未完成関係 - 小説家になろう

未完成関係
イワシ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
未完成関係
︻Nコード︼
N2508BG
︻作者名︼
イワシ
︻あらすじ︼
どこか遠いところから鈴の音が聞こえてくる。
始まりは決まっていつもそうだ。そして次に、からみつく真っ白な
シーツから抜け出ようと、高く手を伸ばす。
風に揺れているのは多分カーテン。淡い緑のカーテンがゆらゆらと
波打ち、時折眩しい光が差し込んでくる。
ああ、なんて明るいんだろうと、私はそう思う。きっと外はとても
いい天気だ。こんなにも日差しが暖かい。
鈴の音は自分の笑い声だと気がついて、結衣は微笑んだ。眠りは長
1
い時間をかけ、さざ波のように浅い深いを繰り返している。どうや
ら夢うつつの中で、声を出して笑っていたらしい。後ろから首筋を
くすぐるのは、彼の寝息だ。こそばゆさが我慢できなくなり、また
声を出して笑うと、霞んだ意識が少しだけはっきりとした。
2
未完成関係1
どこか遠いところから鈴の音が聞こえてくる。
始まりは決まっていつもそうだ。そして次に、からみつく真っ白な
シーツから抜け出ようと、高く手を伸ばす。
風に揺れているのは多分カーテン。淡い緑のカーテンがゆらゆらと
波打ち、時折眩しい光が差し込んでくる。
ああ、なんて明るいんだろうと、私はそう思う。きっと外はとても
いい天気だ。こんなにも日差しが暖かい。
鈴の音は自分の笑い声だと気がついて、結衣は微笑んだ。眠りは長
い時間をかけ、さざ波のように浅い深いを繰り返している。どうや
ら夢うつつの中で、声を出して笑っていたらしい。後ろから首筋を
くすぐるのは、彼の寝息だ。こそばゆさが我慢できなくなり、また
声を出して笑うと、霞んだ意識が少しだけはっきりとした。
そろそろ起きる? おなか、すかない?
そう聞いても、返ってくるのは低い唸り声だけ。さっきからずっと
この調子だ。
もういいや、今日はとことん寝坊しよう。二人とも休みなんだから。
諦めて目を閉じると、すぐにまた微睡が訪れる。
結衣はこうしていられることの幸せに漂いながら、体を捻らせた。
背中で感じるぬくもりを抱き締めたくて、シーツの上を手探りする。
だがそこにあるべきはずのものにたどり着く前に、伸ばした手は現
実に触れた。掴んだのはベッドサイドに置かれた読みかけの本だ。
その硬さは目覚まし時計よりも効果的に、結衣を起こしてくれた。
見上げた天井が自分の部屋のものではなかったので、一瞬居場所が
錯綜する。結衣はここが叔母の家であることを思い出すと、起き上
って大きく伸びをした。シーツもカーテンも全く違う色であること
に苦笑いをする。
また、あの夢を見た。
3
幸せの余韻が消えないまま、ベッドから降りた。一日の始まりを気
持ち良く迎えられたことへの満足と共に、いつものようにわずかな
疑問がよぎる。
隣で眠っているあの人は、一体誰なんだろう。なぜいつも、手が届
く寸前で目が覚めてしまうのだろう⋮⋮。
結衣は着替えを済ませると、慌ただしく部屋を出た。洗面台の鏡に
は大きな目と、指で摘まんだような鼻先が映っている。色んな角度
から自分の顔を眺めてみても、そう悪くないほうだと思える。いや、
思っていた。
ため息をつきながら鏡に向かって前髪を上げてみると、片眉の上を
垂直に走る淡紅色の傷痕が現れた。正視するのはまだ少しつらいが、
これくらいで済んでよかったと思おう。元が良すぎたのよと、自分
に言い聞かせる。
コーヒーのいい香りを追って行くと、台所では叔母が朝食の用意を
してくれていた。結衣は叔母のふくよかな顔を覗き込んだ。
﹁おはよう、叔母さん﹂
﹁あら、結衣。まだ早いんじゃない? そんなに急がなくても、会
社まで叔父さんが送っていくからゆっくり支度なさいな﹂
﹁今日からバスで行くわ﹂
結衣はコーヒーを注ぎながら、小言を言い出そうとする叔母を遮っ
た。
﹁心配しなくても大丈夫よ。もうどこもなんともないわ。傷も完全
に塞がったし、痛みもないわ。昨日一日働いてみたけど、全然平気
だった。週末には自分のアパートに帰れるわ﹂
﹁そんなの駄目よ。あなたは少し前まで入院していたのよ。それな
のにもう一人で暮らすなんて、私は許しませんからね﹂
爽やかな朝の食卓に叔母の嘆きが響いた。予想どおりの反応に、普
段なら辟易とするところだったかもしれない。だが今は叔母の心配
性が逆に嬉しかった。それでも結衣はもうこの家を出ることを決め
ていた。カレンダーを見ると、今日は十一月二十日。事故からちょ
4
うど丸一ヶ月が過ぎていた。
﹁無理はしないと約束するわ。毎日メールするし、もし少しでも体
調が悪ければすぐに病院で診てもらう。それに隣には万里江が住ん
でいるのよ。今までどおり夕食は万里江と一緒に取るわ﹂
﹁万里江なんか当てになるもんですか。このひと月、あの子がどん
な生活をしていたか、わかったもんじゃないわ﹂
﹁口うるさい私が戻れば、ちゃんと約束を守るわよ﹂
結衣は自分の体が元に戻ったことを示すために、胸を張ってみせた。
食欲旺盛を見せつけるようにパンやサラダを頬張る。勿論、そんな
ことで叔母が納得するはずないことはわかっている。だが気ままな
独り暮らしが中断されて、早一ヶ月。入院中は検査に明け暮れ、退
院したあとも行動の制限は厳しく、フラストレーションは溜まる一
方だ。それにどんなに気心の知れた叔母夫婦でも、二十五歳にもな
って面倒をかけるのは、やはり気が引けた。
﹁昨日、会社の上司と相談したの。しばらくは残業のない部署に変
えてもらうことにしたわ。客先へ出向くこともなくなるから、肉体
的にはかなり楽になるはずよ﹂
叔母の顰め面を笑い飛ばすような、明るい口調だった。だが結衣の
心は職場でのやり取りを思い出して、落ち込んでいた。どんなに大
丈夫だと言い張っても、課長を初め同僚の亜矢子や藤木も、それを
認めてはくれなかった。片時もモバイルパソコンから手が離せず、
ランチはもっぱらファストフード。そんな嵐のような制作の現場に、
復帰させるわけにはいかないというのだ。
確かに結衣はまだ健康上の不安を抱えていた。何しろ一時は意識不
明に陥ったのだ。長い入院を余儀なくされ、額には傷痕が残ってい
る。田舎で事故の知らせを聞いた母親は電話口で卒倒し、駆けつけ
てきたあと、娘の額がぱっくりと割れたと聞いて再び卒倒した。縫
合された傷を初めて見た時は、自分でも気分が悪くなったくらいだ。
他にも重大な損失を被ったが、そのことについて今は考えたくない。
医者も深刻になるのはよくないと言っていた。
5
だが一番気になるのは、事故のあと頻繁に見るようになったあの夢。
ふいに夢の中のリアルな感触が蘇ってきた。真っ白なシーツ。緑の
カーテン。そして間近に感じる体温と息遣い。
まるで、真後ろに誰かがいるようだった。背中にじんわりと温かみ
が広がり、今すぐにも誰かの腕に抱き締められるような、そんな気
がしてくる。
結衣は突然堪らなくなり、胸いっぱいに息を吸い込んだ。あの夢に
は続きがあるような気がする。いつも何かを探し求めたところで目
が覚めてしまうけれど、一体それはなんなのだろうか?
頬が紅潮するのにはわけがある。探しているのがあの人だとすれば、
私は自分で思っている以上に彼に夢中だということだ。
結衣は不満気な叔母をなだめすかして、家を出た。停留所にバスが
留まっているのが見えたが、走って転ぶような真似をするわけには
いかない。仕方なくバスを見送ると、すぐ側の縁石に一台の車が乗
りつけた。
﹁おはよう、結衣ちゃん。見たところ君はバスに乗り遅れたようだ
が﹂
﹁あら、江原のおじさん﹂
車の窓から顔を覗かせた男性は、叔母の家の近所に住む江原だった。
結衣は笑顔になった。江原にはもう高校生の娘がいるが、いつ見て
も三十代かと思えるほど若々しい。同じビル内で働いているので、
同乗させてもらえれば窮屈な通勤ラッシュから逃れられる。叔父の
送迎は過保護でも、行き先が同じ江原なら甘えたいところだ。
﹁乗り遅れたんじゃありません。バスの運転手が定刻より早く発車
しちゃったんです。これだからバスは嫌なのよ﹂
﹁代わりに僕が乗せていくから、朝からそんなに怒るなよ﹂
江原はそう言うと、体を伸ばして助手席のドアを開けた。結衣は結
局今日もバス通勤しなくて済んだことをラッキーと思いながら、車
に乗り込んだ。
﹁退院してから間もないけど、仕事なんかして大丈夫なのかい?﹂
6
江原がハンドルを片手に言った。結衣は小首を傾げた。
﹁もう完全に復活と言いたいところだけど、まだ体力が戻っていま
せんね。すっかり体が鈍ってしまったわ。あと、勘も。しばらくは
無理しないようにします﹂
﹁見舞いに行った時よりは、随分顔色が良くなった。まあ、頭に包
帯をグルグル巻きにしていた君を見て、うちの娘のほうが真っ青に
なってしまったけど﹂
﹁色々とご心配をかけました﹂
江原が家族全員で見舞いに来てくれたことを思い出し、座ったまま
頭を下げる。
﹁でも周りが騒ぐほど大変なことだっていう実感がないんです。だ
って気がついたら病院のベッドの上っていう感じなんだもの﹂
﹁だけど、頭を打つっていうのは怖いことだよ。万が一なんてこと
もあるからね。うんざりするくらい検査されたんじゃないかい?﹂
﹁ええ、うんざりしました。でも髪を切らずに済んでよかったわ﹂
結衣は額の傷痕にそっと触れてから、肩まである髪を梳いた。ガー
ゼが取れたのは数日前だ。江原はその仕草をチラリと見た。
﹁君のことを教訓にしてはなんだけど、夜道を歩く時は気をつける
ように家内と娘に注意したよ。雨の日の夜は特にね﹂
﹁ええ、まあ⋮⋮﹂
語尾をあやふやにして答える。答えを濁すのは結衣らしくなかった
が、これが精一杯だった。江原一家は結衣が大学生の時分、叔母の
家に居候していた頃に随分と仲良くしていた。結衣が希望どおりイ
ンテリア業界で働くことができたのも、江原の紹介があったからだ。
だがどんなに懇意にしていても、事故のことは詳しく言えない。そ
れは叔母や親友の万里江に対しても同じだった。
結衣が江原の家族の話を持ち出すと、彼はすぐにそれに飛びついた。
気がつけば、車は会社のビルの前まで来ていた。
﹁駐車場に留めてくるから、ここで降りなよ﹂
﹁ありがとうございます。助かりました﹂
7
笑顔を江原に向けたまま、車から降りようとする。その時、立ち塞
がる何かにぶつかりそうになり、結衣は驚いて顔を上げた。
その男は、聳える雪山のように冷然と結衣を見下ろしていた。距離
の近さもさることながら、男の表情の険しさに思わず目を見張った。
髪を後ろに撫でつけ、スーツを着ている。三十歳くらいだろうか。
肩幅が広く長身で、おまけに顔立ちの良さは軽く並みを超えていた。
それだけでもひどく威圧的に見えるのに、細く吊り上った目の鋭さ
に、結衣は車から半身を乗り出したまま身動きすることができなか
った。男は一瞬目を細め、車の運転席をわずかに覗き込んだ。そし
てそのあと、明らかな嘲笑を浮かべた。
﹁そういうことか﹂
低い声。その響きに結衣は息を飲んだ。体中を戦慄が駆け抜ける。
男は背を向けると、足早にビルの中へと入っていった。結衣は茫然
としたまま、見知らぬ男の後姿を見送った。あっという間の出来事
ひき
だったのに、まるでスローモーションのようにくっきりと目に焼き
ついている。
﹁今の、うちの本社統括部の日置君じゃないか。君たち、知り合い
なのかい?﹂
江原に声をかけられ、結衣は我に返った。指先が痺れたような奇妙
な感覚が、ようやく静まる。その名前にも居丈高な顔にも、覚えは
ない。
﹁シノハラ住建の統括部? いいえ、知らないわ。見たこともない﹂
かぶりを振って否定する。ビルのエントランスには次々と人がなだ
れ込み、もうその男の姿は見えなかった。結衣は急に腹が立ってき
た。確かにシノハラ住建の社員は、学歴やコネが一段階上だ。その
中でも本社の統括は花形部署かもしれないが、あんな不躾な態度は
あんまりだ。
﹁全く面識ないのかい? それにしては随分ご立腹だったみたいだ
けど﹂
結衣はからかい口調の江原を軽く睨んだ。ここへ来るまで密かに抱
8
えていた不安は、見知らぬ男への怒りにすり替わった。
﹁関連会社の制作アシスタントになんの用かしら? もしかしたら、
嫌味を言いに来たのかもしれないわね。今年の夏は忙しくてお盆休
みも取れなかったっていうのに、そのことには知らん顔をして、怪
我でほんの少し休んだら、わざわざ統括部の人間がお出ましになる
なんて﹂
﹁そういう感じには見えなかったけどな﹂
﹁本社の人って偉そうで嫌いよ。大きい声じゃ言えないけど、支店
にいるおじさんたちのほうがよっぽど働いている気がするわ﹂
﹁うちの支店は本社に近いから、たまにこうして顔を見せるけど、
彼も仕事人間だよ。でも君の勤め先とはフロアが違うから、せいぜ
いエレベーターで乗り合わす程度だろう。きっと人違いさ﹂
江原は今の男に対して悪い評価をしていないようだった。苦笑いを
している。
﹁そうですね﹂
結衣は肩を竦めてそう言うと車から降りた。大きく構えられたエン
トランスを真正面に見据える。これからしばらくの間、もっと不可
解なことが起こるはずだ。こんなことくらいなんでもない。高層ビ
ルの中にはシノハラ住建の支店を始めとするシノハラグループの関
連会社が多数入っていて、結衣の勤め先であるシノハラデザインも
そのひとつだ。入社してからずっと、このオフィス街の綺麗なビル
に入っていけることが結衣の自慢だった。だが今は復帰したばかり
なので、切れ間のない人の流れへ入り込むのに少し躊躇してしまう。
結衣は前髪を摘まんで整えると、大きく深呼吸をした。
どうか、大切なことを忘れていませんように。どうか、なくした数
か月間に、かけがえのないものがありませんように。
高いビルの、その向こうに広がる青空に祈りながら、前へと踏み出
した。
9
未完成関係2
職場への復帰を果たしたものの、仕事内容はガラリと変わった。今
までは営業制作部で亜矢子の補佐を主としていたが、昨日の話し合
いで結衣はその担当を外れることになった。しばらくは顧客の店舗
へ下見に行くことも、細かな什器の打ち合わせに参加することもな
くなる。埃っぽい工事現場で、進行の是正を巡って作業員と揉めな
くてもいい。
現実的な結衣は切り替えも早かったので、自分のデスクが移動にな
り私物が端に寄せられていることも気にしなかった。事務仕事を覚
え、ステップアップに繋げればいい。そう思うことにした。それに
移動といっても、室内で座る場所が変わるだけなので、特に構える
ことはない。だが同僚の亜矢子は状況を悲観していた。
﹁このひと月で、どんなにあなたが優秀か思い知ったわ。臨時で雇
ったアルバイトの子、全然使いものにならないのよ﹂
﹁私だって初めはそうだったじゃない。ミスばかりして、亜矢子さ
んに迷惑をかけたわ﹂
結衣は照れくさくて頬を赤くした。多少なりとも頼りにされていた
のだと思うと嬉しかった。入社当時から複数の制作プランナーをア
シストしてきたが、亜矢子とは一番長いつき合いだ。彼女はいかに
も勝気なキャリアウーマンといった外見だが、中身は至って気さく
で少々抜けているところがあった。時折驚くような初歩的なミスを
犯し、その結果とんでもない事態を引き起こしたことが、つい最近
もあった。
﹁アルバイトの子は遥花ちゃんっていうの。ねえ、あなたから彼女
にアドバイスをしてあげて。私が抱えている顧客のことは、あなた
が一番詳しいんだもの﹂
亜矢子はそう言って結衣の手を握った。結衣は苦笑いを浮かべ、ど
うやって切り抜けようかと考えを巡らせた。
10
確かに亜矢子の言うとおり、癖の多い顧客や職人気質の業者とやり
合うにはコツが必要だ。短期間とはいえ自分の仕事を任せるなら、
そのコツを伝授する義務が結衣にはある。だが、そうすることを躊
躇してしまう理由があった。結衣が黙ったまま俯いていると、亜矢
子は益々顔を曇らせた。
﹁ごめんなさい。あなたはあなたで新しい仕事を覚えなければいけ
ないのに、まだ私のフォローを頼むなんて無理よね。こんなことに
なったのは私のせいだっていうのに⋮⋮﹂
﹁そんなことはないわ、亜矢子さん。もうそのことは言わないで。
事故に合ったのは私の不注意なのよ﹂
結衣は慌てて手を握り返した。最近起こったとんでもない事態は、
亜矢子にとっても簡単に忘れられないようだ。だが気立てのいい彼
女がいつまでも自分を責めているのはつらかった。
﹁結衣はなんにも悪くないわ。青信号で横断歩道を歩いていたこと
が不注意だなんて言ったら、怖くて外を歩けないじゃない﹂
﹁きっと雨のせいで視界が悪かったのよ。よくない条件が重なった
だけだわ﹂
結衣は努めて明るく振る舞うと、私物を纏めた段ボール箱を持ち上
げた。その途端に、腕の中から箱が奪われた。
﹁まだ重い物は持つなよ﹂
