平成 19 年度本試験の必答問題前半(1~14)を用いて,臨床を意識し

平成 19 年度本試験の必答問題前半(1~14)を用いて,臨床を意識しつつ発生学を眺めてみよう!
出題:解剖学第三講座(宮田 卓樹教授) 解答解説:矢野 寿
1.尿中に( X )を検出することが,妊娠の判定(初期における)根拠となる.
2.その( X )の起源について,受精からの時間経過をふまえつつ,細胞挙動の観点から(組織学
的なレベルで)説明せよ.
解答解説:
1,2を合わせて解答解説する.
妊娠の判定根拠となる物質 X とはヒト
ヒト絨毛性
ヒト 絨毛性ゴナドトロピン
絨毛性 ゴナドトロピン
human chorionic gonadotrophin,
gonadotrophin, hCG である.
hCG はαサブユニットとβサブユニットから成る(ヘテロダイマ
ー)
,36.7kDa の糖タンパクであり,うちβサブユニットだけが特異
的で,αサブユニットは黄体形成ホルモン(LH),卵胞刺激ホルモ
ン(FSH),甲状腺刺激ホルモン(TSH)と共通している.
市販の妊娠検査薬の本体はこのβサブユニットを標的とする抗体である.hCG は上のグラフに示
されているように着床後急速に上昇し,妊娠第 10 週をピークにして以降は減少するが,市販の妊娠
検査薬は 50mIU/mL 以上1でこれを検出できるように設計されている.
hCG は絨毛性という
名前の通り,胚の栄養膜
合胞体層 syncytiotrophoblast から分泌さ
れ―すなわち胎児性で
あり―,それが母体血液
中に入り尿中へと排出
されるものであるから,
「母体内に胎児性組織が存在していること」の証拠と
なる2.
右の流れ図にあるように,受精卵(が分裂して生じ
た胚盤胞)は着床した先の子宮内膜に言わば完全に沈
み込む.そして,子宮内膜側へと栄養膜合胞体層が拡
がっていく.この拡がりの中に裂孔〔空隙〕
trophoblastic lacunae が生じ,それが母体の洞様毛細
血管 maternal sinusoid とつながると,その空隙が母
1 IU はその物質固有に定められた国際単位を表し,生体に対する効力でその量を表すもので,ホルモンや脂溶性ビタミンなどにつ
いて用いられる.hCG の場合は 10mIU/mL = 1ng/mL である.検出感度の 50mIU/mL とはほぼ妊娠第4週での検出が可能な値であ
り,この時期には体調の変化から妊娠を察知するのはまだ無理であるから,検査によりそれに先立って妊娠を知ることができる.
2 こう言えることの背景知識をおさらいしておこう.絨毛 villi というのは胎児に由来する栄養膜合胞体層が栄養膜細胞層に裏打ち
された突起となって,脱落膜化 decidual reaction した―栄養を蓄え血管に富む組織に変化した―子宮内膜,すなわち脱落膜
decidua 中に枝を伸ばしたものに他ならない(一次幹絨毛 primary stem villi).この突起は,より発生が進むとさらに胚外中胚葉
にも裏打ちされるようになり(受精後 16 日,二次幹絨毛 secondary stem villi),延いてはその中胚葉が分化した絨毛動静脈に貫か
れるようになる(受精後 21 日,三次幹絨毛 tertiary stem villi).
1
体血で満たされる.栄養膜合胞体層で産生される hCG はこの母体血に溶け出る形で母体中へと移行
する.
この本来の分泌時期・場所が示唆しているように,hCG は胚が母体卵巣にある黄体に対し黄体ホ
ルモン(プロゲステロン)の分泌を維持させる3ためのホルモンである.そのプロゲステロンの作用
により子宮内膜は妊娠の維持が可能な状態に保たれるから,hCG は結果的には胚が母体に対し言わ
ば寄生する自分を維持させるための物質である.
本問題では問1で hCG を扱う上で妊娠検査(hCG の母体尿中からの検出)を切り口とし,問2で
その出所を聞いているが,注1でも述べた通り,市販の検査薬の精度で妊娠を判定できるのは既に三
層性になった胚盤の屈曲が進行していく第4週(問3で扱う時期)である.その一方,黄体は受精卵
の着床がなければ(つまり,hCG による維持作用が働かなければ),排卵後 13 日で退化が始まり,
それによるプロゲステロンの低下によって肥厚した子宮内膜は剥がれ落ち着床しなかった卵ととも
に体外に排出されてしまうから(これが月経)
,逆に hCG の作用自体は着床後すぐに母体に対して効
いている4ことになるし,このことが妊娠の成立にとって決定的に重要であるわけで,問1と2から
それぞれ想起される発生の進行状況にはズレがあることに気を付けよう.
さて,この hCG の臨床的意義として二つを知っておかなくてはならない.
一つは生殖補助医療における排卵誘発剤としての利用である.LH や FSH との類似性により,hCG
には卵胞の最終的な成熟とこれに続く排卵を刺激する作用もある.この作用は自然の条件下では LH
サ ー ジ
surge(性周期上の適切なタイミングでの下垂体からの黄体化ホルモンの大量放出)が果たすもので
ある.hCG は妊婦の尿から比較的簡単に得られることもあり,これを精製したものを注射すること
で LH surge の代わ
りをさせ,注射して
から約 40 時間後に起
こる排卵に合わせて,
体外受精のための採
卵や人工授精を行う5.
もう一つは,腫瘍
マーカー6としての使
用である.
右図にあるように,
卵の核は不活化してしまっているのに,そこに二つの精子が受精し
たり(二精子受精 dispermic fertilization),一つの精子が受精した
上で卵割なしに最初の有糸分裂を起こして二倍体化したり(単精子
3 黄体はその後,胚発生第 11 週から 12 週に至るまでの間,プロゲステロンを分泌し続ける.それ以降は胎盤自身が大量のプロゲス
テロンの供給元となるので,黄体はその役目を終えてゆっくりと退縮して白体となる.
4 ページ冒頭では栄養膜合胞体層と母体血が接触することが hCG の母体への検出可能なまでの移行を生むことを強調した記述とし
たが,胚と母体とはそれ以前から単純拡散による栄養と老廃物との交換を行っている.
5 この後,こちらは hCG の本来の働きの通りの利用となるが,黄体期(肥厚した子宮内膜が維持される時期)を継続させるために
hCG の投与を行うこともある.
6 体内に腫瘍が生じると,正常ならばほとんど見られないはずの物質がその腫瘍により大量に産生され,血液中に出現することがあ
る.腫瘍の種類によって産生する物質がある程度決まっているので,逆に血中のこれらの物質の濃度を調べれば体内に腫瘍組織があ
るかどうかを推測することができる.このように利用される物質のことを腫瘍マーカーと呼ぶ.
2
受精 monospermic fertilization)した場合7には胚子が生じることなく,胎盤だけがひたすら増殖す
る完全胞状奇胎 complete hydatiform mole となる.このとき,母体に具体的な症状が出る前に hCG
が異常な高い値を示し続けるので(hCG の出所である絨毛だけが増えるのであるからそのことにも
納得がいく),エコーなどで胚子が育っていないことが確認できる状況があればこの値を管理し,高
値であれば速やかに奇胎を娩出する手術を行う.その後も hCG の値が下がらないようなら,完全胞
状奇胎の約 15~20%が移行する周辺組織に浸潤する侵入奇胎 invasive mole と診断し,化学療法を
開始する(これにより今日ではほぼ全ての例で治癒する).放置すれば侵入奇胎のうち3~5%は絨
毛がん choriocarcinoma となって初めは特に肺に転移しその後,肝・腎・脳へと広がって致命的と
なるからである8.
3.( X )の作り主たちがその勢力を増し,内部
に血管を含有する第三次絨毛と呼ばれる構造を築
きつつ周囲の子宮組織へのくい込みを果たす受精
後 21-22 日頃,胚のなかでの循環系発生の状態と
して正しいもの1つを選べ.
ア.まだ中胚葉ができておらず,循環系どころで
はない.
イ.循環系・造血系のもととなる側板中胚葉がで
きたばかりであり,まだ血管も血球も存在しない.
ウ.血島が卵黄嚢上に形成される.
エ.左右の心内膜筒が融合して原始心筒が生じ,
心拍動が始まる.
オ.心屈曲が完成する.
カ.心臓内のコンパートメント作りが進行中.
解答解説:
各選択肢を吟味することで心臓の形成を追って
いこう.各選択肢は受精後大体何日に相当する状
態を言うものだろうか.
まず,アではまだ中胚葉が分化していないとあ
る.1ページに挙げた受精後 12 日の胚には上下の
胚盤葉から成る二層性胚盤が見えるが,第 14~15
日にかけて上胚盤葉に原始線条 primitive streak
と呼ばれる溝が生じてそこから上胚盤葉細胞が下
方に進入し,下胚盤葉の細胞と置き換わって内胚
7 一方,卵の核はあるが,そこに二精子,ないし二倍体の単精子が受精した場合には胚子の発生が部分的に認められる部分胞状奇胎
児となる.部分胞状奇胎からは悪性腫瘍は生じず,放置した場合の高血圧,浮腫,膣出血といった母体症状の出現も遅いとされる.
