第 1 章 沖縄の村落共同体に関する予備的考察 はじめに 本章は、沖縄の

第 1 章 沖 縄 の村 落 共 同 体 に関 する予 備 的 考 察
はじめに
本 章 は、沖 縄 の村 落 共 同 体 を把 握 するために、明 治 期 沖 縄 の村 内 法 (村 落 慣 習 法 )と村 の
集 会 を記 述 ・分 析 し、本 稿 における考 察 全 体 の基 礎 となる沖 縄 特 有 の村 落 慣 習 法 ならびに村
落 共 同 体 の特 質 を提 示 しようとする試 みである。
村 内 法 とは、沖 縄 における村 法 village bylawsに相 当 する村 落 慣 習 法 であり、村 すなわち共
同 体 の内 部 でのみ通 用 する法 を指 している。E.エールリッヒは、ヨーロッパの中 世 非 自 由 隷 属
農 民 が有 していた農 民 相 互 間 の関 係 および対 領 主 関 係 を規 律 する規 則 ・秩 序 ―大 陸 では荘
園 法 = 夫 役 法 Hof- und Dienstrecht 、 イ ギ リ ス で は 荘 園 manor の 慣 習 customs な い し 条 例
byrlowes, bylaws―を、組 織 (共 同 体 )内 部 においてのみ妥 当 する法 と呼 んだ。というのも「その
組 織 の内 部 状 態 は外 界 とは無 縁 の、それ自 体 一 つの閉 鎖 的 な世 界 を構 成 していた」からであ
る 1 。村 内 法 も、対 内 的 には共 同 労 働 ・相 互 扶 助 にはじまり共 有 山 林 の維 持 管 理 、そして刑 罰
を含 む秩 序 維 持 規 定 を、対 外 的 には、貢 租 の上 納 、入 り寄 留 (部 落 外 の人 間 の流 入 ・定 住 )
の制 限 、部 落 外 婚 姻 に関 する規 定 を有 する共 同 体 内 部 で妥 当 する法 として認 識 されうる。
ところで、戦 後 の人 類 学 ・社 会 学 をはじめとする非 法 学 系 諸 分 野 の沖 縄 社 会 に関 する研 究
の多 くは、沖 縄 の門 中 組 織 を中 心 とした親 族 構 造 あるいは祭 祀 構 造 の解 明 に重 点 を置 いてき
た。わけても社 会 人 類 学 者 の中 根 千 枝 は、「中 国 や朝 鮮 では父 系 血 縁 が、日 本 本 土 では
「家 」の継 承 を基 盤 とする本 ・分 家 関 係 (直 系 ・傍 系 )による組 織 が優 先 されたのに対 し、沖 縄
ではいずれも優 先 させることなく、両 者 にそれぞれ発 展 しうる二 つの要 素 のバランスをとり、弾 力
ある対 処 しながら今 日 まできたものと思 われる」という重 要 な指 摘 を行 なっている 2 。すなわち本
土 的 な意 味 での「家 」が、沖 縄 においては未 確 立 であるという指 摘 である。また同 じく社 会 人 類
学 者 の比 嘉 政 夫 は、中 根 の議 論 を受 けて、中 国 の宗 族 、日 本 本 土 の「家 」を「きちんとした人
間 関 係 の原 理 を含 む硬 質 の文 化 、「厳 しさ」の文 化 」として特 徴 づけた上 で、沖 縄 のヤー(家 )、
門 中 に、「家 」や宗 族 との共 通 の要 素 を認 めながら「制 度 としては未 熟 で、こだわりのない、ゆる
やかな人 間 関 係 の原 理 をふくむ「やさしさ」の文 化 」として把 握 し、さらに沖 縄 の村 落 共 同 体 を
一 種 の「祭 祀 共 同 体 」として位 置 づけている 3 。
近 年 では、沖 縄 をフィールドとする農 業 経 済 学 ・開 発 経 済 論 などの研 究 者 の中 には、沖 縄 社
会 をloosely structured societyとさえ呼 ぶ研 究 者 もいる 4 。沖 縄 では、日 本 本 土 において封 建
1
Eugen Ehrlich, Grundlegung der Soziolodie des Rechts, Duncker & Humblot, 1913, S.126.
エールリッヒ 『法 社 会 学 の基 礎 理 論 』河 上 倫 一 /M.フーブリヒト共 訳 (みすず書 房 、1984年 )
144頁 参 照 。
2
中 根 千 枝 「沖 縄 ・本 土 ・中 国 ・朝 鮮 の同 族 ・門 中 の比 較 」日 本 民 族 学 会 編 『沖 縄 の民 族 学
的 研 究 ―民 俗 社 会 と世 界 像 』(民 族 学 振 興 会 、1973年 )295頁 参 照 。
3
比 嘉 政 夫 『女 性 優 位 と男 系 原 理 ―沖 縄 の民 俗 社 会 構 造 ―』(凱 風 社 、1987年 )第 1章 、とり
わけ31~35頁 参 照 。
4
こうした議 論 は、磯 辺 俊 彦 「家 族 制 農 業 の存 在 構 造 ―現 代 の危 機 を軸 として国 際 比 較 の視
7
期 (近 世 期 )から発 達 した自 立 的 経 済 単 位 としての「家 」が未 発 達 であり、沖 縄 の「家 」は宗 教
的 ・祭 祀 的 な結 合 を基 本 とし、それゆえ、本 土 的 な「家 」をもたない沖 縄 社 会 の構 造 と、「家 」連
合 という性 格 をもつ本 土 の社 会 構 造 との差 異 が強 調 される。さらに本 土 の村 落 が、近 世 期 に
「自 治 村 落 」の経 験 を経 た経 済 的 結 合 体 であり、そのことが政 治 的 性 格 にも影 響 しているのに
対 し、近 世 期 において封 建 制 の欠 如 した沖 縄 の村 落 は、単 なる祭 祀 的 結 合 体 であって、経 済
的 意 味 合 いが極 めて低 く、非 政 治 的 村 落 であるとされる 5 。このloosely structured societyという
言 葉 は、周 知 のように、人 類 学 者 のエンブリー(John F. Embree)が、かつて日 本 の熊 本 県 須 恵
村 を「きちんとした構 造 の社 会 」(closely structured society)として文 化 的 に類 型 化 したのに対
し、タイの社 会 構 造 を「ルースな構 造 の社 会 」(loosely structured society)と呼 んだことに由 来
する 6 が、磯 辺 俊 彦 はこの言 葉 を沖 縄 の農 村 社 会 の「アジア的 」特 性 を描 写 するために用 いた
のであった。磯 辺 は、「農 民 自 身 の過 去 労 働 の膨 大 な蓄 積 としての「社 会 資 本 」投 資 のベース
のうえに、その自 主 的 な運 営 ・管 理 を行 う「一 種 の公 権 力 」としての上 部 構 造 =自 治 村 落 社
会 」が形 成 されている場 合 (日 本 本 土 の村 落 )と、上 部 構 造 としての村 落 の自 己 統 治 機 構 の欠
落 した、たんなる相 互 扶 助 システムとしての下 部 構 造 だけの「集 落 」構 造 の場 合 (東 南 アジアの
村 落 )とを対 比 して「農 協 」の問 題 を論 じた斉 藤 仁 の自 治 村 落 社 会 論 を敷 衍 しつつ、沖 縄 の農
村 社 会 を後 者 に置 き、「アジア的 」と形 容 している 7 。
つまり、沖 縄 の村 落 社 会 は、日 本 本 土 的 な意 味 における「家 」「村 」「自 治 村 落 」の欠 如 、ルー
スな構 造 の社 会 、一 種 の祭 祀 共 同 体 という特 徴 をもつとされている。本 稿 も基 本 的 には、こうし
た沖 縄 の村 落 社 会 論 の視 角 を共 有 した上 で、明 治 期 沖 縄 の村 落 共 同 体 の慣 習 法 の概 要 とそ
の存 在 構 造 、ならびに村 落 共 同 体 における村 民 の集 会 を検 討 することによって、さらに沖 縄 の
村 落 共 同 体 のうちに、萌 芽 的 ではあるかもしれないが、「祭 祀 共 同 体 」とは異 なる自 治 村 落 的
な側 面 を見 出 そうとするものである。
沖 縄 は、1872(明 治 5)年 に琉 球 国 から琉 球 藩 となり、その後 1897(明 治 12)年 の琉 球 処 分
(廃 藩 置 県 )を経 て沖 縄 県 となった。当 時 の沖 縄 では置 県 処 分 に反 対 する琉 球 不 平 士 族 や対
清 領 有 問 題 など対 内 および対 外 問 題 の渦 中 にあり、本 土 において展 開 しつつあった近 代 国
家 体 制 の確 立 と整 備 に向 けた改 革 から切 り離 され、琉 球 王 国 (琉 球 藩 )時 代 の旧 慣 土 地 制
座 を考 える」村 落 社 会 学 会 編 『村 落 社 会 研 究 第 28集 』(御 茶 の水 書 房 、1992年 )に始 まるが、
この磯 辺 の議 論 を受 けた来 間 泰 男 『沖 縄 経 済 の幻 想 と現 実 』(日 本 経 済 評 論 社 、1998年 )146
頁 以 下 、また藤 原 昌 樹 「振 興 開 発 と環 境 」松 井 健 編 『開 発 と環 境 の文 化 学 ―沖 縄 地 域 社 会
変 動 の諸 契 機 ―』(榕 樹 書 林 、2002年 )76頁 等 を参 照 。
5
来 間 ・前 掲 『沖 縄 経 済 の幻 想 と現 実 』100~105、149~155頁 参 照 。
6
J・F・エンブリー『日 本 の村 ・須 恵 村 』植 村 元 覚 訳 (日 本 経 済 評 論 社 、1978年 )、ならびにJ. F.
Embree, Thailand-A Loosely Structured Social System, American Anthropologist, Vol.52,
No.2, 1950. エンブリーの議 論 は、東 南 アジア研 究 者 の間 で論 争 を引 き起 こした。しかしながら、
この「ルース」概 念 は無 限 提 に適 用 すべきものではないが、東 南 アジアの社 会 構 造 をめぐる一
つの重 要 な概 念 となっている。北 原 淳 編 『東 南 アジアの社 会 学 ―家 族 ・農 村 ・都 市 ―』(世 界
思 想 社 、1989年 )10~12頁 参 照 。
7
磯 辺 ・前 掲 「家 族 制 農 業 の存 在 構 造 」26頁 参 照 。
8
度 ・旧 慣 租 税 制 度 ・旧 慣 地 方 制 度 といった旧 慣 統 治 制 度 を存 置 したまま県 政 を出 発 した。沖
縄 県 庁 は、旧 慣 地 方 制 度 による民 衆 統 治 の一 環 として、1885(明 治 12)年 県 乙 第 77 七 号 布
達 「各 間 切 島 及 ヒ村 方 ニ於 テ旧 藩 中 執 行 候 内 法 或 ハ村 約 束 等 之 義 詳 細 取 調 過 料 等 ニ係 ル
米 銭 遣 ニ至 ル迄 都 テ取 捨 増 減 ナク列 記 シ迅 速 可 届 出 此 旨 相 達 候 事 」によって、間 切 及 び村
内 法 を調 査 ・届 出 させた。すなわち、県 庁 としては、旧 慣 存 置 政 策 の下 で内 法 に民 衆 統 治 の
補 完 的 機 能 を担 わせるために県 下 全 域 の内 法 を蒐 集 したのである。
このように沖 縄 の近 代 は、統 治 機 構 の一 部 が琉 球 王 府 から沖 縄 県 庁 に移 行 した後 も旧 慣
地 方 制 度 を含 む旧 慣 諸 制 度 が土 地 整 理 事 業 の完 成 まで存 置 されるという状 況 の下 で始 まり、
また村 落 慣 習 法 も統 治 体 制 の一 環 に位 置 付 けられることとなったのである。つまるところ、統 治
機 構 の一 部 を除 いては、琉 球 処 分 は、沖 縄 社 会 に根 本 的 な変 更 を加 えることなく、とりわけ農
村 社 会 は、琉 球 近 世 の末 期 から連 続 性 を維 持 していたことになる。商 工 業 も未 発 達 で、士 族
を除 く人 口 の大 部 分 が農 業 に従 事 する農 民 であり、農 民 の村 落 間 の移 動 も制 限 されていた沖
縄 では、村 落 を規 律 する村 落 慣 習 法 (内 法 )が大 部 分 の人 々にとって主 要 な法 であったと考 え
てもよいであろう。さらに村 落 においては、村 落 慣 習 法 に基 づき、秩 序 維 持 に反 する者 に対 す
る制 裁 から地 割 制 度 による土 地 の割 替 えも含 めて、様 々な事 柄 が村 の集 会 を通 して決 定 され
ていたのである。
それでは、以 下 、本 章 において、村 落 慣 習 法 と村 の集 会 の概 要 の記 述 ・分 析 を通 して沖 縄
の村 落 社 会 の基 礎 的 考 察 を行 うこととしたい。
第 一 節 旧 慣 地 方 制 度 の素 描
「村 内 法 」は、通 常 、「間 切 内 法 」とともに「内 法 」と呼 ばれる。村 を法 域 8 とするのが、「村 内
法 」であり、また、間 切 を法 域 とするのが「間 切 内 法 」である。沖 縄 本 島 以 外 の周 辺 離 島 におい
ては、本 島 の間 切 内 法 に相 当 する「島 内 法 」があり、宮 古 ・八 重 山 といった先 島 地 方 において
は、王 府 からの令 達 をとりまとめた各 種 の「規 模 帳 」と呼 ばれる例 規 集 があった。この内 法 の法
域 たる「間 切 」「島 」「村 」とは、近 世 以 後 、1879 年 の琉 球 処 分 (廃 藩 置 県 )を経 て、1908(明 治
41)年 の島 嶼 町 村 制 施 行 まで存 置 されていた当 時 の旧 慣 地 方 制 度 上 の行 政 単 位 である。以
下 、当 時 の旧 慣 地 方 制 度 について素 描 してみよう。
一 旧 慣 行 政 区 画 と村 落 内 組 織
「間 切 」とは、現 在 の市 町 村 にほぼ相 当 し、「村 」は、現 在 の字 、あるいは行 政 区 に相 当 する。
1 間 切 は、数 カ村 から成 るものもあれば、20 数 カ村 によって構 成 されるものもあって、一 定 して
いない。「島 」とは、主 に沖 縄 本 島 周 辺 の諸 離 島 、つまり伊 江 島 ・伊 平 屋 島 ・粟 国 島 ・渡 名 喜
8
「法 域 」とは、内 法 の効 力 の及 ぶ境 域 を意 味 する。1904(明 治 37)年 に農 商 務 省 の行 なった
調 査 資 料 「沖 縄 県 森 林 視 察 復 命 書 」において「内 法 ニハ間 切 ヲ法 域 トスル間 切 内 法 、村 ヲ法
域 トスル村 内 法 ノ二 種 アリ」と、この語 が用 いられている。農 商 務 省 山 林 局 編 「沖 縄 県 森 林 視
察 復 命 書 」(1904年 )『沖 縄 県 史 第 21巻 』(1968年 )756頁 参 照 。
9
島 ・慶 良 間 諸 島 (1 島 扱 い)・久 米 島 を指 す呼 称 であり、慶 良 間 諸 島 と久 米 島 は、それぞれ 2 間
切 から構 成 されるが、この 2 つの島 を除 く他 の島 は、沖 縄 本 島 の 1 間 切 に相 当 し、また、どの島
もその下 位 に村 を行 政 区 画 として有 していた。先 島 地 方 と呼 ばれる宮 古 諸 島 ・八 重 山 諸 島 も、
ともに 3 間 切 、1 島 (間 切 扱 い)からなり、またそれぞれ数 カ村 から構 成 されている点 は、沖 縄 本
島 や周 辺 諸 離 島 の「間 切 」「島 」と同 じである 9 。
間 切 は、貢 租 を含 め行 政 上 、近 世 期 においては王 府 、置 県 以 降 は県 庁 といった中 央 との直
接 の接 点 を持 ち、村 の上 位 の行 政 機 関 10 として機 能 していた。村 は、対 中 央 との行 政 関 係 に
おいて、間 切 の一 区 画 として機 能 していたに過 ぎない。しかしながら、人 々にとって村 は、地 割