そう言って笑顔を向けたのは、同僚の藤木だ。彼は易々と荷物を新
しいデスクへと運んでくれた。
﹁ありがとう、藤木さん﹂
﹁どういたしまして﹂
藤木は結衣と亜矢子の間に立つと、いつものように屈託なく笑った。
長身の上に人懐こい丸顔が乗っていて、女二人が見上げる格好にな
る。
﹁結衣がいなくて困っていたのは亜矢子だけじゃないぜ。俺の書い
た字を解読できるのは君だけなんだからな。あの遥花って子、何度
伝票の入力間違いしたことか﹂
11
﹁言っておきますけど、私だって楽に解読できていたわけじゃあり
ません。だいたい自分で入力して打ち出せばいいのに、適当なメモ
書きで人に頼んだりするから間違うんでしょ﹂
﹁俺の場合、打つよりも書いたほうが早いんだよ﹂
﹁だったら読む側を問題にするんじゃなくて、藤木さんの書く文字
をなんとかするべきだわ﹂
結衣は怒った振りをして藤木を睨んだ。藤木と亜矢子は共に結衣よ
り二つ年上だったが、おどけた言動が多い分、藤木に対してはつい
言葉遣いが対等になってしまう。制作部の中で三人は同世代で、以
前から仲が良く、しょっちゅうこんなふうにふざけ合っていた。
﹁遥花ちゃんは藤木君に気があるみたい。わざと失敗して注意を引
く作戦よ﹂
亜矢子が藤木をからかうように目を細めたので、結衣は大袈裟に頷
いた。
﹁なるほどね。そういうことなら私は陰ながら見守ることにするわ﹂
﹁そんなのじゃないよ。俺は、ホラ、いい人に見られがちというか
⋮⋮﹂
藤木は恥ずかしいのか、決まりが悪そうだった。結衣は自分がいな
い間に時間が進んでしまったことを感じて寂しさを覚えた。だがお
いてきぼりよりも、漠然とした不安のほうが気にかかり、無理に笑
顔を作った。
﹁古い顧客への対応は、できる限りフォローします。でも色々あっ
たから、自分の中でまだ整理がつかないの。一ヶ月も仕事から遠ざ
かっていたから、答えがあやふやになってしまったらごめんなさい﹂
亜矢子と藤木は快く頷いてくれた。罪悪感を飲み込んで、結衣は新
しい仕事へと取りかかった。
夕方になると、微妙に頭痛がしてきた。まだ本調子でないことを自
分の体に教えられている。きっと顔色も悪いのだろう。結衣は周り
に気づかれないように席を立ち、息抜きがてら書類配布のためフロ
アを移動した。
12
普段行くことのない階でエレベーターから出ると、違う雰囲気が漂
ってきた。この階には、シノハラ住建の支店がある。シノハラ住建
は関東で上位の建材メーカーで、地元では優良企業として多少知ら
れている。世間的にはシノハラと名のつくものはグループとして一
括りにされていたが、結衣たち関連会社の社員はわずかながらの皮
肉を込めて、シノハラ住建のことを本舗と呼んでいた。だが支店に
関しては同じビル内で共有するスペースも多いので、悪い関係では
ない。仕事でからむこともあり、復帰の挨拶をしなければいけない
と思っていたところだ。
結衣は前髪が乱れていないことを確認してから、シノハラ住建の受
付に近づいた。その時、強い力が腕を引いた。驚きで悲鳴を上げそ
うになったが、硬い何かに鼻がぶつかり声は消された。
見上げて、更に驚いた。ぶつかったのが男の胸だと気づくより先に、
その眼差しの冷たさに心臓が止まった。
﹁あなたは﹂
今朝の男だった。男はうわ言のように呟く結衣を引っ張って、ひと
気のない廊下の壁に押しつけた。結衣は混乱のあまり何もできなか
った。突き刺すような鋭い目で睨まれ居竦まる。
﹁一緒にいた男性から聞いたんだが、事故に合ったそうだな﹂
男は息がかかるほど近い距離で、静かにそう言った。掴まれた腕か
ら洋服越しに体温が伝わってくる。結衣は瞬きすることも忘れて茫
然とした。
これは何? 何が起こっているの?
黙ったままでいると、男は眉間に深い皺を刻み、明らかに苛立った
様子で訊ねた。
﹁怪我は?﹂
煩わしそうな言い方をされ、ようやく我に返る。束縛から逃れよう
と慌ててもがいたが、男の手はびくともしない。
﹁あなた、なんなのよ! 放しなさいよ!﹂
結衣が騒ぎ出すと、こともあろうか男は舌打ちをした。その態度を
13
見て、一気に頭に血が昇る。先に乱暴を働いたのは向こうだ。やら
れっぱなしでいるほど柔ではない。空いている手で突き飛ばしてや
ろうと息巻いた時、額の傷に痛みが走った。
﹁痛いっ!﹂
結衣が顔を顰めると、男はわずかに動揺したようだ。
﹁大丈夫か? どこを怪我したんだ﹂
険阻だった男の顔に心配の色が浮かんだ。だが怒り心頭の結衣は、
そのことに全く気がつかなかった。
﹁あなたが掴んでいる腕が痛いのよ!﹂
結衣は勢いよく腕を振り払った。今朝の振る舞いといい、今といい、
なんという失礼な男だろう。少しばかり顔がいいからといって、セ
クハラが許されると思ったら大間違いだ。
燃えるような目で睨みつけると、男は苦々しく頬を歪めていた。そ
の視線は前髪を透かして、額の傷を見つめている。結衣は慌てて俯
くと、耳に髪をかける振りをして男の目を遮った。自分の弱点を暴
かれた気がして、悔しさが込み上げてくる。この男、一体何様のつ
もりで⋮⋮。
その時、結衣は江原の話を思い出して衝撃を受けた。この男は本舗
の社員、つまり結衣が勤める会社の親会社の人間なのだ。
確か、日置といっただろうか。この男は本当に、労災の申請に対し
て嫌味を言いに来たのだ。いわゆる労災隠しというやつだ。
﹁い、言っておきますけど、労災は取り下げませんからね! これ
は仕事中に起こった事故ですから、報告する義務があります!﹂
﹁なんだと?﹂
結衣は顔を引き攣らせながらも、負けるものかと奮い立った。
﹁確かに会社としては、あれは無駄な時間だったと考えるかもしれ
ません。床材の業者に渡す資料を亜矢子さんが間違えてしまったの
で、私が届けに行ったんです。その途中で事故に合ったのだから﹂
そう言ったあとで結衣は慌てた。これではまるで亜矢子に責任があ
るように聞こえるではないか。
14
﹁あ、亜矢子さんは普段はそんなミスはしないんです。たまたま間
違ってしまい、業者が帰ったすぐあとでそのことに気づいたんです。
もう一度業者に連絡して、取りに来てもらえばよかったのですが、
その時は、ええと⋮⋮﹂
男は無言のまま、訝しげに目を細めている。結衣は焦るあまり、し
どろもどろになった。
﹁その時、私はひどく急いでいたらしく⋮⋮走っていったほうが早
いと言って、資料を持って飛び出して行ったそうです。いつもは残
業なんて平気なんですが、その日は夕方になってからやたらと慌て
ていたと⋮⋮誰かが言っていました﹂
次第に声は小さくなり、最後には俯いてしまった。事故当日の自分
の様子を語るには継ぎはぎだらけで、言えば言うほど不信を買いそ
うな気がした。総務課の人間にはもう少しマシな説明ができたのに
と、惨めな気持ちになる。
二人は黙ったまま、その場で向かい合っていた。しばらくすると結
衣は、自分に降り注ぐ視線が幾分和らいでいることに気がついた。
﹁そういう細かいフォローをするのがアシスタントの仕事だろう?
誰も君のことを非難したりはしまい。だが、連絡くらいくれても
よかったんじゃないのか?﹂
男の顔つきはまだ険しかったが、今までとは違っていた。見下ろす
目には色んな思いが込もっているように見えて、結衣は突然、喉元
が詰まった。
﹁れ、連絡はしました。総務に﹂
上擦った声でそう言うと、男は再び目を吊り上げた。
﹁どうして俺に連絡しないんだ!﹂
﹁ええ? そんなこと言われても﹂
驚きと混乱で結衣の顔はくしゃくしゃになった。状況の把握ができ
ずにわめき出しそうになった時、人の声が聞こえた。本舗の社員だ。
男の反応は早かった。すぐに身を翻し距離を置くと、去り際に一瞥
をくれただけで近くに来た社員たちの輪の中に入っていった。
15
結衣はただ壁にもたれたまま、談笑しながら遠退いていく男の背中
を茫然と見ていた。男はシノハラ住建の中へと消えていき、結衣だ
けが一人ポツンと取り残された。まるで嵐のようだ。何が起こった
のかよくわからないまま、過ぎ去って行ったが。いつの間にか頭痛
はどこかへ消え失せていたが、結衣はしばらくそこから動くことが
できなかった。
16
未完成関係3
日曜日の朝、まだ日差しが淡いうちに結衣はアパートへと帰って来
た。
車が停止した途端、バネで弾かれたように外へと飛び出す。もうす
ぐ十二月だというのにパーカーにGパンという軽装だが、気持ちが
昂ぶっているので寒さは感じない。結衣は腰に手当て、心行くまで
目の前の建物を眺めた。単身向けのありきたりな二階建てのアパー
トだ。
愛すべき、私の部屋。豪華でも近代的でもないけれど、自分なりに
愛を注いだ私のお城だ。
階段を駆け上がると、その後ろから叔父が着いてきた。身軽な結衣
と真逆で、彼は丸々と太っていて、おまけに手には大きなバックを
持っていた。
﹁結衣、万里江を呼んで荷物を運ぶのを手伝ってもらいなさい﹂
結衣は叔父の話を聞いていなかった。自分の部屋へ走って行くと、
急いで鍵を開けた。
﹁ただいま!﹂
大きな声は、ワンルームの隅々に響き渡った。真っ先に目に飛び込
んできた緑のカーテンに、なぜか胸が締めつけられる。
中に入ると、部屋の大半を占めるベッドの上に膝を立てて乗り、そ
の向こうにある窓を全開にした。待っていたかのように風が舞い込
み、カーテンを揺らす。光に透けたカーテンは淡い緑に変わった。
ベッドに敷かれた真っ白なシーツに映えて、清々しい。
﹁結衣、万里江を呼んで荷物を運んでもらいなさい﹂
振り返ると、叔父は玄関に座って息を切らせていた。叔父も叔母も
似たような体型をしているが、二人の娘の万里江はほっそりと小柄
だ。だがこんなふうにへたり込んでいる叔父の姿を見ると、いずれ
は万里江もそうなるのかと思って、少し可笑しくなってくる。結衣
17
は久しぶりに自宅に帰れたことが嬉しくて、飛び跳ねたいくらい気
分が良く、実際に叔父の腹を飛んで避けた。
﹁わかったわ。叔父さんはここで休んでいて﹂
満面の笑顔で部屋から出ると、隣の部屋の扉をノックした。
﹁万里江、起きてる? 結衣よ﹂
大きな声で呼びかけてみたが、万里江の部屋からは物音ひとつしな
い。結衣はすぐさま戻ると、叔父に向かって苦笑いをしてみせた。
﹁まだ早いから、眠っているみたい。自分で運ぶから平気よ﹂
叔父は文句を言うと、自分で万里江を起こしに行った。だが結衣は
万里江が昨日から帰っていないことを知っていたので、サッサと車
に戻ると残りの荷物を部屋に上げた。
これですべてが元通りだ。満足げに息をつく。
⋮⋮いいや、元通りではない。
結衣は小さな自分の城を見渡した。綺麗に片づいている。冷蔵庫の
中を覗いてみても、生ものは入っていないし、洗濯機もカラだ。事
故のあと一度も帰っていなかったが、万里江と叔母が整理してくれ
たのだろう。
突然、足元が覚束なくなりベッドの上に腰を下ろした。冷たいシー
ツを手で撫でると、またあの夢の感触が蘇ってくる。
夢はきっと、願望の表れだ。そうとしか思えない。
私が求めているのは、きっとあの人だ。結衣はそう確信した。あの
人に会いに行こう。
﹁何度呼んでも、ちっとも起きやしない。あの子は子供の頃から雷
が落ちても寝ていたんだ。ワシと同じでな﹂
まさか娘が恋人の所で眠っているとは考えもせず、叔父は呆れたよ
うに笑っていた。結衣は従姉妹を庇うために調子を合わせてから、
ここまで送ってくれた礼を言った。
﹁あとのことは一人でできるわ。荷物は服や日用品だけだから、ゆ
っくり片づけます。叔母さんには夜、電話するって伝えてね﹂
﹁無理するんじゃないよ、結衣。後遺症というのは、あとから起こ
18
るから後遺症というんだ。充分気をつけるように。田舎のお母さん
にもマメに連絡するんだよ﹂
﹁はい、わかりました﹂
叔父は結衣の頭をポンポンと叩くと、最後にぐるりと部屋中を見回
した。
﹁相変わらず、妙な部屋だ﹂
ため息交じりにそう言うと、重そうな体を揺すりながら帰って行っ
た。
叔父に言われるより前に、実家にはもっと頻繁に連絡しようと結衣
は決めていた。母も兄も大事だ。結衣の父は早くに亡くなっていて、
母は田舎で兄夫婦と農業を営みながら暮らしている。入院している
間、母はずっと側にいてくれたが、元気になったので無理矢理帰っ
てもらった。
そう、家族のことは、ちゃんと覚えている。自分の子供時代のこと
も、高校まで過ごした故郷のことも、大学に通うため上京してきた
ことも、その後の生活のことも。
ぐるりと首を回して、叔父と同じように部屋を見回す。ここにある
すべてを自分自身でコーディネイトした。小さなテーブルの下に敷
いたカーペットは、壁紙に使ってある一色から選んだ。あの掛け時
計はイタリア製。食器棚の中は、割れにくい白の皿で統一してある。
コーヒーカップは同じ形の物を柄違いで揃えた。
全部、全部覚えている。
欠けてしまったのは、ほんの二ヶ月間の記憶。
結衣はベッドに仰向けに寝そべると、数え切れないくらいそうした
ように、月日を振り返ってみた。春が終わり、夏が来て、九月にな
れば暑さが和らぐかしらと汗を拭っていたことまではしっかりと思
い出せる。だがその次の日、病院のベッドの上で目覚めた時には、
カレンダーは十月に変わっていた。
交通事故に合ったんですよ。そう看護師が教えてくれたので、誰が
ですかと質問したのを覚えている。意識がはっきりしたあと、事故
19
は十月二十日の夜だったと聞かされても、その時は特に何も思わな
かった。じわじわと疑問が沸いてきたのはしばらく経ってからだ。
やはり八月の下旬から、事故までの記憶がない。逆向性健忘症。そ
う医者に言われた。
結衣はこのことを誰にも話していなかった。ありとあらゆる検査を
受けても、脳に異常は見られなかったし、抜けた記憶は事故前のほ
んの一部だ。最初は日付が合わないことにすら気がつかなかったく
らいだ。大抵が自然と思い出すらしい。
大騒ぎするほどのことではないと、自分に言い聞かせる。ただ仕事
で不便が出る可能性はあるが、思い切って元いた部署に戻りたかっ
た。希望どおりにはいかなかったけれど。
仕事のことを考えた途端、あの憎たらしい労災男の顔が浮かんでき
た。
結衣はあの出来事のあと、いつ総務課から呼び出しを食らうかとビ
クビクしていた。だが結局何も起こらないまま、週末を迎えた。あ
の男にも会うことはなかったが、思い返すとハラワタが煮えくり返
る。
まるで嫌な物でも見るかのように目を細め、人のことを見下してい
た。復帰したばかりの私が、一体何をしたというのだろう。それに
昼日中のオフィスであんなふうに女性社員に体を密着させるなど、
常識ある人間のすることとは思えない。結衣は怒りで頬を赤くさせ
た。
﹁ああ、腹が立つ! もし労災の認定を取り消すつもりなら、セク
ハラで訴えてやるわ!﹂
大きな声を出すと、ベッドから降りて時計を見た。あんな男のこと
を考えて時間を無駄にするより、サッサと片づけを済ませて、あの
お店へランチに出かけよう。あの人に会いに行こう。
そう決めると小さな城の真ん中で、大きく伸びをした。
20
カノンの店と呼ばれるその喫茶店は、駅から数分の便利な場所にあ
るにも拘わらず、ひっそりと静まり返っていた。
だがソファの数に対していうなら、客足が悪いわけではない。座り
心地の良いソファはむしろいつも取り合いに近い状態で、休日は仕
方なくカウンター席で我慢することも多かった。店と亭主の正式な
名前は誰も口にしない。ただ皆がそう呼ぶから、結衣も真似をして
そう呼んだ。
扉を押し開けると、聞き慣れたドアベルがカラコロと鳴った。躊躇
いがちに入ってきた結衣を見て、すぐさま亭主のカノンが驚きの表
情を浮かべた。
﹁結衣ちゃん! 久しぶりじゃないか。元気にしていたかい?﹂
結衣は頬を赤らめながら、はにかんだ。
﹁こんにちは、カノン。ええ、元気よ。仕事が忙しくて、なかなか
来られなかったの﹂
全体がアースカラーで統一された店は、記憶していたとおりだった。
ソファは落ち着いた草木色だ。それもやはり知っていたことに安堵
を覚えて、ゆっくりと一歩一歩踏み締めるように進む。だが軽く店
内を見回したあと、今度は落胆した。心の中でひっそりとため息を
つく。
ランチの時間が始まっていないせいか、客は少なかった。結衣はあ
えてカノンに一番近いカウンター席に座った。
﹁最後に来たのはいつだったかしら? ひと月くらい⋮⋮前?﹂
結衣は空々しく探りながら、カノンの顔を窺った。カノンは日焼け
した彫りの深い顔立ちをしていて、五十代とも六十代ともわからな
い。名前からして、日本人ではないのかもしれないと密かに思って
いる。普段は無口だが、こちらが望めば愛想良く喋ってくれた。カ
ノンの記憶力の凄さにはいつも驚かされていたので、ただの客であ
る結衣が最後に来た日も、きっと覚えているはずだ。予想通り、難
なく答えは返ってきた。
﹁十月十九日の夜、珍しく何も読まないで、そこでぼうっとしてい
21
たよ﹂
事故の前日だ!