8 現在では正常な妊娠を含め hCG の値の管理が徹底されているので,早期に発見・治療することができ重症例をみることはほぼな
い.罹患例自体が減っており,卵の核を不活化してしまうような環境因子の減少によるとも言われている.が,現在ベテランの産婦
人科医の先生が若い頃には,婦人科の病棟は絨毛癌の患者さんばかりで,また,そのほとんどが亡くなったと聞く.喜びのサイン
hCG がかつての不治の病の悲しみのマーカーでもあることは印象深い.
3
葉 endoderm9の形成が進む.第 16 日になると上胚盤葉層からさらに進入してきた細胞は内胚葉と上
胚盤葉の間に入り込み,これが胚内中胚葉 intraembryonic mesoderm となる.この三層性の分化が
済んだ段階で上胚盤葉は外胚葉 ectoderm と呼ばれることになり,これで上胚盤葉に由来する三胚葉
が出揃った形になる.
中胚葉は原始線条から下方へ,そして
前方(頭側)へと進入していった細胞群
が形成するのであったが,その中胚葉が
形成する脊索突起 notochordal
process10 の伸長に伴い,原始線条は退
行し,胚の正中部は脊索が占めることになる.中胚葉は
この脊索に近い側から外側に向かって順に,沿軸中胚葉
paraxial mesoderm , 中 間 中 胚 葉
intermediate
mesoderm,側板中胚葉 lateral plate mesoderm に分
化する.これが受精後第 17 日から 18 日にかけての出
来事で,これが選択肢イに相当する.
側板中胚葉は同時期にさらに外胚葉寄りの壁側板
somatopleure と内胚葉寄りの臓側板 splanchnopleure に分かれる.第 17 日ごろに卵黄嚢上の胚外
臓側中胚葉(もっともこのとき胚外中胚葉と「胚内」中胚葉とは既に連続した存在である)で血管や
血球の原基である血島 blood island が形成されるが,第 18 日には上の(中胚葉)臓側板において下
層の内胚葉に誘導される形で血管芽細胞 angioblast,さらにそれらがつながった血管嚢胞 angiocyst
が形成される.選択肢ウはイと重なりこの時期を表している.
さて,三層性胚盤が整った発生第4週(受精後 21 日以降)には胚子が頭尾方向にも左右方向(側
方に向けて)にも屈曲していく.心臓の形成はまさにこの屈曲と時期が重なっており,その屈曲によ
って整えられると形容してよい(これ以降の記述はレイアウトの関係で次ページ冒頭右に置いた図を
見ながら読んでもらいたい).
発生第4週にほんの少し先立つ第 19 日に,胚盤の頭端付近にある臓側中胚葉から成る心臓形成域
cardiogenic region と呼ばれる馬蹄形の領域に(外側)心内膜筒 (lateral) endocardial tube と呼ば
れる一対の血管が生じる.この時期に始まる胚の頭屈と側屈により,両筒は胸部に位置するようにな
り,また正中線で癒合する(原始心筒 primitive heart の形成)
.これが第 20 日から 21 日にかけて
の出来事になる(よって,解答はエ
エである).この心筒が拍動を始めるのは大体 22 日ごろとされる.
心臓自身の屈曲が体全体の頭屈に依存していると言うとそれは正しくないが,第 23 日に始まった
心臓自身の屈曲の完成は胚子の屈曲の完成と時期を同じくし,それは胎生〔受精後〕28 日のことと
される.胚の腹側から見て反時計回りにループを形成するように,尾側からやってくる静脈がつなが
る原始心房が頭側へと伸びる動脈を伴った原始心室の(腹側から見て)背後に回り込む.心臓内部の
コンパートメント作りは以降長い期間をかけて進行することになる(問 15 解答解説で関連した記述
を挙げる)
.
9 当初,卵黄嚢の内壁を覆った下胚盤葉性の内胚葉ではないという意味で,二次内胚葉 secondary endoderm と呼ぶこともある.
10 脊索突起は一度その下方の内胚葉に融合して脊索板 notochordal plate となり,もう一度上方へと分離して中空のない脊索
notochord となる.
4
4.胎児の赤血球の秘密につ
いて簡潔に説明せよ.
解答解説:
まず赤血球 erythrocyte の
機能とは何かということから
考えよう.
赤血球は酸素と結合するタ
ン パクであ るヘモグ ロビン
hemoglobin を有している.
よく知られた赤血球の機能で
ある酸素の運搬の実体はヘモ
グロビンの酸素への結合と解
離である.
ヘモグロビンは4つのサブ
ユニットから成り,さらにそ
の サブユニ ットはグ ロビ ン
globin と呼ばれるポリペプ
チド鎖と鉄を含む赤い色素ヘ
ム heme とが結合したもの
である.
出生後のヒトが持つ一般的
なヘモグロビンはαグロビン
鎖から成るサブユニット2つ
とβグロビン鎖から成るサブ
ユニット二つから構成されて
い る(この ヘモグロ ビン を
HbA と称する).
これに対し,胎児の,正確
には胎生5週ごろから 20 週ごろにかけての肝臓での造血により産生される(←問 10 のネタバレ!)ヘモ
グロビンは,αグロビン鎖2つは共通するが,残りがγグロビン鎖二つから成り立っている(このヘ
モグロビンを HbF と称する)
.γグロビン鎖はヘモグロビンと酸素との
親和性を低下させる赤血球解糖系の中間産物ジホスホグリセリン酸
(2,3-DPG)との結合能が弱く,これにより HbF は逆に酸素との親和
性が高い(左の酸素解離曲線を参照のこと,図中の Fetal hemoglobin
(胎児性ヘモグロビン)の方が Adult hemoglobin(成人のヘモグロビ
ン)よりも低い酸素分圧でより多くの割合で酸素結合型になっている)
.
胎盤では胎児の絨毛に向かって母体血が吹き付けているわけだが,そ
の環境でのある程度低い酸素分圧に応じて母体血の赤血球より解離し
5
た酸素を,胎児血中の赤血球はほぼ同じ酸素分圧環境の中で回収しなくてはならない.つまり,胎児
の赤血球が母親のそれよりも酸素回収能が高くなくてはいけない,すなわち,胎児赤血球の有するヘ
モグロビンは母体のそれよりも酸素親和性が高くないといけない.実際,既に見たように HbF の酸
素親和性は HbA のそれより高く,この要請に応えているのである.
ここで造血の場とヘモグロビンの種類の変遷をまとめておこう(部分的に問3解説の続きにもな
る).
胎生初期のヒトの造血は卵黄嚢で始まるが,このとき発現するのはεグロビン遺伝子である.胎生
5週ごろには造血の場は肝臓へと移行し,それに伴って,GγグロビンとAγグロビンと呼ばれる二
つのγグロビン遺伝子が発現し始め,逆に当初のεグロビンの発現は抑制される.さらに,胎生 20
週ごろには肝臓から脾臓,骨髄へと造血の場が移行する.骨髄での造血ではβグロビンの発現が始ま
り,一方,上の2つのγグロビン遺伝子はサイレンシング(発現の抑制)を受ける.このような造血
の場の変遷に伴うヘモグロビン構成分子の遺伝子発現の変化をヘモグロビンスイッチング11と呼ぶ.
5.胎児の循環システムの理念・目的は?
6.その理念のために具体的にどんな方策を
駆使しているか? 3つ挙げ,それぞれの行
く末について記せ.
解答解説:
血液循環はもちろん様々な栄養を各組織
に送り届け,逆に老廃物を回収して肝臓,腎
臓等に送り,また,消化管からは栄養を回収
して肝臓に送るなどのいろいろな機能を担
っているものであるが,何と言っても最重要
なのは酸素を各組織に送ることである.一般
に,血液を動脈血,静脈血と区別するとき,
それは他でもない酸素飽和度が高い血液か
低い血液かで分類しているのである.
出生後のヒトにとって動脈血とは肺 lung
から肺静脈 pulmonary veins を通って左
心系に戻ってきた血液であり,静脈血とは全
身を巡って右心系に返ってきた血液である.
では胎児にとって動脈血,静脈血とは何か.
胎児は酸素を含めた栄養を胎盤 placenta
を通して母体から供給されている.つまり,
11 HbF は HbA に比して酸素親和性が高いが,もしこの HbF が出生後も産生され続けたとすると,HbF は酸素分圧の低い組織にお
いても酸素を手放さないヘモグロビンということになってしまい,もしこの状態の人がいたとすれば組織へ酸素を提供しづらい体を
持つことになり普通は不利になる.だが,グロビンβ鎖遺伝子に(その産物が)低酸素分圧下で凝集してしまう突然変異を有する鎌
状赤血球症では抗がん剤であるヒドロキシ尿素が胎児性ヘモグロビンの発現を亢進させる作用があるためこれを投与して HbF に変
異型ヘモグロビンの肩代わりをさせる治療が行われてきた.さらに,グロビンβ鎖遺伝子のサイレンシングに関わる遺伝子 BCL11A
が同定されており,この発現を抑制することで逆にグロビンγ鎖を発現させる治療法が考案されている(Science ’08 年 12 月 05 日
号で発表).