慣 行 、労 働 交 換 と共 同 労 働 (ユイマール)、貢 租 の各 戸 への割 当 と徴 収 、様 々な祭 祀 など諸 行
事 を共 同 で行 う最 も基 礎 的 な生 活 領 域 であった。すなわち、人 々と直 接 対 峙 するのは村 の担 う
役 割 であり、村 々を統 括 し中 央 と対 峙 するのが間 切 に課 せられた役 割 であった。この分 担 と同
様 に、内 法 の条 項 においても、村 内 法 が村 人 を直 接 規 律 する規 範 であるのに対 し、間 切 内 法
は概 ね間 切 や村 の役 人 の職 務 に関 する規 範 が大 半 を占 めていた。
さらに村 と村 人 との中 間 には、与 (與 ・組 /クミ)と称 する組 織 があった。1 与 あたりの戸 数 は 9
戸 から 40 戸 と一 定 しておらず、また 1 村 あたりの与 数 も 2 与 から 10 与 と一 定 してはいないが、
たいてい 3、4 与 であった。県 庁 吏 員 であった仲 吉 朝 助 「琉 球 の地 割 制 度 」によれば、与 は、
「上 納 与 」「地 与 」とも称 され、その成 員 は「親 類 又 は一 門 (即 ち小 氏 族 )」に限 られていたものが、
近 代 に至 り「地 理 的 区 域 の関 係 上 他 氏 族 も其 成 員 に加 」えるようになり、それとともに、与 名 も
氏 族 名 から地 理 的 名 称 に変 ったところも多 いという 11 。「与 」には名 誉 職 の「与 頭 」が一 人 おり、
与 の公 務 を司 り、琉 球 王 府 公 認 の機 関 でもあった。また仲 吉 は、与 が「一 つは貢 租 の連 帯 支
弁 」、「他 の一 つは共 同 耕 作 」の「二 種 の目 的 にて成 立 」 12 したとするが、そもそも「与 」は、血 縁
的 結 合 に発 するもので、共 同 を意 味 する結 (イーマールー/ユイマールー)が最 も古 い形 態 で
あり、1609 年 の薩 摩 侵 入 後 の慶 長 の検 地 以 降 、本 土 の「五 人 組 」の影 響 のもとで再 編 され貢
租 納 入 に利 用 されるようになり、寛 永 年 間 に至 って「与 制 度 という特 殊 な貢 租 機 関 にまで発 達
した」 13 ともいわれている。
二 地 方 役 人 と行 政 機 関
9
当 時 の行 政 区 域 については、沖 縄 県 内 務 部 第 1課 編 「沖 縄 旧 慣 地 方 制 度 」(1883年 )『沖 縄
県 史 第 21巻 』5~34頁 参 照 。
10
田 名 真 之 は「近 世 期 にあっても村 は間 切 の一 部 にすぎず、租 税 その他 、行 政 的 にはすべて
王 府 対 間 切 なのであり、間 切 こそが法 人 格 を認 められた存 在 であった」と間 切 の性 格 を特 徴 付
けている。田 名 真 之 『南 島 地 名 考 ―おもろから沖 縄 史 誕 生 まで―』(ひるぎ社 、1984年 )152
頁。
11
仲 吉 朝 助 「琉 球 の地 割 制 度 (1)」史 学 雑 誌 第 39 編 第 5 号 (1928 年 )443 頁 参 照 。
12
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (1)」446頁 参 照 。
13
饒 平 名 浩 太 郎 「琉 球 農 村 の与 (組 )制 度 」馬 渕 東 一 /小 川 徹 編 『沖 縄 文 化 論 叢 第 3巻 』
(平 凡 社 、1971年 )157頁 参 照 。
10
地 方 の行 政 事 務 ならびに徴 税 などを司 る機 関 として、本 島 及 び周 辺 諸 離 島 の各 間 切 におい
ては、間 切 名 と同 名 の村 (間 切 同 村 )に「間 切 番 所 」が、各 村 には「村 屋 」が置 かれ、また、宮
古 ・八 重 山 において、全 島 を管 轄 する「蔵 元 」と、各 村 に「村 番 所 」が設 けられていた。
こうした地 方 行 政 機 関 には、地 方 役 人 (ぢかたやくにん)と称 される役 人 が多 数 置 かれていた。
本 島 及 び周 辺 諸 離 島 の間 切 ・島 の番 所 には、その頭 役 を務 める「地 頭 代 」(現 在 の村 長 に相
当 )がおり、その監 督 の下 に、上 層 役 人 として、現 在 の助 役 にあたる「首 里 大 屋 子 」、収 入 役 あ
るいは書 記 にあたる「大 掟 」「南 風 掟 」「北 掟 (=西 掟 )」各 1 名 がいて事 務 を分 掌 した(以 上 を
四 人 捌 理 または大 捌 理 という)。宮 古 ・八 重 山 の蔵 元 には、これに該 当 する役 人 として「頭 」「首
里 大 屋 子 」「大 目 差 」「大 筆 者 」などがおかれていた。また、農 政 全 般 、道 路 ・堤 防 の修 築 、水
利 の監 視 、及 び各 村 の耕 作 当 の監 督 を担 当 する「総 耕 作 当 」、山 林 関 係 全 般 及 び各 村 の山
当 の監 督 を担 当 する「総 山 当 」、地 頭 代 と間 切 民 との間 に立 ち民 治 の円 滑 を図 る 1 名 ないし数
名 の「夫 地 頭 」が置 かれ、税 務 担 当 など他 様 々な役 人 や下 層 役 人 の「文 子 」などもいた。
村 屋 には、その主 要 な役 職 として、村 行 政 の直 接 責 任 者 たる「掟 」(現 在 の区 長 に相 当 )が、
各 村 あるいは 2、3 村 に 1 名 置 かれ、農 務 にあたる「耕 作 当 」、山 林 関 係 を司 る「山 当 」などがい
たほか多 数 の役 人 が置 かれていた 14 。地 方 役 人 の役 職 は、臨 時 のもの含 め多 種 多 様 であり、
さらに各 間 切 によって差 異 がある 15 。この差 異 は、間 切 ・村 等 の実 態 あるいは王 府 の賦 税 、徴
税 方 式 などの地 域 的 差 異 を反 映 したものであるとみなされている 16 。
地 方 役 人 は、間 切 内 の百 姓 から選 ばれたが、その政 治 的 役 割 から士 に準 ずる身 分 が与 えら
れていた。上 層 の地 方 役 人 には、オエカ地 と呼 ばれる役 俸 地 が授 けられ、その土 地 の収 穫 物
から貢 租 分 を差 引 いた分 をもって給 与 とした。また、諸 税 の減 免 、夫 役 の徴 収 などが認 められ
ており、間 切 ・村 において一 種 の特 権 的 地 位 にあった。
18 世 紀 中 期 以 降 農 村 の疲 弊 化 が進 行 し、王 府 は窮 迫 した間 切 の財 政 立 直 しのために「検
者 」「下 知 役 」「指 揮 司 」などの役 人 を臨 時 に間 切 へと派 遣 し、地 方 役 人 や農 民 の指 揮 、監 督
にあたらせた。なお回 復 の見 込 みの立 たない場 合 (間 切 倒 れ)には、多 数 の王 府 上 級 役 人 の
派 遣 によって、「御 手 入 」あるいは「公 事 御 引 取 」と称 する強 制 介 入 を行 ない間 切 財 政 の立 直
しをはかった。臨 時 に派 遣 されていた「検 者 」「下 知 役 」は、1873(明 治 5)年 には常 設 の官 職 と
なり、ほぼ例 外 なく各 間 切 に派 遣 されていたので、琉 球 農 村 の疲 弊 は全 般 的 かつ恒 常 的 なも
のであったといえる 17 。
14
この各 地 方 政 庁 ・役 職 に関 して、田 港 朝 昭 「地 方 役 人 」『沖 縄 県 史 別 巻 沖 縄 近 代 史 辞
典 』(1977 年 )〔以 下 『沖 縄 近 代 史 辞 典 』〕364~365 頁 、中 山 盛 茂 編 『琉 球 史 辞 典 』(文 教 図
書 、1969 年 )の各 項 、および『豊 見 城 村 史 』(豊 見 城 村 、1993 年 )77~82 頁 参 照 。
15
各 地 の吏 員 については、前 掲 「沖 縄 旧 慣 地 方 制 度 」38~89頁 参 照 。
16
田 港 ・前 掲 「地 方 役 人 」『沖 縄 近 代 史 辞 典 』364~365頁 参 照 。
17
検 者 ・下 知 役 の配 置 に関 しては、増 大 する無 禄 士 族 対 策 の一 環 としての意 味 もあったとい
われている。農 村 の疲 弊 あるいは御 手 入 れについて、金 城 正 篤 「「琉 球 処 分 」と農 村 問 題 」沖
縄 歴 史 研 究 会 編 『近 代 沖 縄 の歴 史 と民 衆 増 補 改 訂 版 』(至 言 社 、1977年 )、田 港 朝 昭 「間
切 倒 れ」『沖 縄 近 代 史 辞 典 』504頁 、同 「お手 入 れ」『沖 縄 近 代 史 辞 典 』151~152頁 参 照 。
11
三 役 人 の内 法 への関 与
間 切 や村 に派 遣 された検 者 ・下 知 役 は、財 政 を中 心 に間 切 行 政 全 般 にかかわったが、地
方 役 人 とともに内 法 の制 定 に関 しても関 与 していた。「羽 地 間 切 萬 定 之 方 條 々併 勘 定 方 之
條 々」の「萬 定 之 條 々」の末 尾 には、括 弧 書 きで「道 光 十 五 年 乙 未 八 月 (天 保 六 年 )役 々協 議
の上 内 模 を定 め、藩 庁 へ伺 いの上 認 可 を得 施 行 したるものなり、西 掟 、南 風 掟 、大 掟 、首 里 大
屋 子 、地 頭 代 連 署 にて検 者 下 知 役 の奥 書 。羽 地 間 切 」 18 とある。また、1885(明 治 18)年 の県
乙 第 77 号 の令 達 によって、県 下 各 地 の内 法 が蒐 集 、成 文 化 された後 、1890(明 治 23)年 に、
沖 縄 県 知 事 から各 役 所 長 宛 に出 された県 訓 令 第 23 号 の令 達 の「藩 政 ノ頃 ニ在 テ間 切 及 村
内 法 ノ義 ハ旧 検 者 下 知 役 ニ於 イテ認 可 施 行 シ藩 庁 カ公 然 認 テ施 行 セシメ」 19 に見 られるよう
に、旧 藩 時 代 には、内 法 の制 定 および施 行 に関 して、「検 者 、下 知 役 の認 可 」という王 府 (藩
庁 )による統 制 が働 いていたことがわかる。
1879(明 治 12)年 の琉 球 処 分 (廃 藩 置 県 )以 降 、各 間 切 、島 は県 の直 轄 となり、翌 1880 年
に、県 内 は、那 覇 ・首 里 ・島 尻 ・中 頭 ・国 頭 ・伊 平 屋 ・久 米 島 ・宮 古 ・八 重 山 の 9 地 方 に分 けら
れ、それぞれに地 方 役 所 が置 かれた。各 間 切 および各 島 は、地 方 役 所 の監 督 下 に置 かれ、
1896(明 治 29)年 の 2 区 5 郡 制 以 降 は郡 役 所 の監 督 下 に置 かれた。先 に挙 げた県 訓 令 第 23
号 は、旧 藩 時 代 の検 者 や下 知 役 の内 法 の認 可 にならい、各 役 所 長 に内 法 の認 可 を行 なうよう
布 達 したものである。豊 見 城 間 切 の各 村 内 法 の認 可 に関 し以 下 の資 料 がある 20 。
指第一号
豊 見 城 間 切 、宜 保 伊 良 波 渡 嘉 敷 三 ケ村 掟
瀬長順祐外七名
明 治 二 三 年 三 月 九 日 豊 第 一 一 一 号 を以 て村 内 法 伺 いの件 は認 可 す。
明治二三年三月一一日
島尻役所長 今西相一
豊第一一一号
各 村 内 法 之 義 に付 副 申
本 間 切 各 村 内 法 之 義 に付 宜 保 掟 外 七 名 より別 紙 の通 り伺 出 有 之 取 調 候 処 不 都 合 の廉
無 之 候 に付 御 認 可 相 成 候 様 仕 度 此 段 副 申 仕 候 事
明治二三年三月九日
豊見城間切地頭代 新垣太吉
18
仲 吉 朝 助 「琉 球 産 業 制 度 資 料 」小 野 武 夫 編 『近 世 地 方 経 済 史 料 第 9巻 』(近 世 地 方 経 済
史 料 刊 行 会 、1932年 )396頁 参 照 。ここに挙 げた「萬 定 之 條 々」の各 条 文 は、ほぼ明 治 期 の内
法 と同 様 の条 文 であり、内 法 的 規 定 と考 えられ得 る。金 城 正 篤 「近 世 沖 縄 の経 済 構 造 」『沖 縄
県 史 第 3巻 』(1972年 )70頁 においても、「萬 定 之 條 々」に関 するこの資 料 から「「内 法 」が王 府
の公 認 のものであった」としている。
19
『沖 縄 県 令 達 類 算 』第 二 類 (沖 縄 県 立 図 書 館 所 蔵 )134頁 参 照 。
20
前 掲 『豊 見 城 村 史 』107~108頁 参 照 。
12
島尻役所長 今西相一殿
内 法 の義 に付 伺
各 村 内 法 之 義 曩 に取 調 御 届 出 の上 執 行 致 し来 候 処 明 治 二 〇年 八 月 乙 第 三 号 御 達 に依
り別 紙 被 成 下 度 候 此 段 奉 伺 候 也
明治二三年三月九日
各村掟
役所長宛
前 書 の通 伺 出 候 に付 奥 書 仕 候 也
地 頭 代
[以 下 、各 村 内 法 省 略 ]
このように内 法 の成 文 化 にあたって、間 切 ・村 は、近 世 期 においては、検 者 や下 知 役 、すな
わち王 府 の認 可 に、そして琉 球 処 分 後 は、地 方 役 所 、県 庁 からの監 督 の下 に服 さねばならな
かったのである。現 存 する資 料 としての成 文 の間 切 内 法 および各 村 内 法 は、先 に挙 げた 1885
(明 治 18)年 の県 乙 第 77 号 の令 達 によって、蒐 集 ・成 文 化 されたものであるが、その条 文 は、
その内 容 、条 数 、さらに配 列 まで地 方 ごとに、きわめて類 似 した画 一 的 なものである。
1894(明 治 27)年 に沖 縄 に入 り旧 慣 制 度 改 革 のため調 査 を行 なったことのある一 木 喜 徳 郎
は、「一 役 所 区 域 (今 ノ郡 )各 地 頭 代 (町 村 長 ニ当 ル)総 山 当 (間 切 ノ山 林 委 員 )相 協 議 シ各
地 頭 代 ハ間 切 内 ノ夫 地 頭 、掟 (共 ニ町 村 内 ノ区 長 ニ当 ル)山 当 (村 ノ山 林 委 員 )ト協 議 シ夫 地
頭 、掟 ハ村 民 ト協 議 シ一 同 異 義 ナキヲ以 テ役 所 長 ノ認 可 ヲ受 ケテ之 レヲ行 ヘリト云 フ( 協 議 ト
云 フモ実 ハ殆 ト達 示 ト異 ナルコトナキモノナルヘシ )」(下 線 は引 用 者 ) 21 と記 述 している。鳥 越
憲 三 郎 は、「明 治 一 八 、一 九 年 に成 文 化 された間 切 内 法 ならびに各 村 内 法 というものは、王
府 から令 達 されたものを中 心 として各 間 切 においてつくられ保 管 されていたものを、各 間 切 役
人 が郡 所 長 のもとに持 ち寄 って、それをさらに整 理 してつくったものである。そのために各 間 切
の特 殊 条 項 がわずかにみえるだけで、大 半 の条 項 については郡 内 の各 間 切 が統 一 され、条 項
の配 列 まで同 じになっている。そこではただ科 銭 の軽 重 などが間 切 ごとで少 し異 なっているだけ
である。したがって村 々で約 束 として守 られてきた慣 行 は、現 内 法 に含 まれていないものとみて
よいと思 う。強 力 な制 裁 が内 法 にみられないのもそのためである」としている 22 。すなわち、現 存
の成 文 内 法 は、地 方 役 所 の統 制 の下 で実 際 の慣 行 の多 くは除 外 されて届 け出 され認 可 を受
けたものということができよう。
しかし第 3 章 において詳 論 するが、置 県 後 、村 内 法 は、県 庁 の意 図 とは異 なり認 可 された成
文 の内 法 とは別 の不 文 の内 法 が、なお強 く村 人 を拘 束 し、しばしば、明 治 旧 刑 法 をはじめとす