結衣は心拍数が上がるのを感じた。夏の休暇を取り損ねたあとから
病院で目覚めるまでの二ヶ月、切り取ったように抜けていた間にも、
やっぱり私はここへ来ていたのだ。
﹁この前、読んだ本は﹃睡眠﹄だったかしら?﹂
覚えている限り、ここで読んだ最後の題名を告げてみた。結衣の声
はわずかに上擦っていたが、カノンは特に気づいた様子もなく笑っ
た。
﹁随分と物忘れが激しいな。そのあとに﹃未完成関係﹄を読んで、
色々と語り合ったじゃないか﹂
﹁そうだったわね﹂
結衣は我慢しきれずに立ち上がると、店のあちこちに設けられた本
棚に近寄った。
この店の一番の特徴だ。犇めく書籍は亭主の私物で、様々なジャン
ルが分類もされず所狭しと並んでいる。結衣はその沢山の本の中か
ら﹃未完成関係﹄を見つけると、裏表紙のあらすじと作者の紹介に
目を通した。残念ながらどちらも全く覚えがない。
だがやはり、私はこの店に通っていたらしい。
自分が以前と変わらない生活をしていたとわかって少しは安心でき
たが、読んだはずの本を覚えていないことには、がっかりさせられ
た。今までのペースなら二ヶ月あれば何冊かは読破できる。思い出
すきっかけになるかもしれないので、他にも何を読んだか聞きたか
ったが、できるなら健忘症のことには触れたくない。どうしようか
と悩みつつ、おずおずと聞いてみた。
﹁このあとには⋮⋮何を読んだかしら? なんだか本当に、物忘れ
が激しくて⋮⋮﹂
﹁おいおい、働き過ぎじゃないのかい? 話すのに忙しかったみた
いだから、その一冊だけだよ﹂
﹁そ、そうね。色々と語り合ったものね﹂
22
どう見ても狼狽していたものの、結衣は無理に笑顔で誤魔化した。
静かなこの店でカノンとお喋りに花を咲かせていたとは意外だった
が、たまにはそんなこともあったのだろう。
忘れてしまった期間に読んだのは、この一冊だけだったのね。
結衣はため息をつくと、諦めきれずに本を広げた。店にいる客は皆、
自由に本が読める。図書館と違って貸し出しは禁止だが、ここでな
ら美味しいコーヒーと軽食が味わえる。たまになら安いコーヒーシ
ョップと比べても贅沢にはならない。
本を置く喫茶店は多い。だがこの店の少ないソファがいつも満席な
わけは、置いてある本にハズレがないということだ。時間の無駄だ
ったなどと気落ちしたことは一度もない。仕事帰りにも、気分転換
にたまに立ち寄った。結衣のように読書が趣味でも余程のことがな
い限り購入しないと決めている人間には、落ち着くことのできる良
い場所だった。
結衣はパラパラとページを捲っていたが、目は文字を追っていなか
った。一度でも読んだのなら、冒頭の一文ですぐにわかるはずだ。
やはり全く記憶にない。改めて読む気にもなれずに視線を彷徨わせ
ると、無意識に店内に見回していた。
﹁彼氏は来ていないよ﹂
ふいそう言われ、びっくりした。慌ててカウンターのほうを向くと、
カノンは調理をしながら口元を綻ばせていた。結衣は真っ赤になっ
た。
﹁何言っているのよ! 彼氏なんかじゃないわ!﹂
全身が燃えるように熱くなり、慌てふためいた。カノンに気づかれ
るほど、露骨に見ていたということだろうか。そう思うと、あまり
の恥ずかしさに汗が噴き出す。
﹁そうだったのかい? とても仲が良そうに見えたけど﹂
﹁どこが仲良しなのよ。変なこと言わないでちょうだい﹂
結衣は本を仕舞うと、唇を尖らせて雑にカウンター席に座った。カ
ノンは微笑みながらそんな結衣を見ていたが、急に首を傾げた。
23
﹁そういえば十月の初めから、彼氏も見かけないな﹂
﹁そうなの⋮⋮﹂
結衣は否定することも忘れて、眉を潜めた。彼もしばらくこの店に
来ていないと聞いて、一気に心が暗くなる。彼に会えるのはこの店
だけなのに。
あまりにもわかりやすく結衣が落ち込んだので、カノンは苦笑いを
した。
﹁彼の連絡先とか、知らないの?﹂
﹁知るわけがないじゃない﹂
﹁あんなに仲が良かったのに?﹂
﹁だから、仲良くなんかないってば﹂
結衣はなんとなく惨めな気持ちになった。一方的に、結衣が思いを
寄せていただけのことだ。たとえ店の亭主にばれるくらい、隠すの
が下手くそだったとしても。
もしかしたら彼も気がついていて、それで不愉快に思い店に来なく
なったのかも。そう思うと更に気が滅入った。
遠くから見ているだけで、幸せだったのに⋮⋮。
昼時になると、客が増えてきた。それでも店は静かで、読書と物思
いに耽るにはもってこいだった。結衣が食事を終えても、彼は現れ
なかった。日曜日のこの時間が一番会える確率が高いのに、今日は
もう来ないのかもしれない。諦めて出ようとした時、本棚の中の一
冊に目が留まった。
﹁あら、カノン! この本の下巻、返ってきたのね!﹂
結衣はその本を見て急に元気になった。棚から抜き出すと、﹃コー
ルド・レイン下巻﹄と印刷された表紙をまじまじと見る。
他の本に比べると、それは随分と綺麗だった。以前読んだ上巻は日
に焼けて、かなり変色していたはずだ。すっかりご機嫌になった結
衣が笑顔を向けると、カノンは口を開けて茫然としているように見
えた。
結衣は一瞬、これで時間を潰す言い訳ができると思ったが、考え直
24
して本を棚に戻した。彼を待っていると集中できない。探していた
本を読む時は、文字に浸透したいものだ。
それに上巻を読んだのが確か梅雨の頃だったので、少し間が空いて
いる。下巻を読む前にもう一度読み返してもいいかもしれない。
﹁また来るわね﹂
明るい声でそう言うと、何も言わないカノンに手を振って店を出た。
この店の亭主がぼんやりしている様子を、結衣は初めて見た。
更衣室のロッカーの小さな鏡に映る自分を見て、大きく息を吐いた。
口紅は剥げて、ファンデーションは崩れている。だが化粧直しをす
る気力はない。今日はほぼ半日をアルバイトの遥花の教育に費やし
てしまい、喋り過ぎてくたくたに疲れた。
結衣はここ数日で、人に物事を教えるのがいかに大変かということ
を思い知った。教える相手が世間知らずなら尚更だ。おまけにこち
らも最近の情報を喪失中ときている。それでも自分の業務を振り返
ることで、多少不安は軽減された。これなら二ヶ月間の記憶がなく
ても、なんとかなりそうだ。
定時どおりに帰社できるうちに、今までの遅れを取り戻そう。いつ
ものように前向きに捉えて笑顔で会社を出ると、待っていたといわ
んばかりに携帯電話が鳴った。
誰かしら? 首を傾げて携帯の画面を見た結衣は凍りついた。
そこには日置六郎と表示されていた。結衣は手の中で鳴り続ける携
帯が自分の物であるか、何度も確認をした。それは間違いなく結衣
の携帯だった。
﹁なんで、あいつの番号が登録してあるの?﹂
日置なんて珍しい名字、携帯に登録した覚えはまるでないし、思い
つく限り名前の人物はあの男しかいない。結衣はこれが後遺症とい
うものかもしれないと懐疑しながら、電話に出た。もしかしたら気
にするあまり、幻覚が出始めたのかもしれない。だが、残念なこと
25
に幻覚ではなかった。
﹁俺だけど、何時に終わる?﹂
ぶっきらぼうな声は、まさしく日置のものだった。不穏な低音の響
きに、体の力が一気に抜け落ちるのを感じる。
労災男だ。
結衣はわざと聞こえるように大きくため息をついた。当てもなく辺
りを見回しながら、なんと答えるべきかと考えを巡らせる。きっと
また労災の申請を取り下げろと脅すつもりだろう。話し合いの場を
設けるのは構わないが、多くの不可思議な現象に頭が着いていかな
い。
結衣が電話口で口籠っていると、日置は返答を待たずして言い切っ
た。
﹁八時過ぎにはそっちへ行けるから、どこかで待っていてくれ﹂
﹁えっ? ちょっと待って下さい﹂
そう言った時には、もう電話は切られていた。結衣は信じられない
面持ちで、携帯の画面を見た。アドレス帳を確認すると、日置の電
話番号とメールアドレスが登録されている。誰がいつこんなことを
したのか、全くわからない。個人情報の保護が謳われる昨今だが、
勝手に登録された場合、悪いのはどちらのほうになるのだろうか。
今から労災男に会うことを想像して、結衣はぞっとした。
あの男に私の健康が万全でないことが知られたら、どうなってしま
うだろう。元の部署に復帰するどころか、きっと窓際に追いやられ
切手貼りや電球変えばかりさせられるのだ。
上司に相談しようか。もしくは総務に抗議しに行こうか。しかし結
局結衣は会社には戻らず、日の暮れた街をとぼとぼと歩いた。記憶
がないことを黙っているという後ろ暗さがあったせいかもしれない。
なんとかやり過ごすのだ。そう考えていると、再び携帯電話が鳴っ
た。画面にはまた、日置の名前が表示されている。
﹁も、もしもし?﹂
﹁もう会社の近くまで来ている﹂
26
﹁まだ七時じゃない!﹂
結衣は金切り声を上げた。周囲の人々がぎょっとして目を向ける。
日置はまるで業務連絡のように端的に待ち合わせ場所を指定すると、
また一方的に電話を切った。結衣は唖然としたままその場に立ち尽
くしていたが、次第に沸々と怒りの感情が込み上げてきた。
圧力なんかに、絶対に屈してなるものか。ただの平社員にだって、
幸せな社会生活を送る権利があるのだ。
化粧が剥げていることを思い出しても、断固として直すわけにはい
かない。あの男のために綺麗にするなんて、馬鹿げている。
鬼のような形相で待ち合わせのカフェへ乗り込むと、日置はもう先
に来て座っていた。結衣は案内する店員を無視して、大股で近寄っ
た。
日置は仏頂面だったが、結衣に気がつくと顔を綻ばせた。その微笑
みに、結衣の心臓が高鳴った。
あ、かっこいい⋮⋮。
一瞬で頬が赤くなる。だが慌ててかぶりを振ると、威嚇するように
ドスンと音を立て椅子に座った。飲み物が運ばれてくるまでひと言
も口を利かず日置を睨み続けたが、日置は涼しげな顔つきで、時折
結衣の額の辺りを見ていた。店員が遠ざかると、結衣は顔を真っ赤
にして声を荒げた。
﹁本舗の統括の方が、一体なんのご用なんですか? 関連会社の社
員をこんなふうに呼びつけるなんて、パワーハラスメントですよ。
しかも個人の携帯にわけのわからない細工をするなんて、職権の域
を超えています!﹂
﹁やっぱり根に持っているのか﹂
猛攻する結衣に反して、日置は平然としていた。落ち着き払ってコ
ーヒーを飲む姿はひどくさまになっていて、そのことが余計腹立た
しく思えた。
根に持っているかですって? まるで逆恨みでもしているかのよう
に言われ、歯軋りをする。
27
﹁私はあなたの非常識な態度について⋮⋮﹂
更に興奮して鼻息を荒げると、日置が低い声で遮った。
﹁君が何よりも心配する労災の件だが﹂
結衣は硬直した。喧しい店内で日置の言葉を聞き漏らさぬように、
耳を澄ませる。
﹁会社が契約している社会保険労務士に聞いてみたよ。とっくに所
轄の労働基準監督署へ労災申請しているそうだ﹂
その内容は、予想していたものとは違っていた。呆気にとられ口を
開けていると、日置が再び微笑みかけた。
﹁よかったな﹂
﹁⋮⋮どうも﹂
結衣は消えそうな声でそう言ったあと、深々と俯いた。携帯電話の
ことは別として、問題は解決した。本当なら安心するべきなのに、
なぜか益々困惑していた。
日置のようにエリート風を吹かせて偉そうに振る舞う奴が、一番嫌
いなタイプだ。それなのにちょっと笑いかけられただけで、どうし
ていつまでも心臓がバクバクと音を立てているのかわからなかった。
ほんの少し見た目が良くても、性格に難ありなのは確実だ。おまけ
に目の前の男は、とんでもないことを言い出した。
﹁今から、家に行っていいか﹂
結衣は顔を上げ、しげしげと日置を見つめた。日置は続きを催促さ
れていると勘違いをしたのか、面映ゆそうに口元を緩めた。
﹁仲直りしよう。明日も仕事だから、泊まれないけど﹂
ひょっとしたらこの人も、頭を打ったのかしら? 結衣は本気でそう考えた。だが日置が手を伸ばし額の傷に触れよう
とした時、その考えを跳ね除けた。弾かれたように立ち上がると、
日置を睨みつける。
﹁私、彼氏がいるんです﹂
﹁なんだと?﹂
日置は伸ばした手を引っ込めると、口調も顔つきも豹変させた。
28
﹁入院している間に、別の男ができたのか?﹂
恫喝するような態度を取られ、結衣は一瞬絶句した。だがすぐに怒
りが込み上げてきて、拳を握り締めた。
﹁違います。ずっと前からつき合っている人がいるんです。あなた
は勘違いをしているようなのではっきり言いますけど、本舗の方だ
からって、なんでも自由にできると思ったら大間違いです﹂
結衣の声は震えていた。もしこの傲慢な男が引き下がらないような
ら、コップの水をぶちまけてやろう。そう思って身構える。
だが結衣を見上げる日置の顔は、無表情に近かった。ひどく傷つい
ているようにすら見えて、なぜか胸が痛んだ。
こんな男が悲しい素振りを見せたって、何も感じることはない。私
は馬鹿にされているのだ。エリートが声をかければ、簡単に着いて
行く女だと蔑まされている。きっぱりと拒絶をしなければ。 怒りと混乱が入り混じり、頭の中には様々な思いが浮かんだ。馬鹿
にされて悔しい。それでも日置の目を見ていると、言い過ぎたのか
もしれないと後悔がよぎった。無言の視線が受けるのが苦しくなっ
てきて、顔を背ける。
﹁と、とにかく、あなたは私の好みではありません。失礼いたしま
す﹂
結衣は激高のしすぎでよろめきながら、逃げるようにしてその場か
ら立ち去った。体中を血が駆け巡り、額の傷がズキズキと疼いた。
同じくらい胸も疼いた。
私は悪くないわ。いきなり妙なことを言い出すあの男が悪いのよ。
私には好きな人がいるのだから。
結衣は唇をきつく結び、決して後ろを振り返らなかった。すれ違う
人が顔を顰めるほど、早足で家路をたどる。その間、どんなに思い
出そうとしても、好きな人の顔は歪んで見えた。はっきり見えたと
思った瞬間には逃げ水のように遠くへ行ってしまう。せめて一度く
らい、近くで顔が見たい。こんな時くらい、彼の顔を真正面で見て
みたい。
29
だがそんなことは叶わないと、結衣はよく知っていた。
そう、だってあの人はいつも遠くで覗き見るだけの、ただの憧れの
人なのだから。
30
未完成関係4
その人の存在に気がついたのは、一年くらい前だろうか。
はっきりとは覚えていない。カノンの店に通うようになったのはも
っと前で、独り暮らしを始めた頃からだ。月に数回、休日に長時間
いることもあれば、仕事帰りに少しだけ立ち寄ることもあった。店
に入ると大抵すぐに読書に集中していたので、そこに居合わす客を
知ることになったのは、意図したことではなかった。
初めてそうと認識したのは、結衣が読み終えたばかりの本を、彼が
棚から抜き出した時だ。
あら、お兄さん。趣味が合うわね。心の中でそう呟いた。
落ち着いた感じの、素敵な人だった。背が高くて、眼鏡をかけてい
る。歳は二十代後半くらいだろうか。結衣とそんなに変わらないよ
うに見える。
彼は本を片手に、ソファに座った。窓からの日差しで眼鏡が光って
いる。その姿はノスタルジックな店内の雰囲気にぴったりで、結衣
はしばらく彼に見惚れた。
その本、面白いでしょう。最後にすごいドンデン返しがあるのよ。
遠くからでもなんとなくわかる端正な顔が、そのうち驚きの表情を
浮かべることを想像して、こっそりと微笑んだ。
そのあともよく彼を見かけた。よく、といっても月に二、三回、休
