阿部 志朗

Ⅰ.研究の目的
分かったため、10月と12月に紋別、網走などのオホーツ
ク海沿岸の港町、さらに内陸部の札幌∼旭川∼北見にか
2008年度の本助成による調査で、北陸∼北海道の資料
けての開拓関係の諸施設、また夕張、歌志内などの産炭
館・旧家に数多く現存する茶色の釉薬が施された大きな
地域や鴻之舞金山などの鉱山施設などで石見焼の有無に
陶器の水甕が、島根県西部の石見地方(現在の大田市、
ついて現地調査を実施した。
江津市、浜田市の一帯)で、19世紀半ばから盛んに生産
さらに並行して、昨年度実施のアンケート調査で回答
されてきた陶器「石見焼」の甕(
「はんど」
「はんどう」
)
、
があったが未確認の北陸地方の日本海沿岸部の資料館・
または石見系の作陶法によりいずれかの産地で作られた
旧家等や、石見焼の製法の独自性についての知見を得る
甕(
「石州甕」
)であることを指摘した。本年度は調査を
ため、かつて釉薬を使った陶器生産が行われた瀬戸・美
継続・深化させ、北海道及び北陸地域における石見焼分
濃の製陶関連施設を調査した。
布の追加・継続調査、韓国鬱陵島における分布調査、ま
た科学的手法による産地同定などを行い、日本海沿岸に
Ⅲ.研究の成果
広範囲に流通している石見焼の流通経路・流通過程の把
( 1 ) 石見焼・石州瓦の分布
握を試みることを目的とする。
① 韓国鬱陵島の石見焼・石州瓦 鬱陵島で、現地調査
Ⅱ.研究の経過
した島内11集落のうち 6 集落で、朝鮮半島独特の陶器の
甕「甕器(オンギ)」に混じり石見焼の特徴のある開口
2010年 8 月に本助成の2009年度歴史学研究助成を受け
部の狭い味噌甕を十数器確認した(写真 1 )。寸胴型の
ている島根県立大学福原裕二准教授、同大NEARセンタ
水甕は少ないが、その中に底面に「分銅+亀山」の刻印
ー鄭世桓主任助手、同センター市民研究員森須和男氏と
のある甕を発見した(写真 2 )。また鬱陵島の中心集落
ともに韓国鬱陵島を訪問し合同調査を行った。鬱陵島で
の道洞(トドン)で、石見焼と同じ陶土・釉薬の「石州
採取した陶片、瓦片を科学的手法で産地同定するため、
瓦」が葺かれている家屋を 3 軒確認した(うち 1 軒はか
生産地でサンプリングした製造年と製造場所が断定でき
つての鬱陵郡守 官舎、うち 1 軒はトタン屋根へ葺替済)
。
る石見焼の陶片、瓦片とを島根県産業技術センター浜田
屋根の最も軒先側の軒平瓦の垂れの部分に窯印があり、
技術センターにおいて、蛍光X線分析を依頼した。
大正期頃、島根県江津市周辺で作られた石州瓦の特徴を
webサイトに掲載の写真などで北海道のオホーツク沿
岸や内陸部の資料館等でも石見焼らしい甕があることが
写真 1
鬱陵島の民家の甕類(右端が石
見焼の味噌甕)
鬱陵島 玄圃(ヒョンポ)集落にて
阿部撮影 (2010.8)
有する(写真 3 )
。
明治期の外務省通商局の資料『通商彙纂』(明治39年
写真 2 「亀山」の刻印のある日本製の甕
鬱陵島 南面(ナミャン)集落にて
阿部撮影(2010.8)
写真 3
鬱陵島の日本家屋(旧鬱陵郡守
官舎)の瓦
鬱陵島 道洞(トドン)集落にて
阿部撮影 (2010.8)
第 2 号など)には、明治末期の鬱陵島の輸入品として陶
との特色があることが分かってきたので、遠隔地の消費
器、瓦が挙げられている。この陶器・瓦が石見焼・石州
地の製品については定量的な産地同定、生産時期の把握
瓦である可能性が高いことが指摘できる。
はおおむね可能になってきた。加えて、定性的な産地同
② 北海道の石見焼 北前船の寄港地の一つに数えられ
定の方法も必要であると考え、蛍光X線分析を試みた。
る紋別で明治末∼戦前に多く作られた「石見焼+窯印」
