井戸委員長の カンボジアの 子ども支援活動

カンボジアの子ども支援活動
『カンボジア』
という国を知っ
ていますか?私自身、カンボジ
ア で 思 い 浮 か ぶ こ と と 言 え ば、
インドシナ半島でのおぼろげな
位置、そしてアンコールワット
遺跡、ポル・ポト政権、難民と
いう単語ぐらいです。そんな私
行われました。この事業は、N
GOエファジャパンが支援して
いる「カンボジア国立幼稚園教
員養成学校(PSTTC)
」と「カ
ンボジア子どもの家(ACC)
」
や現地NGO(SCADP)と
共同で支援している「スラムの
寺子屋学校」などを訪問し、子
どもたちへの支援活動と交流を
図ることを目的とするものです。
それではCAMBODIAの5
日間を報告したいと思います。
の赤ちゃんを背負った7~8歳
の少女が車に向かって次から次
へと手を出し、物乞いしている
姿で、そしてこのような光景は
その後も何度も見ることとなり
ました。カンボジアの現状には、
すさまじい歴史とそれに伴う教
育事情があります。
カンボジアは、1953年に
フ ラ ン ス の 植 民 地 か ら 独 立 し、
その後1970年にクーデター
は出生届が出ていない子どもが
多いからである)約 人が通
園する幼稚園で、自治労和歌山
県本部はそこに通うスラムの子
どもたち 人に奨学金を提供し、
ア 」( こ ん に ち は ) と 両 手 を 合
わせる園児たちの笑顔がとても
印象的でした。
教育支援を行っています。私た
ち は ソ リ ダ 園 長 先 生 と 面 会 し、
その後園児たちに制服を贈呈し
ました。
「チョム・リアプ・スゥ
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人の訓練生に奨学金を提供し、
教 育 支 援を行っています。そこ
そ の 後、P S T T C を 訪 問。
自治労和歌山県本部はそこでも
遠足先での交流風景
が起こり内戦状態となりました。
1975年ポル・ポト政権の誕
生により内戦は終結しましたが、
そのポル・ポトの恐怖政治によ
り100万人とも200万人と
も言われる大虐殺が行われまし
た。1979年ヘン・サムリン
政権誕生によりポル・ポトは追
われましたがその後も内戦状態
は続き、1993年UNTAC
が総選挙を実施、現在に至って
います。こうした長年の内戦と
ポル・ポト政権による主に知識
層の虐殺の歴史が、今もカンボ
ジアの貧困と低い教育レベルに
繋がっています。
私たちが最初に訪問しました
「カンボジア国立幼稚園教員養
成学校
(PSTTC)
」と
「カン
ボジア子どもの家
(ACC)
」
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では訓練生といっしょに約1時間、
幼稚園で使う教材作りをしまし
た。訓練生は ~ 歳 ぐらいで
地方の貧しい家庭の出身者が多
く、両 親が麻 薬で服 役している
子 もいるという話でしたが、そ
んなことなど微 塵とも感じさせ
ない笑顔で私たちを迎えてくれ
ました。訓練生といっしょに食べ
た昼食は、日 本語とカンボジア
語のやり取りがはずみ、大変 楽
しい食 事でした。ちなみに私た
ちが頂いた料理名は『ムチュー』
と教えてくれました。
プノンペン市内のスラム
次に私たちは、プノンペン市
内のスラムを訪問しました。こ
のスラムでは、ACCの職員が
定期的に野外教室を開いてお
り、その日も子どもたちに絵本
の読み聞かせをやっており、そ
の後ACCに通っている子ども
たちの家庭を訪問し、お母さん
からスラムの生活について話を
聞きました。その家族はお父さ
ん、 お 母 さ ん、 子 ど も 2 人 の
4人家族で、お父さんは仕事に
ある日は日雇い労働、ない日は
バイクタクシーをやり、お母さ
んはスラム内で洗濯物を集めて
洗っています。1日2~4ドル
の収入で生活しているとのこと
でした。スラムの中は、幅1メー
トルほどの通路が迷路のように
走り、1間か2間の家が張り付
いており、いったい何軒あって、
何人住んでいるのか見当さえつ
かない様子です。しかし、それ
絵本を楽しむ子ども達
カンボジアの歴史と教育事情
プノンペン市内で最初に見か
けたのは、交通量の激しい道路
の真ん中に立っている少女でし
ACCは、3歳から5歳ぐらい
の子ども(子どもたちの年齢が
はっきりしないのは、スラムに
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がカンボジアの子ども支援活動
に参加したのは、カンボジアの
子どもたちといっしょに遊んで
みようという単純な思いからで、
その思いはカンボジアの子ども
たちは「わた菓子を喜んでくれ
るだろうか」と膨らんでいきま
した。
た。横断途中で車が動き出した
のか思っていると、1歳ぐらい
周年記念事業として昨
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子ども達とポップコーンを作る井戸委員長