日に見る程度。もしかすると意識するずっと前から、同じ時間帯の
客同士だったのかもしれない。彼はいつも一人で静かに本を読んで
いた。店に入って彼がいると、わずかに緊張した。あとから彼が入
ってくると、手元の本をどこまで読んだかわからなくなった。通う
頻度は増えていって、いる時間も長くなった。それまでただの読書
の場だったカノンの店は、彼の姿を見るための場所に変わっていっ
た。結衣が見つけた、小さな楽しみだった。
彼が読んでいる本を、あとから結衣も読んだ。たまにはその逆もあ
31
って、そんな時は笑いを堪え切れなかった。店の客は静かなので、
結衣のかすかな笑いを聞いてカノンが変な顔をした。
﹁結衣ちゃん、その本を読んで笑った人は初めてだよ。感動で涙を
流すのが大半なんだが、君の感性は真逆みたいだね﹂
﹁違うわよ。これは泣き笑いよ。いえ、そうじゃなくて、ええと⋮
⋮感動しすぎて震えていたのよ﹂
結衣は顔が真っ赤に染まるのを感じた。変な感性の女だと思われた
らどうしようと、横目で彼を窺う。彼と目が合うことをかすかに期
待していたが、それはあっさりと打ち破られた。彼は読書に集中し
ているようで、身動き一つしない。
別にいいわよ。私に関心がなくても。
勝手に不機嫌になると、つんとそっぽを向いた。泣けるらしい本を
片手に、ランチをつつく。
片思いとも言えないつまらない感情だと、自分でもそう思う。ただ
ちょっと素敵だなと思うだけの存在だ。それでも結衣にとって、そ
う思える相手は貴重だった。結衣は恋愛というのがすこぶる苦手で、
実のところ大して素敵だなとさえ思えない相手に、今まで何度か振
られた経験があった。
いや、振られたとさえも言えない。何も始まっていない段階から、
友達としか思えないと予防線を張られてしまうのだ。一緒にいて楽
しいが、恋人にしたいタイプではないという。どうやら結衣は男性
から見て、ある種の魅力に欠けているらしい。そのことを従姉妹で
あり親友であり、今では隣人の万里江に相談すると、彼女はこう言
った。
﹁結衣は思ったことをそのまま言うから、駄目なのよ。すぐに顔に
表すのも駄目。身振り手振りが激しすぎるのも駄目﹂
﹁私のすべてが駄目みたいに言わないで。普通にしているだけよ﹂
結衣が悲壮な顔をすると、万里江はすべてを見通したように笑った。
万里江は結衣よりひとつ年上で外見的にはなかなかの魅力を発揮し
ていたが、生活面で学ぶところは全くなかった。しかし恋愛に関し
32
てだけは先生の立場だった。
﹁それは結衣が相手の男を意識していないからよ。好きな人の前だ
と、本来の自分に女の部分が加わって、表情が柔らかくなったり仕
草が可愛くなったりするものよ。恋する女の本能よ﹂
﹁私の仕草、可愛くないかしら?﹂
﹁可愛いわよ。でも好きになったら、もっと可愛くなるのよ﹂
万里江は結衣の両肩を掴むと、エクステンションで倍増された目を
更に見開いた。
﹁ほら、目をキラキラさせる練習をするわよ﹂
凄みの効いた万里江の目に、結衣は思わず逃げ出しそうになった。
﹁目をキラキラさせる練習?﹂
﹁そうよ。私の真似をしなさい。ちょっとだけ顎を引いて、睫毛を
遠くに伸ばすような感じで瞬きをするのよ。上目遣いとは違うわ。
あれは物欲しそうで下品だから﹂
﹁む、難しいわ。万里江﹂
二人は向かい合って、お互い懸命に睫毛をはたいた。長時間そうし
ているうちに結衣の瞼は痙攣してきた。万里江は白目を剥き出した。
ランチを食べている最中にそのことを思い出して、結衣は激しく噴
き出した。今度はカノンだけではなく、店中の客が一斉に結衣を見
た。
﹁喉に詰まって⋮⋮﹂
結衣は言い訳をすると、見ていないはずの彼から身を隠すように縮
こまった。顔から火が出るかと思うくらい恥ずかしかった。
結衣は万里江にも、彼のことを話していなかった。もし気になる人
ができたと教えれば、絶対行動に移せと迫るはずだ。いい歳をして
見ているだけの恋なんて虚しすぎると言うだろう。
普段の調子で気さくに話しかければいいのよ。心のどこかでそんな
声もする。
こんにちは。よくお会いしますね。何を読んでいるの?
高校生でもできる会話だ。無視されたら、つまらない男だと鼻で笑
33
ってやればいい。
だが、それができない二十五歳の女だっている。そして結衣は自分
がそうだということを、しっかり理解していた。
私は遠くから見ているだけでいい。見ているだけなら、振られるこ
とはないでしょう?
だからそれからは、絶対に彼のほうを向かないようにした。時折気
づかれないように、ほんの少し、睫毛を伸ばすような感じで見るだ
けにした。
そうやってひっそりと彼に恋をしていたのに、一体全体なぜ、あの
人のことを彼氏だなんて言ってしまったのだろう。結衣はアパート
に帰るなり、ベッドに突っ伏した。
﹁労災男のせいだ﹂
怒りが蘇り、シーツを鷲掴む。たとえセクハラを逃れるためとはい
え、名前も知らないあの人を彼氏に仕立てた自分が、ひどくさもし
く思えた。
恐らく、カノンにからかわれたせいもあるだろう。それに、やはり
夢だ。
結衣は着替えもしないまま、ベッドの上でのた打ち回った。頭に枕
を乗せたり、布団に包まったりして、苛立ちを誤魔化そうとした。
だが、夢はまさにこの場所から始まっているのだ。私は確かに夢の
中で、あの人とふざけ合っていた。見ているだけでいいなんて純情
ぶっても、結局は欲求不満だったということか。いきなり家に行っ
ていいかと聞いてきた労災男と大差ない気がしてきた。
﹁ああ、自分が嫌﹂
悪態づきながら髪と服をくしゃくしゃにしていると、扉がノックさ
れた。
﹁結衣、夕飯食べた?﹂
万里江の声が聞こえる。枕を引き摺りながら扉を開けると、食材を
持った万里江が入ってきた。睫毛にも髪にもエクステンションがつ
いている。
34
﹁ママから探りが入ったの。ちゃんと自炊しているんでしょうねっ
て﹂
﹁叔母さんから?﹂
結衣は気が抜けたように訊ねた。万里江は結衣のくたびれた格好に
はなんの反応も示さず、料理を作り始めた。
﹁適当に答えておいたから、結衣も話を合わせてね。しばらくはこ
こで食べるようにしたほうがよくない? なんだか結衣の怪我を口
実にチェックしにくるような気がするわ﹂
万里江が自炊していたのは、二人一緒に自立して隣同士に住むよ
うになった最初の頃だけだ。結衣も忙しい時は手抜きをしていたが、
なるべく家で作るようにしていた。
﹁私はちゃんと家で食べているわよ﹂ 結衣は少し膨れてそう言った。万里江があまり部屋に帰っていない
ことは、叔父も叔母も知らない。恋人ができるたび、相手の所へ入
り浸りになるのだ。男を部屋に入れてはいけないという叔母の言い
つけを、彼女なりに守っての結果らしい。
結衣は台所に立つ万里江の後姿を見て、羨ましく思った。万里江は
美人で男にもてるし、今の恋人ともうまくいっている。架空の恋人
をでっち上げている自分とは、大違いだ。
﹁ねえ、結衣。彼氏とはどうなっているの?﹂
背中を向けたまま、万里江が言った。炒め物のいい匂いがしてくる。
結衣は鼻をヒクヒクとさせながら、苦笑いをした。
﹁彼氏なんかいないわ﹂
私にそんな相手がいないことなんて、万里江が一番よく知っている
くせに。こんなタイミングで嫌なことを聞くものだ。
切なさで胸が痛かった。架空の恋人にすら、もう会えないかもしれ
ないのだ。万里江が換気扇を回し忘れているので、煙が目に沁みて
涙がにじんだ。
﹁⋮⋮ふうん﹂
万里江は背中を向けたまま、小さくそう言って、そのあとはもう何
35
も聞かなかった。
﹁小川さんに説明されたとおり発注したら、こうなったんです﹂
遥花はしゃくり上げながら、そう言った。結衣と亜矢子はしばらく
唖然としていたが、どちらともなく顔を見合わせると、目と眉で合
図を送りながら対処法を決めた。
亜矢子はすぐさま納入先に電話をかけ、結衣は走って、苛々しなが
ら玄関口で待っている宅配業者にわけを話しに行った。宅配業者の
後ろにはいくつもの箱が積み上げられている。実際に目で見てみる
と、その物資の多さに眩暈がした。
中身は服飾店のディスプレイ素材だ。確かに発注したのはシノハラ
デザイン、つまり内装デザインを任されたこの会社だが、納入先は
依頼元の服飾店でなければならない。結衣が慌てて確認すると、出
発点となる依頼元からの注文データが間違っていた。遥花はそのデ
ータをそのまま貼りつけて、内装材業者に発注をかけたのだろう。
工程表を見ると改装工事は最終段階だ。この素材が最後にショウウ
ィンドウに飾りつけられて、手配された作業員は仕事を終えること
ができる。だが、完璧に仕上げることはできない。内装の一部がこ
こにあるのだから。
﹁結衣、うちのライトバンで運ぼう﹂
結衣が転送を求め宅配業者と揉めていると、藤木が大きな声でそう
言った。結衣はすぐに頷いて、大量の受領書にサインをして荷物を
受け取った。
﹁ずっと以前にも、こんなことがあったな﹂
藤木は一番大きな箱を抱え上げると、明るく笑った。他の社員も出
てきて、積まれた箱を手分けして駐車場へと運んでいく。角材やガ
ラス製品がなかったのは幸いだ。社内は一時騒然としたが、素早い
対処のおかげで工事の頓挫は免れそうだ。亜矢子がライトバンで現
場に出かけたあと、結衣はまだ泣き止まない遥花に話しかけた。
36
﹁向こうのミスを見つけることも、私たちの仕事よ。メールもパソ
コンのデータも、結局は人の手が作っているものなんだから、完璧
じゃないわ。打ち出された書類にもちゃんと目を通さないと﹂
﹁でも私、言われたとおりにしました。書類も見て、確認しました﹂
﹁見るだけじゃなくて、考えないと駄目よ。考えたら、ハート型の
発泡スチロールや天使のモビールがうちの会社に納入されることを
疑問に思うでしょう? あれ、ここで改装するわけじゃないのに変
だなって﹂
結衣はできるだけ優しく、わざとおどけた口調でそう言った。遥花
は俯いたまま、黙り込んでいる。周囲が走り回っているのに、ミス
した本人はただ見ていることしかできないのだ。彼女の居た堪れな
い気持ちはよくわかった。
だが事なきを得たからといっても、やはりミスはミスだ。どうした
ものかと困っていると、藤木が戻って来た。暑そうに顔を上気させ
ている。
﹁あと、俺たちにできるのは、亜矢子が焦って事故を起こさないよ
うに祈るだけだな。まあ、彼女の運転の荒さじゃ無事に着いたとし
ても、天地無用が逆転しているだろうけど﹂
藤木は深刻な時ほど自分を軽薄に見せる男だった。結衣と遥花の間
に漂う嫌な空気を察知して、ヘラヘラと笑ってみせた。
﹁助かったわ。ありがとうね、藤木さん﹂
﹁どういたしまして﹂
結衣は促すように遥花を見た。遥花は頬を赤くしながら深々と頭を
下げた。
﹁ありがとうございました﹂
﹁俺は大したことはしてないよ﹂
優しく笑う藤木を遥花がじっと見つめている。その眼差しには熱い
ものが込められているようだ。遥花は結衣の顔をチラリと見ると、
気まずそうに目を泳がせた。
﹁あの、小川さん。さっきは小川さんに責任をなすりつけるような
37
ことを言って、すいませんでした。ちゃんと目で確認をしてからオ
ーダーを流すように言われていたのに、私がそれを怠りました﹂
結衣は笑顔になった。まだ稚い遥花は、意固地になっていただけだ
ろう。藤木が現れてから急に素直になったのを見ると、彼女が藤木
に気があるという亜矢子の話は本当のようだ。
結衣はひと息ついたあと、藤木に話しかけた。
﹁私が新人の時も同じことをして、藤木さんに助けてもらったわね﹂
﹁おう、貸しは溜まる一方だぜ﹂
﹁ランチを奢るわ。牛丼やハンバーガーじゃなくて、ちゃんとした
お店のランチをね﹂
結衣が笑うと、珍しく藤木は真剣な顔になった。
﹁ランチじゃなくて、たまには二人で夕食をどうかな? ちゃんと
した店じゃなくても構わないから﹂
﹁勿論、いいわよ﹂
そう言ってから、結衣は藤木と向かい合って食事することを想像し
た。どうもしっくりとこない。いつも誰かしら他に人がいて、二人
きりになったことがなかったから。
﹁頭の具合はどう?﹂
藤木は場の雰囲気を変えるように、いきなり声高になった。結衣は
驚いた。
﹁頭ですって?﹂
冷や汗がにじむ。だが彼が言っているのは額の傷のことだと気がつ
いて、慌てて笑顔になった。
﹁もうすっかり平気よ。傷痕もいずれ薄くなるっていうことだしね﹂
﹁結衣が事故に合った時、俺は出張でいなかったからそのことを全
然知らなかったんだ。月曜日の朝、会社へ来て君がいないのは休暇
のせいだとばかり思っていたよ。今頃は北海道で楽しく過ごしてい
るんだろうなと、のん気に土産を期待して⋮⋮﹂
﹁北海道?﹂
今度は、冷たい汗は掻かなかった。代わりに冷たい氷の塊を押しつ
38
けられたように、ショックを受ける。
﹁残念だったな。休みを取るためにあんなに頑張って働いていたの
に。でも旅行はいつでも行けるさ。なんなら、次は俺がつき合って
やるよ﹂
結衣は混乱に陥るまいとするのに必死で、もう藤木の話を聞いてい
なかった。遥花の呼び声が聞こえ、藤木がその場を去っても、床に
根を下ろしたように動けなかった。
あなた、北海道へ行くつもりだったの? 結衣は自分に問いかけた。
総務の人間が見舞いに来た時、休暇の取り消し云々と言っていたこ
とを思い出した。その時は記憶が曖昧なことに動揺して、相槌を打
つのが精一杯だった。
事故の日、私はやたらと慌てていたと誰かが言っていた。その翌週
休暇を取って北海道へ旅行するつもりだったのなら、もしかして準
備のために急いで帰りたがっていたのだろうか。
今まで一人旅をした経験はない。きっと誰か友達と行くつもりだっ
たのだろう。はしゃぎながら旅行の計画を立てていただろう記憶は
それなりに大切な気がして、結衣は悲しくなった。
﹁久しぶりに搬入の手伝いをしたわ。明日はきっと筋肉痛になるわ
ね﹂
亜矢子が腕を振り回しながら帰って来た。冬だというのにブラウス
一枚だ。
﹁営業はフットワークが大切よ。なくした信頼はすぐさま挽回しな
きゃね﹂
﹁取り戻せないものもあるわ﹂
結衣が暗い顔でそう言うと、亜矢子は不思議そうに首を傾げた。
﹁どうしたの? また何かトラブル? 今ならどこへだって行くわ
よ﹂
﹁北海道へ行ってくれる?﹂
ぼんやりしたまま反射的に答える。それを聞いた亜矢子は苦々しく
笑った。
39
﹁ああ、あなたの旅行のことね﹂
結衣は驚いて顔を上げた。慌てて話を合わせる。
﹁ええ、そうなの。その⋮⋮残念だったなって⋮⋮﹂
藤木が知っているなら、亜矢子も知っていて当然だ。事故に関わる
ことを思い出させるのは気が引けるが、もう少し詳しいことが聞け
るかもしれない。亜矢子はやはり落ち込んでしまったようで、深々
と息を吐いた。 ﹁本当に残念だったわね。ギリギリになって急に迷っていたけど、
結局行くことにしたのよね。でも帰りぎわに私が余計なことを頼ん
だせいで、駄目になってしまって⋮⋮。次にあなたが旅行に行く時
は、私が課長にかけ合って休暇をもぎ取るわ﹂
亜矢子は結衣の手をぎゅっと握ると、何度も頷いた。どうやら体を
動かしてきたせいで少し興奮しているらしい。結衣の生返事を聞く
と、満足そうに去っていく。残された結衣は、首を傾げた。
初秋の北海道。楽しみにしていたに違いないのに、私は何を迷って
いたのだろう?