6
胎児にとっては臍静脈 umbilical vein を通って肝臓に返ってきた(正確には肝臓を後述するように
素通りさせようとするのだが)血液が動脈血(酸素飽和度の高い血液)であり,下半身に送られ内腸
骨動脈 internal iliac artery より分岐し臍動脈 umbilical arteries を通って胎盤に送られる血液が
静脈血(酸素飽和度の低い血液)ということになる.
ここで気を付けたいのは,胎児にとっての動脈血が胎盤から体内へと返ってくるルートは,出生後
の静脈血のルート(それもかなり終わり近く)であるということである.胎児は肺呼吸をしていない
から右心系の出生後の機能である肺循環は静脈血の動脈血化という意味を成さない.臍静脈から肝
臓・下大静脈 inferior vena cava を経て右心系へと返ってくる酸素飽和度の高い血液をできるだけ邪
魔されずに,例えば酸素飽和度の低い血液と混合したり,胎児にとって優先度の低い組織を先に栄養
してしまったりすることなく,体循環へと(しかもできれば優先度の高い組織に率先して)回したい.
これが問5が問うている胎児循環 fetal circulation の理念であり目的の最も重要なものである.
では,この目的を達成するためにどんな構造が用意されているのであろうか.問題文ではそれを三
つ挙げることが要求されているが,欠かすことのできない機能上決定的に重要な構造も三つである
(前ページの胎児循環の図中に赤線枠で囲って示した)
.
一つ目は,(アランチウス Arantius の)静脈管
静脈管 ductus venosus である.胎盤から臍静脈を経て
肝臓に返ってきた血液は一部が肝類洞(肝臓の毛細血管)に注ぐが,全てがそれではここで酸素飽和
度の低い血液と混ざり合ってしまう.これを避けるための構造が臍静脈と下大静脈を直接つなぎ肝臓
をシャント(短絡)する構造である静脈管である.
問題文の言う「行く末」とは出生後その構造が不要となったとしてその“名残”はどのように見ら
れるかを聞くものであるが,静脈管は出生後は不要となった臍動脈が線維化した肝円索 round
ligament of liver に続く同じく線維化した遺残物として静脈管索
静脈管索 ligamentum venosum となって
その名残を留める.
二つ目は,右心房と左心房を区切る心房中隔 atrial septum(正確には二次中隔 septum secundum)
に開いている孔,卵円孔
卵円孔 foramen ovale である.下大静脈より右心房に注ぐ比較的酸素分圧の高い
混合血の大部分12は,その流れの方向のままに卵円孔を通って心房部分の心臓を横断するかのように
左心房 left atrium に流入する(肺循環をシャントするための構造の一つ目).この心臓から送り出
される血液のうち最も酸素飽和度の高い血液は左心室 left ventricle から上行大動脈 ascending
aorta へと送り出され,その多くが腕頭動脈,左総頚動脈,左鎖骨下動脈など胎児の上半身を栄養す
るルートへと流れていく.脳は胎児期に発達するため,その発達中の脳に最優先に酸素を始めとする
栄養を送る必要があり,心臓やその付近の動静脈が胎盤から返ってきた血液をできるだけそのまま上
半身に流すような血流を生むような物理的構造になっていることは結果的に極めて合理的なことで
ある.
出生後は気管支の羊水が空気に置き換えられることで肺の毛細血管の抵抗が下がり,また,次に挙
げる動脈管が閉鎖する13ことで肺循環が開始され,左心房圧が右心房圧よりも高くなるので,二次中
12 まわりくどい言い方をするのは,一つ目に挙げた静脈管があるとはいえ,
(胎児にとっての)動脈血は肝類洞に漏れ,さらに下大
静脈を上行してきた静脈血と混合してしまうのでいくらか酸素飽和度は下がっており,さらに,卵円孔があるとはいえ二次中隔の下
縁によって横方向の血流は妨げられ,上大静脈から返ってきた静脈血とここでさらに混合してしまうからである.だが,むしろ右心
房において上下大静脈から流れ込んだ血液の大部分がそれぞれの流れを保ち直交するために,多くが混合せずに済むことの方に構造
の巧妙さを感じ取ってほしい.
13 三つ目の構造に関わる知識を先に挙げることになってしまうが,動脈管の閉鎖には血中のプロスタグランジン濃度の減少が関わ
7
隔より左心房側にある一次中隔が二次中隔の卵円孔部分に押し付けられ卵円孔は機能的に閉鎖する.
多く(75-80%)の人では押しつけられた部分は癒着し,卵円窩
卵円窩 fossa ovalis としてその名残を留め
ることになる.
三つ目は,肺動脈幹の血液を大動脈にシャントする(ボタロー Botallo の)動脈管
動脈管 ductus
arteriosus である.
頭部始め上半身から返ってきた静脈血は上大静脈より右心房に注ぎ,そのまま下方へと流れ右心室
を経て肺動脈より出る.胎児期では肺胞が開いていないので肺の毛細血管の血管抵抗は大きく,肺動
脈内の血液はほとんど肺に向かうことなく,この動脈管を介して大動脈弓の下端に注ぐ(肺循環をシ
ャントするための構造としては二つ目).右心房で下大静脈からの動脈血とある程度は混合されてい
るし,下行大動脈には左心室から送り出された動脈血が全て上半身には行かずに大動脈弓を回り込ん
でくるものも流れるとはいうものの,右心室からシャントされてきた血流だけを考えれば上半身から
の静脈血を下半身用の“動脈血”として使い回しているとも喩えることができるわけで,優先されな
かった胎児の下半身の発育が出生時までに悪いことにも納得がいく.この血液の一部はまさしく静脈
血として臍動脈を通って胎盤へと送られることになる.
注 13 で既に先取りしたが,出生後は動脈管は速やかに閉鎖し(正常な肺循環が開始して以降は,
動脈管はもし残っていたとすれば単なる静脈血を大動脈中の動脈血に混合させてしまうだけの有害
な構造になってしまう)
,線維化して動脈管索
動脈管索 ligamentum arteriosum となる.
7.胚は子宮に「寄生」し,その周囲(子宮)に対して血管系の発達を促しているように見える.こ
のことは,ガン細胞たちが「転移」した先で自らに向けての血管新生を促す「ずる賢さ」とも共通す
るような「血管誘導」の機構を想像させる.(子宮血管に対してそうしたことが実際に行われている
かどうかはさておき)一般に胎児体内において知られる血管の形成の機構について知るところを述べ
よ.
解答解説:
問題文の「血管の形成
の機構」というのはそれ
だけだとしたら随分と曖
昧な問いだが,前文を意
識すればそれは血管形成
に働く細胞外シグナル分
子とそのレセプター,さ
らにその下流の細胞内シ
グナル伝達の結果果たさ
れる細胞たちのふるまい
のことを指し,それにつ
っていると言われ,この産生を阻害する COX 阻害薬と言われる一連の薬剤(普通は解熱鎮痛・消炎剤として用いられることが多い)
には結果的に動脈管を閉鎖する作用を有するので出生後も動脈管が閉鎖されない動脈管開存症の治療に用いられる.逆に,左心室が
肺動脈幹につながり右心室が大動脈につながってしまう(正確には一本の血管として生じた大動脈と肺動脈の中の区切りが正常に形
成されなかった)奇形である大血管転換 transposition of great vessels では動脈管が開いていた方が左心室からの動脈血が肺循環
にループせず大動脈に流入できる分都合が良いのでプロスタグランジンにより開存を維持することがある.
8
いて問うているのだと理解できる.
この問いに対しては前ページの図がそのまま必要にして十分な解答である.これを言葉に起こして
いこう.
図中で vasculogenesis(血管形成)と言っているのは,血管系の形成に関わる細胞の分化といった
血管系そのものの発生を含めた概念である(これに対して angiogenesis(血管新生)というのは新た
に血管構造が形成されることを言っている)
.
線維芽細胞増殖因子‐2 fibloblast growth factor-2, FGF-2 を FGFR(FGF レセプター)で受容
することで中胚葉細胞は血球・内皮細胞共通の前駆細胞である hemangioblast(血球血管芽細胞)に
分化し14,これらが隣接する内胚葉や間充織(ここでは中胚葉性)で産生された血管内皮増殖因子
血管内皮増殖因子
vascular endothelial growth factor, VEGF をレセプター型チロシンキナーゼ Flk-1 で受容した結果,
血球芽細胞 hemoblast,血管芽細胞 angioblast へと分化する.実際,flk-1 をノックアウトされた
マウス胚では卵黄嚢上や胚内での血管形成が見られなくなる.VEGF のもう一つの受容体,レセプタ
ー型チロシンキナーゼ Flt-1 で VEGF を受容すると内皮細胞による管状構造の形成が促進される(こ
のことは flt-1 ノックアウトマウスでは血球芽細胞や血管芽細胞への分化が見られる一方で管状構造
形成が見られないことで確かめられた)
.
