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FEBRUARY 2011 No.29
2
●
特 集 日本の難民支援
知ってほしい、
私たちのこと。
太 陰 暦 も 用いるミャンマーで は、
2 月 初 旬 か らの約 1カ 月 を ﹁ダボ
ードゥエ月 ﹂ と 呼 ぶ。この月 がミャ
ンマーで最 も 寒い季 節 。 稲の収 穫 を
終 え 、新 米が出 回る時 期でも ある。
冷 え 冷 え と し たこのダボー ド ゥエ
月 の 新 月 か ら 満 月 の 間 に、 食べる
と 身 体 を 温 め て く れ る﹁タマネ ﹂
という も ち 菓 子 を 作 るお 祭 り が 全
国 的に催される。
タマネ 祭で競 うのは、いかに早 く
おいし く 、 そ して 美 し く 作 れるか
︱ 。 薪 が くべら れ た 大 き な 鍋 にご
ま 油 と も ち 米 を 入 れて 蒸 し、しょ
うが、ココナツの実 、ごま 、ピーナツ
を 加 え 、 大 き な 木 製のへらで 練 り
混 ぜ る。 も ち 米の粒 が な く な る ま
で 練 り 上 げ るのが ポ イント だ。 大
人の男 性 が 汗 を か き ながら 練 り 上
げ る 間 、 周 り の 人 は 歌い、 踊 り 、
応 援に精 を 出 す 。 寒 さ も 吹 っ 飛ぶ
に ぎ や か さ だ。 そ して 出 来 上 がっ
たタマネ をみんなで食べる。 砂 糖は
入 っ ていないが、 甘 く て 香 り が 良
く 食べ応 えが あ り 、 心 も 身 体 も 温
まる。
MYANMAR
ۗ‫ݐ‬ȆֵǗǚ
ǶǕӪ ࠯ ߭Ǿ
ミャンマー
フリーカメラマン。
ミャンマーを中心にアジアの人々の日常、文化、習慣を撮影。
千夏
文・写真=兵頭
一 般 家 庭でもタマネは食 される。
寒 さから 体 調 を 崩 さぬよ う 健 康 を
願ってタマネ を 作 り 、 僧 侶や近 所の
人に贈られる。 他 人 を 思いやるミャ
ンマーの人 たちの優 しさが詰 ま っ た
伝 統 行 事でも あるのだ。
29
2月 タマネ祭
FEBRUARY 2011 No.29
編集・発行/独立行政法人 国際協力機構
Japan International Cooperation Agency : JICA
Contents
02
04
春夏秋冬
健康を願ってもち菓子作り ミャンマー
特集 日本の難民支援 知ってほしい、
私たちのこと。
池上彰さんに聞く「難民問題って?」
帰還民の再スタートを支えたい アフガニスタン
農業を通じて新しい国づくりを スーダン
手帳がはぐくむ希望 パレスチナ自治区
地域の力を国の復興の糧に シエラレオネ
日本人として
“難民”
にできること
22
24
ゲンバの風
地域と世界のきずな
菊池 四郎 JICA専門家
琵琶湖の教訓を生かし
世界の湿地を守る
滋賀県
26
ココロとココロ
∼届け 私たちの思い∼
教育支援で、貧困からの脱出を NPO法人アクセス―共生社会をめざす地球市民の会
28
29
30
JICA STAFF
渡邉 健 アフガニスタン事務所次長
31
JICA UPDATE
イチオシ!
本・映画・イベント
地球ギャラリー
ケニア
トゥルカナ
悠久の大地
39
40
MONO語り
私のなんとかしなきゃ!
一本の針から広がる世界
有森 裕子 女子マラソン五輪メダリスト
表紙 撮影 : 谷本美加
JICAのビジョン
すべての人々が恩恵を受ける、
ダイナミックな開発を進めます
Inclusive and Dynamic Development
アフガニスタンの国内避難民居
住地で生活する子どもたち。治
安が悪化した南部からカブール
市へ避難してきた。
難民ってどんな人?
﹁難民﹂というのは
ざっくり言うと、
﹁そ の 国 に い る と い じ め ら れ る か ら
﹃難﹄を 逃 れ て き た。し か し そ の こ と
によって、住む場所も食べるものも失
い、
新たな﹃難﹄に直面している﹃民﹄
﹂
のこと。いささか強引ですが、だから
﹁難 民﹂と い う ん だ よ と、以 前NHK
の﹁週刊こどもニュース﹂で解説した
ことがあります。
1951年の﹁難民の地位に関する
条約﹂
︵難民条約︶では、
﹁人種、宗教、
国籍もしくは特定の社会的集団の構成
員であることまたは政治的意見を理由
に迫害を受けるおそれがあるという十
分 に 理 由 の あ る 恐 怖 を 有 す る た め に、
国籍国の外にいる者であって、その国
籍国の保護を受けられない者またはそ
のような恐怖を有するためにその国籍
国 の 保 護 を 受 け る こ と を 望 ま な い 者﹂
と 定 義 さ れ て い ま す。こ れ に よ れ ば、
いわゆる〝国を追われた人〟が﹁難民﹂
というわけです。
この﹁難民﹂の定義を広げ、より多
く の 人 々 を 支 援 し よ う と し た の が、
J
ICAの現理事長で、当時は国連難民
高等弁務官だった緒方貞子さんでし
た。ちょうど 年の湾岸戦争の真った
難民問題って?
多数の紛争国・地域などを取材してきた
ジャーナリスト・池上彰さんが
世界の難民問題について解説します。
ある日突然、紛争や暴力に巻き込まれ、平和だった暮らしが一変。
“難”を逃れるため、住み慣れた家、土地、国を追われる“民”―。
世界には、こうした厳しい境遇に置かれる難民たちが数多く存在する。
「遠い国の出来事」と、思われがちだが、
実は日本社会にも、1万人に上る元難民が生活しているのが現状だ。
今年2011年は、
「難民の地位に関する条約」
(難民条約)の採択から60年、
日本がこの条約に加盟して30年―。
JICAは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などと連携しながら難民支援を続けている。
いま一度、私たちにも身近な「難民問題」について考えてみよう。
が、実際に対立が起きるまでは、結構
民族や宗教の違いで対立が起きると
よくいわれますよね。それも事実です
なぜ発生するの?
難民﹂と呼ばれるようになったのです。
しました。この人たちが後に﹁国内避
支援し、安全に帰還できるように注力
民高等弁務官事務所︶は彼らを保護・
う べ き だ﹂と 訴 え、
UNHCR
︵国 連 難
が、
﹁避 難 民 だ っ て〝難 民〟と し て 扱
目に遭っていた。このときに緒方さん
国内の山岳地帯に追いやられて悲惨な
ら な か っ た わ け で す。し か し 実 際 は、
ルド系住民は、難民の定義に当てはま
していたので、国籍が﹁イラク﹂のク
このときまで﹁難民﹂というのは、〝よ
その国から逃げてきた人〟のことを指
ったんですね。
多くは国外に逃げられなくなってしま
国境を封鎖してしまい、結局、彼らの
け入れるなんて大変だ﹂ということで
え て い た ト ル コ は、
﹁イ ラ ク 難 民 を 受
ところが、自国内でクルド人問題を抱
としたんです。あれは冬のことでした。
権に鎮圧され、隣国トルコへ逃れよう
こからの支援も得られず、フセイン政
しかしシーア派の住民やクルド人はど
蜂 起 し、内 戦 状 態 に な っ て い ま し た。
に対してシーア派の住民とクルド人が
知ってほしい、
私たちのこと。
池上彰さんに聞く
特集 日本の難民支援
スーダンの助産師を育成する JICA の支援現場を取材。助産キットの中身について聞く池上さん
© 日経ビジネスオンラインスペシャル
04
February 2011
February 2011
05
91
だ中で、イラク国内ではフセイン政権
Profile
1950年長野県出身。大学卒業後、NHKに記者として入
局。松江放送局、広島放送局、東京の報道局を経て、
2005年フリーのジャーナリストに転身。
「そうだったのか!
池上彰の学べるニュース」
(テレビ朝日)
など、出演する数
多くのテレビ番組が分かりやすいニュース解説で定評。
『世界を救う7人の日本人』
(日経BP社)
など著書多数。
内戦が終結した2004年、
トラックで避難先のリベリアから故郷
に帰還するシエラレオネ難民。腕には、難民登録の証しである
ピンクの腕輪が付けられている ©UNHCR/E Kanelstein
photo by Shinichi Kuno
特集 日本の難民支援
知ってほしい、私たちのこと。
みんな平和裏に暮らしているんです。
旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア も そ う で し た。結
局、最後は内戦状態になり、セルビア、
ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア
など7 つの国に分断されてしまったの
で す が、そ の 直 前 ま で は、そ れ こ そ セ
ちの利益を得ようとする人たちがいる
のです。
どうして
助けなくちゃいけないの?
ルとして日本にやってきました。しか
しそのときの日本は、本当に難民問題
に対する意識が低く、日本に来た難民
はアメリカに送り届けましょうという
発想がほとんどだったんですよ。です
から国際社会から非難されたわけで
によって人々が引き裂かれ、難民が発
民族や宗教だったりすると、その違い
内戦が始まり、たまたま対立の構図が
っていたわけです。ところがいったん
ま れ た か ら﹁ユ ー ゴ ス ラ ビ ア 人﹂と な
れれば、ユーゴスラビアという国で生
こ に 生 ま れ た 子 が﹁な に 人?﹂と い わ
温かい家庭を築いていたんですよ。そ
と 当 然、
UNHCRが キ ャ ン プ を 作 り、
民が逃れていきましたよね。そうする
例 え ば ス ー ダ ン の ダ ル フ ー ル 地 方。
内戦が続いて、隣国チャドに大勢の難
うことです。
によって、
〝新たな紛争〟が起きてしま
ね。も う 一つ は、難 民 が 発 生 す る こ と
なきゃというのは、当然のことですよ
そこに困っている人がいれば何とかし
いう国のあり方が問われたんだ、とい
者を受け入れようとしなかった日本と
するにインドシナ難民の問題で、よそ
れて議論されるようになりました。要
り、その後ミャンマー難民やアフガニ
本でインドシナ難民の受け入れが始ま
ういう批判を浴びたこともあって、日
うというのは無責任じゃないかと。そ
るのに、ほかの国にあっせんしましょ
す。世界の国々は難民を受け入れてい
生 す る。で も 争 い の き っ か け は、決 し
飲み水が足りないから井戸を掘るわけ
うことだと思うのです。
二つ理由があると思います。一つは、
同じ地球上に暮らす人間としての義務。
て民族や宗教が違ったからではありま
で す。結 果 的 に、ダ ル フ ー ル か ら 逃 げ
ル ビ ア 人 と ク ロ ア チ ア 人 が 結 婚 し て、
せ ん。そ こ に は 必 ず 政 治 的 な 対 立 や、
てきた難民たちはきれいな水を飲める
ま し て こ れ が ア ジ ア で 起 き る と、好
むと好まざるとにかかわらず、日本に
りません。
界平和にとって決していいことではあ
新たな紛争が広がっていくことは、世
はチャドでトラブルが発生したのです。
ドの人たちからは反発が起こり、今度
く遠くまで水をくみにいっていたチャ
ようになりますが、もともと井戸がな
が生まれようとしています。つまり長
そこにとてつもない新たなマーケット
ち が モ ノ を 買 え る よ う に な っ て く る。
になることによって、アフリカの人た
すが、アフリカで内戦が終わり、平和
助するの?﹂という声が必ず出てきま
援 助 す る と、
﹁な ぜ あ ん な 遠 い 国 に 援
カを見てください。日本がアフリカに
ーケットになるんですよ。今のアフリ
日本に
何が求められているの?