他人からの情報で自分の行動を連想するのは、かなり難しい。答え
を知っているはずの自分は、こんな時だけ無口だった。
どうやら危ぶむべきは仕事よりプライベートかもしれない。メール
やパソコンのデータには残っていない何かを探すのは、思った以上
に大変そうだ。
40
未完成関係5
共に旅行するなら親しい友人だ。一番に思いつくのは万里江だが、
しばらく夕食は一緒にと言っていたにも拘わらず、彼女は恋人の部
屋に行った切りだった。結衣は心がささくれ立っていたので、叔母
に告げ口してやりたくなった。無論、そんなことはしないが。
もう一つ気がかりなことは、カノンの店であの人を見なくなったこ
とだ。
夢では相変わらず、何かを手探りしていた。日差しの暖かさまで覚
えているのに、やはりもう一歩のところでたどり着けない。今では
目覚めた途端、喪失感を覚えるようになっていた。
ただ幸いなことに仕事のほうは順調だった。来年にはまた制作部へ
戻れそうだ。
結衣が一階エントランスでエレベーターを待っていると、後ろから
江原が声をかけてきた。
﹁秘密主義の結衣ちゃん。年頃の娘を持つおじさんは、女性の気持
ちに敏感なんだ。したがって隠し事はできないよ﹂
﹁あら、娘さんに彼氏ができたことも気がつかないのに?﹂
結衣が意地悪く笑うと、江原は本気で焦った。冗談だと納得させる
のは大変だった。
﹁私に秘密なんかないわ。なんでも顔に出ちゃうんだから﹂
﹁いや、日置君と知り合いだってことは隠していたじゃないか﹂
結衣は仰天した。数ある気がかりの中で、最悪なのは日置のことだ。
結衣は震えを押さえるように両腕を撫で、全身で嫌悪を表した。
﹁知り合いなんかじゃないわ。あの人は労災の件で私につき纏って
いただけよ﹂
﹁だって君を車に乗せたあの日、日置君に君とどういう関係なのか
問い質されたよ。どうやら彼は僕らのことを誤解していたらしい。
物凄い目で睨まれたよ﹂
41
それを聞くと、また怒りが込み上げてきた。江原にまで脅しをかけ
るなんて、どういう了見だろうか。
﹁彼に君が交通事故に合った話をしたら、蒼白になっていたよ﹂
﹁それはそうよ! 労災の申告をしなければいけないんですからね
!﹂
憤然とする結衣を見て、江原は首を傾げていた。もっと文句を言っ
てやりたいが、日置は江原の同僚だ。これ以上巻き込みたくはなか
ったので、ひどいセクハラを受けたことは黙っていた。
﹁どうして彼はあんなに偉そうなの?﹂
結衣が忌々しげにそう言うと、江原は苦笑いをした。
﹁まあ、次期社長だからね﹂
二人は降りてきたエレベーターに乗ると、それぞれ階のボタンを押
した。結衣は虚ろな目で、階表示の電光板を見上げた。
﹁⋮⋮なんですって?﹂
﹁彼はシノハラ住建の社長の甥御さ。篠原社長の妹さんの息子だよ。
社長夫婦には子供がいないから、後継ぎのつもりで面倒をみてきた
らしい。知らなかったのかい?﹂
結衣は血の気が引いていくのを感じた。
﹁ええ、まったく﹂
蚊の鳴くような小さな声で呟く。
﹁私、クビだわ﹂
自分のオフィスへ入ったあとも、日置のことが頭から離れなかった。
そこそこ名の知れた建材メーカーの次期社長の権限とは、どの程度
のものだろうか。関連会社の社員をクビにするくらいなら、できそ
うな気がする。真剣に身の振り方を考えようか。
だが落ち込んだ次の瞬間には、俄然気力が沸いてきた。
私は悪いことなどしていない。彼氏がいるという嘘はついたけど、
それは取るに足らないことだ。あんな男など怖くはない。
今度会ったらたとえ人前でも、セクハラのことを謝らせてやろう。
結衣はそう決めると、敵の調査とばかりにシノハラグループ共有の
42
イントラネットを開いてみた。そこには篠原社長の顔写真が掲載さ
れていた。年始式などで遠目に見たことはあったが、どことなく日
置に似ていなくもない。破廉恥な甥を擁護して、か弱い女性社員に
権力を振りかざすタイプだろうか? じっと眺めていると憎たらし
い日置六郎そのものに見えてくる。次期社長というのなら、いずれ
はここにあの男の写真が載るのだろう。そう思うと、敵はなかなか
の大物だ。
﹁なるようになるわ﹂
結衣はホームページを閉じた。カフェに呼びつけられた時は迂闊に
もときめいてしまったが、見た目が少しくらい良くても性格が最悪
なら、なんの意味もない。可哀そうな奴だわと、同情する余裕も出
てきた。色んな意味で、あの日置という男には感情を揺さぶられる。
アパートに帰ると、その夜は万里江が帰って来ていた。結衣は旅行
のことを切り出した。
﹁ねえ、万里江。私が交通事故に合わなかったら、一緒に北海道に
行く予定だった?﹂
恐る恐るそう聞くと、万里江は不思議そうに目を丸くした。
﹁私が着いて行ってどうするのよ﹂
その言葉の意味はわからなかったが、万里江の表情を見て答えが期
待していたものでないことは確かだった。結衣は覚悟を決めた。
﹁実は私、事故の前の記憶がないの。二ヶ月間だけ﹂
﹁二ヶ月間だけ?﹂
万里江は間の抜けたように繰り返したが、結衣が真剣な面持ちで頷
くのを見ると、驚愕に顔を歪めた。
﹁結衣、病院に行って診てもらわないといけないわ。打ち所が悪か
ったのね。いえ、あなたの言っていることを信じてないわけじゃな
いのよ﹂
万里江がひどく取り乱したので、結衣は慌てた。
﹁これは逆行性健忘症といって、記憶障害の一種なんですって。原
因は色々あるらしいけれど、私の場合は脳挫傷を受けたことで記憶
43
の一部が欠けてしまったの。でもその他は、なんの問題もないわ。
お医者様にもそう言われた﹂
結衣はゆっくり、それでいて質問の隙を与えず説明をした。
﹁このことは誰にも言っていないの。なくした期間が短いから、黙
っていれば気づかれないと思った。説明しても簡単には信じてもら
えないだろうし、私自身も未だに信じられないもの。それに皆に心
配をかけたくなかったの。私のお母さんが事故のことで物凄くショ
ックを受けたのは知っているでしょう? もし少しでも私に障害が
あるとわかったら、お母さんは絶対立ち直れなかったわ。たった二
ヶ月間のためにそんな思いをさせるのは絶対嫌だったの﹂
話しているうちに涙が込み上げてきて、結衣の声は震えた。万里江
は子供の頃から一番の仲良しだ。二ヶ月が瞬く間に消えてしまった
ことを、もっと早くに打ち明ければよかったと後悔した。
﹁昔のことは覚えているの。常識だってちゃんとあるわ。ただほん
のちょっと、事故の前の記憶が飛んでしまったの。不思議でしょう
? でも大切なことは全部覚えているのよ﹂
大切なことは絶対に忘れたりしない。結衣は最後の言葉に力を込め、
自分に言い聞かせた。目に溜まった涙は、一度瞬きをしただけでボ
ロリと零れ落ちた。万里江が無言のまま抱き寄せてくれたので、結
衣は我慢しきれず泣き出した。
﹁ねえ、結衣。同じような毎日だとしても、なくしていい日なんて
ないわ。それにたった一日で人生なんて変わってしまうのよ。一日
で出会いや別れだって充分あるわ。大切なことも、いつやってくる
かわからないし、もうやってきたかもしれないじゃない﹂
結衣が泣き止むと、万里江は真剣な顔で言った。いつもは軽くい
い加減な万里江だが、言うことは正しい。何もなかったと決めつけ
た日常も、それぞれ色んなことを考えて過ごしたはずだ。だが万里
江と違い、結衣の今までの経験では一日で人生が変わるほど劇的な
出来事はなかった。そこだけは少し残念だ。
散々泣いたあとは、気分がスッキリとした。万里江のほうも、もう
44
あっけらかんとし、楽しそうにネットで健忘症を検索していた。
﹁映画やドラマの中でしか、有り得ないと思っていたわ。ここはど
こ、私は誰っていう記憶喪失の定番に比べると、結衣のはなんだか
地味ね﹂
﹁なってみると、妙な感じよ﹂
万里江が安心してくれたので、結衣はこの二ヶ月間の自分のプライ
ベートを取り戻せそうな気がしてきた。
﹁私が休みを取って北海道に行くこと、知っていた?﹂
﹁勿論よ﹂
パッと明かりが灯ったように、結衣の顔は晴れやかになった。誰と、
と聞くよりも先に万里江が喋り出した。
﹁でも出発する前日に彼氏と喧嘩していたから、行くのをやめるん
じゃないかなって心配したのよ﹂
今度は結衣が顔を歪める番だった。驚きのあまり絶句する。
﹁だけどやっぱり着いていくことしたのね。あなたが入院した時、
部屋に着替えを取りにきたの。そうしたら旅行用にちゃんと荷物が
まとめてあった。だからそれを病院に持っていったの。冷蔵庫の中
もカラにしてあったわ﹂
結衣はたった今万里江が言ったことを、懸命に整理しようとした。
私が誰と喧嘩したですって?
当惑する結衣を見て、万里江は顔を曇らせた。
﹁あなた、まさか六郎君のことも忘れちゃったんじゃないでしょう
ね﹂
﹁⋮⋮なんですって?﹂
聞き覚えのあるその名前に、結衣は頬を引き攣らせた。万里江は目
を見開いて、詰め寄った。
﹁いやだ、本当に忘れたの?﹂
﹁六郎って、日置六郎のこと?﹂
結衣が日置のことで衝撃を受けたのは、今日これで二度目だった。
しかも一度目よりもっとひどい衝撃だ。
45
どうか違うと言って。結衣は心の中で唱えたが、その願いは届かな
かった。
﹁なんだ。ちゃんと覚えているじゃない。脅かさないでよ﹂
万里江は軽く睨んだ。そして三度目になる衝撃を、結衣に投げつけ
た。
﹁彼の両親に挨拶に行く予定だったんでしょう。まさか結衣に先を
越されるとは思ってもみなかったわ﹂
46
未完成関係6
日置に関する様々な事実は、結衣を激しく打ちのめした。特に万里
江から聞かされた自分と日置との関係は、到底信じがたいものだっ
た。
午前中、結衣はそのことばかりを考えて、全く仕事に集中できなか
った。数え切れないほど何度もため息をつく。
﹁結衣、体調でも悪いの? 顔色がよくないみたいだけど﹂
顔を上げると、山のようなファイルと書類を抱えた亜矢子が立って
いた。結衣は立ち上がると、亜矢子の視界を遮っている紙の束をど
けてやった。
﹁いいえ、全然。それよりどうしたの? すごい量ね﹂
今にも崩れ落ちてきそうで、危なっかしい。亜矢子は明らかに困っ
ている様子だった。
﹁申し訳ないけれど、会議資料を運ぶのを手伝ってもらえないかし
ら? もうすぐお客様と打ち合わせなの﹂
﹁ええ、いいわよ﹂
結衣は苦笑いをして、亜矢子の持つ資料を半分引き受けた。二人し
てヨロヨロと廊下に出ると、亜矢子はエレベーターのほうへと向か
った。
﹁このフロアの応接を使わないの?﹂
﹁それがもう予約でいっぱいなのよ。私ったら、随分前からアポが
入っていたのに遥花ちゃんに伝えるのを忘れていたみたい﹂
亜矢子はうんざりしたように唇を尖らせた。
﹁これがもしあなただったら、私のスケジュールを把握していて、
ちゃんと応接室を押さえてくれていたでしょうね﹂
﹁駄目よ。毎回、先回りができるわけじゃないんですからね﹂
﹁私って小学生みたいね。宿題持った? 体操服持った? いちい
ち聞いてもらわないといけないんだもの﹂
47
結衣はこの日、初めて心から微笑んだ。多事多端な日々が懐かしい。
あの頃のように忙しくしていれば、余計なことを考えずに済むのだ
ろうか。
夕べ知った旅の目的は、あまりにも衝撃的だった。万里江は健忘症
については理解してくれたが、日置のことだけは当然覚えていると
決めつけていた。大切なことは覚えていると結衣が言ったせいかも
しれない。結衣は怖くて、それ以上聞くことができなかった。
日置の両親に挨拶するため、私は北海道に旅立とうとしていた。行
くのを躊躇っていたというのはとりあえず置いておくとしても、彼
をただの友人と解釈するのには無理がある。
どうしてそんなことに?