る国 家 法 と対 立 したのである。内 法 を論 ずる際 に重 要 な点 は、明 治 期 に成 文 化 されなかった
内 法 もなおしばらく存 在 し続 けたという点 、ならびに成 文 化 された内 法 がその後 の村 落 社 会 を
規 定 したという点 にある。
21
一 木 喜 徳 郎 「史 料 沖 縄 旧 慣 内 法 」法 学 協 会 雑 誌 第 15巻 第 5号 (1897年 )513~514頁 参
照。
22
鳥 越 憲 三 郎 『沖 縄 庶 民 生 活 史 』(雄 山 閣 、1971 年 )42 頁 参 照 。ただし、引 用 文 中 「郡 所 長 」
となっている部 分 は、「役 所 長 」の誤 りであろう。というのも、内 法 の届 出 は 1885 年 から始 まるが、
郡 役 所 がおかれるのは、1896 年 の 2 区 5 郡 制 以 降 である。
13
以 上 、間 切 、島 、村 、そして地 方 役 人 といった当 時 の旧 慣 地 方 制 度 を内 法 とリンクさせつつ
素 描 してみた。村 は、人 々にとって最 も重 要 な生 活 領 域 であり、間 切 は、村 を統 括 する上 位 の
行 政 機 関 として中 央 との接 点 をもっていた。また、村 内 法 は、村 人 を直 接 規 律 する行 為 規 範 で
あるが、その制 定 ・成 文 化 にあたっては、実 質 上 、上 位 機 関 から一 定 の制 約 があったと考 えら
れる。しかし鳥 越 の指 摘 するように、成 文 化 された内 法 には、実 際 に村 々で守 られてきた不 文
の内 法 が含 まれていなかったと解 するのが妥 当 であろう。この点 については後 に論 ずることとし
よう。
第 二 節 村 内 法 について
一 村 内 法 の発 生 論
内 法 の起 源 と発 達 に関 しては、明 治 政 府 =沖 縄 県 の行 なった一 連 の旧 慣 調 査 資 料 23 、およ
び若 干 の研 究 書 、論 文 に言 及 がある 24 。それら諸 資 料 及 び諸 論 考 は、内 法 の起 源 を不 明 とし
ている点 で一 致 しているが、内 法 に対 するスタンスによって若 干 異 なった発 生 論 を展 開 してい
る。法 史 学 者 の菊 山 正 明 は、内 法 の起 源 と発 達 に関 し次 の 3 つの説 を挙 げている 25 。
23
旧 慣 調 査 の目 的 は、沖 縄 の旧 慣 諸 制 度 改 革 を目 的 とした基 礎 資 料 の作 成 であった。明 治
政 府 の行 なった各 植 民 地 における一 連 の旧 慣 調 査 との関 連 において沖 縄 での調 査 を把 握 す
ることは、近 代 日 本 の植 民 地 統 制 及 び植 民 地 法 制 を理 解 する上 で非 常 に重 要 であろう。中 尾
勝 生 「沖 縄 の旧 慣 調 査 」沖 縄 研 究 ノート第 4号 (宮 城 キリスト教 文 化 研 究 所 、1995年 )によれば、
沖 縄 の旧 慣 調 査 は、明 治 政 府 が台 湾 統 治 直 前 に行 なった旧 慣 調 査 との連 続 の可 能 性 が見 ら
れ、また朝 鮮 総 督 府 の旧 慣 調 査 との類 似 性 を指 摘 する見 解 もあるという。なお、沖 縄 の調 査 資
料 の目 録 に関 しては、新 城 安 善 「沖 縄 研 究 の書 誌 とその背 景 」『沖 縄 県 史 第 6巻 』(1975年 )
684~685頁 参 照 。
24
内 法 に言 及 する旧 慣 調 査 資 料 、及 び重 要 な論 考 を年 代 順 に挙 げておく。「内 法 取 調 書
(琉 球 内 法 取 調 書 )」(1890年 )(沖 縄 県 立 図 書 館 所 蔵 )、前 掲 ・沖 縄 県 内 務 部 第 一 課 編 「沖
縄 旧 慣 地 方 制 度 」(1893年 )、仁 王 惟 茂 「仁 王 主 税 官 復 命 書 写 」(1894年 )『沖 縄 県 史 第 21
巻 』所 収 、一 木 喜 徳 郎 「一 木 書 記 官 取 調 書 」(1894年 )『沖 縄 県 史 第 14巻 』(1965年 )所 収 、
一 木 喜 徳 郎 「史 料 沖 縄 旧 慣 内 法 」法 学 協 会 雑 誌 第 15巻 第 5号 (1897年 )、大 蔵 省 主 税 局
「沖 縄 法 制 史 」(1909年 )本 稿 においては復 刻 版 ・金 城 朝 永 校 訂 『沖 縄 法 制 史 』(山 岡 書 店 、
1953年 )、前 掲 ・農 商 務 省 山 林 局 編 「沖 縄 県 森 林 視 察 復 命 書 」(1910年 )、仲 吉 朝 助 『杣 山 制
度 論 』(1904年 、マイクロ複 写 沖 縄 県 立 図 書 館 所 蔵 )、市 村 光 恵 「沖 縄 県 ニ於 ケル内 法 ニ就
テ」京 都 法 学 会 誌 第 12巻 第 1号 (1917年 )、田 村 浩 『琉 球 共 産 村 落 の研 究 』(岡 書 院 、1927年
=至 言 社 、1977年 )、奥 野 彦 六 郎 「古 琉 球 に於 ける法 制 断 片 (三 )」(法 曹 界 雑 誌 第 6巻 第 4号
(1928年 )等 である。
25
菊 山 正 明 「内 法 」『沖 縄 近 代 史 辞 典 』412頁 参 照 。
14
①王 府 の科 律 上 の制 裁 をするには重 すぎるような種 類 ・程 度 の犯 罪 取 締 の為 に起 こったとする
説
②王 府 からの命 令 励 行 のため起 こったとする説
③村 の平 安 ・安 定 のため、科 律 のような大 法 典 以 前 よりあり近 世 末 期 まで主 要 な法 であったと
する説
まず、1893(明 治 26)年 に提 出 された沖 縄 県 内 務 部 第 一 課 編 「沖 縄 旧 慣 地 方 制 度 」によれ
ば、「内 法 ノ起 因 及 沿 革 ハ拠 ルヘキ書 類 ナキニヨリ詳 ナラス」と、不 明 であることを前 置 きし、
「学 事 、農 務 等 怠 慢 ノモノ或 ハ風 俗 ヲ紊 スモノ等 ニシテ行 蹟 科 律 ニ触 レサルモノ亦 仮 令 科 律
ニ触 ルヽモノト雖 トモ貢 租 、公 費 ノ未 納 者 及 風 水 山 、抱 護 山 其 他 杣 山 仕 立 木 盗 伐 者 或 ハ作 毛
盗 ノ如 キ罪 科 軽 キモノヽ取 締 ノ為 メ起 因 シタルモノナルヘシ(中 略 )杣 山 取 締 内 法 ハ乾 隆 十 六
年 (宝 暦 元 年 )辛 末 九 月 ニ規 定 又 首 里 、那 覇 、各 間 切 、離 島 ノ内 法 ハ今 ヲ去 ル九 十 余 年 前
即 チ嘉 慶 年 間 (寛 政 年 間 )ノ比 規 定 シタルモノ」 26 としている。 すなわち、琉 球 王 府 の刑 法 で
ある「科 律 」に規 定 されてはいないが、村 の共 同 生 活 上 妨 げとなる行 為 (学 事 ・農 務 等 の怠 慢 、
風 俗 紊 乱 )の取 締 り、あるいは「科 律 」やその他 王 府 からの諸 令 達 の規 定 に抵 触 するが、比 較
的 軽 微 な犯 罪 を取 締 り、制 裁 するために内 法 が設 定 され、杣 山 関 係 の内 法 が、宝 暦 元 年 に、
その他 内 法 は寛 政 年 間 に設 定 された、という説 である。ちなみに、これ以 降 提 出 された旧 慣 調
査 資 料 のほとんどが、この説 を踏 襲 している 27 。
仲 吉 朝 助 は、『杣 山 制 度 論 』において杣 山 関 係 の内 法 を中 心 に検 討 している。仲 吉 は杣 山
関 係 の罰 則 を「科 律 」「行 政 命 令 に関 するもの」および「内 法 」の 3 つに分 け、「内 法 トハ行 政 命
令 以 外 ニ杣 山 吏 員 及 ヒ人 民 ノ間 ニ於 テ設 定 サレタル罰 則 ヲ謂 フモノニシテ之 レニ間 切 内 法 、
村 内 法 ノ二 種 アリ、共 ニ行 政 命 令 ノ罰 則 ヲ一 層 励 行 スル為 メ若 クハ該 命 令 以 外 ニ猶 ホ杣 山 取
締 上 必 要 ナリトスル事 項 ヲ規 定 セリ。内 法 ハ此 ノ如 キ必 要 ヨリ起 リシモノナルヲ以 テ其 ノ設 定 ノ
形 式 亦 タ一 様 ナラス」とし、さらに、内 法 は、間 切 がその上 位 機 関 たる山 奉 行 の命 令 に、村 はそ
の上 位 の間 切 番 所 の命 令 に基 づき他 動 的 に内 法 を制 定 する場 合 と、また、間 切 、村 とも他 の
指 揮 命 令 を受 けずに自 動 的 に内 法 を制 定 する場 合 の 2 種 類 あり、「他 動 的 ニ依 リテ成 立 スル
場 合 アリト雖 モ其 条 項 ノ選 定 制 裁 ノ程 度 等 ハ凡 テ当 該 間 切 、村 ノ任 意 ニ在 ルヲ見 レハ則 チ間
切 、又 ハ村 人 民 間 ノ契 約 ナルヤ明 カナリ」としている 28 。
仲 吉 によると山 林 取 締 内 法 は、1884(明 治 17)年 に杣 山 取 締 内 法 の届 出 および認 可 を命 じ
た沖 縄 県 乙 第 37 号 の令 達 によって、「間 切 、島 ニ於 テハ概 ネ此 ノ機 ニ乗 シテ及 フ丈 ケ詳 細 ノ
条 項 ヲ設 ケ併 セテ其 ノ法 文 ヲ修 飾 シ甚 タシキハ従 来 内 法 ノ慣 行 ナカリシ地 方 ト雖 トモ之 ヲ設 ク
ルニ至 レリ故 ニ現 行 ノ山 林 取 締 内 法 ハ其 ノ名 ハ旧 慣 ナリト雖 モ其 ノ実 体 ハ殆 ト新 設 」 29 された
ものであるという。
この仲 吉 の説 において内 法 とは、王 府 からの行 政 命 令 をなお一 層 徹 底 させることを目 的 とし、
26
前 掲 『沖 縄 旧 慣 地 方 制 度 』126頁 参 照 。
27
前 掲 「仁 王 主 税 官 復 命 書 」552頁 、前 掲 「一 木 書 記 官 取 調 書 」494頁 、前 掲 『沖 縄 法 制 史 』
60頁 、前 掲 「沖 縄 県 森 林 視 察 復 命 書 」756頁 等 参 照 。
28
仲 吉 ・前 掲 『杣 山 制 度 論 』112~116頁 参 照 。
29
仲 吉 ・前 掲 『杣 山 制 度 論 』122頁 参 照 。
15
また行 政 命 令 以 外 に必 要 と認 められる取 締 り条 項 を規 定 するために、役 人 と間 切 ・村 住 民 によ
って制 定 されたものということになる。
沖 縄 県 内 務 部 第 一 課 編 「沖 縄 旧 慣 地 方 制 度 」ならびに仲 吉 朝 助 『杣 山 制 度 論 』の両 説 は、
若 干 その強 調 点 を異 にするものの、一 括 すると王 府 の法 体 系 との関 わりにおいて内 法 の果 した
王 府 法 体 系 の補 完 的 機 能 を重 視 したものといえる。
これに対 し、奥 野 彦 六 郎 は、『南 島 村 内 法 』 30 において内 法 を民 衆 の自 治 的 契 機 の発 露 と
して捉 えようとした。奥 野 は、内 法 を「ムラの規 範 」「民 の法 」であり、本 来 「不 文 」である 31 としつ
つも、「官 の統 治 基 準 を定 めたものないしは官 から民 に統 治 上 要 求 ・指 示 する意 味 の官 治 法 」
と、「民 自 らムラの圏 の統 治 上 相 互 的 に要 求 する自 治 規 範 」もあり、後 に「互 いに融 けあつた部
面 」もあるする。さらに続 けて、官 治 法 は「広 い統 括 圏 の一 部 としてムラの圏 の安 定 を」目 的 とす
る一 方 、自 治 規 範 は「元 来 ムラの圏 の平 安 ・安 定 の方 から内 外 を観 て」おり、「私 がここで村 内
法 として着 眼 するのも後 者 で」あり 32 、村 内 法 を「ムラ人 として自 覚 的 ・自 主 的 に・総 体 的 に不
安 ・不 平 なき度 に要 求 ないし作 用 することを本 旨 とする平 安 ・安 定 の基 準 」とみなしたのである
33
。奥 野 によれば、内 法 という用 語 そのものが琉 球 王 府 の法 制 や記 録 上 に現 れてくるのは琉 球
藩 に改 編 された後 のことであり、藩 庁 の側 から内 法 という用 語 を用 いはじめたという。村 本 来 の
語 法 として は自 治 規 範 そのものを「 ムラジマイ( 村 締 )」「ムラガタミ( 村 固 )」「ムラジンミ(村 吟
味 )」と呼 び、特 別 の呼 称 のない地 域 もあったことから、内 法 という語 が比 較 的 新 しい言 葉 で、も
ともと王 府 によって用 いられていた官 用 語 であったことも明 らかにしている 34 。
ここで注 目 すべきは、奥 野 が、内 法 を「官 治 法 」的 側 面 と「自 治 規 範 」的 側 面 とに分 けたことで
ある 35 。1885(明 治 18)年 以 降 、蒐 集 、成 文 化 された内 法 の条 文 の一 部 が、王 府 からの令 達 の
影 響 を、強 くうけていることが指 摘 されており 36 、また、先 に論 じたように、近 世 期 においては内
法 の制 定 に関 し王 府 派 遣 の検 者 や下 知 役 の認 可 を必 要 とした。これは、成 文 内 法 の官 治 法
的 側 面 として理 解 すべきであろう。前 示 の旧 慣 調 査 資 料 によれば、杣 山 取 締 内 法 が宝 暦 元
(1751)年 、その他 のものが寛 政 年 間 に王 府 から通 達 されたとある。琉 球 王 府 の三 司 官 の一 人 、
蔡 温 (1682~1761 年 )によって「杣 山 法 式 」「奉 行 規 模 帳 」(1737 年 )、「杣 山 法 式 仕 次 」「樹 木
繁 殖 方 法 」(1747 年 )が公 布 され、宝 暦 元 年 に「山 奉 行 所 規 模 仕 次 帳 」「山 奉 行 所 公 事 帳 」と
なり、その後 、これをもとに令 達 されたものが「杣 山 取 締 内 法 」となったとされる 37 。その他 に「御
30
奥 野 彦 六 郎 『南 島 村 内 法 ―民 の法 の構 成 素 因 ・目 標 ・積 層 ―』(法 務 資 料 第 320号 、法 務
府 法 制 意 見 第 4局 、1952年 )。同 書 は三 篇 から成 り、第 一 編 は奥 野 の論 考 であるが、第 二 篇 は
調 査 資 料 、第 三 篇 が文 書 資 料 という資 料 集 としての性 格 も持 つ。
31
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』1頁 参 照 。
32
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』13頁 参 照 。
33
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』38頁 参 照 。
34
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』38頁 参 照 。
35
こうした理 解 は前 田 正 治 の日 本 近 世 村 法 における村 法 の「領 主 の法 」と「自 治 的 規 約 」に通
ずるものである。前 田 正 治 『日 本 近 世 村 法 の研 究 』(有 斐 閣 、1950年 )7頁 参 照 。
36
金 城 ・前 掲 「近 世 沖 縄 の経 済 構 造 」69頁 以 下 参 照 。
37
鳥 越 ・前 掲 『沖 縄 庶 民 生 活 史 』42~43頁 参 照 。
16
教 条 」(1732 年 )、「農 務 帳 」(1734 年 )、「田 地 奉 行 規 模 帳 」(1809 年 )、また各 種 の「公 事 帳 」
など、多 くの王 府 諸 令 達 が内 法 に影 響 を与 えたと考 えられる。以 下 、王 府 の令 達 と、その影 響
の下 に成 立 したと推 測 され得 る内 法 の若 干 の例 を挙 げよう。
①耕 作 当 の勤 め
a.「越 来 間 切 公 事 帳 」一 六 七 38
