ところでこの父権論なるものは、先学トマス.ホッブズ
によって匿に説かれているものである。ホッブズは彼の絶対主
義の政治理論を展開した﹃リヴァイアサン﹄富阿、、ミぎ3S日に
おいて、父権思想を次のように開陳する一﹁支配はふたつの
やり方によって、すなわち、生殖によって、および征服によっ
て獲得される。生殖による支配の権利とは、親が彼の子供たち
にたいしてもつもので、父権的℃緯R冨=とよばれる。..
このまったく自然の状態においては、両親は、子供に対する支
配を、かれじしんのあいだで契約によって処置するか、または
なじ
それをまったく処置しないかである﹂と。ロックも恐らくホッ
ブズの父権論に暗示を得、何程かその内容を発展せしめたであ
ろう。
しかしながら、両者の論旨には相当な相違があるものと思わ
れる。すなわち、ホッブズの場合は親と子の同意による契約を
通しての父権的支配卦肢循の関係を観念する。これに対しロッ
ージョン・ロックの教育思想についてt
一
クにおいては人間に内在する基本的に固有なもの”生得的なも
ヤ ヤ
のとして受容し、更に道徳的、義務的なものとしても考察し、
へ ロ
聖書の章・句を数多く引用しつつ、その根拠を。神﹂に求めた。
ホッブズはコモン・ウェルスの平和と人民の安全とを主権者の
職務四が得るものであるが、彼はロックと異なる見地に立っ
て・人民の教育・指導を重要視するものであった。彼の教育論
パ ロ
を端的に云えば、絶対主権の側に立ってのそれであった。それ
故に彼に聡籍形態の変裏望蒙如きことなきように人民
をして教育すべきであること、人民には従順と和合を教え込む
こと・主権者の権力について争論しないこと、そして大学の効
用は大学における青年の正しい教育に依存するものであり、主
権者の権力に反対する学説の横行は真実︵U人類の平和と臣民
ヤ ヤ
の幸福︶を誤かものであると主張したのであった。
ところで・ックの主張はこうである。各人は平等且っ何人の
意志や権威から琶鄭ある。各人は独立人で脅、権力や支
配権は相互的のもので、各自は簗約により社会において多数者
ハ り
の局瀞により政治的権力をある人に信託する。従って社会ある
ハヨロ
いは人民は同意によりこの政治的権力”立法権︵最高権力︶を
行使する政府の支配に服従するものであると。もし政府が人民
一一一
訳口七四−六頁。 もと契約とは聖書に拠れば、 神と人
一一二
の期待と信頼に反して、人民の自由・生命・財産を不当に侵害
との間の人間関係を示す重要な.百葉であった。 ︵岩波全
1説 苑1
するならば、社会拉ぴに人民は自己を不断に防衛する最高権力
書、前田護郎﹃新約聖書概説﹄ 一章三参照︶
ウ育学全集﹄2、小学館、所収︶
O抽卜Q蔑ミぎきoPgf℃サミooIooω、水田訳口二七四
ての人は⋮⋮生来自由であり、そしてただ彼自らの同意
ある⋮⋮﹂ ︵Sミ。日、蓋ミ傍題一〇マ9fマHO“・︶ ﹁すべ
て自由であり、平等であり、そして独立しているもので
叩、クは自由を生得的なものと考え﹁人間は⋮⋮生来すべ
はA・ス;、スによって大成されたことは周知の通り。口
.政治・宗教的面における自由である。経済的自由主義
︵7︶
ロックの﹃統治論﹄において述べる自由は主として法
−八六頁参照。
︵6︶
︵5 ︶ ﹁教育思想の成立﹂堀内守、四四頁参照。
︵4 ︶ OP富ミミぎ30富㍗×美・水田訳口三十章参照。
〇の九﹂、新約﹁エペソ書、六の一﹂等。
﹁出エジプト記、二〇の一二﹂ ﹁レビ記、 一九の、一、、、二
畦h服部訳五七頁参照。 彼の聖書の引用の個処は旧約
︵3 ︶ OいSミ。臼鳶ミ㌦旨9国<o蔓目窪.ω=ダoP葺‘唱﹂
を行使すると。この権力発動の極限は、人民が戎を執って立ぢ
︵10︶
上がるは天に訴える8岩窟包8=臼<9直接的武力行動、
︵11︶
自己の正当を主張し侵略者、圧制者を打倒すること、すなわち
革命の樹立・達成以外のものではないと。
ここでロックの主張したいことは、近代社会における基礎理
柄一であった。彼の主著﹃統治論﹄における教育的発言は、
論ーコモン・ウェルスの構成、統治、人民の参加等という事
﹃考察﹄における発想を内包しながら、人民に対する政治教育
論として湧出するに至ったのである。こうして彼はコモン・ウ
ェルスの理想型を新しいブルジョアジーやジェントリーの為め
に解明し、かかる社会の維持・発展のための理性的人間︵11近
︵12︶
代人︶の育成・指導を教育という方法に求めたのである。しか
もかかる教育方法論は、一七世紀後半の思想・宗教・政治・経
済.文化等の、当面する一八世紀の新時代を前にしたイギリス
︵13︶
社会に﹁新しい教育観﹂として受容されたのである。
︵1︶ 8ミ。寄価ミ詠塁。質9fマ嶺ピ服部訳七四頁。
︵2︶ =o喜窃”卜Qミミぎ3国語蔓ヨ彗、の=σこ℃﹂09水田
(『
の外は、何ものも彼を如何なる地上の権力にも服従せし
めることはできない⋮⋮﹂ ︵﹄黛無”oPgfマーミ︶ と
主張する。 ︵服部訳、九〇、 一一六頁︶
︵8︶ 9﹂黛罫マミ“・服部訳一一一頁参照。
︵9︶ R﹂黛罫℃﹂ooド服部訳一二四頁参照。
︵10︶ 9﹂黛罫℃マ一8い服部訳一四二一三頁参照。
︵13︶ 馬いい器ζ一§鳥お凝。&肉離、号ミ匙卜3ミミ蕩ミP
8●石上訳八五頁。
︵B︶家庭教育論について
︵1﹂
ラスキはロックの﹃考察﹄について二つの重要点を指摘して