毛細血管は内皮細胞とそれを取り囲む平滑筋細胞様の周皮細胞 pericyte から成るが,この周皮細
胞が発達するために欠かせないのがアンギオポイエチン‐1 angiopoietin-1, Ang1 である.この因子
自体のインパクトは VEGF に比べて薄いが,それは周皮細胞の機能がよく知られていないせいもあ
ろう.だが,周皮細胞は TGF-βの産生により内皮細胞の増殖を抑えているという報告があり,周皮細
胞がちゃんと発達しないと後の正常な血管形成に支障が出る15.
一方,血管の新生に効いているのも VEGF である.特に Flt-1 受容体を介して VEGF を受容した
血管内皮細胞は増殖し,また,細胞間接着が緩くなって細胞外基質 extracellular matrix へと広が
っていく.動脈側・静脈側ともにそのようにして毛細血管の枝が伸び,“若い juvenile”血管ネット
ワークが形成される.
これに対し,トランスフォーミ
ン グ 増 殖 因 子 transforming
growth factor-β, TGF-β は細胞外
基質を“締めて”血管内皮細胞の
広がりを抑え,血小板由来増殖因
子 platelet-derived growth factor,
PDGF はそこに周皮細胞を呼び寄
せて血管壁を安定化させることで
血管ネットワークを成熟させる.
14 図には表れていないが,この分化には骨形成タンパク bone morphogenetic protein, BMP(血管系の成熟にも効いているとされ
表の右端に登場している TGF-βファミリータンパクの一種)も関与しているとされる.
15 血管新生においては当然ながら内皮細胞が増殖して新たな血管ができればそれでよいというものではなく,それが必要に応じて
抑制されることも極めて重要である.以下で見るように悪性腫瘍が VEGF の作用で自身周辺に新生血管をやたらに増殖させること
はよく知られているが,血管新生が亢進する悪性腫瘍以外にも,血管新生の抑制が利かないことも一因となって起こっていると考え
られる疾患はあって,眼の黄斑部に不要な毛細血管が新生して網膜を歪め失明の原因となる滲出型加齢黄斑変性症はその一例である
(現在はこれを VEGF 阻害によって治療している)
.
9
エ フ リ ン
エ
フ
神経回路の形成にも関わるとされ問 18 にも登場しているEphrinB2 とその受容体であるEphB4 チ
ロシンキナーゼは動静脈の接続に関与しているとされ,動脈側の EphrinB2 発現領域と静脈側の
EphB4 発現領域間のみで接続が起こることで必要な部分のみで動静脈がつながったネットワークの
形成が可能になっていると言われる.
さて,本問題文の前文で触れられている通り,このような発
生時における血管形成・新生のメカニズムは成体での悪性腫瘍
発生時にも顔を出す16.前ページ末尾右図にまとめられている
通り,がんは無制限かつ自律的に増殖する細胞の集団であるか
ら,それが大きくなるためには多くの栄養を必要とし17,その
供給のために自身に伸びる血管ネットワークを必要としこれ
を新生させる.
そのためにがん組織自体が分泌し,特に作用を発揮している
と考えられる血管新生因子が上に挙げたうちの VEGF で,
これ
を抗体により阻害することでがんの増大を抑えようという発
想に基づいた薬剤が開発されている.これがベバシズマブ(商
品名アバスチン)で(左図参照),現在は進行性大腸癌に対し
フ ォ ルフ ォ ック ス
標準的化学療法(抗がん剤の頭文字を取ってFOLFOX とか
フ ォ ル フ ィ リ
FOLFIRIとか呼ばれるもの)に追加して投与する使用法に限り
承認されている18.
8.心臓による誘導が有力視されている臓器を1つ選べ.(ア.副腎,イ.肝臓,ウ.腎臓)
9.その臓器(8)は,
(ア.外胚葉,イ.中胚葉,ウ.内胚葉)由来である.
解答:8=イ
イ,9=ウ
ウ
解説:
右図は5ページに挙げた頭尾屈曲によって心臓が胸部
に降りてくる図に近いが,それら図に表れているように,
ダ イ ヤ フ ラ ム
心臓が横隔膜 diaphragm の原基である横中隔を伴って
内胚葉にぴったりと寄ってくる動きの様は,成体において
ちょうど心臓の下部にある臓器19,肝臓を誘導するという
事実を十分に想起させるものである.
近年の研究により,初期の肝臓発生には,少なくとも3
種類の中胚葉性組織・細胞からの誘導シグナルが必要であ
16 がん,すなわち悪性腫瘍全般のことを悪性新生物とも呼ぶが,改めて考えてみると含蓄の深いネーミングだと思う.
17 個体は普通,がんという固形組織が体内に存在することそのもので死亡するのではなく,がん組織の活動によってホメオスター
シスが破綻することで死亡するのである.
18 かつて睡眠薬として用いられ,それを使用した妊婦から四肢に重大な奇形を伴う子どもが生まれたことで薬害として大きな問題
を起こしたサリドマイドにも血管新生阻害作用があり,胎児への催奇性もこれによったのではないかと考えられている.現在のアバ
スチン認可状況では妊婦への使用は考えにくいが,おそらくこれを妊婦に投与したら同様に催奇性を発揮するであろう.
19 消化管は発生時に頭側から見て時計回りの回旋を起こすこともあって,肝臓は成体では正確には心臓の右下方に(正中よりも左
方に位置する心臓とはやや離れて)位置することになるが,一方で,CT などで横断面を見ると成体においてもなおいかに肝臓が心
臓の直下にあるか(一部横断面は共有する)がよくわかる.
10
るとされる.
左図はマウスにおける肝
臓発生のフローチャートで
あるが,左端のステージはマ
ウス固有として,転写因子や
シグナル分子はヒトでも多
くが共通するとされている
ものである.以下の文章はこ
の図と照らし合わせながら
追ってほしい.
最も初期の肝臓誘導は将
来分化する内胚葉20細胞中に
おける肝臓特異的なタンパ
クの(遺伝子)発現として検
出される.その代表的なものはα‐フェトプロテイン α-fetal protein, AFP とアルブミン albumin
であり,前ページ図中にも前腸における肝分化領域のマーカータンパクとして書き込まれている.
この肝誘導には,隣接する心臓中胚葉からの FGF(線維芽細胞増殖因子)刺激(上で述べた心臓
による肝誘導の実体)と,横中隔間充織(中胚葉性)からの BMP(骨形成タンパク)刺激が必須で
あることがわかっている.この誘導の後,肝内胚葉細胞は盛んに増殖して横中隔中へ出芽を始める.
この出芽の誘導には血管内皮細胞との相互作用が必要とされるが(なので,心臓,横中隔,血管内
皮細胞が肝誘導に関わる三つの中胚葉性組織・細胞である),これを担う具体的なシグナル分子は判
明していない.
出芽し肝細胞索を形成した内胚葉性細胞21は活発に増殖するが,この過程には横中隔で産生される
肝細胞増殖因子 hepatocyte growth factor, HGF と肝臓に移入した22造血細胞群の分泌するサイトカ
イン cytokine23が関与すると言われている24.
20 本問8・9合同解説は問8に重点を置いたものになっているが,8の答えが肝臓であることさえわかれば,消化管の付属腺であ
る肝臓が内胚葉由来であることは自然に推論される通りである.肝臓はホメオスタシスの維持に関わる物質代謝・内分泌機能を果た
す(内分泌腺 endocrine gland としての肝臓)と同時に,胆汁を産生し消化管へと分泌する外分泌腺 exocrine gland でもある.
21 この時点での内胚葉性細胞は後に代謝酵素遺伝子を発現して肝(実質)細胞 hepatocyte となる分化能とサイトケラチンを発現
して胆管上皮細胞 bile duct epithelial cell となる分化能の両方を維持しており,肝芽細胞 hepatoblast と称される.小児肝臓がん
の8割を占める肝芽腫(小児固形がんの第3位(1位は神経芽腫,2位は腎芽腫))ではこの肝芽細胞様の腫瘍細胞が見られ,この
分化段階の細胞ががん化したものと考えられている.肝誘導の分化マーカーであった AFP は本腫瘍の腫瘍マーカーでもある.
22 冷静に考えれば当たり前だが,問4,問 10 で触れられる肝造血においても,肝臓は後の骨髄同様に造血の場を提供するのであっ
・
・
て,肝細胞自身が造血という産生・分泌行為を行うわけではない(そもそも造血とは血球という一つ一つの細胞が分化・増殖するこ
との総体である).