一 村 耕 作 当 者 月 ニ三 度 完 罷 通 田 畠 浮 得 壅 等 見 届 候 尤 毎 月 朔 日 ニ者 村 耕 作 当 掟 同 心 ニ而 番
所江罷出地頭代江首尾申聞候事
[訳 ] 一 村 耕 作 当 は月 に三 度 ずつ(担 当 の村 へ)出 向 き、田 畑 ・浮 得 ・壅 (肥 料 )等 を調 べること。
尤 も毎 月 一 日 には村 耕 作 当 ・掟 が一 緒 に番 所 へ出 向 き、地 頭 代 へ首 尾 を報 告 しなさい
a'.「久 志 間 切 各 村 内 法 」第 五 九 条 39
耕 作 当 勤 方 之 義 毎 日 朝 晩 百 姓 中 仕 口 ノ首 尾 承 届 月 ニ五 度 宛 原 々走 回 リ作 場 見 届 就 中
作 毛 時 節 不 取 後 様 差 引 家 内 々ヘモ無 油 断 走 回 リ諸 仕 付 方 又 ハ壅 取 扱 等 能 々入 念 候 様 叮
嚀 可 致 下 知 候 若 シ大 形 相 心 得 不 念 ノ稜 有 之 方 惣 耕 作 当 ニテ則 々科 銭 五 貫 文 申 付 依 事 重
キ取 扱 仕 候 事
[訳 ] 耕 作 当 の勤 めは、毎 日 朝 と晩 に百 姓 たちの仕 事 の具 合 を聞 き届 け月 に五 度 は耕 作 地 をま
わり仕 事 具 合 を見 届 けること、また特 に農 繁 期 においては村 中 注 意 深 く回 ってさまざまな農 芸 又 は
肥 料 の取 扱 などよくよく指 示 することであり、もしこれを怠 る場 合 には総 耕 作 当 より即 座 に罰 金 五 貫
文 申 し付 けられ、重 く取 扱 われること。
②我 侭 なる者 (気 随 意 者 )の処 分
b. 「越 来 間 切 公 事 帳 」九 三 40
一 気 随 意 之 者 有 之 親 類 併 ニ掟 頭 々よ里 流 罪 之 訟 申 出 候 節 当 式 行 跡 之 様 子 能 々聞 届 大
さはくり次 書 ニ両 惣 地 頭 次 書 を以 平 等 所 江 差 出 候 事
附 脇 地 頭 持 之 百 姓者 其 地 頭 連 名 之 次 書 仕 候 書 付 之 仕 様 左 ニ記
口上覚
何間切何村何某拘御礼歳何
何 かし
右者気随意有之下知方承引不致候間為懲何島江流刑被仰付被下度奉存候此旨被仰
上可被下儀奉頼候以上
[以 下 、省 略 ]
[訳 ] 一 気 随 意 の者 が居 り、(その)親 類 と掟 ・頭 から流 罪 の訴 訟 を申 し出 た場 合 には、(気 随 意 の
者 の)ふだんの行 状 をよくよく聞 いて、大 さばくりの次 書 に両 惣 地 頭 の次 書 で平 等 所 へ提 出 するこ
と。
38
『間 切 公 事 帳 の世 界 』『沖 縄 市 史 資 料 集 1』(沖 縄 市 教 育 委 員 会 、1987年 )83頁 参 照 。[訳 ]
は、同 書 127頁 参 照 。
39
「沖 縄 県 旧 慣 間 切 内 法 」『沖 縄 県 史 第 14巻 』389頁 参 照 。
40
前 掲 『間 切 公 事 帳 の世 界 』65頁 参 照 。[訳 ]は、同 書 117頁 参 照 。
17
追 記 (気 随 意 者 が)脇 地 頭 持 ちの百 姓 であれば、脇 地 頭 が連 名 した次 書 であること。書 付 の
仕 方 は左 に記 す。
口上覚
何 間 切 何 村 何 某 拘(親 権 者 等 )御 札 歳 何
何 がし
右 の者 は、気 随 意 で下 知 も聞 き入 れないので、こらしめのために何 島 へ流 刑 を命 じていただき
たいと思 います。この旨 を上 申 してくださいますようお頼 み申 し上 げます、以 上 。
b'.「久 志 間 切 各 村 内 法 」第 四 三 条 41
父 母 親 類 之 教 戒 ヲ汲 受 ケス村 間 切 指 揮 ニ背 キ我 侭 ナルモノハ官 ニ願 出 嶋 流 候 事
[訳 ] 父 母 や親 類 の注 意 を聞 かず、村 や間 切 の指 図 にも背 を向 けて我 侭 に振 舞 う者 は、役 人 に
上 申 して島 流 しの流 刑 に処 すること。
③トキ・ユタ(巫 女 )の禁 止
c. 「御 教 条 」第 三 章 二 五 42
時 よた之 儀 其 身 之 渡 世 を題 目 存 色 々虚 言 申 立 人 を相 誑 候 付 而 堅 禁 制 申 付 置 候 右 類 之
挙 動 有 之 者 ハ皆 以 世 間 之 妨 候 間 上 下 共 其 心 得 可 有 之 事
[訳 ] トキ・ユタというものは、自 分 の渡 世 をもっぱらに考 え、いろいろ虚 言 をとなえて人 をたぶらか
すゆえ、厳 重 に禁 止 されている。トキ・ユタのごときおこないをする者 は、世 の秩 序 を乱 すことになるの
で、今 後 とも厳 禁 するが、また、これにたぶらかされる者 もいけないのである。
c'.「金 武 間 切 各 村 内 法 」第 七 二 条 43
時 ヨタ召 遣 ノ義 跡 々ヨリ段 々御 締 方 被 仰 渡 置 候 得 共 其 守 達 之 家 内 ニ病 人 出 候 得 者 早 速
時 ヨタ相 頼 候 故 色 々虚 言 ヲ以 テ被 相 誑 或 ハ死 霊 生 霊 杯 ト申 終 ニ牛 豚 殺 段 々造 作 ケ間 敷 有
之 家 内 忘 却 致 シ候 方 モ有 之 由 甚 タ愚 昧 ノ仕 形 不 宜 儀 候 間 以 来 何 カ病 気 相 煩 ヒ候 ハヽ第 一
養 生 方 入 念 時 ヨタ一 向 相 頼 間 敷 ト村 中 ニテ堅 ク締 方 申 渡 置 候 此 上 相 背 牛 豚 殺 ス者 有 之 候
ハヽ科 銭 四 円 以 下 三 円 以 上 申 付 時 ヨタハ則 々所 払 可 致 事
[訳 ] トキ・ユタを使 うことは後 世 次 第 に禁 止 されるようになった。しかしこれをよく守 る者 も家 族 に病
人 などが出 ると、すぐにトキ・ユタに見 てもらい様 々な虚 言 で以 て惑 わされ、あるいは死 霊 や生 霊 の祟
りを持 出 されて牛 や豚 まで殺 して儀 式 を行 ない、有 るまじきことに家 政 を全 く怠 るなどおおよそ愚 昧
の限 りである。病 気 などは、まず第 一 に養 生 することが大 切 であり、トキ・ユタに頼 むようなことは村 中
で堅 く取 締 まること、もしこれに背 き牛 や豚 を殺 すような者 がいれば罰 金 三 円 以 上 四 円 以 下 申 し付
け、トキ・ユタは所 払 いに処 すこと。
このように成 文 化 された内 法 の条 項 の一 部 は、王 府 諸 令 達 との類 似 性 によって、官 治 法 的
41
前 掲 「沖 縄 県 旧 慣 間 切 内 法 」388頁 参 照 。
42
高 良 倉 吉 『御 教 条 の世 界 古 典 で考 える沖 縄 歴 史 』(ひるぎ社 、1982年 )87~89頁 参 照 。
[訳 ]は、同 書 88頁 参 照 。
43
前 掲 「沖 縄 県 旧 慣 間 切 内 法 」372頁 参 照 。
18
側 面 に、その起 源 を類 推 し得 よう。現 存 する成 文 内 法 が、1885(明 治 18)年 の県 乙 第 77 号 の
令 達 によって蒐 集 ・成 文 化 されたものであることは先 に述 べたが、事 実 としての内 法 の構 造 は、
王 府 諸 令 達 を間 切 役 人 が文 書 化 し各 村 に伝 達 した官 治 法 に由 来 する規 範 と、「村 締 」「村 固 」
「村 吟 味 」等 と称 される村 ごとの不 文 の約 束 事 や慣 習 の体 系 に由 来 する規 範 という 2 つの規 範
から構 成 されている。したがって、官 治 法 に由 来 する内 法 は、各 村 で生 じたズレを持 ちつつも
比 較 的 に画 一 性 、類 似 性 を有 し、自 治 規 範 に由 来 する内 法 は、村 ごとに差 異 を有 すると考 え
られる。ただし明 治 期 に成 文 化 された内 法 は、先 に挙 げた理 由 により王 府 の法 令 や令 達 に由
来 する規 範 が前 面 に現 れたものであるといえよう。次 に内 法 の地 域 差 について論 じることとす
る。
二 村 内 法 の地 域 差
現 存 する明 治 期 資 料 によると、成 文 内 法 は、条 数 という点 で地 方 によって 3 つに大 別 すること
ができる。まず条 数 や配 列 の仕 方 に着 目 すれば、沖 縄 本 島 北 部 の国 頭 郡 に見 られるような間
切 内 法 ・村 内 法 の各 条 数 が 100 条 をこえる地 域 、本 島 中 南 部 中 頭 郡 島 尻 郡 の各 内 法 が数 10
条 程 度 の地 域 、そして首 里 那 覇 (およびその近 郊 )の各 内 法 が 10 数 条 程 度 の地 域 である。
また、成 文 内 法 は、条 数 のみならず規 定 の内 容 という点 でも、地 域 ごとにある程 度 類 似 した
画 一 性 を有 している。本 章 においては、この成 文 内 法 の画 一 性 の主 要 因 を、琉 球 処 分 以 前 は、
王 府 の指 令 および役 人 の影 響 、処 分 以 降 は内 法 成 文 化 に際 して各 地 方 役 所 長 (あるいは県
庁 吏 員 )の関 与 を指 摘 しておいた。しかし、資 料 としての成 文 内 法 にみられる地 域 ごとの画 一
性 の原 因 は、指 令 や役 人 の関 与 に帰 せられるとして、村 における不 文 の内 法 が、村 ごとに差 異
を有 しつつも近 隣 の村 々との類 似 性 を持 ち、それが地 域 (郡 )ごとに成 文 内 法 の中 に一 定 の画
一 性 として現 れる可 能 性 を否 定 することはできない。こうした内 法 の地 域 差 は時 代 差 としても理
解 することができよう。すなわち、きわめて原 初 的 な型 に近 い内 法 を維 持 している地 域 、王 府 法
や県 の統 制 によって変 質 を余 儀 なくされた内 法 を有 している地 域 、あるいはその中 間 に位 置 す
るような内 法 を保 持 している地 域 など、地 域 差 が時 代 差 を反 映 している可 能 性 は大 きい。もち
ろん、この議 論 は、あくまでも明 治 期 資 料 に基 づくものであって現 代 の沖 縄 社 会 を念 頭 におい
たものではない。
農 業 経 済 学 者 の上 野 重 義 が、こうした内 法 の地 域 差 の類 型 化 を試 みている。上 野 は「沖 縄
における旧 慣 間 切 内 法 ・村 内 法 の類 型 的 考 察 」において、土 地 制 度 、特 に東 南 アジアにも見
られる地 割 制 度 の比 較 研 究 的 関 心 から、当 面 は沖 縄 の特 殊 性 に焦 点 を限 定 し村 落 共 同 体 の
存 在 構 造 を対 象 として間 切 内 法 と村 内 法 の問 題 を取 り上 げた。上 野 は、1885(明 治 18)年 に
蒐 集 された成 文 内 法 資 料 に見 られる内 法 の地 域 差 を発 生 史 的 ・形 式 的 観 点 から検 討 し、各
郡 内 においてほぼ同 一 の成 文 内 法 が、各 郡 間 においてはかなり相 違 しているという点 に着 目
して、内 法 を以 下 の 3 つに類 型 化 している 44 。
類 型 Ⅰ:村 落 共 同 体 的 性 格 を保 持 している内 法
44
上 野 重 義 「沖 縄 における旧 慣 間 切 内 法 ・村 内 法 の類 型 的 考 察 」九 州 大 学 農 学 部 学 芸 雑
誌 第 44巻 第 1・2号 (1989年 )〔以 下 「類 型 考 察 」〕19~21頁 参 照 。
19
[該 当 地 域 ]
島 尻 郡 久 米 島 仲 里 ・具 志 川 間 切
類 型 Ⅱ:過 渡 的 形 態 の内 法
貢 租 未 納 に対 する処 置 から類 型 Ⅰに近 い A と類 型 Ⅲに近 い B とに二 分 される
[該 当 地 域 ]
Ⅱ‐A:中 頭 郡 の各 間 切 および粟 国 島
Ⅱ‐B:島 尻 郡 の間 切 の大 部 分
類 型 Ⅲ:王 府 支 配 体 制 の一 環 に組 込 まれた内 法
[該 当 地 域 ]
国 頭 郡 の各 間 切
この類 型 化 の指 標 として上 野 が用 いたのは、抽 象 的 な一 次 的 指 標 として「村 落 共 同 体 的 性
格 の強 弱 」、具 体 的 な一 次 的 指 標 として「年 貢 未 納 の場 合 に対 する内 法 の差 」、そして二 次 的
指 標 としては「内 法 の規 定 条 文 の形 式 」というものであった 45 。
それではこの指 標 から検 討 していきたい。上 野 は、イングランド村 法 研 究 の第 一 人 者 オールト
Aultの村 法 bylaws研 究 を参 照 し、間 切 内 法 ・村 内 法 の本 来 の形 態 を「村 落 共 同 体 の秩 序 維
持 のための規 定 (掟 )の集 成 」 46 と理 解 しており、一 次 的 指 標 として抽 象 的 には村 落 共 同 体 的
性 格 の強 弱 を内 法 規 定 における村 落 の秩 序 維 持 規 定 に求 めている。抽 象 的 一 次 的 指 標 の
基 準 として、例 えば、上 野 は、類 型 Ⅰに挙 げている仲 里 ・具 志 川 両 間 切 内 法 は秩 序 維 持 規 定
が大 部 分 であるとし、また村 の運 営 に対 する村 民 の参 加 義 務 規 定 を含 んでいることにまず注 目
する。とくに村 の運 営 に対 する村 民 の参 加 義 務 規 定 については、類 型 Ⅱ・Ⅲの成 文 内 法 には
規 定 されていないということを指 摘 し、英 国 の村 の集 会 vestryが、旧 くはopenであったにもかか
わらず農 民 層 の分 化 の進 行 により有 力 者 を中 心 とするclosed vestryへと変 化 したことに依 拠 し
つつ、類 型 Ⅱ・Ⅲの地 域 は「農 民 層 の分 化 が著 しく共 同 体 の運 営 が有 力 者 を中 心 に行 なわれ
ていることを示 す」としている 47 。しかしながら成 文 の内 法 資 料 を抽 象 的 一 次 的 指 標 としての村
落 共 同 体 的 性 格 を用 いて分 析 するには限 界 がある。というのも、上 述 のように現 存 する成 文 内
法 資 料 は、その成 文 化 における検 閲 ゆえに「村 締 」「村 固 」「村 吟 味 」と呼 ばれていた内 法 (村
落 の秩 序 維 持 規 定 )を必 ずしも反 映 したものではないからである。再 度 確 認 すると、まず成 文
内 法 は、その届 出 にあたって地 方 役 所 (後 の郡 役 所 )の指 導 を受 ける段 階 で秩 序 維 持 規 定 が
削 除 されており、次 に内 法 の届 出 の際 に内 法 条 文 が詳 細 にされ、あるいは装 飾 が行 なわれ、さ
らに山 林 関 係 の内 法 に至 っては従 来 それのなかった地 域 まで届 出 ている場 合 さえもあったの
である。それゆえ、村 落 共 同 体 的 性 格 を考 察 する場 合 には、成 文 内 法 の資 料 的 価 値 は二 次
的 な も の に と ど ま る と し な け れ ば な ら な い 。 た だ し 一 つ 付 け 加 え て お く と 、 村 の 集 会 が open
vestryからclosed vestryへと変 化 するという視 点 は本 稿 とも共 通 するものである。それゆえ指 標
自 体 は妥 当 なものとしても、その指 標 で分 類 されたものが成 文 内 法 資 料 だけであったということ
は問 題 である。
次 に具 体 的 一 次 的 指 標 として年 貢 未 納 の場 合 に対 する内 法 の差 を用 いたとしている点 は、
45
上 野 ・前 掲 「類 型 考 察 」21頁 参 照 。
46
上 野 ・前 掲 「類 型 考 察 」21頁 参 照 。
47
上 野 ・前 掲 「類 型 考 察 」22~23頁 参 照 。
20