いる。すなわち一は環境の重視であり、他は適当な庭庭教師に
ヤ ヤ
つの事柄口環境と訓練との結合によって、立派なジェントルマ
よる良い環境の下で訓練されるという事である。そしてこの二
ヤ や
旨ざ8ω9ρ訳三〇、 一五九頁参照。なお同訳二二九
ン教育が実施されるという。しかして、ロックによるこの考え
︵n︶ この言葉は彼の論考の処々に散見されるRし黛罫マ
頁註︵3︶参照。なお浜林氏は、ロックの抵抗権は市民
方は一八世紀フランスの教育的知見を代表するルソーの﹃エミ
ール﹄に迄承継されることとなる。
︵2︶
社会の秩序が破壊されない見通しが立って初めて提起さ
れたものであると述べる。 ︵﹃構造﹄二六六頁参照。︶
急冷鳶詮・℃P曽搾︶ここに彼の画く新しいブルジョワ
と勤勉を奨める条がある。 Oいゑ。芽即<o一﹂∼§位
﹃利子論﹄において、怠惰で働かない商人を非難し節約
実直、恒産を有する者と解されるであろう。 ︵なお彼は
とその保持を求める、理性の豊かな、自主独立、勤勉、
害せず、相互に傷け合わない抑制心のある、人類の平和
競技を奨励し作法と勤勉とを習慣と実例をもって教え、実用的
を工夫・考慮し、健全な身体の保持と助長に努め、各種の運動
弁え好奇心を巧みにとらえ、興味と関心を喚起し誘発する方法
たという。彼はこのような傾向に批判的であり、児童の心理を
練法と空疎なことばのあげつらいをなす教授内容に終始してい
て、彼は、古い伝統を固守した煩瑣な教育法、そして厳格な訓
り豊かな思索と体験とに基づいていた。当時の学校教育を指し
ロックのこの﹃考察﹄の見解は、申すまでもなく彼の深い実
Uジェント ル マ ン の 姿 を 見 る こ と が 出 来 よ う 。
一二二
︵12︶﹃統治論﹂に現れた限りでの近代人は、他人の権利を侵
ージョン・ロ ッ ク の 教 育 思 想 に つ い て 一
1説 苑1
一一四
ヤ ヤ ヤ
またロックの﹃考察﹄における教育論は既に説明した如く、
集団主義的教育口学校教育という公教育のシステムには不信と
な学問、知識を指導、教授するという方法を採用すべきである
とした・しかも彼は家庭内の父・子問、家庭教師と子弟間にお
反感を示していた。従って彼は家庭内の躾.訓育を極めて重視
情を背景に、家庭こそ堅固不変の城砦という思考の産物ででも
ス社会の政治、経済、思想、文化等各領域にわたる変容の諸事
ロックのこのような家庭教育の重視論は、一七世紀末イギリ
止まり、一般普通教育論にまで発展することはなかった。
であろう⋮⋮﹂と述べたのであって、躾教育”私教育の段階に
ハマロ
供の無邪気さと謙虚さとをまもり育てるように気をつけること
るべき獅質をもっとつけてやる方法を講じて家庭の中でこそ子
ヤ ヤ ヤ や
﹁なるべく肉身の身近かに子どもをおいて、有為有能な人物た
ヤ ヤ ヤ ヘ
、、、、、 ︵6︶
らない。そしてこのために学校が必要である﹂とは語らずに、
し、コメニウスのように﹁青少年は共通に教育されなければな
ける躾、訓練を重視した。しかもかかる家庭教育の効果は良い
環境の下において立派な成果が得られることを強調する。そし
て彼は﹃悟性論﹄の著者にふさわしく、人間の性は元来善であ
り、その幼い者の性格、思想は﹁ただ白紙であり、或いは思い
ハ ロ
通りに鋳型にはめ、細工できる蜜蝋・:⋮﹂の如きもので、環境
の善悪に依存すること甚大であると説くのである。彼のこの見
解は一七世紀における当時世界で最も優れた革新的教育思想家
︵4︶
コメニゥス︵ぢ富暮>O◎ヨ2言即嶺O国−属ざ︶の教育理念
と酷似したものであった。ロックはこのようにして人間をとり
あったろう。だがしかし、本質的には彼の哲学に由来するもの
まく環境を重視するものではあったが、 ﹃統治論﹄における所
説−革命権−程に教育論においては前進することができず、従
ヤ ヤ ヤ や
の財産の根源である個人の所有権については労働に因由する
蓄積に伴う自信と活躍に期待し、私有財産の神聖なること、そ
ハ ロ
であった。また彼は当時における新しいブルジョアジーの資本
いて人間知性の自主と独立を説き権威からの解放を目指すもの
ハ ロ
ではなかったか。彼は個人主義的思想を持ち、﹃悟性論﹄にお
って社会環境をしかるべく変革するという段階まで進むことは
できなかった。
、、 ︵ 5 ︶
・ック﹃考察﹄における教育の対象は、既述の如くジェント
りの子弟のみを対象とするもので、コメニウスの如く冨者、貧
ヤ ヤ ヤ ヤ
者も等しく教育の機会均等を得る一これこそ正しく民主々義教
育の前提1と云う の で は な か っ た の で あ る 。
∼
ものであることを十分に理解していた。彼は新しいブルジョア
ジーの代表的階層たるジェントリこそは自主的であり、独立心
︵1︶ Oいピ窃ζ一§亀めぴ魯。マofP8■石上訳八五頁参
照。
︵2︶ ルソーに深く立入ることは避ける。ルソーの教育論に
ついては、差し当り桑原武夫編﹃ルソー研究﹄岩波i﹁ル
あり勤勉なるもので、また、勉学・訓練・個性教育に十分な時
間と資力とを有する階層であるが故にその︵家庭︶環境はよい
ソーの教育論﹂1をあげるに止めたい。
を極め、その訓育の要諦を把握し、人々にたいし十分な説得力
にも拘らず、ジェントルマンの子弟指導、訓育に関し誠に懇切
彼の教育論考﹃考察﹄における叙述は、体系なざ体系である