すね。
のODAがあったからともいえるんで
ことにならずに済んでいるのは、過去
言われていますが、とりあえず深刻な
っているんですよ。すごい不況だとか
そのことによって日本経済が何とかな
の モ ノ を た く さ ん 買 っ て く れ て い る。
今、アジアの国々は豊かになり、日本
︵政 府 開 発 援 助︶を 行 っ て き ま し た。
そ の 結 果 い ろ い ろ な イ ン フ ラ が で き、
難民が逃げてくる可能性もあるわけで
い目で見れば、結局日本のマーケット
スタン難民をどうするのかが本腰を入
あるいは対立をあえて拡大して自分た
年代のインドシナ難民が一番い
す。
いない人は、自爆テロにでも何にでも
った、家を失った⋮。もう何も残って
りません。愛するわが子を失ってしま
も失うものがない人ほど怖いものはあ
要です。遠回りかもしれませんが、何
をたくさんつくってあげること﹂も重
い を す る。ま た、
﹁失 っ た ら 困 る も の
その国が独り立ちできるようなお手伝
ているのであれば、貧しさを何とかし、
平和にする方法はいろいろとあるで
しょう。貧しさが原因で争いが発生し
とがとても大事なのです。
う 意 味 で、
〝国 を 平 和 に し て い く〟こ
な難民は発生しないわけです。そうい
に言うと、その国を平和にすれば新た
役割ではないんですよ。ですから、そ
のは、本来UNHCRのような機関の
状態でも、それを何とかしようという
う。しかし、パキスタン国内が大変な
難民を受け入れているパキスタンもそ
んどが貧しい国です。アフガニスタン
ています。難民を受け入れるのはほと
かしなければ﹂という問題意識を持っ
発生により新たに起きる問題まで何と
を助けるだけじゃダメなんだ。難民の
の 対 立 を 見 て い た 緒 方 さ ん も、
﹁難 民
のまま定住したらどこが助けるのでし
当しています。でも、その人たちがそ
帰還したりするときもUNHCRが担
CEF
︵国連児童基金︶
。また、難民が
にもなっていくのです。
走ってしまうのです。そうではなくて、
ういうときにこそ、開発援助機関であ
い 例 で す。祖 国 を 追 わ れ、船 に 乗 っ た
土地があり、財産があり、愛する家族
るJ ICAの出番ではないかと思うん
﹁難民が発生する﹂ということは、﹁そ
の国が平和じゃない﹂ということ。逆
がいれば、そういうことが起こりにく
で す。つ ま り、
﹁難 民 問 題 の 解 決 を シ
日本は戦後、ずっとアジアにODA
くなります。これが援助の一つの方法
ー ム レ ス に す る﹂こ と に、
J ICAの
ょう。ダルフール難民とチャドの人々
だと思うのです。
役割があるのではないでしょうか。
ば、発生した難民を
すよね。難民でいえ
という言葉がありま
そ し て、
﹁継 ぎ 目 が な い﹂と い う 意
味 の﹁シ ー ム レ ス﹂
大勢のインドシナ難民がボートピープ
南部スーダンからウガンダに逃れた難民は約27万5,000人。指紋は帰還時の証明となる ©UNHCR/E.Denholm
06
Feburary 2011
February 2011
助けるのはUNHC
R やU N R W A︵ 国
連パレスチナ難民救
済 事 業 機 関︶
。あ る
いは、そこに子ども
たちがいたらUNI
シームレスな支援に向けてUNHCR
とJICAの一層の連携強化を図るべ
く、2010年11月に東京で意見交換
を行ったUNHCRのアントニオ・グ
テーレス高 等 弁 務 官と緒 方 貞 子
JICA理事長
©UNHCR/K.Saito
80
2010年6月、
キルギス南部で民族衝突が発生。隣国
ウズベキスタンに逃れた難民は10万人に上ったという
c UNHCR/S.Schulman
○
07
さらに言えば、平和が訪れてその人
たちが豊かになってくると、そこがマ
1970年代以降、300万人以上のインドシナ難民が発生。安住の
地を求め、多くの人々がこうしたボートに乗って命からがら海を渡っ
た ©UNHCR/B.Boyer
特集 日本の難民支援
知ってほしい、私たちのこと。
難民問題の現状、国際社会や日本の取り組みなどを紹介。
■難民をめぐるさまざまな形態
表
UN HC R駐日代
氏
ヨハン・セルス
「日本の貢献が
を
多くの難民に光
」
もたらしています
に大きな
る世 界で2番目
UN HC Rに対す
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た
私
、
JI CA 、
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皆
そして、政
、
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日本
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間 企 業などの 手
民
、
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民 支 援を力 強く
民
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20
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日本はボートピ
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く覚
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こそ、私たちはこ
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この 10 年 余 JI
、
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結
います。紛 争 終
て
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入
発援
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道 支 援から長 期
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か
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築
構
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支 援と平 和
に移 行し、復 興
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る
れ
助 へとスムーズ
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け
受
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か、同 時に難 民
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保 障 」の 視 点から
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々
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JI CAとの 連 携は
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てくるでしょう。
人 以 上 の 難 民の
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年
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今
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多くの 人
を機 に、一 人でも
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って
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う
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そ
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心を持ってほしい
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、
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難民
庇護申請者
国内避難民
帰還民
(国内避難民)
無国籍者
その他
まれない
益金で世 界の 難民や恵
チャリティーショーの収
いもの
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「じ
もに
と、歌手 仲間とと
子どもたちを支援しよう
年以 上に
20
、
以来
。
こと
年の
85
を立ち上げたのは19
会」
を通じ、アフリカ
連U NH CR 協会など
わたり、NP O法 人国
地 域での学 校 、
還民
ア帰
、カンボジ
の難 民へ の教 育 支 援
。
活動などを行ってきました
診療 所の建設 、地雷 除去
ため
ちの
もた
子ど
民の
ン難
ソマリア 難民やスーダ
中でも、
実 施したり
練を
訓
教員
、
たり
供し
提
に机 やいす、教 科 書を
てきました。
支援には特に力を入れ
するなど、教育 分野 への
く、子どもたち
はな
ので
せる
わら
で終
支援を単なる自己 満足
くための力を
づくりに 取り組んでい
が将 来自立し、新たな国
。
です
から
と考えた
つけていくことが大 切だ
がやっとの
子家 庭で育ち食べるの
私自身 、幼いころは母
なること
手に
た歌
あっ
を続け、夢で
生 活の 中 、必 死に 努力
自ら立ち上がれ
って
を持
が夢
彼ら
そ、
ができました。だからこ
です。
そんな願いがあったん
るよう手 助けしたい、
月2 0日)」は私
(6
の日
難民
世界
た「
実は、国連が制 定し
も難 民問 題と
的に
日でもあり、個人
の歌 手デビューの 記念
いる親や 子 、
って
が持
誰も
。
ています
の不 思 議な縁を感じ
還民という
や帰
な温かい 心を、難民
兄弟を思う気 持ち。そん
けてい
も向
しで
に少
ため
ている人々の
厳しい境 遇にさらされ
考えています。
くことが何より大切だと
難民
庇護申請者
武力紛争や継続する暴力、迫害などによって住んで
いる場所から強制的に追われたが、国境を越えていな
い人々
国内避難民として、UNHCRによって保護・支援を受
けていたが、出身地や住んでいた場所に帰還した人々
どの国からも市民権や国籍を認められていない人々
以上の分類にあてはまらないが、人道上の見地から
UNHCRの支援を受けた人々
アフリカ
2,300,062
アジア
ヨーロッパ
February 2011
保護・支援を受ける
帰還民
(国内避難民)
国内避難民
帰還民
(難民)
無国籍者
その他
合計
436,930
149,480
6,468,788
846,046
100,064
174,197
10,475,567
5,620,502
67,928
97,584
5,434,532
1,381,234
5,820,357
144,924
18,567,061
1,628,086
282,214
4,319
420,758
2,260
639,034
92,577
3,069,248
中南米・カリブ地域
367,437
68,785
70
3,303,979
-
118
-
3,740,389
北米
444,895
124,973
-
-
-
-
-
569,868
オセアニア
35,558
2,590
-
-
-
-
-
38,148
その他
合計
-
-
25
-
-
-
10,396,540
983,420
251,478
15,628,057
2,229,540
6,559,573
「難民を助ける」とは
難民支援といっても、その方法はさまざまだが、UNHCRの主な
任務は、難民にも基本的人権が保障され、避難生活中も尊厳
を持って生き抜いていけるよう
「保護」すること。紛争や迫害の
ため自分の国が「自国民の保護 」という義務を果たせない中、
難民受入国や多くのパートナーと協力して彼らを「保護」し、安
全な場所、水、食料、教育、医療サービスの提供などを通じて
避難生活を支えている。さらに、一人一人の難民が普通の暮ら
しに戻れるよう、世界の難民問題の解決にも取り組む。難民条
約加盟国である日本も、こうした難民保護に向けた国際社会の
取り組みをリードする一層の貢献を期待されている。
UNHCR
■世界の難民・国内避難民の全体像
国連難民高等弁務官事務所(United Nations High
Commissioner for Refugees)。世界各地の難民の保
護と支援を行う国連機関であり、支援には帰還や定住
などの難民問題の恒久的解決に向けた活動も含む。
UNRWA
国連パレスチナ難民救済事業機関(United Nations Relief
and Works Agency for Palestine Refugees in the Near
East)。ヨルダン、シリア、レバノン、ヨルダン川西岸と
ガザ地区のパレスチナ難民の救済を行う国連機関。
411,698
25
36,460,306
出典: UNHCR 2009 Global Trends
UNHCRの支援対象者となる難民数
約1,040万人
UNRWAの支援対象者となる難民数
約480万人
難民の合計数
約1,520万人
庇護申請者数
約100万人
紛争などによる国内避難民
約2,710万人
難民、庇護申請者、国内避難民の合計
約4,330万人
注:自然災害による強制移動の人数は含まない。
日本の貢献
国際社会による支援
長期化する難民問題
本が本 格 的に難民問 題に取り組むきっかけとなったの
が、総数300万人以上といわれるインドシナ難民の発生
だ。1970年代に社会主義国へと移行したベトナムやラオスな
どの国々から、迫害を受ける恐れのある人々がボートピープルと
して脱出。日本には7 5 年 5月、アメリカ船に救 助された9 人の
ベトナム人難民がやってきた。以降、政府による受入事業が終
了する2005年末までに、日本は11,000人以上のインドシナ
難民を受け入れ、彼らは神奈川、埼玉、兵庫などの日本各地に
定住した。
そして日本は、81年に難民条約に加盟。UNHCRやUNRWA
をはじめとする国際機関への資金拠出やNGOなどによる草の
根レベルで、積極的に難民支援に取り組んできた。2010年に
は、他 国で避 難 生 活を送る人々をさらに別の国が受け入れる
「 第三国定住プログラム」
をアジアで初めて実現。タイ北部の
ミャンマー難民27人に対し、日本語教育や職業紹介などの支
援プログラムを実施しており、2012年までに約90人を受け入
れる予定だ。
こうした中JICAは、主に紛争後に祖国へ戻った帰還民など
を対象とした貧困削減や職業訓練、難民・国内避難民を受け
入れるコミュニティー開発支援などの支援を行っている。
さらに
99年以降はUNHCRとの連携を強化。07年には覚書を締結
し、① 紛 争 後の復 興 支 援 、平 和 構 築 、和 解プロセスの促 進 、
②人間の安全保障の理念に基づく難民・国内避難民の受け
入れ社会の負担軽減を柱に、世界の紛争地とその近隣諸国
などでさまざまな開発課題の解決に取り組んでいる。
世紀前半の二度の大戦を経て、世界各国で政治・社会
体 制が 変 化 。新たな体 制 になじめずに 他 国 へ 逃れる
人々、すなわち「 難民」の問題が深刻化したのはこれ以降のこ
と。国連は、難民の保護と支援に向けた国際的な取り組みを強
化するため、1949年にUNRWA、50年にはUNHCRを設立。
さ
らに51年、難民の法的地位を規定し難民の取り扱いに関する
人道的基準をうたった「難民の地位に関する条約」
( 難民条約)
が採択された。
これらは、大戦の影響で発生した難民への対応を念頭に置い
たものだが、
その後も紛争は各地で勃発し、難民問題はこれまで
以上に大規模かつ広い地域で繰り返されている。90年代には、
イラク、バルカン地域、ルワンダ、東ティモールなどで発生した難
民・国内避難民が、国際社会でも大きな問題としてクローズアッ
プされた。
このように終わりの見えない難民問題に対し、現在はUNHCR
とUNRWAに加え、国連世
界 食 糧 計 画( W F P )や国
際移住機関(IOM)、国際
赤十字・赤新月社連盟など
の国際機関が難民支援の
主な担い手として活動。一
方で各国のNGOも、紛争
や人権侵害などの脅威から
逃れてきた人々の避 難 生
活を現場で支えている。
1994年、
タンザニアより帰還するルワンダ
を追われ、何 百キロ、何 千キロにも及ぶ長い道のりを逃
がれてきた人々、故郷にいつ戻れるかも分からず、窮屈な
テント生活の中で不安な日々を送る家族―。
2009年、紛争や迫害などによって強制的な移動を余儀なく
された難民・国内避難民の数は、世界でおよそ4,330万人。そ
のうち、難 民の出 身 国 別で最も多いのはアフガニスタン( 約
289万人)
で、次にイラク
(約179万人)
が続く。また、4 7 0 万