そこに村 の共 同 性 の強 弱 を見 てとれるから説 得 的 なものであると思 われる。農 民 の未 納 貢 租 の
負 担 は、例 えば未 納 分 を親 族 や門 中 が負 担 したり、村 によっては身 売 りが行 われたり、あるい
は与 が負 担 するなどいくつかのパターンと段 階 がみられる 48 。成 文 内 法 では、この貢 租 未 納 の
件 が、特 に身 売 りしてまで納 めよというかたちで規 定 されている事 例 が見 られる。では、成 文 内
法 資 料 では同 一 郡 内 で類 似 した規 定 を保 っている年 貢 未 納 の件 を、奥 野 の調 査 資 料 により
検 討 してみたい。少 なくとも奥 野 の調 査 資 料 49 に見 るかぎり、未 納 の年 貢 を納 めるために取 ら
れる方 法 は同 じ郡 内 でも間 切 ごとに差 異 がある。また国 頭 間 切 内 だけではあるが、同 じ間 切 内
でも村 によっては差 異 を示 す事 例 もみられる。調 査 の回 答 を、郡 ごとに以 下 に挙 げてみよう。
国頭郡
[国 頭 間 切 ]
近 親 者 の負 担 ・身 売 り・土 地 処 分 の順 。ただし、「辺 土 名 村 」「奥 間 村 」は村 持 ちにし、田 畑
を引 き揚 げ、その入 札 者 に納 めさせるか、(身 内 を)奉 公 人 としてだす。
[大 宜 味 間 切 ]
門 中 が負 担 。滞 納 2年 以 上 の場 合 は門 中 が土 地 を処 分 するか、あるいは門 中 の誰 かが(未
納 者 の)土 地 を耕 作 し納 める。
[今 帰 仁 間 切 ]
門 中 の負 担 ・身 売 り(ただし門 中 が引 き受 けない場 合 )の順 。
[本 部 間 切 ]
門 中 ・組 ・村 の順 で負 担 。
[金 武 間 切 ]
奉 公 にだす・組 の負 担 、未 納 者 本 人 が金 利 の利 のために使 われることもあり。門 中 は関 与 し
ない。
[恩 納 間 切 ]
近 親 ・身 売 り、村 は負 担 しない。
島尻郡
[知 念 間 切 ]
近 親 ・組 ・村 の順 で負 担 。身 売 りの例 なし。
[糸 満 間 切 ]
現 品 で支 払 う。門 中 は関 与 しない。
[大 里 間 切 ]
与 那 覇 村 :組 頭 が納 税 の指 揮 監 督
[真 和 志 間 切 ]
天 久 村 親 類 二 人 が上 納 保 証 、うまくゆかなければ土 地 取 り揚 げ。
48
未 納 年 貢 を負 担 する親 族 や門 中 が血 縁 者 のどの範 囲 を指 すのかは不 明 であり、沖 縄 の与
は本 土 の家 が結 びついた地 縁 的 な組 とは違 い血 縁 団 体 としての性 格 を完 全 に脱 したものでは
ないという点 は留 意 すべきである。
49
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』105~107頁 参 照 。
21
調 査 事 例 が少 ないので、一 概 には言 えないのかもしれないが、年 貢 未 納 の負 担 順 位 は同 一
郡 内 であっても間 切 ごとに異 なっており、国 頭 間 切 において見 られるように同 一 間 切 内 であっ
ても村 ごとに異 なっていた可 能 性 が高 い。つまり年 貢 未 納 の件 は、かなり画 一 的 な内 容 を持 っ
ている成 文 内 法 上 の規 定 と村 の実 際 の慣 行 (不 文 の内 法 )を照 らし合 わせるとズレが生 ずるの
である。指 標 それ自 体 は評 価 し得 たとしても分 析 対 象 が成 文 内 法 のみに限 定 されると分 析 結
果 は実 態 を反 映 したものでなくなる、と言 わざるを得 ない。それゆえ、この指 標 を用 いるために
はもっと詳 細 な資 料 が要 求 される。
二 次 的 指 標 として挙 げられた「内 法 の規 定 条 文 の形 式 」について見 ておこう。日 本 法 史 学 の
村 法 研 究 においては、村 法 形 式 と条 数 による類 別 が行 われている。この場 合 村 法 形 式 の構 成
要 素 には「前 書 」「本 文 」「後 書 」を中 心 に「連 署 」「捺 印 」があり、通 常 、前 三 者 の組 合 せや条
数 によって村 法 が類 別 される 50 。ここで上 野 が用 いている二 次 的 指 標 としての形 式 が意 味 する
ところは判 然 としたものではない。しかしここでもやはり資 料 としての成 文 内 法 の問 題 性 を考 慮
すれば、分 析 結 果 の妥 当 性 が問 題 となろう。
以 上 の指 標 の検 討 から上 野 の内 法 の 3 類 型 論 について、類 型 ⅠからⅢの該 当 地 域 は再 考
の余 地 があると思 われる。また類 型 Ⅰ・Ⅱの定 義 は妥 当 なものとしても、類 型 Ⅲの「王 府 支 配 体
制 の一 環 に組 込 まれた内 法 」という定 義 についても問 題 を含 んでいる。というのも、内 法 は確 か
に王 府 の指 令 の影 響 から自 由 ではありえず、それによって一 定 の変 質 を被 っていたことは本 稿
においても認 めるものであるが、近 世 末 期 の琉 球 農 村 の問 題 点 を考 慮 すると、成 文 内 法 が村
落 共 同 体 的 色 彩 を失 っていくことは必 ずしも王 府 の支 配 体 制 への組 込 みを意 味 するものでは
ないからである。田 港 朝 昭 によると、近 世 末 期 の琉 球 の農 村 は王 府 の度 重 なる農 業 政 策 上 の
努 力 にもかかわらず全 般 的 かつ恒 常 的 に貢 租 上 納 が不 可 能 なほど疲 弊 、変 容 し、王 府 の農
村 支 配 まで阻 害 されていたという 51 。もし田 港 の言 うように農 村 が疲 弊 ・変 容 しきっていたとすれ
ば、内 法 の変 質 は、王 府 に組 込 まれたものというよりも、その疲 弊 ゆえの村 落 共 同 体 の共 同 性
と統 合 性 の弛 緩 という視 点 から村 落 共 同 体 の内 部 構 造 の問 題 として考 察 されねばならない。
それゆえ、類 型 Ⅲには再 定 義 が必 要 となるのではなかろうか。
それでは本 章 においても内 法 の地 域 差 についての一 つの手 がかりを提 示 しておきたい。それ
は内 法 を地 割 制 度 との関 連 で考 察 するというものである。地 割 制 度 については、次 章 において
検 討 するので詳 論 は避 け、以 下 においては本 章 との関 連 でのみ言 及 することとしたい。地 割 制
度 は、村 落 のほぼ全 ての耕 作 地 を総 有 とし、一 定 年 限 ごとにそれを割 替 える制 度 のことであり、
明 治 期 の沖 縄 県 土 地 整 理 事 業 (1899 年 ~1903 年 )の完 成 まで 52 、宮 古 島 と八 重 山 諸 島 の一
部 を除 き、ほぼ沖 縄 全 域 において実 施 されていた支 配 的 な土 地 制 度 であった。
50
こうした分 類 に先 鞭 を付 けたのは日 本 村 法 研 究 の先 駆 的 研 究 である前 田 ・前 掲 『日 本 近 世
村 法 の研 究 』であり、神 谷 力 はこの分 類 法 を近 代 村 法 にも適 用 した『家 と村 の法 史 研 究 日 本
近 代 法 の成 立 過 程 』(御 茶 の水 書 房 、1993年 )406頁 以 下 参 照 。
51
田 港 朝 昭 「近 世 末 期 の沖 縄 農 村 についての一 考 察 ―地 方 役 人 層 の動 きを中 心 に―」新 里
恵 二 編 『沖 縄 文 化 論 叢 第 1巻 』(平 凡 社 、1972年 )参 照 。
52
沖 縄 県 土 地 整 理 事 業 については、本 稿 第 4章 において詳 論 する。
22
梅 木 哲 人 は、琉 球 ・沖 縄 の農 村 は、「本 土 の近 世 村 落 とは違 い、一 定 の持 高 を持 った本 百
姓 からなるというのではなく、地 割 制 に参 加 している地 人 から成 るからである。地 割 制 と村 民 は
密 着 して」おり、「このような土 地 制 度 では不 動 産 が成 立 しないから家 産 も成 立 せず、家 の制 度
も出 来 にくかった。他 方 、地 人 の貧 富 の階 層 分 化 も本 来 的 には出 てこない構 造 であった」とす
る 53 。しかしながら、琉 球 近 世 も末 期 になると本 来 的 には均 質 であるはずの農 村 にも階 層 分 化
の傾 向 が現 れ、さらに農 村 の均 質 性 を担 保 していた地 割 制 度 が、近 世 末 期 より事 実 上 、地 域
によって解 体 傾 向 にあったとされている 54 。
仲 吉 朝 助 の「琉 球 の地 割 制 度 」によれば、地 割 期 限 に関 して、人 口 が少 なく土 地 の広 い八
重 山 地 方 ・本 島 の国 頭 地 方 の両 地 方 は地 割 期 限 がほとんど 10 年 以 内 の短 期 であり、他 方 、
人 口 が多 く土 地 の狭 い本 島 の島 尻 ・中 頭 の両 地 域 は地 割 期 限 がたいてい 10 年 以 上 と長 期 に
わたっていた。こうした土 地 占 有 期 間 の長 短 には、地 域 によって地 割 制 の有 する意 義 に差 異 が
あったと考 えられる。つまり、長 期 の土 地 占 有 は、土 地 の所 有 権 化 への移 行 を示 唆 する可 能 性
があるとするのである。仲 吉 は、この変 動 しつつあった地 割 制 を地 人 各 戸 の男 女 総 数 に平 等
(人 頭 割 )に地 割 配 当 する「純 粋 の共 産 的 地 割 」、各 戸 に一 定 不 変 の配 当 率 を設 定 し地 割 毎
にその割 合 を変 更 せずにただ土 地 だけを移 動 する(貧 富 割 )「資 本 主 義 的 地 割 」、この両 者 の
中 間 にある「折 衷 的 地 割 」という 3 つに分 類 した 55 。
また安 良 城 盛 昭 は、明 治 16 年 の「地 割 基 準 値 一 覧 」 56 の分 析 から以 下 の論 を展 開 している。
安 良 城 によると、地 割 制 の本 来 の形 態 は「人 頭 割 」の基 準 に基 づくものであり、その基 準 が後
進 地 域 とされる沖 縄 本 島 北 部 国 頭 郡 の 70%の村 落 で残 っているのに対 し、農 業 先 進 地 域 で
あり砂 糖 キビの集 産 地 である本 島 南 部 島 尻 郡 では 16%の村 落 にしか残 っていない。逆 に、本
来 の基 準 である「人 頭 割 」が崩 壊 し農 民 家 族 の人 頭 数 とは別 の様 々な歴 史 的 経 緯 によって形
成 されてくる「持 地 」の大 小 をそのまま認 める「持 地 ノ変 動 ナシ」とする割 替 え基 準 が、島 尻 郡 の
61%に達 しているのに対 し、国 頭 郡 においてはわずか 1.5%にすぎない。安 良 城 は、この二 つ
の「対 照 的 な事 実 」に着 目 し、地 割 が国 頭 郡 の「人 頭 割 」から、中 頭 郡 に特 徴 的 な「貧 富 制 と
人 頭 割 ・耕 耘 力 割 の併 用 」を経 て、島 尻 郡 の「持 地 ノ変 動 ナシ」へと変 容 していると論 じた 57 。
53
梅 木 哲 人 「近 世 農 村 の成 立 」『新 琉 球 史 近 世 編 (上 )』(琉 球 新 報 社 、1989年 )201頁 参
照。
54
西 原 文 雄 「「土 地 整 理 」に関 する一 考 察 」沖 縄 歴 史 研 究 会 編 (『近 代 沖 縄 の歴 史 と民 衆 』至
言 社 、1977年 )参 照 。また、山 本 弘 文 は、本 来 、農 民 層 の階 層 分 化 を阻 止 するために行 なわ
れていた地 割 替 えが、近 世 末 期 に至 っては農 民 層 の階 層 分 化 が進 み、農 民 各 層 のより以 上
の分 化 を阻 止 するために、定 期 的 な割 替 えを不 可 欠 としながらも、しかも貢 租 の円 滑 な収 取 の
ためには占 有 権 の事 実 上 の不 均 等 を容 認 した上 で割 替 えを行 なわざるをえなかったとしている。
山 本 弘 文 「近 世 沖 縄 史 の諸 問 題 」『沖 縄 文 化 論 叢 第 1巻 』273頁 以 下 参 照 。仲 吉 ・前 掲 「琉
球 の地 割 制 度 (2)」史 学 雑 誌 第 39編 第 6号 585~589頁 参 照 。
55
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (2)」585~589頁 参 照 。
56
「地 割 基 準 値 一 覧 (明 治 16年 3月 )」は、『沖 縄 県 文 化 財 調 査 報 告 書 第 6集 津 堅 島 地 割 調
査 報 告 書 』(沖 縄 県 教 育 委 員 会 、1977年 )に収 録 されている。
57
安 良 城 盛 昭 「渡 名 喜 島 の「地 割 制 度 」」『渡 名 喜 村 史 下 巻 』(渡 名 喜 村 、1977年 )855~
23
こうした地 割 制 の変 容 は、農 村 内 部 における社 会 階 層 の分 化 とそれによる社 会 構 造 の変 化
であると推 測 され、さらに土 地 の共 有 制 から個 別 的 長 期 占 有 化 への移 行 段 階 を物 語 るものと
考 えられる(後 に繰 り返 し論 ずるが、本 稿 ではこの変 容 を所 有 権 化 とはみていない)。そして琉
球 近 世 の農 村 に伝 統 的 な血 縁 的 結 合 と社 会 階 層 の未 分 化 な農 村 の編 成 を残 している地 域 と、
社 会 階 層 の分 化 にともなう血 縁 的 結 合 の弱 化 と経 済 的 な結 合 の台 頭 によって再 編 成 された地
域 とでは、内 法 のあり方 も異 なってくると考 えられる。また次 節 において検 討 するが農 村 におけ
る村 の集 会 も地 割 性 の変 化 と階 層 分 化 に連 動 してしいる可 能 性 がある。本 章 においては、内
法 の地 域 差 に関 して地 割 制 との関 連 で考 察 するという手 がかりを提 示 するにとどめておきた
い。
第 三 節 村 内 法 と村 の集 会
成 文 内 法 の規 定 の大 部 分 は、農 事 ・山 林 の取 締 り、風 俗 ・風 紀 の取 締 りなどの秩 序 維 持 規
定 、貢 租 滞 納 の処 置 規 定 、間 切 ・村 役 人 の職 務 規 定 など民 事 ・刑 事 ・行 政 の多 方 面 にわたる。
しかしながら、間 切 内 法 および村 内 法 の条 項 には、内 法 執 行 の手 続 に関 する規 定 はほとんど
見 られない。執 行 に関 しては、おおよそ村 の慣 行 (不 文 の村 内 法 )によっていた。すなわち、役
所 の認 可 を得 て成 文 化 された内 法 といえども、執 行 に際 して村 人 の手 に委 ねられざるをえなか
ったということである。本 節 においては、村 内 法 の執 行 やそのほか村 の重 要 事 項 の決 定 に関 わ
る村 の集 会 を、不 文 の村 内 法 が具 体 的 に発 現 する場 として検 討 したい。まず、沖 縄 本 島 の各
村 落 にみられる村 の集 会 を分 類 し、次 に地 割 に関 わる集 会 を検 討 し、最 後 に村 の裁 判 につい
てみていくこととしよう。なお、ここで用 いる資 料 は、主 として奥 野 彦 六 郎 が『南 島 村 内 法 』に収
録 した調 査 資 料 (以 下 、「奥 野 資 料 」と称 す)によっている 58 。
一 村 内 法 の執 行 と村 の集 会
現 在 、資 料 上 で確 認 し得 る、明 治 期 旧 慣 存 置 政 策 下 の間 切 内 法 および村 内 法 の執 行 手 続