く、イギリス社会の市民的人間像となるのであった。
このよく訓育されたジェントルマンこそはその後において永
教育目標における理想的人間像と考えたのである。たしかに、
に終ったとすれば、それは無記なる板のとがではなくて
することができるのである。そして若しその結果が失敗
能でありさえずれば、人の心の上にあらゆる事物を描写
或は描くことができるように、人もまた教授の技術に堪
に、各々その技術に堪能でありさえずれば、或は書き、
して無記の板の上に、 書家も画家も自分の欲するまま
の﹃大教授学﹄bミ§詩“ミ犠吋§㌧5器 において﹁そ
︵4︶ コメニウス﹃大教授学﹄稲富栄次郎訳、参照。彼はこ
伊梅崎訳二五三頁。
︵3︶≦o美ω■、<〇一●<目一曽ミ恥奨一。轟ミ鉾。ワ鼻‘℃﹄O
のであるからには、彼等の子弟教育のためには集団的大衆的な
公教育よりも、両親または優れた家庭教師を配当する便宜の方
が、良好な教育効果をもたらすものと認めたに違いない。そし
て自然的状態にある人間 −蓮性的人間tをもって、彼は
を持ち、その児童心理の描写、児童の成長過程の説明、適応す
︵それがその板についた欠陥を持っていない限り︶書家
︵10︶
る教科の配列、教材の構成、子弟に対する両親の理解と愛情、
若くは画家の無知の致す所である﹂︵訳六三頁︶と云う。
一一五
べての人々に教えるための普遍的な技術を論述したる大
︵5︶ コメニウスは﹃大教授学﹄の扉に﹁すべての事を、す
ヤ ヤ ヤ ヤ
教師の選択等に関しても優れた意見をもっていたのであった。
これ等の事柄は、本来の意味における教育論の内容を十分に豊
かにするものであろう。
︵U︶
ージョン・ロックの教育思想について一
ような文章1﹁人間をすべての心ある者の上に置き、人
﹂一六
聞が彼等に対して持っているすべての優越と主権とを彼
1説 苑t
教授学⋮⋮男女両性のあらゆる若者が、ただの一人も除
人間の知識の起原、確実性、及び範囲、並びに信念、意
に与へるものは悟性であるから⋮⋮﹂﹁⋮私の目的は、
ヤ や
外されることなく、⋮⋮科学を学び、徳性を養い、敬虔
在及び将来の生活のために必要なすべての事物を学び
見及び同意の根拠並びに程度を研究する⋮:.﹂ ︵加藤訳
の心に充たされ、かつまた乙のような仕方で、青年が現
得るところの学校を建設する⋮⋮﹂と調う︵稲富訳一三
上、三一、三二頁︶という彼の認識論的思考に注意。
つた父の薫陶を受けた。これ等の事もロックをして家庭
親﹂に早く死別し、家庭にあって十四才まで法律家であ
七三頁。 ロックは﹁敬虔な婦人であり愛情濃やかな母
うこと⋮⋮﹂Q﹂§﹃§諄塁。p舞もレω。。﹂参丹・
有を正当に要求する権利を造り始めることがで・コeたとい
くして労働が如何にして最初に共有の自然物に対して所
勤勉とが創始した財産を設定したのであった。:・:.﹂﹁か
る。 ﹁⋮⋮かくして彼等は契約と同意とによって労働と
例えば、 ﹃統治論﹄において次のような文章が見られ
︵9︶
冒q&唐露8ぎ一﹂ピ加藤訳上・下巻参照。
R、譲。穿即<orどq誌魯、亀§靴蔚騨ゆぎピO富P一’
頁︶。なお9・ρ焦。ぎ象ミ偽§署内ミ罰9ξ8ごoP
o一FP一声
︵6︶ ﹃大教授学﹄稲富訳八六頁。
教育に大きな信頼を有たせた事になるであろう、Oい
国奉昌9雪げ=ダ服部訳ご、三、五六頁。
︵7︶譲。器モ。一≧員両§ミ§層β葺も・蜜梅崎訳
〇三〇ぎ象§鳴臼ざ讐磯ミ鉾宮窪。身。岱oPP監図︸>o、
︵11︶
岩田﹃研究﹄特に二−五章参照。
〇六−九頁参照。
簡潔にして要を得た松下圭一﹃市民政治理論の形成﹄、二
︵10︶
ロックの﹃若干の考察﹄における人間像については、
ヤ ヤ ヤ
3Pトミ書一マbo一9弩響oPトミ誼”マお・親子間にお
ける厳しい躾教育の例は、周知のようにJ.ミルとその
子﹂・S・ミルの場合であろう。 ︵西本訳﹃ミル自伝﹄
参照︶
φ8︶ 特に第一巻4第四巻における言葉の数々。例えば次の
︵1︶
・ックは私的書簡の集録たる﹃考察﹄において、先師モンテ
ーニュの言葉を引用しつつ、優れた家庭教師を求むるには、い
︵2︶
かなる困難、犠牲をも省みるべきではないと諭すのである。ロ
︵3︶
ックはこの偉大なモラリストの名をこの論考中唯一力処にだけ
ハベレ
挙げるに止まる。しかしながら、彼の論考は﹃随想録﹄に負う
処、極めて大きいことは今日一般周知の事実であろう。したが
って、ここでは重点的な検討にとどめておきたい。
モンテーニュは﹃エッセェ﹄ ︵閏妨旨芦屋ooO︶二十六章にお
︵5︶
いて﹁子供の教育について﹂語る。但しこの教育論は一般庶民
のために記述されたものではなく、一貴族の御曹司のための教
育プランである。従ってその教育目標は貴族の子弟をして、当
時フランスにおける﹁教養ある文化人﹂目鳴注ぎ。ヨ目。たら
しむるべきことであった。また彼の奨める教育システムは品性
・悟性の優れた家庭教師による私教育の方法を採る。その指導
内容は露魂と肉体の鍛錬、教育と躾の重視であり、指導方法に
ついては、幼児からの躾、習慣、独立、自己の判断、真理と道
理、良心と徳性とを重視する、つまり徳育尊重の方法である。
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
学習内容と教授科目についてはまず﹁真に人生に属するところ
のものをその正しい自然の限度に限る﹂ ︵傍点筆者︶ようにな