鬱陵島調査で採取した日本製の瓦片と朝鮮半島製の甕
の刻印のある甕を確認した。内陸の西興部村では島根県
器の破片、江津、温泉津の石見焼生産地でサンプリング
江津市の廻船問屋の商標が書かれた石見焼の甕を確認し
した大正期の瓦片、昭和初期の甕の破片について、おも
た。これまでの調査で明治∼戦前にかけて海路による遠
に釉薬の部分についての化学組成を比較するため、島根
方への出荷向けの石見焼に、底面に窯印の刻印や墨字が
県産業技術センター浜田技術センターで蛍光X線分析を
記されていることを指摘したが、廻船問屋の印があるこ
依頼した(表 1 )
。
とも判明した。
札幌、旭川、北見などの屯田兵や開拓関連の諸施設で
結果として、江津の大正期の瓦片、温泉津の甕破片、
鬱陵島の日本製瓦片については似通った数値を示してい
は、屯田兵屋や開拓小屋の保存・復元施設の台所に石見
ること、またこれらと朝鮮半島産の甕器を比較すると、
焼、あるいは石見系の茶色の水甕がある。北海道への開
Al 2O 3(アルミナ)とCaO(酸化カルシウム)の含有量
拓民の当初の家財道具として、官設の屯田兵の官給品や、
に大きな値の違いがあり、明らかに別のものだと判断で
一般の開拓移民の生活物資にも「木桶」の記録はあるが、
きることが明らかになった。近現代の陶器でも、大きく
「水甕」はない。今回の調査で水甕の他にも、台所に展
産地の異なる製品であれば、蛍光X線分析がある程度参
示してある透明の釉薬がかかった「捏ね蜂」や水を注ぐ
考になるといえる。ただし、例えば北海道の函館奉行所
「片口」などの底面に、石見焼の刻印を多く確認した。
復元のための研究資料に蛍光X線分析データがあるが、
戦前までの石見焼は入れ子状のセット(一梱包単位=
これを参照すると、明治期の函館奉行所の発掘出土品の
「一丸」
)での輸送、販売が主流であったので、石見焼が
中の赤瓦の分析のデータ(これによって「越前瓦」と推
元々開拓移民の移住とともに持ち込まれたというより
定された)と、今回の石見焼・石州瓦の蛍光X線分析に
も、のちに甕や捏ね蜂などがまとめて北海道に大量に流
よるデータとの間に大きな差異はないようにも判断で
入し、大量普及したことが推察できる。
き、同じ茶∼赤色のいわゆる鉄釉系の釉薬において、産
夕張、歌志内などの産炭地域の諸施設、鴻之舞金山の
関連施設などでも保存・展示されている石見焼の甕、捏
地同定について蛍光X線分析を用いることには、熟考の
余地があることは指摘しておきたい。
ね蜂などを多数確認した。明治・大正期の刻印だけでな
く、戦前の「石見 ○等」
、戦後の「イワミ ○等」など等
Ⅳ.今後の課題
級が書かれたスタンプが押された陶器も数多くある。戦
後∼昭和30年代まで、島根県からの鉄道貨物の陶磁器出
次のような点について、さらに検討・検証を加え、い
荷先は北海道が第一位である。産炭地域・鉱山での生活
ずれ大局的にまとめていきたい。
物資の大量需要が、特に戦後の高度経済成長期までの石
・石見焼と石州瓦の相互の生産・流通との関連
見焼の大量生産・流通を支えていたことも推察できる。
・瀬戸内・九州地方、朝鮮半島、満州、沿海州、樺太な
どへの石見焼の流通実態把握
( 2 )石見焼の産地同定
これまでの調査で出荷向けの石見焼製品の底面のいく
つかには墨字、刻印、スタンプがあり、それぞれ時代ご
・陶器の産地同定の有用性に向けての、他地域の科学的
分析のデータの相互比較
・
「民具」としての石見焼の存在意義の再考
【成果物】
阿部志朗 「戦前における島根県西部の窯業製品の流通―韓国鬱陵島などにみられる甕や瓦に注目して―」2010年 人文地理学
会大会研究発表要旨,2010,pp.42-43