人を超えるパレスチナ難民が、半世紀以上もの間、祖国に帰る
あてのない避難生活を強いられている。近年は、国境を越えず
に自国 内 に 避 難 する「 国 内 避 難 民 」が 増えているほか( 約
2,710万人)、
もともと住んでいた地域に自主的に戻れた帰還
民の数が1990年以来最低を記録するなど、治安が不安定な
国・地域での難民問題が長期化している。
危険を逃れてきた難民の一時的な避難場所が、UNHCRな
どがテントを設 置し、食 料や水 、医 療 、生 活 用 品などの緊急 支
援を行う難民キャンプだ。
一 方 、最 近では、こうした
キャンプではなく、都 市 部
などで地元の住民とともに
暮らす難民も増えている。
その 中には、教 育や 医 療
サービスなどを受けられな
かったり仕事に就けないな
ど、過酷な状況にある者も
多い。
ケニアの難民キャンプで食料配給を待つ
日
20
c UNHCR/R.Chalasani
難民 ○
09
出典: UNHCR 2009 Global Trends
(人)
さん
「 新たな国づくりに
立ち上がってほしい」
■世界の難民発生状況(UNHCR の支援対象者数)
他国に逃れて国際保護を求めているものの、いまだ
難民としての立場が認定されていない人々
帰還民(難民) 自主的に出身国に帰還した人々
歌手
森 進一
「難民条約」の定義に該当する人々、UNHCRの定め
るところにより難民として認められた人々、補完的保
護を受けている人々、暫 定 的な保 護を受けている
人々、
さらに難民と同様の状態に置かれた人々を含む
国
ソマリア難民の少女
c UNHCR/E.Hockstein
○
February 2011
08
特集 日本の難民支援
知ってほしい、私たちのこと。
駆 ら れ る。
﹁思 い 出 の 詰 ま っ た わ
が 家 は?﹂
﹁国 に 残 っ た 親 せ き や
友人は?﹂
﹁これからの生活は?﹂
⋮。そう、その思いとは将来への
不 安 に ほ か な ら な い。
UNHCR
によると、昨年は1日平均460
人のアフガニスタン難民がパキス
タ ン か ら 帰 還。
UNHCRは、当
面必要な生活資金として1人につ
校の校舎がない。医療施設が足り
ば、子どもの数が急増したのに学
全というわけではなかった。例え
も、帰還民を受け入れる態勢が万
ラは崩壊状態。ナンガルハール州
も、長年の戦乱で基礎的なインフ
一方で、難民の帰還で日に日に
人口が増え続けるコミュニティー
ない。
ないという不安まではぬぐい切れ
後、いや、1カ月後の生活が見え
パキスタン
めに農地に種まきを
ない、あるいは生活の糧を得るた
し た く て も、灌 漑 設
備が使える状況では
な い ⋮。故 郷 で の 再
ス タ ー ト は、決 し て
容易なものではない
のだ。だからこそ、﹁難
民 の 帰 還 支 援 か ら、
継ぎ目なく定住の促
進、開 発 支 援 へ と 続
帰還後の不安を
ぬぐうため
会議は、朗々と歌い上げるよう
な祈りの言葉で始まった。口ひげ
をたっぷり伸ばした村の長老や有
力者など十数人が、古ぼけた赤い
じゅうたんの上に車座になって全
員で祈りをささげる。
J ICAが、
現地州政府と国連難民高等弁務官
事務所︵UNHCR︶とともに発
案し、2010年7月に開始した
ジェクト﹂の一幕だ。ここナンガ
﹁ナ ン ガ ル ハ ー ル 帰 還 民 支 援 プ ロ
ルハール州は、首都カブールとカ
イバル峠、そしてパキスタン西部
の町ペシャワールを結ぶ交通と物
流の要衝。帰還民の数は国内で最
も多い、州人口の半数以上ともい
われている。
アフガニスタンの人々は過去
年以上にわたり、自分や家族の命
のために、そして平和な日常を取
り戻すために数え切れないほどの
祈 り を さ さ げ て き た。こ の 日 も、
戦乱で破壊された村のインフラ整
備を検討する会議の成功を願って
祈 る。そ の 中 に は 石 川 勝 也・J I
CA専門家︵株式会社片平エンジ
ニアリング・インターナショナル︶
の姿もある。治安情勢は混沌とし
ているが、復興は一歩一歩、着実
に進んでいるようだ。
しかし、戦禍を逃れて避難した
人々が故郷へ戻るとき、大きな喜
ズ な ど、
UNHCRが 持 つ さ ま ざ
まなデータが役立ったという。そ
れらのデータをもとに、帰還民が
5∼6割以上を占める 村が選ば
れ、学校や病院の建設、道路の改
修、灌漑水路の整備など124も
のインフラ整備案が村人たちから
提案された。避難せずに村に残り
続けた人々にも、どの民族にも分
け隔てなく平等に支援が行き渡る
ことなど、外からの支援が新たな
争いの火種を生まないよう、細心
カブール市内にある国内避難民居住地では、
アフガニスタン南部のカンダハール州やヘルマンド州から逃れてきた人々が故郷への帰還を待ちわびている
の注意が払われている。現在計画
文・写真=谷本美加
(写真家)
*写真はp11右下以外とコラムを除く。
組織とパートナーシップを結んで
故郷に戻った人々の再定住や雇用創出に期待が寄せられる同国を訪ねた。
いきたい﹂とUNHCRアフガニ
暫定政権の樹立から10年目の2011年1月、
中の事業が 以上、うち 事業が
2010年からは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)
との連携プロジェクトも始まった。
スタン事務所のアレッサンドラ・
J
ICAは国づくりに向けさまざまな支援を続け、
った。同州では、外国軍の支援に
クトの中止を申し入れたこともあ
ガ・シェルザイ州知事にプロジェ
当 初、
J ICAア フ ガ ニ ス タ ン
事務所の花里信彦所長はグル・ア
モレリ副代表は強調する。
より激戦地となり、家、農地、公
かし1981∼ 年、ソ連侵攻に
人が暮らす農村だったという。し
険しい山道の先にあるギルディ
カス村。ここはかつて約3500
始まっている。
より大規模な復興工事が計画・実
施されており、JICAの活動が
これらと混同されプロジェクト関
係者に危険が及ぶのを恐れたため
だ。しかし﹁開発に軍は必要あり
が一番この地の人々のためになっ
ません。日本の、JICAの支援
ているのです﹂というグル・アガ
州知事の日本への期待と厚い信頼
が、花里所長の背中を押した。
帰還民が多い村の再生
以上の事業が計画中
プ ロ ジ ェ ク ト の 立 ち 上 げ に は、
帰還民の数や世帯数、地域のニー
20
ペシャワール
アフガニスタン
びと同時に皆、同じような思いに
ナンガルハール州
き 米ドル前後を支給し、住宅の
帰還民の再スタートを支えたい
くように、
J ICAを
11
19
アフガ ニ スタン
は じ め、さ ま ざ ま な
89
AFGHANISTAN
from
10
February 2011
February 2011
11
40
国 内 避 難民居 住 地に暮らす
子どもたち。家 計を助けるた
め、風船を売ったりごみを拾っ
たりして働く子も多い
プロジェクト対象のサマルヘル村で、学校の壁の建設について
話す、建築計画・設計担当の井口博之JICA専門家(中央)
と
土木エンジニアのシャイスタ・グルさん
(左)
ら
UNHCRアフガニスタン事務
所 の モレリ副 代 表( 右 )と
J I C Aアフガニスタン事 務 所
の塩 崎 章 子 企 画 調 査員。帰
還民の再定住を支援するプロ
ジェクトは、JICAとUNHCRの
連 携のモデルケースとなって
いる
人口約2,450万人のうち、約560万人が元難民といわれている。
40
カブール
再建なども支援した。だが、1年
故郷の再建を願い、祈りをささげる人々
80
世界最大の難民発生国、アフガニスタン。
特集 日本の難民支援
知ってほしい、私たちのこと。
の は 地 元NGO
﹁フ ュ ー チ ャ ー・
定になっている。設計を担当する
て道路の改修や学校建設を行う予
J ICA専 門 家 と
こ の 村 で は、
地元の人々が、これから3年かけ
撤去は完了していない。
あるが、地中に埋められた地雷の
のどかな村の表情を取り戻しつつ
年で徐々に人が帰還し、ようやく
皆パキスタンへと逃れた。この数
う話す彼自身、カブール大学を卒
国 を 出 て 行 っ て し ま い ま す﹂
。そ
ように進まなければ、人々は再び
す。しかし、再定住や雇用が思う
00人が帰還することもあるので
課題を抱えています。一日で20
出、能力開発など、本当に多くの
帰還民の権利、再定住、雇用の創
難民帰還省のモハンマド・ワリ・
シャイバニ計画局長は﹁私たちは
援の必要性を語る。
何よりもスピード感を重視した支
る 人 々 が た く さ ん い る の で す﹂
。
暫定政権成立以前の 年は、人口
開発の建設ラッシュに沸いている。
ル市はすさまじい交通渋滞と復興
しかし驚くことに、現在のカブー
複雑な思いに駆られたことだろう。
変わり果てた街を目にした人々は、
翌 年には、180万人以上が
UNHCRの支援により帰還した。
生活は非常に厳しい状況でした﹂
。
十分で道路や橋も破壊され、市民
どれもこれも弾丸の跡だらけ。寒
花里所長はこう振り返る。
﹁建物は
当時、調査でカブール市を訪れた
共施設など村全体が破壊。村人は
ジェネレーションズ・アフガニスタ
業して役人となったが、武力攻撃
空の下、停電は当たり前。水は不
ン﹂の シ ャ イ ス タ・グ ル さ ん︵ ︶
シャイスタさんもまた、約9年の
ら土木エンジニアたち。働き者の
手織りしたじゅうたんを売りなが
が続く中パキスタンへ逃れ、自ら
ぎなかったが、難民の帰還が進ん
約190万人のがれきの都市にす
避難生活を送った帰還民だ。
う、避難生活の苦悩を知る一人だ。
ら経済的な困難を乗り越えたとい
だ 年には400万人の都市とな
ンジニアリング・インターナショ
ナル︶
。
﹁確かに治安が悪く、突然
の爆撃音で全身が凍るような経験
もしました。でもここには、一日
婚約者と離れ離れになり、別々
の国で避難生活を送ったシエラ・
ワ フ ァ さ ん︵ ︶
。タ リ バ ン 政 権
った。近年は、反政府勢力の攻略
から逃れてきた国内避難民により
人口の増加にも拍車がかかり、2
になると予測されている。
025年には650万人の大都市
へ逃れた、伝統楽器ルバーブの演
ためアフガニスタン政府は、 年
へと無秩序に広がっている。その
ま人口ばかりが増え、住宅が郊外
住宅などの整備が追い付かないま
、長期にわたる戦争で疲弊
だが
した首都カブールは、道路、水道、
奏 家 ム ハ ン マ ド・セ デ ィ ク さ ん
ヒ ー ド・マ ン ガ ル さ ん︵ ︶
。彼
兄を失い、国外避難を決心したワ
開発﹂を策定 。J ICAは、マスタ
に首都再生構想﹁カブール首都圏
05
らのような元難民の約3割は祖国
援し、2010年5月にはそれを
ープランの作成や水資源調査を支
主体的に担う行政機関であるデサ
に戻り、現在カブール州で生活し
ている。
画推進プロジェクト﹂をスタート
年後のカブール首都圏の地図を手
之 専 門 家︵J ICA職 員︶は、
制作した、民族の違いや過去の歴
ブ新都市開発公社などの能力向上
を目的に﹁カブール首都圏開発計
させた。﹁今、
アフガニスタンの人々
に、茶色の荒野を見渡した。
市が描かれている。JICAが作
成した土地利用計画をもとに、先
史を超えて平和に共存を実現する
進国からの帰還民が欧米の都市の
﹁カブール首都圏開発﹂では、カ
ブール市の北部に広がるデサブと
〝新しい首都〟の青写真だ。
地でも、水さえあれば人が住む町
と に も か く に も〝水〟
。今 は 荒 れ
な プ ロ ジ ェ ク ト を 実 現 す る に は、
の 荒 れ 地。
﹁夢 物 語 の よ う な 壮 大
がヤギやヒツジを連れて歩く不毛
と称されるデサブ地域は、遊牧民
り 上 げ る。し か し、
﹁緑 の 台 地﹂
とも予測されている。
しい首都圏で職を得ることになる
区が稼働すれば、134万人が新
れている。実際に商業・軽工業地
の新たな雇用が生まれると試算さ
より、2025年まで年間 万人
ま た、
﹁カ ブ ー ル 首 都 圏 開 発﹂
にかかわるさまざまな建設事業に
たばかり。しかし、
﹁ナンガルハー
につながる未来への投資。長い復
の未来と希望が託されている。
線には、大勢のアフガニスタン人
あろう建築図面の一本一本の細い
そしてこれから何枚も描かれるで
ブール首都圏開発﹂の都市計画図、
設される学校や道路の設計図、
﹁カ
ル帰還民支援プロジェクト﹂で建
興への道のりは、まだまだ始まっ
ができるんです﹂
。プロジェクトの
多くの帰還民を抱えるこの国の
復興と開発は、世界の安定と平和
「 国外の難民だけでなく、国内避難民につ
いても課題が多い」
とモハンマド・ワリ・シャイ
バニ難民帰還省計画局長
も早いインフラの完成を待ってい
人口増加にインフラが
追い付かないカブール
プロジェクトを率いるのは、野
田 善 久・J ICA専 門 家︵片 平 エ
99
帰 還 の き っ か け と な っ た の は、
年 月の暫定政権の成立だった。
は日々の生活に必死。困難な時だ
そばに居続けたい﹂と花里所長は
話す。
分けされ、水と緑あふれる近代都
からこそ、信頼されている日本が
15
チーフアドバイザーである岩間敏
デザインをふんだんに取り入れて
約2倍も広く大きな首都圏をつく
バリカブの両地域を含め、今より
平和に共存を実現する
新しい首都に
08
︵ ︶
。襲撃に巻き込まれて2人の
時代は音楽が禁止されたため国外
33
この〝未来地図〟には、住宅地・
商業地・軽工業地がカラフルに色
12
12
February 2011
February 2011
13
34
25
02
(上)
「カブール首都圏開発」は壮大なプロジェクトで、
「まだ
まだ暗中模索状態」
と話す岩間専門家(左)。大規模な雇
用と安定した生活を送れるようになることが期待されてい
る。治安情勢がプロジェクトの進捗にかかわるため、安全管
理担当の三谷孝之JICA専門家(右)
とともに活動する
(下)
カブール市内の国内避難民居住地で暮らす人々。
UNHCRによると、2010年11月末までにアフガニスタン
全土で55,464世帯、335,199人が国内避難民として故
郷から逃れた
キャンプやバーベキューなどに出掛けた。
していくことが大切だと教えてもらいました」
と話す。
そして、母国を離れて以来、母親と会えずにいた
現在、自動車関係の会社に勤務しているアリさ
彼のことをより多くの日本人に知ってもらおうと、若
ん。ダリ語と英語、夜間中学で学んだ日本語を生か
松さんらがアリさんの言葉を聞き書きし『 母さん、ぼ し、通 訳 の 仕 事もしている。そして3 年 前 には、
くは生きてます』
(マガジンハウス)
が完成。
「こんな
JICAアフガニスタン事務所の職員が探し出してく
にたくさんの人が応援してくれるなんて想像もして
れた母親と母国で再会を果たした。今は家族に仕
いなかった」
とアリさん。
しかし一方で、難民申請者
送りをしながら、
日本で懸命に働いている。日本人
として、
日本の厳しい現実にも直面していた。
女性と結婚し、授かった男の子はもうすぐ4歳にな
「彼の辛い人生を聞き文章にしているうちに自分
るそうだ。
「いつか母国のアフガニスタンを、妻や子
の人生に同化してしまい、精神的に落ち込んだこと どもに見せたい 」。そう
もありました」
と若松さん。
しかし、
「アリ・ジャンくんを
話す彼の目に、母 国へ
通して、アフガニスタンという国をより深く知り、
かか
の熱い思いが見えた。
わることができた。自分の周りにも援助を必要とし
ている人がいる。JICA職員として、
マクロな視点を
養いつつも一人一人の人生を理解する努力をし、 今も友人として若松さん(右)
開発途上国の社会や制度の変革の複雑さを追求
と交流を続ける
「こんにちは!」
1月中旬のある日、東京郊外で一人の青年に出
会った。日本人のような顔立ちで流ちょうな日本語
を話すのは、アフガニスタン出身のアリ・ジャンさん
(28)
だ。
10代のころ、父親がタリバンに拘束され、
自らの
危険を逃れるために日本に来た。
「日本は平和な国
だから」。母親の言葉に押されて母国を飛び出した
のは2001年。
しかし難民として認められず、入国管
理センターの収容所で数カ月を過ごすことになる。
そんな彼の応援団となったのが、JICAの若手職
員たちだ。担当弁護士を通じてアリさんのことを知
り
「何とか力になりたいと思った」
と若松英治さんは
当時を振り返る。同期の仲間とともに、各地で講演
を行ったり、外部協力者に声を掛けたり、応援ソン
グを作ったり・
・
・。週 末には
“仲間”
として、一 緒に
50
01
アスマイ山から見たカブール市南部の全景。
無秩序に住宅が広がる。新しい首都圏となる
北部のデサブ地域では、6車線の幹線道路と
公共交通システムの整備が計画されている
アフガニスタン難民、アリ・ジャンさんと出会って
30
避難生活中は「伝統楽器ルバーブの音色が心の
支えだった」
と言う演奏家のムハンマド・セディクさん
アリ・ジャンさん一家
特集 日本の難民支援
知ってほしい、私たちのこと。
いてきた南北間の対立は
年に
一時停戦。
しかしその 年後、中
72
年から停止していた協力を
05
再 開。 年 に は 首 都 ハ ル ツ ー ム、
り
はCPAを受けて、内戦激化によ
も、故郷に戻り始めた。
J ICA
に 逃 れ て い た 難 民・国 内 避 難 民
年、わずか6年前のこと。
国内外
戦いに終止符が打たれたのは
国 際 社 会 の 仲 裁 に よ り 包 括 和
平協定
︵CPA︶
が結ばれ、長年の
400万人に上った。
200万人、難民・国内避難民は
域 は 壊 滅 状 態 に 陥 り、死 者 は