自分でも認める結衣の欠点は、色恋について逃げ腰だということだ。
他のことならたとえ素手でも立ち向かえるのに。そう、たとえ相手
がそこそこ名の知れた建材メーカーの次期社長であろうとも、セク
ハラもパワハラも決して許さず立ち向かえる。でも、好きな人に対
してはまともに顔を見ることさえもできずに、一年も片思いをして
いる。
そんな私が、たかが二ヶ月で?
亜矢子のお喋りに相槌を打ちつつ、結衣の頭は再び日置のことでい
っぱいだった。だからエレベーターの扉が開いた時、日置の姿が目
に飛び込んできても、ああ、幻覚だわと鼻で笑った。
日置は結衣の嘲笑を見て、激しく目元を痙攣させた。
結衣はそれが本物の日置だとわかると、驚愕のあまり真っ青になっ
た。だがそんな結衣の様子に気づかずに、亜矢子はサッサとエレベ
ーターに乗り込んだ。仕方なくそのあとに続くと、後ろからも人が
乗ってきた。
狭い箱の中は満員で、運の悪いことに結衣は日置のすぐ近くに追い
やられた。結衣は山積みにされた資料で顔を隠したが、どうしても
我慢できずに上目遣いで日置を見た。日置はすこぶるつきの不機嫌
顔で、真っ直ぐ前を睨んでいた。体中から怒りの炎が立ち昇ってい
48
るようにさえ見える。
なんという恐ろしい顔だろう。緊張で息もできない。
エレベーターが停止すると、先陣を切って日置が降りた。結衣と亜
矢子を除くすべての人が出て行き、二人きりになる。
﹁いい男ね、日置さんって﹂
亜矢子が笑いながらそう言ったので、結衣は目を見張った。
﹁あの人と知り合いなの、亜矢子さん?﹂
聞かれた亜矢子も驚いたように目を見開いた。そして苦笑いをする。
﹁前にも説明したわよ。日置六郎。うちのグループにいて彼を知ら
ないのは、あなたぐらいだって言った気がするけど、忘れちゃった
の?﹂
それも忘れている。結衣はつくづく嫌になった。
﹁そうだったかしら﹂
二人はエレベーターから降りると、廊下を突き進んだ。
﹁あの時も変だったけど、今も変ね。あなたが男に興味を持つこと
自体が変だけれど﹂
﹁あの時って、いつだった?﹂
結衣の深い声に、亜矢子が振り返った。
﹁あなたが入院する前だったとは思うけど﹂
﹁思い出して。お願い﹂
結衣が有無を言わさぬ深刻な目で訴えたので、亜矢子はかなり面食
らったようだ。キョロキョロと目線を動かして、思い出そうとする。
﹁ええと、いつだったかしら⋮⋮。事故の前だから十月の⋮⋮﹂
結衣は黙っていた。私は彼を知らなかった。彼が誰だか、知らなか
ったのだ。これはどういうことなのだろうか。
自分では思い出せない以上、人の記憶に頼るしかなかった。万里江
の話と亜矢子の話を頭の中で繋ぎ合わせ、懸命に考える。
私は彼のことを知らなかった。そして亜矢子さんから次の社長だと
聞いて、興味を持ったの? 短い時間で親に挨拶に行くほどの仲に
なったのは、計算だったの?
49
無意識に首を横に振る。そんなのは変だ。たとえ向こうから誘って
きたとしても、自分とは釣り合いが取れないことぐらい考えたはず
だ。彼のような人とつき合うこと自体が不自然な気がする。
﹁そうだわ! この前の天使のモビール。あの依頼主との打ち合わ
せにあなたと行った帰りに、さっきみたいにエレベーターで鉢合わ
せしたのよ。確か十月十九日だわ﹂
亜矢子は揚々と顔を輝かせた。結衣は息を飲んだあと、声を震わせ
た。
﹁事故の前日だわ﹂
﹁そうよ。次の週にはあなたは旅行でいないから、どうしようって
言っていたのを思い出したわ。あの時も私がミスって⋮⋮﹂
亜矢子は恥ずかしそうに顔を顰めたが、次の瞬間、両手に抱えたフ
ァイルのその上に、更にファイルを積み上げられて悲鳴を上げた。
﹁ごめんなさい、亜矢子さん! 急用ができたの!﹂
結衣はそう叫ぶと、大慌てで日置が降りたフロアに向かって階段を
駆け昇った。扉を開けシノハラ住建が入るフロアに出ると、日置を
探してあちこちを走り回った。手持ちのピースはてんでバラバラだ
が、もう我慢の限界だ。今すぐ彼と話がしたい。
大勢の人が結衣を振り返る。だが肝心の日置の姿が見つからず、不
安と焦りで泣きそうになった。その時、パーテーションの一角から
日置が出てきた。
結衣が日置の前に転がり出ると、彼は目を丸くした。日置が驚いた
のはほんのわずかで、すぐに表情を硬くすると周りにいた社員を一
瞥した。
﹁先に行って下さい﹂
日置は低い声でそう言うと、結衣の腕を掴んだ。周囲の好奇な視線
を浴びながら、もたつく結衣を引っ張って、ひと気のない廊下へと
連れ出す。
日置はまるで放り出すようにして腕を放した。いつもなら、そんな
優しさの欠片もない振る舞いに激怒していただろうが、結衣が感じ
50
たのは腕の暖かさがなくなったことへの喪失感だけだった。日置は
険しい目で睨んでいる。本気で憎んでいるような目だった。何を聞
いても否定されそうで怖かったが、それでも聞かなければならない。
結衣は懸命にわななきを堪えた。
﹁私が交通事故に合ったこと、知らなかったの?﹂
結衣の声は落ち着いてはいたが、責めるような響きがあった。
﹁知らなかった﹂
日置の返事にはなんの感情も籠っていない。
﹁ずっと出社してなかったことに、気がつかなかった?﹂
﹁ここへはたまにしか来ないんだ。実際、会ったのはあの日が初め
てだった。次に会った時、君は男の車から降りてきた﹂
﹁あの人は昔からの知り合いで﹂
﹁直接聞いた。もういい﹂
抑揚のない日置の声に、結衣は唇を噛み締めた。彼はひどく怒って
いるのだ。だが結衣もひどく混乱していた。私たち、どういう関係
だったの? どうして、そんな冷たい目で私を見るの? 疑問は流
れ星のように振ってきたが、瞬く間に消えていき、うまく伝えるこ
とができなかった。
﹁入院していた一ヶ月間、あなたからは一度も連絡がなかったわ。
もしつき合っていたのなら、電話か、せめてメールぐらい⋮⋮﹂
﹁俺は振られたんだ。電話なんかできない﹂
振られた?
結衣は驚きのあまり言葉を失った。
この人は、私の恋人のはずだ。何も思い出せないけれど、状況がそ
ういっている。だって、この人に見つめられると胸が苦しい。
﹁私、覚えていないの﹂
結衣は絞り出すようにそう言った。日置は一瞬唖然としたが、すぐ
に苦々しく口元を歪めた。
﹁馬鹿にするのもいい加減にしろ﹂
日置は冷たく言い放つと、踵を返した。結衣は止めることもできず
51
に、ただ見送った。背中が見えなくなったあともずっと立ち尽くし
ていた。
﹁馬鹿になんて、してない﹂
覚えていない。思い出せないのだ。みるみるうちに涙が込み上げて
きて、結衣はすすり泣いた。
なくした二ヶ月の間に何があったのかはわからない。だが事故のあ
と見るようになったあの夢は、本当のことだったのだ。今なら、夢
で聞いた低い唸り声が誰のものなのか、はっきりとわかる。カフェ
に呼び出されて優しく話しかけられた時、どうして気づけなかった
のだろうかと、激しい後悔が押し寄せた。
大切なことは絶対に忘れたりしない。そう思ったことは間違いじゃ
なかった。忘れたわけじゃないからこそ、大切なことは夢に現れた。
ただ、大切な相手は結衣が考えていた人ではなかった。
52
未完成関係7
読み終わった本をゆっくり閉じると、結衣は窓の向こうを眺めた。
緑陰の隙間から差し込む太陽が、木の葉の滴を照らしている。キラ
キラと輝いて、とても綺麗だ。今なら雨が止んでいるので足元を濡
らさずに帰れるかもしれない。だが梅雨の空を気にしながらも、こ
の場を離れたくなかった。
少なくとも、主人公の生死がわかるまでは帰れない。
結衣は﹃コールド・レイン上巻﹄と印刷された本を片手に、立ち上
がった。ここ最近とても忙しかったので、この一冊を読み終えるま
で相当日数がかかったが、それを時間の無駄とは思わない。カノン
の選考は本当に素晴らしいが、中でもこの本は傑出している。自分
からは手を出さないサイエンス・フィクションの秀作に巡り会える
のも、ジャンルや題名で本を選ばなくて済むからだ。棚から抜き出
すだけで、凝り固まっていた感性の幅を広げてくれる。
カノンのおかげで、またいい本に出会えた。満席にも拘わらず店は
静かだったので、感嘆の吐息をそっと押し殺す。
結衣は本を戻すと、続きを求め店内の本棚を探した。色んな人が読
むので収納場所は決まっていない。だがどんなに丹念に見て回って
も、目当ての本は見つからなかった。
誰かが読んでいるのかしら?
店にいる客の手元を覗いてみたが、どの本も違う。結衣は不思議に
思い、亭主に聞いてみた。
﹁ねえ、カノン。この本の下巻がないのだけれど﹂
﹁え? そんなはずはないけどな﹂
カノンはカウンターの中から出てきて、店のあちこちを探してくれ
たが、どこにもないことがわかると肩を竦めた。
﹁たまに持って帰ってしまうお客がいるんだよ。ルール違反なんだ
けどね﹂
53
﹁そんな⋮⋮﹂
結衣は落胆と憤りで、すっかりしょげてしまった。拗ねたように頬
を膨らませた結衣を見て、カノンは苦笑いをした。
﹁そのうちに返ってくるだろうから、見かけたら取り置きしておく
よ。きっと戻してくれるさ。下巻だけ持っていても仕方ないからね﹂
﹁そうね﹂
カノンに文句を言うのは筋違いだ。結衣は笑いながら、心の中でそ
の違反者に悪態をついた。
だがそのあと、何週間経っても本は返ってこなかった。結衣は待ち
きれず地元の図書館で借りようとネットで蔵書を調べてみたが、残
念なことに置いていなかった。きっとあまりに面白いので、誰も図
書館に寄贈しないのだ。もしくは店から勝手に拝借したような不届
き者が他にもいて、図書館は上下巻を失ったのかもしれない。
結衣はアイスコーヒーを掻き回しながらページを捲った。﹃睡眠﹄
というミステリーだ。とても面白いので、読んでいるうちに遅くな
ってしまった。窓の外はもう暗い。
﹁カノン、﹃コールド・レイン﹄の下巻、戻ってきた?﹂
結衣は帰り際にそう訊ねた。カノンは申し訳なさそうに眉を顰めた。
﹁まだ戻ってきていないんだ。他にも読みたがっているお客がいる
かもしれないから、どこかで調達しようかな﹂
﹁あら、そんなの勿体ないわ。戻ってきたら、下巻だけが二冊にな
っちゃう﹂
そうは言ったものの、待っている間すでに別の本を読み終えてしま
った。もしかしたら、下巻を持ち帰った誰かは返しにこないつもり
かもしれない。結衣は店のドアノブに手をかけたまま、動きを止め
た。
もう少し待ってみて本が返らないようなら、私が買ってカノンに贈
ろう。そう思いつくと、笑顔になる。
たまにはお店にも貢献しなきゃ。結衣が何気なく店内を見回した時、
ふと、ソファに座る客の一人と目が合った。
54
あ、彼だわ。
そうと気づいた瞬間に、彼は顔を背けた。いや、結衣を見ていたか
どうかもわからない。
いつの間に来ていたのかしら。
結衣は大きな声でカノンと話していたことを思い返し、頬を赤らめ
た。もしかしたら、騒がしくてこっちを見ていたのかも。
恥ずかしくて急いで店から出ると、夏の熱気が押し寄せてきた。そ
れがこの店で覚えている、最後の記憶だ。
結衣は頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を見た。カノンの店か
ら見える風景はいつも同じだが、あの時は夏で、今は冬だ。季節が
大きく変化したように、結衣の身の回りにも大きな変化があった。
だがそれはもう過ぎ去ってしまった。結局全部なくしてしまったの
だ。
平日の夜なので、店の客は少なかった。その少ない客の中にやはり
彼はいないが、結衣が考えているのは、別の男のことだった。
日置とはどうやって知り合い、どこを好きになり、どんなふうにつ
き合っていたのだろう。彼は振られたと言っていた。私があの人を
振った?