23 細胞が産生・分泌するタンパクで,自身を含めた特定の細胞に情報伝達を行うものをいう.免疫,炎症に関係するものとして当
初研究が進んだため,今でもその分野(免疫学)で用いられることの多い用語だが,細胞周期の調節や分化・増殖など細胞の基本的
な営みに広く関与している.
24 以上,シグナル分子に焦点を当てて肝臓の発生を追ったが,このとき気を付けておかなくてはならないのは,誘導因子が作用す
るためには作用される側はその誘導因子に対する反応性を既に獲得していなくてはならないということである.シグナル分子をまと
めているとシグナル分子があれば分化が進むような錯覚を抱かされるが,例えば肝分化能(誘導シグナル応答性)を有しているが分
化はしていない内胚葉細胞ではアルブミン遺伝子エンハンサー(転写調節部位)上の HNF3 結合部位と GATA 因子結合部位は既に
HNF3 と GATA 因子によって占有されている.個々の名称はさておき,つまり,シグナルが来る前にシグナル受容に関わる転写因
子は既に活性化されているのである.こうした性質の事実をとことん追ったら「ニワトリが先か卵が先か」の議論になってしまい,
結論はおそらく今後も出難かろうが,しかし発生研究(とその理解)においては,シグナルを出す側と受ける側(上の表にも真ん中
に転写因子の項がある)の両方に焦点を当ててそれを進めることが欠かせない.
11
10.その臓器(8)が,新生児期以
降の「本業」に先立って,胎生期限
定的に行う業務とは?
解答解説:
これは繰り返す必要はなかろう
(問4解説で言及済み).肝臓は出
生後は造血を行わない25が,胎生期
のある時期には造血
造血を担い,
胎児性
造血
ヘモグロビンを含んだ赤血球を産
生するのであった.
11.中胚葉誘導に関与する液性因子
としてふさわしいもの2つを選べ.
ア.アクチビン イ.コーディン
ウ.ノーダル
エ.ノギン
オ.ソマトスタチン
12.初期胚において「神経系を作らせずに表皮を作ら
せようとする働き」を持つ液性因子を1つ選べ.
ア.Shh イ.BMP ウ.EGF
解答:11=ア
ア・ウ
ウ,12=イ
イ
解説:
・
初期発生における中胚葉の誘導,さらにその中胚葉に
・
・
よる誘導を扱った二題を合わせて解答解説する.
心臓の分化を扱った問3の解説の前半はつまりまず
は中胚葉の形成を追うものであった.そこで扱った通り,
原始線条とは中胚葉を作る動き(の構造としての表
れ)に他ならない.逆に,原始線条の位置を決めその形成を
開始させる分子が中胚葉誘導因子(少なくともその誘導経路
中の一部を占める分子)である.
げん こう はい しん ぶ
ヒト胚における原始線条は両生類における原 口 背 唇 部
dorsal lip of the blastopore に相当するから,アフリカツメ
ガエル Xenopus laevis で中胚葉がどう誘導され,また,そ
れに続くその中胚葉の腹側と背側(これが原口背唇部)の分
化がどう制御されるのかについての知見はヒト発生について
も時にほぼそのまま当てはまるような強力なヒントを与えて
25 出生後は造血の場は骨髄に限定される.また,成人になるとどの骨の内部でも造血が見られるわけではなく,ほとんどの骨では
骨髄は造血組織が脂肪組織に置き換わった黄色骨髄 yellow bone marrow となっており,新鮮な造血が見られる赤色骨髄 red bone
marrow が存在するのは胸骨・腸骨・大腿骨など一部の骨の内部に限られるのがむしろ正常である.骨髄が線維化してしまう骨髄線
維症 myelofibrosis, MF や急性骨髄性白血病 acute myeloid leukemia, AML など骨髄で正常な造血がなされない事態になるとま
るで胎生期を思い出したかのように肝臓や脾臓における造血が見られるようになる(髄外造血 extramedullary hematopoiesis).
12
くれる.前ページ左フローチャートにまとめられているが,これを言葉に起こしてその機構を追って
みよう.
ウィント
フ リ ズ ル ド
デ ィ ッ シ ュ ベ ル ド
卵の植物極側にはWntシグナル伝達系においてFrizzled受容体の下流にあるDishevelled, Dsh が
卵にもともと含まれる形(つまり母親の遺伝子由来)で単独で存在しているとされる26.受精を受け
て卵の皮質は回転し Dsh はそれに合わせて移動する.
さて,この Dsh は Wnt シグナル伝達系において,β‐カテニン β-catenin と APC の複合体を維
持しβ‐カテニンの核への移行を妨げているグリコーゲン合成酵素キナーゼ‐3β glycogen
synthase kinase-3β, GSK-3β を阻害しβ‐カテニンの核移行を促す働きをしている分子であるが,こ
こでも Dsh は同じ働きをするので,胚の Dsh が存在する側でのみβ‐カテニンが保たれる.
さて,アフリカツメガエルの卵では植物極側に Dsh 同様に母親に由来する mRNA が存在し,この
ベジティー
中に内胚葉決定因子 determinant of endoderm となる転写因子 vegT のものが含まれている.内胚
葉はこの vegT によって転写が活性化されるような遺伝子の発現で形成される.同時に,植物極側に
関してはこの内胚葉決定因子がより低い濃度で作用することで中胚葉が形成されているとも考えら
アクチビン Activin やノーダル
ノーダル
れる.一方,動物極側に関しては vegT の作用のもとに産生されたアクチビン
Nodal
27(に相当する物質)
,あるいは
Vg1 といった TGF-βスーパーファミリーに属する液性因子に
より中胚葉が誘導されることが分かっている.
β‐カテニンは vegT と相乗的に働いてアフリカツメガエルにおける Nodal ホモログ(他種の
Nodal に相当する遺伝子)である Xenopus Nodal-related (Xnr ) の遺伝子の転写をより活性化するの
で,β‐カテニンが存在する側ほど Xnr の濃度が大きくなることがわかっている.
また,核に移行したβ‐カテニンが Tcf-3 タンパクと複合体を形成して独自に転写を活性化する遺
シャーモア
伝子があり,その代表的なものはSiamois である.Siamois は TGF-βシグナル伝達系の産物として生
じた転写因子と協働して原口背唇部のオーガナイザー活
性(わかりやすく言えば,いずれ脊索となって外胚葉を
背側化(神経化)する能力)に欠かせないタンパク
グ ー ス コ イ ド
Goosecoid の 遺伝子 の転写 を活性化 する. 先の Xnr
(Nodal) の濃度勾配とこのオーガナイザー特異的タンパ
クの発現により中胚葉自身の腹側と背側領域が分化する.
それではオーガナイザー特異的タンパクの分子機能の
本質は何であろうか.
この時期,当初のβ‐カテニンの勾配によって背側化されている(核の中の十分に高濃度なβ‐カ
テニンにより転写が調節されている)部分以外の領域では BMPBMP-4(これも TGF-βスーパーファミリ
ー),加えてアフリカツメガエルの場合は Xwnt-8 が万遍なく発現している.BMP は FGF とともに
働いて中胚葉自身を腹側化 ventralizing し,外胚葉においてはこれを腹側外胚葉化=表皮化し,内
胚葉においてはこれを腹側内胚葉化28する.
26 少なくともこの段階で既に Wnt の下流にあるという確実な証拠は出ていないはずである.
27 アクチビンとノーダルは同じ TGF-βスーパーファミリーに属するだけあって,その下流の細胞内シグナル伝達系も極めてよく似
ているが,しかしそれらは同じではない.また,当然ながらアクチビンとノーダルは別の物質であって各生物種で二者択一などとい
うことはなく,同時に産生され違った濃度で混合されることにより何か相互作用を果たしていることも考えられる物質同士である.
28 この作用を受けていない背側の内胚葉では,ある種のシグナルへの感受性が維持されないので,例えば問8で扱った肝誘導シグ
ナルには応答しなくなるといったことが起こる.逆に内胚葉の腹側化とはそうしたその部位の将来にとって適切な各種感受性の維持
13
コ ー デ ィ ン
一方,背側化した中胚葉では先に登場した Goosecoid の制御のもとに発現するChordinを始め,
ノ
ギ
ン
フ ォ リ ス タ チ ン
NogginやFollistatinといったオーガナイザー特異的タンパクが発現するわけだが,実はこれらは全て
BMP と結合してその作用を不活化するタンパクである.オーガナイザーがいずれ脊索に分化して果
たす最大の機能は神経溝→神経管の形成であるが,それに当たっては基本形成させないように万遍な
く抑制をかけておき,その阻害物質が十分にある領域でだけ形成が進むという形成方針が採られてい
ることになる29.
13.「因子(11~12)」のいずれもが TGF-βスーパーファミリーに属するが,やはりその一員である
GDNF という因子がその受容体 Ret との結合を介して行う重要な発生現象を2つ挙げよ.