︵SPLA︶が激しく抵抗。
南部地
り、南 部 の ス ー ダ ン 人 民 解 放 軍
央政府のイスラム化政策をめぐ
10
その後南部スーダンのジュバに
オフィスを構え、国際社会の中で
もいち早く現場に入った。
﹁ジュバ市内は道も舗装されて
いなければ、大きな建物もない。
スーダン。
2011年1月、世界
9カ国と国境を接し、日本の約
7倍、アフリカ最大の国土を持つ
となり、南部スーダンの基礎イン
時は度重なる交戦と攻撃の舞台
事務所の宍戸健一所長は話す。
当
最初は、事務所も住居もテントで
が注目する中で、この国の未来を
フラや公共サービスがなかった。
数を超えれば、今年7月にはアフ
﹁南部スーダン独立﹂
。
賛成が過半
た が、
J ICAは﹁紛 争 被 災 民・
い中での活動は容易ではなかっ
新しい政府がなかなか機能しな
この選挙の発端は、1980年
代から 年以上にわたって続い
た南北対立にある。 年にイギリ
官事務所︵UNHCR︶とは帰還
過程において、国連難民高等弁務
の支援を進めていった。
またその
スから独立して以降、断続的に続
﹁最初はどの村に行っ
しかし、
ても、住民から出てくるのは﹃話
てきた。
の
給水、道路整備、河川港建設など
郊の平和の定着に向けた生計向
年 か らJ ICAは 農 村 部 の
生計向上を支援すべく﹁ジュバ近
タンツ株式会社︶
は話す。
A専門家︵システム科学コンサル
ャーを務める、山本幸生・J IC
従 事 し て い た こ の 地 域。し か し、
ミュニティー開発官と村人が定
幹は
プ ロ ジ ェ ク ト の 活 動 の 根
〝グループ活動〟
。
J ICAは、コ
この状況を受けJ ICAは、南
部 ス ー ダ ン 政 府 の 協 働 組 合・農
っていた。
業を協働で行っていった。
し、種をまき⋮と、一つ一つの作
各
たちをグループとして組織化。
期的に話し合いの場を持ち、彼ら
村開発省と協力し、農村開発の中
もちろん、内戦中は農業どころ
ではない。
技術も経験もない彼ら
が放棄され、現在、食料は近隣諸
心的な役割を担うコミュニティ
に と っ て、最 初 は 失 敗 も 多 か っ
自身で考え、村ぐるみで行動する
ー開発官や農業普及員の能力強
た。
しかしプロジェクト開始から
チャンスを増やしていくことが
化に着手。
南部の首都機能が置か
2年が過ぎた今、各地のモデル農
国からの輸入と国際機関からの
れたジュバ近郊の農村開発、彼ら
場で、青々とした野菜を目にする
支援に頼っている状況だ。
農業に
を通じたモデルコミュニティー
ようになった。
内戦による傷を負
重要だと考えた。
まずはコミュニ
の開発支援を開始した。
モデルコ
った村人たちにも、少しずつ変化
ティー開発官が中心となり、村人
ミ ュ ニ テ ィ ー の 選 定 で は、帰 還
必要な農機具も技術もなく、農民
民・国 内 避 難 民 も 恩 恵 を 受 け ら
が見え始めている。
﹁ある畑の状
村にモデル農場を設置し、畑を耕
れるよう配慮したことから、農民
況を調査している時、その家の人
の 約6 割 が 1 日 1 食 の 生 活 を 送
南部スーダンでは内戦中に農業
ト。
元来、住民の約9割が農業に
上 支 援 プ ロ ジ ェ ク ト﹂を ス タ ー
でした﹂とプロジェクトマネージ
させるのは容易ではありません
族や仲間を見てきた彼らを奮起
ノを奪われ、抵抗して殺された家
だ﹄という言葉ばかり。
紛争でモ
% 以上を占めるところも出
民 の 教 育 支 援 で、国 連 開 発 計 画
し合いはいらない。
何をくれるん
農民の自主性を生かした
活動を推進
練の分野で連携してきた。
︵UNDP︶とは元兵士の職業訓
け、職業訓練、保健、理数科教育、
上 支 援﹂を 2 本 柱 と し て 位 置 付
社会再統合支援﹂と﹁基礎生活向
リカ 番目の新国家が誕生する。
した﹂とJ ICAスーダン駐在員
左 右 す る 住 民 投 票 が 行 わ れ た。
争
が
残した
南
北 の 紛
負の遺産
06
ハルツーム
ジュバ
の手により、確実に復興への道が
自分たちの力で村は変わる︱。
南部スーダンでは、村人たち自身
強調する。
い連鎖を生み出していきたい﹂と
気を喚起していく。
そういった良
て成功を外に伝え、他の村のやる
本さん。
﹁村人たちが自信を持っ
れ以上の感動はありません﹂と山
とう﹄
と。
現場の人間にとって、こ
ロコシだ。
この村のためにありが
J ICAの 支 援 で 作 っ た ト ウ モ
そうしてくれたんです。
﹃これは
が休憩中にトウモロコシをごち
スーダン
切り開かれている。
14
February 2011
February 2011
15
93
90
20年以上にわたる内戦を経て、
平和の定着に向けて歩み出した南部スーダン。
J
ICAは近隣諸国から帰還した難民・国内避難民を含む
すべての人々に平和の恩恵が行き渡るよう、
復興支援の一環として農村開発に取り組んでいる。
青空の下、
キャベツやオクラ、落花生などたくさんの野菜が実った。農民たちの努力のたまものだ
その数は、67
生国であるソマリア。
世界 有数の難民発
約9 0キロ、
まで
国境
情 勢不 安により、
同国
。
にも及ぶ
HC R発 表)
UN
9年
00
(2
部のダダブ
0人
ア東
万8 ,30
プを設置したケニ
Rが 3つの難民キャン
は年々増
難民
。
いる
19 91 年にUN HC
して
ら
人のソマリア難民が暮
0万
コレ
約3
、
り、
現在
でお
、
及ん
地区には
人数 の3 倍以 上に
すでに収 容可 能な
環
衛生
・
生活
内の
える一方 。その 数は
地区
、
インフラの 不足など
生活
、
ニ
拡大
ミュ
症の
トコ
ス
ラなどの 感染
れる地 元 住民 やホ
さらに 、難民を受け入
同
る。
り、
てい
てお
化し
生し
悪
発
境は
が頻 繁に
薪 炭 材などの 取り合い
だ。
状況
ある
つつ
ティーとの間でも、水や
渇し
が枯
活基 盤である天然 資源
けた支援を見
地区の遊 牧民の生
ティーの負担 軽減に向
ュニ
ミ
トコ
ホス
、
Aは
C
I
が高かった
ーズ
のニ
これを受けJ
から
住民
結 果を踏まえ、特に
その
。
施
実
査を
ケニア水 灌漑 省など
据えて調
今年 5月から、
行うことを決 定した。
設、水利 組合へ
の建
給水 分野の支 援を
給水 施設
行い、井戸の設 置、
査を
の調
図ること
水脈
と協 働で
ー全 体の 生 活 改 善を
く予 定 。コミュニティ
とで、
るこ
進す
を推
の研 修などを行ってい
共存
れきを未 然に防ぎ、
あつ
間の
民の
と難
で、地元 住民
待される。
るという波及 効果も期
地域 全体が安 定す
懸命に農作業に取り組む農民たち。彼らがほかの農民に
技術移転を行っていくことが期待されている
56
農業を通じて新しい国づくりを
共 存を
難 民と地 元 住 民の
20
SUDAN
from
を求めて大勢
かや食料 、医療など
キャンプには、住み
難民
区の
in
ブ地
ste
ダダ
/E.Hock
寄せる ©UNHCR
のソマリア難民が押し
54
09
グループの中には帰還民が全体
from Kenya
農民と一緒に収穫量を調査する
原田淳之輔JICA専門家 スーダン
年に上 る 争いで 先の見 え ない生 活 を 送 るパレスチナ 難 民にとって 、
子 ど も た ちはま さに未 来への希 望 。
産 声 を 上 げるた く さんの小 さ な 命 を 守 るため 、
JICAはパレスチナ 自 治 区 と その周 辺 国の難 民 キャンプで 、
シリア
ヨルダン川西岸地区
パレスチナ自治区
ガザ地区
し、 年よりヨルダン川西岸地区
練、住民への啓発活動なども実施
の 保 健 行 政 の 強 化、医 療 技 術 訓
の運用や管理を学ぶ研修、現地で
児の健康管理に対する人々の意
そ も 妊 娠・出 産 の リ ス ク や 乳 幼
J ICA国際協力専門員。
﹁そも
アドバイザーを務めた萩原明子・
健 サ ー ビ ス を 提 供 す るUNRW
CAは、各国の難民キャンプで保
ナ難民にも普及しつつある。
JI
リア、レバノンで暮らすパレスチ
自由な生活の中で、特に大き
不
な影響を受けているのが女性と
れて暮らしている。
ン川西岸地区とガザ地区に分か
理的に分断されたままのヨルダ
難民登録されており、政治的・物
民救済事業機関︵UNRWA︶に
190万人︶が国連パレスチナ難
の子孫である彼ら。半数以上︵約
われたパレスチナ人の一部とそ
エル建国で、住んでいた土地を追
送っている。
1948年のイスラ
難に直面しながら、日々の生活を
人々は、私たちには想像し難い困
70 万人のパレスチナ自治区の
路封鎖や外出禁止令︱。人口約3
500カ所以上の検問所、張り
めぐらされた分離壁、度重なる道
本
の
母
子健康手帳を
日
独 自
パレスチナの人々へ
レバノン
年からはガザ地区の
で、手帳の全面的な運用が始まっ
スが各施設で受けられ、中には母
導入された現在は、共通のサービ
識も低かった﹂ともいう。手帳が
での普及活動に取り組むなど、準
イドラインの策定、難民キャンプ
Aと協働し、手帳の作成、運用ガ
使われている。
UNRWA医療機関でも手帳が
情報も記載されるなど、まさに母
の 予 防 接 種・発 育 な ど に 役 立 つ
親の健康管理や家族計画、乳幼児
た。その結果、2010年1月か
や必要な機材の整備も行ってき
の支援を受け、医療従事者の研修
備を進めてきた。また、日本政府
た。また、
﹁日 常 的 に 移 動 に 制 約 が あ り、
同じ医療施設に通い続けること
子の命と健康を守る必需品とし
レスチナ人の誇りで
れ し い。こ の 手 帳 は パ
る姿を見ると本当にう
な赤ちゃんを産んでい
健診や処置を受け、元気
ち、適切な時期に適切な
親たちが正しい知識を持
の 一 人 で あ り、
﹁難 民 の 母
師。自 身 も パ レ ス チ ナ 難 民
RWAの ア リ・ハ ー デ ル 医
保 健 の 改 善 に 取 り 組 むUN
J ICAと と も に 手 帳 と 母 子
満足しています﹂と話すのは、
の医療従事者、母親の双方とも
りやすく記録できるため、現場
もの成長を豊富なデータで分か
ルでした。母子健康手帳は、子ど
健カードは、内容が非常にシンプ
﹁これまでUNRWAが各難民
キャンプで使用していた母子保
の運用が開始された。
で〝UNRWA版母子健康手帳〟
レバノンと、次々と難民キャンプ
ら8月にかけ、ヨルダン、シリア、
が困難な中、以前は施設によって
周辺国の難民キャンプへ
広がる〝命の手帳〟
て、
広く普及している。
なり、また健診結果を記録する様
式なども統一されておらず、母子
が継続的なケアを受けにくい状
況にありました﹂
。そう話すのは、
﹁パレスチナ版母子
そして今、
健康手帳﹂
は、周辺のヨルダン、シ
レバノンの難民キャンプでUNRWA
運営の医療施設を訪問した萩原さ
ん。母親が出産したパレスチナ赤新
月社が経営する病院でもこの手帳
が使われ、
その際の出産記録が適
切に記入されていた
たり約
人。妊婦の約4割、生後
子どもの死亡率は1000 人当
う女性もいるという。
5 歳未満の
待たされ、その間に出産してしま
している。中には検問所で長時間
早期に発見できない事態が多発
設に通えず、出産の兆候や異常を
検問所などが妨げとなり、医療施
子どもたち。増え続ける分離壁や
ヨルダン
今日も見守り続けている。
める小さな命を、母子健康手帳は
望。そんな人々の思いを一身に集
子どもたちはまさに未来への希
チナ難民にとって、生まれてくる
先の見えない日々、不安定で我
慢を強いられる生活の中、パレス
っているという。
ていたことなどが強く印象に残
﹁一生の宝ものにしたい﹂と語っ
を 華 や か に デ コ レ ー シ ョ ン し、
り、若い母親たちがシールで手帳
きた﹂という感謝の言葉を聞いた
と分かり、流産を免れることがで
を見てすぐに診察の必要がある
中に体調が悪くなったとき、手帳
ンプを訪れた萩原さんも、
﹁妊娠
め、シリアとレバノンの難民キャ
手帳が母子保健の改善に役立
っているかどうかを調査するた
す﹂
と目を細める。
子健康手帳﹂を作成。日本で手帳
などと協力して﹁パレスチナ版母
庁、国連児童基金
︵UNICEF︶
﹁母子健康手帳﹂を参考に、保健
保健水準の向上に貢献してきた
ロジェクト﹂
だ。
戦後、日本の母子
リプロダクティブヘルス向上プ
そ こ で 2 0 0 5 年 か らJ IC
Aが実施しているのが﹁母子保健
取り巻く健康状況は厳しい。
貧血の症状を見せるなど、母子を
9 カ月以下の乳児の半数近くが
20
パレスチナ自治区
提供されるサービスの中身が異
09
16
February 2011
February 2011
17
08
年までプロジェクトのチーフ
09
手帳を通じて妊娠や子育てについての正しい情報が得られるようになり、
父親も以前より積極的に育児に参加するようになった
レバノン・シャティーラの難民キャンプの様子。長年の難民生活の中
で、
キャンプはテントから街へと変ぼうしたが、貧困や失業、人口増加
に伴う衛生環境の悪化など、人々の暮らしは厳しい
「パレスチナ版母子健康手帳」
と、自治区の難民キャンプに
ある母子保健センターで使われている予防接種記録台帳。
子どもたちの命と健康を支えている
(撮影:今村健志朗)
パレスチナ版を参考に、新
たに作成されたUNRWA版
母子健康手帳。
ヨルダン、
シ
リア、
レバノンに住む難民の
母子保健を支える
60
母 子 健 康 手 帳の普 及 と 母 子 保 健の改 善に取 り 組 んでいる 。
知ってほしい、私たちのこと。
PALESTINE
from
手帳がはぐくむ希望
特集 日本の難民支援
イスラエル
特集 日本の難民支援
知ってほしい、私たちのこと。
り返る。 年のある日、反政府軍
内戦が終息し、多くの人々が故郷への帰還を果たした現在、
﹁世 界 で 最 も 貧 し い 国﹂
。そ う
表 現 さ れ る 国 が、ア フ リ カ 大 陸
た め に 故 郷 を 離 れ、近 隣 の 国 や
逃 げ ま ど っ た。自 ら の 命 を 守 る
ダ イ ヤ モ ン ド や 金、カ カ オ や
コ ー ヒ ー な ど、貴 重 な 資 源 に は
マラさん︵ ︶は、当時をこう振
男 性、ソ リ エ・イ ブ ラ ヒ ム・カ
最 も 激 し い 戦 禍 を 浴 び た 地 域
の 一 つ、北 部 カ ン ビ ア 県 に 住 む
﹁あ の 日 の 惨 劇 が 忘 れ ら れ な
い﹂
のゲリラ兵に仕事場のある建物
務所︵UNHCR︶や世界銀行、
そ し て、国 連 難 民 高 等 弁 務 官 事
は ひ と ま ず 平 穏 を 取 り 戻 し た。
そ し て 2 0 0 2 年、大 統 領 に
よ る 内 戦 終 結 宣 言 に よ り、国 内
という。
進 め ら れ る よ う、各 組 織・人 材
ニティーが連携して問題解決を
り、地方行政︵県議会︶とコミュ
府が施行した地方自治法に則
タ ー ト。 年 に シ エ ラ レ オ ネ 政
年 か ら は、国 内 で も 特 に 貧
し い 北 部 で﹁カ ン ビ ア 県 地 域 開
持って状況を説明。
壊された箇所
会は住民代表と話し合いの場を
発 能 力 向 上 プ ロ ジ ェ ク ト﹂を ス
ニティーに対して、教育、農業、
設。内 戦 に よ り 荒 廃 し た コ ミ ュ
ウンにフィールドオフィスを開
に助言することが重要です﹂と、
﹁何を行うにも、県議会から住
民への説明責任を怠らないよう
スを支援している。
ラの改善に必要な一連のプロセ
けて、さらなる開発に向
興から平和の定着に向
国 か ら 卒 業﹂と 認 定。復
HCRにより﹁難民発生
年、シエラレオネはUN
に 感 謝 し て い ま す﹂
。
に奔走してくれること
アップ方式。私たちと共
違って参加型のボトム
Aの支援は、他の国とは
開 発 に 携 わ る。
﹁J IC
員として積極的に地域
在、カンビア県議会の委
ギ ニ ア の 難 民 キ ャ ン プ か ら
年 に 帰 還 し た カ マ ラ さ ん も、現
話す。
と 思 っ て い ま す﹂と 平 林 さ ん は
ト を す る の が、私 た ち の 仕 事 だ
策を見いだす道筋を開くサポー
れた資源の中で自分たちで解決
定の予算以上は提供しない。
限ら
が決定された。
﹁J ICAから一
完成後の収益から返済すること
のローンで修復費を捻出し、倉庫
ても協議した。
結果、県議会から
をどのように修復するかについ
る と 勘 違 い し た よ う で す﹂
。県 議
土地に、勝手に何かを建築してい
壊されたことがあった。
﹁公的な
あ る 日、建 設 中 の 市 場 の 倉 庫
が、地元の若者グループに一部破
は強調する。
め る 平 林 淳 利・J ICA専 門 家
各 国 のNGOな ど の 支 援 を 受 け
の 能 力 強 化 に 取 り 組 ん で い る。
J ICAは こ う し た 理 念 の
下、県 議 会 と コ ミ ュ ニ テ ィ ー 代
表が中心となって地域のニーズ
を的確に抽出し、井戸、学校、農
保健、水、電力など、住民の生活
道などのコミュニティーインフ
に直結する分野を中心に協力を
プロジェクトマネージャーを務
J ICAも 紛 争 後 の 復 興 を 支
援 す べ く、 年 に 首 都 フ リ ー タ
住民主体で
ボトムアップの地域開発を
った。
ながら、人々は故郷に戻り始め、
の 数 は、国 内 避 難 民 を 合 わ せ る
難民キャンプで生活を送った人
た﹂
。当 時、ギ ニ ア や リ ベ リ ア の