きは、一 木 喜 徳 郎 の「先 本 人 ヨリ手 続 書 ヲ徴 シ間 切 内 法 ニ関 シテハ間 切 吏 員 、村 内 法 ニ関 シ
テハ村 吏 員 擬 律 シテ役 所 長 ノ認 可 ヲ受 クルノ順 序 」 59 というものと、「沖 縄 県 森 林 視 察 復 命 書 」
857頁 参 照 。
58
奥 野 は、『南 島 村 内 法 』第 二 編 調 査 資 料 (62頁 以 下 参 照 )において、内 法 執 行 や社 会 的
分 業 ・分 化 に関 する調 査 を掲 載 しており、当 時 を知 ることのできる貴 重 な資 料 である。調 査 方
法 の形 式 としては、質 問 票 調 査 による質 問 法 であると思 われるが、質 問 事 項 の内 容 の未 表 記
あるいは均 一 性 などに問 題 がないわけではない。また、回 答 者 として記 載 されている人 物 の存
在 を確 認 できない場 合 もある。例 えば、回 答 者 として記 載 されている、「国 頭 の元 掟 ・間 切 長 の
知 花 親 松 」という人 物 は特 定 できない。『国 頭 村 史 正 編 』(国 頭 村 、1967年 )403頁 註 (四 )参
照。
59
一 木 ・前 掲 「史 料 沖 縄 旧 慣 内 法 」514頁 参 照 。
24
にある、山 林 内 法 違 反 者 取 締 りの際 の「内 法 ノ執 行 手 続 ハ犯 人 発 覚 シタルトキハ間 切 長 又 ハ
島 長 始 末 書 ヲ徴 シ之 ニ意 見 ヲ付 シ(山 方 筆 者 設 置 アル地 方 ハ共 ニ連 署 スルヲ例 トセリ)郡 長 ノ
許 可 ヲ受 ケ言 渡 書 ヲ作 リテ犯 人 ニ交 付 シ執 行 ヲ了 スル慣 例 ニシテ検 事 ニ送 致 シ以 テ刑 法 ニ
拠 ル正 式 ノ処 刑 ヲ受 ケシムルハ犯 罪 ノ情 状 重 キモノノミニ限 レリ」 60 というものである。両 資 料 の
年 代 の違 いにより、処 分 の認 可 に役 所 長 と郡 長 との違 いはあるものの、大 きな差 異 はなく、間
切 ・村 の地 方 役 人 が、違 反 者 に書 類 を提 出 させ、役 所 長 の認 可 により内 法 処 分 が決 定 されて
いたことがわかる。
当 時 、内 法 を届 出 制 にしていた沖 縄 県 庁 は、内 法 執 行 手 続 も管 理 下 におくことに腐 心 して
いたが、村 内 法 の実 際 の運 用 は、県 庁 の指 導 にもかかわらず、過 酷 な身 体 刑 や罰 金 など、た
びたび問 題 となった 61 。すなわち、上 記 資 料 の手 続 は、さほど厳 密 には守 られていなかったとい
える。実 際 には、村 内 法 の執 行 は、重 罪 や所 払 いを除 き、村 をこえて上 級 機 関 の手 に委 ねら
れることは少 なく、ほとんどが、村 の内 部 の問 題 として処 理 された。
村 内 法 執 行 に際 し、本 島 の多 くの地 域 においては、掟 ・耕 作 当 ・山 当 等 といった村 の指 導
者 の了 解 のもと、村 全 体 あるいは村 役 の集 会 が開 かれ、違 反 者 の特 定 およびその処 罰 の決 定
が行 なわれた。こうした集 会 は、村 の指 導 者 の了 解 を要 するものであったが、実 際 は「掟 と雖 も
その集 会 を差 止 めることは出 来 な」いといわれる程 、村 民 の強 い要 請 があって開 かれるものであ
った 62 。さらに、このような村 の集 会 は、村 内 法 違 反 者 の決 定 ・処 分 のみならず、地 割 替 えの協
議 など村 の様 々な問 題 に対 応 するために開 かれる意 志 決 定 機 関 でもあった 63 。
村 の集 会 の開 かれた場 所 は、村 屋 ないし村 屋 前 の「庭 (ナー)」と呼 ばれる広 場 、あるいは
「毛 (モー)」と呼 ばれる広 い野 原 などの共 有 空 間 (コモンズ) 64 であった。「奥 野 資 料 」 65 を基 に
いくつかの、本 島 各 村 における村 の集 会 を、以 下 に挙 げてみた。ただし、集 会 の名 称 ・集 会 を
召 集 する者 ・集 会 参 加 資 格 を有 する者 などは、村 ごとに異 なり、また協 議 事 項 や事 件 の種 類 ・
性 質 によっても異 なっている。
①村 揃 (ムラズリー)、または総 揃 (ソーズリー)
60
前 掲 「沖 縄 県 森 林 視 察 復 命 書 」750頁 参 照 。
61
本 稿 第 3章 第 3節 以 下 を参 照 。
62
奥 野 ・前 掲 「古 琉 球 に於 ける法 制 断 片 (3)」66頁 参 照 。
63
前 田 正 治 は、日 本 の近 世 村 落 における村 の寄 合 を「村 民 の集 会 」とした上 で、「衆 議 の機
関 としての寄 合 は(中 略 )村 法 の制 定 、村 役 人 の選 任 、年 貢 割 の決 定 、村 用 の決 算 、或 る場
合 は犯 罪 者 の摘 発 と制 裁 決 定 、其 他 自 治 上 の諸 般 の議 定 が此 にて行 はれた」ことを明 らかに
し(前 田 ・前 掲 『日 本 近 世 村 法 の研 究 』28頁 参 照 )、また「(村 民 集 会 としての)寄 合 は村 落 に於
ける社 會 意 識 統 一 の場 として、村 の総 意 決 定 の唯 一 の機 関 」であるとした(同 書 、35頁 参 照 )。
64
吉 川 博 也 は、毛 (モー、野 原 )や庭 (ナー、拝 所 や公 民 館 の前 の広 場 )といったオープンス
ペースを共 有 空 間 (コモンズ)として位 置 付 け「共 通 の記 憶 の埋 め込 まれた空 間 」としている。吉
川 博 也 『那 覇 の空 間 構 造 沖 縄 らしさを求 めて』(沖 縄 タイムス社 、1989年 )67頁 参 照 。
65
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』76~83頁 参 照 。集 会 の名 称 、参 加 者 及 び協 議 事 項 等 に関 して
は、奥 野 資 料 より筆 者 がまとめた。
25
文 字 通 り、村 の全 体 集 会 であり、その参 加 者 は、各 地 域 で異 なるものの概 して一 五 歳 (数
え年 一 三 歳 )以 上 の男 子 であり、ところにより 60 歳 までの上 限 があり、女 家 主 、ヤードリ(屋 取 )
66
が参 加 するところもあった。また、二 つの村 の合 併 したところでは二 カ揃 と称 した。主 として、
村 の重 要 事 項 、例 えば貢 租 の上 納 、入 寄 留 、窃 盗 、強 盗 、殺 人 等 の協 議 を行 なった。
②親 方 揃 ・親 衆 揃 ・親 方 集 (ウヤカタズリー)
村 の指 導 層 (親 方 )の集 会 。例 えば中 頭 地 方 勝 連 においては、村 治 上 の功 績 により「筑
登 之 親 雲 上 (チクドンペーチン、琉 球 の位 階 )」の位 をもらった者 が集 まり、掟 が議 長 となって、
農 作 物 加 害 取 締 法 (一 種 の村 内 法 )の取 決 、他 部 落 間 との境 界 の確 定 等 を協 議 した。
③二 才 揃 (ニーセーズリー)
村 の一 五 歳 から四 〇歳 までの男 子 の集 会 。農 作 物 の取 締 り、札 の運 営 等 を協 議 した。
④地 人 揃 (ジンチュズリー)・地 人 会 ・地 人 総 会
村 本 来 の住 民 を地 人 ないし持 地 人 といい、地 割 の資 格 者 であり、上 述 の屋 取 にはその資
格 はなかった。地 人 揃 では主 として地 割 の割 当 てなどが協 議 された。
⑤チネー揃 ・チネー主 揃 ・家 主 揃 ・煙 揃 (キブイズリー)
チネーとは家 の意 、すなわち家 を代 表 する者 の集 まり。
このような集 会 を開 く際 には、各 村 によって召 集 の形 式 があり、たいていは太 鼓 を叩 いたり、あ
るいは法 螺 貝 を吹 く等 して召 集 を知 らせた。また、太 鼓 の打 ち方 、法 螺 貝 の吹 き方 によって集
会 の区 別 があったという 67 。
「奥 野 資 料 」においては、上 記 集 会 の機 能 、優 先 順 位 、決 定 の優 越 など判 然 としない。地 域
にもよるが、これらの集 会 は、諸 事 項 を単 独 で決 定 するのではなく、ある集 会 における決 定 事 項
(ないし未 決 定 事 項 )を、別 の集 会 で協 議 にかけ承 認 ・決 定 していたと考 えられる。例 えば、中
頭 郡 具 志 川 においては、「昔 からの内 法 を一 部 変 えるときは親 方 揃 (掟 以 上 のオエカ人 即 ち奉
職 人 とチクドノペーチン)で直 し、キブイ揃 (家 から、もののきける者 一 人 づつ出 る)に相 談 をか
ける」 68 、また国 頭 郡 大 宜 味 では「内 法 取 締 は親 方 揃 できめ、きめ得 ぬ問 題 は家 主 揃 にはかっ
た」 69 という。島 尻 地 方 知 念 において、②の親 方 揃 は諮 問 機 関 70 として機 能 した。③の二 才 揃
66
元 々は「宿 る」の意 。農 村 に寄 留 定 着 した人 々のことを指 し、居 住 人 あるいは寄 留 民 と呼 ば
れた。多 くは系 持 ち(琉 球 の士 族 )で、地 割 有 資 格 者 たる本 来 の村 民 すなわち地 人 と区 別 され
た。田 里 友 哲 「屋 取 」(『沖 縄 近 代 史 辞 典 』536頁 以 下 )、同 「沖 縄 における屋 取 集 落 の研 究 」
琉 球 大 学 文 理 学 部 紀 要 人 文 ・社 会 編 第 5号 (1960年 )、ならびに同 社 会 編 第 8号 (1964年 )参
照。
67
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (1)」446頁 以 下 参 照 。
68
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』80頁 参 照 。
69
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』77頁 参 照 。
26
は、地 域 差 はあるものの、主 として風 俗 関 係 の取 締 りにあたり、馬 手 間 (馬 酒 料 ) 71 の取 り立 て、
締 札 の運 用 72 、科 銭 の徴 収 等 も行 い一 種 の警 察 的 機 能 を担 っていた 73 。
前 節 において、地 割 制 度 が、特 に中 頭 ・島 尻 地 方 において近 世 末 期 から解 体 とまではいえ
ないにしろ、変 質 の過 程 にあり、土 地 の個 別 的 長 期 占 有 化 への移 行 段 階 に向 かいつつあった
可 能 性 について言 及 した。この地 割 制 の変 質 傾 向 は、琉 球 処 分 以 降 、各 家 の土 地 に対 する
私 有 財 産 観 念 の発 達 によって、さらに拍 車 がかけられたことは既 に指 摘 されているが 74 、地 割
の変 質 と土 地 に対 する私 有 財 産 観 念 の発 達 が、土 地 の集 積 を可 能 にし、疲 弊 した農 村 にあっ
て比 較 的 富 裕 な家 を出 現 させ(すなわち階 層 分 化 )、各 村 民 の社 会 分 業 の進 行 と同 時 に、例
えば親 方 揃 が一 種 の諮 問 機 関 として機 能 していたように、村 の集 会 の機 能 分 化 を促 したとも考
えられよう。
二 地 割 の決 定
沖 縄 県 土 地 整 理 事 業 の完 成 まで、沖 縄 において支 配 的 な土 地 制 度 であり、村 民 の生 産 活
動 の根 幹 をなしていた地 割 制 度 は、強 力 な慣 習 的 制 度 であったにもかかわらず、成 文 化 され
た村 内 法 には、わずかに地 割 期 限 等 を定 めた原 則 的 規 定 しか見 いだせない 75 。では、耕 地 の
70
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』82頁 参 照 。
71
馬 手 間 とは、他 部 落 に嫁 ぐ女 子 の家 、あるいは婿 の家 から金 、酒 、米 などを徴 収 する婚 姻
風 習 のことで、馬 酒 料 、馬 賃 などと呼 ぶところもあった。「馬 手 間 」琉 球 政 府 文 化 財 保 護 委 員 会
『沖 縄 文 化 史 辞 典 』(1972年 )55頁 参 照 。
72
締 札 とは、内 法 違 反 者 が発 覚 した場 合 に、その違 反 者 に木 札 を渡 し、他 の違 反 者 を見 つけ
るまで科 銭 を徴 収 する制 裁 の事 。原 番 札 などとも称 した。
73
このような若 者 達 による村 における警 察 的 機 能 は、もちろん沖 縄 の二 才 揃 に特 有 の現 象 で
はない。これまで、法 社 会 学 ・民 族 学 等 の村 落 構 造 研 究 によって指 摘 されてきたように本 土 の
村 落 共 同 体 の若 者 組 もまた、警 察 ・検 察 的 な機 能 さらに消 防 ・救 急 活 動 =治 安 ・警 防 機 能 を
担 っていた。ただし、本 土 の若 者 組 は共 同 体 からある程 度 独 立 し、厳 しい規 律 の下 に編 成 され
ていた組 織 であり、治 安 ・警 防 機 能 と同 時 に若 者 たちの心 身 修 養 の場 でもあった。なお若 者 組
について、江 守 五 夫 『日 本 村 落 社 会 の構 造 』(弘 文 堂 、1976年 )169頁 以 下 、同 『家 族 の歴 史
民 族 学 東 アジアと日 本 』(弘 文 堂 、1990年 )333頁 以 下 参 照 。
74
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (1)」464頁 参 照 。この財 産 観 念 の発 達 に関 しては、仲 吉 や西
原 文 雄 の地 割 制 の解 体 論 に反 対 する渡 口 真 清 も消 極 的 ながら認 めるところである。渡 口 真 清
「地 割 制 は崩 壊 しつつあったか」沖 縄 文 化 第 39号 (沖 縄 文 化 協 会 、1972年 )28頁 参 照 。
75
地 割 を規 定 した村 内 法 として、名 護 間 切 各 村 内 法 (38 条 、118 条 )、金 武 間 切 各 村 内 法 (9
0 条 )、国 頭 間 切 各 村 内 法 (104 条 )、羽 地 間 切 各 村 内 法 (12 条 )、本 部 間 切 各 村 内 法 (111
条 )、伊 江 島 間 切 各 村 内 法 (20 条 )などがある。各 条 文 については、前 掲 「沖 縄 県 旧 慣 間 切 内
法 」『沖 縄 県 史 第 14 巻 』255~462 頁 参 照 のこと。地 割 は、内 法 上 では原 則 的 規 定 しか見 出
せないが、全 く文 書 化 されなかったわけではなく、「地 割 帳 」という記 録 があった。しかしながら
27
割 替 え、地 割 を受 ける有 資 格 者 、地 割 対 象 地 、配 分 法 、割 替 地 の受 け渡 し時 期 、その他 多 く
の細 則 は、どのように決 定 していたのであろうか。地 割 の決 定 は、ほとんど各 村 の自 治 に委 任 さ
れ、主 として地 人 揃 (地 人 会 /地 人 総 会 )において協 議 された。
地 割 は、上 述 のように、村 ごとに非 常 に大 きく異 なっているが、仲 吉 朝 助 によれば、地 割 の方
法 および手 続 に関 しては、おおむね同 様 の形 式 をとっていたという。
地 割 期 限 が近 付 くと、まず、村 の耕 作 当 、山 当 、頭 、与 頭 、位 所 及 び筆 算 人 などの村 役 た