ヤ ヤ ヤ ヤ や
ージョン・ロックの教育思想についてi
ロ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
し、﹁より賢く・より良く・するに役立つ事柄﹂の教授から論
ロ
理学・物理学・幾何学・修辞学等の科目が列挙され、しかも哲
学が重要であることを強調する。それは我等に生きることを教
える学問であるからと云う。また彼は情操教育を重んじ礼儀作
法・立居振舞の重要性に言及する。これ等の訓育.指導におい
ては家庭教師が子供に対する暴力と強制とを廃止し、教師自ら
らの徳性と模範とによって子供を導き、しかも子供の歩調にな
って導くことであると。以上がモンテーニュのジャンティヨム
ゆ ロ
ロ ロ ロ
子弟教育論の要旨である。それは小さな論考ではあるが、貴族
教育論ともいうべきかれの教育論の要諦をおおよそ語り尽くし
ている。
ところでロックの論考と対比するとき直ちに知り得ること
は、両者の教育目標・方針・内容等において殆んど変わる処が
ないと云うこと、したがってロックは焔が明るさを増す、真理
︵6︶
の松明を手にした思想家よろしくモンテーニュの継承者となっ
たであろう。それ故にこの限りではたとえロックの﹃考察﹄内
容に、﹁環境の重視﹂、 ﹁児童の発見﹂があるとしても、彼より
︵7︶ ︵8︶
もたっぷり一世紀も早かった﹃エッセエ﹄を越ゆる処はなかっ
たと解され易いことになる。
一一七
にイタリア・ルネサンスの影響を受けたと思われる﹁教養ある
トルマンのためのものであった。また前者の教育目標は、明か
人のために書かれたものであるのに対し、 ﹃考察﹄は一ジェン
異はあるにしても、 ﹃エッセエ﹄の場合はまさしく、一貴族夫
ュアンスの相違があろう。すなわち、フランスとイギリスの差
他方はバイブルによった。この違いは非常に大きい。
神﹂が理性と共に終始顔を出す。一方は哲学書によったのに、
れに反し、 ロックの場合には宗教11神︵﹁証明によって近づく
によって教えるが、ついぞバイブルを引用することがない。こ
主義﹂に基づき、キケロ、セネカ、ソクラテス等の哲人の言葉
宗教的寛容さを有し﹁自然を楽しむエピクロス流のソクラテス
一一八
文化人﹂の育成にあったのに対し、後者のそれは、教養ある、
ロックの家庭教育論は、今まで見てきたように理性・宗教.
−説 苑1
合理性に富む、自立的な健康的なジェントルマン︵判近代人︶
よき躾という三つの首石によって構築されることになる。われ
の思考態度には、偉大な人文学者モンテーニュはロック以上に
の養成にあった。一方は自ら生産の業に努むることを教えはし
われは次ぎに、彼の働く貧民階級の子弟教育論を吟味すること
しかし仔細に検討するならば、両者の教育対象には若干のニ
ないが、他方・ックは、勤勉・精励を奨め、自己の所有財産の
にしよう。
︵1︶q・白。築με﹃≦F吋氏ミqミき30Po芦マ葺梅
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
、 、 、︵9︶
ヤ ヤ ヤ や
収支計算彗88⋮け鑑鼠ωぎ8ヨ。加&・巻g8ωに精通
し、またいくつかの適当な手職賃区。に習熟することを推奨す
︵3︶ Oいきミ;Pミ・同訳一〇〇頁並びに註︵1︶参照。
崎訳九頁参照。
︵2︶ R﹂窯罫唱ヤミい同訳一〇〇1一頁参照。
のためのそれとの相違があろう。従ってロックにはかかるジェ
︵4︶R■〇三〇ぎ恥。ミ偽§§鱗ミ物、oマoF9三8ど署。
︵皿︶
るのである。ここに全き貴族階級子弟のための家庭教育論と、
︵11︶
﹁新時代的な、資本家的な経営﹂をなすジェントルマンの子弟
ントルマンの下で働く労働者子弟に対する一応の教育論があ
×一一×∼旨・なお押村訳、巻未三九三頁、桑原武夫編﹃ル
る。この点にロックは﹃エッセエ﹄に基づきながら、それを越
︵5︶ 関根秀雄訳、新潮文庫e二四二−九六頁参照。
ソー研究﹄岩波、参照。
ヤ ヤ
った。しかるにモンテーニュの場合にはそれがなかったのであ
える新しい要素を有していたということができよう。また両者
︵6︶R9一。F曼“39芽巴も・注ト
︵7︶ ロックの説く環境との連合において人格が形成される
と云う主張は有名︵例えば成田克矢﹃イギリス教育政策
︵c︶社会教育論について
われわれは一六九七年﹁通商産業委員会﹂に提出されたと云
われるロックの﹁労働学校﹂案とジェントルマン教育論考”
﹃考察﹄との二つを見比べる時、同一人の手になった同じ教育
ヤ ヘ
に関する所論がその内容において、余りにも大きな懸隔を示す
史研究﹄一九t二〇頁註︵4︶参照︶。しかしかかる思
想はモンテーニュにも微かにあることである。例えば﹁
ことを直ちに知ることであろう。
誉革命に至る約半世紀余りの時代は、絶対王政期と産業革命期
ところで一七世紀スチュアート王朝の、 ﹁権利請願﹂から名
マニテーを欠く内容のものであった。
︵1︶
るのに対し、後者は一見甚だ粗略かつ貧弱で貧民救済のヒュー
ば、前者は自信と説得力に満ち溢れた高調子の内容のものであ
の社会政策的な公教育論﹃労働学校﹄案とを対比して見るなら
ジェントルマンのための私教育論﹃考察﹄と労働貧民のため
けれども人間は、生まれるやただちに習慣や学説や法規
の中にとびこんで、容易に変化しまた変装してしもうの
でございます﹂ ︵関根訳の五〇頁︶と。ロックはまたべ