解答解説:
GDNF は Glial-Derived Neurotrophic Factor(グリア由来神経栄養因子)の略称である.正確に
レット
は,この GDNF が標的細胞の GFRα1 と結合した上で,この複合体が受容体チロシンキナーゼRetと
結合することで細胞内にシグナルが伝達されるので,GDNF が Ret に受容されるというのは広義の
言い方になるが,ここでは問題文のその表現を踏襲する.
この GDNF-Ret が関与する発生現象としてどの教科書にも載っているのは腎臓発生における尿管
芽の伸長現象である.
腎形成間葉 metanephrogenic mesenchyme は GDNF を分泌し,一方,尿管芽ではその受容体 Ret
が発現しており,間葉からの GDNF を受けてその方向へと伸長していく.間葉内に入ってからも
GDNF を受容した方へ受容した方へと枝を伸ばしていくことで,腎臓内に放射状にびっしりと詰まっ
た尿管(尿管芽に由来するのは遠位尿細管 distal tubule より先(膀胱側)の集合管 collecting duct
からであるが)の分枝構造が出来上がる(以上,下図参照のこと).
実は尿管芽
は間葉に導 か
れてそちら に
枝を伸ばす ば
かりではな く
(つまり, 誘
導されるば か
りでなく),伸ばした先で間葉に働きかけてこれを凝集させた後,上皮へと転換させて腎小体から遠
位尿細管にかけてのネフロン管状構造を形成させる(ので,尿管芽は誘導する側でもある).これは
問 16(本資料には含まれていない)で問われている間充織‐上皮転換 Mesenchymal to Epithelial
transition, MET の典型である30.
に他ならない.
29 神経化させないのをデフォルトにするというその方針はよく考えれば納得がいくもので,それは個体の行動を制御し,環境中で
の個体生存にとって決定的な役割を果たす神経系が無造作に形成されれば,たとえ二次胚が形成されても発生実験においては致死的
でないとしても,その生物にとって自然な意味では致死的であるからである.
30 Ret の常時活性化型への変異は代表的には甲状腺髄様癌をもたらす多発性内分泌腫瘍症 multiple endocrine neoplasia, MEN を
引き起こすので,Ret は原がん遺伝子としてもよく知られている.ところで,間葉において尿管芽の先への凝集能を保っているのは
ジンクフィンガー型転写因子 WT1 である.この WT は腎臓の幹細胞が増殖し続ける腎芽腫,すなわちウィルムス腫瘍 Wilm’s tumor
の頭文字に他ならない.WT1 は自身と同じく間葉の同じくそれに欠かせないが MET によるネフロン形成の際には発現が消失する必
要のある pax2 の抑制因子でもあり,WT1 自身の変異というよりはこの抑制能の喪失が腎芽腫の発生に効いていると言われている.
発生というのは一歩間違えれば無限の自律的増殖,すなわちがんへの入り口であり,事実,発生で効いている遺伝子の変異や“悪用”
14
その他に GDNF-Ret が関わる発生現象を考えると,最近研究が進んだ重要なものとして思い浮か
ぶものが筆者には二つあった.
一つは腸管への神経節細
胞の分布による腸管神経叢
の形成である(正確には,
ここで GDNF が果たすのは
GDNF という生存シグナル
による神経節細胞の維持
(アポトーシスの回避)で
ある).この発生における
GDNF の機能はヒルシュプ
ル ン グ 病 Hirschsprung’s
disease のモデルマウス作
製の取り組みの中で明らか
にされてきたものである.
ヒルシュプルング病は多
くの場合大腸下部に神経欠損が起こり,腸管の神経ネットワークは消化した内容物を肛門側へと送る
蠕動運動を制御しているから,神経欠損によってその部位より先には内容物がスムーズに移動できな
くなり,その手前で腸が肥大を起こす疾患である.
Ret をノックアウトすると,確かに腸管壁内神経節は消失するが,それが胃以降の全腸管に及ぶこ
と,また,腎臓(前述)や運動ニューロン(後述)の発生にも異常が出る点でヒルシュプルング病の
病態とは異なっていた.昨年発表された研究(左上写真の出所)で,前ページ末尾左写真の真ん中の
行にあるように Ret の発現が正常量のちょうど 30%になるようなマウスを作製したところ,腎臓や
運動ニューロンにはほぼ影響がないのに大腸において神経の網が見られなくなる(野生型+/+では神
経のマーカーであるアセチルコリンエステラーゼ AchE に対し免疫染色すると縞々に染まっている)
.
ヒルシュプルング病はかつては腸の神経節細胞となる神経堤細胞 neural crest cell の移動に支障
が出たためであるとのみ考えられてきたが,確かに Ret の“70%ノックアウトマウス”でもそのよう
な移動遅延も観察されるそうだけれども,前出写真のような観察結果は,生存シグナルが一般に濃度
依存的(受容体の場合,その数依存的)なこともあって,Ret がここでは発生そのものもさることな
がら発生した構造の維持(という広義の発生)に関わっている―逆にそれがないと定位置に着いた神
経節細胞がアポトーシスしてしまって神経ネットワークができない,結果,要するに発生が見られな
い―ことを示唆している.
GDNF-Ret が関わる発生現象のもう一つは,上の研究結果でも比較対象として挙げられていたけれ
ども,運動ニューロンの形成(これも実は生存の維持)である.
GDNF や Ret をノックアウトしたマウスは,腎臓や消化管の異常で生後すぐに死んでしまうもの
のひとまず胎生致死ではないけれども,そのマウスでは運動ニューロンが著しく欠損・減少すること
が知られていた.このことから骨格筋のうち収縮・伸展により骨などの運動器を実際に動かす錐外筋
ががんでは多く見られる.
15
に分布するα運動ニューロンが次々に細胞死してしまう(結果,全身の筋力が最後は呼吸すら不可能
なところまで著しく低下してしまう)疾患,筋委縮性側索硬化症 amyotrophic lateral sclerosis, ALS
が GDNF シグナル不全によるのではないかとの仮説が立てられていた.
生後すぐに死んでしまうために生後の発達段階を含めて GDNF-Ret が運動ニューロンの形成と維
持にどう関わるかは謎であったが,運動ニューロンでのみ Ret をノックアウトできるコンディショナ
ル ノ ッ ク ア ウ ト マ ウ ス 31 が 作 製 さ れ , そ の 分 析 結 果 が 昨 年 発 表 さ れ た ( The Journal of
Neuroscience ’08 年 2 月号,上の腸管神経節の研究を行ったのと同一の理研 CDB 榎本秀樹チームに
よる)
.それによれば,GDNF や Ret が関与しているのは同じ骨格筋でも筋の長さを感知し調整する
筋紡錘を構成する錐内筋に分布しているγ運動ニューロンの,生後数日までしか依存されない発生期
限定的な生存シグナル伝達系としてであった.発生中の錘内筋線維は GDNF を高濃度に発現してお
り,これによりその受容体 Ret を有するγ運動ニューロンは錘内筋へと接続し,かつその状態での生
存を維持される.生後数日経てば GDNF がなくともγ運動ニューロンは筋線維への投射を維持でき
るため,この生存シグナルへの依存性は発生時に限られたものと考えられている.
この発表を信じるならば,GDNF シグナル伝達系は生理的にはγ運動ニューロンの維持により効い
ていることになり,α運動ニューロンに特異的に症状の出る ALS の病態がそのシグナル不全による
とは素直には考えにくいことになる.
14.消化管形成に関連して「上皮‐間質」相互作用(または「上皮‐間充織・間葉」相互作用)につ
いて,具体的な例を挙げて説明せよ.
解答解説:
本問以降,問 16 までを通して,上皮と
間充織(間葉,間質とも)という概念が
対比的に扱われる.まず,それら概念の
定義を押さえよう.
上 皮 epithelium と は , 基 底 膜
basement membrane の上にシート状に並んだ細胞から成る組織(またはそれを構成している細胞自
身のこと)であり,各細胞は結合装置 junction によって隣の細胞と結合しており,基底膜に接して
いる基底面とその反対側の(多くが液の充満した内腔に接することが多い)頂端面から成る明瞭な極
性 apical-basal polarity を示す.
間充織 mesenchyme〔間葉,間質とも〕とは,
「疎な細胞外基質 extracellular matrix の中に星状
の細胞が散在している組織,あるいはその細胞」を指す用語であり,上皮同様にあくまでも組織・細
胞の形態に根差して定義された概念である.線維芽細胞,脂肪組織,平滑筋,骨並びに骨格筋といっ
た中胚葉由来とすぐに意識される支持・結合組織へと分化しこれらを構成する32ことや,その中胚葉
が上胚盤葉(原始外胚葉,エピブラスト)から問 15(本資料には含まれず)のテーマでもある上皮
31 ノックアウトしたい遺伝子を loxP と呼ばれる配列で挟んでおき,同時に,運動ニューロン特異的に発現するプロモーター(転写
開始領域)の下流に loxP 配列に挟まれた領域を切り出す酵素 Cre リコンビナーゼの遺伝子を置く.このような遺伝子を有する個体
では,運動ニューロンでのみ Cre リコンビナーゼが発現して loxP に挟まれた遺伝子(ここでは GDNF や Ret)を切り出し,これら
がノックアウトされる.発現時期・場所が特異的なプロモーターが同定されていれば時期・場所特異的に遺伝子をノックアウトでき
るこの技術をコンディショナルノックアウト法と呼ぶ.