私が参加したカンボジアの子
ども支援活動は、自治労和歌山
県本部
年度から実施されているもので、
月 日から 日までの日程で
50
12
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井戸委員長の
カンボジアの
子ども支援活動
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にも増して戸惑いを感じるのは、
いったんスラムを出ると、隣に
はレンガ造りの高級住宅が建っ
ているという異様とも思える景
色でした。
カンボジアは、富と貧困が共
存する国であることを知りました。
トゥール・スレンとキリングフィールド
ポル・ポトの恐怖政治の証と
場と化したのでした。現在、博
物館として公開されていますが、
そこには拷問に使用された道具
には約2万人が収容され、その
うち生存者はわずか6人しかな
かったというところです。建物
は高等学校の校舎を刑務所に造
り替えたもので、教室が拷問の
の恐怖を体感しました。
い 空 気 を 感 じ ま し た。 こ う し
たことが行われたのが 数年前、
ちょうど私が組合役員を始めた
頃のことで、はじめて独裁政治
かしひとつ間違えれば殺戮の場
となります。これらを目の当た
りにすると、言いようのない重
レ ン は 学 校 に し か 見 え な い し、
キリングフィールドは平原の中
の木立ちにしか見えません。し
して後世に伝えられるものです。
トゥール・スレンは、プノン
ペン市内にある刑務所で、そこ
や収容され死んでいった多くの
人の写真が展示されています。
キリングフィールドは、プノ
ンペン市内から約1時間離れた
スラム内の寺子屋学校
この寺子屋学校は、プノンペ
ン郊外の田園地帯にあるスラム
の中にあり、スラムの子ども約
人の小学生ぐらいの生徒が学
んでいます。このスラムは、市
内のスラムに比べ一層劣悪な環
境にあり、周辺にはゴミが散乱
し、水路の上のヤシの葉で覆わ
れた小屋で生活している人もい
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る環境です。
私たちは、まず寺子屋学校の
近くの広場で子どもたちと一緒
に 遊 び を し ま し た。( こ の 遊 び
は、まず全員が手をつなぎひと
つの円をつくる。そして鬼にな
る2人を決め、その2人が円の
どこかを切る。切られた右側の
2人が右回りに、切った2人が
左回りに円を1周し、どちらが
早くもとの場所に着くかを競う
遊びで、負けた2人が次の鬼と
なる。) その後教室に戻り、バ
ルーンアート、折り紙、だるま
落としなどでいっしょに遊びま
した。バルーンアートは大人気
でした。
ここの子どもたちは考えられ
ないほど人懐っこく、広場から
の 帰 り 道、 私 た ち の 両 手 に は、
何人もの子どもたちの手がつな
がれていました。
SCADP事務所
SCADPは、現地のNGO
で奨学金を受けられない子ども
や家庭の事情で学校に行けない
子どもに教育が受けられるよう
支援しています。ここには小学
生から中学生が生活し、勉強と
伝統舞踊を学んでいます。私た
ち は、 伝 統 舞 踊 の 歓 迎 を 受 け、
そ の 後 全 員 で 白 浜 音 頭 を 踊 り、
文化交流を図りました。いよい
よ綿菓子機の登場、重かった荷
物もここで子どもたちの歓声と
笑顔に変わりました。
今、振り返って
今回のカンボジアの子ども支
援活動は、私に多くの体験を与
えてくれました。それは何より
もカンボジアの子どもたちの笑
顔とたくましさに出会えたこと
です。このことは私達が忘れか
けていたものを思い起こさせる
衝撃とも言えるものです。カン
ボジアはきっとこの子達によっ
て復興されるでしょう。
もうひとつは、カンボジアの
歴史と現状をみて、改めて平和
と民主主義の大切さが実感でき
たことです。労働運動も「平和
と民主主義を守るたたかい」を
うたってきましたが、平和慣れ
した中では漠然と通り過ぎてき
たような気がします。改めて問
い直す必要があるのではないで
しょうか。
義を再確認できたことです。改
めてこれを契機に組合運動に取
り組みたいと思います。
(井戸 智二)
最後に、私自身これまで自治
労運動に携わってきたことの意
伝統舞踊を舞う中学生
本棚から顔を出す子ども達(ACC にて)
寺子屋の学校での交流
所にある処刑場で、今そこには、
無数の骸骨が収められた塔とそ
れらの遺骨が掘り出された穴が
何 箇 所 も 点 在 す る と こ ろ で す。
ガイドさんから「ここで、多く
の人がヤシの葉のとげで首を斬
られ殺された、子どもは足を持
ち頭を木にぶちつけられて殺さ
れた」という話を聞かされまし
た。
トゥール・スレンもキリング
フィールドも決して特別な場所
ではありません。トゥール・ス
訓練生と一緒に食事
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