ーコン︵﹃学問の進歩﹄・﹃ノヴム・オルガヌム﹄︶の影
響を受けたと思われる。
︵8︶ 児童の発見とは児童の心的肉体的な成長発達に適応す
ロック程、木理細い説明ではないが﹁弟子の子供らしい
とにはさまれている。当時は未だ統一的初等教育制度は施行さ
る訓育・指導をねらうことと思うが、 ﹃エッセエ﹄にも
歩調になって彼を導くこと云々﹂ ︵訳e二五二頁︶とい
れず、また近代的労働者は誕生せずに農村等においては相当数
の貧民が存在し、ある者は日傭労働者として働き、他の者は多
う如き叙述 が 見 ら れ る 。
︵9︶ 関根訳e二六章解説参照。
一一九
原始蓄積期の一七世紀イギリスは、一方では発展の方向を目指
る毛織物工業が当時イギリス第一の産業であった。このように
く一
浮浪民であった。そして労働条件の悪い家内工業を中心とす
︵10︶ Oいゑ。蒔即くor≦一ン閏魯qミきき8‘鼻‘評言8
−旨・訳二三九−四七頁参照。
︵n︶ 小松﹃歩み﹄三三頁参照。
ージョン・ ・ ッ ク の 教 育 思 想 に つ い て 一
のである。当時人民の知識・学問・技芸を高め、一般大衆の幸福
貧困者救済を志向する画期的な見解を提示したものと云われる
ロックの﹁労働学校﹂案は、労働と教育とを直結し、かかる
ヤ ヤ ヤ
革命のために経済力を準備しつつあった。
犠牲を強制され、ダークサイドを露呈しつつ、来たるべき産業
し明るい希望の面を示しながら、他方社会の成長・発展のため
!説 苑i
発表されたものである。その内容は、クェカー教徒らしく、温
﹃提案﹄は、ロックの﹁労働学校﹄案に先立つことに二年前に
︵1︶
さてベラーズ自身も些か誇示する処があったといわれる彼の
める。
︵3︶ 差し当りはジョン・ベラーズ﹃提案﹄をあげるに止
︵2︶ 特に岩田﹃研究﹄一五八−六〇頁参照。
一二〇
、 、 、 、 、 ︵2︶
を願い、貧困から解放されるために、教育・文化の面より各種
何に多くの苦悩.悲哀が作られるものかを歎き、それはまた悪
情と親切心、そして鋭い観察眼を働かしながら人間によって如
い︵社会︶機構の結果些。羅讐犀竃σ毘9鳴旨N畳8であ
の提案がなされていた。その主なる論策の一つに、ロ四、クのこ
︵3︶
の提案より数年前にベラーズの﹃産業学校設立提案﹂がある。
る事によって、出来るだけ彼の所説を明かにして行きたい。
決策であった。いまロックの﹃学校﹄を、このベラーズの﹃提
は時代と社会の不合理・矛盾・貧困・無知等に対する一応の解
ることを主張したものであった。したがって彼のこの﹃提案﹄
︵2︶
︵1︶ 彼は真面目、勤勉で努力するように躾けられ、単純さ
案﹄に対比させるならば以下のようになろう。
︵3︶
いま、ロックの﹃労働学校﹄案をベラーズのそれと対比せしめ
を愛しそして法外の装飾や見せびらかしを憎むように訓
周囲に気を配るような、控え目な人柄︵大槻春彦﹃ロッ
た。このように、近代社会において公共施設のための費用を租
を創設しようとする見解とは違って、社会・公共性を有する学
︵4︶
校建設は立法により教区毎の負担金”租税によることを主張し
育されておったと︵R・>貰oP匙、亀♪マN︶このよ 彼は、社会改革論者ベラーズが、富者の寄附金によって学院
ク﹄牧書店、九頁参照︶を形成したと思われる。およそ
うなことが彼に温順な、用心深い、時の流れに従順な、
かかる性格はヒューマニティの人柄から程遠いものであ
税によって賄うということは現実的かつ合理的であった。それ
︵5︶
故ロックのこの点に関する見解はベラーズの寄附金による主張
ろう。
よりも優れて近代的であった。したがってロックのこの発想は
展せしめられることとなるのである。
後年スミ.評よぞ公共事業の饗論としてさらに科学的に発
次に教育の具体的内容に関するロックの所見は何も見当らな
い。ジェントルマン子弟教育論の展開には慎重な考慮の下に異
常な情蓼傾注捨野蚕民子弟の教育に関しては、既述の
ように、紡ぐこと、編むことや毛織物マニュファクチュアの一
部等と農耕作業について語るに過ぎない。ここでは全く、労働
その物は説かれるが、本来の学習活動には何等言及される処は
、、、、、 ︵9︶
な帽歯しかもベラーズが総ゆる種類の有益な職業を授くること
を述べるのに対し、ロックの場合は限られた一部の職業につい
て語るだけである。このような諸事情を通して、われわれは、
彼の思考の中に占められた労働貧民の位置づけを見ることがで
きよう。すなわち労働貧民は、ロックにとって、ジェントルマ
ンのための生産の用具でしがなかったと云われよう。しかも使
の仕方についてである﹂ロックは、ベラーズが﹃設立提案﹄に
おいて語ると同様に、貧民創出の原因については本人の怠惰や
ヤ や
ハロロ
鮪節という如き悪徳に原因するものと考える。それ故に彼等貧
民子弟を陶冶するため勤勉U手職による訓練が奨励される仕組
みである。ただし、この仕組みには次のような説明が加えられ
ねばならぬ。ロックは﹁−⋮子供たちは⋮⋮学校へ登校して仕
事に身を入れることが益々必要となるのである。何故かといえ
ば子供たちはそれ以外に食糧が得られないからであり、またそ
パヴロ
れにより子供たちと教区の利益が日々増加するからである。﹂
と述べる。この点に関する彼の真意は次のように解されるであ
ろう。すなわちそれは﹁学校﹂という名称の救貧院.授産場に