料で生き延びるのがやっとでし
め の テ ン ト を 張 り、わ ず か の 食
プ。
﹁まずは家族を探し、住むた
ギニア国境付近の難民キャン
もバラバラにたどり着いた先は
態でした﹂
。
着の身着のまま、家族
然のことで町全体がパニック状
を取り囲まれ、銃が乱射され、手
の 西 部 に あ る。シ エ ラ レ オ ネ ︱。
地域への避難を余議なくされた
りゅう弾が投げ付けられた。
﹁突
広大な大西洋を望むこの国で
に よ り、昼 夜 繰 り 広 げ ら れ る 戦
は、い ま だ 国 民 の 約6 割 が 1 日
ドル以下の生活を送
恵 ま れ て い る。し か し 1 9 9 1
る。
年 間 続 い た 内 戦 が、こ
平 均 1・
多くの人々が近隣の国・地域への避難を強いられたシエラレオネ。
ようやく国を挙げた復興が始ま
年から
1991年から11年間続いた内戦の影響により、
闘。ゲ リ ラ 兵 の 襲 撃 に 人 々 は 皆、
た。政 府 軍 と 反 政 府 軍 と の 対 立
の国の発展に大きな影を落とし
シ エ ラレオネ
者も少なくない。
り
内
戦 に よ
母国を追われた日
リベリ
リベリア
シエラレオネ
国 を 建 て 直 す の は 地 方 行 政 と
住民自身の力︱。
50
04
と、20 0 万 人 以 上 に も 及 ん だ
92
SIERRA LEONE
from
ギニア
ガンビア県
09
実施してきた。
JICAとカマラさん
(右)
ら県議会の支援により改修された
井戸。水源を得ることで、
村の人々の生活は豊かになった
けて歩み始める段階にまで来て
い る。
﹁コ ミ ュ ニ テ ィ ー の 中 に
は、か つ て ゲ リ ラ 兵 と し て こ の
地域を攻撃した人たちもいま
す。
しかし今は、被害者と加害者
が共に前を向いて進んでいかな
け れ ば な り ま せ ん﹂と カ マ ラ さ
ん。
今後は、プロジェクトの活動
を 通 じ て 得 た 教 訓 や 提 言 を﹁県
開 発 ハ ン ド ブ ッ ク﹂と し て ま と
め、全 国 に 普 及 で き る 地 域 開 発
モデル作りを目指していく。
J ICAも 彼 ら の 能 力 を 存 分
に 引 き 出 す べ く、現 場 で 共 に 汗
を流していく決意だ。
18
February 2011
February 2011
19
地域の力を
国の復興の糧に
住民から熱烈な歓迎を受ける平林専門家(右から2人
目)
。
「プロジェクトへの住民の期待の大きさを感じました」
05
村人たちを集め、
コミュニティー代表者がワ
ークショップを実施。炎天下にもかかわらず、
参加者は長時間にわたり真剣に議論する
自国を離れていた人々のほとんどは、内戦後、故郷
への帰還を果たした。再会を喜ぶ姿があちこちで見
c UNHCR/E Kanelstein
られる ○
JICAはコミュニティー主体の復興支援を進めている。
06
08
25
11
特集 日本の難民支援
春木 紳輔
会長
生時代、
アメリカに留学していた時に、先
住民の保護地域でメガネを寄贈する活
動に参加したことがあります。その経験が深く心
に残っていて、
いつか自分の仕事を通じて、
これま
での人生で受けた恩を社会に還元したいと考え
ていました。そんな思いで、1983年から取り組ん
でいるのが「海外難民視力支援ミッション」
です。
難民一人一人に合ったメガネを贈りたい―。
私たちは毎年約2週間、海外の難民キャンプを
訪問してメガネを必要とする人たちを検査。日本
であらかじめ何種類もの度数のメガネを準備して、
最適な度数のメガネを選んで手渡しています。最
初 は 手 探りの 状 態 で 苦 労もありましたが 、
UNHCRの要請と協力の下、
タイ、
ネパール、ア
ルメニア、アゼルバイジャンの4カ国で活動をす
ることができています。
また、2006年には日本人
として初めて「ナンセン難民賞 ※ 」
をいただき、活
動を続ける上での大きな励みにもなっています。
これまで派遣したミッションは全28回、寄贈数
は12万3,416個になりました。何よりも、
メガネを
手にした時の笑顔が、私たちのエネルギーの源
です。見える喜びは世界共通。少しでも多くの難
民の方々の明日に、光を照らしていければと思っ
ています。
アゼルバイジャンの難民キャンプで視力検査
21
February 2011
CSR部 シェルバ
さん
学
※1954年にUNHCRが創設。難民支援に多大な貢献を
した個人・団体に贈られ、
オペラ歌手のルチアーノ・パヴァ
ロッティなども受賞。
株式会社ファーストリテイリング
関西学院大学 国際教育協力センター
株式会社富士メガネ
金井 昭雄
衣服
を 贈る
英子 さん
990年代、
フリースの販売で急成長を遂
げたユニクロですが、同時に、生産量が
増えることで環境に大きな負荷がかかっていると
いう問題意識がありました。そこで2001年にス
タートしたのが「フリースリサイクル活動」。当初
は主に回収した製品の燃料化(リサイクル)
を考
えていたのですが、私たちのモットーである
「お客
さまに長く着ていただける服」に則り、衣服の価
値を最後まで最大限に生かせるよう、UNHCR
の協力の下、難民・国内避難民キャンプでの寄
贈(リユース)
へとシフトしました。
寄贈する衣類は、
それぞれの国の文化的背景
などを考慮して、色や種類を選んでいます。たくさ
んのお客さまの協力もあり、ネパール、エチオピ
ア、
グルジアなどの難民・国内避難民キャンプで、
2010年10月までに約312万着を寄贈すること
ができました。数年後に再び訪れた時に、
まだ大
切に着てくれている姿を見ると胸がいっぱいにな
ります。そんな私たちの活動をお客さまに伝える
ことで、難民問題への関心を促すきっかけ作りも
できればと考えています。
現在、ユニクロと姉妹ブランドのジーユーでも、
全国の店舗で全商品の回収を受け付けていま
す。あなたの家に眠っている衣服が、国際協力
の第一歩になるかもしれません。
1
学内のイベントで難民について講演する難民学生のミ
ョウさん
(右)
0 0 4 年にU N H C Rの方が講 演で来 学
した際に、難民に対する高等教育の必
要性が話し合われました。これを受けて関西学
院 大 学では、0 6 年 度に難民に対する推 薦 入
学 制 度を設 置 。ミャンマー、ベトナム、カンボジ
アなどから、毎年2人の難民学生を受け入れて
います。
難民学生のバックグラウンドはさまざまです。
私たちスタッフも、彼らが満足のいく環境で勉学
に励むことができるようサポートに努めていま
す。第一期生として入学した、
ミャンマー出身の
ミョウさんは「自分が難民であることをさらけ出
し、世界中で起きている紛争問題などへの理解
を深めることが使命」
と、学業の傍ら、学内外で
積極的に啓発活動を行っています。ですから日
本人の学生にも、彼らを通じて、迫害や紛争と
いった国際社会が抱える問題を身近にとらえて
ほしい。そして難民学生とのふれあいの中から、
国際社会に貢献しようという意識が芽生えてく
れたらと期待しています。
2010年4月には新しく国際学部が設置され、
日本語ができない学生でも英語のみで卒業する
ことが可能になりました。今後はアフリカなどから
も学生を受け入れ、
より多くの人々に学ぶ機会
を提供できればと考えています。
2
ユニクロのスタッフ自らが難民キャンプに行き、心を込め
て衣服を届けている
(撮影:上岡伸輔)
日 本 人 と し て〝 難 民 〟にで き るこ と
学びの場
を 提 供する
日 本にも 、母 国 を 離 れて 暮 らさ ざるを 得 ない難 民の支 援に取り 組 む 人々がいる 。
私 たちができる 支 援 もたく さんある ︱ 。そのこと を 知ってほしい。
見える喜び
を 伝える
知ってほしい、
私たちのこと。
困難な状況
にある民
を 助ける
歯科治療
を 行う
鶴見大学 国際交流センター 主任
認定NPO法人難民を助ける会
よし てる
さとし
難民プロジェクトチーム統括
永坂 哲
さん
事務局長
堀江 良彰 さん
際 協力N G Oである「 難民を助ける会 」
は、1970年代後半に大量発生したイン
ドシナ難民の支援を目的に「インドシナ難民を助
ける会」
として79年に設立されました。困った時
はお互いさま―。創設者の相馬雪香の理念の
下、当時、国際協力に消極的だった日本が、難
民支援に取り組む突破口にもなったとも聞いて
います。その後、難民問題の世界的拡大を受け
て、
インドシナ以外にもアジアやアフリカなどに対
象を広げ、各国の難民の生活改善に取り組んで
きました。
難民支援を通じて、私たちは彼らが抱えるさま
ざまな課題に直面しました。そして、根本的な課
題解決のためには、難民のみならず、開発途上
国すべての
“困難な状況にある民”
への支援が
必要だと認識したのです。そして今では、長年の
支援で培ったノウハウを生かし、難民に限らず、
緊急支援、障害者支援、地雷・不発弾対策、感
染症対策、
日本国内での啓発活動を柱に、13
の国・地域で活動を展開しています。
私たちが目指すのは、国際機関だけでは実現
が困難な、草の根の人々に届く支援です。NGO
の強みを存分に生かし、人と人のつながりを大切
にしながら、現場できめ細やかな活動を続けてい
きたいと思っています。
国
難民申請者一人一人にじっくり話を聞きながら治療する
永坂先生
本国内にも「難民申請者」
と呼ばれる人
がいることを知ったのは、わずか数年前
のこと。生活保護も受けられず、歯科治療費も
払えない。歯科医人生20年以上、心のどこかで
ずっと国際協力に携わりたいと思っていた私は、
勤務先の鶴見大学歯学部付属病院の同僚た
ちに声を掛けて、昨年2月から国内の難民申請
者を対象に歯科治療を始めました。
診察に来る患者さんは、UNHCRやNPO法
人なんみんフォーラム
(FRJ)
から紹介を受けた関
東近郊に住む難民申請者です。正直、最初はス
タッフの間で「難民ってどんな人だろう」
と不安も
ありました。
しかし彼らはとても礼儀正しく、
こちら
が恐縮するくらいに、治療後は「ありがとう」
と感
謝の言葉をかけてくれます。この1年で診察した
方の出身国は16カ国以上。治療中、何気ない会
話から知る彼らのバックグラウンドに、
こんな現実
があるのかと驚かされることも少なくありません。
現在、治療費は鶴見大学、交通費は紹介団
体が負担していますが、一人でも多くの方を診察
できるように、学生食堂で「難民ランチ」
という取
り組みをスタートし、
その収益を支援に充てること
にしました。今後はさらに全国の仲間にも呼び掛
け、関東以外にも支援の輪を広げていきたいと
考えています。
日
アフガニスタンでは、地雷被害に遭わないための教育支
援にも取り組む
February 2011
20
員たちに伝えているほか、定期的に各
発、コースの運営管理方法などを指導
として、カリキュラムの策定や教材開
ト﹂を開始。現在、菊池さんが専門家
弱者のための職業訓練強化プロジェク
によって彼らの収入向上につながって
に立つ知識や技術を得て、就職や起業
易 で は あ り ま せ ん﹂と 菊 池 さ ん。
﹁役
こエクアドルでも働き口を探すのは容
小学校すら出ていない。そのため、こ
う。
﹁今 で こ そ、日 系 移 民 が 持 ち 込 ん
た自分の生い立ちとも重なるからだろ
族とともに自らの運命を切り開いてき
日系移民としてパラグアイに渡り、家
それは、菊池さんにとっても大きな
喜びだ。きっとその姿が、幼少時代に
う 年になる。
菊池さんが、南米でJ ICA専門家
として支援に携わるようになって、も
よみがえる。
たから﹂と、今も当時の記憶が鮮明に
は、食べるものも何もありませんでし
なりましたが、移住したばかりのころ
ださまざまな農作物が作られるように
現在、プロジェクトでは、調理、縫製、
電気、建築、機械金属、自動車整備の
南 米 社 会に
最 高の恩 返 し を
くれれば、そう考えています﹂
。
村部出身で、その多くが内戦の影響で
JICA専門家
6 分野で訓練の実施を支援しており、
すでに167コースが終
業したりするケースも
しながら、就職したり起
いて、学んだ技術を生か
以上のコロンビア難民も
てその中には、200人
者が生まれている。そし
事を考えることができる気がします。
しやすく、より相手の立場に立って物
んな支援を必要としているのかを理解
め、相手にどんな事情があるのか、ど
がら専門家として働いている。そのた
南米の国々で、文化と言語を共有しな
﹁国が変われば言葉も習慣も異なり
ますが、私の場合は自分が育ったこの
23 回
第
コロンビア難民の
自立を助けるために
﹁これで念願の自分の店を開くこと
ができる。本当にありがとう﹂
うっすらと涙をにじませ、感謝の気
持ちを伝える一人のコロンビア難民
フエルサ
に、
J ICA専 門 家 の 菊 池 四 郎 さ ん が
︵頑 張
力 強 く 声 を 掛 け た。
﹁ Fuerza!
れ!︶
﹂
。
ここは、南米・エクアドルの街、サ
ント・ドミンゴ市にある職業訓練セン
ター。それまで3カ月間にわたって同
センターで実施されていた﹁製菓・製
パンコース﹂の訓練生が全課程を終え、
修了式に出席していた。
一人当たりの国民総所得が3000
ドルを超える一方で、国民の4割が1
日2ドル以下の生活を送り、社会格差
の拡大が深刻なエクアドル。貧困層の
多 く は、小 規 模 農 家 や 女 性、先 住 民、
障害者をはじめとする
〝社会的弱者〟
と
呼ばれる人々だ。その中には、泥沼化
した内戦が続く隣国コロンビアから国
境を越えてきた、推定 万人のコロン
ビア難民も含まれる。
こうした貧困層の生活を改善するた
め、政府は2007年から、全国の職
業訓練センターで社会的弱者を対象と
し た﹁基 礎 技 能 訓 練 コ ー ス﹂を 設 置。
だが一方で、コースの運営に必要なノ
ウハウが不足しており、指導員の能力
強化も課題となっていた。支援要請を
受けたJ ICAは、 年より﹁社会的
KIKUCHI Shiro
地のセンターを訪問し、訓練の現場で
さまざまなアドバイスを送っている。
プロジェクトの開始に当たり、全国
カ所のセンターのうち、8つが対象
に選ばれた。大半が、コロンビア難民
が多く住む地域に立つセンターだ。
﹁彼らのほとんどはコロンビアの農
徐々に増えているとい
それは、何かを教えたり伝えたりする
了、3000人近い修了
う。
い感覚なんです﹂
彼らを力強く送り出すこと。それは
菊池さんにとって、まさにこれまで自
﹁学 ん だ 知 識 や 技 術 を 手 に、未 来 を
切り開いていってほしい﹂
この日、修了式に臨んだ参加者の顔
は一様に明るく、自信に満ちていた。
というより、むしろ﹃共同作業﹄に近
﹁こ の 訓 練 コ ー ス が 始
まるまで、難民である彼
らは、収入の手段となり
得る新しい技術を身に付
ける機会などありません
でした。だからこそ、今、
事コースを修了したとき
分を育て、受け入れてくれた南米社会
彼らは一生懸命学び、無
には心からの感謝を伝え
に対する最高の恩返しでもある。
ゲンバの風
アマゾン地域の先住民を対象と
した「 自動 車 整 備コース」の 様
子。各職業訓練センターの様子
を視察するため、菊池さん
(右端)
は常に国内を飛び回っている
菊池四郎さん
てくれます﹂
エクアドル
学んだ知識や技術とともに、自立への第一歩を踏み出してほしい―。
コロンビア難民をはじめとする、
エクアドルの貧困層への職業訓練に取り組むJ
ICA専門家・菊池四郎さん。
日系移民として長年暮らしてきた南米の地で、
新たな道を切り開こうとしている人々に勇気と自信を与えている。
コロンビア
14
22
February 2011
February 2011
23
18
「未来を切り開く力を後押ししたい」
きくち・しろう
1954年岩手県生まれ。6歳のときに家族とともにパラグアイに
移住。パラグアイ電気通信公社計画局、在パラグアイ日本大
使館に勤務。92年よりJICAの「 移住者子弟専門家制度 」で
採用された最初のJICA専門家として、
プロジェクトの業務調整
の傍ら、電気通信や職業訓練分野での訓練コースの開発、運
営管理などに携わる。2000∼02年「チリ・環境センタープロジ
ェクト」、02∼07年「エクアドル・職業訓練改善プロジェクト」、
08年1月より
「 社会的弱者のための職業訓練強化プロジェク
ト」の立ち上げに携わり、08年11月より現職。
「調理コース」の訓練を修了した
コロンビア難民が、訓練の経験を
生かして町にレストランをオープン
08
菊池さん
(右から4人目)
の前に、
「製菓・製パンコース」で訓練を
受けた参 加 者による数々の成
果品が並ぶ
「工業縫製コース」の参加者たち。習得した技術を生かし、縫製工場などに就職するコロンビア難
民も少なくない
18
地域と
世 界の
きずな
した持続的開発をけん引すべく、湖沼環
が集まり、世界の湖沼保全、環境と調和
︵ILEC︶が 発 足。世 界 各 国 の 研 究 者
れ変わった琵琶湖 。
― 年にはこの地を
拠点に財団法人国際湖沼環境委員会
このように、地域ぐるみの努力で生ま
理などの整備を急速に導入していった。
域下水道、公共下水道、農村集落排水処
家庭用有リン合成洗剤の使用を禁止。流
しく規制するとともに、全国に先駆けて
これを受けJ ICAは 年、イラクの
環境省、農業省、水資源省、大学などの
行われていない状態だ。
れてきたが、いまだ体系的な保全活動が
や研究機関などにより懸命に再生が図ら
03年に旧政権が崩壊して以降は、政府
大なエリアで水量不足が発生した。20
な取水を実施し、イラク南部湿地帯の広
流部にある国が、ダムなどによる大規模