32 もっとも,分化した後はそれらを“間葉の”
“間充織の”とは形容しない.
16
‐間充織転換 epithelial to mesenchymal transition, EMT により間充織として生じることもあって,
間充織と結合組織,あるいは中胚葉が同義語と考える誤解が非常によく見られる33が,これらは別概
念である.定義に返れば外胚葉性の間充織があって何の問題もないし34,現に外胚葉性の神経堤は間
充織となって体の各所に移動し,多くが神経に絡んだ各構造に分化する35.
話は変わり,消化管の構造について考えてみよう.
消化管は当初,内腔に面した上皮(内胚葉由来)と,それを取り囲む間充織という比較的単純な構
造をしている.発生が進むと,上皮は消化管各領域ごとの機能を担うために特徴的な形態をとり,ま
た特徴的な機能タンパク(酵素)を分泌するように高度に分化する.一方,その周りで間充織は同心
円状に分化し,まず上皮のすぐ外側を吸収した栄養を運ぶための血管やリンパ管に富んだ粘膜固有層
が取り巻き,その外側に順に粘膜筋板,粘膜下層,そして蠕動運動を担う平滑筋が分化・発達する.
そしてその平滑筋の間に神経堤由来の腸管神経節細胞が入り込み,腸管神経叢を形成して蠕動運動の
調節に当たる.
このようにして消化管が完成するわけであるが,上皮と間充織がぴったりと隣り合いながら,規則
的な領域分化(例えば,ここは胃,ここは小腸というような)が図られ,かつその領域内で上に記し
たようなこれまた規則的な層構造の形成が進む現象を見ると,その上皮と間充織の間で相互に分化を
調節し合うメカニズムの存在がいかにも想起される.そうして実際確かめてみると相互作用を担うシ
グナル分子が次々と検出されたこと
もあって,消化管形成研究はそれ自体
としての意義だけでなく,上皮と間充
織の間の相互作用を検証するモデル
ケースとしての意義を有している(こ
れで,冒頭の上皮・間充織の定義の話
と消化管の構造の話がつながった!)36.
上皮と間充織との間にいかなる相
互作用があるかを知るには,原始的で
はあるが各部位の上皮と間充織との
間で再結合実験を行うのが第一歩と
なる.
左はその再結合実験の結果を示す
33 平成 19 年度の特別講義において奈良先端大の高橋淑子教授がこのことに関し「この仕事で給料をもらっている人の中にすらこの
誤解をしている人がいる」と嘆いていかれたが,今年(平成 20 年度)も講義に来てくださったようだけれどもどうだっただろうか.
34 ついでに上皮と間充織の転換についても簡単に付言しておけば,それは上の定義から明らかな通り,細胞の形態が変化し,それ
により運動性能が変化する(上皮は著しく低く,間充織は比較的高い)ということであるが,逆に少なくとも転換と言っただけでは
それ以上のことは含意しない.むしろ,細胞のその他の性質は基本的に変わらないからこそ例えば次の神経堤細胞は行き着いた先で
神経組織を形成するし,この上皮と間充織の転換は成体においてはがん転移においてその“意義”―上皮性であったものが運動能を
獲得し,別の場所においてまた上皮性に増殖することができる―を発揮するものであるが,この場合もがん細胞自身の性質は転移先
においてもその由来する組織特有のものが多くは維持されるのが普通である.
35 後根神経節 dorsal root ganglion,幹神経節 sympathetic trunk ganglion,腸管神経節 Enteric ganglia,副腎髄質 adrenal
medulla のクロム親和性細胞 pheochromocyte といった中枢≒正中から離れた神経絡みの構造はこぞってこの神経堤由来である.
36 有している! などと筆者が自分で考えたかのように(笑)書いているが,そういうアイデアのもとに研究を進めておられる方が
数多くおられ,昨(平成 19)年度より特別講義に来てくださっている首都大学東京の福田公子准教授はお若いがそうした研究を進
めておられる方のうち代表的なお一人である.本問は明らかにその特別講義を意識した出題である.本年度講義で展開されたであろ
う最新の成果報告を補いながら以下を読んでほしい.
17
図である.モデル生物としてニワトリの6日胚を用いているため,ほぼヒトの胃に当たる化学的消化
さ のう
の役割を果たす前胃と,平滑筋による機械的消化を果たす砂嚢(いわゆる砂肝)という二つの胃が見
られている.
前ページ左図中 (a) に示されている通り,前胃と砂嚢で上皮を交換すると,間充織の由来に従って
上皮は分化する.このことからはひとまず間充織が上皮を誘導していると推測できる.一方,(b) に
示されている通り,前胃と小腸で上皮を交換すると上皮が間充織からの影響を受けずに(?),元の
性質のまま分化する.
この結果を得れば,まずは上皮に対する間充織の作用の存在が推測された胃上皮の分化についてそ
の(液性)因子を同定したくなる37.
上皮と,二つの胃に限らず体のあちこちの組織の間充織と
をフィルター越しに再結合させる実験から,この液性因子は
前胃と肺の間充織で発現している BMP-2 らしきことが明ら
かとなった.左に示すのはそれを確かめる目的で行われた実
験である.
左図 (a) は実験手法を示した模式図である.液性因子を過
剰発現させ(た際の変化を見てその因子の機能を知)るため
にその遺伝子をウイルスベクターを使って細胞内に送り込む
わけだが,ここで間充織にはウイルス感受性(そのウイルス
に感染する)卵のものを,上皮にはウイルス抵抗性(そのウ
イルスに感染しない,すなわち遺伝子は送り込まれない)卵
のものを使用することで,上皮間充織再結合組織において間
充織部分でのみ実験者が問題としている因子を過剰発現させ
ることができる.その結果はその下の (b) に示されている.
対照,すなわち外来遺伝子を加えない状態で前胃間充織と砂嚢上皮を再結合させた場合にも腺腔構
造が見られ,消化酵素ペプシンの前駆物質ペプシノーゲンがここでは紫色に免疫染色されている(上
段)
.これに対し BMP-2 遺伝子を導入することでこれを過剰発現させるとより盛んな腺形成が見られ,
ペプシノーゲンの量も上昇している(中段).一方,BMP-2 と同時にその阻害物質である Noggin38を
同時に強制発現させると,腺腔構造もペプシノーゲン発現も全く見られなくなっている(下段).
以上の事実は前胃間充織の分泌する前胃上皮誘導因子が BMP-2 であることを支持する内容となっ
ている.
ここで,目線を少し変えて,ではなぜこのように前胃間充織が誘導因子を出しているにもかかわら
ず,小腸上皮は前胃上皮に分化することがなかったのかを考えてみよう.
37 ここで,実験方針に対し「…ン?」と思った人,鋭い.図2(b)で小腸間充織上にある前胃上皮は間充織から前胃上皮に分化する
シグナルを受けるとは考えにくいのに胃腺分化を見せていることから,二つの胃における間充織の上皮に対する作用で最も機能的に
重要と思われ注目すべきは砂嚢間充織による前胃上皮分化に対する抑制である.一方で,そんなことは研究者であれば誰でもわかっ
ており実験を進めているはずだが,少なくとも筆者はこの作用を担う因子が明らかになったという話を知らない(もちろん筆者が浦
島太郎なだけかも)
.
38 問 12 の解説中でオーガナイザーの維持因子―と言うか,言わば BMP からの守備因子―として登場していた物質である.ここで
は本来この時期・場所で生理活性を持つ物質としてではなく,BMP と結合してそれを不活化する化学的性質に着目し BMP の阻害
剤として用いているものである(とか言って,実は Noggin がここで効いていましたということが絶対ないとは言えないが―発生生
物学では昨日の“ホント”が今日のウソである).
18
結論は問8で心臓による肝臓の誘導を扱った際に注 24 で強調しておいたことで,小腸領域,つま
り消化管内胚葉としては比較的後方の領域ではその時点で既にそのあるシグナルに応答する感受性
が失われているからである.
その感受性の消失に直接関与しているという証拠はないが,砂嚢より後ろの後腸 hindgut 領域に
のみ 10 体節期(孵卵 35 時間)に現れ始めその発現が後腸領域全体に広がって,以降,生体に至るま
でこの領域のみで発現が維持される後腸(予定領域)マーカー遺伝子 CdxA が移植によっても維持さ
イン
サイトゥ
れるかどうかをin situハイブリダイゼーション(その遺伝子の mRNA に特異的に結合するプローブ
を用いて発現している部分を“染める”手法,以下 in situ と略)により確かめた実験が存在する.