子供達の登校、実は就役を義務.つけ、生産的労働に従事せしめ
る。このことによって伽み彼等に食糧の給付を得せしめるこ
と・かくすることによって教区の負担は軽減され、従って子供
も教区も双方共に利益を得る。しかも彼等の儲けは漸次増大し
ヤ ヤ
て行くという説明である。それ故に飴と鞭のこの仕組みは、や
ロックの﹁労働学校﹂はこれまでも見てきたように、イギリ
はり中に貧民収奪の要素を含むものであった。
ス資本主義成立期における若年労働力の陶冶.訓練、教区にお
用し易い従順な用具たらしめるために、教会への日曜礼拝出席
を義務づけ、余熱静静撚を彼等に施し、またかかる事柄を通し
ハゆロ
て道徳心も併せて向上せしめるというのであった。
一二一
さらにロックの所論における重要な論点は、貧乏からの解放
ージョン・ ロ ッ ク の 教 育 思 想 に つ い て 一
1説 苑一
ける救貧費み負担軽減、被救恤民の自立、そしてマニュファク
チュアの要望する新鮮かつ健康な労働力の確保という含みを
もつものであった。彼の主張には、日曜毎の教会での礼拝と祈
︵13︶
りという一見崇高な宗教的情操教育、血腥い体罰の排除、マニ
ハれリ
ュファクチュア側へのかかる子弟の雇用の義務づけと、彼等の
︿労働する権利﹀の容認というような従来の救貧院の内容にも
優るものがあった。彼の﹁労働学校﹂の特色は正にこれ等の点
にあった。従ってそれは当時、社会政策的見地からみて進歩で
︵15︶
あり貧民の失業と貧困とを幾分か救和する救済策であったこと
一二二
た。しかしながら、彼のこの学校案はペティの﹃提言﹄︵一,労働
︵18︺
学院﹂︶とは異なり、その内容に豊かなヴィジョンを欠くもので
あった。
ロックはベラーズとは異なり一応当時の体制を承認してい
であること、そしてベラーズと同様に貨幣の使用が財産所有の
た。また彼はペティの考える如く物に価値を与えるものは労働
ハめレ
は彼の他の著作において述べる如く、その市民社会観において
不平等を結果するものであることも知っていた。しかしロック
貧富の差も資本主義的、調和的発展により緩和され、社会の最
観箏あった・彼の合塁義塁主義的この景鍵奎義
下層迄もアメリカの王以上に富裕ならしめ得ると考え極めて楽
︵恥︶
体制確立への道であり、やがてスミスによりさらに発展的に展
はまちがいない。
で生活する生産共同体”﹁産業学校︵大学︶﹂ >Oo=&鴇鑑
このようにロックの﹁学校﹂は、共有財産四8ヨヨ8舞。畠
開されることになる。
を強めて主張した。ところでこの所論と﹁学校﹂案における労
各自の同意により、神聖にも神から認められるべきことを調子
として財貨の私有権が認められること、その私有権は社会成員
拠は労働︵勤勉︶に因由するものであること、この労働の結果
ヤ ヤ
おいて、極めて示唆に富む﹁財産論﹂を展開し、私有財産の根
︹鴻︶
そしていま一言をつけ加えるならば、ロックは﹁統治論﹄に
︵里︶
H註房叶qを設立するベラーズの﹃提案﹄の内容とは異なり、明
ハぼロ
確にマニュファクチュア資本の側に立って論旨を展開したもの
であった。 そして彼の社会教育論の構想は教図毎の公立学校
︵”労働学校︶の設立であり、この限りではシュンベータ協が
云う教育の普及者であったろう。しかもロックは当時の重商主
義者達が貧民授産の根拠を社会・経済上から主張したことに一
ヤ ヤ ヤ
歩進めて、この考えを法的に制度化しようと提案したのであっ
動とはどんな関連があるものであろうか。端的にいうならば、
明らかにここに彼の労働に関する二重性格が認められよう。彼
ゑ ロ
は一般の重商主義者達の主張の内容とは相違して、極めて前向
きに労働者の雇傭権と労働権︵就業権︶とを主張した。しかし
更に一歩進んで彼等の﹁労働﹂の本質にまで深く立ち入り検討
し、ペティの発想による.労働﹂ ︵日価値観念︶を一層発展せ
しめ得なかつ悔従って警﹁学校﹂に蓼て罠階層は鉦銀
めレ
酬で註讐。旨蝉量目8亀雇傭されること︵従弟奉公︶を説き、
ブルジョア階層︵目ジェントルマンを含めて︶による収奪の事
情には深い認識を持つことは出来なかったのである。これも
﹁教育論﹂を通して見る限り、彼はジェントルマンをもって市
民社会の中核と考え、ジェントルマンの維持.発展が直ちに社
会の繁栄を意味するものと考えた。従って労働による成果はジ
パルロ
ェントルマンにのみ帰属し、労働貧民の労働にまで考え及ば
ず・ここに彼が重商主義思想を全く払拭出来なかった所以を見
出すのである。彼は政治や宗教の問題においては見事な自由主
義思想を展開しながら、教育の面に関しては十分に自由主義思
想を浸透せしむるまでには至らず、ジェントルマン︵ーブルジ
ョア階層︶には私教育を、他方の労働貧民︵U無産者階層︶に
tジョン・ロックの教育思想についてi
は公教育︵教育の名に値する程のものではないが︶を施すもの
として、彼の教育論はペティの﹁労働学院﹂とは異なり分極し
てしまったのである。
︵1︶ Oい>。閃鼻﹃悶婦ざS亡。災、ミ物・PNO・
︵2︶R㌦ぴミ、も℃・8い
︵3︶R一﹄。一一舞、鳶§、ζ。、ミ物言“o亀山暗軸
&穿匙諜馬道脚冨冒賃。αGoユ8・︵ω気客O毛。ロー癖。α・︶
︵4︶Ro旨F恥§臼ぎ蕊ミヌ魯§費>・。℃喜こ
℃﹂o。P
︵5︶ 彼は合理性を尊び貨幣・労働.利子等についても一見
識を有してい九ことは周知の通り。Ohミ。、静物”<。一﹄<.