み出したチグリス・ユーフラテス川の上
文明の一つであるメソポタミア文明を生
琵琶湖湖畔にあるBiyoセンターで、琵琶湖・淀川水質浄化研究所の和田桂子・研究所次長
(中央)
の説明を聞くイラクの研修員
たち。寒空の下、熱心に質問を投げ掛けていた
境に関する情報やデータの収集、調査研
滋賀県
行政官・研究者を対象にした研修をスタ
滋賀県
究、世界湖沼会議の開催などを手掛けて
琵琶湖
経験と研究成果を
途上国へ
人間の生活にも多大な影響を及ぼした。
この目に見えた変化が、地域の人々を
奮い立たせた。何としてでも、自分たち
の琵琶湖を元の姿に戻さなければ 。
―女
性グループが立ち上がり、汚染の原因と
されるリンが入った合成洗剤の使用を見
直すなど、各地でさまざまな運動が起こ
った。そんな住民たちの熱意を受けて、
県は 年に﹁滋賀県琵琶湖の富栄養化防
止に関する条例︵琵琶湖条例︶
﹂を施行。
工業排水などに含まれる窒素やリンを厳
は、私たちの責務です﹂とILEC支援
ていくため、途上国を支援していくこと
ための研修事業だ。
﹁世界の湖沼を守っ
さらにILECが力を入れるのが、開
発途上国に湖沼管理のノウハウを伝える
いる。
水質浄化協働実験センター︵Biyo セ
琵琶湖湖畔に拠点を構える琵琶湖・淀川
昨年は 月下旬から2週間、滋賀県を
訪れたイラク人研修員たち。この日は、
ムを提供している。
辺の取り組みが包括的に学べるプログラ
ート。
ILECが実施機関となり、行政、
ヨシがある。地域住民を巻き込み、竹田
カジム・マイアさんは﹁南部湿地帯にも
くから活用している。農業省のタリク・
根や障子、ついたてなどの材料として古
には、定期的な手入れが必要であること
研究、住民活動の3方向から、琵琶湖周
研修課の望月孝幸課長。琵琶湖の経験と
ンター︶を訪問し、実際に湖岸をフィー
さんのように伝統と環境を守る取り組み
資源省イラク湿地復元センター研究計画
努力を続けているからなんですね﹂と水
を生かして湿地帯の保全に全力で取り組
超えて連携し、日本の研修で学んだこと
から、滋賀県では刈り取ったヨシを、屋
膨大な研究成果を糧に、国際協力にも積
ルドとした研究・実験の様子を視察した。
を推進したい﹂と意欲を見せていた。
極的に取り組む。
もこうして問題を迅速に把握するための
﹁琵琶湖の環境が守られているのは、今
J ICAと
ILECは 年 間 を 通 じ て、
も連携し、琵琶湖を舞台にいくつもの研
部のハイダル・ラフタ・アリさんは熱心
日本の現場で学び
湿地保全の大切さを知る
修を実施。その一つが﹁イラク南部湿地
11
帯保全﹂コースだ。
2葺 き 職 人、
ま た、地 元 随 一 の ヨ シ ※
近江八幡市安土町の竹田勝博さんを訪
にメモを取る。
期待する。
んでもらいたい﹂とコースリーダーを務
また、イラクを南北に縦断し、世界四大
ど、無秩序な開発により環境破壊が進行。
油開発のために湿地帯を乾燥化させるな
以降、サダム・フセイン政権時代に、石
果たす。その機能を十分に維持するため
を養分として吸収し、水質浄化の機能も
大切な生息地。さらに水中の窒素やリン
問。湖畔に群生するヨシは生物にとって
日も遠くない。そう信じている。
美しく、十分な水が戻るように 。
―今後、
琵琶湖での経験が、イラク南部で花開く
イラクの南部湿地帯に、一日も早く、
める京都大学名誉教授の松井三郎さんは
かつては、中東最大の生態系を有して
いたイラク南部の湿地帯。しかし 年代
50
24
February 2011
京都駅からしばらく電車に揺られてい
ると、目の前に大きな湖が映った。どこ
までも続く水面は、まるで海のようにも
見える。そう、日本人なら誰もが知って
いる琵琶湖。日本最大の面積を誇るだけ
あって、その存在感に思わず言葉を失う。
滋賀県の中心に位置する琵琶湖は、い
わば関西の水がめ。県の6分の1を占め
る巨大な湖は、滋賀、京都、大阪、兵庫
の1400 万人の生活用水となってい
る。また貴重な生物の生息地でもあり、
冬に飛来するコハクチョウやヒシクイな
どの渡り鳥を見ていると、
〝水鳥の楽園〟
のようにも感じる。1993年にはラム
サール条約 1
※にも登録されている。
しかしこの美しい湖も、かつて深刻な
汚染を経験した。 年代、高度経済成長
年には、ついに初めて大量の赤潮が発
の変化に伴い、環境破壊が急速に進んだ。
に伴う工業化と都市化、ライフスタイル
70
生。当然のことながら飲み水も汚染され、
77
この5年で琵琶湖を訪れたイラク人研
修員は約 人。
﹁国の縦割り組織の枠を
し尿分離トイレ
(エコサントイレ)と雨水の利用方法、有機農業などに
ついて学ぶため、公益社団法人日本国際民間協力会(NICCO)
の
琵琶湖モデルファーム
(滋賀県竜王町)
を訪問。
「南部湿地帯の浮
き島で伝統的に続いてきた農業・漁業を営む生活を復元する参考に
なった」
と研修員たち
面積4,017平方キロ。人口約140
万人。電気機器、輸送機械や化学
製品など、県内総生産に占める第2
次産業の割合は全国1位。一方で、
信楽焼などの伝統産業も数多く残っ
ている。日本最大の面積を持つ湖
「琵琶湖」の恩恵を受け、県の中央
部では農業と漁業が盛ん。産学官民
の連携による環境保全活動が行わ
れ、
“環境先進県”
と標ぼうしている。
05
86
80
賀 県
滋
ヨシ葺き職人の竹田さん
(中央)の作業場では、
ヨ
シの活用方法について議
論。琵琶湖のヨシは万葉
集でも歌われている
※2 湖沼や川辺に生育するイネ科の植物。関東ではアシとも呼ばれる。
※1 正式名称「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」。条約締約国は、国内で1カ所
以上を登録指定湿地とし、
ワイズユース
(賢明な利用)
を推進しながら、水辺の生態系保全に取り組む。
February 2011
25
70
そのノウハウを学ぶべく、
イラクの研修員がやってきた。
湖南中部浄化センターでは、流域下水道と窒素・リン除去について学んだ
20
ടಏ‫ܓ‬Ǣ‫ږؼ‬Ȇ৫ƿNjৗԓǢࡹଜȆࢤǿ
日本一大きな湖、琵琶湖を有する滋賀県。
世界に誇る美しい湖を守るため、
地域ぐるみで環境保全に取り組んできた。
貧しさが
貧しさを呼んでいる
基準をもとに選ばれた。
ログラムを受給していないことの3つの
そして、マニラへの研修旅行も行われ
た。
旅行中、都市スラムの子どもたちとも
活動も始めている。
たちが毎日昼食をつくり、学校に届ける
援している。
の取り組みをNPO法 人﹁アクセス︱ 共 生 社 会 をめざす 地 球 市 民の会 ﹂が支
自 身が地 域の将 来を考え、貧 困から抜け出す力をつけようという 活 動だ。そ
の小 学 生とその保 護 者が中心となったあるプログラムが進められている。彼ら
フィリピンのルソン島 沖に浮かぶ小さな島・アラバット。今この島の村では、 人
教 育 支 援で、貧 困からの脱 出を
アラバット島のビリヤマン
雨の日の朝、
サ ノ・ス ー ル 村 で は、ほ ほ え ま し い 光 景
が 見 ら れ る。バ ナ ナ の 葉 を 傘 代 わ り に し
て歩く小学生の通学風景。しかし村には、
そ の 列 に 加 わ れ な い 子 ど も が 大 勢 い る。
貧 し く て 学 校 に 通 え な い の だ。村 に は 漁
具 も 満 足 に 持 て な い 零 細 な 漁 民 が 多 い。
収入は不安定で、しかも少ない。電気代が
払えず光のない生活を送っている家もあ
れば、米を買えず飢えに苦しむ人たちも
い る。小 学 校 は 義 務 教 育 で 授 業 料 は 不 要
だが、制服代や文具代、昼食費、
PTA費
な ど は か か る。生 活 す る の が や っ と の 親
にとって、子どもの教育費にまではとて
も手が回らないのが現実なのだ。しかも、
貧しい家庭の〝貧しさ〟は改善されてきた
気配がない。
奨学生は、自分たちが今困っているこ
と、嫌なことなどをお互いに発表し、話し
交流し、自分の村と何が違い、どのような
奨学生プログラムで
住民たちの意識改革
を担当しているクリスチャン・ロヨラさ
んは、
﹁活動の目的は、奨学生や保護者の
相 互 協 力 と リ ー ダ ー シ ッ プ の 育 成 で す。
それが、健康な生活と子どもに優しいコ
球市民を生みながら、隣接する村々へと
を目指す活動は、やがてさらに多くの地
地球市民。
教育支援の枠を超え、貧困削減
だ。
奨学生プログラムを支えるのは、この
をつくっていこうというのが会の理念
け隔てなく付き合い、共によりよい関係
なく、同じ地球に暮らす
〝市民〟
として、分
籍、言葉や文化の違いにとらわれること
会。国 境 や 国
す地球市民の
生社会をめざ
ア ク セ ス の
正式名称は共
できること。
ながり〟を実感
とこうした〝つ
い〟は現地の人
り の〝や り が
イ ナ ン ス な ど さ ま ざ ま な 活 動 を 開 始。教
トレード、養豚・家庭菜園、マイクロファ
そしてアクセスは2009年、
ビリヤマ
ンサノ・スール村を重点地域とし、
フェア
です﹂
。
改善していくことがどうしても必要なの
を解決するためには、村での生活をまず
き た 人 た ち で す。フ ィ リ ピ ン の 貧 困 問 題
貧しい生活に疲れきって都市に移住して
ラムで暮らす人たちは、農村や漁村での
援や都市スラムでの生計支援などだ。
﹁ス
して有名なスモーキーマウンテンでの支
アクセスは、フィリピン国内の4カ所
で 事 業 を 行 っ て い る。巨 大 ゴ ミ 捨 て 場 と
るのです﹂
こういう悪循環が世代を超えて続いてい
い。
その結果、貧しさから抜け出せない〟
。
﹁
〝貧しい。だから教育を受けられない。
教育を受けていないから職が得られな
会﹂
の森脇祐一事務局長は言う。
クセス︱共生社会をめざす地球市民の
アラバット島
広がっていくだろう。
ビリヤマンサノ・スール村は、港のある町の中心
部から離れ、零細漁民の割合が多い
199 9年からこの村で活動する﹁ア
育分野の支援もその一つだ。
しかし、どの
ような事業を実施しようと﹁何よりも大
切なのは住民たち自身の意識改革﹂と森
脇 さ ん は 強 調 す る。貧 困 か ら 抜 け 出 す た
めの力を住民自身が手にすることが欠か
せ な い と い う わ け だ。そ の 意 識 改 革 に 直
結 す る 取 り 組 み が、
J ICA基 金 を 活 用
合 う ワ ー ク シ ョ ッ プ に 参 加。抱 え て い る
共通点があるのか、奨学生や保護者たち
して新たにスタートした奨学生プログラ
問題や子どもの権利、村の貧困、夢などに
ムだ。
新たな奨学生プログラムは、小学生と
その保護者たちのエンパワメントに向け
は自分の目で見て、考えることができた。
護者も、ワークショップで子どもの人権
で、補習授業も行われている。
さらには保
童・保 護 者 共 に 就 学 の 意 欲 が 強 い こ と、
アクセスの現地法人で奨学生プログラム
ついて、子どもたち自身が考える場だ。
ま
歳の村人で構成される青年会の協力
た、歌や踊りの文化活動も開催される。
生活と子どもに優しいコミュニティーづ
く り を 目 指 す も の。 人 の 奨 学 生 は、児
∼
たさまざまな活動を支援し、健全な家族
奨学生に選ばれた子どもたちの保護者
や家族の役割などを考え、話し合う。
母親
「JICA寄付サイト」
からお申し込み下さい。
クレジットカードによる決済
や、銀行・郵便振込みなどがお使いいただけます。
JICA寄付サイトURL:http //www.kifu.jica.go.jp/
ミ ュ ニ テ ィ ー を つ く る こ と に つ な が り、
貧困から抜け出すための第一歩になると
考えています﹂
。
森脇さんには、 年にもわたるフィリ
ピンでの活動の中で、心に残り、忘れられ
な い 言 葉 が あ る。ア ク セ ス が 支 援 す る 女
性からの声だ。
﹁毎日の生活は絶望的です。くじけそう
に な り ま す。で も 自 分 た ち の 生 活 を 少 し
でも良くしようと支援してくれる人たち
がいます。
そんな人たちがいるのに、自分
た ち が く じ け て い て ど う す る。頑 張 ら ね
寄付金の使われ方
∼届け 私たちの思い∼
家庭の収入が少ないこと、他の奨学生プ
森脇さん
(後列中央)
は3年間フィリピンに駐在し、現在は京都の
事務所でプログラム全体を統括している。現地スタッフらとともに
NPO法人アクセス―共生社会をめざす地球市民の会
〒612-0029 京都市伏見区深草西浦町4-78
村井第一ビル2F 7号室
TEL/FAX:075-643-7232
Email:[email protected]
URL:http://www.page.sannet.ne.jp/acce/
お寄せいただいた寄付金は、途上国の貧困削減、医療や教育の提供、
環境問題の解決などに取り組むNGOの活動に充てられます。各支援
活動や寄付金事業収支についてのご報告は、
「 JICA寄付サイト」
で公
表します。
寄付の方法
30
フィリピン
JICAでは、国際協力に関心のある日本の皆さまからの寄付
を、開発途上国の貧困削減や環境保全への取り組みに活用
する「 世界の人びとのためのJICA基金 」で受け付けていま
す。皆さまのご支援をお待ちしております。
16
ば︱。
そういう気持ちになれるのです﹂
世界の人びとのためのJICA基金
NPO法人アクセス
-共生社会をめざす
地球市民の会
16
26
February 2011
February 2011
27
20
森脇さんやロヨラさんにとって、何よ
あなたの小さな一歩から始まる国際協力
13
ココロ と ココロ
青年会による補習授業を受ける奨学生
From Afghanistan
相手国とともに
平 和 と 安 定 を 手 に入 れ る 努 力 を
東 ティモールとアフガニスタン 。
農 業 開 発 事 情 にも 興 味 を 持 ち 始 めてい
の 農 業 開 発について 学ぶう ちに 、世 界 の
です 。今から
年 以 上 前 、農 学 部で 日 本
員 に な る こ と を 目 指 し ていた ん
は 大 学 時 代 は 、青 年 海 外 協 力 隊
財 務 副 大 臣 ら と と もに 、援 助 の 調 整 シ
遣 さ れ 、独 立 の 希 望 に 燃 え た 新 政 府 の
整アドバイザーとして 東 ティモールに 派
のです 。そして 2 0 0 3 年には 、援 助 調
国 籍 軍 の 派 遣 な ど 、激 動 の 時 を 迎 え た
たころ でした 。そ のと きにちょう ど ネパ
しました。
ステムをつく る な ど 復 興 に 向 けて 奔 走
時 は 趣 味 で 山 登り もしていましたから 、
め 、現 地 のニーズに 合 わせて 迅 速 に 対 応
い う の は 、日 々 刻 々 と 状 況 が 変 わ る た
現 在 勤 務 しているアフガニスタンも そ
うですが、復 興への第 一 歩に至 る 段 階 と
力 、水 道 、保 健 、教 育 な ど 、他 の 途 上 国
す る 必 要 があり ま す 。例 え ば 、道 路 、電
ヒマラヤなど 多 くの山 脈が連 なる ネパー
の 時に応 募 。しかし 、残 念 ながら 不 合 格
ら 2 年 間 、海 外 長 期 研 修でアメリカのカ
を 担 当 しました 。そして 、1 9 9 3 年か
就 職 後 、ま ず は 農 村 開 発 部 で インド
ネ シアやバングラデシュの農 業 研 究 案 件
その他にも 紛 争 国であるからこそ 、最 新
今 、アフガニスタンで も 使 われていま す 。
ローチが適 用 されましたが 、同 じ 手 法 が
復 興 援 助 の 中 核 を 担 わせる というアプ
国 が 資 金 を 出 し 合って 信 託 基 金 を 作 り
復 興 の 初 期 段 階 では 、困 難 なこ と も
た く さんあり ま す が 、私 た ちJICAは
るには〝 努 力 〟が必 要 だと 感じています 。
くこと も 重 要 。改 めて 、平 和 を 手に入 れ
築 に 貢 献 す るよう 、細かい配 慮 をしてい
が 紛 争 を 助 長 す るこ と な く 、平 和 の 構
短 期 的 に 目 に 見 え る 成 果 を 上 げること
リフォルニア大 学 デイビス校 大 学 院へ。フ
の 援 助 ア プローチ が 適 用 さ れ る こ と が
途 上 国 の 人 々に 寄 り 添 う 存 在 。あ く ま
行い、
マイクロクレジットの失 敗 例 と 課 題
で も 相 手 国 の 人々の 意 思 を 尊 重 す るス
タイルは 、どの 国 に 対 して も 変 わりませ
多々あり 、その 功 罪 の 検 証 も 含 めて 、復
るというのは 、国 際 協 力に携 わる 者にと
ん 。アフガニスタンのよ う な 紛 争 国 で の
興 支 援 の 現 場 に 居 合 わせるこ と がで き
って 、最 大の魅 力の一つになっています 。
く なる 日が来てほしいと 、改 めて 実 感し
らインドネシア事 務 所に赴 任し 、村 落 開
発や 貧 困 対 策のプロジェクトに携 わりま
また 、現 在のアフガニスタンでは 、治 安
回 復 と 経 済 復 興 を 常 に 同 時 に 考 え 、長
ています 。
勤 務 を 通じて 、
いつか平 和 構 築 支 援のな
期 的 な 発 展 の 方 向 性 を 踏 まえた 上で 、
した。
民 投 票 、独 立 に 反 発 す る 武 力 闘 争 、多
について 研 究 し まし た 。修 了 後 、 年 か
ィリピンの 農 村 でフィールドリサーチ を