ちが集 まり、地 人 会 開 催 の期 日 、議 案 等 を協 議 したうえで、所 定 の期 日 に地 人 総 会 が開 かれ
た。地 人 総 会 に出 席 する者 は、各 村 役 と地 人 の戸 主 76 もしくはその代 理 人 たちであり、また、こ
の地 人 総 会 において協 議 ・決 定 される事 項 は、たいてい以 下 のものであった 77 。
地 人 総 会 に於 て協 定 すべき事 項 は概 ね左 の如 し。
一 、地 割 配 當 を受 くべき者 即 ち地 人 の数 並 びに其 の受 くべき「地 」、又 は「分 」の数 。
*〔引 用 者 注 〕「地 」「分 」とも地 割 の単 位 78 。
二 、地 割 をなすべき土 地 の種 類 。
*〔引 用 者 注 〕通 常 の耕 作 地 である百 姓 地 、これ以 外 の村 落 の共 同 管 理 地 である地 頭
地 ・おえか地 ・のろくもい地 ・他 村 から有 期 または無 期 で借 受 けた小 作 地 ・山 林 原 野 ・共 同 管
理 となっている仕 明 地 (開 墾 地 ・埋 立 地 )などが地 割 の対 象 地 となった 79 。
三 、地 割 地 の調 査 方 法 、例 之 は土 地 の現 坪 数 を測 定 するや又 は各 筆 の小 作 料 を見 立 てて
評 価 するや等 。
四 、「一 地 」又 は「一 分 」の組 合 せ方 法 。
五 、地 割 配 当 に際 して實 行 上 自 然 に起 こる各 戸 配 當 地 の過 、不 足 に対 する矯 正 方 法 。
*〔引 用 者 注 〕「矯 正 方 法 」とは、調 整 方 法 のこと。
六 、地 割 に供 せざる土 地 の処 分 方 法 、此 場 合 には山 林 、原 野 などは多 くの共 同 使 用 をなし、
田 、畑 、宅 地 小 作 即 ち所 謂 「叶 掛 け」(浮 掛 とも云 )に付 するを普 通 とす、尤 も山 野 を浮 掛 に付
「地 割 帳 」のほとんどが、土 地 整 理 事 業 後 に処 分 されたか、あるいは沖 縄 戦 で消 失 し、現 存 す
るものは少 ない。
76
ただし、島 尻 地 方 の糸 満 、久 高 島 の二 部 落 は、男 子 がほとんど漁 業 に従 事 していたため
「納 税 、耕 作 等 陸 上 に於 ける公 事 及 び業 務 は自 ずから毎 戸 女 子 の手 に依 りて處 理 さるゝを以
て「村 吟 味 」は毎 戸 の主 婦 又 は其 代 理 人 に依 りて處 理 されたり」ということから、恐 らく地 人 総 会
においても女 性 が出 席 していたと考 えられる。仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (1)」447頁 参 照 。
77
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (2)」590頁 以 下 参 照 。
78
地 割 単 位 には「地 」「分 」の2通 りあり、そのどちらで称 するかは各 村 によって異 なるが、主 に
地 割 が変 質 して土 地 所 有 権 が芽 生 えつつあった地 域 では「地 」、地 割 が従 来 の形 で残 ってい
た地 域 は「分 」と称 したという。「一 地 」あるいは「一 分 」は、地 割 すべき土 地 の種 類 ならびにその
種 類 毎 の地 位 別 (等 級 別 )に細 分 された各 一 筆 ずつの組 み合 わせのことである。仲 吉 ・前 掲
「琉 球 の地 割 制 度 (2)」588~589頁 参 照 。
79
宅 地 は地 割 の対 象 地 ではあるが占 有 者 は一 定 不 変 であり、地 割 の度 にその宅 地 に対 する
評 価 を査 定 した。仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (1)」457~458頁 参 照 。
28
したる村 も往 々之 れあり。
七 、地 割 地 受 渡 の方 法 、期 日 。
こうした協 議 事 項 は、各 村 に共 通 するものであるが、どの事 項 を重 視 するかは、前 節 において
述 べたように、各 村 のおかれた社 会 経 済 史 的 な背 景 によっていた。例 えば、各 戸 の男 女 総 数
に平 等 に地 割 配 当 を行 っていた地 域 と、各 戸 に一 定 不 変 の土 地 の配 当 率 を設 定 し、地 割 毎
にその割 合 を変 更 せずにただ土 地 だけを移 動 していた地 域 では、協 議 事 項 [一 ]に関 して、土
地 の配 分 が容 易 に決 まるので、問 題 なく済 んだ。しかし、この両 者 の中 間 に位 置 するような地
域 は、「地 人 に編 入 すべ寄 居 住 人 の選 定 、地 人 子 弟 の分 家 者 、地 人 家 族 の數 、地 人 の勤 功
等 苟 も地 割 地 の配 當 に関 すべき要 素 は最 大 漏 さず調 査 決 定 」せねばならなかったのである
80
。
地 人 総 会 において、上 記 協 議 事 項 が決 定 されると、地 人 による地 割 地 の現 地 調 査 と地 割 帳
の作 成 が行 われ、再 度 の地 人 総 会 の開 催 での抽 選 による各 与 への地 割 地 の配 当 が行 われる。
さらに与 中 の地 人 が、割 当 ての地 割 地 の処 分 法 を協 議 し(一 般 的 には抽 選 )、地 割 地 を配 分
するという過 程 をたどる。ま た、地 割 配 当 地 の授 受 方 法 も、あらかじめ地 人 総 会 で決 定 しておか
な ければならなかった 81 。
このような過 程 をたどる地 割 協 議 (地 人 揃 )は、たいていどこの地 域 でも、極 めて平 穏 に行 わ
れたのだという。なぜならば、地 割 団 体 たる村 は、行 政 組 織 であると同 時 に、村 民 の生 活 領 域
を包 括 的 にカバーする組 織 でもあり、さらに「 其 団 体 意 志 を遂 行 する機 関 は内 法 によりて厳 然
た る権 威 を」付 与 されていた 82 からであった。
三 村 の裁 判
さて次 に、秩 序 維 持 規 定 に関 わる村 内 法 の事 項 ・事 件 を協 議 する村 の集 会 に焦 点 をあてる
こととしよう 83 。村 の裁 判 は、主 として村 民 全 体 で行 われることが多 く、上 記 の集 会 の分 類 に照
らせば、①の村 揃 (または地 域 によってチネー揃 )にあたるものであるが、特 に、村 内 法 違 反 者
の特 定 と制 裁 の決 定 のための集 会 を、「盗 人 締 (ヌスドジマイ)」、あるいは「手 引 (ティーヒチ)」
と称 するところもあった。「奥 野 資 料 」では、このような村 の裁 判 は、沖 縄 県 各 地 においてみられ
るが、地 域 差 があり、沖 縄 本 島 において、国 頭 ・中 頭 に比 べ、島 尻 は少 なく、また先 島 地 方 に
おいて、村 役 を中 心 とした村 内 法 裁 判 みられるが、村 内 法 裁 判 のための村 の集 会 や各 家 の代
表 の集 会 はみられない 84 。それでは、以 下 において、主 として沖 縄 本 島 国 頭 郡 の事 例 をとりあ
80
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (2)」591頁 参 照 。
81
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (2)」592頁 参 照 。
82
仲 吉 ・前 掲 「琉 球 の地 割 制 度 (2)」593頁 参 照 。
83
村 内 法 でもこの刑 事 法 規 的 規 定 は、特 に「村 締 (または締 )」、「村 吟 味 (または吟 味 )」と呼
ばれた。
84
奥 野 によれば「家 の主 の村 治 上 の役 割 に関 する質 問 に対 しては、先 島 方 面 からは否 定 的
な返 答 ばかりであ」ったという(奥 野 前 掲 『南 島 村 内 法 』85 頁 以 下 参 照 )。また、これを裏 付 ける
ものとして、桜 木 繁 次 の「我 宮 古 島 旧 時 に於 ては内 法 に基 いて村 々が行 なう裁 判 もその程 度
29
げ検 討 していくこととしたい 85 。
[事 例 1]本 島 国 頭 地 方 国 頭
「盗 伐 のときは天 井 まで探 したが、また作 物 の盗 の重 いものその他 一 般 に盗 があつたときには
皆 ムラの事 務 所 に集 まつて酒 を飲 んでから一 家 ごとに同 所 から立 つて行 く際 、目 星 をつけられ
た者 は背 後 から石 を投 げられ、その家 で前 の酒 代 を払 わねばならなかつた」
[事 例 2]同 本 部
「揃 に集 まる者 も(十 五 歳 以 上 の男 とか世 帯 主 とか)それを召 集 する者 も事 件 ・事 項 によつて
違 う。総 会 では民 選 の最 高 権 威 者 『総 下 知 』が問 題 を提 示 し、内 法 (ムラのシマリと指 称 )に照
らして協 議 を進 め罪 を決 定 し、執 行 は耕 作 当 ・山 当 で扱 う。なお軽 い窃 盗 ・傷 害 罪 については
同 人 や役 上 りの親 方 (下 知 人 ・親 々及 び頭 ・惣 代 )などが協 議 決 定 し、きかねば村 中 集 まる。
役 人 は関 係 しない」
[事 例 3]同 名 護
「盗 んだものを決 めるには、縄 を引 いておいて皆 順 にくぐらせ、悪 人 が来 ると皆 だまつておる
のできまる。当 役 だけでやると恨 まれるので斯 様 にした」
[事 例 4]同 金 武
「ヌスドジマリも揃 の意 味 がある。手 シチーもやつた。次 々に他 人 同 志 二 人 手 を引 いて酒 のつ
いてある方 に進 む。その途 中 に両 側 から縄 が引 かれ、さらに棒 が二 本 立 ててある。順 々に当 役
が『通 せ』『通 せ』と云 つてそこを通 すが、目 星 をつけられたのが来 ると当 役 が棒 を二 本 ちがえて
『ならん』と一 喝 、そのときものも打 ちならされる。犯 人 は悲 鳴 をあげて逃 げ帰 つた」
[事 例 5]同 恩 納
「手 引 は四 名 づつ手 を引 いて当 役 の張 る縄 のところを通 り、机 上 の四 人 分 の茶 碗 の酒 を飲 む。
四 人 の中 に疑 わしい者 がおれば、皆 戻 らぬので、引 手 の相 手 がなく、半 ばでその場 から逃 げる。
犯 人 は前 日 から当 役 ・親 方 揃 で定 めてある」
これらの事 例 から、村 の裁 判 によって、犯 人 の特 定 が行 なわれ、さらに科 銭 の額 、身 体 刑 、ま
た所 払 いまで決 定 されていたことがみてとれる。村 における村 内 法 の運 用 の実 態 は、成 文 の村
内 法 や先 に挙 げた村 内 法 の執 行 手 続 とはかなり様 相 が異 なることがわかる。
[事 例 5]に見 られるように、あらかじめ当 役 や親 方 揃 で犯 人 が決 められていた。他 の事 例 お
いても、犯 人 の目 星 を付 けてあるという回 答 から、明 らかに犯 人 を誰 にするか事 前 に決 められて
いたといえる。もちろん、全 ての裁 判 がそうであったわけではない。しかし、上 記 の事 例 にみられ
並 に存 在 について多 少 の疑 問 がないではない」という記 述 を挙 げておく。桜 木 繁 次 『沖 縄 県 宮
古 島 旧 藩 時 代 に於 ける裁 判 制 度 及 宮 古 島 区 裁 判 所 開 庁 以 来 の職 員 並 に事 務 概 要 』(一 九
三 六 年 平 良 区 裁 判 所 報 告 書 、那 覇 家 庭 裁 判 所 資 料 室 所 蔵 )31~33 頁 参 照 。
85
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』68~84頁 参 照 。以 下 の事 例 は、76~78頁 参 照 。
30
るように事 前 に犯 人 が特 定 されていたという場 合 、犯 人 とされた者 が、実 際 に罪 を犯 したかどう
かは問 題 ではなく、村 民 に犯 人 とみなされたから制 裁 を受 けたということになる。すなわち、事 前
に犯 人 とみなされ、また実 際 に村 の裁 判 で犯 人 とされた者 は、村 の内 部 で何 らかの「責 めを負
うべき者 」(すなわち、スティグマ 86 を負 った者 )として集 会 に登 場 させられると考 えられる。
奥 野 資 料 87 において、沖 縄 県 下 25 地 域 の所 払 い(放 村 )と絶 交 に関 する質 問 の回 答 がある。
所 払 いや絶 交 を行 ったことのあるという回 答 において、そうした制 裁 を行 った理 由 は、「ムラ全
体 の憎 まれ者 」「ムラの一 致 を撹 乱 」(以 上 、石 垣 島 )、「ムラの吟 味 に反 対 動 向 を取 る」(宮 古
城 辺 )、「断 髪 せぬ居 住 人 」(国 頭 郡 国 頭 )、「ムラと反 対 、親 方 の吟 味 に不 服 従 」(同 恩 納 )、
「ムラ全 体 と争 うとき」(島 尻 郡 知 念 )というものであった。本 土 の若 者 集 団 が、普 段 から 悪 く思 わ
れている 家 に対 して社 会 的 な制 裁 を加 えたという事 例 も、沖 縄 の村 の制 裁 と似 ている 88 。ラベリ
ング理 論 によれば、「社 会 集 団 は、これを犯 せば逸 脱 となるような規 則 をもうけ、それを特 定 の
人 びとに適 用 し、彼 らにアウトサイダーのレッテルを貼 ることによって、逸 脱 を生 みだすのである。
この観 点 からすれば、逸 脱 とは人 間 の行 為 の性 質 ではなくして、むしろ、他 者 によってこの規 則
と制 裁 とが「違 反 者 」に適 用 された結 果 」であるとされる 89 。そして、「重 要 な点 は、他 の人 々の
反 応 が問 題 とされなければならないということである。ある人 間 が規 則 を犯 したからといって、そ
れにふさわしい他 者 の反 応 が起 こされるとはかぎらないからである。逆 にまた、ある種 の状 況 で
は、その人 間 が規 則 違 反 を犯 していなくとも、あたかも違 反 者 であるかのように扱 われないとは
かぎらない」 90 。上 述 のように事 前 に犯 人 が特 定 されていたという場 合 は、ある者 の行 為 に対 す
る村 人 の反 応 の帰 結 であり、内 法 違 反 の事 実 がなくとも、犯 人 として扱 われたと考 えられる。
このような村 落 共 同 体 のあり方 には、従 来 、共 同 体 の負 の側 面 として厳 しい批 判 が加 えられ
86
ここでいうスティグマは、身 体 的 属 性 やある種 の具 体 的 な人 間 を指 すものではなく、あらゆる
人 間 の一 生 のうちの社 会 過 程 において演 じられる役 割 、過 程 を表 す。ゴッフマンによれば、「ス
ティグマとは、スティグマのある者 と常 人 の二 つのグループに区 別 できるような具 体 的 な一 組 の
人 間 を意 味 するものではなく、広 く行 なわれている二 つの役 割 による社 会 過 程 (a pervasive
two-role social process)を意 味 しているということ、あらゆる人 が双 方 の役 割 をとって、少 なくと
も人 生 のいずれかの脈 絡 において、いずれかの局 面 において、この過 程 に参 加 しているという
こと」である。アーヴィン・ゴッフマン『スティグマの社 会 学 ―烙 印 を押 されたアイデンティティ―』
石 黒 毅 訳 (せりか書 房 、1970年 )225頁 以 下 参 照 。
87
この調 査 も奥 野 による質 問 形 式 の調 査 である。引 用 はすべて、奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』