そんなこと考えらない。そもそもあんな高飛車な男とどうしてつき
合ったりしたのだろう。消えた二ヶ月間、私という人間は本当に私
だったのか? それすら怪しい。
考えても答えは見つからず、ただ漠然とした虚しさが広がるだけだ。
結衣は店中に響き渡るほどの大きなため息をついた。会社を出たあ
と夕飯も食べずにここへ来て、もう何時間もそれを繰り返している。
﹁彼氏とは、まだ連絡つかないのかい?﹂
声をかけられても、すぐに反応できなかった。顔を上げると、カノ
ンが少し困ったように笑っている。なぜ日置のことを知っているの
だろうかと思って、唖然とした。
だがすぐにカノンの言う彼氏とは、あの人のことなのだと気がつい
た。
55
﹁君たちは、両想いに見えたけどな﹂
カノンがまだ勘違いをしていると知り、結衣は可笑しくなった。あ
の人とは挨拶すら交わしたことがないのに、なぜそんなふうに思え
るのだろう。どうやらこの店の亭主の観察眼は大したことがないら
しい。
﹁小説のように簡単にはいかないわ﹂
その言い方はあまりにも結衣らしくなく、投げやりだった。即座に
後悔をしたが、言い直して否定する気にもなれない。なんとなく居
心地が悪くなり、本を物色する振りをして立ち上がった。
当てもなく本棚に向き合うと、他に比べ綺麗な背表紙が目についた。
結衣はそれを抜き出すと、パラパラとページを捲った。いつの間に
戻されていたのだろうか。そういえば見かけたら取り置きしておく
とカノンは言ってくれていた。ここにあるということは、ひょっと
したらこの本も忘れているだけで、もう読んだのかもしれない。
自分を小馬鹿にして笑うと、楽しみにしていたはずの本を閉じた。
﹃コールド・レイン下巻﹄は、やはり結衣の記憶の中に存在しない。
存在しない以上、なんの感情も沸いてこない。店の蔵書にしてはカ
バーは綺麗で、角が少し汚れているだけだ。結衣は何気なく、本を
裏返した。大抵の本がそうなっているように、そこにもあらすじが
印字されてあった。
だが、結衣の目に飛び込んできたのはそれだけではなかった。
﹃小川結衣﹄
黒い大きな字で斜めに、そう書かれてある。それを見た瞬間、結衣
の頭の中は真っ白になった。
56
未完成関係8
指先を彷徨わせると、なんとなく留まった所から背表紙を抜き出し
た。
結衣はいつものようにそうやって本を選ぶと、ソファに座った。外
では蝉の大合唱が鳴り響いている。
八月も中旬に差しかかり、今が暑さのピークだ。田舎に帰ってのん
びりしたいが、まだ夏季休暇の目途は立たない。そのうち、振替で
休ませてもらえればいいが⋮⋮。
忙しい日々を忘れるため貴重な憩いに没頭していると、突然白いペ
ージに影が差した。見上げると、そこには彼が立っていた。
彼はゆっくりとした動きで結衣の前に座ると、テーブルの上に一冊
の本を置いた。結衣は茫然としながら、彼の顔からその本へと目を
移した。
表紙には﹃コールド・レイン下巻﹄と印刷されている。結衣は顔を
上げた。
﹁あなたが持って帰っていたの?﹂
その声は自分でも驚くほどに大きかった。だがもっと驚いたのは、
眼鏡の奥から結衣を見つめる彼の目が、とても優しかったことだ。
あ、かっこいい⋮⋮。
体中の血液が物凄いスピードで駆け巡るのを感じる。結衣は頬を真
っ赤にさせた。
﹁違うけど、探していたみたいだから家から持ってきた。君にあげ
るよ﹂
間近で聞く彼の声は、低くて通りがよかった。こんなにはっきりと
顔を見たのも初めてだ。想像していたよりもずっと素敵で、まるで
湯あたりしたかのように頭がクラクラした。
﹁でも、そんなの悪いわ﹂
かろうじてそれだけ言うと、また彼の顔を凝視する。
57
﹁何度も読んだから﹂
彼はうっすらと笑みを浮かべると、長い指で結衣のほうに本を滑ら
せた。結衣は口から心臓が飛び出しそうだった。
﹁ありがとう﹂
消え入りそうな小さな声で礼を言うと、本を手に取る。角が少し汚
れている。彼も読んだのかと思うと、心が震えた。
気がつくと目の前に大きな手が差し出されていた。結衣が何も考え
られぬままその手を握ると、思いのほか強く握り返された。
﹁日置六郎といいます﹂
﹁小川結衣です﹂
夢を見ているようだと、思った。遠くで眺めていただけの彼が、名
前を教えてくれた。そのうえ握手まで。
結衣は恍惚となりながらも、なんとか必死で言葉を交わした。六郎
は結衣より三つ年上の二十八歳だという。年齢は想像に近かったが、
側で見るともっと落ち着いた雰囲気を持っていた。彼は大学時代か
らカノンの店に時々来ているという。
﹁それは?﹂
六郎が目線で問いかけた。結衣は手元にあった本を立てて見せた。
﹁﹃未完成関係﹄。まだ読み始めたところよ﹂
六郎は結衣から本を受け取ると、パラパラとページを捲った。
﹁面白い?﹂
﹁この店に面白くない本はないって、私は信じているの﹂
あとから通い出した私がこんなことを言って、生意気だと思われ
ないかしら。結衣の声はかすかに震えていた。
﹁確かにそうだ﹂
六郎はふっと鼻から息を抜いて笑った。
﹁君が読み終わったら、次はこれにしようかな﹂
今までも、時々そういうことがあったのよ。結衣は顔を綻ばせた。
勿論そんなことは決して言わない。言えば、前から六郎を見ていた
ことがばれてしまう。次第に結衣の緊張は解けていき、会話にぎこ
58
ちなさはなくなった。
店は静かだったので、話し声は周りにも聞こえていただろう。だが
そんなことはお構いなしに、二人は話し続けた。二人といっても、
途中からはほとんど結衣が一方的に喋った。
﹁⋮⋮というわけで、従姉妹の万里江が独り暮らしをする条件とし
て、私が隣に住むことになったの。でも私にとってはすごくラッキ
ーだったわ。だって私も一人で暮らしてみたかったんですもの。こ
の店から二十分くらい歩いた場所にあるアパートよ﹂
﹁駅からは、結構遠いな﹂
結衣が機関銃のように喋る合間に、六郎は短い相槌や質問をした。
結衣は気持ちが高揚しすぎて、ひどく前のめりになっていた。二人
の間の距離はほとんどなかった。
﹁遠いけど、大通りを真っ直ぐ行けばいいから安全よ。とてもいい
部屋よ。でも壁紙だけはどうしても変えたくて、ベニヤ板を敷いて
そこに会社から分けてもらった店舗用の紙を張りつけたの。私はD
IYが得意なのよ﹂
﹁会社って?﹂
﹁シノハラ住建って知っている?﹂
結衣はにっこりと笑って少しだけ首を傾げた。六郎が何も答えな
いので、そのまま話し続ける。
﹁その関連会社で、色んなお店の内装を請け負う会社よ。シノハラ
住建の下に企業向けの内装工事の会社があって、うちは更にその下
で小規模案件を扱うの。一から店舗を設計したり、売上げを伸ばす
ために改装したりするのよ。毎日忙しいけど、職場は皆いい人ばか
りでとても楽しいわ﹂
自分が大切にしているものを六郎に伝えたくて、結衣は目を煌めか
せた。だがそれまで柔らかかった彼の顔が急に強張ったのを見て、
失敗に気づいた。
いけない。私ばかり話しているわ。
結衣は頬を赤らめて俯いた。興味のない話を矢継ぎ早に聞かされて、
59
六郎はうんざりしてしまったのかもしれない。
過去の振られた原因を思い出し、結衣は後悔をした。こんなことだ
から、友達にしか見られないのだ。自分の明け透けな性格が恨めし
かった。
でも少しでも彼と仲良くなれるなら、友達でも構わないんじゃない
? 恋愛に消極的な自分がそう囁く。だがすぐにいつもとは違う自分が
反論をした。この人と、何かを始めたい。見ているだけではできな
い何かを。結衣は慌てて万里江と一緒に練習したことを実践してみ
た。
こうだったかしら? 睨みつけるように上目を剥いて、無理やり笑
顔を作る。
﹁あなたは、なんの仕事をしているの?﹂
六郎は結衣の顔を見て怪訝そうに眉を顰めたあと、目を泳がせた。
今までとは別人のようだった。
﹁実家は酪農をしている﹂
﹁え? 酪農って、牧場のこと?﹂
予想外の答えに驚いて、結衣は上目遣いを忘れた。まじまじと六郎
を見つめると、彼は不機嫌そうに見返した。
﹁今はしがない会社員だけど、いずれは実家に戻って牛の世話をす
ると決めている﹂
六郎はなぜか腹立たし気で、声の響きもまるで違った。結衣はそん
な彼を不可思議に思いながらも、広大な牧場に散らばる白黒の斑模
様の牛を想像した。途端に興味が沸いてくる。
﹁実家ってどこ?﹂
また前のめりになった結衣に、六郎は少し面食らったようだ。目に
はまだ訝しさが残っている。
﹁北海道﹂
﹁私の実家は宮崎よ。北と南ね。お互い田舎から出てきたのね﹂
結衣は嬉しくて笑顔になった。穏やかで洗練された物腰の六郎と、
60
共通点が見つかった気がする。結衣の父は生前、養鶏場に勤めてい
たのでひどく親近感を感じた。そのことを話すと、六郎の顔はまた
柔らかくなった。すっかり歯止めが効かなくなった結衣は、家族の
ことも田舎のことも、学生時代のこともペラペラと喋った。
二人はそのまま日が暮れるまで話し続け、カノンの店で夕飯を食べ
たあと渋々といった感じで別れた。結衣は男の人といてこんなに楽
しかったことはなかった。彼を見ていた時の、百倍も幸せだった。
結衣は転がり落ちるように、あっさりと恋に落ちた。それが早すぎ
るとしても仕方がない。
結衣は一年待った。だからもう待てなかった。
その週、結衣は自分でもどうやって乗り切ったのかわからないほど、
仕事中も六郎のことばかり考えて過ごした。繁忙が多少緩和されて
いなかったら、大きなミスをしていたに違いない。
﹁ありがとうございます。シノハラデザインでございます!﹂
事務所で電話を受けると、その声はいつもより一オクターブ高く響
いた。それを聞いて、藤木が面白半分にからかった。
﹁やけにご機嫌のようだけど、もしかして彼氏でもできたとか?﹂
結衣は心臓がひっくり返りそうになったが、平静を装うと目の端で
藤木を睨んだ。
﹁そんなのじゃないわ。女性の機嫌が男性の存在に左右されるほど
単純だと思ったら、大間違いよ。でも、私を不機嫌にさせる理由な
ら、確か藤木さんにはあったわよね﹂
それを聞くと、藤木は困ったように苦笑いをした。
﹁この前の美容院の受注では、本当に迷惑をかけたよ。店舗を解体
したあとのデザイン修正を差し替えせずに、そのまま施工に入って
しまって﹂
﹁このままじゃクライアントが拘っていたファサード看板が嵌らな
いと聞いた時には、どうしようかと思ったわ。施工図を鷲掴みにし
61
ながら、会社と現場を何度往復したことか﹂
結衣が演技かかったため気をつくと、藤木の顔つきが少し真剣なも
のに変わった。
﹁おわびに今度、夕飯を奢るよ﹂
﹁ランチでいいわ﹂
藤木が何か言いかけた時、また電話が鳴ったので、話はそこで途切
れた。
﹁ありがとうございます。シノハラデザインでございます!﹂
その声は朗らかに弾んでいた。たった一日の六郎との会話で、結衣
の気持ちは一年分を遥かに凌いでしまったようだ。休みの日が近づ
くにつれ、胸が熱くなる。もう一度六郎に会って、まだ完璧ではな
い彼の顔をくっきりと目に焼きつけたかった。よく考えてみれば、
話しかけてきたのは彼のほうなのに、自分ばかりが緊張していた気
がする。今度はもっと落ち着いて、万里江に教わったとおり目をキ
ラキラさせてみよう。
待ちに待った週末がやってきて、結衣は揚々としながらカノンの店
へと出向いた。扉を開けると、一直線に彼の姿が目に飛び込んでき
た。
六郎はすぐに結衣に気づいて、小さく手を上げた。隣のソファに置
いてあった鞄をどけたのを見て、結衣は飛び跳ねたくなった。
私が来るのを待っていてくれたんだわ。
結衣はまるで大好きな飼い主に駆け寄る仔犬のように、目をキラキ
ラさせて六郎の側に行った。
﹁あの本、まだ読めていないの﹂
誰にも渡すまいと慌ててソファに座ると、六郎の目を覗き込む。
﹁いいよ、ゆっくり読めば。君にあげたんだから﹂
六郎は軽く笑い返した。
そうそう、この顔。
結衣はこの一週間、自分が想像していた六郎と、本物の彼が寸分違
わぬことを確認し悦に入った。いや、本物のほうがずっと素敵だ。
62
結衣はすっかり興奮すると、またペラペラと自分のことを喋り始め
た。六郎は時々言葉を挟むだけで、なんとなく楽しそうに結衣を見
つめていた。
﹁どうしてもインテリアデザインを専攻したかったから、叔母の家
に下宿させてもらうことにしたの。叔父も叔母もとても親切で、す
ごく良くしてくれたわ。居候なのに自分の家にいるみたいだった﹂
﹁従姉妹とも仲良しだし﹂
六郎はちゃんと話を覚えてくれている。結衣は嬉しくなった。
﹁そうなの。でも万里江と叔母さんは、しょっちゅう喧嘩をするの
よ。叔母さんは万里江を心配しているのだけれど、万里江にはそれ
が煩わしいみたい。家を出る時もいっぱい約束をさせられて、よう
やく許してもらえたのよ。私もとばっちりを受けて、誓約させられ
たわ﹂
﹁誓約って?﹂
結衣は急にかしこまって背筋を正した。手のひらを六郎に向けて、
指を一本ずつ折っていく。
﹁毎日メールをする。週に一度は電話をする。掃除、洗濯はこまめ
にする。できるだけ自炊をする。窓を開けっぱなしにしない。玄関
の扉チェーンは外さない。彼氏を部屋に入れない﹂
自分が口にした最後のフレーズに、結衣はどきりとした。慌てて手
を引っ込めると、涼しい顔を作ってみせる。
﹁最近は残業が多くて、お弁当屋やお惣菜を買って済ませることが
多いの。約束が守れていないわ﹂
取り澄ました振りは下手くそすぎて、恥ずかしかった。お願いだか
ら顔が赤いことに気がつかないで。そう思えば思うほど、頬は紅潮
していく。
六郎は鼻から息を抜いたような返事をしただけで、ほとんど興味を
示さなかった。結衣は安堵した反面、男子禁制の話を彼が聞き流し
たことにショックを受けていた。先週に続き、あまりにも自分ばか
りが喋り過ぎていることにも嫌気が差した。物静かに読書に耽って
63
いた姿を見て、彼は声をかけてくれたのかもしれない。それなのに
こんなに喧しい女だと知って、がっかりされたかも。
少しの間、沈黙が流れた。すると六郎が店を出ようかと言ったので、
結衣は不安と期待を入り混じらせた。外はうだるような暑さだった
が二人は公園に入り、木陰のベンチに腰かけた。
噴水の向こうに綺麗な虹が架かっているのを見て、塞いでいた気分
はすぐに晴れた。またお喋りがしたくなる。
﹁六郎の六って、もしかしたら六番の子供っていう意味?﹂
﹁違うよ。妹が一人いるだけ﹂
﹁じゃあ六月生まれ?﹂
浮き浮きしながら聞くと、六郎は首を横に振った。
﹁六角の六﹂
六角ナットの六?
意味がわからず目を丸くした結衣に、六郎は優しく教えてくれた。
﹁雪の結晶って見たことある?﹂
結衣が首を横に振ると、六郎は微笑んだ。
﹁雪は六角形の結晶が基本になっているんだ。雪の結晶の六﹂
結衣は感動で大きく息を飲んだ。高鳴る胸の前で両手を合わせる。
﹁素敵! さすが北海道の人ね!﹂
﹁なんとなく恥ずかしいから、六時に生まれたってことにしている﹂
六郎は照れくさそうに笑った。眼鏡の奥で切れ長の目が更に細くな
る。そうか、自分の名前に綺麗な意味があることは、男の人にとっ
て少し恥ずかしいことなのか。結衣はもっと彼の名前を褒めたかっ
たが、六郎のはにかんだ顔を見られただけで満足することにした。
﹁高校生の時、実家が経営難で牛舎を閉めることになったんだ。そ
れで俺は本土の叔父の所で生活するようになった﹂
﹁まあ、そうなの。じゃあ私と近いのね﹂
結衣はそう言ったものの、自分の境遇とはかなり違うだろうと感じ
た。恐らくその思いが顔に表れていたせいか、六郎は柔らかく微笑
んだ。
64
﹁俺も居候だったけど、とても良くしてもらったよ。叔父が大学ま
で出してくれた﹂
﹁まあ、そうなの! じゃあ私と同じね!﹂
結衣が満面の笑みを浮かべたのを見て、六郎が噴き出した。彼の大
きな笑い声は、結衣を驚かせた。
六郎はひとしきり笑い終えたあと、疲れたように深々と頭を沈めた。
﹁君は面白い人だね﹂
独り言のように呟く。六郎の笑顔にうっとりとしていた結衣は、急
に我に返った。やっぱり、私は友達止まりの女なのだ。そう思うと、
悲しみが込み上げてきた。
恋の対象として外されてしまったことに、結衣は激しく傷ついた。
それは今までとは比べものにならないくらいのやるせなさで、息が
詰まったように何も言えなくなった。
六郎は体を起こすと、結衣を見た。その眼光にははっきりとした自
信が溢れていた。
﹁つき合ってほしい。真剣に﹂
結衣は一瞬、これは都合のいい夢だと思った。でも夢なら夢で構わ
ない。彼の気が変わらない間に、早く思いを伝えなければ。結衣は
喉の詰まりを吐き出すような大声を出した。
﹁私もあなたにそう言おうと思っていたところなの。だってあなた
は私に本をくれたから﹂
違うわ! 何を言っているの!