マ㎝8またワーメル﹃古典派賃金理論の発展﹄米田.小
林共訳、未来社、四六−七頁参照。
︵6︶ スミス﹃諸国民の富﹄五編一章三節参照。
︵7︶ 例えば彼の教育に関する以下の諸著作も参照。 Oい
類。葵ω”<〇一甲一H’頓。ミ恥Sご。讐鴫ミ切Sミ“異義醤頓記恥爲ミ塾領
§ミ硫ミ昼、ミ“O§匙⑪§魯醤︸O忌。ぎ硫。ミ価S頴。ミ,
恥ミ鈎>℃℃oロ島区切Ohωεα零
︵8︶ もっともロックは、ジェントルマン教育の場合もつと
コ一三
一二四
参照︶もちろん右の提案に反対するものとしてはマンデ
1説 苑1
めて学習をもって子弟の躾の最後におく。彼はいう﹁私
ヴィルの所説があげられよう。
業学校﹂を﹁自給的な一種の生産共同体﹂と規定する。
︵16︶ Ohωo一一Rμ、ま辱含ミ漁oPo一fP誌.浜林氏も﹁産
が学習というものを最後におき、とくにそれは最も些細
な問題だと思う⋮⋮﹂と。 ⋮ミ書幅<3<=鮮oPo犀■.
㍗置ド梅崎訳一四七頁。
二頁参照︵﹃経済研究﹄18・3所収︶なお平実﹃協同思
同氏﹁ジョン・ベラーズにおける社会と教育﹂一二一∼
パン屋等一が列挙される。 Oい㌔、匙暑ミ孕。マ9f
想の形成﹄、クループスカヤ﹃国民教育と民主々義﹄勝
︵9︶ そこには実に沢山の種類の職業一靴製造人、洋服屋、
ロ℃・一“一S
は、ペティ﹃提言﹄にあるような教育制度としての構
︵18︶ いま詳細な両者の比較は避けるが、ロック﹁学校﹂に
波、二四一頁参照。
︵17︶ シュンペーター﹃経済分析の歴史﹄e東畑精一訳、岩
︵10︶ OhO三〇ぎ象ミ偽Sぎ融領ミ漁>暑。且認︸oマ鼻‘ 田訳七五頁を参照。
℃﹂8。岩田﹃研究﹄一六二頁参照。なお成田﹃政策史
研究﹄三八頁参照。
︵n︶ R﹂黛罫マおO●岩田﹃研究﹄一六〇頁参照。
︵12︶ き、さ戸一8・岩田﹃研究﹄一六二頁。
ンとべティ﹂ ︵﹃商学論集﹄35・3所収︶を参照。
リァム・ペティ﹄岩波、二章五二節および拙稿﹁ベーコ
足。Oh℃魯蔓’Sぎ迅§魯魚﹂忠9なお松川七郎﹃ウィ
︵13︶・︵14︶ R・導∼罫℃℃・ぢ8岩田﹃研究﹄七章本文参 想、教育指導方針、これに基づく教育活動等の説明は不
照。
︵15︶ ベァに拠れば一七世紀半ば頃より一八世紀初めにかけ
て沢山の有名な救貧法改革論者のいた事が示されてお
℃マに8服部訳三九、四八−九、五四−六頁参照。
︵19︶Oいト。畠ρS§寄師ミ嘗漁。マoF℃﹂ω一しω9
加田訳九五頁参照。︵なおチャイルド﹃新交易論﹄杉山忠
︵20︶ 9﹂豊野サお9服部訳四九頁参照。
る。R瀬g﹄鶉§9。マ9けこく畠。β亭相舞
平訳、ダヴナント﹃東インド貿易論﹄田添・渡辺共訳、
︵21︶ 羽鳥卓也﹃市民革命思想の展開﹄御茶の水書房、特に
二章二節参照。
︵22︶ スミスはロックよりも公教育”一般大衆の教育に対し
て理解と認識を有していたと思われる。 ﹃諸国民の富﹄
特に第五篇第一章参照。
﹃研究﹄一六三頁参照。
︵27︶ ロックは彼の労働観念を深化せしめ得なかったため、
ヤ ヤ
労働貧民の労働を無視してしまつ忙ものと思われる。な
お水田洋・同珠枝﹃社会主義思想史﹄七三∼五頁参照。
ξ齢服部訳第五章参照。 なおこの事に関しては、田中正
庭教育論を中心に、一方に政治教育論を、他方に社会教育論を
ロック教育論は、これまで述べたようにジェントルマンの家
五 む す び
︵23︶ O坤Q、ミ。目蓋ミ芭ヌoPoFゆ客員<・Ohギ8R,
司﹁ジョン・ロックの財産論﹂︵﹃横浜市大紀要﹄ソリー
置いた主張であった。そして、その所論の礎石として﹃悟性論
﹄を据え置いたのである。このようにして、被の教育論考の対
ズB116・一五五号所収︶参照。
︵24︶ 一般重商主義者は資本の流通過程を考察するに止まつ
ン養成のための考察であった。それは富裕にして良識ある彼等
象は、あくまでもジェントルマン階層のための、ジェントルマ
値論へ考察の対象を進めたものといわれておる。内田義
の子弟教育は家庭における躾教育、すなわち両親の下、ロック
た。しかるにペティ、ロック等においては生産過程材価
彦﹃経済学の生誕﹄五四頁、羽鳥﹃展開﹄特に四八頁註
自身の如く優れた家庭教師による家庭教育という方法を推す内
は私教育という方法によるものであった。かかる私教育論の根
し大衆を支配する能力を必要とするジェントルマン育成の教育
パ や
かくの如くして一般大衆の上に立ち、富︵土地︶とカとを有
容であった。
ωを参照。
︵25︶ もちろんロックの主張は厳密な意味の労働価値説を意
味しない。マルクス﹃剰余価値学説史﹄長洲訳︵1︶A三
、ミーク﹃労働価値論史研究﹄水田・宮本共訳一四頁、
白杉圧一郎﹃経済学史概説﹄ ︵上︶五五一六〇頁参照。
一二五
︵26︶ Oい〇三〇ぎ象ミ馬§ミ内ミ♂oや含fマ一8・岩田拠をロックは﹃統治論﹂における﹁父権論﹂に求め、宗教的自由