が長 年かけて 築いてきた基 礎 的 なインフ
ナンガルハール州ジャララバード郡で行われているプロジェ
クトの稲作栽培展示圃場を、現地の農業試験場職員や
JICA専門家らと視察
そこでJICAの 職 員 採 用 試 験 に 合 格
1987年JICAに就職。農村
開発部、米国カリフォルニア
大学デイビス校大学院への
海外長期研修、
インドネシア
事 務 所 、東ティモール財 務
計画省専門家を経て、2009
年4月より現職。
が 求 められていま す 。加 えて 、復 興 援 助
渡邉 健
らない。東ティモールでは、日 本や先 進 諸
WATANABE Takeshi
ラや 制 度 を 、短い期 間で 整 え なければな
アフガニスタン事務所
次長
し 、現 在に至っています 。
でした 。同 時 に 就 職 活 動 も 行っており 、
ルな ら 行ってみたいと 感 じ 、大 学4 年 生
外 協 力 隊 の 募 集 を 目 にし たので す 。当
ールの 村 落 開 発 分 野 で 活 動 す る 青 年 海
20
紛 争 の歴 史 を 持つ2つの国 での
勤 務 経 験がある渡 邉 健 さん。現
在は、アフガニスタンで 行 われて
いる J I C A の協 力 を 総 括 し 、
実
ところ が 、ちょう ど インド ネ シア 駐 在
の 後 半に 、東 ティモールが独 立 を 問 う 住
97
現 地 の 人 々のニーズに 応 え る 支
援を目指している。
アフガニスタン事務所で、
ナショナルスタッフとプロジェクトの進捗状況を確認する
(撮影:谷本美加)
文=谷本美加(写真家)
28
February 2011
FEBRUARY 2011
JICAが2008 年からアフ
ガニスタンで 実 施 している﹁ 教 師
援 教 育 学 部 ﹂の 設 置 支 援 を 行い
た 教 科 書 が 、ま も な く 同 国 全 土
プロジェクト ﹂を 通じて 作 成 され
教 員 養 成 校 で 新 たに必 修 と なっ
A専 門 家がチームを 組み、全 国の
今 回は、カブール教 育 大 学の特
別 支 援 教 育 学 部の講 師 とJIC
ました。
の教 員の卵たちに届けられます。
しました。ダリ語で書かれた文 章
の視 点 を 重 視した 教 科 書になり
アフガニスタン教 育 省
その 後 、
の校 閲 を 経た教 科 書は、
2010
印 刷が完 了しました。これまで教
緒 方 貞 子 理 事 長は1 月4 日 、全 世 界のJI
CA職 員・関 係 者に向けて年 頭の所 信 を 述べま
した。以下 、要 旨をご紹 介します。
● 世 界 経 済の見 通しが明るいとは言え ず 、﹃ 日
本はこのままでよいのだろ うか ﹄という 声 も 高
まっている 中 、JICAは 、ミレニアム開 発 目 標
化 を 目 指 す インフラ 事 業 、アフリカ 開 発 会 議
︵MDGs︶達 成のための事 業 、各 国の経 済 力 強
活 動に取り組んで行かなければならない。
︵TICAD︶関 連 事 業 、平 和 構 築 など 、幅 広い
●これらの 多 様 なニーズに 的 確 に 対 応 す るに
は、援 助 計 画の立 案から実 施に至るまでの方 針
事 業を展 開する必 要がある。
を明 確にし、現 場とJICA本 部が一体となって
●また、事 業の実 施 段 階では、専 門 家や実 務 家
の知 見の活 用 、研 究 者による評 価 、外 務 省など
関 連 省 庁 との密 接 な 政 策 討 議 、民 間 部 門 との
連 携 、他ドナーとの協 調が重 要である。
● 開 発 事 業 を 合 理 的 、効 果 的に進 め、かつ、こ
れらが社 会に発 信・認 知 されることによって 初
るのではないか。事 業 仕 分けの教 訓 も 生かさな
めて 国 際 協 力 事 業に対 する 広い支 援が得 られ
Inclusive and Dynamic Develop-
●2008年の新JICA発 足 時に選んだ私た
ければならない。
ちのビジョン
﹁
Inclusive
︵ すべての人々が恩 恵 を 受けるダイナミッ
ment
クな 開 発 ︶﹂を 追 求していかなければならない。
グロー バル 化 の 時 代 に おいて 、
〝
〟とは、﹁︵ 開 発の︶効 果 を 分け合
Development
う ﹂ということだけでな
く、
﹁ 上 昇 する 経 済の 中
部 分 を 取り込んでいく ﹂
に 、弱い部 分 、残 された
推 進していくよう 、役 職
こと。このビジョンを一層
JICAが毎 年 、夏 休み期 間
に実 施 している﹁JICA 国 際
協 力 中 学 生・高 校 生エッセイコ
発 表 されました 。今 回のテーマ
ンテスト2010 ﹂の 入 賞 者 が
は﹁ 行 動 ∼ 地 球 の 仲 間 のため
計7万1315点︵ 中 学 生の部
に、私たちができること∼ ﹂。総
夏、
JICAが支援する開発途上
古瀬世那さん
﹁モンゴルに灯った光 プロジェ
クト﹂
最 優 秀 賞 の 受 賞 者 には 今 年 の
小林千奈 津さん
﹁ 異国の地で見つけた私の夢﹂
● 山形県立東根工業高等学校3年
髙橋 瑞季さん
﹁ 心の叫びに耳を傾けて﹂
● 群馬県立勢多農林高等学校1年
● 頌栄女子学 院高等 学校1年
西村茉由さん
﹁ 小さなキャップと大きな想い﹂
︹ 高校生の部 ︺
時田彩 香さん
﹁つなげ!愛のリレー﹂
●周南市立秋月中学校3年
沼野井万 希子さん
﹁ 絵本 ﹂
●大垣市立赤坂中学校3年
●大田原市立野崎中学校2年
︹ 中学 生の部 ︺
最優秀賞
がとうございました。
ました。たくさんのご応 募 あり
万4234点 ︶
の力 作が集 まり
4万7081点 、高 校 生の部 2
「JICA国際協力中学生・高校生エッセイコンテスト2010」入賞者発表
教 育における特 別 支 援 教 育 強 化
アフガニスタンでは、長 年にわた
る 紛 争 や 地 雷 被 害 、文 化に起 因
内 容 の 確 認 を 行 うことで 、現 地
を 英 語に翻 訳 、日 本 人 専 門 家 が
数 十 万 人 に 上 る といわ れていま
ました 。また 、も う 一つの公 用 語
た特 別 支 援 教 育の教 科 書 を 執 筆
因などにより、国 内の障 害 者 数が
する姻 戚 婚や先天 的 ・ 後天 的 要
歳︶
す 。このう ち 学 齢 期︵7 ∼
であるパシュトウ 語にも 翻 訳され
者に配 慮した適 切 な 指 導 体 制が
年3月に特 別 支 援 教 育 教 科 書と
ています。
万 人 、そ のう ち
整っていないため 、落 第 または 退
員 養 成 校の授 業では最 終 稿のコ
月 上 旬に、配 付 用 教 科 書 の
この状 況 を 受けてJICAは、
ピーが使 用 されていましたが、ま
年
して 教 育 省 から 正 式 に 承 認 。昨
年から障 害 児 分 野の短 期 専 門
くありません。
家の派 遣を開 始 。 年には﹁ 特 殊
書が使 用されます。
も な く 、全 国 で 製 本 された 教 科
12
学せざ る を 得 ない子 ど も も 少 な
です 。また学 校に通 えても 、障 害
学 校に通っているのはわずか %
の障 害 者は約
14
36
教 育 強 化 プロジェクト ﹂を 実 施
05
03
国への研修旅行が贈られます。
February 2011
29
員 や 関 係 者 の 方々と と
もに努 力していきたい。
「現場とJICA本部が一体となっ
た事業展開が必要」
と話す緒方
理事長
15
し 、カブール教 育 大 学に﹁ 特 別 支
(上)バーミヤンの教員養成校で特別支援教育の授
業を受ける教員の卵たち
(下)
中田英雄JICA専門家
(右)
から教科書を受け取
るアサドゥラ・ムハキック教育省副大臣
03
02
緒方貞子理事長年頭メッセージ「JICAビジョンの追求を」
01
アフガニスタンで特別支援教育の教科書が完成
vol.29
Kenya
[ ケニア]
文・写真=久野武志(カメラマン)
トゥルカナ
悠久の大地
地球ギャラリー
早朝、冷たい風の吹きすさぶ中で神父が一人、一心に祈りをささげていた
しているかのよ う だ 。さぁ、トゥルカナ
その姿は、今 を 生 きる喜びを 全 身で表
舞った 。や り を 掲 げ 、跳 躍 を 繰 り 返 す
一 瞬 宙に浮いたかのよ うに、ひら り と
サンダルで 大 地 を 蹴 る と 、長 身の体 が
びがこだ ま す る 。古タイヤで 作 られた
で も 続 く サバンナに、男 た ちの雄 た け
鳥 と 風の音 しか 聞こえ ない、どこま
﹁ウオォー、
ウオォォ!﹂
ー・ロカテ︵
ながら、今 日の主 人 公で あ る 婿 ピータ
ていた 。その奥では 長 老 た ちに囲 ま れ
り 向 く と、
やりの一 撃でヤギが 屠 られ
みれ だ 。ドスッという 鋭 く 鈍い音 に 振
う も う と 舞 う 。誰 もが 汗 まみれ、埃 ま
れ た 手 製の鈴 が 鳴 り 響 き 、砂 埃 が も
合 う 。ステップのた びにひ ざに 付 け ら
り な が ら 喜 ば し き この瞬 間 を 分 か ち
重 ねた ネックレスを 首に巻 き 、歌い、踊
︶が まゆひとつ動 かさ ず 、
族 伝 統の結 婚 式が始 まる。
脈々と 守 り 続 け て き た 、誇 り 高 き 民
れ る 今 世 紀 に おいて も 、そ の 伝 統 を
らは 、
グローバリゼーションの波 にも ま
れるトゥルカナ 地 方 。ここに 生 き る 彼
栄 さ せる ために 大 切 なこと だ ﹂。鋭い
論 大 変 だ が 、子 孫 を 増 や し 民 族 を 繁
多 額 な もので、複 数の妻 を 持つのは 無
式 と 結 納 金︵ 牛 な どの家 畜 を 含 む ︶は
﹁ 今 回 娶る娘は3人 目の妻 だ 。結 婚
神 妙 な 表 情で鎮 座 していた 。
族で あ る 。男 は 勇 気 を 示 すダチョウの
眼 を 据 えて、ピーターは語った 。 トゥルカナ族の女性。少女のような笑みを見せたが、立派な一児の母
親だ
羽 を 髪に刺 し、女はビーズを 幾 重にも
アフリカ大 陸でもいま だ 秘 境 といわ
43
つえややりを掲げて跳躍し、雄たけびを上げながら式場に移動する若者たち
皆でリズムを刻みながら、歌い踊る。ひざに手製の鈴を付けている者もいる
C
B
A
D
A.男女が向かい合って歌う歌には、お互いを祝福し、
民族の発展を願う言葉がちりばめられている
B.祝いの牛が屠られ、皆で運ぶ。婿はこの日のために
牛1頭、
ヤギ7頭を客人に振る舞う
C.屠った牛の生き血は牛乳と砂糖を混ぜて飲む。
レバ
ーペーストに似た、濃く力強い味である
D.車座になって肉が焼けるのを待つ。木の葉を皿代わ
りにして、祝いの食事を分かち合う
vol.29
地球ギャラリー
G.地酒「ブサ」
を作る婦人。原料はトウモ
ロコシの粉やアワで、やや酸味があり、ア
ルコール度数は低い
H.携帯電話はサバンナの地域でも広ま
っている
I.夕方、
トゥルカナ湖に漁に出る男たち。
気 候 の 厳しいこの 地 域において、湖は
人々の支えになっている
G
H
薪拾いに出る少年。村周辺には薪にする木がなく、生活を助けるため子どもも遠くまで歩いて薪を探す
E
F
を 、時 に 家 族 を 失って き た 。日 常の食
干 ばつが 激 し く 、多 く の 人 々が 家 畜
が 見 え る 。固 定 電 話 と 違い、アンテナ
には、ヤギの革で 留められた 携 帯 電 話
断 じてならんことだ ﹂ 静 か な 怒 り を 込 めて 語 る 長 老の腰
を 一 基 建 て る だ け で サバンナで も 通
信 が 可 能になる携 帯 電 話 も ま た、
この
地の慣 習 を 何 か し ら 変 えていくのか
から 受 け 継 がれ た 生 き 方 と 土 地 を 捨
土 地は確 かに厳 しい。しかし 先 祖 代々
も ある生 活は楽 だろう 。我々の生 きる
れて、土 地 と 伝 統 を 捨てる 。水 も 食 料
よ う だった 。そ れは きっと 干 ばつも 、近
自の伝 統に生 きる誇 りにあふれている
る 彼 らの顔 は、悠 久の昔 から 伝 わる 独
と 踊 り は 続 け ら れ た 。夕 暮 れに 染 ま
夜のとば り が 降 り る まで、祝いの声
もしれない。
てることは、我々が 何 者で あ るか を 自
代 化 を も 凌 駕 するものだろう 。
危 機にある。若 者は街の生 活にあこが
﹁この干 ばつのせいで、我々の伝 統 も
のなのか﹂。長 老の一 人が聞 く 。
﹁ 干 ばつは 神の怒 り か 、世 界 中のも
事 さ え も ま まならないことも ある。
しかしこの地 方では2008年より
E . 薪を拾い、家に戻っ
てきた
F .トゥルカナ 族 伝 統の
家屋。家の中には生活
に最低限必要なものし
か置かず、水と牧草地を
求めて、時に移動する
らの手で 遺 棄 す ることになる 。そ れは
I
理数科教育研修を受け
るアフリカ諸 国の研 修
員たち
JICAの活動
地球ギャラリー
in ケニア
洪水対策が行われて
いるニャンド川流域
Vol.29
Kenya
中所得国への
成長の後押しを
ケニア
Illustration / Hori Takao
トゥルカナ地方
2030年までの中所得国入りを目指して、堅調な成
長を続けるケニア。経済成長率10%の維持を達
成するため、JICAはさまざまな開発手法を効果的
に活用した支援を続けている。
ケニア
地熱発電所の建設が予定されているオルカリ
ア地区
ナイロビ
タンザニア
著しい経済成長の恩恵を受け、アフ
して設 定 。
「ケニアビジョン2 0 3 0 」と
リカ大陸の成長をけん引するケニア。
「 第 4 回アフリカ開 発 会 議( T I C A D
また、近年深刻化する気候変動によ
2007年12月の大統領選挙を受けて
Ⅳ )」の議 論の内 容を踏まえ、技 術 協
り多 発している洪 水 被 害に対 応すべ
発生した騒乱では1,000人以上が犠
力、有償資金協力、無償資金協力を有
く、西部のニャンザ州のニャンド川流域
牲になり、一時は経済成長率も1.7%
効活用しながら包括的な支援を進めて
で洪 水 対 策を支 援 。0 6∼0 8 年の開
にまで落ち込んだ。
しかし現在は、政治
いる。
発 調 査では、
コミュニティー単 位の洪
的・社会的にも徐々に安定を取り戻し、
教育分野では1998年から中等教
水管理組織を設立したり、防災教育な
順調な経済回復が見込まれている。
育で行ってきた理数科教育分野での
どを行った。また、
その調査内容を踏ま
08年には国家戦略として「ケニアビ
協 力を初 等 教 育 にも拡 大 。0 9 年 に
え、無償資金協力を通じて井戸や避難
ジョン2030 」
を発表。2030年までに
「 理数科教育強化計画 」
を開始し、現
中所得国入りすることを目標に掲げ、
職教員の研修などを通じて、理数科教
さらに現 在 、サハラ以 南アフリカ諸
経済成長率10%の維持、衛生的かつ
育の質 向 上 、指 導 者の育 成を図って
国 初となる気 候 変 動 対 策 円 借 款「オ
行っている。
所、排水溝などを建設している。
安全な環境下での生活の保障、国民
いる。また、同 様の課 題を抱える他の
ルカリアⅠ 4・5号機地熱発電計画」
を
の人権・自由を守るため民主政治の確
アフリカ諸国への普及も重要であると
実施している。近年、増大する電力需
立などを目指している。
し、0 1 年に設 立された「アフリカ理 数
要に対応するとともに、天候に左右さ
これを受けJICAは、経済インフラ整
科 教 育 域 内 連 携ネットワーク」を通じ
れる水力発電への依存脱却を図るべ
備、農業開発、人材育成、保健医療、
て、教員育成の振興や教員研修制度
く、新たに地熱発電所を建設すること
環境保全の5つの分野を重点課題と
の構築などに関する技術交流・研修を
で安定的な電力供給を行う。
ケニアには 以 上の 民 族 が 存 在 す る
といわ れ 、そ れ ぞ れ が 異 なった 言 語や 文
化 を 持っている 。し か し 最 近 で は 、民 族
間 の 文 化 の 壁 が 少 し ずつ低 く な り 、食
文 化について も 、地 域 的 な 特 性 は あ る も
のの、ほぼ 全 国 的 に 似 た ものが 食べら れ
るよ うになっている 。
占 め る キ クユ族 の 食べ物 だった 。ゆで た
ゆでたジャガイモをつぶした﹁ イリオ ﹂
も その一つ。元 来 は、国 内で 最 大 勢 力 を
メイズ︵ トウモロコシ︶や 豆 を 、
ジャガイモ
料 理 。カボチャの葉 を 加 え ることで 全 体
と 混 ぜてつぶ し た シンプルでヘルシ ー な
が 薄 緑 色 に な るのが 特 徴 だ 。付 け 合 わ
せ と して 、葉 もの野 菜 や トマト を 使った
も 美 しい。
サラダな ど とお 皿に盛 ると、彩 り が とて
葉 もの野 菜にも さ ま ざ ま な 種 類 が あ
るが 、中 で も 伝 統 的 な ものの一つがクン
デ。アフリカが原 産 といわれるカウピース
︵ ささげ ︶という 豆の一 種 。豆 部 分のみな
らず 、
やわ らかい葉の部 分 も 食 用 とさ れ
本 風のつく だ 煮にしても おいしい。
ている 。独 特の舌 触 り と 香 り が あ り 、日
︿イリオ﹀
︻ 材料︵ 4人前 ︶︼
ャガイモ8個/カボチャの葉
︵またはホウレン
コーン1カップ/グリーンピース1カップ/ジ
バター適宜
ソウ︶
の粗みじん切り2カップ/塩、
コショウ、
︻ 作り方 ︼
かくゆでてザルにあげる。
1.