117~121頁 によるもので、煩 雑 さを避 けるため、特 に頁 数 は記 載 しない。
88
江 守 五 夫 によれば、小 規 模 な村 落 共 同 体 においては、家 々が様 々な因 縁 で結 びついてい
るために、村 落 の社 会 的 制 裁 の発 動 が、容 易 になされがたく、それゆえ、家 々の私 的 な関 係 を
顧 みず制 裁 を執 行 しようとする若 者 集 団 の活 躍 が期 待 されたのだという。江 守 ・前 掲 『日 本 村
落 社 会 の構 造 』186~187頁 参 照 。
89
ハワード・S・ベッカ ー『アウトサイダーズ―ラベリング理 論 とはなにか―』村 上 直 之 訳 (新 泉 社 、
1978年 )17頁 参 照 。
90
ベッカー・前 掲 『アウトサイダーズ』21頁 参 照 。
31
てきた 91 。だが、ここで共 同 体 成 員 による制 裁 を別 の視 点 から眺 めてみたい。社 会 的 交 換 理 論
によれば、社 会 的 結 合 は、ある種 の内 的 な報 酬 をもたらすとされる。すなわち、仲 間 から受 けた
好 意 に感 謝 や義 務 を感 じ、それに対 してこちらも相 手 に対 して尽 くすことでその好 意 にお返 し
をしようと努 め、今 度 はまた相 手 がそれに対 してお返 しをする。その結 果 生 じる「好 意 の相 互 交
換 」 が 、 「 し ば し ば 明 示 的 に 意 図 さ れ る こ と も な し に 、 わ れ わ れ の あ い だ の 社 会 的 絆 ( social
bond)を強 化 する」のである。仲 間 からの好 意 にお返 しを怠 る者 は、恩 知 らずと非 難 されるが、
その非 難 そのものが、互 酬 の期 待 を示 しているのであって、人 々が仲 間 に対 して負 う義 務 を忘
れさせない社 会 的 制 裁 として作 用 するのである。つまり、「一 般 的 にいって、人 びとは好 意 に感
謝 し社 会 的 負 債 を返 済 するのであって、この感 謝 と返 済 はともに、親 切 にしてくれた仲 間 に対
する社 会 的 報 酬 なのである」。このような社 会 的 結 合 なかで成 員 が求 める「基 礎 的 な報 酬 は社
会 的 是 認 であり、他 者 への利 己 的 な無 配 慮 はこの重 要 な報 酬 獲 得 を不 可 能 」にしてしまう。共
同 体 成 員 による制 裁 が、社 会 的 結 合 という相 互 作 用 の結 果 として生 じることを考 慮 すれば、制
裁 それだけを取 り出 し非 難 しても内 在 的 批 判 とはなり得 ない。なぜなら、「道 徳 上 の問 題 に関 し
ては、人 びとは自 分 たちの本 当 の判 断 をもっと自 由 に表 明 させる強 い確 信 をもっている。すな
わち、彼 らは社 会 的 に承 認 された行 動 規 準 を犯 した仲 間 をためらうことなく否 認 し、あるいは少
なくとも、是 認 を差 控 えるのが通 常 である。内 集 団 の福 祉 を無 視 する反 社 会 的 行 動 は、より広
範 なコミュニティの習 律 からみて個 別 の集 団 規 範 がどれほど不 道 徳 なものであろうと、それに関
係 なく普 遍 的 に否 認 される」からである。社 会 的 是 認 という基 礎 的 で重 要 な社 会 的 報 酬 の意 義
は 「徹 底 的 かつ露 骨 に利 己 的 な行 動 を思 いとどまらせる」ことにある 92 。
さらに、このような村 の裁 判 には、神 判 の問 題 もある 93 。「奥 野 資 料 」によると、宮 古 島 各 地 に
その事 例 が見 られる。例 えば、宮 古 島 城 辺 の友 利 村 での「村 番 所 の香 爐 の線 香 の灰 汁 をお嶽
に祈 つて飲 ませると、悪 人 (犯 人 のこと、引 用 者 注 )は死 ぬとの迷 信 があり、飲 んで実 際 死 んだ
例 があつたという」という事 例 や、同 じく宮 古 島 下 地 の与 那 覇 村 における「犯 人 を確 かめるには
当 初 は番 所 の火 神 の香 爐 の灰 を水 にといた汁 を嫌 疑 者 に飲 ませると顔 色 が変 わるから判 る。
それから村 で一 番 尊 崇 する お嶽 の香 爐 の灰 汁 を飲 ませると、非 常 に畏 れておるから大 抵 わか
つた」 94 という事 例 である。
また社 会 人 類 学 者 の渡 邊 欣 雄 によれば、沖 縄 本 島 国 頭 郡 東 村 においても数 十 年 前 まで、
91
法 史 学 者 の石 井 芳 久 は、村 内 法 は「権 力 によって地 方 の統 治 に利 用 されたのではなくして、
権 力 の使 嗾 によって―権 力 の重 複 的 敷 衍 として内 法 が成 立 せしめられ」たものであり、「部 落
のリンチ裁 判 が決 して部 落 に裁 判 権 を認 められた裁 判 では」なく、「権 力 の関 心 に迎 合 する限
り泳 がされているリンチ裁 判 にすぎない」とする。石 尾 芳 久 『日 本 近 世 法 の研 究 』(木 鐸 社 、
1975年 )238、244頁 参 照 。
92
Peter M. Blau, 1964, Exchange and Power in Social Life, Reprint: Transaction Books New
Brunswick, 1986. pp. 15-18. ピーター・M・ブラウ『交 換 と権 力 社 会 過 程 の弁 証 法 社 会 学 』
間 場 寿 一 /居 安 正 /塩 原 勉 共 訳 (新 曜 社 、1974年 )12~14頁 参 照 。
93
中 田 薫 『法 制 史 論 集 第 3巻 』(岩 波 書 店 、1943年 )参 照 。
94
奥 野 ・前 掲 『南 島 村 内 法 』71頁 など参 照 。
32
神 判 が行 われていた。沖 縄 本 島 北 部 の東 村 では、駐 在 所 もなく警 察 による事 件 処 理 のなかっ
た時 代 に、九 月 の農 閑 期 ごろ、上 原 御 嶽 (ウイバルウタキ)、別 名 イビヌメー(威 部 の前 )という祭
場 (聖 地 )において神 判 が開 かれた。「盗 みをしたとかその他 、人 びとが考 えて、悪 いことを犯 し
たと判 断 された被 疑 者 は、一 般 の人 びとにより左 縄 をめぐらした刳 舟 にのせられ、イビヌメーま
でつれて行 かれた。イビヌメーに着 くと、被 疑 者 たちは一 人 一 人 、当 時 まだあった神 屋 に呼 ば
れ、神 人 (女 性 祭 司 のこと、引 用 者 )たちが居 ならぶ前 で、尋 問 が行 なわれた。神 屋 にはビトロ
ーと称 する神 が祀 られており、この神 が神 人 を通 して神 判 を下 す神 であった。神 屋 には神 人 だ
けしかおらず、一 般 村 民 が立 入 ることはできなかった。こうしたなかで被 疑 者 は、神 人 から被 疑
内 容 について尋 ねられた。被 疑 者 が真 犯 人 であるならば、かならず白 状 してしまったという。当
時 の神 への信 仰 は絶 対 であり、かつまた殺 人 を犯 したことが世 に知 れれば、その罪 は子 々孫 々
にも及 び、子 孫 の結 婚 やその他 の生 活 にも及 ぶ、厳 しい時 代 であった。真 犯 人 がしかし、神 前
で罪 をみとめたからといって、そこで白 状 してしまえばその後 に罰 があったわけではなく、懺 悔 し
てしまえば犯 人 に罰 は課 されなかった。むしろ真 犯 人 の名 を、神 人 が一 般 村 民 にもらしたりする
と、神 人 そのものに死 罪 という神 罰 が加 えられた」 95 という。
豊 見 山 和 行 は、宮 古 島 の事 例 や東 村 の事 例 を検 討 し、「村 の紛 争 解 決 として神 判 が連 綿 と
して生 きていたのである。このことは村 にかぶさってきた王 府 法 や近 代 法 との関 係 をも考 量 に入
れ て検 討 すべき問 題 であるが、少 なくとも神 判 としての村 法 は自 律 的 な法 秩 序 として強 靭 な生
命 力 を保 っていたことは明 らかである」 96 と指 摘 している。
以 上 が、村 民 による集 会 と村 の裁 判 である。共 同 労 働 、地 割 慣 行 、そして裁 判 など様 々な共
同 生 活 の局 面 を規 制 していたのは村 民 の集 会 であり、このような村 の集 会 は、たんに村 内 法 の
運 用 のみならず、村 の意 志 決 定 機 関 としても大 きな意 味 をもっていた。この村 の集 会 が、実 質
的 には村 内 法 であったと言 っても過 言 ではなかろう。地 割 など村 民 の生 産 活 動 と密 接 に結 び
ついた生 活 領 域 の協 議 から、科 銭 の額 や身 体 刑 の決 定 、「交 際 止 め」や「所 払 い」といった当
時 としては致 命 的 でさえあった村 の共 同 生 活 からの排 除 まで、村 の集 会 によって決 せられてい
た からである。
まとめ
本 章 は、琉 球 併 合 後 の旧 慣 存 置 政 策 下 に蒐 集 された沖 縄 の旧 慣 調 査 資 料 を通 して、明 治
期 沖 縄 の村 落 共 同 体 の慣 習 法 の概 要 とそ の存 在 構 造 、ならびに村 落 共 同 体 における村 民 の
集 会 を検 討 することによって、沖 縄 の村 落 共 同 体 のうちに「祭 祀 共 同 体 」とは異 なる自 治 村 落
的 な側 面 を見 出 そうとするものであった。
こ れまでの議 論 を振 り返 り、いくつかの点 を確 認 し、本 章 の議 論 のまとめにかえることとした
い。
明 治 期 沖 縄 の旧 慣 地 方 制 度 下 の行 政 区 画 上 、間 切 (現 在 の市 町 村 )は、村 を統 括 する上
95
96
渡 邊 欣 雄 『沖 縄 の祭 礼 ―東 村 民 俗 誌 ―』(第 一 書 房 、1987年 )227~228頁 参 照 。
豊 見 山 和 行 「犯 罪 と刑 罰 」『新 琉 球 史 近 世 編 (上 )』(琉 球 新 報 社 、1989 年 )279 頁 参 照 。
33
位 の行 政 機 関 として中 央 との接 点 をもっていたのに対 し、村 (現 在 の字 ・行 政 区 )は、人 々にと
って最 も重 要 な生 活 領 域 として存 在 していた。間 切 内 法 は、主 として地 方 役 人 の服 務 規 程 を
定 めたものであり、村 内 法 は、村 人 を直 接 規 律 する行 為 規 範 、つまり村 の秩 序 維 持 規 定 であ
ったといえる。また、村 内 法 には、官 治 法 的 側 面 と自 治 規 範 的 側 面 という二 つの側 面 があり、こ
の二 つの側 面 は、共 同 体 の経 てきた歴 史 の内 に互 いに溶 合 っている部 分 もあり、全 てを判 然 と
峻 別 し得 るものではないが、村 内 法 を把 握 するためには、成 文 化 された官 治 法 的 側 面 ではなく、
村 の集 会 をとおして発 現 する不 文 の自 治 規 範 的 側 面 をみることが不 可 欠 であることを強 調 し
た。
村 内 法 と村 の集 会 は、そこに属 する村 民 に対 して、非 常 に強 い拘 束 力 をもつと同 時 に、村
落 の自 治 的 運 営 をささえる上 で大 きな役 割 を果 たしていた。すなわち 、村 落 共 同 体 の秩 序 維
持 規 定 としての村 内 法 と、村 内 法 の発 現 する場 としての村 の集 会 は、村 落 共 同 体 を、外 部 世
界 と隔 たった小 世 界 として形 成 し、維 持 するものであったといえる 97 。
しかし、一 つ付 け加 えるならば、沖 縄 県 庁 による村 落 に対 する内 法 の成 文 化 の要 請 は、不
文 の慣 習 法 を、近 代 法 となるべく適 合 するように成 文 化 すると同 時 に、村 落 の自 律 的 な内 法 の
形 成 をも促 していった。例 えば、山 林 関 係 の取 締 内 法 は、従 来 それをもたなかった村 において
も、村 内 法 の成 文 化 と届 出 を契 機 に形 成 され、植 林 や禁 伐 林 の設 定 を村 落 が積 極 的 に行 うよ
うになった。レンジャーは、英 国 植 民 地 下 のアフリカを例 にとり、次 のように言 う。すなわち「英 国
の行 政 官 たちは、英 国 とアフリカの政 治 的 、社 会 的 、法 的 制 度 の間 をほとんど接 合 することが
できなかったがゆえに、彼 らは、アフリカ人 のためにアフリカの伝 統 を創 出 しはじめた。行 政 官 自
身 の「伝 統 」の尊 重 は、彼 らがアフリカにおいて伝 統 的 なるものと見 なした物 事 に賛 意 を表 する
ように仕 向 けた。行 政 官 たちは、その伝 統 を、成 文 化 し(codify)、公 布 し(promulgate)はじめ、
それによって、柔 軟 な慣 習 (flexible custom)は、しっかりした規 定 (hard prescription)に変 わっ
た」 98 と。このレンジャーの言 葉 は示 唆 的 である。沖 縄 においても、沖 縄 社 会 とは異 質 な日 本 本
土 から派 遣 されてきた役 人 たちが、旧 慣 存 置 政 策 の下 で旧 慣 と見 なしたものを維 持 し、さらに
内 法 の成 文 化 を積 極 的 に促 進 した。その結 果 、それまで不 文 のままであった沖 縄 村 落 の慣 習
法 は成 文 化 され、さらに自 主 的 に山 林 管 理 を制 度 化 する村 落 も出 て きたのである。これ以 降 、
沖 縄 の村 落 は村 の決 定 事 項 をはっきりとした規 定 として成 文 化 するようになっていく。内 法 の 成
文 化 の過 程 については、第 3 章 において辿 っていくこととしよう。
97
前 田 正 治 は、日 本 の近 世 村 落 と近 世 村 法 の成 立 について、「近 世 の村 の実 体 を成 す村 落
は俄 に成 つたものではなく、既 に長 い部 落 の生 活 が営 まれて来 ている。この上 古 よりの村 落 生
活 は氏 神 を象 徴 とし、此 に依 て村 の社 会 意 識 を統 一 せしめ来 つたものであり、そこに培 われた
精 神 的 結 合 は中 世 末 に於 ける村 落 結 合 の一 つの要 素 をなすものであつた。そして外 的 な諸
条 件 の刺 激 を受 けて村 が自 らを主 体 的 に確 立 し、その主 体 性 に於 て社 会 統 一 の意 義 を有 せ
しむるに至 つて村 法 の成 立 を見 る」とする。前 田 ・前 掲 『日 本 近 世 村 法 の研 究 』27頁 参 照 。
98
Terence Ranger, The Invention of Tradition in Colonial Africa, in Hobsbawm & Ranger
(eds.), The Invention of Tradition, Cambridge University Press, 1983, p.212. テレンス・レンジ
ャー「植 民 地 のアフリカで創 り出 さた伝 統 」『創 られた伝 統 』前 川 啓 治 /梶 原 景 昭 他 訳 (紀 伊 国
屋 書 店 、1992年 )325頁 参 照 。なお、引 用 部 の訳 出 は必 ずしも邦 訳 書 に従 っていない。
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それでは、次 章 においては、沖 縄 の旧 慣 土 地 制 度 の概 要 について見 ていくこととしたい。
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