この実験では同時に,砂嚢/小腸境界部よ
り前方の内胚葉(前腸領域)にのみ4体節期
(孵卵 27 時間)に現れ始め,その発現が前
腸全体に広がって後期胚でもそれが維持さ
れている前腸(予定領域)マーカー遺伝子
Sox2
39の
in situ も同一個体の別切片を用い
て行われている.
その結果を示しているのが右写真である.
その左半分である (a) は,神経胚期に後方
内胚葉(オレンジ色色素 DiI で染色されてい
る)を前方へ移植した個体を 19 体節期まで
培養した上で切片化し観察した結果である.
DiI が光っている部位,つまり元後方内胚葉
のある位置で Sox2 は染まっているが,CdxA
は染まらない.つまり,移植された先の運命
に合わせて移植片は前腸化したのである.
一方,写真の右半分 (b) は4体節期に同様の移植を行った後の観察結果を示している.オレンジ色
の部位,すなわち移植された元後方内胚葉の部位で,今度は前腸マーカーSox2 が染まらない代わり
に後腸マーカーCdxA が染まっている.つまり,この時期になると移植片は既に領域化されており,
移植によっても組織の性質は変わらない40ことを示している.
こうした内胚葉の領域化には,当初着目していた消化管間充織による誘導よりも時期が早くそして
マクロな41,中胚葉による内胚葉の誘導が効いているとも考えられている.マウス胚とニワトリ胚で
39 この Sox2 は iPS 細胞(本資料には含まれないが問 25 のテーマとされている)の作製に使用されたことで(当初用いられた4遺
伝子のうちの1つ)すっかり有名になってしまった.Sox2 は Sox(SRY-related HMG box)遺伝子ファミリーに属する,DNA 結合
能を持つ HMG(High Mobility Group)ドメインと転写活性化ドメインから成る転写因子である.(iPS 細胞が当初樹立された)マ
ウスにおけるその発現は生殖細胞をはじめ,初期胚における内部細胞塊およびエピブラスト,神経系の幹細胞や前駆細胞などで見ら
イン
ビ ト ロ
れるため,マウスにおいては本遺伝子の細胞の未分化性への関与がそれ以前から指摘されていた.加えてin vitroな(生体外での)
解析により,Sox2 はマウス ES 細胞でその発現が厳密に制御されている未分化細胞特異的転写因子である Oct 3/4(これも上記4遺
イン
ビ ボ
伝子のうちの1つ)と協調して様々な下流遺伝子の発現を制御することが確認されていたため,そのin vivoでの機能の解析が待た
れていたところであったから,iPS 細胞を結果的に生み出すことになる操作はそれに応える実験としての側面も持っていた―結果的
にそれ以上のインパクトを持ったわけであるが―.
40 例えば,一番初めの実験で小腸上皮は前胃間充織と再結合されてもやはり絨毛を形成しスクラーゼ(小腸に特徴的な糖分解酵素)
を分泌したのであった.
41 しかし一方で,内胚葉性上皮が中胚葉由来間充織による誘導を受けるかどうかの内胚葉の領域化もまた中胚葉が担っているとい
19
は内胚葉の後方化(後腸予定領域化)には裏打ちする中胚葉が分泌する FGF が効いているとされる
一方,BMP 阻害因子 Chordin が内胚葉の前方化(前腸予定領域化)に必要だとする報告もある(ほ
らほら…←注 38 末尾を意識した独り言)
.
以上,実験考察的に上皮間充織相互作用の同定の過程を紹介してきたが,以下はいくらか天下り的
な事実の整理とさせてもらおう42.
以下で整理しておきたいのは,右図にまとめられている前胃上
皮が胃腺を分化させる際の上皮因子のふるまい(一部,上皮間充
織相互作用の存在も示唆されている)についてである.本問で扱
った発生現象の中ではより時期が遅くそしてミクロなところを
最後に扱うことになった.
間充織からの作用もあって前胃上皮は胃腺を形成するが,それ
は具体的には前胃上皮が腺上皮 glandular epithelium と内腔に
面した内腔上皮 luminar epithelium とに分化することに他な
らない.この時,各上皮で遺伝子の発現パターンも変わる.
ソニック
ヘ ッ ジ ホ ッ グ
この発現パターンの変化に大元で効いているのは上皮分泌因子Sonic hedgehog, Shh であること
がわかってきた.当初,上皮に一様に発現していた Shh は腺形成が始まると将来腺となる部分での
発現が弱まる43(右上図の水色のグラデーション
は Shh の濃度勾配を表しており,水色が濃い部分
ほど濃度が高い).
Shh は Sox2 遺伝子の発現を上
げ,GATA 転写因子 GATA5(ある
いは 6 )遺伝子の発現を抑制する
ことで腺形成を阻害し,また,ペ
プシノーゲン発現44を抑える.つ
まり,Shh の濃度の高い部位が内
腔上皮に分化すると言える(上皮
全体に Shh を強制発現させること
で 確 か め ら れ た 事 実 ).
これに対し,Shh 阻害性植物ア
ルカロイド45であるシクロパミン
う点で誘導の構図は時期を通して似ているとも言える.
42 上のような勉強法を全てについてとったらきりがないからであるが,一方であらゆる科学的事実にはそれを明らかにした実験系
であり手技があることを意識するようにしたい.
43 本当に Shh が大元であればこの言い方は不正確で,下で見るように Shh が弱まったからその部位が将来腺になったというのが正
しくなるが,上位シグナルなき本当の大元など多くの場合わかったものではないこともあり,観察事実の記述としてはこういう差し
当たってわかっている決定メカニズムの逆の書き方をされていることは頻繁にある.
44 ペプシノーゲン遺伝子の転写調節領域には Sox と結合して発現を負に制御する Sox 結合配列1つと,GATA と結合して発現を正
に制御する GATA 結合配列が5つ存在している.
45 アルカロイドとは窒素原子を含み,塩基性(アルカリ性)を示す天然由来の有機化合物の総称である.もっとも,分子中に窒素
原子を含めばそこがプロトンの受け手となりすなわち塩基性を示すので,タンパク・ペプチド・その元となるアミノ酸,DNA・RNA
などの核酸を除いて多くの窒素有機化合物がアルカロイドに分類されることになる.その多くが特に神経伝達物質に類似しており,
その作用をかく乱するので生体に対して毒性(時に薬理活性)を示す.
20
を加えて培養する実験から明らかになったように,
Shh の濃度が低いと Sox2 遺伝子の発現は下がり,
GATA5 遺伝子の発現は上がって腺形成・ペプシノーゲン発現は多くなる.すなわち,Shh の濃度の
低い部位が腺上皮に分化すると言うことができる.
ではここでその重要シグナル Shh の働き方,すなわち細胞内への伝わり方を見ておこう.前ペー
ジ末尾左図を見ながら以下の流れを追ってほしい.
パ ッ チ ト
Shh に限らず hedgehog シグナルに共通する受容体はPatchedである.この Patched は hedgehog
シグナルのない時,プロテインキナーゼ-A protein kinase A, PKA と Slimb の阻害タンパクである
ス ム
ー ス ン
ド
Smoothenedを阻害している(阻害の阻害,つまり Patched は平時は PKA の活性を守っている).PKA
と Slimb は協働して微小管 microtubule に留め置かれている Ci タンパクをリン酸化して分解するこ
とで,核移行型のリプレッサー(転写抑制因子)を産生する.これによりある遺伝子群の転写が抑え
られることになる.
ここに hedgehog シグナルがやってくると Patched の立体構造が変化して Smoothened による
PKA と Slimb に対する抑制活性が発揮される.すると,Ci タンパクは分解される前に微小管から自
由になり,今度はアクチベーター(転写促進因子)としてまた別の遺伝子群の転写を促進する.
以上の仕組みにより Shh を受け取った(あるいは上のように受け取らなかった)細胞の性質は変
化することになる.
さて,では最後になぜ以上の話が上皮間充織相互作用の話と言えるのかの種明かしであるが,実は
Shh の受容体である Patched を上皮細胞自体は発現していないのである.Patched は間充織のみで
発現しているから,以上の Shh による Sox,GATA 遺伝子の調節が上皮のさらに細かな分化に効いて
いるという説明が本当だとすれば,それは間充織を間に挟んだものでしかあり得ないわけである.も
っとも,このようにして上皮‐間充織相互作用の存在自体は論理的に確認されているものの,その実
・
・
。
際の仕組み・担い手はまだ十分明らかになっていない(はずな)のであるが。。
<引用情報>
本資料においては,以下の書籍より多くの図を引用した.図には以下に示す略号により出典を記した.
① Moore&Persaud “The Diveloping Human 8th edition” (SAUNDERS ELSEVIER, 2008):Moore
② Gilbert “Developmental Biology 6th edition” (SINAUER ASSOCIATES, 2000):Gilbert
③ Kumar et al. “Robbins & Cotran Pathologic Basis of Disease 7th edition” (SAUNDERS ELSEVIER, 2004):Robbins
④ Alberts et al. “Molecular Biology of The Cell 4th edition” (Garland Science, 2002):MBoC
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