コーン、グリーンピースをそれぞれやわら
2.
ジャガイモは皮 をむき四ツ切りにしてゆ
たはホウレンソウ︶
を加える。
でる。ゆで上がる直 前にカボチャの葉︵ま
水分を切る。
3.
2の葉がやわらかく なったら 火 を 止め、
4.
1と3を 混ぜ合 わせ、塩 、
コショウ 、バタ
ーを適 宜 加え、全 体が緑 色になるように
February 2011
マッシュする。
37
☆コーンが柔らかすぎてつぶれてしまいそう
編集協力 : JICAケニア事務所 進藤むつみ
な場合には、
コーンのみ後から加える。
ケニアの市場では、
クンデが山盛りにされて
売られている
首都:ナイロビ
面積:58.3k㎡
(日本の約1.5倍)
人口:3,980万人
(2009年)
公用語:スワヒリ語、英語
宗教:伝統宗教、
キリスト教、
イスラム教
1人当たり国民総所得(GNI)
:760ドル
(09年)
経路:日本からの直行便はなく、
ヨーロッパや中東経由が一般的。
通貨:ケニア・シリング
(KES)
1KES=約0.99円(2011年1月現在)
気候:沿岸部は温暖で湿潤、中央部のハイランド地区は冷涼で湿潤、北部・
東部は高温で乾燥している。雨期(4∼6月、10∼11月)
と乾期(12∼3月、
7∼9月)
に分かれる。
ケニア料理
アフリカ版マッシュポテト
「イリオ」
40
February 2011
36
[
月 号 特 集 ﹁ 育 て !未 来 のエン ジニア ﹂ を 読 んで]
38
February 2011
■ 世 界 が 争 いの ない 世 の 中 に な る に は 教 育 の 力 が 大 き
歳・男 性・教 員・田 崎 潤 ︶
もっと 大 き な 視 野 を 持 ち 、 取 り 組 ん で い か な く て は と
いと 今 月 号 を 見 て 、改 めて 感 じ た 。 私 も 教 育 者 とし て 、
感 じ ま し た 。 ︵ 群 馬 県・
■ 産 業 や 科 学 技 術 分 野で 新 興 国 や 途 上 国 が発 展 を 見 せ
る 中 、 日 本 で は 近い 将 来 そ れ らの 国 々 に 日 本 が 追い 抜
外 国 を 援 助 す る よ り も 、 日 本 のこ と を 何 と か し な け れ
か れ る ので は 、 とい う 危 機 感 を 持っている 人 もい ま す 。
ば 、 と 私 も 思って し ま う こ と が あ り ま す 。 で も そ ん な
内 向 き の 愛 国 心 や 自 尊 心 と も い え ない よ う な も の を 抱
いている 人 よ り も 、 今 、 自 国 の 問 題 を 直 視 し 現 状 を 何
と か 変 え る 力 に な り たい と 努 力 す る 世 界 の 学 ぶ 人 達
C
た 人 々 に 接 す る こ と は 、 日 本 の 発 展 に もつな が る と 思
次 号 予 告(2011年3月1日発行予定)
F
は 、 何 倍 も その瞳 を 輝 かせているので しょう 。 そ ういっ
歳・女 性・清 水 福 ︶
2
いま す 。 ︵ 東 京 都・
① マダガスカルの雑貨(A∼Fのいずれか)
(p30参照)
② 書籍『タブー パキスタンの買春街で生きる女性たち』
③ 書籍『車いすがアジアの街を行く
アジア太平洋障害者センター
(APCD)
の挑戦 』
(p30参照)
申 込 先 (株)国際開発ジャーナル社 業務部(発送代行)
住 所 〒107-0052 東京都港区赤坂2-13-19 多聞堂ビル
T E L 03-3584-2191
F A X 03-3582-5745
E m a i l [email protected]
Email : [email protected]
F A X : 03-3582-5745(『JICA’
s World』編集部宛)
日本各地の地場産業を生かして開発途上国の地域産業を
支援するJICAの取り組みを紹介します。
1
[ 月 号 特 集 ﹁ カ イ ゼン from JAPAN
﹂ を 読 ん で]
■ 日 本の5Sや カ イ ゼンが、こ れ ほ ど 多 くの国 々に広 が
3
D
り 、モ デルと なっている 事 に 驚 き で す 。 技 術 やア イ ディ
も 世 界 に 発 信 し て も らい たい も の だ。︵ 米 や 中 が ク シャ
アのみ な ら ず 、 強 固 な 意 志 、 意 見 、ア イ デンティティー
ミ を し て も 風 邪 を ひ か な い 様 な た く ま し い 体 質 をつ く
る ︶ ︵ 秋田県 ・ 女 性 ・ 大 学 職 員 ︶
■ 学 校 で も 〝 授 業 改 善 〟 とい う 名 の も と で 教 員 に よ る
研 修 が 行 わ れ てい ま す 。 現 状 に 満 足 せ ず 子 ど も 達 に 最
大 限 の 学 び を 提 供 で き る よ う 工 夫 を 重 ねてい ま す 。 基
本 は や は り 学 級 と い う 場 の 整 理 ・ 整 と ん 、 しつけ な ど
歳・男 性・教 員 ︶
◎応募締切: 2011 年 3 月15日
地場産業
E
B
33
本誌をご希望の方には、送料をご
負担いただく形でご送 付いたしま
す。巻末の払込取扱票に、氏名・住
所・電話番号・ご希望の送付期間・
額を郵便局でお支払ください。入金の
送付開始月を明記の上、指定の金額を郵便局でお支払く
金から1週間程度かかることもあります
確認後、発送手配をいたします
(入金から1週間程度かかるこ
バ クナンバ
をご希望 方は送料
のでご了承ください)
。複数冊、
またはバッ
クナンバーをご希望の方は送料
が異なりますので、下記までお問い合わせください。
申込方法
添付のアンケートはがき、Eメール、FAXから、本誌に対す
るご意 見やご感 想 、
またJ I C Aへのご質 問を、氏 名・住 所・
電話番号・職業・年齢・性別・ご希望のプレゼントを明記の
上、お送りください。ご記入いただいた個人情報は統計処
理およびプレゼント発送以外の目的で使用いたしません。
当選者の発表は発送をもってかえさせていただきます。
45
環 境 づく り で す ね 。 ︵ 静 岡 県・
49
本誌をご希望の場合は
下記方法で
お申し込みください。
プレゼ
ント
付き
本誌へのご意見・ご感想や
JICAへのご質問を
お寄せください。
10
11
A
FEBRUARY 2011 No.29
編集・発行/独立行政法人 国際協力機構 Japan International Cooperation Agency : JICA
〒102-8012 東京都千代田区二番町5-25 二番町センタービル1∼6階 TEL:03-5226-9781 FAX:03-5226-6396 URL:http://www.jica.go.jp/ 本誌掲載の記事、写真、
イラストなどの無断転載を禁じます。
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2011
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AS CA
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ATA
RI FROM
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©Yuki Asada
一本の針から広がる世界
ある冬の日、ドアを開けると、数人
員として裁縫技術を指導。阿部さんの
の女性たちが、カラフルな布を手にひ
熱意と温かいまなざしに支えられなが
たすら針を動かしていた。チクチクチ
ら、女性たちは1本の刺しゅう針を巧
ク…。そんな音が聞こえてきそうだ。
みに操り、見る見るうちに美しい線を
アフリカ南部に浮かぶ島国マダガス
描けるようになった。
カル第2の都市、アンチラベ。日本で
昨年からはお土産物用に商品の種
は、作家・曽野綾子氏の小説の舞台に
類を増やして販売。各都市の見本市で
なった「アヴェ・マリア産院」がある町
も好評だ。「私がいなくなっても、彼
として、なじみのある人もいるのではな
女 たちが 活 動を 続 け て い けるよう
いだろうか。
に」。阿部さんはそんな思いで、製作
その縁もあり、曽野氏が設立時に支
や販売にかかわるお金の管理のノウハ
援した地元NGO「チンジャンジャラ」
ウも伝え始めた。
では、貧しさ故に学校に通えない女性
マダガスカルの風の音が聞こえてき
たちを対象に、識字教育や職業訓練
そうなさわやかな雑貨。手に取ると、
を行っている。20 09年からは青年海
楽しそうに針を動かす女性たちの明る
外協力隊の阿部美香子さんが家政隊
い笑顔が目に浮かぶ。
阿部隊員
(左)
から裁縫技術を学ぶ女性。手先の器用
さは見事なものだ
★グリーティングカードを3人、キーホルダー、化粧ポー
チを各2人、
ブックマーク、
シュシュ、携帯ストラップを各1
人にプレゼント!詳細は38ページへ→
マダガスカル
アンチラベ
Vol.28 マダガスカル
タスキでつなぐ人のきずな
私の
女子マラソン五輪メダリスト
有森 裕子
A RIMORI Yuko
2011
FEBRUARY
Vol. 6
No.29
[ジャイカズ ワールド] 平成23年2月1日発行(毎月1回1日発行) 編集・発行/独立行政法人 国際協力機構
〒102- 8012 東京都千代田区二番町5-25 二番町センタービル 1∼ 6階 TEL 03-5226-9781 FAX 03-5226-6396 http://www.jica.go.jp/
ica.go.jp/
PROFILE
1966年岡山県出身。日本体育大学卒業後、株式
会社リクルート入社。バルセロナオリンピック、
アトラ
ンタオリンピックの女子マラソンで、銀メダルと銅メ
ダルを獲得。1998年にNPO法人ハート・オブ・ゴー
ルド設立。カンボジアを中心に国際協力に取り組
む。2002∼10年まで国連人口基金親善大使。
「なんとかしなきゃ!プロジェクト」著名人メンバー。
Ekiden for Peace 2010/写真提供ジョイセフ
私が国際協力と出会ったのは、今
得るんだということを知ったんです 。
昨 年 2月、
タンザニアのブルンジ国
から1 5 年 前 。カンボジアの地 雷 被 害
私を幸せにしてくれたスポーツを通じ
境近くの難民居住区で行われた駅伝
者 への支 援を目的に開 催された「ア
て、
もっと多くの人が生き生きできる場
大会では、子どもから大人まで、難民
ンコールワット国際ハーフマラソン」が
をつくっていきたい。そんな思いが強く
として暮らす人々と一本の真っ赤なタ
きっかけでした。招 待 選 手として、世
なり、N P O 法 人ハート・オブ・ゴールド
スキをつないで走りました。母 国を離
界遺産にも登録されているアンコール
を立ち上げました。
れ、厳しい環境下で生きる彼らに、仲
遺 跡がある美しい街 並みを背に、現
とは言っても、ただ一 緒にスポーツ
間と同じゴールを目指し、
タスキを通じ
地の人たちと一緒に走る機会に恵ま
をするのでは意 味 がありません。何
て心と心がつながる感 動を味わって
れたのです。
でもいい 。スポーツを通じて、彼らに
もらえたなら、
これほどうれしいことは
ありません。
明日生きるための食 べ 物もない中
“ 学んで”
もらうことが大 切だと考えま
で、開発途上国では日本のようにスポ
した。そこでハート・オブ・ゴールドで
これから国際協力に取り組んでみ
ーツは普 及していません。
カンボジア
は、教育分野の支援に重きを置き、小
たいと思っている若者たちへ―。
自分
でもそう。マラソンは初めての人がほ
学 校の体 育 科 教 育 指 導 書の作 成 、
を好きにならなければ、他人を思いや
とんどで「 何 で 走らなきゃいけない
HIV/エイズ予防教育などに取り組
る気持ちは生まれてきません。
まずは自
の?」という顔をしている人もたくさん
んでいます。
分自身を知る努力をしてください。
日本
いました。
また自分の活動以外に、先輩の瀬
の国際協力を盛り上げていくために、
でも走り終えると、一つのことをやり
古利彦さんの提唱でスタートした「Ek
未知なる若い力に期待しています。
ISSN 1883-2768
遂げたという達成感で、
どの人も見違
iden for Peace」にも参加させていた
えるように生き生きと輝いていた。
ここ
だいています。
「日本発祥の駅伝は、
までの力があるなんて―。その瞬間、
難 民 問 題 の 解 決に最 適なスポーツ
現役時代からずっと、
自分を喜ばせる
だ」。瀬古さんの言葉を聞き、
“タスキ”
ために走り続けてきた私は、スポーツ
で
“ 人と人 ”
をつなぎながら走る駅 伝
が 他の人をも喜ば せる手 段にもなり
の意味を改めて考えました。
「なんとかしなきゃ!プロジェクト」は、開発途上国
の現 状について知り、一 人 一 人ができる国 際 協
力を推 進していく市民 参 加 型プロジェクトです。
ウェブ サイトを中 心 に 、さまざまな 国 際 協 力 の
カタチを提 案していきます。
詳しくはこちらから→
なんとかしなきゃ.jp
環境に配慮した植物性大豆
油インキを使用しています。
本誌は再生紙を使用しています。