結衣は即座に青ざめた。焦りのあまり、わけのわからないことを口
走ってしまった。
もっと気の利いたことを言わないと。もっと可愛げのあることを。
表情も仕草も女らしくして、恋してるみたいに、もっと⋮⋮。
六郎は驚いたように目を丸くさせている。結衣自身も愕然としてい
ると、そのうちに六郎は破顔した。
﹁そんなに効果があったのか﹂
低い声でそう言われて、結衣の体は夏の暑さを上回るほど熱を持っ
65
た。こんなに近くにいるのに、眼差しはぼんやりと遠くに飛んでい
る。自然と顔が綻んだ。
﹁そうなの。効果絶大だったわ。だって私、ずっと待っていたんで
すもの﹂
結衣は待っていてよかったと思った。﹃コールド・レイン下巻﹄を
持って帰ってしまった不届き者に、心から感謝をしたい。カノンに
もお礼が言いたい。万里江のアドバイスはあまり役に立たなかった
気がするけど、多少有難く感じた。
長い間、待っていてよかった。嬉しさが胸いっぱいに溢れ出し、微
笑まずにはいられなかった。隣では、六郎がこっちを見ている。恥
ずかしかったが、思い切って顔を上げて彼を見た。結衣がにっこり
と笑うと、六郎も笑った。
66
未完成関係9
つき合い始めてすぐに、六郎が名前で呼び合おうと言い出したので、
そうすることにした。
会うのは変わらずカノンの店だった。二人とも話題作りのため無理
に遠出することが嫌いで、行きたい場所がなければ夜までそこにい
た。
六郎はかなり忙しいようだった。改めてなんの仕事をしているのか
訊ねると、建築関係という大雑把な答えが返ってきた。
将来田舎に帰って酪農をするというのは、本気らしい。そのことに
なると六郎は雄弁になる。結衣は先行きを懸念するタイプではなか
ったので、たとえ田舎のことでいつか壁に当たるとしても、今の愛
情を出し惜しみしなかった。六郎を見る目には、好きという気持ち
がはっきりと表れていた。
﹁ねえ、これ、この店に置いてあげてもいいかしら?﹂
結衣は読後の感想を小一時間も話したあと、今度は生き生きとした
顔で彼の眼前に表紙を突き出した。
六郎は﹃コールド・レイン下巻﹄をじっと見つめたあと、無表情の
まま首を傾げた。
﹁いいけど、どうして?﹂
﹁きっと私と同じように下巻が読めなくて苛々している人がいるは
ずよ﹂
結衣は店内をぐるりと見渡すと、再び六郎の目を覗き込んだ。週末
が来るまでの間、このアイデアを六郎に披露したくてウズウズして
いたのだ。
二人が最初に言葉を交わしてから、ひと月が経っていた。その間、
結衣はきっかけになってくれたSF小説を何度も読み返した。最初
に読み終えたのは今から二週間ほど前で、その時も同じように彼の
前に表紙を突き出しながら、張り切って報告してみせた。すると六
67
郎は穏やかな笑みを浮かべた。
﹁もう一度、読んでみたら?﹂
彼との意見交換を楽しみにしていた結衣は、大きな目を更に大きく
させて聞き返した。
﹁どうしてもう一度読むの?﹂
﹁最初は、話の展開を追うので精一杯だから﹂
二人はカウンター席で、隣り合って座っていた。背の高い六郎は身
を屈め、目の高さを結衣に合わせているようだった。
﹁ストーリーがわかれば、今度は人物の感情を読み砕く余裕が出て
くる。読めば読むほど、なぜこういう行動を取ったのかとか、本当
に言いたいことはこれだったのかとか、最初は考えもしなかったこ
とが読み取れて面白い。まるで違う話に思えてくる﹂
結衣がぽかんとして聞いていると、六郎は少し恥ずかしそうに首の
後ろを撫でた。
﹁まあ、これは俺の読み方だから、無理には薦めないけど﹂
眼鏡の奥の目が、細かく瞬きをする。結衣はそれを見て頭がクラク
ラした。
﹁ろ、六郎は何回も読んだの?﹂
﹁読んだよ。何回もね﹂
﹁文章の中に、何が隠れているのか探すのね﹂
自分のほうに表紙を向けると、新たな価値に気がついたように、じ
っと見つめる。どうやら彼は、この本をとことんまで解したらしい。
だったら私も同じようにしてみよう。
海に潜るように深く読むと、六郎の言ったとおり一冊の本の中に全
然違う物語が見えてきた。サラリと流し読みをしていた部分に、意
味を見つけることができる。読むということは、文字を噛んで血肉
にするということなのかもしれない。なんとなくそう感じた。
ここにある本をそうやって読めばいいのね。
結衣は再び持ってきた本を六郎の前に突き出したまま、カノンの店
を見回した。本棚の中にまだ﹃コールド・レイン下巻﹄はない。こ
68
のひと月の間にも、例の不届き者はカノンの店に本を返しに来なか
った。
﹁寄贈するってこと?﹂
六郎の反応は薄かった。カウンターの小さな丸椅子を半回転させる
と、窮屈そうに畳んでいた足を投げ出した。最初に読み終わった時
や、さっきまで感想を聞いてくれていた時とは違い、顔には笑みが
ない。
﹁まさか! 貸してあげるだけよ。持ち帰られた下巻が返ってくる
まで﹂
結衣は興奮して大きな声を出した。あげるなんてとんでもない。で
も読みたがっている人に貸すことには、きっと彼も賛成だろう。見
知らぬ私に持ってきてくれたくらい、親切なのだから。
結衣はそう思い込んで笑顔になった。六郎が微笑んでくれるのを待
つ。
だが六郎は笑わず、本を弄ぶように片手で捲っていた。眼鏡の奥で
細くなった目が皮肉っぽく見えて、結衣は心細くなってきた。
六郎は何も言わないまま、やおら本を裏返した。悄然とする結衣が
見つめていると、鞄の中から取り出したペンで大きくこう書いた。
﹃小川結衣﹄
﹁これなら、誰も持って帰らない﹂
あらすじを避けた裏表紙の大部分が、自分のフルネームで埋まっ
たのを見て、結衣は呆気に取られた。六郎は声を出さずに笑ってい
る。しばらくしてからかわれているのだとわかると、頬が赤くなっ
た。
﹁こんなに大きな字で書いたら、恥ずかしいじゃない!﹂
結衣は戸惑いで声を荒げたが、六郎は平気そうだった。
﹁自分の物には、名前を書いておかないと﹂
そう言うと結衣の手を掴んだ。逃げる暇も与えずに、手のひらに文
字を書く。
﹃日置六郎﹄
69
﹁俺は人に貸したりはしないけどね﹂
六郎は立ち上がると、カウンターの中にいるカノンに本を渡してま
た結衣の隣に座った。
﹁君は優しい﹂
結衣は茫然としながら、六郎の柔らかい笑顔と手のひらの名前を何
度も見比べた。
自分の物。そんな言い方をされたのは初めてだ。六郎は物静かで結
衣の十分の一くらいしか喋らないが、言葉に臆するところがない。
短い台詞で自分の思いを伝えてくる。結衣は全身がフワフワと浮い
ているような気になった。
陽が沈むのが急に早くなり、二人が店を出た時には辺りはもう暗か
った。結衣と六郎は並んで歩きながら、取り止めのない話をした。
話すことが尽きた時、結衣は俯いて彼のすぐ近くにある自分の手を
意識した。手のひらには持ち主の名前が書かれてある。
﹁実家にいた頃、自分の一人部屋ってもらえた?﹂
﹁いいや、妹と同じ部屋だったな﹂
﹁私もお兄ちゃんと同じだったわ。お兄ちゃんは好きなアイドルの
ポスターを貼ったり、プラモデルを飾ったりしていたわ。私が嫌が
っても、全然駄目だった。妹は立場が弱いのよ。だからいつか自分
だけの部屋を持ったら、ああしようとかこうしようとか、想像ばか
りしていたわ﹂
結衣は昔を思い出して憤然としたが、同時に懐かしかった。六郎
も笑っていたので、同じような思い出があるのかもしれない。
﹁私の住んでいるアパート、古いし外観も全然綺麗じゃないの。で
も部屋は自慢なのよ。何をどう置くか、何色にするのか物凄く考え
たわ。だって全部が私の自由にできるんだもの﹂
﹁壁紙は自分で貼りつけたんだろう? すごいな﹂
﹁そうなの。お金はかけられない代わりに、手間と時間をかけたの。
狭い安アパートなんだけど、自慢のお城よ﹂
ふっと小指と小指が触れ合った次の瞬間、六郎の手が結衣の手を包
70
んだ。
﹁見に行ってもいい?﹂
﹁ええ﹂
結衣は俯き、六郎は真っ直ぐ前を向いていた。二人ともかすかに微
笑んでいた。
結衣は六郎のことをもっと知りたかった。だから彼が部屋に来て、
何を感じ、何を思うのかを聞いてみたかった。でもそれを聞くのは
あとでもいい。いつもは喋りっぱなしの結衣が、ずっと黙っていた。
電気を消しても、窓から入る街灯の明かりで部屋はうっすらと明る
かった。夜は夏の名残でまだ暑く、抱き合うと汗ばんだ。
﹁独り暮らしの女性で、こんなにシンプルで大胆な部屋作りができ
る人は珍しい﹂
六郎は薄暗がりの中で、目を凝らしているようだった。眼鏡を外し
た彼を見たのは初めてだ。
﹁大抵、装飾が多すぎて部屋を狭くしてしまう。あとは壁に色んな
物を貼りつけたり、天井から何か吊るしたり﹂
﹁万里江の部屋はまさしくそんな感じよ。劇団のチラシや外国の小
さなおもちゃを一面に飾っているわ﹂
結衣は誉められたことが嬉しくて、身をよじった。六郎が見つめる
自慢の壁紙は、ベージュの下地にモスグリーンとネイビーの二色が
からみ合ったラインが、縦に走っている。住宅用にはインパクトが
強すぎる代物だが、現物を見た瞬間にひと目惚れをして、最初から
この壁紙をベースに部屋の構成を考えた。
﹁他をすべて無地にした潔さがすごい﹂
六郎はひどく関心があるようだった。建築関係の仕事をしていると
いうことは、色んな家の内装を見る機会が多いのかもしれない。ま
た共通点を見つけて、嬉しくなった。
﹁私の叔父さんはいつも妙な部屋だって言うわ。ベッドカバーもシ
ーツも真っ白で、ビジネスホテルみたいだって﹂
﹁清潔感があって俺は好きだ﹂
71
今まさにその白いベッドで、二人は横たわっていた。結衣は腕を伸
ばし、六郎に抱き着いた。六郎も強く抱き返してくれる。
﹁結衣﹂
耳元で名前を呼ばれて、くすぐったかった。結衣も六郎の名前を呼
んだ。
そのうちに二人は口数が少なくなった。間近で向かい合った六郎の
顔は、とても幼かった。
人が眠りに落ちる瞬間を、結衣は初めて見た。そのすぐあとで、結
衣も目を閉じた。その頃にはもうお互いの体温が心地良いくらいに、
夜が深まっていた。
二人は遅い時間に目を覚ましたあと、ベッドの中で心行くまでまど
ろんだ。ほんのりと暖かくて、いつまでも眠れそうだった。だが空
腹でどうしようもなくなると、朝食をとるため出かけることにした。
﹁近くのファストフードにでも行く?﹂
﹁そうだな﹂
不思議と服を着たほうが恥ずかしくて、結衣は妙にそわそわして
いた。六郎もむず痒そうに笑っている。
﹁出た途端、怖い叔母さんが待ち構えていたりして﹂
﹁やめてよ。本当にいそうだわ﹂
結衣と六郎がクスクス笑いながら扉を開けると、叔母の代わりに隣
の部屋から万里江が飛び出してきた。二人は驚きのあまり凍りつい
た。万里江は食い入るように六郎を見つめると、顔中に笑みを浮か
べた。
﹁おはよう、結衣。私はその⋮⋮新聞を取りにきたのよ。偶然ね﹂
﹁いつから新聞を取るようになったの?﹂ こんなタイミングで出てきて、よく言うわね。結衣は諌めるように
目を細めた。きっと万里江は薄い壁の向こうから話し声が聞こえて
くるので、様子を窺っていたのだろう。ここのところ休日はほとん
72
ど恋人の所だったのに、今朝に限って帰っているなんて、勘のいい
従姉妹だ。
万里江に好奇心たっぷりの視線をぶつけられ、六郎は困惑している
ようだった。結衣は仕方なく万里江を紹介した。
﹁この子が万里江よ﹂
﹁ああ、従姉妹の﹂
六郎は安心したように表情を緩めた。一方で万里江は自分にも紹介
しろと、鋭い目つきで合図をした。結衣はそれを無視すると、背中
にひしひしと万里江の視線を感じながら、六郎の手を引いてアパー
トから出た。
﹁まずかった?﹂
苦笑いをする六郎に、結衣は首を振った。
﹁いいえ、ちょっと恥ずかしかっただけよ。でも帰ったら、質問の
嵐だわ﹂
結衣は平気な振りをしてみせたが、内心はどちらに対してもバツの
悪い思いをしていた。
前もって男友達ができたとでも言っておけばよかった。本人は否定
するが万里江は叔母に似て心配性なので、いきなり泊ったあとの鉢
合わせでは、六郎の印象が悪かったかもしれない。万里江は大事な
友達で、恋愛の先生でもある。できれば六郎とも仲良くしてほしか
った。食事をして六郎を駅まで見送ったあとアパートに戻ると、思
っていたとおり万里江はどこにも行かずに待ち構えていた。
﹁私に内緒にするなんて、どういうことよ!﹂
万里江が珍しく本気で怒っていたので、結衣はなだめにかかった。
﹁だって、あなたずっといなかったじゃない。電話やメールで伝え
るよりも、直接報告したかったの。万里江に教えてもらったキラキ
ラの目のおかげで、彼とつき合えるようになったよ﹂
結衣がそう言うと、万里江は少しだけ得意気な顔になった。
﹁私が教えてあげたとおりにしてみた?﹂
﹁ええ、こんな感じに﹂
73
上目遣いで瞬きをしてみせる。万里江は話が聞きたくて仕方がない
ようで、すぐに機嫌を直してくれた。出会ったきっかけを話すと、
なぜかニヤリと口元を緩めた。
﹁仕事は何をしている人?﹂
結衣は以前、六郎に聞いたとおり答えた。
﹁今は建築関係の会社員で、将来は田舎に帰って酪農をするんです
って。実家が牧場を経営していたの﹂
﹁牧場? ということはお金持ちなんじゃないの?﹂
万里江は一気に目を輝かせたが、結衣はかぶりを振った。
﹁実家はもう廃業したそうよ。ご両親は知り合いの牧場を手伝って
いるの﹂
﹁なんだ、そうなの。残念ね。でも彼、顔がいいから大丈夫よ。結
衣がナンパに着いていくなんて意外だったけど、あの見た目なら他
のことは許せちゃうのはわかるわ﹂
﹁ナンパなのかしら? ちょっと違うような気がするけれど﹂
万里江は訝しがる結衣に全く取り合わず、そのあともまるで身元調
査をするように次々と質問を浴びせた。ところが答えられないこと
が多いとわかると、呆れ返って顔を顰めた。
﹁彼氏のことなのに、知らないことばかりじゃない。あなたまさか、
騙されているんじゃないでしょうね﹂
今度は結衣が呆れ返った。
﹁私を騙してなんになるっていうのよ﹂
﹁それはそうだけど﹂
結衣は近いうちにちゃんと紹介すると約束をして、万里江を納得さ
せた。確かに六郎については、まだ知らないことが多い。でもそれ
は些細なことに思えた。
もう好きになったのだ。時間をかけて、ゆっくりと知ればいい。
﹁恋愛を長引かせるコツはね、相手のことは把握しつつ、自分のこ
とは話し過ぎないことよ。少しずつ小出しにして飽きられないよう
にするの﹂
74
﹁もう無理よ。何もかも全部喋ったわ﹂
結衣は苦笑いをした。恐らく最初に忠告されていても、無駄だった
はずだ。もしかして六郎はそのコツを心得ていて、あまり喋らない
のだろうか。少し気にかけてみよう。
現実味のある恋愛話ができて、万里江は嬉しそうだった。少し大袈
裟なくらいに羨ましがってくれて、結衣を恥ずかしがらせた。 ﹁私はママとの約束を守って彼を部屋に入れていないのに、結衣ば
かり狡いわ。いつの間にかあんないい男を連れ込んだりして﹂
﹁でも彼、結構頑固だわ。それに口数が少ない分、言うことがすご
く率直なの。同じ職場にいたら、あまり仲良くなれないタイプかも
しれないわ﹂
結衣が頬を染めながら言うと、万里江は訳知り顔でニタリと笑った。
﹁少しくらい曲者のほうがあなたには合うわよ﹂
﹁まあ! それはどういう意味よ﹂
結衣はふざけて万里江に抱き着いた。二人は甲高い笑い声を上げて、
部屋の中で転げ回った。散々笑うと、万里江がまた目に凄みを効か
せた。
﹁可愛く見せる第二弾を伝授するわ。今度は目をウルウルさせるの
よ﹂
効果のほどを疑いつつ、結衣はやむを得なく彼女に倣った。二人し
て涙目になるまで瞬きを堪える。可愛いとは程遠い気がしたが、機
会があったら試してみようか。
楽しくて、幸せだった。恋をするとそれが生活の中心になる。恋人
ができるたびに万里江が帰ってこなくなるのがよくわかった。今、
結衣の中心は六郎で、六郎もそうであってほしいと願う。手のひら
の名前はもう消えてしまったが、結衣の心にはしっかりと六郎の名
前が刻みこまれていた。
そういえば、結局夏の休暇を取り損なった。気がつけばもう来週末
は十月だ。もし六郎の都合がよければ一日くらい休みを取って、ど
こか静かで綺麗な場所へ行きたい。漠然とそんなことを思った。
75
こうやってちょっとずつ欲が出てくるのだろうか。遠くから見てい
るだけでいいなんて、今では絶対に言えない。好きな気持ちに見合
うくらい彼を知りたいという欲は、どんどん大きくなっていく。
それでも不思議と焦りはなかった。どんなに時間がかかろうとも、
もう恋をしているのだから。
76
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n2508bg/
未完成関係
2012年10月18日11時53分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
77