ージョン・ロックの教育思想について一
一説 苑i
の思想を﹃寛容論﹂において発展せしめたのであると云うことが
出来よう。そして働く貧民の子弟教育はジェントルマン︵け有
︵2︶
産者階層、つまりはブルジョア︶のため労働と服従とのみを教
える学校制度H公教育論によったのであった。十分な富と時間
トフ。
一二六
彼の教育論はこの時代よりも一層成熟した市民社会”資本主
義確立期において、アダム・スミスによって承継され、更に社
︵4︶
会の階層を拡大して公教育のシステムをとり、中等拉びに下層
ロ ロ ロ ヤ ヤ ヤ ヤ
階級にまで及ぼす教育論の展開を見ることになるのである。ま
の ロ
に恵まれる期待される新しいブルジョア階層は家庭教師による
個人指導が行なわれる。この方法により社会の中核となるべき
育論は、やがて学校教育︵公教育︶に採用されペスタロッチ
待したのであった。他方、労働貧民階層はジェントルマンの下
るのである。ロックはこの階層の活躍に社会の進歩と発展を期
るような徳・智慧・行儀作法の如き種子は、本来われわれに植
お㌣︼oo認︶により1青年に早くから承け継がれ且つ心に喰い入
︵い=・頃。誓巴9旦一謹?一〇〇ミ︶やフレーベル︵国字3旦一
ロ ロ
たロックの提案した﹃考察﹄におけ教育方法とその理念艮私教
健康、健全、自立的かつ理性的なジェントルマン訓育がなされ
ですぐれた労働力を提供するため﹁労働学校﹂において、必要
えつけられてあるもので、両親と教育家の情深い指導・監督の
人間の性情についての環境支配論はモンテーニュ←ロック←ル
︵7︶
ソーに向うものであった。そして彼の所説の内容は芸術と情操
ハるロ
下にさらに発展させられる!として承継されるのである。また
︵5︶
な技能を修得・訓練されるわけである。従って貧民子弟のため
ヤ や
の﹁学校﹂案は、実は同時に新しいブルジョア︵”ジェントル
マン︶のために︵収奪の対象として︶設立されるものであっ
︵3︶
た。このようにしてロック教育論は、ペティ﹃提言﹄における
教育面に不足しながらも、一般初等普通教育に徳育・知育・体
育として定着することになる。それにはやはり、マニュファク
﹁労働学院﹂とは異なり、富め者・貧しき者とに依り、教育の
理念.制度・方法は分極するのであった。結局、ロックは教育
︵8︶
の小論は、筆者のロック教育思想研究の一の手がかりとしてま
チュアから産業革命まで待たねばならなかったのである。 ︵こ
ヤ や
を階級によって差別してしまったのであるが、一七世紀の当時
としては働く貧民階層に現実論として、教育の機会を得しめ
とめたものに過ぎない。彼の﹃寛容論﹄、﹃統治論﹄、﹁利子・
ヤ や
ようとした発言は本来の救貧院に比し一歩前進であったであろ
貨幣論﹂等とのより深い構造的関係については後日を期するつ
もりである。︶
︵−Y︵2︶9ピ器真向ミ息恥§卜§ミぴミ一。p。捧こマ
Oピ石上訳八六頁参照。
︵3︶ ペティの教育論は﹁あらゆる階層の子﹂を﹁労働学
院﹂に就学せしむる構想であった。
ヤ ヤ ヤ ゐ
︵4︶ スミスはロックの所説よりもさらに発展せしめると共
に、女子教育にまで言及した。 ︵﹃諸国民の富﹄第五篇
第一章第二款参照︶彼は・ックと異なり、産業資本を背
景にして時代の要請を汲み取り学校制度n公教育論を前
提とした。そして宗教的には独立派の思想、クェカー教
徒の活動に好意を示す。︵同著第五篇第一章第三款参照︶
彼も・ックと同じく理性を重視する。 ︵これについては
特にスミスの↓、ミ奨誌ミ▽魚ミミミ忠ミ奪ミミ♂嵩
㎝O.参照︶なおこれ等のことについては稿を改めたい。
︵5︶R曾ざF。>ミ﹂導a自注。p。注目も・H<・
︵6︶ さらにつきつめれば﹁環境が人間によって変更されな
ジョン ロックの教育思想について一
ければならず、教育者みずからが教育されなければなら
ない﹂︵﹃ドイツ・イデオロギー﹄古在訳、岩波、二三五
ヒ六頁︶ということになるであろう。
︵7︶ ロックはジェントルマンの子弟の家庭教育論を唱.ん
た。しかしジェントルマンのための大学教育は周知切よ
うに当時、盛んに行われていた。この教育理念について
は島田雄次郎﹃ヨーロッパ大学史研究﹄ーイギリス大学
史研究の一動向−参照。
︵8︶ コメニウスが﹃大教授学﹄一九章で強調する一斉指導
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
・一斉教授はマニュファクチュアの時代の物の考え方と
密接な関係があると云われる。 ︵岩波小辞典﹃教育﹄勝
田守一編、四∼五頁︶
︹附記︺ 本稿の骨子は第22回東北経済学会︵昭和四二年七
月、東北学院大学︶において報告したものである。明治
大学の坂田太郎先生からクィック版﹃考察﹄原典閲覧等
の御配慮を煩わした。深謝いたします。
二一七